2022年1月15日土曜日

『明治留守政府』笠原 英彦 著

明治留守政府の混乱した政治を描く。

明治4年11月から6年9月まで、岩倉使節団が洋行する。この間に国政を預かったのが留守政府である。岩倉使節団には政府首脳がゴッソリと入っていたから、留守政府は政権運営に苦労することになった。なにしろ明治政府は稼働して僅かな時間しか経っておらず一枚岩ではなかったし、その上廃藩置県を断行した直後だったのである。

岩倉使節団と留守政府の間は、留守中の政治について「12箇条の約定」を交わしていたが、そこには「新しい改革は進めないように」 とする文言と「準備してきた改革は進めるように」という矛盾する文言が含まれており、留守政府内ではこの解釈の相違も相俟って混乱がもたらされるのである(ちなみに本書には「12箇条の約定」の全文が掲載されていないのが不便だった)。

そして、それと同時に、留守政府が混乱したのは「太政官三院制」というもののせいであると著者は見る。これは廃藩置県に後に行われた政府の機構改革によって生まれたものだ。元々の太政官制では諸省を統べるものとして太政官が置かれていたが、ここに意志決定機構である「正院」「左院」「右院」を置いたのである。

「正院」は太政大臣、左・右大臣、参議で構成する最高意志決定機関である。「左院」は議長、副議長、議官で構成する立法諮問機関、「右院」は各省の卿、大輔で構成する行政機関であった。そしてこの下に太政官とその下の各省が置かれた。本書ではこの体制に「矛盾」があったしているが、どこがどう矛盾していたのかは曖昧な記述である。

ただ、今の体制になぞらえれば、「左院」は内閣法制局、「右院」は内閣に相当するわけであるが、最高意志決定機関である「正院」が内閣から浮いた存在であった、ということは制度の欠陥と見なせるであろう。「正院」には、具体的な行政を所管している責任者が誰一人メンバーに入っていなかったのである。

そしてさらにこの体制の欠陥は、各省の利害が対立した場合に、それを調停する仕組みがなかったことである。今の体制では、予算は国会で審議するし、それでなくても閣議があって、重要事項は閣議決定を経なければならない。しかし「太政官三院制」においては、どうやら今の閣議決定にあたる決裁を経なくても、各省が独自に施策を実行することが可能であった。そのため各省は急進的な施策を矢継ぎ早に実施することとなった。

また、留守政府の混乱には、大蔵省の在り方も一役買っていた。岩倉使節団の出発前には、民部省が大蔵省に合併されるという改革が行われ、巨大化した大蔵省のトップ(卿)には大久保利通が就任した。この人事にはいろいろ裏があったらしい。大蔵省は基本的に長州閥が幅をきかせていたが、そこに薩摩閥の大久保が据えられたのはなぜか。木戸孝允は他の人事面で大久保の意向を尊重する代わりに、逆に大蔵卿に大久保を据えることで大久保を牽制しようとしたのではないか、というのが著者の考えのようだ。

ともかくも、巨大化した大蔵省は大久保の手に余るものであった。今でいうと、総務省(地方行政、郵便行政)、法務省(戸籍)、経済産業省、国税庁、財務省を合わせたのがこの頃の大蔵省である。国政の7割は大蔵省が担っていたという。しかも、留守政府は極度の財源不足に見舞われていた。この頃、予算の約4割が華士族への賞典・秩禄の支払いに充てられており、身動きが取れなくなっていたのである。大久保は省内で微妙な立場に居続けるより、いっそ洋行して不在にしていた方がうまくいくと考え、責任放棄して岩倉使節団に参加するのである。

では大久保が離れた大蔵省がスムーズに運営されたかというと、案の定うまくは行かなかった。大蔵省は各省からの予算要求に応えることができず、予算協議は紛糾した。不思議なことに、大蔵省は非常に大きな所掌を持っていたが、どうやら立場は弱かったらしい。大蔵省は、各省から予算をくれと突き上げられていたように見える。所掌は大きかったがそれに見合う権限は与えられていなかったのだろうか。本書には詳らかでない。

本書はこうした混乱を主に派閥の対立の構図から描いているが、何について対立していたのか、という政策面の記述は薄く具体性に欠けると感じた。

ともかく、留守政府のガバナンスは散々であったことは間違いない。ところが、このだらしない政府の下で開明的施策がどんどん実現していくのである。封建的身分制の廃止、徴兵制の実施、田畑の売買の自由化(地券制度)、地租改正、全国戸籍調査、学制の頒布、太陽暦の採用、国立銀行の創設などといった近代化施策が留守政府の手によって実現された。毛利敏彦は「これほどの仕事をした政府は史上にも稀であった」と評している。

これをどう考えたらいいのか。一つには、薩摩と長州が冷戦的なかけひきをしている中で、開明派の肥前閥が国政実務を担うことになったという理由がある。肥前といえば、近代化制度について超人的嗅覚を有し司法卿として司法制度の確立に心血を注いだ江藤新平、文部卿として学制頒布を実施した大木喬任、外務卿として台湾問題を処理した副島種臣、そして参議の大隈重信がいた。8名の省卿のうち半分の4名を肥前出身者が占めていたのである。

そしてもう一つ、本書を読みながら思ったのは、ガバナンスがない方がむしろキチンとした仕事ができるという日本人の気質があるのではないか、ということだ。どうも今の社会から推して考えれば、この頃の「政治不在」の状況は、かえって開明派官僚にとってやりやすい状態だったのかもしれない。

しかしながら、政府としての統制が取れない状況は、特に予算配分など各省の利害を調停する必要がある場面では不都合である。そこで明治6年5月(つまり岩倉使節団帰国直前)には、太政官三院制の「潤色」(と言う名の改革)が行われる。「潤色」というのは、「12箇条の約定」において改革が停止されていたためこういう呼び方がされている。この「潤色」では、あまり機能していなかった「左院」「右院」は事実上棚上げされ、権限を「正院」に集中した。これには新たに参議に就任した江藤新平の寄与があったのではないかという。

しかしこの改革の翌日、井上馨と渋沢栄一(共に大蔵省)は辞表を提出する。この「潤色」が強大すぎる大蔵省を統制下に置く意味があったことは明瞭であるが、一方で「正院」には省卿が参加しておらず実務と切り離されていたという本質的欠陥がそのままになっていたことも否めない。結局、留守政府は政治的混乱を解決できないまま終局へ向かった。

ところで、留守政府の首脳でありながら、イマイチ働きが明確でないのが西郷隆盛である。彼は「島津久光問題」(久光が明治政府+西郷・大久保と敵対していた問題)を抱えていたという事情があるにせよ、留守政府で目立った働きをしていないというのは不思議だ。しかも派閥間の闘争にも超然としているように見える。留守政府における西郷の立場は謎めいていると感じた。

本書は最後に附論として「太政官三院制に関する覚書」という論文が収録されており、本書全体はこれを一般向けにかみ砕いて説明したものという印象を受ける。しかし先述のとおり、具体性に欠ける記述が散見されかえって分かりづらい感じがした。附論の論文の方がわかりやすいと思う。また、政治的対立をテーマにしているため、留守政府が何をしたのかという記述が少なく、その点でも不十分な印象を持った。例えば徴兵制、太陽暦の導入、国立銀行の設立などは本書には全く出てこない。

また留守政府において大蔵省を揺るがした「山城屋和助事件」「尾去沢銅山事件」「小野組転籍事件」なども全く記述されないが、これなどは政争にも影響を及ぼした事件であり記載した方がいいと思った。

留守政府について述べる一般書としては貴重だが、政争というテーマがやや上滑りした印象がある本。

【関連書籍の読書メモ】
『明治六年政変』毛利 敏彦 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/03/blog-post_21.html
いわゆる「征韓論」の虚構を暴き、その真相を究明する本。明治六年の政界を実証的に解明した名著。

 『江藤新平—急進的改革者の悲劇』毛利 敏彦 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/09/blog-post_22.html
江藤新平の驚くべき先見的業績を通観する本。時代を先んじた江藤新平の悲劇によって、維新後の日本が向かう暗闇さえ幽かに感じさせる良書。

2022年1月10日月曜日

『天皇と戸籍』遠藤 正敬 著

天皇と戸籍の関わりについて述べる本。

天皇は「日本人」だろうか? 多くの人はそんなもの当たり前だろ! と思うかも知れない。私もそう思っていた。ところが、「日本人」を「日本国籍を持つ人」と言い換えるとこれが怪しくなる。「日本国籍」というのは「日本の戸籍に登録された人」ということになるが、天皇(と皇族)は戸籍を持っていないからである。(ついでにいえば天皇はパスポートも持っていない)

皇族の場合は「皇統譜」というものが戸籍の役割を果たす。これは、戸籍と似たような機能を持つものであるし、事実皇統府と戸籍は同様の思想の下に作られているが様々な違いもある。本書は、皇族のライフイベントが皇統譜でどのように扱われるのかという様々なケーススタディを通じて、その思想をあぶり出すものである。

そもそも戸籍の元となる民法は、明治から戦前までと戦後で大きく変わっており、それは皇室の扱いについても同じである。よって本書では、旧制度ではこう、新制度ではこう、と対置するような書き方で説明している(時系列的な書き方ではないということ)。なお皇室の場合は、江戸時代までと明治民法でもかなり扱いは変わっているので、明治前の説明も追加されている。

ところで、戦前・戦後で制度が大きく変更されているのは確かなことながら、やはり変わらないものもある。例えば氏(名字)の扱いや、続柄を戸籍に記入すること、といったことだ。特に続柄は、家制度が廃止され家督相続といったものがなくなった以上、記入することには何の意味もないにもかかわらず存続しているものだ。続柄は、家族の成員を戸主を頂点として序列化する仕組みであったが、その残滓は意識されぬまま戸籍に反映しているのである。

一方、続柄や家父長主義については、皇統譜においては全く無くなっていない。それは、男系相続による「万世一系」が重要であった天皇家の場合は当然のことともいえるし、皇位継承の順序を明解にする意味でも続柄は意味がある。このような皇族における「籍」の在り方が、国民の戸籍にも強く影響しているというのが著者の考えだ。

ところで、「戸籍」と「皇統譜」には決定的な違いがある。それは戸籍は基本的に届出主義で明治以降の情報が対象になっているのに対し、皇統譜は過去の天皇の系譜全てを対象としているということである。つまり皇統譜は戸籍と違って天皇家の歴史を記述するものなのだ。とはいえ、南北朝自体を事例に出すまでもなく天皇家の系譜は錯綜しており、その作成は明治3年にも遡り、江戸時代以来の国学者たちが研究に勤しんでいたにも関わらず、旧皇室典範で皇統譜が明記されてから36年もの間実際には確定しなかった。ひょんなことから国会答弁で「皇統譜が実際には明治天皇以後しか存在しない」ことが明らかになって関係者が衝撃を受け、それまで作成されていた草稿をとりあえず決定することによって成立したのが現在の皇統譜なのである。

戸籍というテーマを深掘りするため、本書は「臣籍降下」の歴史を詳しく述べている。皇族の子どもが全員皇族なら、文字通り皇族はネズミ算式に増えていく。かつては天皇は数多くの愛妾を抱えてたいへん多くの子どもをもうけることも珍しくはなかったからなおさらだ。よって、「臣籍降下」すなわち皇族の身分から臣民の身分(臣籍)に移行するということが歴史を通じて行われた。本書ではこの事例を大量に提出し、どのような力学によって臣籍降下が行われたのかを分析している。それが結果的に、皇族(天皇家)とは何なのかという考察になっているように思われる。

なお「臣籍降下」にはいろいろな場合があり、例えば結婚、賜姓(天皇には姓がなく、姓はあくまで臣下に与えるものである)、懲戒などがある。一方、出家については臣籍降下ではないがそれと同じような効果を持つ(皇位継承権の放棄など)。近世には幼少の皇女が軒並み出家して(させられている)のを見ると、出家が体のよい口減らしのために行われたのは明らかだ。出家の場合は結婚と違って結納・支度金・婚礼費用などが必要なく安上がりだったからである。

さて、ひとたび「臣籍降下」したら皇族には復帰できなかったのかというとそうでもない。それどころか臣籍に移されたものが皇族に復帰した事例は数多いのである。醍醐天皇の例は特に興味深い。彼は父・宇多天皇が臣籍にあった時に「源維城(これざね)」として生を受け、父の皇族復帰に伴って皇族の身分を得、宇多天皇からの譲位で天皇に即位したのである。臣民が天皇にまでなったのは唯一無二の存在だそうだ。

ともかく、かつて皇族と臣民の関係は「ゆるやか」なものだった。それが厳格化されて一度臣籍降下したら皇族に戻れない、となったのは旧皇室典範の制定からである。旧皇室典範の制定時においては女性天皇容認論も出たものの(周知の通り女性天皇は歴史上数多い)、結果的には歴史的にそうであった以上に男系男子主義を徹底させたものとなった。

その結果、皇族の婚姻については徹底的に夫唱婦随なものとなった。例えば皇族男子が一般女子と結婚しても皇族であるが、皇族女子が一般男子と結婚すれば臣籍に入ることになるのである。これは明治民法における「家」の概念からは当然のことであったが、戦後の民法で「家制度」がなくなっても、皇族の場合は「女子の身分はその夫の身分に従う」という規定は変わらなかった。この夫唱婦随の原則は伝統に則ったものであったかもしれないが、「一般国民の夫婦観念に与えた影響は、現在も根強い夫婦の「氏」をめぐる慣習——妻が夫の氏に合わせる——をみても明瞭であろう(p.209)」。

そして、そもそも皇族の婚姻は個人の自由で行えるものではなかった。皇族の結婚は勅許(天皇の許可)を必要とし、一種の人事の性格を帯びていた。戦後にも、勅許から「皇室会議」の許可に変わっただけで本質的には変わらなかった。

しかし、日本人なら誰でも今は「両性の合意(憲法第24条)」のみによって結婚できるのではないだろうか(大日本帝国憲法では「戸主の合意」が必要だった)。それとも皇族は日本国民ではないのだろうか? 三笠宮寛仁は率直にこう述べた。「僕なんか住民税まで払わされるわけよ。戸籍がないのに……。(略)伯父様(高松宮宜仁)よくおっしゃるけど、われわれはある意味で無国籍者なんだな(p.89)」「我々には基本的人権ってのはあんまりないんじゃない?(同)」

皇族は、日本国憲法の埒外にある、というのは確からしい。皇族は、日本国民なら誰でも認められている自由をいろんな形で奪われている。特に天皇は、人生そのものに大きな制限があり、国民はそれを当然のこととして考えている。本書には、その問題提起はサラリと書かれるに過ぎないが本書全体を通じてそうした反省をせざるを得ないように思う。

ちなみに皇族は戸籍を持たないだけでなく、住民基本台帳にも登録されていない。つまり住民票もない。健康保険にも加入していない(ここでも国民皆保険の原則から外れているわけで、皇族は国民扱いされていないわけだ。実際には医療費は全額税金から支払われるにしても)。戸籍そのものはともかくとして、普段のいろいろな手続きで住民票は必須なのだから、いったい皇族の生活はどれだけの制限があるのだろうと思った。例えば銀行口座の開設は可能なのか? 国家資格の取得はできるのか?  本書は皇族のライフイベントを戸籍の観点から述べるものであるためそういったことは書かれていないが、多くの制限が課されていることは想像に難くない。

皇族の人生を戸籍の観点から繙き、皇族とは何か、戸籍とは何かを考えさせるエキサイティングな本。


2022年1月3日月曜日

『困ってるひと』大野 更紗 著

難病を生き延びた記録。

著者は大学院で難民問題について研究し、たびたび東南アジアにフィールドワークにも出かけていたエネルギッシュな女性だったが、あるとき原因不明の症状に犯される。病院に行ってもロクな診断は出ず、どんどん体は衰弱していくのに治療すらされない。難民について研究していたはずが、自分自身が「医療難民」となったのだ。

たくさんの病院を巡って疲れ切り、死にそうになりながら、最後の望みをかけた病院で、壮絶な検査地獄の果てにようやく診断が下りる。「筋膜炎脂肪織炎症候群」という世にも稀な、治療法がない難病だった。

こうして、生きるための手探りの戦いが始まる。といっても、ひたすら痛みに耐えるとか、薬の副作用に耐える以外にも著者の戦いは展開される。それは、「制度」との戦いだ。入院ひとつとっても様々な矛盾がある。私物は小さなロッカーひとつ分しか認められていないのに、紙おむつなどの消耗品は自分で調達して保管しなければならない。大量のおむつはどこに置いたらいいのか? そしてそれ以前に、ベッドから起きあがるだけでも一苦労な人が、どうやって紙おむつを買いに行くのか?

それは、家族や友人などの付き添いの人が代わりに調達する以外ないのである(病院では手に入らない!)。そんな馬鹿な、と思うがそういう制度になっているのが現実だ。これはほんの小さな事例ではあるが、ギリギリの状態で生きている著者には非常な負担になる。そういうことが山のように積み重なっている。

さらにもっとやっかいのは書類だ。難病の医療費の減免申請も、障碍者手帳の申請も、大量の書類をそろえて役所に提出しなくてはならない。しかも本人が! 手助けはゼロではないが、入院しながらそういった書類をそろえることがいかに大変か。(行政書士に頼めば多少は軽減されるはずだが、そもそも難病で高額な医療費がかかっていて、本人は働くことなどできない状態なので、そういう依頼は現実的ではないのだろう。)

結局、医療も、役場のシステムも、苦しい立場にある人の事情など一切斟酌しない、非人間的な「制度」に基づいていたのだ。もちろんそこには、病人を救いたいと必死になって働いている有能な医師がいて、人に寄り添ってくれる役場の職員だっている。しかしそれでも、〇〇のためには〇〇が必要、と制度で決まっていればそれを出してもらう必要があるし、あるいは〇〇はできるけど〇〇はできない、と決まっていれば、どんなに患者がそれを求めていても与えることはできない。「制度」にとっては、個別の事情など知ったこっちゃないのである。

では頼れるのは両親や友人なのか? 実はそれも違う。著者は東北の生まれで両親は働いており(そうしないと医療費も払えない)、日常的に頼ることはできない。それに親はいつかは亡くなる。一方、友人はそれなりにいるが何か月間も「あれを持ってきて、これを買ってきて」と頼るうちに、すっかりと援助を依存するようになってしまった。いくら死にかけた友人のためとはいえ、何か月も無償でこまごまとした用事をこなしていれば、関係がギクシャクしていくのは自然なことだった。

そうして著者は「頼れるものは、最後は制度しかないのだ」と悟る。制度は、大量の書類というモンスターを片付けなければ使えないし、それ自体が穴だらけで、非人間的な仕組みかもしれないが、結局、困ってる人を継続的に救ってくれるのは制度だけなのだ。これは難民支援の現場でも同じだった。難民は善意の人の支援を期待しない。使える「制度」を利用する以外、生きていく道はないのだ。

こうして、本書は、次々に襲ってくる「制度」との戦い、というカフカ的な不条理を描きながら、皮肉なことに、その「制度」とやらをうまく利用するしか生きるすべがない、というところへたどり着く。それが結論的に書かれているわけではないが、私は本書をそういう風に読んだ。

ところで、もう死んだ方が楽だ、というようなひどい病気のさなかに「やっぱり、生きたい」と著者が思ったのは、闘病中にできた恋人のおかげである。生への意思は「愛」によって生まれ、それを現実化するのは「制度」なのだ。これは結婚でもなんでも同じかもしれない。珍しい難病、という極限状態にある人に、それが先鋭的な形で現れたのである。

本書は、病院を離れて(一応退院だが、病気が治ったわけではない)、一人暮らしを始めるところで筆が擱かれているが、その後についてインターネットで調べると、著者は明治学院大学大学院社会学研究科に入学して博士まで取得し、今は東京大学医科学研究所で研究員をしているそうだ。病気は多少寛解したのかもしれない。よかったよかった。

ちなみに本書は、難病(や制度)との戦いを描いているとは思えないくらい軽快な筆で書かれている。ところどころにジョークすら入る。単に自分の体験を描くだけでなくそれを客観的に描く知性とユーモア、そして余裕がある。(編集者が大いに助けたのだとしても)死にかけながら、こういうのを書けるのはすごいなと思った。

難病だけでなく、それに伴う「制度」との「仁義なき戦い」を描いた軽妙洒脱な本。


2022年1月1日土曜日

『定家明月記私抄』堀田 善衛 著

藤原定家の「明月記」を読む。

定家の「明月記」は、よく歴史書・研究書に引用され名高いものであるが、解読が必要な独特の漢文で書かれていることもあり、「少数の専門家を除いては、誰もが読み通したことがないという、それは異様な幻の書であった(あとがきより)」。

著者は戦時中に「明月記」の一文を知る。19歳の定家が記した「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ(=戦争なんて俺の知ったことか)」という言葉だ。時代の動きをとらえつつ、自己自身の在り方を昂然と記したこの言葉に著者は衝撃を受ける。まさに戦争によっていつ死ぬともしれぬ状況にいた著者は「この定家の日記を一目でも見ないで死んだのでは死んでも死に切れぬ(p.8)」と思い、なんとか日記を手に入れた。

しかしなかなかこの日記は難解であり、また退屈でもある。それは当時の日記は文学的なものではなく、有職故実(=しきたり)を「秘伝」として記録し後の世に備えるためのものであったからだ。よって儀式や行事があった際のやり方、服装、使われた器具などを事細かに記録するのが主目的だったのである。

ところが定家の日記はもちろんそれにとどまらない。60年間にわたって、彼は毎日日記を書き続けた。この執念は何に基づいていたか。定家は異常に細かい有職故実の記録を書き留めながら、やはりそこに人間性の発露とでも呼ぶべきものを記録した。本書は、それを丁寧に、一歩一歩読み解いていく本である(ちなみに執筆時に著者はバルセロナ在住であり、参考資料の手に入らない中、6年かかったという)。

一年一年、定家の日記に付き合っていくと、時代の大きな動きが克明に記録され、そこに翻弄されている様子もまた伝わってくる。「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」と言って戦乱との距離を置いても、職業歌人としてのプライドからくだらない遊興を拒否しても、定家はやはり後鳥羽院に振り回され、宮廷をうまく立ち回ることでしか生きていけない二流貴族なのだ。

「明月記」にはその悲哀を感じさせる場面が多い。例えば、定家は所有する荘園から満足に貢納がやってこない、といったようなことだ。ちなみにこの頃の宮廷では官職には給与がない。無給なのである。荘園からの収入が頼みだ。その荘園が、現地管理人の横暴などで有名無実化していたのだ。これは当然、戦乱のせいである。これを改善するにはヤクザ者を派遣して力づくで上がりものを出させるか、それでなければ武家政権との関係を樹立する必要がある。「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」と言っている場合ではなかった。

さらには、後鳥羽院が異常なほどエネルギッシュな君主であったことが、定家にとっては(というより多くの宮廷人にとって)災いした。後鳥羽院はこの混乱の時代を有り余るエネルギーで泳ぎながら、次から次へ遊びまくったのである。しかもその「遊び」は競馬、相撲、蹴鞠、闘鶏、囲碁、双六、別邸と庭園の建造…何をしても規格外であり、その遊びに付き合わなければならない宮廷人にとってはたまったものではない。

そして彼らの芸術(=和歌)は、そうした冴えない現実からはすっかり遊離した抽象的なものになっていた。定家が頭角を現した「初学百首」などは、京に餓死者が4万2千以上も放置された養和の大飢饉のさなかに詠まれるのである。宮廷人たちは、社会が阿鼻叫喚になっているというのに、そんなことはどこ吹く風と「遊び」に興じていたのである。だが定家にとって歌は「遊び」ではなかった。彼にとっては歌が本気も本気、歌だけは二流であってはならなかった。歌が彼の存在を支えていた。

では定家の歌、というか当時の歌はどんなものだったか。著者の評価は両義的だ。歌は現実から遊離して、本歌取りといういわば「二次創作」のような手法が普通となり、言葉の上だけの抽象芸術、美のための美となっていた。このように高度に抽象的な言語芸術は、同時代の世界を見回しても存在しない。しかしながらそのために歌は真の意味での創造力を失ってもいた。そしてまさにその抽象言語芸術の極限にいたのが定家だった。定家は自身困窮に喘ぎながら、優にして雅、鑑賞にも繊細な感性を必要とする玄妙な歌を作っていたのである。

それは最初は十分に評価されず「達磨歌」などと誹られたが、「初度百首和歌」が後鳥羽院に認められ、後鳥羽院直属の歌人となる。定家が39歳の時だった。さらに定家は正四位に叙せられる。またこの頃、新古今的な作風を確立して、歌におけるピークを迎えた。しかし同時に「作歌について深甚な倦怠感をもちつづけている(p.168)」。

しばらくすると、どうやら経済面でも上向いてくる。念願だった左近衛権中将にも任じられる。これでも官位は低く、自分の息子ほどの若輩と肩を並べなくてはならない。今や定家がつまらない現実に飽いている様子がはっきりと日記に感じられる。父俊成の90歳の祝賀とそれに続く一大遊興も、日記に全く記されていない。日記には無学な宮廷人への罵詈雑言が書かれる。それでも、定家は宮廷人として生きるしかない。まさにそれこそが定家という人物を興味深くしている。

そしてついに新古今和歌集の編纂が彼の人生に入ってくる。職業歌人として譲れぬものがあったにしろ、後鳥羽院の壮大な計画に定家は巻き込まれ、彼はうんざりさせられる。後鳥羽院の情熱は驚くべきもので、歌の入れ替え(切継)はなんと11年も蜿蜒と続いたからだ。しかも歌を入れるかどうかが人事のようになり、選考は思うままにならなかった。

本書は定家48歳(承元3年=1209)の日記までで擱筆されている。続きは続編にて。

それにしても、本書はある意味で単なる日記の読解なのであるが、めっぽう面白い。定家はジャーナリストとしての才能もあった人らしく、当時の事件が詳説されるうえに、他の宮廷人とは一歩引いた彼独自の観点から書かれるのがスパイスとなっている。また、定家には例えば「方丈記」とか「愚管抄」が持っているような大局的な批評精神・歴史観はなく、あくまでも宮廷の中で呻吟している人、つまり現場にいる人であることがかえって面白みを加えていると思う。

堀田善衛がそういう「読み」を共有してくれたことは非常にありがたかった。この本のおかげで、「明月記」は我々がアクセスできるものとなったのである。

「明月記」を蘇生させた、優れた読解の文学。

※文中ページ数は単行本版のもの。


【関連書籍の読書メモ】
『時代と人間』堀田 善衛 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/06/blog-post_16.html
「時代の観察者」を通じて、人間について深く考えさせる優れた本。

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