2022年11月27日日曜日

『公家たちの幕末維新—ペリー来航から華族誕生へ』刑部 芳則 著

公家の視点で明治維新を語る本。

明治維新史における主役は幕府や雄藩(薩長土肥)と志士たちであり、公家は脇役として語られてきた。しかも公家の多くが世間知らずで無能であるとされ、実際に新政府が樹立されてからは、岩倉具視や三条実美など一部の例外を除いて政権の中枢から排除された。

しかし権力闘争として明治維新史を見れば、それは「誰が朝廷を我がものとするか」の戦いであったと言える。すなわち公家たちの動向がキーだったのである。本書はこうした視点で、孝明天皇践祚以降の幕末維新史を、公家の視点から描いたものである。

「序章」では、まず前提となる近世の朝廷の仕組みが概説され、これが非常に参考になる。堂上(とうしょう)と地下(じげ)、公家の家格(摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家)、門流などの解説は重要だ。朝廷の意志決定機構は「朝議」であるが、これに参加出来たのは関白と議奏・武家伝奏(これを「両役」という)。意外なことに左大臣・右大臣・内大臣は朝議に参加する資格がなかった

両役以外の公家には政治的発言権はなく、下級公家は近習・内番・外様という禁裏小番を勤めた。このうち、明治後の侍従にあたる近習は、身分は低いが天皇の側近であった。内番・外様は具体的な仕事はない名目的な役職(順番に禁裏に詰めるのみ)である。

「第1章 政治に関与する公家たち」では、外国船の来航に対する公家の動向が語られる。彼らは外国船を好ましく思わず、孝明天皇は七社・七寺に国家安寧を祈祷したが、日米和親条約には反対していない。当時内裏が炎上して再建の必要があったため、朝廷は幕府と融和的な姿勢だったことがその背景にある。しかし続く通商条約については孝明天皇は反対の姿勢だったものの廷臣に諮問しても思ったような反対意見が出てこなかったため、参議以上に意見をもとめた。このあたりが興味深いところで、本来は政治的発言権がない公家に意見をもとめるようになったのが時代の移り変わりを象徴している。

朝廷の意見をまとめると、関白九条尚忠は幕府に再考を促す、太閤鷹司政通は開国容認、廷臣(左右大臣など)は条件付きで容認、参議以上は概ね開国反対であった。朝廷の中枢は幕府と協調的で開国容認であったのに、下級公家は開国反対なのが対照をなしている。特に中山忠能(ただやす)の激しい攘夷論と、正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう・さねなる)の冷静な開国容認論は注目される。関白九条は幕府の意向に沿う形で通商条約を容認する勅書を作成しようとしたが、それに黙っていなかったのが中山忠能らであり、幕府寄りの武家伝奏東坊城聡長への襲撃未遂事件も起こった。おとなしいイメージの公家も実力行使に出る時代になったのだ。

さらに岩倉具視・大原重徳が中心となり、堂上公家の「八十八人列参」が行われる。数の論理で勅書案の修正を求めたのである。これで勅書案は修正されることになった。朝廷内の下剋上とも言える事態であった。

ところが井伊直弼が大老に就任すると状況は一変。幕府は朝廷の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印してしまった。孝明天皇は激怒。さらに攘夷派を弾圧する安政の大獄が開始された。この状況に抵抗するため、左右大臣・内大臣等の意見により水戸藩の徳川斉昭(井伊より慎を命じられていた)に幕政改革や外侮の防御を図らせる「戊午の密勅」を下した。なおこれとあわせて、関白九条尚忠が幕府寄りであることから天皇は排除しようとしたが、幕府(京都所司代酒井忠義)は関白罷免の差し止めに成功した。

さらに幕府は、安政の大獄の弾圧の対象を公家までに広げ、「戊午の密勅」関係者を次々処分した。関係者は処分をおそれ次々辞任したが、結局多くが処罰された。前関白鷹司政通・前左大臣近衛忠煕・前右大臣鷹司輔煕・前内大臣三条実万は落飾・慎、皇族の青蓮院宮尊融親王が慎・退隠・永蟄居など、政権の中枢が退場した。なお皇族の青蓮院宮の処分の名目は、一乗院主であったときに家来の娘に子どもを産ませたことだった。彼は青蓮院から相国寺塔頭の桂芳軒に移り「獅子王院宮」と称した。

「第2章 公武合体の季節」では、和宮降嫁の顚末が述べられる。皇女を将軍の妻に迎えるというアイデアは井伊直弼の片腕長野主膳(義言(よしとき))のものらしい。安政の大獄によって悪化した朝廷との関係を婚姻関係によって修復することを考えたのである。

孝明天皇の妹和宮には許嫁がいたことから朝廷は難色を示すが、年齢的に和宮以外の候補がいなかったこと、そしてこのことをどこからか聞きつけた岩倉具視が暗躍し、三度の降嫁願いを経て「公武合体」のために朝廷は嫌々ながら承諾した。この際、幕府は期限を定めて攘夷を約束したが、これが後で自分の首を絞めることになる。こうして和宮は京から江戸へと下向。その行列を共にしたのが権大納言中山忠能や左近衛少将千種有文、右近衛少将岩倉具視などである。

なお朝廷からは和宮の処遇については御所風にするという条件が出されたにもかかわらず、江戸についた和宮は武家風の部屋に通され、しかも13代将軍の正妻天璋院との対面では天璋院が上座であった。

「第3章 京都の政局」では、公武合体と尊皇攘夷のせめぎ合いの中での公家の動きが語られる。本章は1861〜62年の2年間を対象とする。この時期には長州と薩摩が目立った活動を展開する。長州の長井雅楽(うた)の積極的な開国論「航海遠略策」は朝廷に方針転換の兆しをもたらしたが、結局は攘夷の方針が維持された。一方、薩摩の島津久光は上京して天皇に謁見し、朝廷と共同して幕府に幕政改革(三事策)を突きつけることとなった。本書ではその勅使が大原重徳に決まり久光と共に出発するまでの経緯が述べられるが、煮え切らない朝廷に久光が痺れを切らす様子が興味深い。

この動きと同時期、朝廷では「国事御用書記」という役職がつくられ27人の公家が任命された。これは議奏を補佐するもので、国事書類の筆写を行うものである。彼らは筆写を通じて多くの情報に触れた。注目すべきことに、この役職は摂家を除く清華家・大臣家・羽林家・名家・半家からそれぞれ任命された。身分の高下にかかわらず公家が政治にかかわる窓口が出来たことになり、事実、後述する四奸二嬪排斥運動などを起こす公家たちがこれに重なっていた。

京都の政局が次第に強硬な攘夷のムードに傾いて行く中、和宮降嫁に協力した公家への家禄加増が発表される。関白九条尚忠に1000表、内大臣久我建通と宰相中将橋本実麗に300石、岩倉具視と千種有文に200石などである。攘夷ムードの中で公武合体派に行われたこの褒美はありがた迷惑なものだった。批判が高まることになったからである。

さらに長井雅楽の「航海遠略策」には、朝廷の衰微を認める部分があったためその言葉尻が問題になる(謗詞一件)。朝廷は「謗詞一件」を重大な問題とは見なさなかったものの、長州藩攘夷派はこの件が解決すれば長井が復活し公武合体路線になるとおそれて運動し、長井は切腹となった。公武合体派への弾圧の始まりだった。文久2年(1862)、久我建通に蟄居落飾、岩倉具視・千種有文・富小路敬直に蟄居を命じ(この4人が「四奸」)、今城重子と堀川紀子(二嬪)が辞職したのである(=四奸二嬪排斥運動)。これは志士の間から公武合体を進めた公家を非難する声があり、それを背景として行われたものだという。志士の声を受けて朝廷が処分したのは奇異な感じがするが、処分をしなければ天誅と称して暗殺される危険があったためだろう。なおこの処分を実行した関白近衛忠煕は天皇から信頼を失い、その結果彼自身も政治的意欲を失っていく。

しかし盛り上がる攘夷のムードをよそに、朝廷は幕府に即今攘夷を求めることは朝幕関係に水を差すだろうと及び腰になりはじめる。このような中、青蓮院宮が永蟄居を宥免されて復帰。そして正親町三条実愛と中山忠能、島津久光から後援を受けていた青蓮院宮らは、有力な公家たちを朝議に参加させようと、関白近衛に働きかけ「国事御用掛」を設置させた。これは摂家から名家までの公家(つまり半家はない)と皇族(青蓮院宮)の21名が任命された。ここでも身分の高下と役職が直接リンクしなくなっていることが重要だ。

「第4章 攘夷をめぐる激闘」では、攘夷の実施と長州藩処分をめぐっての権力闘争が描かれる。文久3年(1863年)には社会全体がさらに過激な攘夷のムードになり、穏健派の公家が後退。関白近衛忠煕が辞職して鷹司輔煕が継いだ。さらに国事御用掛から人材が「精選」されて「国事参政・国事寄人」が設置。尊攘派公家がこれに任命された。また学習院が政治の談議をする場として活用されるようになっていく。それまで政治からは排除されていた公家たちが政治に参画するようになり、多くの集会を開き、議論するようになったのである。

孝明天皇は攘夷を求めてはいたものの、幕府に対しては穏健な態度を取っていた。ところが期限を定めた攘夷実行を求める強行派の公家たちに押され、幕府にも強硬な態度を取らざるを得なくなる。朝廷の中枢にとって、国事御用掛・国事参政・国事寄人の意見は無視できなかった。このような状況の中、孝明天皇は212年ぶりとなる賀茂両社への行幸、石清水八幡宮への行幸で攘夷を祈願した。さらに朝廷は10万石以上の大名から人を出させて「御親兵」を設置した。防衛は武家の領域だったにもかかわらず、議奏三条実美が「京都御守衛御用掛」となった。

こうして下級公家たちの突き上げによって前例踏襲の公家の世界が変わっていったが、朝廷上層部と天皇はそうした過激で強引な言説を好ましく思わなかった。そして天皇は朝廷の正常化のために島津久光に期待するようになり、三条実美らを朝廷から排除する「八月十八日の政変」が薩摩藩・会津藩・淀藩によって起こされた。国事参政・国事寄人は廃止され、尊攘派の公家たちが処罰された。しかし三条実美や沢宣嘉、東久世通禧らは長州に脱出(七卿落ち)。公家が天皇の許可を得ずに京都を離れることは違反行為であったため、七卿は追って官位を剥奪された。

一方、鷹司輔煕は辞職し二条斉敬(なりゆき)が就任。廷臣の顔ぶれは幕府寄りで無理な攘夷を避けるものとなった。中山忠能は、息子たちが過激な攘夷派であったことの不都合や持病の痔が悪化して中枢から後退。他方、山階宮晃親王はその才覚を買われ、尊攘派公家を抑えることを期待して還俗させられ政治に参画するようになる。

そのような中、横浜・函館・長崎の鎖港(特に横浜鎖港)と長州藩処分などの意見の対立から公家と武家の人事が動き、一橋慶喜・桑名藩・会津藩の「一会桑」が成立した。だが一会桑の下でも過激な攘夷を主張する公家は引き続き活動した。一条実良は幕府に横浜鎖港の実行を督促する建白書を門流一同38人の連署で提出。また中山忠能は長州藩に寛大な処分を求め攘夷の実行を促す上書を58人の連署で提出した。攘夷と長州藩の処遇がリンクし焦点となったが、朝廷は長州藩追討の勅語を出す。

こうして会津藩・薩摩藩と長州藩との間の戦闘「禁門の変」が起こった。洛中は大火となり堂上公家の家も24家が焼失。御所へ向けて発砲した長州藩は「朝敵」となり、それに同情的な姿勢を示した多くの公家も処分の対象となった。

「第5章 朝廷の内と外」では、孝明天皇が亡くなるまでの政治的混乱が述べられる。幕府と朝廷では長州問題や攘夷、開港の立場を巡る関係者の思惑が交錯し、朝幕入り乱れた対立の構図が生じた。そういう状況の中、慶応元年(1865)9月末に岩倉具視は「復古一新」を考えるようになる。この頃、岩倉具視は裏で薩摩藩と手を結んでいた。そして朝幕が長州問題を渋々寛大な処分でおさめようとしていた時、薩長同盟が結ばれる。よって長州は幕府の処分案に応じず、幕府と長州軍が一触即発の状態となった。

このような緊迫した時期、孝明天皇は乱心し日々三四度の酒宴を開き、鳥類などを庭で鑑賞したり雅楽を演奏させた。朝廷内も意見の相違から動揺。慶応2年(1866)、「二十二人の列参運動」が起こった。これは中御門・大原重徳など22人の公家が(1)朝廷主導で諸藩招集、(2)文久2・3年、元治元年(=1862〜64)に処分された公家の赦免、(3)朝廷改革、(4)長州解兵を求めたものである。しかしこれは天皇に受けが悪く、功を奏さなかった。天皇は公家たちから受ける突き上げに辟易していたのかもしれない。

一方、将軍家定は長州征伐中に病死。しかしそれを継ぐはずの一橋慶喜は将軍職を辞退して幕府には政治的空白が生じる。朝廷ではこの辞退を乗り切るべく諸藩を招集しようとしたがうまくいかず、二条斉敬と中川宮朝彦親王が辞意を表した。しかし孝明天皇としては、信頼する二人を失いたくはなく、二十二人の列参運動を起こした公家22人と彼らに協力した山階宮晃親王と正親町三条に処分が下った。四度目の廷臣処分である。これで合計して62人もの皇族や公家が朝廷から去ったのである。こうした中、慶喜への将軍宣下が行われた。その直後孝明天皇は体調を崩し病死。タイミングがよすぎる死去にかつては毒殺説も唱えられたが、現在では天然痘説が有力である。

「第6章 王政復古への道程」では、王政復古のクーデターに至る動向が述べられる。孝明天皇の死は、彼によって処罰され朝廷を去ったものたちの赦免の機会となった。それは順調に行われたのではないが、順次赦免が行われた。「四奸」の赦免も行われたものの完全な赦免ではなく、月に一度だけの入京が許可されただけであった。

こうした赦免によって多くの廷臣が復帰すると、朝廷に人事の変動が起こった。結果、朝廷・幕府・雄藩(特に薩摩藩)が朝廷の要職を巡って駆け引きを繰り返す。その間に立った二条斉敬は、幕府が難色を示していた正親町三条を雄藩らの意見に基づき議奏に就任させた。さらに朝廷は長州の寛大処分と兵庫開港を許可。二日間にわたり「幕府の言い分を致し方ないとする公家と開港反対と異議を唱える公家が舌戦を繰り広げた(p.223)」末の、二条の苦渋の決断であった。

ここで注目されるのは島津久光と朝廷の微妙な距離感である。朝廷は幕府に対抗するために久光の力を必要としたが、久光は公家たちと必ずしも協調していなかった。薩摩藩では幕府との協調を見限り、討幕の意志を固めていたからなのかもしれない(朝廷は倒幕など毛頭考えていない)。

慶応4年(1868)10月14日、徳川慶喜が大政奉還。そして同日、薩長に「討幕の密勅」が下された。連署したのは正親町三条・中御門経之・中山忠能。準備は岩倉具視で、文案は玉松操による。これは朝廷の正式な手続きを経ない、偽勅といってもよいものである。彼らは覚悟を決めたのだった。

大政奉還後には政権が極めて流動的になり、摂家中心の復古政体が構想されたり、一度は覚悟を決めたはずの正親町三条と中山が不安になって揺り戻されたりした。12月8日に朝議が開かれ、翌日まで議論がもつれたが長州藩の復権(藩主親子の官位復旧)、岩倉具視など「四奸」の還俗の許可、三条実美など五卿の復権が決定。これと並行して岩倉邸では政変の準備が進んでいた。そして朝議が終わったことを見計らい、王政復古のクーデターが行われたのである。

朝廷にとっての王政復古は、まずは官職の廃止であった。摂政・関白・内覧・勅問御人数・国事御用掛・議奏・武家伝奏・京都所司代が廃止された。これらが律令国家の百官に基づかない令外官だったからだ。また幕府寄りと見なされた二条斉敬はじめ多くの要職者たちは参朝停止となり、新政府の要職に就くことはできなかった。一方、それまで尊攘派と見なされた公家たちは大逆転して、総裁・議定・参与という新たに設けられた要職に就いた。

「第7章 維新の功労」では、公家たちが「華族」として再編成していく様が述べられる。一度は要職に就いた尊攘派公家たちも、その多くは新政権にお墨付きを与えるだけの存在であったので、一部の例外を除きわずか3年半の間に要職から遠ざけられた。なお版籍奉還(明治2年)の後に「公卿」と「諸侯」の名称を廃止して合わせて「華族」が生まれた。

明治9年(1876)に華族を統括する宮内庁部長局が設置。東京在住華族の「宮中侍侯」、京都在住の「桂宮侍侯」が置かれ、後にそれぞれ「宮中祗候」「桂宮淑子内親王家祗候」に改められた。無職の華族の生活保護のための名目的官職である。さらに明治17年には華族令が公布され、公・侯・伯・子・男爵の五爵が設けられた。幕末から明治維新時には公家の上下関係を破壊する動きがあり、「華族」として一緒くたにしたにもかかわらず、改めてそこに世襲の(!)上下関係を再編していったのは時代の変化を感じざるを得ない。

なおこの叙爵内規は公表されなかったため、公家たちはどのようにして上下関係が決められたのか知らなかった。 その原理は大雑把に言えば、公家の旧家格をもとに爵を設定し、「国家に偉勲ある者」の爵を上昇させたということである。しかし叙爵に納得しない公家も多かった。特に嵯峨実愛・中御門経之・大原重徳は過小評価されたことに不満を抱いた。逆に三条実美・岩倉具視・東久世通禧は他より偉勲が加味されている。

「終章 公家にとっての明治維新」では、維新後に公家がその歴史と伝統を保存しようとした動きを述べている。明治維新は、結果的には公家の世界を破壊することになった。その一部は華族として温存され存続したものの、伝統文化を継承する公家の世界はもはや存在しなかったのである。公家たちは「憲法や議会をもたらすために王政復古をしたのではなかった(p.282)」のに、結果的に自らを解体していた。

公家の世界が失われることを危惧した岩倉具視は、明治10年に中山・嵯峨・橋本実梁に「維新以前諸儀式取調」を依頼した。追って宮内省により正式に設置され、公家の多くがこれに参画することになった。そして明治24年に完成したのが「公事録」全29冊・附図1帖。こうして維新以前の儀礼が保存されたのである。

また公家たちにとって最後の大仕事とも言えるのが『孝明天皇記』の編纂。完成したのは明治38年。多くの公家たちが心血を注いだ果ての大作であった。明治維新は、それに参画した公家たちにとっても自らの思惑とは違うものになっていたから、彼らが夢見た本当の王政復古を、「公事録」や『孝明天皇記』に託したのかも知れない。

本書全体を振り返って幕末維新における公家の存在を考えてみると、その第1の画期となったのが安政5年(1858)の「八十八人の列参」である。これは公家たちの下剋上の先駆けとなったもので、公家が家格ではなく数を恃んで実力行使に出るきっかけになった。第2の画期が「国事御用書記」の設置である。これには家格や官位官職に関係なく多くの公家が任命され、公家の世界に「能力主義の人事」をもたらした。

元々、最高位の公家(摂家など)も大きな政治的発言権があったわけではないが、政権から排除されていた中下級の公家にとっては、家格によって自らが縛られていると感じるのはやむを得ないことだ。これを打破することが中下級の公家たちの希望であった。それを唯一叶えたといえるのが、中級の羽林家から最上位まで上り詰めた岩倉具視である。

しかし家格を否定し能力主義を導入することは、公家自体の存在意義を否定することでもあった。公家が公家でいられるのは、家柄以外ではあり得ないからだ。幕末維新を巡る公家たちは、結果的に自らを解体する作業を進めていたのである。それでも公家が完全に解体されずかなりの程度華族として温存されたのは、明治維新が朝廷の権威を借りて実現したものだったからである。

それにしても幕末維新の公家たちは実によく議論し、意見書をまとめ、建白し、しばしば実力行使に出ている。この時期、公家の世界が活性化したことだけは間違いない。一般の維新史では、彼らは有職故実に囚われ現実を知らない無力な存在と描かれがちで、今でも「お公家さん」と言えば俗に自分の意見を持たないお飾り的な存在を指す。しかし当時の公家たちは、武家と同じくらい新しい時代について考えていたのかもしれないと本書を読んで感じた。

それでも、本書の帯にあるように公家たちが幕末維新の「真の主役」であったとまでは言えないだろう。彼らの動向が幕末史を左右したことは事実でも、ついに公家からは新時代を創出する偉大な思想家は生まれなかったし、真の意味で歴史の主役と呼びうる活躍をしたのは、孝明天皇の他は落飾し洛中を追放されていた岩倉具視くらいしか見受けられないのである。

公家たちは歴史の変動の中で表舞台に躍り出、特に中下級の公家たちが活発に活動するようになった。しかしそれが同時に公家の解体を促したところが歴史の皮肉である。本書はこの皮肉な歴史を冷静な筆致で辿ったものである。

公家にとっての幕末維新を冷静な目で述べた良書。


2022年11月13日日曜日

『吉田松陰—「日本」を発見した思想家』桐原 健真 著

吉田松陰における「日本」の自己像に関する思想の変転を振り返る本。

吉田松陰は、その生涯においてほとんど何も出来なかった思想家である。徳富蘇峰は彼の一生を「蹉跌の歴史」「失敗の一代」と評した。しかし彼の思想は弟子を通じて影響を与え、明治維新を裏面から支えたのである。

吉田松陰は、数え年5歳で山鹿流兵学師範の吉田家に養子に出され、翌年養父が死亡、6歳にして家督を継ぐ。周防・長門の両国を擁する長州藩の防衛という重責が幼い松陰(矩方(のりかた))にのしかかった。

養叔父らは松陰に恐ろしく厳格な教育を施し、松陰はわずか10歳にして山鹿流兵学を藩校明倫館で教授し(!)、11歳で藩主・毛利敬親に山鹿素行の『武教全書』を進講した。とんでもない早熟の俊英であった。彼が受けた教育は激烈であったが、後年、彼自身は穏当な教育を行った。ところが晩年には言動が激化し弟子たちと次々に絶交することとなる。

彼は毛利敬親に絶対の忠誠を献げ、その意識は「長州」から遊離することはなかった。次々と異国船が訪れる幕末の動乱の中で、兵学者つまり国防のブレーンであった松陰は「長州」の国防について考えた。しかし彼は伝統兵学を信頼し、西洋の砲術を学ぶ価値はないとしている。彼は外国の兵学について無知ではなかったがいわば保守主義者なのだった。

21歳の時に長崎平戸に遊学。松陰はここで蘭船を実見して伝統兵学の無力さを悟る。また清国人の魏源が書いた『聖武記附録』にはアヘン戦争での清国の徹底的な敗北が描かれていたが、この書を読んで伝統兵学のみでは国防を担えないことが明らかになり、清国の二の轍を踏んではいけないとの思いを強くした。松陰は「西洋」という他者像を手に入れたのである。

平戸遊学の翌年、松陰は参勤する藩主に従って江戸に遊学する。彼は佐久間象山の塾に入るが、実際にはほとんど通っていない。それでも江戸での学問の分厚さに圧倒され、自らの家学の無効性を悟った。井の中の蛙であったことがわかったのだ。しかしながら、江戸の学者が大義のためでなく日々の糧を得る手段として学問をしていたことに失望し、江戸に「師とすべきの人なし」と、道を見失って錯乱し葛藤した。

その状況を打開すべく、松陰は東北への遊学を志す。藩の許しも得ていたが、手続きの遅れから結果的に脱藩しての旅となった。そして彼は後期水戸学と出会う。特に日本を「皇国」としていた会沢正志斎の下には足繁く通った。こうして松陰にとって守るべき対象が「長州」ではなく「皇国」たる日本であると転換するのである。「後期水戸学は、三百諸藩からなる封建的分邦という部分を越えた全体としての「日本」という自己像を、幕末日本の知識人や志士たちに与えた(p.82)」のである。しかし当初、松陰は「天皇」にはあまり注目していない。

日本を「皇国」と見なした松陰は、日本が海外諸国を征服するべきだと考え(「北は満州の地を割き、南は台湾・呂宋の諸島を収め」『幽囚録』)、西洋兵学の導入を必要とした。後にこの「航海雄略」論は梁川星巌を通じて天皇のもとに届けられた。彼は西洋渡航を試み、ペリー艦隊に密航しようとした罪により投獄される。

投獄された松陰のもとには兄・杉梅太郎から多くの書籍が差し入れられ、彼は猛烈に勉強する。元々無類の読書好きであった松陰は記録魔でもあり、読書記録を綿密に作成した。そうした記録や手紙を使い、本書では「白旗書簡」と呼ばれる時事問題への松陰の見解を検討し、松陰の対外館と情勢分析能力を評価している。なお本筋とは関係ないが、嘉永元年(1848)の手紙で松陰が長崎奉行所を「崎陽鎮台」と呼んでいるのが気になった(p.123)。

やがて松陰の思索は、実際上の国防論よりも、西洋と対等(以上)の関係を樹立するための名分論に傾いていく。日本を「帝国」と位置づけたのは日米和親条約であったが、なぜ日本は当初から「帝国」であらねばならなかったか。それは日本では伝統的に帝国=中華帝国であり、日本が「王国」であるならばそれは中華帝国に包摂されるという認識があったからであった。つまり日本は西洋に対して独立を示すために中国とは別の「帝国」を為しているという必要があった。この立場が国家の主権についての考察を促し、松陰には「帝国」の元首(主権者)として天皇がクローズアップされてくる。

そして松陰は「天皇を真の「元首」たらしめることが、「帝国日本」のあるべきあり方であると主張するようになる(p.168)」。それまで松陰は兵学者として攘夷中心の尊皇攘夷を唱えていたが、勤皇僧・宇都宮黙霖とのやりとりの結果「コペルニクス的転回(源了圓)」を果たし、「尊王論としての純化」が起こったのだった。

黙霖は浄土真宗本願寺派の僧侶で、聴覚障害があり漢文による筆談でコミュニケーションしたという。彼は松陰とは対照的に、強固な反水戸学の立場を取った。それは水戸学が「幕藩体制を維持するために、天皇をイデオロギー的に利用する「尊皇敬幕」の教説(p.172)」であると見なしたからで、黙霖は国学や神道に共感していた。松陰と黙霖は尊王論のあり方をめぐって書簡論争し、遂に松陰は「降参」するに至る。

松陰は投獄中、驚くべき量の本を読み、それを『野山獄読書記』という記録にまとめた。『野山獄読書記』には3年間で1460冊もの本が記録されているが、その前半は水戸学・漢学系尊王論が多いのに、「降参」後の後期となると国学・神道系尊王論にそれが置き換わる。特に中島広足の『敏鎌(とがま)』には強い影響を受け、松陰は「天」や「道」といった普遍的な原理ではない「日本固有の語り」に確信を深めていく。

かつての松陰は「神州君臣の義は万国に卓越す(安政3年(1856))」と楽天的な尊王論を唱えていた。しかし現実には天皇と人々に「君臣の義」など存在せず、日本を治めているのは徳川幕府なのだ。それを自覚した松陰は、武家政権以後の600年を全否定するようになるのである。そして天皇こそが日本が日本であることの根源、すなわち「国体」であると考え、天皇の根拠である「天壌無窮の神勅」をよりどころにした。

しかし彼は神話を事実とは見なしていなかったフシがある。それでも松陰は、「日本固有の語り」以外に自らの依って立つ基盤を見出すことができなかった。それが「怪異」によるものだとは自覚しつつも、松陰は神勅を「信じる」ことを選択したのである。

なお松陰は獄中で『孟子』を講義し、その講義録を長州最高の学識である山県太華に送って講評を仰いだ。太華はその尊王攘夷論や国体論を全く認めなかったので松陰は愕然としたが、講義を続けるとともに太華に書面上で教えを乞い、結果まとまったのが『講孟余話』である。

本書では『講孟余話』と太華の返答である「講孟余話評語」を分析し、特にその対外関係論を抽出している。それによれば、太華は朱子学者らしく中華(文明の中心)による「普遍」を措定して、そこから諸国家が規定されると考えた。一方松陰は、日本が「日本固有の語り」を持っているように諸国家もそれぞれのアイデンティティを持ち、国家の相互関係から諸国家間の「普遍」が導き出されると考えた。松陰の尊王論は、確かに日本を神勅で基礎付ける狂信的な部分もあったが、それであるがゆえに国家を相対化し、彼我の「国体」を互いに承認し合う「国際関係」認識に至ったのだという。これは一面では「万国公法」的な立場の考えに近い。

ところが松陰は安政の大獄により死罪を申し渡される。「松陰が蟄居の身でありながら海防論を述べ、政策論を著したことは、幕府にとっては、明らかな罪であった(p.227)」。享年僅か30歳。

松陰の辿り着いた尊王攘夷論は、国学者たちが鼓吹し、彼自身もかつて唱えていた世界征服論などとは全く異質であった。松陰はそうした夢想を退け、「みずからの固有性としての「国体」を堅持しつつ、「五大洲公共の道」という普遍へと乗り出していく「航海雄略」を唱えた(p.230)」のであった。

本書を通じて感じたのは、松陰の異常なまでの読書力である。『野山獄読書記』の記録は凄まじい。例えば1856年の12月には、本居宣長の『古事記伝』の10〜15巻までの6冊を読んでいるが、『古事記伝』はこのようにサラっと読めてしまう本ではないのである。これは一例であり、いくら他にすることがない獄中の身とはいえ読書の質・量が半端ない。彼は読書によってその思想を形作っていったといえる。

そして、獄中の松陰を支えた兄・杉梅太郎にも興味が湧いた。なぜ梅太郎は松陰の求めるままに大量の本を差し入れることができたのか。彼はどうやってそれらの本を手に入れることができたのか。松陰の思想形成を担った隠れた重要人物である。

全体を通じ、本書は松陰の思想のみにフォーカスを当て、伝記的事実はごく簡略にしか述べられないのが憾みである。つまり本書は評伝ではなく松陰の思想的変転のみを説明するものだ。しかしその思想を解き明かすのには、伝記的事実は欠かせないもののように思う。特に投獄体験は松陰の思想に大きな影響を与えているように思われるので、もう少し詳細に述べてほしかった。

とはいえ、思想以外を捨象した結果、本書は極めてスマートにまとまっている。松陰の思想について概観するための良書。


 

2022年11月12日土曜日

『大江戸庶民いろいろ事情』石川 英輔 著

江戸の実態をさまざまに述べる本。

著者の石川英輔は、『大江戸神仙伝』という小説を書くために江戸の風俗を綿密に調べ始めた。小説に書くためには、当時の人にとっては当たり前のことを知っておかなくてはならない。しかし当たり前のことはあまり記録されない。だから苦労して調べつつ小説を書くのだが、『神仙伝』の姉妹編を何冊か書き江戸の実態がわかってくるようになると、江戸時代の風俗の専門家とみなされるようになってきた。そして本業(印刷業の技術者)の観点から『大江戸えねるぎー事情』などの江戸の社会を見直す本を書くようになった。

本書もこうした一連の本の一冊で、技術者的な観点から様々な江戸時代の文化風俗を見直したものである。

本書では、江戸の実態を推測するために多くの絵図を援用している。「当たり前のことはあまり記録されない」のは文章の中だけで、絵になると皆がよく知っていることは細部に至るまで正確に描かれることが多いため、記録として非常に価値が高い。江戸時代の木版画は恐ろしく高い技術によって作られているので、江戸時代の実態を知るには必須の史料である。

特に『江戸名所図会』は質と量ともに抜群で、「『江戸名所図会』がなければ、われわれの江戸に対する知識は一桁も二桁も少なくなるのではないか(p.67)」というほど重要で、「図会ものの最高峰(同)」である。著者は偶然にこの完全な美本を手に入れ、それを底本にして田中優子氏との共同監修で評論社から原寸復刻版を刊行している。

以下、本書の内容から興味を引いたものをいくつかメモする。

江戸時代の人がどんなものを食べていたか。具体的にはどんなおかずを食べていたかという料理の種類の話になるが、これが意外なことに、現代でもそれがどんなものかわかるほど馴染みのあるものなのである。食は保守的でなかなか変わらない。

江戸時代の庶民の遊びは豊富だった。余暇が多く識字率が高かったため(江戸時代の日本は世界的に見て出版大国だった)、遊芸が盛んになり、俳句や川柳、狂歌、連句などは高度な水準に達した。

「拳」については本書で初めて知った。これはジャンケンのような遊びであるが、ルールはもっと複雑で「本拳」とか「三竦み拳」といったいろいろな種類があった。ルールからは純粋な確率のゲームに見えて、実際は高度な心理戦でありその道の名人は相当に強かったらしい。「拳」はごく一部を除いて現代ではすっかり廃れた。

著者は江戸の武家地・寺社地・町屋(町人居住地)の分類に疑問を持ち、『復元 江戸情報地図』という資料によって種目別の土地の割合を計算した。結果は、農地が第1位で、続いて武家地、町屋、寺社地、河川の順となる。考えてみれば当たり前のことだが、江戸でも農地が多い。意外なのは河川が約4%を占めていたことで、江戸は水の都だったのだと再認識させられる。

そして江戸は上水道がかなり整備されており、「江戸の水道網は当時の世界では、給水人口、給水面積、給水量のいずれをとっても飛び抜けた規模だった(p.32)」そうだ。江戸の上水道には元来の神田上水と、後からつくった玉川上水の二系統があり、本書ではその成立について詳しく書いている。江戸が当時世界一の人口を擁したのは、玉川上水のおかげが大きいそうだ。庶民も武士もちゃんと上水道料金を払っていたというのが面白い(もちろんメーターなんかはないが)。

また著者は「木戸」について詳しく実態を調べている。 「木戸」とは街のあちこちにあった区切りであり、元々は防衛上・治安上の意味があったらしい。ところが太平の世が続く中で形骸化していった。著者は絵図から、木戸には戸がほとんど失われてしまったことを解明した。

ところで、本書ではちらっと書かれるだけだが、「庶民でも、旅行の時は、一尺八寸までの脇差しを帯びた(p.321)」とあった。これは何のためなのか(護身のためなのか?)気になった。

なお全篇にわたり、「現代社会は限界を迎えているので、江戸時代の持続可能な社会の在り方を見直すべきだ」「江戸時代は不当に低く評価されてきた」といった趣旨の主張があり、その通りだと思うものの、あまりにも頻繁に書かれるのでややくどい。これがなければ本書は専門書にも引けを取らない内容を持っていると感じる。

主に絵図を使い江戸時代の実態をいろいろに語る参考書。