2024年1月28日日曜日

『寺社焼き討ち―狙われた聖域・神々・本尊』稙田 誠 著

寺社焼き討ちの論理を探る本。

中世は宗教の時代である。人々は神仏を実体のあるものとして認識し、生活全般が宗教によって規定されていた。しかしそんな中でも、寺社はしばしば焼き討ちされた。なぜ篤く信奉していたはずの寺社を焼き討ちするなどということができたのか。それは信仰心の衰微の表れなのだろうか? 本書は、寺社焼き討ちなどを行った人々の心理を繙き、その宗教観を分析している。

寺社焼き討ちは、まずは寺社同士の抗争から始まった。律令国家の弛緩により、それまで国家から庇護を受けていた寺社は自活を求められるようになり、荘園領主として、あるいは民間への布教による収入によって経済を成り立たせる必要に迫られた。そこで寺社同士の勢力争いが起こり、11世紀中頃から寺社勢力同士の焼き討ちが頻発するようになった。

その嚆矢となったのが延暦寺と園城寺の抗争、いわゆる山門派と寺門派の争いである。長久3年(1042)、承保元年(1074)に延暦寺が園城寺の伽藍の一部を焼いたのが早い例であるが、永保元年(1081)における一連の両寺の焼き討ちが大規模なもので注目される。園城寺はわずか4か月の間に2度も焼かれた。その後、園城寺は14世紀前半までの間に10度も(!)焼き討ちにされた。 いうまでもなく、延暦寺と園城寺は同じ天台宗寺院である。他宗派との抗争というより、同宗派の抗争によって寺社焼き討ちが行われたことは、寺社焼き討ちが不信心によるものではなかったことを示唆している。

平氏の南都焼き討ちも著名である。治承4年(1180)の暮れ、平清盛の五男、重衡(しげひら)は興福寺や東大寺を焼き討ちした。南都寺院が他勢力と結びついて京都を攻めるのを回避するための先制攻撃だった。焼き討ちになったのは結果的なものだったという説もあるが、著者は意図的に寺院を焼いたと考える。

このほか、怪異が起こったために村人がやむなく堂舎を焼いたり、佐々木道誉が寺院との些細ないざこざから妙法院を焼き討ちにした例、応仁の乱で東軍(細川勝元)の陣となってほぼ全焼した相国寺の例(相国寺合戦)が紹介されている。織田信長の延暦寺焼き討ちについては、徹底して破壊したとされる従来の説が疑問視され、比叡山山頂では根本中堂と大講堂のみに焼亡の跡がみられるという発掘調査結果が紹介されている。ここでのポイントは、寺社の付属施設を焼くのではなく、その中核施設である中堂(本堂)がターゲットになっているということだ。

先述の永保元年の延暦寺による園城寺の焼き討ちでも、『古事談』によれば、天台座主が「僧房ばかり焼いたところでどうしようもない!」と述べ、僧たちに金堂や経蔵などを焼かせた話が出てくる。つまり寺社焼き討ちは無差別的な放火とは違い、寺社の中核を破壊することに意味があった。それは、寺社の中核である本尊や経典に価値が置かれていたことを逆説的に示している。

では、こうした焼き討ちを行ったものは、神や仏を恐れなかったのだろうか? 当時の言説を見てみると、寺社焼き討ちは大悪であり、焼いたものは神罰仏罰を蒙るという認識は当然あった。『平家物語』によれば、南都焼き討ちを行った平重衡は、その罪の重さから報いを受けることは必定でありどしたらよいのか、と法然に涙ながらに語ったという。これが史実そのままであるかどうかはともかく、少なくとも寺社焼き討ちは重罪で、行った当人にとっても葛藤の種になっていたに違いないという当時の人の認識は事実である。『玉葉』(九条兼実の日記)でも、重衡が神罰を蒙ることなく無事に帰洛できたことを不審に思ったとの記載がある。神罰仏罰を人々はリアルなものだと感じていた。そして実際に、神罰仏罰が下ったという事例を、人々はしばしば見てもいた(現代から見れば、それは偶然に過ぎないとしても)。

寺社焼き討ちを行いつつ、どうやってその神罰仏罰を避けることができるのか、それが中世人たちの切実な思いだったに違いない。本書では「寺社焼き討ちの正当化の方便」が4つに分類されており、それは(1)仏にすがる、(2)経供養などの儀式を行う、(3)特定の文言を唱える、(4)「これこれしかじかだから問題ない」という理屈を信じる、とある。

このうち、(1)と(2)については、焼き討ちの罪は認めつつも、それを仏法にすがることで無効化しようとするものである。法然は重衡に念仏によって往生できると説いているが、これは重罪を犯したものにとっては福音だっただろう。

(3)は、一種の呪文によって罪を無効化するもの。代表的には「罪業もとより所有なし、妄想(もうぞう)顚倒より起こる。心性源清ければ、衆生すなわち仏なり」というものだ。「もとより、罪業に固有の実体はなく空である、心は本来清いもので、生きとし生けるものは仏である」というような意味である(本書での説明を簡略化した)。つまり、寺社焼き討ちをした罪も実体はない、という一種の開き直りであり、罪を認める(1)(2)とはちょっと違っている。これは天台本学思想に基づいており、高度な教理による屁理屈である。

(4)には、例えば「焼いたお堂は後で再建すればよい」、「仏に敵対する心を持って焼くわけではないので罪にならない」、「この八幡は主君が信仰している八幡とは別だから大丈夫」、「あいつが大丈夫だから自分も大丈夫だ」といった理屈がある。最後の理屈は、信長は仏教を弾圧しているのに仏罰を蒙っていない、だから大丈夫だ、といったようなものであるが、まだ仏罰を蒙っていないだけなのかもしれないので、その場しのぎ的だ。なお個人的に気になったのは2番目の「敵対した心がなければ罪にならない」だ。そんなわけないだろと思うが、著者によれば「中世では身と心を分けて物事を理解しようとする思想の流れがあった(p.113)」として説明されている。つまり人間の内面を重視する発想があったらしい。しかしこの点については参考文献が一切掲げられておらず詳しくは不明である。

そのほか、「焼き討ちされたのは寺の自業自得だ」とか、「本尊がなければ問題ない」といった自己に都合がよすぎる理屈が紹介されている。この(4)は、焼き討ちの罪を認めるのではなく、いろいろ理由をつけて罪にならないとするものであるが、(3)と違って高度な教理は関係なく、単なる自己正当化理論が多い。しかし、こういうものであっても、中世人は寺社焼き討ちにあたって正当化を図る必要を感じた、ということは、その宗教観を表しているともいえる。

次に、本書は焼き討ち以外に目を転じる。概念整理をすると次のようになる。まず一番広い概念として「神仏超克」がある。これは、神仏と敵対せざるをえなくなった人間が、これを克服しようとする行為言動である。そこには、「寺社焼き討ち」のほか「神仏冒涜」「墓の破壊など」(本書では扱われていない)が含まれる。

そして「神仏冒涜」には、神仏を脅すなどして無理にでも祈願を叶えさせようとする「神仏恫喝」、神仏を攻撃したり、その存在価値を否定する行為言動「神仏唾棄」で構成される。以上をまとめると次のようになる。(※個人的には、神仏唾棄と寺社焼き討ちは概念的に重なっているような気もした。なおこれらは著者による用語のようである。)

神仏超克┬寺社焼き討ち
    ├墓の破壊など   
    └神仏冒涜┬神仏恫喝
         └神仏唾棄

「神社恫喝」の例として、曽我兄弟の仇討で、兄弟が箱根権現に「祈願が叶えられないのであれば、この場で私を殺してください」と願ったことが挙げられる。これなどは「むしろ権現を恫喝しているとさえ読める(p.136)」。さらに兄弟は三島明神には「(祈願が叶わなかったら)ここの宝殿の中に参り籠って腹を切り、五臓を掴み出して御戸帳に投げつけますよ。そして御社に火を掛けて焼き払い、もともとここには神などいなかったのだと世に暴露するぞ!」とまで述べている。現代にはありえない祈願の仕方である。

また法然に帰依した熊谷直実は「阿弥陀様、私を上品上生に迎えることができないとなると、弥陀の本願が破れたことになりませんか?」と阿弥陀如来を論難している。こうした神仏への接し方は、神仏を実体として、さらには人間と対等なやりとり・駆け引きができる存在として扱っていたことの裏返しであり、もっといえば神仏との契約関係を前提としているようにも見える。「私は正当な祈願をしているのだから、それを聞き入れない神仏が悪い」とでもいうような理屈も、現代ではありえない。

次に「神仏唾棄」については、「仏像に危害を加える・破壊するといった行為、あるいは神仏に暴言を投げつけその存在価値を否定する言動がこれにあたる(p.148)」が、これは廃仏毀釈とどう違うか。

例えば専修念仏を信じる人々は、念仏以外は無価値であるとして、地蔵の仏像をないがしろにした。法然や親鸞はこうした行き過ぎた行為を戒めているが、念仏のみによって救われるなら地蔵など無価値というのは論理的に筋が通っている。

キリシタン大名の大村純忠は、受洗後に軍神の摩利支天の像を破壊して十字架を立てた。しかし彼は仏教と決別したのではなく、受洗後に出家し(!?)、真言密教や観音・伊勢信仰に傾倒している。フロイス書簡によると「(摩利支天は)幾度私を欺いたことか」と純忠は摩利支天を恨んでいたという。

「神仏唾棄」が可能となった方便は(1)自分を裏切った(約束を破った)神仏は唾棄してもよい、(2)力のない神仏は唾棄してもよい、というものだったという。つまり廃仏毀釈が仏教に対する無差別的な破壊行為であるのに比べ、神仏唾棄の場合は、神仏一般に対する崇敬はそのままに、特定の神仏が自分に不利な結果をもたらしたことに対する報復として行われていることになる。ただし(2)の場合の、専修念仏の徒が地蔵をないがしろにする行為などは廃仏毀釈に近い部分を感じる。

織田信長は、父信秀が瀕死になった時、僧侶に祈祷を行わせたにもかかわらず、回復するであろうとの僧侶たちの言葉とは逆に父が死去したのを受けて、虚偽を述べたとして僧侶たちを殺した。信長は従来のイメージとは違い、神仏を恐れなかったのではなく、むしろ本件も神仏を実体とみなしての報復行為であったと考えられる。

豊臣秀吉は、つくりかけの東山大仏が地震によって倒壊したのを受け、すぐさま大仏を破却した。彼は大仏の代わりに善光寺如来を迎えたが、「倒壊したのは大仏の力が弱かったせいだ」との工学を無視した理屈を持っていたようだ。これは信長の例とあわせて、神仏そのものを否定したのではないが、織豊時代において人間本位の考えが強くなっていることが感じられる。

通説では、宗教・神仏の影響力の低下は、おおむね14世紀の南北朝時代から始まり、戦国時代を経て近世へと時代が移り変わる過程でより顕著になったとされる。しかし神社焼き討ちや神仏冒涜が中世前期から行われていることを考えると、南北朝時代以降に神仏の扱いが顕著に軽くなっているとはいえず、「決定的といえるほど宗教・神仏の力が凋落したとまでは考えにくい(p.176)」。中世人は「真剣に信じていたからこそ、本気で怒り、焼き討ちや破壊に多大なエネルギーを投じた(p.177)」。著者は近世に平和な時代が訪れたことが神仏の影響力低下に大きかったとみている。

とはいえ本書を読みながら、私は人々の微妙な考え方の移り変わりも感じた。中世前期では人々は神罰仏罰を恐れ、それを無効化するための手段や、「きっと自分は罰を受けないはずだ」との自己正当化の理屈を考えた。ところが中世後期には、大村純忠が加護がなかった摩利支天像を破壊したように、神仏と人間を対等なものと見なした行動がみられるようになる。神仏本位から人間本位の考えへと軸足が移っているような気がするのは私だけだろうか。

本書は、神仏冒涜や寺社焼き討ちという、人々が神仏に敵対するというマニアックなテーマを扱っており、大変価値が高い。しかもマニアックであるにもかかわらず、一般向けに平易に書かれており読みやすい。私自身の興味としては、中世における宗教観の一面を知りたくて本書を手に取った。中世の人は、神仏を実体として認識していたからこそ、現代ではありえないようなやり方で神仏に対峙した。神仏に報復するという考えは、中世人の神仏観を象徴するものかもしれない。

なお、本書は著者の論文集『中世の寺社焼き討ちと神仏冒涜』を土台に新しい知見などを盛り込んで書き下ろしたもの、とのことである。

寺社焼き討ちを通じて中世人の宗教観を探る良書。

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2024年1月26日金曜日

『神武天皇の歴史学』外池 昇 著

神武天皇が近世・近代にどう扱われたかを述べる本。

本書のタイトルは「神武天皇の歴史学」であるが、神話のなかの存在である神武天皇の「歴史学」とは何か。それは、近世・近代に神武天皇がどう扱われたのか、つまり神武天皇をめぐる歴史を叙述するというものである。

その中心は、陵墓の扱いである。神武天皇陵は、近世まではどこにあるのかもわからず、簡単に言えば放っておかれていた。そもそも神武天皇は神話の登場人物なのだから陵墓が存在すること自体が不自然だが、近世には多くの人が天皇陵の研究を始め、特に神武天皇陵については政治的な課題ともなって考証が進められた。

そうした考証の中で、神武天皇陵の候補は3つ形成された。第1に、幕府が元禄時代に修陵事業を行った際に神武天皇陵として整備した「塚山」である。第2に、本居宣長、竹口栄斎、蒲生君平らが主張した「加志(または「カシフ」)」または「丸山」である。彼らは「塚山」が『古事記』の記述に合わないことなどから、幕府の説を退けた。国学者らの一致した共通見解がこの「加志・丸山」説であった。そして第3に、「神武田(ミサンザイ)」である。ここには、神武田(シムタ)、そしてミサンザイ(ミササギ=陵の転か)という意味深な地名が残されていた。

水戸藩主の徳川斉昭は、こうした状況を受け、さらなる修陵事業を進める建白を行った。その建白の中では、現に神武天皇陵として扱われている「塚山」は眼中になく、神武田の方を本当の神武天皇陵として整備したいという意向が明白だった。しかし斉昭は安政の大獄で失脚して政治の表舞台から去り、その意向が実行に移されることはなかった。ただし一説によれば、後述する宇都宮藩の間瀬和三郎らに修陵事業の引継ぎを持ち掛けたともいう。

奈良奉行だった川路聖謨(としあきら)は、奈良奉行在勤中の日記『寧府紀事』に山陵のことを書き留めた。その日記では、神武田には、そこの草を刈り取って牛馬に与えると神罰が下るという地元の伝承があることを述べるとともに、宣長説(丸山説)を批判した。彼は神武田が真の神武天皇陵なのではないかと考えつつも、幕府の人間として「塚山」を神武天皇陵として扱わないわけにはいかず、「塚山」との併存状態を是認していた。

実際、幕府が神武天皇陵としていたのは「塚山」だったが、この頃は「神武田」の方が事実上の神武天皇陵として扱われる場面が出てきていた。

孝明天皇も、嘉永6年(1853)、明らかに神武天皇陵の「神武田」への変更を念頭に置きつつ、神武天皇陵での祭祀の意向があることを武家側に伝えていた。この「孝明天皇の意思の発露を神武天皇陵をめぐるひとつの画期(p.90)」だと本書は見ている。

幕府はこれに機敏に対応したのではないが、なにもしないわけにもいかず、奈良奉行所は神武天皇陵の調査を行った。それを担当したのが奈良奉行所与力の中条良蔵であり、その報告書が『御陵幷帝陵内歟与御沙汰之場所奉見伺書附』(以下「書附」)である。私は神武天皇陵をめぐる治定の動向は概略的に知っていたが、この中条良蔵の登場には驚いた。彼は、国学者でもなく幕府の要人でもない。だが、現地調査と文献調査によってそれまでの神武天皇陵説を検証し、特に本居宣長や蒲生君平、そして北浦貞政『打墨縄 大和国之部』などで主張された「丸山」説を強く否定し、「書附」において「神武田」を神武天皇陵とすることを確定させた。これが安政2年(1855)のことである。しかし幕府としてはこの報告書に基づいて速やかに「塚山」から「神武田」に変更したのではない。

これが変更されたのは、いわゆる「文久の修陵」によってである。これは「書附」から7年半後の文久2年(1862)閏8月に行われたもので、宇都宮藩の建白に基づいて行われた歴代天皇陵の修陵事業である。間瀬和三郎がこの事業のプロジェクトリーダーだった。ここで、これまで政治課題だった神武天皇陵だけでなく、歴代天皇陵に対象が拡大した。その意味は詳らかでないが、「この「建白」は、幕末期における歴代の天皇陵をめぐる動向における極めて大きな転換点(p.126)」となった。

「文久の修陵」で陵墓の位置を考証したのが谷森善臣で、彼はやはり本居宣長らの「丸山」説を強く批判し、「神武田」を本命視した。本書にそう書いているわけではないが、大御所の宣長説を批判することに当時の人は意欲的だったのかもしれないという気がする。その他、蒲生君平、竹口栄斎、北浦貞政などの説も「学者はこういう風に見ているがとるに足りない」といった態度である。にもかかわらず、事務的に「塚山」→「神武田」に変更したのではなく、一応「神武田」と「丸山」の二説を孝明天皇に上申し、孝明天皇に「神武田」と勅諚を下してもらったのは示唆的だ。この際、「神武田」が確実に選ばれるように「丸山」には不利な論説が示されていたのは言うまでもない。これは、「丸山」のことを無視しえなかったことを逆説的に示しているのである。

このようにして朝幕の神武天皇陵の公式見解は「神武田」へ変更され、立派な陵墓にしつらえられていくのである。

しかし、国学者たちの「丸山」説は根強い人気があった。文人として著名な富岡鉄斎は平田篤胤の門人大国隆正に国学を学び、蒲生君平の墓に詣でたこともある人物であるが、津久井清影(平塚瓢斎)との書簡のやりとりで「丸山」説への傾倒を深め、「神武田」説を採る大沢清臣の著書『畝傍山東北陵諸説弁』に批判的な書き込みをしている。書き込みは明治12以降に行われているが、明治維新から12年たっても「丸山」説がくすぶっていたことがわかる。

また、白野夏雲は、鹿児島では『麑海魚譜』を著した人間として知られているが、彼も鹿児島県に奉職している明治18年に『神武天皇御陵考』を出版し、「神武田」説を批判した。彼は『日本書紀』『古事記』に基づいて谷森善臣の説を全否定し、「このままでは真の神武天皇陵がわからなくなる」と危惧した。彼は畝傍山全山が神武天皇陵であると考えていた。そして明治18年の段階でも世の中では「神武田」説への疑いがあったと述べている。

なお、天皇陵に注目したお雇い外国人もおり、英国のウィリアム=ゴーランドと米国のロマイン=ヒッチコックの見解が紹介されている。特にヒッチコックが、政府によって天皇陵が原型をとどめないほどに整備されていることは、文化財保護の観点から遺憾なことであるとしているのは新鮮だった。

本書の後半は陵墓以外の話題になる。まずは、勤王家の奥野陣七について。私はこの人物も全く知らなかったが、大変興味深い。奥野はいわゆる勤王の志士で、明治9年には鹿児島で西郷や大山綱良にも懇切にされたという。しかし彼はいわば「乗り遅れた側」で、同じ志士仲間が栄達する一方で不遇を託っていた。そんな中で陵墓や古蹟に関心が向き、『皇朝歴代史』など本を出版。さらに明治22年に畝傍橿原教会を設立して、神武天皇を祀る橿原神宮での活動を中心に敬神の活動を行っていくのである。

その活動の中で奥野は『神武天皇御記』を出版し、その中で「丸山」説を「先哲大人等」の考えとして好意的に扱っている。明治28年の段階でも「丸山」説はまだ命脈を保っていた。なお橿原神宮が創建されたのは明治23年だが、この創建にも奥野は民側としてかかわっていた。そして畝傍橿原教会は橿原神宮の祭典や行事に積極的に協力し、外郭的な立場から橿原神宮への信仰を喧伝していった。しかし教会が橿原神宮のお札「神符」の頒布利権を手に入れようとしたことなどから神宮と教会の間はギクシャクし始め、やがて橿原神宮は畝傍橿原教会とその関連団体の認可取り消しを求め、明治36年に取り消された。要するに奥野陣七は、公的なものとなっていた橿原神宮を、一民間人の立場で私物化するようなところがあったようだ。

終章では、神武天皇の即位紀年日である紀元節が、戦後「建国記念の日」として復活されたことを述べている。紀元節は即位日を新暦に換算して定められたが、その日程が不可解に変転しており、なぜか今でも法律(国民の祝日に関する法律)ではなく、政令で定まっている。戦後、これは「建国記念の日」として鞍替えされが、報道を見るだけでもこれには賛否両論があった。神武天皇は神話の存在であるが、現代に無関係なわけではない。

本書は全体として、神武天皇陵が治定される経緯については非常に詳しく、またわかりやすい。類書では簡潔に述べるような部分を丁寧に追っているので、意外な発見が多かった。そして改めて思ったのが、異論がありながらも「神武田」説が採用されたのはなぜなのか、ということである。大雑把に言えば、「丸山」説は国学者たちが『日本書紀』『古事記』の記載に基づいて主張し、「神武田」説は行政関係者が地名や伝承に基づいて主張した。なぜ彼らの方法論には違いがあったのか、それはなんらかの思想の違いに基づいていたのだろうか。

なお本筋ではないが、学者でもなんでもないのに神武天皇陵の位置を考察した中条良蔵や、一民間人の立場から橿原神宮にまつわる教会を設立した奥野陣七など、この時代には世の中の趨勢を捉えて名を挙げる無名人が出てくるのがとても面白かった。このような無名人物の名前が残っているということだけでも、急に神話や古蹟、神社・神道が注目されてくる時代の空気を感じることができる。

神武天皇陵の考証過程検証の決定版。

【関連書籍の読書メモ】
『天皇陵の近代史』外池 昇 著
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「天皇陵」がどのように形成されたかを述べる本。天皇陵をめぐる諸問題について見通しよく語る良書。

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2024年1月22日月曜日

『中世神話』山本 ひろ子 著

中世神話を概観する本。

中世神話とは、「中世に作成された、おびただしい注釈書・神道書・寺社縁起・本地物語などに含まれる、宇宙の創世や神々の物語・言説(p.4)」をいう。要するに、中世に生み出された新しい神話群が中世神話なのだ。

これには主に3つのジャンルがある。第1に「中世日本紀」。これは『日本書紀』の注釈や引用の形で述べられたテキスト群である。なお、注釈や引用といっても、原文をも改変している。卜部兼文・兼方の『釈日本紀』などが代表である。

第2に中世神道書の神話世界。神典の注釈活動から生まれた、宇宙の創世や神々の始原についての言説がこれにあたる。

第3に本地物語。これは神々の本地や前生を語り、本生譚(ジャータカ)の形式を持つものが多い。14世紀成立の『神道集』がその代表である。

本書はこのうち、第2の中世神道書の神話世界について、特に「天地開闢」「国生み」「天孫降臨」の3つの神話にフォーカスを当てて述べている。

中世神道の大きな潮流を作ったのが伊勢神道である。伊勢神道は、伊勢神宮で生まれた神道説であるが、その大きなエネルギーとなったのが外宮の地位向上であった。いうまでもなく外宮は豊受大神を祀るが、これは記紀神話には登場しない神であり、さらに伊勢神宮の建立縁起においても、豊受大神は天照大神の食べ物を準備する神に過ぎなかった。だが外宮の神官たちは豊受大神を天照大神と同格またはそれ以上にしつらえようとし、そのために様々な理論を生み出すことになった。それらは神道五部書としてまとめられた。

そしてそうした理論の背景となったのが、神仏習合であった。神話を仏教(密教)的に解釈しなおし、変奏することで新しい神話を構成していったのである。特に内宮・外宮をそれぞれ胎蔵界・金剛界の曼荼羅として捉える両部神道はその強力な援軍となった。本書は、こうした再解釈・変奏・再創造の過程を丁寧に追っている。

(1)天地開闢

記紀神話では、混沌から世界が生まれた。最初に生まれたのは天之御中主神であるが、これは特に活躍することなく退場する。ところが中世神話では天之御中主神を重視し、天之御中主神が梵天の化現であるとか、豊受大神として化現したとか主張し、様々に利用した。

しかしながら、食べ物を準備する神と宇宙創成神ではあまりにも性質が違いすぎる。そこでどうしたか。外宮神官の渡会氏は、御饌を司る神は名前のよく似たトヨウケビメ・トヨカウノメであるとし、豊受大神から御饌の性格を切り離した。

代わりに、豊受大神は「御饌(みけ)」の神ではなく「御気(みけ)」の神であるとし、抽象的な始原神としての性格を再定義した。

さらには、外宮神官の渡会氏は『旧事本紀』にある天孫降臨に供奉した神の中から、天村雲命を選び出し、天之御中主神から天村雲命を経て渡会氏に続く系図を創作した。こうして渡会氏は中臣氏や忌部氏のような神話的起源をもつ一族になった。

(2)国生み

記紀神話では、イザナミ・イザナギが海をかき混ぜて国を生む。ところが中世神話ではなぜかイザナミ・イザナギの存在感はほとんどなく、かき混ぜた道具である「天の瓊矛(あまのぬぼこ)」の方に注意が向いている。そして日本には「大日如来の印文」=「金輪」が元々あったとされる。金輪とはインドの聖王・転輪王が持つ宝物であり、密教の真理を表す道具である。そして日本には金輪王が先住していたとする。また国生みに際して第六天魔王が登場するのも面白い。さらに、天の瓊矛は密教の法具である金剛杵であったとされた。

(3)天孫降臨

記紀神話では、天孫降臨するのは天照大神の孫のニニギノミコトである。しかし中世神話では、降臨するのは「杵独王(きどくおう)」となっている。「ニニギ(瓊瓊杵)」の杵と「独鈷」の独から作られたイメージであるが、ニニギの稲のイメージが全くなくなっているのが興味深い。

また、ニニギが天孫降臨した時に覆われていたのが「真床追衾(まとこおうふすま)」であるが、このイメージは中世神話でふくらまされ、豊受大神ゆかりの聖なる御衣「小車の錦の衾」と重ねられた。

さらに、天孫降臨では三種の神器が授けられる(ただしこれは後に整理されて重視されたもの)。中世神話でも天界から様々な宝物が与えられているが、北畠親房『元元集』で筆頭に掲げられたのがなんと「天の瓊矛」であった。

天孫降臨の後に、ニニギを迎えたのが猿田彦であるが、『皇大神宮儀式帳』などの記録には猿田彦の名前は全く登場せず、神宮で祀られた形跡もない。ところが『倭姫命世記』では猿田彦がフォーカスされ、正殿の一角にあった興玉神が猿田彦だと付会した。

ここにメモしたのは、中世神話のごく一部であり、本書ではこの10倍以上の複雑さで中世神話が述べられている。またそれはしばしば一貫しておらず、『日本書紀』とも矛盾していた。

では、なぜ中世人たちはそのような神話群を創作したのだろうか。先述の通り、大きなエネルギーになったのは外宮の地位向上運動であったのは間違いないが、その背景にあった思想はなんなのか。

その一つのヒントとなりそうなのが、彼らはあくまで文献主義で神話を再構築していったということだ。つまり、彼らは神託を得たとか夢告があったといったような神秘体験に頼るのではなく、文献にはこう書いている、という立場を堅持し続けた。例えば渡会家行の『類聚神祇本源』は多くの典籍からの引用により神々の本源についての記事を類聚したコラージュ作品で、緯書・宋学・陰陽五行書など漢学からたくさん引用されている。権威の源泉として漢学が使われていることは象徴的だ。

つまり、中世神話のなんでもありの無秩序さとは裏腹に、それはいちいち典拠を要するものだった。だからこそ中世人は使えそうな典籍を縦横無尽に駆使して新たな典拠を作り出したのである。しかし一方で、例えば『日本書紀』などが多くの人に参照されていた形跡はない。というのは、もしそうであれば『日本書紀』との矛盾が問題になったであろうからだ。重要な典籍が公開されていないのに、というか公開されていないからこそ重要視される、という倒錯した文献主義によって生まれたのが、中世神話なのかもしれない。

本書は全体として、語り口は平明であるが、先述のとおり中世神話自体は複雑豊穣であるために頭に入れようとするとかなり難しい(わけがわからなくなる)。本書は中世神話の入門編のそのまた序説みたいなものかもしれない。

中世神話の世界に気軽に触れられる入門書。

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2024年1月14日日曜日

『神仏習合』義江 彰夫 著

神仏習合現象を社会の動きから述べる本。

本書は、神仏習合を「神祇信仰と仏教が複雑なかたちで結合し、独特な信仰の複合体を築いたもの(p.6)」と定義し、「神仏習合を通して日本人の精神世界の豊かな歩みを、社会構造と有機的にリンクさせながら描きなおす試み(p.7)」として書かれたものである。

冒頭で述べられる平将門の事例は象徴的だ。神がかりした巫女が自分は八幡大菩薩の使者だと名乗り、「八幡は将門に位を授け、その位記を書くのは菅原道真の霊だ」と託宣した。反乱軍にお墨付きを与える役割を負わされたのが八幡と道真だったわけである。どうしてこんなことが起こったのかを解明するのが本書の視点の一つである。

著者の描く神仏習合史の始まりは、まずは通説に則っている。第1に神宮寺の建立、第2に怨霊の登場だ(付け加えるなら八幡神の登場も通説であろうが、本書での扱いは軽い)。

どうしてこのようなことが起こったか、著者は次のように推測する。

第1の神宮寺の建立について。古代国家はまず神祇信仰を通じて全国の豪族を糾合しようとし、例えば幣帛班給(重要な神事にあたり、全国の神社の祝部を神祇官に集めて幣帛を配る制度)のような制度をつくったが、やがて幣帛班給は特に遠方の神社(とそれを擁する豪族)から忌避されるようになり行き詰まった。また、豪族たちは私営田領主としての性格を強め、土地の私有を正当化する理論を求めていた。

こうした状況を考えると、地方に建立された神宮寺は土地の私有を正当化する方策の一つだったと考えられ、またそれが中央政府に認められたのは、神祇を通じた統治に限界を感じていた政府が、仏教を通じた統治へという政策に転換したことを意味しているのではないかというのだ。

第2の怨霊の登場については、それが基本的に反王権のシンボルであったと見る。怨霊は政治的敗者の霊がなるものだったから、反王権的性格があったのは間違いない。特に菅原道真こと北野天神はそれら怨霊の親玉になり、政府への批判の性格を鮮明にした。そして民衆は怨霊に恐怖した…のではなく、一種のフェスのように怨霊にかこつけて盛大な祭りを挙行した。怨霊に恐怖していたのは政権側だけだったのである。もちろん反政府の神である怨霊が野放しになっていては政府としては都合が悪い。そこでこれを政府側に取り込もうとする努力が行われる。合同の慰霊祭、菅原道真への位階の追贈、社殿の造営といったことが行われ、遂に怨霊は逆に国家守護という真逆の性格へと転換するのである。

神仏習合の第3は、ケガレ忌避観念の肥大化と浄土信仰の日本化が挙げられている。ここは通説とはずれていて、著者のオリジナリティを感じる部分である。ケガレと浄土信仰は平安時代中期からの神祇信仰を考える上で非常に重要な観点であり、ここで神仏習合との関係が検証されているのは慧眼だと感じた。

しかしながら、その考察は、全体的に当を得たものとは感じられなかった。例えば、著者は「ケガレ忌避観念の肥大化は、日本の中に根をおろしはじめた仏教に伍しうる日本の王権の固有の祭祀観念の樹立を意味(p.149)」するというが、果たしてそうか。要するに仏教の理論に対抗するためにケガレ理論が必要となった、という理屈だが、仏教の理論に対抗する意味もないし、またケガレ理論が仏教の理論と対抗していたことを示す史料も見当たらない。残念ながら根拠薄弱な観念論と言わざるを得ないと思う。

また、浄土信仰については、人々の他界観に大きな影響を与えたことは確かだが、神仏習合との関連はあまり明確に述べられていない。

そして第4に本地垂迹説の登場である。著者は本地垂迹説を「中世日本紀」と関連させて述べる。「中世日本紀」とは、『日本書紀』等の神話を仏教の理論を取り込んで再構築した言説群であるが、記紀神話のストーリーを仏教的・密教的に読み替えるにあたって重要な役割を果たしたのが本地垂迹説である。神の本体は仏だ、とすることにより、自由自在な神話の読み替えと作り替えが可能になったのだ。

そして本地垂迹説は、仏の方が神の世界に侵入して、神は仏の化現であると自らを位置づけるものである、として「決定的に神身離脱や神宮寺化の動きとは異なっていた(p.169)」とみる。ここは、それまでの神仏習合の発展形として本地垂迹説を位置づける言説が多い中、鋭い指摘と感じる。しかしここでも全体として、あまり根拠が提示されずに著者の思想が展開されており、正直なところ思いつきの域を出ないと感じた。

本書は全体として、神仏習合理論としては完成度が低いと言わざるを得ない。著者の一貫した視点は、社会の下部構造(生産活動や社会の成り立ち)から、上部構造である思想を説明しようというものであるが、短絡的に下部構造と上部構造を繋げているきらいがある。著者の文章はまるで快刀乱麻を切るように社会の変動から思想の変化を解き明かしているが、かえって眉唾であると感じるのだ。

なお本書は、岩波書店新書編集部から、著者の専門である「対自然関係史で一冊書いては」との誘いを受けたことをきっかけにして成ったものだそうだ(あとがき)。それは専門的すぎるからとテーマが神仏習合になったようだが、ややおざなりなものになったのは否めない。

独自の視点は面白いが、全体的には思いつき感が否めない神仏習合論。

【関連書籍の読書メモ】
『神仏習合』逵 日出典 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/08/blog-post_17.html
神仏習合の概略的な説明。奈良時代までの習合現象の説明はそれなりにあるが、それ以降は簡略すぎ、神仏習合を日本独自の優れたものとする誤解が残念な本。

『本地垂迹』村山 修一 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/12/blog-post_31.html
本地垂迹を中心として神仏習合について述べる本。本地垂迹説についての扱いは小さいが、神仏習合理論について豊富な事例で学べる本。

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2024年1月12日金曜日

『覚鑁—内観の聖者・即身成仏の実現(構築された仏教思想)』白石 凌海 著

覚鑁(かくばん)の評伝。

覚鑁というと、空海や最澄、親鸞とか一遍のような、宗派の宗祖に比べると知名度はかなり低い。しかし、真義真言宗を開いた、いわゆる「宗祖」と呼ぶべき僧侶の一人である(といっても本人は新しい宗派を開創したとは考えていなかった)。

覚鑁の評価はなかなか定まらなかった。覚鑁には元禄3年(1690)に東山天皇より興教大師という大師号が贈られているが、実はこの前に2回も大師号が贈られかけ、頓挫しているのだ。

1回目は仁安2年(1167)、高野山内の協力が得られずに頓挫。そして2回目は天文9年(1540)、後奈良天皇より自性大師号が贈られたものの、延暦寺の衆徒の憤訴により召し返された。覚鑁は死後550年も経ってからようやく大師号に値すると認められたのである。

覚鑁は嘉保2年(1095)、肥前の国の豪族伊佐平次兼元を父として生まれ、8歳で仏道に目覚め、15歳で仁和寺成就院の寛助の弟子となった。ついで興福寺に留学。16歳で成就院に戻って出家し、正覚坊覚鑁という法名を授かった。覚鑁という名は、『大日経』と『金剛頂経』で説かれる大日如来の象徴「覚」と「鑁」による(両方梵字が宛てられている)。 なお覚鑁の一族は四人兄弟が共に出家しており、母も後に出家している。事実とすれば、なにかただならぬものを感じさせる一族である。

覚鑁は得度すると再び奈良に行き、東大寺で三論教学や華厳教学を学んだ。覚鑁はエリートコースを歩み修学に励んだのである。なぜ地方豪族の子に過ぎない覚鑁が破格の待遇を受けたのか。その背景には、伊佐氏が藤津荘を領有していて、それを覚鑁出家の料として成就院に寄進したことがあるのではないかという。

覚鑁は20歳で東大寺の戒壇院で具足戒を受け、正式な比丘となって高野山に入った。覚鑁は空海を強く追慕し憧れていた。高野山では阿波上人青蓮坊の庵に身を寄せた。青蓮坊という人物のことはよくわからないが、「たんなる念仏聖のひとりではない(p.47)」。そして翌年、隠岐上人明寂の最禅院に移った。さらに翌年、最禅院が火災に遭遇したため、大蓮坊長智の下へ移った。どうやら、覚鑁は既成教団よりも念仏聖に接近していたようだ。彼は20歳から46歳までの26年間を高野山で過ごした。

覚鑁は27歳の時、保安2年(1121)に仁和寺成就院において寛助より伝法灌頂を受法した。自ら仏になった証として行われる儀礼である。この若さで非職でありながら伝法灌頂を受けるのは異例のことだったらしい。

ところで覚鑁は、求聞持法を9回も厳修している。虚空蔵菩薩の真言を100万遍唱える難行である。いうまでもなく、虚空蔵求聞持法は空海が行って記憶力を強化させた逸話を持つ。記録に確かなのは8回目(28歳)と9回目(29歳)であるが、この時にかけられた願を見てみるとその内容に差があり、9回目のスケールが大きくなっている(一切経を書写、堂宇を建立など)。この時期に覚鑁の転機があったのかもしれない。さらに覚鑁は、千日の無言行も行っている。

30歳の時には重要な著作の一つとされる『心月輪秘釈』が著された。

やがて覚鑁は鳥羽上皇の知遇を得、大治5年(1130)、36歳の時に高野山に伝法院を建立し、春秋の伝法会(約200年中断していた)を復興させた。覚鑁は鳥羽上皇にさらなる堂宇の建立を奏請し、長承元年(1132)に道場となる大伝法院、そして覚鑁の住房となる密厳院も完成した。また上皇は大伝法院と密厳院へそれぞれ荘園を寄進している。大伝法院・密厳院は総数238名の大所帯になった。

ところで高野山は、この頃四分五裂していた。小野流・広沢流とか、十二流・三十六流などといろいろに呼ばれるが、大別すると仁和寺を中心とする洛西派と醍醐一山を中心とする洛東派に分かれていた。覚鑁は39歳の時、これらの諸流を編学する。覚鑁は東密だけでなく台密まで広く受法を求め、師を訪ね歩いた。これは師資相承を重視する真言宗には珍しい。

こうした中、長承3年(1134)、覚鑁は金剛峯寺・大伝法院両座主となった。それまでは金剛峯寺の座主は東寺長者が務めていたが、鳥羽上皇の後援によってこうした先例さえも変わったのである。これに東寺が反発しないわけがない。覚鑁の人事が年功序列ではない能力主義的なものであったことも反発を招いた。金剛峯寺と東寺は対立を深め、覚鑁は座主を兄弟子の真誉に譲ったが、後に座主は東寺方へ戻った。この中で覚鑁はまたしても無言行を行い、保延5年(1139)まで、それはおよそ5か年続いた。

ここで、伝説では「錐鑽(きりもみ)不動の逸話」で知られる事件が起こる(錐鑽の乱)。 金剛峯寺の衆徒が密厳院の覚鑁を襲ったが、密厳院に討ち入ってみれば壇上に同じ姿の不動明王が並んでいた。どちらかが覚鑁の化現であろうと衆徒は矢の根で不動明王の膝を刺したところ、果たしてどちらからも血が出たので退散した…という伝説である。伝説ではこの襲撃を受けたので覚鑁は高野山を去り根来に行った、ということになっている。しかしこの襲撃そのものが史実でないらしい。

では、襲撃はなかったのに、なぜ覚鑁は高野山を去ったのか。著者は「無抵抗の実践」だろうという。金剛峯寺と対立していた覚鑁は、無用な争いを避けるために自ら身を退いたのである。しかしちょっと不思議なのは、覚鑁が金剛峯寺座主に就いた時は、東寺と対立していたのだが、「錐鑽の乱」の頃には対立の相手が金剛峯寺となっていることだ。覚鑁はなぜ金剛峯寺と対立するようになったのか、その点は本書では詳らかでない。

ともかく、伝説では覚鑁は「七百余人を従えて」紀伊国の根来に移住した。根来でも覚鑁は伝法会、談論、著述などに精力的に取り組んでいる。しかし覚鑁は紀伊国から怨まれていたらしい。康治元年(1142)、日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)両社の神人等が大伝法院領に入部濫妨。ついで「紀伊国の国司・国目代・在庁官人等、大伝法院領の官省符庄内」に乱入。さらに、「紀伊国衛の軍兵数百・人夫数千等」が伝法院領に乱入し、観音堂や僧坊等を焼いた。どうやら、覚鑁は紀伊国の国司以下の地方政府と深刻な対立を抱えていたらしい。国司や軍兵が攻めてくるというのは尋常でない。どうして紀伊国とこれほどの対立があったのだろうか。

鳥羽上皇はこうした動向にあっても覚鑁を後援したらしく、上述の濫妨の償いとして新たに大伝法院に荘園を寄進させたり、根来の堂(豊福寺・円明寺・大神宮寺)を院宣によって御願寺としている。そしてその翌年、康治2年(1143)、覚鑁は根来山円明寺の西廂において印明を結びつつ入滅した。49歳の生涯であった。

なお、根来の滞在は僅か3年に過ぎなかったが、この頃に覚鑁は大著『五輪九字明秘密釈』と『一期大要秘密集』を著している(後述)。

さて、覚鑁といえば、阿弥陀信仰と真言宗の融和ということが一般的にいわれるが、その思想はいかなるものであったか。

まず、覚鑁はたいへん修行をした僧侶だったといえる。特に求聞持法は先述のように9回も修しており『求聞持次第』も著し、また高野山の人々に「かならずこの求聞持法を行ずべし」と勧めた。また覚鑁の求聞持法は阿字観や月輪観という観想法に基づいており、外面的な修法・儀礼よりも心のあり方にフォーカスしている。

『真言三密修行問答』という著作によれば「もし、心に浄菩提心の実相を念ぜざれば、三業の所作みなこれ虚相不実にして、全く三密にあらず(p.125)」と述べる。逆に「もし人・心・浄菩提心の実相に安住する時は、諸の身業、諸の語業、諸の意業、みな三密を成ず(同)」という。何事も心次第だというのが覚鑁の考え方だ。

また覚鑁は『三界唯心釈』の冒頭で「三界所有の 一切の衆生と 一切の諸法とは 皆唯一心なり」とし、華厳経に曰くとして「三界は唯一心なり、心の外に別法なし、心、仏および衆生、この三、差別なし」と述べている(p.58)。仏は心、唯心論的なのである。

『阿字観義』では、「ア」といって生まれ、「ア」と悦び、「ア」と悲しみ、何事も「ア」というのだから、これが法性具徳の自然道理の種字だ、として「善悪諸法・器界国土・山河大地・沙石鳥類等の音声(おんじょう)に至るまで、みなこれア字法爾の陀羅尼なり(p.128)」という。この、万物の陀羅尼「ア」から、アミタ(阿弥陀)の法号に繋がり、西方浄土観と接続する。ただし、覚鑁自身は「密厳浄土」すなわちこの世のありのままの姿が浄土であるという観念を持っていたように思われる。

覚鑁の真作か議論がある『一期大要秘密集』では、往生の大要は臨終にあるとして、悪人でも臨終の際の儀軌を守れば必ず往生すると言っている。このあたりは、「全ては心次第」と考えていたらしき覚鑁の言としては違和感がある。本書では真作としているが、どうだろうか。

そして覚鑁晩年の主著である有名な『五輪九字明秘密釈』では、大日如来(五輪)と阿弥陀如来(九字=オン・ア・ミリ・タ・テイ・セイ・カ・ラ・ウン)が同体の異名であり、「大日如来の頓悟」と「阿弥陀の往生」は同じ、極楽・密厳浄土も同一だとしている。さらに覚鑁は五大(空・風・火・水・地)が身体(五字厳身観)や五臓・五行思想などと重層され、「五大・五輪・五智・五臓・万法は不二にして平等」と述べている。なお本書では触れられていないが、本書で覚鑁は五輪塔が大日如来を表す(つまり阿弥陀如来も表す)ことを論じ、五輪塔の普及に理論面で一役買っている。

また『阿弥陀秘釈』では、「一心すなわち諸法」として心のあり方によって即身成仏が可能になるとし、「娑婆を厭い極楽を欣び、穢身を悪んで仏身を尊ぶ。これを無明と名づけ、また妄想と名づくるなり(p.157)」とすごいことを言っている。遠い理想世界への転生を願う欣求浄土は妄想であり、今ここにいる自分、ありのままの世界が仏であり浄土なのだ。

以上を概観すると、阿弥陀信仰と真言宗との融和といっても、覚鑁の場合は「念仏すれば往生できる」というような思想は皆無であるといえる。そして数々の苦行難行をやっていることを鑑みれば、彼は行者的な性格を持っているといえよう。しかもその著作は数多く、理論家としての存在感が大きい。この頃、高野山が念仏信仰に傾いて行った時期であることを考えると、覚鑁は旧来の真言密教の修行が、念仏信仰と矛盾しないことを理論的に述べたのだということができる。それは、念仏の勧めとは逆で、密教の修行をすることが念仏と一体であるのだ、ということが眼目のようである。

本書は最後に「真言密教の現在」として覚鑁の思想から見た現在の真言密教が語られているが、詳細は割愛する。

本書は全体として、苫米地誠一『興教大師覚鑁聖人年譜 上・下』を下敷きにして覚鑁の生涯と思想を平易に述べたものであるが、意外と読みにくい。それは、覚鑁の生涯が編年的に語られていないこと、年表がないこと、括弧を多用する独特の文体などが要因である。さらに、旧来の覚鑁の伝記に対して著者は強い不満を持ち、それを訂正しようとする意図が大きいために、叙述がやや感情的になっているように見受けられる。

私自身の興味は、覚鑁の「心」の思想にあったが、覚鑁の数多くの著作を概観して内容を紹介してくれていたのは「心」思想の検証には有り難かった。『真言三密修行問答』『三界唯心釈』などは、親鸞の信仰主義に繋がる内容だと感じられた。

覚鑁についての唯一かつハンディな貴重な評伝。

【関連書籍の読書メモ】
『増補 高野聖』五来 重 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/04/blog-post.html
高野聖に光を当てる本。覚鑁についても記載があるが、著者白石は五来の覚鑁観には賛成していない。

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2024年1月5日金曜日

『修験道史入門』時枝 務・長谷川 賢二・林 淳 編

修験道史の研究状況を整理した本。

修験道史は、仏教に比べ非常に人気のない研究分野である。修験道とは何か、といった基本的な事項すらも、十分にわかっているとは言いがたい。しかし近年、若手による新しい視点の研究も出てきた。そこでこれまでの研究状況を整理して見通しをよくし、修験道史研究がより盛んになることを期待して編まれたのが本書である。

第Ⅰ部 修験道史研究の基礎

「第1章 修験道研究の前夜」(林 淳)では、「修験道」が客体化されるまでの経緯を述べる。

近世の修験道は、大まかには本山派(=聖護院門跡を戴く)と当山派(=醍醐寺三宝院門跡を戴く)があるが、本章は当山派の動向をキーにして「修験道」が現代にどう生き残ったか、あるいは再構成されたかを述べている。醍醐寺は古義真言宗の寺院であるが、近世においては新義真言宗の寺院も醍醐寺・仁和寺・大覚寺などの古義寺院において「事相の法流」を相承する必要があった。要するに、新義寺院は古義寺院の傍流として位置づけられ、本末関係に緊張を孕んでいた。それが明治政府の神仏分離政策と管長制などで表面化する。

明治20年(1887)、醍醐寺が寺法を制定し、新義寺院に一寺あたり20円の寄附を募ったことがきっかけで新義寺院が反発。明治27年、醍醐寺末の新義寺院がまとめて智山派(真義真言宗、智積院末)に転派した。しかしこれに異を唱えたのが同じく新義真言宗の豊山派(長谷寺末)。智山派も豊山派も、醍醐寺に報奨金(裏金?)を渡していたというスキャンダルがあり事態が昏迷(=醍醐寺離加末事件)。結果、ほとんどの醍醐寺末の新義寺院が智山派・豊山派に転派してしまい、醍醐寺末に残ったのは僅か160ヵ寺ほどであった。

こうして結果的に、醍醐寺では残った修験者が最大の経済基盤になってフォーカスが当たり、明治34年に醍醐寺に「修験部」が創設、後に「恵印部」となり、「本当山派の修験者が、醍醐寺の山内のなかで格上げされて、事相を相承される立場となった(p.16)」。

そして修験者側でも、この流れに棹さした。円覚寺の住職だった海浦義観らは明治41年に雑誌『神変』を創刊。大正11年創刊の『修験研究』にも関わった。これらの雑誌によって醍醐寺派の寺院の間で情報共有が可能になり、教学・儀軌の書物が収集・公開された。また中野達慧(本願寺派)の『日本大蔵経』に「修験道章疏」が採録されたことも追い風になった。こうして海浦らによって大乗仏教に修験道が位置づけられていった。

こうした状況に、明治時代末からの神社・寺院の整理(いわゆる神社合祀問題)が意外な面から影響を与えた。醍醐寺の恵印部でもこれを受けて寺院整理を進めた。修験寺院の場合、世襲的に相続されてきた小寺院が多かったためか、大正8年、恵印部寺院768ヵ寺が真言本宗へ編入された。こうして醍醐寺に最後に残ったのは、俗人の修験者であった「一世僧(寺院を持たぬ修験者)」であった。「修験道を活性化させたのは、この一世層の活躍だった(p.25)」。

彼らの活躍が柳田国男(『修験研究』の購読者だった)の民俗学や、宗教民族学の先駆者である宇野圓空に注目され、修験道こそが「民族化された仏教」であると発見され、修験道研究が進んでいくのである。

本章はたいへん興味深い視点を提供している。はっきりとそう書いているわけではないが、近代の修験道を担ったのは、傍流中の傍流だった。彼らが遡及的に「修験道」を形成したという視点に立てば、そこにある種のバイアスがなかったとは言い切れない。修験道は古代から継承されたものではなく、近代になってから創造されたものだという側面がありそうだ。

「第2章 修験道研究の歩み」(長谷川 賢二)では、修験道研究の歴史を概観している。修験道研究にとって画期的な業績だったのは和歌森太郎の『修験道史研究』(1943)で、史料の博捜の上に立つ実証的な修験道史が初めて編まれた。戦後は堀一郎や高瀬重雄、村山修一が修験道史に取り組み、神仙思想や陰陽道といった思想的要素が修験道史に取り入れられた。

民俗学の立場からは、五来重が庶民信仰研究の一環として修験道史を研究。五来は修験道を原始宗教として称揚した(が、その立場は現在では一般的ではない)。宮本袈裟雄も民衆宗教の観点から「里修験」に注目して『里修験の研究』(1984)をまとめた。

また、『山岳宗教史研究叢書』(第1期、第2期)がまとめられるとともに、宮家準編『修験道辞典』が刊行された。特に宮家準は修験道研究を集成・集約化して、膨大な著作をまとめた。その見解では「修験道は、日本古来の山岳信仰を基礎とし、シャーマニズム・仏教・道教・神道などの影響をもとに平安時代後期にできあがった宗教体系(p.43)」とまとめられる。

ちなみに、戦後歴史学においては黒田俊雄の顕密体制論は修験道史研究にも大きな影響を及ぼした。黒田は顕密仏教のあり方の一つとして修験道を捉え、修験道への新たな視角をもたらした。

それまでの研究は古代から中世がメインであったが、近世・近代の修験道の研究の端緒を開いたのが高埜利彦『近世日本の国家権力と宗教』(1989)である。しかし近世の修験道史はままだまだ未開拓な部分が大きい。

「第3章 修験道史料と研究方法」(時枝 務)では、修験道史研究に用いることができる各種史料について述べている。しかし具体的な史料への整理までは至らず、著者自身「おもに史料の種類と性格の概要を述べるに留まった」としている。

第Ⅱ部 修験道史研究の諸問題

「第4章 修験道の成立」(徳永 誓子)では、修験道の成立について再考を催している。修験道は7世紀末に生存したとされる役小角(えんのおづの)を始祖とするが、これはとうてい史実ではありえない。『日本霊異記』の記載でも小角が修験道なる一宗派を開いたとは書いていない。通説では修験道が成立したのは平安時代とされるが、「修験道」という言葉が使われるのは、平安時代から数世紀後である。「修験道」をどう定義するかも、その成立を考える上では重要である。

五来重は、修験道に原始性を見出していたため、それを古来から続くものと考え、平安期にいわゆる「修験道」が成立したと考えたが、それを組織編成へと向かう形骸化の時代だと捉えた。

宮家準は、修験道を「諸霊山で修行して験を修め、それを用いて呪術的活動をする宗教」と定義してその成立を中世初期とした。これは、大峯・葛城・熊野など中央霊山の伝承をまとめた『諸山縁起』の成立によるものである。

五来と宮家の立場は異なるが、彼らに共通するのは修験道を「日本固有の宗教」と位置づけ、そこに国家から捨象された民衆的なるものを見出している点である。

ここで著者は、顕密体制論から考える修験道の見解を表明している。「修験」の初出は『日本三代実録』貞観10年7月9日条。山岳修行で得られる験力を指す言葉だった。これに「道」が付くのは13世紀。この「修験道」の成立は13世紀末〜14世紀である。それは顕密仏教の一分野であり、「顕密仏教の内部で自身の独自性を強調されるために確立された概念だと考えられる(p.87)」。

そもそも、古代中世において山伏(この言葉は本章において定義されずに使われている)のみで構成される寺社は多くなく、むしろ学侶や衆徒などと称される者が経営の主体を担っていたとみられる。また多くの山伏は密教僧・顕教僧としても活動していた。さらに特定の山岳を冠する「○○修験」といった存在があったのかどうか。例えば「熊野修験」などというが、非常に曖昧な概念である。このような根本的な概念への疑問を呈したのち、著者は「極言すれば、修験道とは庶民信仰と言われるものの上層を覆っているのではないだろうか(p.91)」と述べている。第5章の主張と細かい点で齟齬はあるが、エキサイティングな論考である。

「第5章 山伏集団の形成と諸相」(長谷川 賢二)では、山伏という存在について顕密仏教の立場から論じている。

まず、山伏は「山林修行を専業とする聖を、次第に限定的にとらえて(p.96)」いうようになった語であるとする。これは修験者とどう違うか。

顕密仏教では、寺院は哲理を究明する「学侶」、僧に仕える身分である「堂衆(どうしゅ)」、世俗的実務を担った「行人(ぎょうにん)」、という、大まかに3階層で形成されていた(名称は寺院によって異なり、役割分担も様々)。大学に譬えれば、学侶=教授、堂衆=講師・技術者、行人=事務職員とでもなるだろうか。言うまでもなく、学侶が寺院の上位を形成していたが、学侶たる顕密僧(正式に得度・受戒し、国家から認められた僧侶)も修験の修行を行っていた。

一方、興福寺や東大寺の堂衆が「山伏」としての活動を行っていた。僧侶社会においては山伏は傍流的存在であり、社会的地位が低かった。というより、寺院社会の主流である学侶クラスへの対抗的な意図を持って「山伏」という概念が形成されたのかもしれない。つまり、中世後期に、堂衆・行人クラスの寺院下層部が、霊山等での修行を先導するという寺院外の行動に活躍の場を見出し、自らを「山伏」と規定して集団化していったと考えられる。その背景には鎌倉時代後期の戒律復興運動や遁世僧集団の形成といった趨勢もあった。

こうしたことから、「山伏の結合組織には、宗派や本末関係を超えたネットワーク(p.106)」があり、当山派・本山派のような修験道組織に収斂しきれない可能性があったといえる。

「第6章 本山派」(近藤 祐介)では、修験道本山派の成立と展開を述べる。

本山派とは、「聖護院門跡および聖護院門跡を本山(棟梁)とする山伏身分集団によって形成される組織(p.109)」としている。

まず、中世後期に山伏集団に自律的な集団形成の動きがあった。14世紀末には、熊野三山検校による熊野三山の支配が展開。そして熊野三山検校職は聖護院の再興をきっかけに聖護院門跡が相承するようになった。熊野本宮・那智大社の実質的な運営を担っていたと考えられる諸職は聖護院門跡が任命している。15世紀からは聖護院門下として熊野三山奉行職を担った若王子と乗々院による熊野先達職補任が行われ、16世紀後半になるとその支配が直接聖護院門跡に移行した。

和歌森太郎は15世紀に本山派が成立したとしたが、15世紀には聖護院は若王子・乗々院に支配を委ねており、熊野先達(在地山伏)との関わりは間接的である。室町期の聖護院門跡の活動は熊野三山領などの荘園や公武祈祷における供料で支えられていたと考えられ、全国の山伏を編成しようとする動機も乏しい。 

ところが16世紀初頭、聖護院門跡は5年間だけ熊野三山検校職を失った。これにより熊野三山領の荘園の領有まで否定されてしまう。この経済的打撃を受け、聖護院門跡道増は熊野先達のみならず各地の山伏を編成し、彼らの身分と宗教活動を保証する代わりに役銭を納入させることにした。結果、若王子を廃して聖護院門跡が各地の山伏に直接令旨を発給する体制になった。

では山伏の側が役銭の納入に応じたのはなぜか。例えば関東では、鎌倉公方護持僧として幕府の庇護を受けた月輪院が「関八州」の山伏組織を率いていた。ところが鎌倉幕府が崩壊して状況は一変。また山伏の側でも、15世紀末頃から祈祷活動や祭祀などを村落へ定着して行うようになっていく。このような状況を受け、新たな宗教的上位権威である聖護院門跡が必要とされたのである。というのは、戦国期には自身の獲得した「霊場」や檀那をめぐる山伏同士の競合関係が生じ、紛争が発生していたからだ。

そして山伏側では、この状況を利用して勢力を拡大しようと目論む者が現れ、聖護院門跡と結びついた不動院(幸手)・玉瀧坊(小田原)によって関東の山伏が統括された。領域的に檀那・同行(末端山伏)の支配を認める「年行事職」へ補任される体制が登場し、本山派が成立した。

豊臣政権では聖護院門跡は大仏住持(方広寺別当)を務めるなど重んじられており、在地山伏編成は豊臣政権の後ろ盾で行われた可能性もある。しかし江戸幕府が成立すると、金襴地袈裟の補任権をめぐり聖護院門跡と醍醐寺三宝院門跡の間で相論が起こって本山派と当山派の対立が激化。慶長18年に修験道法度が出て、本山派・当山派がともに別格とされ、本山派による山伏の一円編成が否定された。そこには聖護院門跡を弱体化させる政策的意図があったと考えられる。

しかし、ともかく修験道本山の地位が公認されたことで山伏の組織化が進み、門跡ー院家ー先達ー年行事ー同行、といった寺格からなる上下統属関係(本末体制)や触頭制度が整備され、17〜18世紀には山伏の身分集団化が進展した。

そのような中、17世紀半ばに、他宗との相論で山伏による葬祭活動が禁止された(祭道公事)のは注意を引く。また元禄期には、期限付きながらも入峰修行の不参が容認されるなど、組織統制が後退。その背景には同行たちの経済的困窮がある。近世後期には村落住人からの加持祈祷などの依頼が減少したのか、行人たちには上洛や修行・補任にかかる諸費用がまかなえなくなっていた。そして明治政府による修験道廃止令によって本山派は解体された。

「第7章 当山派」(関口 真規子)では、当山派の歴史を通史的に述べる。

当山派とは、「聖宝を流祖と仰ぎつつ、吉野大峰での苦行(斗藪)に勤め、17世紀初頭から京都の醍醐寺三宝院門跡を棟梁と仰(p.131)」いだ修験集団である。

しかし、三宝院門跡による修験支配を受ける前のプレ当山派は、主に興福寺堂衆によって統率されていたと考えられており、本章では関口真規子の整理に従って、「特定の棟梁を戴かず先達衆の自治で組織を運営した当山派を「当山」方、三宝院門跡を棟梁に据えて本山派と比肩してからの当山派を「当山」派として区別(p.132)」している。(ちょっとわかりづらい用語である。)

さて、中世の興福寺では、戒律復興の流れから堂衆たちが山林抖擻を務めるようになったが、それには「当行(とうぎょう)」と「入峯」の2形態があった。「当行とは、南都諸大寺に近接する春日山で夏と冬の年に二回行われる斗藪(p.134)」で、樒を切り出す作業であった。入峯とは、大峯での花供・逆峯修行で、堂衆の最上位である堂司への昇進に不可欠な行である。しかし南北朝期には当行・入峯の意義は弱体化し形骸化した。一方、「堂衆に率いられて入峯を勤めた集団は、所属寺院の本末関係や寺格よりも入峯度数の多寡を最重要視するように(同)」なって、堂衆から独立した修験者集団となった。これが「当山」方である。

だが、「当山」の語は1465年の史料に見いだせるものの、「当山」方成立の正確な時期は不明である。「当山」方は先達衆と呼ばれる集団によって運営され、これは大和国を中心に畿内・紀伊・伊勢に分布する寺院に属する修験者からなった。 彼らは師資関係を「袈裟筋」と呼び、毎年7月6日から行われる逆峯の折りに臈次(年次)に従って順次昇進し、役職を上り詰めたら「前官」として「当山」方から退いた。なんだか官僚制を思わせるシステムである。なお同じ寺院(真言宗が多かった)に止住する修験者が先達職を継承することで先達衆が維持されていたが、宗派との関連は自明ではなく、「当山派すなわち真言系修験者集団」といえるのかどうか議論は尽くされていない。

彼らは先達衆の自律的な運営によって成長したが、「先達衆寺院」である内山永久寺の院主上乗院を仰いで入峯することもあった。しかし「第6章 本山派」で述べたように、聖護院門跡は、修験者の身分と宗教活動を保証する代わりに役銭を納入させようとした。「関東真言宗」と称する寺院の集団は「註連祓」の執行をする際に聖護院門跡から役銭を課されたのを不服として徳川方へ訴え、訴訟の中で三宝院門跡の擁護を仰いで、「註連祓は真言宗として行うものなのだから他宗の聖護院に役銭を納めるのは理不尽だ」として認められた。

三宝院門跡は、中世の聖宝が山林修行を行って開山したとされるが、門跡の義演は聖宝以来断絶していた入峯を遂げる意志を示して「当山」方の修験者との関係は急速に進展。慶長7年に金襴地袈裟着用の許可を「当山」方修験者へ与えることで、「当山」派棟梁となっていった。なお義演はこの時点では入峯の経験がなかったが、聖宝の正嫡であったことが正統性を担保したとみられ、徳川家康から修験道法度によって当山派が認められたことを「再興」と記している。

こうした経緯から、「当山」派は真言宗の性格を強く持ったが、真言宗の本末関係が「当山」派形成にどのような役割を果たしたかは不明である。先達衆は棟梁を仰ぎつつも、自治体制の維持を図っていた。

寛文8年(1668)、三宝院門跡高賢は幕府の許可を得たうえで、同門跡として初めて入峯し、「当山」派の棟梁としての立場(修験道之管領)を確立した。また教義の側面でも整備が勧められ、聖宝を祖とする「恵印流」が創設された。なお三宝院は修験道支配の実務を鳳閣寺を仰せつけ、鳳閣寺と正先達衆による二元支配となった。正先達衆は、「幕末に至るまで袈裟筋を維持しながら、衆として補任状を発し、棟梁とは異なる系統の「当山」派管理をおこなった(p.149)」。

「第8章 羽黒派」(高橋 充)では、羽黒派の歴史と研究状況をまとめている。羽黒派とは出羽三山を主要な活動の舞台にする修験道の一派である。出羽三山は、一般的には月山・湯殿山・羽黒山を意味する。

11世紀末までに出羽三山への山岳信仰に仏教的な意味づけが与えられ、12世紀~16世紀末には初期出羽三山(羽黒山・月山・葉山)が成立し山岳修行が行われたが、まだこの頃は三山を統括する組織は存在しなかった。17世紀初めごろまでに新出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)が確立。これは湯殿山寂光寺の主導であったようだ。さらに江戸時代になると、修験道法度によって本山派・当山派のどちらかに所属しなければならなくなったことで羽黒山と湯殿山が対立。寛永・寛文の相論で湯殿山が分離し、湯殿山は真言宗、羽黒山が寛永寺末となって分離した。

本章では羽黒山をめぐる美術史・考古学・建築史・歴史地理学などがまとめられているが、本メモでは割愛する。ただ、羽黒山の鏡ヶ池から発見された大量の銅鏡については興味深い。

「第9章 彦山派」(櫻井 成昭)では英彦山をめぐる修験道の歴史と研究が概観されている。彦山派は、福岡と大分県の県境にある英彦山を中心とした修験道の一派である。なお英彦山は霊元天皇により享保14年(1729)に英の字を冠することを許されて「英彦山」となっており、その以前は「彦山」である。

彦山で山林修行をする宗教勢力が出現したのは古く、嘉保8年(1094)に「彦山大衆」による蜂起が起きている。彦山は宇佐八幡宮とその神宮寺である弥勒寺と結びつき、天台宗の影響もあったようだ。12世紀には宇佐八幡宮・国東六郷山・求菩提山・彦山など北部九州の山岳霊場にネットワークがあったらしい。そして12世紀には彦山に如意宝珠が所在したという縁起が語れるが、これは王権との結びつきも窺わせ、養和元年(1182)には、後白河院が新熊野社を建立したことに伴って、彦山が同社に編入された(!)。

なぜ新熊野社に編入されたのかは詳らかでないが、これにより宇佐八幡宮から独立し、一つの「荘園」として成立したとみられる。中世になると、元弘3年(1333)に、後伏見天皇の第6皇子である助有法親王が「彦山座主」になった。これは以後世襲座主となる。彦山は天皇家と結びつき、一種の門跡を戴いたことになる。

16世紀には阿吸坊即傳による印信(師資相承の証)が作成されて彦山流として一派を名乗るようになった。江戸時代の彦山は「衆徒方(仏事を担う)」「行者方(修験行事を担う)」「惣方(神事を担う)」の3つの集団で構成されていた。修験道法度への対応では、本山派・当山派のいずれへの所属も拒否し、寛永寺(天台宗山門派)などの助けにより、元禄元年(1696)に、本山派・当山派のいずれからも干渉されない別山として認められた。「江戸時代、彦山は多くの坊を有し、宝永7年(1710)には山内の人口は3000人をこしたという(p.186)」。

「第10章 里修験の活動と組織」(久保 康顕)では、里修験について概説している。里修験とは、祈祷やまじないなどの呪術的活動を行いながら村の一員として定住して活動した修験者のことを指す研究上の用語・概念である。この概念は、民俗学者の宮本袈裟雄『里修験の研究』で提唱された。

そのような概念が必要となったのは、それまでの近世の修験道への軽視があった。特に山林修行をすることもなく、村で迷信的呪術活動に従事する修験者は、堕落した存在とみなされ、研究するまでもないと思われていた。しかし宮本はそうした修験者が広範な宗教活動をしていたことに注意を促したのである。これにより、宮家準は修験道の真実の姿は、「末端修験者の呪術的宗教活動にこそ求められるべき(p.192)」と里修験を評価した。

とはいえ、里修験の実態は、未だによくわかっていない。まず、彼らはどのような組織の中で位置づけられたか。近世の修験者は本山派か当山派に所属したが、近世初期には「両派間における里修験の帰属をめぐる争いが顕在化(p.193)」したばかりでなく、しばしば吉田家との間にも起こっていた。里修験は呪術活動の傍ら、地域の小祠や鎮守などの管理・祭祀を担っていたからだ。里修験を修験者と見なすか、神職と見なすかは当時の人にとっても自明ではなかった。吉田家は神事や神楽を勤めているなら吉田家から許状を取得するべきだと主張していた。

一方、本山派と当山派には支配の形態に違いがあった。本山派は「霞支配」といい、領域的に組織化されており、先達や年行事と末端修験の間に師弟関係や教学伝授は必須ではなかった。一方当山派は、「袈裟筋支配」といい、師弟関係に基づいた支配であった(実際に師弟であったのではなく、便宜的な関係だったかもしれない)。しかしいずれにしても、身分は農民で、宗門人別改では一般仏教寺院の檀家として登載された。つまり身分は俗人であり、修験寺院所属でもなかった。里修験はとらえどころがない。

著者は里修験の存在そのものに対し、「しかし実際には定着の様相を示す明確な史料は見当たらず、実証されていないのが実情(p.204)」と述べ、陰陽師などを含む「種々の民間宗教者が、霞という枠組によって修験者へと追い込まれていった可能性を否定できない(同)」と意味深なことを述べている。

つまり、そもそも里修験という概念自体、後世の附会かもしれないのだ。私自身、里修験は山林修行をしていないのに、その験力の源泉は何だったのだろうかと疑問が湧いた。里修験は、修験者と呼べるのかどうか、先入観にとらわれずに検証していくことが必要である。

最後に、本書では「必読文献案内20選」として、修験道研究の基盤となる本が案内されているがここでは割愛する。

備忘

通常の読書メモの場合はここで終わるが、私自身の備忘のため、以下では修験道の歴史について理解したことを、スケッチしてみたいと思う。なお「修験道」という用語は、ここでは「現代の修験道に連なる思想・集団」という広義の意味で使う。

まず、修験道のことの起こりは、古代末期から中世の顕密仏教の在り方にある。顕密仏教(南都六宗+密教)では、寺院内の立場は出身の家格とリンクし、貴族でなければ学侶として出世できない仕組みになっていた。堂衆や行人は得度する機会を得ることも簡単ではなく、行人→堂衆→学侶と昇進が可能なシステムではなかった。

ところで、戦乱や飢饉・疫病に対していくら顕密僧が祈祷してもその効果はなく、それどころか治承4年(1181)、東大寺や興福寺が焼け落ちるという南都焼討が起こった。こうしたことから顕密仏教の無力が露呈し、仏教の改革が必要だと感じた人々によって戒律復興運動や鎌倉新仏教の動きが起こってきた。そのような中で寺院内での出世が望めない堂衆や行人は、戒律や修行の重視という趨勢を捉え、山林修行という寺院外の活動に生きがいを見出したに違いない。これが修験道修行の始まりだったとみられる。

つまり彼らにとっての修験道とは、一種の業務外活動であったのではないだろうか。今でいえばサークル活動や組合活動、副業にあたるものだろう。当山派が年次と入峯回数によって昇進していくシステムを整えたことは、彼らが「本業」で昇進が望めなかったことの裏返しのように思える。そして修験道が、宗派や本末関係とは別のネットワークを持っていたこともそれが本業以外の活動であったことを示唆する。

ただし、当山派においては、当行や入峯が南都寺院の活動として位置付けられており(本書第7章)、業務外活動とはいえない。堂衆たちは、あくまで自身のキャリアに箔をつけるために修験道の修行をしたような形跡がある。しかし堂衆たちに率いられた行人などのクラスにとっては、どうせ昇進できない寺院での仕事に勤しむよりも、山林修行の方をメインに据えた方が有利だと感じたのではないだろうか。当時の山林修行は多くの人にとって魅力があり、その先達(山岳ガイド+儀礼指導のような存在)となれば収入が見込めたと考えられるからである。

しかしながら、そうした活動が業務外活動だったとすると、雇用者(寺院)から快く思われないのは当然である。何しろ、入峯修行にはかなりの日数を要したに違いない。休暇のような制度があったとも思えるが、山林修行がメインになってくると寺院を退職せざるを得ないであろう。こうして山林修行者がフリーランス化して、「山伏」が生まれたのだと思う。

とはいえ、フリーランスの生活が厳しいのは今も昔も同じである。よって、顕密仏教とつかず離れずで山伏をしていた者も相当数いると思われる。例えば「関東真言宗」と呼ばれる存在はそういうものだろう。そして彼らは、山林修行の権利や職務を保護してくれる存在を頼るようになり、次第に上位権力が形成されていった。労働組合運動が、全国組織へ接続していくようなものだ。

そうして行きついたのが門跡という近世における最上位権力であったと言える。すなわち、聖護院門跡や醍醐寺三宝院門跡が、それぞれの山伏の宗派とは微妙なずれを抱えながらも庇護者となった背景には、今でいえば本社ー子会社のような関係ではなく、労働組合ー県連合会ー連合のように、社外の関係に基づく力学があったのであろう。ここまでが15世紀ごろまでの話である。

そして近世権力によって、全ての山伏が全国組織に統括されていくことになる。そのきっかけは聖護院と三宝院の勢力争いだったと思われるが(というのは、修験道法度は寺院法度よりもだいぶ早く出されている)、戦国時代までの曖昧な状況から一転して、強固な身分制が形成されていく中で、フリーランス山伏たちが身分的に安定した状態を必要としたという事情もあったと思われる。

ここで一つ疑問なのは、「修験寺院」という存在である。本書ではこの用語は定義されずに使われているが、修験寺院とはいったい何なのか。例えば出羽三山には羽黒山寂光寺があったが、近世以前は真言宗であったといい、後に天台宗になった。また彦山の山頂には霊仙寺があり、これは天台宗だった。つまり修験宗という宗派の寺院はなく、真言宗や天台宗の寺院を便宜的に「修験寺院」と見なしているように思われる。

山林修行を中心とした活動が行われている寺院でも、真言・天台の枠組みの中で存在しているのである。そもそも「修験道」なる「宗教」が近世以前にあったということ自体が疑わしい。修験道は、仏教の枠組みの中での「あり方」の一つだったと考える方がよいように思う。あるいは、現代の組合活動のように、本業とは異なるレイヤーの存在だとみなした方がよいのか。

明治政府の神仏分離政策では、唐突に「修験宗廃止令」が出されているが、これ以前に「修験宗」があったのか、なかったのか。むしろここが「修験道」の出発点で、遡及的に「修験道」という「宗教」が発見されたのではないか。本書を読んだだけでは、そのあたりは詳らかでない。しかし、「修験道は自明のものでない」という刺激的な観点を本書は提示している。

私は10年以上前に、和歌森太郎『修験道史研究』、宮家準『修験道』を読んでいるが、その時は疑いもしなかったことが本書では次々と問題提起され、顕密仏教からの視点で描く修験道史は全く新鮮で蒙を啓かれる思いであった。

修験道の研究と歴史を批判的に総合した本。

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2024年1月1日月曜日

『人口から読む日本の歴史』鬼頭 宏 著

日本の人口の歴史を述べる本。

歴史人口学という学問がある。簡単に言うと、過去の人口を推計する学問である。人口は社会を表す最も基礎的なデータであるが、残された史料からの推計はなかなか骨が折れる(というかほとんどの時代で正確な推計は難しい)。 本書は、歴史人口学によって過去の日本人口の推移を述べるものである。

日本の人口増加には4つの波(増加の時期)があった。第1は縄文時代、第2は弥生時代から始まる波、第3は14〜15世紀に始まる波、第4に19世紀に始まり現代まで続く波である。この波=人口増加は、「一つの文明から新しい文明への過渡期(p.22)」を示している。

しかし重要なことは、この波やその間の人口停滞期にあっても、日本の人口は各地で増減をしており、決して一様に増えたり減ったりしたのではないということだ。

縄文時代では、前期には人口増加し、後期には人口が著しく減少する。だがその内容を見てみると、前期に増加したのは東日本が中心で、後期に著しい減少を見せたのも東日本。一方、西日本は後期にも減少した地域はないのである。これらの総計で全体のトレンドが決まっているのである。東日本での人口増加はクリなどの堅果類に支えられたものであったが、後期の寒冷化によって打撃を受けた。一方、元来照葉樹林帯で堅果類が少なかった西日本では、イモ・豆・雑穀などの焼畑農業の受容によって徐々に人口が増加したのである。

各種の推計に拠れば、弥生〜奈良には人口増加する。この時、西日本の人口比重が著しく高まった。この人口増加は、言うまでもなく稲の栽培によってもたらされたが、意外なことに4〜7世紀は古墳寒冷期と呼ばれる低温期にあたっていた。この人口増は10世紀には成長が鈍化して停滞した。しかし東日本では相変わらず増加が続いて、再び東日本が西日本人口をしのいだ。なお8世紀初期の人口増加に歯止めをかけたのは天然痘の流行だったと考えられる(ファリス)。

律令時代には戸籍がつくられ、初めての人口調査が行われた。また課税台帳も残っているため古代の人口はかなり正確に求められる…と思うのは早計で、完全な史料がないだけにやはり推計は難しいが、鎌田元一の推計よると、平安時代の全国人口は451万人である。しかし水田に依存しない集団の人口はこれには含まれない。

11〜12世紀は気候が温暖になり植物の生育に好ましい気候となる。「国風文化の成立期が、温和な10世紀、高温湿潤の11世紀であったことは無関係ではないだろう(p.67)」。だが11世紀からの数世紀は全国的な人口調査が行われていない空白期にあたる。再び人口調査が行われたのは、江戸時代の1721年であった。

そのため、第3の波の具体的な様相はよくわからない。本書では第3の波の開始についてはほとんど触れていない。

代わりに詳細に述べられるのが、その最終局面である江戸時代初期=17世紀の人口増加である。江戸時代には、戸籍のような役割を持つ宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)が作成されたので、多くのことがわかるのである。それによれば、17世紀の人口増加は、世帯規模と世帯構造の大きな変化を伴っていた。

すなわち、世帯規模が縮小し、それまで世帯を構成していた隷属農民が少なくなった。これは、小農経営を基盤に据えた豊臣秀吉・徳川家康の政策の影響もあるが、荘園制の後退や貨幣経済の進展でそれぞれが利潤を求めて行動した結果という側面が大きい。ともかく有配偶律が低い隷属農民が減り、未婚のオジ・オバがいなくなったことで、生涯独身率の低い「皆婚社会」になったのである。さらには15〜17世紀の衣食住全般の生活水準向上によって死亡率も改善した。

18世紀には人口停滞期に入る。なぜ18世紀の人口は停滞したのか。従前、重い貢租を課された農民の間で堕胎・間引きが行われたことや、度重なる飢饉と流行病がその原因とされてきたが本当なのか。しかし地域別の人口増減を見ると、西日本ではむしろ人口増加している地域も多い。特に四国や南九州、山陰・山陽などは人口増加率が大きい。これらが幕末に活躍する雄藩の立地地域であることは偶然ではないのだろう。つまり、いろいろな地域のプラス・マイナスの総計で見かけ上人口が停滞しているように見えるといえなくもない。

しかしながら、日本全体を平均すれば人口は停滞していたのも間違いない。その原因は何か。第1に、都市に人口が集積したことがある。都市は高い死亡率と低い出生率によって、人口減の要因を作った。都市は「一種の蟻地獄」だった。第2に、堕胎や間引きなど人口が増加しないようにする方策が確かに行われていた。では農民が貧しかったというのは事実なのか。

ここで本書では、宗門人別改帳からわかる江戸時代のライフヒストリーを分析している。これはなかなか面白く、例えば下層農民の女子は結婚が遅かった(出稼ぎ・奉公人をするため)などというのは示唆的である。また江戸時代は離婚が多く、5年以下で結婚が終了(死亡も含む)した夫婦が4分の1もいた(信濃国湯沢村の場合)。そして俗に「貧乏人の子だくさん」というが、江戸時代は逆で、土地を多く所有する家ほど出生数が多かった。

しかし江戸時代が総じて多産だったのは本当で、それは死産や乳幼児の死亡率が高かったからである。なお女性の産褥死も多かったので、平均寿命は女性の方が短かった。こうした様々な要因から導かれる、人口維持をはかるのに必要な夫婦あたりの出生数は、4人強となる。これは簡単そうに見えるが、全ての人間が結婚し子どもをもうけるわけではないので完結家族の出生数はもっと多く、人口維持は簡単ではなかった。そして先述の通り下層農民では女子の結婚も遅く出生数が少ないので、結果として地主層における人口増大、それ以外の層での人口減少となった。

死亡率については、飢饉の年などの異常な年では高かったが、いつでも高いというわけではなかった。季節で見ると旧暦5月を中心に春から夏にかけて死亡の山があった。これは夏季の食中毒と、食物の端境期だったためである。痘瘡や麻疹の流行も死亡率を高め、特に幕末には流行が集中した(痘瘡(1838〜39)、麻疹(36〜37)、風疹(35、36)、流行性感冒(31、32)など)。特に安政(1858)のコレラの流行は、江戸の住民の4分の1が死亡するほどの大危機だった。

こうした中、農民の堕胎や間引きはどうして行われたか。実は間引きは下層武士のあいだでさえ行われており、貧窮は真の原因ではなかった。その家族構成を分析してみると、それは将来の生活水準の維持・向上を目的として行われたらしいことがわかったのである。

第4の波については、工業化の結果ではなくその半世紀ほど前の幕末から始まっていた。それは化政期にあたっていたが、その人口増加のメカニズムは、楽観的な将来予測が広まったことにあるという。そして明治時代になると、生活の向上による出生率の増加と堕胎・間引きの減少によって人口増加した。しかし1920年代には人口の近代化が始まり、郡部でも出生率が低下するとともに都市部の死亡率が下がった。1960年代には低死亡率・低出生率の社会となった。

こうして、女性が長い出産・育児の期間から解放されたことは革命的な意義がある。江戸時代の夫婦は子どもを産み育てることに人生の多くが費やされ、老後と呼べる期間はほぼなかったのであるが、今は逆に子どもを育てた後が非常に長くなった。寿命が延びたことは好ましいが、親の面倒を見る期間が長くなったことは負担も増やしている。

本書は終章として「日本人口の二十一世紀」と題し、人口と文明システムについて述べている。著者は4度の人口の波を4回の文明システムの転換を示していると考える。そして歴史人口学の視点から現代の社会を見て、少子化や人口減少は必ずしも悲観的なものではなく、近代日本の新しい人口学的システムが形成されつつあると前向きに捉えている。ただしこの章の内容は、21世紀がほぼ4分の1を過ぎた今、やや楽観的すぎたように感じられる。

なお、私が本書を手に取ったのは、8世紀から10世紀の人口動態(特に飢饉や疫病による人口減)に興味があったからなのだが、その時代はちょうど何も書いていない空白の時期だったので少し残念だった。しかし全体としては面白く平易で、内容は興味深かった。

江戸時代を中心として、日本の人口の増加と停滞を概説した良書。

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『改訂 歴史のなかに見る親鸞』平 雅行 著

厳密な史料批判に基づいた親鸞の生涯。

親鸞は、800年以上前に生きた浄土真宗の宗祖である。であるから、当時の史料は僅かしか残っておらず、様々な伝説が後世に付加されている。従来の伝記ではそういった伝説も織り交ぜて親鸞像を描いていたのであるが、厳密な史料批判により、信頼できる史料のみに基づいて親鸞の生涯を描いたのが本書である。

なお、本書の原書は2011年に刊行され、その後に各所から批判を受けた。本書は、そうした批判に応えて書き直され、文庫化された改訂版である。

親鸞の生まれた時代は、仏教界の改革の気運が高まった時代であった。この時代は顕密仏教(≒南都仏教+密教)と国家が相互依存した状態(=顕密体制)にあり、顕密僧は官位と朝廷の法事に公請(くじょう=招聘)されるという特権を持っていた。しかし彼らがいくら鎮護国家を祈っても一向に効き目はなく、東大寺は焼け落ちてしまった。何か根本的に間違っているのではないか。そう考えた僧侶は、仏教の改革が必要だと考えるようになった。彼らは官位を持たず、聖とか沙弥とか聖人などと呼ばれる人々であった。

穏健改革派が掲げたのが戒律興隆である。栄西・貞慶・明恵・俊芿・叡尊などが採ったのがこちらの道である。一方、急進改革派の法然・親鸞・道元・日蓮らは、仏教を王権に超越するものと考える仏法至上主義によって、顕密体制から飛び出ようとした。事実、法然の『選択本願念仏集』は朝廷によって禁書になっている。日本の禁書第一号である。

さて、親鸞の伝記『親鸞伝絵(でんね)』では、親鸞は高位の貴族の子であり、9歳で慈円の下で得度したとあるがこれは本当か。『親鸞伝絵』を制作したのは親鸞の曾孫覚如。彼は親鸞の直弟子たちから主導権を奪って本願寺中心主義を樹立した人物で、相当なやり手だったことに注意しなくてはならない。

著者はまず親鸞の二人の伯父、日野宗業(むねなり)と日野範綱を取り上げ、どのように昇進しているかを分析する。宗業は学問で身を立て、儒学者として苦労した末、後鳥羽院に取り立てられて71歳にして遂に殿上人へ昇進した。一方、親鸞の養父ともいわれる範綱は、生涯後白河院に仕え、鹿ヶ谷事件でも流罪になっている。後白河院の側近中の側近であったことは間違いない。彼らの事績を詳細に検討すると、彼らは高位の貴族ではなく、中下級貴族に過ぎなかったことが明瞭である。まず、親鸞は高位の貴族の子ではなかった。

顕密僧になるためには、入室(弟子入り)・出家(得度)・受戒の3段階があった。親鸞は、実父が生きていたのに範綱の養子として入室している。日野一族の出世頭が範綱であったので、家柄に箔を付けようとしたのだ。なにしろ、当時の顕密僧の出世は、出身の家柄とリンクしていた。『親鸞絵伝』は脚色も多いが、親鸞の公名(きみな=父祖や養父の官名に基づいて出身家格を示すもの)は、範綱の位階を正確に反映しており、後世の附会ではありえない。よって9歳での得度は事実である。

慈円は天台座主にもなった実力者であるが、親鸞入室の頃はまだ立場が不安定で、鹿ヶ谷事件で反平氏の色がある範綱の子を弟子に取ることは政治的リスクが大きい。そして、『親鸞絵伝』の言うように親鸞が慈円の下で9歳から29歳までに20年間を過ごしたとすると、慈円に関する厖大な記録の中に親鸞(当時の名は範宴)の名が出てこないことは不自然と言わざるを得ない。

また、当時の延暦寺では、台密・天台宗・浄土教の順に重んじられ、台密を学ぶことがエリートコースであった。慈円は唯密(台密専門)である。一方、親鸞は延暦寺の堂僧を務めていたことが恵信尼(親鸞の妻)の書簡により明らかで、唯顕の僧侶であり、教義的つながりがない。また慈円と親鸞は居住場所が違ったと考えられ、範宴という名も慈円と共通点がない。よって慈円の下に入室したことは事実でなく、親鸞は名に「宴」がつく僧侶の下に弟子入りしたと思われる。

ところで当時の顕密仏教は、文献実証主義であり、論議(公開討論)を重視した。院政時代には院権力が仏法興隆を進め、二会・四灌頂・三講といった国家的法会が整備される。こうした法会で論議が行われたが、その論争に勝つためには経典とそれをめぐる学説が頭に入っていなければならない。そのために延暦寺はさながら総合大学の様相を見せた。鎌倉期には、そうした学問的な仏教文献学を土台として、思想としての仏教が現れてくるのである。

やがて親鸞は比叡山を下り、六角堂に百日参籠。95日目の暁の夢の中で聖徳太子から「行者宿報偈」「女犯偈」を示された。これは「宿報により女犯しそうになった時は救世観音が身代わりになって犯されてやるので、それを皆に広めなさい」との不思議な内容の偈である。赤松俊秀『親鸞』では、この時の親鸞の悩みは性欲に関するものだったとしているが、そうなのか。当時の顕密僧の妻帯は常態化しており、特に顕教系は妻帯が普通だった(密教系は祈祷の有効性から妻帯しない僧侶もいた)。これは、上皇が出家・受戒するようになったことも影響しており(彼らは出家・受戒後も俗的な生活を続け子をもうけた)、妻帯して子を持ち、子に院家を継がせるのが一般的になっていた。

つまり、中世の顕密仏教界で妻帯は公然と認められていた。であるから、著者は「実際には女犯が宿命であるはずがない(p.103)」として、ここでの「女犯」は「本人の意志を超えた普遍的で絶対的なあらゆる罪業の象徴表現と化した(同)」としている。しかし、厳密な実証主義に立って著された本書において、この主張は少し奇異である。そんなことは史料のどこにも書いていないからだ。また、妻帯は公然と認められ戒律は形無しになっていたのだから、親鸞が性の問題に悩んだはずはない、という考えも短絡的に感じる。例えば、現代は妻帯は普通で俗人に戒律はないが、性の問題に悩む人は多い。なぜ親鸞が性の問題に悩んだはずはないと断定できるのか。やはり信頼できる史料に「女犯」と書いてある以上、それが親鸞の悩みだったと考えざるを得ないと思う。

ともかく、この偈が契機となって親鸞は法然の下に入った。当時は法然の教勢が拡大した時期にあたる。元々浄土教では念仏の考えはあったが、それは凡夫のための方法で、徐々に高度な哲理により手法へ高めていくのが顕密仏教の考えであった。ところが法然は、人は皆平等に凡夫であるとして、専修念仏の教えを説いていた。しかも法然は念仏以外の行による往生を認めなかったから、顕密仏教との間に種々の軋轢を生じ、遂に貞慶が顕密八宗を代表して「興福寺奏状」を執筆して法然門下を批判。間の悪いことに法然の弟子による後鳥羽院の女房との密通事件が起きて「建永の法難」に至った(1206年)。ただし「建永の法難」では、密通事件の首謀者ら4名が死罪となっているなど刑罰が異様に厳しく、後鳥羽院による私刑の側面があるという。

そしてこの事件で還俗・流罪の処分を受けたのが親鸞である。当時の親鸞は、法然門下の中では傑出した存在ではなかったが、『選択本願念仏集』の書写が「興福寺奏状」の半年前に許されていて、興福寺側が親鸞を主要な弟子と考えたようだ。

こうして親鸞は越後に赴いたが、その流人生活は意外と穏やかだった。当時は小さな政府の時代で、流罪といっても在庁官人や御家人に身柄を一任しており、その裁量で自由に行動できたからだ。どうやら親鸞が預けられた人物は親鸞に庇護を加えており、それどころか妻となった恵信尼はその人の娘らしい。彼は流罪中に専修念仏の弾圧を批判する申状を朝廷に提出さえしている。なお玉日伝説(親鸞が九条兼実の娘玉日と結婚したという伝説)はとうてい史実ではありえない。

ちなみに、恵信尼はおそらく後妻であり、息子善鸞は前妻の子であると考えられる。前妻は「壬生の女房」であると思われる。恵信尼が三善為教の娘であるとする通説は根拠が薄弱で、むしろ「壬生の女房」こそ三善為教の娘である可能性の方が大きい。恵信尼の父は越後の勢力ある在庁官人であること以外は不明である。

親鸞は建暦元年(1211)に赦免されるが、京に帰らず、越後に留まってやがて東国へ伝道の旅へ出発する。「ここに親鸞という人物の個性があらわれて(p.176)」いる。

しかし、弾圧でも揺るがなかった親鸞の信心が、東国伝道の中でゆらいだ。そのきっかけに、上野国(群馬県)佐貫での経験がある。佐貫ではひどい旱魃にあたり、おそらくは地元の人たちの要請に応えて親鸞は浄土三部経を一千部読誦しようとし、途中で辞めている。専修念仏の考えと矛盾するからである。しかし読誦の中止は、地元の人々の力になってやりたいという慈悲の気持ちとも矛盾していた。さらにそこから20年ばかり経って、親鸞は「寛喜の大飢饉」に遭遇。無茶苦茶な気候の年で、鎌倉幕府にもどうしようもない、餓死者が溢れた大飢饉であった。読経してもせずとも、どうせ人々を救えないのであれば、せめて心に寄り添い南無阿弥陀仏を唱えようと親鸞は決心し、迷いが消えた。

さて、親鸞の思想といえば悪人正機説であるが、実はこれは覚如により事実を歪曲して伝えられたものである。では実際の親鸞は何を説いたか。『歎異抄』(唯円)と『口伝鈔』(覚如)に親鸞の思想の核心が似た文言で書かれているが、重松明久はその内容が全く違うことを発見した。

それは、「世の中の人は悪人でさえ往生するのだから、善人が往生するのはいうまでもない、といっているが」(ここまでは共通)、
【歎異抄】「他力を頼みにする悪人が元々往生の正因だが、善人でも他力を頼めば往生できるので、悪人が往生するのは当然だ」(悪人正因説)
【口伝鈔】「阿弥陀の本願は悪人のためのもの(正機)なのだから、善人が往生できるなら悪人が往生するのは当然だ」(悪人正機説)
とまとめられる。結論(=悪人が往生するのは当然だ)は同じだが、その理由に微妙なズレがある。

そもそも悪人正機説は親鸞の独創でなく、中国の浄土教で早くも主張されており、顕密仏教でも認められ、無住の『沙石集』にも表明されている。これを人は皆凡夫(=悪人)であるのだから、あらゆる人が対象になるのだと転換したのが法然であった。『口伝鈔』はこれを引き継いでいる。ところが『歎異抄』では、「他力を頼みにする悪人が往生できるのは当然であるが、善人は他力を頼む心が欠けているから弥陀の本願に適わない。だが善人が自力の心を翻して他力を頼むようになれば往生できる」と、「悪人」の方をプラスに評価しているのである。逆に「善人」を親鸞は「疑心の善人」と呼んでマイナスに評価する(『正像末和讃』)。つまり親鸞は「悪人」と「善人」の評価を逆転させているのである。よって、『歎異抄』と『口伝鈔』では結論は同じであるが、「善人」「悪人」の評価の逆転があるかどうかで内容が全然違うというわけだ。

そもそも、親鸞にとって(世間一般の倫理基準による)悪人か善人かの区別は本質的でなく、それよりも他力を頼みにするかどうか、すなわち信心の方が重大な問題であった。『正像末和讃』でも、「不思議の仏智を信ずるを、報土の因としたまへり」「信心の正因うることは、難きが中になを難し」などと信心を往生の決定的要因としている。親鸞はいわば「信心正因説」なのである。そして主著『教行信証』の化身土巻では、善人は念仏を唱えることを自分の善根と思っているから「信を生じること能わず、(中略)報土に入ること無きなり」と述べている。『正像末和讃』では、「自力称名のひとは皆、如来の本願信ぜねば、疑う罪の深きゆへ、七宝の獄にぞいましむる」とさえ述べている。本願を疑った罪がそんなにも重いものだとは私には意外に感じるが、ともかく親鸞にとっては信心こそ全てだった。なお、この信心主義ともいうべき思想には、親交があった聖覚の『唯信鈔』(1221)の影響が考えられる。

親鸞はやがて帰洛し、布教第一の生活から、子の自立を考えた暮らしへ転換する。そこで起こったのが東国門徒の動揺である。東国門徒の中で「阿弥陀仏はどんな悪人でも救ってくれるのだから悪を怖れる必要はない」との悪行・欲望を肯定する考え(造悪無碍)が広がり混乱した(とされた)のである。そこで親鸞は子の善鸞を派遣。ところが善鸞は「親鸞は自分にだけ本当の教えを授けた」と主張して東国門徒を支配しようとした。そこで親鸞は善鸞を義絶するに至った。この「親鸞義絶状」は、偽書説が主張されてきたが、形式や由来を考えると本物であると結論できる。

ちなみに、造悪無碍で肯定された悪がどんなことであったかというと、女犯、肉食(肉食のケガレは鎌倉時代に極端に肥大した)、囲棊・双六などであり、今から見ればさほど重大には思えないことである。

ところで、北条時頼は仏教政策を転換し、顕密仏教界を縮小させて禅と律を支援した。これには時頼の権力抗争が関わっている。時頼は朝廷の政策を無視して禅宗の単独寺院を建立(それまでは天台・真言との併置が条件となっていた)。この禅律保護政策の中で、「持戒念仏という形をとれば、念仏の教えを安定して布教すること(p.279)」が可能になった。それは一方では戒律や精進へのプレッシャーが増すことを意味し、東国門徒の造悪無碍が強調されて親鸞に伝わり、対応を誤ったのだと考えられる。

こうして親鸞は晩年に至り、末法の世に対する絶望を深めた。『正像末和讃』文明開板本では、「浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし」と述べ、門徒たちの信心を信頼することができなくなっている。親鸞はそれまで内発的な主体性(=信心)を重視していたが、その内発的主体性が頼りないものだとすれば、どうして阿弥陀の本願に適うことができるのか。むしろ信心すらも「弥陀が廻向したもの」(私たちに与えたもの)ではないのか。こうして親鸞は「信心」を解体し、最晩年の自然法爾消息(1258)では「他力には義なきを義とす。(中略)弥陀仏は自然のやうを知らせむ料なり。(中略)義なきを義とすということは、なほ義のあるになるべし」と記している。

親鸞は、あらゆるはからいを捨て、他力信心すら捨てて、全てありのままを弥陀に委ねるという思想に至ったのである。

本書は全体として、史料批判のお手本のような鮮やかな手法によって書かれており、講演調の文体とも相まって、大変読みやすくまたエキサイティングである。著者が本書を書いた動機は赤松俊秀の『親鸞』を乗り越えることにあったというが、まさにその目的を達していると感じる。ただし、本書は親鸞の伝記そのものとは言いがたいので、 赤松俊秀『親鸞』を合わせ読む方が理解しやすい。

そして、赤松俊秀『親鸞』も論争的なのだが、本書はさらに論争的であり、通説への批判、そして旧著への(特に末木文美士からの)批判に応えた部分の挑戦的な書き方は、実に面白く読ませてもらった。まさに学者の喧嘩といった風情である。

私が本書を手に取ったのは、「信心」の問題を知りたかったからであるが、本書は親鸞の思想を解説するものではないので割とアッサリと書いている。しかし著者は「晩年の親鸞は思想的に破綻していったと考えている(p.290)」としており、その破綻の内実についてはもう少し書いてもらいたかった。つまり「信心」という概念そのものに行き詰まりが内包されていたのか、それとも造悪無碍事件などで傷心したために親鸞自身が「信心」を信じられなくなったということなのか。私は前者であると思うが、本書ではどちらかというと後者に比重があるように感じた。

歴史学における親鸞研究の到達点。

【関連書籍の読書メモ】
『親鸞』赤松 俊秀 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/01/blog-post.html
史料の厳密な考証によって行実を明らかにした親鸞伝の好著。

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