吉田松陰は、その生涯においてほとんど何も出来なかった思想家である。徳富蘇峰は彼の一生を「蹉跌の歴史」「失敗の一代」と評した。しかし彼の思想は弟子を通じて影響を与え、明治維新を裏面から支えたのである。
吉田松陰は、数え年5歳で山鹿流兵学師範の吉田家に養子に出され、翌年養父が死亡、6歳にして家督を継ぐ。周防・長門の両国を擁する長州藩の防衛という重責が幼い松陰(矩方(のりかた))にのしかかった。
養叔父らは松陰に恐ろしく厳格な教育を施し、松陰はわずか10歳にして山鹿流兵学を藩校明倫館で教授し(!)、11歳で藩主・毛利敬親に山鹿素行の『武教全書』を進講した。とんでもない早熟の俊英であった。彼が受けた教育は激烈であったが、後年、彼自身は穏当な教育を行った。ところが晩年には言動が激化し弟子たちと次々に絶交することとなる。
彼は毛利敬親に絶対の忠誠を献げ、その意識は「長州」から遊離することはなかった。次々と異国船が訪れる幕末の動乱の中で、兵学者つまり国防のブレーンであった松陰は「長州」の国防について考えた。しかし彼は伝統兵学を信頼し、西洋の砲術を学ぶ価値はないとしている。彼は外国の兵学について無知ではなかったがいわば保守主義者なのだった。
21歳の時に長崎平戸に遊学。松陰はここで蘭船を実見して伝統兵学の無力さを悟る。また清国人の魏源が書いた『聖武記附録』にはアヘン戦争での清国の徹底的な敗北が描かれていたが、この書を読んで伝統兵学のみでは国防を担えないことが明らかになり、清国の二の轍を踏んではいけないとの思いを強くした。松陰は「西洋」という他者像を手に入れたのである。
平戸遊学の翌年、松陰は参勤する藩主に従って江戸に遊学する。彼は佐久間象山の塾に入るが、実際にはほとんど通っていない。それでも江戸での学問の分厚さに圧倒され、自らの家学の無効性を悟った。井の中の蛙であったことがわかったのだ。しかしながら、江戸の学者が大義のためでなく日々の糧を得る手段として学問をしていたことに失望し、江戸に「師とすべきの人なし」と、道を見失って錯乱し葛藤した。
その状況を打開すべく、松陰は東北への遊学を志す。藩の許しも得ていたが、手続きの遅れから結果的に脱藩しての旅となった。そして彼は後期水戸学と出会う。特に日本を「皇国」としていた会沢正志斎の下には足繁く通った。こうして松陰にとって守るべき対象が「長州」ではなく「皇国」たる日本であると転換するのである。「後期水戸学は、三百諸藩からなる封建的分邦という部分を越えた全体としての「日本」という自己像を、幕末日本の知識人や志士たちに与えた(p.82)」のである。しかし当初、松陰は「天皇」にはあまり注目していない。
日本を「皇国」と見なした松陰は、日本が海外諸国を征服するべきだと考え(「北は満州の地を割き、南は台湾・呂宋の諸島を収め」『幽囚録』)、西洋兵学の導入を必要とした。後にこの「航海雄略」論は梁川星巌を通じて天皇のもとに届けられた。彼は西洋渡航を試み、ペリー艦隊に密航しようとした罪により投獄される。
投獄された松陰のもとには兄・杉梅太郎から多くの書籍が差し入れられ、彼は猛烈に勉強する。元々無類の読書好きであった松陰は記録魔でもあり、読書記録を綿密に作成した。そうした記録や手紙を使い、本書では「白旗書簡」と呼ばれる時事問題への松陰の見解を検討し、松陰の対外館と情勢分析能力を評価している。なお本筋とは関係ないが、嘉永元年(1848)の手紙で松陰が長崎奉行所を「崎陽鎮台」と呼んでいるのが気になった(p.123)。
やがて松陰の思索は、実際上の国防論よりも、西洋と対等(以上)の関係を樹立するための名分論に傾いていく。日本を「帝国」と位置づけたのは日米和親条約であったが、なぜ日本は当初から「帝国」であらねばならなかったか。それは日本では伝統的に帝国=中華帝国であり、日本が「王国」であるならばそれは中華帝国に包摂されるという認識があったからであった。つまり日本は西洋に対して独立を示すために中国とは別の「帝国」を為しているという必要があった。この立場が国家の主権についての考察を促し、松陰には「帝国」の元首(主権者)として天皇がクローズアップされてくる。
そして松陰は「天皇を真の「元首」たらしめることが、「帝国日本」のあるべきあり方であると主張するようになる(p.168)」。それまで松陰は兵学者として攘夷中心の尊皇攘夷を唱えていたが、勤皇僧・宇都宮黙霖とのやりとりの結果「コペルニクス的転回(源了圓)」を果たし、「尊王論としての純化」が起こったのだった。
黙霖は浄土真宗本願寺派の僧侶で、聴覚障害があり漢文による筆談でコミュニケーションしたという。彼は松陰とは対照的に、強固な反水戸学の立場を取った。それは水戸学が「幕藩体制を維持するために、天皇をイデオロギー的に利用する「尊皇敬幕」の教説(p.172)」であると見なしたからで、黙霖は国学や神道に共感していた。松陰と黙霖は尊王論のあり方をめぐって書簡論争し、遂に松陰は「降参」するに至る。
松陰は投獄中、驚くべき量の本を読み、それを『野山獄読書記』という記録にまとめた。『野山獄読書記』には3年間で1460冊もの本が記録されているが、その前半は水戸学・漢学系尊王論が多いのに、「降参」後の後期となると国学・神道系尊王論にそれが置き換わる。特に中島広足の『敏鎌(とがま)』には強い影響を受け、松陰は「天」や「道」といった普遍的な原理ではない「日本固有の語り」に確信を深めていく。
かつての松陰は「神州君臣の義は万国に卓越す(安政3年(1856))」と楽天的な尊王論を唱えていた。しかし現実には天皇と人々に「君臣の義」など存在せず、日本を治めているのは徳川幕府なのだ。それを自覚した松陰は、武家政権以後の600年を全否定するようになるのである。そして天皇こそが日本が日本であることの根源、すなわち「国体」であると考え、天皇の根拠である「天壌無窮の神勅」をよりどころにした。
しかし彼は神話を事実とは見なしていなかったフシがある。それでも松陰は、「日本固有の語り」以外に自らの依って立つ基盤を見出すことができなかった。それが「怪異」によるものだとは自覚しつつも、松陰は神勅を「信じる」ことを選択したのである。
なお松陰は獄中で『孟子』を講義し、その講義録を長州最高の学識である山県太華に送って講評を仰いだ。太華はその尊王攘夷論や国体論を全く認めなかったので松陰は愕然としたが、講義を続けるとともに太華に書面上で教えを乞い、結果まとまったのが『講孟余話』である。
本書では『講孟余話』と太華の返答である「講孟余話評語」を分析し、特にその対外関係論を抽出している。それによれば、太華は朱子学者らしく中華(文明の中心)による「普遍」を措定して、そこから諸国家が規定されると考えた。一方松陰は、日本が「日本固有の語り」を持っているように諸国家もそれぞれのアイデンティティを持ち、国家の相互関係から諸国家間の「普遍」が導き出されると考えた。松陰の尊王論は、確かに日本を神勅で基礎付ける狂信的な部分もあったが、それであるがゆえに国家を相対化し、彼我の「国体」を互いに承認し合う「国際関係」認識に至ったのだという。これは一面では「万国公法」的な立場の考えに近い。
ところが松陰は安政の大獄により死罪を申し渡される。「松陰が蟄居の身でありながら海防論を述べ、政策論を著したことは、幕府にとっては、明らかな罪であった(p.227)」。享年僅か30歳。
松陰の辿り着いた尊王攘夷論は、国学者たちが鼓吹し、彼自身もかつて唱えていた世界征服論などとは全く異質であった。松陰はそうした夢想を退け、「みずからの固有性としての「国体」を堅持しつつ、「五大洲公共の道」という普遍へと乗り出していく「航海雄略」を唱えた(p.230)」のであった。
本書を通じて感じたのは、松陰の異常なまでの読書力である。『野山獄読書記』の記録は凄まじい。例えば1856年の12月には、本居宣長の『古事記伝』の10〜15巻までの6冊を読んでいるが、『古事記伝』はこのようにサラっと読めてしまう本ではないのである。これは一例であり、いくら他にすることがない獄中の身とはいえ読書の質・量が半端ない。彼は読書によってその思想を形作っていったといえる。
そして、獄中の松陰を支えた兄・杉梅太郎にも興味が湧いた。なぜ梅太郎は松陰の求めるままに大量の本を差し入れることができたのか。彼はどうやってそれらの本を手に入れることができたのか。松陰の思想形成を担った隠れた重要人物である。
全体を通じ、本書は松陰の思想のみにフォーカスを当て、伝記的事実はごく簡略にしか述べられないのが憾みである。つまり本書は評伝ではなく松陰の思想的変転のみを説明するものだ。しかしその思想を解き明かすのには、伝記的事実は欠かせないもののように思う。特に投獄体験は松陰の思想に大きな影響を与えているように思われるので、もう少し詳細に述べてほしかった。
とはいえ、思想以外を捨象した結果、本書は極めてスマートにまとまっている。松陰の思想について概観するための良書。
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