2020年5月19日火曜日

『石の宗教』五来 重 著

石仏を民間宗教の側から読み解く。

日本には、夥しい数の石仏や石塔が存在する。しかしその意味がよくわからなくなって久しい。なぜ昔の人はこんなにも石物や石塔を作ったのだろうか。これまでの仏教史学では、儀軌(仏像の決まり)などは細かく分かっていても、そこにそれがある理由については全くお手上げのことが多かった(と著者はいう)。

それに対し、著者五来重(ごらい・しげる)は「仏教民俗学」(後に「宗教民族学」に拡張)によって、快刀乱麻を切るように謎を解いていく。その主張をまとめれば、「民衆は、昔から石自体に不思議(神聖)な力があるという信仰を抱いていて、それを表現したのが石仏である。それが地蔵であれ道祖神であれ、何が表現されたかはさほど重要ではなく、そこに祈りの対象となる「石」があることが重要なのだ」とでもなるだろう。

著者によれば、神聖性を感じさせる石は、第1に魁偉な容貌をした自然石である。そういう自然石の周りを巡ることを「行道(ぎょうどう)」といい、これは巡礼の原始的形態なのだという。

第2に、並べた石・積んだ石である。ストーンヘンジのような列石信仰もそうだし、日本では積石信仰や磐境(いわさか)がそれに当たる。例えば賽の河原になぜ石を積むのか、著者はそれを古代の葬制の名残だと推測している。死体を葬った洞窟の入り口を石を積んで塞いだこことが積石の由来だという。なぜ石を積むかというと、それは悪霊が外の世界に出てこないようにするためだ。磐境の列石も、それ自体が神の依り代ではなく、神の荒魂を封鎖するために作られたのではないかというのが著者の説だ。

第3に、人工的に(特別な形に)造形した石である。その最も起源的なものは陰陽石ではないかと著者は考える。特に男根形は、様々な石造物の祖型となった。例えば道祖神、地蔵菩薩は、その根幹に男根があると考えられる。

さらに本書では、庚申塔と青面金剛(しょうめんこんごう)、馬頭観音、如意輪観音、地蔵石仏の信仰、磨崖仏と修験道などについて語られる。特に面白かったのが庚申塔についてで、これは非常にたくさん残っている石造物であるにもかかわらず、なぜ庚申供養塔を立てたのか普通の仏教理論(+道教理論)でも分からない。著者はこれは庶民の先祖供養と習合した結果であり、先祖供養をまとめてする意味があったと述べている。馬頭観音も、元来の仏教理論ではほとんど重要ではない存在なのに、民間信仰では牛馬の守り神として絶大な人気を得た。仏塔に占める馬頭観音の割合は非常に多いのである。こういうのも、仏教史学ではなく「仏教民俗学」でないと解けない存在である。

また、如意輪観音は水子供養のために造立されたのではないかという考察をしている。これは今まであまり気にしていなかったので、今後見ていく時に確認してみたいと思う。

それから、磨崖仏の項目には弥勒信仰についての言及がある。阿弥陀信仰が広まる前、古代に於いては弥勒信仰の方が盛んであったとはしばしば言われることであるが、古代石窟の弥勒仏が修験道の原始的形態であったと著者は言う。

ちなみに、私は本書を10年くらい前に一度読んでおり、今回は再読である。10年前に読んだ時はあまりピンと来ていなかったのが庚申塔の項であったのだが、今回はナルホドと思わされた。

また、再読して感じたのが、著者の旧来のアカデミズムに対するちょっと攻撃的な姿勢である。「仏教民俗学」を打ち立てるにあたって、著者は旧来の仏教史学と軋轢を抱えていたというが、それを乗り越えようとする強烈な気概を本書からは感じる。逆に言うと「旧来の石造美術史・仏教史学でわからなかったことが、仏教民俗学で考えればほらこの通り!」みたいな部分もあって、ちょっと断定が過ぎるような部分も散見された。もう少し学問的に慎重に述べていたら、本書は第一級の作品になった気がする。

また、本書は「石の宗教」の全貌というよりも、全編がケーススタディ的である。非常に示唆的な記述が多く、また読みやすくもあり、主張は明解に伝わってくるものの、扱っていない話題も多いのである。例えば五輪塔や一般の(四角の)墓塔、板碑については取り上げて欲しかった。また、仏像の中では特に地蔵菩薩だけが取り上げられているが、もう少し幅広く石仏の世界を案内して欲しかったところである。

石仏の奥にある、石自体の神聖性に着目した刮目すべき本。


2020年5月16日土曜日

『都城唐人町—16〜17世紀の南九州と東アジア交流』佐々木 綱洋

日向・大隅の海上交通についての論文集。

本書は、著者が高校教諭であった時から発表してきた論文を再編集して一冊の本としたものである。そのため、あまり体系的ではなく、また重複も散見される。しかし参考になる情報が多々含まれた本である。

「1の章 唐船の渡来地・内之浦」では、内之浦と外ノ浦の海上交通について述べる。応仁の乱の後、遣明船が南海路をとるようになると、ルート上にある日向・大隅の諸港は遣明船の寄港地として賑わうこととなった。ここから坊津を経て、寧波(明は入貢国ごとに港を規定していた)へ向かったのである。

外ノ浦を領有したのが飫肥城主豊州島津家で、飫肥城下にあった安国寺(臨済宗)や龍源寺(串間市市木)が外交文書の作成や航路の安全管理などにあたっていた。 そうした任務のため飫肥城主島津忠廉から安国寺に招かれたのが、日本儒学の嚆矢となった桂庵玄樹。桂庵玄樹の法統は薩南学派を形成し(桂庵玄樹[安国寺]-月渚[安国寺]-一翁[龍源寺]-文之[龍源寺])、飫肥は南九州の文化の中心となった。しかし永禄11年(1568)、伊東氏の侵攻に島津氏が敗北、文之は飫肥を去って薩摩へ渡った。

ところで文禄2年(1593)、明の福建巡撫許孚遠(きょ・ふえん)は、史世用という部下を商人にしたて、許豫という海商の船で内之浦に派遣しスパイ活動を行わせた(当時、秀吉の朝鮮の役のためスパイが必要だった)。まずは伊集院幸侃(忠棟)がこれを尋問し、史世用はスパイだとバレて送還された。替わって許豫がスパイの代理を務めたのだが、許豫は島津義久の信頼を勝ち取り貿易の権利を得て帰帆を認められた。この尋問の通訳を務めたのが正興寺(霧島市隼人町)の玄龍という僧侶で、著者は、この玄龍はすなわち文之であったと種々の資料から考察している。

「2の章 北郷氏と内之浦」では、慶長元年(1596)に内之浦にやってきた藤原惺窩の足取りを辿り、当時の内之浦が東アジア貿易圏の一角であったことをまず述べ、続いて都城を領有した都城島津家こと北郷(ほんごう)氏の概略史を述べる。内之浦は都城領であり、豊臣秀吉により伊集院忠棟が都城に配置された一時期を除いて北郷氏の領地であった。内陸の盆地である都城に唐人町ができたのは、内之浦を北郷氏が領していたからなのである。

なお、北郷氏の祖は島津忠久の曾孫忠宗の六男・北郷讃岐守資忠であり、正平7年(1352)に足利幕府より日向諸県北郷を与えられた。312年後、北郷氏はおそらく島津光久の命によって島津氏に復姓したのであるが、その背景として小杉重頼事件が取り上げられている。この事件の関係者を処分することにより島津本宗家は北郷家への圧力を強め、事実上島津家の分家とするに至った。

「3の章 都城唐人町の成立と町場の形成」では、都城唐人町がどのように成立し、変転していったかが述べられる。都城に唐人町ができたきっかけは、天正年間(1573〜1593)に時の領主北郷時久が内之浦に亡命してきた明人たちを城下に住まわせたことである。また天正18年(1590)にも明人たちが内之浦に漂着(となっているが著者は亡命と推測)し、その明人たち(の一部)も合流したと著者は考えている。北郷時久は一時(先述の伊集院忠棟の移封によって)祁答院に転封させられた時も明人たちを連れて行き湯田に唐人町を作らせた。都城唐人町は北郷時久の篤い保護によって成立したものであった。

さらに、江戸時代の鎖国体制下になって、再び明人たちが内之浦にやってきて唐人町に住んだ。何欽吉(か・きんきつ)、天水二官(てんみず・にかん)、江夏生官(えなつ・せいかん)、清水新老、汾陽青音(ふんよう・せいおん)らであった。この年代ははっきりとはわからないが、著者は状況証拠から通説の正保年間ではなく寛永8年(1631)以前と推測している。この唐人町は幾度かの変転を経ながらも繁栄していった。それにしても、北郷時久時代の亡命者の一群にしても、なぜ明人たちは都城にやってきたのだろうか。偶然ではないように思われる。

「4の章 何欽吉ら明人たちの足跡」では、明人たちの墓地を調査することでその足取りを推測している。特に何欽吉については、明人たちのリーダー的存在と考えられるためやや詳しく来歴を辿っている。本章では、さらに唐人町に伝来した媽祖像と出土した中国象棋の駒について紹介している。

「5の章 高氏四代と都城」では、長崎奉行所の大通事(通訳)として大きな足跡を残した高一覧(こう・いちらん)など高一族の歴史を取り上げる。一覧の父は、薩摩の帰化明人である高寿覚。儒医として島津家久に仕えたという。さて、一覧は川内で生まれたと一覧の子玄岱(げんたい)が述べているのであるが、一覧の供養塔が都城にあり都城とは縁が深く、著者は都城出生説を推している。

玄岱は黄檗宗に学び、京都に留学、朱子学を学ぶ。その後、島津光久に招かれて侍医として薩摩に住んだ。さらに61歳の時(1709)、新井白石の推挙で幕府の儒官となった。なお玄岱は宝永3年(1706)野間権現の「娘馬山碑記銘」を書いたという。また、玄岱の長男・有隣(ゆうりん)は家督を相続して幕府の儒官となり、書物奉行となって将軍吉宗のブレーンとして重用された。

「終章 都城唐人町と漂流民」では、延宝8年(1680)にバタン人(当時スペイン領のフィリピンの現地人)が外ノ浦に漂着し、それを長崎に陸送したことを詳述し、当時の国際関係などについてケーススタディ的に取り上げている。

なお「みやざき文庫」に所収されるにあたり、次の3編の論文が「補論」として加わっている。「都城市天水家媽祖像」、「飫肥の媽祖像」、「飫肥と明医徐之■(辶に粦)」。

全体を通じて、本書は著者の関心事である「都城」とそれに通じた内之浦や外ノ浦をいろんな角度から眺めてみようという本で、時代も行ったり来たりする上、論文集の性格上、概略的な説明よりも個別的な説明が優先していることもあって、決して読みやすいとはいえない。それから、増補改訂版であるにもかかわらず誤植が多いのは残念である。しかしいろんなところに参考になる情報がちりばめられている本で、体系的ではないが枝葉末節の部分が面白い本である。

著者の都城の海外交流研究の集大成。

2020年5月10日日曜日

『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』西谷啓治・柳田聖山編

初期禅のムーブメントを感じる禅籍群。

本書に収められた作品は、本書出版時点においてそれまで通読されたことのないものばかりで、初日本語訳となるものがほとんどである。

筑摩書房は世界古典文学全集の編纂と同時に「禅の語録」というシリーズを編纂していて、それの成果が取り入れられてできたのが本書である。なお「禅の語録」は1969年に刊行が開始されてから、長く途絶して完結したのが2016年。約50年かけて完成した不朽のシリーズである。

詳細に研究したい向きにはもちろん「禅の語録」を薦めるが、一般にはこの『禅家語録』で十分である。何しろ本書1冊で、「禅の語録」6冊分の禅籍を所収する(すごくお得!)。本書では詳細な解説は割愛されているが、本文、註、日本語訳が掲載されているから、本文の内容を知る分には十分なのだ。ただし、小さい活字の2段組なので目には優しくない。

それに本書を通読すると、初期の禅ムーブメントがどうわき起こり、完成していったかがよくわかる。禅籍を扱いながらこのようにエキサイティングな本は珍しい。ぜひ通読をオススメする。本ブログでは既に本書の内容それぞれについてメモを書いてきたが、以下簡単に紹介する(リンク先は読書メモブログ記事)。

『達摩二入四行論』柳田 聖山 訳

http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/03/36a-i.html
敦煌本の発見により明らかになった最初期の禅籍。極めて老荘思想の色が強いのが興味深い。

『六祖壇経』柳田 聖山 訳

https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/01/36a-i.html
六祖こと恵能の激動の生涯とスーパー理論。恵能は「一瞬で悟りの世界に行ける」という頓悟の理論を提唱したとされ、禅の思想を良くも悪くも飛躍させた。彼の前半生の記録は、物語としても面白い。

『頓悟要門』平野 宗浄 訳

https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/04/36a-i.html
「心こそが仏である」という馬祖の考えを精緻に理論化した大珠慧海による頓悟の理論書。

『黄檗伝心法要』入矢 義高 訳

https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/04/36a-i_29.html
初期禅の完成の姿。あまり知られていないが、初期禅の到達点として位置づけたい重要な本である。

『臨済録』秋月 龍珉 訳

https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/05/36a-i.html
本書中、最も有名であり、また手に入りやすい本。人にインスピレーションを与えずにおかない、強烈な能動性がある「語録の王」。

『趙州録』秋月 龍珉 訳

https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/36a-i.html
ヴィヴィッドで分かりやすく、臨機応変に説かれる生きた教え。にもかかわらず、中国でも日本でも本書は等閑に付されてきた。忘れられた名著。 

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2020年5月5日火曜日

『臨済録』秋月 龍珉 訳(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』 所収)

強烈なパワーを持つ「語録の王」。

『臨済録』は、黄檗希運(おうばく・きうん)の弟子、臨済義玄(りんざい・ぎげん)の言行録である。

「上堂(対話による説法の記録)」、「示衆(講義の記録)」、「勘辨(禅者が互いの実力を確かめるために行う問答)」、「行録(臨済の一代記)」の4つの部分によって構成される。

『臨済録』は、しばしば「語録の王」と呼ばれる。禅の語録は数多いが、これほどまでに人々にインスピレーションを与えてきた語録も珍しい。そして、『臨済録』のすごさは、この『禅家語録 I』によって初期禅の思想を追ってみるとより明確になる。

黄檗によって初期禅思想は完成している。臨済が付け加えたものは思想面においては何もないと言ってもよい。しかしその表現は、黄檗とは大違いなのだ。臨済は、とにかく行動的・能動的である。それは、「内面」といったものを信じていないようにさえ見えるほどだ。彼にとっては全瞬間の一挙手一投足が勝負なのである。黄檗に3度殴られて大悟し、黄檗を殴り返した時から、臨済は「理屈じゃない、行動が全て」という原理で動いているように見える。

臨済は言う。「諸君、どこでも自己が主人公となれば、立っている所はすべて真実である」と。

まさに臨済はこれを体現する。彼はいつでも、自分の人生において自分を主人公としている。主人公であるという重荷を引き受けている。だから「出逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢えば羅漢を殺し、父母に逢えば父母を殺し、親類縁者に逢えば親類縁者を殺してこそ、初めて解脱して、何物にも拘束されず、一切に透脱して自在を得る」のである。

臨済が唱え、体現したのは、そういう強烈な個人主義であり、個我の価値であった。そして彼は、それを言葉によって表現するだけでなく、一瞬の機転で具現化した。殴る必要があれば遠慮なく殴ったし、また殴り返された。それまでの禅籍にほとんど全く見られないのに、『臨済録』にはそういう「禅機」が横溢しているのである。

臨済にとって、「悟り」などどうでもよかったのではないかと思える。六祖恵能以来の「煩悩即菩提」といった理論など、臨済にとってはチラシの裏の落書き程度の価値しかなかった。悟ったかどうか、そんなことより、常に「自己」が十全に発揮できること、それが臨済にとっての一大事であった。臨済が禅に革命をもたらしたのは、そういう「能動性」の礼賛であったと思う。それまでの「悟り」の世界が、欲望を寂滅した静的なものとしてイメージされていたのと比べ、臨済の「悟り」は、絶対的な自由を手にした動的なものなのである。

私は『臨済録』を通読するのは二度目だが、改めて読んでみて思ったのは、一見わけが分からなく思える問答でも、後代の訓詁学的な禅とは違い、臨済は常に自分の言葉と行動で対峙しているということである。また「示衆」においては、黄檗から受け継いだ理論を丁寧に解説してもいる。臨済はただパワーが有り余った自己中のオジサンではなくて、「どこからでもかかってこい」という包容力のある人間だ。

臨済自身は「喝」や「三十棒(文字通り30回棒で打つわけではないが棒で殴打する)を多用し、また後の五山文学に繋がるような韜晦な表現も使ったが、それは様式化されたものではなく、あくまでも臨済の衷心からのことだった。だが、臨済の禅があまりにも一世を風靡したために、「喝」や「三十棒」といったことだけが表面的に真似され、重要なことがこぼれ落ちていく危惧も、本書からは感じるところである。

それほど、本書は力に溢れ、人に影響を与えずにはおかない。初期禅の思想を自ら体現し、禅に「能動性」を導入した桁外れの男の言行録。