2020年10月31日土曜日

『火縄銃から黒船まで—江戸時代技術史』奥村 正二 著

江戸時代の技術史を描く。

江戸時代は、技術的には停滞していた。鎖国(という名の統制貿易を)していたため海外からの情報が入りづらかったということもあるが、最大の原因は幕府が技術革新を禁止していたからだ。

享保6年(1721)、将軍吉宗は「新規法度の御触書」を出した。この触書では、「新規に巧出し候事 爾今以後固く停止たり」として新規な品の製造を禁止し、同年末にはすべての商人職人に業種別のグループを作らせて相互に監視させ、もし新商品が出現した場合に製造元をタレコミさせる体制を作った。発明も改善も一切禁止するという暴挙であった。

これは本来は奢侈禁止を目的としたもので、農民たちに自給自足を強制し、貨幣経済から隔離させようとした政策の一環である。しかしこの政策により、何に限らず改善する・改良するということは、お上を恐れぬ仕業として警戒されることとなった。

「新規法度の御触書」によって道具の改良・専門化が停止されたため、新規品の製造のみならず既存品の効率的な製造法も生みだされることがなくなり、一方で既存の道具をいかにうまく使えるかという”熟練”が極度に重視されることとなった。さらにこの触書は、使いづらい道具ややりづらい仕事を改善するのではなく、現状をあるがままに受け入れ、忍従することを美徳とする国民性の一因とさえなったという。

このように、技術革新はそもそも禁じられていたが、そうでなくても江戸時代には技術者の自由な交流がなく、技術の発展の土台がなかった。諸国(諸藩)の通行は自由ではなかったし、そもそも技術自体が秘伝として公開されなかった。特許のような発明者を保護する仕組みがなかったので、技術は門外不出にする方が合理的だったからだ。だが沿岸交易による交流と、全国に散らばる天領間での交流によって徐々にではあるが技術は広まっていった。

本書では、このように停滞していた江戸時代の技術史を、「火縄銃・大筒・焔硝」、「御朱印船・千石船・黒船」、「金銀銅の鉱山」、「歯車とからくり」の4つのトピックで巡るものである。

火縄銃・大筒・焔硝

1543年、種子島にポルトガル人が鉄砲を持ち込み、時の城主種子島時尭(ときたか)はその重要性をすぐに理解して二千金という大金を投じて二挺を買い入れた。そしてそのたった2年後には、堺や紀伊、九州で鉄砲の製造売買が大量に行われていたのである。日本刀で培われた鍛造技術があったため、日本人はすぐに鉄砲を真似して作ることができた。

ただし技術的に苦労した点が2つある。第1に、銃身端部へ尾栓をねじで嵌め合わせることができなかった。なぜならそれまで日本人は「ねじ」を知らず、特にねじ穴をどうやって開けるかがわからなかった。そして第2に、日本では火薬の原料の硝石が産出しないということである。

第1の点はネジガタ(今のタップ)が独自に発明されてクリアした。第2の点は、戦国時代の戦で鉄砲が多用されたことを考えると、日本は大量に中国から硝石を輸入していたようである。江戸中期からは硝石の人工的製造法が知られるようになるが、それは古い便所等の土を利用するもので製造効率は悪かったと思われる。

鉄砲は日本の戦争を一変させ、築城、防具(鎧)、戦法は戦国時代に大きく変化した。文字通り、鉄砲を制するものが戦を制したのである。しかし江戸幕府が開かれると、鉄砲の製造技術(具体的には鉄砲を製造する村=国友村)を幕府が独占する一方、「飛び道具は武士道に反する卑怯なもの」「鉄砲は卑しい足軽があつかうもの」といった思想が幕府の御用学者・林羅山によって鼓吹され、武士の象徴としての刀の価値が持ち上げられた。こうして鉄砲の技術は江戸時代には発展することはなかった。

幕末になって諸外国が日本へやってくると、大筒(大砲)の製造が試みられる。なお、すでに戦国時代に大砲は伝来していたが、これを使ったのは少数の武将に限られる。というのは、当時の日本には満足な道路がなかったため、大砲を運搬するのが大変だったこと、そして榴弾(内部に火薬が詰まった弾)が開発されていなかったので破壊力が小さかったためである。

幕末には佐賀藩を中心として、各所で大砲製造が行われた。これは幕府が「大砲製造令」(1842年)を出して各藩に大砲の製造を促したためでもある。しかし小銃の方は、もっぱら輸入に頼っていた。幕末は小銃の大きな変化・改善の時期に当たっており、次々伝来する新たな小銃の技術にキャッチアップすることができず、また国内の需要が大きすぎ、それをまかなう製造体制が取れなかったためだという。

御朱印船・千石船・黒船

日本は海に囲まれた国であるにもかかわらず、古来造船技術は稚拙であった。遣唐使船、遣明船などは原始的な構造であったと推測される。しかし明との貿易が打ち切られた後、御朱印船の時代(戦国時代)になって造船技術はかなり進歩した。

そもそも朱印船貿易とは、幕府の勅許を得て行う南方との交易のことであるが、これが行われた時代は西洋でもいわゆる「大航海時代」にあたっており、スペインやポルトガルが東南アジア(南蛮)にやってきていたから南蛮世界は大変賑わっていた。こうして南蛮を中継地として、日本は中国・ヨーロッパとの交易を行うのである。

これは官営貿易ではなくて、勅許を受けた私貿易であるから、利益を求めて船が大規模化し、御朱印船の乗員数は200〜300人程度にもなった。当初はこのような大船を従来の工法でつくっており、船底が平らで航行が不安定だったが、やがて造船技術が長足の進歩を遂げた。これは唐船のみならず西洋式帆船のよいところをとりいれた折衷型であったと思われる。初期の御朱印船には西洋人航海士を雇った例が多く、航海技術も西洋に学んで進歩したようだ。

しかし江戸幕府が鎖国令を敷くと事態は一変する。鎖国令を貫徹するため、幕府が造船技術に厳しい制限を設けたからである。具体的には、船の帆柱を一本とし、竜骨を入れることを禁止した(大船禁止令にもとづく行政指導)。帆柱が一本であることは船の大きさの制約となり、竜骨の禁止は伝統的な和舟への回帰を意味した。このような船を「大和型船」と呼ぶ。竜骨がない大和型船は製造面でも大木を必要として不利であり、さらに操舵が困難で(波を切ることができず)航行が不安定であった。

いわゆる「千石船」と呼ぶ船が、この大和型船である。「千石船」などと呼ぶと景気がよいが、実際には技術的制約から生まれた稚拙な船であった。こうして江戸時代には造船技術が低下し、さらには航海術も昔の水準へ逆戻りした。御朱印船時代に西洋から学んだ航海術が、長期にわたる鎖国政策によって船乗りの間から消え失せてしまったのである。しかし江戸と大坂を結ぶために沿岸海運は非常に盛んであったので、その結果として海難事故が異常に多くなった。

江戸時代の海難事故は、商船だけに限っても毎年千件を越えたと推定されているが、これは世界に類例のないことだそうだ。幕府の造船技術への制限は多くの人命の犠牲を伴っていたのである。

幕末になると黒船の来航によってこうした状況は終わりを告げる。黒船は鉄船ではなく、木造船の外側にチャン(瀝青)を塗っていたから黒く見えていたのだが、であっても日本の造船技術の水準を遙かに超えていたため当初この製造は不可能であった。よって幕府および諸藩は外国船を購入することによって海運をキャッチアップしようとした。なお大船禁止令が撤廃され船の構造上の制限が消滅したのは嘉永6年(1853)である。翌年から、薩摩と戸田(へだ)で造船が開始され、特に戸田での造船は明治維新後の造船技術開発の先蹤となった。

金銀銅の鉱山

江戸幕府の財政の大きな柱だったのが鉱山である。江戸幕府は主要な鉱山を手中にし、幕府の歩みはその消長と密接な関係があった。であるから、鉱山技術は幕府財政を支える重要なものだった。にもかかわらず、鉱山の掘削・排水・精錬等の技術はお粗末なものだった。

例えば鉱山内はどうしても酸素が薄くなり、また灯火の油煙のため空気が汚れる。だから積極的に換気していくことが重要なのであるが、江戸時代の鉱山ではこれが全く不十分であった。そのため、鉱夫はしばしば「気(け)絶え(酸素不足の失神)」で倒れ、「よろけ(珪肺)」による喀血で苦しみながら死んでいった。7年以上鉱夫を務められるものはなく、30歳を越える人は稀だったという。

また、水との戦いも壮絶だった。坑道は絶え間なく地下水が流れ込むため、24時間体制で水をくみ出す作業が必要になる。江戸時代、いくつかの種類の原始的なポンプが知られていたが、いずれにしても動力は人力で、しかもものすごい重労働である。そこで幕府は、江戸にいた無宿人を捕まえて、佐渡の水替人夫に徴用した。当然、強制労働である。一年中竹矢来の中に閉じ込められ、外出できるのは一年に一度だけであった。島送りが始まった安永7年(1776)から嘉永4年(1851)までの約70年間に2824人もの人が佐渡に送られた(明治10年頃まで続いたという)。そしてそのうちのただの一人も、釈放されたとの記録はないそうだ。

このように、江戸幕府は鉱山技術の稚拙さを人命の犠牲によって補っていた。幕末になって西洋からの技術が入ってくるとこれを積極的に活用して能率が劇的に上がっていく。はじめから進んだ技術を取り入れていれば、失われずに済んだ命があったのではないかと思わざるを得ない。

歯車とからくり—水車・和時計・ろくろなど—

この章は他に比べ短く簡略である。日本における歯車の技術史が概観され、それに伴って水車・和時計・ろくろについて述べられる。

和時計については、戦国時代に西洋から時計がもたらされたことで、これを真似て作られた国産品であるが、このように独自の機械時計を作ったのは東洋では日本だけである。しかし、西洋の時計機構を理解し、応用する技術力を持ちながら、日本の場合はそれが大名の奢侈品としてだけ活用された。またからくり人形の場合も、奢侈的な工芸品としてだけ発達し、その技術が産業面で広く活用されることはなかった。

本書の著者は、工学部卒で弁理士・技術士であって歴史家ではない。基本的な書き方としては、現代の技術から過去の技術を照射する形で述べられ、時系列的には書いていないので正確には「技術史」ではなく、江戸時代における「技術」の取り扱いを検証する本と言える。

全体として、これまでまとめたように、江戸時代には「技術」が極めて軽視されていた。そして「技術」が存在する場合も、様々な事情からそれが広く活かされることがなかった。これによって、多くの人命が失われたのである。本書を読みながら、技術の軽視は人命の軽視に繋がるということを痛感した次第である。

江戸時代の技術軽視を反面教師としたくなる卓論。


2020年10月12日月曜日

『石塔の民俗』石井 卓治 著

墓石の成立と石塔を関連づけて語る本。

著者の土井卓治は、岡山県の文化財専門委員を務めたり、日本民俗学会に所属するなどしてはいるが、石塔については専門ではないらしい。本書は、専門外の立場から石塔の世界を紹介し、特に今見られる墓石=普通のお墓がどのように成立したかを推測したものである。

本書の問題意識は、「(墓塔が)本来あるべき姿から非常に縁遠くなった形をとるようになってきたのは何故か。どんな過程を経てそうなったものだろうか」を解明したいということにある(p.9)。

日本では、仏教式の石塔(供養塔)は古代から建立されている。本書には古代からの石塔及び墓誌銘の事例が列挙され、今日の墓石に刻む銘文の内容は古代においてほとんどつくされていることが示される。ただし、中世になってから逆修(生前に自らの死後の供養を行うこと)が行われるようになるなど、供養塔の性格が一貫しているわけではない。

特に著者が疑問に思っているのは、石塔が依り代の役割を果たしたかどうかである。また礼拝の対象が死者の霊であったのかどうかも未解決である。石塔は、死者の名前(戒名)を刻むものというよりは、主尊を供養することに主目的があり、いうなれば建てるだけでその目的を果たしたため、参拝は必須ではなかった。それに石塔=墓標ではないので、埋葬地に建てる必要もなく、いくつあってもよかった。

また、故人の菩提を弔うために石塔は必須ではない。例えば手水鉢を寄進するとか、写経する、橋をかけるといったこともその役割を果たす作善行為(功徳を積む行為)であった。しかしやはり人々は死者に対して石卒塔婆を建てることを盛んに行った。その背景には、石塔それ自身に人々が霊力・魔力を認めていたということがあるのではないか。

こうした疑問を抱きつつ、著者は現在の墓石の原型として板碑に注目する。他の石塔(五輪塔や宝篋印塔)に比べ、板碑は製作がずっと容易であったため、庶民にも広まった。ただし板碑が墓石の原型であることは必ずしも完全に承認されていない。そこで本書では江戸時代の墓石の形式が確立するまでの様々な事例を挙げて、板碑がその元になっていることを例証している。

一方、板碑と墓石の大きな違いは何かというと、(1)板碑には主尊が刻まれるが、墓石には主尊ではなく戒名が中心であること、(2)板碑には建立年月日が刻まれるが、墓石では故人の死亡年月日であること、の2点である。すなわち墓石は、仏教的な表象を全て失って故人の記録のみを担うものになった石塔である、と考えることができる。本書はこのような変化が起こった力学を全て説明はしていないが、その議論は概ね説得的だと思った。

本書後半は、トピック的に石塔について語り、特に著者の研究フィールドである岡山の事例について述べている。例えば、石塔に納骨したかどうかというような問題、そして岡山の石塔に使われている石材がどのようなものか、といったことについてである。

全体として、本書は(非専門家ならではの?)鋭い指摘が多い。例えば、故人の菩提を弔うために石塔は必須ではないのになぜ石塔は盛んに建てられたのか、というようなことは、石塔ばかり見ている人は意外と気づかない視点だと思う。石塔を建てることは当然ではなく、元来は意味のある行為であったが、その意味がだんだん忘れられ、形骸化することで却って庶民にも造塔が広まり、結果的に墓石の形式が確立していったという逆説的な展開は非常に面白く感じた。

新鮮な角度から墓石の形式の成立を論じた良書。