2020年12月31日木曜日

『カルル・チェルニー—ピアノに囚われた音楽家』グレーテ・ヴェーマイヤー 著、岡 美知子 訳

チェルニーの人生を辿り、19世紀前半の音楽シーンを描く。

チェルニーといえば、ピアノ学習者にはおなじみで、『チェルニー30番』とか『同40番』などの練習曲に苦労した記憶は誰にでもある。だが、チェルニーという音楽家がどのような人物であったのかは知らない人が多い。本書は、チェルニーという知られざる音楽家の全貌を紹介するとともに、それを通じて19世紀ヨーロッパにおける音楽事情を活写するものである。

チェルニーは、850曲以上を出版した作曲家であった。彼はベートーヴェンの弟子であるが、ベートーヴェンが作品番号を与えたのが150曲に満たなかったのを考えると非常なる多作家である。ではその内容はどのようなものであるか。今では練習曲が高名であるがそれは作品全体のごく一部であり、全体の半分を占めるのは当時流行したオペラや歌曲のパラフレーズ(編曲やアレンジ)である。

なにしろ、当時は録音ができないため、音楽を楽しみたい市民は、劇場に行くか、あるいは自分たちで演奏する以外にはなかった。だから、今の人が流行の曲をカラオケで歌うのと同じように、当時の市民は自宅のピアノ(やその他の簡単な伴奏楽器)でオペラや歌曲を演奏したのである。そのため、誰でもさほど練習せずとも弾ける簡単なパラフレーズは非常に需要が大きかった。ウィーンでこういう仕事を一手に引き受けていたのがチェルニーである、といっても過言ではない。

我々は、チェルニーがどのようなパレフレーズを作曲したかを辿ることで、今では失われた当時のウィーンの音楽シーンを再構成することができる。それは、必ずしも古き良き時代の記憶を呼び起こすことではない。むしろ、苦々しい音楽シーンの記録でありさえする。

19世紀初頭のウィーンは、政治的な混乱のまっただ中にあった。1848年、ヨーロッパの他の都市より遅れてウィーンにも革命が起こるが、この革命の年まで、ウィーンの貴族や市民たちは先の見えない政治情勢に右往左往した。この、一見するとナポレオン戦争後の平和な時代、社会の不平等や格差は大きく広がり、どうしようもない矛盾が世の中に横たわっていた。それゆえに人びとは自分が政治的に無力であると諦観し、混乱した政治を視て見ぬ振りしながら、「政治から芸術にへ、社会から個人へ、現実から夢へと逃避した(p.48)」。

そして人びとは音楽に熱狂した。だがそこで好まれたのは真の芸術ではなかった。理想に燃えた高尚な芸術ではなく、その場しのぎの、簡単に盛り上がるがすぐに忘れられる音楽が好まれた。そもそも、音楽は政治に従属していた。オペラの台本は検閲され、問題のある箇所は削除され書き換えられた。そういう中で、音楽は当たり障りのないものへと堕落していった。チェルニーが厖大にパラフレーズした作品は、そういう、閉ざされた時代の産物であった。彼は高尚な芸術を作るよりは、市民の需要に応えた、まるで手工業製品のような作品—ビーダーマイヤー(小市民)様式の曲—を生みだした。

また、19世紀前半は、空前の「名人芸(ヴィルトゥオジテート)」の時代でもあった。産業の発展とともに市民階級が音楽を楽しむようになると、誰にでも分かるすごい音楽、として「名人芸」がもてはやされた。つまり、人間業でないスピード、跳躍、和音の連打といったものである。折しも、ウィーンの音楽シーンにヴァイオリンの悪魔、ニコロ・パガニーニが出現して人びとは熱狂した。1830〜1848年に活躍した名人芸的ピアニストといえば、フンメル、カルクブレンナー、リスト、タールベルグといった絢爛たるヴィルトゥオーゾが挙げられる。

そして、こうした綺羅星に憧れて、いやその収入に憧れて、多くの親たちは子供に音楽教育を施すのである。14歳以下の少年少女たちが機械的に訓練させられたピアノの技を披露し、市民が喝采した。子供が難しい曲を弾けば喝采するのは当然である。そして演奏会での収入は、思うように出世できない中産階級の親たちには魅力的だった。こうしてウィーンでは空前の音楽教育ブームが到来する。

ウィーンに医者が500人もいなかかった時代に、「心もとない知識でレッスンをしている人も勘定に入れれば、実際に1,600人のピアノ教師が稼働していたという(p.165)」。 このような莫大なピアノレッスンの需要に応え、優れた音楽教師として多くの俊英を育てたのがチェルニーであった。

ピアノの神童であったチェルニーは、ベートーヴェンの弟子となりピアノや作曲を学んでいた。チェルニーがベートーヴェンのような芸術家になる理想を持っていたことは疑いない。 だが、彼の両親は演奏旅行を行うには歳を取りすぎており、また裕福でもなかった。チェルニーは15歳の頃から、毎日20人もの生徒のレッスンを朝から夕方まで行った。それは、おそらく少年にとって耐え難い日々であったに違いない。

チェルニーは非常に規則正しく生活し、毎日のレッスンを終えると、夜には毎晩作曲を行った。 残された大量の作品は、おそらくは日中のつまらない仕事を埋め合わせようとする試みであり、皮肉なことに夢破れた結果でもあった。

だがチェルニーがいやいやながらピアノレッスンを行っていたとしても、その手法は時代に先んじていた。彼は無味乾燥で機械的な指の訓練を誡め、音楽的に優れた演奏を行うことを目的にしている。今のピアノ学習者は『チェルニー40番』の無味乾燥さに嫌気が差しているだろうが、当時としてはチェルニーの指導は大変優れていた。とはいってもチェルニーが自身の練習曲を弾かせて生徒をうんざりさせたことも間違いはない。進展する産業化社会の中で、音楽の世界のみならず「勤勉」で「禁欲的」なピューリタン的なやり方が求められるようになっていた。チェルニーは、ピアニストの卵たちに「労働」を指示したのである。チェルニーの、いわば「公文式」のような指導は、時代の子であったともいうことができる。

だが、当時は(今でも?)頭ごなしに子供を押さえつけ、泣き叫んでも無理矢理弾かせるような苦行のような「指導」が横行していたことを考えると、チェルニーの元に引きも切らさず入門希望者が訪れたのは不思議ではない。チェルニーの指導はとても穏やかで、人間味に溢れていたという。

ベートーヴェンの弟子としての名声も彼の成功に一役買っていたには違いないが、ピアノ教師として優秀であったことは確実だ。しかもチェルニーは、リストのような天才少年が現れると無料でレッスンを行った。貧しかったリストはチェルニーの家で住み込みで教わっている。

1840年代になると、名人芸の時代は下火になる。そこに音楽的な感動はなく、いわば一発屋的なものだったからだ。例えばリストは、もはや名人芸の演奏会を開くのではなく、作曲に重点を置いていった。一方チェルニーは、1827年に母親を、1832年に父親を亡くして天涯孤独となった。それまでのチェルニーは、年老いた両親を支えなくてはならないという責任感が大きかったようにみえる。そして自由な立場になった1836年、彼は36年に及んだピアノ教師業を一切辞める決心をした。時にチェルニー45歳であった。

チェルニーは、それまでの需要に応えた音楽活動を、後悔し始めていた。自分の音楽的才能を無駄遣いしてしまったのではないかと。そして間違った作品を大量に生みだしていた無意味さを思うのだった。そして後半生を懸けて、本当に自分が作りたかった芸術の道へと入っていくのである。彼は大量のパラフレーズを作るのを辞め、「古典様式」—つまりハイドンやベートーヴェンの到達した音楽様式—の曲を作るようになった。しかもそれらは気軽に演奏出来るものではなく、本格的な芸術を志向していた。

また、チェルニーは1837年にJ.S.バッハのクラヴィーア作品(『平均律クラヴィーア曲集』)の校訂版、1839年にはスカルラッティの校訂版を出版する。このスカルラッティ校訂版は、先駆的な掘り起こしであった。またチェルニーは自身では作曲の教本は書かなかったが、アントニン・ライヒャの『作曲法講義』(仏語)を独訳して注釈をつけて出版した。彼はピアノ教師から引退した後も、変わらぬ勤勉さで幅の広い仕事を行っている。なおチェルニー版の『平均律』は、時代に先んじたものではなく、また19世紀の過剰なアーティキュレーション(表情付け)によって味付けされたものであるが、これはベートーヴェンが弾いていたバッハを再現したものと言われており、その意味で価値のあるものである。

それに、チェルニーは廃れゆくポリフォニー(多声)音楽の擁護者でもあった。名人芸への賛美の裏で、ポリフォニー音楽は演奏会で人気がなく、地味で衒学的、時代遅れなものと見なされていたのがこの時代であった。チェルニーは『フーガ演奏教本』Op.400を作曲し、また最晩年には『クラシック・スタイルにおけるピアニスト』(24の全調性による前奏曲とフーガ)を作曲している。

さらにチェルニーは、『完全なる音楽史の概要(Umriss der ganzen Musik-Geschifgt)』を1851年に出版する。これは音楽事典であり、トロイア戦争の時代から1800年に至るまでの音楽年表であった。チェルニーは完全主義者であったから、どんな仕事でも高い完成度を持っていなければ満足しなかった。「あらゆる時代を網羅して著名な音楽家の一覧を挙げ、年齢に従って作品を列挙し、それを年代順に並べた。また国別、時代別に区切って、同時代の歴史的事件を並列し、アルファベット順の人名索引を備えた(p.297)」この音楽史の巻末には1477名の音楽家が索引に挙げられた。

こうした労作を準備しながら、50年代のはじめ頃のチェルニーは非常に多作だったというのが驚きを禁じ得ない。チェルニーは、若い頃、糊口を凌ぐために作らなければならなかったくだらない音楽を上書きするかのように、弦楽四重奏曲や交響曲などの本格的な作品をどんどん生みだし、「死を目前にしてもなお人生の階段をもう一段昇ることを考えていた(p.120)」。

1857年、ある出版人に向けてチェルニーは書いている。「あんなもの(注:チェルニーを有名にした練習曲群)は私の芸術家という職には何のプラスにもならないのです。もし神が私の人生に今少しの猶予をくださるのなら、私はこの何年来とり組んでいる『四重奏、交響曲、教会音楽など』の芸術作品によって、ひとえに出版業の方々に対する好意から犯してきたあやまちを正したいと思っています(p.121)」と。そしてこの手紙を出したたった10日後、チェルニーは10万フロリーンという多額の遺産を残して死んだ。

チェルニーの人生は、良くも悪くも小市民的であった。彼は芸術に殉じて破滅的な人生を歩むタイプではなかった。芸術家として生きる夢がありながら、現実と妥協してより堅実なピアノ教師となり、社会の求めるままに流行の曲のパラフレーズを書きまくった。その仕事は規則正しく、また穏当で優れたものであったが、本当にやりたいことではなかった。彼が本来の自分に目覚めたのは45歳の時で、それはやや遅すぎたのである。

だが、チェルニーは優れたピアノ演奏家を育て、それは次の音楽の主流を作っていった。フランツ・リスト、ハンス・フォン・ビューローなどといった「チェルニーの門下生を数えあげれば、二十世紀にいたるまでピアノ音楽界は彼の流れをくむ人々で占められていたといわざるをえない(p.166)」。その意味では、彼を大音楽家と言って差し支えないと思うのである。そして、最晩年に作曲した『クラシック・スタイルにおけるピアニスト』は、まさにチェルニーがベートーヴェンの弟子であり、対位法を使いこなした優れた作曲家であったことを如実に物語る傑作である。チェルニーの本当の姿は、もっと知られるべき価値がある。

本書は、当時の史料を縦横に駆使しており、またチェルニーの人生を時代的に辿るというよりトピック的に巡っているので、やや難解である。ただ、この本を手に取る人はある程度音楽史や音楽に詳しい(少なくとも楽譜は読める)人だと思う。そういう人にとってはかなりエキサイティングで、滅法面白い本である。

また、本書には上にまとめたこと以外にも興味深い事項(例えば暗譜演奏、即興演奏の扱いについてなど)が盛り込まれている。チェルニーにあまり興味がない人にも音楽ファンに広くお勧めできる本である。

時代に適合しすぎた音楽家チェルニーを描いた力作。

 

2020年12月30日水曜日

『音楽と音楽家』シューマン 著、吉田 秀和 訳

シューマンによる音楽時評。

シューマンは、若い頃に文学の道に進むか迷ったほど文筆にも秀でていた。結局彼は音楽の道に進んだが、1833年のライプツィヒで、仲間たちと音楽の行く末を論じているうちに、「進んで事態を改善し、芸術のポエジーの栄誉をもう一度取り戻そうではないか」と新しい雑誌を創刊することになった。

それが「音楽新報」という雑誌であった。シューマンはいろいろな事情から、やがてこの雑誌の編集長的な立場として筆を振るうことになる。本書は、「音楽新報」が活動していた約10年間の、シューマンが執筆した諸編の抄訳である。

当時、「ロマン派」と呼ばれる新しい音楽が続々と発表されていたが、その音楽の真価は十分に理解されていなかった。シューマンらは、それらに対する時に攻撃的なまでの擁護を雑誌上で行った。

「音楽新報」の言論の価値は、次のようにまとめられる。

  • ベートーヴェン崇拝を確立したこと。
  • シューベルトの世界を再発見したこと。
  • ショパンを天才と認めて多くの作品を取り上げたこと。
  • ベルリオーズを強力に擁護し、ドイツ楽壇に紹介したこと。
  • メンデルスゾーンの新古典主義的な作曲を積極的に評価したこと。
  • J.S.バッハ(特に『平均律』)の価値を最大限に喧伝したこと。
  • ブラームスを歓迎したこと。

これらは全て、現在の音楽史では完全に正統的な評価である。というよりも、シューマンの価値判断が、間違いなく「定評」を作ったのである。

第一級の音楽家であったシューマンが、当時の第一級の音楽家のことを理解できたのは当然として、実はその文章の方もロマン派まっただ中の時代の雰囲気を感じてなかなか面白い。シューマンはジャン・パウルに傾倒していたそうで、ところどころにその言及もある(とはいえ、ジャン・パウルに比べると文章は断然まとまっている(笑))。

また、中期以降は硬派な評論になっていくが、初期の方は架空のキャラ=フロレスタンとオイゼビウス、ラロー先生の語りになっており、音楽評論としてはやや冗長であるが青年の遊び心(なのか、双極性障害のような人格分裂なのか?)が読んでいて楽しい。ただし、このやり方は結局何が言いたいのか煙に巻かれているような部分もある。やはり署名記事の方が価値は高い。

ところで、本書は音楽評論家として著名な吉田秀和の初めての本である。吉田は、この本を訳している時は内務省地方局庶務係に勤務していて、勤務時間中に堂々と本を広げて翻訳をしたらしい。戦争中の昭和16年にそんなフマジメが許されたというのが不思議である。今だったら懲戒解雇ものだろう。

ロマン派の歴史を、音楽作品でだけでなく文筆によっても作ったシューマンの評論。


『殉教と民衆—隠れ念仏考』米村 竜次 著

相良藩(人吉藩)を中心として真宗禁制の実態を描く本。

相良藩では、薩摩藩と同じく江戸時代に真宗(一向宗)が禁止されていた。しかしその実態は、史料がほとんど残っていないため謎に包まれている。本書は、相良藩を中心として近世南九州における真宗禁制を、いくつかのトピックをキーにして読み解くものである。

第1のトピックは、貞享4年(1687)、相良藩で14人もの集団入水自殺が行われたもの。その身分は種々雑多であり、その集団を結びつけていたものが何かがわからず、しかも彼らは自殺の理由について何の手がかりも残さなかった。しかしそれは、幕府が切支丹禁制の弾圧を布達した直後のことであり、著者は14人を隠れ切支丹か、隠れ念仏の徒であったかもしれないと推測している。

第2は、隠れ念仏の「毛坊主」や講を組織した人びとについての考察である。毛坊主とは、俗人の僧侶(のような働きをした者)である。彼らは普段は農業などに従事するが、裏の世界では隠れ信徒を束ねる指導者の役割を果たした。本書では「伝助」や「高沢徳右衛門」という毛坊主の動向をかなり詳しく追っている。伝助は、累代にわたって襲名された毛坊主の名前であり、5代連続で殉教した。高沢徳右衛門は、藩の家老までも隠れ念仏の信徒に引き込むという大胆な組織者だった。(高沢に関して、「ナバ山騒動」という農民一揆の事が語られている。これは隠れ念仏との直接の関連はないが面白い一節である。」)

第3は、転びもの、つまり転向者について。隠れ念仏の信徒であることが露見すれば、厳しい拷問が行われた。当然、転向するものも出てくる。そして彼らは取り締まり組織の一員(一向宗訴人)となり、今度は摘発側に回らざるをえないのである。それが転向の証明となった。

ところで、鹿児島県出水地方の隠れ念仏の信徒は、夜中に肥後水俣の源光寺へやってきて念仏を行った。このような基盤があった出水では、一気に1700人もの人が隠れ念仏の信徒であると申し出てきたことがある(=元文5年頃)ほど真宗が盛んだった。この出水地方に、まさに隠れ念仏の取り締まりをしていた税所家の文書が残っていて、隠れ念仏研究には必須の史料である。著者はこれを頼りにして、弾圧と転向のリアルを探っている。

藩では、通常は隠れ念仏を泳がせていたと著者は見る。その動向を把握して、いつでも摘発ができるようにしておいたのだ。そして飢饉など藩の財政状況が厳しくなってきたとき、一気に弾圧を加え、厳しい拷問によって組織を潰滅させた。それは、真宗の信仰には上納金を必要とするため、藩財政を圧迫するものとみて問題視したのだという。

第4は、三業惑乱について。隠れ念仏の講の内部では、教義上の解釈と信仰のあり方に関して紛争が絶えなかったという。系統的な指導がなかったのだから当然である。幕末、真宗本願寺派(西本願寺)の本山でも、三業惑乱という教義上の争いがあった。

三業惑乱の詳細は本書に詳しいが、隠れ念仏との直接の関係はない。ただ、この争いで異端とされた願生帰命主義派(欲生派)は、地下に潜伏して隠れ念仏への布教に活路を見いだすのである。その一人が追放判決を受けて熊本・鹿児島に逃げてきた大魯(岡大道)という人物。彼は天草、甑島、永吉(吹上)を回って、「細布講」や「煙草講」という講を組織した。

彼は自身の教えこそが正しいと民衆に教え、その当てつけのように厖大な上納懇志を本山に毎年送りつけた。大魯によって鹿児島西部一帯は念仏の興隆を見せたが、同時に三業惑乱の抗争が隠れ念仏にも持ち込まれた。なお大魯が身を隠していた洞穴が永吉に残っており、大魯の墓は光専寺にあるという。

第5に、隠れ念仏の民俗学的な視点からの考察である。この部分は事例の列挙的である。特に隠し部屋の造作などは興味を惹かれる。本書の著者は真宗の住職であるが、本山には批判的であるものの、かといって隠れ念仏を称揚するでもなく、フラットな視点で隠れ念仏を語る。隠れ念仏は、隠す必要があるために呪術化していった。それは、本来の真宗から離れていくことでもあった。そして、そのように土着化したからこそ隠れ念仏が盛行したのかもしれない。「隠すこと、擬装することが嗜好的と言ってもいいほどに逆に信徒をむしばんでしまうこともあるのである。祈祷を許さない真宗の教典のゆえに、逆に秘事化、呪文化することによって有難みと娯しみを見出す(p.275)」のだった。

構成がスッキリしていないため全体的にはわかりにくいが、ちゃんと現地に取材してまとめられた隠れ念仏考察の本。


2020年12月22日火曜日

『倭寇―海の歴史』田中 健夫 著

倭寇を軸に、14〜16世紀の東シナ海の歴史を描く。

倭寇と一口に言っても、時代も場所も様々であり、日本人も朝鮮人も中国人もおり、その目的も略奪から交易まで多様だった。そもそも、大陸では秀吉の朝鮮出兵も「倭寇」と見なされており、「倭寇」はカッチリとした歴史概念ではない。

広義に考えれば倭寇は日本と大陸の関係が生じてから20世紀に至るまで存在していたのであるが、本書では狭義の倭寇を叙述の対象とし、その活動が最も激しかった「14〜15世紀の倭寇」・「16世紀の倭寇」にフォーカスして述べる。

なおこの二つは、時代が違うだけでなく、その性質が全く異なるものであるため区分されている。人によっては「前期倭寇」「後期倭寇」と呼ぶこともあるが、この用語では連続したものの前期と後期に区分しているというイメージとなるということで本書では採用されていない。

14〜15世紀の倭寇

【高麗における倭寇】 高麗は、元の侵攻によって存亡の危機を迎え、空前の混乱状態となって警察・軍備もグダグダになった。すなわち、沿岸警備が疎かになり、この空隙を塗って倭寇の活動が急激に活発化したのである。1350年から高麗王朝が倒壊した1392年までの約40年間、倭寇は朝鮮半島を荒らし回った。

この頃の朝鮮半島の倭寇は、略奪行為が中心だった。倭寇は船数数百、兵数数千というような大軍で押し寄せ、騎馬隊までも引き連れていた。彼らは糧食を奪い、また人も掠って奴隷として売っていた。

もちろん、こうした不法行為に対して、朝鮮側は日本に対して抗議を行った。高麗時代はその効果は限定的であったが、李氏朝鮮が成立すると太祖李成桂は室町幕府に倭寇の禁止を要求する。足利義満はこれを受けて賊船を禁止し、また被虜人を送還して朝鮮との友好的な関係を樹立した。

さらに、李氏朝鮮は、それでも活動する倭寇には懐柔策を以て当たった。投降すれば土地や家財を与え、妻を娶らせ、また貿易の権利を与えて優遇するというものだった。倭寇(対馬、壱岐、松浦地方の人が多かった)はこれに続々と従った。こうして降伏した日本人は「投化倭人」などと呼ばれ、やがて朝鮮政府の中枢にまで入り活躍していく。

また、朝鮮は倭寇への懐柔策として日本の諸豪族に通商の許可を与えた。こうして朝鮮との貿易が活発化。ただしあまりに多くの豪族(の使節)が朝鮮に渡航してその接待が負担になったため後に貿易は制限する方向となった。ともかく、李氏朝鮮政府は、日本とちゃんとした外交関係を樹立し、倭寇として活動していたものを「投化倭人」や貿易商人へ変質させることで倭寇の猛威を収束させた。

【中国における倭寇】元と日本とは正式な国交はなかったものの、両国間で貿易は盛んに行われた。特に寺社の造営費用をまかなうために大寺院が貿易船を派遣した。また禅僧の往来も多かった。この時代、貿易を目的に渡航して、思うような成果が出ない場合に略奪を働いた場合が多かったらしいが、元代の史料はあまり残っていないので実態はよくわからない。

明代には、倭寇の活動はかなり激しくなる。その内容は、高麗の場合とほぼ同様であった(時代的にも同じ)。明の太祖洪武帝は、国際秩序の確立のためにも倭寇の問題を解決しなければならなかった。洪武帝は懐良親王に使節を送り、懐良親王を日本国王と認めて国交を開こうとしたが、懐良親王は今川了俊らに抑圧されその任を果たすことはなかった。

一方、この時期、明では洪武帝による功臣の粛清に関してもめ事があり、その余波によって日本との通交は断絶、また中国人民が海上に出ることを禁じた「海禁政策」を強行した。これにより諸外国との明との通交は朝貢一本に絞られることとなった。

足利義満は、征夷大将軍を譲り、剃髪して、国政の官職から離れてから、洪武帝没後の応永8年(1401)、明に使節を送り通商を求めた。彼は律令体制外にある一種の「自由人」として、日本国王として振る舞えた。明では義満を日本国王と認めて巨大な金印を送り、日本を中国中心の国際秩序(華夷秩序)に位置づけ倭寇の鎮圧を命じた。これに応じて義満は倭寇の取り締まりを行い、そのために倭寇の活動は下火となっていった。

義満死後、日明間の通交が断絶していた時期には、倭寇の船団が明の防衛によって全滅に近い被害を受けた「望海堝の戦い」があり、また朝鮮が倭寇の本拠地と見なした対馬を征伐する「応永の外寇」が起こった。幕府の取り締まりや、これらの戦いで15世紀には倭寇の活動は終わりを告げた。

それを埋め合わせるように、東シナ海では貿易が活発になっていく。明が海禁政策をとったことで、琉球が東南アジアとの中継貿易のハブとして栄えることとなった。また、幕府やその傘下の豪族(特に大内氏と細川氏)、堺の商人たちが綯い交ぜになって行われたのが明への朝貢の形をとった日明貿易である。応永8年(1401)[前出]から天文16年(1547)に至る約150年間に19回、遣明船が派遣された。

明の海禁政策は、中国の国民が海上に出ることを禁じた政策だが、多国間の貿易が盛んになる中で国家がこのような規制を行うことは無理があった。そのため、役人に賄賂を送って行う密貿易が盛んになっていき、15〜16世紀になると密貿易の方が主流になってしまった。

また、遣明船が入港していた寧波では、大内氏と細川氏の争いから「寧波の乱」が起こった。この結果遣明船は大内氏が独占したものの、大内氏の没落とともに遣明船は終止符を打つ。

一方、この時期にポルトガル商人たちが東シナ海を頻繁に訪れるようになった。明ではポルトガル商人たちを倭寇と同然に見なしたが、沿岸の住民たちは彼らと交易を望み、密貿易が行われるようになった。その中心が雙嶼(そうしょ:リャンポー)である。これは寧波の東方に浮かぶ島で、許棟(きょとう)の兄弟が仕切って一大貿易拠点となった。その傘下で活躍したのが有名な王直である。

しかし、嘉靖27年(1548)、雙嶼は大摘発によって潰滅させられた。許棟は捉えられ、王直は逃亡、賊徒は多数殺され、船は焼き払われた。これを主導したのが朱紈(しゅがん)という剛直な官僚であった。だが朱紈のこの強引なやり方は批判され、後に彼は自害し、その後海禁は緩むこととなった。

16世紀の倭寇

王直は以前から日本人と関係を持ち貿易を行っていたので、逃亡後、私貿易が出来る場所として五島、追って平戸を拠点とした。平戸での彼は二千人の部下を擁し、豪奢な屋敷に住んで王者さながらの生活を送った。彼は学問に明るく、とかく争いが起こりがちな密貿易における調停者としての資質にも優れていた。まさに王直は倭寇国の王であった。

また王直は、中国大陸においても舟山群島の瀝港(れきこう)を半ば黙認された形の密貿易拠点とすることに成功した。しかしやがて瀝港も明政府によって掃討され、潰滅してしまった。こうした摘発・攻撃を受けたことは、密貿易団の性格を変えていった。雙嶼時代は、不法行為ではあったが平穏に貿易が行われていたのであるが、雙嶼潰滅後の密貿易団は武装するようになり、海賊化していく。嘉靖32年(1553)、王直は倭寇の大船団を引き連れて中国沿岸を襲った。こうした劫掠は「嘉靖大倭寇」と呼ばれ嘉靖35年頃まで続いた。

なお、王直と同類の海賊の首領に、徐海、陳東、葉明がいた。このうち、徐海は日本では明山和尚と呼ばれて尊敬された人物で、大隅に縁があったようだ。陳東は、伝説では薩摩の領主の弟というが、その真偽はともかく薩摩人を多く部下に持っていた。嘉靖大倭寇は、現地住民や日本人、ポルトガル人などと協力しながら展開した反政府的な寇掠であった。なお「倭寇」といっても、この頃の倭寇の主体は中国人で日本人はそれほど多くなかった模様である。

一方、明では倭寇対策が重要な政策課題となった。しかし海防の責任者(総督)は次々に更迭され、指揮命令系統は混乱していた。そのために倭寇の活動が可能となったのである。嘉靖35年、そんな中で総督になったのが浙江巡撫 胡宗建である。彼は日本に使者(蒋洲、陳可願)を派遣し、王直に「もし帰国するなら、海禁を緩めて貿易を許可し、罪は問わない」と利を以て誘った。王直はこれを信じ帰国したが、王直の罪を許すべきでないという廷義によって、嘉靖38年(1559)斬首された。胡宗建は、結果的には王直を騙し討ちにしたことになる。

こうして王直が討伐されたことは、他の倭寇集団を弱めることになり、徐海の一党も潰滅。倭寇はその後もなくなったわけではないものの、かつてほどの勢いはなくなった。

そして明の隆慶元年(1567)、200年にわたった海禁令が解除され、中国人の海外渡航や貿易が許可されることとなった(ただし日本への渡航は引き続き禁止された)。こうして倭寇出現の根本原因が取り除かれたため、16世紀末には倭寇の活動はほぼ終熄した。

倭寇の大きな出現原因は、日中間の貿易が自由化されていなかったにも関わらず、互いに貿易の必要性は大きかったことであった。例えば、ちょうど日本は戦国時代で、鉄砲の火薬のために硝石を大量に必要としたが、日本では硝石が産出せず、中国から輸入するしかなかった。そのため非合法ルートの貿易が必要になるのである。その一つが倭寇だったように思われる(本書でははっきりそう書いてはいない)。

もちろん、生糸、水銀、古銭(日本には自国の鋳銭がなかった)、薬材なども日本の需要は大きかった。また『論語』『大学』『中庸』といった古書(古典)も重要な輸入品であった。

それに関して、ちょっと面白いのは、日本は朝鮮からたびたび「大蔵経」を輸入しているということである。高麗では元の侵略を避ける願を掛け、国家の総力を挙げて「高麗版大蔵経」六千数百巻を彫造していた。日本はこれを盛んに求め、康応元年(1389)から天文8年(1539)までの150年間に83回も「大蔵経」を求め、43部が渡来している。足利義持などは版木までも要求した(当然断られた)。なぜ日本は「大蔵経」をこぞって求めたのか興味が湧いた。

ところで、倭寇は中国人の間に日本人の凶暴な印象を与えたが、一方では、倭寇の時代を経たことで、中国の日本に対する認識が一新されたという副産物があった。それまでの中国には『魏志倭人伝』くらいしかまとまった日本の情報がなく、日本へも無関心であった。だがこの時代、中国は倭寇対策のために日本研究が盛んに行われ、日本に関する正確で具体的な情報がまとめられた。その主なものは次の通りである。

『日本国略考』(1523):定海薜俊(せつしゅん)による明代日本研究書の先駆。所収の日本地理図は中国における最古の日本地図。
『日本図纂』『籌海図編』(1561、1562):鄭若曾が蒋洲・陳可願に聞き取りし、また様々な取材と情報収集を経てまとめたもの。倭寇研究のバイブルとなり後の多くの日本研究の書物が『籌海図編』の記述を踏襲した。
『日本一鑑』(1565):豊後大友義鎮の下に滞在した鄭舜功の書。戦国時代の日本を知るうえでも優れた史料。日本人の美点を多く認め、中国人の日本人観を一変させた。
『日本風土記』(1592):侯継高『全浙兵制考』の付録。倭寇対策よりも、日本の事物を知ることを楽しんだ様子の書。

倭寇は、いろんな意味で中国・朝鮮と日本の間にあった存在だった。日中・日朝の関係が確立し、穏やかな交流が行われていれば存在し得なかった。いくら利が大きかったにしても、討伐されてしまえば意味はない。そこに彼らが存在する隙間があったからこそ、活動できた。軍事・防衛の隙間、交易の規制の隙間があったということだ。ということは、彼らを理解するためには、中国・朝鮮と日本の外交関係、そしてそれぞれの国の内政を理解しなくてはならない。その編み目がほころんだ部分に、倭寇の生きるフィールドがあった。だが、私にはその基本となる前提知識がないので、本書をしっかり理解できたのか心許ない。

明や李氏朝鮮の歴史、室町幕府の外交政策などを勉強してから、改めて本書を読んでみるとかなり理解が進むのではないかと思った。

倭寇の動きを追うことで、東シナ海の激動の歴史を垣間見られるエキサイティングな本。

【関連書籍の読書メモ】
『海洋国家薩摩』徳永 和喜 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/04/blog-post.html

鎖国体制の中でも薩摩が東アジア世界と繋がっていたことを述べる。倭寇が活躍した時代、薩摩ではまた別の形の密貿易が行われていた。

 

2020年12月10日木曜日

『王法と仏法—中世史の構図』黒田 俊雄 著

仏教をキーにして中世社会を考察する論文集。

黒田俊雄は、「顕密体制論」によって中世(鎌倉・室町時代)の仏教の見方を一変させた。約50年前の話である。

鎌倉時代といえば、親鸞や一遍、日蓮や栄西といった「鎌倉仏教」の時代であると誰もが思っていた。ところが同時代資料を繙いてみれば、「鎌倉仏教」はあまり社会的影響力を持っていなかった。むしろ、天台宗と真言宗、そして荒廃していたとはいえ南都諸宗といった旧仏教=「顕密仏教」が国家と癒着して強大な権力を持ち、政治権力とは異なる原理の権門として機能していたことが明らかになった。これが「顕密体制論」の乱暴な要約である。本書は、この考えから書かれた論文をまとめたものであり、黒田史学のエッセンスに触れることができる本である。

以下、気になった論文についてメモする。

「王法と仏法」:中世より前の、平安時代の仏教は「鎮護国家」のための国家の下部機関的な意味合いが強い。ところが中世になると、仏教は独自の立場を築き、「王法と仏法は車の両輪である」というような「王法仏法相依論」が仏教側から盛んに言われるようになった。確かに顕密仏教は国家と癒着はしていたが、王法と仏法を同列に並べられるようになったところに、中世の仏教が獲得した力が象徴的に現れている。

 「日本宗教史上の「神道」」:近世以前には自立した宗教としての「神道」は存在しなかったことの論証。『日本書紀』にも既に「神道」の語は見えるが、それは「道教」を意味していたのではないかという指摘が面白い。その他、著者は時代毎の「神道」という語の用例を検討して、近世以前の「神道」は独立した宗教を意味していなかったことを示している。「神道」が仏教と対置される「日本の民族的宗教の名称」の意味が確立したのは、林羅山その他による「儒家神道」以降だという。

「「院政期」の表象」:院政期をどう見るか。院政期は、古い秩序が崩壊して新しい秩序へと移行するまでの混乱期であったのか、それともそれ自体が清新なエネルギーに満ちた躍動の時代であったのか。著者はいくつかの立場を比較検討して、公家・武家・大寺院などの権門が並立して一つの秩序をつくっていた多彩な時代であると結論づけている。政治権力の在り方があまりにもややこしく、これまで避けていた院政期について興味を持った。

「歴史への悪党の登場」:14世紀は「悪党の世紀」であった。悪党は既存の社会秩序からはみ出し、反権威的で、自由であるが地に根を下ろしたふてぶてしさがあった。著者は悪党を社会変動の申し子と見て、「悪党のやったことは(中略)いちがいに称讃できるようなものではない」としながらも、その存在を最大限に評価する。それは、古代以来の諸権威に抑圧されていた人びとの精神を解放する触媒となったのである。「悪党は、正義や愛や清潔や真理を掲げたのではなくむしろそれにどんでん返しをくらわせ」た。時代も場所も違うが、フランスのフランソワ・ヴィヨンが思い起こされる。

「中世における武勇と安穏」:中世は長く続く合戦の時代であったが、だからこそ人びとは平穏な暮らしを希求した。「安穏こそがこの世における至高・無上・究極の価値」だった。古代仏教が「欣求浄土」であるならば、中世仏教は「現世安穏、後生善処」に帰結する。生き残るために武勇を必要とすることは宿業と感ぜられ、武士たちが仏教を熱烈に必要とした。しかし農民を中心とする大多数の人びとは、平穏な暮らしを築こうとする活発な動きがみなぎっていたのであり、一揆もそういう視点から捉え直すことが必要である。

本書には、これら雑駁な論文が収められており、「黒田史学」のエッセンスとはいえ(というかエッセンスだからこそ)全体像が若干見えにくい。しかし、平雅行による巻末の解説「黒田俊雄氏と顕密体制論」が非常に明快で、参考になった。黒田史学を「武士中心史観からの脱却」と位置づけ、歴史学への貢献や今に残された課題をまとめて、さらに本書所収の論文について簡潔に紹介している。

やや専門的だが、今なお日本中世の社会の見方を再考させる力を持った論文集。

【関連書籍の読書メモ】
『寺社勢力—もう一つの中世社会』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/blog-post_13.html

中世における寺社勢力の勃興と衰退を述べる。中世の申し子とも言える寺社勢力を通じて当時の社会の内実を考えさせる良書。

 

2020年12月7日月曜日

『魔群の通過—天狗党叙事詩』山田 風太郎 著

水戸の天狗党の長征とその悲劇を描く小説。

天狗党とは、水戸藩の尊皇攘夷派のことである。よく知られているとおり、幕末、水戸藩には「水戸学」と呼ばれる国粋主義的な歴史学・政治哲学が生まれた。水戸学は、国学と合流し、尊王攘夷・倒幕運動の原動力になっていく。

徳川斉昭の擁立にも成功した天狗党は水戸藩政を一度は牛耳るが、安政の大獄によって弾圧され、佐幕の保守派(諸生党)の方が藩政の主導権を握るようになる。こうして藩政から遠ざけられた天狗党は、藩の首脳部はもちろん、攘夷を約束しながらいっこうにそれを実施しない政府にも不満を抱き、その一部が一種の示威行動として挙兵する。

ところが、この無謀な、というよりも本来は単なるデモンストレーションだった行動が、不思議な運命の悪戯によって、同調するつもりがなかった他の天狗党の面々をも巻き込んで一大内戦へと発展していく。幕末明治にかけて、時の政府に対抗して起こされた戦争は数多いが、純然たる藩内の内戦と呼べるものはこの「天狗党の乱」が唯一である。

しかも、この内戦は日本の歴史を通じて稀に見るほどの殲滅戦であった。水戸藩は、天狗党、諸生党の両派が親類縁者まで互いに殺し尽くして人材が払底した。明治政府の成立に果たした水戸藩の役割は決して小さくなかったにもかかわらず、結局政府に高官を輩出することがなかったのはこのためである。水戸藩の自滅を招いた戦い、それが「天狗党の乱」であった。

本書は、この内戦のうち、追い詰められた天狗党が、天皇と将軍徳川慶喜(水戸藩主徳川慶篤の弟にあたる)へ申し開きを行うため京都へ行軍したことを題材とした小説である。

天狗党約千人は、無用な戦を避けるために大変な難路を進んだ。例えば、真冬にもかかわらず軽装で登山して峠を越え、食料補給はその場しのぎだった。この行軍は甘い見込しかもたず、全く無計画的であったが、超人的な努力と、多くの人命を犠牲にして行われる。天皇と将軍は、きっと天狗党の衷心を理解してくれるだろう、という希望的観測だけを頼りにして。

この無謀な行軍には、諸生党の首魁級の係累である二人の美しい女性が、人質として同行させられていた。本書の小説的な中心は、この女性二人をめぐって若い主人公たちが揺れ動く模様であり、これはおそらく創作であるが非常に面白く読んだ。

ところで、天狗党の乱を書こうと思えば、どうしても水戸学や尊王攘夷運動ということを説明せずにはおれないはずなのに、実は本書にはそういうくだくだしい説明は一切ない。そういう背景は、何となく既知のものであるかのように端折って、すぐさま本題に入っていくその手法が、小説として大変うまくできている。

いや、実際のところ、天狗党にしろ諸生党にしろ、その元は思想闘争だったかもしれないが、挙兵直後から尊王とか攘夷といったことはどこかへ吹っ飛んでしまったようなのだ。例えば、戦後処理では、勝者である諸生党は天狗党を一気に352人も(!)死刑にする。その上、妻子までも斬首や永牢という重刑を加える。これなどは、戦国時代はいざ知らず、近世社会においては例を見ない凄まじいものである。これが「思想」闘争の結果と言えるか。

さらに、倒幕が進んで佐幕派の諸生党が没落し、天狗党の残党が息を吹き返すと、今度は彼らが諸生党の大粛清に乗り出す。その中心となったのが武田金次郎(天狗党の首謀者の一人武田耕雲斎の孫)であるが、彼は天狗党の乱で親類縁者が斬殺された復讐のため、修羅の道に入ってしまった人物だ。本書は、なぜ武田金次郎は修羅にならなければならなかったのか、を説明したものといえるかもしれない。そしてそれは、尊王攘夷のような思想には関係がなかった。

思想ではなく、血の応酬が本質だったのだ。

血の応酬であるがために、諸生党と天狗党は、お互いを滅ぼし尽くさずにはおれなかった。彼らのように、佐幕開国と尊王攘夷が藩論を二分した藩は多いが、その対立が内戦まで行き着いたのは水戸藩だけであり、その厖大なエネルギーの無駄遣いによって自滅した藩も水戸藩以外にない。

ところが本書の筋立てでは、この、傍から見ると狂っているようにしか見えない水戸藩が、実際には少数の過激派を除いてそれなりに穏当な道を選ぼうとしているのだ。しかし結果的には、水戸藩は破滅への道をひた走っていた。水戸藩が内戦まで行き着いた原因は、水戸の風土や思想、気質ではなく、混乱の時代の巡り合わせに過ぎなかった、と作者は考えているようだ。それが当を得たものなのか、私には判断できない。しかし、その内実、戦乱に参加したものの心理の描き方は非常にリアルに感じた。

「天狗党の乱」を通じ、対立がエスカレートして自滅まで至る人びとの愚かさを描いた傑作。

【関連書籍の読書メモ】
『フランス・ルネサンスの人々』渡辺 一夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/06/blog-post.html
フランスでルネサンス期に生きた12人の小伝。争いや失敗を避けることは十分可能なのに、破滅へと猛スピードで進んでしまう危険性に目を向けさせる本。※天狗党の乱とはもちろん無関係。

 

2020年11月23日月曜日

『ベートーヴェンの生涯』青木 やよひ 著

実証的な資料によって構成したベートーヴェンの伝記。

ベートーヴェンの生涯は、長く誤解されてきた。晩年の秘書であったアントン・シントラーによって偏見と誇張に満ちた最初の伝記が作られて以来、それに引きづられて非人間的な孤高の芸術家像が一人歩きするようになったからである。

ロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』も(文学的価値は別として)その一つである。ロマン・ロランは、自身でもベートーヴェンについてかなり調べながら、ついにシントラーが歪めたベートーヴェン像を修正することができなかった。こうしたことから、ベートーヴェンは世紀末のウィーンの場末で生涯を過ごした「陰気で悲劇的な芸術家」であると考えられてきた。

そもそも、シントラーの伝記は真実のベートーヴェンを伝えるために書かれたものではなかった。彼はベートーヴェンが死ぬ前のたった3、4ヶ月秘書を務めただけなのに、あたかも長年ベートーヴェンに献身的に仕えたように書き、しかもベートーヴェンが残した300冊とも400冊ともいわれる『会話帳』(筆談に使った)の半数以上を無断で破棄し、残したものも自分に都合良く改竄しているのである。シントラーは、英雄的な芸術家の内面を知っている唯一の人物になれる、という誘惑に勝てなかったのだった。であるから、シントラーの伝記には信頼性は全くないのである。

そこで著者は、実証的な資料によってベートーヴェン像を再構成するという仕事をライフワークとし、50年に及ぶ研究の集大成として著したのが本書である(本書にはドイツ語版が存在し、そちらの方が本体のようだ)。

まず、本書を読んで従来のベートーヴェン像と違うと感じたのは、今の言葉でいえばベートーヴェンは発達障害っぽいところがあるということである。彼は、偏屈とか狷介であることとは違うのだ。例えば彼は、自分のルールに従って行動していたので、世間的にNGとされることが理解できなかった。世間のルールを無視したのではなくて、「暗黙のルール」が理解できなかったのである。例えば、ベートーヴェンは既婚者を含む女性と対等な友達づきあいをしようとした。しかし当時は求婚者として近づくのでなければ、女性と親しくしようとするのはNGだったのである(ついでに言えば、ベートーヴェンは惚れっぽかったようだ)。こういう、「暗黙のルール」にベートーヴェンは弱かった。

しかしそれは、移りゆく人びとの流行を全く無視することを可能とし、自らの内的な芸術性のみを信じることに繋がった。ベートーヴェンの音楽は、旧来の音楽家や聴衆には耳障りで狂気じみているように感じられたが、十分に訓練された耳を持った人や、新しい時代を求めていた民衆には熱狂的に迎えられた。モーツァルトも、若いベートーヴェンの演奏を聴いてその新しさに興奮している。

だが、ベートーヴェンが古い音楽を無視していたかというと事実は全く逆で、ベートーヴェンは独り立ちした後もいろいろな先生に教えを請い、音楽技術の習得に貪欲だった。また、自らのスタイルが確立してからもバッハのフーガの研究を行うなど、一生を通じて学び続けた人だった。 そして、聴衆が求める気軽な音楽がどういったものかを理解し、生活の糧のために大衆に受ける音楽を作ることも可能だった。そういう点が、自分の作りたい音楽を愚直に作るしかできなかった不器用なモーツァルトとの違いである。

本書は、従来のベートーヴェン像を修正するということを目的としているが、これまでの伝記の否定に傾いておらず、むしろ平易にベートーヴェンの伝記を記述することに努めている。著者はベートーヴェンの「不滅の恋人」がアントーニア・ブレンターノであることを初めて指摘し、それが後に証明されたが、そうしたこともくだくだしく書いておらず、全体的にスピード感があって非常に読みやすい。だが新書で300ページほどの小著でもあり、考察については弱い。

例えば、ベートーヴェンは創立されたばかりのボン大学に入学し哲学科で学んでいるが、なぜロクに中等教育を受けていない(らしい)ベートーヴェンが大学に入学したのか、といったことは突っ込んで書いていない。しかも哲学科を選んだのは何故なのか。

なお話が逸れるが、ベートーヴェンと同い年で哲学科の同級生だったのがアントン・ライヒャ(アントニーン・レイハ)である(後に音楽家として大成した)。ライヒャはベートーヴェンの生涯の友人(親友ではないにしても)の一人だった(はず)だが、本書にはライヒャとの交友についてほとんど書いていない。こういう部分は、既存の伝記を参照すれば十分だとの判断だと思う。本書は「ベートーヴェンの伝記の決定版!」みたいな気負いでは書かれておらず割と簡約である。それが長所でもあろう。

偉大な音楽家の真実の姿を平易に述べる、ベートーヴェン伝の新しい基本。


『荀子』常磐井 賢十 訳(『世界古典文学全集 19 諸子百家』所収)

荀子の主要な思想。

荀子の時代、つまり紀元前300年前後は、戦国時代の末期であり、社会は乱れに乱れていた。それに先立つ春秋時代では、戦も名乗り合う一騎打ちのようなものが行われていたが、戦国時代には集団戦となり、殺し合いは大規模になった。だまし討ちや権謀術数、下剋上が横行し、社会の秩序は全く失われてしまっていた。

そんな中、斉という国では、学者を優遇して国都臨淄(りんし)の城門の一つである稷門のそばに邸宅を与え、大夫(家老)の待遇を与えて専ら学問に専念させた。そうして、鄒衍、田駢・淳于髠(じゅんうこん)、慎到などの英才が集まってきて当時の学問の中心となった。この集団を「稷下の学士」という。荀子はこのころ斉にやってきて「稷下の学士」に加えられ、3度もその首席に選ばれた大学者であった。

こういう環境の中で、荀子の思想は磨かれた。その思想の核心は「礼」である。

荀子は、人間には欲望があり、快楽を好み、利己的な存在であることを認める。であるから、そうした性情が何の規制も受けないとすれば、互いの欲望や利害が衝突し争いが起こらずにはおれない。よって「礼」に従って欲望を充足させることで秩序を守る必要があるのである。ここで注意すべきは、荀子は「欲望の充足」自体は否定していないということである。「礼」は何かを我慢することではなく、「欲望の充足」を目的としつつ、それをスマートに実現するものであるらしい。私は、「礼」は「作法」であると理解するのがよいのではないかと思った。

また、荀子は人間は誰しも生まれつきの能力は一緒だという。聖人も賤人も、持って生まれた能力に何の違いもない。しかし聖人は努力して能力を身につけ、賤人は努力することができないから結果として人間の違いが生まれるのである。よって優れた師に出会い、日々たゆまず学び、向上していくことが必要である。だから人間には環境こそ最も大事なものだという。荀子といえば「性悪説」が有名であるが(ただし、本編にはあまり「性悪」とはでてこない)、「性悪説」の行き着くところの結論として、環境や努力の重要性が力強く謳われているのである。

しかし、この思想から当然導かれるべき「人間の平等」が荀子にはない。荀子は階級の差別を肯定する。「誰しも生まれつきの能力は変わらない」といいながら、身分差別を肯定しているところが荀子の思想の不徹底な点である。全体的に、荀子の思想には新しい社会を建設していこうという気迫に乏しく、むしろ既存の社会の仕組みを肯定した上でそれをいかに平穏無事に運営させていくかという視点が強い。もちろん、これは読んでいて何か物足りない。しかし、荀子の時代は、戦国時代の中でも社会が非常に混乱していた時である。おそらく荀子には新しい時代を建設するよりも、社会秩序を維持したいという思いが強かったのだろう。

一方、荀子の思想にも革命的な点がある。それは、日蝕や月蝕、天災といったものを天意と認めず、単なる自然現象と考え、また占いを否定したことである。天は人治に相応して働くという「天人相関」の思想は伝統的に儒家の奉ずるところであったし、筮竹や亀卜によって天意を伺って政治を行なっていくのが古来のあり方だったが、荀子においてはこれが全く否定され、のちの法家へ続く道が開かれたのである。さらに全体的な立論の進め方においても帰納的に論拠を積み重ねていくことが多く、これは「科学的」といってもいい態度である。

しかしながら、荀子の思想には決定的な弱点がある。それは、彼の思想の核心である「礼」について、なんら批判的に検証していないことである。荀子はいつでも「礼」を根本に置く。では一体「礼」とは何であるか? 荀子はそれについて詳しく説明することはないのである。おそらくは、当時の人には「礼」とはこのようなものだ、ということが自明だったので詳らかに説明する必要を感じなかったのだろう。しかしこれは、当時の人の「常識」に頼った思想だと言わざるを得ない。

例えば、「礼論編」において、荀子は葬礼の重要さを力説している。儒家では父母の喪を足掛け3年(正確には25ヶ月)としており、これが長すぎるとの批判があり、特に墨子は葬礼を無意味だと論難した。これに対し、荀子は葬礼が社会秩序を維持するものであるとして擁護する。それの当否は措くとしても、どうしてその葬礼が成立したのか、3年の喪にどのような意味があるのか、そうしたことを検証せずに、無批判に旧来の習慣を肯定したことは不徹底であったと思う。常識に挑戦した墨子との大きな違いである。

とはいえ、荀子の生きた社会は、墨子や孟子の頃よりもずっと乱れていた。むしろこれまでの常識が通用しなくなってきた社会であった。為政者の質は落ち、その場しのぎの政策で民は疲弊していた。であるから、荀子には思想的一貫性よりも、社会秩序の維持を重視する傾きがあるのは無理からぬことである。

そして、そのような社会の様相は現代にも通ずるものがあり、特にその君主論は今にも十分に通用する。例えば荀子は言う。「聡明な君主は立派な人物を求めることに努力するのであるが、暗愚な君主は権勢を得ることに努力する」、「つまらぬ人物を重く用いて人民の上位において威光を振わせ、巧みに口実を設けて取るべきでないのに民衆から財貨をだまし取る。これが国を傷つけそこなう大災厄である」「聡明な君主は臣下と力を合わせることを好むが、愚かな君主は何もかも自分一人ですることを好むのである」、「君主の政治のしかたは、明るいのがよろしく、暗いのはよろしくない。開放的なのがよろしく、秘密的なのはよろしくない」云々。

なお、荀子の文章は論理的であるが、かなりくどくどしたところがあり、論旨の繰り返しも多く長ったらしい。人を説得せずにはおれない力強さはあるものの、大文章であるためそもそも『荀子』を読む人自体が少ないように思う。今の時代には向かない古典かもしれない。

本書は、『荀子』からその主要思想を伝える諸編を選んで日本語訳したもの。日本語訳自体はわかりやすいものの、注が語義の説明のみに留まり、簡単なのが残念である。もう少し解説的な部分もあれば理解の助けになったと思う。

思想の中心「礼」が弱点だが、乱世を生きる力強い思想の書。


【関連書籍の読書メモ】
『墨子』森 三樹三郎 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/11/19.html

古代に「有神論的功利主義」を説いた独創的思想家の書。


2020年11月11日水曜日

『増補 無縁・公界・楽』網野 善彦 著

日本の中世・近世に存在した「無縁の原理」について述べる本。

「無縁」とは、縁がないということではなく、もっと広く「俗世の主従関係・親族関係・貸借関係等から離れ、訴訟・紛争などが停止され、自律的な自治が行われる場」の性質を指す言葉である。

例えば「無縁所」とされた寺の場合、そこに駆け込むと、追っ手は捉えることができず、借金の取り立ては不可能になり、たとえ科人であっても誅罰されないのである。そういう場——ある種の「アジール(避難所)」が、その形態は様々であったが中世から江戸時代にかけて存在し続け、幕府の統治とは違った意味での「自由と平和」を実現する場となっていた。

「無縁」をまとっていたのは「場」だけではない。例えば遍歴する芸能民・職人には、関所の自由通行を認められ、課役から自由なものが多く見受けられる。どうやら芸能と「無縁」には深い関係があるようだ。また「禁裏供御人(天皇・朝廷に山海の特産物や工芸品などを納めた人)」はこうした特権の発生に関わっていると見られる。さらに「女性」も「無縁」的であったかもしれないと示唆されている。

一方、寺の全てが「無縁所」だったわけではない。大名や家臣の氏寺のようなものは普通「無縁所」にならなかったし、「無縁所」になるためには古跡であるといった条件もあったようだ。

「無縁」は時代が下ると「公界(くがい)」という言葉でも表されるようになる。幕府の統治から外れた人を「公界者」と呼び、自治都市は「公界」と呼ばれた。さらに追って、こうした場は「楽(らく)」とも呼ばれる。「楽市場」とは、営業権の自由だけでなく、地子・諸役免除の場でもあった。

もちろん、公権力にとってはその力が及ばない「無縁所」などは好ましくなかったので、そこに圧力を加えてその特権を排除していくことが多かったのであるが、しかし一方で公権力は法制的に「無縁所」を追認していることもまた一般的であった。公権力を無効化する「無縁」の力は、公権力にとってやっかいなものだったように思うものの、必ずしも敵対的な関係ではなかったのである。

本書は、こうした「無縁」の様々な事物について、史料の片言隻句から推測していく、という微証の積み重ねの本である。よって、体系的な「無縁」の考察というより、「無縁」の世界を垣間見るとでもいうか、考察の入り口となるような論考である。ところが「無縁の原理は人類史に普遍的に存在する」といった大雑把な言明が飛び出してきたり、学問的にはやや脇が甘い点もあって、本書の初版発表時には、批判も多く寄せられた。

そこで著者が主要な批判に対して「補注」の形で応え、若干の論考を補ったのが書名の「増補」の意味である。 しかしながら、著者の立論は「補注」を含めてもあまり堅牢ではない。様々な微証はそれなりに豊富だが、まるで跳び石のようにあちこちに散らばっており、文字通り一筋縄ではいかない。私も、何か「無縁」についてわかったような、わからないような、狐につままれたような気分になってしまった。

そんなわけで、あまり明確に理解してはいないが、私なりに「無縁」の意味について述べてみる。

まず、中世(鎌倉・室町)の公権力は、「将軍—御家人」の主従制を基本的な統治原理としていた。特に鎌倉幕府は、公権力全てを掌握したのではなくて、法務局(土地の登記)と裁判所(紛争の解決)と軍事指揮権のみを保持した”半”公権力であった。 御家人というのは、将軍から土地を認定(安堵)されたことによって主従関係を持ったもので、今風に言えば法務局で登記してもらった人が御家人なのである。では土地を安堵されていない人(非御家人)と、公権力との関係はどうであったか。

例えば、裁判において御家人と非御家人が係争したとき、非御家人に不利な判決が出がちだったかというとそうでもないらしい。それに軍事指揮権は土地の給付とは名目上は関係なく、朝廷から委任された惣追捕使といった役職から発せられる権能だった(しかし実際に戦に動員されたのは御家人のみ)。「御成敗式目」でも、「御家人の場合はこうする、御家人でない場合はこうする」といった規定があるから、鎌倉幕府は確かに非御家人も統治していた。ただしそれは、主従関係で結ばれた統治ではなかったから、曖昧な部分を残した統治であった。

では、そもそも土地を持たない職人とか商人といったものは、鎌倉幕府の中でどのように位置づけられるのだろうか。裁判が起これば幕府に従わなくてはならなかったが、そうでなければ幕府の統治外の存在だったと言える。鎌倉幕府は法務局と裁判所と軍事以外の面では、明確な権能がないのである。幕府とは、形式上、朝廷から行政権の一部を付託されて成立していて、全統治権を保持しているわけではなかったから、統治権に隙間が大きかった。

私の理解では、「無縁」とはそういう「統治権の隙間」のことではないかと思う。大名や家臣の氏寺が「無縁所」にならなかったのは、主従制の中に組み込まれた存在だったからであろう。こういう場は幕府にはちゃんと統治権があるのである。芸能民・職人のような、(土地を安堵されないため)御家人になる可能性がない者が「無縁」的であるのもそういう理由であろう。

してみれば、「無縁」が存在し得たのは、統治権が未確立で、非中央集権的な封建社会であったからだという単純なことになる。著者がある種のロマンティズムをもって語っている「無縁」を、こういう統治権の面から理解するのは無粋なことかもしれないし、これだけで説明できることでもない。何しろ、「無縁所」で断たれるのは、公権力との関係だけでなく、婚姻関係など親族関係や金の貸借関係まで含まれる。つまり今で言えば民法も無効化される。公権力が保証しなくても自然発生的に認められていた(に違いない)民法まで無効化されるのが「無縁」の不思議なところである。

しかも、幕府はそういう統治権の隙間をしぶしぶながら認めて、そこに幕府とは異なる統治原理の別世界を建設するのを許していた。こういう考察をしていくと、結局「中世における幕府の統治権とは何か」という話になってきて、「無縁」とはちょっと違う話になってくる。しかし私が本書を読んで思ったのは、「無縁」の基盤となった法制的なものは何かということと、「非御家人から見る中世の歴史」はどんなものなんだろうか、ということだった。

「無縁」の世界という沃野を切り拓いた、荒削りだが触発されるところも多い論考。

【関連書籍の読書メモ】
『寺社勢力—もう一つの中世社会』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/blog-post_13.html

中世における寺社勢力の勃興と衰退を述べる。非御家人の一大勢力であった寺社の中世史。
中世の申し子とも言える寺社勢力を通じて当時の社会の内実を考えさせる良書。

 

2020年11月6日金曜日

『法華経』(現代語訳大乗仏典2)中村 元 著

法華経のエッセンス。

本書は仏教学者・比較宗教学者の中村元が折々にまとめた法華経(サンスクリット+漢文)の重要な部分の現代語訳とその解説を基本として、足りない部分を東方研究会 (中村が残した研究団体)[の堀内伸二]が補筆したものである。

よって本書は法華経の全文ではなく、そのエッセンスの解説である。

法華経はアジア諸国で「諸経の王」として重視された経典であり、日本の文化にも巨大な影響を与えてきた。これは紀元1〜2世紀の北西インド、クシャーナ王朝で編纂されたと見られ、特に韻文の部分が早くに成立した。この韻文(ガ—ター)はサンスクリット語でもパーリ語でもない言語(ガーター・ダイアレクト)で書かれている。

『法華経』は中国に伝えられると鳩摩羅什の翻訳を含め3種の翻訳が作られた。それほど中国人は『法華経』に深い影響を受けたということになる。特に天台大師智顗(ちぎ)は『摩訶止観』『法華玄義』『法華文句』という古典的な大作(三大部)を残し、これは日本にも大きな影響を与えた。

日本でも聖徳太子が『法華義疏』を著しているように、『法華経』は仏教伝来当初から重んじられ、天台宗が『法華経』を根本経典としたことから、天台宗を母体として生まれた諸派もまたこれを最も基本的な経典の位置づけとした。このように甚大な影響力を持った経典は他になく、『法華経』はまさに「諸経の王」である。

その内容であるが、まず冒頭(序品)の場面の壮大さはちょっと度肝を抜かれる。釈尊が何万人もの菩薩たちの前で教えを説き、その光で全世界を照らす場面である。このオープニングには、『法華経』の巨大な包容力がある世界観が表現されている。

具体的な思想については、長大なお経なのでとてもまとめられるものではない。そこで以下に気になった点だけ記す。

第1に、「一乗の思想」。悟りに至る方法・教えにはいろいろあるが、それは最終的には帰一する。大乗仏教は小乗仏教(上座部仏教)を批判していたのだが、『法華経』では小乗すら包摂する。仏は偉大な慈悲を持っているので、「南無仏」と唱えるだけでもみな救われる。

第2に、ストゥーパ(塔)崇拝の勧め。ストゥーパ(舎利=ブッダの遺骨を崇拝するための施設)は、仮に子供が戯れに作ったものであっても仏に救ってもらえるという。これは信仰心の有無を問題にしていないようで非常に気になる部分である(時衆の「信不信をえらばず」を想起させる)。塔崇拝の勧めは、日本では諸々の塔(五輪塔とか宝篋印塔とか)の造営に大きな影響を与えたと思う。

第3に、「回向の思想」。経典を読誦する功徳は他の人に「回らし向け」ることができて、それによってやがて全ての人がさとりを開くことができる(→普回向文「願以此功徳、普及於一切、我等与衆生、皆共成仏道」)(化城喩品)。

第4に、経典そのものを聖なるものと見なす思想。『法華経』をたもつ者は、そのまま如来であるとし、経典をたった一つの語句だけでも読誦し、書写し、記憶し、拝み、供養(伎楽や花で荘厳する)することは無上の功徳がある。言うまでもなく、この思想は日蓮宗に強く受け継がれた(法師品)。

第5に、 「久遠(くおん)の本仏」の思想。歴史的存在としての釈尊は既に入滅しているが、実は仏は永遠の昔(久遠)に悟りを開いており、それが方便のため人間として生まれて教えを説いたものであって、仏の本質は永遠不滅のもの(常住不滅)だという思想である。要するに、仏の教えは特定の人物によって説かれた「歴史的な」ものではなく、「永遠の」ものである(如来寿量品)。

第6に、観音崇拝の思想。『法華経』第25章「観世音菩薩普門品」は、『観音経』として独立して尊ばれた。これによれば観世音菩薩は、ちょっと礼拝したり、念じるだけでも、ただちに現れて災いを取り除き、いかなる苦境からをも我々を救ってくれるのだという。また我々の理解力や立場に応じて35の身に姿を変えて教えを説いてくれる(一般的に「三十三身」と呼ばれる)。『法華経』は主人公のようなものが登場しないお経であるが、観世音菩薩は法華経の精神を具現化したアイコン的存在といえる。

このように、『法華経』は様々な思想が盛り込まれており、ある種の編纂物のような趣がある経典である。こうした性格からか、著者は『法華経』を「宥和の思想」であるとまとめている。『法華経』においては、アレはダメだこれはダメだといった規制的な文言は全くといっていいほど出てこず、いかなる方法によっても、ほんの僅かな信心しかなくとも、仏の偉大な慈悲によって皆救われるという、包容力のある思想が展開しているのである。

しかし、『法華経』を至高のものとみなした日蓮宗が他宗排斥的になったのは皮肉なことだ。

なお、中村元の訳注・解説は大変丁寧で、非常にわかりやすい。本書では、漢訳を単なる翻訳と見なさず、一つの創造物として扱い、サンスクリット原文とほぼ等しい比重(むしろ漢訳の方が基本の部分も多い)で紹介している。 それは、日本では漢訳によって『法華経』が受容されているから、日本の思想との接続が考慮されているのである。

しかし、漢文の読み下し文は、伝統的な訓じ方に従っていない部分が多い(らしい)。それは伝統的な読み下し文が、意味が不明瞭になったり、日本語として体を成さないことがあるからで、著者は「そもそも漢文の読み下し自体に無理がある」との立場である。そこで本書では伝統にとらわれない合理的な読み下しが選択されている。これは『法華経』を聖典としている方々からすれば容認できかねることかもしれないが、元来の意味を正確に理解できるようになるのだからいいことだと思う。

壮大な世界観を持った「宥和の思想」の経典のわかりやすい解説。

 

2020年11月4日水曜日

『古代の神社と神職—神をまつる人びと』加瀬 直弥 著

古代の神社がいったいどういうものであったかを述べる本。

我々はある種の神社は古代から連綿と続いてきたものだと考え、神社とはこのようなものだ、というイメージを持っている。しかし実際には幾度もの断絶があり、そもそも神社とはいかなるものであったかということすら正確には分かっていない。

本書は、古代の神社がどのようなものであったかを、(1)神社の立地と社殿、(2)神職の職掌、という2つの観点から推測するものである。

(1)神社の立地と社殿

神社は、立地が非常に重要のようだ。それは、ただ神を祀ることが重要なのではなくて、祀る場所そのものが聖地の性格を持たなくてはならないからのように見える。神を祀れという託宣がある場合にも「どこそこに祀れ」と場所の指定がある。これは寺院の造立とは異なる点であろう。ではどのような場所に神社は立地したか。

山の神社の場合、山上・中腹・麓と、いろんなケースがあり一定していない。しかし神の領域を截然と分ける意識は共通している。田の神社の場合も同様であるが、水利との関係が大きくなる。神社は水利上のポイント(水が湧いているとか)に位置することが多い。総じて言えば、神社は地形的な際(キワ)や特徴的な地形に立地することが多く、聖域化が可能な(人の活動と交わらない)場所が選ばれている。

そうした立地に、古代の人は社殿を建てたかどうか。よく「古代の神社には社殿(本殿)はなく、山そのものを神として祀った」などと言われるがこれは事実なのか。確かに本殿のない神社はあった。しかしそれが一般的だったわけでもないらしい(その割合がどうだったのかは不明だそうだ)。そして社殿を造営することは神を喜ばす贈り物の意味があり、社殿を喜ばなかった神はいない(らしい)。しかし社殿の有無は本質的ではなく、より重要なのは「神の領域」を区画することであり、特にみだりに人が立ち入らないように閉鎖することだった。この意味で社殿は有効であったため、多くの神社で採用されていった。

しかし、ここで重要な詔(みことのり)がある。天武天皇10年(681)に出された「神社の神の社(やしろ)を造営せよ」という詔である。これは全ての神社に対して出されたのではなくて、朝廷が把握している神社ということであるが、このような命令が下されたことは興味深い。つまり、このような命令があったということは、神社の方では社殿の造営を積極的には行っていなかったことの傍証であり、また朝廷としては社殿がある神社の方を正統とみなしていたことの証拠であるからだ。同様の詔は、天平9年(737)、天平神護元年(765)にも出ている。このようにして、平安時代初期には社殿がある神社の方が一般的になった。

さらに、造営した神社が適切に維持管理されない場合も多かったらしく、朝廷は国司に対して神社をしっかりと清掃するように命令を出している(後に祝(はふり)が清掃する前提に変更)。どうも社殿に関しては、自然発生的なものではなく、朝廷の関与で基本形ができていくということのようだ。しかしおそらくはそのために、現場の神社の方では社殿の造営や維持管理を積極的に行おうとする意欲に乏しいように見える。一方、朝廷は社殿の造営を国司の勤務評定に加えたり、たびたび維持管理に関する詔を出したりして神社をしっかりとしつらえようとしており、これは鎌倉幕府にも引き継がれる(『御成敗式目』第1条)。しかし何のために朝廷が社殿にこだわったのかは明確ではない。

(2)神職の職掌

神社は祝部(はふりべ)、禰宜(ねぎ)といった神職が維持していくことになっていたが、驚いたことにこうした神職が具体的に何であるのかはよくわからず、しかも平安時代初期の段階では当時の人すらもよくわからないようになっていた。そして朝廷の方も、こうした神職についての規定はほとんどしていない。祝部について定められた任務は、毎年2月(祈年祭の時)に神祇官に幣帛を取りに来て神社に祀る、ということに尽きる。

では神職にはどのような人物が任命されたのか。ほとんどの場合、神職を務める氏族は決まっていた。これは単なる世襲ではなく、祭神によって名指しされている(とされる)場合があるなど宗教的な意味がありそうである。

また、神職というと笏(しゃく)を持っているというイメージがあるが、実用的には何の役にも立たない笏を持っているのはなぜなのか。 実は把笏は位階(神階)の高い神社の神職のみに認められた特権であった。ここで関連が出てくるのが「神階(例「一品(ほん)」とか)」である。神階には実利的なメリットはなかったが、神階授与が中央との結びつきを示せる国司の有能さの証しと見なされて、積極的に行われた時期がある。そして斉衡3年(856)から神階と把笏容認が連動するようになった。こうして、目に見える形で神階授与がわかるようになり、一種のステータスとなったのでこの傾向が加速され、把笏が広まっていったのである。しかしその背景には、それに先立つ時期、朝廷と地方の神社との関わりが弱くなってきたという事情があったようだ。つまり把笏容認は朝廷と神社との結びつきを確認する象徴だったということになる。

ところで、古代の神職には女性が重要な役割を果たしていた。皇族の未婚女性が務めた伊勢大神宮の斎王(さいおう)や、春日神社の斎女(さいじょ)などが有名である。また宇佐八幡の禰宜でもあり尼(!)でもあった、大神杜女(おおがの・もりめ)は東大寺大仏の造営に深く関わり、神職としては前代未聞の「従四位下」の位階を授けられた。伊勢大神宮では大物忌(おおものいみ)という童女が務める神職もあった。大物忌はまつりにおいて最も神のそばに使える役割を担っていたようだ。伊勢大神宮に限らず、朝廷はまつりを童女に積極的に行わせていた。しかし天長2年(825)、朝廷は女性の祝部に対して懸念を表明し、以後徐々に、女性神職が男性同様の立場となることはなくなっていく。

本書では全体を通じ、制度の細かい変転を検証することを通じて、奈良時代末期から平安初期が神社にとっての画期であることを示す。この時代、朝廷は神社行政のテコ入れを行い、社殿の造営・維持管理や、まつりの実施、神階を授けることによる朝廷との関係性の強化などを行っている。そうした朝廷の政策によって生まれたのが「神社」なのだ。つまり「神道」は、自然発生的な日本の民俗宗教ではなくて、朝廷の政策によって人工的・画一的に作られたものだ(本書にはそこまで露骨には書いていないが)。

そしてこの時期にそうした政策が行われたのは、道鏡政治の揺り戻しであったという(ごく簡単に述べられている)。これは高取正男が『神道の成立』で述べたことである。ただし、であるにしても、なぜ女性神職に制限を加えるようになったのかは謎である。

朝廷の動向の細かい検証によって古代神社確立の過程を辿る実直な本。


【関連書籍の読書メモ】
『神道の成立』高取 正男 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/07/blog-post_21.html
神道の成立過程を丹念に辿る本。神道成立前夜の動向を、細かい事実を積み重ねて究明した労作。

 

『墨子』森 三樹三郎 訳(『世界古典文学全集 19 諸子百家』所収)

墨子の主要著作。

中国の春秋戦国時代(紀元前5世紀の前後200年くらい)、諸子百家と呼ばれる様々な思想家・学派が現れた。彼らは現代でいう思想家ではなく、戦国の世で他国よりも富国強兵を実現させるための政策コンサルタントのような存在であり、諸国を遍歴してその政策を説いた。

今では失われてしまった思想も含め、多くの主義主張が競ったが、その中でもまとまった集団をなしていたのは、儒家と墨家だけだったそうだ。この両者は個人のコンサルではなく、多くの弟子を諸国に派遣するシンクタンクのような存在であったといえる。

しかし、その後の中国の歴史に甚大な影響を与えた儒家とは違い、墨家たちは秦漢の統一時代に入ると雲散霧消してしまい、その思想は後代に伝わることがなかった。それどころか墨子の著作はほとんど無視され、清朝末に至る2000年の間、忘れられるという「絶学」の悲運を味わったのである。

このような次第であるから、墨子の著作は完全な形では伝わっていない上、本文の混乱が激しく、難読中の難読の書とされてきた。また後代の人が追加した部分を含み、墨子の伝記的事実も明らかでない。本書は、墨子元来の著作と見られる部分を中心として主要な諸編を日本語訳したものである(原文は省略されている)。

ではその思想はいかなるものであったか。墨子の原思想を表していると見られる本書所収の諸編のタイトルから、その枢要な内容をメモしてみよう。

尚賢:政治の根本は、義を貴ぶ賢者を任用することである。それには身分の高下は関係ない。(当時において身分制を否定したことは革命的な意味がある。)

尚同:天子の政治は、天下の人々の考えを同一化しなくてはならない。そのためには国や郷里は統一的な考えで信賞必罰を行うべきである。(今から見ると全体主義的な部分を含むが、むしろ民約論に近い内容である。要するに、君主独裁ではなくて人々の考えを君主に帰一させなくてはならないと墨子は言う。)

兼愛:天下の人々が全て愛し合わなければ、強者が弱者を、富者が貧者を、貴人は賤人を食い物にするに決まっており、もしそうなれば社会全体の利益が失われるのだから、博愛の精神で愛し合い、互いの利益を図るべきである。これは非常に難しいことのように思うかもしれないが、例えば戦の時に死の危険を犯して攻め込むようなことに比べてずっと易しいことだ。(墨子は当時のインテリとしては例外的に天帝や鬼神の存在を信じており、それが墨子の思想の根本をなしている。しかしながら兼愛という博愛思想は、キリスト教のそれのような宗教的な価値ではなく、実利面から説かれていることが著しい特徴であり、また意外な部分である。)

非攻: 戦争では仮に勝ったとしても利益は少なく、損失は多いのだから、侵略戦争は行なってはならない。攻戦して滅びた国がたくさんあるという事実を見てもそれは明らかだ。(兼愛の思想から非攻が導かれるのではなく、実利的な理由で侵略戦争が否定されているのが特徴。)

節用:実用的なもの以外は作るべきではない。国が無用な奢侈品ばかり作って民の生活に役立つものを閑却しているから国が富み栄えないのである。(国家財政のあり方を述べたもので、有用な事業のみに税金を使うようにという意味である。)

節葬:葬式を豪華にしたり、長い間(儒家によれば最長3年)喪に服するのは無意味なのでやめるべきだ。(当時の庶民には葬礼のため破産するものがいたり、王公の場合は多数の殉死者を出したりしたからそれを否定したもの。葬礼をになった儒家への対抗の意味もあったのかもしれない。しかし祖先祭祀を重んじる中国では、「節葬」は墨家への最大の非難の的となった)

天志:天の摂理(天志)に従わなくてはならない。天は、君主が善政を行い、民衆が仕事に務め、強者が弱者を助け、平和に暮らすことを求めている。これに適う行いをするのが天の摂理である。(墨子は天志を義の根本原理に据えているが、その内容はやや恣意的なもののように思われる。)

明鬼:鬼神、天神は実在する。歴史を紐解けば、古代の聖王たちはみな鬼神を信じ、実在するものとして行動しており、その存在は明白である。いつでも鬼神が我々の行動を監視しているのだから、誰も見ていない場所でも行いは正しくせねばならない。(諸子百家で有神論を主張したのは墨子のみである。鬼神の存在は墨子の思想の核心であった。)

非楽:音楽を奏することは君主にとって無駄な奢侈である。(墨子は音楽の楽しさ、美しさは否定していない。当時は壮麗な音楽を奏でることが重要な政務のごとく行われ、特に儒家が音楽を政治・道徳を高める手段としていたことが背景にある。しかしそれだけに墨子の「非楽」は非難された。)

非命:運命、宿命といったものは存在しない。運命論を信じてしまうと、努力が無意味となり、正しい行いをしなくなる。過去の聖王も運命論は否定している。未来は自分の行いによって変えられるのである。(「天志」と「非命」は内容的に近い。ただし、墨子の考える鬼神(天)は、行いによってすぐさま応えてくれるようなものではなく、大局的な動きを左右する存在のようである。この性格から、例えば「不幸のうちに死んだ義人」がいるからといって鬼神の存在は否定されない。)

以上、簡単に墨子の思想をまとめてみた。全体を通じて特徴的なことは、鬼神の存在を主張したり天志を根本としたりしている割には、実利を非常に重視して立論していることである。これは功利主義的といってもいいであろう。兼愛や非攻といった墨子の中心思想は、ベンサム的な「最大多数の最大幸福」の原理から導かれるものだったのである。

実利を基準に考えているため、墨子においては「義」の内容が儒家に比べてずっと具体的である。全体(マクロ)に利をもたらすのが墨子にとっての「義」なのである。今の言葉でいえば「公共の福祉」を基準に政策論を考えたのが墨子だといえる。

しかしながら、墨子は様々な主張において過去の聖王(堯舜禹湯)の行いを根拠としている。この点は対立していた儒家と同じである。運命論の否定であったり、鬼神の存在といったようなことで過去の聖王を持ち出してきたのは、実利では説明のつかないことだったからなのだろう。このことは、墨子の論理体系が完全には首尾一貫していなかったことを示唆する。墨子の思想には、実利と鬼神とが奇妙に同居していた。彼の学派は宗教の教団のようなものであったらしいが、それが戦国時代において儒家と並ぶ勢力となった一因でもあり、また滅びてしまった一因でもあるのだろう。

古代に「有神論的功利主義」を説いた独創的思想家の書。

 

2020年11月2日月曜日

『鉄砲とその時代』三鬼 清三郎 著

織豊時代のあらましを描く。

著者の三鬼清三郎は織豊時代(安土桃山時代)を専門とする。本書は、織豊時代をどのような時代と見なしたらよいか再考することをテーマとし、その概略的な歴史をいくつかのトピックにより述べるものである(よって通史的ではない)。

この時代(正確には戦国時代以降)は、江戸時代とはかなり違った美意識や価値観で動いていた。例えば大阪城は、室内には金箔が施され、屋根瓦は全て黄金色、塔には金色および青色の飾りをつけていたという。江戸時代の白い城郭とは全く違った極彩色の城が作られたのである。我々の常識とは異なった常識があったのが織豊時代だ。

であるから、史料に書かれた内容を理解したと思っても、当時の人がどのようにそれを受け取っていたかは、現代の常識からは直ちには分からないのである。織豊時代をどのような時代と見なすかは、こうした当時の人々の意識まで探る必要がある。

また、織豊時代はちょうど「近世封建制度(中央集権的な封建制)」が成立する時期に当たっているが、その成立過程をどう評価するか。本書では様々な見解が簡単に紹介されているが、本書執筆時、織豊時代の評価が全く定まっていないことに驚かざるを得ない。なお著者は「太閤検地が近世封建社会を成立させる契機をなすもので、織田政権は、戦国大名と同じく中世的権力であるという考え」に近いという。要するに、豊臣秀吉を画期として中央集権的な新しいタイプの封建社会になったとの評価である。

このような見解であることから、本書でも太閤検地はやや詳しく紹介される。太閤検地が土地面積ではなく石高によって行われたこと、中世的な主従関係ではなく名目的であれ国家機関によって実施されたこと、複雑な貢納関係を整理して徴税権を領主に一元化し、領主=農民関係を確立したことなどが重視されている。

私自身は、この時代の思想的な動向に興味があって本書を手に取った。言うまでもなく、織豊時代はキリシタンの世紀であり、貿易による実利を求めてであったにしろ、大名ですらキリシタンに改宗した時代であった。そしてもう一つが、織田信長の比叡山焼き討ち・一向一揆の殲滅・法華宗の否定(安土宗論)など、中世的な仏教勢力の解体が行われたのもこの時代だ。こうした宗教における激動がこの時代に一気に進んだのが興味深い。

さらに面白いことは、信長と秀吉が、自身の統治権を日本全国に及ぼす理屈として天皇の存在を持ち出していることである。信長や秀吉は、必ずしも日本全土を掌握していない段階から「天下人」として振る舞い、日本全土を統治した格好で政策を進めた。それは朝廷への奉仕を名目にしたり、天皇の権威を使うことによってなされたのである。興味深いことに、これはまさに明治維新の際に使われたロジックと全く同じであった。

本書はいわば「歴史観に再考を催す」本であるが、実は私自身があまり織豊時代に詳しくないので「再考」どころかこれまであまり織豊時代の評価について考えてもいなかった。なので本書の促す「再考」は全くできていない。とはいえ、本書は1981年に「教育者歴史新書」として発行され、それが2012年に吉川弘文館の「読みなおす日本史」シリーズの一冊として再刊されていることを考えると、著者の促す「再考」はまだ有効な問いかけなのだろう。もう少しこの時代のことの勉強をしてから機会があれば再読してみようと思う。

織豊時代の再検討を迫る良書。


2020年10月31日土曜日

『火縄銃から黒船まで—江戸時代技術史』奥村 正二 著

江戸時代の技術史を描く。

江戸時代は、技術的には停滞していた。鎖国(という名の統制貿易を)していたため海外からの情報が入りづらかったということもあるが、最大の原因は幕府が技術革新を禁止していたからだ。

享保6年(1721)、将軍吉宗は「新規法度の御触書」を出した。この触書では、「新規に巧出し候事 爾今以後固く停止たり」として新規な品の製造を禁止し、同年末にはすべての商人職人に業種別のグループを作らせて相互に監視させ、もし新商品が出現した場合に製造元をタレコミさせる体制を作った。発明も改善も一切禁止するという暴挙であった。

これは本来は奢侈禁止を目的としたもので、農民たちに自給自足を強制し、貨幣経済から隔離させようとした政策の一環である。しかしこの政策により、何に限らず改善する・改良するということは、お上を恐れぬ仕業として警戒されることとなった。

「新規法度の御触書」によって道具の改良・専門化が停止されたため、新規品の製造のみならず既存品の効率的な製造法も生みだされることがなくなり、一方で既存の道具をいかにうまく使えるかという”熟練”が極度に重視されることとなった。さらにこの触書は、使いづらい道具ややりづらい仕事を改善するのではなく、現状をあるがままに受け入れ、忍従することを美徳とする国民性の一因とさえなったという。

このように、技術革新はそもそも禁じられていたが、そうでなくても江戸時代には技術者の自由な交流がなく、技術の発展の土台がなかった。諸国(諸藩)の通行は自由ではなかったし、そもそも技術自体が秘伝として公開されなかった。特許のような発明者を保護する仕組みがなかったので、技術は門外不出にする方が合理的だったからだ。だが沿岸交易による交流と、全国に散らばる天領間での交流によって徐々にではあるが技術は広まっていった。

本書では、このように停滞していた江戸時代の技術史を、「火縄銃・大筒・焔硝」、「御朱印船・千石船・黒船」、「金銀銅の鉱山」、「歯車とからくり」の4つのトピックで巡るものである。

火縄銃・大筒・焔硝

1543年、種子島にポルトガル人が鉄砲を持ち込み、時の城主種子島時尭(ときたか)はその重要性をすぐに理解して二千金という大金を投じて二挺を買い入れた。そしてそのたった2年後には、堺や紀伊、九州で鉄砲の製造売買が大量に行われていたのである。日本刀で培われた鍛造技術があったため、日本人はすぐに鉄砲を真似して作ることができた。

ただし技術的に苦労した点が2つある。第1に、銃身端部へ尾栓をねじで嵌め合わせることができなかった。なぜならそれまで日本人は「ねじ」を知らず、特にねじ穴をどうやって開けるかがわからなかった。そして第2に、日本では火薬の原料の硝石が産出しないということである。

第1の点はネジガタ(今のタップ)が独自に発明されてクリアした。第2の点は、戦国時代の戦で鉄砲が多用されたことを考えると、日本は大量に中国から硝石を輸入していたようである。江戸中期からは硝石の人工的製造法が知られるようになるが、それは古い便所等の土を利用するもので製造効率は悪かったと思われる。

鉄砲は日本の戦争を一変させ、築城、防具(鎧)、戦法は戦国時代に大きく変化した。文字通り、鉄砲を制するものが戦を制したのである。しかし江戸幕府が開かれると、鉄砲の製造技術(具体的には鉄砲を製造する村=国友村)を幕府が独占する一方、「飛び道具は武士道に反する卑怯なもの」「鉄砲は卑しい足軽があつかうもの」といった思想が幕府の御用学者・林羅山によって鼓吹され、武士の象徴としての刀の価値が持ち上げられた。こうして鉄砲の技術は江戸時代には発展することはなかった。

幕末になって諸外国が日本へやってくると、大筒(大砲)の製造が試みられる。なお、すでに戦国時代に大砲は伝来していたが、これを使ったのは少数の武将に限られる。というのは、当時の日本には満足な道路がなかったため、大砲を運搬するのが大変だったこと、そして榴弾(内部に火薬が詰まった弾)が開発されていなかったので破壊力が小さかったためである。

幕末には佐賀藩を中心として、各所で大砲製造が行われた。これは幕府が「大砲製造令」(1842年)を出して各藩に大砲の製造を促したためでもある。しかし小銃の方は、もっぱら輸入に頼っていた。幕末は小銃の大きな変化・改善の時期に当たっており、次々伝来する新たな小銃の技術にキャッチアップすることができず、また国内の需要が大きすぎ、それをまかなう製造体制が取れなかったためだという。

御朱印船・千石船・黒船

日本は海に囲まれた国であるにもかかわらず、古来造船技術は稚拙であった。遣唐使船、遣明船などは原始的な構造であったと推測される。しかし明との貿易が打ち切られた後、御朱印船の時代(戦国時代)になって造船技術はかなり進歩した。

そもそも朱印船貿易とは、幕府の勅許を得て行う南方との交易のことであるが、これが行われた時代は西洋でもいわゆる「大航海時代」にあたっており、スペインやポルトガルが東南アジア(南蛮)にやってきていたから南蛮世界は大変賑わっていた。こうして南蛮を中継地として、日本は中国・ヨーロッパとの交易を行うのである。

これは官営貿易ではなくて、勅許を受けた私貿易であるから、利益を求めて船が大規模化し、御朱印船の乗員数は200〜300人程度にもなった。当初はこのような大船を従来の工法でつくっており、船底が平らで航行が不安定だったが、やがて造船技術が長足の進歩を遂げた。これは唐船のみならず西洋式帆船のよいところをとりいれた折衷型であったと思われる。初期の御朱印船には西洋人航海士を雇った例が多く、航海技術も西洋に学んで進歩したようだ。

しかし江戸幕府が鎖国令を敷くと事態は一変する。鎖国令を貫徹するため、幕府が造船技術に厳しい制限を設けたからである。具体的には、船の帆柱を一本とし、竜骨を入れることを禁止した(大船禁止令にもとづく行政指導)。帆柱が一本であることは船の大きさの制約となり、竜骨の禁止は伝統的な和舟への回帰を意味した。このような船を「大和型船」と呼ぶ。竜骨がない大和型船は製造面でも大木を必要として不利であり、さらに操舵が困難で(波を切ることができず)航行が不安定であった。

いわゆる「千石船」と呼ぶ船が、この大和型船である。「千石船」などと呼ぶと景気がよいが、実際には技術的制約から生まれた稚拙な船であった。こうして江戸時代には造船技術が低下し、さらには航海術も昔の水準へ逆戻りした。御朱印船時代に西洋から学んだ航海術が、長期にわたる鎖国政策によって船乗りの間から消え失せてしまったのである。しかし江戸と大坂を結ぶために沿岸海運は非常に盛んであったので、その結果として海難事故が異常に多くなった。

江戸時代の海難事故は、商船だけに限っても毎年千件を越えたと推定されているが、これは世界に類例のないことだそうだ。幕府の造船技術への制限は多くの人命の犠牲を伴っていたのである。

幕末になると黒船の来航によってこうした状況は終わりを告げる。黒船は鉄船ではなく、木造船の外側にチャン(瀝青)を塗っていたから黒く見えていたのだが、であっても日本の造船技術の水準を遙かに超えていたため当初この製造は不可能であった。よって幕府および諸藩は外国船を購入することによって海運をキャッチアップしようとした。なお大船禁止令が撤廃され船の構造上の制限が消滅したのは嘉永6年(1853)である。翌年から、薩摩と戸田(へだ)で造船が開始され、特に戸田での造船は明治維新後の造船技術開発の先蹤となった。

金銀銅の鉱山

江戸幕府の財政の大きな柱だったのが鉱山である。江戸幕府は主要な鉱山を手中にし、幕府の歩みはその消長と密接な関係があった。であるから、鉱山技術は幕府財政を支える重要なものだった。にもかかわらず、鉱山の掘削・排水・精錬等の技術はお粗末なものだった。

例えば鉱山内はどうしても酸素が薄くなり、また灯火の油煙のため空気が汚れる。だから積極的に換気していくことが重要なのであるが、江戸時代の鉱山ではこれが全く不十分であった。そのため、鉱夫はしばしば「気(け)絶え(酸素不足の失神)」で倒れ、「よろけ(珪肺)」による喀血で苦しみながら死んでいった。7年以上鉱夫を務められるものはなく、30歳を越える人は稀だったという。

また、水との戦いも壮絶だった。坑道は絶え間なく地下水が流れ込むため、24時間体制で水をくみ出す作業が必要になる。江戸時代、いくつかの種類の原始的なポンプが知られていたが、いずれにしても動力は人力で、しかもものすごい重労働である。そこで幕府は、江戸にいた無宿人を捕まえて、佐渡の水替人夫に徴用した。当然、強制労働である。一年中竹矢来の中に閉じ込められ、外出できるのは一年に一度だけであった。島送りが始まった安永7年(1776)から嘉永4年(1851)までの約70年間に2824人もの人が佐渡に送られた(明治10年頃まで続いたという)。そしてそのうちのただの一人も、釈放されたとの記録はないそうだ。

このように、江戸幕府は鉱山技術の稚拙さを人命の犠牲によって補っていた。幕末になって西洋からの技術が入ってくるとこれを積極的に活用して能率が劇的に上がっていく。はじめから進んだ技術を取り入れていれば、失われずに済んだ命があったのではないかと思わざるを得ない。

歯車とからくり—水車・和時計・ろくろなど—

この章は他に比べ短く簡略である。日本における歯車の技術史が概観され、それに伴って水車・和時計・ろくろについて述べられる。

和時計については、戦国時代に西洋から時計がもたらされたことで、これを真似て作られた国産品であるが、このように独自の機械時計を作ったのは東洋では日本だけである。しかし、西洋の時計機構を理解し、応用する技術力を持ちながら、日本の場合はそれが大名の奢侈品としてだけ活用された。またからくり人形の場合も、奢侈的な工芸品としてだけ発達し、その技術が産業面で広く活用されることはなかった。

本書の著者は、工学部卒で弁理士・技術士であって歴史家ではない。基本的な書き方としては、現代の技術から過去の技術を照射する形で述べられ、時系列的には書いていないので正確には「技術史」ではなく、江戸時代における「技術」の取り扱いを検証する本と言える。

全体として、これまでまとめたように、江戸時代には「技術」が極めて軽視されていた。そして「技術」が存在する場合も、様々な事情からそれが広く活かされることがなかった。これによって、多くの人命が失われたのである。本書を読みながら、技術の軽視は人命の軽視に繋がるということを痛感した次第である。

江戸時代の技術軽視を反面教師としたくなる卓論。


2020年10月12日月曜日

『石塔の民俗』石井 卓治 著

墓石の成立と石塔を関連づけて語る本。

著者の土井卓治は、岡山県の文化財専門委員を務めたり、日本民俗学会に所属するなどしてはいるが、石塔については専門ではないらしい。本書は、専門外の立場から石塔の世界を紹介し、特に今見られる墓石=普通のお墓がどのように成立したかを推測したものである。

本書の問題意識は、「(墓塔が)本来あるべき姿から非常に縁遠くなった形をとるようになってきたのは何故か。どんな過程を経てそうなったものだろうか」を解明したいということにある(p.9)。

日本では、仏教式の石塔(供養塔)は古代から建立されている。本書には古代からの石塔及び墓誌銘の事例が列挙され、今日の墓石に刻む銘文の内容は古代においてほとんどつくされていることが示される。ただし、中世になってから逆修(生前に自らの死後の供養を行うこと)が行われるようになるなど、供養塔の性格が一貫しているわけではない。

特に著者が疑問に思っているのは、石塔が依り代の役割を果たしたかどうかである。また礼拝の対象が死者の霊であったのかどうかも未解決である。石塔は、死者の名前(戒名)を刻むものというよりは、主尊を供養することに主目的があり、いうなれば建てるだけでその目的を果たしたため、参拝は必須ではなかった。それに石塔=墓標ではないので、埋葬地に建てる必要もなく、いくつあってもよかった。

また、故人の菩提を弔うために石塔は必須ではない。例えば手水鉢を寄進するとか、写経する、橋をかけるといったこともその役割を果たす作善行為(功徳を積む行為)であった。しかしやはり人々は死者に対して石卒塔婆を建てることを盛んに行った。その背景には、石塔それ自身に人々が霊力・魔力を認めていたということがあるのではないか。

こうした疑問を抱きつつ、著者は現在の墓石の原型として板碑に注目する。他の石塔(五輪塔や宝篋印塔)に比べ、板碑は製作がずっと容易であったため、庶民にも広まった。ただし板碑が墓石の原型であることは必ずしも完全に承認されていない。そこで本書では江戸時代の墓石の形式が確立するまでの様々な事例を挙げて、板碑がその元になっていることを例証している。

一方、板碑と墓石の大きな違いは何かというと、(1)板碑には主尊が刻まれるが、墓石には主尊ではなく戒名が中心であること、(2)板碑には建立年月日が刻まれるが、墓石では故人の死亡年月日であること、の2点である。すなわち墓石は、仏教的な表象を全て失って故人の記録のみを担うものになった石塔である、と考えることができる。本書はこのような変化が起こった力学を全て説明はしていないが、その議論は概ね説得的だと思った。

本書後半は、トピック的に石塔について語り、特に著者の研究フィールドである岡山の事例について述べている。例えば、石塔に納骨したかどうかというような問題、そして岡山の石塔に使われている石材がどのようなものか、といったことについてである。

全体として、本書は(非専門家ならではの?)鋭い指摘が多い。例えば、故人の菩提を弔うために石塔は必須ではないのになぜ石塔は盛んに建てられたのか、というようなことは、石塔ばかり見ている人は意外と気づかない視点だと思う。石塔を建てることは当然ではなく、元来は意味のある行為であったが、その意味がだんだん忘れられ、形骸化することで却って庶民にも造塔が広まり、結果的に墓石の形式が確立していったという逆説的な展開は非常に面白く感じた。

新鮮な角度から墓石の形式の成立を論じた良書。


2020年9月24日木曜日

『中世の板碑文化』播磨 定男 著

板碑の世界を概観する本。

板碑は、沖縄を除く日本全国に5万2千基もある。本書はこの板碑の起源から終焉までをほぼ時系列で辿りながら、その全体像を把握しようとしたものである。各宗派・各地方に目配せをしながら記載しており板碑の世界が総合的に理解できる。

本書の問題意識の一つは、板碑の形式についてである。板碑といえば、細長く薄い岩の上部が山型に整形され、上部に横二条線が彫られたものが基本形と考えられている。一般に板碑と言われてイメージするのはこの形だろう。ところが、数量的には自然石板碑(細長い石を整形せずにそのまま使った板碑)もかなりたくさんあるのである。従来、整形板碑が先に生まれて、それが簡略化または応用された形で自然石板碑が生まれたと考えられていた。

ところが紀年銘がある板碑を調査していくと、必ずしも整形板碑が先行するとはいいきれなくなってきた。自然石板碑と整形板碑はほぼ同時に生まれ、はっきりと別系統をなしているわけではないが併存してきたのである。こうしたことから著者は、板碑の本質は形式にはないと考える。五輪塔や宝篋印塔がその形式に意味があるのと違い、板碑の場合はそこに主尊(の種子[梵字])や造営趣旨を刻むことに意味があって、いうなればその形は二次的な意味しか持たなかったというのである。

また従来、板碑は埼玉県で基本形が生まれて、それが御家人の分散にともなって全国に広まっていったと理解されがちであったが、埼玉が板碑の中心地とはみなせてもことはそう単純ではないということである。

最初期の板碑は、仏塔の一つとして主尊安置に意味があり、主に追善供養のために建立された。ところが逆修の考え方が広まってくると逆修供養として建立されるようになる。鎌倉時代から南北朝期が板碑の全盛期であり、地方によって若干の差はあるが南北朝期が造立のピークである。板碑は他の仏塔に比べて製作が容易であり、庶民にも手が届くものであったことが全国的に広まった理由であった。

板碑は、思想的には阿弥陀信仰を表現したものが多く、それに続いて大日如来信仰が多いようだ。形式に意味はなく刻む内容によって様々な思想に転用可能なのが板碑であり、題目(南無妙法蓮華経)を刻んだ板碑もある。しかし7割くらいは阿弥陀信仰といってよいようである。

南北朝期のピークを迎えると、板碑の造立は急速に衰退し、造形の面でも鋭さが失われ粗略なものとなっていく。戦乱の影響もあるが、念仏が広まった結果、「念仏だけで往生できるならばわざわざ板碑を作る必要はない」という考えになったためではないかと著者は言う。五輪塔や宝篋印塔に比べ板碑は庶民的なものであったため、より手軽な方に流れたわけだ。

そして五輪塔や宝篋印塔は江戸時代になっても作られ続けたが、板碑は16世紀には全く作られなくなった。中世とともに勃興し、中世と共に消えたのが板碑なのである。板碑が作られなくなった理由は、念仏信仰もあるが、それ以上に墓石(我々が普通一般に考えるあの墓石)に置き換わってしまったためと考えられる。先述の通り板碑は主尊を安置・供養することに目的があったが、やがて故人の墓標の意味合いを帯びるようになった。主尊よりも個人の戒名の方が大事になっていったのである。そして主尊供養が閑却された結果、板碑は戒名を刻む墓石へと変貌したのである。

なお本書では、若干板碑の話とは逸れる感じだが、板碑の銘文を分析し彼岸の期日について考察している。その結論は、「中世における彼岸(春彼岸・秋彼岸)は、春分・秋分の二日後に行われ、彼岸入りから明けまでの期間は7日間であった」とまとめられる。

板碑の世界を手軽に俯瞰できる良書。

【参考書籍のブログ記事】
『板碑と石塔の祈り』千々和 到 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/12/blog-post_29.html

板碑を中心として石塔の世界を紹介する本。板碑の世界の手軽な入門書。

2020年9月22日火曜日

『江藤新平—急進的改革者の悲劇』毛利 敏彦 著

江藤新平の驚くべき先見的業績を通観する本。

明治維新の開明性を担っていたのは江藤であった。維新の功臣たちは天皇中心の中央集権国家を建設するという意気込みは持っていたが、例えば基本的人権、法治主義、三権分立など、近代国家が備えるべき国家システムにはあまり興味がなかった。

こうした近代国家システムに異常なまでの嗅覚を有し、ほとんどたった一人でそれをつくり上げたのが江藤新平という男だった。「明治維新の現場に江藤が居合わせたのはひとつの奇蹟だったのかもしれない(p.iii)」と著者は言う。

江藤は佐賀藩の下級藩士の子として産まれた。佐賀藩は長崎の警護役を担当する関係から海外に目が開かれ、幕末にちょうど鍋島直正という名君が出たことで進取の気性があった。領内には反射炉が築かれ、西洋の文献に基づいて鉄製大砲を鋳造。さらに蒸気船の購入のみならずその建造にまで手を伸ばした。

また直正の学術奨励により、国学を尊重する枝吉神陽ら史学派、蘭学派など新しい思潮が擡頭した。江藤は神陽に傾倒。神陽が主催する楠公崇拝の一派「義祭同盟」に加わった。他のメンバーは、副島種臣(神陽の実弟)、中野方蔵、大木喬任らで、後に大隈重信が加わった。

黒船が来航し、攘夷論と開国論が対立するようになると、安政3年(1856)、江藤は「図海策」と題する長文の時事意見書を提出する。この意見書では「積極的開港・通商による富国強兵」が献策されているが、島津斉彬や橋本左内による同趣旨の意見が出たのは翌年であり、江藤の見識がいかに先んじていたかがわかる。

この犀利な江藤が、思うままにならない藩に見切りをつけて脱藩したのは当然だろう。しかしすぐさま、京都政局を牛耳っていた尊攘派浪士連中の非現実的な空論と無能さや功名心に失望する。そこで滞在わずか3ヶ月あまりで江藤は帰藩した。

もちろん藩では江藤の処分が問題となった。死罪はやむを得ないと思われたが、直正は江藤に見所があるからとして死罪を認めず永蟄居に減刑した。江藤はこうして無禄になったので、山中の廃寺に引っ込んで寺子屋をはじめた。これが江藤の雌伏の時期だ(岩倉具視に少し似ている)。

慶応3年、幕府が大政奉還を行い、事態が急速に変転するようになると、脱藩上洛の前歴があり京都朝廷側に顔が利くとみられた江藤は佐賀藩にとって貴重な存在となり、江藤は5年ぶりに表舞台に復帰する。34歳であった。江藤は戊辰戦争に参加し、追って鎮将府会計局判事に任じられ民政・財政・税務を担当。江戸の現実とその実務に立脚した具体的政策論を説いた。ここで江藤は、合理的な方法による民衆の生活向上を訴えた。この民衆の立場にたった視点こそ、江藤が他の維新の志士たちと違っていた点だった。

その後江藤は会計官東京出張所判事に転ずるが、ここでは「政府急務十五条」を立案。江藤は、税負担の公平化、国家財政を公開して国民のチェックを受けるなど時代に先駆けた構想を献策している。「これは時代の水準をはるかに超えた破天荒な言論であった(p.46)。」

その後江藤は佐賀藩に帰藩し、権大参事として藩政改革に携わった。その内容は、武家階級の簡素化、戸籍法の改変による様々な自由化、門閥の私領地の廃止、寺社領の接収などであり、さらに江藤は、200戸程度を単位とした自治村を構想。そこでは執行機関(庄屋等)と議事・監督機関(寄合)を独立させるという議会制民主主義の手法を取り入れていた。この他、驚異的なことに、会社組織による商工業の督励、信用制度、郵便制度など、日本社会にほとんど存在しなかった先進的施策が江藤一人によって立案された。しかし江藤は権大参事就任3ヶ月にして早くも政府から東京へ呼び戻されたので、これらの構想は実現されなかった。

政府では江藤は「中弁」に任命された。これは太政官(内閣)に所属する高級事務官で、次官と同官等。今風に言えば内閣官房副長官補くらいであろう。江藤は岩倉具視のブレーンとして、この立場で国家のグランドデザインの設計に携わる(のち、江藤は「制度取調掛」として政府の全般的な制度設計を検討)。そこで江藤が提出した国政の基本方針では、君主独裁(中央集権)、三権分立、郡県制を挙げ、広範にわたる具体的な国家制度を提案した。ちょっと面白いのはその中で「一切の音楽の改造」までも述べられている点だ(改造の内容は不明)。

さらに江藤は、「職員令」官制に不満を抱き、これを改革する「政体案」を作製した。この中では、上議院と(民選の)下議院の政府からの独立、(太政官の上に置かれた)神祇官優位の否定、司法台とその管轄下の各級裁判所の設置及びその行政からの独立などが挙げられた。江藤は三権分立を実現し、特に近代的司法制度を全国規模で一気に実現させる雄大な構想を固めていた。

江藤はこの構想を実現化するため「国法会議」の開催を働きかけ実現させた。さらに江藤は並行して民法典の編纂に邁進。この民法典は、「法の前の平等で自由な個人」を前提とした(即ち江戸時代の身分差別の否定!)、その私人相互間の権利義務関係を規定した近代国家の一般法である。江藤はフランス民法をお手本として精力的に編纂を進め、明治4年に「民法決議」、その続編の「続民法決議」、それらを増補した「御国(みくに)民法」(草案)が作られた。

なお廃藩置県についても、江藤は具体的方策を考えていて、それは実際の政策にかなりの影響を及ぼしたと見られる。しかし廃藩置県の実施自体には江藤はいわば蚊帳の外におかれた格好である。どうも江藤は、政府の重要なブレーンではあっても、首脳部とは若干の距離を感じるところがある。

廃藩置県後、江藤は文部省に転じる。それまでの「大学」が廃されて文部省が設置されたことに伴う人事だった。江藤は文部大輔。文部卿は欠員であったので同省の最高責任者であった。「大学」時代は、文教行政と教育機関が未分化で、国学派と漢学派の対立によって混乱していたから事態を収拾するための江藤の起用だった。江藤はすぐさま人事を一新し、国学・漢学をほぼ廃して洋学者を起用。さらに国家が全国民の教育に責任を負う方針を明示した。これは明治5年の「学制」の発布へと繋がる。江藤が文部省に在職したのはわずか17日間だったが、「たちまち職務の大綱と主要人事を決め、新生文部省の骨格を一気に作りあげ(p.118)」た。

明治4年の太政官制の改革で、江藤は左院一等議員、ついで副議長に就任し、左院の民法会議を指導した。だが江藤の民法案は、江藤が翌年司法卿に転じたことや(後述)、政治的な状況、またあまりにも時代に先んじすぎていたことなどで遂に実施に移されなかった。なお日本で民法が公布されたのは明治23年。しかもこれはフランス法系への反対論があってついに施行されず、明治29年により保守的なドイツ法系の民法が制定され、明治31年になってようやく施行された。

左院における江藤は、人民の権利を保護し、国家が暴走しないようにチェックする体制を作りあげた。「人民の権利」を重視したことはこの時代においては特筆すべきことである。左院は江藤の構想した下議院とは違い官選議員によるものだったが、江藤はこれを来るべき民権拡大の布石とした。江藤の活動で左院は強力な機関となっていったが、明治5年4月、江藤は司法卿に転じる。

司法省は江藤の働きかけによって設置されたもので、法治主義の中心を担う存在であった。それまで司法卿は欠員だったので江藤が初代の司法卿である。江藤は「司法機関は人民の立場にたつべし」と明快に宣言した。これは今の時代でもまだ実現していないことだ。国家の行き過ぎを制約するものとして人民の目があり、人民の力を担保するのが法であった。犯罪の摘発は民衆のために行うもので、国家のためではなかった(!)。即ち、江藤は弱者保護のための司法制度を作ろうとしたのである。

このため、これまで行政(府県庁)と一体化していた裁判権を国家のものとし、全国に各級の裁判所を設置した。また地方官の専横や怠慢によって人民の権利が侵害された時は裁判所に出訴することができる制度を創出(今で言えば行政訴訟)。当時の地方官は大名になったかのように振る舞う成り上がり者が多く、裁判といっても白洲に引き立てて譴責するようなものだったからこれは画期的な制度だった。

なお司法卿在任中に、マリア・ルズ号事件が起こる。この事件の過程で日本における人身売買(遊女)の実態が世界に暴露されたから、政府にとっては都合が悪く、自然と人身売買の禁止へと動いた。こうして人身売買を厳禁した(そして隷属的な身分の者を自動的に解放する)画期的な太政官布告が発せられた。この布告にあたり、江藤はそれに付随する様々な問題点を一刀両断する処置を行っている。なお本書では何も述べられていないが、人身売買の禁止が、人権の観点ではなく「皇国人民ノ大恥コレニ過ギズ(井上馨)」という対外的な体裁の問題で行われたことは日本の行く末を暗示するものである。

それはともかく、江藤は司法卿として精力的に働き、人民の権利保護に邁進した。ところが「明治六年政変」が起こって、政府から追放されてしまうのである。このくだりは、著者が『明治六年政変』で描いたことの要約であるから割愛する。

【参考(読書メモ)】
『明治六年政変』毛利 敏彦 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/03/blog-post_21.html

江藤が人民の権利を保護しようとしたことが、権力を私物化していた長州閥との対立を招き、また江藤が頭脳明晰な理論派であったことが、大久保利通の権力掌握の邪魔になった。江藤はそれまで、驚異的なスピードで政策を立案し、因習にとらわれない合理的な発想によって国家の大綱を次々と立案した。それはまさに疾風迅雷と形容すべきものである。ところがこの有能さは、政権が確立し、その政権に安住しようとする者にとってはむしろ邪魔になっていったのだろう。彼は使われるだけ使われて捨てられたブレーンであった。「明治六年政変」は、まさに江藤を排除するために仕組まれたものである。

江藤と共に下野した(させられた)のが、副島種臣や後藤象二郎、板垣退助らであった。彼らは民間の立場から国家の改造を考え、日本最初の政党「愛国公党」を作った。そして「民撰議院設立建白書」を作製し、自由民権運動の火ぶたを切ったのである。

ところがそんな折、郷里の佐賀で不穏な動きが起こる。不平士族の反乱「佐賀戦争(佐賀の乱)」であった。江藤は板垣が止めるのを振り切ってこれの鎮撫へと旅立ってしまう。しかし頭に血が上った士族たちに話が通じるはずもなく、また政府から新権令(岩村高俊)が兵を伴って赴任することを知り、なりゆきから郷土防衛のために反乱軍と合流したのである。しかし佐賀鎮圧の全権を帯びた大久保により反乱はあっさりと鎮圧され、江藤は逃走。鹿児島に行き西郷隆盛に助けを求めたが拒絶され、阿波で逮捕された。

江藤は設置されたばかりの佐賀裁判所で裁判を受けた。しかし裁判は形式に過ぎず江藤の有罪は最初から決まっていた。しかも佐賀裁判所の権限では死刑を言い渡すことはできなかったにも関わらず、極刑=死刑(梟首)が言い渡され、即日処刑された。「大久保内務卿の「私刑」といわざるをえない(p.209)。」江藤が人民の権利を保護するためにつくった司法制度は早速換骨奪胎され、権力者の都合のいいように弱者を断罪する装置になってしまった。江藤は従容として死についたという。41歳の短い生涯だった。

本書は、江藤新平の維新官僚としての業績を通観するものであり、明治維新に関する前提知識をあまり必要とせず読めるコンパクトなものである。一方、考察のようなものはあまりなく、例えばなぜ江藤が人民の権利を重視したか、なぜ弱者保護に熱心であったのかというようなことは述べられていない。私は江藤のこの姿勢は5年間の永蟄居の時期の経験に基づくものであったのではないかと思うが特に書いていなかった。本書は江藤の内面を覗くものではない。

それ以外にも、例えば人柄であったり、私生活のようなものはほとんど全く描かれない。あくまでも官僚としての業績にフォーカスが当てられており、著者は人物伝・評伝としては書かなかった模様である。

なお、私自身は江藤がたった2ヶ月(明治5年3月14日〜5月24日)ほど在任した「教部省御用掛」の間の仕事について興味があったが、本書は教部省における江藤の業績としては宗教の自由化の推進(女人禁制の解除、僧侶の肉食・妻帯・畜髪の自由化)のみが挙げられ詳しく書いていない。しかしこの時期の教部省は「三条の教則」が定められ、大教院体制が敷かれるという重要な改革時期である。特に大教院体制は、全国をシステマティックに担当する大教院・中教院・小教院を置くことになるが、これは江藤が裁判所や学校の設置で行った手法に極めて近く、江藤の創案ではないかと思われる。このあたりはもう少し詳しく書いて欲しかった。

それにしても、江藤新平の改革が頓挫させられたことは、その後の日本を暗示しているかのようだと思った。江藤がいくら人民の権利を声高に叫んでも、当時はついてくる人民もいなかったであろう。「民権」などというものはあるのか? という議論があったくらいなのだ。国家にとって人民は都合良く支配できる方が良く、「人民による国家の監視」という江藤のアイデアは国賊的ですらあったのである。いや、2020年の今の日本でも、「国民による国家の監視」は、十分に過激な思想なのではないか。一介の人間が「お上に逆らう」のは非常識なこととされてはいないか。今でも、「江藤新平」を継承する人間を日本は必要としていると思う。

時代を先んじた江藤新平の悲劇によって、維新後の日本が向かう暗闇さえ幽かに感じさせる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『西郷札 傑作短編集(三)』松本 清張
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/05/blog-post_10.html

松本清張の短編時代小説集。江藤新平の末路を実録風に描いた「梟示抄」が収録されている。

2020年9月10日木曜日

『差別戒名とは』松根 鷹 著

差別戒名の現在を述べる本。

差別戒名とは、主に被差別階級の人々に対し、差別的意図をもってつけられた戒名である。例えば、「畜男(女)」(家畜のような人間)、「似男(女)」(男に似ているが男ではないという意味)といった直接的な表現もあるし、部落民以外は4字の戒名なのに部落民だけ2字であるとか(相対的差別)、敢えて字画の一部を省略したり、逆に余計な点をつけたり、特定の略字や、読めない(判読不能の)文字を使ったりといった様々なやり方がある。この世では不遇だった人々が、死後にも差別を受けなければならないという、およそ宗教にあるまじき恥部が差別戒名なのだ。

本書は、この差別戒名を巡る情勢を人権問題の立場からまとめたものである。

差別戒名が問題視されてきたのは決して古いことではなく、部落解放運動が進む中で徐々に明らかになってきたもので、現在でもその全貌は不明である。しかも、各宗派の本山は差別戒名の存在をなかなか認めようとしてこなかったために、差別戒名自体が隠蔽されてきた。明らかに差別的な戒名が暮石として残っているのに、本山は「それは旅の僧侶がつけたものだろう」「転宗してきた人が、前の宗派でつけてもらった戒名だ」などという理屈でのらりくらりと躱してきたのである。

そもそも、なぜ差別戒名などというものがつけられたのだろうか。中世には差別戒名はほとんど全くつけられなかった模様である(確認されている最古の差別戒名は1605年のもの)。しかし江戸幕府によって固定的な身分制度が敷かれると、その階級差別の論理を仏教各派も追蹤し、高位の人々に仰々しく立派な戒名が与えられるその一方で、被差別民に対しては差別戒名がつけられるようになったのである。宗教統制が厳しくなるにつれ差別戒名も普及し、特に享保年間以降に急激に増加した。寺院は、戸籍管理の意味合いがあった寺請制度との関係上、被差別階級を区別していたという事情もあるのだろう。

そして差別戒名のつけ方は、『貞観政要格式目』という本が巨大な影響を及ぼした。これは『貞観政要』とは関係の無い、ほとんど偽書といってよい信頼性の低い本なのであるが、宗派に関係なくこれが利用され、差別戒名のつけ方の指針となった。

ただ、現在調査がされている限りでは、差別戒名の存在数は地域の偏りがあって(長野県に多い)、また宗派によってかなり異なる。差別戒名は浄土宗及び曹洞宗に多く(この2宗は差別戒名墓石の改正などに積極的なため多く報告されているだけかもしれない)、浄土真宗にはほとんど存在しない。

しかし差別戒名は存在しないとしていた浄土真宗大谷派でも、1945年12月に鹿児島別院でつけられた明らかな差別戒名「釈尼栴陀」(栴陀=栴陀羅(センダラ)=インドの被差別階級シュードラのこと)の位牌が発見され、大きな衝撃を与えた。差別戒名は、江戸時代の話ではなく、敗戦後にも続いていたのである。なお、その後大谷派は差別戒名の調査を行なっているが、それほど多くが報告されているわけではない。

ではなぜ浄土真宗には差別戒名が少ないのか。歴史的に、浄土真宗には被差別階級の門徒が非常に多く、穢多・非人の8割が真宗だったという。にも関わらず差別戒名が少ないことは何を意味しているのか。実は、真宗には数多くの穢寺(または穢多寺)があった。これは、寺格系列の最下位として寺格外に置かれたいわば被差別寺院である。被差別階級はこの穢寺の檀家となっていた。穢寺自体が本山から差別を受けていたが、このような所属関係にあったため、被差別階級であることを戒名でことさら区別する必要がなかったのかもしれない(本書にははっきりとは書いていない)。

ところで、近世以前の社会では公然と身分差別があったのは周知のことである。仏教各宗派では世俗の差別意識を無批判に受け入れ、結果として差別戒名が後世に残されたから今になって問題になっているが、差別をしていたという点でいえば、社会全体を批判しなくてはならない。だから、差別戒名の存在自体は、仏教各派の恥部ではあるかもしれないが、むしろ社会全体の過ちとしなければならない。

だが、差別戒名の存在を認めず、過去の過ちをなかったことにしようとする教団には、厳しい批判が向けられてしかるべきである。我々は良いところも悪いところも先人から引き継いで今の自分たちが存在しているのだから、自らが犯した過ちでなくても、先人の間違っていたことを謝罪し、訂正し、関係者が納得する形へ昇華させて次の世代へ引き継いでいく責任がある。差別戒名は、まだその一部しか対応がなされていない。全宗派での前向きな調査・解決を期待したい。

なお本書は90ページほどで、差別戒名の現状についてコンパクトにまとまっており、簡単に読める本である。ただし、あまり考察はなく、例えば各宗派はなぜ差別戒名をつけたのか、というような本質的なところは全く触れられていない。本書の関心は、差別戒名の歴史よりも、現在の部落解放運動の中で差別戒名がどのように扱われ、解決へ向けて努力されてきたのか、ということにある。

差別戒名、ひいては宗教における差別の構造を考えさせる実直な本。

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『廃藩置県―近代統一国家への苦悶』松尾 正人 著

廃藩置県の経緯を描く。

明治政府は当初、諸藩の連合政権であった。木戸孝允や大久保利通といった維新のリーダー達も、藩からの出向のような形で政権に参与していた。土地も人も、藩が所有しているものとされたのである。ところがそれでは中央集権の近代国家にはなることができない。そのため、封建機構(独立地域)としての藩を廃して、国家による地方行政機関である県を置くという改革が必要になってくるのである。

しかしこれは、維新政府が基盤とした藩を自ら解体するということだから、明治維新そのものと同じくらい大きな改革であった。本書はこの大改革はいかにして実行されたのかを述べるものである。

廃藩置県の基盤となった思想は、「王土王民論」である。全ての土地や人民は元来から王(=天皇)の所有物であるという考えだ。この思想への反対自体は少なかった。しかしそれを実行するとなれば、これまでの社会の仕組みを一気に変えなくてはならず、難しい問題が山積していた。

なお、維新直後から県や府が置かれていた地域がある。戊辰戦争で政府が獲得した土地や、政府の直轄地(京都府)などだ。明治元年の日本には、府、藩、県という3つの異なる行政単位があり、しかも藩は約270もあってその統治は多種多様だったから、全国一律の政策を行うのは困難だった。

そこでまず政府は「藩治職制」を定めてばらばらな各藩の統治機構を均一化させた(明治元年10月)。次に、雄藩四藩(薩長土肥)からの建白に応える形で版籍奉還を実施(明治2年6月)。これは、土地と人民を天皇に奉還するというものであったが、その持ち主を形式的に天皇にするというだけで再交付(つまり「所領安堵」)され、諸侯(藩主)は改めて政府より知藩事として任命された。しかし重要なことは、藩主と家臣との主従関係が否定されたことだ。これ以降、藩士を政府が登用する場合も藩に問い合わせることはなくなった。版籍奉還が封建制度解体の一歩となった。

なお、これに先立ち、政府は戊辰戦争の功労者に対する大規模な賞典を行っている。これにより版籍奉還へはさほど批判が起こらなかったという。

一方、版籍奉還後の政府は極度の財政難に陥っていた。そこで財政に明るい大隈重信が民部省・大蔵省を牛耳って、過酷な徴税や統制を行った。折しも明治2年は大変な凶作となったが、大隈は府県への徴税には一切の妥協をせず、その結果農民一揆が頻発。それでも大隈は「一千人迄殺しても差し支えない決心で事に当たるべき」と言い放った。なお藩には課税はしていないが、例えば藩の外国貿易を禁じ、紙幣の製造を禁止するなど統制を強めた。

こうした大隈のやり方は地方官の不満も招き、政府内も混乱した。その結果民部省と大蔵省が分離させられ、大隈ら急進派官僚は民部省から排除された。これにより急進的かつ強権的な中央集権化政策は休止させられる格好となった。

しかし藩の方では、極度の財政難から自ら廃藩を願い出るものが出てきた(例:盛岡藩)。幕末の時点ですでに財政的に厳しかったのに加え、戊辰戦争によって財政がさらに悪化したためであった。各藩では、家禄を上士から下士まで平均化する、帰農・帰商を促すといったかなりの荒療治を行なっていたが、すでに限界を迎えていたのだ。こうした動きを受けて政府は「藩制」を定めた。これは藩の財政を統制し、士族の階級を簡素化させ、また陸海軍費を藩から拠出させるものであった。限界を迎えていた藩は「藩制」を概ね支持した。このほか、この時期の政府は中央集権国家の建設のための改革に着手していた。

これに最も反発したのが鹿児島藩である。 鹿児島でも西郷隆盛が参政となって藩政改革を行なっていたが、それは冗費を削るというよりは、武士を「常備隊」に組織するなど統治機構を軍政に組み替えるものだった。同藩では大量の兵隊を抱えておりその扶助が大きな課題となっていたのである。しかし政府の「藩制」に従えば兵隊を数分の一に減らす必要があったから「藩制」は受け入れ難かった。また藩政の実権を握っていた島津久光も政府の急進的改革に不満で反政府的態度を露わにしていたから、政府としても鹿児島藩対応が最大の懸案となってきた。

一方、長州(山口藩)でも、兵制改革に反対した脱隊騒動とよばれる事件が起きた。しかしこれを鎮圧したことでかえって藩論が一致し、また毛利敬親や藩主元徳は政府の改革を支持していたため、反政府的になることはなく、むしろ反鹿児島となっていった。鹿児島と山口の半目はふたたび国内に動乱をもたらす可能性があった。

そこで政府は、鹿児島・山口・高知の軍隊を政府に組み入れる代わりに協力を取り付けるこことし、特に鹿児島からは西郷隆盛を政府内に取り込んだ。三藩からの約8000人の兵隊は親兵となった代わりに藩臣でなくなった(明治4年4月)。西郷は、兵隊の給養と引き換えに藩体制の解体に同意させられることとなったのである。また、政府では三藩の協力をえた新体制となっため内閣改造を実施したが、人事は難航し制度改革の方向性も定まらず、むしろ政府は混迷を深めていった。

そんな中、廃藩置県の発端は意外なところから起こった。山口藩出身の中堅官僚だった野村靖と鳥尾小弥太が、山県有朋の屋敷で議論しているうちに「封建を廃し、郡県の治を布かねばならぬ」という話が盛り上がったのである。山県としても廃藩を見据えていたから反論はない。ただ西郷の意向が問題となった。そこで山県が西郷の屋敷を訪れ相談すると、西郷の答えは「それは宜しい」という一言で、あまりにもあっさりしたものだった。西郷は封建制の限界を悟っていたのではないかという。

政府の実力者であり、また鹿児島藩の実質的なリーダーである西郷が即座に同意したことで、ことは急転直下に動き出した。しかしそれは、鹿児島・山口藩の実力者を中心とする「密謀」によって進められた。これは大改革であるにも関わらず、政府内でも秘密裡に計画され、高知と佐賀が薩長両藩を翼賛するものとして参画した程度で、岩倉具視に伝えられたのも直前のことだった。藩主たちは急に呼び出しを受け、事前の通告もなく天皇から「廃藩」を知らされた。明治4年7月14日のことだった。これは維新官僚たちの旧藩主に対するクーデターであった(ただし山口藩だけは事前に知らされていた)。

当然、この密かに実行された大改革は、政府内に議論を巻き起こした。廃藩の翌日、大臣、納言、参議、各省の卿・大輔などが集まった会議で議論が百出したのである。そこへ遅れてきた西郷隆盛は、「しばらく周囲の意見を聞いたのち、「此の上、若し各藩にて異議起り候はば、兵を以って撃潰しますの外ありません」と大声をはりあげた(p.167)」。西郷のこの一声で議論はたちまちやんでしまった。著者は「まさに西郷は、千両役者である」と評しているが、これは逆の評価も可能であろう。西郷は、武力をチラつかせて議論を封殺したとも言えるからだ。しかしそれが廃藩置県の本質であり、西郷はそれをはっきりと述べたに過ぎなかった。

ところが、クーデターの当事者たちにとっても意外なほど、各藩では廃藩への反対が起こらなかった。藩札(藩の借金)を政府が引き受けるなど財政面の手当てがあったのに加えて、時勢のしからしむるところだという諦観があったからだろう。 廃藩に強烈に反対したのは、鹿児島の島津久光くらいのものだった。

廃藩直後には太政官職制が定められ、政府の人事が一新された。廃藩の首謀者、鹿児島・山口・高知・佐賀の出身者が政権の中核に据えられ、逆に三条実美と岩倉具視を除く全ての華族が要職から除かれた。これが、廃藩置県のもう一つの側面だった。宮廷改革である。政府の大義名分を保つために任用されていた無能な華族たちが政府から追放された。また鹿児島藩出身の吉井友実(ともざね)が宮内大丞に任命されて宮廷の人事が一新された。かくして天皇を取り囲んでいた女官は全て罷免され、代わって維新官僚たちが天皇を直接輔弼した。廃藩置県に伴う改革は、天皇を華族や女官から引き離し、維新官僚たちと直結させることとなった。

廃藩は直接には士族の解体を行うものではなかったが、追って華族や士族の特権は剥奪されていった。彼らが恒常的に得ていた家禄は数分の一に削減されて外債や公債証書などに置き換えられた(秩禄処分)。また士族の散髪・脱刀が許可され、華・士族が農工商の仕事につくことも許可された。要するに彼らに一時金を与えて、自分で仕事を見つけろということだった。こうした改革が廃藩後のたった数年で行われた。

廃藩と、その後の士族の解体を促したのはほとんどが財政問題であった。経済的に行き詰っていた藩と、その藩から家禄(給料)を得ていた士族は、新たな財源が見つからない以上、遅かれ早かれ解体する運命にあったのである。明治政府の課題は、これをいかにソフトランディングさせるかにあったといえる。

「藩治職制」「版籍奉還」「藩制」は藩の独立性を奪い、士族と藩主の結びつきを否定し、藩の財政を徐々に国家に組み入れる方策だった。ところが廃藩置県は、その藩を一気になくしてしまうというコロンブスの卵的な荒療治であった。ソフトランディングどころではないのである。この荒療治のキーマンとなったのは、最も廃藩への反対派と思われた西郷隆盛であった。西郷は、廃藩がやむを得ないと悟るやそれをさっさと実行してしまった。制度改革や議論は、その後から付いてきたという感じがする。

しかし本書は、西郷の内面についてはあまり考証していない。著者は維新の功臣たちの中では木戸孝允に共感しているようである。だが木戸が廃藩にどのような役割を果たしたのかは十分には書かれていないように思う。彼は廃藩がすぐには可能ではないと判断し、積極的には動かなかった。彼は事態が動き出してから、関係者の調整にあたったのみのように見える。木戸の働きについてはもう少し詳しく知りたかったところである。

本書は廃藩置県に向かっていく維新官僚の動き、また彼らを巡る情勢についても詳しく、わかりやすい。廃藩置県を学ぶ基本図書。


2020年9月4日金曜日

『太陽と月—古代人の宇宙観と死生観(日本民族文化体系 2)』谷川 健一 編

天体と世界観の民俗学。

本書は太陽と月を中心として、現代に残った民俗や史料、神話・伝説から古代人の宇宙観や死生観を考察する論文集である。収録されているのは、次の諸編。

序章 古代人の宇宙創造:谷川健一
第1章 太陽と火:大林太良
第2章 月と水:松前 健
第3章 星と風:窪 徳忠・谷川健一
第4章 古代人のカミ観念:谷川健一
第5章 葬りの源流:土井卓治
第6章 他界観—東方浄土から西方浄土へ:田中久夫
第7章 日本人の再生観—稲作農耕民と畑作農耕民の再生原理:坪井洋文

狩猟採集社会における原始的な信仰では、アニミズム(全てのものに精霊や神が宿るとする考え)やトーテミズム(動物を神と考え、特定の動物を人間の祖先と見なして崇拝する)が中心だ。太陽や月の信仰は、農耕を大規模に行うより進んだ社会に生まれるものである(レオ・フロベニウスの説)。また太陽信仰は王権と結びつく。天体の信仰は農耕と王権によって生まれるもののようだ。

しかるに日本の場合どうだったか。例えば、日本神話の太陽神であるアマテラスは、天皇の祖先神と位置づけられて崇敬された。国産みのイザナミ・イザナギ(おそらくこちらの方が古い神なのだろう)ではなく、また天孫降臨のニニギでもなく、アマテラスが最重要の祖先神であったことに、太陽信仰の影響が窺えるのである。

とはいえ、民衆の間にも太陽信仰は自然発生的に生まれており、本書はそういう事例について散発的に紹介している(特に沖縄の例が多い)。またそれに火の信仰が関連づけられ、「消えずの火」が各地にあったことや、潔斎を行う場合に特別な火を使うことなどから、火の持つ意味が推測されている。

月については、月と不死の結びつきがやや詳しく紹介される。月の満ち欠けが再生を思わせるからであろう。特に若水(一年の最初に汲む水)を浴びる風習と月の関係について考察している。しかし月については、月待ちの習俗などは扱われず、やや簡素に感じた。

星について扱った「星と風」は、ほとんどが中国思想の紹介である。日本の星信仰はほとんどすべて中国にその源流が求められるということだ。中でも「緯書」(陰陽・五行説などを使い、経書の文書を解釈して予言するもの)の説明が面白かった。「緯書」の予言は占星術が使われていたため、それが日本に伝来して星の信仰を形作っていったという。星の信仰とは関わりは薄いものの、庚申講についても述べられている。中国における元々の守庚申では一人静かに徹夜するものだったが、仏教的守庚申では賑やかに過ごすものになった。これが伝わった日本でも平安時代の庚申講は賑やかに過ごすもので、15世紀あたりから(再度)仏教と結びついて、精進潔斎をするようになっていくというのは逆の現象で興味深い。なお、彗星は日本では中国以上に嫌われて、全ての不祥事の原因が彗星に帰せられたという。簡単にしか書いていないが、面白い現象である。

この他の諸編は、カミの観念、死生観、墓の造営に対する観念、他界観などの観念的なものを扱う。これらは、事例紹介というよりもこれまでの民俗学研究史の整理という側面が強い。 全体として興味深い話がちりばめられてはいるが、体系的な考察ではないのでやや散漫である。その中で面白かったのが、阿弥陀信仰が、「死の国」のイメージを変えたという説。「死の国」は、それまでは汚穢(おえ)に満ちた恐るべき場所と思われていたが、阿弥陀信仰によってそれが明るい世界へと変化したという。

最後の「日本人の再生観」は、ハレとケを巡る民俗学であり、前半は柳田国男と折口信夫の説(ハレ・ケの考察)を批判検証していく内容である。 中心的な論点は、ハレと米の関係である。後半は、稲作儀礼や穀霊信仰について考察されているが、そこで面白い指摘がある。近代以前の田んぼには金肥(厩肥や油粕などの高窒素肥料)は入れず、刈敷(かりしき)と呼ばれる肥料を入れていた。これは、山から刈ってきた草や、小枝といったものである。刈敷は大量に投入したため、山から取ってきて田んぼに入れるのは、田植えと並ぶ重労働だったという。著者は「日本の刈敷の研究は稲作技術のひとつとしてしまうには、あまりに大きな問題を含んでいることを指摘しておきたい」と述べている。

著者の考えは、刈敷の投入目的は大地の再生であり、山の神が春になって田の神として下りてくる信仰とも深い関係があるが、それが後に肥効を期待する技術の次元へと変化したのではないかというものだ。しかし著者は「刈敷には肥効がほとんどない」と考えているようだが、これは現代の農学では「高炭素資材の多投入」という技術であり(炭素循環農法とも言う)、ちゃんとやれば肥効は期待できる。むしろ確立した技術がいつしか形骸化されて、信仰によって支えられるようになったと考える方が合理的である。この部分は、本書全体の論旨からは蛇足的な部分であるが面白かった。

論文集としての視座は首尾一貫していないが、いろいろと面白い話が出てくる本。

【関連書籍の読書メモ】
『神と仏—民俗宗教の諸相—(日本民俗文化体系4)』宮田 登 編 https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/09/4.html
神と仏をめぐる民俗文化の考察。神と仏をより広い視野から捉えた名著。

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2020年9月2日水曜日

『葬式仏教の誕生—中世の仏教革命』松尾 剛次 著

仏教が葬式を担うようになった変化を描く。

日本に伝来した当初の仏教は、葬式には関与していなかった。仏教の活動の中心が葬儀を執り行うこととなったのは、中世からである。本書は、その変化がどのようにして起こったかを述べるものである。

古代の僧侶たちが葬式に関与しなかったのは、死穢を避けたからであった。僧侶は律令国家により規制を受けていた(僧尼令)。彼らは官僧であって、国家の法要に従事する必要があった。ところが人の死(や死体)に遭遇すると死穢に冒されると考えられ、30日間も謹慎しなくてはならなかったのである。こうなると官僧としての職務を果たすことができない。よって僧侶たちは死を避けていた。教団の中で死亡したものも十分に弔われることもなく、遺棄に近い形で葬られた。

もちろん、死に瀕した人々は、看取られることもなく、自分の遺体がぞんざいに扱われることを快く思ってはいなかっただろう。しかし当時の日本では風葬や遺棄葬は一般的なものだったし、古代の日本のあの世観では、誰でも死ぬと別の世界にゆくというくらいの観念しかなく、いわゆる「後生を願う」というようなこともなかったので、死に際して殊更の宗教的儀式を必要としていなかったようだ。

ところが、古代末期(平安時代)からそうした日本人のあの世観に変化が起こってくる。末法思想と、それに伴う弥勒信仰・阿弥陀信仰によってである。弥勒信仰では、この世で仏法に逢えないのなら、遙かな未来に現れる弥勒仏に教え導いて欲しいという、遙かな未来への期待が醸成された。56億7千万年後の弥勒下生(げしょう)=現世への降臨に立ち会えるよう生まれ変わりたい(弥勒下生信仰)、あるいは直ちに弥勒の兜率天へ生まれたい(弥勒上生信仰)と願ったのである。 阿弥陀信仰では、末法の世でも人々を救ってくれる阿弥陀仏にすがるため、念仏や往生法といった具体的な方法が種々考案され、それを実践するものが多くなった。

そんな中、源信は「二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)」という念仏結社を作った。これは看取り・葬送を互助するという、いわば葬送共同体であった。この頃の阿弥陀信仰では、往生するためには念仏の他いくつかのプロセスを死の間際に必要とした。よって、それを互いに提供しようというのである。この結社が仏式の葬送を生む上で画期的な意義を有した。二十五三昧会を走りとして鎌倉時代には様々な葬送共同体が結ばれるようになり、僧侶が葬儀に関与する仕組みができていった。

しかしやはり官僧は死穢を職務上避けなくてはならなかったので、葬儀に携わったのは「遁世僧」と呼ばれた僧侶たちだ。遁世僧とは、要するに官僧であることを辞めて、既存の教団から飛び出した僧侶のことである。彼らが鎌倉新仏教を担う旗手たちになった。また著者は、律宗の叡尊や華厳宗の明恵といった旧仏教の改革派も遁世僧であることに注目し、「鎌倉新仏教」よりも「遁世僧教団」が社会的に大きな影響を与えたとしている。

遁世僧たちは徐々に仏式の葬式の手続き(法事)を整備し、また墓所の造営法などを考案していった。そうしたことで14世紀初めを画期として、天皇の葬送も遁世僧が担うようになっていくのである。

著者の松尾剛次(けんじ)は律宗の研究者であるため、こうした動きに果たした律僧の役割については詳しい。律僧とは、叡尊を中心として戒律護持を勤めた教団で、13〜14世紀には10万を超える信者を有する教団であった。特に文永元年(1264)から始まった「光明真言会」は信者の獲得に役立ち、またこの法会で加持した土砂を死者や墓に撒けば後世で菩提が得られるということで葬送活動においても重要だった。

律僧たちは、墓塔として2メートルを超える大型の五輪塔を全国に建てており、五輪塔の普及に大きく貢献した。これは、花崗岩や安山岩など硬い石で出来ていて、遙かな未来の弥勒下生までちゃんと残るように丈夫に作られた。また五輪塔が巨大だったのは、個人の墓塔というよりは共同墓であったためだ。一結衆とか六道講衆、光明真言宗一結衆といった、葬送共同体・宗教互助組合のようなものの惣墓・共同墓として巨大五輪塔は造営されたのである。

また叡尊教団は、戒律を厳しく護持することで、死穢を避けられるという論理を生みだし、死穢を気にせず葬送活動に従事することを可能にした。

ちなみに、念仏僧たちは「念仏を唱えて死んだ人は往生できる。往生人に死穢はない」と考え、やはり死穢を気にせず葬送活動を行った。

なお禅僧たちも死穢を気にせず葬送に携わっていたが、どうして気にしなくてよかったのか理屈はよくわからないそうだ。禅宗については、中国における葬儀システムを日本に導入したことで、葬送儀礼の確立に重要な役割を果たした。『禅苑清規(ぜんえんしんぎ)』という禅宗教団の生活規範のテキストに、教団の人間が死んだ際の手続きが記されており、例えばこれにより死後戒名をつけるシステムが始まった。

このようにして生まれた仏教による葬儀は、江戸時代には寺請制度と一体となって完全に普及したのである。

本書の前半部は、勝田 至『死者たちの中世』の議論がベースとなっており、同書ではあまり触れていなかった死生観の変化を付け加えたものだと言える。また、後半部の律宗の巨大五輪塔については、著者の『中世叡尊教団の全国的展開』などの研究書の成果をコンパクトにまとめたもののようだ。

葬式仏教の成立についての社会状況、死生観、各教団の動きなどが簡潔にまとまっておりわかりやすく、律宗についての情報に価値がある。しかし念仏僧の活動については若干物足りなく思った。特に葬送に大きく携わったらしい時衆についてほとんど触れられていないのは残念だった

葬式仏教の成立を広い視野でコンパクトにまとめた良書。

【関連書籍の読書メモ】
『死者たちの中世』勝田 至 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_9.html
中世、多くの死者が墓地に葬られるようになる背景を説き明かす本。
思想面は手薄だが、中世の葬送観について総合的に理解できる良書。


2020年8月30日日曜日

『大学・中庸・孟子』金谷 治・湯浅幸孫・日原利国・加地伸行 訳(世界文学全集 第18巻)

儒教の重要な古典。

儒教には四書五経といわれる古典があり、うち四書とは『論語』『大学』『中庸』『孟子』を指す。もともと『大学』『中庸』は(五経の一つである)『礼記』の一部分であり、これを独立させて重視したのは南宋の朱熹(朱子)であった。

朱熹はこれを独立させたばかりでなく、より自らの思想が明確になるように編集しなおし、『大学章句』『中庸章句』として刊行した。特に『大学』への力の入れようは並々ではなく、完成まで10年間もかけた上、死の3日前まで改訂の筆を入れていたという。彼は章の順番を入れ替え、脱文があるとしてそれを補うなど甚だしい改変を行なっていたのである(本書には、朱熹による改変版(「章句版」という)と、原文の両方が収録されている)。

そしてもう一つの改変は、『大学』の作者を曽子だと決めつけ、孔子と関連づけたことだった。『大学』はもともと作者不明の一編であり、独立の作品として注意が払われていたわけではない。これを朱熹に先立って重視したのは韓愈であった。韓愈は儒教の伝統を、尭・舜 → 孔子 → 孔子の門人の曽子 → 孔子の孫の子思 → 孟子と考え、孟子から中絶したとした。

朱熹はこの考えを受け継いで、著作の上での系譜関係を完全にするべく、『大学』を曽子の著作としたのである。こうすれば、以前より子思の著作と考えられていた『中庸』を加えて、『孔子』→『大学』(曽子)→『中庸』(子思)→『孟子』と繋がり、儒教の伝統が連続するのである(しかも朱熹は孟子の門人から教えを受けたとしているから、自らを儒教の伝統の継承者と位置づけることもできた)。

今でこそ四書といえば儒教の聖典とみなされているが、『孔子』以外はさほど重視された著作ではなく、『孟子』ですら朝廷が尊信したのはようやく宋代になってからである。この四書を儒教の系譜を伝えるものとして強調したのは朱熹であり、特にそれを完全にするために必要だったのが『大学』だった。いわば『大学』は、孔子と孫の子思を繋ぐミッシング・リンクなのだ。

そして朱熹が『大学』を重視した理由はもう一つある。それは、有名な八条目「格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下」に代表される、個人の修養が国家の政治や繁栄と一致するという世界観であった。朱熹は若い頃仏教に心惹かれていたが、やがて仏教から離れて儒教の復興を志した。仏教では個人の内面を重視するが、儒教は政治哲学であるため個人の内面は閑却される傾向にあり、ややもすれば科挙のために知識偏重となって精神面は却って堕落していた。こうした堕落した儒学を新しい精神の学問として復興するために、朱熹は一身の修養が国家の安寧へと繋がる『大学』の思想を欲したのである。

しかし本書解説で述べられるように、個人の修養と国家のあり方は直接には繋がらない。むしろ、個人が勉強し、家を斉すことで、国家の不正義を糾弾するということもある。また、いくら個人が修養に努めても、他の国から武力によって滅ぼされることもある。八条目が実現するのは、世界の国々が善政を敷いているという、およそありえない前提の下でしかない。

ただしこれは、『大学』のみならず儒教に通底する世界観である。『中庸』においても、「人間の本性は天が人々に命じたものである」という考えの下、日常の平凡な徳を実践し、日常の平凡な言葉を慎重にすることで、やがて君子として身を立て世界が平安になる、といったことが説かれている。しかし現実の世界では、その場しのぎの姑息な人間が栄達する一方で、真面目で地道な人間が冷や飯を食わされるのがよくある話だ。『大学』にしても『中庸』にしても、個人の修養が具体的にどうやって天下の安寧に繋がっていくのか、全く述べるところがない。むしろこれらは、「世界はこうあるべきだ」という理想論なのである。

『孟子』においてもそうである。孟子は有力な儒家で、多数の弟子を引き連れて諸国を遊説したが、一時期を除いて国政に携わることはなかった。彼の主張は「善政を敷けば、民が富み、諸国から人々がやってきて国はますます強くなり、他国から尊敬されるであろう」ということで、要するに善政の勧めであった。彼は弱者保護や不正の排除といったことを主張している。特に印象深かったのは、孟子が「人民」を重視していることで、「国家の中で最も重要なのは人民」だとし、政治においては「人心の獲得」が必要であるという。これは今の民主主義とは違うにしても、人民の保護とその支持を最重要と考えたことは特筆に値する。

しかし、孟子が生きた時代は生き馬の目を抜く戦国時代であった。孟子の説く善政は、国同士が激しく争う中ではあまりに悠長な考えに見えたことだろう。現実の世界は、孟子の考える理想状態とは程遠く、力ある国が弱い国を蹂躙する野蛮な世界だったのである。であるから、孟子は各国でそれなりに扱われているものの、その献策が受け入れられたようには見えない。彼の思想は厳しい現実世界においては、やや浮世離れしていたといえよう。

ちなみに、孟子の弟子にも、そういう穿った見方をしているものがいる。それが万章という弟子である。『孟子』の中でも、万章との問答が中心の「万章章句(上、下)」は最も興味深い。例えば、「天は尭・舜に天下を与えたというが、それはどうやって与えられたのか」と万章が聞く部分がある。孟子は「天は何も言わない。その人の行動と事蹟とによって、彼に与えることを示すにすぎない」と答えるが、さらに万章は「ではどんな方法で?」と聞き返す。これに対して孟子はいろいろ屁理屈を述べている。しかしあまり説得的ではない。孟子の世界観の中では、正しい君子には天命が下り、天下を手中にするのであるが、具体的にそれがどのような手続きで実現するのかというのは曖昧なのである。

中国では「天」への信仰は、西洋の「神」への信仰とは全く違った。諸子百家の時代、「天」を人格的な神として信仰しているのは墨子くらいのもので、多くは理念的な至高の存在として措定しているに過ぎない。であるから孟子が万章の問いに窮するのももっともなことだった。しかし孟子は個人の行いを正しくすれば天がそれを取り立ててくれる、という楽観的な世界観を基盤にしているわけだから、そこを曖昧のままに済ませたのは思想として徹底していなかったのは事実である。孟子の思想は、ミクロのレベルで悪を挫き善を行うことが天下の(マクロの)太平に繋がる、という途中をすっとばした思想なのである。

でも、だからといって孟子の考えが現実を無視した理想主義にすぎないかというと、そうでもない。善政の勧めだけに、不正や悪政への糾弾は当を得ており、現代の為政者にとっても耳の痛い言葉がたくさんある。事実、明の太祖は『孟子』を嫌い、劉昆孫に命じて『孟子節文』を作らせ、専制君主に都合の悪い箇所を削らせた。四書の一つにして、改竄の憂き目を受けなければならなかったところに『孟子』の価値が窺い知れる。政治が堕落して人民を省みなくなっている現在、『孟子』はもっと読まれるべき著作である。

なお、私が本書を手に取ったのは、桂庵玄樹から始まる薩南学派(戦国時代に南九州で起こった儒学の学派)が朱熹の『四書集註(しっちゅう)』(『四書』の解説)を重視し、桂庵玄樹が訓点をつけた『大学章句』を延徳4年(1492)全国に先駆けて刊行していることがあるからである。薩南学派は僧侶(臨済宗及び法華宗)によって担われていたが、朱熹の排仏的傾向を見るとこれは不思議なことである。『中庸章句』の序においても、朱熹は仏教および道教を非難している。どうして仏教の僧侶たちが露骨に排仏をいう朱熹に惹かれたのだろうか。

思えば、薩南学派に続いて江戸幕府の儒学の基礎を作った藤原惺窩も元は臨済宗の僧侶だったし、林羅山も元来は寺院で修行している。だが藤原惺窩は還俗し、林羅山は僧籍に入ることはなかった。日本の朱子学の受容には、朱熹の排仏的傾向と、僧侶の活躍が微妙に交錯しているのである。

日本においても、中国においても、思想史的な位置付けが興味深い独特な古典。


2020年8月25日火曜日

『日本宗教史 I, II』笠原 一男 編(その2)

前回からのつづき。第II巻について)

第 III 部 近世の社会と宗教

江戸時代の仏教各派は、幕府からの保護とともに強い統制を受けた。この保護と統制について、本書は詳しく述べており参考になる。

保護の面は、全ての人民をどこかの寺に所属させ、その戸籍管理(冠婚葬祭の証明書発行、キリシタンでないことの証明)と旅行手形の発行を寺院が担うという寺請制度による。これは僧侶を半公務員化することであった。これは寛文12年(1635)頃に完成したと見られる。この頃に幕府に寺社奉行が置かれたからである。

一方、統制の方も強力だ。(1)本末制度によって寺院全てをヒエラルキーの下におき、本山を支配することによって全寺院を体制内に組み込んだ。(2)教学を固定化し、その教学の研究を振興することによって、寺院の思想を社会と遊離した象牙の塔的なものに変質させた。(3)僧侶の生活規則を幕府が定めた。(4)寺領を保護するという名目の下で検地を行い寺領を削減し、経済基盤を奪った。といったものである。これらの政策は、中世に寺院が持っていた特権を剥奪するとともに、抵抗の手段をも奪うという巧妙なものであった。

こうして経営が弱体化し、民衆の心と遊離した寺院は、存在としては保護されていたが収入は少なくなったため、葬儀を担う「葬式仏教」化することにより収入を確保するようになっていったのである。そして葬式仏教が制度として確立し、檀家と寺の関係が固定化されることで、個人の内面は置き去りにされ、信仰は形式化してしまった。こうして、もはや仏教は民衆の宗教心を託せるものではなくなっていた。

であるから、江戸時代の人々は、檀家寺にではなく、山伏や御師たち——季節ごとにやってきて、厄除け、病除、安産、子育てなどさまざまな効能のあるお札やお守りを配ったり、祈祷を行った——に信仰を寄せた。こうした人々は、固定的な菩提寺所属の僧侶からさげすまれた宗教者であり、儒者たちによって迷信・邪教などといって退けられていたが、実際には彼らの「祈祷仏教」が江戸時代の民衆宗教の中心となった。

江戸時代の神道についても、幕府から統制を受けている。寛文5年(1665)には、「諸宗寺院法度」とともに、「諸社禰宜神主法度」も出された。この法度では、神社の所有田地の売買禁止などが規定されているが、より重要なこととして、吉田家(唯一神道=吉田神道)を神道の家元的存在と認めたことがある。吉田家は幕府によりお墨付きを得たことで、神道の総元締めとして発展していく。

なお、享保期あたりから吉田家に対抗したのが古代以来の神道家だった白川家であるが、本書ではこれについてはあまり書かれていない。

本書では、さらに各宗派の動向が簡潔にまとめられている。

浄土宗:人倫徳目、忠孝といった封建論理を勧奨し、幕藩体制内における模範的人間を育成することが中心となった。新しいタイプの往生伝が生まれ、往生のためには忠孝のような時代が要請する倫理が必要だとされるようになる。しかしこうした体制派と反発した「道心(どうしん)」という非正規僧が活発に活動するようになり、民衆の支持を得た。

時宗:徳川幕府は寺領百石を時宗に与え、遊行上人には、前時代の慣例を踏襲して50匹の伝馬徴発権を与えた。教団の宗主に伝馬徴発権が与えられたのは時宗だけである。遊行上人には幕府が無視できないほど絶大な権威があり、大名並みに優遇されていた。

遊行にあたっての宿舎・食事も全て藩側の負担でまかなわれた。遊行上人が通行するとなれば、何ヶ月も前に通告され、遊行上人のための札引場、湯殿、雪隠、屋根の新設や修理、畳替え、障子の修理、道路普請、架橋、石垣作りまで藩がやっているのである。遊行上人通行予定地に伝馬の設置がない場合は、回国を機会に伝馬が設置されたところもあった。藩にとっては遊行上人の回国は迷惑以外の何者でもなかったが道路整備などに果たした遊行上人の役割は大きかった。こうしてやってきた遊行上人の配るお札には、大勢の人が殺到し、争って受けた。また時宗の教義は江戸時代には確立し、学寮制度とそれに対応した昇進のシステムが完備された。

禅宗:道者超元、隠元隆琦が来日。隠元は黄檗山万福寺(黄檗宗)を創建して寺領400石を与えられた。道者超元は在留8年で帰国したが、その門下には月舟宗胡や盤珪永琢がいる。

曹洞宗では、道元に返ろうという宗統復古運動が起こった。その先駆は万安英種(ばんなん・えいしゅ)で、その下に参じた月舟宗胡が発展させた。月舟は道元の『正法眼蔵』を研究し、その門下から多くの学僧を輩出した。その一人が卍山道白(まんざん・どうはく)であり、彼は一師印証(一人の師からだけ法を継ぐこと)を幕府に訴えて法制化し、嗣法の乱脈を糺してその門下は大いに栄えた。元禄の頃には、江戸駒込の栴檀林や芝の青松寺の獅子窟などには千人あまりの修行僧が集まって禅を学んだという。

このような主流教団とは別に、托鉢の旅を続けたり乞食僧として草庵に隠れ住んだ飄逸の僧が幾人もいた。例えば、穴風外(あなふうがい)、良寛といった僧侶である。こうした人々は、原始仏教そのままの托鉢苦行や道元の理想とした出家者の在り方に近かった。

臨済宗は、江戸時代にはかつての禅風が衰えていたが、沢庵(大徳寺派)、愚堂(妙心寺派)などが出て復興に向かい、愚堂の弟子、盤珪永琢が大いに民衆教化に取り組んだ。さらに古月禅材、白隠が出て臨済宗は近代的な民衆禅として復活した。白隠はわかりやすく禅の真理を説き、禅を近世社会に適合させようとした。白隠ほど大衆に親しまれた禅者はいない。

日蓮宗と不受不施:日蓮宗は信長と敵対したことで教勢を殺がれたが、秀吉は懐柔策をとった。ところが、秀吉の方広寺大仏の千僧供養への対応で日蓮宗は二つに割れる。日蓮宗は法華経唯一主義であったが、その原理を貫けば大仏への供養はできなかった。ここで大仏を供養した主流派(受派)と、しなかった不受不施派に分かれるのである。その後の日蓮宗の歴史は、主流派と不受不施派の抗争(というよりも、不受不施派の弾圧)の歴史である。こうして不受不施派は地下に潜伏することになった。近世の日蓮宗の内部はごたごたしていたが、在家の人々の宗教活動は盛んであり、日蓮宗は近代の新宗教の巨大な母体となる。

真宗:真宗は、納税の義務を怠るなとか、公儀の定めを守れといった封建権力への服従を門徒に強く訴えた。本願寺末寺の僧侶たちによってまとめられた『妙好人伝』は理想的念仏者像を集大成したものである。それによれば、お上に対する忠節、親に対する孝行、そして念仏が必要なのだという。このように本願寺が封建権力に従順だったのは、前時代の一向一揆の前歴から来る危険思想観をぬぐい去るための喧伝という側面もあった。さらに門徒には上納金の義務もあった。

このように封建的思想の喧伝機関となり精神的な拠り所としての意味を失った本山から背を向け、地下に潜った真宗の門徒たちが「隠れ念仏」となった(鹿児島の「隠れ念仏」とは全く別の集団)。隠れ念仏(御蔵法門・土蔵法門などとも言う)たちは、形骸化した本山の信仰を痛烈に批判し、法主を否定し、自らこそ真宗の正統であるとした。しかし隠れ念仏は本山からの厳しい摘発を受けたため、地下活動によって徐々に教義が秘儀化していき、真宗の精神から離れていった。

時代は遡るが、キリシタン関係の動向も詳しく記述される。大変興味深かったのが、殉教における殺害方法である。有名な、慶長2年(1597)の26人の殉教では、磔にされて槍で突かれたのをはじめとして、火炙り、斬首などで処刑されているが、斬首はともかくとして(これはやや温情的な殺し方だったように思われる)、磔や火炙りといった処刑法は当時一般的だったのだろうか? どうもキリシタン用の処刑法だったように感じる。ではなぜキリシタンは磔や火炙りにしたのか。より苛酷残忍な殺し方をしたのかもしれないが、その処刑方法が中世の魔女狩りにおけるそれと似ているのが気になった。

修験道については、17世紀に修験寺院が激増したという記述が気になった。本書では、それは修験道法度(慶長18年(1613)によって修験者が本山派・当山派のいずれかに所属することとなり、さらにそれが天台宗寺門派(本山派)、真言宗(当山派)に包摂される体制となって地域社会への定着が進んだことが理由とされている。要するに、幕府は山岳から修験者を追放し、寺院に所属させる政策を採ったのであるが、このせいで(このおかげで?)結果的に修験寺院が増加し、修験者自体も増加したようである。

そして急増した末寺を統括するため、本山派・当山派では管理機構を整え、教義が整えられるとともに、峰入回数等に基づいて位階を与えるシステムなど教団秩序が形成された。戦国時代までの修験者は山林を跋渉して得た法力によって祈祷を担う存在であったが、それが次第に定着しシステム化された位階と教義によって本山からお墨付きを得て活動するようになっていくのである。

これはもちろん、修験道に変質をもたらした。山林での修行よりも道場内での観法(観念的訓練)が重視されるようになったし、自然そのままが仏身であるという考え方が薄れて、お経を重視するようになってきた。また峰入も儀式化・形式化し、集団峰入をはじめとして峰入が昇進のために行われるようにすらなって、中世の捨身修行的を旨とした峰入はほとんど見られなくなった。

内容は中世とは変質したが、修験道の持つ呪術性は庶民の心を摑み、修験者は様々な願いに応じて祈祷をおこなった。例えば、虫除け、雨乞い、安産祈願、卜占、調伏や憑きもの落とし、病気平癒、営利栄達、家屋の新築など、ありとあらゆる庶民の希求に応えた。これらは、現在神社が担っている祈祷と似たような部分がある。また近世期になると、修験者に触発された在俗の人が山岳修行を行うようになった。この動きが近世の山岳系の新宗教(冨士講、御嶽講)に繋がっていく。

第 III 部 近世の社会と宗教

近世の宗教については、類書に比べてあっさりした記述だと思った。教派神道についても、しっかり取り上げられるのは天理教と金光教のみである。このどちらも、江戸時代の宗教——煩瑣な教義や庶民の生活と遊離した観念的な教え——を否定し、人間中心主義にたって、庶民の素朴な願いを受け止める存在であった。こうした宗教が幕末に出現したこと自体が、江戸時代の人々の満たされない宗教心を象徴しているかのようである。

そういう満たされない宗教心に応えようとしたもう一つの宗教が、キリスト教であった。幕末にはキリスト教はまだ禁教であったが、西欧列国が江戸幕府のキリスト教弾圧政策を問題視したこともあり、布教活動が進んでいった。

その際、カトリック教団に非常に特徴的だったことは、病める人や貧しい人、差別されている人を救う社会活動を実践していたということである。結局、この動きは大きな影響力を持つことはなかったが、高く評価できる。

一方、プロテスタント教団(というよりもその宣教師たち)は、英語教育や殖産工業政策への協力を通じ、中産知識人へ大きな知的影響力を持つことになった。日本にやってきた宣教師たちは人格や学識の面で優れた人が多かったから、彼らを英語教師として接していた人たちも感化される形で洗礼を受けるものが出てきた。キリスト教の受容は救いを求めるというよりは、「啓蒙」を求めて行われたという側面が大きい。それはあくまでも知的理解に留まるものであったという評価もできるが、日本の文化や倫理の面においては、獲得した信徒の数以上の影響力を及ぼしたという面もあった。

国家神道についての記述は、基本的に村上重良『国家神道』に則っているようだ。この分野は私はちょっと詳しいので、なるほどという記述はなかったが、改めて注目させられたのが神社合祀についてである。神社合祀は、神社を公的機関と位置づけたことの結果として生じた。公的機関であることから幣帛料の供進を行うこととなったが、あまりに神社の数が多いため予算が足りない。そこで内務省は、一村に一社ずつ幣帛料供進社を定めて、他をその社に合祀することを推進したのだった。

内務省は合併跡地の無償譲渡を可能とする勅令などによって神社整理を進めたが、驚くべきことに内務省は、神社整理を直接に指令した法律も省令も出していない。神社整理は、法律的に強制したのではなく、地方長官のさじ加減に任せつつ、地方の人々が自主的に行った(ことにされた)ものなのだ。このやり方が、今から見ても極めて「日本の行政」っぽい。

国家神道の時代に、仏教はどのように対応したかについては、類書で読んだことがない内容で新鮮だった。明治維新後の廃仏毀釈、そして国家神道体制に入り、仏教者は否応なく自らの立ち位置を見直さなくてはならなくなった。そういう時、「必ずといっていいほど仏教存亡の危機や末法観とともに戒律論争に熱気をおびる仏教者の姿がみられる」として、国家に迎合していった仏教教団の趨勢と離れて、仏教本来の在り方に立ち返ろうとした人々がいた。

例えば福田行誡(ぎょうかい)は、宗派仏教を弊害が多いものとして通仏教(仏教はひとつ)の立場をとり、持戒持律を重視して、小乗仏教をみなおそうとした。この他、釈雲照、原担山(たんざん)が紹介されている。

また、曹洞宗から還俗した大内青巒(せいらん)は、慈雲飲光(じうん・おんこう)の「十善戒」に傾倒し、原担山に啓発されて在俗の立場から言論活動を行った。「十善戒」は明治の新仏教運動に大きな影響を与えた教理で、仏教倫理を十の徳目(禁止事項)として整理したものである。また慈雲の『十善法語』も明治の仏教者に大きく取り上げられたが、慈雲がこのように大きな影響力を持っていたことに驚かされる。

これらの他、国家的視野に立って日蓮主義運動を進めた田中智学、国粋主義と仏教を結合させた井上円了などが明治の仏教運動の担い手であった。またこの時期は、仏教を歴史上の事実として捉え、実証的な仏教史を構築していった時代でもあった。その成果は人々の仏教観に新鮮な息吹をもたらした。

本書は、最後に「新宗教の誕生と発展」「現代の既成宗教」の2章が置かれている。この章は歴史というより現在を扱うものである。敗戦による宗教の自由化で、数々の新宗教が生まれた。その口火を切ったのが「璽宇教事件」である。これは、狂信的な信者を集めていた璽宇(じう)教に警察が調査にはいり、それを信者だった大相撲の双葉山が乱闘して妨害した事件である。

新宗教は、人々の宗教心の飢えに応じて生まれたものでもあったが、泡沫的で奇抜な宗教が次々生まれたり(笑ったのは映磁尊(エジソン)を祀る「雷神教」)、また様々な事件を起こしてそれがジャーナリズムにセンセーショナルに取り上げられたりしたことによって、淫祠邪教であるとの見方がされるようになっていった。

一方、既成宗教(仏教)も各宗で強い危機感から刷新運動が行われた。その危機感は、都市にはもはや菩提寺意識を持たず、自らを無宗教と見なす人々が多くなり、また農村では人口減少によって寺院が維持できなくなるケースが出てきたことなどによる。江戸時代の宗教政策によって「家の宗教」となっていた仏教は、「個人の信仰」として現代的に生まれ変わろうとしているが、未だその道筋は不透明である。

全体を通じて、本書はかなりよくまとまっている。多数の執筆者がいるにもかかわらず、その調子が一定であり、内容の粗密があまりない。また読みやすく、索引や年表も充実している。参考文献リストはやや素っ気ないが、概論(大学の学部生レベル)としては一般的な水準である。

ただ、図像史、建築史、宗教的な文化史(墓塔の造営などの歴史)、民間信仰についてはあまり触れられていない。特に道教をほとんど全く取り上げていないのはちょっと残念である。

また、本書は「日本人は宗教に何を託してきたのか、日本民族と宗教の関係はいかなるものか」を視点としてまとめたというが、これについてのまとまった考察がなかったのも少し残念だった。本書は現代の宗教について述べて終わっているが、終章では日本宗教史を俯瞰した時に見えてくるものについて語っていたらよかったと思う。

ただ、本書はあくまで事実を淡々と述べており、そういう大上段の文化史的な考察をしていないのはいいところでもある。例えば末木 文美士『日本宗教史』が「古層の形成・発見」というテーマを設定して日本宗教史を述べているのと比べると、この淡々さは安心できる部分だ。

つまり、本書は「地味ではあるが堅実にまとめている」のが特色である。鋭い考察などはないが、基本的事実をしっかり押さえるのにはよい本。


【関連書籍の読書メモ】
『国家神道』村上 重良 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/07/blog-post.html
国家神道の本質を描く。国家神道を考える上での基本図書。

『日本宗教史』末木 文美士 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_14.html
古代から現代に到る日本宗教史を概観する本。
「<古層>の形成・発見」はピンと来ないが、日本宗教史の詩論として価値ある本。