2025年8月20日水曜日

『民間暦』宮本 常一 著

民間の年中行事について考察した本。

本書には、「新耕稼年中行事」『民間暦』「亥の子行事—刈り上げ祭り」の3編が収録されている。

このうち『民間暦(みんかんれき)』は、宮本常一が初めて一般向けに出した単行本である。小学校教員をしていた宮本が民俗学の世界に傾倒し、教員を退職して調査研究の生活に入ったのが昭和14年。そして本書の刊行が昭和17年である。宮本35歳の時であった。本書が彼の「処女作」だ。

本書収録の3編は、どれも事例の羅列という性格が強く、そこからの考察というか、民間の年中行事に対する分析はあまり展開されていない。それは宮本自身が「民間暦」のあとがきで「この書物の論旨のほとんどは柳田先生のお説を復誦しているようなもの(p.287)」といい、「書いていくうちに、概観だけで、予定の紙を要してしま(p.289)」った、としている通りである。

では「民間暦」の本来の目的は何かというと、「この書は、民間において古くから年々歳々日を定めておこなってきた諸々の行事が、いかなる意味を持ったものであるかを、広く全国各地におこなわれている現状に徴してみようとした(p.58)」ものだと宮本はいう。私もこれを期待して本書を紐解いたのだが、先述のとおり、本書は「こういう行事があります」というだけで終わってしまっている。

もちろんその紹介自体かなりの力作なのだが(なにしろ宮本の処女作だ)、私の関心は諸行事の大量の事例ではなく別のところにあった。そこで、通常の読書メモとは少し違うが、私がどういう関心で本書を手に取ったかをまず述べたい。

私は、年中行事というよりも暦の成り立ちそのものに関心がある。それは、私自身が農業をしていることと関係がある。当たり前のことをいうようであるが、農業は季節の移り変わりを基準に組み立てられる。つまり太陽暦が基準だ。近世以前の日本では太陰暦(=旧暦、月の満ち欠けによる暦)が行われていたが、農事に関しては太陽暦による二十四節気が基準となっていた。

ちなみに農業というとのんびりした印象があるが、実際には植物の栽培は季節の移り変わりに敏感で忙しい。例えばかぼちゃの植え付け時期はそれなりに自由度があるが、本当に上手にできる時期を選ぶと植え付けの適期は2週間くらいしかない。太陰暦と太陽暦は平気で3週間くらいズレるので、太陰暦を基準にしては農事はうまくいかない。

つまり農業は太陽暦を基準にしなくては例年通りの栽培ができないところがほとんどすべての年中行事は太陰暦によって日が決まっている。これは農民にとって大変都合が悪い。例えば、ある年は植え付けの前にその行事がある。ある年は植え付けの最中に。ある年は植え付け後に。これは困る。なぜなら、植え付け前や植え付けの最中はとても忙しく、悠長に年中行事などやっている暇がないのである。近世以前の年中行事は、物忌みを伴っていたから「休む」「仕事をしない」日でもあった(そういう日に仕事をすると制裁が加えられることもあったという)。これが農家にとって大変都合が悪いのである。植え付け後に休むならいいが、植え付け前は大変忙しく、休んでなどいられない。

「忙しい時にあえて休むのもいいじゃないか」と思うかもしれないが、農業は適期に精一杯働いた方が後が楽だ。植え付けが3日遅れると後の生産性が変わってくる。植え付け前の忙しい時期に1日(または2日)休むのは非常にストレスなのである。「こんなことをするくらいなら早く農作業を終わらせたい」というのが農家の感覚である。しかしそういう年中行事が近世以以前に行われていた。これが不思議なのだ。

もちろんこの不自然さはいくつかの農事的な行事では考慮されていたように思われる。(これは民間行事ではないが)収穫祭の意味がある新嘗祭は、旧暦11月23日に行われていたが、これは新暦では12月から翌年1月にあたる。収穫祭にしては妙に遅い。新嘗祭がこの時期に行われる理由はいろいろに言われているが、これは旧暦でも確実に収穫が終わった時期であるということもあるのだろう。収穫祭が収獲前に行われたのでは意味がないからだ。

ところが多くの年中行事は、こういう配慮は感じられない。はっきり言って、民衆が行ってきた年中行事のスケジュールは、農業と相性のよくないものだと感じる。そういうものがずっと行われてきたというのは不可解というほかない。こういう疑問の下で私は本書を紐解いた。

「新耕稼年中行事」では、純粋な農事行事が紹介される。これは、「年中行事」とはいうが上述の「年中行事」ではない。つまり「年々歳々日を定めておこなってきた」ものではなく、農業のリズムに従って行われるものである。例えば、ワラ細工とかムギ刈り、いもほりといったものだ。ところがここにも太陰暦行事がある。それは八朔、つまり八月一日である。

この日、多くの地域では「それまでゆるされていたヒルネがもうできなくなる(p.37)」。百姓は昼寝さえ自由に許されておらず、それが権力によって規制されていたこと自体も興味深い(ちなみにヨナベ=夜の仕事も強制であった)が、それはともかく、農業の進行とは無関係に、暦でこういうことが区切られていたのだ。ただし、旧暦8月1日は新暦では8月末~9月末あたりで、どちらかというと農閑期にあたっているのはまだ合理的である。

一方、「民間暦」で取り上げられるのは多くが太陰暦行事である。これらは神仏の祭祀に関係があり、本書ではその骨格を、物忌、みそぎはらい、籠居、斎主、神を招く木、訪れる神、神送り、祝言、年占い、除厄という観点で語っている。太陰暦による(=月の満ち欠けの決まった)日取りに、仕事を休んで物忌み(生活の制限)を行って身を清め、神を招いて飲食をともにし、そして神からの何らかのメッセージを受け取って(=受け取ったことにして)神をまた元に返すというのが年中行事の基本構造であり、またこれを一村単位で行ったこと、つまり共同体の祭祀として行ったことが重要である。

また干支による行事もあった。例えば庚申待、甲子待、正月子の日、土用丑の日、四月卯の日、二月初午、十二月酉の日、七月および十月の亥の日などだ。これらはまた別の思想に基づいていたと考えられる。本書には詳らかではないが、これらの行事は講や個人で行われているものが多い気がする。

本書では、単なる年中行事ではなく、民間暦という「民衆が行ってきた年中行事」を取り上げているが、意外なことに、それらの多くが農事とは直接関係がない。例えば最も重要な年中行事は盆と正月であるが、これは農事とは無関係だ。正月は一年の豊作を願うにしても、農事そのものと関連しているとは言えない。

ところで、今では年中行事といえば年寄りが中心のようなイメージがあるが、若者がその中心的な役割を担っている場合が多い。そして若者中心の行事は、「だいたいはなやかにして興奮を覚えるようなものである(p.177)」。さらには、祭りには子供が中心となるものが存外に多い。「子供が行事に参加して中心となることは、若者たちが参加するよりは、いちだんとくずれかけた形ではなかろうかと思う。大人がおこなうには馬鹿くさいという気持ちがさきにたつようになったのである(p.180)」と著者はいう。

ともかく、信仰の零落によって、祭りは形骸化したり、華美になったり、遊興化したと著者は考える。例えば厳重な物忌み・潔斎を行うことは日常生活(当然農事にも)に支障をきたすから、これを選ばれた専門の人のみにまかせ、大多数の村人は受動的に参加するだけになっていったのだ。そしてその専門の人は、例えば正月の門付のようにやがて職業化していった。

このように著者は行事の変化の原因として「信仰の零落」を据えるが、それはそうとしても、私はそもそも日本の年中行事が農事と直接にリンクしていなかったことがその大きな要因のように感じる。

世界では、夏至・冬至・春分・秋分のような太陽暦行事・祭祀が数多いが、これは明らかに一年の生活リズムと連動し、農業とも深い関連がある。こうした行事の場合、例えば「〇〇の植え付けが済んだら夏至の祭り」とか「〇〇の収穫が済んだら冬至の祭り」といった感覚となり、祭りそのものに向かう態度も毎年等しい。ところが太陰暦行事の場合は、先述のように行われる時期がバラバラである。昨年は収穫後だったが、今年はまだ収穫の最中だ、となると行事に向かう態度そのものが変わってしまう、と農業を生業としている私は思う。

結局、行事から神聖な要素が脱落していったのは、このあたりに本質があるのではないだろうか。生活・農事と遊離した年中行事であったために、形骸化をまぬかれなかったのではないか。

ところで著者は、「民間暦」の出発点として「ずっと以前から子供の生活習俗に興味と関心をもっていた(p.287)」といい、民俗関係雑誌から子供に関する記事を書きぬいていたのであるが、そこには「不思議に年中行事に関する報告が多かった(同)」のだという。どうして日本では子供が年中行事を担ったのか。幼童に神聖性を感じるということもあったのかもしれないが、それよりは、年中行事が生活・農事と遊離していたために「今年は忙しい時期が祭りにあたっているから子供にやらせよう」といった心情になったことが遠因なのではないか。

そういう子供中心の行事の一例が、「亥の子行事」である。本編は「民間暦」のケーススタディにあたる一編で、全国の亥の子行事を比較してその本質を探っている。亥の子行事とは、10月の亥の日(2回または3回あり、その全てで行われる場合もある)に、山の神(または田の神)が家に帰ってくる日などとされ、お祝いをするものだ。10月の亥の子の日には宮廷でも別の趣旨の亥の子行事もあるが、これはおそらく別系統の行事である。また関東では案山子あげが10月10日に行われ(=十日ン夜(とおかんや))、これは亥の子の日ではないのだがやはり「亥の子」と言われている場合がある。著者は亥の子を刈り上げ祭りと見ているが、農事とは直接関係しない。

ここで亥の子と関連して能登地方のアエノコトが紹介されている。この事例が大変興味深い。「そのおこなわれる日は11月5日(現今は12月5日)が多いようであるが、日は必ずしも一定していなかったらしい(p.318)」。これが厳重に行われていた祭りだというのが示唆的だ。農事に強くリンクした祭りは、太陰暦とはリンクしないから日付が一定しない。そしてそういう祭りこそが厳重に行われるのである。ということは、「年々歳々日を定めておこなってきた諸々の行事」は、太陰暦で日が定まっているからこそ形骸化をまぬかれなかったと考えられるのである。そして逆に言えば、形骸化したからこそ長く行事が維持されたのかもしれない。祭りが形骸化し、遊興化し、子供や若者の楽しみになったからこそ年中行事は持続した。これが大人が厳粛に行うものでありつづけたら、全国津々浦々の村で行われたか疑問だ。

なお、行事の元来の意味が忘れられて、奇々怪々な解釈で年中行事が行われるようになったのも、それが生活・農事と乖離したものであったからという気がしてならないのである。

なお、私がここで述べた太陰暦と農事との乖離について、著者はほとんど考察していない。晩年に至って、この問題を著者がどう考えるようになったか興味があるが、さしあたり手元の資料ではわからない。また現在の民俗学ではこの問題がどのように考えられているのか、追って調べてみたい。

民間の年間行事を体系的にまとめようとした宮本常一の意欲作。

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2025年8月16日土曜日

『神国日本』佐藤 弘夫 著

中世の神国思想を考究する本。

中世には「日本は神国(しんこく)である」という言説が常識となった。それはどうしてか。なぜこのような言説が生まれたのか。一般には、神国思想は戦前日本の狂気じみたイデオロギーであったとみなされているが、実際はそういうものではない。ではその実態はいかなるものであったのか。本書は神国思想を丁寧に解明するものである。

神国思想が興隆した平安時代末期~鎌倉時代、日本では浄土教が流行し、日本を末法の辺土粟散とみる一種の自虐国家観があった。日本は仏法の本場インドから遠く、時代は末法で、機根の劣った人ばかりの小さな国だというのである。一方、神国思想では、日本は「神の国」なのだからこの国家観と真っ向から対立するように見える。従来、学界ではこの見方が通説となってきた(例えば、古川哲史など)。しかし神国思想を大きく鼓吹した『神皇正統記』(北畠親房)では、日本の末法辺土観も前提となっている。

また、神国思想では、天皇が超越的な存在にならざるをえないと考えられてきた。しかし中世では不徳の天皇は退位が当然とも思われていた。さらに親房は、天皇となるためには過去世に戒律を受持する必要があると『神皇正統記』で述べている。前世で仏道を真摯に実践したからこそ天皇として生まれたのだ、というのである。

このように、神国をめぐる通説は、神国思想の原典の一つである『神皇正統記』と乖離する。だから神国思想について再検討する必要があると著者はいう。

古代の天皇の神聖性は、天皇号の採用、大嘗祭の創出などから、天武天皇あたりで高められたと考えられる。そして国家が日本全国の神祇を一元的に祭祀に組み込む体制が構築された。しかし律令国家が瓦解し、寺院への国家からの財政支援が途絶えると、寺院は荘園領主として自立することを迫られ、神祇界にも自由競争原理が持ち込まれた。こうして「国家から相対的に独立した有力社家(p.41)」がしのぎを削った。そうした大社を国家がいちおう統合したのが「二十二社制度」である。そして地方の神社は「一宮制」によって似たような秩序を形成した。

そうした制度は、いちおう国家が神社の序列を設けるものであったが、それは絶対的なものではなかったので各社は地位上昇をもくろみ、特に比叡山の日吉山王社は、みずからを伊勢神宮を超える根源的な神社であると主張した。「神道史家の高橋美由紀氏は、天照大神という神祇世界に君臨してきた至高神を相対化し、それを超越しようとする中世神道界の動向を「神々の下剋上」と評している(p.47)」。

また神祇の世界は、荘園経営と深くかかわるようになり、12世紀ごろからは、その領地を「神領」などとして課税を逃れようとしたり、寄進を善行として促すような言説がみられるようになった。神の存在が土地の支配と関連付けて観念されるようになっていったのである。

一方、それに先立つ10世紀あたりから本地垂迹説が広まった。仏の教えは機根の劣った人ばかりの末法辺土の日本には理解されない。だから日本人を救済するため、仏は神として垂迹したというのである。これは本地(仏)の偉大さを述べつつ、実際には神社への参詣や帰依を進めることとなった。

そしてこうした変化と並行して、平安時代中頃から、神の性格が徐々に変化した。その象徴が、天皇による神社行幸と返祝詞(かえしのりと)の制度の確立だ。古代の神はひたすら畏れられる存在だったが、このころには神は対話可能な存在と受け止められるようになった。そして神は「祟る」のではなく「罰」を与える存在として表象された。神は信賞必罰の合理的な存在になったのである。そして本地垂迹説によって、一見無関係に見える神々の世界が、仏を媒介にしてつながり、包摂された。そして道教の神々までも含めた神仏の壮大なコスモロジーが観念されるようになった。こうした中で神国の観念が育っていくのである。

日本を神国とみなす観念は古代までさかのぼる。日本書紀の「神功皇后紀」に、新羅王の言葉として「東方に神国がある」という一節がある。「日本=神国の理念は、神々に対する素朴な崇敬の延長線上に自然発生するようなものではなかった(p.90)」。その背景には統一王権による神々の再編成と、対外関係の緊張があり、当初から「きわめてイデオロギー的色彩が濃厚(同)」だったのである。

「神国」がまとまって使われるようになるのは9世紀後半の清和天皇の時代で、貞観11年(869)、新羅のものと思われる船が筑前に来航した際、諸国の寺社に国土の安穏を祈願した告文に「神明の国」「神国」といった語が散見する。この「古代的」な神国思想は、「天照大神の指揮のもと、有力な神々が一定の序列を保ちながら天皇とその支配下の国土・人民を守護する(p.95)」というものであった。ここでは仏教的要素は見られない。

そして「院政期ごろから日本を神国とする表現が急速に増加し始める(p.99)」。『古今著聞集』、『私聚百因縁集』、『神道集』、『八幡愚童訓』などは神国思想が前提となっており、頼朝も「わが朝は神国である」と述べているが、 なぜ頼朝は神国を強調せねばならなかったのか、奇異に感じるほどである。そして元寇があると神国思想は一層興隆した。神風が吹いたから神国なのではなく、それ以前の敵国調伏の祈祷の段階で神国は強調された。そういう祈祷を行った僧侶に東巌慧安(とうがん・えあん)という人がいる。彼の願文では、日本は仏が神として垂迹しているから神国なのだ、という論理になっている。これが「中世的」神国思想の特色である。

ところで、神国は何よりも国家・国土に対する観念である。では神国思想のいう国土は具体的にはどういう領域なのか。『貞観儀式』所収の追儺祭文には、東:陸奥/西:五島列島/南:土佐/北:佐渡よりも遠方、という国土観が示されている(村井章介)。これはやがて南:鬼界が島(硫黄島?)/北:外が浜(青森県?)へと拡大したが、ともかく日本の国土は人為的に成立したものというよりは、各種の「日本図」で明らかなごとく(例えば日本は独鈷杵の形をしているとか)、宗教的に(さらに言えば仏教的に)意味のある、あるいは予め定まったものとして観念されたのである。

このように、神国思想は末法辺土観を克服するものだったという通説はあたらない。むしろ日本が末法の辺土悪国だからこそ仏が神として垂迹したと考えるのであり、末法辺土観はその前提である。そして神の偉大さは末法辺土の劣った人間への救済者として強調された。神国思想は、「仏教をライバル視し、それに対抗しようとする立場から主張されることはありえない(p.119)」のである。

では、神国思想は蒙古襲来を契機として勃興し、日本を他国より優れた国だとするナショナリズムが内包されていたという通説はどうか。神国思想が前提としていた仏教の世界観では、世界を三国(インド・中国・日本)として把握したが、その上に真理の世界をも措定した。そこには曲がりなりにもインターナショナルな認識があった。神国思想は日本の優越を一方的に主張するものというよりは、仏が神として垂迹した国という特殊性を強調していると思われる。

また、神国思想は、奇妙なことに寺社の強訴に際して院周辺から主張された。著者は「国家的な視点に立って権門寺社間の私闘的な対立の克服と融和・共存を呼びかけるために、院とその周辺を中心とする支配権力の側から説き出されたものだった(p.137)」と考える。「そんなワガママいわないでください。同じ神国に住む仲間じゃありませんか? 」というところだろうか。

面白いことに、専修念仏運動を弾圧した延暦寺も、専修念仏教団が神祇を尊ばないことを神国をないがしろにするものとして批判した。とにもかくにも神国思想は「国家に対する観念」なのである

蒙古襲来に際して神国思想が盛んに鼓吹されたことは、それを象徴している。「日本は神国だから他国が侵略することはできない」と主張されたが、このころの日本は荘園の分捕りによって分裂気味であった。「神国の論理は、内部にさまざまな問題と矛盾を抱えていた日本の現実を「神国」と規定して蒙古に対峙させることによって、そのきしみと裂け目を覆い隠そうとするものだった(p.152)」のである。神国思想が支配者から盛んに言われていることはその証左である。神国思想は、対立する諸権門の融和を企図し、「中世国家体制を正当化するための宗教イデオロギーとして支配権力側から説き出されたものと推定できる(p.157)」。

なお、これは対立する勢力を対象としたイデオロギーであるから、民衆に訴えかけるのではないことは注意が必要だ。

神国思想は天皇を超越的存在に仮構するという通説はどうか。中世では天皇は政治の実権を失っていたが、確かに宗教的な権威は高まっていた。しかしそれは古代のように無条件に現御神としてあがめられるものではなかった。摂関・院政期には天皇がさまざまなタブーから自由になり、神秘性を失ってしまったとも指摘される(益田勝美の説)。そして天皇・院には仮借なき批判が寄せられるようになった。天皇が死後地獄に落ちたという言説もしばしばみられる。「中世社会においては歴代のほとんどすべての天皇について、仏神の罰やたたりを蒙ったというネガティブな噂が存在した(p.171)」。幼童の天皇が続いたことも天皇の形式化の証左である。

しかし同時に、いくら天皇の存在が形式化しても、天皇を超える国家の支配権力結集の核が形成されなかったことも事実である。だから結局「支配秩序を維持しようとする限り、必然的に国王=天皇を表に立てざるをえな(p.187)」かった。つまり、天皇の実権が弱い状態では、その権威のみを強調する神国思想は諸権門にとって都合がよかったのである。

このように、中世の神国思想の通説は主に3つの点で訂正されねばならない。(1)神国思想は蒙古襲来を契機として言われるようになったのではなく、その淵源は意外と古い。(2)神国思想は日本礼賛の論理ではなく、日本を末法辺土の小国であるとする仏教的世界観を前提としており、日本の特殊性を強調する。(3)天皇は神国思想の中心的要素ではない。

本書は最後に、神国思想がどう現代までつながっていくかを簡単に述べている。神国思想は中世後期から変貌していった。その背景には、「彼岸世界の後退(p.200)」がある。それまでは人々は此岸・彼岸の二重世界に生きていたが、彼岸世界のリアリティがなくなり、この世での充実した生活の方がずっと重要になっていった。秀吉や家康も神国思想に言及しているが、そこで仏教的世界観こそ否定はされていないものの、日常の儒教論理の方が前面に出てきている。近世になると、彼岸での救済といった観念が批判され、神国思想から仏教的要素が希薄化して、神国思想は日本の絶対的優位性を主張するものへと転換していった。そのような近世的神国論は、林羅山や熊沢蕃山から見られる。そして「江戸中期以降は神道家や国学者をはじめ、心学者・民間宗教者の著作や通俗道徳書などに広く散見するようになる(p.210)」。そして「だれもがなんの制約もなしに、仏教・儒教・国学などの諸思想に結びつけて「神国」を語ることができるような状況(同)」になっていた。このような中で、神国思想が天皇と強く結びつけられ、明治維新以降に大きく担ぎ出されることになったのである。

本書は全体として、神国思想を中心として中世の思想史を紐解くものであり、神国思想そのものよりも、神国思想を生み出した基盤についてより重点的に語っている。例えば、北畠親房の『神皇正統記』などはもっと内容を詳細に紹介してもよさそうに思ったが、著者の関心は「なぜこういう言説が生まれ、広まったのか」という点にある。その要諦は、神国思想を育んだのは仏教であったということである。そこから仏教的要素が脱落したことで近世の神国思想が生まれ、さらに天皇が中心となることで戦前の神国思想へと変貌した。

なお、本書は学術書ではないため、注がない。全体的に平易な書き方をしてはいるが(というより、そうだからこそ)、注があった方がよいと感じた部分もいくつかあった。巻末に掲げられた参考文献一覧では、神国思想研究を形作った文献がまとめられているので、備忘のため下に年代順に掲げる(出版社等適宜省略した)。

神国思想をキーにして中世思想を紐解く良書。

山田孝雄『神皇正統記述義』1932
長沼賢海『神国日本』1943
田村圓澄「神国思想の系譜」『日本仏教思想史研究浄土教篇』1959
黒田俊雄「中世国家と神国思想」『日本中世の国家と宗教』1975
藤田雄二「近世日本における自民族中心的思考」1993
高橋美由紀「中世神国思想の一側面」『伊勢神道の成立と展開』1994
河内祥輔「中世における神国の理念」『日本古代の伝承と東アジア』1995
佐藤弘夫「中世的神国思想の形成」『神・仏・王権の中世』1998
白山芳太郎「神国論形成に関する一考察」『王権と神祇』2002
鍛代敏雄「中世「神国」論の展開」2003
佐々木馨「神国思想の中世的展開」2005

【関連書籍の読書メモ】
『日本中世の国家と宗教』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/06/blog-post_22.html
日本中世の国家と宗教の在り方を考察した論文集。中世社会への見方を一変させた記念碑的論文集。

2025年7月15日火曜日

[論文]「古代中世の葬送と女性——参列参会を中心として」島津 毅 著

古代中世において、女性がどう葬送に参画したかを分析する論文。

平安時代には、母は子の葬送に参列すらしなかったという。例えば美福門院藤原得子の葬列には娘の暲子内親王、姝子内親王は参加していない。暲子内親王は両親から莫大な財産を相続していたにもかかわらず、母の葬送に参列していない。なぜ女性は葬送に参列しなかったのか。

これを検討するため、著者は8世紀から16世紀の葬送事例90(+α)を詳細に分析し、そこに女性がどのように関与したかを調査した。これは記録が詳細に残っているものが対象であるため、王家が半分、続いて公家、13世紀以降は武家も数例ある、といったバランスで、身分の高いものに偏っていることは一応注意が必要だろう。

「第1章 13世紀頃までの葬送と女性」では、女性が葬送に参加していない事情を分析している。

先ほどの90例では、葬送における女性は「8世紀には参列や参会を確認出来たが、9世紀から13世紀半ばまではまったく確認できず、13世紀以降、中下級貴族を皮切りに、14世紀からは王家や室町将軍家にも確認出来る」。

8世紀には女性も葬送に参画していたが、これは当時の女性が夫とは別な「家」の「家主」すなわち「家刀自」であったからと考えられる。家産を所有する妻女が独自に葬送を執り行っていたのである。

ところが、9世紀半ばの嵯峨上皇の葬送の頃からこれが変化し、内親王等の娘の姿が確認出来なくなる。そして皇后や母后の姿も見ることができず、葬送の場から女性が排除されていったと考えられる。「王家の葬送では女性親族が参列せず、荼毘所(火葬場)にいなかったことは確かなようである」。

このように、9世紀半ば以降、王家・摂関家では、妻はもとより母や娘も葬送には参列しておらず、それを「見送るだけ」であった。ただし、中宮などの女性の死の場合、やはり肉親は参列していないものの、女官や女房は参列していることは注意が必要である。

では、なぜ女性は葬送の場から排除されたのか。

まず死穢との関わりだが、荼毘所での同席は死穢にならなかったことが『延喜式』で明瞭である。つまり死穢自体は問題ではない。むしろ葬送を凶事として憚られるようになったことの方が大きいのではないかと著者は考える。「その憚りとは、死体が人を他界へ引きずり込むと信じられていた、穢とは異質な禍々しさに由来するものであった」。これは、著者が『日本古代中世の葬送と社会』で力説した点である。なお、当時の庶民の間では遺棄葬が行われており、葬所には死体が散乱していたと考えられる。こういう場が禍々しいのは当然である。よって遺体そのものというより「葬所へ向かうことが忌避された」面があったと考えられる。

この考えを裏付けるのが、年少者と妊婦が特に参列や参会を制限されていたと記録から読み取れることである。年少者と妊婦は特に死亡率が高かった。よってそういう人を他界へ引きずり込まれかねない葬所がより避けられたと考えられる。

では妊婦以外はどうか。『栄花物語』の書きぶりを見てみると、万寿2年(1025)の藤原嬉子の葬送に母倫子は参列してはいないが、葬送の前に「母倫子は嬉子の遺体の入棺の様子を御帳のなかで泣きながら見、また直接遺体にも触れていた。つまり女性親族にとっても、故人の遺体は愛惜の対象であり、それを穢や禍々しきものとして忌避してはいなかった」ことがわかる。女性も「亡き親族の遺体そのものを忌避することはなかった。よって、一般の女性親族にとり、葬所の凶事性ゆえに葬所へ赴くことが制限されることまではなかったはず」と著者はいい、にもかかわらず現実に葬送から女性が排除されているのはどうしてかと再び問う。

なお、この部分は、若干論理の混乱があるように思われる。というのは、ここでは、「凶事・禍々しい」と認識されていたものが、葬送なのか、葬所なのか、葬所にある腐乱死体なのか、親族の遺体なのか、ということが峻別されずに記述されている。

具体的には、前段(死穢との関わり云々の後)では、葬所・葬送が「凶事・禍々しい」から年少者・妊婦は避けた、と言っているのに、後段では、親族の遺体は「凶事・禍々しい」とされていなかったから凶事性ゆえに葬所・葬送が避けられたとは思えない、という。だが親族の遺体は禍々しくはなかったとしても、葬所・葬送が「凶事・禍々しい」というのは変わらない。そして年少者や妊婦にとっても親族の遺体は愛惜の対象だったと思う。

ともかく、死穢も凶事性も理由にならないとすれば葬送から女性が排除されたのはどうしてか。9世紀後半以降は、「女性は公的な社会から疎外され、私的世界で生きる存在となっていった」ことが要因ではないかと著者はいう。「喪葬令」的葬送は貴族・官人たちの序列を視覚的に示すものだったし、仏教的葬送になっても社会的身分の誇示という葬列の社会的機能は変わらなかった(むしろ強化された)。一方、女性は中世的な「家」が形成されていくに従い、「家」に従属する存在となって、公的立場を喪失した。このように葬送の対外的・社会的性格が確立し、逆に女性が公的行事から排除されたことが女性が葬送に参画できなくなった理由だという。

その証拠に、女性が葬送から排除された後も、女官や女房は参列している。彼女らの参列は公務だったからである。

また皇后の場合は、葬送に参加するにはあまりに身分が高貴すぎ、また天皇とは別個の家政機関としての家を持っていたため、天皇家の「家」を取り仕切ることはできなかったために天皇の葬送に参加できなかったと考えられる(つまり「家」の一員ではなかったから葬送に参加できなかった)。

「第2章 13世紀後半以降の葬送」では、女性が葬送に参加するようになった事情が述べられる。 

14世紀には、室町将軍家・親王等の王家・公家では「母や妻妾そして娘も葬礼や荼毘・埋葬の行われた寺院へ参会」するようになった。こうした変化の先駆けとなったのが文永11年(1274)の藤原経光の葬送である。

ではなぜ女性は葬送に参画するようになったのか。第1に葬所が変化した。寺院が独自に荼毘所や墓地を所有するようになると、鳥辺野のような無秩序な墓地とは違って凶事性がないばかりか「葬送荼毘の場はむしろ往生をもたらしてくれる「結縁の場」に変容」した。葬送は不吉なものではなくなったのである。第2に葬列がなくなった。葬所が寺院内にあるため、入棺・荼毘・拾骨までが寺院内で完結するようになった。この2つの変化によって葬送の在り方が大きく変化し、女性の葬送への制限が取り払われたというのが著者の考えである。

さらには、12世紀以降の「家」の成立によって、妻は家長権に従属しつつも「家」の重要行事を取り仕切る家妻権を保持するようになった、ということもその背景にある。特に葬送は相続慣行の一つとなり、後家にとっては葬送に参画することは重要であった。

では、天皇や上皇の葬送では后や皇女はどう葬送に臨んでいたのか。まず、天皇・上皇の葬所(荼毘所)も泉涌寺などの寺院境内へ移行していた。ただ、王家の場合は古代中世を通じて葬列を伴う葬送が行われている。これは言うまでもなく公的行事としての葬送である。

ここで留意すべきなのは、14世紀以降、后・皇女の位置づけが平安時代とは大きく変わったということである。後醍醐天皇以降、後水尾天皇に徳川和子が皇后して立てられるまで、天皇には皇后が立てられることがなかった。つまり当時の天皇の妻は全て妾である。また皇女も、後小松天皇以降、正親町天皇まで皇女に内親王が宣下されることがなく、多くが比丘尼御所(尼寺)へ入れられた。すなわち14世紀以降、近世に至るまで、天皇家には正式な身分を持った女性が存在しなかったことになる。しかし彼女たちは、葬送に参加していた。「ただし、これらは天皇・上皇の妻妾が女房であったこと、また娘も尼であったことなど、それぞれ参会が職務であったと言うことができる」。天皇家の場合はちょっと独特な事情であったが、女性が葬送に参加するようになったという結果は同じである。

「むすびにかえて」では、結論を要約し、大陸からの影響について問題提起している。

古代中国では、葬送には女性親族が参列参会していた。また宋代には、朱熹の『家礼』の影響が大きくなるが、やはり夫人は葬列に連なり、墓所で葬礼に臨んでいた。日本の中世では『家礼』を全体的に受容していたかどうかは不明であり、中国からの影響があったかどうかは定かでない。しかし日本の葬送は入宋僧を介して大陸からの影響があったことは明らかであるため、葬礼に女性が参会するようになった背景として検討する必要があるとして擱筆している。

本稿は、著者の『日本古代中世の葬送と社会』 において、葬送における女性の扱いを解明することが今後の課題である、としていたことに対応して執筆されたものである。本稿では、同書で提示された葬送の「凶事性・禍々しさ」などが再度論じられるとともに、同書の視角が女性に適用され、葬送における女性の扱いを実証的に解明したものとして価値が高い。

しかし、なぜ女性が葬送から排除されたのか、という理由の考察についてはいまいち腑に落ちない部分があった。

第1に、女性の社会的立場が弱くなったからだと著者はいうが本当か。というのは、摂関・院政期は女性の立場が非常に強く、慈円が「女人入眼の日本国」と書いた『愚管抄』も13世紀前半である。この時期には天皇家では女院号が濫発され、また八条院を初めとして厖大な荘園を持っていた女性は多い。むしろ摂関・院政期は女性の権力のピークであるという観さえある。確かに、女性官位が男性と別枠になったり、朝儀や節会など政治の場から疎外されていったということは事実であるが、単純に女性の社会的立場の弱体化とは見なせないのではないだろうか。

第2に、全てを「家」で説明している観が否めない。女性は中世的な「家」が形成されていくに従い、「家」に従属する存在となって、公的立場を喪失して葬送から排除されたが、家妻権の確立によって葬送へ参加するようになった…というのはいちおう納得できるのだが、排除と参加の理屈の双方が「家」の事情であるというのは、少し奇異な感じがする。そもそも「家」は本来私的な存在であるから、葬送が対外的・社会的性格を持ったとしても、それが公式行事であるとは見なしえない。公式行事から女性が排除されることと、葬送から女性が排除されることは直結しないのではなかろうか。著者の主張はより論証が必要だと感じた。

しかしながら、第1の点も第2の点も、私はまだ「葬送とはつまるところ何なのか?」が未だ分かっていないから、そこから女性が排除される理由がピンとこないということなのかもしれない。例えば、古代中世の葬儀に友人は参加したか? 王家や貴族では「友人」のような素朴な存在はいないと思うが、武士の場合ではどうだったのか。こういう単純なことがまだわからないのである。

ところで、本稿では先述したとおり「凶事性・禍々しさ」が適用される範囲が曖昧であるが、それはともかく、「故人の遺体は愛惜の対象であり、それを穢や禍々しきものとして忌避してはいなかった」と指摘したことは重要に思う。著者は前著『日本古代中世の葬送と社会』において死体や葬送の「凶事性・禍々しさ」を指摘したが、私はこれを興味深く思いながらも腑に落ちない部分があった。親類の死体が禍々しいというのはちょっと不思議だからだ。

本稿の主題からは逸れるが、その点について自分なりに考えてみたところ、葬送・葬所は「不吉(凶)」であり、腐乱死体などは「恐ろしい」と認識されていたが、親類の遺体は「愛惜の対象」であった、と考えるのが、あまり現代と変わらず面白味はないが実態に即したものでないかと思う。平安時代後期以降は、陰陽師が大きな影響力を持ち、吉凶が必要以上にクローズアップされたのであるが、葬送を陰陽師がどう捉え、人々に何を指導したのか気になった。 

古代中世における女性と葬送の関わりを実証的にまとめた論文。

※史学雑誌 第129編第1号 2020 

【関連書籍の読書メモ】
『日本古代中世の葬送と社会』島津 毅 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/07/blog-post.html
日本の古代・中世における葬送の実態を再考する論文集。古代中世の葬送史の新たなスタンダードとなるべき労作。 

『女たちの平安後期――紫式部から源平までの200年』榎村 寛之 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/01/200.html
女性の存在に注目して平安時代後期を語る本。女院を通じて平安後期を別角度から見る興味深い本。 

『日本史の中の女性と仏教』吉田 一彦・勝浦 令子・西口 順子 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/01/blog-post_29.html
古代と中世を中心に女性がどう仏教を信仰したか概説する本。女性と仏教の関わりを学術的かつ平易にまとめた良書。 

2025年7月13日日曜日

『江戸の旅日記——「徳川啓蒙期」の博物学者たち』ヘルベルト・プルチョウ 著

江戸の旅日記から視野の拡大を考察する本。

日本人にとって、旅に出ることは見知らぬものを発見することではなく、歌枕をめぐることで古の旅人たちを追体験することであった。しかし江戸時代になると、旅人たちは新しい「現実」を発見することになる。旅は見聞を広め、自らを相対化し、あるいは「日本」を意識する機会になったのである。

そういう旅人たちが登場したのは、17世紀の終わりあたりからで、吉宗の時代のことである。そのころの一部の紀行文は、純粋な文芸作品であるというより「朱子学、本草学、地理、国学、漢学、文人画などを基礎にした博物学によって構築された文学(p.9)」である。

そういう紀行文では、各地の歌枕で立派な歌を詠むことより散文による事実の記録へと軸足が移っていた。まさにその態度の変化こそが「現実」を発見させることになったのである。本書は、そうした旅の記録について述べるものである。

「第1章 貝原益軒の情報欲」では、貝原益軒の『南遊紀事』を取り上げる。

本草学者で朱子学者であった貝原益軒は、たびたび採草の旅に出かけた。益軒は福岡を本拠に、江戸に12回、京都へ24回、長崎へ5回をはじめとして諸国を遍歴している。よって多くの紀行文を残しているが、中でも『南遊紀事』は彼の主観的な見方が述べられている点で例外であり、そのために「日本の近代紀行はこの作品から出発している(p.24)」とさえいえる。彼は基本的には私見や私情を交えず客観的に見聞を記録したが、「予(われ、おのれ)」はこう思うと付け加えた。一方、珍しい話や伝承なども鵜呑みにせず、史料と比較検討して事実を探り当てようとしている。彼は事実に立脚して自らの考えで見聞を編集したのである。

「第2章 本居宣長の考古学」では、本居宣長の『菅笠(すががさの)日記』を取り上げる。

本居宣長は1772年に大和盆地の陵墓を調査する旅に出た。宣長が現地の人々の話を訝しがりながら調査しているのが面白い。実際、現地の人は宣長へ明らかに間違った情報を教えていた。宣長には、自分が文献を通じて知っていることと、現地人の間違った情報を対照させつつ、「人のいうことなどあてにならない」とわざわざ確認しているような雰囲気さえある。そんな宣長が全幅の信頼を置いたのは文献史料であった。この旅で実地調査しても陵墓の位置についての確信は得られなかったのであるが、簡単に分かったつもりにならなかったことは、実証的な宣長の方法論の証左でもある。

なお、宣長は、のちに『古事記』などの古典を絶対視する方向へ向かっていくのであるが、この紀行文で意外なのは、彼が常に懐疑的であることだ。宣長が古典への妄信に向かったのは、現実の頼りなさ、現実への懐疑が根幹にあったのではないかと感じた。

「第3章 天明の大飢饉をめぐって―高山彦九郎と菅江真澄」では、天明の飢饉を描いた二人の紀行を取り上げる。

1783年~84年、東北地方は激しい飢饉に見舞われた。それを描写したものの一つが、広く旅して多くの紀行文を残した高山彦九郎の『北行日記』である。なお彼は道行の途中に、各地で「孝行」話を採録し、実際に孝行者を何人か訪ねている。彼は「孝行」の思想を追及していた。東北へゆくと、彼は悲惨な現実を目にした。多くの人が死に、300軒あった家が100軒になるなど、被害は彼の想像を超えていた。墓地には卒塔婆が立ち並び、人や家が減っただけでなく「生きるために必要な知識や技術がすべて消え失せてしま(p.56)」っていた。例えば、漁業を生業とする村で、魚を捕る方法がわからなくなってしまった、というようなものである。そして人肉食さえも行われていたような形跡がある。そういう「おぞましい話を、彦九郎は努めて冷静に記述している(p.60)」。

一方、菅江真澄は飢饉の翌年に東北を旅した。真澄は打ち捨てられたままの死人の骨を横目に見ながら進んだ。そして彼は、飢饉を生き延びた人々の話を聞きそれを記録した。彦九郎のそれも同様だが「実際に体験したり目撃したりした人から話を聞き、詳しく描いている(p.66)」というのは、現代から見れば当たり前だが、当時としては極めて新しい傾向であった。彼らの紀行は記録文学になっているのである。そしてそうした見聞を元にして「この二人の紀行作家は、国家全体を強く意識するように(p.67)」なった。この国は根本的に何かおかしいのではないか? 貧困と悪政を実見したことが、彦九郎を尊皇派に駆り立てたように思われるのである。

「第4章 古川古松軒の批判的精神」では、『西遊雑記』と『東遊雑記』を取り上げる。

古川古松軒は、『西遊雑記』で備中から九州を一巡する旅を記録した。そこでは、秀吉の朝鮮出兵を批判したり、薩摩や長崎について詳しく述べているが、そこで当時の日本の法律を批判してもいた。これがいい意味で幕府に注目され(!)、古松軒は幕府の奥羽巡見使に随行するように命じられた。当時は老中松平定信の時代。「公儀を謗るなどけしからん」とならなかったのは面白い。

そして奥羽巡見を記録したのが『東遊雑記』である。『西遊雑記』が私的な紀行であるのに対し、『東遊雑記』は公的な性格を持つが、それでも「古松軒が批判的態度をとるためには、どうしても「公」ではなく「私」の立場で書かざるを得なかった(p.73)」。ちなみに「巡見使」とは、将軍の代替わりの際に各地に派遣され、地方政治の監察を行うものであり、接待などは表向きは禁止されていたが、大集団で移動する大掛かりなものであった。

古松軒は、「殺生石」の伝説など、各地で不思議な話を耳にしたが、彼は非合理的な話や神秘的な話にはいつも批判的で、「ばかばかしい話だ」「くだらない伝説だ」などと切って捨てている。だが、「こういう話を聞いた」としてそれをわざわざ記録しているところに彼の記録者としての面目が躍如してもいる。つまり彼は、合理的批判的精神とともに「なんでも見てやろう」「なんでも記録してやろう」の精神も持っていた。

東北では、言葉が通じないことに驚いたり、地方で貧苦にあえぐ農民の姿を見たり、あるいは現地人が礼節をわきまえないことを嘆かわしく思ったりしている。彼は「未開」な地を訪れた大航海時代のヨーロッパ人のように、現地人を「野蛮」とみなすエスノセントリズム(自民族中心主義)的な部分を持っていたが、その批判的精神は為政者側にも向けられていた。「彼はその地の問題点が領主の悪政によるものと気づくと、誰憚ることない筆致で日記に記している(p.85)」。また、その旅で巡見使の一行が遭遇した滑稽なエピソード(案内人が全く頼りにならない、狂言に出てくるような男であったなど)もそのまま書いているのも、かえって貴重な記録である。巡検使は、こういう率直な書きぶりを期待して、役人でもない彼を同行させたのだろう。

蝦夷に入ると、古松軒は松前や江差などの町の豊かさに驚かされた(当然、これはアイヌとの交易でもたらされた富だった)。古松軒の目はアイヌの人々に注がれ、そして好意的にアイヌの風俗や言葉を記録している。ここではエスノセントリズムはほとんどなく、「日本人の考え方のほうにむしろ批判的で、アイヌを見下すような態度がいっさい見えない(p.101)」。彼の書き方は、アイヌを観察することで日本を相対化したようなところがある。

ちなみに『東遊雑記』では、幕政を批判した林子平の『三国通覧図説』を激しく批判しているが、それは同書が全くいいかげんな情報に基づいていたからであった。例えば「蝦夷、黄金の地」説とか、デタラメな地図とかである。そこではアイヌの風貌なども偏見によって記されていた。古松軒による林子平への批判の力点は、彼が重要であると思っていたことを示している。古松軒は「現実」をありのままに記すことで、「近代的といってよい批判精神」を育んだのである。

「第5章 日本民俗学の父と言われる男、菅江真澄」では、菅江真澄のアイヌ記録を取り上げる。これは単一の紀行ではなく彼の記録全体を対象にしている。

菅江真澄は賀茂真淵の弟子で、尾張藩の薬草園に勤め幅広い博物学的知識があった。さらに彼は画家でもあり、多様なスケッチを遺している。彼は東北や蝦夷の自然や風物を調べる旅に出て、なんと18年間も旅は続いた。その主目的は国内の式内社(延喜式神名帳に掲載された神社)を全て回ることだったという。

真澄は蝦夷滞在中、なるべくたくさんのアイヌ語を身につけようとし、また漁のやり方、家の設えや道具、日常生活を事細かに描写した。そこでは、アイヌの言葉で記録することが明確に意図されており、これは「文化人類学の専門教育など受けたわけもない人のそれとしては驚くべきこと(p.122)」である。

「第6章 新しいビジョンを提示した、橘南橘と司馬江漢」では、西洋思想を通して物事を見た旅人二人を取り上げる。

医者の橘南橘は、医学修業のため諸国を遍歴し、そこで出会った面白い話を記録した。彼の紀行は日記というより奇談集である。特に本章で取り上げられているのはエレキテルや顕微鏡・望遠鏡といった「奇器」の項目である。彼の文章は、奇器を通じて自らの世界観を修正していった当時の人の内面を窺うものである。

一方、画家の司馬江漢は、同時に革命的思想家でもあった。彼は中国画を絶対視する風潮を批判している。物事を客観的に観察するという営みの中で、彼は新たな「現実」に目を開かれていくのである。そして洋画研究を目的とした旅の中で、天文学や地理学の最新知識を身につけようとした。その旅の途中で、彼の地球に関する講釈を聞いていた婦人が「では極楽はどこにあるのか」と聞く場面は面白い。彼が極楽を天(宇宙)にあるとしたところは、新旧の世界観の折衷案の実例として価値がある。

本書の他の旅人は中国思想(本草・博物学)を通して新しいものの見方を身につけたが、橘南橘と司馬江漢の場合は、それを西洋から見出したところに特徴がある。

「第7章 参勤交代という名の博覧紀行—松浦静山」では、松浦静山の『甲子夜話』を取り上げる。

松浦静山は平戸藩主で、「好奇心旺盛という言葉では形容できないほどユニークな大名(p.152)」である。彼の全278巻からなる超大作『甲子夜話』は、多岐に亘る話が収められているが、本章では特に1800年の参勤交代の旅日記である『寛政紀行』が取り上げられている。

彼は一種の「記録魔」で、文人風の流麗な紀行文を書くことよりも、ともかく情報量の多い文章を書こうとしたように見える。ちょっとした事を記録する時も、そこにいた子供たちの名前と年齢を全員きちんと書いている。これは大名が書く記録としては度外れたものだ。だから彼の記録は、民俗学的な記録としても貴重なものに思われる。彼は「何事も批判的に見たりはしていないが、何事にも洩れなく関心を示している(p.163)」。そして大名の内面的生活を窺うことが出来るという意味でも、『甲子夜話』は貴重な存在である。

「第8章 富本繁太夫—19世紀初頭に生きた旅芸人の日々」では、旅芸人が遺した超時代的記録を取り上げる。

 生没年未詳の旅芸人富本繁太夫が書いた『筆満可勢(ふでまかせ)』はあまり知られていないが興味深い作品である。彼は身分の低い旅芸人であったにもかかわらず、流麗な文章を書くことができた。彼も記録魔で、「どんな客の前でどんな浄瑠璃を語ったか、そのときの客の名前とその身分、あるいは語ったのがどういう店のどういう座敷だったかなども克明に記録している(p.167)」。しかも、自分が金に困って泥棒に入った(しかも2回も)ことも書いている。

彼は借金に追われて江戸にいられなくなり、仕方なく旅芸人になった。ところが盛岡では彼の舞台は大人気になり、この分だと生活できそうだと期待する。繁太夫はそんな中で出会った、痴情のもつれのエピソードや、変わった人や変わったもの、下世話な話を書き留めた。それは、身分の低い人たちの人間味溢れるゴタゴタ話であり、「徹底して人間臭い日記(p.175)」である。その記録の態度は「文化人以上に文化人らしい(同)」。どうしてこんな記録が旅芸人に書けたのか、著者は「わからないと言うほかない(同)」と言っている。

また彼は方言についても強い関心があったのか、わざわざ方言リストを作っていたりする。学者でもない繁太夫がなぜそんなことをしたのか、これもよくわからない。「あらゆる時代に何らかの形で必ずつきまとったイデオロギーをまったく感じさせない率直な個人生活の記録であるこの日記は、近代的な無形文化財といってもいいのではなかろうか(p.184)」。

「第9章 新しい美的ビジョン—渡辺崋山」では、渡辺崋山の短い旅の記録『游相日記』を取り上げる。

田原藩(三河国)の貧困な武士に生まれた渡辺崋山は、家禄の低さを補うべく画業を志し、ついで政治運動に身を投じた。家老職を次いだ崋山は「尚歯会」の一員となったがこれが幕府によって弾圧され自害した(蛮社の獄)。本書で取り上げられるのは、彼の江戸紀行である『游相日記』である。

その旅の目的は田原藩の政治状況と密接に関連しているので詳述は避けるが、前藩主の妾であるお銀を江戸から相模に訪ねるものであった。崋山は、お銀に幼い頃から可愛がられた恩があったのである。この紀行では、どこに住んでいるのかもわからない人間を僅かな手がかりのみで訪ねることに興味を覚える。崋山はいろんな人に道や事情を聞いて目的の村まで辿り着く。そして目的の女性を探し出すのである。女性は風貌も名前も変わっており、過去を捨てていた。しかし彼女は崋山を思い出し、二人は劇的な再会を果たすのである。この紀行はたった5日間の短いものであり、新しい現実の発見などもなかったのだが、実際にあったことを逐一記録し、その目的が文学的なものではなく、事実の率直な記録であるという点で、本書の他の旅人の記録と一脈通じるものがある。

「第10章 松浦武四郎の蝦夷探検」では、松浦武四郎の『三航蝦夷日誌』を取り上げる。

豪農の四男に産まれた松浦武四郎は、16歳にして「江戸、京都、大坂、長崎、そして中国からインドまで旅する」と親元に書状を送った、広い世界に呼ばれた人である。実際には武四郎はインドには行かなかったが、蝦夷地を熱心に探検した。彼は生涯で5回も蝦夷地にわたっている。そのうち3回は自費による渡航で、その記録が『三航蝦夷日誌』(全35巻)である。

彼もアイヌの言葉や習慣、風物をたくさん記録しているが、同時に下痢に苦しめられたことやアイヌ式便所の煩わしさを書き留めている。そういうことを記録するのは「極めて現代的な感覚の持ち主だと言える(p.207)」。彼は蝦夷地政策が重要になった幕末、蝦夷地の専門家として幕府に取り立てられ、維新後も北海道の開拓に携わることになった。しかし彼は明治政府の北海道政策、特にアイヌ文化の崩壊や北海道の植民地化に賛同できなかったようで、その職を辞任した。

「終章 江戸時代の旅と啓蒙思想」では、これまで取り上げた旅人の記録を通底する新しい思想について述べる。

本書に登場する旅人たちに共通するのは、現実への強い関心があったということである。しかもその物事の見方はどことなく個人主義的であった。彼らの全部が「私はこう思う」と独自の見解を声高に叫んだわけではないが、「博物学的興味、異文化への偏見なき観察力、批判精神などは個人意識の薄い人には生まれ得ない(p.218)」。つまり、新しいタイプの紀行が現れた背景には、個人主義の発達があったと著者は見る。

そして彼らは、みな近代的な目で「日本を再発見した」。そこにあったのは狭隘なナショナリズムとは違う、啓蒙主義的な国家観であった。そしてそれは、旅をすることで育まれたという面がある。ヨーロッパでも大航海時代に同時並行的に科学の進歩が起こったが、同じようなことが江戸時代の日本でも起こったのである。しかし明治時代になると、そういう啓蒙主義的な思想は衰退してしまった。日本は明治維新によって近代化したと思われているが、むしろ近代思想の盛り上がりは江戸時代にあり、明治時代になるとそれが退いてしまう。「江戸時代の思想のほうが、ヨーロッパ啓蒙主義の諸条件に類似している点が多い(p.228)」のである。

本書は全体として、あまり前提知識を必要とせず、平易に述べられており大変読みやすい。ただし、個人的には年号が書かれていないことはやや不便に感じた。近世史に親しんでいる人にとっては、年号があった方が分かりやすい。

ところで、旅が現実を発見させる契機となり、また新しいタイプの紀行文が登場したことが江戸時代流の啓蒙思想を示唆するものであるのは確かだとしても、その他大勢の旅人たちがどう世の中を見ていたのか、ということが気になった。

江戸時代は、厖大に旅人が存在した時代であった。参勤交代のために武士は定期的に江戸との往復を行ったし、また伊勢参りなど宗教的な目的を名目とした旅は貴賤にかかわらず盛んだった。では、そうした厖大な旅人たちは新たな現実を発見したのだろうか? そういう面もなかったとはいえない。何しろ、江戸時代ではどこかへ旅に出たという見聞は大事なものとみなされていたのである。しかし、全体としてそれが啓蒙思想に繋がったかというと、そこまでは言えないであろう。

厖大な旅人たちの中の、ごく一部の異能なものが遺した記録が本書に取り上げられるようなものであり、そこに現れる近代的知性の輝きは象徴的な意味を帯びてはいても、時代の思潮を表すものとはいえない。本書は時代の思潮を旅日記を通じて分析するものではないから、こういう見方はひねくれているのだろう。本書は旅日記という限定をすることで、江戸時代の新しいものの見方の登場を描くものだからである。

しかしながら、旅日記という限定の中でより重要なのは、板坂耀子が指摘する「歴史の発見」の方ではなかろうか。啓蒙思想による「新しい現実の発見」は、一部の異能にとってしか可能ではなく、結局、人々に共有されたのは「歴史」の方だったのではないか。本書でも暗示されているように、その旅日記の数々は、異能が到達しつつあった啓蒙思想が十分に育たないまま摘み取られてしまったという、悲劇の証拠として見るべきなのかもしれない。

江戸時代の近代思想を旅日記から紐解く平易な本。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸の旅』今野 信雄 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/04/blog-post_24.html
江戸時代の旅がどんな風であったかを述べる本。江戸の旅の実態をわかりやすく知れる良書。 

『江戸を歩く—近世紀行文の世界』板坂 耀子 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/11/blog-post_29.html
近世の紀行文についてのエッセイ的な本。近世紀行文学を著者のエッセイも交えて紹介する、不思議な雰囲気の本。

2025年7月6日日曜日

『タマや(新装版)』金井 美恵子 著

連作短編集。

主人公(夏之)は、恒子という女性が飼っていたタマという猫を押し付けられる。夏之に猫を押し付けたのは恒子の異父弟のアレクサンドル(これはAV男優としての芸名である)だ。

恒子は、妊娠したために猫が飼えなくなった、という。主人公は恒子と関係を持ったことがあった。自分の子ではないと思うが、全くの他人事でもない。そこへ、恒子にぞっこん惚れている冬彦が登場。冬彦は、恒子のおなかの中の子は自分の子であると思っているが、恒子の行方が分からなくなって、アレクサンドルを頼ってやってきたのだ。当時は携帯電話がない時代なので、簡単には連絡がつかない。アレクサンドルは住所不定の男である。なんだかんだあり、夏之の下にアレクサンドルと冬彦が転がり込んで、奇妙な同居生活が始まる。

本書のテーマは、「身持ちの悪い女に翻弄される男」である。恒子はいろんな男と関係しており、そのうちの何人かは認知を迫られて手切れ金を渡したようである。また冬彦は最初気づかなかったのだが、実は夏之と冬彦は異父兄弟だった。彼らの母親も身持ちが悪く、3回結婚していた。

そんな男たちの中、タマは超然と子猫を出産し、子育てにいそしむ。子猫たちの父親は誰なのか? そんなことは誰も気にしない。この対比が小説にスパイスを加えている。

私には、この連作小説の筋が、少し構図的というか、しつらえ過ぎのように感じる。いかにも「ピースがはまっている感じ」なのだ。でも人によっては、それが心地よいと感じるかもしれない。良くも悪くも計算された筋である。

とはいえ、それをわざとらしいと感じるとしても、この小説はめっぽう面白い。

第1に、文体が素晴らしい。ほとんど句点がなく、会話文に括弧が使われないウネウネと続いていく源氏物語のような文体は読んでいてうっとりする。大変凝った文体であるが、すべてが「ぼく」の独白なのでわざとらしい文学的表現などは使用されず、かといって平板でもない。絶妙なバランスだ。

第2に、随所にちりばめられた文学作品へのオマージュが気持ちいい。一見してわかる通り「タマや」は内田百閒の「ノラや」へのオマージュであり、短編の表題も(解説でわかったが) 文学作品のオマージュとなっている。本文の中にも、文学作品を踏まえているのではないかと思う部分がしばしばあった。ちょっとジョイスの『ユリシーズ』を思わせる仕掛けである。

第3に、キャラクターがいい。自分勝手なのになんだか憎めないアレクサンドルと、頭がいいはずなのにどこか抜けている冬彦の組み合わせはいかにも凸凹コンビで面白い。そこへインテリぶってはいるが流されやすい夏之が加わって、なんだか青春ドラマのような3人の関係ができあがる。悪人も善人もない、複雑な人物造形が素晴らしい。

「身持ちの悪い女に翻弄される男」というテーマは今となっては少し時代遅れに感じるが、小説技法というか文学表現は第一級だ。こういう小説は一気読みではなく、毎日少しずつ読みたい。

文学へのオマージュと美文に身をゆだねられる傑作。

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2025年7月5日土曜日

『日本古代中世の葬送と社会』島津 毅 著

日本の古代・中世における葬送の実態を再考する論文集。

本書は、古代・中世における日本人の死生観や人々の葬送とのかかわりについて、極めて実証的に論証したものである。

これまで、葬送の研究は盛んに行われてきた。しかし、それは少数の事例からの推測に基づくものが多かった。そこで著者は大量の葬送事例を調べ上げ、従前の研究の通説が妥当なのかを「ほんまにそうやろか?(p.329)」と検証した(本書には、論証する事項それぞれにについて、大量の葬送事例をピックアップした力作の表が掲載されている)。本書は古代・中世の葬送研究においてエポックメイキングなものである。

「序章 葬送史研究の現状と課題」では、葬送史の先行研究が整理される。

葬送史は、まずは民俗学の立場からの研究が始められた。その成果は『葬送墓制研究集成』全5巻である。1990年代以降は歴史学でも葬送が研究され、なかでも勝田至の研究は一つの到達点である。しかしながらこれらの研究にはいくつかの思い込みがある。例えば、死の忌みが厳重だったとする「ケガレ」の問題、葬墓制が習俗・民俗であって仏教ではないとする観念などである。後者については、葬墓制を顕密仏教~禅律僧に位置付けた大石雅章の研究がそれを是正した。こうした研究を踏まえ、本書は「具体的な葬送の実態と、その前提としての遺体・遺骨観、霊魂観を検討することを課題(p.20)」としている。

第1部 古代中世における死の観念と葬送

「第1章 古代中世の葬送墓制にみる遺体観と霊魂観―柳田民俗学の課題をふまえて」では、柳田国男の霊魂観・祖霊観が批判される。

柳田国男は民俗学の立場から日本人の過去の霊魂観を考究し(→『先祖の話』)、それは当時の通説となったが、今や柳田の霊魂観・祖霊観は通用しない。例えば、両墓制は中世末から近世にかけて登場したもので古い民俗ではない、祖先祭祀も近世以降の民俗である、山に祖霊が宿る観念も近世以降ものである…といったものだ。柳田が前提とした民俗は、ほとんどが近世に形成されたものだったのである。しからば古代・中世の霊魂観・祖霊観はいかなるものであったか。

まず、柳田は死体を「きたなき物」であったとしたが、そのような観念は本当にあったのか。また古代には墓参の習慣はなかったとされるが本当か。つまり、古代には死穢を忌避する強い観念があったというのは事実なのだろうか?

まず、『栄花物語』には、遺族が遺体に自ら手を触れて沐浴させる場面があり、遺体が「きたなき物」であったという描写はない。

墓参については、田中久生は墓参の習慣はなかったとしたが、服藤早苗はその根拠となった『栄花物語』の記述(藤原伊周が父の墓を見つけられなかった場面)を検証し、それは夜だったために墓の位置がわからなかったことを表している場面だ、と指摘した。「10世紀初頭には上級貴族層で墓参が行われており、10世紀後期には中級官人でも墓参が行われていた(p.39)」という。

また天皇家では血縁意識に基づく祖先祭祀が同時期に行われており、墓前祭祀も行われていた可能性がある。火葬の場所が「火葬塚」として墓所や陵とみなされた(p.39)ことは、死体処理した場所が穢れの意識で見られていなかったことを示す。では、墓はどのようなものとみなされていたか。著者は「墓には故人の霊が宿っているとの観念があった(p.43)」という。先ほどの『栄花物語』の場面で伊周が「なき御影にも今一度参りてこそは、今はの別れにも御覧ぜられめ」と述べていることはその証左である。

平安時代初期には、人々は遺骨に霊魂が宿ると考えていたようだ(例:紀夏井の遺骨祭祀など)。天暦6年(952)に没した朱雀天皇の遺骨が醍醐寺の東へ「奉安」されたのも、遺骨に意味を見出していたからだ。庶民の間でも屋敷墓が10世紀後半ごろから畿内に現れ、11世紀には河内や摂津などの農村で広がっている。また11世紀初頭には貴族の間では一門墓所が成立するが、「一門墓所に埋めた遺骸・遺骨には大きな霊威が存在するとの観念(p.45)」があった。こうした動きが11世紀後半には納骨信仰(高野山への納骨)につながったと考えられる。

人々は、8世紀初頭には遺骸や遺骨、そして墳墓に霊魂が宿るという観念を抱いており、墓を守り伝えていた。従来、魂は遺体から抜け出て死者の国に行くと考えられていた、とされてきたが、「古代の人々も、霊魂を昇天するものと、遺体・遺骨に留まるものとの両様に考えていた(p.52)」というのが妥当な理解である。

では、古代の人々は遺骸・遺骨には霊魂はないと考えていたのか。確かに当時は死体遺棄がなされていた。庶民の死体遺棄がどのような意味を持つのかは解明が必要な問題である。

ところで、『餓鬼草子』では、その見た目のおどろおどろしさとは逆に、多様な葬送・埋葬が行われた遺体が描かれている。つまりここに描かれているのは死体遺棄ではない。史料上でも遺体を「置く」と表現されているが、これを検証すると、この「置く」はどこかに死体遺棄するのではなく、明らかに墓所への埋葬を表していることがわかった。これは貴族の場合であるが、庶民の場合でも遺体を「捨つ」とか「棄つ」とか表現されている。これも遺体を文字通りの意味で捨てたというより、「野原に放置する」という「葬送」であったと考えられる。「一見、遺体遺棄に思える事象も当時の人々の目線から見るとき、それは精一杯の葬送(p.62)」だったのである。すなわち、現代では遺棄に見えるものも含め、多様な葬送が行われていた、と理解した方がよいのである。

「第2章 古代中世における葬送と時刻―他界観・死体観との関係を通して」では、葬送の時刻の変化を考察している。

かつて葬送は夜に行われていたが、古代中世において徐々に葬送の時刻は変化していった。どうしてなのだろうか? それを明らかにするため、著者は、8世紀から13世紀までの古記録に見える300余件の葬送の開始時刻を夜・日中(昼)・暁の3つに分類した。従来の研究では「暁」が軽視されていたといい、暁を加えたところに著者の創案がある。なお、葬送される身分は王家・公家・武家・僧の4つに分類している。

8~11世紀までの葬送はすべて夜だが、開始時間は徐々に遅くなっていく傾向にある。それらの葬送は暁までに終了していたと考えられる(記録がある事例ではすべて暁までに終了)。12世紀前半に暁型が登場。これは公家が採用した。一方、僧は日中型を用い始め、13世紀には日中型が広がる。15世紀には変化が顕著となり、暁型が夜型と並び全体の三割余りを占めるようになった。16世紀には日中型が優勢になる。ただし王家では日中型はほとんど用いられなかった。では、このような変化はどうして生じたのだろうか?

そもそも葬送が夜に行われていたのはなぜなのか。記録の書きぶりを踏まえれば、人々は死体を「直接的な接触がなく遭遇しただけでも、その人を他界へ引き込みかねない禍々しい存在として認識(p.80)」していた。遭遇しただけでは死穢にはならないが、死体自体への恐怖感があったから、できるだけ世間の人が死体に遭遇しないように夜に(暁までに)行われていたのだろう、というのが著者の考えだ。

一方、暁は一日の始まりであるが、これが古代には深夜(寅刻)を示していた。ところがこれが徐々に後ろにずれてきて、16世紀には現代と同様の「明け方」の意味になった。つまり、「暁(明け方)までに葬儀を終えればいい」という感覚は同じでも、暁の時刻がずれたことで葬儀の時間が後ろ倒ししていったのではないかというのが著者の推測である。また、その背景には貴族の生活スタイルが夜型になっていったことがあるという。つまり、暁方葬送は死体観の変化などは関係ないようだ。では日中型葬送はどうか?

著者は11世紀から16世紀までの日中型葬送の42事例を分析しそれを考察する。そこでキーとなるのは、「「死者を仏として葬る」という葬儀観」(勝田至)である。例えば正応3年(1290)の叡尊の葬送では、叡尊が「釈迦大日如来」として礼拝された。なおこの葬送では豪華な装具などは使用されていない。勝田至は、禅宗が仏像を荘厳するための仏具を葬具に転用したことを「死者を仏として葬る」葬儀観と関連させて理解したが、叡尊の場合を鑑みるとそうでもないようだ。ただ、仏として葬るということは、葬送は仏との結縁(自身が往生成仏する機縁を作ること)の機会となるから、「結縁の葬送」が行われたことで葬具の発達を促した可能性はある(つまり論理の方向が逆だ)。ともかく、往生人は禍々しい存在ではない(どころか尊い)と観念されたことが日中型葬送の発生の思想的背景のようである。

日中型葬送が特に僧の場合に行われたことは、「結縁の葬送」という観念がその背景にあった証左だ。南北朝期の絵に描かれた一向俊聖の葬送の場合、死体が棺等にも入れられずそのまま手輿に載せられている(日中に行われたかどうかは定かでないが)。死体を見せるものとして葬送しているのである。

まとめると、「中世後期の禅宗儀礼による葬送は、浄土教信仰によって生まれた「結縁の葬送」を取り込み、それを本来仏像を荘厳する仏具から転用された葬具などによって組み立てられたもの(p.97)」であり、「葬送全体が「結縁の葬送」として広く理解され、受容されるように(同)」なったのである。こうしたことから葬送自体への観念が変化し、家督継承者などは「「結縁の葬送」をさらに「豪華な装具」によって荘厳した「見せる葬送」を採用(p.98)」した。葬送が人目を避けるものからデモンストレーションへ変化したのだ。

「第3章 平安時代以降の葬送と遺体移送―「平生之儀」を中心として」では、死体の移送に注目することで葬送の凶事性について指摘している。

平安時代以降、葬儀にあたって遺体を寺院などへ移送することが行われた。ところが面白いことに、記録によれば死体を生きているかのようにして移送していた事例が多数存在する。なぜまだ生きていると装って(→「平生之儀」で)移送したのか。従来の研究では、死穢を避けるため生きていることにしたと理解されてきたが(吉田徳夫など)、それは本当なのだろうか。

著者は10世紀から16世紀までの「平生之儀」の遺体移送が行われた葬送102例を分析してそれを考察する。15世紀には王家・公家・武家に同程度の事例が確認でき、必ずしも王家の主導性が明確ではないが、全年代を合計すると半分近くが王家である。そして「平生之儀」では、葬礼が伴わないのはもちろん「外出」などとしており、移送先の寺院などで葬礼が開始された。ところが、記録を分析してみれば、そうした移送も明らかに葬送の一環で行われていた。葬送の一環でありながら、なぜわざわざ「平生之儀」をしつらえたのか。

これは死穢がないことにするためではなかった。なぜなら、遺体移送の際には「生きていることにして」いたが、死去自体は認めており、死穢の発生は周知のこととなっていたからだ。「「平生之儀」を用いる目的が死穢の隠蔽であったならば、死穢の発生は「平生之儀」を用いた遺体移送の後でなければならないはずである(p.135)」。よって従来の理解は妥当ではない。

細かい議論は省くが、著者は「葬列や葬車など葬送自体が、死穢とは別に忌み憚らなければならないものであった(p.139)」とし、それが「平生之儀」の理由であると考える。つまり、ある場所から葬列を出発させることは、その場所にとってよくないことだと考えられ、葬礼の形式をとることを憚ったのだという。「死者が通った跡を年少者が出入りするのは気の毒だ(p.140)」と考えられていたり、堀河天皇が若くして亡くなったのは路頭に放置されていた死人と遭遇したためだと考えられていたりした。特に「遺体を乗せた葬車は人を死に至らしめかねない凶々しいもの(p.145)」であった。「平生之儀」は「こうした葬送の持つ凶事性を回避するための措置であったと言える(p.144)」。

本稿で著者は、「平生之儀」は死穢の問題であるとする通説を覆したのみならず、従来注意が払われていなかった「葬送の凶事性」について指摘している。ではなぜ葬送は凶事とみなされたのか、人々が恐れていたのは理屈の上では何なのか(どういう理屈で死人と遭遇したことが死をもたらすのか)も気になった。

第2部 古代中世における葬送の実態

「第1章 奈良・平安時代の葬送と仏教―皇族・貴族の葬送を中心として」では、仏教はどう葬送に関与し始め、葬送の仏教儀礼はどう進展していったかを述べる。

8世紀から9世紀前半までは、官人等の葬送手続きは「喪葬令」に基づいて行われていたと推測できる。これは律令が範とした唐の場合と同じである。「喪葬令」に基づいた葬送とは、葬送を取り仕切る「監喪使」が発遣され、国家が葬具一式を貸与して、葬送行列を行うものであった。これは日本在来の儀式に中国様式を多分に取り入れたものであったと推測されている。 

仏教的葬送の初めとされることもある天武天皇の葬儀だが、「天武の喪葬に僧侶は参画しているものの、伝統的な殯宮儀礼に則った葬送が行われており、仏教儀礼は追善の場で採用されただけであった(p.168)」。天武の追善としては、百日忌(無遮大会)や一周忌(国忌斎)が行われた。仏教の追善儀礼はかなり早くから民衆にも浸透したとみられる。

聖武天皇の場合は、『続日本紀』に「御葬之儀如奉仏」とあり、仏教儀礼によって行われたっと考えられてきた。しかし同書を詳しく検証すると、聖武の葬送もやはり「喪葬令」に基づいて行われていたようである。「如奉仏」というのは、葬具の一部を仏具で飾り立てたことを言っており、仏教儀礼によって葬送が行われたことを指しているのではないようだ。このように、平安時代前期までは葬送はあくまで「喪葬令」に基づいており、それとは別に仏式の追善儀礼が行われていたという状況であった。

要するに、平安時代前期までは中国風の葬送であった。中国では8世紀でも皇帝や官人の葬送に仏教僧の関与は確認できない。そして追善にあたる祖霊祭祀も、中国では儒教儀礼によっていた。ところが日本では中国の宗廟祭祀制度(宗族の祖先の御霊屋をつくって祀る制度)は受容しなかった。中国の祖霊祭祀はこの御霊屋を前提としていたため、日本では儒教に基づく祖霊処理ができず、結果として追善儀礼を仏教が担うようになったのではないかというのが著者の考えである。なお中国でも7世紀には盂蘭盆や七七斎等の仏事が浸透していたが、やはり儒教による祖先祭祀が担えない部分を補っていたと思われる。

こうした喪葬令的葬送の転換点となったのが淳和天皇と嵯峨天皇である。彼らは徹底した薄葬を指示した。面白いのは、「監喪使」の発遣や国家からの葬具貸与を固辞し、国家の費用を軽減せよ(嵯峨天皇の遺詔)と言っている部分である。制度をなくすのではなく、それを固辞せよといっているわけだ。しかしこれが実質的な制度変更であることは明らかで、9世紀後半以降、「喪葬令に基づく監喪使の発遣や葬具の貸与を、王家でも親王等は固辞し、官人が受給することはほぼ皆無と(p.175)」なった。『延喜式』では官人への葬具の支給規定自体がなくなっている。こうして「喪葬令」的葬送は下火になっていった。

一方そのころ、中国からは光明真言や尊勝陀羅尼などの呪術的な仏教が伝わってきた。中国でも9世紀中頃、僧侶が葬送儀礼に直接携わるようになった(『新集吉凶書儀』)。実際、永観元年(983)から4年間入宋した奝然は、節度使の葬送に僧侶が関与し、尊勝陀羅尼を墓所まで唱えている様子を記録している。その背景には浄土教の盛行があった。往生のために光明真言などを使った遺体・遺骨への呪的処理が行われたのである。これは僧侶に葬送へ関与することを求める結果となった。天台・真言の僧侶(顕密僧)が葬送へ呪術的に関与した初見史料が、延長8年(930)の醍醐天皇の葬送である(『醍醐寺雑事記』)。ここでは呪術的な念仏が行われたと考えられる。

なお、これに先立つ元慶4年(880)、清和天皇は死の前年に出家し、円覚寺で亡くなっている。はっきりと記録はないが、円覚寺の僧侶が葬送に関与したと考えるのが自然である。9世紀の終わりごろに呪術的な要請から顕密僧が葬送に関わるようになっていったと考えられ、10世紀中ごろにはそれが定着した。本書ではそれが14例まとめられているが、それらはいずれも天皇・皇后・摂政・関白・太政大臣等ばかりである。

その関与は具体的にはいかなるものであったか。(1)出棺に際し導師を勤め、呪願を唱える、(2)導師呪願を行い、光明真言を読誦する、(3)加持土砂を棺の上に置く、(4)真言陀羅尼を念仏する、などである。まとめると「葬送で顕密僧が果たした役割は、呪術的な職分であった(p.186)」。逆に言えば、それ以外の部分、具体的には遺骸の処理や葬送行事全体の取り仕切りなどは俗人が担っていた。それにしても、葬送に直接顕密僧が携わるようになったのは時代を画する変化であった。

「第2章 中世における葬送の僧俗分業構造とその変化―「一向僧沙汰」の検討を通じて」では、葬送が僧俗の分業で行われていたことを論証する。

大石雅章は、中世前期までの葬送では顕密僧が入棺・荼毘・拾骨等に関与したが、中世後期になると遺骸・遺骨の取り扱いは禅律念仏僧が、中陰仏事は顕密僧が担うという分業体制になったとし、その理由は、顕密僧が死穢を避けたためだと考えた。そして中世後期の葬送に用いられる「一向僧沙汰」が、禅律念仏僧が一括して葬送を請け負うことだと理解した。これらの通説的理解は妥当であろうか?

まず中世前期での顕密僧の葬送への関与は、導師・呪願師という二人が葬送の節目に願文表白が行うというものだった(初見は醍醐天皇の葬送)。では葬送におけるその他のプロセス、具体的には、沐浴、入棺、荼毘・埋葬、拾骨、納骨はどう遂行されたかのだろうか。著者は9世紀から14世紀までの王家・藤原家の葬送の50事例について分析しているが、その要点は次のとおりである。

沐浴:顕密僧の関与が確認できるのはわずか1例のみ。
入棺:基本的に俗人が行うが、特別な関係にある顕密僧がそれを呪的な面で手伝っていることがある。
荼毘・埋葬:顕密僧が関わった例はあるが、それは念仏読誦など補助的なもので、着火などは俗人が行っていた。
拾骨:顕密僧が俗人とともに拾骨をしている場合が6例ある。
納骨:特別な関係にある顕密僧が行う場合もあるが、基本的には俗人が行う。

以上をまとめると、基本的には葬送の実務は俗人が担い、導師呪願以外については故人と特別な関係にあった顕密僧が呪的な面で補助していたと理解できる。

では、ここでいう俗人はどんな人たちか。これについては予想通りで、夫・親・兄弟などの親族のほか、家司など含む「親昵」な人々であった。特に遺骸・遺骨に触れるのは外戚・乳母子などである(王家の場合)。ただし、血縁者や姻戚関係でも恩顧関係にないものは携わっていないとの記録もある(『兵範記』)。すなわち、身内・近習・乳母子・家司など特に縁の深いものが葬送を担っていた。

次に中世後期では、「一向僧沙汰」が登場するため、従来俗人の関与はなくなると考えられてきた。しかし具体例を検証してみると、「禅律僧が必ずしも入棺から納骨まですべての儀礼を実施ているわけではな(p.214)」いことが分かった。親族・近臣は葬送に関与していたのである。だがさらに細かく見ると、沐浴・入棺については禅律僧が担当するようになったことが顕著な変化として挙げられる。これで俗人の間に沐浴・入棺のやり方の知識が失われたと著者は考えている。一方、荼毘や拾骨・納骨は俗人が行っていた。

それは、これらについては「由緒人」が行うのが望ましいとの観念があり、由緒人(特に相続人)にとってはこれらに携わることが務めであるとされていたからである。「西谷地晴美氏は中世前期の史料を用いて、中世社会は葬送の執行が相伝を支える重要な相続慣行の一つであったと指摘したが、中世後期の葬送でも荼毘・拾骨は、相続慣行を支える機能を果たしていた(p.219)」。すなわち「一向僧沙汰」といっても、沐浴・入棺を禅律僧が、それ以外を俗人が担って葬送が行われていた。

しからば「一向僧沙汰」とは一体何を意味するのか。著者は「一向沙汰」の用例を検証し、「一向僧沙汰」とは、禅律僧が「総奉行」として葬儀を取り仕切る方式であると結論している。逆に言えば、中世前期では俗人が葬儀を取り仕切っていた。12世紀末ごろに公家の世界で禅律僧が葬儀を取り仕切る体制になり、それが広がっていったらしい。ではなぜ葬儀の執行者は俗人から禅律僧に移行したのか。

先述のとおり、通説的理解では触穢の問題があったとされてきた。中世前期において、葬送に携わった俗人も顕密僧も触穢となっていた。しかし彼らは穢を避けるよりも葬儀の執行を優先していた。ただ、沐浴・入棺は相続者の務めとはみなされていなかったが、興味深いことに「入棺は血縁者や姻戚関係者よりも個人と恩顧関係にある者がより相応しい(p.229)」と考えられるようになっていったらしい。血縁者などは触穢を覚悟の上で葬送に携わっていたのであるが、恩顧関係にあるものを入棺のために動員することが遺族に求められるようになった。つまり「中下級貴族が沐浴・入棺儀礼を禅律僧に代替させることにより、それら(※動員する)力量不足を補っていた実態を推測することができる(p.230)」。

ところで、顕密僧が葬送から離脱していったのはなぜか。顕密僧の役割は中陰仏事(初七日からの追善仏事)からになっていったが、死体が除去されていても30日の間は触穢になる。つまり中陰仏事のみの関与だったとしても、顕密僧は触穢を避けえない。そして彼らも、触穢になることは覚悟の上で中陰仏事を担当していた。すなわち、顕密僧が葬送が離脱したのは触穢の問題からではない。逆にいうと禅律僧が葬送を担当するようになったのも、「禅僧たちが、死穢の観念から比較的自由であった(p.235)」からとするような理解は妥当ではないと考えられる。中世後期においても触穢の規定は生きており、触穢の忌避を葬送の変化の要因とする通説は改められねばならない

「第3章 中世後期の葬送と清水坂非人・三昧聖―葬送権益の実態を通して」では、清水坂非人が持っていた葬送に関わる権益が何だったのか実証的に検証している。

馬田綾子は、京中では葬送を清水坂非人集団の奉行衆(坂)が統括していたと考えこれが定説となった。これに対し、田良島哲は坂の持つ権利は葬儀執行権ではなく、葬具・施物を取得する「葬送取得権」ではないかと疑義を呈した。実態はどうであったのだろうか。

東寺は、文安2年(1445)、三昧輿を購入して地蔵堂三昧を組織し、寺内組織で寺僧・寺官の葬送を完結させようとした。坂が葬送執行権を持っていたのなら、これは坂の権益を妨害するものであろう。実際、東寺は坂と交渉しているが、中世後期の東寺の葬送では、葬送を担っていたのは「三昧聖」であり「非人」は史料(『東寺百合文書』)に登場しない。

では坂の権益とは何なのか。著者は東寺が地蔵堂三昧を発足させた時の文書を詳細に検証しているが、確かに地蔵堂三昧の設立において、東寺は坂に様々な補償金の支払いを約束していた。そられの検証結果をまとめると、(1)三昧聖は坂の関与の下、遺体の移動や火葬を担っていた。だが、坂は直接は葬送の現場に携わってはないなかった。(2)坂は葬送の際に使われた輿や葬具を取得する権利を有していたが、輿や葬具が継続的に使用されるようになるとそれが取得できないため、輿・葬具の差し出しの免除料を求めた。ということになる。

次に、史料が豊富な時宗の七条道場金光寺での葬送を補足的に分析している。金光寺では荼毘所を持ち、また三昧輿や墓所も持っていた。ここでも三昧聖は荼毘を請け負っていて、坂は補償金を支払われていることがわかる。結論としては、先ほどの(1)、(2)が確認された他に(3)坂の権益は鳥辺野を本拠としていたが、鳥辺野外にもその得分(権益)を主張しそれが認められた。(4)ただし蓮台野はその権益外であり、坂の権益は京中全域に及んでいたのではない、と追加できる。

では坂非人と別に存在していた三昧聖の方はどんな存在だったか。三昧聖が明瞭に表れるのは意外と遅く、中近世移行期から近世初期以降である。三昧聖=おんぼう(隠亡)は、火葬や埋葬などの遺骸処理に従事し、あるいは墓所を所有して墓守にも従事した。三昧聖は墓での業務に従事する身分の呼称として成立したのかもしれない。とすると、三昧聖という名称こそなかったが、墓に従属して葬送に携わったと考えられる者は11世紀前半から史料に見えており(「蓮台廟の聖」「山守」「墓守法師」など)、12世紀には「墓を守る聖」が存在していた。そして室町時代には都市の中心部に墓地が設けられて葬送業務従事者の需要が増加し、14世紀中ごろに荼毘に携わる者が「三昧聖」として登場し始めるのである。

「第4章 中世京都における葬送と清水坂非人―葬送権益の由来と変容」では、坂非人の葬具取得権の由来が考察されている。

前章では、清水坂非人が葬送に用いる輿や葬具を取得する権益を有していたことが論証されたが、ではどうして坂非人は葬送の実務を担っていなかったのにそんな権益を持っていたのだろうか。

10世紀から13世紀までの葬送では、葬送に使用した物品(火屋、荒垣、鳥居など)は解体されて近辺の寺々へ分給され、輿や葬具などは焼却されて処分されていた。具体的には「御櫛机・御冠筥・硯箱・脇息・御座をはじめ数多くの調度品や御輿・御車等が上物として持ち込まれ、行事官によって焼却されていた(p.279)」。このように、葬送における調度品は数多く、それが焼却されるのはもったいなかったからなのか、上物(の焼却)は「12世紀以降、段々形骸化していったものと考えられる(p.281)」。すでに鳥羽法皇の葬送ですら上物がなかった。上物の焼却を示す最後の記録は、天福元年(1233)の藻璧門院の葬送である。

そして13世紀後期に、坂非人が葬送の諸道具類を取得していたことを示す史料「非人長吏起請文」が登場する。先述のとおり、これは葬送の実務を担った対価として取得したものではありえない。ではそれは施行(ほどこし)であったのか? 確かに非人は施行の対象であるとはみなされており、それは一種の利権化していた。しかし史料の書きぶりからすると施行であったともみなしがたい。

ちなみに、非人は遺棄死体の処理「キヨメ」を担っており、その対価に小物や死体の衣服を取得する権利は持っていた。ちなみに「キヨメ」は死体の片づけであって葬送とは「まったく別の行為体系(p.289)」である。よって、「キヨメ」の時に取得するものと葬送の上物の取得は別に考えなくてはならない。「キヨメ」と葬送の混同が通説の誤りの要因の一つである。

では非人が持っていた権益はほかに何があるかというと、「乞場」という乞食を行う縄張りを非人は持っており、これは鎌倉期以降には利権化し守護・地頭の了解事項にもなっていた。著者は、この「乞場」を基盤として、「上物取得が縄張り支配に基づく受益権に変化していた(p.290)」と考える。鳥辺野が坂の縄張りだからこそ、そこに持ち込まれた葬具等を取得できたというのである。

前章で挙げられた東寺の地蔵堂三昧の設立などの史料によれば、三昧輿や葬具などを坂に差し出すことを免除する代わりとして、かなり細かく料金設定がされていた。これは寺院が葬送に常住輿を使用する(一回限りで焼却しない)という変化を基盤としていた。現物取得から契約による金銭の取得(いわば債権)に変化したのである。

これが葬送ごとに支払われる使用料制に変化する。寺院が境内墓地を創設したことがその背景にある。本来、鳥辺野に葬送するからこそ坂が葬具取得権を持っていたのであるが、その権益が拡大解釈されて、鳥辺野以外への埋葬でも坂への債権が生じるとみなされたのである。この状態が、「あたかも京中の葬送を統轄する権限であったかのように従来受け取られてきた(p.297)」のである。

そして17世紀初頭には葬送のたびに料金を徴収するのではなく、それらの料金がまとめて定額化され坂は年に一度受け取るようになった。こうして葬具取得権が葬送に伴う単なる債権になってしまうと、坂の権益は売買の対象とさえなった。こうして、元来葬送と坂とは関連が薄かったのであるが、墓地・葬場の管理支配は実質的に坂非人から離れていった。

本稿の議論は説得的であるが、なぜ坂非人は強い権限を持っていたのかという疑問が深まった部分もある。文安2年(1445)の東寺の地蔵堂三昧の設立において、東寺は常住輿を使う権利を坂から得たのであるが、その際に坂は「相国寺・南禅寺・同三聖寺」へはその輿を貸し出してはいけないと置文している。理屈の上では、常住輿の使用は東寺に認めたものであるからこの措置は当然ともいえるが、どういう権限から坂はこのような制限を設けたのであろうか。ある面で坂は寺院より強いように見える。坂が葬送の実務を担っていたならまだ理解できるが、彼らの権限が「鳥辺野に持ち込まれたものを取得できる」という権限のみを基盤としていたとすれば、相国寺などへ輿を貸し付けることまで禁じることができるのだろうか。

そもそも、葬具の取得権自体が摩訶不思議なものである。葬送に使用する上物(調度品)などをその都度焼却していたのは、「葬送に使用したものは(穢とは別に)二度と使えない」という観念があったためであろう。そんな物品を坂は何に使っていたのだろうか。本稿ではこれらは転売して利益を得ていたことが債権化をもたらしたと考えているが、転売が可能ならばそもそも葬送の際に処分する必要がない。葬具はなぜ処分され、そして処分されなくなったのか。そこに死生観・穢観の変化があったのか。これについて本稿はなんら考察していない。

中世の非人は、近世のそれのように被差別階級ではないが、それにしても社会的な弱者であったには違いない。そんな非人が葬送の領域では寺院を制しうる権限・権益を持っていたのが不思議でならない。

「終章 本書の成果と課題」では、本書全体での通説の検証結果とその課題についてまとめている。

強調されている点としては、(1)古代から中世にかけて人々は遺体・遺骨に霊威を見出していた。その基盤としての霊魂観を検証する必要がある、(2)死体や葬送は穢とは別に禍々しいもの、凶事であると認識されており、そのことが葬送儀礼にも影響を及ぼしていた、(3)仏教が国家レベルの葬送と緊密な関係を持ったところに日本仏教の特質がある、などである。

また、葬送形態は、10世紀前半に一度大きな変化を迎え(→顕密僧の関与、「平生之儀」)、次いで13世紀から14世紀にかけて大きく変化した(→葬送時刻、禅律僧の関与、俗人との分担変化、境内墓地の登場)とまとめられる。

さらに今後の課題として、葬送における子供と女性の扱い、中世後期からの寺壇関係の形成過程などが挙げられている。最後に、今後訪れる他死社会において、本書で明らかになった死生観は有用ではないかといったことが提言されて擱筆されている。

***

本書での知見をまとめて、平安時代以降の葬送史を簡単に描いてみると次のようになる。

まず9世紀前半までは官人の葬送は「喪葬令」に基づいた中国的葬送で行われていた。しかし日本では中国的な祖先祭祀の仕組みは導入されなかったので、追善の仏事は早くから庶民の間にも浸透した。

9世紀後半〜10世紀前半に顕密僧が葬送に関与するようになる。これは浄土教の浸透に伴い、土砂加持や尊勝陀羅尼など往生を願った呪術的な機能が求められたからであった。この頃、庶民の間では鳥葬など死体遺棄に近い葬送がされており、また貴族でも墓参の習慣はなかったと見なされてきたが、鳥葬は死体遺棄とは違い、また墓参の習慣もなかったわけではない。古代の人も遺体に意味を見出さなかったのではなく、霊威を見出していた。そして死体や葬送は周りの人を死に至らしめかねない禍々しいものと捉えられていた。従来、死穢が強調されてきたが、死体や葬送の禍々しさについても葬送史の解明には重要である。

13世紀には禅律僧が葬儀を取り仕切るようになる。これは顕密僧が死穢を避けた結果ではなく、むしろ葬送の執行が相続人にとっての重大事となり、また入棺などは(血縁者ではなく)由緒人が行うべきとの社会通念が出来上がるに従って、そうした面倒な差配を禅律僧が請け負ったためではないかと考えられる。葬送に相続を担保する意味が与えられたことや、僧侶の場合は往生人との「結縁のための葬送」だと観念されたことで、それまで人目を避けるべきものであった葬送が日中に行うデモンストレーションへと変化した。ただし王家では夜儀が続けられた。また寺院は境内墓地を設けるようになり、葬送は寺院内で完結できるようになった。それに伴い、鳥辺野での葬具取得権を持っていた坂非人が補償金を求めて認められた。だが彼らは葬送に携わっていたのではなかった。実際に火葬や埋葬に携わったのは三昧聖=おんぼうである。

以上の葬送史において特徴的なことは、くり返しにはなるが2点ある。

第1に葬送の変化の原因を死穢の忌避に求めていないことである。これまでの葬送史研究では、死穢が強調されすぎたきらいがある。しかも著者は死穢は重要でないといっているのではなく、中世後期においても死穢の規定は生きており(=簡単には忌避できない)、重要な人物の葬送の場合は死穢を覚悟で葬送に携わるのが当然とされていたから、死穢を避けることが葬送方法の変化の主因にはなりえない、というのである。

第2に、死体や葬送の禍々しさに注意したことである。「死穢の忌避」よりも「死体や葬送は憚るべきものだ」という感覚の方が実質的だったのではないかと著者は考えている。死穢は法規的に規定されているため逃れようがないが、禍々しさは「平生之儀」を装ったり、夜間に葬送を行うことで隠蔽することが可能となる。著者はそうした実質的対応が葬送を変化させていったという。そして相続の担保、往生人との結縁など、葬送に新たな意味が付与された結果、死体や葬送の禍々しさが減じて、葬送の在り方がさらに変わっていったのである。

第1の点に関しては、私自身も感じていたものである。しかし、重要な人物の葬送では死穢覚悟だったとしても、あまり重要でない人物(家来など)の葬送の場合は、顕密僧にしても係累の者にしてもできれば死穢になりたくなかったに違いない。本書で分析される事例は記録があるものに限られるので、自然と重要な人物の葬送ばかりとなっている。その他大勢の普通の人の葬送の場合は死穢はどのように扱われていたのかを検証する必要を感じた。

第2の点に関しては、そもそも死体が禍々しいものと考えられたのはなぜなのか疑問に思った。白河天皇が愛妃賢子の死去に際し、死の穢れを気にせずその遺体から離れようとしなかった、という事例があるように、普通愛する者の死体は禍々しいというより愛おしいものである。例えば動物が仲間の遺体からなかなか離れようとせず、母親が死んだ子の世話をいつまでも続けようとする、ということは自然界で頻繁に観察される。もちろん腐敗した死体は目を背けたくなるものだが、死体そのものが禍々しいという感覚は先天的なものではないように思う。死体が禍々しいものだという観念が当時の社会に広く共有されていたとすると、その理由がなんなのか考究する必要を感じた。また、平安時代には飢饉や疫病の流行に際し、京中にしばしば多数の死体が放置された。本当に死体が禍々しいものと捉えられていたら、そんな事態を国家が放置していたのは奇妙な気がする。本書での論証は説得的であったが、「禍々しさ」という概念はとらえどころがないようにも思った。

ただし、以上の疑問点は本書の議論の本筋にはさほど重要ではない。本書はこれまでの葬送史研究を総合的かつ批判的に検証し、通説の誤りを訂正し、古代中世の死生観の一端を解明するものとして非常に高い価値を有している。今後の古代中世の葬送史研究における出発点となるものである。

古代中世の葬送史の新たなスタンダードとなるべき労作。

【関連書籍の読書メモ】
『日本葬制史』勝田 至 編 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/02/blog-post.html
日本の葬制史の概説。葬送史をまとめることで、死への考え方の変遷まで垣間見える労作。

『死者たちの中世』勝田 至 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_9.html
中世、多くの死者が墓地に葬られるようになる背景を説き明かす本。思想面は手薄だが、中世の葬送観について総合的に理解できる良書。

『中世の葬送・墓制—石塔を造立すること』水藤 真 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_4.html
中世の葬式がどうであったか検証する本。葬儀事例を数多く紹介することで中世の葬送を知る真面目な本。

『葬式仏教の誕生—中世の仏教革命』松尾 剛次 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/09/blog-post.html
仏教が葬式を担うようになった変化を描く。葬式仏教の成立を広い視野でコンパクトにまとめた良書。

『先祖の話』柳田 國男 著(柳田國男全集13)
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/11/13.html
日本人の最も大きな信仰が先祖崇拝だったことを述べる本。日本人のあの世観を初めて文章化した名著中の名著。 

『葬式仏教』圭室 諦成 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/11/blog-post_30.html
仏教が葬式を担うようになった次第を述べる本。葬式仏教論の嚆矢である名著。 

 『穢と大祓』山本 幸司 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/11/blog-post_24.html
穢(けがれ/え)の歴史的事実を明らかにする本。穢の実態を初めて明らかにした労作。

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2025年6月22日日曜日

『日本中世の国家と宗教』黒田 俊雄 著

日本中世の国家と宗教の在り方を考察した論文集。

本書には、「権門体制」と「顕密体制」という二つの新しい見方を提示したという画期的な意義がある。そして本書は、中世の宗教を考察する上で避けて通れないものである。しかし私は、数年前に本書を手に取ったがなかなか読み進めることができなかった(が、今回は概ね面白く読めた)。当然だが、ある程度の前提知識を要する本である。

本書は11本の論文が収録されており、その中心は書下ろしの(!)第3部(全体で論文1つ)であり、第3部に到達するための準備が第1部と第2部という構成になっている。第1部が権門体制論、第3部が顕密体制論であって、第2部はそれを繋ぐものという構成である。

第1部

「I 中世の国家と天皇」では、権門体制論が提唱される。これは元々岩波講座『日本歴史』に書かれたものであるから、学会誌に掲載される論文とは少し違う、概説風の論文である。

著者は本稿について「貴族・武士を含めて全支配階級が農民その他人民を支配した諸々の機構を総体的に把握することを、目的としたい(p.5)」とする。本論文が発表された頃は、貴族が「古代的」で武士が「中世的」だという枠組で物事が見られていたが、著者はそうではなく、貴族も武士も封建領主として共通の土台に立っていたと見る。その共通の土台、機構が「権門体制」である。

古代の国家権力機構を「律令体制」、近世のそれを「幕藩体制」と呼ぶことができるとすれば、中世のそれをどう呼ぶべきか。一つの呼称は「荘園体制」であるが、それは経済制度の呼び方であって国家制度・機構の全体を表すものではない。そこで著者は「権門勢家が国政を支配する国家体制を指す概念として「権門体制」という語をあてることと(p.9)」した。なお「権門勢家(権門)」とは、「荘園の最高領主であって権威・勢力のゆえに国政上なんらかの力を持ち得た門閥家」(著者の説明を要約)である。

この定義から、院政を行う上皇や天皇もそれぞれ権門勢家といえるし、幕府を含めて武士の棟梁も権門勢家であった。荘園をめぐる権利関係は、結成と離合を繰り返し、徐々に権門が系列化した。そのうち雄なるものが成立して、諸政治勢力の中核となった。またそれらの権門は、それぞれに自己の門閥都市を独自に形成した。興福寺・東大寺・院政政権・平氏政権・鎌倉幕府などがそれにあたる。

こうした体制の画期となったのは院政期である。その国家機構は、令制に基づくものでななく権門の門閥的支配機関が中心だった。「院政は完全な意味での権門政治の最初の形態(p.21)」と言える。

「権門体制においては、国家権力機構の主要な部分は、諸々の権門に分掌されていた(p.23)」。現在の政治体制でも、国家の機構は当然さまざまに分掌されているが、ここでいう分掌の意味はそれとは異なる。それは、警察や軍事のような機構そのものだけでなく、その財源も含めて分割されていたのである。(こういう譬え方は本書でされているわけではないが)霞が関の各省庁が、財務省から予算配分を受けて働くのではなく、経産省は茨城を治め、文科省は群馬を治め…といったように各省庁が自治団体として財源とその徴収機構を持ち、国政の一部を担うのが権門体制と理解したらいいかもしれない。

このような状況で、天皇の権力はいかなるものであったか。著者は天皇を「政治的にはまったく無力であった(p.30)」という。だがそれは無用なものではなく、諸権門を超えて担うべき国家としての役割があり、「ありうべき支配体制の必要から(同)」存在したという。ここでさらに著者は、神国思想を取り上げ、それが「天皇の政治的地位の形式化・観念化(p.33)」に伴うものであったと示唆する。つまり天皇が諸権門を超越して存在していることと、それと同時に天皇が担うものが形骸化していったことの帰結として、「天皇はいわば「神国」の最高司祭者とさえ説かれるにいたる(同)」。それは荘園における主従制が、地代の徴収に収斂したことにより、領民と領主の心理的隔絶が大きくなり、天皇がその救済者として観念されたという事情もあるのかもしれない。

国家権力の機構が分掌されているということは、中央集権国家ではないのだから、それは「きわめて弱体・形式的で、非集権的であった(p.35)」。そこで建武新政では天皇中心国家へ組み替える試みが行われた。つまり権門体制の否定である。ただ、「建武政権は、権門体制を克服し切るだけの条件と方針(p.39)」とを備えていなかった。室町幕府は、鎌倉幕府を踏襲して権門体制を継続させたが、応仁の乱が起こると諸権門は天皇家も含めて権門たる実を失ってしまい、荘園制とともに終了した。

このように、権門体制は院政から応仁の乱までの国家権力の在り方を表す概念である。なお、本編の目的は権門体制の提唱よりも、それを前提として中世の天皇がいかなるものだったかを述べることにあったと思われるが、天皇についての考察は意外にもやや簡素である。

II 鎌倉幕府論覚書」では、権門体制の見方で鎌倉幕府を位置づけている。

鎌倉幕府は国家と言えるか? と昔から議論されてきた。鎌倉幕府の支配地域は概ね東国に留まっていただけでなく、検断権や裁判権など国家機構の一部しか担っていなかった。何よりその時代も朝廷は存在したのであり、宣旨や除目などは朝廷が行っていた。こうした議論に対し、著者は「そもそも幕府は権門の一つと理解すべき」と、鎌倉幕府が国家と言えるか論に応えている。朝廷と幕府は二重政権として矛盾対立していたのではなく、「一つの安定的体制(p.53)」だったというのである。

公武の両者は、権門として対立しつつも相互補完的であった。そして、幕府が国政全般にわたる権力を行使する時には、つねに宣旨が出されていた。このように幕府には国家そのものとはいえない特質が認められる。「現実に国家として絶対にみとめられえないもの(=幕府)を国家として探求しはじめたところに、誤りがあった(p.61)」と著者はいう。そもそも、幕府は国家を樹立する気もなかったと著者は考える。そもそも幕府は、所領を維持するため、「その支配階級としての地位を国家権力機構によって保証されること(p.69)」を求めた。そのためには権門体制がもっとも好都合であった。すなわち、権門体制という基盤があったからこそ、鎌倉幕府という一見中途半端な政権が生まれた。しかし著者は幕府の意義を認めないというのではない。辺境の一地方の政権というのではなく、武家の棟梁として新しい権門を構成したところに幕府の意義がある。

また本稿には、こうした考察の副産物として、天皇の権威についての独特の見方が提示されている。各種の権門が併存しているために(著者は朝廷も権門の一つと見なす)、権門ごとのそれぞれの領域内で処理しきれない事象が存在する。幕府が全国的な指令を出すにあたって宣旨を求めたように、主従関係の外にある人々に何かを働きかける場合などだ。そんな時には天皇の権威が必要だった。つまり権門が独立しているからこそ、天皇でなくては処理できない領域が生まれるのである。権力の分散と分権の結果、かえって天皇が超越的権威として必要とされた。つまり天皇は国家権威のための権門として機能したのである。

III 鎌倉時代の国家機構—薪・大住両荘の争乱を中心に」では、二つの荘園間の紛争を通じて鎌倉時代の荘園の実態と国家権力の在り方について述べる。

本稿の目的は「鎌倉時代の国家が(中略)全体としていかなる階級的性格のものであったか(p.73)」を考察することである。冒頭で公武の身分的秩序、農民との関係などが議論の俎上に挙げられ、荘園制について考えるために衆徒・神人についてケーススタディがなされる。題材となるのは、嘉禎元年(1235)から翌年にわたって山城国の薪・大住両荘の紛争である。紛争が起こったのは「関東御成敗式目」発布直後、北条泰時の執権期間という鎌倉武家政治の典型期である。

本稿ではこの紛争がかなり詳しく追及されるが、ここでは大略のみ記す。まず、薪は石清水八幡宮領で、大住は興福寺領であった。ただし、薪の方が興福寺に近く、大住は石清水八幡宮に近かった。そして大住の中に、石清水領の飛び地である橘薗という場所があった。こうしたやや複雑な関係が紛争の背景にある。紛争の内容は用水相論である。まずは水の用益権をめぐって、両荘で殺し合いが起こった。これは領主である石清水八幡宮と興福寺に持ち込まれ、興福寺側の衆徒が大挙して薪荘を攻めた。これに対し石清水は八幡の神輿を持ち出して朝廷に強訴せんとし、摂政九条道家はそれを慰撫するため石清水に因幡国を寄進することととした。ここで面白いのは、興福寺と石清水の用水相論であるにもかかわらず、それと全く無関係な朝廷が因幡国を寄進することで幕引きを図ろうとしたことだ。

「八幡や興福寺の上層部はどちらかといえば神人や衆徒の動きに振りまわされており、神人や衆徒が神威・寺威を主張してさまざまな要求を出すことに困惑(p.91)」していた。朝廷や上層部は事態の収拾を図っていたが、現場の人々は納得せず、紛争は3度繰り返された。3度目の紛争では、神人でも住人でもないもの同士が殺し合いをした(薪方が大住方を殺害)。彼らは何者だったのか? 著者は、後の「悪党」のような浮浪的存在であったと見る。彼らは地元住民にやとわれたというより、彼らが火に油を注いでいたのかもしれない。だが、百姓や神人(農村上層部)がそうした存在を抱きかかえたことも事実だ。

騒動は興福寺衆徒による強訴へと展開する。興福寺の衆徒たちはついに神木を平等院に遺棄して退散した。彼らが求めたのは石清水別当・権別当の配流と下手人の断罪である。興福寺内部では、ことを大きくすることに消極的な興福寺別当や氏長者のいうことを聞かず、祠官を衆徒が押さえつけていた。そして朝廷は彼らの要求を受け入れざるを得ず、因幡国の停止さえも裁許された。この衆徒は、僧侶というより、荘官職を持つ武士的なものであったことはもちろんだ。だが彼らは寺内の規式に従って衆議によって集団的に行動してもいた。つまり、彼らは形式的には興福寺の機構の一員であるが、私的な権益の確保のためにその機構を利用していた。皮肉なことに、それが「いわゆる「古代的」機構が緩慢にしか解体しない理由(p.112)」であった。

権門体制の内部で、このような衆徒はどう位置付けられるだろうか? 彼らはことを荒立てて氏長者・別当を追い込み、妥協を難しくすることで自らの存在を主張した。もちろん、究極的には氏長者・別当に従わざるをえなかったが、ある面では主導権を得たのである。しかしながらそれは権門という機構の弱体化が避けられないものであった。

なお、この騒動で最も苦しい立場に立たされたのは当事者でもなんでもない摂政九条道家であった。そもそも、荘園間の小さな争いに最高権力者が振り回されることが権門体制の一つの特質を表していた。どんな小さな争いであれ、権門間の利害の調停は、権門を超える権威=超権門としての天皇・朝廷しかできなかったのである。

石清水別当・権別当の配流、下手人の断罪、因幡国の停止で事件は落着したはずだったが、実は朝廷はこれを裁許しただけで実施する気はなかった(!)。衆徒はだまされたのである。これで収まる衆徒ではなかったが、興福寺内部での抗争(つまり内ゲバ)があり、問題は興福寺のガバナンス全体に及んできた。ここで幕府が積極的に事態の収拾に乗り出し、結局幕府は衆徒鎮圧のため大和国に守護を置き、衆徒の知行する荘園を没収して地頭を設置した。大和国は興福寺が治めており、そこには守護・地頭は設置されていなかったのであるが、「幕府のこの未曽有の強硬措置に、やがて衆徒は屈服を余儀なくされた(p.126)」。騒動が収まったのちに、幕府の守護・地頭は停止されたが、ここで幕府が超権門的な(=国家のような)ふるまいをしたのは注目される。

そもそも、幕府はこの騒動には何の利害もなかったのに、なぜわざわざ鎮圧したのか。著者は「まさに権門体制の国家権力の一部としての役割を果たしていたことを示すものではなかろうか(p.131)」と述べる。紛争の調停を指示する幕府の文書は常に「御教書」という私的文書であり、それが効力を持つには宣旨を必要とした。ということは、「幕府が独自の国家権力をなしていたのでなく、権門体制国家のなかの最有力な権門の一つにすぎなかったこと(p.134)」をも示すのである。

IV 延暦寺衆徒と佐々木氏—鎌倉時代政治史の断章」では、延暦寺衆徒と佐々木氏との2つの紛争から権門体制の在り方について述べる。

本稿で取り上げられるのは、建久年間と嘉禎年間に起こった2つの紛争である。佐々木荘は延暦寺の千僧供備進の荘園であったが、建久年間の紛争はこれが未進であったことを発端として起こった。近江国守護でもあった佐々木定綱はその下司であった。衆徒側が未進を責めたものの、佐々木定綱の子はこれを撃退。これは義務を果たさなかった佐々木氏側に落ち度があった。興福寺衆徒はこれを強訴して訴えが認められ、定綱らは処分された。この過程において頼朝は定綱に同情的で、関東へ下向した叡山の使者を丁重にもてなし、定綱の減刑を求めて交渉した。なおこれが鎌倉幕府成立後のはじめての「僧兵」蜂起事件であった。

頼朝は、定綱の赦免後には近江国守護に復帰させ、本知行地を悉く返給した上加増して与えた。このように頼朝は定綱を保護していたのに、彼は終始その罪を認める態度をとらざるをえなかったところが面白い。この騒動を主導していたのは衆徒であったが、朝廷はもちろん延暦寺上層部もこうした騒動を好ましく思わず、ことを収めるように協議した。そして定綱の配流、その子の斬罪などの処分が行われた一方で、衆徒の方には何の処分もなかった。頼朝は私情を抑えて国家に忠実な態度を貫いたのである。

次の騒動は、嘉禎元年(1235)に起こった。佐々木高信(守護佐々木信綱の子)が、地頭として日吉社神人に所役を課したため、それを不服とする日吉社・延暦寺との闘争になったのである。この騒動で延暦寺座主尊性法親王が辞職。だが衆徒はこれも不服として神輿動座の挙に出た。朝廷は高信の処分を決定、一方幕府は双方の処分を求めた。衆徒としては幕府に反抗して騒動を拡大させたが、幕府は態度を緩めず、結果として双方が処罰されたものと思われる。このように幕府が衆徒に対して強く出ることができたのは、衆徒の側が一枚岩でなく、在地農民派・悪僧派・良識派(座主派)・武家加担派などに分裂していたという事情もあるが、先の建久年間の紛争とは政治的状況が違っていることも窺える。

例えば、この時には「公家・座主・幕府間において建久年間のときのように相互の意向を打診し協議する動きがほとんど窺われない(p.160)」。特に、朝廷は幕府の意向を確認せず、独自に裁断している。これは朝幕関係が悪くなっていたのではなくて「先例の確認があれば改めて相互に意向を打診する必要がないほどに、諸権門相互間の権限がかえって安定・定着の傾向をみせて(p.162)」いたためではないかと著者は考える。そして頼朝が佐々木定綱に温情を見せたような、個人的な(主従関係に基づく)配慮もない。諸権門間が一見相互の連絡折衝を欠いているように見える意味は、それぞれが国家において担うべき役割が明確化して、機械的な処理ができるようになっていたからではないのかというのである。

「V 建武政権の所領安堵政策—一同の法および徳政令の解釈を中心に」では、元弘元年(1333)に発布された「諸国一同安堵の宣旨(一同の法)」と翌年の徳政令について考察されるが、私は建武政権に疎く、正直あまり理解していない。よってメモは割愛する。

第2部

「VI 鎌倉仏教における一向専修と本地垂迹」では、一向専修と本地垂迹が基本的に対立関係にあったと述べる。

著者は一向専修を「多神観を前提としてそれを克服する論理の形式を意味する(p.192)」という。阿弥陀信仰は一神教的な性格が顕著であるが、しからばこれは本地垂迹の理論とはどういう関係になっていたのか。

民衆の間に広まっていた浄土教は、狂躁的・呪術的・群衆的なものだったと著者は考える。信仰の内容は雑然としていたが、教理の上では一向専修に整理されていった。

一方、本地垂迹説の方はどうか。『神道集』に収録された説話を見ると、東国の話の場合は「あからさまな付会が目立ち、しかも神々が説話の全面に出てしまって本地仏のことは申しわけ程度にしか記されていない(p.202)」。要するに本地垂迹の理論が形式的にしか適用されず、実際には神々を中心に見る意識があった。「『神道集』は最も大切な本地垂迹の原理について不可避的に矛盾に陥らざるを得なかった(p.205)」。そして本地垂迹は人間にまで適用された。人、神、仏が雑然と垂迹関係で結ばれ、「本地」の持つ意味が希薄になった。「つまり説話を吸収しようとしたために、神格と人格、神話と伝説(ないし歴史)とが縫合され、呪術と精霊とがそのまま宗教的に神秘化され(p.206)」た。仏教が持つ彼岸性が本地垂迹説によって後退したといえる。

このような前提の上で、著者は親鸞以降の一向専修と本地垂迹の関係を考え、特に異安心(異端)の教説に着目する。詳細は省くが、「本願誇り」などによって極端な思想が社会との軋轢を招くと、親鸞の後継者たちは神祇信仰と融和するような主張をするようになった。これは、専修念仏の教団が神祇信仰と徐々に妥協したことを示すとともに、親鸞の一向専修と本地垂迹には元来は原理的な対立があったことも示している。

ちなみに著者は本地垂迹へ大変厳しい評価を随所で下しており、例えば「本地垂迹の基本的な性格は、民衆のもつ奔放な願望としての没論理性を、思考を放棄する低俗な没論理性へ導くところの付会的な系譜論であり、もってあらゆる要素を支配秩序に組入れる荘園制反動勢力の論理であった(p.216)」という。要するに、民衆的な雑然とした伝説を都合よく支配者側の思想大系に組入れることができるのが本地垂迹の論理であったというのだ。

本地垂迹の説話に民衆世界を見るか、それとも支配者側の作為を見るかによってその評価は正反対なものになりそうである。

「VII 愚管抄と神皇正統記—中世の歴史観」では、『愚管抄』と『神皇正統記』に現れた歴史観について述べる。

本稿は意外なところから始まる。11世紀の初頭ごろから流行した、聖徳太子に仮託される「未来記」というものがある。これは僧徒らが制作した予言の書である。それは当初は仏教の将来について語るものだったが、やがて政治的な内容に発展した。「未来記は、結局一種の歴史叙述を形成した(p.223)」。また「軍記」は武士の武勇を記録するために書かれ、これも「中世全般をおおうに足る厖大な歴史叙述をのこし(p.224)」た。しかもそれは、無常とか世の変転を基調としながら、主体的に動く人間を描いていた。このように、未来記の予言的神秘主義の歴史観と、軍記の英雄叙事的な歴史観は、中世における対蹠的な関係を持っていた。

この関係は、慈円の『愚管抄』と『平家物語』の関係にも擬えられる。 慈円の目的は、「政治の「道理」を説くことにあった(p.228)」。その道理は、歴史の形而上学を思弁するようなものでなく、実証的な歴史の動きを記述することで浮かび上がるもので、その目的のため『愚管抄』のほとんどが仮名書きされたことも、日常語による歴史記述として画期的な意義がある。そこに書かれたことは、王法が次第に衰え、末法へおちくだるという苦難の歴史であった。そして慈円は、それは偶発的事件の連続ではなく宗教的法則の展開、すなわち必然であったとする。しかも彼のいう道理は、夢告による神秘的な霊感によって体得されたものであった。道理という合理的な響きとは裏腹に、その歴史観は宗教的なものなのである。 

著者は次に北畠親房の『神皇正統記』を俎上に載せるが、その前に神国思想について考察する。「中世の神国思想は、中世社会における伝統・慣習・先例などを尊重する意識と密接な関係(p.238)」があり、宗教的・歴史的意識を基盤とするものである。そして重要なことは、神国思想を刺激したのは、禅と念仏が神国たることを無視していた(と批判者たちが見なした)ことで、旧仏教を擁護する概念としても神国思想が機能していたということである。

『神皇正統記』の目的は、「皇統が正理に基づいて伝えられたことをのべる(p.242)」もので、それはもちろん南朝の正統性を主張することに繋がっていた。このために好都合だったのが、「皇室中心的な神代紀を「神書」としてせんさくしていた(p.244)」伊勢神道であった。こうして北畠親房は、「新たな宗教的歴史叙述の形をつくり上げた(p.248)」。それは「教理(ドグマ)に照らして歴史を把握する(同)」ものであった。これは『愚管抄』の立場と似てはいるが、ドグマが固定的であるため歴史の動きが否定され、非歴史的となってしまった。

彼の皇統論は当時必ずしも大きな影響力を持ったとは言えないが、当時最大の精神的支柱であった思想「神国思想」に基づいた歴史であったたために、「封建社会が絶対主義に傾斜しはじめたとき、復活することとなった(p.251)」。 

「VIII 中世国家と神国思想」では、神国思想とは何かを様々な観点から考究している。

未だ神国思想の「学問的把握への設計図さえ提示されていない(p.255)」と著者は言う。神国思想には政治的性格が濃厚であるが、その政治性は強調されすぎたきらいがある。むしろ「神国思想を日本の中世宗教史に位置づけて理解する(p.256)」方が適切ではないか。

まず、神国思想の基盤として、「神祇不拝」「諸神軽侮」など言われた一連の運動があった。専修念仏運動では阿弥陀仏への絶対的帰依から、神祇不拝が言われるようになった。法然や親鸞がみずから神祇不拝を説いていたかどうかは確かではないが、彼らが神祇崇拝を重視しなかったことは確かで、神祇不拝を助長した。教団への攻撃を避けるべく、真宗の指導者たちは神祇への軽侮を誡めていたが、それは専修念仏に神祇不拝の態度が内在していたことを示している。

しかしながら、社会全体としては神祇崇拝が当然だったのはいうまでもない。特に農村では領主制と神祇崇拝が結びついていた。

また神国思想では、「日本は神が護っている国だから、敵国に侵略されることがない」とされる。これは蒙古襲来以前から言われており、国土を神聖なものとみなす観念である。では実際に蒙古襲来の時に武士は神国思想を抱いていたか。どうやら「武士が神国の意識をもって合戦に臨んだとすべき資料は、存在しないといってよい(p.273)」。にもかかわらず「神風」は吹いた。これによって「神明の威徳」「神祇の冥助」は明らかだとされ、引いては天皇の権威が観念的に高まっていくのである。

神国思想は、本地垂迹説と相即する。それは現世を賛美するものだからである。一方、専修念仏は、現世を穢土として否定し、浄土を目指すのであるからこれと基本的に相反する。が、14世紀にはいって、覚如・存覚の時に神国思想と本地垂迹説が真宗に持ち込まれた。これでは一向専修の論理が「骨抜き(p.278)」になってしまう。それは、神祇不拝の激発を防止するためだったのではないか、というのが著者の考えだ。それに、真宗では現世の規範などはなんら宗教的に与えられていなかったから、「現世擁護の神は、かくて必然的に要求され(p.283)」た。これは「浄土教の盲点(同)」であった。

真宗ですら神国思想を承認したことは、この時代「神国思想がすべての宗派に不可避的な力でおおいかぶさっていた(p.279)」ことの証左である。それは社会の封建化に伴うものであった。現世擁護を基調とする神国思想は封建領主と封建イデオロギーにとって都合がよかった。それは、超越者によって領主を相対化するのではなく、現世の在り方そのものを承認する思想であった。

では神国というときの「神」は誰なのか。もちろん天照大神のような神は中心的存在であったが、民衆世界には雑多な神々が祀られており、仏教では位置づけられないそれらの雑多なものを整理するため、当時は権社・実社の区別が行われていた。 だが権実の枠組みも空論になりかけたころ、いわゆる神本仏迹説が起こった。そして『唯一神道名法集』では、「神は、(中略)もはや神話や呪術の神々ではなく、汎神論的な霊物でもなく、唯一最高の絶対的造化神に昇華するいきおいをしめ(p.291)」している。

 一方、神国と浄土の関係はどうか。日本の国土が神々に守護された楽園なのだとすれば、後生に浄土を願う必要はないではないか。しかもその神々は、本地垂迹説によれば仏の化身であって、神国は仏国土でもあるのである。つまり、神国思想では「現世こそ浄土(p.299)」であった。神国思想は、浄土を否定するのではなく、現世を浄土として位置づけなおしたのである。

現世が神によって支配されるものだとすれば、人々はその支配にどう服すべきか。しかし神道には数々の禁忌はあっても教理や一貫した信条はない。「三種の神器」を持つ神の代理人である天皇の支配を受け入れる他ないのである。その非論理性に対し、神道書ではいつでも「神道のこと測り難し(p.303)」の言葉に逃避した。

神国思想を前提とすれば、その国家観念は極めて現状肯定的なものになる。慈円は神器の意味づけを通じて国家を密教の論理から把握し、本地垂迹説によって神と仏が無条件に接続されたことで、日本を仏教的=神道的な宗教国家として観念した。そして慈円は、国家の衰微や武家の世の到来を嘆きながらもそれを宗教的な「道理」として受け入れた。彼は「神国」とは言わなかったが、明らかに「神国思想と同内容の中世的国家観念(p.310)」を持っていた。

「我ガ朝ハ、神国也(頼朝)」は、当時の共通認識であるが、その神は元来は天皇ではなく、伊勢その他の諸社に祀られた神を示していた。しかし神国である以上、天皇は神格化されずにはおれない。特に幕府の伸長によって天皇が政治的実権を失ったこと、さらには神器が注目されることで、天皇は都合のよい宗教的権威として尊崇されることになった。

しかし神国思想は実態としては政治イデオロギーであるため、政治的な立場によって逆の結論が導き得る。典型的には南朝と北朝の対立がそれである。そして現世肯定的な思想は、農民の生活改善には何ら後ろ盾にならない。また一貫した教説を持たないことはその思想に多くの矛盾を内包した。しかしながら「本質的に対立する理論が成長して反抗運動を展開するまでの条件はなかった(p.323)」。

応仁の乱後、社会の在り方は大きく変わり、大名領国制へと転換したが、神国思想は存続した。「神国思想は一貫してつねに封建支配者の教説で(中略)かつて一度も民衆を解放する運動の合言葉にはなったことがない(p.327)」からだ。

これまでの説明で明らかな通り、著者は神国思想を思想としては全く評価しない。もちろん、神国思想は国家神道の淵源でもあったのだから、当時の雰囲気としても同様であっただろう。では思想として力がなかったのか、というとそうではなく、中世的な国家観念の核として機能したのが神国思想であり、当時の人が広く共有していたのが神国思想であった。だが著者は「神国思想は、みずからがなしくずしの不徹底な中世宗教であったばかりでなく、純粋な中世的宗教の発展を抑圧し、挫折させ、あるいは混濁させたのである(p.330)」とまでいう。

これを自分なりの言葉でいえば、国土の観念と宗教が一体化したことにより、本来は宗教が担うべき「聖なるもの」の観念を「国土」そのものが代替してしまった、ということになると思う。その意味で、神国思想は既存の宗教をある面で骨抜きにする論理だったのである。

「IX 一向一揆の政治理念—「仏法領」について」 では、仏法領に注目することで中世的宗教の在り方について考察している。

「仏法領」とは、蓮如の言葉に出てくる概念で、「仏法が支配する領域」といった意味である。それを著者は「世俗領主が所領・領国をめぐって争乱をつづけているなかにあって、かかる世俗的方法によらない信心者の集団の世界=「領」を意味するものであった(p.334)」としている。

蓮如の描く仏法領はユートピア的である。「世間には物も食すして寒かる者も多きに、食たきままに食て着たきままに物を着る事は聖人の御恩なり(p.338)」という。仏に全てを任せ、仏の絶対支配下の領域に入ることで、来世の浄土ではない「現世の仏世界」にゆけるという。これは、神国思想とパラレルなものであるように思われる。

来は来世での救済のみを企図していた親鸞の教団は、成長するに従って現世的な秩序を指向するようになった。そして親鸞は非僧非俗を標榜して戒律も守らなかったが、現世的な秩序のために事実上戒律が形成されていった。そしてその象徴が、現世での楽園であると同時に仏が支配する仏法領という観念なのである。

「X 中世の身分制と卑賤観念」では、中世の身分とはどのような観念であったかが検討される。

著者は中世の身分には4つの系列があったとする。第1には村落。ここでは「住人・村人」と流動的な層の「間人(もうと)」がある。第2には荘園・公領。「本家・領家・知行主・国主」「荘官・在庁・地頭」「本百姓・小百姓」「下人」などである。第3に権門の家産支配秩序。これには公家・武家・寺社などがそれぞれ身分秩序を定めていた。第4に国家体制に基づくもの。「帝王」「臣下」「諸大夫・官人」そして「平民」「奴婢」といったものである。

これらは別の系列をなしていたが、それをまとめると(1)王家・摂籙家、(2)司・侍、(3)百姓、(4)下人、(5)非人の5つに集約できる。これらが「身分」であるというのは、「「種」すなわち出生の別による「人間の品」(p.361)」と考えられたことによる。

では、先ほどの4系統に亘る多様な立場が、全て生まれながらの身分と固定化していたのかどうか。例えば寺社のそれは生まれながらの身分であるとは認められない。なぜなら僧侶の妻帯は戒律に違反していたからだ。しかしながら、社会的分業という意味では両者は同様に捉えられていた。

というわけで、例えば『普通唱導集』という史料では、職業・身分・階級関係などを2つの軸で四象限に分類している。それは「聖霊」と「芸能」という軸と「世間部」と「出世間部」という軸だ。例えば
聖霊の世間部:「天子」「主君」「養父」「子息」など
聖霊の出世間部:「僧正」「僧綱」「師範」「禅門」など
芸能の世間部:「武士」「歌人」「陰陽師」「巫女」「鍛冶」「瓦造」「博打」など
芸能の出世間部:「説経師」「律僧」「禅僧」「真言宗」など
である。

すなわち、尊卑の観念を考察するためには、「国家秩序に基づく身分(階級的身分)」と「社会的分業による身分(芸能的身分)」の2つを考える必要がある。そしてこの2つは多くの領域で重なって細かな身分を成立させたが、重ならない領域があった。つまり、芸能的身分のうち、「公事ではありえないもの」を担う人々で、「国家秩序に基づく身分」を持ち得なかったもの、がそれである。具体的には、商人・都市遊民・非人・乞食・遊女などである。ごく大雑把に言えば、体制内に位置づけられない人々がそれであった。

似て非なるものが「下人」である。彼らは特定の芸能を持たないが、主人に従属している存在であるから体制内の存在であることは明らかだ。「下人」が実態として「農奴」「奴婢」であったとしても、身分の上では非人などとは全然違うのである。

まずこのように身分の概念を整理してから、著者はこうした身分の特質を考察する。キーになるのが非人である。先述の通り非人は身分外の身分であるが、具体的にはどのような人々であったか。第1に、乞食や濫僧(乞食法師)などの貧者・廃疾者、第2に唱聞師・絵解き・傀儡子師など遊芸の人々(ただし、遊芸の人々は当時の史料では非人とされておらず狭義の非人ではない)、第3にキヨメ・河原者・ヱッタといわれた人たちである。

なお、高弁が「非人高弁」と自署したように、聖も体制から離脱した人たちであり、自覚的に非人と位置づけていたようである。「非人身分は、階級的な搾取関係を固定するために成立した身分ではない(p.385)」。とはいえ、全ての非人が体制から自由であったのでもなく(!)、散所非人や犬神人は、不浄な雑用のために使役されるべく支配秩序に組み込まれていた。キヨメなどもそうである。

日本の場合は、人種や種族に基づく差別はなかったのであるが、特定の芸能(死体の片付け、屠殺等)に基づく不浄視が種姓観念の確立に重要な役割を果たした。つまり、前世での宿業によって不浄な仕事をしなければならない境遇に陥ったのだ、という理解が、生まれながらの身分(種姓)観念の基盤となったという。

このような「中世の身分制は、ほぼ14世紀を境に異なった様相をみせはじめる(p.393)」。守護にしても国人層にしても、荘園制を否定はしなかったため、その支配のための身分秩序を否認することはなかったが、旧来の権門が退潮したことで階級的身分の枠組みが薄くなり、芸能的身分が濃厚になっていったのである。そして「惣」的結合が強固なものとなって村落共同体から外れた存在が賤視されるようになった。

さらに、非人集団を支配体制に組み入れる動きもあり(東寺の散所や大和の唱聞師)、元来は体制外の身分であった非人が、体制によって固定化され、差別が強化されていった。これは「個別人格支配による隷属関係でなく、中世にもましてはるかに徹底した総体的・階層的支配(p.397)」であり、「「穢多・非人」については、もはや社会的に自然発生的な体制外の存在などでは絶対になく、政策的に体制内に組み込まれ設定されそして固定された身分となったのである(同)」。

※本稿には「非人」の語義についてポルトガル人の辞書を参考に考察した「[付説]「七乞食」と芸能—ポルトガル人の日本語文典における部落史資料」が付されているがこれのメモは割愛する。

第3部

第3部は「XI 中世における顕密体制の展開」という書き下ろし論文のみで構成される。これは5つのパートに分かれており、本書の約5分の1を占めている。顕密体制とは「日本中世において正統的とみなされた宗教の独特のありかたを意味する概念(p.413)」であり、本稿は顕密体制の展開を見ることによって「日本中世の国家と宗教との関係の基本構造(同)」を考察することを目的としている。

「1 顕密体制の成立」では、顕密体制の成立過程について述べている。律令制古代国家の崩壊にともなって、国家とは何か、どうあるべきかという問いが為政者のみならず百姓にまで突きつけられた。

ここでは意外なことに、民衆の側の宗教意識が『日本霊異記』を題材にして読み解かれる。これは庶民の宗教的欲求をいくらか反映している。さらに9世紀の天台宗と真言宗にいたっては「豪民以下の地方庶民の要求に適合的であったことは確か(p.428)」である。そして彼らが喧伝した密教は、「全宗教の包摂あるいは統合(p.432)」を企図していた。日本人の宗教意識は密教を究極の原理として統合され、上は天皇から下は民衆までの需要に応えたのである。それは単なる呪術ではなく、「国土と人民とを鎮護する大乗仏教の理想(p.435)」にまで高められていた。 

続く10世紀には浄土教が発達した。 「貴族層の耽美的な観想の念仏と庶民の呪術的・狂躁的な念仏(p.436)」は対蹠的なものであったが、これには共通の基盤があったと理解した方がよい。著者は貴族と庶民を対立的に捉えるのではなく、むしろ宗教観念において共通するものがあったと見なす(「観想の念仏についても庶民的呪術的な「郷里の念仏」との異質性において特色づけたのでは、反って全般の動向を的確に把握できないのでなかろうか(p.439)」)。

そして念仏を基軸にして体制外に飛び出した宗教者「聖」の盛行も、「密教によって統合された宗教思想の一種として念仏が成熟したことを意味する(p.440)」という。国家的な仏教と決別して民衆に念仏を説いた聖たちは、一見、国家的仏教へのアンチテーゼのように見えるが、そうではなく、国家外にも密教や念仏といった宗教概念が確立していた証左だというのである。 

一方、顕教と密教は対立するかのように捉えられていたが、天台宗の主導的活躍により「顕密の一致・円融あるいは相互依存的な併存を最も妥当なものとみなす体制(p.442)」となった。それは教理的に整理されたというばかりでなく、民衆まで含めて国家全体で共有されたイデロギーとみなせるのである。これが著者のいう顕密体制である。

顕密体制では、「第一に、鎮魂呪術的基盤の上に密教による全宗教の統合が行われ、第二に、その上に各宗固有の教理や顕密融合についての種々の教説および各流派の密教的作法が成立し、第三に、そうした集団としての各宗(八宗)が世俗社会からその正当性を公認され一種の宗教的秩序を形成していた(p.445)」。

顕密体制が「正統的」というのは、国家によって承認されていたことはもちろんだが、それは国家権力によって承認されていたために「正統的」であったのではなく、民衆的基盤の上に正統的立場を獲得したというのが著者の考えのようである。

「2 王法と仏法—権門体制の宗教的特質」では、 王法と仏法の相依関係について述べる。

著者がその糸口とするのは、またしても意外なことに本地垂迹説である。「本地垂迹説が11-12世紀に急激に進展し新たな段階を劃したのは、以上のように荘園制支配の集中的な組織とそれを根幹とした政治・流通・通交・文化伝播などの諸交通形態の成立と密接な関係にあったものとみられる(p.452)」という。日本の各地にいる神々が本来は仏であるなら、地方—神—仏—国家というように、日本全体の国土をひとつの国家として統合することができる。

特に、権門勢家は実力(武力とか行政)よりも権威によって権門でありえたので、その権威は極めて観念的なものであった。そこに、権門体制において権門が宗教と結びつく蓋然性があった。そしてその頂点に位置する国家・天皇は、超権門的でなければならないために一層の権威性・宗教性が求められ、帝徳論や神器論によって神秘化された至高性が理論化された。

一方、鎌倉幕府は新興の権門であったために、伊勢・八幡など国家の宗廟神への崇敬の姿勢をはっきりと示し、「日本国総守護職」としての立場を顕揚した。

これらの事例からいえることは、朝廷や幕府は、それ自身が国家として不完全であったために、宗教的国家観念に寄生することで存在を補強したということだ。白河法皇が「王法は如来の付属に依て国王興隆す(p.464)」と述べるように、国家の究極の目的を「仏法流布」であると自ら規定することで国家の正当性を保証しえた。王法・仏法は相互に依存関係にあったが、「理念的・論理的には仏教が原理的な位置を占めてさえいた(p.465)」。

しかし、仏法の方は、国家とは違って一枚岩ではなく八宗や神祇信仰まで含めた「顕密主義」と表現すべき存在であった。よって唯一の正統的な宗教・教義が確立するということがなく、むしろ国王がもつ伝統的・宗教的権威が優越した。よって、仏教が原理的な位置を占めながら、「諸宗・諸寺院の貫主についての叙任権がいつも国王の側にあった(p.467)」のは一種の倒錯である。

「3 仏教革新運動—異端=改革運動の展開」では、 いわゆる鎌倉仏教を「異端=改革運動」と位置づける新しい見方を提示している。

従来、鎌倉仏教はあたかも当時の中心的な宗教運動であると見なされてきたのだが、著者は顕密主義こそが正統的地位にあり、それに対する改革運動こそが鎌倉仏教だったという。

その証拠に、仏教改革運動は「すべての段階でつねに、顕密主義と対峙しつつ展開した(p.480)」。彼らが挑む必要があったのが、正統的地位にある顕密仏教であり、それが攻撃目標となった。 彼らは密教の呪術性や現実肯定主義を克服し、個人の信仰と実践を重視した。そして顕密主義の総合性をなげうち、むしろもっとも時機相応の、もっともすぐれた(と彼らが考えた)方法を専修することで仏法本来の理想に立ち帰ろうとしたのである。

そしてその戦いは、王法と仏法が相依しているがゆえに、自然と国家権力と対決するものとなった。それは、民衆が国家によって一方的に支配されるのであなく、徐々に自立的な存在へと変貌していく中で、民衆の側の論理として成長していったのである。しかしながら、国家は異端=改革運動を弾圧はしたが、教義上の論争に介入したり、特定宗派を弾圧したりするということはしなかった。国家は、宗教を自らの管理下におこうという発想はなかったのである。

13世紀の後半になると、「顕密体制の体制的統制力は弛緩しはじめ(p.502)」、顕密仏教の内部も衆徒の横暴など頽廃の度を強めた。一方の異端=改革運動も、単純な反顕密主義ではなく、「正統=顕密主義との葛藤のなかではるかに複雑な経緯をたど(同)」った。様々な思想が入り乱れたのである。だが異端=改革運動の元来の性格から、それは「宗教改革」を指向するものであり、民衆的な抵抗運動と結びつく必然性があった。一向一揆によって「顕密体制が終末をつげる条件をつくったのも、ゆえなしとしない(p.503)」。

「4 中世の神国思想—国家意識と国際感覚」では、中世の神国思想が顕密主義に本来的な固有のものであったことを述べる。

平安末期から鎌倉中期にかけて「神祇についての人々の関心がなにか特別のたかまりをみせた(p.511)」。その理由を、著者は伊勢神道をケーススタディとして探っている。伊勢神道では心が一種の神であるとか(心神ハ則天地之本基)、神の基本的特性として「清浄」があるとか、あるいは正直の重視といったことを、儒家や五行説などを借りて主張した。そこには本覚思想の影響が濃厚である。つまり本覚思想が伊勢神宮に適用されたことで生まれたのが伊勢神道ではなかろうか。 

仏教と神道は元来は別物であったが、顕密主義ではそれが一つに統合されていた。しかし神道の側が仏教理論を適用することで、神道の方がより根源的な位置にあるのだと主張するようになった。「要するに神道は天地未分の混沌=本源のものであり、仏法はその後の我相憍慢の猥りな心の段階のものだ(p.520)」というのである。ここで注意すべきは、神道は仏教から独立したがっていたというのではなく、神仏が統合された世界において、神の方がより上位にあるのだと主張したということだ。もちろん、伊勢では仏法を忌むとされ、神仏を峻別する儀礼は存在していたのであるが、それは人々にとって不可思議なことであり、当の伊勢の神官たちも仏法を否定しようとはしていなかったのである。

このような神道説の盛り上がりの中、国土そのものを神聖視する神国の観念が成長していった。面白いのは、仏教の異端=改革運動が展開する中で、並行的に神国思想が強調されるようになったことだ。つまり神国思想は、旧体制を維持するための、支配者にとって都合のよい政治的・宗教的イデオロギーであった。それは蒙古襲来によって盛んになったというより、体制の弛緩を押し止めるために支配の正統性を補強する必要があったことによる。「つまり、神国思想は、都鄙民衆の素朴な寿祝的な神祇崇拝を「天下太平、国家安穏」という国家と権力の鑽仰へと結集するあからさまな国家イデオロギー(p.538)」となって、密教に変わる立場を占めるようになるのである。すなわち、現状肯定の思想が本覚思想→神国思想として発展し、「封建支配の反動イデオロギーの切り札(同)」になったのであった。

「5 日本思想史における顕密主義—歴史的展望」では、顕密体制/顕密主義の終わりについて述べる。

先述の通り、顕密体制/顕密主義は国家体制と相依するものであったために、体制の変革によって終わりを告げる運命にあった。また顕密主義の内部においても、天台・真言宗の堕落、禅・律諸派の興隆、禅宗の発展などによる変化が起こっていた。最終的に顕密体制が崩壊することになったのは、一向一揆・法華一揆・きりしたん一揆などである。これらの農民一揆において、その理念として宗教が掲げられ、王法と宗教とは別次元のものだという発想で運動が展開したことが重要なのである。これは王法・仏法の相依という顕密主義を真っ向から否定するものであった。

またここで留意すべきなのは、一見、仏法を貶める見方をしていた唯一神道が顕密主義の枠を出るものではなかったということだ。

近世になると、幕藩権力はあきらかに宗教を統制下におき、また仏教との絶縁を主張する神道が創唱された。顕密主義/顕密体制は、名実ともに終了したのである。

私なりに顕密体制を一言でまとめると、「国家の前に、国家的宗教があった」ということになる。不完全な国家(権門体制)は、図らずも成長していた「国家的宗教」を取り込むことで国家であることを仮構したのである。 

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本書は全体として、どう歴史を見るか? どういう枠組みで歴史を理解するか? ということに強くこだわっている。

権門体制論にしろ、顕密体制論にしろ、歴史への見方・把握の枠組みを大きく変更するものである。そしてその論理は非常に特徴的だ。例えば、ある史料を提示して「この史料は、従来の見方では解釈できない」として新たな見方を提示するのが普通の歴史学であろう。ところが著者は、論文の冒頭で「こういう見方で歴史を把握してみることにする」と宣言する。

そして、その見方によって旧知の事項を徐々に整理していく。新しい史料を発掘して歴史の新事実を明らかにするのではなくて、旧知の事項を新しい見方で整理することで生みだされたのが「黒田史学」であると感じた。

この方法論は必然的に、具体的な史料や細かい歴史的事実の記述へと向かいにくい。つまり、文明史論的な大づかみの論理が中心となる。だから一見、難解な一次史料にあたる場面が少ないから初学者にもとっつきやすく感じるのだが、実際には咀嚼するのが難しいのが本書である。なぜなら、「旧知の事項の整理の仕方」にこそ著者の独創性があるからである。私自身、このメモを書きながら、なんとかその独創性に肉薄しようとしたのだが、どこまでそれが理解できたのか心もとない。業界では最重要の歴史家でありながら、黒田俊雄が一般にはほとんど認知されていない理由が分かった気がする。

中世社会への見方を一変させた記念碑的論文集。

【関連書籍の読書メモ】
『日本の歴史 (8) 蒙古襲来』黒田 俊雄 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/8.html
蒙古襲来からの鎌倉幕府の滅亡までを描く。蒙古襲来を起点として鎌倉末期の諸相を描いた良書。神国思想についての記述があるが、本書は黒田が若いときの作品であるためその見方は少し異なる。

『王法と仏法—中世史の構図』黒田 俊雄 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/12/blog-post_10.html
仏教をキーにして中世社会を考察する論文集。やや専門的だが、今なお日本中世の社会の見方を再考させる力を持った論文集。 

『寺社勢力—もう一つの中世社会』黒田 俊雄 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/blog-post_13.html
中世における寺社勢力の勃興と衰退を述べる。中世の申し子とも言える寺社勢力を通じて当時の社会の内実を考えさせる良書。

『日本中世の社会と仏教』平 雅行 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/01/blog-post_19.html
顕密仏教と浄土教を考える論文集。専修念仏教団と顕密仏教の関係を詳細に明らかにした労作。顕密体制論をさらに精緻化している。

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