2016年12月31日土曜日

『鹿児島県の歴史 <県史シリーズ (46)>』原口 虎雄 著

鹿児島県の歴史を簡潔にまとめる本。

著者の原口虎雄氏の専門は日本近代史、特に鹿児島の近代史に詳しい。本書執筆の時点で、鹿児島を代表する歴史家だったと思う。

本書は、古代から現代までの鹿児島県(旧日向国=宮崎県の一部を含む)の歴史を編年的に記述し、年表や各種データなどかなり多くの参考資料を巻末に備えたものである。

古代については、教科書的なものでわかりやすく、また薩摩国の特色が理解できるもので、こうした概説としてはよく出来ていると思う。

中世については、かなり分かりづらい。戦国時代の三国(薩摩・大隅・日向)の群雄割拠の様子は相当に複雑であるから、分かりづらいのもしょうがないかもしれないが、それにしても年表をそのままなぞりながら書いているような調子であり、ポイントが不明確で頭の中がこんがらがった。この部分については通説をコンパクトにまとめることが腐心されたような形跡があるが、思い切って簡略化するか、逆に著者なりの見方で語ってもよかったのではないかと思う。

著者の専門である近世、特に幕末に関しては、ちょっと簡潔すぎる。著者自身が「あとがき」で「近世から維新のあたりを精細に書き、それ以前を簡略にすればよかったと思う」と書いている。とはいえ、鹿児島の維新の歴史は中央政権への影響は甚大であるが、実は鹿児島県の現代にさほどの影響を与えていないわけだから、本書の方針は理解できるものだと思う。だが中央からの維新の歴史では語られない、鹿児島にとっての明治維新がもっと克明に描かれていたら、もっと面白い歴史書になっていただろう。

近世についてはちょっと物足りないが、気軽に読める鹿児島県の通史。

2016年12月28日水曜日

『地蔵尊の研究』真鍋廣濟 著

地蔵菩薩について様々な角度から考察する本。

著者は龍谷大学教授の眞鍋廣濟氏。著者は古典文芸を専攻し、元来は仏教研究の専門家ではなかったようだが、さまざまな縁から地蔵菩薩について興味を持って折々にその故事来歴を調べ、たびたび雑誌『密教研究』などで発表してきた。本書は、そうした数編をまとめて出版したものである。

内容は雑駁であるが、 地蔵菩薩とは何か(特に地蔵菩薩は男性なのか女性なのかという問題)から始まり、起源、聖典、信仰の歴史、賽の河原の思想との関係、六地蔵と六地蔵巡り、地蔵盆の由来、尊形、真言・種字・契印、他の菩薩との関係、地蔵菩薩と本地垂迹思想、地蔵菩薩と遊戯、俚諺、歌詠文学、という構成で、さながら地蔵菩薩に関する百科事典的なものとなっている。さらに「余説」として、『沙石集』における地蔵菩薩の研究、近江における地蔵信仰、地蔵菩薩霊験記考、地蔵盆についての子ども向け解説、を掲載している。

お地蔵さん、というと、我々にとってはかなり身近なものであり、つい分かった気になるものであるが、改めてこうして深く考究してみると、お地蔵さんとは一体何なのか不思議でよくわからないものだということに気づかされる。大正の終わりから昭和初期にかけて、地蔵研究には一種の流行があったらしく、著者がまとめるところによれば多くの人がこれを研究したようである。本書は、そうしたものを下敷きにして、著者の専門とする古典文芸を頼りにして地蔵信仰の歴史を解き明かし、「お地蔵さんとは何だろう?」という疑問に応えようとしたものだ。

例えば、地蔵菩薩というと「地獄におちたものを救う菩薩」であるというのが一般的な理解であろうが、この他にも地蔵菩薩にはさまざまな神格がある。例えば、中国では地蔵は閻魔大王と同じものと見なされた。地獄で生前の罪を裁く存在と、地獄から救い出す存在が同一視されたのはどうしてか。さらに、地蔵菩薩は賽の河原で惑う子どもたちを守護する存在とも見られたが、これはどうしてか。本書は、こうした問題に対して著者なりの解答を提示するものである。

それらの疑問は、普通はどうでもいいことと見なされるものばかりだ。「地蔵菩薩は男性なのか女性なのかという問題」なんかは、「そんなのどっちでもいいだろ!」と大半の人が思うに違いない(私も思った)。とはいえ、そういう疑問一つ一つにそれなりの解答を与えていくことは知的興奮がある。

ちなみに、私が地蔵菩薩に興味を持ったのは、「なぜお地蔵さんは路傍に雨ざらしになっているのだろう」ということからである。普通は、仏像というものは出来るだけ祠堂を設けて祀るものと思うし、お地蔵さんも大切に祀られているものもある。しかし路傍に雨ざらしになっているものも多く、これは他の菩薩・如来に比べずっと多いのではないかと思う。これはどうしてだろうか。

本書には、これには真正面からの解答はない。ただ、我が国では地蔵菩薩と道祖神が習合したためであろうと簡単に書いているが、だとしても、なぜ地蔵菩薩が道祖神と習合したのかということまで解かなくてはならないと思う。

それから、戦乱の時代に流行した勝軍地蔵への信仰についても、本書ではごく簡単に触れられるに過ぎないが、芝の愛宕神社に勝軍地蔵が祀ってあるごとく、勝軍地蔵は民間信仰では大きな存在感があるので、勝軍地蔵の故事来歴も詳しく知りたいところである。なぜ地獄から人びとを救う菩薩が、戦における勝利を加護する存在へと変化したのだろうか。

さらに、地蔵はなぜか「地蔵塔」という塔によって表現される場合があり、これも他の菩薩・如来とは違っている。なぜ塔になるのか、非常に気になるところである。

本書は、地蔵についての百科事典的な体裁を企図して書かれてはいるが、著者の専門が日本の古典文芸であるために、中国やインドにおける地蔵信仰についてはさほど詳しくないという弱点がある。また、断片的な研究をまとめたものであるため、全体としてみてさほど体系的ではない。そうであるから、上のような私の疑問に対する答えは十分に得られなかった。

しかし、現在手に入る中では本書はおそらく最もよくまとまった地蔵研究書であり、この分野の基本文献とも言えるだろう。実際、原書は昭和16年に発行されているが、そっくりそのまま昭和44年に翻刻されているのは、需要があったためであろうと思う。

少し古いが、地蔵菩薩について深く知りたいと思った時、必ず目を通すべき本。

2016年12月22日木曜日

本で旅した人びと

先日、「石蔵古本市」というイベントを主催した。

雰囲気のよい石蔵を貸し切って、古本屋さん5軒を呼んだ古本市を行うというものである。それを取り仕切ってくれたのが鹿児島市の「つばめ文庫」という古本屋さん。

この「つばめ文庫」、「本で旅する」というテーマを掲げていて、ちょっと他で見ないような探検ものの古書が充実している。

「本で旅する」——すごくステキなテーマだと思う。でも、実際にはそういうたぐいの本はほとんど売れないらしい。確かに、ちょっと昔の、未開のジャングルを探検するような本は、最近流行らないとは思う。「National Geographic」誌すら売れなくなってきている世の中である。

しかしこの「本で旅する」ということについて、ちょっと思うことがあるので今回は昔語りをしてみたい。

私は、実は小学校低学年の時にはあまり本を読んだ記憶がない。本を読むより外で遊ぶのが好きだったように記憶している。正直、読書は興味がなかった。実を言うと、今でも読書より行動の方が好きだと思う。

そんな私が、初めて、「本を読んだ」という実感を持つ体験をしたのが小学校4年くらいの時。風邪で数日間学校を休んで、ずっと寝ていなくてはいけなかったので退屈で仕方なく、それを見かねた母が図書館から数冊の本を借りてきてくれたのだ。

その中に、”SFの父"ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』があった。出版社も翻訳者も全く覚えていないが、子供用のシリーズの、随分古い本だったように思う。これが、とても面白かった。病気も忘れて熱中した。これが、初めて「本を読んだ」という体験だ。

こうなると、ジュール・ヴェルヌという作家の本をもっと読みたくなる。それで、人生で初めて、自分の意志で買った本がヴェルヌの『海底二万里』である。それまでマトモに本を読んだことのない人間が、いきなり新潮文庫の小さい字で500ページ以上ある本に取り組んだのだから、読むのに結構苦労したような気がする。だが、それ以上に面白かった。それから、ヴェルヌの空想科学小説系の本は、数年かけて(簡単に手に入るものは)全て読んだ。そういう、ヴェルヌの作品の解説にたびたび登場する有名な逸話がある。

ヴェルヌは、11歳の時に初恋の相手のためにサンゴの首飾りを手に入れるべく、インド行きの船に水夫見習いとして密かに乗船した。しかし途中で父に見つかってこっぴどく怒られ、「もうこれからは、夢の中でしか旅行はしない」と誓ったという。事実、ヴェルヌは『八十日間世界一周』をはじめとして世界を股にかけた数々の冒険ものの本を書いているが、母国フランスから出たことがなかったはずである。

幼かった私にとって、この逸話は大変心強いものだった。鹿児島の田舎に生まれ、外の世界に出て行くすべも持たない子どもにとっては、世界は遠すぎた。都会では電車でどこか行くことも出来るが、田舎では車の運転ができるようになるまで、自由にどこか行くということが適わない。だから、書斎から一歩も出ずに(と当時の私は思っていた)外国どころか『月世界へ行く』まで書いてしまえるヴェルヌには勇気づけられた。

人間は、筆の力でどこへでもいけるんだと。

実際、本の虫になることで、実際にそこへ行くよりも通(ツウ)になってしまった人がいる。古本とジャズの伝説的人物、植草甚一氏である。彼の『ぼくの読書法』というエッセイ集の中に「ぼくの原体験は英語を覚えたことだ」というのがある。

普通は原体験というと、戦争や肉親の死といったものが多いが、植草は早い時期に英語を覚え、それが彼の世界を変えた。大正から昭和、そして戦争の時代、やがて戦後へと進む時代の中で、彼は洋書を漁り、「今ここにある世界」とは別の世界へと飛翔したのである。

言うまでもなく、当時は自由に外国へ行けない時代だった。彼の偏愛した洋書や、ジャズや映画といったものは、細い細い管を通って日本へと僅かにしたたり落ちてくるだけ、といったような時代だ。それでも、彼は自分が面白いと思ったものを孤独に愛し続けた。行くことのできないニューヨークの、街角にあるはずの、古書店にたたずむ自分を空想したに違いない。1974年、ようやく彼はニューヨークに降り立った。しかしそれは見知らぬ街ではなく、既に本や雑誌で顔なじみになった街になっていた。どこになんの店があるか、行かなくてもまるきり分かっていたという。実際、それ以前でもニューヨークに行く予定の人がいれば、「どこそこへ行った方がよい」とアドバイスしていた程だった。

本を読むことで、植草甚一はニューヨークを何度も旅していたのである。

地理的な場所でないところにまで、本で「冒険」した人もいる。「サディズム」の語源ともなった、マルキ・ド・サド侯爵である。

サドは、生来の嗜虐的な性向から非人道的なセックスを行い、危険人物として人生の1/3ほどを牢獄で過ごさなくてはならなかった人物。女性を裸にしてベッドに縛り付けナイフで切りつけたり、まあ牢獄に入れられるのもしょうがない素行の人ではあった。が、彼が並の異常性愛者と違ったのは、自分の心の奥にある猟奇的欲望を実行に移すだけでなく、それを行う自分自身を冷徹に観察して、その心理を検証・分析してみなくては気が済まなかったところで、彼はその「検証結果」を数々の文学作品に昇華させていった。

そういう作品の最高峰が『ソドム百二十日』という未完の大作(大作といっても序文と第1部しか書かれていないので実際には短い)。これは、ルイ14世治世の末期、悪行によって莫大な私財を築いたブランジ侯爵という人物が、友人3人とともに、郊外の館で奴隷状態にした42人の男女をなぶりつつ120日間に及ぶ大饗宴を催すという話。この大饗宴の中身はほとんど虐待と強姦と殺人であって、42人のなぶり者のうち30人はむごたらしい拷問によって絶命する。そういう、悪逆の教科書みたいな作品である。

しかしサドがこの奇妙な作品を書いたのは、やはり牢獄の中のことであった。時はフランス革命の4年前。バスティーユ牢獄の一室に閉じ込められていたサドは、監守の目を盗みつつ、小さな紙片を繋ぎ合わせた巻紙に蟻のような小さな文字でこの作品を執筆していた。だが牢獄から一切の私物を持ち出すことを禁じられていたサドは、おそらくは時間か紙の不足のために未完になっていたこの原稿を泣く泣く手放すことになり、さらには革命の混乱で原稿は行方知れずになってしまう。

この作品が漸く出版されたのは、サドが執筆した120年後の1904年のこと。様々な奇縁によってなった出版であった。

こうして世に現れた『ソドム百二十日』は、サドが獄中で思索に思索を重ねた異常性愛の一大絵巻となっており、訳者の澁澤龍彦は「系統的に観察し分類した性倒錯現象の集大成、科学者の目でとらえた性病理学試論といった性格をおび、クラフト・エビングやフロイト以前の、貴重な資料ともなっている」と評している。

これは、牢獄に閉じ込められ、紙とペンすら満足に使えなかったマルキ・ド・サドが、空想によって旅した、完全無欠の魔道の世界の物語なのである。

……こうして、ここで挙げた「本で旅した人びと」を眺めて見ると、現実の世界では行きたい場所に行くことができなかった、という共通点がある。だが、行きたい場所に行けるなら本が必要ないか、というとそうではない。今は、お金と暇さえあれば、世界中の大抵の場所にはいくことができるが、本を通じてなら、それよりももっと遠い場所に行くことができるからだ。というのは、現実の世界では、遠い未来に行くことはできないし、過去の英雄に出会うこともできない。宇宙の果てや、人の心の奥底にある深淵にも、決して立つことは出来ない。これらは今のところ、本を通してしか、行くことができない場所にある。

「本で旅する」——。現実の世界で満足出来なくなった人にとって、いや、現実の世界に満足し切っている人なんてごくごく僅かだろうから、そういうほとんど全ての人にとって、「本で旅する」ことは、時には必要な、精神の休暇の過ごし方だと思うのである。


2016年12月16日金曜日

『快楽主義の哲学』澁澤 龍彦 著

澁澤龍彦が説く、快楽主義のススメ。

本書は、澁澤龍彦の著書としては異端の本である。いや、異端だらけの澁澤の書いた本の中で、異端ではない、という意味で変わった本である。

というのも、本書は初め光文社の「カッパ・ブックス」から刊行された。これは、要するに大衆向けの新書シリーズである。このシリーズがきっかけとなって第一次新書ブームがわき起こったほど、ここからミリオンセラーがいくつも生まれた。

高踏、無頼で聞こえた澁澤龍彦が、こういう大衆的なシリーズで本を書くということ自体がかなり奇異なことである。澁澤がどうしてこういう大衆路線で本を書いたのかというと、自宅を新築するための金策であった、と本人が述懐している。

そんなわけで、著者としてはこの本はあまり好ましいものではなかったようだ。全集に収めてほしくないという意向もあったそうである(でも結果的には収録された)。澁澤のファンからすれば、あまりに軟らかい語り口に拍子抜けする部分もあるし、世の中のトレンドに迎合しているような書き方に落ち着かない気持ちにもなる。あの、耽美的な澁澤はどこへ行った? と感じよう。

しかし、その内容は決して大衆迎合ではない。著者の博覧強記は、いつものように縦横無尽に古今の挿話を開陳する。特に「快楽主義の巨人たち」の章は、ディオゲネス、李白、アレティノ、カサノヴァ…と古今の傑物たちを著者なりの視点でいきいきと紹介しており読み応えがある。

本書の内容としては、まず快楽主義とは何かを解説し、東洋と西洋の快楽主義を比較検討してひとまず西洋のエネルギッシュな快楽主義を中心的に取り上げながら、そうした究極の快楽主義が東洋的な禁欲主義に漸近していくという逆説を展開、そして力強い快楽主義的な生き方を勧めるものである。

ただし、本書が勧める快楽主義は、時代の方に追い越されていった。本書が初出した1965年といえば、60年安保があり、60年代後半からは全共闘運動や大学紛争が起こっていく時代で、若者は今から考えると真面目すぎるくらいであったが、その後のバブル景気を経ると、世の中は軽薄な快楽主義に覆われていった。著者が説く力強い快楽主義の勧めよりも時代はさらに先を行き、その場しのぎのお気楽な快楽主義が蔓延ってしまった。

そういうワケであるから、著者の主張は普遍的な内容をもちながらも、本としては、その前提となる時代背景が全く変わってしまったので、ちょっと古びた感じがするのは否めない。とはいっても、澁澤の本としては、非常に取っつきやすい部類に属するので、一種の「澁澤入門」として機能する本になっていると思う。

快楽主義の勧めは今となっては空回り気味だが、内容は充実した気軽な澁澤龍彦入門書。

2016年12月5日月曜日

『鹿児島の勧業知事—加納久宜小伝』大囿 純也 著、加納知事五十年祭奉賛会 編

明治時代に鹿児島県知事を務めた加納久宜(ひさよし)を振り返る本。

鹿児島県民なら、旧県庁跡地に加納久宜を顕彰する石碑が建っていることを知っている人が多いだろう。でも、意外と何をした人かはあまり知られていない。私もそうだった。それで手に取ったのが本書である。

加納久宜は、筑後柳川藩の藩主立花家に生まれ、8歳の時に父母を亡くしたが、19歳の時に養子となって一宮藩(今の千葉県の一部)の藩主として迎えられた。この藩主、幼い頃から勉強が嫌いで、かといって腕白というわけでもなく、どちらかというと虚弱な頼りない幼少期を送ったが、維新後はフランス留学を志したり(結局周囲の反対で行けなかった)、学校長になったり法律には素人ながら判事になったりと天衣無縫の働きを見せた。

その精力的な働きぶりを買われ、鹿児島県知事に任命されたのが明治27年1月20日のことであった。

その頃の鹿児島は、西南戦争からの混乱が続いており、特に県庁は民党・吏党の争いでマトモに機能していなかった。民党・吏党の争いというのは、今風に言えば与党・野党の争いであるが、どちらかというと「赤狩り」に近い。県庁では、民党臭いとされた職員はクビにされ、学校の教員すらも民党に肩入れするということだけで、即刻クビにされた。警察はその総本山で、スパイや密告が暗躍し、民党弾圧の中心組織となっていた。こういう次第であるから本来県庁が担うべき普通の仕事は全然遂行されない。加納知事の最初の仕事は、この狂った県庁をあるべき姿に戻すことだった。

加納は、まず警官の待遇改善に着手する。待遇が悪いことがモラル低下をもたらしているのではないかとの考えだ。働きのよくない職員はクビにする一方で、果断なベースアップを実施して仕事のやりがいを高めた。これで民党・吏党争いの牙城だった警察が正常化し、県庁は落ち着きを取り戻していった。こうして、県政史上名高い加納知事時代が幕を開けたのである。

加納の業績は大まかには次のようなものである。
  1. 原始的な方法で行われていた鹿児島の農業の生産性の向上。
    • 米の大幅な増収と品質のアップ。そのための正条植えの普及、肥料製造の指導、農業指導士の派遣や農会・農事小組合の整備、排水改善(土壌改良)事業。
    • 柑橘類の栽培振興。東京農林学校の玉利喜造をポケットマネーで招き、「薩摩ミカン」などの優良品種を普及させるため私費を投じて柑橘園を開き、苗の生産を行った。
    • その他、茶業、酪農、馬の生産などにも足跡を残す。
  2. 漁業振興、特に遠洋漁業の開拓。製塩業の近代化、薩摩焼の熟練陶工の育成など各業界での勧業事業。
  3. 教育水準の向上。
    • 全国平均を下回っていた学齢児童の就学率を向上させるため、教育組合など組織面を充実させると共に、就学することが親にとっても得になる仕組みをつくり、女児の就学を推進するための保育体制の充実にも取り組んだ(女児は下の子の面倒を見なくてはならないことが多いことから)。
    • 小中学校の整備に加え、造士館の第七高等学校(現・鹿児島大学)昇格、鹿児島市立商業高校(現・鹿児島商業高校)と鹿児島市立女子興業学校(現・鹿児島女子校)の創設など、学校の整備を進めた。現県図書館も加納の設立。
  4. 当時はまだ珍しかった数千トンクラスの貨客船が接岸できるようにする、鹿児島港の大改修。
そして加納は、こうした施策を推し進めるにあたり、徹底した「干渉主義」をとった。各種団体の長を知事が務めるようにし、業界のやり方にことあるごとに口を出したのである。しかも、加納はかなり事細かに指示を出した。今から考えるとちょっと度を超したようなところもあるが、目指すべきものが分からなかった鹿児島の民に、確かな指針を与えたのは大きな功績だ。

しかも、自分の「干渉」が十分に理解されないと悟るや、皆が具体的に見て理解できるように彼は率先垂範して自ら私財を投じて事業を興した。ミカン園はその一例であるが、私費で育成した苗木が盗まれた際、彼は自分の目論見が浸透したことをむしろ喜んだというから、この身銭を切った事業は決して利益を目的としたものではなかった。

それであるから、身内からは県知事の仕事は「勧業道楽」とまでみなされた。鹿児島の勧業のために身銭を切ってばかりいるものだから、加納はどんどん借金をつくってしまっていた。それも、今の資産価値でいうところの億くらいの借金があったみたいである。

加納が知事を辞めざるを得なくなったのも、これ以上借金を増やしたくないという身内の意向も随分あったようである。ただし辞任の直接の原因となったのは、鹿児島港の大改修で、あまりに改修の規模が大きすぎて周りがついて行けなくなり、この重要事業が理解されないのならと、加納はさっさと辞表を書いてしまった。

しかし加納は、干渉主義とワンマン経営なところはあったが、多くの人に敬慕される存在となっていた。旧藩主なのにもかかわらず気さくな人柄で、身分を問わず人の話をよく聞き、出張も必要最低の随行員しかつけずに貧乏宿にも泊まった。県内を隈無く巡村して実態を調査しており、ワンマンとはいっても決して思い込みで政策を決めるのではなかった。そんな加納だったから、辞表を出しても辞任反対の運動が起こった。ならば鹿児島港が出来るまでは知事を続けようということになり、実際改修の工事計画が出来上がってから彼は鹿児島を去ったのである。

鹿児島を去って後のことについては、本書では簡単にしか触れられていない。こういう果断な人物であったから各所から引き手数多で、しかも乞われて赴いた場所場所でそれなりに大きな仕事を成し遂げている。それでも、加納の心にずっとあったのは7年間の鹿児島県知事生活のことだった。晩年の家族の話題は鹿児島のことばかりだったという。「もし我輩が亡くなっても鹿児島のことで何か話があったら冥土に電話せい」が口癖だったそうである。加納は生涯、鹿児島の発展を願い続けたのである。

2016年11月20日日曜日

『知られざる傑作―他五篇』バルザック著、水野 亮 訳

バルザックの短編6編。

バルザックも、いつか読もうと思っていながら今まで手を出さなかった作家の一人である。『人間喜劇』——これはバルザックの作品の集成で、一つ一つ独立してはいるが、共通の世界観や登場人物によって構成される絵巻物的なもの——の厖大な世界を前にすると、足がすくむというか、気軽に手を出すことを峻拒されているような気がして、今までバルザックを視て見ぬ振りをしてきたのだった。

しかしそういう気負いを感じる年齢でもなくなってきたので、かえって気軽な気持ちから、短編でも読んでみようか、と手に取ったのが本書である(本書の内容も、『人間喜劇』に包摂されている)。

私は、基本的には古典と前衛的な20世紀文学が好きで、19世紀の文学というと「いかにもな話」という目で見るようなところがあり、これも若い時分に読んだら斜に構えて読んでいたかもしれない。しかし今になって見ると、こういう「いかにもな話」にも力があることを再確認させられ、19世紀文学もいいじゃないか、と思うようになってきた。

本書に収録された短編に通底するテーマを挙げるとすれば、それは「執着」である。ここに描かれた人物たちは、みな何かに対して強烈に執着している。表題作の『知られざる傑作』では、理想の女性を描くために10年を費やし、しかしそれでも理想へと到達できないことに絶望して自決する老画家が出てくるが、芸術に対する偏執狂的なまでの執着は、見ていて痛々しいほどである。

そして、非常に心に残った作品が『ざくろ屋敷』。これは不治の病に冒されたシングルマザーの母親が、せめて死ぬまでの短い間に子どもたちに最高の教育と環境を与えたいと願い、「ざくろ屋敷」に自分と子どもたちだけのユートピアをつくり上げ、そして死んでしまうという話。子どもたちへの執着、そして劇中では詳らかにされないが、別れた夫との諍い(おそらくは不倫関係?)への執着がありつつも、近い将来訪れる自らの死はそれらの執着を無にしてしまう、という一種の諦念がスパイスとなり、彼女の心象風景を複雑なものにしている。

この2作に限らず、本書に収録された短編は、登場人物の感情が劇中を強く照射して輪郭をはっきりとさせ、ぐいぐい引き込まれるような作品になっている。しかも、その感情は直接的に描写されるというよりも、ふとした仕草、持ち物や住居の具合、一瞬の戸惑いといったものによって表現されており、そのエピソードの作り方が実にうまい。

良質なエンターテイメントであり、また人間観察や歴史巻物としても楽しめる良質な短編集。

2016年11月8日火曜日

『陽気なヴッツ先生』ジャン・パウル著、岩田 行一 訳

ジャン・パウルの短編2編。

ジャン・パウルは、ドイツ散文芸術の大先達と讃えられているというし、ドイツの作家ではジャン・パウルに影響を受けた人はたくさんいるらしい。全集は数十巻に及ぶという。だが、日本ではほとんど翻訳されておらず、読まれていない。生粋のドイツの文学だから「日本人には理解不可能」とすら言われているくらいである(最近は、ドイツでもあまり読まれていないといわれているが)。

とても読みにくいというその前評判は聞いていたが、実際に本書を手にとって合点がいった。

この2編にも一応ストーリーはあるのだが、筋書きに関係あるようなないような雑談のような話が多すぎて、すぐに話を見失ってしまう。「で、今何が話題なんだっけ?」と分からなくなる。

そんなわけで、最初は読み進めるのに骨が折れた。だがこういう本にも「読み方」というのがあるもので、その「読み方」を心得ると意外とスムーズに読んでいけるものである。

ジャン・パウルの本は(というより、この『陽気なヴッツ先生』は)、それあたかも田舎の人間のとりとめのない立ち話と思って読むべきなのではないかと思う。「で、結局なんなんだ?」と思ってはいけない。おしゃべりそのものが娯楽という田舎の世界で、ただその場しのぎで思いつきや下らないダジャレをしゃべるのが立ち話というものだが、そういうものとして読むのである(ジャン・パウルの作品自体が思いつきで書かれているというわけではない)。

もちろん、話の筋というものはあるし、社会風刺のようなものもある。それどころか、文学的な問題提起と呼べるものすらある。例えば、『陽気なヴッツ先生』は、極貧の中でも自分の内面世界を充実させることで幸福な人生を生きた(と語り手に評価される)男の話であるが、幸福というものを貴族や大金持ちが独占していた時代に、「個人の内面」というそれまで評価の対象になりえなかったものを浮かび上がらせたということがこの作品の文学性だと思う。

しかしそういう理念的なことに着目しながら読んでも、なかなか作品世界に没頭することができない。それよりも、「ふーん、そうなんだー」くらいの気持ちで読むべきである。基本的には、田舎の立ち話なんだと思って、時間つぶしに付き合うくらいのゆったりした気持ちで向き合わないといけない。

そういう意味では、 日本人には理解不可能、ということは全然なくて、ただ現代日本のせわしい都会生活の中では読み通せない作品というだけなのかもしれない。ジャン・パウル自身がドイツの中で後進的な田舎の地域に生まれ、田舎の世界で一生を生きた人らしいから、その息づかいは(書かれていること自体は先進的、観念的なものであったとしても)田舎っぽい土着性があるように思われる。

収録されているもう一つの短編は『シュメルツレの大用心』というもので、これは実際には小心翼々としながら自分の中でだけ剛胆なシュメルツレという男が、臆病ゆえに解雇された従軍牧師に復帰させてもらうべく上司(将軍)に請願をしにいく話。これも話の筋は一応あるものの、とにかくシュメルツレ(と作者)のあれやこれやの随想に付き合わされる。それをいちいち頭の中で整理していたら、どうでもいいことに振り回されて逆に話が見えてこない。そういう雑然とした作品である。

しかしそのテーマはやはり「個人の内面」であって、行動はしょぼいが頭の中ではやたら小難しいことを考えているシュメルツレという男の頭の中を覗き見るという趣向なのだ。

ジャン・パウルが生涯追い求めたテーマは「自我」だったという。そして、彼は「自分の生が即文学である」と確信していた。つまり日本文学で言えば、彼の作品は「私小説」的であり、そこにストーリーテリングを期待してはいけないのだ。登場人物の内面のあり方そのものが、ジャン・パウルにとっての文学なのだろうと思う。

2016年11月1日火曜日

『南洲残影』江藤 淳 著

西郷隆盛は、なぜ西南戦争を戦わなければならなかったのかを考察する本。

西郷隆盛に関する本は、最初から西郷賛美を決めてかかっていることが多い。あるいは、西郷といえども、そんなたいしたものではなかったのだ、と言う逆の態度か。つまり、彼について語る時、人はなかなか客観的になれない。何があったか、歴史がどうだったか、という語り手に徹することができないのだ。どうしても、西郷をどう評価するか、という自分の内面が出てしまう。

それくらい、西郷隆盛という人物は、死してなお、我々に歩み寄ってくる存在である。

江藤淳は、その西郷南洲を適度な距離感で語りはじめる。南洲(西郷の雅号)の詩、彼を語った勝海舟の詩、薩摩琵琶の歌……、そうした文学の行間から、西郷の存在を浮かび上がらせる。勝ち目のない戦いに担がれ、望まない戦争に赴いた西郷。明治天皇に衷情を抱きながら、国賊にならざるをえなかった西郷を。

筆は西南戦争の有様へと進む。なぜ西南戦争が起こったのか、という直接の説明はほとんどない。私学校党も、暗殺問題も語られない。本書は、こうした薩摩と明治政府を巡る諸問題については既知の読者を対象としているのだろう。しかしそれ以上に江藤淳にとって、これらは語るに足るものではなかったのだと思う。それよりも、戦いが進む中で交わされた書簡、檄(指示)、そういったものを丁寧に紹介し、ほのかに見え隠れする戦いの本質を探っていく。この戦は、何かに反抗するための戦ではない。ただ、滅びるための戦なのだと——。

西郷はなぜ立たねばならなかったのか、その直接的な説明も本書にはない。ただ、本書を読み進めるうちに西郷の影が我々の前に立ち現れてくる。寡黙な彼のことである。自分から、私はこのために戦ったと説明はしない。雨あられと降り注ぐ銃弾の中で、平生と変わらぬ穏やかな顔をして、ゆっくりと死へと進んでいく。その後ろ姿がなにがしかを語るのだ。

こうして、西郷と適度な距離をもって語りはじめたはずの本書は、最後には西郷の姿へと飲み込まれる。「日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を持ったことがなかった」と江藤淳は言う。しかしそうだろうか? 西郷南洲は、「思想」だったのだろうか?

私は違うと思う。私は、西郷南洲は、日本人にとっての最後の「神話」になったのだと思う。そこにどんな思想を読み取るのかは、読み手の技倆による。最初から西郷賛美と決めてかかっては、浅はかな「敬天愛人」しか見えてこないかもしれない。いや、私もまだ、読みが浅いに違いない。

歴史家ではない江藤淳が、どれほどの読みができるのか、と人は思うだろう。しかし、文学的の行間から西郷を見る、という切り口一つとっても、かなりの深みある見方をしていると感じる。もちろんこれは西郷隆盛論の決定版ではない。江藤淳の、個人的な思いもかなり仮託されている。かといって西郷隆盛への挽歌でもない。これは、西郷隆盛を語るための、地平を確立するための本とでもいえるだろう。

【関連書籍】
『西郷隆盛紀行』橋川 文三 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/04/blog-post_7.html
西郷隆盛を巡る思索と対話の記録。
西郷の評価を考える上でヒントに溢れた小著。


2016年10月26日水曜日

『稲の大東亜共栄圏―帝国日本の「緑の革命」』藤原 辰史 著

戦前日本の植民地における稲の育種を紹介し、新品種の無理な導入が現地の生活を変えていく”帝国主義的な”ものであることを主張する本。

戦前日本は、食糧増産に躍起になっていた。主食である米の生産が追いついてなかったからである。そのため、植民地(台湾、朝鮮)からの移入米が重要になってきた。だが、台湾や朝鮮も米文化圏ではあるが、現地米は日本の食文化に合わず、日本の気候とは異なるため日本の稲を栽培するのも難しい。そこで、植民地において日本人の舌に合う米を生産するため、稲の育種(品種改良)が盛んに行われた。

台湾においては〈蓬莱米〉、朝鮮においては〈陸羽132号〉といったものが、そうして生みだされた品種である。

新品種の導入は、農民への普及という点ではやりやすい技術革新である。農業機械や施設の導入は資本が必要だし、新しい農法に変えるのには抵抗もある。しかし品種を変えるだけなら旧来の施設設備や道具をそのまま使えるからだ。新品種の導入は、一見「ただ育てるものが少し変わるだけ」に見える。

だが現代においてモンサントのやり方が批判されているように、実は新品種の導入は、生活そのものをそっくり作り変えさせられてしまうほどの威力がある。

例えば、台湾における米は南方種(インディカ米)であったが、日本はそこにジャポニカ米の〈蓬莱米〉を普及させようとした。しかし桿(普通の植物の茎に当たる部分)が長いインディカ米ならば、桿を水牛の餌にしたり生活雑器を作る材料に出来るが、ジャポニカ米の短桿種の場合そういうことができなくなる。

そしてもっと大きいのは、日本が食糧増産のために開発した新品種は、多くの肥料を必要としたということである。肥料をやればやるだけ穫れる——それが日本の品種改良の目標だった。土地が限られていた日本では、多肥・多収穫の品種が求められていたからだ。だが、多肥・多収穫の品種は、肥料が少なければ収量も少なくなるという弱点がある。肥料をさほどやらなくてもそれなりに穫れる在来種と違って、新品種を作っていくとなると肥料を購入しなくてはならなくなる。

日本は既に1934年の時点で、世界第3位の硫安(窒素肥料)製造国家であった。その硫安の販売先としても、植民地の農業生産は注目されていたのである。

こうして、植民地の自給自足的経済が、資本主義的経済に飲み込まれていくのである。それ自体は、日本が望んでやったことではないのかもしれない。本当は、ただ食糧増産をしたかっただけで。しかしこうした、食料生産を通じた社会のあり方の意図せざる改変は、食料生産の生態系を変えてしまうためにかえって強力である。著者はそれを、アメリカの歴史学者アルフレッド・W・クロスビーの提唱する「生態学的帝国主義(エコロジカル・インペリアリズム)」概念を援用しつつ紐解いていく。

稲の品種改良という非常に地味な素材を扱いながら、植民地主義のリアルを考えさせられる好著。

2016年10月2日日曜日

『食糧の帝国―食物が決定づけた文明の勃興と崩壊』エヴァン・D・G・フレイザー、アンドリュー・リマス共著、藤井美佐子 訳

過去の文明の例を引き合いに、食料システムの脆弱性に警鐘を鳴らす本。

本書は、16世紀の終わりにイタリアから世界周遊の貿易旅行に出かけたフランチェスコ・カルレッティの足跡を辿りながら、その土地土地での様々な時代の文明の勃興と崩壊に触れ、その背景にあった食料システムの問題を紹介するものである。さらにその都度、現代の食料システムが抱える問題についても考察し、このままでは大規模な飢餓が発生するといった危機的状況になることを警告している。

しかし、その筆はあまりうまくない。

まず、 過去の文明が抱えていた食料システムの不全についての説明が十分とはいえない(なお、食料システムのことを本書では「食糧帝国」と呼んでいる)。

文明の勃興期においては、食料システムはうまく機能していた。多くの人口を支えるための農産物生産、保存、流通、取引の仕組みはどんな文明でも存在し、それがうまくいったからこそ文明はより発展することができた。だが、土壌の生産力の限界を超えて生産し土地が疲弊したり、流通経路が使えなくなったり、要するにサプライ・チェーンの鎖のどこかが壊れることで、このシステムは崩壊し、そしてその文明もまた滅んでいった。

しかしそれは、本書の副題に掲げられているように「食物が決定づけた文明の勃興と崩壊」とまではいえない。むしろ、文明が衰退の途にあったからこそ、食料システムが崩壊していったと考えることもできる。文明が衰退すれば、食料生産だけでなく、警察機構、法、取引、租税など様々な面で社会の仕組みがほころんでいく。というより、それが文明の衰退そのものである。それは食料システムの不全が文明の衰退を招いた、というような単純な因果関係で説明できるものではない。

そして、過去の文明の食料システムの説明も、さほど詳しいものではなく、ほんの概略的なことが述べられるに過ぎず、どこに問題があったのか納得できる形で示されていない。どこに真の問題があったのか、ということの探求がなおざりであるから、そうした過去の失敗が現代の食料システムの問題を考察する上での材料になっておらず、「最初はうまくいっていた食料システムもいつかは崩壊する」という程度のことしか教訓を引き出していない。

また、現代の食料システムの本質的な問題は、持続的な形で農産物を生産しようとすると、90億人を養うことはおそらく不可能である、ということだと思うが、本書ではこの問題に対して、CSA(地産地消運動)とか、スローフード、有機農業やフェアトレードといった「焼け石に水」的な解決策しか提示していない(著者自身がそう述べている)。こうしたものでは、多くの人口を養っていくことはできないというのに。

一方で、なかなか面白い小ネタはたくさん盛り込まれている。特に面白かったのは、中世の修道院が製粉権を地域独占していて、これを担保するためにならずものを雇って農民の挽き臼を破壊させたことがある、という話。食料というものは、人が生きていく上では絶対に必要なものだから、ここに既得権を築ければ強い力を得ることができるのである。

とはいえ、そうしたエピソードが、単にエピソードとして語られていて、その背景にどういう力学が働いていたのかという考察が本書ではすっぽりと抜け落ちている。例えば歴史的に、農地利用については税のあり方が大きく影響しているのだが、 本書ではほとんど税については触れられていない。

さらに、本書は「ヒストリカル・スタディーズ」というシリーズの一冊となっているが、参考文献・出典が全く表示されていない。歴史を語る上で、出典を明示しないのは最低限のルールを守っていない本だと言わざるをえない(ただし、日本語訳の際に割愛された可能性はある)。

というような問題があるため、現在の食料システムに問題があるという主張自体は間違っていないが、その問題提起の仕方、考察の仕方、提示された解決策の質、どれをとっても床屋談義の域を出ていない。また、カルレッティの足跡を辿るという趣向も、話があっちへ行きこっちへ行きするという意味で散漫であり、成功しているとはいえない。

歴史へ真摯に向き合っていないために、現在の問題を考える際にも表面的な、おざなりな本。

2016年9月29日木曜日

『ほらふき男爵の冒険』ビュルガー編、新井 皓士 訳

ほらふき男爵ことミュンハヒハウゼン男爵の語る奇想天外な冒険譚。

ミュンヒハウゼン男爵は実在の人物で、実際にロシアで従軍、活躍し、中年になってからは狩猟と思い出話三昧の生活を楽しんだ。そういう自慢話の名手であったミュンヒハウゼンに、いつしか名も無き人々が伝承的なほら吹き話を仮託するようになり、次第に荒唐無稽、奇想天外、奇妙奇天烈な冒険譚がいくつか形成されてきた。

そういう意味では、「「ほらふき男爵」の話は個人的創作というより、猟人や兵士、船員や釣り人などが、一杯機嫌でやる自慢話・大話に属する、いわば民間伝承の民俗的遺産」なのだ(本書「解説」より)。

例えばこんなのがある。馬車で狼から逃げていたところ、狼に追いつかれて馬のお尻に狼が食いついた。ビックリした馬はなおさら早く逃げようと走るが、狼はドンドン馬の体を食い破って馬の体の中にすっぽり入ってしまう。ところがあまりにすっぽり馬の体の中に入ったので、そのまま馬具がつき、ミュンヒハウゼン男爵は遠慮無く狼に鞭を振るう。そうして無事「狼の馬車」で目的地に着いたんだとか。

まあ、こういう下らない話のオンパレードである。忙しい現代の生活には、全く必要の無い馬鹿馬鹿しい話である。

ところが、この馬鹿馬鹿しい話が成立した背景はなかなかに興味深いことを、本書を読んで知った。

ミュンヒハウゼン男爵の冒険譚が最初にまとめられたのは伝承地のドイツではなくイギリスで、1785年、ルードルフ・エーリヒ・ラスペという人物による。ラスペはドイツの笑い話集『おもしろ文庫』から民間伝承的に収録されていたミュンヒハウゼン男爵の話をピックアップして、もとは脈絡のない断片的小話の集まりであったものを一人称の語りとして連続性をもたせ、「ほら吹き男爵」を創造したのであった。

こうして最初は英語で書かれた「ほら吹き男爵」は、ゴットフリート・アウグスト・ビュルガーによって1786年にドイツ語に翻訳され、ドイツに「逆輸入」される。しかもこの翻訳は、ラスペの作品を下敷きにしつつも翻案の域を超えてリライトされたもので、文学的価値が高いものとして再創造された作品である。

ところがもっと面白いことがある。実は、ビュルガーがこの馬鹿馬鹿しい『ほらふき男爵』をリライトしていたのは、彼が最愛の妻アウグステを亡くし「狂いたける獅子」となって悲嘆のどん底になっていた時期なのだ。

ビュルガーは才能はあったが人生の歯車は狂っていたタイプ。彼が最初に結婚したのはアウグステの姉ドレッテだった。だが次第にその妹アウグステと愛し合うようになり、すったもんだあった末にドレッテ=名義上の妻、アウグステ=心の妻、という形に落ちつくが、結婚生活約10年でドレッテが病死、翌年ようやくビュルガーはアウグステと正式に結婚したものの、なんとアウグステもその僅か半年後には死んでしまう。世間から不道徳と誹られつつ実らせた恋の、あまりに哀切とした幕切れであった。そしてそのさらに半年後に、ビュルガーは『ほら吹き男爵』に着手するのである。

しかも才能はありながら、学者としての仕事には恵まれなかったビュルガーは、貧乏の中でこの仕事を成し遂げる。にもかかわらず、彼はこの仕事で一切の稿料をもらっていないらしい。それどころか、これは編訳者なしの匿名出版で、大評判になって版を重ねることになるこの『ほらふき男爵』がビュルガーの手によるものとは、世間には全く知られることがなかった。こういう次第であるから当然のことながら、ビュルガーは生前評価されることもなく、窮乏のうちに息を引き取ることになる。この『ほらふき男爵』は文学的野心や欲得とは無関係になされた仕事だったのである。

ビュルガーが、どんな気持ちで「ほらふき男爵」を書き上げたのか、その心境を伝えるものは何も残っていない。しかし私はどうしても想像してしまう。最愛の人を失って、気も狂わんばかりの寂寞に押しつぶされそうになりながら、この馬鹿馬鹿しい話を一心不乱に書き上げた彼の姿を。この荒唐無稽なほらふき話は、彼にとってどんな意味があったのだろう。心の救済だったのだろうか。辛い現実を忘れるための逃避先だったのだろうか。それとも、亡き妻アウグステへの捧げ物だったのだろうか。でもこの作品からは、そういう陰影はほとんど感じることができない。あっけらかんとしたミュンヒハウゼン男爵が、とことん馬鹿馬鹿しい話を続けるだけで。

でもきっと、ビュルガーの人生にとって、この壮大なほら話は必要なものだったのだろうと確信できる。現実があまりにも辛い場合には、それと直接対決するのではなくて、それをコケにして、笑い飛ばして、逃げ出すにこしたことはない。空想と虚構の世界へと。

新井 皓士の自由闊達な翻訳とギュスターヴ・ドレの挿絵も素晴らしい、不朽の名作。

2016年9月20日火曜日

『プロカウンセラーの共感の技術』杉原 保史 著

プロのカウンセラーである著者が、相談を受ける立場として身につけたい共感の技術を解説した本。

共感とは、人の気持ちと同じ気持ちになることだとか、あるいは人の気持ちをぴたりと言い当てることだ、と誤解されているという。そうではなく、共感とは個人と個人の境界線が曖昧になり、互いに影響し合う「プロセス」のことだと著者は定義する。私なりの言葉で言えば、共感とは、頭の中に存在している状態(例えばAさんのいうことはよくわかるなあ、というような気持ち)のことではなく、個人が相互作用する「場」のことなのだろうと理解した。

そのような共感の場をつくりだすためにはどうしたらよいか。著者はその第一歩は「自分が感じたことを素直に認識し、それを放っておく(離れる)こと」だという。もちろん、相手のいうことを真摯に聞くということも大事である。でもそれ以前に、相手の話を聞いている「自分」が感じたこと、それに注意を向けることが重要で、そこに性急な価値判断をせずに、とりあえず「そう感じた」という事実だけを認識していく。

人の相談話を聞いていると、なにかうまいことを言ってやろうとか思うものであるし、つい自分の意見を言ってしまいたくなる。というか、相談を求められているわけだから、自分の意見を言わないといけない、くらいに思うのが普通だ。が、著者によれば、少なくとも共感の場をつくりだすということにおいては、そういう「自分の視点」からまず離れる必要がある。自分を中心に考えるのではなく、相手の仕草、そぶり、声の調子、そして話の内容、そういったものをしっかりと感じ、同時にそこから自分が感じているものを認識できるようになれば、自然と相手の立場でものを考えられるようになり、いつのまにか共感のプロセスに入ってけるのだという。

本書には、自分の感じたことを認識することがどうして共感に繋がるのかという理論的な説明はない。しかしプロのカウンセラーとしての実践に基づいているため、実際は非常に説得的である。

他の部分でも、「そういう考え方があったのかー!」というような目からウロコみたいな内容はないが、著者の豊富な実践に裏打ちされているものであるだけに、説得力と深みのある議論が展開されている。

正直なことをいうと、私は人の話を「共感的に」聞くのが下手であり、どうも知に傾いたような聞き方をすることが多い。あまり批判的ではない方だと思うが、分析的というか「この人はこういう考え方をする人なんだな」みたいに聞いてしまうことが多く、どうしてもそこに個人と個人の境界線を截然と引くような態度があると思う。本書を読むと、そいう態度自体は悪くないどころか、むしろ共感できないことを認識するのは共感の第一歩だ、ということで安心したのだが、そこで留まっていては結局相談者の力になるのは難しい。より深く人の心を理解し、また相談者自らの変化を催すためには、どうしても共感するというところまで認識を深めないといけない。

本書の内容の約半分は、そういう「認識の深め方」の指南とでもいうべきもので(本書においてこういう言葉が使われているわけではない)、これはカウンセリングのやり方そのものの解説ではないが、日常生活における相談事への対処には十分に活用できるようなハウツーになっている。認識を深めていくためには、自分が注意深い観察者になるだけでは不十分で、結局は相手が心を開いて話してくれなくてはならないわけだから、その基礎に共感の技術が必要になってくるのである。

人は、共感してくれる話し手がいるときは、自分でも思ってもみなかったような言葉が出てくるものである。というのは、心の奥底の自分にとって大事な部分は、実はとても曖昧かつ複雑であり、容易には言語化できないようなもので、「話を聴いている人の反応によってもかなりの部分が形成されてくる類のもの」だからだ。それが「表層に掘り起こされたときにとった具体的な形は、話し手と聴き手の共同作品と言ってもいいほどのもの」だと著者は言う。つまり、心の奥底に閉じ込めていた気持ちは一人では取り出せないのである。共感して聴いてくれる誰かがいなくては、それはずっと謎のままなのだ。

このように、共感する技術というのは、「うんうん、その話分かるよー」とただ相づちを打つ技術ではなく、相手の心の深い部分に触れるために必要な技術なのである。

2016年9月9日金曜日

『梁塵秘抄』後白河法皇 編纂、川村 湊 訳

『梁塵秘抄』に基づいて書かれた詩集。

本書は、一応『梁塵秘抄』の現代語訳ということで販売されているが、実態としては翻案であり、ほぼ創作に近いものが多い。例えばこんな調子である。

【訳】
甘い言葉も やさしい嘘も
あなたの口から 聞きたいの
ほんとの愛など うそっぱち
いまの 夢だけ あればいい

【原歌】
狂言綺語のあやまちは 仏を讃(ほ)むるを種として 麁(あら)き言葉も如何なるも 第一義とかにぞ帰るなる

どうしてこんな超訳がなされているかというと、もともと『梁塵秘抄』というものは庶民の間での流行歌を収録したもので、「今様(いまよう)=当世風」の言葉の世界が展開されているものであるから、まじめくさった古典の翻訳ではなく、あえて今様の現代語訳にしようという意図があるのである。

私は、その意図には大変共感する。庶民の俗謡を表現するのに、韜晦な訳文を使うのはよくないと思う。しかし本書ではこの意図は十分成功しているとはいえない。というのは、著者の現代語訳は、今様というよりも昭和歌謡調、演歌調であり、どちらかというとレトロな、古くさい表現が多いのである。そして、原歌と比べてどうも「ありがち感」が増している。

つまり、『梁塵秘抄』の詩想を、ありがちな演歌型にはめて表現したような現代語訳が多い。『梁塵秘抄』への入り口として、こういう遊びが入った作品に親しむのもいいと思うが、肝心の現代語訳があまりよくないというのが根本的な問題である。

私が思うに、『梁塵秘抄』を現代詩に翻案するとすれば、演歌というよりヒップホップのようなものになぞらえる方がよい。試みに先ほどの歌を私が訳してみればこんな風だ。

【風狂訳】
うまいセリフ とびきりのライム でも
それ中身空っぽ! なんて言うなよ?
見かけだけクール てわけじゃないんだぜ
ほんとうはフール マジでクソまじめさ
神も 仏も 畏れる男
不器用なリリック でもわかってくれるだろ?
この歌の価値!

ちなみに原歌を少し解説すると、「無闇に飾り立てた言葉や小説・和歌の類は、仏教の立場からは過ちとされるが、その本意には仏への讃仰(今の言葉で言ったら「人間讃歌」かもしれない)があるわけで、それが乱暴な言葉や無理な言葉であっても、結局はその本意こそ重要で軽んずべきではない」というような意味であると思う。

この歌は、この俗謡集を編纂した後白河法皇のまさに衷心が仮託されたものである気がする。後白河法皇は、天皇・上皇の地位にありながら、当時の庶民の歌に惹かれてその練習に明け暮れた。ハイ・カルチャーが支配する宮中の中で、サブ・カルチャーを愛好していた変わり者だった。社会の主流派から軽んじられた俗な流行歌に狂い、最高の地位にありながら、名も無き歌人(うたびと)から歌を習った。後白河法皇の周りには、一種のサブカル・サークルができあがったが、彼ほどの熱意で庶民の歌を歌う人間は他になく、孤独もあったようである。

その後白河法皇が、何十年来聞き、習い、歌った歌を、せめて後の世に残しておこうと編纂したのがこの『梁塵秘抄』なのである。後白河法皇がいなかったら、決して残らなかったであろう、社会のはみ出しものたちの謡。陳腐な昭和歌謡の枠にはめてしまうのは、惜しいと思うのである。

2016年9月8日木曜日

『宗教を生みだす本能―進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド著、依田 卓巳 訳

宗教を進化の産物と見る視点から、宗教の来し方行く末について考える本。

著者は進化学の研究者でもないし、宗教学の専門家でもない。本書はジャーナリストである著者が、これまでの研究成果をまとめ、それに対する自らの考えを述べた本である(つまり著者自身の研究ではない)。

私は、宗教の進化心理学的考察については、本書でも参照されている主要な一般向け書籍を割合読んできた。例えば、パスカル・ボイヤー『神はなぜいるのか?』、ダニエル・C・デネット『解明された宗教』、スティーブン・ドーキンス『神は妄想である』、Marc Hauser "Moral Minds"、スティーブン・ピンカーの諸著作といったものだ。こうした書籍に既に目を通していれば、本書のようなジャーナリストがまとめた本を手に取る必要はないかもしれない。だが、素人には素人の慧眼というものもあるので、自らの理解を確認する意味も兼ねて本書を読んでみた。

本書は、概ね4つの内容から構成される。

第1に、宗教は進化の産物であることを論じる(第1〜3章)。すなわち、宗教行動は人間が恣意的に作った文化ではなく、生得的にプログラムされている行動であるということだ。宗教を持った集団はより生き残りやすかったため、宗教を持つ遺伝子はどんどん広まっていった。宗教には集団を結束させる力があり、宗教を持たない集団との戦闘においては、信心深い集団の方が有利だったのである。なぜなら宗教には、自己の利益を顧みないで組織的な行動を優越させる力があるからだ。

この部分は、既存研究のまとめがほとんどであるが、少し要約が過ぎて議論に丁寧さを欠くのが気になる。歯切れよく言おうとするあまり、未だ研究が煮詰まっていないことについても素人の独断を発揮している部分がある。例えば、宗教が進化の産物だとするのは今や通説だとしても、宗教を構成する行動全てが適応的(子孫を多く残せる)かどうかはまだ明らかではない。パスカル・ボイヤーは人間が神を認知するのは、人間の生得的な認知機構の誤作動や副作用であると考えるが、そうした考えを一蹴して、宗教行動の全てが進化的に獲得された、生き残りに有利なものだったと決めつけるのは粗い議論である。

この部分だけでなく全体として、素人の蛮勇というか、先行研究を大雑把にまとめて臆断するような粗い論調が目立つ。宗教の進化・変容というものは、まだ分かっていないことがとても多いので慎重に扱うべきものと私は思う。この部分だけで本1冊分くらい使いたいところである。

第2に、宗教に先立つものとして、音楽やトランスを伴う儀礼が進化したのではないかと論じる(第4、5章)。ここは少し面白いところで、私自身は音楽の発生を宗教と関連させて考えたことがなかった。確かに、音楽は宗教と密接な関係を持ち、その進化の黎明において宗教と共に発達したことはありそうなことである。トランスについては、ヒト以外の霊長類には集団で動きを同期させる(同じリズムに乗る)能力はないとして、なぜヒトでは集団でのリズム運動が発達したか、という考察から原始宗教におけるトランスの重要な役割を推測している。これらは概ね納得できる議論ではあるが、ここに提出された事例が少なすぎるので、悪く言えば床屋談義の域を出ていないようにも思われる。音楽については、リズムだけでなくメロディーや和声のことも考えると宗教との関連で全てを理解することはできないのは当然なので、もう少し広い視野で起源を研究すべきだろうと思った。先行研究を確認したいところである。

第3に、狩猟採集社会から定住社会へ、そして都市文明への社会進歩に応じて、どのように宗教が変容していったかを論じる(第6、7章)。ここは一種のケーススタディ(事例紹介)であり、 あまり理論的なことは述べられていない。しかも提出された事例も少ないので、著者の考える宗教の変容を語るために、恣意的に事例が選ばれているように感じる。特に、定住社会以降の宗教の変容については、ユダヤ、キリスト、イスラムという3大一神教を取り上げているが、このかなり特殊な宗教を事例の代表として持ってきたのはよくなかったと思う。

第7章は、ユダヤ教史、キリスト教史、イスラム教史の要約となっているが、その取り上げ方もあまり誠実なものではない。例えばキリスト教史については、随所にポール・ジョンソンの『キリスト教の2000年』が参照されているが、これはローマ史を繙くのに塩野七生の『ローマ人の物語』を参照するようなもので、学術的な態度としては疑問である。イスラム教史に至っては、ムハンマドは実在していなかった、という仮説をかなり重んじて述べており、無闇にセンセーショナルなことを言おうとしているだけではないかと感じた。

また、宗教が進化的な産物とするならば、最初の人類が既にそれを持っていたはずなので、全ての宗教はその祖宗教からの系統を描けるのだ、という仮説を述べている(つまり全ての宗教は遡るとある一つの宗教へとたどり着くという)が、これはちょっと先走り過ぎの議論である。遙かに研究が先行している言語ですら、全ての言語の祖語があったのかどうかということは未だ明らかでない。こういう議論は軽率であると思う。

第4に、宗教の発展を辿りつつ、社会機構にまつわる様々なことを論じる(第8〜12章)。道徳、取引(経済)、出生率の調整、天然資源の管理、戦闘、国家(アメリカの宗教事情)、そして宗教の未来について。この部分の議論はあまり深みのあるものではなく、それぞれ簡単に宗教との関わりが述べられているに過ぎない。我々は既に脱宗教化した世俗国家に生きているので、こうした社会機構の様々な面に宗教が深く関わっていたことを忘れがちであるが、現在でも宗教は大きな影響力を持っているんですよ、という主張である。ここについては、著者は随分気焔を上げて書いているが、別段新味のある内容でもないと思う。

全体として、専門家ではないから議論が浅くなりやすいのは仕方ないとしても、その浅い議論から断定的に述べる粗忽さが目に付いた。エピソードをいくつか紹介して、そこからすぐに結論に飛びつくようなところがあり、論理的に堅牢でない書物である。ジャーナリストはジャーナリストらしく、自らの見解はあまり述べないで、現在の研究の最前線を素直にまとめるだけでももっと充実した本が書けたのではないかと思う。そもそも、著者はジャーナリストでありながら、本書を書くために誰一人として取材していないようである。要するに、これは刊行資料を読んだだけでわかったつもりになり、自分の考えを付け足した本で、そのために著者の独善が修正されずそのまま書かれている。

また、文化の進化ということを考える際に重要なはずの「ミーム」の概念が全く提出されていないことは重大な問題だと思う。宗教がある程度適応的だったにしても、それが広まるには宗教を生みだす遺伝子が存在している必要はない。宗教がミーム(つまりそれを伝えていく文化的遺伝情報)によって伝わっていけば十分なのだ。ダニエル・C・デネットなどは、宗教は我々に寄生するミームを持つ、譬えればウイルスみたいな存在である、というようなことを述べていて、このアイデアは本書においても紹介する必要があったと思う。

いろいろ問題点を述べてきたが、一つだけ擁護するとすれば本書の内容はそれほど的外れではない。議論は粗忽で、同じことの繰り返しが多く、筆の運びは論理的繋がりが曖昧だが、書かれていることそのものは妥当なことが多い。進化生物学や宗教学者たちにもしっかり取材して書けば、かなり面白い本になったような気がする。

宗教の進化を探るという面白いテーマとそれなりの内容を持ちながら、書き方がマズい惜しい本。

2016年9月2日金曜日

『ガラスの道』由水 常雄 著

ガラス工芸がどこで生まれ、どのように伝播し、どう発展したかを世界史的に述べる本。

本書は、ガラス工芸家でありガラスの研究者である由水 常雄が、十数年の研究の結果をまとめ、世界で初めての試みとして「ガラスの世界史」を概説したものである。ガラス探求のためプラハのカレル大学(大学院)に留学したり、中近東にフィールドワークをしている著者らしく、概説とはいえ調査は綿密を極め、通説のつぎはぎではなく、通説を批判的に検証しつつ糾合し、堅牢な歴史を紡いでいる。

ガラスという人類史上初めての人工素材が誕生したのは、メソポタミアにおいてだったらしい。紀元前2200年くらいのことで、遅れて紀元前15世紀あたりにエジプトでもガラス技術が花開いた。その後、ガラスは「文化伝播の露払い」として、文明交渉の歩みとともにユーラシア大陸に広がっていった。

特にその技術が大きく発展したのがローマ帝国において。それまでは「コア・ガラス」といって、ガラス器の製作は粘土などで作った土台に融かしたガラスを巻き付ける方法によって行われていたが、ローマ帝国の地中海沿岸において現代のガラス器製法と同じ「吹きガラス」技法が開発される。これが1世紀のことで、これによりガラス器の大量生産が可能になり、また技法も格段に進歩して、それまでの百年で作られる量のガラス器がわずか1年で作られた、というほどガラス文化が花開いた。これがユーラシア大陸を席巻したローマン・グラスである。2、3世紀には、「あらゆる種類のガラス器が作られ、超豪華なガラス器から、ごく普通の日常ガラス器、飲食器や容器のほかに、窓ガラス、モザイク、鏡、装飾品などが作られていた」。

ローマ帝国が滅亡しても、ガラス文化の中心は中近東でありつづけた。ローマン・グラスを受け継いで、完成されたデザインと大量生産という、現代的なガラス製造によってユーラシア大陸中にガラス器を輸出したのが、ササーン朝ペルシアである。これまでササーン・グラスはそのデザインの少なさなどから実態が不明であったが、ササーン・グラスの製造体制を近代的工場生産システムと推測したのは著者の創見である。

ササーン・グラスといえば、我が国の正倉院宝物にあるガラス器の一群が思い起こされるが、著者は水も漏らさぬ厳密な考証によって、これらが検証によらず古代から伝来したササーン・グラスとされてきただけで、実際には来歴が詳らかでない品がかなり混入していることを明らかにする。この正倉院宝物の調査は、追って『正倉院ガラスは何を語るか - 白瑠璃碗に古代世界が見える』と『正倉院の謎』でもさらに展開されている。

ササーン・グラスの後に発展したのがビザンチン・グラスである。ローマン・グラスの伝統を受け継ぎつつも、イスラーム文化にも影響されて育ったビザンチン・グラスは、従来その名のみ高い一方で実態は不明であった。それが近年考古資料の出土などによってだんだんと明らかになってきているとのことである。しかし、本書ではイスラーム世界でのガラス工芸については簡単に触れられているのみで、詳細は今後の研究が俟たれる。

そして近世に入ると、有名なベネチアン・グラスが勃興してくる。 シリアやビザンチン帝国からガラスの技術を学んだベネチアは、国家財政を支える重要な輸出品としてガラス器の製造を始め、東方のガラス産地が戦乱によって潰滅することで世界の一大ガラス供給地となり巨利を得る。しかしその裏には、その技術を流出させぬようガラス工人をムラノ島という島に一人残らず幽閉し、貴族のように厚遇しながらも奴隷のように働かせるという非人道的政策があった。14世紀から15世紀、こうして国家の力によりガラス技術は研ぎ澄まされていった。

一方で、ベネチアとは真逆のやり方でヨーロッパにガラス技術を伝播していったのが同じイタリアのアルターレという小都市。アルターレにはガラスの同業者組合があり、ヨーロッパ各地にこの組合員を派遣して技術を広めていったのである。ベネチアと比べれば知名度はないが、ヨーロッパのガラス工芸の発展に寄与した面からいえば、この「アルタリスト」の活躍はベネチアよりも遙かに重要だ。

しかし技術的には、国家政策によってガラス製造を推し進めたベネチアはアルターレの敵ではなかった。各国はベネチアのガラス器を競って買い求め、大きな鏡やシャンデリアなどの高価なガラス器の購入はその財政を傾けるほどであった。そのため各国は、ベネチアにスパイを送り込んでムラノ島に幽閉されているガラス工人たちの引き抜きを試み、逆にベネチアの隠密はそれを防禦するという激烈な産業スパイ戦が繰り広げられた。

このスパイ戦は意外な展開によって終わりをみせた。16世紀になって、ベネチアのガラス製造法が本になって出版されだしたのである。そして1612年、フィレンツェにおいてアントニオ・ネリがガラス工芸の集大成とも言うべき『ガラス製造法』を出版すると、ヨーロッパにはベネチアの進んだガラス技術が一気に伝播していった。ネリの『ガラス製造法』は、我が国でも翻訳・出版されており、世界各国にガラス技術を伝えていったガラス史上もっとも基本的な著作となった。

これ以降のガラスの歴史は、本書ではごく簡単に描かれるに過ぎない。ボヘミアン・グラスとかアール・ヌーボーのガラスについては専門の著作も多く、概説としては深入りするには及ばないとの判断であろう。

ところで、ユーラシア大陸の東へと伝わっていったガラスについては不思議な運命が待っていた。中国には早くも周代にはガラスが伝わっていたらしい。そして戦国時代にはトンボ玉が流行し、しかもその製造も始まっていた。だが古代において中国では粘土の低いガラスが製造されていて、ガラスといえば鋳作(型に鋳れて作る)するものとの観念ができあがってしまった。これにより、吹きガラスの技法が開発された後も、この観念に阻害されて吹きガラスをうまくこなせなかったほどの悪影響を与えたとのことだ。

さらに、古代中国では、象嵌ガラスなど装飾にはよくガラスは使われたが、不思議なことにガラス器はほとんど作られなかった。一方で、窓ガラスは唐の武帝が使ったという記録があり、これは事実とすれば地中海沿岸の諸都市に先んじており世界初のことだった。その形状は不明であるが、漢〜晋代には確実に窓ガラスが使われており、このような古代に窓ガラスを使うことが理想の建物の条件ともなっていたことは驚異的なことである。

このように、地中海世界とは違う形でガラス文化を発展させた中国文明であったが、その後はガラス器はほとんど発展しなかった。ユーラシア大陸中に広まったローマン・グラスも、さほど中国人の関心を引かなかったらしい。同じガラスの技術である釉薬を使う陶磁器は絢爛豪華に発展したのに、なぜガラス器は閑却されたのかよく分からない。中国人がガラスに再び熱を入れるのはずっと後代の清代になってからで、玉器を模したレリーフ(カメオ)・グラスである乾隆グラスの開発を待たねばならない。技術的にも困難であり、ガラス界にかつてなかったデザインで登場した乾隆グラスは世界的に影響を与え、乾隆グラスの工房自体は消失して廃絶してしまったが、アール・ヌーボーのカメオ・グラスの登場に繋がっていく。

中国とは違った形でガラス文化を受容したのが朝鮮半島の新羅で、著者は出土資料を丹念に紐解き、大量のローマン・グラスが中国を経由せずに新羅に輸入されていたことを突き止める。新羅は中国文化よりも遠方のローマ文化を積極的に導入し、国力の源泉としていたことがガラス器から見えてくるという。この考えは後に出版された『ローマ文化王国—新羅』でさらに詳細かつ大胆に展開されている。

本書は、一部専門的な記載もあるが概ね読みやすく、かつ情報は正確で考証が綿密であり、ガラスの歴史書として第一級の価値を持っている。著者は、本書が処女作というからビックリである。本書によって示された着想は著者のその後の著作によってさらに花開かされており、そういう意味では処女作にふさわしい、由水 常雄という人物を知る上でもキーになる本であろう。

あえて難点を言えば、ガラス工芸の歴史であるため、工芸ではないガラス器(例えば実験器具や医療器具など)についてはほとんど記載がないことと、イスラーム・グラスについてはかなり簡潔な記載しかないことである。私は、ガラスの実験器具こそが中世において化学が発展した主な要因ではないかと思っており、イスラーム・グラスやそれを受け継いだベネチアン・グラスから錬金術が展開されたことは象徴的である。未だ詳細が明らかになっていないイスラーム・グラスの実態が解明されるにつれ、こうした研究が進むことを期待したい。

文明の精華であるガラス器を通じて、文明の伝播・交渉を考えさせる素晴らしい本。

2016年8月18日木曜日

『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書』石光 真人 編著

幼い時に会津戦争によって人生を狂わされ、塗炭の苦しみの中で生き抜き、やがて軍人として大成した柴五郎の前半生の自伝。

会津は、明治維新において一方的に朝敵とされ、会津からみれば言いがかりのような理由によって薩長連合軍に蹂躙された。城下は火の海と化して藩士たちは戦いに倒れ、婦女は生きて辱めを受けぬため、また兵糧を徒に費やさぬためとして次々に自刃、そして幸か不幸か生き残った者たちにも過酷な運命が待ち構えていた。

敗北した会津藩はかろうじて恩赦され下北半島に移封となり、新たに斗南藩となって藩士は集団移住するが、そこは冬は氷に閉ざされる荒れ地であった。会津藩は30万石弱あったが、斗南藩はたったの3万石、しかもそれは帳簿上だけのことで、実態は僅か7000石ほどしか生産高がなく、移封というよりも、ほとんど追放・流罪に等しい境遇だったのである。本書の主人公柴五郎は、武士の子として育てられながら、この時代の濁流に呑み込まれて零落し、下北半島の地で乞食同然の暮らしを強いられる。それでもどうにかして再起を果たそうと足掻いたのは、ひとえに薩長、特に薩摩への恨みをなんとかして雪がなければならないという、強烈な復讐心だった。五郎の祖母、母、姉妹は、会津戦争において自刃し兄弟は離散、この過酷な運命への反抗こそが五郎の前半生だ。

本書は、薩長への強い復讐心を抱きつつ、明治の混乱を生き抜いたこの青年の目を通して、敗者からの維新史を綴るものである。時代としては、明治維新から西南戦争までのほぼ10年を中心としており、西南戦争に兄たちが参戦することで薩摩へと一矢報いたところで擱筆されている。

しかし、その内容は単に薩長への恨み辛みだけではない。むしろ、書こうと思えば恨み辛みはもっとたくさん書けたはずなのに、幼い自分が経験したことを素直に記録しておこうという真面目な記述が多い。自らの人生に託して薩長の悪逆を糾弾するという部分はなく、あくまで経験に即した事実だけが述べられている。

私は鹿児島に育ったが、会津戦争のことは学校教育でほとんど教えられていないと記憶している。逆に会津の方では、会津の人の運命を狂わせ、多くの人の命を奪った会津戦争をかなりしっかり伝えている印象があり、会津の人の持つ薩摩人への敵意にはビックリすることがある。本書を読むまで、その敵意にピンと来ていなかったが、ようやく私はその敵意の理由に合点がいった。

我々が知っている明治維新史は、勝者の作った歴史でしかなかったのであり、敗者の側からの歴史は、また違ったものだったのだ。しかし、本書は勝者がなしてきた歴史の修飾を糾弾するものでもない。本当に淡々と、自らの経験を述べるものであって、だからこそ一層、踏みにじられたたくさんの会津人を思い起こさせる。記録に残らなかった、過酷な人生の数々が、本書の裏に見え隠れする。

本書は、柴五郎が80歳を超えてようやく書けるようになった苦難の前半生であり、そうした機会を持たなかった多くの会津人の不運の一片(ひとひら)でも記録し、失われた魂の菩提を弔うためにものされたものであろう。

鹿児島県人には必読と思える、会津人の鎮魂の書。

2016年8月14日日曜日

『バガヴァッド・ギーターの世界―ヒンドゥー教の救済』上村 勝彦 著

ヒンドゥー教最高の聖典「バガヴァッド・ギーター」の解説書。

インドに古い大叙事詩「マハーバーラタ」というのがあって、これは複雑で複合的なシナリオと厖大な登場人物によって非常にややこしいものなのだが、その一節に「バガヴァッド・ギーター(神の歌)」がある。これは、主人公のアルジュナという戦士が、親族同士で殺し合うことに悩み戦意喪失した時、御者に扮していた最高神クリシュナがアルジュナに対して語った一幕で、その内容を一言で述べれば「なすべきことをなせ」と諭すものである。

これは要するに、ウジウジ考えずに戦いなさい、というものなのだが、その内容は古代ヒンドゥー教の要諦を凝縮したものになっており、マハトマ・ガンジーを始め多くの人が「ギーター」を座右の書としてきた。今でも、インドでは「ギーター」が国民的聖典とされているそうだ。それあたかも、我が国の般若心経のようなものであろう。

具体的に何が書いてあるかというと、本書「おわりに」にまとめられているように、
この世にうまれたからには、自分に定められた仕事をひたすら遂行せよ。行為には罪悪がつきまとうが、行為をしても悪い結果を残さないためには、執着を捨て、行為の結果を顧慮しないことが肝要である。そして、そのように執着なく、結果にとらわれずに行為するには、すべての行為を最高神(絶対者)に対する捧げものとして行うべきである。
ということだ。そして、このような生き方をすれば、やがて最高の存在(ブラフマン)は真実の自己(アートマン)と同一であることが自覚され、行為を超越する存在へとなっていくという。

この考え方を好意的に解釈すれば、無私の境地でやるべきことをやるという求道者的なものであることは間違いない。しかし、私などは心が汚れているためか、どうもブラック企業の経営者が言いそうなことだ、と思ってしまう。「執着を捨て」とか「結果にとらわれず」というのが「給料が安くて労働環境が悪くても」に変換しうるように思う。いや、もっと言うと、クリシュナのいうことを聞いていると、全体主義的、軍隊的、思考停止的なところが多いと感じる。

行為の善悪や結果を考えてはダメで、やるべきことをやりなさい、というのは自分の頭で考えるのを辞めなさいと言っているように聞こえるし、しかも行為の全てを最高神への捧げものとして行うというのはどう考えてもおかしい。例えば、お風呂に入るとか、水を飲むといったことすら最高神への捧げものということになるんだろうか。やっぱり、清潔にするため、喉が渇いたから、という考えの方がずっと素直だと思う。そういったことすら、最高神のために行わなくてはならないというのがちょっと理解できない。

そもそも「目の前の敵を倒しなさい」という内容なのだから軍隊的なのはしょうがないとしても、全体の目的のための駒になりなさい、歯車になりなさい、と諭しているようで非常に気持ち悪い。そして、歯車になりきることに疑問を覚えてはだめで、結果を顧みずにやるべきことをやるのですよ、と思考停止を求める。一段高い境地から考えると、それは尊い生き方にもなりうるが、言葉通り受け取るととても危険な思想のようでもある。

しかし、「ギーター」はこうした内容だけでなく、ヒンドゥー教の哲学的な部分をも含んでおり、大乗仏教の「如来蔵思想」や「本覚思想」、「念仏」の元になった考えが開陳されているなど、ただ「あなたの義務を盲目的に遂行しなさい」というだけのものではない。自己や知性、瞑想や苦行に対しての考え方などは、現代からみても高尚なものであり、共感を抱いた。

とはいってもやはり疑問なのは、個人と全体(組織)の問題である。戦いたくない、というアルジュナに対して、全体(組織)を優先させて戦いを鼓舞するクリシュナを、私は認めることはできない。あるがままの個人でいられること、それがアートマン(真実の自己)なのではないのだろうか? どうも組織の論理を優先させて、個人を埋没させる思想のように思えてしまう。

「ギーター」の紹介(訳文)は平易で解説もわかりやすいが、個人的にはその思想が合わなかった本。

『人間の家』ル・コルビュジエ、F・ド・ピエールフウ共著、西澤 信彌 訳

ル・コルビュジエとド・ピエールフウによる、住みよい家をつくるための都市計画提案の書。

本書が書かれたのは、第二次大戦中。ル・コルビュジエ自身が疎開していたさなかのことである。破壊されつつあったパリの街をどう再建するか、という切実な問題意識の下、単に壊れた建物を作り直すというのではなく、これを機にパリをもっと人間的な街に変えていこうという意欲的な都市計画案を二人は考察していった。

例えば、パリの住居はあまりに狭すぎて、近接しすぎ、道路交通が非効率で、また緑が足りないという課題。狭すぎる住居で暮らすことは、衛生上も、精神面でもよくなく、ル・コルビュジエは「人びとの住宅事情は悪い、現在の大混乱のふかい原因、真の原因だ」と述べる。

本書で開陳されるその解決策は、高層の集合住宅だ。住宅を集団化・高層化して床面積と緑地面積を広くし、日当たりもよくする。また自動車道路と歩行者用道路を分けて、自動車道は街の中心部を通らないようにする、といったものである。

この提言は、ル・コルビュジエの代表作『輝く都市』へと受け継がれ、パリでは異端視されて相手にされなかったものの、ブラジリアなど新興の都市における都市計画に影響を与えたという。

本書は、共著の形を取っているが、不思議な構成になっている。右ページに本文が、左ページが挿絵や短文が書いてあって、右の本文をド・ピエールフウ、左をル・コルビュジエが書いているのである。右ページと左ページは、つかず離れずというか、決して挿絵は本文の解説ではないし、かといって本文が挿絵を説明するのでもない。が、無関係というわけでももちろんない。敢えて言えば、二人が同じようなもの(「同じもの」ではない)を違う角度と方向から述べている、という感じだろうか。

そして、ド・ピエールフウの筆は理念的・説明的であり、ル・コルビュジエのそれは具体的・啓示的である。読者は、右ページだけ読んでいっても、左ページだけ読んでいっても本書を理解できるのではないかと思われるが、両方を併せて読むとさながら二重奏のように違った読書体験が絡まり合うという仕組みになっている。

本書で提言されている都市計画は、現代においては少し無味乾燥なものに思われるかもしれない。彼らの提言を真に受けて都市を建築すると、世界中のどこでも似たような高層住宅や商業施設が建築されそうである。日本で言えば、六本木ヒルズのような場所ばかりになってしまう危惧がある。

彼らが盛んに攻撃する”パリの狭苦しい街並み”というのも、我々日本人からすると統一感がありこぢんまりして品のいいものであるし、確かに住宅の狭さなど改善すべき点もあろうが、その解決策が高層マンションであるとすれば、随分味気ないもののように思われる。

しかしながら、彼らの都市計画案は、十分に広い住居と、たくさんの木々と眺めの良い場所、そこを自由に逍遙できるような歩行者用通路が都市になければ健康な生活は送れない! という現代的な視点に立脚しており、決して時代遅れの高層礼賛ではない。むしろ、彼らの問題意識は現代日本の都市計画でももっと考慮されてしかるべきもので、実際に高層マンションをつくるのがいいのかどうかはともかくとして、改めて「人間の家」がどうあるべきか考えるために再読される価値があると思う。

2016年8月6日土曜日

『昔の鹿児島—かごしま新聞こぼれ話—』唐鎌 祐祥 著

明治・大正・昭和初期の鹿児島の新聞記事を眺めて、昔の鹿児島を知る本。

内容は、風俗、行事、興行、天文館の街の様子が中心。新聞記事といっても、政治・経済についてはあまり触れられず、今で言えば「地方欄」に当たる部分からの話題が多い。

本書によって、今では廃れた風習や行事を知ることができた。例えば「加世田参り」。旧暦6月22〜23日にかけて、鹿児島から加世田へと「兵児」たちが駆け抜け、往復20里(80キロ)を競争する行事があったらしい。今で言えばトレイルランみたいなものだろうか。随分過酷な年中行事があったものである。

このほか、鹿児島で最初に自動車が導入された時の話、街道沿いあった松並木が売却された話など、たくさんの些細な話が収録されている。一つひとつの記事は、文庫本1ページ分くらいのもの。著者はそれに対して考察を加えるというでもなし、淡々と記事紹介を行っている。ここに挙げられた記事の数々は、それ自体どうということはないが、当時の社会の雰囲気を如実に伝えるものだと思う。

なお、当時の社会を知るために最も有効なのは、新聞広告を眺めることだと思うが、本書には広告そのものの記事はあまり多くない。もう少し広告そのもの(当時はこんなものの広告がありました、というような)も取り上げたら面白かったと思う。

著者は、高校教諭を経て図書館行政等に携わり、鹿児島県の教育委員長も務めた人。特別なテーマなく興味の赴くままに記事を収録しているので、本書で何が分かるというものでもないが、昔の鹿児島を垣間見る新聞記事が淡々とまとめられた実直な本。

2016年6月25日土曜日

『現代焼酎考』稲垣 真美 著

焼酎蔵を巡りながら、焼酎の復権について考える本。

著者は、もともと焼酎を好んで飲む方ではなかったが、趣味の酒蔵巡りが高じて清酒の品評会の審査員などを務めるうち、焼酎の美味しさに気づいて全国各地の焼酎蔵を訪ね歩くようになった。本書は、その飲み歩きの中で考えたことをエッセイ風に述べる本である。

主な訪問地は沖縄(泡盛)、熊本の球磨地方(球磨焼酎)、種子島(芋焼酎)、南西諸島(黒糖焼酎)、八丈島(芋焼酎)。

酒造所を訪ね歩いているだけあって、製造法に関する具体的な記載がかなり多い。特に麹と蒸留に関して比較的詳しく述べているのが参考になった。ただし、蒸留については焼酎造りの核心の一つなので、図版などももう少しあった方がよかったと思う。どのような蒸留器を使って蒸留しているのかということはもっと注目されてよいことである。

また、イオン交換樹脂による不純物の除去については初めて知ったが、これの登場で焼酎から雑味が減ったということは焼酎史においてなかなか大きな出来事だと思った。

本書が書かれたのは80年代の第1次焼酎ブームのまっただ中である。

それまで焼酎は、安くてマズい酒という印象が強かった。ブランデーやウイスキーといった世界の他の蒸留酒は高級品に位置づけられているのに、同じ蒸留酒でも焼酎は不当に安酒という烙印を押されてきた。それは、実際に粗悪な焼酎が製造されてきたという事実もあるが、明治時代にできた酒造法に「焼酎とは清酒粕(清酒を醸造したときの搾り粕)を蒸留したもの」と規定され、そもそも余り物として製造されるものと規定されていたことの影響も大きいらしい。そのせいで焼酎の近代史はゆがめられ、我々は焼酎の真の姿を見失っていたのかもしれないと思わされた。

焼酎の来し方行く末を思う本。

2016年6月21日火曜日

『南のくにの焼酎文化』豊田 謙二 著

鹿児島の焼酎のあゆみを明治期から説く本。

著者の豊田謙二は福岡県立大学教授(専門は社会政策および地域づくり。執筆当時)。前職の鹿児島国際大学教授であったときに調査した内容を元に書いたのが本書のようだ。

本書は、南九州の焼酎文化そのものについてはさほど詳しく書いていない。むしろ、その焼酎文化が生まれた歴史的経緯に重きを置いていて、特に明治・大正期の酒税(酒造税)と税務署による酒造所の整理がその成立に大きな影響を及ぼしているという立場である。

酒造税は明治国家の税収の柱であったので、焼酎の税制を巡る国家と地域の対立は今では考えられないくらい鋭いものがあったらしく、著者は「西南の役が明治国家への[鹿児島の]最初の対決とすれば、税務当局との衝突は第二の対決とでも言えようか」と述べている。

私の興味を引いたのは、鹿児島の伝統的杜氏集団である黒瀬杜氏・阿多杜氏の動向をかなり詳しく追っていることで、その黎明から近年に至るまでの雰囲気を摑むことができた。黒瀬杜氏などはよく名前を聞くが、実際どれくらいの数が県内の酒造メーカーに行っていたのか知らなかったので、具体的な人数までわかり大変参考になった(これが、著者が鹿児島国際大学時代にやった調査に基づくものらしい)。

また、本書では奄美の黒糖焼酎についても1章が設けられている。私も知らなかったのだが、原則としてサトウキビで作る蒸留酒は税法上は「ラム」であるが、奄美に限っては、黒糖で作る蒸留酒を奄美振興の一環としてこれを「焼酎」として扱う特例措置がなされているということである。もちろん本土においても黒糖焼酎は造れるのだが、その際には「ラム」としての高い税金を支払わねばならないのである。

この他、近年の焼酎を巡る状況を主に統計面で辿り、宮崎県の焼酎の状況を紹介し、軽い提言みたいなものをして本書は終わっている。

本書は、焼酎のうんちく的なものはほとんど出てこず、一般には閑却されがちな税務当局の動きのような業界的なところを丁寧に追っており、業界史を繙くものとして好感を持った。編集は若干散漫なところがあり、話が飛びがちなのはちょっと気になったが全体としては読みやすい。

あまり顧みられない鹿児島の焼酎業界史を繙く真面目な本。

2016年6月8日水曜日

『幕末の薩摩―悲劇の改革者、調所笑左衛門』原口 虎雄 著

幕末の薩摩藩の財政改革を成し遂げた調所笑左衛門の実像を探る本。

幕末の薩摩藩は、他藩以上の慢性的な赤字財政に苦しんでいた。 参勤交代の過重な負担や幕府から命ぜられる大規模土木工事、そして農村の疲弊によって日本一の貧乏藩になりはて、その借金は500万両にも及んでいた。当時の経常収入がおよそ15万両と考えられており、年間利息の60万両すらも全く支払えない有様だった。

この崩壊した藩財政を立て直すため、島津重豪(しげひで)は調所笑左衛門広郷(ずしょ・しょうざえもん・ひろさと)を抜擢する。調所は元は身分の低い武士で茶坊主(接待係)から重豪の秘書的な役目(御小納戸頭取)に取り立てられて栄進し、町奉行になっていた人物。御小納戸頭取は主君の意を汲んで各所に取次をするという仕事で、ここで調所は重豪に大変重用された。どうも、調所は人の感情の機微をよく理解し、様々なことに気が利いてことをうまく進める能力に長けていたらしく、英邁ではあったが苛烈で傲岸不遜な重豪に足りない部分を持っていたようだ。

調所は財政は全くの素人だったから最初は固辞したが、重豪からほぼ全権委任的な言質をとって家老となり財政改革に取り組んだ。重豪としては、自分の意を完璧に理解して、いわば「自分の分身」として物事を進められる人材として調所を抜擢したようである。

調所は自分が素人であるという自覚があったから、有能な人材を家格や身分の上下によらず積極的に登用して重役につけた。そして自分自身でも寸暇を惜しんで勉強と視察に励み、財政立て直しに邁進した。

薩摩藩は表向きは様々なことが統制されていたけれども、実際には「穴だらけの統制」であった。調所はこれを様々な面で厳しく取り締まり、 薩摩藩を本当の統制経済に変えていった。例えば出来高に応じて納税(年貢)の量が変動する制度があったが、これが悪用されているとして廃止し、一定の年貢へと変更している。しかしただ苛斂誅求を推し進めるだけでなく、調所は流通経路の徹底した合理化とともに旧習の打破にも努めた。

そして奄美の黒糖生産は全てを統制して自由貿易を禁止。藩の専売とするだけでなく島民には黒糖生産以外のほとんどの農業を禁止し、貨幣までも廃止してしまった。奄美の人にはひたすら黒糖のみを生産させ藩はそれを安く買いたたき、藩外に高くで売るという今日から見れば非人道的な貿易を行って暴利を得た。

しかし調所の改革のハイライトはなんといっても500万両の借金踏み倒しである。古い証文を認め替えるという名目で借金の証文を集めて焼き捨て(!)、上下貴賤の別を問わず全ての借金を勝手に「250カ年の無利子償還」へと書き換えてしまった。250年と言えば関係者は誰も生きていないどころか、子や孫でも生きていないわけだから、これは事実上の借金棒引きであった(ただし、旧藩債消滅の命令が発布される前年の明治4年までの間、250年割として律儀に少しずつ返済はした)。

どうしてこんな暴挙が可能であったのかはよくわからない。普通、このような勝手な借金棒引きが行われたら貸し主らから暴動がおきそうなものだが、さほどのことは起きなかった。根回しの周到な調所のことだから、要所で緻密な調整を行っていたのかもしれない。

調所の改革は重豪の死後も藩主斉興(なりおき)の下で進められた。斉興も調所をよく信頼し、持ち前の頑固で一徹な決断力によって調所の改革を断行させた。これにより日本一の貧乏藩だった薩摩藩の財政が徐々に好転し、普段の生活もままならない貧乏藩から対外的に売って出る雄藩へと変貌していく。明治維新において薩摩藩の活躍が甚だしかったのは、調所の改革の成果という側面が大きいのである。

ところがいざ財政が黒字化してくると、苛烈な緊縮策と統制の厳格化への反動が起こらざるを得ない。調所は徹底的な能力第一主義で人材を登用したから、その人材は清廉潔白の徒とはいえず、汚職もかなりあったようだ。調所は仕事さえできれば素行には目をつぶった。調所自身は仕事一徹で公明正大だったらしいがこうした部下の評判は甚だ悪く、次第にアンチ調所派が形成されてくる。

その首魁が島津斉彬(なりあきら)であった。斉彬は嫡子でありながら40歳になっても家督を譲られず、その原因の一つが調所らの妨害工作にあると斉彬派は考えた。斉彬が藩主になれば、曾祖父の重豪ゆずりの蘭学趣味や蕩尽癖によってせっかく立て直した財政がまた傾くおそれがあるということで、斉興と調所には斉彬の登場をできるだけ遅くしたいとの思惑があったのは事実のようだ。

そこで斉彬は奇手に出る。調所は幕府からは禁じられていた琉球との貿易を民間の業者に秘密裏に行わせて莫大な利益を生みだしていたが、斉彬はあろうことかこれを幕府の家老阿部正弘に密告したのである。薩摩藩自体を危殆にさらす可能性もある密告であった。これをうけて調所は幕府から取り調べにあう。まさか斉彬が密告したとは知らない調所は、薩摩藩が禁を犯したということで処分されることを案じ、罪を自分一人で負って真相をうやむやにするため、ついに服毒自殺したのである。しかし実際には、斉彬と阿部との間には「薩摩藩は処分しない」という密約が裏では交わされていた。全ては調所を失脚させるためのシナリオだったのである。

明治維新を進める大きな力となった斉彬の敵対勢力であったということで、調所笑左衛門は正当に評価されていない、と著者は嘆く。そのためこの一書をものしたということだ。出版は1966年(昭和41年)。その甲斐あってか、近年ではかなり調所の仕事は見直され、薩摩藩が雄藩として飛躍する基礎をつくった人物として評価が定まっているように見受けられる。

本書を読むと、反感の嵐の中で改革を断行した調所の人格と振る舞いにも興味が湧く。藩主(斉興)と時期藩主(斉彬)の対立にも巻き込まれ、素行のよくない部下にも振り回されつつ、非常に温厚に穏便に、そして驚くほど精力的に仕事を進めたという。

財政再建の大業を成し遂げながら非業の死を遂げた調所広郷を知る好著。

【関連書籍】
『島津重豪』芳 即正 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/03/blog-post_21.html
薩摩藩が雄飛する基礎をつくった型破りの藩主、島津重豪(しげひで)の初の本格的評伝。500万両の借金が正当な条件によるものではなく高利による不当なものであったことを論証している。


2016年5月19日木曜日

『植物の体の中では何が起こっているのか』嶋田 幸久・萱原 正嗣 著

植物の体のしくみについてわかりやすく説明する本。

本書は、植物学者の嶋田幸久の話に基づいてサイエンス・ライターの菅原正嗣がまとめたものであり、教科書的な本である。教科書的といってもつまらないという意味ではなく、ところどころ面白いトピックがちりばめられ、飽きずに通読できる。

主な内容は、光合成、植物ホルモン、生活環(植物の一生)であり、特に光合成の話が丁寧に記述されているように感じた。また、著者の嶋田は植物ホルモンを専門にしているため、植物ホルモンの話は研究のトリビア(どのように発見されたかといった挿話)まで含めて大変興味深く読めた。

本書を読んで若干疑問に感じたのは、「動かない植物が生きていくためのしくみ」という副題がついていながら、それに対応する話題提供が少ないのではないかということだ。例えば、植物の免疫機構については全く触れられていない。これは植物病理学という学問分野の話だが、意図的に避けたのか、ボリュームの関係で削ったのかどちらだろう。

また、害虫を避けるための仕組みについてもほとんど触れられていない。動かない植物は何も対策がなければ食べられ放題になるが、実際にはそのようなひどい被害を受けることは少ない。なぜ虫に全部食べられないのかという説明はして欲しいと思った。

植物病理学について書かれていないのは残念だが、その他の点では堅実に勉強できる無難な本。

2016年5月10日火曜日

『かくれた次元』エドワード・ホール著、日高敏隆・佐藤信行 訳

人間の空間利用について考察する本。

隣に座っている人と話すときと、2メートルくらい離れた人と話すときは口調も使う語彙も異なったものになる。普段あまり意識されることはないが、人と人との距離やどれくらい混み合っているかは、我々の行動を強く規定している。著者は、人間が相手との距離に応じてその行動を変化させることをプロクセミックスという(本書には明確な定義がないが著者が提唱する)概念を用いて考察する。

本書は大まかに4つの内容で構成される。

第1に、動物の世界における個体距離について。動物は増えすぎて適切な個体距離(すなわち縄張り)が保てなくなると、正常な行動ができなくなる。破滅的な行動や病気が多発するこの状態を「シンク」と呼び、これに陥ると個体数が激減する。増えすぎた動物が減るという現象は、餌の不足というような外的な要因で起こるのではなく、仮に餌が十分であったとしても「空間の不足」によって引き起こされるのである。

「シンク」はつがい行動や出産、子育てに顕著である。混みすぎの状態にある動物は、正常につがいを形成することができず、攻撃的な行為を繰り返したり、巣作りをしっかりと行えなかったりする。さらに子どもを産んでも育児が途中で放棄されることもある。ネズミであっても、出産や子育ての一時期には「プライバシー」が必要なのだ。だから増えすぎた状態でも、清潔で小さな箱を用意して積み重ね、「プライバシー」を確保できる空間を作ってあげれば「シンク」は起こらないという。

第2に、人間の生物学的な認知機能(五感)と距離認識について。人間も動物である以上、動物的な個体認識の基盤からは逃れることはできない。ここでは、人間が距離をどのように知覚するかということの機械論的な説明をしている。そうした説明の後、人間における距離の意味について考察を深めていく。例えば、近すぎる距離が「威圧」または逆に「親密さ」を表すということは、文化が違っても共通している。このように、人と人との距離は関係性を表す強力なサインでもある。

著者は人と人との距離を4種類に分けてそれぞれを考察する。(1)密接距離、(2)個体距離、(3)社会距離、(4)公衆距離の4つである。この4つの距離における行動の変化の探求がプロクセミックスの主要な内容である。ただし、これらの距離は確定的なものではなく、文化によってかなりの程度幅がある。手が触れ合うことを嫌う文化もあれば、見知らぬ人とでも肩を寄せ合う文化もあり、距離が持つ社会的意味は文化次第なのである。

第3に、異なる文化における距離の扱いの違いについて。アメリカ、フランス、イギリス、ドイツ、アラブ、日本という異なる文化圏において、人と人との距離や空間の広がりがどのように異なったものとして認識されているかを述べている。この部分は、著者の主張がどの程度妥当なのか私には判断することができない。例えば、アメリカでは通りに名前がつくのに、日本では通りには名前がつかず交差点につく、というような指摘は面白い。確かに日本では道路は「県道○号線」のような味気ない記号で呼ばれるが、交差点には特色ある名前がついている。でもそれが日本人とアメリカ人の空間知覚の違いに起因するものかどうかはよくわからない。

第4に、それまでの話を踏まえ、これからの都市と文明のあり方について遠望している。我々は増えすぎ、都市は混みすぎている。このままでは「シンク」が起こるかもしれない。「シンク」を避けるためには、様々な工夫が必要だ。そこで著者は「未来の都市計画の趣意書」という提言を行っている。

我々は、都市や家々といったものは、文化の表現だと思いがちである。しかし著者によればそれは最大級の過ちだという。「人間とその延長物はいっしょになって、一つの相互に関連しあったシステムをつくり上げている」のである(p.259)。すなわち、都市や家々は我々が作ったものであるが、逆に都市や家々が我々を作ってもいるのである。その2つは分離できない一体のものだ。

「人間の存在と行為は事実上すべて空間の体験と結びついている」(p.249)ことを様々な面から論証する本。

【関連書籍の読書メモ】
『人間の家』ル・コルビュジエ、F・ド・ピエールフウ共著、西澤 信彌 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/08/f.html
ル・コルビュジエとド・ピエールフウによる、住みよい家をつくるための都市計画提案の書。狭すぎる住居で暮らすことは、衛生上も、精神面でもよくなく、人びとの住宅事情が現在の大混乱のふかい原因、真の原因だとしている。


2016年4月14日木曜日

『人はなぜ花を愛でるのか』日高 敏隆・白幡 洋三郎 編

地球研(総合地球環境学研究所)が企画して人間文化研究機構が開催したシンポジウムに基づいた本。

本書では、動物行動学者の日高 敏隆(地球研の所長)が出した「人はなぜ花を愛でるのか」というテーマに基づいて、様々な分野からその答えを考えるヒントとなる事例が提出されている。大まかな内容は以下の通り。

「はじめに」(日高敏隆)では、本書の基調となる問題意識が説明され、それに対する日高氏なりの考えが提出されている。曰く「花は自分の気持ちを伝えてくれるような気がしていたのではないか。」

「第1章 先史美術に花はなぜ描かれなかったのか」(小川  勝)では、洞窟絵画に花の表現が一切存在しないことを指摘している。

「第2章 六万年前の花に託した心」(小山 修三)では、ネアンデルタール人の墓に花が手向けられていたかもしれないという事例について考察している。

「第3章 花を愛でれば人間か」(大西 秀之)では、人類の進化の歴史を簡単に振り返り、そもそも「花を愛でたかどうか」を確認するのは難しい問題だとしている。

「第4章 メソポタミア・エジプトの文明と花」(渡辺 千香子)では、実利的側面が中心のメソポタミアにおける花の扱いと、象徴や宗教的な価値が中心のエジプトにおけるそれを比較している。

「第5章 人が花に出会ったとき」(佐藤 洋一郎)では、花が人の身近な存在となったのは、「里」が誕生した約1万年前くらいのことだったろうと推測している。森林が中心の世界では花は目立たない。人が手を入れる草地が出来てからたくさんの花が存在するようになった。

「第6章 花をまとい、花を贈るということ」(武田 佐知子)では、日本では花を贈る文化がなぜあまり一般的ではないのかという問いから出発し、古代社会において花を頭につける習慣があったことをやや詳しく論じて、日本では花は下賜されるものだったのではないかと推測している。

「第7章 花を詠う、花を描く」(高階 絵里加)では、主に絵画(西洋絵画、東洋絵画)に登場する花についていろいろと紹介している。

「第8章 花を喰らう人びと」(秋道 智彌)では、花食の事例について紹介している。

「第9章 花を観賞する、花を育てる」(白幡 洋三郎)では、日本の変化咲きアサガオを紹介し、花を栽培しまた観賞する文化について考察している。

全体を通じ中尾 佐助『花と木の文化史』がたびたび参照されており、同書の内容をそれぞれの専門分野から補強するような論考が多い。また、「人はなぜ花を愛でるのか」という問いへの考察としては、同書で既に述べられていることを超える知見は残念ながらほとんどない。

ただ心に残ったのは、花は自分の気持ちを伝えるものだという日高氏の指摘と、花は他者との関係を取り持つ道具として使われてきたのではないかという白幡氏の指摘である。つまり、花は人と人との間に情緒を媒介してきた。花がなぜ情緒を媒介するのかということはさておき、これが山や海、岩や巨木といった他の自然物と花との大きな違いだと思う。

本書では、ほとんど「人はなぜ花を愛でるのか」という問いに答えられていないが、花と情緒の結びつきを考えてゆくことが、この問いへのより深い考察に導いてくれるような気がする。

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2016年4月13日水曜日

『花と木の文化史』中尾 佐助 著

人間が観賞用の花と木の栽培をどのように発展させてきたかを概観する本。

本書は「花と木の文化史」という大変広大なテーマを標榜するが、実際に書かれているのはほとんどが品種改良の歴史である。すなわち、人間が花や木とどう付き合ってきたかということの全体像を提示するものではなくて、植物学者の著者らしく、具体的な栽培品種に注目してその来歴を解き明かしつつ、その背景にある花と木の文化について考察するものである。

本書は4部構成となっている。

第1部では、人間はなぜ花を美しいと感じるのかという難しい問いから出発し、文化的な美意識の発展について考察している。

第2部では、世界の花の歴史を概観する。世界には2つの花文化の中心があった。すなわち、中国を中心とする東洋と、エジプトやバビロニアからローマ、西ヨーロッパへと至る西洋である。文明は世界のあちこちで起こったが、本格的な花の栽培・育種がされたのはごく一部しかない。花は観賞以外の実利的な目的がないために、高度に文明が発展すれば必ず栽培されるというものでもないのである。例えば、大変高度な文明を築き上げた古代ギリシアは花の栽培という点ではさほど見るべきものがなかった。

さらに第2部では、いわゆる大航海時代におけるプラント・ハンターの活躍について述べている。花卉園芸文化の発展には異国趣味的なものが意外と大きな役割を果たしており、有用植物の探索と相まって園芸文化の大発展が起こったのが大航海時代である。当時の航海では博物学者も同乗して各地の植物が熱心に検分された。その情熱は、今となってはちょっと想像できないほどである。

第3部では、中国から受け継いだ花卉園芸文化を非常に高度に発展させた日本の花卉栽培の歴史について述べる。日本の花卉園芸は、室町時代以降独自の発展を遂げ、特に江戸時代に至って当時世界最高の水準に達した。桜や椿といった高木性の花木の品種改良は当時の世界で類を見ないことで、他にも専門の園芸業者・植木業者の出現は世界に先駆けており、庶民にまで花の栽培が広まっていた裾野の広さも注目される。日本の誇るべき歴史であろう。

そうした園芸文化の極北として、日本人は現在「古典園芸植物」と呼ばれているものを生みだした。例えば、マツバラン、イワヒバ、オモトといったものである。これらは派手な花が咲くわけでもなく、その奇異な外観を楽しむという非常に地味なものでその観賞には文化的な素養を要し、いわば抽象芸術的なものである。こうした植物は今では細々と栽培されているに過ぎず、世界的にもその価値が認められていないが、日本の花卉園芸文化の到達点を示すものである。

一方で、多種多様な園芸用の品種改良がされながら、日本では育種の原理、すなわち遺伝学の理論が全く存在しなかった。日本(中国でも)の品種改良では、なんと人工交配が全く行われなかったのである。江戸時代にはアサガオの育種が非常なる流行を見たが、実質的にはメンデルの遺伝の法則が使われていながら、それが名人芸的な「秘伝」となり理論化されなかった。他方西洋では、メソポタミアの時代から既に植物の有性生殖の原理が知られており、これが西洋と東洋の花卉園芸文化の相違の一つである。

第4部では、栽培植物ではなく、自然の花と木の景観への観賞ガイドである。自然の中に存在する美しいものを選抜・育種してできあがったのが園芸植物なわけなので、本来は栽培植物による景観の方が自然の景観よりも美しいはずである。しかし著者は植物学者らしく、自然の植生の美に惹かれており、世界各地にある植生の美のスポットを紹介して本書を終えている。

全体を通じてみて、世界史的な花卉園芸文化の到達点は19世紀にあるように感じた。西洋においても、プラントハンターの活躍(その中心は18世紀かもしれないが)や植物学への熱の入れようを考えると、その最高潮は19世紀である。有用植物の探索という実利的な側面があったにせよ、新しい土地での見なれない植物をよく理解したいという文化的営為を強く感じさせられる。日本では、江戸後期から明治にかけて花卉園芸文化は世界最高の水準に達し、多様な品種改良とその観賞態度は簡単に理解できないところまで行き着いた。

翻って現在の花卉園芸文化を考えると、もちろん技術的には長足の進歩を遂げており比較にならないほどだが、異国の土地・植生・気候などへの興味や理解、一見地味な植物にもその美しさを見いだす観賞態度などは、逆に退化しているように感じる。わかりやすい美しさを持った花だけが表面的にだけ持てはやされていないか。つまり花卉園芸文化が悪い意味で大衆化してしまっていないかと思わされた。

現代の遺伝学による新しい品種改良について触れることもできたはずなのに、著者がそれをせずに最後は自然の植生の美について述べたのは象徴的である。人間は不可能と言われた青いバラを作り出すことができた。だが、それを観賞する文化の方が育っていなくては「青いバラすごいねー」という一瞬の話題性だけのことである。花卉園芸文化というのは、ただキレイな品種を求めるコンテスト的なものであっては虚しいのだ。

観賞用の花と木の品種改良の歴史をコンパクトにまとめつつ、それを観賞する人間の態度の方も考えさせられる好著。

【関連書籍】
『人はなぜ花を愛でるのか』日高 敏隆・白幡 洋三郎 編
(読書メモ)https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/04/blog-post_14.html
地球研(総合地球環境学研究所)が企画して人間文化研究機構が開催したシンポジウムに基づいた本。 中尾佐助が『花と木の文化史』で述べたことをより探究する話が多い。

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2016年4月3日日曜日

『自省録』マルクス・アウレーリウス著、神谷美恵子 訳

哲人皇帝による、魂の葛藤の書。

ローマ皇帝マルクス・アウレーリウスは、「善き人間」であることを何よりも目指していた。理知的で激情に流されることなく、公共の利益を最優先に考え、己の内にある欲望を抑制し、寛容で温和な人間にならんとした。そしておそらく、彼はそういう人間になった。事実アウレーリウスはその仁政で万人に敬愛されていたという。

しかし、彼は自然体で「善き人間」であれたわけではない。周りの俗物たちは彼の高邁な精神を理解することができなかった。妻や息子でさえも、彼の話し相手にはなれなかった。ただでさえ孤独な皇帝の地位にあって、彼には心を許せる人が誰一人いなかったらしい。それでなくても、在位中には蛮族の侵入が相次ぎ、彼は度重なる遠征で席の温まる暇もない程であった。本当は哲学者・書斎人になりたかったアウレーリウスが、軍人として生きなればならなかったのも悲劇であった。

さらには、本書には具体的な記載はないが、おそらく政権内での内紛、讒言や裏切り、佞臣、公共よりも自己の利益や享楽を優先する元老、無能な部下、彼はそういったものに悩まされていたように見える。そしてそういった俗物たちを、軽蔑し、憎み、叱責したくなる衝動に襲われることもあっただろう。彼はこう記す。
他人の厚顔無恥に腹の立つとき、ただちに自ら問うて見よ、「世の中に恥知らずの人間が存在しないということがありうるだろうか」と。ありえない。それならばありえぬことを求めるな。その人間は世の中に存在せざるをえない無恥な人びとの一人なのだ」(第9章43)
と。彼は、そうした度し難い人間に対しても、寛容であろうとした。そうした人間も、ローマ帝国を構成する大事な構成員であると思っていたのである。だが、いくらそう思おうとしても、俗物への沸き上がる嫌悪感は抑えることができない時もあったようだ。そういう時には、「人間はお互い同士のために創られた。ゆえに彼らを教えるか、さもなくば耐え忍べ」(第8章59)というような言葉で、自らを慰めていたに違いない。諦めろ、人間とはそんなものだ、と。「よし君が怒って破裂したところで、彼らは少しも遠慮せずに同じことをやり続けるであろう」(第8章4)から。

このように、本書はアウレーリウスが自己を保つために書いた、自分への備忘録である。

彼の理想を実現するのは困難であった。俗塵にまみれた世界で、独り「善き人間」であることは超人的な努力を要した。何よりも、自分独りがいくら「善き人間」であろうとしても、その他大勢の俗物たちのなかで、それに何の意味があるのか。彼自身が、人生は儚い幻のようなもので、善いことも悪いこともすぐに忘れ去られる、というようなことを繰り返し述べている。「人間に関するものは全て煙であり無」(第10章32)なのだ。そして、自分の仕事が実を結ぶということすら信じられなかった。「万物は変化しつつある。しかしなに一つ新しいものの出現する恐れはない」。彼は、自らがいくら仁政を敷いても、人びとに愛されても、そこに何らの社会的意義もないことを自覚していた。世の中の全ては胡蝶の夢に過ぎなかった。

では何のためにアウレーリウスは超人的な努力を続けたのか。それは、徹底的に自己のためであった。自らがなすべきことをなすこと、あるべき人間でいること、それだけが彼の目標だった。究極の自己満足といってもよかった。「そして結局どこにも真の生活は見つからなかったのだ。それは三段論法をあやつることにもなく、富にもなく、名声にもなく、享楽にもなく、どこにもない。ではどこにあるのか。人間の(内なる)自然の求めるところをなすにある」(第8章1)のである。究極の目的は、自己の完成と救済であった。

こうして、彼は自己の裡へどんどん沈溺していった。社会の雑事は、彼にとっていかほどのものでもなかった。いや、どんなに気持ちをかき乱されても、いかほどのものでもないと思いたかった。「すべては主観にすぎないことを思え。その主観は君の力でどうにでもなるのだ」(12章23)自分にそう言い聞かせ、一方で、そのいかほどでもない皇帝としての仕事には真摯に誠実に取り組んだ。

こうして、マルクス・アウレーリウスはあるべき人間として生き、あるべき人間として死んだ。

決して幸福な人生だったとは言えない。彼が皇帝でなかったら、たいした学者になっていただろう。その方が、自己の救済になっていただろうと思う。「哲学するには、君の現在あるがままの生活状態ほど適しているものはほかにないのだ」(第11章7)と書いているように、悩みの多い皇帝としての生活は確かに彼を陶冶した。しかし、こう自分に言い聞かせねばならなかったほど、彼の人生は自らの「内なる自然」とは違う生き方を要求したのも事実である。

生き方は唯一無二だが、彼の哲学には独自性はないという。思想的には、彼の師エピクテートスの受け売りばかりなのだ。でも本書は哲学書ではない。立派なことを言うなら誰にでも出来る。本書は、立派なことを言うためにものされたものではない。日々の俗事に悩まされ、悲しみ、怒り、無力感にさいなまれ、それでも「善き人間」として生きようとした一人の人間が、自己を保つために書かざるを得なかった魂の葛藤の書なのである。

「しかし君が正しく、慎み深く、思慮深く行動するのを妨げうる者はいない」(第8章32)。最高の知性を持ちながら、ままならない人生を送らざるを得なかったアウレーリウス。それでもその境遇を託(かこ)つことなく、職務を全力で果たしたアウレーリウス。そして超人的努力の果てに、「善き人間」として生きたアウレーリウス。

本書を読めば、少しでも「善き人間」として生きようとする全ての人にとって、マルクス・アウレーリウスはよき友人となるであろう。

2016年3月28日月曜日

『トポフィリア―人間と環境』イーフー・トゥアン著、小野 有五・阿部 一 訳

人間が環境をどのように受容するかについて、情緒的な部分に注目して語った本。

「トポフィリア」とは、著者イーフー・トゥアンの提唱する概念で、「人々と、場所または環境との間の、情緒的な結びつき」のことである。とはいえ本書は、「トポフィリア」を大上段に論証・研究する本ではなく、それをテーマにしながら、人間が身の回りの環境をどう理解し、受容し、評価してきたかを述べるものである。

著者は、人間主義的地理学(humanistic geography)の創設者であり、 また現象学的地理学の旗手だという。この聞き慣れない学問は、要するに「人間の主観を頼りに地理を理解する」というものらしく、例えば普通の地理学が文字通り地形や地質を相手にしたり、人間社会の地理を考察するのでも統計や各種のデータを相手にしたりするのとは異なって、人間がそこをどう感じるかを糸口に地理を研究するもののようである。つまり、心理学的地理学とでもいえるだろう。

本書は、主に3つの内容で構成されている。

第1に、古代からのコスモロジー(宇宙観)について。コスモロジーは、我々が環境を知覚する際に大きな影響を与えてきた。世界を秩序として見るか、混沌として見るか、そして秩序として見るなら、その秩序の中心に何を見るか(例えば、神?)。そして世界の秩序を模するものとして、都市が建築されたりもした。コスモロジーは環境評価の土台を与えるものなのだ。

第2に、主に自然の景観に対する評価の仕方とその変遷について。例えば山は、ヨーロッパではかつて不毛で怖ろしく、不気味なものだった。それが19世紀のロマン主義により、気高く美しく、崇高なものとして受容されるようになる。それどころか、レクリエーションの場ともなって、ハイキングや登山が流行するようになった。山そのものは19世紀以前と以後で変わったわけではないのに、その受容の仕方は随分と変わったのである。知覚(視覚や聴覚)の対象が変わらなくても、その感じ方は変わってしまうことは多い。一方で、時代や場所によって変わらない、普遍的と思える環境の評価もある。例えば島、谷、海岸は様々な文化で描かれるユートピアが備えている特徴である。こうした近代以前の例を中心にして、人間の基本的な環境の認知の仕方について考察する。

第3に、 都市に対する両義的な評価について。都市は、繁栄やきらびやかさ、自由や洗練といったプラスの評価と同時に、悪徳や貧困(スラム等)、抑圧や汚穢といったマイナスの評価も受ける両義的(アンビヴァレント)な存在である。都市への評価はその両極端に振れながら変遷してきており、都市が発展するのと平衡して、田園の生活を理想視する態度も形成されてきている。そして都市と田園のいいとこどりとしての郊外(田園都市)という形態も発展してきた。アメリカの都市の発展を中心に、人々がその発展をどのように受容してきたかを考察している。

本書は、大まかには上記3つの内容を持ちながら、「あれもあるこれもある」式でいろいろなことがエッセイ風に書かれ、悪く言えば散漫に、よく言えば多角的に場所と人間との結びつきを語っている。何かを論証するような本ではないので、本書を読んで何がわかるかというと特にこれが分かるというものはなく、その意味では物足りない感じもするが、いろいろなヒントをもらう本として読むのがよいと思う。

特に心に残ったのは、風景であれ芸術作品であれ、審美的な目で(美しいなあ、という感動を持って)見られるのはせいぜい2分間だ、という指摘。それ以上楽しもうとするなら、そこには批評の知識など何か他の理由がいる。視覚の快感は「時間」が非常に限られたはかないものだということは、あまり指摘されないように思うがとても重要なことだと感じた。しかしかといって、視覚的なものが短時間しか人々の心理に影響しないかというとそんなことはなく、例えばゴミゴミした汚いところにずっといれば精神的にも混乱・衰弱してくる。清潔でよく整頓された美しい街にいることは「自分が自分でいられる」ための重要な条件ともいえるのである。視覚による快感は一瞬のものでしかないが、それによる影響は持続的なのだ。

このように、本書は1970年代に上梓されたものであるが未だ現代的といえる慧眼に溢れており、環境への評価を考える上での基本図書の一つと言えるかもしれない。

だが、これは現象学的地理学の弱点と思われるが、環境に対する人間の心理を問題にしながら、それがほとんど確固たる基盤を持っていないことは指摘しておかねばならない。本書では、文学作品に表現された環境(土地)への評価、アメリカの都市についてはアンケートといったものを取り上げているが、それだけでは科学というには弱いところがある。先ほど「エッセイ風」と書いたように、「こうとも考えられる」というような部分があまりに多いので、人間の心理を出発点とするなら、そこにもっとしっかりした土台を設けなくてはならないと感じた。

というような不満はあるものの、「トポフィリア」という概念はまだまだ考究する余地と価値がある。やや散漫で何かを分かった気にはなれないが、ヒントに溢れた論考。


2016年2月24日水曜日

『逝きし世の面影』渡辺 京二 著

外国人が残した記録によって辿る、徳川期の日本の残照。

著者は、日本のかつての姿を探るため、幕末から明治にかけて来日した外国人が残した記録を丹念に紐解いていく。当時の社会がどうだったか、ということは意外と日本人自身の記録ではわからない。当たり前の日常についてはわざわざ記録しようと思わないものだからだ。だから社会の姿は、その外部からの目によって新鮮に記録される。当時来日した外国人たちは、西洋とは違う意味で発展した日本の「文明」に目を見張ったのであった。

そこにあったのは、天真爛漫で幸せそうな親切な人々、地味ではあるが手の込んだ意匠の道具、清潔で植物に彩られた気持ちのよい街や村、形式的な階級はあるがうまく棲み分けられ、悲惨な貧困や抑圧が存在しない平等な社会、有能で自尊心があり男性と対等にやりあう美しい女性たち、のびのびと育てられ可愛がられている子ども、弱いものへのいたわりと他者への礼節、つまり子どもっぽくもありながら同時に洗練されてもいた人間の姿であった。そこには、近代西洋が捨ててきた、産業革命以前の古き良き社会が西洋と違った形で存在していたのである。

こういった社会の残映は、現代の日本にもある面では受け継がれているが、その多くは既に無くなっている。明治時代、日本は大急ぎでその姿を改造しなくてはならなかった。少なくとも、この国のリーダーたちは、国の姿をまるっきり変えてしまわなくては国際社会で生き残っていけないと考えた。そして、前時代的なるものを全て遅れたもの、悪いものと断罪して旧文明を破壊していった。

そうした旧文明の破壊を、当時日本を訪れ、その美しさに感動した外国人たちは惜しんだ。この夢のようなおとぎの国が、自分たちの祖国と同じつまらない工業国になっていく未来が見えたのである。一方我々は、旧文明が遅れたものだとする見解を鵜呑みし、江戸時代といえば無知と蒙昧、酷い不平等、貧困と不潔、混乱と飢餓の時代だと思わされてきた。一面、それも事実である。本書には出てこないが、江戸時代には子どもの間引きがあり、貧困や飢餓が存在しなかったというわけにはいかない。しかし総じて、260年間続いた穏やかな社会は、まどろむような平衡に到達していたということも間違いないのである。

ところで本書を読みながら、私の頭に浮かんだのはブータンのことである。ブータンには幕末の日本と少し似ているところがある。周囲の国家と距離を置き、未だ工業化されない素朴な社会。ブータンには確かに幸せで呑気な人々が生きている。たぶん、明治の日本はこんな感じだったのだろうと思う。

しかし、実はブータンの上流階級は、そうした人々のことを内心苦々しく思っている。時間を守らない労働者、約束を平気で反故にする人たち、契約よりもしきたりを守ろうとする慣習…。そうした古い社会を捨て去らない限り、ブータンの近代化はありえないと。

当時の日本もそうだった。すばらしく平穏な完成した社会がありながら、国家の指導階級はそれを疎ましく思った。しかしその階級は、外国人から見ると形式と体裁だけを気にするビックリするほど無能で不機嫌な連中だったのである。こうした無能な連中の下で、完成された社会が存在していることにもまた、外国人は驚いた。

1860年代に鉱山技師として来日したパンペリーという人物がいみじくもこう書いている。「日本の幕府は専横的封建主義の最たるものと呼ぶことができる。しかし同時に、かつて他のどんな国民も日本人ほど、封建的専横的な政府の下で幸福に生活し繁栄したところはないだろう」と。

日本は、社会全体が幸福な平衡に達していたわけではなく、あくまでその平衡は下層階級の間に限られていた。幸福な下層階級と、無能で不機嫌な指導階級。その対比が社会にどのようなダイナミズムをもたらしたのかということが、本書を読みながら大変気になったところである。

ここに描かれたおとぎの国は、もはや存在しない。我々は既に近代化し、まどろみから目覚めてしまった。一方ブータンは、近代化しながらも、古い社会の良さを失わないようにする困難な社会実験をしている。その結果がどうなるのかは興味あるところだ。その取り組みがぜひ成功し、西洋近代社会とは違った文明システムが、この世界には共存できるのだということを示して欲しいと本書を読んで思った。

失われた日本の「手触り」を感じられる珠玉の論考。


2016年2月14日日曜日

『風景学入門』中村 良夫著

日本の景観工学の第一人者による「風景学」の入門書。

景観工学は、土木建築の際に周囲の環境と調和してしかも見栄えよく、そして機能的な構造物を作るのに必要な学問であるが、「風景学」はそれをさらに敷衍して、我々が日々暮らす都市や田園、そして自然の風景の諸相をよく理解するための学問であるといえる。

本書では、まずは風景を物理的に考察する。例えば、視角が何度の時に風景は収まりがよいか。山は大きければ大きいほど迫力があって風景として好ましいかというとそうでもない。むしろ、垂直方向10°・水平方向20°くらいにひとかたまりの図がある方が好ましい。例えば、仙巌園から見る桜島の大きさがこれくらいらしい。また、星座なども20°×20°の大きさにほとんど収まるという。これ以上図が広がると、それが一つのものと認識されなくなったり、全体を見渡すために首を回さなければならなかったりして図としての心地よさが減じる。

次に、風景は自然や都市のありさまそのものではなく、それによって我々が行う解釈、つまり心象であると主張する。我々は現実の風景を見る前に心の中に「理想の風景」を持っていて、その理想の風景という型に沿って風景を理解している部分がある。例えば田んぼがたくさんある山里の景観は、我々にとっては「日本の原風景」と認識される好ましいものであっても、砂漠に生きる人たちにとっては異なる解釈になるであろう。風景が心象であるならば、風景を論ずるためには我々は心理学者たらねばならないのである。

また、風景が心象であるならば、風景を構成する事物そのものに絶対的な存在感があるわけではないということになる。松いっぽん、橋ひとつとっても、それがどこにどのように存在しているかによって風景としての意味は変わる。それあたかも、大乗仏教で「いっさいの存在は空(くう)である」とされるようなもので、全ては相互関係(仏教用語で言えば「縁」)に基づくのである。まちづくりなどで土木工事を行う際も、構築物そのものの存在のみを考えていては好ましい景観は生まれない。構築物自体は空じて、場所との結縁(けちえん)の中でそれが風景にどうあるべきかを考えなくてはならない。

最後に、そうした風景についての考察に基づいて、これからの建築土木がどうあるべきかを提言している。そこに書かれた内容は至極納得できるものであるが、本書の出版から30年以上経っても、依然として心地よい風景が顧みられない公共事業がなされている現状には落胆せざる得ないところがある。

本書は、景観工学を土台にして書かれているが、漢詩、俳句といった文学を豊富に引いて、我々が風景をどのように捉えてきたかという歴史や人間心理を紐解いたり、仏教の考え方を援用して風景を考えるといった学際融合的な取り組みをしていたりと大変読み応えがあるもので、著者の提案する「風景学」の奥深さを感じることができる。「心地いい風景はどんなものか」「都市や農村を美しくするためには何が必要か」というような答えをすぐ出すのではなく、その答えや問いそのものの基盤にある、風景と人間の関係について理解を深めていく構成が心地よい。

新書であり、また「入門」を銘打ってはいるが、風景と人間についての本格的な論考。

【関連書籍】
『風景と人間』アラン・コルバン著、小倉孝誠 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/01/blog-post_18.html
「感性の歴史家」として知られるアラン・コルバンが風景について語った本。


2016年2月3日水曜日

人造人間と「愛」

ゾッキ本、というのを知っているだろうか。

日本では書籍に再販制度があるので、本は返品可能なものとして書店に納入される。しかし何らかの事情で返品が出来ない本があって、そういう本は新刊本であっても古書として扱われ古書店に安値で売られる。これがゾッキ本である。

いわゆる「バーゲンブック」もこの類である。ゾッキ本は、新刊本と区別するために小口に「丸にB」印のスタンプが捺されていることが多い。

かつて十月社という小さな出版社があって、この小さいが真面目そうな会社が倒産したとき、在庫の本がゾッキ本として放出された。会社が倒産したのだから当然返品先はないため、新刊本がやむなくゾッキ本となり、どこかの古書店でまとめて売られていた。

その中の一冊にカレル・チャペックの『R.U.R(ロボット)』が入った戯曲集があった。

その頃はまだ岩波文庫に『ロボット』はなく、この十月社のチャペック戯曲集は日本語で『R.U.R』にアクセスできる(絶版でない)数少ない本の一つだったように思われる。既に『山椒魚戦争』や『クラカチット』といったチャペックのSF的作品に魅了されていた私は、当然、すぐに購入した。

『R.U.R』は、「ロボット(robot)」という単語を生みだした作品として名高い。

が、もちろんこの作品はそれだけのものでなく、その後のロボットものの原型をつくる役割をした意味で大きな影響力があった。つまり、最初は人間に役立つものとしてデザインされたロボットたちが、次第に力をつけてやがて反乱を起こすという筋書きはこの作品に始まったものである。

チャペックは、人造人間=ロボットを機械文明への批判から発想したのではなかった。

ある日、チャペックは満員電車に揺られながら街はずれからプラハに向かっていた。周りは生気なくすし詰めにされた乗客たち。生活条件が悪くなり、目の前の仕事をこなすばかりで考えることが出来なくなった人間の姿だった。チャペックは電車の中で、この人間たちは個性を持った人間ではなく、機械ではないか、と考えるようになった。 そして、「ロボット」という発想が生まれたのである。

今の日本では、こういう人たちを「社畜」というのかもしれない。

ロボットは、誰かの便利な生活を支える、都合のよい労働者だった。働くための必要最小限の機能だけしか持たず、従順で能率がよく、疲れを知らない労働者。作中で、ロボットを製造する企業R.U.Rは大儲けする。そして、ロボットのおかげで「人間」は労働から解放されつつあった!

だがチャペックは、書き進めるうちにそら怖ろしくなってきた。社会がこのまま突き進んで、「人間」が「人間」でなく「労働者」として生きるだけの社会になっていけば、そこに待っているのは破滅だと確信が持てた。本来美しいはずの「生」が、苦痛に満ちたものになるのではないかと恐れた。チャペックにとってロボットは反乱を起こさなくてはならないものだったのだ。

ロボットによる反乱で世界はどうなったか、それは本書を読んで確かめて欲しい。感動的な「愛」の発見を結末とせざるを得なかった、チャペックの苦悩と思考の結晶である。
 
ところで「ロボット」と並ぶ人造人間の呼称「アンドロイド」の方は、リヴィエ・ド・リラダンの『未來のイヴ』という、こちらも驚異的な作品が初出だ。

『未來のイヴ』が世に出たのは、「ロボット」に先立つこと約35年の1886年。19世紀末のことだ。

悩める青年貴族のために、発明家のエディソンが理想の恋人として人造人間をつくり上げる。それがアンドロイドの始まりであった。

この時代にはまだコンピュータすらないわけで、会話は予め蓄音機に録音されたセリフを再生するだけという純粋に機械的なものにすぎないが、エディソンによれば我々の会話だってそれと大差ないという。その場その場で言うべきセリフを言っているだけで、そこに自由な意志などない、と喝破するのである。

本書の半分ほどが、複雑に見える人間の行動や精神すら単純な機械によって模倣ができるのだ、とするエディソンの持論開陳に当てられているが、それが人間性への批判や風刺になっていて面白い。そして事実、恋人としてつくられたアンドロイドに、青年貴族は首ったけになってしまう!

現実の浅はかな女とは比べるべくもない、アンドロイドの高貴で優雅な「精神」と肉体! 事前に録音されたセリフを演じる苦もなく、会話は自然に流れてゆく。現実の俗物女に辟易していた青年貴族は、このアンドロイドを伴侶にして生きてゆくことを決めたのだった。

これは現代日本で言えば「2次元の嫁」だろう。少し前の話になるが2009年にある若者がゲーム「ラブプラス」のキャラクターと結婚式を挙げたという話があった。『未來のイヴ』はその嚆矢に当たると言えよう。

しかしつくづく思うのは、人造人間というものを描いてゆけば、「愛」の問題に行き着いてしまうということである。『R.U.R』はロボット自身が愛を発見し、『未來のイヴ』では愛すべき理想の伴侶としてアンドロイドがつくられる。人間を模倣しようとすれば、最後のギリギリのところで「愛」が大問題になる。

そういえば、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』でも、フランケンシュタイン博士がつくり出した「怪物」は、愛を求めて伴侶をつくることを博士に求める。人造人間と「愛」は切っても切り離せない問題なのだ。

それで思い起こされるのは「創世記」である。

神は自らの似姿として人間を創った。その人間が楽園を追放されるのは、「知恵」のためである。このことの宗教的意味がなんなのか、私にはよく分からない。たかが「知恵」を持ったからといって、それが原罪と呼ばれるほどの重罪となるというのがピンと来ない。

神が人間を創るということを、人間が人造人間を創るということのアナロジーで考えると、どうして「創世記」で「愛」が問題にならなかったのだろうと思う。人間が楽園を追放されるのは「知恵」ではなく「愛」ゆえであるべきだった。「知恵」をつけたから神に反逆するのではなく、神よりも伴侶を大事に思うことが神への反逆になるという筋書きであったら、私にとっては「創世記」はもっと魅力的なものだったろう。

科学技術が進歩して、人間が神にも等しいほどの力を持つ時が来ても、 「愛」こそが最後のスフィンクスとなるに違いない。人々に難問を突きつけて、答えられなければ喰ってしまうというあのスフィンクスに。