2022年4月30日土曜日

『江戸のパスポート——旅の不安はどう解消されたか』柴田 純 著

江戸時代の旅行難民救済について述べる本。

江戸時代は、庶民がよく旅をするようになった時代だった。では、旅行中に病気や怪我をしたらどうしたのだろうか。現代においては、旅といっても数日のことだから国内旅行の場合はあまり気にならないが、当時の旅はほとんど徒歩なので数十日から数ヶ月かかった。その間に病気や怪我をすることは少なくなかったと思われる。

その不安を解消したのが「往来手形を持っていれば、無料で出発地に送還してもらえる体制」であった。これを著者は「(江戸の)パスポート体制」と呼ぶ。本書は、この体制がどのように構築され、どのように終焉を迎えたかを述べるものである。

この体制のポイントは、まず「往来手形」にある。往来手形とは、檀那寺や役所(村の庄屋、町の年寄)が発行した証文で、「この者は何村の誰それで間違いないので、助けてやってほしい」といったことが記載されている。天保14年(1843)以降は、発行には領主の承認も必要とされた(天保改革の人返し令の影響。後述)。

なお、本書はこの往来手形については非常にあっさりとしか記述されず、発行の対象は「士農工商えた非人(p.22)」だというだけで、これが具体的にどのように発行されたのかといったことはほとんど書かれていない。私自身の興味は、「僧侶は往来手形を持っていたのか?」ということだったのだが、「士農工商えた非人」には僧侶は含まれないのである。ところが別の箇所にある山口藩の例ではその対象が「寺社町人百姓(p.71)」となっており、武士が除外されて僧侶・神官が入っている。また本書には修験者がこれを携行していた事例が挙げられている。本書には往来手形から除外されていた乞食や帳外者については詳しいが、そもそも正規の対象が誰だったのかが曖昧なのである。往来手形は「パスポート体制」の本質なのでもう少し丁寧に説明してほしかった。

ともかく、往来手形をもっていれば、旅先で病気や怪我をして自力で帰ることができなくなっても、公権力により出発地に送還(村送り、宿送り)してもらえたのである。では公権力はなぜこのような対応を行ったのだろうか。(1)行き倒れを放置することを誡める幕府の「生類憐れみ」政策とその後の困窮者救恤政策、(2)他国民が行き倒れることで起こる問題を避ける領主の思惑、(3)旅人が死ぬことで迷惑になる村々の思惑、の3点から説明できるようだ。

最初に「宿送り」が行われるようになったのは(3)からのようだ。つまり病人の旅人がずっといては迷惑だから、次の村に押しつけてしまえ、ということからだ。ところが幕府の方では病人を看病せず「宿送り」をするとはけしからん、ちゃんと面倒を見よ、という指示を出した。これに対し、領主の方では「宿送り」自体が禁止になったと解釈したところと、強制的な「宿送り」はいけないと解釈したところとあり、藩ごとの対応はまちまちであったが明和4年(1767)の法令で「往来手形を持っている旅行難民にはしかるべき保護を加え(看病し薬を飲ませ)、本人の希望に応じて送還する」ことが明確になり、「パスポート体制」が確立した。

では具体的にどのようにしたかというと、大まかには、郡奉行による検分→「この者を送還せよ」という指示書(添え書付)の作成→村(宿)から村(宿)へ、リレー方式で送還→出身地での確認(往来手形と宗門人別帳の突き合わせ)、という流れになる。なお途中で死んでしまった場合は、そこに仮埋葬して出発地に連絡がいく仕組みだった。ただし、僧侶などが持っていた「捨往来」と呼ばれる往来手形では、「死亡の場合もそこに葬ればよく在所に連絡する必要はない」などとされていることもあった。

このように、往来手形は「パスポート体制」の要諦だったのであるが、不思議なことに幕府はこの作成については統一的な手続きを定めていなかったようだ。その最初の言及は天保14年(1843)に、「廻国修行、六部、順礼などに罷り出る者は…(中略)…村役人より御代官領主地頭へ願い出(p.78)」るように指示されたものである。それまでは往来手形は村役人・菩提寺が直接交付していたが、これ以降は領主が介在するようになった。なおこの禁令では、旅の目的が「廻国修行、六部、順礼」と宗教目的で多数の国を巡るものに限定されており、伊勢参りなど特定寺社の参詣や商用の旅行が除外されているのが気になった。そしてこれは、廻国修行等を許可制にしたものに他ならない。この規制によって天保以降は「参詣人など旅人の数は大きく減少していくこととなった(p.80)」。

本書では、以上のような概論を述べた後、史料がよく残っている紀州藩田辺領を中心に旅行難民の事例を大量に分析し、まるで薄皮を剥いていくように「パスポート体制」の実態を解き明かしていく。送還が必ずしも順調に行かなかった場合の対応や、幼年者(旅の途中で親が死んでしまうなど)の場合どうしたか、といったいろいろなケースが提出され、どのように解決されたかが述べられている。

ところで「パスポート体制」での看病や送還の費用はどうまかなわれたのだろうか。当初は領主から支給されていたが、田辺領では宝暦(1750年代)頃に町や村で負担するように変えられた。すると、宿泊させるのが損なため、無理矢理送還するようになった。また旅行人が増えるにつれ、街道筋の村々の負担増を招き、反発も強まっていった。

では宝暦頃に負担の主体が町・村に変更されたのはなぜなのか。本書には明確に書いていないが、その背景として宝暦ごろから乞食死が増加していることに目が行く。さらに天明期(1780年頃)には飢饉の影響もあり乞食死がそれまでの10倍ほどになり、天保期(1840年頃)にはさらにその10倍ほどのピークを迎えている。天明の飢饉が収まった後も乞食死が高い水準で推移していることから、飢饉以外に行倒死をもたらす事態が生起したと考えられる。

乞食とはそもそもどのような存在だったのだろうか。乞食を大別すれば2つあった。第1に地元の乞食、第2に身元不明あるいは他国から来た乞食、である。そして第2の乞食については、追放がどこの藩でも基本原則だった。そして天明頃から、この第2の「他国の乞食(非人)」が増加し、岩穴などにいつくようになったのである。そして、乞食と見分けがつかない順礼も多くなってきた。物乞いしながら旅を続ける乞食順礼は18世紀後半から急増するのである。

こうした人々は往来手形を持っていなかった。そして「パスポート体制」が成立した弊害として、逆に往来手形を持っていない人は保護しなくてよく、その場に葬ればよい、という処理の簡略化がなされるようになった。 乞食が増えたことで送還や葬儀にかかる費用負担の問題がもちあがり、往来手形を持たないものは全て不審者であり乞食だ、として切り捨てたのである。

ではなぜそもそも乞食は急増したのか。このあたりから、本書は「パスポート体制」を離れ、テーマが「無宿」へと移っていく。これまで「乞食」と一括されていた人々が改めて分析の俎上に載せられ、「無宿」(=住所不定無職)・「帳外れ」(=宗門人別帳から除外された人たち)の問題が取り上げられる。先ほど述べた乞食死の増加は、そのまま無宿人の増加と並行した動きを見せている。ではなぜ無宿人は増加したか。従来の研究では追放(罪を犯して人別帳から除外される)がその要因とされてきた。しかし史料を丹念に調べるとそうではないことが明らかになった。

無宿人は、「義絶」によって増えていたのだ。義絶とは、家族を宗門人別帳から除外してもらうことで、要は勘当である。義絶が増えたのは、義絶しておけば、後々に何か問題を起こしても親類に累が及ばないからであったと考えられる。素行が悪いものや厄介者を早めに義絶しておき、後の問題を避けたのだ。というのは、もし(義絶されていない)親類が犯罪などを犯した場合、その賠償は親だけでなく親類にまで及び、多大な負担が生じたからである。こうまでしなくてはならなくなっていたということから、幕末の社会の危機的な状況が推察されるのである。

おそらく、義絶は間引き(嬰児殺し)と同じ意味を持っていたのだろう。素行が悪いというよりも、養えない子を家から追い出すにあたって義絶し、後の憂いを防いだのだ。10代や少女の義絶が増加していることからそれは明らかである。

こうして無宿が急増したことを幕府は問題視して、みだりに追放しないよう触れを出し、松平定信は、安永7年(1779)から無宿を捕らえて佐渡島の鉱山に送る政策を行っている。時代が下って水野忠邦は、無宿増加の原因が義絶にあることを見抜き、天保期に「無罪の無宿」(罪を犯して追放されたのではない無宿)を人別帳に戻す政策を行った。さらに天保14年「人返し令」(出稼ぎ人などを江戸の人別帳に登録することを禁止し、あくまで一時滞在であることを明確化した法令)や「諸国人別改め改正」によって、往来手形の発行に領主の承認を必須としたのである(前述)。

これら天保の改革の中で人別帳が注目されているのは、無宿など「人別帳によって把捉されない人」が増加していたからである。人別減少は、要するに幕藩体制の外側に人が漏れ出ていっている、ということだから体制の根幹を揺るがす大問題だった。しかしこれは根本的な解決に至らず明治を迎える。

紀州藩では早くも明治2年に義絶での除籍が禁止された。また行方知らずになったものの捜索も(藩)政府?が担うことになった。追放刑も明治2年の太政官令で廃止され徒刑になっている。このように、明治政府においては全ての国民が戸籍に編成される仕組みが調えられていき、無戸籍者が原則存在しない社会になったのである。

「パスポート体制」については、明治4年6月、政府は従前の対応を踏襲する太政官布告を出しており、往来手形の代わりに「鑑札」を発行することとした。ところがその僅か1ヶ月後、鑑札の配布を止めている。さらに翌明治5年8月には「無印鑑での旅行が差し支えないようにする事」との太政官布告が出され、府藩県が往来手形や鑑札によって寄留旅行者を把握することを諦め、身分証明書不用の自由旅行を認めた。そして明治15年に「行旅死亡人取り扱い規則」が制定されて「パスポート体制」は終わりを迎えたのである。

本書は全体として、記述が時系列的でないこと、事例が大量に提示されること、また現代語訳されているとはいえ文書の引用が多いこと、「パスポート体制」と「無宿」の問題があまり整理されずに語られていることなどから、読みやすいものとはいえない。しかし大量の事例は、パスポート体制だけでなく、当時の人々の旅に対する考え方や人道的な観点など、それぞれが様々なことを教えてくれ、私にとっては参考になった。

私は本書を、僧侶はどうやって旅をしたのだろうか、という疑問から手に取った。僧侶は順礼や修行のために全国を廻っている場合が多いからである。しかし本書にはその答えはあまり載っていない。ただ、廻国僧も往来手形が必要であったこと(p.201)が僅かに分かったくらいだったが、その例は興味深い。宝暦11年(1761)、鳥取で死去した廻国僧の往来手形を確認したところ、国元に問い合わせても「そのような者はいない」と回答された。つまりこの廻国僧の往来手形は偽造だったのである。ではなぜ彼は往来手形を偽造したのか。その理由は詳らかでないが、彼は手形を偽造してまで廻国したということになる。

大量の事例によって江戸時代の往来手形と人別減少の問題に切り込んだ非常な労作。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸の旅』今野 信雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/04/blog-post_24.html
江戸の旅の実態をわかりやすく知れる良書。

 

2022年4月27日水曜日

『神仏分離』圭室 文雄 著

神仏分離の背景と経緯を丁寧に描く本。

私は、明治政府は何のために神仏分離政策を行ったのだろうか、という疑問から本書を手に取った。しかしながらその説明は簡潔で、「神仏分離政策の目的の最大のものは、日本における国家公認の宗教を江戸時代の仏教から神道に転換させることであった(p.14)」というのがほとんど全てである。

それはそうであるにしても、これは神仏分離と直接には繋がらない。なにしろ明治政府が神道を国教に据える前に神仏分離は行われているのだし、神道を国教にするためだけであれば、神仏分離は必須ではなかったように見える。江戸時代は神仏習合だったと言われるが、それでも神道と仏教は別個に存在していたからだ。こうした点は本書では深入りしない。それよりも、神仏分離政策に先行した水戸藩を中心としたいくつかの神仏分離・廃仏毀釈の事例紹介を行うことで、神仏分離の背景や各地での経緯を描写することに主眼があるようだ。

水戸藩では寛文6年(1666)という早い段階で、藩主水戸光圀が神仏分離を行った。なおこれについても、何のために行われたものか本書には書いていない。光圀は、まず寺社・神社に「開基帳」という由緒書きを提出させて実態調査し、好ましくない寺院を破却するよう命じた。好ましくない寺院とは、(1)祈祷・葬祭ともに行わない寺院、(2)祈祷ばかり行い、葬祭を本意としない寺院、(3)葬祭を行わないのに宗門人別帳に請印している寺院、(4)檀家のない寺院、(5)年貢地に建立されている寺院、(6)専従の僧侶がいない寺院、である。

光圀は、一定の檀家を持って葬祭を本務とし、 住職がいる立派な寺院が少数あればよい、という合理主義的な考えで寺院整理を行っており、大寺院はむしろ保護している。とはいえ2377か寺のうち約半数1098か寺が処分されてしまった。本書では実際にどのような寺院が破却されたのかが詳細に分析されている。

光圀は並行して、神社の整理も行った。その内容は(1)仏教的なご神体を神道的なものに改める、(2)神社の管理を神主にさせる、(3)八幡社の全廃(神仏習合的なため)、(4)一村一社制の実現、の4点である。これらは大きな反対運動なく短期間に実施された。それは、寺院から神社への僧侶の転身があったためではないかと推測している。民衆のレベルから言えば、これまでのお寺のお坊さんが還俗し神官となって、引き続き願いを聞き入れてくれるならば、さほどの大変革には感じなかったのだろう、ということだ。

なお同時期の岡山藩でも、藩主池田光政の肝煎りで半数を超える寺院が突然破却されている。これは日蓮宗・真言宗の寺院破却にポイントがあり、特に日蓮宗不施不受派への弾圧が背景にあるものとみられる。全国的に見て、岡山周辺に不施不受派寺院が集中していたのだ。池田光政は、祈祷などは無意味だとする合理主義的な考えで廃仏政策を行っているが、神主に変わった僧侶がやはり仏教的な活動を続けたケースは多く、それが民衆の求めているものでもあった。

話は戻って、水戸藩では、幕末の天保期に再び寺社改正が行われた。今度は後期水戸学の排仏思想——仏教を信じるものは愚民で、僧侶は破戒し堕落しており、本地垂迹は邪説である、という思想——に基づいた運動であった。廃仏論を展開したのは水戸の彰考館に属する学者グループで、彼らは正確な史料に基づいて仏教への批判を繰り広げたが、その根本は、仏教や僧侶は生産活動に役に立たない、というやはり合理主義的なものであった。

この寺社改正では、(1)無住や小坊など管理不行届の寺を中心とした寺院整理、(2)撞鐘徴集、(3)神社の唯一神道化、(4)氏子帳の採用、が行われた。

ここで注目すべきなのは、(3)と(4)で、神仏分離政策を一歩進め、いわば神道国教化に手をつけていることである。 このため領内に勧請した東照宮の別当までも破却し、山王一実神道から唯一神道へ改変するという思い切った政策を行っている。また氏子帳の作成では、宗門人別帳と同じ機能を有し、神葬祭と紐付けた上、家系図的な役割までも負わせた。

また寺院に対するスタンスで光圀の場合と違うのは、本末関係の格式に関係なく大寺の整理にも手をつけたことである(例:時宗の神応寺、浄土宗の常福寺、天台宗の薬王院)。特に(2)は、大砲製造に必要だった金属を農民の負担なく確保する政策であったが、これを不服とする寺院はそれぞれ本山を通じて幕府に上訴。その結果、老中阿部正弘は水戸藩家老を呼び付け廃仏毀釈政策について問いただし、弘化元年(1844)、幕府は水戸藩主水徳川斉昭に謹慎を命じてこの運動は挫折を余儀なくされた。

明治維新が起こると、慶応4年、政府は神仏分離政策を実行した。神社を寺院から独立させ、神主の身分を確立し、神社から仏教的なものを取り除いて神仏習合を否定したのである。

この政策を主導したのは津和野藩の者たちだったが、津和野藩ではこれをうけて早速神仏分離・廃仏毀釈が行われた。藩主亀井茲監は政府の神祇事務局の担当者でもあり、津和野藩の動きは神仏分離政策の実行者たちの思惑を窺うことができる。

亀井は日本を「神の国」と見なし、仏教を外来のものとして排斥した。彼は(1)寺院の合併による寺院数の削減、(2)僧侶の還俗の奨励(還俗すれば扶持を与えたり、寺院の借金を棒引きするなどの特典を設けた)、(3)寺院修理や仏具購入の禁止、(4)法会の制限(多人数を集めての法会の禁止)、(5)お盆の時の棚経の禁止、といったことを行い、寺院の強制的な破却こそしなかったものの、寺院を実質的に経営不可能な状況に追い込んでいった。

松本藩では、藩主戸田光則が強烈な廃仏思想の持ち主で、強引な廃仏毀釈が行われた。彼は領民に葬儀を神葬祭とするよう指導し、寺から檀家を奪って廃寺にするよう進めた。しかし各宗派が本山を通じて抗議し、逆に各本山からの総攻撃に会って政府にも問題視され、明治4年11月に藩知事戸田光則は廃仏政策の責を問われて罷免された。

富山藩では、明治3年、大参事林太伸の手によって突然寺院整理が断行された。彼は各宗派1寺のみ残して他を全て廃寺にするという暴挙を計画する。これには明治政府も驚き、強引な廃寺をたしなめたが富山藩は計画を変えなかった。しかし明治4年7月の廃藩置県の混乱で廃寺政策も沙汰やみとなって、徐々に旧に復した。なぜ林太伸は明治政府にたしなめられながらも廃仏政策を強行しようとしたのか詳らかでない。

さらに本書では「著名神社の神仏分離」として、度会府が3ヶ月の間に4分の3もの寺院を廃寺にした伊勢神領、明治期の廃仏毀釈の嚆矢となり多くの文化財を破壊した日吉神社(滋賀県)、僧侶が自主的に全員還俗し春日神社の神官に転じた奈良の興福寺(しかも末寺107か寺を全て切り捨てた)の事例が紹介されている。

これらは神仏分離政策を受けて極端な廃仏毀釈が行われた事例であるが、本書では逆に廃仏思想が元来地域になく、政府の指示を受けて素直に神仏分離を行った事例も紹介しており、これが非常に参考になる。

日向国延岡地域では、神仏分離令を受けて領内の神社に対応を求め、慶応4年7月、その結果を調査した『神社書上帳』としてまとめた。そこでは「天皇と関係がある神社かどうか、ついで江戸幕府や藩主から保護をどの程度うけていたのか、さらには神仏分離政策の結果仏教的色彩が完全に追放されたかどうかなど(p.178)」が調査されている。その結果を概観してみれば、神社から仏教的要素を取り除く他、別当寺を廃止して僧侶を還俗させて神主とし、別当寺跡を神主の住居としたケースが多いようだ。これは「寺から神社へ姿をかえても、今までの伽藍があり、(中略)[今までの]僧侶が神主として宗教活動を続けている(p.181)」ということで、民衆にはさほど抵抗なく受け入れられたと考えられ、神仏分離政策が順調に進行したといえる。

相模国藤沢・鎌倉地域では、仏教は廃止されると理解し廃仏毀釈を行った江の島岩本院、僧侶が神社から手を引き村の神主にゆずることでスムーズに神仏分離が行われた羽島村と四ツ谷村、無住の阿弥陀堂が破却されるなど小堂の廃仏を行った高谷村、諸堂宇を悉く破壊した鶴岡八幡宮、無檀・無住の寺など村の小祠を残らず処分してしまった鎌倉郡の例がケーススタディとして紹介される。近傍の地域でも、神仏分離が何を意味するかの理解がまちまちで様々な対応があったことがわかって興味深い。

三河国(愛知県)菊間藩では、少参事として赴任した服部純が平田学的思想に基づいて強制的な廃寺政策を断行した。これに対し、僧侶たちが「合寺・廃寺が決まったような話はおかしい」として反発。追って浄土真宗僧侶たちが鷲塚村庄屋宅に抗議書を提出したが役人側がつっぱねて長時間の激論となり、外に待ち受けていた者たちが乱入して役人側の一人を竹槍で斬殺してしまった。ここで集団は「ヤソ(キリスト教徒)が倒れた!」と叫んで暴動化した。これを「大浜騒動」という。

これを受け、服部純はほぼ全面的に廃寺政策を撤回し、僧侶や門徒に妥協の姿勢を示したが事件の首謀者となった僧侶や農民たちは斬首以下の厳しい処罰を受けた。

本書は最後に、神仏分離政策に続く神道国教化政策について簡単に概観している。明治政府は伊勢神宮を国家祭祀の頂点とし、村の鎮守をその下部機関と位置づけて民衆の信仰・宗教儀礼を改変していった。また神仏分離によって密教系の僧侶・山伏・行人・巫女などが神主に転身したケースが多かったが、彼らが神武天皇祭典の祭祀を受け持つなど村落の神道の担い手となっており、現世利益の祈祷が国家神道に吸収されていったことが指摘されている。

冒頭に述べたように、本書には「なぜ明治政府は神仏分離を行ったのか」という明確な説明はない。しかし本書を通読してみると、それは当時の人も分かっていなかったということは明白だ。というのは、神仏分離令を受けて、ある場所では政府にたしなめられつつも強引な廃仏毀釈が起こり、ある場所では政府の指示に従った粛々とした神仏分離が行われた、というようにその解釈や対応がまちまちだったからである。当時の政策担当者たちが、神仏分離令の意図を自分なりに解釈していたということは、裏を返せば正統的な解釈などどこにも存在していなかったということになる。

もちろん、明治政府はそれなりの政策目的をもって神仏分離令を発したに違いない。しかしその目的が曖昧であり、少なくとも全国的には周知されず、政府の中でも共通認識を形成できていなかったことは間違いないようだ。

各地の神仏分離・廃仏毀釈運動の推移から明治政府の神仏分離政策の核心を窺う良書。

【関連書籍の読書メモ】

『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』安丸 良夫 著https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/05/blog-post_2.html
明治初年の神仏分離政策を中心とした、明治政府の神祇行政史。「国家神道」まで繋がる明治初年の宗教的激動を、わかりやすくしかも深く学べる名著。

『廃仏毀釈—寺院・仏像破壊の真実』畑中 章宏 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/07/blog-post_11.html
各地の廃仏毀釈の事例を述べる本。廃仏毀釈の事例集として分かりやすい。

『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』鵜飼 秀徳 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/03/blog-post_3.html
全国の廃仏毀釈運動について述べる本。全国の廃仏毀釈の動向を大雑把につかめる。

『廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち』佐伯 恵達 著https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/01/blog-post_11.html
宮崎で行われた廃仏毀釈についてまとめた本。廃仏毀釈や神道の見方はやや一面的なところはあるが、仏教側への考証は緻密で、地元に関する情報が豊富な真摯に書かれた本。



2022年4月24日日曜日

『江戸の旅』今野 信雄 著

江戸時代の旅がどんな風であったかを述べる本。

江戸時代の旅といえば、宿場と伝馬、関所、伊勢参りといったことがすぐに思い当たるが、それぞれの具体的な姿となるとよくわからないことが多い。本書は、そうした江戸の旅の様々をトピック毎に概説するものである。

宿場・伝馬とは、幕府の許可に基づく(=「伝馬朱印」を持つ)公用者の移動のために、宿泊および交通(馬の徴発)を無料又は低価で行うことができるようにした制度である。

宿場には35〜50頭の馬を置き、それに応じた人足も置くように定められていた。宿場はこれを公用者に無料で使わせる代わり、馬1頭あたり30〜40坪の地子(地租)が免除されていたのである。しかし公用の移動が少ない時はよくても、次第に街道の往来が激しくなると伝馬は宿場にとって負担になっていった。

公用移動の代表である参勤交代は軍旅の建前であり、宿泊場所を「本陣」と言った。本陣は宿場における最高の身分であり苗字帯刀が許されていた。こちらも宿泊自体は無料だったが、物品のレンタルや仕出しなどは支払いが受けられた。そして大勢の家臣が宿場に宿泊するのは宿場全体にとってよい稼ぎになったようである。ちなみに宿泊料は人間より馬の方が2倍高かった。人間の方は自炊が基本だったが、馬の飼い葉は宿場が準備したからであろう(なお本書には書いていないが、江戸時代の馬は乗るものではなく荷物を運ぶのに使う)。

とはいえ、宿場としては公用による無料利用が増えると経営がやっていけない。そこで飯盛女(めしもりおんな)が盛んになった。幕府は宿場に遊女を置くことを禁止したが、宿場では給仕をさせる体で飯盛女を置き、性的なサービスを行わせたのである。それが宿場の経営の柱となり、逆に客を宿泊させなくなるという本末顚倒な事態も生じた。飯盛女の客は旅行客ではなく近所の名主がメインだったからである。

江戸時代の旅といえば「伊勢参り」である。伊勢参りを勧め、全国各地に檀家を持って「旅行案内」をしたのが御師(おし)と呼ばれる存在だ。彼ら自身も定期的に地方を行脚して神宮大麻を配り、伊勢参りを勧めた。そして実際に檀家がやってくると自らの家を宿坊として参詣者を泊めたので、旅籠としての利益も大きかった。享保9年(1724)には伊勢に850軒もの宿坊があったという。

ところで、全国各地から伊勢参りに来る旅行者たちに対し、室町幕府は多くの関所を設けて参詣者から関銭を徴収した。伊勢国だけでも120ヶ所も関所があった。関所間の平均距離が260メートルだったというから驚く。さらに乱立する地方豪族も別個に関所を設けていた。これらの関所を一気に廃止したのは織田信長で、これによって参詣者は激増したと考えられる。

また60年毎の遷宮の時には伊勢参りは「おかげ参り」となり、また「おかげ踊り」となって一揆の様相すら帯びた。狂乱した民衆に対しては関所も手が出せず、通行手形を持たない者の通行も黙認した。

また奉公先などに黙って伊勢参りに出かける「ぬけ参り」も横行。奉公先も天照大神への参詣のためとなればこれを呼び戻すことはできず、むしろ無事戻ってくれば祝ってやらねばならなかった。また関所も寛大だったという(ぬけ参りは当然通行手形など持っていなかった)。こうして抜け参りをしたのは、女や子どもも多く、3分の1以上が6〜16歳(数え年)の子どもであった。

江戸時代には遊興の旅というのは認められなかった一方で、宗教的な旅(伊勢参り、金比羅参り、西国巡礼など)にはかなり寛容であった。実際には信心などあまりなくても、宗教的な目的ということにすれば旅が可能になった。無一文で出発しても善根宿に留まり、喜捨を得て旅を続けることができたのである。そうした扶助が受けられたからこそ、子どもの「ぬけ参り」が可能になったのだろう。無一文で伊勢参りに出発して、帰ってきたときにはかなりの蓄えができていた、という例まであるそうだ。なお江戸から片道12日の伊勢参りには、往復で4両(30〜50万円)かかった計算だ。

また、江戸時代後期になると、学者と武芸者の養成のため、各藩は武者修行の旅人を派遣するようになった。こうした者たちのための文武宿が各地で用意された。この他、もちろん芸人は旅から旅に渡り歩いたし、商人たちも商売のための旅を盛んにしていた。

そうした各種の旅の規制となったのが「関所」である。江戸幕府は全国53箇所に関所を設けた。全国といっても東は利根川・江戸川の水系、西は浜名湖から伊那谷のラインの内側が大半で、その他は近江三ヶ所と越後にあっただけである。「なかでも幕府が重きを置いたのが東海道の箱根と新居(浜名湖西岸)、中山道の碓氷、木曽福島の関所だった(p.124)」。

関所が厳重にチェックしたのが「入鉄砲と出女」。「入鉄砲」は新居の関所で、「出女」は箱根の関所で厳しかった。なぜ「出女」に厳しかったか。それは人質の意味合いがあった大名の家族を江戸から出さないためであった。女性が関所を通過するためには町奉行や代官からの証文をもらい、それを幕府あるいは藩の御留守居役に提出して署名してもらう必要があったのである。そして関所通過の際は証文通りの女であるか確認され、人見女(ひとみおんな)によって、間違いなく女であるか、時には裸にまでされてチェックされた。

だから関所を通ろうとする女性自体が少なかったのだが、高貴な女性(つまり大名の妻や娘など)の場合は、人見女は乗り物の戸を少し開けて形式的に覗くだけでチェックは甘かった。このことを考えると、幕府としては高貴な女性が庶民の女に化けて通行することを警戒していたのかもしれない。

ちなみに逆に上方から江戸に入る場合は、男女ともに手形がなくても通行が可能だった(治安維持を考えると不思議だ)。江戸から上方へ向かう場合も、必ず手形が必要かというとそうでもなく、「直参の旗本や御家人、御三家の家臣、家来に槍を持たせた大身の武士、また能、狂言師、芝居者、芸人、僧侶、御師、虚無僧、くぐつ師等は、それぞれの芸を披露するなり、職業を証明するものがあれば比較的自由に通行できた(p.128)」。

江戸時代の旅で苦労したものといえば川越え。当時の川には橋がほとんど架かっていなかったからである。旅人は水量に応じた料金を払って川越人足に背負ってもらい(あるいは輿に乗って)、橋のない川を渡った。参勤交代では十万石の大名で川越えに30〜40両かかった。渡し船がある場所もあったが、例えば大井川では地元民たちが渡し船に反対して実現しなかった。川越えは絶対に必要なものであるだけに地元にとってよい稼ぎだったからである。

江戸時代に旅が盛んになってきたのは、商業の発達により庶民の懐に余裕が出てきたこと、街道の往来が安全になり宿場の整備が進んだこと、「幕府の政策上、信心のための旅行がほとんど自由に開放されていたこと(p.148)」、そして旅行ガイドたる道中案内書や各地の名所図会が普及したことが挙げられる。八隅蘆菴『旅行用心集』などは現在でも通用する旅の心得が書かれている。

そして旅の増加に伴い紀行文も氾濫した。例えば、林道春『丙辰紀行』、貝原益軒『和州巡覧記』、古河古松軒『西遊雑記』『東遊雑記』、高山彦九郎『北行日記』、大田蜀山人『壬戌紀行』などなどだ。

ちなみに、旅行に必要な費用(路銀)はどうやって持ち歩いたか。当時の通貨は全て硬貨である。だから大金を持つことは安全性のみならず重量の面でも不便だった。そこで出発地の両替屋で手形に変えてもらい、行く先々でこれを現金化した。手形には通し番号がついていて、判がなければ現金化できなかったから盗賊も手をつけることができなかった。…と本書にはあるが、行く先で現金化するための金融システムがどうなっていたのか興味が湧いた。両替屋のネットワークがあったのだろうか。江戸時代に今のトラベラーズ・チェックとほぼ同じ仕組みがあったのにはビックリである。

本書は最後に明治以降の旅の変化について短くまとめている。ただしこれは本書のテーマからはやや蛇足に感じた。

著者はテレビ・ラジオの仕事を経て電通に入った人物で、その傍ら趣味で執筆を行い、定年退職後には執筆に専念したという。本書は退職後の第一作だと思われる。学者ではないためか、制度面や政策面については扱いが粗略であるが、平易で読みやすく、江戸の旅がどんなものであったのかを手際よくまとめている。

江戸の旅の実態をわかりやすく知れる良書。

 

2022年4月16日土曜日

『邪教/殉教の明治——廃仏毀釈と近代仏教』ジェームズ・E・ケテラー著、岡田 正彦 訳

廃仏毀釈を経て、日本の仏教がどう対応したかを述べる本。

明治初年、仏教は異端なる教え「邪教」であるとされ排斥された。しかし神道国教化政策が挫折し、仏教も国家に協力する体制になると、そのようにして受けた被害は——少なくともその一部分は——「殉教」であったと変換された(と著者は言う)。本書は、「邪教」と「殉教」の間にあるその変換がいかにして行われたかを象徴的な事例を通じて分析するものである。

「第1章 異端の創出——徳川時代の排仏思想」では、明治政府の神仏分離政策の前提となる反仏教的な動きや思想が取り上げられる。特に、仏典には多くの矛盾点があることを鋭く指摘した富永仲基『出定後語』と、それを読解して仏典が作為に満ちた創作物であると断じた平田篤胤『出定笑語』の紹介は興味深い。

また幕末の頃、地球は丸いといったような科学的知識が入ってきていた。仏教でいう須弥山(世界の中心にある巨大な山)とか十万億の仏国土とかは荒唐無稽な空想に過ぎないことが明らかになったのである。不可侵だった聖典に合理的な目がそそがれ、それが批判されたのである。しかし篤胤の『出定笑語』は内容は合理的精神からの批判であったが、熱意を込めて感情的に仏教を口汚く罵っているのが注目される。

また、仏典における作為のみならず、仏教とや寺院が非生産的な存在であるという批判も根強かった。儒教倫理からの勤勉主義から見ると、仏教や寺院は無駄であると考えられた。やはりここでも、仏教に立ちはだかったのは合理的・経済的な考えだ。

「第2章 異端と殉教に関して——廃仏運動と明治維新」では、明治政府の神仏分離やそれに伴って起こった廃仏毀釈の先蹤となった水戸藩・津和野藩・薩摩藩のケースが振り返られる。神仏分離以降の明治政府は、仏教を国家的行事から排除し、それまで寺院が持っていた権利を剥奪していったが、それに対して仏教教団は粘り強く抵抗し、なんとか生き延びようと努力した。それはある意味では自主的に国家に隷属することを選択したとも言える。それは「廃仏運動が残した最も深い爪痕として廃仏毀釈以後になされたあらゆる宗派組織の法的・政治的概要の厳密な法制化(p.114)」をもたらしたのである。

そうしたことの象徴として、明治3年に三河の大浜で起こった一揆について紹介している。「大浜一揆(三河事件)」では、民衆が浄土真宗(東本願寺)の護法のために立ち上がった。東本願寺の末寺の僧侶たち51人はそれに参画し民衆側に立ったのだが、本山は彼らに政治権力と対立しないように指導し、末寺に対して集会の規制をするなど、仏教を弾圧しつつあった国家の側に立ったのである。「三河事件」で処罰された人々は後年「殉教者」に仕立て上げられたが、それは彼らを「異端者」として処罰した人々によってだった。一方で、仏教は国家の側に歩み寄ることで徹底的な廃絶を逃れ、国家の中に位置づけられていった。

「第3章 儀礼・統治・宗教——大教の構築と崩壊」では、明治政府の「神学」が改めて考察される。明治政府は「復古」を掲げ、祭政一致国家を出発させた。しかし国民教化のために打ち出された「大教宣布」においては、「祝祭や祭り、葬儀や祭祀については何も言及されていない(p.142)」。明治政府は、神道教義の伝授よりも国民を馴化することに比重を移して行った。

そして明治5年には神道一辺倒の政策は終わりを告げ、教部省・大教院が設立されて神仏合同で国民教化に取り組んでいくことになった。それにあたって政府は「三条の教則」と呼ばれる原則を策定し、またそれを補完するものとして十一兼題、十七兼題という教化活動の手引きを作成した。特に十七兼題の方には、「万国交際」「国法民法」「律法沿革」「富国強兵」「産物製物」「文明開化」といった宗教的でない教化の性格が濃厚である。本書は「三条の教則」や「兼題」を微に入り細に入り解釈しているが、兼題についてのこのような詳細な考察は類書ではあまり見受けられないものである。

ともかく、「国民を統一し、国民国家の超越的で集合的な統一表象を作り出すために、手を替え品を替え、神の世界を人間世界にじかに結びつけようとする企てがなされた(p.171)」のである。しかし表向きには「三条の教則」や「兼題」は宗教色を廃していたが、実際にははっきりと神道に基づいていたために、ヨーロッパに外遊した島地黙雷(浄土真宗本願寺派)などの僧侶はこれに反発した。島地は宗教と政治は分離すべきであると主張して13もの嘆願書と30を超える論文を書き、そうした批判が島地以外からも提出されて教部省・大教院体制は終わりを告げた。

「第4章 バベルの再召——東方仏教と一八九三年万国宗教大会」では、時代が一気にくだって明治26年、アメリカで開催された「万国宗教大会」について語られる。これは、アメリカの信心家たちによって開催されたもので、「唯一の世界宗教によってすべての人類を一つの地球家族に統合(p.193)」することを夢想して企画された。カトリック、プロテスタント、ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教、神道などの代表者が各国から招聘されて発表を行い、「独自の真理」を説きあった。

ところが、大会では普遍的兄弟愛がくり返され、その理念は夢想的なまでに崇高であったにもかかわらず、主催者はキリスト教の優位を微塵も疑っていなかった。 来るべき世界宗教はキリスト教を下敷きにしたものであることを隠そうとせず、他の宗教は遅れた段階にあるものだと決めてかかっていた。

よって、招かれた宗教者の一群は、初めから敗北を運命づけられていた。 結局、キリスト教以外の宗教者は、敵愾心を抱いてさえいる聴衆に訴えなくてはならず、「去勢されたような態度をとることになってしまった(p.213)」。しかも日本から参加した仏教代表者5人は一人を除き英語が不得手だったのである。そのうえ、彼らは互いに異なる宗派であったために協力するどころか反目し合ってもいた。

しかしそれでも、この大会に日本から仏教代表が参加した意義は大きかった。彼らは初めて「日本の仏教」を外からの視点で見ることになり、またこの世界大会に参加したという経験は彼らに「国際的地位」をもたらした。彼らは帰国後、それぞれのやり方で近代仏教の建設に携わっていくのである。

「第5章 歴史の創出——明治仏教と歴史法則主義」では、 仏教者たちがどのようにして「仏教」をまとめ、近代仏教を創造したのかが語られる。歴史法則主義とは、歴史はある法則に従って「進歩」するものだ、という考えで、19世紀の素朴な進化論を人間社会に当て嵌めるものである。この考えで宗教を捉えれば、宗教も「進歩」する(しなければならない)ことになり、「遅れた宗教」や「進んだ宗教」があることになる。仏教も、宗教の「進化」の中に自らを位置づける試みを行う必要があった。「同時代の社会や政治情勢に見合った仏教」を作らなくてはならなかったからである。

それは、各宗派それぞれがどうあるべきかというよりも、「仏教」として一つにまとまった教えを確立することだった。それは「釈宗」「東方仏教」「通仏教」などと呼ばれた。そのために、鎌倉時代後期の僧、凝然の『八宗綱要』が見直され、通宗派的な枠組みが準備された。しかし凝然の『八宗綱要』では、歴史法則主義的な立場ではなく多様な解釈の登場という文脈で日本仏教の歴史が捉えられている。これは、各宗派の教えに優劣を設けなかったことから「通仏教」にとって都合が良かった。

また『大乗起信論』も盛んに研究された。『大乗起信論』では宗派によらない大乗仏教の根本的思想が表現されている。鈴木大拙は『大乗起信論』を英語に翻訳したが、これは仏教を西洋に紹介することで日本仏教を確立しようとすることでもあった。こうした「一つの仏教」を確立しようとした人として、他に福田行戒・八淵蟠龍・蘆津実全・高田道見らが紹介されている。

その一つとして、島地黙雷・蘆津実全・釈宗演・土宜法竜が手を組んで編纂した『仏教各宗綱要』は仏教を統一する歴史的な傑作として歓迎された。しかしこの本で島地は証拠も記録もないでたらめな記述を多数行っていた。仏教を国家に受け入れられるものにするために、仏教の歴史をそれらしく捏造したのである。また特徴的なのは、各宗において江戸時代をほとんど無視して、古代や中世に記述の重点を置いたことである。『仏教各宗綱要』の内実は「通仏教」を構築するにはほど遠かったが、少なくとも江戸時代を仏教の停滞と見なす観念は通宗派的な表象となった。

南条文雄の『仏教聖典』はより堅実に「通仏教」に近づいた。南条はサンスクリット語仏典を研究し、仏教が今のように分派する前の「仏教」を難解な語句を使わずに表現した。このことは、仏教への風向きが変わったことも示していた。「以前であれば仏教は「異邦」のものであるがゆえに攻撃された[が](中略)、仏教の異邦性はもはや、近代日本史にとってダイナミックな役割を担う根拠(p.302)」になったのである。

本書は全体を通じ、事実の記述が僅かでその分析や解釈は長大、というややバランスを欠いた書き方である。根拠となる事実がほんの僅かしか提出されていないため分析や解釈が妥当であるか検証することが難しく、またその方法が観念的すぎて正直なところどこまで信頼を置いていいのかわからない。

例えば、南条文雄の『仏教聖典』はそれほど大きな影響力を持ったのだろうか? いや、そもそも、「通仏教」を作るという課題は、本当に仏教界が共有した課題だったといえるのだろうか? 本書を読みながら、ところどころにそうした疑問を抱かずにはいられなかった。

ともかく本書は、ごく限られた象徴的な出来事を深く深く分析・解釈していくスタイルであるため、鳥瞰したときにその出来事がどう位置づけられるのか、よくわからないのである。それでも、少なくとも第4章と第5章は、暗中模索していたこの時代の仏教の雰囲気が伝わってくるもので、高い価値があるのではないかと思う。

また、本書を手に取る人は「廃仏毀釈」に関心がある人が多いと思うが、廃仏毀釈の記述はそれほどオリジナルには感じなかった(もっと安価で手に入りやすい類書で十分だと思う)。その上、本書の中心である「近代仏教の創出」と廃仏毀釈の繋がりもそれほど明確ではない。

そうしたバランスの悪さは感じるものの、ハッとする記述も多いのが本書の魅力である。あまり先入観のない外部からの目で廃仏毀釈や近代仏教を見るという新鮮さがあるのは間違いない。

廃仏毀釈の痛手から近代仏教が生まれゆく様子を描いた大著。


2022年4月10日日曜日

『神仏分離を問い直す』神仏分離150年シンポジウム実行委員会 編

山口大学で行われた「神仏分離150年シンポジウム」のまとめ。

本書は、基調講演と3つの発表、短い特別寄稿、討議、そして総括で構成されるものである。

基調講演「明治初期の宗教政策と国家神道の形成 神仏分離を中心に(島薗 進)」では、安丸良夫『神々の明治維新』を援用しつつ、神仏分離政策が概観される。秋葉山では僧侶と修験と禰宜が争い、小国重友という国学者が来て僧侶を追い出した、という話が興味深かった。

発題1「中世における神仏習合の世界観(真木 隆行)」では、まず仏教の世界観と神道の世界観・時間観を比較し、神仏習合が王権をどう支えたのかが述べられる。特に袈裟を着て描かれる後醍醐天皇の肖像画(清浄光寺蔵)が「大日如来と天皇との一体化が観念(p.69)」されているという指摘にハッとさせられた。

発題2「近世史研究からみた神仏分離(上野大輔)」では、安丸良夫を中心とする先行研究を整理し、改めて神仏分離を見直してみるべきであると呼びかけている。最近の研究の動向を踏まえ、仏教排斥というかつてのやや一面的な捉え方を修正し、どうして神仏分離や廃仏毀釈が起こったのかをより細かい解像度で見ることを提案した本書中の白眉である。

発題3「現代の宗教者から捉えなおす神仏分離と宗教的寛容(木村延崇(曹洞宗の僧侶))」では、長州藩の維新前の廃仏毀釈が事例紹介され、薩摩における徹底的な廃仏毀釈と比較される。また節句が新暦になって実態と乖離したことや日本人の自然観などが語られ宗教的寛容と繋げられている。

特別寄稿「狂言と神仏習合(稲田秀雄)」では、山伏狂言「梟」を中心に、狂言の中で山伏が何に祈るかを述べ、神仏習合の事例としている。

討議では、長州藩における状況をケーススタディとしながら、神仏分離政策を改めて振り返り、また会場からの質問に答えている。長州藩は西本願寺と関係が深かったことから、結果的には神仏分離政策を貫徹せず、むしろそれを抑制する方向で働いた。なお長州藩では、幕末には僧侶からなる隊が20以上あり、多くの寺院が軍事基地となっていた。寺院と軍事の結びつきはあまり指摘されていないが、より詳しく知りたくなった。

総括「神仏分離をどう考えるか(池田勇太)」では、「明治維新以前が神仏習合で、維新によって神仏分離した、というほど単純な話ではない(p.178)」とし、シンポジウムの内容を受けて、神仏分離を反仏教政策としてだけ見るのではなく、武家支配の解体や世俗化(脱宗教化:フランス革命時の反キリスト教政策との類似を挙げている)の影響など、より広い視野で捉えようと試みている。

全体として、本書はかなりコンパクトで2〜3時間あれば読めてしまうものであるが、安丸良夫や圭室文雄などの古典的な神仏分離研究を下敷きにしつつも、それを現代の知見で乗り越えようとする意欲的なものに感じた。私はこの分野はちょっと詳しいが、最近の論文の動向などと方向性が一緒であり、このように平易にまとめたことはまさに神仏分離150年を記念するに相応しいと思った。

ただし、あくまでもシンポジウムの内容をまとめたもので論文集ではないので、やや物足りない部分もある。

最新の研究に基づいた神仏分離の捉え方を平易にまとめた本。

 【関連書籍の読書メモ】
『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』安丸 良夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/05/blog-post_2.html
明治初年の神仏分離政策を中心とした、明治政府の神祇行政史。「国家神道」まで繋がる明治初年の宗教的激動を、わかりやすくしかも深く学べる名著。

 

2022年4月9日土曜日

『増補 高野聖』五来 重 著

高野聖に光を当てる本。

「聖」とは、寺院から半独立した下級宗教者で、遊行回国しながら勧進や商売を行って生きていた。本書では聖の特徴として、隠遁・苦行・遊行・呪術・世俗・集団・勧進・唱導という8つが挙げられている。高野聖とは、高野山に拠点を持っていた聖のことである。

ただし本書には、高野聖とは何か、という定義が明確には述べられていない。その特徴をまとめれば次のとおりである。

(1)多くは「別所」と呼ばれる修行のための別院に拠点を持った。往生院谷や蓮華谷、清浄心院谷といった谷ごとに集団を作っていた。(2)高野聖は民衆を相手に活動した。諸国を回って高野山への納骨を勧め、お骨を高野山に収める代わりにその費用をもらって生活していた。(3)密教一筋というよりは念仏聖であり、特に室町以降は時宗聖であった。

私にとって意外だったのは(3)で、高野山といえば真言密教というイメージがあったが、中世の高野山は念仏の山だったのである。そして高野聖たちが念仏しつつ納骨を勧めたからこそ、高野山が日本総菩提所となった。まさに霊場としての高野山をつくったのは高野聖たちだった。

しかし、高野聖たちは僧侶としての身分は低かったために普通の寺院からは蔑まれ、また高尚な教学の世界からも遠かった。よって高野聖は歴史に埋もれ忘れられてしまった。本書は、高野山を作った高野聖たちを再評価するものである。

とはいえ、高野聖が泉鏡花の『高野聖』に描かれたような道心堅固な者ばかりだったかというとそうでもない。半僧半俗の高野聖たちは時に悪行も働き、妻帯していたり、またそもそも教学の学識がないものも多かった。

しかしそういうありがたくない聖では民衆から評価されない。寺院を離れて生きた聖は、寺院から供給(くきゅう)を受けられず、勧進や商売を営まなくては生活ができないため、人々からの支持は重要だった。そのため苦行(例えば十穀断ち)や呪術(病気を治したり招福攘災の祈願)を行った。そして民衆には難しい教学は理解できなかったためか、いきおい念仏に傾いていった。特に、一人ひとりの念仏が合わさり相乗効果によって何倍もの功徳になるという「融通念仏」の考えが出てくると、高野聖はこれを積極的に活用したとみられる。

では民衆の方は高野聖の念仏に何を期待したか。もちろん往生も願ったのだろうが、それは滅罪と鎮魂の呪術であったのではないか、というのが著者の考えだ。

それでは高野聖はどうして興ったか。その起源は承仕(じょうし)や夏衆(げしゅう)と呼ばれる階級にある。高野山の寺院で教学や修行を行う僧侶たちも、当然生活をしていかなくてはならないが、その生活面・物質面を担ったのが承仕・夏衆であった。この中から行人(雑役に従事した下級の僧、山岳信仰と苦行と呪術を担った)と聖が分化していくのである。

最初の高野聖が誰なのか、はっきりとはわからない。ただ高野聖の成立にあたり重要なことは、高野山に念仏信仰が入っていったということである。高野山は山中他界の霊場であったことから浄土とみなされ、「高野浄土」の思想が形成されていった。高野山本来の密教からは念仏は異端であり、それを担ったのが高野聖であった。つまり高野山が念仏化することによって生まれたのが高野聖であるといえる。

祈親上人定誉は、もともとは興福寺の僧で高野聖ではないがその原型を作った。正暦の大火(994年)後、無住となってしまった高野山再建のために諸国を勧進し、また配下の勧進聖を都鄙に遊行させて30年かけて諸堂を造営した。しかし彼の高野山での地位は下級の客僧のままであった。

小田原聖教懐は、初期高野聖集団を形作った。彼は延久の末年(1073年)頃、小田原(今の当尾(京都府木津川市))の興福寺の念仏別所から高野山に上った。その時すでに70歳だったので往生のために高野山に入ったのかもしれないが、93歳まで生きた。その20年以上の念仏の活動の中で「別所聖人」と呼ばれる聖集団ができていき、白河上皇の御幸の際にはその代表者30人が「三十口(さんじゅっく)聖人」に補任(ぶにん)された。彼らには高い権威と料米が与えられた。

覚鑁は、真言宗的な念仏思想を確立した。覚鑁は、強大な勢力に成長していた高野聖集団の一員となるため阿波上人と言われた浄心房青蓮のところに身を寄せ、教理研究の場としての伝法院、念仏堂としての密厳院を建てた。この落慶法要には鳥羽上皇が臨席し、七所の荘園を寄進したが、これがかえって金剛峯寺を刺激して、覚鑁と金剛峯寺には武力抗争が勃発、結局覚鑁は高野山を追われた(錐鑽(きりもみ)の乱)。

覚鑁退去後も伝法院と密厳院は残ったので、この二院を中止として高野山の念仏信仰はより盛んになっていった。そして高野聖たちは金剛峯寺に対して権力と結託して対抗し、呪術によって病気を治したり、文芸や学芸の知識を高めていった。勧進を行う上で、そうしたものが有効だったからである。

平安末期の高野聖は「小田原教懐系の別所聖と伝法院・密厳院系の理論家たちに二分でき(p.123)」、「学侶をはるかにしのぐ勢力になっていた(同)」。戦乱の時代であり、戦いに敗れた武士や主人を失った従者が高野聖に合流していった。鎌倉武士で高野聖になった(と見られる)ものには、熊谷直実、葛山五郎景倫、佐々木高綱、足利義兼(鑁阿)などがいる。

また西行もその一人であった。彼は勧進僧となって遊行し、特に貴種との繋がりを利用して大口募財を行った。彼が取り組んだ勧進には、元興時極楽坊、蓮華乗院などがあり、重源の東大寺再興勧進にも参加した。

俊乗房重源明遍僧都が高野山に入山してから、高野山は専修念仏一色となるとともに納骨が全国に広まり、高野聖の全盛期を迎えた。本書ではこの頃を中期高野聖と呼んでいる。

重源は請負師的な起業家精神で東大寺再興勧進を遂行した。本書には室生山舎利盗難事件という、後白河法皇とグルになった自作自演的な盗難や、頼朝のさらなる支援を引き出すため敢えて逐電した事件などが記述されるが、そうした事件を見るにつけ、目的のためには手段を選ばない老獪な人物であったことが窺える。しかし彼はガメツく利益を求めはしたが自分自身は無一物で勧進で得た全ては莫大な量の作善に散じた。

なお勧進においては、寺院から出てきたという証明書となる「勧進帳」を持ち、大師像の入った笈(おい)を宗教的シンボルとして負う必要があった。寺院から離れ庶民に交わるからこそ、そういうものが必要だったのである。また金品ではなく木材など現物による寄附の場合は、東大寺の札さえあれば村人の無料の奉仕で村から村へ国から国へと運ばれて奈良に着いたという。

明遍は、しばしば「高野聖の祖」と言われる。中期高野聖には蓮花谷聖萱堂聖千手院聖があったが、このうち蓮花谷別所を創始したのが明遍である。重源も蓮花谷聖の一人であった。明遍は名門の生まれであったが東大寺で得度し、家柄からは当然座主・別当にのぼるべき身なのにも関わらず高野山に入り、専修念仏の生活をした。法然に帰依したといい、法然の滅後その遺骨を生涯頸にかけていた。明遍は家柄の高貴さから高野聖の偶像になり、明遍系の念仏が高野山にこだまするようになった。また蓮花谷聖たちは高野山への納骨を一般化した。

萱堂聖の祖が法燈国師、心地覚心である。彼は臨済宗法燈派の開祖でもある。彼自身は高野聖ではなかあったが、晩年に帰依した弟子に自分と同じ「覚心」の諱を与え高野山に上り萱原で念仏せよと命じた。以来、萱堂聖の頭目は代々心地覚心の分身として「覚心上人」を名乗った。なお一遍は法燈覚心の印可(悟ったことの証明)を得たという伝説がある(『法燈行状』)。法燈覚心の信仰は禅・密・念仏の混合であり、その真言(密)と念仏を受けたのが萱堂聖であった。また普化宗の祖梵論字(ぼろんじ)を宋から連れてきたのも法燈覚心だという(『虚鐸伝記』)。

法燈覚心の死後、萱堂聖は時宗化して遊行廻国・勧進唱導・念仏賦算をするようになった。萱堂聖は唱導の文学と芸能に特色があり、高声念仏と鉦叩念仏の他に踊り念仏も行った。鎌倉になるとこれに狂言も加わった。 

千手院聖は3つの集団の中で最も遅く成立し、後期高野聖を代表するものである。千手院の開創は不明だが、ともかくここを中心に鎌倉時代末から南北朝期に時宗聖が集まってきた。そして千手院聖が次第に高野聖の他の集団を吸収して、室町時代には全て時宗聖となった。こうして高野聖はかつての苦行と隠遁を捨て、「遊行と勧進と世俗生活に没頭(p.245)」。時宗聖たちは踊り念仏を行い、また幅広い芸能(和歌・連歌・能楽・田楽・狂言・茶道・作庭等)の担い手になった。同時に、「時宗寺院は風呂や料理や旅宿を経営して遊興の場と化するような卑俗化がおこり(p.246)」高野山の評判を貶めたが、彼らが高野山の宿坊制度を完備していく役割も果たしたようだ。

大永元年(1521)、高野山が全山焼亡(じょうもう)すると、その再建のために阿本・阿純の勧進聖が勅許を得て43年にわたる勧進活動を始めた。彼ら自身は穀断木喰の苦行僧であったが、有象無象の聖が再興勧進に参画したことで高野聖の評判はよくなかった。さらにただでさえ時宗は高野山の伝統からは異端だったので排斥された。

そして高野聖の質が低下し、また生活が困難になったことで、さらに高野聖は世俗化していった。結果として商聖(あきないひじり)化、定着化、悪僧化が起こった。高野聖は勧進に際して、経帷子(引導袈裟)を配って(実質的には販売して)いた。引導袈裟とは、これを着て死ねば往生できるという、お経が印刷された紙製の袈裟である。また弘法大師の旧御衣の切れ端も売っていたようだ。こうしたことからか、高野聖は結果的に呉服屋になっていった。

定着化については、洛中洛外図などの絵図に描かれた高野聖の笈が次第に形式化していくことによって判断できる。悪僧化については、例えば盗み出した仏像を寺院に売りつけるなどスキャンダルが多くなり、室町末には高野山へ上らない高野聖も出てきた。こうしたことは中世人の遊行僧に対するホスピタリティがだんだん冷たくなってきた結果でもあった。聖が「宿を借ろう」と呼びかければすぐに誰かが泊めてくれる、という状況ではなくなってきたのである。むしろ「宿借り聖」とバカにされた。

このようにして高野聖は徐々に弱体化していったが、廃絶の決定的な契機となったのが信長の高野聖成敗事件であった。信長は畿内近国徘徊の高野聖1383人を捉えて処刑したのである。これは高野山行人が足軽たちを殺したことがきっかけだったが、「高野聖が関所通行御免を悪用して隠密をはたらいたためともいわれている(p.268)」。

さらに高野山では、行人、学侶、聖(時宗聖)による三つ巴の勢力争いがあった。豊臣政権下では学侶の勢力が強くなったが、徳川政権では時宗聖が勢いを盛り返し、聖たちは大徳寺以下三十六道場を学侶方・行人方と同じ屋形造りにし、破風に狐格子を打った(大徳寺は高野聖の本寺で諸国聖方触頭をつとめていた)。慶長11年(1606)、これに怒った行人方は大徳寺を襲撃。この争いは幕府に持ち込まれ、家康は「全高野聖は時宗を改めて真言に帰入し、四度加行(けぎょう)、最略灌頂を受けるよう命令(p.22)」した。こうして高野聖は僅かな例外を除いてその歴史を閉じたのである。

なお、高野山に帰ることができなくなった高野聖たちは、「願人坊主」などとして最下級宗教者として生きたようだ。

本書を読みながら疑問だったのが、高野聖はなぜ時宗化したのか、ということだ。聖は「自活」する必要があったから、当時流行のムーブメントである時宗を取り入れただけにすぎないのかもしれないが、高野山という器は時宗とどう接続したのか。高野山と時宗のいいとこ取りをしたのが高野聖だったのだろうか。それとも真言密教には時宗と接続する必然性があったのだろうか。

もう一つの疑問は、高野聖に終止符を打った家康の裁断である。なぜ徳川の菩提寺である大徳寺を襲撃した行人方ではなく、逆に襲撃された聖方を処罰したのか。しかも江戸幕府は遊行に便宜を図るなど時宗を保護していたのに、高野聖を時宗から除いて真言に帰入させたのはなぜか。本書には詳らかでないが、高野聖は徳川が保護の対象としていた時宗とは少し異質な部分があったためなのかもしれない。

本書は浩瀚なものであるが、それでも高野聖の複雑な世界を概観するに留まっているため、細かい所ではいろいろと疑問も湧いた。また元が学術論文ではないために、出典が最小限で注もないのはやや物足りない。しかしそういう点もあるにせよ、忘れられた高野聖の世界を甦らせた功績は大きい。

高野聖を語る上で必読の名著。