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2022年5月4日水曜日

天皇はなぜ現人神になったのか

 天皇はなぜ現人神になったのか。

簡単なようでいて難問である。多くの日本人は漠然と、戦時中の軍部がその無茶な戦いを遂行するために天皇を神にしつらえ、絶対主義体制を作り上げたのだ、と思っている。

しかし生身の人間を神にしつらえるなんて荒唐無稽なことが、軍部の強制だけによってできるはずもない。そこには思想的な地固めとでもいうべきものが、江戸時代以来、長い時間かけて準備されていたのである。

江戸時代の思想的変転の全体像がクリアに概観できるのが渡辺 浩の『日本政治思想史』である。

【読書メモ】
『日本政治思想史[十七〜十九世紀]』渡辺 浩 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/05/blog-post_11.html
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/05/blog-post_14.html

中世になって政権が武家に移ると、天皇の権威は形式的なものになり、江戸時代には名目上のものだけになっていた。江戸時代には天皇は実質的な権力を持っていなかったのである。

これが、幕末にかけてどんどん天皇の権威が高まっていく。しかも不思議なことに、朝廷が何かやって権威が高まったのではない。むしろ朝廷は一貫して何もしていなかったのに、勝手に天皇の権威が高まっていったのだった。そしてそれを演出したのは、皮肉なことに幕府の御用学問たる儒学(朱子学)だったのである。

朱子学は、現実の社会よりも理念的・観念的な——というより、建前的・官僚的な——理屈を推し進め、実際には徳川は武力で政権を握ったのに、「天皇から大政を委任されたから」政権を担っているのだ、と理論化した。そうであるならば、天皇からの信任を失ったら幕府は政権を返上しなくてはならないことになる。ここに「倒幕の思想」が静かに胚胎していた。

朱子学は、元来は統治の学であったのだが、その形式論を推し進めた先に思わぬ変容を遂げたのだ。朱子学は忠君を叫びながら、実際には革命を準備することとなった。

その変容を、儒者たちの文章を丹念に読み込むことで明らかにしたのが山本七平の『現人神の創作者たち』である。

【読書メモ】
『現人神の創作者たち』山本 七平 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/03/blog-post.html

儒者たちは、何も最初から革命を考えていたわけではない。それどころか、彼らは民はあくまでも「お上」に忠実でなくてはならないと考え、仮に「お上」が滅ぼうとも忠を貫かなければならないと見なしていた。

その極端な「殉忠の思想」を喧伝したのが、山崎闇斎の弟子浅見絅斎である。浅見絅斎はその著『靖献遺言(せいけんいげん)』で、 政権の存在とは無関係に忠を貫いた人々を描いた。特に、「忠」や「孝」といった個人倫理を貫き通すことに絶対の価値を置いて死を選んだ謝枋得(しゃ・ほうとく)について長大に語り、後に幕末の志士たちが大いに鼓舞されることとなった。浅見絅斎は、統治の学、組織論だったはずの朱子学を個人倫理として再編集したのである。

これこそが、幕末の志士たちが何の役職にも就いていないうちに天下国家を論じる土台でもあった。今であれば、「日本を変えたかったら政治家にでもなれば?」と言われるところを、あくまでも個人倫理としての「忠」や「義」から国政を論じ、行動することを可能にしたのである。

そしてその「忠」の向かうところが、天皇であった。彼らは天皇を絶対化することで徳川幕府を相対化した。自らを天皇の「臣」であると規定することで、幕藩体制から飛び出したのだ。いや、相対化されたのは徳川幕府のみではない。あらゆる階層の人が相対化されていったのだ。

橋川文三は、『ナショナリズム——その神話と論理』で、その相対化によって「国民」が創出される様子を描いた。

【読書メモ】
『ナショナリズム──その神話と論理』橋川 文三 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/05/blog-post.html

吉田松陰が水戸学と出会い、歴史を「発見」して、その中心に「忠誠心」を据えたことは、後の日本の行く末を暗示しているようで興味深い。そして「忠誠心」の向かうただ一つの先である天皇に対する「億兆」として、天皇以外の人々が相対化されることになったのである。

そして天皇を超越的な支配者とし、それによって全ての階級を相対化する一種の平等思想が生まれていく。日本における「平等」の概念は、まずは「天皇の前における平等」として構築されたのである。極端に言えば、日本では国民があって、それを統べる者として天皇があったのではない。逆に、天皇がまずあって、それに従うものとして国民が生まれたのである。

とはいっても、明治維新の政策担当者たちが最初から天皇を神として描いていたかというと、そんなことはなかった。

坂本是丸は、『明治維新と国学者』で微に入り細に入り、明治政府における宗教政策を検証している。

『明治維新と国学者』阪本 是丸 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/02/blog-post_11.html
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/02/blog-post_13.html

明治政府の宗教政策を担ったのは国学者たちであったが、彼らが目指したのは古代の「天皇親祭にして天皇親政」の体制であった。つまり、天皇自身が神を祀り、同時に政務を執る、という体制だ。彼らにとって天皇は祭祀王であり同時に宰相でもあったということになる。

彼らは、天皇自身が政権を担っていた古代律令制の再現を目指していた。そして彼らの構想は、一時的には実現した。明治2年、太政官の上に「神祇官」が置かれ、「大教宣布の詔」によって神道が国教の地位に据えられた時、彼らが目指した祭政教一致の国家が実現したのである。

しかし国学者たちはそれ以上の構想を持っておらず、時代の変化に合わせて自らの思想を展開させていくことが出来なかった。結局彼らは政権の中枢から体よく遠ざけられ、彼らの理想であった古代律令制は雲散霧消してしまった。

こうして国学者たちの理想は潰えた。表面的には、日本を神の国と見なす狂信的なナショナリズムは修正を余儀なくされ、日本は暫く「万国公法」に従って西洋化に邁進することになる。

ところが国学者たちが政権から遠ざけられてなお、「国学的な態度」はそこに居座り続けていた。本居宣長以来、国学者たちが涵養していた態度だった。

小林秀雄は大著『本居宣長』で、宣長の学問の核心を執拗に追求している。

【読書メモ】
『本居宣長(上・下)』小林 秀雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/04/blog-post.html

その核心とは、「古代人になりきって古典を読む」ことだ。それは古典に対する正確な読解を行うことを可能にし、『古事記伝』という不朽の業績を成し遂げたが、副作用として、古典に対する一切の批判精神を放棄することをも意味していた。

そしてそれこそが、私には「国学的な態度」の始まりだったと感じられる。『古事記』や 『日本書紀』にどんな荒唐無稽なことが書かれていても、それはそのまま真実であると受け止めなければならないのだ。

このことは、江戸時代の国学者たちにとってすら難しかった。なぜなら、記紀の全てが事実であるはずなどないのだから。実際、本居宣長と上田秋成の間で、神話が事実であるかどうかを巡って「日の神論争」と呼ばれることとなる論争が起こっている。

当時の議論を鑑みると、宣長は非合理なことを主張しており、どう見ても分が悪かった。ところがこの態度が平田篤胤に引き継がれると、神話の世界はこの世とは別のレイヤーに存在しているのだ、という風に変わってくる。篤胤はその世界を「幽冥界」と呼んで実在するものとして扱い、熱意を込めて大量に論述した。

神話を事実として扱う態度は、篤胤によって確立されたと考えて間違いない。

しかしその篤胤ですらも、天皇を神であるとは見なしていない。それどころか篤胤は、天皇も死ねば幽冥界に赴き、幽冥界の主宰神であるオオクニヌシの審判を受けるものと考えた。篤胤の天皇観と現人神とはかなりの距離があった。

実際、明治の政策担当者たちも、誰一人として天皇を神にしつらえるプランは持っていなかった。それなのに、天皇はどんどん神に近づいていった。天皇が神になったのは、誰かの意図した結果ではなかったというのは確実である。

ただ、今の私には天皇が現人神になっていくその過程を説明する力がない。

一つ言えることは、明治後期から大正・昭和初期にかけて現人神という観念が確立してゆくが、それが「国体」の観念と並行して構築されていった、ということである。

そしてそれは、思想的あるいは宗教的に構築されたものではなく、行政的に、もっとあけすけに言えば「内務省的」に出来ていった。

そういう過程は、向坂逸郎編『嵐のなかの百年』に窺うことが出来る。

【読書メモ】
『嵐のなかの百年—学問弾圧小史』向坂 逸郎 編著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/06/blog-post_23.html

本書は明治から昭和初期にかけての学問・言論への弾圧がどのように行われたかを述べたもので、その中には、重野安繹、久米邦武、喜田貞吉、津田左右吉のケースが取り上げられている。こうした学者たちの、学問的に穏当で至極妥当な書物がひとたび右翼主義者の注目するところとなるや盛んに攻撃が加えられ、「国体を毀損する」「国体の明徴に疑義を生ぜしめる」などといって学説が危険なものであると喧伝された。

そして神聖不可侵な「国体」と、その中心にいる神としての天皇=現人神が出現したのである。それは内務官僚と右翼主義者、国粋主義者たちの、なりゆきまかせの共同作業であった。

であるから、戦後、GHQは国家神道を解体し、また天皇の人間宣言はなされたが、誰一人として東京裁判では「天皇を神にしつらえた罪」には問われていない。もちろん、誰か一人をその罪で裁くことは不可能だったし、おそらく連合国にはその意図も無かったのだろう。

しかし、明治以降の日本が、世界征服までも考えて狂信的な軍事国家となっていったその背景には、確実に「神の国」観念があったし、その国を統べる現人神の存在があったのである。

21世紀に、再び天皇が現人神になることは、おそらくないだろう。それでも、なぜ天皇を現人神にしてしまったのか、その反省をちゃんとしないことには、同じような間違いが起こらないとも限らない、と思うのである。

 

【最後に宣伝】

明治政府が神話を現実化していく過程を、薩摩藩の動向を中心として描いた拙著が2022年6月に刊行されます。上述のような議論も(ただし幕末のみですが)詳しく論述しています。ぜひよろしくお願いします。

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明治政府は、いかにして神話を現実化したのか? その背景には薩摩藩の動向が大きく関わっていた。宮内庁が公認する「神」の墓=神代三陵を巡る幕末明治の宗教行政史を読み解き、神話が歴史へと変換されていった様相を描く。

 

 

 

 

2019年6月14日金曜日

「話」を集めた民俗学者

南方熊楠の『十二支考』は驚異的な本である。

これは十二支に宛てられている動物たち(もっとも牛は除く)に関する蘊蓄を縦横無尽に語っている本なのだが、蘊蓄のレベルが超人的だ。古今東西の文献を博引旁証し、仏典のようなお堅い本から現代のゴシップのような話まで自由自在に飛び交っている。

これはある意味ではスクラップブック的な本であって、体系的に何かを論証・分析しようというよりは、興味の赴くままに面白話を乱打しまくるものだ。にも関わらず全体としては熊楠の世界観を提示する大曼荼羅という趣がある。

しかもその文体が、日本語として空前絶後とも言うべきものなのだ。

学術的なことを語ったかと思えばエロ話もあり、ところどころにダジャレや諧謔も差し挟まれ、そうかと思えば自分のことも剽軽に語りだす。さらには社会風刺や政府への批判、時事問題に対する警告(特に神社合祀問題)なども随所に登場し、天才・南方熊楠の人格がそのまま文章になったような天衣無縫、唯一無二の文体なのである。

私は若い頃本書を読んだとき、内容よりもその文体の自由さに惚れぼれして、こんな文章を書けるようになりたいと憧れたものである。もちろん内容の方もすさまじく、神話伝説、伝承、民俗を凄いスピードで駆け巡っており、ある時期、この本は私のタネ本にすらなっていた。

『十二支考』ですっかり熊楠の虜となった私は、東洋文庫の『南方熊楠文集(1)(2)』や中沢新一編集の『南方熊楠コレクション』(河出文庫、全5巻)などを買い集めたものである。十数カ国語を操り、博覧強記、熊野の田舎にいながら世界的研究を進めた(雑誌「ネイチャー」に掲載された論文数は、未だに日本人では最高という)熊楠は、私にとって知的ヒーローだった。

そんな南方熊楠を「日本民俗学最大の恩人」として尊敬していたのが日本民俗学の創始者・柳田國男である。

柳田は熊楠と知り合う前、既に『遠野物語』などを著して民俗学への歩みを進めていたが、熊楠との文通でその考えが具体化され、また熊楠から『The handbook of folklore(民俗学便覧)』を貸してもらったことは日本民俗学の大系化に大きな影響を与えたと言われている。

しかし柳田は熊楠から教唆された舶来の「民俗学」を翻訳して日本民俗学を作ったわけではない。それは二人の書いたものを読んでみればすぐに分かることだ。

熊楠の場合、その研究は今で言えば「博物学」に分類され、良くも悪くも19世紀的な自由さと乱雑さに満ち、分析よりも事実のコレクションの方に重点が置かれている(もちろん分析も緻密であるが)。一方柳田の方は、伝承や昔話をコレクションするという採集者的な側面はありながらも、それをメタ的に解釈する、つまり「どうしてそういう伝説が生まれたのか」を考えることで民衆の思想を再構築しようとするのである。

例えば『山の人生』では、かつて日本には里に暮らす人々とは一風変わった山に暮らす民族がいたという考えの下、残された伝承や民俗からそうした山人たちの実態を推測しているが(なおこれ自体は現代の科学からは全面的には承認されていない)、「たった一つの小さな昔話でもだんだんに源を尋ねていくと信仰の変化が窺われる」として普通の人々の山に対する態度や考えの変化を示しており、柳田國男の想像した「山人」がここに描かれたものではなかったとしても『山の人生』は興味深い論考なのである。

ところで柳田國男を読んでいて感じるのは、様々な伝説や昔話が動員されてはいるものの、いわばそれが「不思議なこと」「ごく稀にしかない変わった出来事」などが中心となっているということである。これは考えてみればこれは当たり前のことで、平凡な毎日は伝説として残されるわけはないのだから、彼の研究の中心が妖怪や怪異が出発点となったのは必然だった。そして柳田の手法の要諦は、そうした奇異な出来事を語る語り口の変化から、人々の平素の思想の移り変わりを読み取る部分にあったように思う。

これは柳田の論考を読む上での最大の醍醐味でもあって、何気ない昔話や怪談から、その背後に隠れた意外な事実をスルスルと引き出して見せるところはまさに快感である。また柳田の文章は文学としても大変に優れているもので、熊楠の文章が唯一無二のものでしかありえないのとは違い、日本語としての普遍的なプロポーションを備えている。民俗学に興味のない人でも、「文学」として読めるのが柳田國男だと思う。

一方、初めて読んだ時に「挫折」したのが宮本常一の『忘れられた日本人』だった。

当時、私は別段民俗学に思い入れがあったわけでもなく、単に「名著だから」というような理由で本書を手に取った。

しかしどうも内容が頭に入ってこない。熊楠はもちろん柳田と比べても、随分内容が地味なのだ。当時私は東京にいて、いわゆる「コンクリートジャングル」で仕事をしていたのだから、この静かな本に耳を傾けることが出来なかったのも当然かも知れない。それで、面白くない本を無理して読むようなタイプではないので、途中まで読んだ『忘れられた日本人』は書架に戻されたのだった。

ところが、鹿児島のド田舎に移住してから本書を読んでみると、こんなに面白い本もなかったのである!

田舎に暮らす人々の、ありのままの暮らしがワーっと目の前に立ち上がってくるようで、しかも普通の人(これを宮本は「常民」と呼ぶ)のありさまが記述されているだけでなく、その暮らしや行動の底流にある「論理」がゆっくりと紐解かれていくのである。

同じフィールドワークをするのでも、柳田國男の場合、かなり意図的に「価値ある話」を選別して記録している感じがするのに比べ、宮本常一の場合は「そこらへんにいる普通の人の身の上話」をある意味で見境なく記録して、そこから社会の古層に入っていこうとする。

だから宮本常一のフィールドワークはすさまじく、日本全国を隈無くと言ってよいほど歩いており、歩いた距離では民族学者中で圧倒的だという。ちなみに宮本常一は、私が今住む南さつま市大浦町にも来たことがある。

しかしそれにしても、こんなに面白い宮本常一を、東京にいた頃は全く面白く思わなかったのだから不思議というか、本と自分との関係性は固定的なものではないということを改めて思い知った。

ところで私は娘たちに毎日読み聞かせをしていて、その基本図書が『日本の昔話 全5巻』(福音館書店)である。

これは昔話の第一人者である小澤俊夫が「おざわとしお」名義で出したもので、「子どもに読み聞かせられるちゃんとした昔話が少ない」という問題意識の下、福音館書店の総力を挙げて編集したものである。

「ちゃんとした昔話」って何? と思うかも知れないが、これは「昔話本来の形を残し、余計な脚色や文学的な表現をせず、耳で聞いて理解しやすいクリアな語り口で、しかも標準語で書かれた昔話」のことである。

というのは、よく売られている昔話絵本は、「残酷だから」という理由で結末が改編されるといったことは論外としても、かなりの程度脚色や補筆、現代化、幼児化(内容が単純化される)がなされており、我々の先祖が営々と伝えてきた昔話が破壊されてしまっているのである。これに対し、昔話のそのままの形を残しつつ、わかりやすく現代語に置き換える語り方を「再話」といい、小澤俊夫はこの強力な推進者なのだ。

また小澤は、「昔話大学」という昔話の保存、記録、読み聞かせ技法の習得などを行う学習会のようなものを全国各地で主催し、昔話の豊穣な世界を次の世代に伝えていくために精力的に活動した。

さて、長々とこういう話をしたのは、実は小澤俊夫が柳田國男から連なる民俗学の系譜に位置づけられる人だからで、柳田國男の弟子の関敬吾、のそのまた弟子が小澤俊夫にあたり、いわば彼は柳田の孫弟子なのである。

実は柳田國男自身も昔話の収集を行っており、それは『日本の昔話』『日本の伝説』にまとめられている。柳田は官僚であったため、全国の市町村に照会して昔話を収集するという、公権力を民俗学の研究に使うような、ちょっと今では考えられない手法で昔話を収集した。しかしそのおかげで全国津々浦々に残る昔話をかなり整理し、『日本の昔話』ではエッセンス的に表現した。

弟子の関敬吾も昔話の収集を行っていて、関の場合はただ収集するだけでなく、ヨーロッパの民俗学の知見を取り入れて昔話の類型分けを行った。ちなみに昔話の類型分けは世界的なプロジェクトであって、現在ではアールネ=トンプソン=ウター分類(Aarne–Thompson–Uther type index、ATU分類)というのが標準になっている。

この類型分けの最新版をまとめたのが分類の名前にも掲げられているドイツのハンス=イェルク・ウター。小澤俊夫は関敬吾に師事した後、ドイツに留学してウターにも学んでいる。小澤俊夫は、柳田から続く昔話収集の学統を継いだエキスパートで、さらにそれをこども向けの書籍へと普及させた人と言える。

こんなわけなので、おざわとしお再話の『日本の昔話 全5巻』は読み聞かせに最適なだけでなく学問的にもしっかりとしており、万人にオススメできる昔話読み物である。


2019年5月30日木曜日

鹿児島と廃仏毀釈を巡って

私の生きる鹿児島という土地は、突き進むときは歯止めがかからないというか、実行力がありすぎる部分があって、思慮分別をかなぐり捨てて行動のみに生きるような、そんな風土がある。

その象徴が、幕末から明治にかけて行われた廃仏毀釈である。

神社から仏教的要素を排除しようとする明治政府の政策、すなわち「神仏分離」は全国的な現象であった。しかしそれにしても、実行された程度には地域でかなりの差がある。

廃仏毀釈は、行きすぎた神仏分離の暴動的現象であり、そもそも実行された地域自体がさほど多くはないが、鹿児島のように徹底的に行ったのは、私の知る限り苗木藩(岐阜県中津川市苗木)のみである。だが苗木藩は非常に小さな藩であって、領内の寺を全廃したのは確かだがその数はおよそ25カ寺以下である。

一方薩摩藩では、領域内の全寺院1066カ寺を全廃し、仏像や仏具を破壊し、全僧侶を還俗(俗人に戻すこと)せしめた。藩内から一切の仏教的要素を取り除き、盂蘭盆のような民衆的習俗までも否定し去ったのである。これほどに狂信的な宗教破壊が、民衆の草の根の抵抗を除いて、ほとんど何の障碍もなく実行されたというだけで、鹿児島という土地の特異性がわかろうというものだ。

そういう鹿児島の廃仏毀釈についてわかりやすくまとめた本が『鹿児島藩の廃仏毀釈』(名越 護)である。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/10/blog-post_18.html

本書は、市町村郷土史を紐解き、また著者自身もフィールドワークを行って堅実な取材の下にまとめられたものである。

市町村郷土史を下敷きにしているため、事例の列挙的な部分があってやや時系列的でないというきらいがあるとはいえ、廃仏毀釈の背景から実行の経緯までも記述の対象としており、2019年現在、鹿児島の廃仏毀釈について最もまとまった本である。

また、著者が元新聞記者であるため、神道への過度な敵愾心もなく、割合にフラットな立場から廃仏毀釈が描かれていることも好感の持てる点である。鹿児島藩の廃仏毀釈について知りたい時はまず手に取るべき本であろう。

ところで、幕末から明治初期において薩摩藩の一部であった宮崎南部も、同様に廃仏毀釈の被害を受けた。

そういう宮崎の側から鹿児島の廃仏毀釈について強く糾弾したのが『廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち』(佐伯 恵達)である。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/01/blog-post_11.html

本書は鹿児島の廃仏毀釈の全容を示そうと言うよりは、宮崎におけるケーススタディの部分(13例の廃寺が記述)が大きい。しかし地元に限っているだけに情報は精密であり、鹿児島の人間としては参考になった。また神社創建の歴史を年表(全国編・宮崎編)にしているがこれが力作で、この年表を見るだけでいろいろと考えさせられる。

著者は僧侶であるため、神道への糾弾がヒートアップしている部分も見受けられるが、この怒りは仏教徒としては至極当然のものであろう。かなり感情がこもった本である。

一方、これまでの2冊とは全く違ったスタンスで書かれた重要な本が『神道指令の超克』(久保田 収)である。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/10/blog-post_15.html

著者の久保田 収は「皇国史観」の歴史家であった平泉 澄の弟子で、国家神道を肯定する立場から本書を書いている。

本書に収録された論文「薩藩における廃仏毀釈」が、管見の限り鹿児島の廃仏毀釈について最も初期にまとめられた論文であって、しかも実行の経緯や思想的背景がかなり詳しく論じられている。特に著者はこの論文を書いた頃に鹿児島の第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)で教鞭を執っていたため、廃仏毀釈運動に大きな役割を果たした造士館「国学局」の動向が詳細に記述されているのが価値が高い。鹿児島の廃仏毀釈を考える上での基本文献といえる。

著者は、廃仏毀釈を実行した人びとにかなり共感しており、普通には「蛮行」とされる廃仏毀釈の行為を「理想の実現」と位置づけて書いている。非常に偏った見方と言わざるを得ないが、そういうスタンスで悪びれる様子もなく神道側から廃仏毀釈を詳しく書いているというのが歴史的には貴重で、私としては大変参考になった。

論文の最後で、明治9年に鹿児島でも信仰自由になったことに触れ、著者は廃仏毀釈運動が終了したことを嘆く。曰く「神道国家主義はこのようにして失敗に帰した。それは明治維新の理想が一般の人々に十分に理解されず、(中略)ついに国学者の夢は瓦解したのであった。鹿児島県は、こうした国学的理想の最後の牙城であった」のだそうだ。

この文章には私自身は全く共感できず、信仰自由の方がいいに決まっていると思うが、ただ鹿児島が「国学的理想の最後の牙城」たりえたという現象自体に大変な興味を覚えるのである。なぜ鹿児島は国学の理想で突き進めたのか、そこに鹿児島の特異な体質が現れていると思うのである。

一方、鹿児島が徹底的な廃仏毀釈と神道国家主義一色になっていた頃に、全国的には何が起こったかということも理解しなければ、鹿児島の特異性がわからない。

『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』(安丸 良夫)はそれを理解するための最良の入門書である。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/05/blog-post_2.html

本書は、廃仏毀釈や神仏分離はなぜ起こったのか、どのようなことがあったのか、そしてそれはどう終熄していったのかを述べるもので、込み入った動きを見せる明治の宗教行政史を非常にわかりやすくまとめており、しかも決して概略的な記載に留まらない深みがあるため、読むたびに発見があるような本である。

著者の安丸は、民衆宗教を中心的研究テーマとしているだけに、廃仏毀釈を政治史的でなく民衆のレベルで理解しようとしているところも独自の視点で面白い。興福寺のような大寺院が抵抗らしい抵抗をすることもなく、唯々諾々と廃仏毀釈に従って仏像・仏具の破壊に荷担した一方で、信心深い無学な民衆が身命を賭して仏像を守ろうとした事例を見るにつけ、当時の仏教がどのようなものだったかも考えさせられる。

本書には鹿児島の事例はほとんど全く触れられないが、廃仏毀釈を考える上では必読の最重要文献であろう。

鹿児島の廃仏毀釈を違った視角から捉えたのが、最近出版された『鹿児島古寺巡礼―島津本宗家及び重要家臣団二十三家の由緒寺跡を訪ねる』(川田 達也 写真・文、野田 幸敏 系図監修)である。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/02/blog-post.html

本書は、島津本宗家およびその家臣団の墓所を巡るという構成になっているが、そうした墓所は元々菩提寺が建っていたところにあるため、これは廃仏毀釈で破壊された廃寺跡を巡る旅にもなっているのである。

そしてそれらの廃寺跡は顧みられることもないまま、今まさに朽ち果てつつある。著者は「消えゆく光景を見るたび廃仏毀釈は過去の出来事ではなく、現在進行形なのだと思ってしまう」という。

つまり本書は、廃仏毀釈を幕末明治だけの現象ではないと捉え、廃寺跡の美しさを訴えることによりそれに歯止めを掛けようとした未来志向な本なのだ。

廃仏毀釈はただ批判すればよい対象ではなく、現代の我々が乗り越えるべきものでもあるのかもしれない。なにしろ、今現在でも多くの歴史的遺物がその価値を顧みられることもないまま、朽ちるに任せているのが鹿児島県の現状なのだ。たとえそれが県指定史跡などとして保存されている場合もである!

我々は廃仏毀釈という愚行を通じて、鹿児島の人々に備わった過度に行動的な性向を自省しなくてはならないと思う。そして沈思黙考して立ち止まることを学び、過去の遺産を継承していくことの価値を思い起こすべきなのかもしれない。


※宣伝※
2013年に、自費出版で『鹿児島西本願寺の草創期—なぜ鹿児島には浄土真宗が多いのか』という小冊子を出しました。鹿児島は浄土真宗門徒の割合がかなり多いのですが、これには廃仏毀釈と明治初期の宗教行政が深く関わっていることを論じたものです。現在私自身は直販していませんが、鹿児島市の古本屋「つばめ文庫」さんで取り扱ってもらっています。
→ ネット販売もあります。(日本の古本屋)
https://www.kosho.or.jp/products/list.php?transactionid=efdb971c89372aa08c9d413c73d43b76aac729d8&mode=search&search_only_has_stock=1&search_word=%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E8%A5%BF%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E3%81%AE%E8%8D%89%E5%89%B5%E6%9C%9F



2018年8月5日日曜日

「犀の角のように ただ独り歩め」

あなたの生き方に一番影響を与えた本は? と聞かれたら、『ブッダのことば』(中村 元 訳)と答えるかもしれない。

当時私は大学の一年生。郷里の鹿児島を離れ、姉と一緒に東京で生活していた。別段、人生に迷っていたとか、東京暮らしが不安だったとか、そういうことはなく、大学の勉強は楽しく、友人も出来、日々充実していたと思う。そんな私が、大学の近くにあった古本屋でひときわ古びていた『ブッダのことば』を手に取ったのは、どうしてだったのだろう。

読んで、衝撃を受けた。

まず、その美しい詩文に魅了された。当時の仏教は、書物を通じて伝えられたのではなく、口伝えされることによって広まった。であるから、その表現は平易で力強く、また美しくもあって覚えやすいものでなくてはならない。最初期の仏典(原始仏典)は、そういう美しい口承文学であった。

本書は、当時の言葉(パーリ語)から直接訳出されたものである。仏典=お経といえば漢訳で難解なものと思っていた私にとって、原典から訳出された美しく力強い詩文は、仏教のイメージを一変させるものであった。

そしてその思想も、後代のそれとは全く異なっていた。今になってみると、そこに表現されたものをまた違った角度で眺めることができると思うが、当時の私が読み取ったのは、「人は一人で生きてよいのだ」というメッセージであった。それを象徴する詩文が、「犀(さい)の角のように ただ独り歩め」である。私は、この詩文と出会った衝撃を一生忘れないであろう。

友達とわいわいガヤガヤしながら生きることが楽しみだと思っていた人間にとって、「犀の角のように ただ独り歩め」は強烈な刺激であった。当時の私は、友達とわいわいガヤガヤしながらも、我が道を歩むことを恥としない人間だったと自負するが、この言葉に衝撃を受けたところをみると、それを完全には肯定していなかったのかもしれない。この詩文は、私の人生の屋台骨のような存在になった気がする。

本書で原始仏典に興味を引かれた私は、同じ中村 元の『ブッダ最後の旅—大パリニッバーナ経』とか『ブッダの真理のことば、感興のことば』など岩波文庫で出ている一連のシリーズを読んだ。

そうした本を読むうち、私は訳者・研究者の中村 元の語り口にも魅了されていった。中村 元は、松江が生んだ世界的仏教研究者、比較思想学者であって、その緻密な文献学的手法とサンスクリット語、パーリ語の強力な語学力によって、仏教学に新たな地平を切り拓いた人物である。

私は、中村 元の手引きによって徐々に仏教に親しむようになった。

次に読んだのは、中村 元『仏典をよむ』シリーズだったと思う。このシリーズは『ブッダの生涯』 『真理のことば』『大乗の教え(上)』『大乗の教え(下)』で構成される全4巻(前田専学監修)。ラジオ放送の講座を元にしたものであり、非常に平易で親しみやすく、仏教の核心部分を大まかに理解するためによい本だった。万人にお勧めできる仏教の入門シリーズである。

ところが、こうなるともっとしっかり主要な経典を理解したくなるものである。原始仏典のあの清新な感動から仏教に入った身としては、大乗仏典は夾雑物が多すぎる野暮なものに感じていたのだが、勉強してみるとそうでもないと思い始めたのだ。

そこで手に取ったのが中村 元「現代語訳大乗仏典」という全7巻のシリーズ。こちらは(1)般若経典、(2)法華経、(3)維摩経・勝鬘経、(4)浄土教典、(5)華厳経・楞伽経、(6)密教経典・他、(7)論書・他、の構成である。

特に印象深かったのが『華厳経』。

華厳経というと、あの東大寺が華厳宗であることからもわかるように、古代日本において国家的経典とみなされた重要なものである。そこに表現された思想は、人生の悩みといった個人的な問題に応えるものというよりは、世界観を提示するというか、文明の在り方を示唆するようなスケールの大きなもので、古来華厳経に魅了されてきたものは多いのである。

一方で、こうした経典への興味とは別に、私が次第に心を傾けていったのが「禅」だった。といっても、私の禅に対する興味は最初がひねくれていた。禅が”Zen”になり、なにやら深遠な思想だと一知半解のまま称揚されていることに疑問を持ち、どちらかというと懐疑的興味から禅を知るようになったのである。

実際、『十牛図―自己の現象学』(上田閑照・柳田聖山)であるとか『無門関を読む』(秋月龍珉)などを読んでも、それなりに知的興奮はあるのだが、どこかピンと来なかった。当時の私は、こういう深遠ぶった(と私は思っていた)「禅」が、胡散臭いものに感じられたのだ。

そんな時には、やはり原典というものが力を発揮するもので『臨済録』(入矢義高 訳注)が私の禅理解をより前向きなものに変えてくれた気がする。『臨済録』は言わずとしれた臨済の言行録(弟子が記録したもの)で、「語録中の王」とも呼ばれる最も重要な禅書の一つである。

その内容は、「破天荒」の一言に尽きる!

『十牛図』とか『無門関』がいかにも観念的というか、上品なものであるのに比べ、臨済は暴力的であり、行動的であり、実践的なのだ。例えば、有名な言葉にこういうのがある。

「諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢ったら羅漢を殺し、父母にあったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、そうして始めて解脱することができ、なにものにも束縛されず、自在に突き抜けた生き方ができるのだ」

これを文字通り受け取れば、悟りというよりも大量殺人の勧めなのであるが、もちろんこの言葉はそういう意味ではない。ではどういう意味かというのは、まあ、原典に当たって確認していただきたい(参考:Wikipediaにもそれなりに面白く臨済のことが紹介されているのでお手軽に知りたい方はこちらを → 臨済義玄)。

日本の禅書で『臨済録』に匹敵するものというと、『盤珪禅師語録』がある。

盤珪は江戸初期の臨済宗の僧。厳しい修行の果てに、人は生まれながらにして必要なもの(精神的なものも含めて)は全て備わっているという悟りを得、それを平易な言葉で多くの人に優しく説いた。その精神は、臨済と通じ合っていると思う。本書は、盤珪の説法を弟子がメモしたものを元にしていて、盤珪の生き生きとした説法の様子が伝わってくる。

盤珪の特徴は、おのれの存在を徹底的に肯定するという臨済の基本路線を受け継ぎつつも、臨済のような韜晦な表現はせず、あくまでも平易に、人々によりそって明解な教えを説いたことで、その弟子は五万人もいたというから、歴代の禅師の中でも抜群に大きな存在であった。

一方、そういう立派な(?)禅僧とは違い、ひねくれていたのがあの有名な「一休さん」こと一休宗純である。

一休についてはわかりやすい入門書もあるが、私の場合、水上勉『一休』によって彼を知った。本書は、かなり取っつきにくい本である。一次資料からの引用が多いし、考証は微に入り細に入り、大まかに一休を分かればいいや、という向きは辟易するに違いない。しかし一休の魅力を伝えるには、そういう作業が必要なのだと思う。

社会派推理小説で有名な著者の水上勉は、実は臨済宗のお寺で修行していて、しかもその後仏教から離れた経歴を持つ。だから禅宗について詳しい一方、禅宗への批判的視点もあって、本書ではそのバランスが絶妙に調和している。

一休は、決して、立派な禅僧ではなかった。権力に反抗し、形式に堕した禅宗の実態を批判したが、 自身が清廉だったかというとそうでもない。いや、それどころか、人間の本当の姿を極める、などといって性愛の世界に溺れ、その上にそういう自分を完全に肯定することもできず、一生煩悩のままに生きたようなところがある。彼は貴族社会を批判したけれども、実際には内心貴族に憧れ、しかも憧れてしまう自分に苦しみながら、その苦しみを誤魔化すために魔の道へ入ってしまうひねくれた求道者であった。人は、彼を「風狂僧」と呼んだ。

私のハンドルネームの「風狂」は、実はこの一休宗純から来ていて、私はこのひねくれ者の一休に憧れるのである。

今まで、禅宗の中でも臨済宗の話ばかりが続いたので、曹洞宗のことについても触れておかなくてはならない。

曹洞宗と言えば、やはり巨大な存在が道元であって、即ち『正法眼蔵』がその思想の最高峰であろう。ところが、私は未だ『正法眼蔵』を通読せずにいる。原文はかなり難しいものなので、私は石井恭二の『現代文 正法眼蔵』を第1巻だけ読んだ(全4巻)。第2巻の途中で止まっているというのが正直な状況だ。

だが、その本は決してつまらないものではない。

それどころか、道元は、我が国では空海以来の大思想家であったというのがよくわかる。一般的には、道元は「只管打坐」、つまりひたすら座禅・瞑想をすることにより悟りの境地に至るという方法で有名だが、『正法眼蔵』を読むとそれは彼の思想の一面でしかないと感じる。座禅は思索の方法ではあるが、それが全てではないし、「どう思索するか」もまた重要である。本書は、落ちついているときにゆっくりと取り組みたい本である。

『現代文 正法眼蔵(1)』石井 恭二 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/01/blog-post_20.html

ところで禅宗というと、思想書そのものではないが、ここに紹介したい名著がある。それは『禅の歴史』(伊吹 敦)である。

本書は、禅をことさら神秘的・高遠なものと見ずに、極めてフラットな立場から禅の歴史を記述したもので、まずこのような態度で書かれた本が貴重である。そしてそのまとめ方も、大量の情報を手際よく整理し、あたかも高校の歴史の教科書のようにまとめている。

禅の歴史、というような専門的な事項が、高校の歴史の教科書レベルのわかりやすさでまとめられるだけでも相当に有り難いことであって、しかもそのまとめ方が無味乾燥(褒め言葉)と言ってもよいほど客観的である。

中国で生まれた禅が日本に渡り、また日本でも独自の発展を遂げるというその有様を、一切の虚飾なく、しかも大量の情報とともに、平易に学べる本は、おそらく本書以外にないであろう。

なお本書は禅の歴史の中でもいわゆる教理に限ったもので、文化史についてはほとんど触れられていない。著者は、禅の文化史についても本をまとめる予定ということなので、その本の完成を一日千秋の思いで待っているところである。


2018年5月6日日曜日

西郷隆盛と西南戦争

私は鹿児島の人間だから、西郷隆盛というと、もう物心ついた時からいろいろ聞かされていて、内容はあまり覚えていないが高校生の頃に伝記(か海音寺潮五郎の小説か)を読んだ記憶がある(曖昧)。

その後祖父が「これも読みなさい」といって3冊、本をくれた。

『西郷隆盛のすべて―その思想と革命行動』(濵田尚友)、『首丘の人 大西郷』(平泉 澄)、の2冊は覚えているが、3冊目がなんだったか今や分からなくなってしまった。『南洲翁遺訓』だったか。こちらも曖昧である。

なぜ曖昧かというと、これらの本を読んでも、どうも西郷隆盛という人間が自分の中にスッと入ってこない。だいたい、これらの本はどれも最初から西郷隆盛賛美を決めてかかっているところがあって、大げさに言えば、「西郷はかくも偉大であった」というようなことが結論としてあり、それに枝葉をつけたような書きぶりなのだ。

それで、どうも西郷隆盛は自分にとって謎の存在ということになってしまった。伝記的なことを一応は知っていても、等身大の姿というものが見えなかったのである。

そんな西郷に再び興味を抱いたのはだいぶ後になってからで、西南戦争のことが気になり出してからだった。

そのきっかけは、『近代日本の戦争と宗教』(小川原 正道)という本だ。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2013/12/blog-post.html

この本で、西南戦争には「不平士族の暴発」だけでない、多様な性格があった事を知った。西南戦争発端の裏側には、鹿児島で布教を進めたい西本願寺と、真宗の教化によって鹿児島の民衆を政府に馴化しようとする大久保利通らの思惑があった。

西南戦争を起こした者たちには、単なる新政府への不平不満だけでなく、思想的な反抗があったということが朧気ながらに見えた。

なぜ、鹿児島の士族たちは、明治維新を主導しながらも反政府的になってしまったのか。西郷はなぜ、その士族たちを抑えることが出来ずに望まない戦争に担ぎ出されたのか。鹿児島の歴史を知るにつれ、それが私の中で大きな疑問となっていった。

もちろん、通り一辺倒の答えならすぐに準備できる。鹿児島の士族たちが反政府的になったのは彼らが廃藩置県で無職になってしまったからだし、西郷が彼らを止められなかったのは、県内各所の温泉など巡っていて現場(城下)にいなかったからだ。

でも私は、もっと深いレベルで西南戦争を理解したいと思った。西南戦争は、「鹿児島の明治維新」を象徴するものであり、いろいろな意味でその後の日本を先取りしている点がある。そしてその中心にいる西郷隆盛を、今までとは違った視角から理解したくなった。

そういう視角を準備してくれたのが、『南洲残影』(江藤 淳)である。
↓読書メモ 
 https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2016/11/blog-post.html

本書は、西郷が残した文学作品(漢詩)や檄(指示)を読み解くことで、西郷の心情に迫ろうとするもので、その内容の多くが西南戦争に費やされている。

本書が用意した視角というのは、西郷を「維新の英雄」としてではなく、むしろ「国賊として討伐された敗者」として描いたことだ。西郷賛美でも西郷否定でもなく、一人の非命の人間として西郷を理解しようとする姿勢が、意外と類書にはない。本書によって初めて、私は西郷という人間がこちらの方へ歩み寄ってくれたような気がした。

だが本書の憾みは、適度な距離感をもって語りはじめたはずの著者が、最後には西郷に飲み込まれ、「日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を持ったことがなかった」といったことを言い出すことである。私には、西郷が「思想」だったとはどうしても思えないのだ。いや、「西郷の思想」が何だったのかさえ、未だ茫洋としてつかみどころがないのである。

一方、猪飼隆明は『西郷隆盛―西南戦争への道』によって、西郷の行動原理が「忠君」であることを主張した。
↓読書メモ 
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2015/08/blog-post.html

要するに西郷は古いタイプの人間で、武士としてのあるべき行動原理である「忠」をずっと守っていたというのである。

最初は主君島津斉彬に対し、そしてその後は明治天皇に対して。そして明治天皇も、ことのほか西郷を寵愛したという。それは、他の維新の功臣が形式的にしか天皇を尊重していなかったのと比べ、西郷は天皇を主君として仰いでいたからではないかという気がする。

また、西郷もその胸の内に様々な葛藤を抱えていた。

例えば、斉彬が残した国(鹿児島藩)を解体してしまってよいのかという葛藤だ。700年も続いた島津氏の支配を、「廃藩置県」を行うことで微臣に過ぎぬ自分が終わらせてよいのか。そういった葛藤を、西郷は天皇への忠心によって乗り越えたという。

私は、本書を読んで、西郷は、みずから「時代遅れの男」であることを自覚しつつ、むしろ「時代遅れの男」として死のうと決意した人間であると思うようになった。西南戦争は彼にとっては望まない戦争であったが、彼以上に「時代遅れの男」たちであった鹿児島の士族を見捨てきれなかったのも、西郷の西郷らしい点であった。

このことは、最初期に「藩」という意識を脱却し、日本の「政治家」としての自覚を持った進歩的な人間、大久保利通と全く対照的な点だった。

だがもちろん、西郷はただの「時代遅れの男」ではなかった。

西郷は鹿児島の士族たちとは、全く違う想いを抱いていた。明治政府のやり方が気にくわなかったのは事実であるが、彼の中には「万国公法」と通ずる進歩的思想が旧来の儒教道徳の上に打ち立てられてもいた。

だから、「時代遅れの男」ばかりの鹿児島の不平士族たちの中にあって、西郷は孤独だった。鹿児島の大勢の士族に慕われながら、実のところ西郷は四面楚歌だったのである。

そもそも、士族が失職した原因である「廃藩置県」は西郷が主導したものなのだ。鹿児島の士族は西郷をまつりあげたけれども、内心憤懣やるかたない想いがあったのではないか。そういう空気を感じられるのが、『西南戦争 遠い崖—アーネスト・サトウ日記抄13』(萩原 延壽)に描かれる一場面である。
↓読書メモ 
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2015/08/13.html

明治10年2月11日、もうあと数日で薩軍が進軍を開始するというその時、西郷は旧知のサトウを突然訪問した。その時の様子をサトウはこう記す。

「西郷には約二十名の護衛が付き添っていた。かれらは西郷の動きを注意深く監視していた。そのうちの四、五名は、西郷が入るなと命じたにもかかわらず、西郷に付いて家の中へ入ると主張してゆずらず、さらに二階に上がり、ウイリスの居間へ入るとまで言い張った」
護衛たちは、他ならぬ西郷を監視していたのであった。そして西郷は、西南戦争のさなかにあっても直接に指揮を執らせてもらえなかった。戦場から隔離され、激しい戦闘が行われている裏側で、西郷は呑気にウサギ刈りなどしていたのである。いや、「させられていた」と言う方が正しいか。彼は西南戦争において、少なくとも戦いの半ばまで蚊帳の外に置かれていた。

しかしながら、西郷がただ士族たちのいいように手玉に取られていたかというと、それはまた違う。

当時イギリスの外交官で日本に赴任していたオーガスタス・マウンジーが『薩摩国反乱記』(安岡 昭男 補注)を書いているが、彼は仕事の外交記録としてではなく、一個人として本書を書きイギリスで公刊した。
↓読書メモ 
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2017/09/blog-post_8.html

マウンジーは、イギリスにとっては東洋の遅れた島国の内輪もめにすぎない西南戦争についてなぜ一書をものしたのか。それは、おそらく彼が西郷隆盛を高く評価していたからであり、西郷はイギリス人にとっても知って損はない人間だと信じていたからであろう。

マウンジーは、西南戦争については「封建制度をいくらか復活させようとする最後の真剣な企図であった」としていて、それ自体に進歩的意義は認めていない。しかし西郷については「その波瀾に富んだ生涯とその悲劇的な死とによって、国民の間で、「東洋の偉大な英雄」との称号を得、またイギリスの読者の興味をひくにも事欠かないのである」と述べている。

彼がこうした記述をしたことを考えてみても、西郷が鹿児島の士族にいいように使われていただけということは考えにくく、戦争中はかなり自由を制限されていたとはいえ、西郷が西南戦争の性格に大きな影響を及ぼしていることは確実なのだ。西南戦争は西郷にとって望まない戦だったが、鹿児島ではこの戦いは「せごどんのイッサ(戦)」と呼ばれ、確かに「西郷の戦い」だったのである。

そして、西郷の思想そのものが西南戦争にどう現れているか、ということはさして重要ではない。それよりも、西南戦争において、西郷にどのような思想が付託されていたのか、ということが、この戦争を理解する上でもっと重要だ。

西南戦争は、「時代遅れの男」たちの守旧的な戦いであると同時に、明治維新の精神が骨抜きになっていくなかで、自由と言論をもって権力に対抗し明治維新の大業を貫徹させようとする進歩的な思想を持った人々の戦いでもあった。

そういう西南戦争の二面性を描いたのが、『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦』(小川原 正道)である。
↓読書メモ 
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2018/04/blog-post_23.html

五箇条のご誓文では「万機公論に決すべし」とされていなかがら、実際には言論が制限され、薩長の政治家たちによる独裁政権(有司専制)が敷かれていたのが明治政府の実態であった。

そのため、いわゆる「民権派」という、自由と言論を重視する勢力が勃興してきたのが明治10年の頃である。そして「民権派」は、政府の横暴なやり方を糺すには武力を使うこともやむなしとさえ考えつつあった。例えば、板垣退助は明治政府の独裁を打破するため西郷を擁した反乱を企図し、島津久光に建言するのである。

後に板垣は西郷に批判的に転じるが、こういう背景があったから、薩軍には民権を求める進歩的な人々が多数参加している。

薩軍には、武士の特権を信じ封建制の復活を目指す人々と、自由と言論を信じ民権の拡大を目指す人々という、全く正反対の勢力が奇妙に同居していた。しかもそれぞれの勢力が、共にその思想を西郷に託していたのである。

どうしてそんなことが起こりえたのか。例えばこれが大久保利通であったなら、こんなことは起こりえなかっただろう。ほとんど共通点がない正反対の思想が西郷その人に付託されたという事実そのものが、西郷という人物を読み解く鍵であるように私には思える。

そして二つの思想の唯一の共通点は、理想の社会を実現するために身命をなげうつ点であったろう。ご一新の世の中に順応しえた人々が薩軍を冷ややかに見つめる中で、「この社会は間違っている」と憤った人々が西郷を旗印に集結した。社会を自分たちの手で変えようとする第2の明治維新を、西郷と共に起こそうとした。

だがこの戦いは、敗北を宿命付けられていたとも言える。なぜなら当の西郷にはその気がなかったからだ。彼は、あくまで明治天皇に忠誠を尽くそうとしていたのだから。

西郷をどう評価するかということは、近代日本の歩みを評価することと等しい。西郷には、古い社会の理想と新しい社会の理想が、両方投影されていた。しかし自分ではそのどちらも選び取ることが出来ず、新しい社会の理想を夢見ながら、「時代遅れの男」として死んだ。

「武士らしく生きることができない世の中なら、せめて武士らしく死なせてくれ」とでも言わんばかりの同胞と共に。

こうして西郷は「神話」となった。彼はあくまで黙して語らない。だから彼をどう評価してよいのか、考えれば考えるほど途方に暮れてしまう。

明治時代を鋭い目で見た橋川文三でさえ、西郷をどう扱えばいいのか悩んだ。『西郷隆盛紀行』(橋川 文三)は、依頼された西郷の評伝を書くために行った対談や小文をまとめたものだが、これを読めば西郷の評価がどうして難しいのかが分かるだろう。
↓読書メモ 
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2018/04/blog-post_7.html

だから、こうしていくつかの本を読んできたが、私もまだ「西郷隆盛と西南戦争」をどう考えたらいいのか、正直よく分からないのだ。以前とは違った意味で、西郷隆盛は私にとって謎の存在のままだ。

それにまだまだ知りたいことがいくつかある。西郷が設立したと一般的には思われているが、実はそうではないらしい「私学校」の実態について(例えば徳富蘇峰の『近世日本国民史「西南戦争」第1巻』参照)。西南戦争を始めた戦犯ともいうべき篠原国幹や桐野利秋、別府晋介といった人々の動向。そして私学校を保護して薩軍を支援し、実質的な薩軍の代理人をつとめたといえる県令・大山綱良のこと。

こうしたことを分かった上でないと西南戦争の評価は出来ないし、西郷の評価もできないだろう。近代日本史の分水嶺であった西南戦争は、もっと深く理解されてしかるべき戦いだ。もう少し、書の径(みち)をさまよってみなくてはならない。


2016年12月22日木曜日

本で旅した人びと

先日、「石蔵古本市」というイベントを主催した。

雰囲気のよい石蔵を貸し切って、古本屋さん5軒を呼んだ古本市を行うというものである。それを取り仕切ってくれたのが鹿児島市の「つばめ文庫」という古本屋さん。

この「つばめ文庫」、「本で旅する」というテーマを掲げていて、ちょっと他で見ないような探検ものの古書が充実している。

「本で旅する」——すごくステキなテーマだと思う。でも、実際にはそういうたぐいの本はほとんど売れないらしい。確かに、ちょっと昔の、未開のジャングルを探検するような本は、最近流行らないとは思う。「National Geographic」誌すら売れなくなってきている世の中である。

しかしこの「本で旅する」ということについて、ちょっと思うことがあるので今回は昔語りをしてみたい。

私は、実は小学校低学年の時にはあまり本を読んだ記憶がない。本を読むより外で遊ぶのが好きだったように記憶している。正直、読書は興味がなかった。実を言うと、今でも読書より行動の方が好きだと思う。

そんな私が、初めて、「本を読んだ」という実感を持つ体験をしたのが小学校4年くらいの時。風邪で数日間学校を休んで、ずっと寝ていなくてはいけなかったので退屈で仕方なく、それを見かねた母が図書館から数冊の本を借りてきてくれたのだ。

その中に、”SFの父"ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』があった。出版社も翻訳者も全く覚えていないが、子供用のシリーズの、随分古い本だったように思う。これが、とても面白かった。病気も忘れて熱中した。これが、初めて「本を読んだ」という体験だ。

こうなると、ジュール・ヴェルヌという作家の本をもっと読みたくなる。それで、人生で初めて、自分の意志で買った本がヴェルヌの『海底二万里』である。それまでマトモに本を読んだことのない人間が、いきなり新潮文庫の小さい字で500ページ以上ある本に取り組んだのだから、読むのに結構苦労したような気がする。だが、それ以上に面白かった。それから、ヴェルヌの空想科学小説系の本は、数年かけて(簡単に手に入るものは)全て読んだ。そういう、ヴェルヌの作品の解説にたびたび登場する有名な逸話がある。

ヴェルヌは、11歳の時に初恋の相手のためにサンゴの首飾りを手に入れるべく、インド行きの船に水夫見習いとして密かに乗船した。しかし途中で父に見つかってこっぴどく怒られ、「もうこれからは、夢の中でしか旅行はしない」と誓ったという。事実、ヴェルヌは『八十日間世界一周』をはじめとして世界を股にかけた数々の冒険ものの本を書いているが、母国フランスから出たことがなかったはずである。

幼かった私にとって、この逸話は大変心強いものだった。鹿児島の田舎に生まれ、外の世界に出て行くすべも持たない子どもにとっては、世界は遠すぎた。都会では電車でどこか行くことも出来るが、田舎では車の運転ができるようになるまで、自由にどこか行くということが適わない。だから、書斎から一歩も出ずに(と当時の私は思っていた)外国どころか『月世界へ行く』まで書いてしまえるヴェルヌには勇気づけられた。

人間は、筆の力でどこへでもいけるんだと。

実際、本の虫になることで、実際にそこへ行くよりも通(ツウ)になってしまった人がいる。古本とジャズの伝説的人物、植草甚一氏である。彼の『ぼくの読書法』というエッセイ集の中に「ぼくの原体験は英語を覚えたことだ」というのがある。

普通は原体験というと、戦争や肉親の死といったものが多いが、植草は早い時期に英語を覚え、それが彼の世界を変えた。大正から昭和、そして戦争の時代、やがて戦後へと進む時代の中で、彼は洋書を漁り、「今ここにある世界」とは別の世界へと飛翔したのである。

言うまでもなく、当時は自由に外国へ行けない時代だった。彼の偏愛した洋書や、ジャズや映画といったものは、細い細い管を通って日本へと僅かにしたたり落ちてくるだけ、といったような時代だ。それでも、彼は自分が面白いと思ったものを孤独に愛し続けた。行くことのできないニューヨークの、街角にあるはずの、古書店にたたずむ自分を空想したに違いない。1974年、ようやく彼はニューヨークに降り立った。しかしそれは見知らぬ街ではなく、既に本や雑誌で顔なじみになった街になっていた。どこになんの店があるか、行かなくてもまるきり分かっていたという。実際、それ以前でもニューヨークに行く予定の人がいれば、「どこそこへ行った方がよい」とアドバイスしていた程だった。

本を読むことで、植草甚一はニューヨークを何度も旅していたのである。

地理的な場所でないところにまで、本で「冒険」した人もいる。「サディズム」の語源ともなった、マルキ・ド・サド侯爵である。

サドは、生来の嗜虐的な性向から非人道的なセックスを行い、危険人物として人生の1/3ほどを牢獄で過ごさなくてはならなかった人物。女性を裸にしてベッドに縛り付けナイフで切りつけたり、まあ牢獄に入れられるのもしょうがない素行の人ではあった。が、彼が並の異常性愛者と違ったのは、自分の心の奥にある猟奇的欲望を実行に移すだけでなく、それを行う自分自身を冷徹に観察して、その心理を検証・分析してみなくては気が済まなかったところで、彼はその「検証結果」を数々の文学作品に昇華させていった。

そういう作品の最高峰が『ソドム百二十日』という未完の大作(大作といっても序文と第1部しか書かれていないので実際には短い)。これは、ルイ14世治世の末期、悪行によって莫大な私財を築いたブランジ侯爵という人物が、友人3人とともに、郊外の館で奴隷状態にした42人の男女をなぶりつつ120日間に及ぶ大饗宴を催すという話。この大饗宴の中身はほとんど虐待と強姦と殺人であって、42人のなぶり者のうち30人はむごたらしい拷問によって絶命する。そういう、悪逆の教科書みたいな作品である。

しかしサドがこの奇妙な作品を書いたのは、やはり牢獄の中のことであった。時はフランス革命の4年前。バスティーユ牢獄の一室に閉じ込められていたサドは、監守の目を盗みつつ、小さな紙片を繋ぎ合わせた巻紙に蟻のような小さな文字でこの作品を執筆していた。だが牢獄から一切の私物を持ち出すことを禁じられていたサドは、おそらくは時間か紙の不足のために未完になっていたこの原稿を泣く泣く手放すことになり、さらには革命の混乱で原稿は行方知れずになってしまう。

この作品が漸く出版されたのは、サドが執筆した120年後の1904年のこと。様々な奇縁によってなった出版であった。

こうして世に現れた『ソドム百二十日』は、サドが獄中で思索に思索を重ねた異常性愛の一大絵巻となっており、訳者の澁澤龍彦は「系統的に観察し分類した性倒錯現象の集大成、科学者の目でとらえた性病理学試論といった性格をおび、クラフト・エビングやフロイト以前の、貴重な資料ともなっている」と評している。

これは、牢獄に閉じ込められ、紙とペンすら満足に使えなかったマルキ・ド・サドが、空想によって旅した、完全無欠の魔道の世界の物語なのである。

……こうして、ここで挙げた「本で旅した人びと」を眺めて見ると、現実の世界では行きたい場所に行くことができなかった、という共通点がある。だが、行きたい場所に行けるなら本が必要ないか、というとそうではない。今は、お金と暇さえあれば、世界中の大抵の場所にはいくことができるが、本を通じてなら、それよりももっと遠い場所に行くことができるからだ。というのは、現実の世界では、遠い未来に行くことはできないし、過去の英雄に出会うこともできない。宇宙の果てや、人の心の奥底にある深淵にも、決して立つことは出来ない。これらは今のところ、本を通してしか、行くことができない場所にある。

「本で旅する」——。現実の世界で満足出来なくなった人にとって、いや、現実の世界に満足し切っている人なんてごくごく僅かだろうから、そういうほとんど全ての人にとって、「本で旅する」ことは、時には必要な、精神の休暇の過ごし方だと思うのである。


2016年2月3日水曜日

人造人間と「愛」

ゾッキ本、というのを知っているだろうか。

日本では書籍に再販制度があるので、本は返品可能なものとして書店に納入される。しかし何らかの事情で返品が出来ない本があって、そういう本は新刊本であっても古書として扱われ古書店に安値で売られる。これがゾッキ本である。

いわゆる「バーゲンブック」もこの類である。ゾッキ本は、新刊本と区別するために小口に「丸にB」印のスタンプが捺されていることが多い。

かつて十月社という小さな出版社があって、この小さいが真面目そうな会社が倒産したとき、在庫の本がゾッキ本として放出された。会社が倒産したのだから当然返品先はないため、新刊本がやむなくゾッキ本となり、どこかの古書店でまとめて売られていた。

その中の一冊にカレル・チャペックの『R.U.R(ロボット)』が入った戯曲集があった。

その頃はまだ岩波文庫に『ロボット』はなく、この十月社のチャペック戯曲集は日本語で『R.U.R』にアクセスできる(絶版でない)数少ない本の一つだったように思われる。既に『山椒魚戦争』や『クラカチット』といったチャペックのSF的作品に魅了されていた私は、当然、すぐに購入した。

『R.U.R』は、「ロボット(robot)」という単語を生みだした作品として名高い。

が、もちろんこの作品はそれだけのものでなく、その後のロボットものの原型をつくる役割をした意味で大きな影響力があった。つまり、最初は人間に役立つものとしてデザインされたロボットたちが、次第に力をつけてやがて反乱を起こすという筋書きはこの作品に始まったものである。

チャペックは、人造人間=ロボットを機械文明への批判から発想したのではなかった。

ある日、チャペックは満員電車に揺られながら街はずれからプラハに向かっていた。周りは生気なくすし詰めにされた乗客たち。生活条件が悪くなり、目の前の仕事をこなすばかりで考えることが出来なくなった人間の姿だった。チャペックは電車の中で、この人間たちは個性を持った人間ではなく、機械ではないか、と考えるようになった。 そして、「ロボット」という発想が生まれたのである。

今の日本では、こういう人たちを「社畜」というのかもしれない。

ロボットは、誰かの便利な生活を支える、都合のよい労働者だった。働くための必要最小限の機能だけしか持たず、従順で能率がよく、疲れを知らない労働者。作中で、ロボットを製造する企業R.U.Rは大儲けする。そして、ロボットのおかげで「人間」は労働から解放されつつあった!

だがチャペックは、書き進めるうちにそら怖ろしくなってきた。社会がこのまま突き進んで、「人間」が「人間」でなく「労働者」として生きるだけの社会になっていけば、そこに待っているのは破滅だと確信が持てた。本来美しいはずの「生」が、苦痛に満ちたものになるのではないかと恐れた。チャペックにとってロボットは反乱を起こさなくてはならないものだったのだ。

ロボットによる反乱で世界はどうなったか、それは本書を読んで確かめて欲しい。感動的な「愛」の発見を結末とせざるを得なかった、チャペックの苦悩と思考の結晶である。
 
ところで「ロボット」と並ぶ人造人間の呼称「アンドロイド」の方は、リヴィエ・ド・リラダンの『未來のイヴ』という、こちらも驚異的な作品が初出だ。

『未來のイヴ』が世に出たのは、「ロボット」に先立つこと約35年の1886年。19世紀末のことだ。

悩める青年貴族のために、発明家のエディソンが理想の恋人として人造人間をつくり上げる。それがアンドロイドの始まりであった。

この時代にはまだコンピュータすらないわけで、会話は予め蓄音機に録音されたセリフを再生するだけという純粋に機械的なものにすぎないが、エディソンによれば我々の会話だってそれと大差ないという。その場その場で言うべきセリフを言っているだけで、そこに自由な意志などない、と喝破するのである。

本書の半分ほどが、複雑に見える人間の行動や精神すら単純な機械によって模倣ができるのだ、とするエディソンの持論開陳に当てられているが、それが人間性への批判や風刺になっていて面白い。そして事実、恋人としてつくられたアンドロイドに、青年貴族は首ったけになってしまう!

現実の浅はかな女とは比べるべくもない、アンドロイドの高貴で優雅な「精神」と肉体! 事前に録音されたセリフを演じる苦もなく、会話は自然に流れてゆく。現実の俗物女に辟易していた青年貴族は、このアンドロイドを伴侶にして生きてゆくことを決めたのだった。

これは現代日本で言えば「2次元の嫁」だろう。少し前の話になるが2009年にある若者がゲーム「ラブプラス」のキャラクターと結婚式を挙げたという話があった。『未來のイヴ』はその嚆矢に当たると言えよう。

しかしつくづく思うのは、人造人間というものを描いてゆけば、「愛」の問題に行き着いてしまうということである。『R.U.R』はロボット自身が愛を発見し、『未來のイヴ』では愛すべき理想の伴侶としてアンドロイドがつくられる。人間を模倣しようとすれば、最後のギリギリのところで「愛」が大問題になる。

そういえば、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』でも、フランケンシュタイン博士がつくり出した「怪物」は、愛を求めて伴侶をつくることを博士に求める。人造人間と「愛」は切っても切り離せない問題なのだ。

それで思い起こされるのは「創世記」である。

神は自らの似姿として人間を創った。その人間が楽園を追放されるのは、「知恵」のためである。このことの宗教的意味がなんなのか、私にはよく分からない。たかが「知恵」を持ったからといって、それが原罪と呼ばれるほどの重罪となるというのがピンと来ない。

神が人間を創るということを、人間が人造人間を創るということのアナロジーで考えると、どうして「創世記」で「愛」が問題にならなかったのだろうと思う。人間が楽園を追放されるのは「知恵」ではなく「愛」ゆえであるべきだった。「知恵」をつけたから神に反逆するのではなく、神よりも伴侶を大事に思うことが神への反逆になるという筋書きであったら、私にとっては「創世記」はもっと魅力的なものだったろう。

科学技術が進歩して、人間が神にも等しいほどの力を持つ時が来ても、 「愛」こそが最後のスフィンクスとなるに違いない。人々に難問を突きつけて、答えられなければ喰ってしまうというあのスフィンクスに。

2015年12月2日水曜日

糞尿の文学

『ガルガンチュアとパンタグリュエル』という、もう書名を目にした瞬間にうずうずしてしまうような偉大な文学作品がある。
 
この本を初めて見たのは神保町の古本屋だった。古びた岩波文庫の5冊揃い。渡辺一夫訳の伝説的な作品。

当時は絶版の岩波版がほとんど唯一の『ガルガンチュア』だったから、確か9000円くらいしたと思う。お金がない時で、当然買えなかった。神保町へ行くたび、もうちょっと安いセットはないものかと一時期は探していた。

ちくま文庫から宮下志朗訳が出版されたのが2005年。もちろんすぐに購入した。この世界文学史に燦然と輝く作品が、一体どのようなものなのか期待してページをめくったのを覚えている。

それは、期待以上の読書体験だった。この本は、とにかく、笑える。荒唐無稽な巨人王の生涯! ナンセンスと言葉遊びの嵐! 下品なことも高尚なこともごった煮にした、百科全書的で無秩序な物語。

鋭い社会風刺、文明批判、そういうものもあるが、それは横に措いてもとにかく面白い(もちろん理解すればもっと面白い)。16世紀のユマニスム——つまり「人間中心主義」が作品のありとあらゆるところに横溢している。「ガルガンチュア伝説」という中世的な素材を扱いながら、教条主義に凝り固まった無益な規矩から解き放たれた人間が「自由」を存分に謳歌する。ここでは優等生的な人間でなく、ありのままの人間そのもの(巨人だからスケールは桁外れだが)が主人公である。

ぜひ紹介したいのが第13章「グラングジェ、ある尻拭き方法を考案したガルガンチュアのすばらしいひらめきを知る」。主人公たる巨人のガルガンチュアは、この章では「何を使ったら一番気持ちよくお尻が拭けるか」を父上のグラングジェに講釈する。

ビロードのスカーフ、深紅のサテンでできた頭巾の耳当て、母上の手袋、で拭くのもまずまず宜しいそうである。逆にカボチャやほうれん草の葉っぱ、レタスやバラは気持ちよくないらしい。カーテン、クッション、ゲーム台、そういうものは気持ちよい。

最上のお尻拭きを明らかにする前に、ガルガンチュアは「脱糞人に雪隠が話しかける歌」をグラングジェに聞かせる。
うんち之助に、
びちぐそくん、
ぶう太郎に、
糞野まみれちゃん、
きみたちのきたないうんこが、
ぼたぼたと、
ぼくらの上に、
落ちてくる。
ばっちくて、
うんちだらけの、
おもらし野郎、
あんたの穴がなにもかも
ぱかんとお口を開けたのに、
ふかずに退散するなんて、
聖アントニウス熱で焼けちまえ!
すばらしい「世界文学」! 下品なものを下品なままで文学に表現出来るようになったのが、16世紀のユマニスムであるような気がする。ユマニスム万歳!

さらにガルガンチュアの試行錯誤は続く。おんどりやめんどり、子牛の皮、ウサギ、ハト、弁護士の書類袋などでも尻を拭いてみた。が、「しかしながら、結論として申しますれば、うぶ毛でおおわれたガチョウのひなにまさる尻拭き紙はないと主張いしたしたいのであります」とのことである!

フランソワ・ラブレー先生の世界文学上に名だたる作品が、こういう調子なのだから、これはもう驚きというより痛快な読書体験であった。ありのままの人間を描こうとするなら、その最も汚い部分、つまり排泄だって描く必要がある。人は誰でも食べてそして排泄する。我々は誰でも「うんち之助」であり「糞野まみれちゃん」なのである。

こういうテーマをそれまでの文学ではあまり扱ってこなかった。というより、未だにそうである。

でも世の中にはやっぱりそういうテーマで文学を書いてみようという人もいるもので、安岡章太郎はそういう作品だけを集めた『ウィタ・フンニョアリス』というアンソロジーを編んだ(これも題名が洒落ている。「ウィタ・フンニョアリス」はもちろん森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』のもじりだ)。

この本では、主に日本近代文学の書き手による糞尿やトイレを題材にした短編が集められており、芥川龍之介、谷崎潤一郎、吉行淳之介、北 杜夫、遠藤周作といった名前が並ぶ(『ガルガンチュア』の第13章も渡辺一夫訳で所収)。全体を通じて意外に思うのは、糞尿が汚いものという観念が薄く、厠の匂い(当然昔は水洗便所ではなかった)には一種の情緒すらあるという考えである。作家たちには、世の中が水洗便所に変わっていき、清潔第一になってしまったことが何か寂しいという郷愁があるようだ。

私などは水洗トイレの方がいいだろ! という現代人で、汲み取り式便所の匂いにどんな情緒があるのか理解できないが、明治や大正の文豪たちにとっては、糞尿は現代の人に比べてずっと身近なものだった。何しろ、昔(といってもそんなに昔ではない)は人糞は肥料として使われていたので、それは大切に集められていた。

以前、江戸時代の農書の勉強をしていたとき、「上農(上手な農家)はあたりかまわず小便をしない」というようなことが書かれていて、何のこっちゃと思ったら、小便はちゃんと溜めておいて肥料に使うべきで、畑の隅で立ち小便をしているようではダメだ、という意味だった。汚いからとか、はしたないから立ち小便をしてはダメということではないのである。

そういう次第だから、化学肥料と水洗便所以前の人たちにとっての糞尿は、今の私たちとは全然違うものとして認識されていた。だが化学肥料が利用できるようになると、自ずから糞尿は役立たずとなり、ただ穢らしいもの、処分すべきもの、できれば目にしたくないものに変わっていった。

そうした風潮に真っ向から異議申し立てをし、糞尿こそ世界を救うとのたまった学者がいる。中村 浩という人だ。

この人の『糞尿博士・世界漫遊記』という本は、めっぽう面白い。中村 浩は幼少の頃よりなぜか糞尿に心惹かれ、微生物学者となってからも「ウンコ博士」として糞尿の研究を続け、ついに糞尿からクロレラを培養して直接的に食糧生産する方法を編み出す。妖気漂う臭気芬々たる研究室から、「緑のパン」が生みだされたのだ。

この功績により、中村はソ連から招聘される。宇宙空間では糞尿はたくさん溜めておけないので、その水分を浄化し、栄養分を食糧生産に使えるなら、宇宙での長期滞在の役に立つ。そういうわけで、日本では奇人・変人扱いされていたウンコ博士が、ソ連へは重要人物として招聘されたのだった。このほか中村は、香港、インド、エジプト、イタリア、スイス、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカと巡り、各地で糞尿談義をふっかけるのである。

中村の夢は、糞尿という毎日生ずる大量の有機物を有効活用し、クロレラを中心とした食糧生産をすることで地球から飢えの心配をなくすという「食糧革命」なのだが、世界各地での彼の興味関心は、糞尿をどうやって排泄し、利用し、処分するかという実務的な面だけでなく、糞尿をどう語り、どう扱うかという文化的側面にまで渡っている。それどころか、本書には「糞尿からの文明批評」というべき風采があって、「糞尿をキタナイもの、イヤラシイものと目のかたきにしていては、人類の進歩はのぞみえない」とか、「人間は糞をひる葦である」といった面白い警句が並ぶ。しかもユーモアいっぱいの!

本書の白眉は、水と太陽と糞尿さえあれば人は自給自足できるんだ! という「食糧革命」の理論を証明するために、自らアリゾナ砂漠で「人体実験」をするくだり。砂漠の朽ちた一軒家に身を寄せて、小さな池を掘り、そこに糞尿を栄養としてクロレラや水草を培養、それらを食べて3ヶ月生きるという何ともワイルドな実験である。

そして中村は池を掘ってから3週間で自給自足の体制を整えた。農業だったらこうはいかない。自給自足できるのに1年はかかるし、その上かなりの面積が必要だ。たった5坪の池で大人一人が生きていくというのは、ものすごい生産性である。中村の夢見る「食糧革命」も絵空事ではないのだろう。

本書のエピローグにはこういう言葉がある。「人間の生活をみてみても、食べることには熱中するが、フンベンなどは口にするもいやらしいこととして葬りさっている。この誤った観念が今日の公害問題を引き起こしたのである。近代工業においても、生産品を高く売りつけて儲けることには熱中するが、工業廃棄物などはコッソリ始末してしまえという安易な考えがあった」その通りであると思う。

ところで、糞尿が社会から隠されてしまうと、逆にそれを覗き観たいと思う人が現れてくる。隠されたものを愛でる行為はそれだけで淫靡なものである。この世界にはそういう、糞尿をなぜだか偏愛している人たちがいて、スカトロジストと呼ばれている。

ある種のポルノビデオには、そういう人たちのための過激な排泄や糞尿表現があるだけでなく、糞便を食べることすらする。ちょっとここまでくると、厠の匂いの情緒とかそういう文学的なものから離れて、ただのゲテモノ趣味のようにも見える。

でも、知り合いからホンモノのスカトロジストの話を聞いてみたら、その活動(?)は結構真面目で、まず彼らはご飯をいただくというところからするそうだ。そのご飯が体内を通って、そして糞便になって出てくる。それをまたいただく——というのが私には全く理解できないが、そういう行為を通じて「生の営み」を実感するんだとかなんとか。

その話を聞いて、最高のスカトロ文学というのが何かひらめいた。それは、『Dr.スランプ(アラレちゃん)』である。アラレちゃんはいつもうんちを持って走り回っているが、それはアラレちゃんがロボットであるため自分には絶対にうんちができないからで、要するにアラレちゃんにとっての生命の象徴がうんちなのだ(と鳥山 明が実際に考えたのかどうか知らないがそういうことにしておく)。

うんちは汚いが、その汚さは人工的に生み出せるものではなく、生命にしか生み出しえない汚さなのである。だからアラレちゃんはうんちに憧れている。かつて、これほど純粋に糞尿に憧れる主人公を登場させた文学作品があっただろうか。

ラブレーが『アラレちゃん』を読んだら歯ぎしりするに違いない。糞尿への憧れが、ロボットによって表現されるなんて、なんて文学的なんだろうか!