明治初年の神仏分離政策を中心とした、明治政府の神祇行政史。
本書は、廃仏毀釈や神仏分離はなぜ起こったのか、どのようなことがあったのか、そしてそれはどう終熄していったのかを述べるものである。
「Ⅰ 幕藩制と宗教」では、明治政府の根本思想とも言うべき「復古神道」に至るまでの思想史が信長の一向宗弾圧や秀吉のキリシタン禁制にまで遡って簡潔に述べられる。近世後期に至って、荻生徂徠、太宰春台、中井竹山、会沢安(正志斎)など儒学者、水戸学者が廃仏論を展開し、「祭祀による人心統合」が次第に企図されていった。
「Ⅱ 発端」では、慶応4年に「神祇官」が復興され、「国体神学」が政府の正統性を担保する思想として確立し、具体的施策として神仏分離政策が実施していく過程が述べられる。神祇官は政治的には弱小勢力であり、職掌も狭く、祭祀と宗教政策と国民教化のみが活動を許された領域であったが、そこに結集した国学者たちは情熱をもって彼らの理想の実現に取り組んだ。
その具体的活動が神仏分離政策であり、それは神社から仏教的要素を取り除くという簡単な指示でしかなかったが、これが時代の趨勢という見えない力の手を借りて巨大な影響を社会に及ぼしていく。例えば、神仏分離政策そのものは必ずしも廃仏を意図したものではなかったものの、それが恰も仏教的要素の「破壊」までも含意していると(半ば意図的に)誤解したものたちは、興福寺や日吉山王社のような大寺院を破却したのであった。
一方、国体神学は仏教的要素の破壊だけでなく、新たな神道の構築をも企図していた。例えば国家の功臣を祀る神社(楠木正成を祀る「湊川神社」や後の「靖国神社」)を創建し、天皇家の葬祭を神道式に改め、国家規模で新たな神道を実現しようとした。だがこの動きに釘を刺したのが西本願寺で、西本願寺は元来尊皇的で政府と近く、多額の献金をしていたことなどを背景に、神道優遇策に反対する力となっていく。
「Ⅲ 廃仏毀釈の展開」では、実際に地方で展開した廃仏毀釈運動について述べられる。具体的には、明治政府の神仏分離政策を先取りして実施していた津和野藩、狭い範囲で廃仏が強行的に実施された隠岐、佐渡、苗木藩が取り上げられる。こうしたところでも、廃仏に最も抵抗したのは真宗門徒であり、一度廃仏されても速やかに復興を果たしたのも真宗が多かった。富山藩や松本藩の場合、廃合寺政策が推し進められながらも、真宗の抵抗によって挫折している。この他廃仏毀釈が行われた地域として、薩摩藩、土佐藩、平戸藩、延岡藩などがある。
廃仏毀釈は、明治政府の政策そのものではなく、神仏分離政策を過激に解釈して起こった地方的な運動であったから、隠岐や佐渡、薩摩といった、他の地域と隔絶し地方権力が強力だったところで展開しやすかった。
「Ⅳ 神道国教主義の展開」では、国体神学を全国的に実現するために行われた種々の政策について述べられる。明治政府が国教化しようとした「神道」は、全ての宗教行為を祖霊祭祀と皇室崇拝に組み替え、それを総括するものとして産土社から国家的大社までの神社を据える一方、記紀神話に位置づけられない信仰を異端として圧殺するものであった。これを実現するため、国民教化の役割を担う「宣教使」の設置、伊勢神宮を国家の宗廟として改変すること、神職の世襲を禁じ全ての神社を国家の管理下に置くとともに全国の神社をヒエラルキー的に整理統合すること、国家的祝祭日(元始祭、天長節など)の設定などが矢継ぎ早に行われた。こうして新たな宗教大系が民衆に強制されていった。
「Ⅴ 宗教生活の改変」では、こうした新たな宗教大系がどのような影響を及ぼしたかがケーススタディ的に述べられる。修験道については特に影響が大きく、神仏混淆が最も進んだ宗教だったことから、元来の信仰が大胆に組み替えられ、神道的に再解釈されてしまった。また古来より信仰されてきた地域の小社については、記紀神話に基づかないものが多かったため、各種の民俗信仰や民俗行事・習俗が淫祠邪教とされて廃止された。こうした動きは、強権的なものというよりも、「迷信を打破する」といったような「啓蒙や進取のプラスの価値」として人々に迫り、強力にその信仰を組み替えていった。
「Ⅵ 大教院体制から「信教の自由」へ」では、このように推し進められた神道国教化政策がどのように挫折していったかが述べられる。神道へ露骨な優遇は西本願寺を中心とした仏教勢力の働きかけによって改められ、神仏合同で国民教化を担う「教部省」が設置され、具体的教化の機関として「大教院」等を置き、その根本原則として「三条の教則」が定められた。ところが人々に新たな信仰を強制することには、軋轢を生まずにはおかなかった。また当初は協力的だった仏教側も次第に離反的となり、ヨーロッパの宗教事情を踏まえた西本願寺の島地黙雷の運動によって「信教自由」を求めるようになった。一方で明治政府としても、不平等条約の改正の条件として諸国から信教の自由を求められるなどし、明治8年5月に大教院は解散、以後各宗が独自で布教活動をするようになった。こうして神仏分離政策から始まった一連の宗教政策は挫折した。
ところが、これは国家のイデオロギー的要請に対して各宗派がみずから有効性を証明する自由競争、すなわち各宗派が自主的に国家へ奉仕していく体制への端緒を開いた。こうして、後の「国家神道」という、宗教を超越した宗教の誕生へと繋がっていくのだった。神仏分離と廃仏毀釈は、その政策意図が貫徹できなかったという意味では失敗した政策であったが、それは、「国家神道」へと至る道筋となるものだったのである。
全体を通読して、西本願寺の対応に多くの紙幅が割かれ、神仏分離政策を挫折せしめた大きな力である仏教勢力の動きがよく理解できる。また上述のまとめでは触れなかったがキリスト教対応についても詳しい。キリスト教への対応が、神道国教化の大きな目的だったのである。一方、「国体神学」の生みの親である本居宣長や平田篤胤の思想については簡潔な記載しかなく、明治初年の神祇行政に巨大な影響力をもった津和野派の思想的はほぼ触れられていない。本書は国学思想についてあまり立ちっていないのが憾みの一つである。
しかしながら、込み入った動きを見せる明治の宗教行政史を非常にわかりやすくまとめており、しかも決して概略的な記載に留まらない深みを持っている。私は本書を数年前にも通読しているが、この分野の他の文献をいくつか読んで改めて本書に向かったとき、やはり本書はこの分野の基本文献となる重要な本であると確信したところである。
「国家神道」まで繋がる明治初年の宗教的激動を、わかりやすくしかも深く学べる名著。
【関連書籍】
『明治維新と国学者』阪本 是丸 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/02/blog-post_11.html
国学者が近代天皇制国家の創出に果たした役割と限界について考察する重厚な論文集。
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