2024年5月17日金曜日

『儒教とは何か 増補版』加地 伸行 著

儒教を祖先祭祀の宗教として叙述する本。

儒教は、一般には倫理道徳の教えとして捉えられているが、著者に拠ればそれは儒教の「礼教性」だけを見たイメージにすぎない。著者は、儒教の本質は葬送儀礼を中心とする「宗教性」であって、それが東アジアにおいて「儒教文化圏」が形成されてきた力なのだという。

本書は、儒教の歴史を簡単に振り返りつつ、この儒教の宗教性について述べるものである。 

まず、儒教の核は「孝」だという。「孝」とは、父母や祖先を敬い子孫を残すことであり、また父母等の葬儀をし、その祭祀を行うことまでも含めた概念である。「孝」は血の連続を尊いものとみなす「生命論」なのだ。

であるから「孝」はあくまでも血族の論理なのであるが、孔子がそれを体系化したことにより、社会理論として成長していった。なお著者は白川静『孔子伝』を引き、孔子は葬儀を行うシャマンを源流として持ちつつ、「君子」という概念を持ち出してそこから脱皮した存在だとしている。

本来的には地域の共同体の思想だった儒教は、前漢時代、中央集権的な官僚組織に食い込んでいった。そこで儒教は、単なる政治理論であるだけでなく、古典の注釈・解釈を行う「経学」になっていった。

中央集権的官僚体制を取り込むために新しく作られたテキストが『孝経』と『春秋』である。『孝経』では、天子から庶人までの様々な社会的立場での「孝」を規定し、「孝」を血族で閉じたものではなく国家まで繋がるものとして再定義した。ただし、『孝経』では「孝をもって君に事うれば忠」と言っているが、本質的には「孝」と「忠」は対立するものであった。

『春秋』は、魯国(孔子がいた国)のある時期の歴史を述べたもので、儒教は歴史思想にもなっていき、またそれは歴史を修養の鑑とする「春秋学」へと繋がっていく。

さらに前漢の武帝の時代、五経博士という役職が国家に置かれたことで、儒教は国定の学問となった。 そして国定の学問になったことによって、儒教の「礼教性」と「宗教性」が分離する。国家の側では儒教の「礼教性」のみを取り上げ、「宗教性」は私的な領域でのみ生き残ることになったのである。 しかしながら、儒教の「礼教性」の基盤にはずっと「宗教性」があったのだと著者はいう。

後漢時代には、緯学という神秘思想が流行する。これは未来予知の思想である。本書ではそのように捉えられていないが、これは宗教性を帯びた儒教思想と見なせるだろう。一方で、『周礼』が(おそらく)偽作され、理想化された古代の王国がかなり具体的な政治の基準として考えられるようになった。

隋代には科挙が実施されるようになり、儒教はさらに世俗化した(礼教性のみが強調された)。宋代に至り、周濂溪の『太極図説』を元に朱子が宇宙論・存在論を構成したが、朱子学では現実世界の個別的なモノ以外の実在を認めなかった(プラトンのイデア的なものを措定しなかった)。著者はその思想を唯物論的かつ素朴実在論的であると評している。そしてこうした思想によって、朱子学では鬼神の存在をうまく説明できなくなってしまった。 「鬼神について統一的説明ができないということは、朱子学における最大弱点(p.216)」である。鬼神が存在しないとすれば、私的領域では連綿と行われてきた祖先祭祀の意味がなくなってしまうからである。

こうしたことがあったのか、朱子が41歳の時に母が亡くなると、彼は『家礼』という本を撰したと言われている。これは葬儀のマニュアルであり、後に大きな影響を与えた。しかしながら、国家の正統的儒教は科挙の学問であったために宗教性は捨象されていた。そして清王朝の滅亡とともに科挙も終焉。「今日においては(中略)礼教性的儒教は、その一般性や組織においてほぼ完全に崩壊した(p.246)」。ところが、儒教の宗教性の方は祖先祭祀として現代でもしぶとく生き残っている。

著者が本書で度々繰り返すのがここで、著者は「儒教には礼教性(道徳・倫理)と宗教性がある。しかし儒教論においては、宗教性を除く、或いは認めないのが一般的であった。その誤りを正すために本書を著した(p.228)」としている。

ところが、この主張はちょっと額面通りには受け取れない。というのは、「その宗教性については、私が独創的に定義化し構造化しなければ、だれも分からなかった(p.153)」としていたり、「中国の知識人自身が、漢代以来、儒教の[宗教性を忘れ]礼教性だけを見てそれを儒教の本質であると誤解するようになって今日に至っている(p.159)」と述べているのだ。

著者によれば、儒教は二千年も誤解されてきた(「儒教知識人の大いなる儒教誤解(p.183)」)。しかし、そんなことがありうるのだろうか。儒教を初めて理解したのが著者だというよりは、著者が儒教を誤解している可能性の方がずっと高い。ではその論理のどこに誤りがあるか。

私が一番疑問に思ったのは、祖先祭祀は儒教なしではありえなかったかどうか、ということである。北東アジアには確かに祖先祭祀が広く見られ、これは西欧世界とは様相が違う。著者はこの祖先祭祀は儒教が大きく影響しているとみており、それは間違いないだろう。しかし儒教によって祖先祭祀が行われるようになった…かどうかは、検証を要する。むしろ祖先祭祀の民俗を儒教が取り込んだと考える方が自然だ。

「儒教の宗教性は、民衆的な祖先祭祀を基盤としているのだ」ならわかるが、「民衆的な祖先祭祀は儒教の宗教性に基づく」というには、祖先祭祀の民俗を詳細に調べてみなければならない。その作業が本書には完全に欠落している。

なお著者はあまり重視していないが、儒教では「天」を祀る。北京に残る「天壇公園」の壮大さは見る人を驚嘆せしめる。では儒教なしでは祭天は行われなかったか、というと、おそらくそうではないだろう。儒教以前から祭天の古俗はあった。

また、著者はほとんど無視しているが、儒教には「釈奠(せきてん)」という孔子を祀る儀式もある。これは儒教の宗教性を示すもので間違いない。

それに、孔子の同時代の諸子百家と呼ばれる人々は、儒家を批判する際に、豪華な葬式や長い服喪を問題視していた。確かに儒家はその宗教性が特徴だと思われていたのだ。だから私は、著者の見解が的外れだといいたのではない。著者が、儒教の宗教性を深く腑分けすることなく、「祖先祭祀」のみを取り上げて、それだけで儒教の歴史を読み解いてしまうことに違和感を覚えるのだ。だから、本書には参考になる部分も多いが(特に前半はとてもエキサイティングである)、どこか腑に落ちない読後感を抱かせる。

儒教の宗教性は理解できるが、著者の主張が先走った感じがする本。

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2024年5月10日金曜日

『江戸の王朝文化復興—ホノルル美術館所蔵レイン文庫『十番虫合絵巻』を読む』盛田 帝子/ロバート・ヒューイ 編

江戸の王朝文化復興のムーブメントを「十番虫合」から見る本。

本書は、ホノルル美術館所蔵の『十番虫合絵巻(じゅうばんむしあわせえまき)』が、同絵巻の最善本であることがわかったことから行われた国際共同研究の成果をまとめたものである。

さて、この「十番虫合」とは何かというと、天明2年(1782)8月、隅田川のそばにある木母寺(もくぼじ)で行われた優雅な遊びである。参加者は左右に分かれて、それぞれ松虫と鈴虫をテーマに和歌を提出する。また同時に、それにまつわる「洲浜(すはま)」と呼ばれる作り物(ミニチュア)も提出。和歌と洲浜はそれぞれ優劣が判定され、この勝負が10番行われた。この時の参加者の一人である三島景雄が、和歌、洲浜、その判定を記録したのが『十番虫合絵巻』なのである(正確には、洲浜は別の画家が描いたのを模写した可能性が高い)。

【参考】十番虫合絵巻
https://juban-mushi-awase.dhii.jp/index.html

こういう、歌や物を優雅にしつらえて対決する遊びを「物合(ものあわせ)」という。これは平安時代の宮廷で行われていたものだ。では、江戸の町で、こんな王朝風の遊びが行われたのはなぜなのだろうか。

その一つの契機となったのが、明和2年(1765)に田安宗武(徳川吉宗の子)が行った「梅合」である。男女に分かれた参加者が趣向を凝らした梅の洲浜を対決させた。「宗武は有職学・服飾学・雅楽・歌学の知識を集約して王朝時代の物合を江戸で再興したのである(p.130)」。この頃、王朝風服飾文化復活の流れがあった。

その動きを引き継いだのが荷田派の古学者で、寛政の改革(1787~)で下火になるまで歌合が流行した。その中心には、京都の堂上歌人有栖川宮職仁(よりひと)親王の門人の三島景雄や賀茂季鷹がいた。

その頃、京都(朝廷)では歌合は廃れていたばかりか、なぜか禁止されていたらしい。江戸では、歌合・物合をもちろん宮廷行事ではなく「遊戯」として行った。「身分の低いものが公家の真似をするのは恐れ多いことであるが、ただの遊びなのだからよいだろう」という理屈で彼らは自他を納得させていたようだ。

面白いのは、「十番虫合」の参加者である。一番身分が高いのは刈谷藩主の土井利徳(としなり)。主催者は旗本の川村蔭政。和歌の判者は賀茂季鷹。彼は有栖川家に仕えた歌人で、荷田御風(のりかぜ)の門人(後に京都に帰り賀茂神社の神職となった)。作物の判者は加藤(橘)千蔭で、彼は江戸町奉行の与力。賀茂真淵の門人で「県門四天王」の一人に数えられる。与力は今でいうと警察署長クラスらしい。そして先述の三島景雄であるが、彼は幕府御用達の呉服商である。

これだけでも、大名、旗本、与力、商人が同席しているが、さらに歌を提出した人々を見ると、医師、同心、装飾金工(職人)、詳細不明の女性など多様な身分の人がいた。王朝文化復興に憧れたのは上級武士だけではなかった。そしてそれが「遊び」の場であればこそ、身分を超えて王朝文化に参画することができたのだ。そして王朝文化の再興といっても、そこには公家が一人もいないことは示唆的だ。

そして、この催しが木母寺で行われたのも偶然ではなさそうだ。隅田川は、かつて在原業平が「いざ言問わむ都どり」と遠い都を思いながら歌っており、京の都のみやびを呼び起こす歴史的な場所だった。また木母寺は、京都の公家の子梅若丸に始まる寺であり、また江戸時代には勅使が参詣する寺でもあった。つまり木母寺は「江戸にあって宮廷文化の香を格別に色濃く醸す場(p.158)」であったと考えられる。

そしてもちろん、王朝文化の中心をなすのが和歌であったことは言うまでもない。特に「千年以上にわたり開催され続けた歌合は、勅撰集に次いで和歌史において重要な位置を占める営為(p.165)」であった。

平安時代の歌合は遊戯というよりは公の儀式であり、午後3時頃から夜通し続けられ、酒や管弦の演奏もあった。そこでは自作の歌が披露されたのではなく、歌を持ち寄って対決させ、その議論が行われた。

歌合は鎌倉時代には空前の隆盛期を迎え、朝廷の威信回復を目指す後鳥羽上皇によって史上最大の歌合とされる「千五百番歌合」が開催された。江戸時代には、元禄時代から歌合が京都・大坂で地下人(ぢげにん)によって行われた(ここでいう地下人は官位を持たない人の総称と思われる)。特に国学諸派が成立すると、その流派の中で多くの歌合が催された。歌合の開催が堂上(とうしょう=上級公家)ではなかったことは、江戸の王朝文化復興の特質を示しているように思われる

歌合は真面目な古典復興のムーブメントであったが、一方で物合は、狂歌師が中心となったちょっとふざけた(パロディ的な要素がある)遊びであったようだ。江戸時代には物合の大ブームがあったが、「狂歌師たちのパロディ物合にも、大名筋の貴人たちが別名を用いて登場(p.174)」した。ここでも「遊び」が身分を超越する場として機能していた。物合の会場としてよく寺院が選ばれていたが、これも身分超越の性格があったからかもしれない。

なお寛政の改革の影響で物合も下火になるが、代わりに19世紀初頭には古器古物等を持ち寄って考証する会が行われた。古書画を鑑定して楽しむ会だ。古い時代への関心と知識があったことが窺える。それらの動きは、やがて古物古美術木版図録である『集古十種』に結実する。これは松平定信に後援された民間のプロジェクトであった。

ともかく、「十番虫合」は、当時ブームになっていた歌合と物合を組み合わせた、身分を超越する「遊び」だったのだ。ちなみに物合のテーマとして「虫」が選ばれたのは、当時、鈴虫・松虫などの声を愛でる「虫聴(むしきき)」が流行していたこともあるようだ。

さて、ここでこの『十番虫合絵巻』の判定を読んでみると面白いことに気付く。それは、歌の判定は至極アッサリとしている一方で、作物(洲浜)の判定にはとても力が入っているということだ。そして洲浜自体も、かなりのコストを掛けて制作していたようである。

洲浜は一種のミニチュアで、『源氏物語』や『古今和歌集』『伊勢物語』など各種の古典を踏まえつつ、和歌にちなんだものを虫かごに設えたものである(なので、実際に松虫や鈴虫が入っている)。洲浜は提出された和歌と無関係ではないが、それよりも古典を題材にして(本歌取りして)作られている。平安時代の物合にも作り物が伴ったらしいが、工芸の力によって平安時代をミニチュアで表現したのが「十番虫合」の洲浜なのだ。そしてこれに非常に力がこもっていたためか、参加者はこれを絵巻にして記録する意義を感じた。これ以外に作り物を描き留める例はないのだという。

つまり、 「十番虫合」は王朝文化に興味を持つ人々の「遊び」であったが、王朝文化の核心である「和歌」よりも、それを踏まえた雅な作り物「洲浜」があってこそ成立したと考えられる。これは江戸の王朝文化再興を考える上で非常に重要な点だと感じた。文芸という抽象的なものばかりでなく、手に触れられるモノを媒介にして人々は王朝文化の香を感じたのであろう。

ところで私が本書を手に取ったのは、明治維新との関連である。明治維新は、言うまでもなく王政復古の革命であった。そこでは結果的に「神武創業」が謳われたが、王政復古を考えていた人たちはその基準を王朝文化としていた節がある。そして明治維新後も、日本文化を表象するものとして王朝文化が(おそらくは意図的に)称揚された。日本文化といえば、まず『源氏物語』なのだ。

それは明治政府を動かした人たちが恣意的に設定したのではなく、江戸時代の中頃から徐々に醸成されていた。様々な身分の人たちが、王朝文化を「発見」し、それを擬えた「遊び」によってそこに参画しようとしていた。それは、明治維新とは一見何も関係ない。しかしそれは、文化的に明治維新を準備していたといえなくもない。それは理想化された過去の日本を復活させようとする取り組みの一つだったのである。

 『十番虫合絵巻』を正確に理解することで、江戸時代の王朝文化復興を多面的に捉えた良書。

【関連書籍の読書メモ】
『歴史で読む国学』國學院大學日本文化研究所編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/09/blog-post.html
国学の発展の歴史を平易に述べる本。国学史の教科書として現時点の決定版。荷田派の活動も取り上げている。

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2024年5月7日火曜日

『土の思想(叢書 身体の思想6)』宮田 登 著

民衆の思想を述べる本。

本書は、民衆の思想、なかんずくその信仰に関する思想を取り出して、交通整理するような本である。大上段の結論があるわけではなく、いくつかの象徴的事実と研究の現況、その課題を提示し、著者の考えを述べている。ただし昭和52年(1977)の本なので、研究の現況についてはちょっと古びている。

まず、著者は「日常性の思想」に注目する。歴史が非日常的な断絶で述べられるのに対し、民衆の暮らしは言うまでもなく日常的なものであった。ここで柳田国男以来の「ハレとケ」の論理の話となるが、ここは現代からみるとあまりに観念的な枠組みに感じられる。

ひとたび飢饉が起これば、そういう日常性は破壊されたが、むしろ非日常においてこそ、日常性を強化・喧伝することが行われた。通俗道徳や生活律の遵守、節制、遊興の禁止などを訴えて「先祖株組合」を作り、体制側に表彰された大原幽学はその象徴である。大原幽学を受け入れた村では、村落崩壊の危機的状況に対処しようとしたのである。ここで「先祖」が持ち出されていることが興味深い。

勤労を訴えた二宮尊徳も同様に、自らの家の再興を図って一族の祠を作って聖地となし、先祖祭りを励行している。 これらの事例は逆に、この時代、「先祖」があまり民衆に意識されていなかったことを物語っているように思われる

一方で、先祖とか規律とかを言わず、副業を勧めるなど合理的な手法を提示した大蔵永常がそれほど民衆に支持されなかったことも興味深い。民衆を動かすには、やはり精神的な何かが必要になるのかもしれない。

次に、男女和合の思想が取り上げられる。江戸時代以降、双体像の同祖神がつくられたり、道祖神の前で性交が行われた(とされる)。本書には指摘がないが、こうした性的な道祖神信仰が北関東から東北にかけて多く見えるのが興味深い。これらの地域は幕末には大変な人口減少に見舞われた地域であり、人口の再生産が社会的課題となっていた。

性器を露骨に象った神体を祀るのも文化文政期以降に集中するという。やはり性の信仰は農村の荒廃、人口減とリンクしていると考えられる。さらに著者は富士信仰の不二道を取り上げ、そこに性の信仰(男女の行為を「おまつり事」として聖なるものと考える)が見られることを指摘している。富士講は「江戸八百八講」と言われるほど蔓延した。

次に、民衆の間で一時的に流行し、流行りが落ちつくとパタッと祀られなくなる、いわゆる「祀り棄て」と言われる現象を取り上げる。これは麻疹や疱瘡の流行と関係していることが多い。流行が過ぎさえすれば、後は継続的な祭祀など不要だから「祀り棄て」されるのだ。

興味深いのは、民衆の間では疱瘡神が恐ろしい姿をして祟る、というような考えはほとんどなかったということだ。「むしろその霊験にあやかろうとしているところもある(p.93)」。疱瘡神を丁寧に持てなし、「神送り」して出て行ってもらう。疫病神を遠ざけるのではなく、楽しくお祭りをしてもてなすという考え方が非常に面白い。

一方、稲の害虫は悪神の祟りとみなす心意が古くからあった。こちらも藁人形を焼き払うなどして「神送り」をする。しかし疱瘡神と違ってお祭り的な要素は少ないようだ。何が違うのだろうか。

これらの事例から、著者は「人が必要ならば神仏を作り不必要ならば祀られなくなるという単純な理屈(p.103)」を指摘し、「祀って棄てるというのは、いかにも巧智にたけた思考」だとしている。巧智にたけているかどうかはともかく、必要性に基づいた合理的な考えで神仏に対処していたといえる。

さらに化政期以降、「狐憑きの狐を落として、これを稲荷に祀りこめたのが流行神となる傾向が集中して出てきた(p.107)」とし、稲荷神は人神の要素を持っていたと指摘している。これを含め、江戸時代後期には雑多な神々が祀られるようになっている。我々は、近世以前には雑多な神々が各所に祀られていたというイメージを持っているが、それは中世以来のものではなく、近世後期になってからのものらしい。さまざまな講が盛んに行われたことや(とりわけ山岳代参講の激増)、御師の活躍(実用品を配っていた)などもその背景にあった。しかし幕府は雑多な神々を「新義異宗の禁」として規制した。

次に、近世末期からの一連の新宗教運動が取り上げられ、それらがいずれも「ユートピアを求める思想」の側面を持っていたことが指摘される。

日本の昔話には「鼠浄土」とか「地蔵浄土」といった異郷観があり、それは地下(しかもそんな遠くではなくすぐ近く)にある明るい世界、一種のユートピアであった。膳椀が上流から流れてきてユートピアたる隠れ里が明らかになるといった話も多い。しかしそれらは、単なる富貴の里であって、万能の神のような壮大な観念はないことが特徴である。

また、女ばかりが住む楽天地がどこかにあるという観念もあり、八丈島はそういう女護島だとみなされていた。それには、八丈島の女性優位な習俗が影響していたのかもしれない。甑島もそういう島だったという伝説がある(林笠翁『仙台問語続編』)。

また江戸時代には、「世直し」を民衆が求めるようになっている。大地震が起こった時に「世直し、世直し」と唱えたというのは象徴的だ。日本の「世直し」はメシア的存在が希薄で、地震を起こすのが大鯰であると観念されるなど、壮大な物語・神話と接続されていたのではなかった。

「世直し」の言葉を使った早い例である三河の加茂一揆の実録『鴨の騒立』では、一揆の参加者は「その家の仏壇をこわし、本尊を馬小屋の柱に縛りつけ(p.167)」ている。これは大原幽学や二宮尊徳が先祖祭祀を盛んに喧伝したことと鋭い対照をなしている。これには檀家制度に対する批判もあったのかもしれないが、善政の要求が宗教改革とセットになっているのだ。さらには、田沼政権を倒した佐野善左ヱ門や百姓一揆の指導者菅野八郎が「世直大明神」と称されたことも注目される。なお、「世直し」と似ているが、この世が他律的に改まるという「世直り」もしばしば用いられた。

幕末の新宗教は、これを例えば「弥勒の世」(富士講、天理教)と繋げるなど、宗教的次元で再構成した。また不二道では「元の父母の創始した世界」に「おふりかわり」するとしたし、如来教のきのは世界の始まりは「泥の海」だったという創造神話を述べた。それまで、民衆思想の間には創造神話が希薄だったのに、幕末になっていろいろな創造神話が生まれてくるのは大変興味深い。

著者は本書を「民俗学的視点から歴史像を再構成する可能性を試みたもの(p.187)」と述べており、特に「民衆宗教の創出されるプロセス」に注目している。特に「日常性の中から、非日常性としての形象が創造されるプロセス(p.189)」を分析したという。しかしながら、私には著者の分析は観念的すぎるように思われ、「民衆宗教」が分析の枠組みの前提となっている点で、最初から結論を決めてかかっているように感じた。

私には、民衆が求めているものはひたすらに(著者の用語を使えば)「日常性」の幸福であり、それは具体的に言えば順調な農業と、家族の健康と、子どもたちの成長であったと思う。それに役立つのなら、神仏と農業技術と生活の知恵には何の違いもなく、完全に同じ次元で見ていたと考えられる。

にもかかわらず、幕末に創造神話をもつ新宗教が生まれてきたのはどうしてなのか。確かにそこには「非日常性」を持つ何かを求める心理があった。つまり、幕末の民衆は、「日常」に飽き足らなくなっていたのだ。どうしてそうなったのか。その点に関して、本書はあまり目を向けていないようだ。それは「民衆宗教」の創出を宗教的次元のみで説明しようとしているからだと私は思う。幕末に民衆の暮らしがどう変わっていったのか、そこを見ないことにはこの動きは説明できないのではないだろうか。

いろいろ考えさせる事例は豊富に提出されるが、民衆宗教を見る目はやや一面的な本。

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2024年5月6日月曜日

『もう一人のメンデルスゾーン——ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼルの生涯』山下 剛 著

メンデルスゾーンの姉の生涯を述べる本。

クラシック音楽の歴史において、随一の才能を持っていたのがフェーリクス・メンデルスゾーンであるが、その姉ファニー・メンデルスゾーンも弟に負けず劣らず音楽の才能があった。しかし音楽家として成功した弟と違い、その活躍の場は限られ、家庭人として一生を終えざるを得なかった。本書はこの知られざる作曲家・音楽家、ファニー・メンデルスゾーンに光を当てるものである。

彼らの祖父モーゼスは低い身分のユダヤ人として生まれたが、勉学に勤しみ哲学者として大成した。『モーセ五書』のドイツ語訳をしたのもモーゼスの大きな功績である。彼は子どもの教育にも極めて熱心で、長男ヨーゼフと次男アーブラハムは金融業の世界で目覚ましい成功を収める。このアーブラハムがファニーの父親である。

一方、母親はレーア・ザロモン。彼女は裕福なユダヤ人銀行家の娘であった。アーブラハムはかつてフランス贔屓だった(つまり共和制に憧れた)が、レーアと結婚して社会的地位も安定するとプロイセンに適応して愛国者になった。彼はユダヤ人として最初のベルリンの市参事会員になっている。その背景には、フランス支配下の重税や徴兵、文化統制や検閲により、フランス革命への幻滅があったこと、ドイツ統一を求める民族主義の高まりが指摘できる。この時代、「ユダヤ人解放令」によってユダヤ人は建前としてドイツ人と同様の権利を認められたが、民族主義の高まりの中で反ユダヤの動きも起こってくるのである。

アーブラハムはこうした中、子どもたちに厳格で高レベルな教育を施し、ドイツ人以上にドイツ文化を身につけさせた。さらに子どもたちはキリスト教徒として育てている。ファニーやフェーリクスは利発で、様々な面で優れていたが、殊の外音楽には優れた才能を示し、作曲をツェルターに教わった。ファニーはフェーリクスより4歳年上だったので、フェーリクスよりも早く作曲に習熟した。しかし父親は作曲に熱中するファニーを諫め、「女らしさだけが女性の勲章」と諭している。

ところで、ツェルターはジングアカデミー(ベルリンの民間音楽組織)の監督であり、音楽教育家(マイアベーアの師)でありまたオルガニストでもあったが、驚いたことにレンガ積み職人でもあった。彼は不安定な音楽の仕事の収入を補うため、王立協会アカデミーの教授になった後でも、職人との二足のわらじを履いていたのである。

一方、メンデルスゾーン家には湯水のようにお金があった。旅行をすれば王侯貴族の行列のようなのだ。フェーリクスは父に連れられて見聞を広め、当時神のように崇められていたゲーテにも紹介された。ファニーも追ってゲーテと面会したが、弟と同程度の音楽の技術や才能があったのに、彼女が話題の中心になることはなかった。ファニーはちょっと音楽の得意な娘さんとしか扱ってもらえなかったのである。なおフェーリクスは大学に進学しているが、ファニーは進学させてもらっていない。

そんなファニーが力を注いだのが、メンデルスゾーン家で定期的に行われる日曜音楽会である。これは私的な演奏会であったが、各界の名士が参加し、自作を披露できる場になっていた。ファニーは優れた歌曲を書き、またフェーリクスの「無言歌」にもファニーの作品が紛れ込んでいるのではないかと考えられている。

ファニーは画家のヴィルヘルム・ヘンゼルに求婚される。しかし両親は直ちに結婚を認めず、ヴィルヘルムはその後5年間ローマに留学。その間、彼はメンデルスゾーン家の人々を理想化した肖像画を送って求婚し続けた。留学から帰ると、ヴィルヘルムはプロイセンの宮廷画家に任命され、1829年に結婚を認められた。

この1829年には、フェーリクスが中心となりバッハの『マタイ受難曲』の復活公演が行われているが、これにはファニーも重要な役割を果たした。ファニーは弟以上にバッハを崇拝しており、13歳の時、父アーブラハムの誕生日にバッハの平均律第1集の全24曲を暗譜で弾いている。なお、これは一族に賛否両論を巻き起こしたらしい。あまりにも音楽に入れ込みすぎているというのだ。

そして同年、『マタイ受難曲』の上演が終わると、フェーリクスはイギリスへと旅立った。「ファニーはその後も家族や大勢の友人たちに囲まれていたが、憂鬱に取りつかれ、心には大きな穴が開いたようだった(p.89)」。ファニーにとって、フェーリクスは自分の分身であり恋人のような存在だったのである。この年の1月4日からファニーが日記を書き続けていることは象徴的だ。

ただ、ファニーの家庭生活は幸福だった。25歳の時には男児を出産。バッハ、ベートーヴェン、フェーリクスに因んでゼバスティアン・ルートヴィヒ・フェーリクスと名付けられた。ヴィルヘルムは音楽の素養はなかったが、同じ芸術家としてファニーの創作活動を応援した。逆にフェーリクスは、姉の音楽の才能を大いに買いながらも、主婦の役割に徹するべきだと主張していた。このあたりはとても面白い。

ファニーが30歳の時、父アーブラハムが死ぬ。ファニーの創作は父を喜ばせたいとの思いが強かったので、父の死去はその意欲を減衰させた。またフェーリクスは実家住まいではなかったので、自然とファニーが一族を取り仕切る役目となり、自分自身の時間が持てなくなった。日曜音楽会も中止され、ファニーは作曲の意欲を失った。そこには、結局自分の作品を理解してくれる者が誰もいないという孤独感も伴っていた。フェーリクスに手紙を書いても、そこに温かい言葉はなかった。ファニーは深刻な鬱状態に陥っていく。

ファニーは弟の顔色を窺いながらも、歌曲集を出版。フェーリクスはそれに対してお祝いの言葉一つ述べず、母には「芸術家になるにはファニーには意欲も使命感もない」などと書いている。この時期、彼は彼で追い詰められていたのであるが、姉の才能を理解しながら(彼は「生涯にわたってファニーを音楽の手本として仰ぎ、自作に対する彼女の批評を最高のものと見なした(p.196)」)こういう切り捨て方をしているのは驚きである。父の死後、フェーリクスがアーブラハムの役割を引き継いで、女性を家庭に押し込める言動をするようになっていた。

そんな中でも、1838年、ファニーは生涯で唯一の公開演奏を行っている。上流階級の人たちによる慈善講演会(収益を貧しい人たちに寄附する)である。イギリスの音楽批評誌「アシニーアム」はファニーについて「ミセス・シューマンやミセス・プレイエルと並んで、超一流のピアニストとして世界中に有名になっただろう」と書いている。だがファニーは職業人として有名になるには、あまりに上流階級のお嬢さんすぎた。

33歳の頃、ファニーたちは家族で1年にわたるイタリア旅行に出かけた。ファニーは最初こそ落ちぶれたイタリアの姿に幻滅したが、ローマでフランスの芸術家たちと知り合って意気投合。彼らはファニーに演奏をせがみ、ファニーはバッハ、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽の本格的な作品を次々と弾いた。彼らはその素晴らしさに感動し、「ファニーは日に日に心が解放されていくのを感じた(p.151)」。ファニーは人に認めてもらえる喜びを噛みしめた。なおこのフランスの芸術家の中に、『アヴェ・マリア』で有名なグノーがいる。『アヴェ・マリア』(バッハ平均律第1巻第1曲のプレリュードを伴奏にした歌曲)はファニーの影響で作曲されたものである。こうして、たった2ヶ月間であったが、ファニーはローマで人生最良の日々を過ごした。

ローマから帰ると、ファニーは旺盛に音楽活動に取り組み始めた。ベルリンは三月革命前の混乱した政治状況にあり、母の死などもあったが、ファニーには平穏で幸せな日々が続いた。ヴィルヘルムもファニーの音楽活動を励ましていた。また司法官試補コイデルと出逢い、彼がローマでのフランス人芸術家たちのようにファニーを崇拝して、活気をもたらした。コイデルの助言でファニーは歌曲の出版を決めた。その時にフェーリクスに出した手紙にはこうある。「私は14歳の時にお父さんが恐かったように、40にもなって弟たちが恐いのです(p.186)」。フェーリクスは保守化しており、政治的に急進的な青年ドイツ派の作家や女性の社会活動家には嫌悪を示していた。しかし姉の曲集出版にはしぶしぶながら「了承」を与えている。ファニーはフェーリクスからわざわざ了承を得なければならなかったということが、彼らの関係性を表している。

それでもファニーは許しが得られて幸せだった。編集や曲作りに幸せいっぱいに取り組み、次々と作品を出版した。「当時の音楽界は女性に独創性など認めていなかった(p.194)」が、ファニーは作品で反論できることを励みにして意欲に溢れていた。

なお、同じ女性音楽家であるクラーラ・シューマンもファニーを作曲家として認めていなかったというのが興味深い。クラーラはファニーのピアノの腕には舌を巻いていたが、その活動を全面的には認めていなかった。クラーラは貧しい生まれで、幼い頃から演奏活動で家族を支えていた。彼女らは育った環境があまりにも違いすぎて互いにしっくりこないものがあったらしい。

1847年5月14日、意欲的に活動していたファニーは、突然脳卒中で倒れ、その日のうちに息を引き取った。41歳。遺作となったのは、前日に作曲された歌曲『山の喜び』。「そこには、生きていればファニーの前に開かれたであろう広々とした自由な世界が潑剌とした曲調で描かれていた(p.205)」。

フェーリクスは姉の死に衝撃を受けた。彼は姉の創作活動を妨害していたことに罪悪感を覚え、「まるで姉に対する罪滅ぼしのように(p.210)」その遺稿集をまとめた。そして憔悴したフェーリクスは、姉の死から半年後、38歳で亡くなってしまうのである。フェーリクスの亡骸は姉の横に埋葬された。

ファニーは、上流階級に生まれたことでその可能性を狭められた面がある。同時代のクラーラ・シューマンは働かざるを得ない境遇だったために、女性ピアニストとしてヨーロッパ中で活躍できた。だがファニーは女性が外で働くことが「はしたない」とみなされる階級であった。それでも、音楽活動に理解ある夫のおかげで、その枠内では「才能ある女性に許されていた可能性を当時としては十二分に生かしきったとも言える(p.215)」と著者はいう。

とはいえ、ファニーの人生には女性が直面せざるを得ない現実が象徴されている。つまり、人生で一番意欲と能力と体力が溢れた時期に、女性は子育てをやらなければならず、子育てが一段落してようやく自分の時間が持てるようになった頃には、もう以前ほどの能力や体力はなく、人生の可能性が狭まっている、という現実だ。現代では、女性が外の世界で活躍することはそれほど悪く思われていない。それでも、女性は人生のある時期、出産や育児にかかりきりになってしまうから、女性は家庭人となるか、自己実現を図るかで二者択一を迫られてしまう。

ファニーの場合、家庭人となったことは悪くなかった。夫は典型的なビーダーマイヤー型(小市民型)であり、現実的なつまらない面を持っていたが、それだけに妻を愛して家庭を平穏に守った。それがファニーの限界を定めた面もあるものの、ファニー自身も家族を愛して幸せだった。夫を亡くしたクラーラ・シューマンが、子どもを家政婦に預けて演奏旅行で飛び回らなくてはならなかったのと比べると、どちらが幸福というのではないが、やはりファニーは恵まれていたといえる。彼女が「忘れられた音楽家」にならざるを得なかったとしてもだ。

なお、ファニーは手紙を大量に書いており、中断はあるが日記を死まで書いていることから、メンデルスゾーン研究の基礎資料を残してくれた。「ファニーの一人息子ゼバスティアンはモーゼに始まるメンデルスゾーン家三代にわたる評伝を著し、これがその後のすべてのメンデルスゾーン研究の出発点となった(p.216)」 。

非凡な才能を持ちながら、時代の制約からついに活躍できなかった女性を描く力作。

【関連書籍の読書メモ】
『メンデルスゾーン』ひのまどか著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/04/blog-post_13.html
平易かつ内容のしっかりしたメンデルスゾーン伝。

『クララ・シューマン』萩谷 由喜子 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/04/blog-post.html
クララ・シューマンの伝記。世界で初めて、妻・母としてコンサートピアニストの人生を全うした一人の女性の生涯。

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