2020年11月23日月曜日

『ベートーヴェンの生涯』青木 やよひ 著

実証的な資料によって構成したベートーヴェンの伝記。

ベートーヴェンの生涯は、長く誤解されてきた。晩年の秘書であったアントン・シントラーによって偏見と誇張に満ちた最初の伝記が作られて以来、それに引きづられて非人間的な孤高の芸術家像が一人歩きするようになったからである。

ロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』も(文学的価値は別として)その一つである。ロマン・ロランは、自身でもベートーヴェンについてかなり調べながら、ついにシントラーが歪めたベートーヴェン像を修正することができなかった。こうしたことから、ベートーヴェンは世紀末のウィーンの場末で生涯を過ごした「陰気で悲劇的な芸術家」であると考えられてきた。

そもそも、シントラーの伝記は真実のベートーヴェンを伝えるために書かれたものではなかった。彼はベートーヴェンが死ぬ前のたった3、4ヶ月秘書を務めただけなのに、あたかも長年ベートーヴェンに献身的に仕えたように書き、しかもベートーヴェンが残した300冊とも400冊ともいわれる『会話帳』(筆談に使った)の半数以上を無断で破棄し、残したものも自分に都合良く改竄しているのである。シントラーは、英雄的な芸術家の内面を知っている唯一の人物になれる、という誘惑に勝てなかったのだった。であるから、シントラーの伝記には信頼性は全くないのである。

そこで著者は、実証的な資料によってベートーヴェン像を再構成するという仕事をライフワークとし、50年に及ぶ研究の集大成として著したのが本書である(本書にはドイツ語版が存在し、そちらの方が本体のようだ)。

まず、本書を読んで従来のベートーヴェン像と違うと感じたのは、今の言葉でいえばベートーヴェンは発達障害っぽいところがあるということである。彼は、偏屈とか狷介であることとは違うのだ。例えば彼は、自分のルールに従って行動していたので、世間的にNGとされることが理解できなかった。世間のルールを無視したのではなくて、「暗黙のルール」が理解できなかったのである。例えば、ベートーヴェンは既婚者を含む女性と対等な友達づきあいをしようとした。しかし当時は求婚者として近づくのでなければ、女性と親しくしようとするのはNGだったのである(ついでに言えば、ベートーヴェンは惚れっぽかったようだ)。こういう、「暗黙のルール」にベートーヴェンは弱かった。

しかしそれは、移りゆく人びとの流行を全く無視することを可能とし、自らの内的な芸術性のみを信じることに繋がった。ベートーヴェンの音楽は、旧来の音楽家や聴衆には耳障りで狂気じみているように感じられたが、十分に訓練された耳を持った人や、新しい時代を求めていた民衆には熱狂的に迎えられた。モーツァルトも、若いベートーヴェンの演奏を聴いてその新しさに興奮している。

だが、ベートーヴェンが古い音楽を無視していたかというと事実は全く逆で、ベートーヴェンは独り立ちした後もいろいろな先生に教えを請い、音楽技術の習得に貪欲だった。また、自らのスタイルが確立してからもバッハのフーガの研究を行うなど、一生を通じて学び続けた人だった。 そして、聴衆が求める気軽な音楽がどういったものかを理解し、生活の糧のために大衆に受ける音楽を作ることも可能だった。そういう点が、自分の作りたい音楽を愚直に作るしかできなかった不器用なモーツァルトとの違いである。

本書は、従来のベートーヴェン像を修正するということを目的としているが、これまでの伝記の否定に傾いておらず、むしろ平易にベートーヴェンの伝記を記述することに努めている。著者はベートーヴェンの「不滅の恋人」がアントーニア・ブレンターノであることを初めて指摘し、それが後に証明されたが、そうしたこともくだくだしく書いておらず、全体的にスピード感があって非常に読みやすい。だが新書で300ページほどの小著でもあり、考察については弱い。

例えば、ベートーヴェンは創立されたばかりのボン大学に入学し哲学科で学んでいるが、なぜロクに中等教育を受けていない(らしい)ベートーヴェンが大学に入学したのか、といったことは突っ込んで書いていない。しかも哲学科を選んだのは何故なのか。

なお話が逸れるが、ベートーヴェンと同い年で哲学科の同級生だったのがアントン・ライヒャ(アントニーン・レイハ)である(後に音楽家として大成した)。ライヒャはベートーヴェンの生涯の友人(親友ではないにしても)の一人だった(はず)だが、本書にはライヒャとの交友についてほとんど書いていない。こういう部分は、既存の伝記を参照すれば十分だとの判断だと思う。本書は「ベートーヴェンの伝記の決定版!」みたいな気負いでは書かれておらず割と簡約である。それが長所でもあろう。

偉大な音楽家の真実の姿を平易に述べる、ベートーヴェン伝の新しい基本。


『荀子』常磐井 賢十 訳(『世界古典文学全集 19 諸子百家』所収)

荀子の主要な思想。

荀子の時代、つまり紀元前300年前後は、戦国時代の末期であり、社会は乱れに乱れていた。それに先立つ春秋時代では、戦も名乗り合う一騎打ちのようなものが行われていたが、戦国時代には集団戦となり、殺し合いは大規模になった。だまし討ちや権謀術数、下剋上が横行し、社会の秩序は全く失われてしまっていた。

そんな中、斉という国では、学者を優遇して国都臨淄(りんし)の城門の一つである稷門のそばに邸宅を与え、大夫(家老)の待遇を与えて専ら学問に専念させた。そうして、鄒衍、田駢・淳于髠(じゅんうこん)、慎到などの英才が集まってきて当時の学問の中心となった。この集団を「稷下の学士」という。荀子はこのころ斉にやってきて「稷下の学士」に加えられ、3度もその首席に選ばれた大学者であった。

こういう環境の中で、荀子の思想は磨かれた。その思想の核心は「礼」である。

荀子は、人間には欲望があり、快楽を好み、利己的な存在であることを認める。であるから、そうした性情が何の規制も受けないとすれば、互いの欲望や利害が衝突し争いが起こらずにはおれない。よって「礼」に従って欲望を充足させることで秩序を守る必要があるのである。ここで注意すべきは、荀子は「欲望の充足」自体は否定していないということである。「礼」は何かを我慢することではなく、「欲望の充足」を目的としつつ、それをスマートに実現するものであるらしい。私は、「礼」は「作法」であると理解するのがよいのではないかと思った。

また、荀子は人間は誰しも生まれつきの能力は一緒だという。聖人も賤人も、持って生まれた能力に何の違いもない。しかし聖人は努力して能力を身につけ、賤人は努力することができないから結果として人間の違いが生まれるのである。よって優れた師に出会い、日々たゆまず学び、向上していくことが必要である。だから人間には環境こそ最も大事なものだという。荀子といえば「性悪説」が有名であるが(ただし、本編にはあまり「性悪」とはでてこない)、「性悪説」の行き着くところの結論として、環境や努力の重要性が力強く謳われているのである。

しかし、この思想から当然導かれるべき「人間の平等」が荀子にはない。荀子は階級の差別を肯定する。「誰しも生まれつきの能力は変わらない」といいながら、身分差別を肯定しているところが荀子の思想の不徹底な点である。全体的に、荀子の思想には新しい社会を建設していこうという気迫に乏しく、むしろ既存の社会の仕組みを肯定した上でそれをいかに平穏無事に運営させていくかという視点が強い。もちろん、これは読んでいて何か物足りない。しかし、荀子の時代は、戦国時代の中でも社会が非常に混乱していた時である。おそらく荀子には新しい時代を建設するよりも、社会秩序を維持したいという思いが強かったのだろう。

一方、荀子の思想にも革命的な点がある。それは、日蝕や月蝕、天災といったものを天意と認めず、単なる自然現象と考え、また占いを否定したことである。天は人治に相応して働くという「天人相関」の思想は伝統的に儒家の奉ずるところであったし、筮竹や亀卜によって天意を伺って政治を行なっていくのが古来のあり方だったが、荀子においてはこれが全く否定され、のちの法家へ続く道が開かれたのである。さらに全体的な立論の進め方においても帰納的に論拠を積み重ねていくことが多く、これは「科学的」といってもいい態度である。

しかしながら、荀子の思想には決定的な弱点がある。それは、彼の思想の核心である「礼」について、なんら批判的に検証していないことである。荀子はいつでも「礼」を根本に置く。では一体「礼」とは何であるか? 荀子はそれについて詳しく説明することはないのである。おそらくは、当時の人には「礼」とはこのようなものだ、ということが自明だったので詳らかに説明する必要を感じなかったのだろう。しかしこれは、当時の人の「常識」に頼った思想だと言わざるを得ない。

例えば、「礼論編」において、荀子は葬礼の重要さを力説している。儒家では父母の喪を足掛け3年(正確には25ヶ月)としており、これが長すぎるとの批判があり、特に墨子は葬礼を無意味だと論難した。これに対し、荀子は葬礼が社会秩序を維持するものであるとして擁護する。それの当否は措くとしても、どうしてその葬礼が成立したのか、3年の喪にどのような意味があるのか、そうしたことを検証せずに、無批判に旧来の習慣を肯定したことは不徹底であったと思う。常識に挑戦した墨子との大きな違いである。

とはいえ、荀子の生きた社会は、墨子や孟子の頃よりもずっと乱れていた。むしろこれまでの常識が通用しなくなってきた社会であった。為政者の質は落ち、その場しのぎの政策で民は疲弊していた。であるから、荀子には思想的一貫性よりも、社会秩序の維持を重視する傾きがあるのは無理からぬことである。

そして、そのような社会の様相は現代にも通ずるものがあり、特にその君主論は今にも十分に通用する。例えば荀子は言う。「聡明な君主は立派な人物を求めることに努力するのであるが、暗愚な君主は権勢を得ることに努力する」、「つまらぬ人物を重く用いて人民の上位において威光を振わせ、巧みに口実を設けて取るべきでないのに民衆から財貨をだまし取る。これが国を傷つけそこなう大災厄である」「聡明な君主は臣下と力を合わせることを好むが、愚かな君主は何もかも自分一人ですることを好むのである」、「君主の政治のしかたは、明るいのがよろしく、暗いのはよろしくない。開放的なのがよろしく、秘密的なのはよろしくない」云々。

なお、荀子の文章は論理的であるが、かなりくどくどしたところがあり、論旨の繰り返しも多く長ったらしい。人を説得せずにはおれない力強さはあるものの、大文章であるためそもそも『荀子』を読む人自体が少ないように思う。今の時代には向かない古典かもしれない。

本書は、『荀子』からその主要思想を伝える諸編を選んで日本語訳したもの。日本語訳自体はわかりやすいものの、注が語義の説明のみに留まり、簡単なのが残念である。もう少し解説的な部分もあれば理解の助けになったと思う。

思想の中心「礼」が弱点だが、乱世を生きる力強い思想の書。


【関連書籍の読書メモ】
『墨子』森 三樹三郎 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/11/19.html

古代に「有神論的功利主義」を説いた独創的思想家の書。


2020年11月11日水曜日

『増補 無縁・公界・楽』網野 善彦 著

日本の中世・近世に存在した「無縁の原理」について述べる本。

「無縁」とは、縁がないということではなく、もっと広く「俗世の主従関係・親族関係・貸借関係等から離れ、訴訟・紛争などが停止され、自律的な自治が行われる場」の性質を指す言葉である。

例えば「無縁所」とされた寺の場合、そこに駆け込むと、追っ手は捉えることができず、借金の取り立ては不可能になり、たとえ科人であっても誅罰されないのである。そういう場——ある種の「アジール(避難所)」が、その形態は様々であったが中世から江戸時代にかけて存在し続け、幕府の統治とは違った意味での「自由と平和」を実現する場となっていた。

「無縁」をまとっていたのは「場」だけではない。例えば遍歴する芸能民・職人には、関所の自由通行を認められ、課役から自由なものが多く見受けられる。どうやら芸能と「無縁」には深い関係があるようだ。また「禁裏供御人(天皇・朝廷に山海の特産物や工芸品などを納めた人)」はこうした特権の発生に関わっていると見られる。さらに「女性」も「無縁」的であったかもしれないと示唆されている。

一方、寺の全てが「無縁所」だったわけではない。大名や家臣の氏寺のようなものは普通「無縁所」にならなかったし、「無縁所」になるためには古跡であるといった条件もあったようだ。

「無縁」は時代が下ると「公界(くがい)」という言葉でも表されるようになる。幕府の統治から外れた人を「公界者」と呼び、自治都市は「公界」と呼ばれた。さらに追って、こうした場は「楽(らく)」とも呼ばれる。「楽市場」とは、営業権の自由だけでなく、地子・諸役免除の場でもあった。

もちろん、公権力にとってはその力が及ばない「無縁所」などは好ましくなかったので、そこに圧力を加えてその特権を排除していくことが多かったのであるが、しかし一方で公権力は法制的に「無縁所」を追認していることもまた一般的であった。公権力を無効化する「無縁」の力は、公権力にとってやっかいなものだったように思うものの、必ずしも敵対的な関係ではなかったのである。

本書は、こうした「無縁」の様々な事物について、史料の片言隻句から推測していく、という微証の積み重ねの本である。よって、体系的な「無縁」の考察というより、「無縁」の世界を垣間見るとでもいうか、考察の入り口となるような論考である。ところが「無縁の原理は人類史に普遍的に存在する」といった大雑把な言明が飛び出してきたり、学問的にはやや脇が甘い点もあって、本書の初版発表時には、批判も多く寄せられた。

そこで著者が主要な批判に対して「補注」の形で応え、若干の論考を補ったのが書名の「増補」の意味である。 しかしながら、著者の立論は「補注」を含めてもあまり堅牢ではない。様々な微証はそれなりに豊富だが、まるで跳び石のようにあちこちに散らばっており、文字通り一筋縄ではいかない。私も、何か「無縁」についてわかったような、わからないような、狐につままれたような気分になってしまった。

そんなわけで、あまり明確に理解してはいないが、私なりに「無縁」の意味について述べてみる。

まず、中世(鎌倉・室町)の公権力は、「将軍—御家人」の主従制を基本的な統治原理としていた。特に鎌倉幕府は、公権力全てを掌握したのではなくて、法務局(土地の登記)と裁判所(紛争の解決)と軍事指揮権のみを保持した”半”公権力であった。 御家人というのは、将軍から土地を認定(安堵)されたことによって主従関係を持ったもので、今風に言えば法務局で登記してもらった人が御家人なのである。では土地を安堵されていない人(非御家人)と、公権力との関係はどうであったか。

例えば、裁判において御家人と非御家人が係争したとき、非御家人に不利な判決が出がちだったかというとそうでもないらしい。それに軍事指揮権は土地の給付とは名目上は関係なく、朝廷から委任された惣追捕使といった役職から発せられる権能だった(しかし実際に戦に動員されたのは御家人のみ)。「御成敗式目」でも、「御家人の場合はこうする、御家人でない場合はこうする」といった規定があるから、鎌倉幕府は確かに非御家人も統治していた。ただしそれは、主従関係で結ばれた統治ではなかったから、曖昧な部分を残した統治であった。

では、そもそも土地を持たない職人とか商人といったものは、鎌倉幕府の中でどのように位置づけられるのだろうか。裁判が起これば幕府に従わなくてはならなかったが、そうでなければ幕府の統治外の存在だったと言える。鎌倉幕府は法務局と裁判所と軍事以外の面では、明確な権能がないのである。幕府とは、形式上、朝廷から行政権の一部を付託されて成立していて、全統治権を保持しているわけではなかったから、統治権に隙間が大きかった。

私の理解では、「無縁」とはそういう「統治権の隙間」のことではないかと思う。大名や家臣の氏寺が「無縁所」にならなかったのは、主従制の中に組み込まれた存在だったからであろう。こういう場は幕府にはちゃんと統治権があるのである。芸能民・職人のような、(土地を安堵されないため)御家人になる可能性がない者が「無縁」的であるのもそういう理由であろう。

してみれば、「無縁」が存在し得たのは、統治権が未確立で、非中央集権的な封建社会であったからだという単純なことになる。著者がある種のロマンティズムをもって語っている「無縁」を、こういう統治権の面から理解するのは無粋なことかもしれないし、これだけで説明できることでもない。何しろ、「無縁所」で断たれるのは、公権力との関係だけでなく、婚姻関係など親族関係や金の貸借関係まで含まれる。つまり今で言えば民法も無効化される。公権力が保証しなくても自然発生的に認められていた(に違いない)民法まで無効化されるのが「無縁」の不思議なところである。

しかも、幕府はそういう統治権の隙間をしぶしぶながら認めて、そこに幕府とは異なる統治原理の別世界を建設するのを許していた。こういう考察をしていくと、結局「中世における幕府の統治権とは何か」という話になってきて、「無縁」とはちょっと違う話になってくる。しかし私が本書を読んで思ったのは、「無縁」の基盤となった法制的なものは何かということと、「非御家人から見る中世の歴史」はどんなものなんだろうか、ということだった。

「無縁」の世界という沃野を切り拓いた、荒削りだが触発されるところも多い論考。

【関連書籍の読書メモ】
『寺社勢力—もう一つの中世社会』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/blog-post_13.html

中世における寺社勢力の勃興と衰退を述べる。非御家人の一大勢力であった寺社の中世史。
中世の申し子とも言える寺社勢力を通じて当時の社会の内実を考えさせる良書。

 

2020年11月6日金曜日

『法華経』(現代語訳大乗仏典2)中村 元 著

法華経のエッセンス。

本書は仏教学者・比較宗教学者の中村元が折々にまとめた法華経(サンスクリット+漢文)の重要な部分の現代語訳とその解説を基本として、足りない部分を東方研究会 (中村が残した研究団体)[の堀内伸二]が補筆したものである。

よって本書は法華経の全文ではなく、そのエッセンスの解説である。

法華経はアジア諸国で「諸経の王」として重視された経典であり、日本の文化にも巨大な影響を与えてきた。これは紀元1〜2世紀の北西インド、クシャーナ王朝で編纂されたと見られ、特に韻文の部分が早くに成立した。この韻文(ガ—ター)はサンスクリット語でもパーリ語でもない言語(ガーター・ダイアレクト)で書かれている。

『法華経』は中国に伝えられると鳩摩羅什の翻訳を含め3種の翻訳が作られた。それほど中国人は『法華経』に深い影響を受けたということになる。特に天台大師智顗(ちぎ)は『摩訶止観』『法華玄義』『法華文句』という古典的な大作(三大部)を残し、これは日本にも大きな影響を与えた。

日本でも聖徳太子が『法華義疏』を著しているように、『法華経』は仏教伝来当初から重んじられ、天台宗が『法華経』を根本経典としたことから、天台宗を母体として生まれた諸派もまたこれを最も基本的な経典の位置づけとした。このように甚大な影響力を持った経典は他になく、『法華経』はまさに「諸経の王」である。

その内容であるが、まず冒頭(序品)の場面の壮大さはちょっと度肝を抜かれる。釈尊が何万人もの菩薩たちの前で教えを説き、その光で全世界を照らす場面である。このオープニングには、『法華経』の巨大な包容力がある世界観が表現されている。

具体的な思想については、長大なお経なのでとてもまとめられるものではない。そこで以下に気になった点だけ記す。

第1に、「一乗の思想」。悟りに至る方法・教えにはいろいろあるが、それは最終的には帰一する。大乗仏教は小乗仏教(上座部仏教)を批判していたのだが、『法華経』では小乗すら包摂する。仏は偉大な慈悲を持っているので、「南無仏」と唱えるだけでもみな救われる。

第2に、ストゥーパ(塔)崇拝の勧め。ストゥーパ(舎利=ブッダの遺骨を崇拝するための施設)は、仮に子供が戯れに作ったものであっても仏に救ってもらえるという。これは信仰心の有無を問題にしていないようで非常に気になる部分である(時衆の「信不信をえらばず」を想起させる)。塔崇拝の勧めは、日本では諸々の塔(五輪塔とか宝篋印塔とか)の造営に大きな影響を与えたと思う。

第3に、「回向の思想」。経典を読誦する功徳は他の人に「回らし向け」ることができて、それによってやがて全ての人がさとりを開くことができる(→普回向文「願以此功徳、普及於一切、我等与衆生、皆共成仏道」)(化城喩品)。

第4に、経典そのものを聖なるものと見なす思想。『法華経』をたもつ者は、そのまま如来であるとし、経典をたった一つの語句だけでも読誦し、書写し、記憶し、拝み、供養(伎楽や花で荘厳する)することは無上の功徳がある。言うまでもなく、この思想は日蓮宗に強く受け継がれた(法師品)。

第5に、 「久遠(くおん)の本仏」の思想。歴史的存在としての釈尊は既に入滅しているが、実は仏は永遠の昔(久遠)に悟りを開いており、それが方便のため人間として生まれて教えを説いたものであって、仏の本質は永遠不滅のもの(常住不滅)だという思想である。要するに、仏の教えは特定の人物によって説かれた「歴史的な」ものではなく、「永遠の」ものである(如来寿量品)。

第6に、観音崇拝の思想。『法華経』第25章「観世音菩薩普門品」は、『観音経』として独立して尊ばれた。これによれば観世音菩薩は、ちょっと礼拝したり、念じるだけでも、ただちに現れて災いを取り除き、いかなる苦境からをも我々を救ってくれるのだという。また我々の理解力や立場に応じて35の身に姿を変えて教えを説いてくれる(一般的に「三十三身」と呼ばれる)。『法華経』は主人公のようなものが登場しないお経であるが、観世音菩薩は法華経の精神を具現化したアイコン的存在といえる。

このように、『法華経』は様々な思想が盛り込まれており、ある種の編纂物のような趣がある経典である。こうした性格からか、著者は『法華経』を「宥和の思想」であるとまとめている。『法華経』においては、アレはダメだこれはダメだといった規制的な文言は全くといっていいほど出てこず、いかなる方法によっても、ほんの僅かな信心しかなくとも、仏の偉大な慈悲によって皆救われるという、包容力のある思想が展開しているのである。

しかし、『法華経』を至高のものとみなした日蓮宗が他宗排斥的になったのは皮肉なことだ。

なお、中村元の訳注・解説は大変丁寧で、非常にわかりやすい。本書では、漢訳を単なる翻訳と見なさず、一つの創造物として扱い、サンスクリット原文とほぼ等しい比重(むしろ漢訳の方が基本の部分も多い)で紹介している。 それは、日本では漢訳によって『法華経』が受容されているから、日本の思想との接続が考慮されているのである。

しかし、漢文の読み下し文は、伝統的な訓じ方に従っていない部分が多い(らしい)。それは伝統的な読み下し文が、意味が不明瞭になったり、日本語として体を成さないことがあるからで、著者は「そもそも漢文の読み下し自体に無理がある」との立場である。そこで本書では伝統にとらわれない合理的な読み下しが選択されている。これは『法華経』を聖典としている方々からすれば容認できかねることかもしれないが、元来の意味を正確に理解できるようになるのだからいいことだと思う。

壮大な世界観を持った「宥和の思想」の経典のわかりやすい解説。

 

2020年11月4日水曜日

『古代の神社と神職—神をまつる人びと』加瀬 直弥 著

古代の神社がいったいどういうものであったかを述べる本。

我々はある種の神社は古代から連綿と続いてきたものだと考え、神社とはこのようなものだ、というイメージを持っている。しかし実際には幾度もの断絶があり、そもそも神社とはいかなるものであったかということすら正確には分かっていない。

本書は、古代の神社がどのようなものであったかを、(1)神社の立地と社殿、(2)神職の職掌、という2つの観点から推測するものである。

(1)神社の立地と社殿

神社は、立地が非常に重要のようだ。それは、ただ神を祀ることが重要なのではなくて、祀る場所そのものが聖地の性格を持たなくてはならないからのように見える。神を祀れという託宣がある場合にも「どこそこに祀れ」と場所の指定がある。これは寺院の造立とは異なる点であろう。ではどのような場所に神社は立地したか。

山の神社の場合、山上・中腹・麓と、いろんなケースがあり一定していない。しかし神の領域を截然と分ける意識は共通している。田の神社の場合も同様であるが、水利との関係が大きくなる。神社は水利上のポイント(水が湧いているとか)に位置することが多い。総じて言えば、神社は地形的な際(キワ)や特徴的な地形に立地することが多く、聖域化が可能な(人の活動と交わらない)場所が選ばれている。

そうした立地に、古代の人は社殿を建てたかどうか。よく「古代の神社には社殿(本殿)はなく、山そのものを神として祀った」などと言われるがこれは事実なのか。確かに本殿のない神社はあった。しかしそれが一般的だったわけでもないらしい(その割合がどうだったのかは不明だそうだ)。そして社殿を造営することは神を喜ばす贈り物の意味があり、社殿を喜ばなかった神はいない(らしい)。しかし社殿の有無は本質的ではなく、より重要なのは「神の領域」を区画することであり、特にみだりに人が立ち入らないように閉鎖することだった。この意味で社殿は有効であったため、多くの神社で採用されていった。

しかし、ここで重要な詔(みことのり)がある。天武天皇10年(681)に出された「神社の神の社(やしろ)を造営せよ」という詔である。これは全ての神社に対して出されたのではなくて、朝廷が把握している神社ということであるが、このような命令が下されたことは興味深い。つまり、このような命令があったということは、神社の方では社殿の造営を積極的には行っていなかったことの傍証であり、また朝廷としては社殿がある神社の方を正統とみなしていたことの証拠であるからだ。同様の詔は、天平9年(737)、天平神護元年(765)にも出ている。このようにして、平安時代初期には社殿がある神社の方が一般的になった。

さらに、造営した神社が適切に維持管理されない場合も多かったらしく、朝廷は国司に対して神社をしっかりと清掃するように命令を出している(後に祝(はふり)が清掃する前提に変更)。どうも社殿に関しては、自然発生的なものではなく、朝廷の関与で基本形ができていくということのようだ。しかしおそらくはそのために、現場の神社の方では社殿の造営や維持管理を積極的に行おうとする意欲に乏しいように見える。一方、朝廷は社殿の造営を国司の勤務評定に加えたり、たびたび維持管理に関する詔を出したりして神社をしっかりとしつらえようとしており、これは鎌倉幕府にも引き継がれる(『御成敗式目』第1条)。しかし何のために朝廷が社殿にこだわったのかは明確ではない。

(2)神職の職掌

神社は祝部(はふりべ)、禰宜(ねぎ)といった神職が維持していくことになっていたが、驚いたことにこうした神職が具体的に何であるのかはよくわからず、しかも平安時代初期の段階では当時の人すらもよくわからないようになっていた。そして朝廷の方も、こうした神職についての規定はほとんどしていない。祝部について定められた任務は、毎年2月(祈年祭の時)に神祇官に幣帛を取りに来て神社に祀る、ということに尽きる。

では神職にはどのような人物が任命されたのか。ほとんどの場合、神職を務める氏族は決まっていた。これは単なる世襲ではなく、祭神によって名指しされている(とされる)場合があるなど宗教的な意味がありそうである。

また、神職というと笏(しゃく)を持っているというイメージがあるが、実用的には何の役にも立たない笏を持っているのはなぜなのか。 実は把笏は位階(神階)の高い神社の神職のみに認められた特権であった。ここで関連が出てくるのが「神階(例「一品(ほん)」とか)」である。神階には実利的なメリットはなかったが、神階授与が中央との結びつきを示せる国司の有能さの証しと見なされて、積極的に行われた時期がある。そして斉衡3年(856)から神階と把笏容認が連動するようになった。こうして、目に見える形で神階授与がわかるようになり、一種のステータスとなったのでこの傾向が加速され、把笏が広まっていったのである。しかしその背景には、それに先立つ時期、朝廷と地方の神社との関わりが弱くなってきたという事情があったようだ。つまり把笏容認は朝廷と神社との結びつきを確認する象徴だったということになる。

ところで、古代の神職には女性が重要な役割を果たしていた。皇族の未婚女性が務めた伊勢大神宮の斎王(さいおう)や、春日神社の斎女(さいじょ)などが有名である。また宇佐八幡の禰宜でもあり尼(!)でもあった、大神杜女(おおがの・もりめ)は東大寺大仏の造営に深く関わり、神職としては前代未聞の「従四位下」の位階を授けられた。伊勢大神宮では大物忌(おおものいみ)という童女が務める神職もあった。大物忌はまつりにおいて最も神のそばに使える役割を担っていたようだ。伊勢大神宮に限らず、朝廷はまつりを童女に積極的に行わせていた。しかし天長2年(825)、朝廷は女性の祝部に対して懸念を表明し、以後徐々に、女性神職が男性同様の立場となることはなくなっていく。

本書では全体を通じ、制度の細かい変転を検証することを通じて、奈良時代末期から平安初期が神社にとっての画期であることを示す。この時代、朝廷は神社行政のテコ入れを行い、社殿の造営・維持管理や、まつりの実施、神階を授けることによる朝廷との関係性の強化などを行っている。そうした朝廷の政策によって生まれたのが「神社」なのだ。つまり「神道」は、自然発生的な日本の民俗宗教ではなくて、朝廷の政策によって人工的・画一的に作られたものだ(本書にはそこまで露骨には書いていないが)。

そしてこの時期にそうした政策が行われたのは、道鏡政治の揺り戻しであったという(ごく簡単に述べられている)。これは高取正男が『神道の成立』で述べたことである。ただし、であるにしても、なぜ女性神職に制限を加えるようになったのかは謎である。

朝廷の動向の細かい検証によって古代神社確立の過程を辿る実直な本。


【関連書籍の読書メモ】
『神道の成立』高取 正男 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/07/blog-post_21.html
神道の成立過程を丹念に辿る本。神道成立前夜の動向を、細かい事実を積み重ねて究明した労作。

 

『墨子』森 三樹三郎 訳(『世界古典文学全集 19 諸子百家』所収)

墨子の主要著作。

中国の春秋戦国時代(紀元前5世紀の前後200年くらい)、諸子百家と呼ばれる様々な思想家・学派が現れた。彼らは現代でいう思想家ではなく、戦国の世で他国よりも富国強兵を実現させるための政策コンサルタントのような存在であり、諸国を遍歴してその政策を説いた。

今では失われてしまった思想も含め、多くの主義主張が競ったが、その中でもまとまった集団をなしていたのは、儒家と墨家だけだったそうだ。この両者は個人のコンサルではなく、多くの弟子を諸国に派遣するシンクタンクのような存在であったといえる。

しかし、その後の中国の歴史に甚大な影響を与えた儒家とは違い、墨家たちは秦漢の統一時代に入ると雲散霧消してしまい、その思想は後代に伝わることがなかった。それどころか墨子の著作はほとんど無視され、清朝末に至る2000年の間、忘れられるという「絶学」の悲運を味わったのである。

このような次第であるから、墨子の著作は完全な形では伝わっていない上、本文の混乱が激しく、難読中の難読の書とされてきた。また後代の人が追加した部分を含み、墨子の伝記的事実も明らかでない。本書は、墨子元来の著作と見られる部分を中心として主要な諸編を日本語訳したものである(原文は省略されている)。

ではその思想はいかなるものであったか。墨子の原思想を表していると見られる本書所収の諸編のタイトルから、その枢要な内容をメモしてみよう。

尚賢:政治の根本は、義を貴ぶ賢者を任用することである。それには身分の高下は関係ない。(当時において身分制を否定したことは革命的な意味がある。)

尚同:天子の政治は、天下の人々の考えを同一化しなくてはならない。そのためには国や郷里は統一的な考えで信賞必罰を行うべきである。(今から見ると全体主義的な部分を含むが、むしろ民約論に近い内容である。要するに、君主独裁ではなくて人々の考えを君主に帰一させなくてはならないと墨子は言う。)

兼愛:天下の人々が全て愛し合わなければ、強者が弱者を、富者が貧者を、貴人は賤人を食い物にするに決まっており、もしそうなれば社会全体の利益が失われるのだから、博愛の精神で愛し合い、互いの利益を図るべきである。これは非常に難しいことのように思うかもしれないが、例えば戦の時に死の危険を犯して攻め込むようなことに比べてずっと易しいことだ。(墨子は当時のインテリとしては例外的に天帝や鬼神の存在を信じており、それが墨子の思想の根本をなしている。しかしながら兼愛という博愛思想は、キリスト教のそれのような宗教的な価値ではなく、実利面から説かれていることが著しい特徴であり、また意外な部分である。)

非攻: 戦争では仮に勝ったとしても利益は少なく、損失は多いのだから、侵略戦争は行なってはならない。攻戦して滅びた国がたくさんあるという事実を見てもそれは明らかだ。(兼愛の思想から非攻が導かれるのではなく、実利的な理由で侵略戦争が否定されているのが特徴。)

節用:実用的なもの以外は作るべきではない。国が無用な奢侈品ばかり作って民の生活に役立つものを閑却しているから国が富み栄えないのである。(国家財政のあり方を述べたもので、有用な事業のみに税金を使うようにという意味である。)

節葬:葬式を豪華にしたり、長い間(儒家によれば最長3年)喪に服するのは無意味なのでやめるべきだ。(当時の庶民には葬礼のため破産するものがいたり、王公の場合は多数の殉死者を出したりしたからそれを否定したもの。葬礼をになった儒家への対抗の意味もあったのかもしれない。しかし祖先祭祀を重んじる中国では、「節葬」は墨家への最大の非難の的となった)

天志:天の摂理(天志)に従わなくてはならない。天は、君主が善政を行い、民衆が仕事に務め、強者が弱者を助け、平和に暮らすことを求めている。これに適う行いをするのが天の摂理である。(墨子は天志を義の根本原理に据えているが、その内容はやや恣意的なもののように思われる。)

明鬼:鬼神、天神は実在する。歴史を紐解けば、古代の聖王たちはみな鬼神を信じ、実在するものとして行動しており、その存在は明白である。いつでも鬼神が我々の行動を監視しているのだから、誰も見ていない場所でも行いは正しくせねばならない。(諸子百家で有神論を主張したのは墨子のみである。鬼神の存在は墨子の思想の核心であった。)

非楽:音楽を奏することは君主にとって無駄な奢侈である。(墨子は音楽の楽しさ、美しさは否定していない。当時は壮麗な音楽を奏でることが重要な政務のごとく行われ、特に儒家が音楽を政治・道徳を高める手段としていたことが背景にある。しかしそれだけに墨子の「非楽」は非難された。)

非命:運命、宿命といったものは存在しない。運命論を信じてしまうと、努力が無意味となり、正しい行いをしなくなる。過去の聖王も運命論は否定している。未来は自分の行いによって変えられるのである。(「天志」と「非命」は内容的に近い。ただし、墨子の考える鬼神(天)は、行いによってすぐさま応えてくれるようなものではなく、大局的な動きを左右する存在のようである。この性格から、例えば「不幸のうちに死んだ義人」がいるからといって鬼神の存在は否定されない。)

以上、簡単に墨子の思想をまとめてみた。全体を通じて特徴的なことは、鬼神の存在を主張したり天志を根本としたりしている割には、実利を非常に重視して立論していることである。これは功利主義的といってもいいであろう。兼愛や非攻といった墨子の中心思想は、ベンサム的な「最大多数の最大幸福」の原理から導かれるものだったのである。

実利を基準に考えているため、墨子においては「義」の内容が儒家に比べてずっと具体的である。全体(マクロ)に利をもたらすのが墨子にとっての「義」なのである。今の言葉でいえば「公共の福祉」を基準に政策論を考えたのが墨子だといえる。

しかしながら、墨子は様々な主張において過去の聖王(堯舜禹湯)の行いを根拠としている。この点は対立していた儒家と同じである。運命論の否定であったり、鬼神の存在といったようなことで過去の聖王を持ち出してきたのは、実利では説明のつかないことだったからなのだろう。このことは、墨子の論理体系が完全には首尾一貫していなかったことを示唆する。墨子の思想には、実利と鬼神とが奇妙に同居していた。彼の学派は宗教の教団のようなものであったらしいが、それが戦国時代において儒家と並ぶ勢力となった一因でもあり、また滅びてしまった一因でもあるのだろう。

古代に「有神論的功利主義」を説いた独創的思想家の書。

 

2020年11月2日月曜日

『鉄砲とその時代』三鬼 清三郎 著

織豊時代のあらましを描く。

著者の三鬼清三郎は織豊時代(安土桃山時代)を専門とする。本書は、織豊時代をどのような時代と見なしたらよいか再考することをテーマとし、その概略的な歴史をいくつかのトピックにより述べるものである(よって通史的ではない)。

この時代(正確には戦国時代以降)は、江戸時代とはかなり違った美意識や価値観で動いていた。例えば大阪城は、室内には金箔が施され、屋根瓦は全て黄金色、塔には金色および青色の飾りをつけていたという。江戸時代の白い城郭とは全く違った極彩色の城が作られたのである。我々の常識とは異なった常識があったのが織豊時代だ。

であるから、史料に書かれた内容を理解したと思っても、当時の人がどのようにそれを受け取っていたかは、現代の常識からは直ちには分からないのである。織豊時代をどのような時代と見なすかは、こうした当時の人々の意識まで探る必要がある。

また、織豊時代はちょうど「近世封建制度(中央集権的な封建制)」が成立する時期に当たっているが、その成立過程をどう評価するか。本書では様々な見解が簡単に紹介されているが、本書執筆時、織豊時代の評価が全く定まっていないことに驚かざるを得ない。なお著者は「太閤検地が近世封建社会を成立させる契機をなすもので、織田政権は、戦国大名と同じく中世的権力であるという考え」に近いという。要するに、豊臣秀吉を画期として中央集権的な新しいタイプの封建社会になったとの評価である。

このような見解であることから、本書でも太閤検地はやや詳しく紹介される。太閤検地が土地面積ではなく石高によって行われたこと、中世的な主従関係ではなく名目的であれ国家機関によって実施されたこと、複雑な貢納関係を整理して徴税権を領主に一元化し、領主=農民関係を確立したことなどが重視されている。

私自身は、この時代の思想的な動向に興味があって本書を手に取った。言うまでもなく、織豊時代はキリシタンの世紀であり、貿易による実利を求めてであったにしろ、大名ですらキリシタンに改宗した時代であった。そしてもう一つが、織田信長の比叡山焼き討ち・一向一揆の殲滅・法華宗の否定(安土宗論)など、中世的な仏教勢力の解体が行われたのもこの時代だ。こうした宗教における激動がこの時代に一気に進んだのが興味深い。

さらに面白いことは、信長と秀吉が、自身の統治権を日本全国に及ぼす理屈として天皇の存在を持ち出していることである。信長や秀吉は、必ずしも日本全土を掌握していない段階から「天下人」として振る舞い、日本全土を統治した格好で政策を進めた。それは朝廷への奉仕を名目にしたり、天皇の権威を使うことによってなされたのである。興味深いことに、これはまさに明治維新の際に使われたロジックと全く同じであった。

本書はいわば「歴史観に再考を催す」本であるが、実は私自身があまり織豊時代に詳しくないので「再考」どころかこれまであまり織豊時代の評価について考えてもいなかった。なので本書の促す「再考」は全くできていない。とはいえ、本書は1981年に「教育者歴史新書」として発行され、それが2012年に吉川弘文館の「読みなおす日本史」シリーズの一冊として再刊されていることを考えると、著者の促す「再考」はまだ有効な問いかけなのだろう。もう少しこの時代のことの勉強をしてから機会があれば再読してみようと思う。

織豊時代の再検討を迫る良書。