2023年12月31日日曜日

『日本人の他界観』久野 昭 著

日本人の他界観をエッセイ風に考察する本。

日本人は、どのような他界観を抱いていたのだろうか。他界には「死後の世界」と「異界」の二つの意味がある。これは概念的には全く別であるが、その二つは重なっていた。本書は、古代までの他界観の変遷を述べて、日本人の他界観を考察するものである。

日本の神話にはスサノオが黄泉の国に行く話がある。黄泉の国は死体が腐り蛆が湧く汚い場所で、スサノオはイザナミの死体に恐れおののいて急いで黄泉から戻ると、その穢(けがれ)を禊ぎで洗い流して黄泉の国との絶縁を完了した。どうやら神話の中では、黄泉の国は、簡単に行き来できると考えられていたようである。

この神話は、明らかに古墳の石室がモチーフとなっており、一見、古墳時代からの他界観を受け継いでいるようにも見える。

しかし装飾古墳(石室内に絵が描かれた古墳)の絵には、船の絵や舟形の埴輪が出ているから、古墳時代には、異界は海の向こうという認識があったのだろう。しかし黄泉の国は明らかに地上と地続きである。奈良時代に他界観に変化があったのか、それとも古墳を作っていた人々と神話を作った人々が別だったのか、いずれかである。

平安時代になると、死体が強く忌避されるようになったためか、鳥葬や風葬が普通になった。そこに他界観の変化を伴っていたかどうか、本書には詳らかでない。

著者が日本人の他界観を探るのに取り上げるのは、浦島伝説である。浦島伝説は、神話の「海幸山幸」を原型として様々なバリエーションが各地に残されているが、そこに描かれた他界=竜宮(海神の宮)は、財宝に満ちた理想郷であることと、現世と時間の進み方が違うことが共通している。そしてその理想郷が、道教的な要素を持っているということは注目される。

例えば『日本書紀』(雄略天皇22年)にある浦嶋子伝説では、浦嶋は海に入って「蓬莱山(とこよのくに)」に着き、「仙衆(ひじり)」に会う。『丹後国風土記』でも浦嶼(うらしま)の子が「蓬莱(とこよのくに)」「仙都(とこよ)」に行く。ここでの異界は明らかに神仙思想の影響を受けている。『古事談』に掲載された『浦嶋子伝』『続浦嶋子伝記』は、中国六朝時代後半に成立した道教経典『金庭無為妙経』『度人上品妙経』などの影響があるという。

日本人の異界観で「黄泉」の次に出てくるのが「常世(とこよ)」で、これは海の彼方にあるというイメージとともに、道教的な装いがある場所なのだ。では、常世は外来の概念なのか、それとも古墳時代からの海上他界を引き継ぐ概念なのか。本書では特に考察されていない。

平安時代には、山岳信仰も盛んになったが、そこでは山中他界が盛んに喧伝されていた。山中には数百歳の仙人が住み、そこでは不思議な能力を身につけることができた。ここでも神仙思想の影響が濃厚だ。だが、中国の神仙思想と決定的に違うのは、日本人は不老不死にあまり関心がなかったことで、山で修行した人々も、不老不死を希求していた形跡はない。古代以前には日本人は山に墳墓をつくり、また古墳も山になぞらえたものであると考えられるが、その他界観と山岳信仰の山中他界は接続するものなのかもしれない。

8世紀に入ると、火葬が貴族の間に普及してくる。すると野辺の煙が魂を思わせるものとして認識されたのではないかという。煙が空へ上ることも、山中他界のイメージに沿うものとして受け取られたかもしれない。

平安時代には、仏教的な他界観も浸透する。輪廻転生や六道四生である。六つの世界を生まれ変わりしながら、永遠に輪廻するという世界観で、その六つの世界の中で、特に日本人が強くイメージしたのが地獄であった。末法思想の中で、浄土に生まれ変わることは難しいと考えられたこともあり、人々は堕地獄を恐怖した。源信は『往生要集』で地獄の凄惨なさまを異常に力を込めて描き、極楽と対比させた。

こうして、死後の世界は急に具体的イメージを持って迫ってきた。例えば、人の寿命を司る泰山府君という神がいるとか、生前の罪を裁く閻魔大王がいるとかである。これらはいうまでもなく中国から伝わった概念であるが、日本人はそういった他界観をさしたる抵抗もなく受け入れているように見える。黄泉か地獄か、といった二者択一的な疑問は誰も抱かなかったらしい。

そして当然ながら、人々は地獄に落ちることを避け、浄土を希求した。本来の輪廻転生の考え方では、畜生道とか阿修羅道もあったのだが、それは理論的には存在しつつも、輪廻転生を超えた浄土の世界と、六道の一番下である地獄が他界の代表となっていった。 すなわち、地獄と浄土の二本立てが、日本人の他界観として確立したのである。

本書は全体として、大変文章がうまく、非常にすらすらと読むことができる。一読してなるほどとわかった気になる本だ。しかしながら、よく読んでみると展開があまり論理的ではなく、海上他界、山中他界、神仙思想などがバラバラに扱われているだけで、どうつながるのか、つながらないのか、曖昧な記述が多い。ちょっと厳しい言い方をすれば、著者の思う他界観に合うように事例をピックアップしてきたという感じを受けるのである。

その曖昧さは、他界を「死後の世界」と「異界」で都合よく使い分けていることに原因があると思われる。「死後の世界」としての他界を述べるならば、古墳時代から平安時代までの葬送の変化を述べざるを得ないが、そういう作業を本書はしない。その代わりに「浦島伝説」のような「異界」を述べて「黄泉」からの中継ぎとし、やはり「異界」である山岳信仰の「山中他界」を媒介して「浄土」へ至るのである。これはストーリー的にまとまってはいるが、「日本人の他界観」の歴史としては成立していないと言わざるを得ない。

興味深く読み応えもあるが、日本人の他界観を論理的には考察していない惜しい本。

【関連書籍の読書メモ】
『畜生・餓鬼・地獄の中世仏教史—因果応報と悪道』生駒 哲郎 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_6.html
中世の畜生・餓鬼・地獄の世界観について述べる。事例紹介的で「中世仏教史」は名折れだが、中世の悪道の軽重を知ることができる手軽な本。

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『本地垂迹』村山 修一 著

本地垂迹を中心として神仏習合について述べる本。

本地垂迹とは、本地たるインドの仏が、日本に神として垂迹(すいじゃく)したという理論である。その淵源は法華経寿量品にある文で、そこでは久遠実成の釈迦を本地とし、歴史上の釈迦が垂迹とされている(ただし、本書には書いていないが、法華経の本文に本地や垂迹の文字はない)。

また僧肇は『註維摩』で、「本に非ずして以て跡を垂るる無く、跡に非ずして以て本を顕わす無し」と述べ、智顗は本迹関係を体系的に分類し考究している(『法華玄義』)。ただしここでいう本迹は日本の本地垂迹とは違い、仏の本体を本地とし、その顕現を垂迹として捉えるもので、譬えるなら、本地とはプラトン哲学のイデアのごときものであった。

中国では仏教の受容にあたって道教・老荘思想が媒介の役割を果たしていた。仏教は中国においてすでに神仏習合的風潮があった。

こうした基盤の上に、本書では古代日本の仏教受容について述べているが、戦前の史学を基礎としているためにやや学説は古い(日本書紀の記述を史実として扱っているなど)。ともかく、仏教受容の初期から神社への神宮寺の建立、神前読経などの神仏習合が進んだ。特に八幡神は習合的な性格を強く持ち、神仏をうまく使い分けて国家との深い関係を樹立した。

なお、承平年代(931〜938)に大宰府から筥崎宮(八幡)に出した宝塔造立を命じる牒状に「彼宮此宮その地異なりと雖も権現菩薩垂迹猶同じ」とあり、これが権現思想の初出であるという。

神仏習合思想に影響したものに、御霊信仰がある。怨みを持って非業の死を遂げた人物が神になり、祟りをもたらすという考えである。 この頃、政治的失脚者が続出する情勢となっていたことがその背景にあった。そして災害や天候不順は怨霊のせいであるとされ、怨霊を鎮めるために読経や造寺が行われた。またこの時期に頻発した疫病も怨霊の祟りと結びつけられた。それらは民衆側からの自然発生的な考えだった。そこには、政争の結果として災害や疫病が起こったのだ、という悪政への批判が込められていたのかもしれない。朝廷もこれを無視しえず、貞観5年(863)には合同慰霊祭ともいうべき大規模な御霊会を京都神泉苑で開催した。

御霊信仰によって、神となった怨霊を仏教によって慰めるという形式が確立するとともに、それまでの自然神に替わって、人格神的なものが登場したのである。神仏習合のみならず神祇観念の転換としても御霊信仰は重要だ。

さらに、御霊が特定の政治的敗者ではなく、疫病を起こす神として表象され、陰陽道や宿曜道の影響の下に生まれたのが牛頭天王とそれを祀る祇園天神堂(観慶寺感神院)である。これはやがて天台座主良源によって延暦寺末に取り込まれる。祇園の御霊会では民衆は熱狂的に盛り上がり、藤原道長が祇園社での奇抜な見世物を停止させる宣旨を出すと、神は怒りの託宣を出し、果たしてその夜内裏が全焼。朝廷は祇園社を含む4社へ陳謝の奉幣を行った。民衆が朝廷に勝利したのである。良源はこのエネルギーを欲しがったのかもしれない。

祇園社には牛頭天王だけでなく雑多な神が祀られ、蛇毒気神・八王子・大将軍といった神もあった。牛頭天王も異形の神であるが、民衆は恐ろしくて力のある、降魔的な神を求めていた。

天満天神(菅原道真)もそうして生まれた神である。その背景には、沙門道賢の『冥途記』もあるという。これは道賢が死んで幽界へ行き帰ってきた記録で、その中には幽界の王として威徳天=道真も出てくる。道真の霊は、怨霊から威力のある神に変質し、さらに文道詩作の神へ変わっていくのである。

ところで、御霊信仰の成長期は修験道の形成期にもあたっている。修験道は、仏教と山岳信仰が習合したもので、特定の教祖がいるのではなく、僧侶や貴族たちの自然発生的な信仰から生まれた。摂関期には金峯山参詣、いわゆる御嶽詣が流行し、道長が寛弘元年(1004)の御嶽詣で行った納経は有名である。なお、修験道の主尊というべき金剛蔵王権現については、当初「金剛蔵王菩薩」として登場する(例えばさきほどの『冥途記』)。これがいつ「権現」になったのか。これは本地垂迹思想の解明にとっては重要だが、本書には記載がない。ともかくやがて金剛蔵王は釈迦の垂迹、熊野十二所権現は弥陀・薬師・観音・大日等の垂迹であり、山は浄土であるとみなされるなど、山の神たちはことごとく本地が定められて垂迹思想の中に吸収された。

院政時代には、個別具体の本地仏が次々と定められて本地垂迹説はほぼ完成された。これによって、神の世界の父・母・子などの関係が仏の世界の脇侍・眷属・護法神に置き換わり、本地仏の特色による霊験などが強調されるなど、神格がよりありがたいものへと変わった。特に護法化・眷属化された神祇には降魔的性格が付与されているのは注目される。

本地垂迹思想は、いわゆる鎌倉新仏教にも受け入れられ、日蓮宗に至っては神祇信仰との習合を積極的に理論化した。しかし日蓮の本地垂迹説は、すべての本地が久遠実成の釈尊であるとしつつ、神祇は釈尊以外の諸仏・天などと同様に扱われるなど特徴がある。また彼は日本から神祇は去ったと考え、一時は神祇不拝を主張した。しかし日蓮後には、神祇がかわるがわる法華経を護るという三十番神の思想が確立した。日蓮宗は神仏習合的ではあったが、本地垂迹的な要素は少なかったように思われる。

鎌倉新仏教の中では、臨済宗も特徴的である。臨済宗は権力者の庇護を受けたために民衆的な習合思想に迎合する必要はなかったが、詩文を大切にしたことから天満天神が聖神として祀られるようになり、これを媒介にして神祇信仰との融和が進んだ。そして儒仏一致の思潮から神儒一致の風潮を生じ、近世儒家神道興起の遠因となったのである。

さらに本書は、「縁起譚と習合文芸」と題して、いわゆる「縁起物」について述べている。この内容は類書には少なく、本地垂迹説とは何かを考えるのに大変参考になる。

縁起物は、神社の由来等の物語であるが、これは本迹関係成立に至るまでの(空想的)歴史を述べるものとなっており、「地獄や兜率天のごとき現世から遠くかけはなれた異郷の展開は空間的・時間的遠隔感を信者に与えることによって本迹関係の偉大さ、ひいては神秘的ありがたさを強く印象づける結果(p.216)」をもたらした。本地垂迹説は、荒唐無稽なるがゆえに、かえって神祇の不思議さありがたさを強調したのである。

縁起物の中でとりわけ大きな影響を与えたのが『神道集』である。著者は安居院(あぐい)、成立年代は文和3年(1354)~延文3年(1358)の頃と考えられている。『神道集』の内容は(1)神道論的なものと、(2)本地垂迹を縁起的にとくもの、の2種で構成され、(1)においても諸経を引用して「和光同塵」を主張。天神七代・地神五代の歴史を述べながらも、本地垂迹思想によって神道の由来を説明している。

(2)では、例えば『上野国児持山之本縁譚』の話は面白い。いわれなく流罪になるなど辛酸をなめた男女が神から「神道の法」が授けられ、「妻は群馬の白井保内武部山に児持明神としてあらわれ、(中略)本地如意輪観音となられ、和理(※夫)のほうは見付山手向に本地十一面観音の明神としてあらわれた(p.226)」という。この話の面白いところは、人間だった男女が神になり、事後的に本地仏が設定されているところで、「インドの仏が日本で神として垂迹した」という本地垂迹説から明らかに逸脱していることである。人間が神になるという発想は御霊信仰と似てはいるが、著者はこれを「人本神迹」と呼んでいる。

そしてこういう説話においては、もはや「ありがたい仏が本体であるから…」といった縁起ではなく、神仏がともに尊しとされており、本地関係はその尊さを増幅させる意味にしかなっていない。これらの説話は、人生の苦悩や悲哀と戦ってそれを乗り越えた人間が神になるという筋書きが、史実を無視した由来によって潤色され、「かえってそれが民間における無智な人々の真摯な信仰の姿を象徴(p.244)」している。つまり素朴な人間中心主義が本地垂迹説を援用して表現されているのである。しかしながら、これは現世的刹那主義へ傾く危険も内包していた。

さらに「神影図と習合曼荼羅」では、本地垂迹説に基づいて製作された神像や曼荼羅が述べられる。日本における最古の神像は仏像に近い表現であり、次に官人風の俗形となっていった。平安中期には図像表現が行われるようになったが、図像の場合は影向図などではっきりとは姿を描かないものがあることが注目される(例えば「春日明神影向図」)。仏の場合は姿を表現するのに、神ははっきり描かないという違いが面白い。さらに、八幡曼荼羅をはじめとし、神の世界が曼荼羅として表現されるようになった。

習合曼荼羅は、熊野曼荼羅のように仏教の曼荼羅的な構図もあるが、自然の風景が描かれているものも多い。そんな中で圧倒的な製作数があるのが山王曼荼羅。日吉社では多くの神が神仏習合理論によって複雑に体系化されたので、山王曼荼羅図も多様なものがある。これが大量に製作されたのは、天台の修法儀式に先立って山王諸神に供饌する「山王本地供」という修法の本尊として山王曼荼羅図が用いられたためである(景山春樹)。

他、室町末から江戸初期にかけて各地の社寺参詣が観光要素を含んで盛んになり、絵解きや名所図会式の曼荼羅が生みだされている。

本書はさらに「天台の神道」「真言の神道」「卜部家の神道」として、神仏習合によって生みだされた神道を概観している。

「天台の神道」では、『法華経』の本迹門を基調としつつ、摩多羅神、新羅明神、赤山明神など異形・異国の神も護法神として取り込み、玄旨帰命壇のような秘法も生みだした(元禄の初めに禁止されて廃絶)。天台座主公顕は「日本人は神祇に祈るのが仏に祈るよりよい」という神本仏迹立場を表明している。慈円にも「まことには神ぞ仏の道しるべ 跡をたるとは何故かいふ」の歌がある。宝地房証真はこうした信仰のごった煮ともいうべき状況を憂慮し、『三大部私記』30巻を著して文献主義に徹して本覚思想(=人も自然もあるがままで悟っているとの思想)を批判している。

しかし神本仏迹的な神仏習合の思潮は変わらず、天台の神道は『山家要略記』『耀天記』『渓風拾葉集』などで理論化された。それらの内容を簡約すれば、日本は大日如来の本国、諸神は仏であり、日本の国土自体が仏国土に重ね合わされ、北斗七星の信仰を通じて陰陽道が結合し、比叡山の神猿は釈尊の化身である…というような、まさに信仰のごった煮だ。さらに室町期になると『日吉本記』『厳神抄』『日吉山王利生記』など多数の文献が出た。信長の比叡山焼き討ちからの復興を成し遂げたのが生源寺行丸で、復興のための記録として『日吉神道秘密記』を書いている。これら天台の神道は、天海によって山王一実神道として公的なものとなった。

「真言の神道」は、金剛・胎蔵両界の曼荼羅の教説をもとに形成され両部神道と呼ばれる。広い意味では天台の神道もこれに包摂されるが、ここでは狭義で使う。両部神道の理論で早くに現れたのが『三輪大明神縁起』(14世紀初め)。この書では三輪寺が来訪した叡尊を肉身の釈迦と見なして、叡尊に寺を献じ大御輪寺と称している(有名な聖林寺十一面観音があった寺)。なお叡尊の影響下で三輪神道が成立したと本書にあるが、詳細不明である。ともかく三輪神と伊勢神は同体であるとか、三輪が本で伊勢が迹であるなどと述べているところを見ると、三輪神が伊勢神に対抗するために仏教理論を援用してできたものらしい。

同時期の『八幡愚童訓』では神国思想・神威高揚が企図されるとともに、板東八国は胎蔵界、九州は金剛界とか、釈迦・弥陀の本地は大日如来、といったように二重三重の本迹関係を作りだしている(はっきり言ってよくわからない)。

次は、伊勢神宮の関係を取り上げる。外宮関係で有名な「神道五部書」では、『造伊勢二所太神宮宝基本記』で「心は神明の主たり」「神々の加護をうけるには正直が何より根本だ」「神をまつるには清浄をもって先とし」とするなど(p.333)、それまでの神仏習合理論とやや違う毛色が感じられる。それは心のあり方を問題にしているのである。『孝子』や『礼記』などの中国古典、歴史や『日本書紀』などをやや無節操に使いつつ、陰陽五行思想や儒教思想をも用いて、雑多な理論で「心」を強調しているのが『宝基本記』である。

「神道五部書」を受けて制作されたと考えられるのが『麗気記』で、おそらく外宮祀官の手によるもの。ここではかなり理論が整理され、誰にでもわかりやすいものが志向されている。

内宮関係では、通海の『大神宮参詣記』がある。ここでも道教・陰陽道の信仰が援用され、両界曼荼羅を内宮・外宮に対応させるなどの理論が展開される。注目されるのは、伊勢神宮で仏教を忌み遠ざける習慣を批判しているところである。

こうした神道理論を一段と発展させたのが北畠親房の『神皇正統記』で、そこでは「儒教も仏教も超えた原始の世界に立ち帰る」ことを進めるなど、近代神道へ続く発想が生まれている。

「卜部家の神道」では、吉田神道が概観されている。吉田兼倶は『唯一神道名法要集』で神仏習合的な神道を否定し、自らの元本宗源神道(唯一神道)を称揚した。ここでは絶対無為の道教的な理想状態が措定され、その神道は天児屋根の託宣によっているとする。そして「三教枝葉花実説」を主張(神道が根で、仏教・儒教は花や実であるとする理論)。「唯一神道なるものは、彼がしりぞけた両部神道や陰陽五行説・儒家・道家の思想を根拠としたもの(p.357)」であった。

最後に、林羅山の神道が取り上げられる。彼は兼俱の子清原宣賢を通じて吉田神道を受け入れ、「理当心地神道」と呼ばれる神道理論を述作した(『本朝神社考』『神道伝授』)。そこでは、「心の外に別の神なく別の理なし、心清明なるは神の光であり、行迹正しきは神の姿である(p.368)」など宋学の心即理の考えをもとにした心学的性格が強く、これを王道に結びつけた儒本神迹的思想を展開した。彼の神道は尾張侯徳川義直に受け継がれ、『神祇宝典』に結実している。

著者はこれらの流れを総括し、「その理論構成は顕密両教・陰陽道・道教・儒教に、新たに伝わった宋学の説をも加えて煩雑極まりない習合説を形成し、本地垂迹説本体の姿はその跡かたをとどめないまでに変化した。それゆえ神と仏を対置してその本迹を論ずること自体あまり意味がなくなり、権実思想は権威を失ってついに本地垂迹説の宗教界における指導的地位に終止符が打たれた(p.371)」と結論している。

全体を通じて、本書は事例列挙的な部分が多く、やや読みにくい。本書の前半は辻善之助の神仏習合論(『日本仏教史 第1巻』)を明らかに下敷きにしているが、不思議なのは、辻がこだわった垂迹思想の始まりを(おそらくは)意図的に曖昧にしていることである。本書では、本地垂迹説は奈良時代以来の神仏習合の思潮から連続的に生まれてきたとされているが、それは本当なのだろうか。そして権実思想についても、本書ではその始まりを明確に書いてはいない。本書の問題は、「本地垂迹」を書名に掲げながら、本地垂迹の歴史を真正面から扱うことをせず、事例の列挙に終始していることである。

そういう問題はあるが、神仏習合事典として見れば、本書はよくまとまっているように感じた。特に近世の神道が心学的に変容していく様は、本地垂迹説との関連はともかく蒙を啓かれる思いだった。

本地垂迹説についての扱いは小さいが、神仏習合理論について豊富な事例で学べる本。

【関連書籍の読書メモ】
『吉田神道の四百年—神と葵の近世史』井上 智勝 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/03/blog-post.html
神道で有名な吉田家の近世史。平易かつ面白く吉田家の歴史的意義を理解できる良書。

『神道とは何か—神と仏の日本史』伊藤 聡 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/09/blog-post.html
神道の歴史を概観する本。中世神道を中心に、神道の多様な側面を描いた良書。

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2023年12月15日金曜日

『「戦前」の正体—愛国と神話の日本近現代史』辻󠄀田 真佐憲 著

戦前の日本を神話をキーにして読み解く本。

「大日本帝国は、神話に基礎づけられ、神話に活力を与えられた神話国家だった(p.6)」。しかし、それが狂信的な「国家神道」(この用語は本書では注意深く避けられている)の押しつけの結果だったかというとそうでもない。神話は「大日本帝国」を支える物語ではあったが、神聖不可侵な存在ではなく、意外にも民衆的な広がりを持った存在だった。

最近、政治の世界では戦前的なものが復活しつつある。その一つが神話や神社、日の丸といったものである。これらは悠久の昔からの日本のアイデンティティを構成するものと思われているが実はそうではない。明治維新の際、新政府側がその正統性を箔づけるために持ちだしたのが「神武創業」であり、神話だった。

そこでは、天皇の統治は天壌無窮の神勅に基づき、「臣民」は神話的古代から天皇に忠節を尽くしてきた、という虚構の歴史が語られた。軍人勅諭や教育勅語は、そうした歴史に基づくものとして、まるで神典のように扱われた。そして日本は、万世一系の天皇が歴代統治し、それを臣民が支えてきたという万邦無比の「国体」がある国だとされ、その理想を世界に敷衍していく(つまり世界征服して日本が世界を統治する)ことが使命だとされたのである。

実際に、日本は日清・日露戦争に突入していくが、そこで政府が利用したのが神功皇后である。神功皇后は神話に登場する皇后で、神話では三韓征伐を行ったとされている(史実ではない)。神功皇后は、明治時代には神武天皇よりもよく知られており、日本ではじめて政府紙幣に肖像画が採用された人物でもある。当時の軍歌には神功皇后がたびたび登場している。ところが面白いことに、日露戦争が終わる頃には神功皇后はあまり人気がなくなり、次第に実際の戦争で活躍した人物がフォーカスされるようになった。例えば北白川宮能久親王(明治維新の際の輪王寺門跡だった人物)。彼は台湾で陣没したためヤマトタケルと重ねられ、台湾神社(のちの台湾神宮)などで祭神として祀られた。

後に、日本は日中戦争、そして大東亜戦争と世界大戦に参戦していくことになるが、興味深いことに、江戸時代の国学者たちは日本が世界征服をすべしとする理論を提唱していた。平田篤胤の門人の佐藤信淵は『宇内混同秘策』で、日本を「世界万国の根本なり」とし、大真面目に世界征服プランを立案している。世界征服すべしとする根拠にはもちろん神話が援用されていたが、彼らは神話を字義通りではなく、都合のよいところをピックアップして、時には歪曲して使った。また神話の価値が高まるにつれて、『竹内文献』のように、『古事記』『日本書紀』以前に書かれたとされる古代の文献が偽作され、荒唐無稽な内容ながら権威を帯びるようなこともあった。神話は、かなり自由に解釈され、時には創作されていた。

昭和15年は折しも皇紀2600年に当たっており、これを記念して日本各地で祝祭行事が行われた。この年に最も注目を集めたスローガンが「八紘一宇」である。これは、『日本書紀』の神武東征の神話にある「八紘(あめのした)を掩ひて宇(いえ)にせむ」の言葉を基に、日蓮主義者の田中智学によって大正2年に造語されたものであるが、「日本が世界を統一する」という理想が重ねられた言葉だった。この年、宮崎県は全国から切石を集めて「八紘一宇の塔(八紘之基柱)」を建設。発案は宮崎県知事の相川勝六で、設計は日名子実三である。なお日名子は「皇軍発祥之地」と「日本海軍発祥之地」も設計している。

さて、「八紘一宇」は、本当に世界征服を意味する言葉だったのか? これがなかなか面白いところで、「八紘一宇」自体が田中智学の創作であったことからも分かる通り、政府の公式見解でそう表明されていたわけではなかった。だが、人々の方が神話を調子よくアレンジした軍歌や詩やモニュメントをつくって消費し、神話を拡大解釈し、そこに誇大妄想的な日本の自画像を重ね合わせていたのである。佐藤春夫が「詩編 大東亜戦史 序曲」で「新世紀の神話時代」と謳ったのはその雰囲気をよく伝えている。彼らは政府から依頼されて嫌々ながらプロパガンダ詩を書いていたのではなく、けっこうノリノリでやっていた。

もちろん、大本営は戦争を遂行するためのプロパガンダを流していたし、神武東征と大東亜戦争の共通点をしつこく強調するキャンペーンなどをやってはいた。しかしそういう「上からの統制」だけで神話国家が出来上がったのではない。国民の方も、景気の良い物語を求めており、神話を「消費」することに旺盛だったのだ。神話をネタ元にした記念碑やレコードが続出したのは、時局に棹さすことで儲けたい企業と、戦争の熱狂を楽しみたい消費者の存在を抜きにしては理解できない。そして時には、プロパガンダを流していた政府自身が神話を真に受けて振り回されるほどであった。

そうした視点から、本書には軍歌、流行歌、記念碑といったものがたくさん取り上げられており、神話国家が「上からの統制」だけではなく、むしろ国民(企業・一般国民)の方からの自発的な運動として出来ていったことが強調されている。そしてその際語られる神話が『日本書紀』『古事記』を実直に読み解いたものというより、あやふやな記憶から都合よく切り貼りしたものである場合が多いことが指摘される。それくらい、神話が身近なものだったのである。

神話は、今風に言えば「国民に夢と希望を与える物語」だったのかもしれない。戦後、それは否定され、日本は自らを表象する「国民的物語」を失った。戦前の神話を知ることは、それを超克する新しい物語を生みだす第一歩となるだろう。

蛇足ながら、本書には、拙著『明治維新と神代三陵—廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』が参照されている。この場を借りて御礼申しあげる。

軍歌や記念碑を取り上げて、戦前日本における民衆の側からの神話を読み解いた良書。

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2023年12月13日水曜日

『天皇の即位儀礼と神仏』松本 郁代 著

天皇の即位儀礼の変遷とその意義を述べる本。

天皇の即位儀礼といえば、「即位式(+践祚儀)」とその後に行われる「大嘗祭」であるが、明治維新直前まではそれに加え「即位灌頂」という密教儀礼が行われた。本書は、この失われた「即位灌頂」を中心として天皇の即位儀礼について述べるものである。

このうち、即位式は令制以前にかさのぼる継承儀礼であり、大嘗祭は7世紀後半に天皇制とともに確立したものである。大嘗祭は、天皇を天照大神の子孫(皇孫)に位置づける神事で、「天孫降臨の再演(p.73)」として天皇自身がこれを行った(桜井好朗)。古代の即位式・大嘗祭においては、天皇の権威を支えたのは神だった。

しかし、桓武天皇以降は天皇の即位儀礼が「脱神話化(p.57)」していく。それは天皇の皇位継承が安定したものとなり、また先帝の意思に基づく譲位が常態となったことが影響しているという。

そして平安時代中期に即位灌頂が登場する。

即位灌頂の起源はインド国王の即位式にさかのぼるが、仏教儀礼としての灌頂は「正統な継承者となる」ために頭から水を灌ぐ儀式である(ただし天皇の即位灌頂では実際に水が灌がれることはなかった)。これはやがて琵琶や箏などの秘曲、和歌の奥義を授ける儀式にもなった。ともかく、秘説や秘伝を後継者に伝授する儀式が灌頂だったのである。

中国では、唐代に玄宗ら皇帝が灌頂を受け、また国内が混乱する中で皇帝が菩薩戒を受けており(皇帝菩薩)、皇帝への仏教的権威の付与がなされている。また日本でも空海が平城天皇・嵯峨天皇に戒を授け灌頂を行っているが(西本昌弘)、これはあくまで仏教儀礼として密教の奥義を伝授するものであった。

一方で、「皇位」は何者かが天皇に対し伝授するものではない。即位灌頂で天皇に伝授されたのは「印契(いんげい)」(両手指を組み合わせて仏を表現するもの)と「明(みょう)」(真言)の「即位印明」であった。そしてこれを伝授したのは基本的には摂関家であり、僧侶ではなかった。即位式において、天皇が摂関家から「即位印明」を与えられるのが即位灌頂だったのである。

そしてこの「即位印明」は、秘説として特別に伝授されるものであったが、口伝でありながら故実書や聖教に記載され、「公の秘説」として、ある程度の広がりをもって認知されていた。本書ではこの「公の秘説」がキーワードになっている。

初めて即位灌頂が行われたと推測されるのが後三条天皇(1068年即位)。後三条天皇に即位灌頂を行ったのは(摂関家ではなく)護持僧だった成尊(真言宗小野派)と考えられている。即位灌頂を自ら史料に残したのは伏見天皇(1288年即位)。伏見天皇は二条師忠から「金輪王躰金剛界大日印像」という印契を伝授されている。その後、二条家は即位印明を相伝していき、室町時代後期には二条家が「天下の御師範(p.97)」と号されることになった。 

なお、孝謙天皇の頃には即位に伴う仏教儀礼として「一代一度大仁王会」という法要が行われたこともあったし、玉体護持のためには仏教も大きく協力していた。後三条天皇の場合、「延暦寺・東寺・園城寺から代始護持僧がそれぞれ一名ずつ選ばれ、天皇の在位期間中、玉体護持のために普賢延命法、不動法、如意輪法を修す「三壇御修法」が修された(p.21)」。即位灌頂については、摂関家と距離があった後三条天皇が新たな天皇権威の創出を企図して行ったものと見られる。しかしそれが結果的には摂関家の方を仏教的に権威付ける結果となったのは皮肉というほかない。

ところで大嘗祭は後土御門天皇(1464年即位)以降は斎行されず、220年余り中絶した。これが再興されたのは霊元天皇の後を承けた東山天皇(貞享4年(1687)即位)の時である。ただし次の土御門天皇では大嘗祭は行われず、さらに次の桜町天皇の時に吉宗の協力で再び再興されている。

なお、大嘗祭は夜通し行うものであるが、先述の通り大嘗祭は天皇親祭で摂政や神祇官の代行は認められない。では年端もいかない幼主の場合はどうしたか。その場合、やはり摂政がある程度の代行をしたようである(5歳で即位した崇徳天皇の場合など)。大嘗祭はなかなか手間のかかる儀式であり、しきたりもうるさく、しかも天皇の他、摂関家と特定の采女以外は知りえない秘伝が多かったため、故実を蓄積し式を補佐する摂関家の役割が大きくなっていった。そして秘伝を相伝していることが摂関家の権威をさらに高める結果となった。即位印明はこうした相伝の一環となり、「天皇に近い立場で権力を維持するためのもの(p.117)」であった。

しかし即位印明が単なる摂関家の権威を演出する道具として創作されたものかというとそうでもない。それは様々な形で解釈され、関係づけられ、理論化されたものであった。そもそも経典に基づかない即位印明がどのようにして生まれ、発展させられたのか。本書ではそこで夢に着目する。慈円の夢、花園院の夢(の記録)が分析されているが、特に花園院は3度もかなり具体的な夢を見、結果として北野天神の夢想感得像をつくらせるとともに、「即位灌頂秘印」が天神から授けられた(とされた)。 

ところで、即位印明を相伝したのは二条家であったが、江戸時代になると五摂家にはその相伝を巡って相論が起こった。特に九条家は二条家に対抗し、歴代宝物や伝えられた神話を持ち出して相伝を主張。近衛家も関係文書の伝来を根拠に印明伝授を行う資格があると申し立てた。結果的には二条家により行われたが、二条家による伝授が正統とは決定されなかった。

このように、即位灌頂とそこで伝授される即位印明は、仏教儀礼というよりも摂関家の有職故実の世界にあったのだが、複雑なことに、即位儀礼そのものは寺院によって理論化・相承されていたのである(!)。例えば、東寺では大日如来からアマテラスを経て(!?)弘法大師に至る系譜が説かれ、神話と仏教的世界観が接続されたし、天台宗では法華経の偈自体に天皇の即位の正統性を読み込んだ。天皇の正統性を保証する「物語的機能」が即位灌頂の理論を通じて出来上がっていた。著者は寺家と摂関家は「一種の協働状態にあった(p.189)」という。

本書はさらに古代インド、タイの国王の即位灌頂について紹介し、その正統性を思想がどう支えたかを概観する。さらに仏教的世界観の中に天皇の存在を位置づける作業の一環として、仏教的世界観の認識が考察されている。その中心は須弥山である。仏教的な世界観の中心には須弥山があったが、その壮大な世界観において世界の王とされたのが金輪聖王(とそれを表す一字金輪)であり、天皇はそれらに擬された。金輪聖王とは、須弥山世界における4つの世界(四大洲)全てを統治しているとされる(我々の世界はその中の一つ南贍部洲)。

大嘗祭が天皇と神を一体化させる儀式であったとすれば、即位灌頂は天皇を仏教的世界観に位置づけて金輪聖王と一体化させる儀式であったといえる。

しかし、西洋の天文学が伝わると仏教的世界観に動揺が走る。そんな中で僧侶の普門円通は『天啓或問』を読んで旧来の須弥山説に疑問を持ち、それを科学的に解釈した『仏国暦象論』を著して地球説と地動説を批判。寛政年間には梵暦社を組織している。須弥山説は護法運動という政治的色彩を帯びて盛んに擁護された。「アジアのなかでも日本の須弥山論争は、17世紀から19世紀という長期に亘り、規模も儒者や国学者などの世俗的知識人をまきこみ、庶民にも影響を与えるなど大規模なもの(p.247)」であったが、事実によって否定されて仏教的世界観は崩壊。明治天皇の即位式では即位灌頂は廃止された(つまり明治維新前に廃止されている)。

ちなみに明治天皇の即位儀礼では、福羽美静の「思いつき」で地球儀が天皇の前に置かれた。これはたまたま調度品として利用できたことから置かれたという偶然の側面もあり、「新政府の構想を必ずしも正しく反映したものとはいえない(p.257)」が、結果的に仏教的世界観ではなく科学的世界観に立った君主として明治天皇をしつらえることになったのである。

全体として、本書はちょっと読みづらい。見慣れない用語が多く、時代が行ったり来たりする上に、著者の関心事項は非常に詳しく書いてある一方で、全体的な見取り図はあまり描かれないので、即位灌頂がどのようなものであったのか最後までよくわからなかった。

一番よくわからなかったのは、即位灌頂がどこで、どのように行われたのかである。例えば、即位灌頂は誰が同席していたのだろうか。群臣が参列する中で行われたのか、それとも秘密の儀式であったのか。これは注意深く読めば書いてあったのかもしれないが、私は見つけることができなかった。君主の正統性を示す儀礼であれば群臣参列が普通であるが、密教儀礼であれば秘密の儀式が妥当である。どちらなのだろうか。

本書は即位灌頂についてまとめたほぼ唯一の概説書であり、その価値は高い。ただし、私自身その内容を十分に理解したとは言いがたい。

失われた天皇の即位儀礼「即位灌頂」を明らかにする労作。

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2023年12月6日水曜日

『延喜式』虎尾 俊哉 著

『延喜式』の概説書。

平安時代の神祇や禁忌を見ていくと、『延喜式』の大きな存在感に気付かされる。奈良時代が律令の時代だったとすれば、平安時代は『延喜式』の時代だったとも言えそうだ。この『延喜式』がどういうものか知りたくて本書を手に取った。

まず「式」とは何か。中国の法律は律・令・格・式の4つの法典で構成されていた。これは律=刑法、令=行政法、格=律令の補足法、式=施行規則である。現代日本に置き換えると、律令=法律、格=施行令(政令)、式=施行規則(省令)ということになるかもしれない。

中国では律令格式がまとめて制定されたのであるが、日本の場合、律令に比べて格式の制定は1世紀も遅れた。しかし格は必ずしもなくてもよいが、式(施行規則)がなければ律令の施行ができない。ではどうしたか。日本では施行規則が「もっぱら個々の単行法令として制定公布されていた(p.10)」。当時「令師」と呼ばれた明法家(みょうぼうか)たちが、『大宝令』の直後から必要な細則を制定する活動をしていたのである。それらの施行規則は、『八十一例』(81の条文)など次第に「例」としてまとめられるようになった。

しかしながら、体系的な施行規則である「式」は作成が困難で、長く編纂されることがなかった。それが遂に、延暦期に編纂されることになる。延暦期は、法典編纂の気運が高まった時代だったのである。

まず、延暦10年(791)に『刪定律令』24条、さらに時期は不明だが『刪定令格』45条、次に延暦11年(792)に『新弾令』83条、続いて延暦18年(799)までに和気清麻呂による『民部省例』20巻、その後延暦22年(803)に『延暦交替式』が撰上された。この時代に個々の法令の制定を超えた法典編纂が行われたのは、明法学の発達がその背景にある。

このような趨勢の中、桓武天皇は信頼する実務官僚の菅野真道に格式の編纂の命を下した。ところが、まもなく桓武天皇が崩御して事業は停滞。次の嵯峨天皇の時代、弘仁年間に編纂が再開され、弘仁11年(820)、格10巻、式40巻の『弘仁格式』が完成した。

こうして律令格式が遂に揃ったが、法令は絶えず改正し続けられるので、『弘仁格式』は早晩改正の必要があった。それが改正されたのが貞観年中で、これを『貞観格式』という。藤原良房が人臣初の摂政となって藤原氏独占の摂関政治が開始された時代である。しかしながら、『貞観格式』は、『弘仁格式』を廃止することなく、その編纂後の訂正・増補された事項のみをまとめたものであったので、『弘仁格式』と『貞観格式』は併存した。つまり、両方を見なければ法令の内容がわからないから、はなはだ不便だった。

そこで、延喜年間、醍醐天皇の治世に『弘仁式』と『貞観式』を統合させ(と本書にあるがおおそらく「格」もあわせて)、体系的な格式を編纂することが左大臣藤原時平に命じられた。この頃は、「延喜聖代観」に見られるように、後世から理想とされた時代であるが、実際には律令制が有名無実化していく末期にあり、最後の班田が行われるなど律令制の維持が試みられるも崩壊していった頃である。国史編纂も『日本三代実録』(延喜元年(901))を以て終了している。『延喜式』の編纂は、律令制の最後のあがきだったといえるかもしれない。醍醐天皇は式の編纂になみなみならぬ熱意があったという(醍醐天皇は自ら式に細かい修正意見を出しており、醍醐天皇の修正意見は『短尺草』という史料に見える)。

最初に完成したのは『延喜格』で、延喜7年(907)に完成して翌8年には施行されている。ところが『延喜式』の方は翌9年に時平が死去したこともあって遅れ、最初の編纂委員のほとんどが死去して延長5年(927)、通算22年もかかって完成した。なお、『延喜儀式』と『延喜交替式』も編纂され、ここに律令格式・儀式・交替式が揃ったのである。

ところが『延喜式』は奏上後、ながく施行されることがなく、なんと40年後の康保4年(967)に至ってようやく施行された。なぜそのように長く放置されたか。一つには、『延喜式』は『弘仁式』と 『貞観式』を統合したもので新しく効力を持つ条文はほぼなかったので急ぐ必要がなかったのと、奏上後も修訂作業が必要であったためと考えられる。また式の規定そものが有名無実なものになっていたせいもある。

こうして放置されていた『延喜式』を改めて施行したのが村上天皇で、その背景には天徳4年(960)の内裏が全焼したとされる火災があると著者は考える。焼失した内裏の再建に活躍した藤原在衡こそ、『延喜式』の施行を主宰した人物だったのである。

次に、本書では『延喜式』の内容について行政組織ごとに簡単に紹介している。これは全部をメモするとかなり煩瑣になるので、気になった点のみ触れる。

『延喜式』には、遣唐使関係の規定が散見される。しかしすでに遣唐使は廃止されていたどころか、唐自体が亡んで存在していない(延喜7年滅亡)。にもかかわらず遣唐使関係の条文が残ったのは「『延喜式』の性格の一面をよく伝えているといわなければならない(p.96)」。『延喜式』の編纂は法令の制定である以上に文化事業なのである。 

『延喜式』の編纂にあたって、伊勢神宮から『儀式帳』が提出されており、その内容は(純粋に儀式敵な部分以外は)ほとんど『延喜式』に取り込まれた。

「祝詞式」(本書では『延喜式』の民部省の巻を「(延喜)民部式」などと略称しているので以下それに従う)は古い祝詞を伝える貴重な史料である。また「神名帳」(本書では「神名式」)は、神社の格を確定させる上で大きな影響があった。

「図書式」には、当時の行政機構が必要とする紙の必要量が規定されていて大変興味深い。またこれにより各官司の机上事務量の多寡を計ることが出来る。

一部の職名以外は、訓読される習いであった。例えば「図書式」は、「ずしょしき」ではなく「ふみのつかさ」と読む。しかし本メモでは訓読のルビは割愛する。

「大学式」で規定される大学の学生の定員は400人で意外と多い。

「民部式」の国郡一覧表は『倭名類聚抄』と並んで古代の地名を知るための最も基礎的な文献。 「民部式」には、課税を負担する子を5人育てればその父親の課税は免除されるという規定がある。「民部式」は、課税・収税・そのための帳面の作成など重要な規定が多い。しかし「こういう律令文書行政の形式がのこっていることは興味深いが、それが全く形式だけの遺存にすぎないことはいうまでもない(p.164)」。

「隼人式」には、隼人が特殊な任務を帯びていたことを伝えている。「この隼人式にかかげられた二十ヵ条の規定は、すべて隼人についての貴重な史料をいわなければならない(p.170)」。 

「弾正式」には、「京中で病人を家の外に遺棄することに対する取締り(p.196)」が規定されている。罰金刑を認めないで体刑とする上、それを隠匿したものも同罪とするという意外と厳しい規定である。

「左右京職」については、なぜ同じ組織を左京・右京にそれぞれおいたのが興味が湧いた(他に「左右近衛式」、「左右衛門式」、「左右兵衛式」、「左右馬式」なども)。そして同じように行政が整えられたのに右京が衰微したのはなぜなのだろうか。

ちなみに、兵庫寮は令政では左右二寮に分かれていたが、寛平8年(896)に左右二寮が合併されている。これによって兵器の作成・保管の業務が一元化された。これが普通の行政組織のあり方だと思う。左右に分けるのは本当に不思議だ。

……このように、『延喜式』の内容は厖大かつ多岐にわたるのであるが、制定の意義はいかなるものであったか。これについて著者は「論ずべきほどの意義は存しないといってよい(p.88)」と容赦ない。つまり律令が有名無実化する中にあって、その施行細則などあってもあまり意味はなかったのだ。

しかしながら、法令としての価値はそうであっても、文化事業としての価値、古いしきたりや社会の様相を記録する意味での価値はとても大きかった。

『西宮記』(源高明)や『北山抄』(藤原公任)には『延喜式』が引用されているし、後三条天皇時代の関白藤原教通は車(牛車であろう)に必ず『延喜式』を携帯したという。院政期においても藤原頼長は『延喜式』を1年以上かけて読了している。これは法令そのものより故実への関心で読まれているように見受けられるが、もちろん明法家も『延喜式』を研究した。令宗允亮(よしむね・ただすけ)の『政事要略』、藤原通憲(この人は明法家ではないが)の『法曹類林』などで『延喜式』は研究・利用された。

中世にも引き続き『延喜式』は参照の対象となり、室町時代には特に「神名帳」が唯一神道の興隆と結びついて注目された。卜部兼俱の『神祇式神名帳頭注』はその代表的なものである。

このように『延喜式』は決して無意味な法令だったのではなく、「延喜の聖代」を伝える重要な文献・権威・規矩としての役割を果たした。『太平記』には、「あら見られずの延喜式や」との言葉が見え、『延喜式』が「かた苦しさや儀式ばったことの代名詞(p.224)」として否定的意味で使われており、こういう用法があったこと自体、『延喜式』が広く知られた傍証である。

近世になると、徳川家康は幕府の法制を整備するための資料として、古書の蒐集と謄写を命じたが、これによって多くの古書が湮滅を免れた。『延喜式』も一部の欠巻がありながらも謄写され、後に他の写本がみつかって慶安元年(1648)に遂に完本が公刊された。さらに、松江藩主松平斉恒・斉貴親子の努力によって雲州本と呼ばれる周到な校訂本が文政11年(1828)に完成した。

また個別研究としては、特に祝詞・神名・諸陵の各式の研究が盛んに行われた。中でも賀茂真淵の『祝詞考』は「祝詞式」に対する初めての本格的研究であり、本居宣長、平田篤胤と研究が進められ、鈴木重胤の『祝詞講義』に至って最高潮に達した。「神名帳」については伴信友の『延喜式神名帳考証』が著名である。

明治維新後は、大学南校の法科で『延喜式』が必読書の一つとされるなど、明治維新の復古主義に支えられて重んじられ、現代でも歴史研究の対象・基礎文献として利用されている。しかしながら、戦後は『延喜式』を直接の対象とする研究論文はあまり見られず、そんな中で宮城栄昌の『延喜式の研究』は最初の総合的研究として価値が高い。

本書は全体として、『延喜式』の世界を平易に概観しており、『延喜式』について知りたくなったら先ず手に取るべき本として推奨できる。というよりも、本書以外に『延喜式』の概説書はないといってもいい。本書の公刊は1964年で約60年ほど前になるが、未だ本書を越える本は登場していないのかもしれない。

ところで、本書は3度も増補されており(書き換えではなく、追記が3つ付いている)、研究の進展によって改訂の必要がある箇所もいくつか存在し、著者自身が「○○頁から○○頁は全面的に改訂の必要がある」などと追記で書いている(それなら改訂してほしかったところだ)。そろそろ『延喜式』の最新の研究をまとめた概説書が出てもよいと思う。

本書を読んで思ったのは、『延喜式』は律令制が有名無実化していく中で最後に作られた、ということが逆説的だがその命脈を保つのに役だったということだ。なにしろ『延喜式』は施行されたその時に、すでに法令としての役割をほとんど担っていなかった。よって、『延喜式』は改訂されることなく、不朽の法典になったのである。また、『延喜式』は律令のような国家の根幹に関わる法典でなく、施行規則であったことも重要だった。律令は形無しになれば意味がなくなるが、施行細則の場合、儀式のやり方、神社のランク、祝詞の文言といった細かい内容は、いつまでも無意味にならないからだ。『延喜式』は、律令国家の置き土産として長く日本社会に影響を及ぼしたのである。

有職故実の世界に大きな影響を及ぼした『延喜式』を知るための必読書。

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