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2021年5月15日土曜日

『世界古典文学全集 19 諸子百家』貝塚 茂樹 編

諸子百家の思想の概観。

本書は、諸子百家の思想家の中から、墨子、荀子、管子、韓非子、孫子の5名を選んで、著作から主要な部分を日本語訳したものである。なお本書で収録されていない諸子百家(の主なもの)は、儒家本流(孔子・孟子)と道家(老子・荘子)である。

そもそも諸子百家とは春秋戦国時代に活躍した思想家であるが、実際には今のコンサルに近いもので、各国を遊説して政治経済政策を説いていた。

そこで説かれていることは、紀元前の社会への言説であるにもかかわらず、びっくりするほど現代に通じるものがある。人間の社会は、2000年以上経ってもそんなに変わっていないということのようである。 

春秋戦国時代というのは、非常なる乱世であった。それまでの安定した社会の仕組みが壊れ、戦争につぐ戦争の果てに社会が再構築されていく時代である。こういう時代背景は、今の世の中にも通じる所があるかもしれない。本書のような本は現実の社会には役に立たないもののように思うかも知れないが、決してそうではないと思う。

本書はもちろん気になる思想家のみを読むのでも十分に面白い。それに小さい活字の上下二段組み450ページは結構な分量だから通読を躊躇う人もいるだろう。しかしそれぞれの著作は抄訳であるため、読むのは意外と大変ではない(原著の半分〜2/3くらいになっている。ただし「孫子」は全訳)。諸子百家の主要思想がこの一冊で概観できると思うと、労力的にもかなりお得な本だと思う。

本ブログでは既に本書の内容それぞれについてメモを書いてきたが、以下簡単に紹介する(リンク先は読書メモブログ記事)。

墨子
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/11/19.html
実利と鬼神とが奇妙に同居した、不思議な「有神論的功利主義」の書。 

荀子
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/11/19_23.html
科学的な思考によって儒学を再解釈し、環境や努力の重要性を謳う、乱世を生きる力強い思想の書。

管子
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/02/19.html
現実的な人間理解の上に構築された政治経済学。法治主義の思想は近代的ですらある。しかし論文集的であるため一貫性はなく、通読するにはちょっと冗長。

韓非子
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/05/19.html
人間不信の君主論。絶対主義国家を構築するための冷徹な政治経済学であるが、それを実行する君主もまたロボットのように非人間的であらねばならないという救いのない書。

孫子
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/05/19_14.html
記述の態度が当時としては非常に新しい。故事ではなく論理性によって説明するのが現代的。最高の兵法書。

【関連書籍の読書メモ】
『大学・中庸・孟子』金谷 治・湯浅幸孫・日原利国・加地伸行 訳(世界文学全集 第18巻)
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/08/18.html
儒教の重要な古典。日本においても、中国においても、思想史的な位置付けが興味深い独特な古典。

★Amazonページ
https://amzn.to/3UqbRbU

2021年5月14日金曜日

『孫子』貝塚 茂樹 訳 (『世界古典文学全集 19 諸子百家』所収)

孫子の思想。

本編は『孫子』の全訳である。『孫子』は思想書ではない。あくまで兵学書である。火攻めにする時はどうするかとか、どのような地形で攻めるべきか、退却するべきか、といったような戦いの細かい話もある。

ところが、諸子百家の様々な思想を読んでから『孫子』を読むと、これが紛れもなく新しい時代の「思想」のように感じられるのである。

その新しさは、第1に説明が論理的で全く故事に頼っていないことである。儒家はもちろん諸子百家の全てが、何かを説明する時は必ず故事(歴史)を持ち出す。歴史はあまり参考にならないと考えているらしき『韓非子』でさえも、やはり故事を踏まえて自らの主張をしている。しかし孫子は故事など全く使わない。歴史に疎かったのでなければ、自らの理論によほど自信があったのだと思う。そして故事に頼らず論理のみによって説明するため、文章が非常に簡明である。

第2に、観念論や名分論を廃した、実証・現実に立脚する態度である。例えば「戦争の原理から考えて将軍が勝てないと判断したならば、君主がぜひ戦えといっても、戦わないほうがいいのである」というような言葉は当時の言論の中では衝撃的である。「君主を諫めた方がいい」ならばあるが、将軍の判断で勝手に君主に背いてもよいというのは他の諸子百家の思想には存在しない。『韓非子』であれば、君主に背くなどそれだけで死刑になる。では『孫子』ではなぜこういうことを言うか。それは単純で「そのことがまた君主にも利益になる。そういうことができる将軍はじっさい国家の宝ということができるであろう」からだ。負け戦はしない方がいいに決まっている。君主がいくら戦争をしたくてもだ。そういう当たり前の価値判断をするところが『孫子』が革命的に新しい点である。

第3に、具体的な戦争の仕方を述べているにもかからず、言葉が妙に(?)普遍的であり、いろいろな応用が利く記載が多いことである。「たたかいは国の大事[…]であるから、事前によくよく調査が必要である」「戦争上手も、敵に敗けない態度をつくることはできるが、敵をして敗かされる態勢をとらせることはできない(常に負けないことはできるが必ず勝つということは不可能)」といったようなことは、非常に応用力が大きな言葉だと思う。そうであるのも、『孫子』の表現が本質をズバッと突いるからだ。『孫子』のいうことは、ある意味では当たり前のことばかりであるが、それを素直に表すところが新しい。つまり『孫子』の新しさは思想よりも、その「態度」にあると言える。

古来、孫子が最高の兵法書とされたのも納得である。

 

2021年5月13日木曜日

『韓非子』本田 済 訳(『世界古典文学全集 19 諸子百家』所収)

韓非の主要思想。

本編は『韓非子』全55編の中から、主要な30編を日本語訳したものである。韓非は中国の戦国時代の末期、韓の公子として生まれた。彼は荀子の弟子となったが、生まれつき口が吃りでうまく喋れなかった。華麗な弁舌で思想や政策を説く儒家や墨家が貧窮の徒であったのとは対照的で、この境遇はその思想にも反映しているものと考えられる。

韓非の思想を一言でまとめれば、「人間不信の君主論」である。

韓非は、人間を利己的存在だと見なした。であるから信賞必罰以外にはその行動はコントロールできないのだという。儒家のみならず、多くの思想家が仁義礼智といった道徳によって社会規範を確立しようとしたのに比べ、韓非はそういった内面的なものを一切信じない。信じないどころか有害なものと見なす。君主はアメと鞭によって臣下を使役すべきであるが、もしそうしたものに靡かない臣下がいれば、それは殺してしまうしかない、と韓非は述べている。人間の良心や内面的な欲求というものを徹頭徹尾信じなかったのが韓非である。

しかし韓非がそのような人間不信に陥ったのも無理はない。当時は戦国時代の末期であり、血で血を洗う戦争が行われていた。しかも政治は混乱しており、有能で廉潔な士が冷や飯を食わされる一方で、自己の利益しか顧みない口先だけの奸臣が君主に取り入って幅をきかせていた。本来政治に携わるべきでない無能で有害なものが私利私欲のために国家を食い物にしていたのが韓非の時代であった。韓非の憂憤はその文章のみでも伝わって余りある。

では、一体どうすれば君主はそのような奸臣に蝕まれずにすむか。韓非に依れば、まず君主は誰も信じてはいけないという。たとえ家族であってもである。子に裏切られて弑されることも多いのだから、わが子すら警戒しなければならないし、愛妾などもってのほかである。

そして自らの好みや感情を表すことなく、常に冷徹で冷静でなければならない。なぜなら君主の好みが明らかになると、それに合わせて取り入ろうとする奸臣が出てくるからである。さらに臣下に対しては徹底的に言行一致させる。口だけうまくて何もしない無能な臣下を排除するためである。ただしこれは簡単ではない。臣下は君主に都合の良い報告しかしないからだ。であるから、君主は臣下の言葉が真実であるか検証しなくてはならない。そして計画されたものより成果が足りなかったらもちろん処罰し、多くても処罰する。計画以上に達成するのも言行不一致であり、それは君主に対する罪なのである。

このように、韓非の考えでは君主であることは決して楽ではない。諸子百家の他の思想家と違う点はここである。韓非と同じ法家の管子などは「優秀な宰相と法律の体系さえあれば、君主は何もしなくてよろしい。無為自然である」というようなことを言っている。儒家などもこのような調子で、「君主の仕事は人事であり、優秀な人材を配置したら後は君主の仕事はない」というような主張がある。これらの主張は、君主の責任を人事や立法に限定するものだから、君主にとっては都合がよかったに違いない。

ところが韓非では、国家運営の究極の責任は全て君主にあり、国が栄えるも滅ぶも君主次第、もし国が傾いたとすればそれは君主が悪い、と君主の責任を糾弾する姿勢が鮮明である。こういうことを遠慮仮借なく主張したのが韓非らしいところである。これは韓非が公子という身分であったためだろう。

しかし君主やそれを取り巻く重臣にはこのような正論が受け入れづらいことは韓非にもよくわかっていた。「説難(ぜいなん)」という篇には、政策を説く危険性が縷々述べられている。君主が元来持っている性向と合致しない政策は、いかに正しいものであっても受け入れられる可能性は少ない。それどころかそういうことを説く論客は我が身を危うくすると警告している。そのような危険性を十分認識していながら、使節として秦に赴いたとき韓非自身がその非運にあって、あろうことか相弟子の李斯に殺されてしまうのである。

ただし、それは秦の王(後の始皇帝)に疎まれたためではない。それどころか秦王は『韓非子』の「孤憤」と「五蠹(ごこ)」の2篇を読んで「この作者に会えるなら死んでもよい」と述べたと伝えられる。李斯は韓非が秦王に重用されるのを怖れて殺したのである。実際、秦王が始皇帝になると韓非の政治理論は実行に移された。李斯の文章や、その筆と考えられる始皇帝の告諭を見ると『韓非子』の剽窃に近いものが感じられるという。

始皇帝が実行した『韓非子』の政治理論の中心は法治主義である。『韓非子』では、法を厳密に実行することによって統治する方策が述べられている。しかし他の法家との大きな違いは、法を至上のものとするのではなく、あくまでも統治の道具と見なす考えである。『管子』では、緻密な法体系があれば君主のやるべきことはなにもなく、むしろ君主すらも法令に従う必要があるとしていたのに、『韓非子』では立法と行政はどちらが欠けてもだめで、また君主は法の上に君臨しなければならないと考えている。

法家思想の流れを考えると『韓非子』はその集大成に位置するのであるが、法の下の平等など近代法学に合致するのは『管子』の方で、『韓非子』はそういう近代法学的な部分は却って後退して、法が政治理論の一つの道具になっているように見受けられる。韓非にとっては君主絶対主義が重要で、法治主義はそれを支えるものに過ぎなかったようだ。

私は『韓非子』を読みながら、他の諸子百家の思想家と比べ何か物足りなさを感じざるを得なかった。文章は憂憤の情に溢れて激越であり、説得力も高い。特に始皇帝が唸った「五蠹」などは非常なる名篇である。しかしながら、その人間理解の皮相さに、「本当にそうだろうか、人間とは?」と自問してしまうのである。韓非によればほとんど全ての人間は利に従って行動するという。であるにしても、手近にある小さな利益と、辛抱して得られる大きな利益を比べた時にどう行動するかは千差万別であろう。利益を求めるにしても、何の利益をどのように求めるかを考えなくては人間の行動は理解できない。

しかし『韓非子』では、皆がみな刹那的な利益ばかりを求めるとでも言わんばかりなのである。もちろんこれは韓非の生きた時代が戦乱の世であったことによるのだろう。人々が刹那的な生き方をするのも当然である。ところがここに一つの矛盾がある(←ちなみに「矛盾」という言葉は『韓非子』が出典)。韓非の言うような統治を行うとして、それで君主が得られる利益はなんなのかということだ。

韓非の描く君主像は、とても幸福とはほど通い。誰も信じず、愛さず、好みは隠し、安逸を許されることもなく、冷徹で、お気に入りの臣下を贔屓することもできない。まるでロボットのような君主を演じなくてはならないからだ。ではそうした人間を演じることで、君主の得られる利益は何なのか? 『韓非子』によれば、それはひとえに他国に勝つということなのである。確かにそれは大きな利益には違いない。だが普通の君主は、贅沢をしたり美姫をかしづかせたり、親族の栄達を図ることに実際の利益を見出しており、他国に勝つというのはそのための方策に過ぎない。『韓非子』の人間不信を君主に向ければ、当然君主すらそうした卑近な欲望に従って生きているとせざるを得ないのである。

だが『韓非子』では、君主は他国に勝つということを第一の利益として、それ以外の人間的喜びを全て放棄した存在として描かれている。そのようなことがあるだろうか? ありうるとすれば、他国からの脅威を警戒している最中だけだろう。『韓非子』の説く政治理論はきわめて現実的であるにも関わらず、その君主像は空想的ですらある。

つまり『韓非子』では、人間をどう見るかという視点が一貫していない。だから『韓非子』は「人間の学」として見れば破綻していると思う。韓非は、古の聖人の統治は立派なものであったとしながらも、「世異なれば事(こと)異なる」と言って、そのような統治は今の世には現実的でないと言う。古の聖人のような立派な君主は今はいないし、民衆の方も昔とは違ってしまっているからだ。だから凡庸な君主でも実行可能な政治理論が必要だというのである。

それなのに『韓非子』の描く君主は、およそ不可能なほどストイックに統治を行うロボットのような人間にならざるをえなかった。それが『韓非子』のいきついた矛盾であったのである。

諸子百家の君主論の究極であるとともに、皮相的な人間理解に限界を感じる悲劇の書。


2021年2月24日水曜日

『管子』西田 太一郎 訳(『世界古典文学全集 19 諸子百家』所収)

管仲に仮託された政治・経済政策の思想。

管子(管仲)は、中国の春秋時代、斉の桓公を補佐して国を富ませた名宰相であった。それに続く戦国時代、斉では学者を優遇して、大夫(家老)の待遇を与えて専ら学問に専念させたが、それに応じて天下の俊英が斉に集ってきた。こうして斉には「稷下の学士」という学問集団が成立する。

そして彼らの著作が、古代の管子に仮託して編纂されたのが『管子』である。なので、『管子』といっても管子が書いたわけではなく、管子を名義上の編纂者にした論文集であるといえる(なお本書は抄訳)。

その内容は、少なくとも数人の手によるもので、しかも時代的にも長くかかって編纂されたものであるだけに、雑多であり首尾一貫しているわけではない。しかし基本的な方向性として言えるのは、「現実的な人間理解」である。

『管子』は儒教道徳を肯定する。しかし、君主の徳が人民を感化する、といった空想的なことは言わないし、君主は徳を備えているべきだとしながらも、それはあくまで統治上の必要性によって説明される。

まさに『管子』を特徴付けるのは「倉廩(そうりん)実(み)つれば則ち礼節を知り、衣食足れば則ち栄辱を知る」(倉庫が満ちてから礼節を知るようになり、衣食に事欠かなくなって栄誉と恥辱の違いを知るようになる)という言葉が象徴する現実主義である。

人々が君主を慕うのは、君主に徳があるからではなく、君主が善政を敷いて国が富み栄え、自らの生活が豊かになるからだ、というのが『管子』の人間理解である。そのため、諸子百家の中では特異なことに『管子』では経済政策が多く述べられる。例えば、特産物(塩や黄金)の専売制、物価の安定政策(騰貴した時に政府が買い上げて安く払い下げる)、流通を盛んにする方法といったものである。

そして、人々が国家のいうことを聞くのは、君主の徳によるのではなく、信賞必罰によるのだと『管子』は見る。良いことをした人間には褒美を与え、悪いことをした人間には厳罰を加える。しかも、それを君主の気まぐれで行うのではなく、全てを法令に基づいて公平に行うことが重要である。そうすることで、人々は定められた法令を遵守して、国家の秩序が守られるのである。

さらには、君主すらも法令には従う必要がある。というよりも、緻密に組み立てられた法令の体系さえあれば、君主の行うべきことはほとんど何もなくなる。よって『管子』の思想は、法家的な法令万能主義を基盤として、ついには道家的な無為自然に近づいていく。法令さえ備えれば、全ては滞りなく流れていき、君主は何もせずに天下が泰平となるのである。

このように、国を富み栄えさせるための経済政策、人々を教導し社会を運営するための法令、それを実行するための信賞必罰が『管子』の基本路線である。「無為自然」はともかくとしても、その人間理解に基づいた政策の提案は非常に現代的である。少なくともその問題意識と立論の仕方は現代でも十分に通用するであろう。

ところが『管子』には盲点ともいうべき空白がある。それは、『管子』は「法令」を重視しているのに、それがどうあるべきか一切述べていないことである。例えば、ソクラテスは「悪法もまた法なり」と言ったが、『管子』においては悪法がありうることが全く想定されていない。しかし現実の世界では、政策立案者の思惑と、法律がもたらした結果が齟齬していることはよくあることだ(古代においても)。しかし『管子』では、法令さえ厳重であれば社会は公正に運営されるだろうとウブに考えている節があり、法令そのものの良し悪しをどう判断するか全く思索されていない。

もっと言えば、法令はいかにして定めるべきか、どうやって布告すべきか、といった法令を定めるプロセスについても一切の検討はない。『管子』の著者たちはどうやれば「公正な法」が立案できると考えていたのだろうか。こうした点において『管子』はやや空想的な雰囲気があり、その現実的な人間理解とは裏腹に、法については非現実的なほど安易に考えていたようだ。

しかしながら、他の諸子百家の著作が強烈なバイタリティーと個性に彩られた(当時としては)過激な思想を表現しているのとは違い、論文集であるためもあって内容は穏当であり、その思想を全面的に承認しなくても、部分的に政策に生かしていけるという柔軟性を『管子』は持っている。古来、経済思想の基本として重んじられたのも当然であろう。

現実主義的な人間理解に基づく古典的政治経済学。

 

2020年11月23日月曜日

『荀子』常磐井 賢十 訳(『世界古典文学全集 19 諸子百家』所収)

荀子の主要な思想。

荀子の時代、つまり紀元前300年前後は、戦国時代の末期であり、社会は乱れに乱れていた。それに先立つ春秋時代では、戦も名乗り合う一騎打ちのようなものが行われていたが、戦国時代には集団戦となり、殺し合いは大規模になった。だまし討ちや権謀術数、下剋上が横行し、社会の秩序は全く失われてしまっていた。

そんな中、斉という国では、学者を優遇して国都臨淄(りんし)の城門の一つである稷門のそばに邸宅を与え、大夫(家老)の待遇を与えて専ら学問に専念させた。そうして、鄒衍、田駢・淳于髠(じゅんうこん)、慎到などの英才が集まってきて当時の学問の中心となった。この集団を「稷下の学士」という。荀子はこのころ斉にやってきて「稷下の学士」に加えられ、3度もその首席に選ばれた大学者であった。

こういう環境の中で、荀子の思想は磨かれた。その思想の核心は「礼」である。

荀子は、人間には欲望があり、快楽を好み、利己的な存在であることを認める。であるから、そうした性情が何の規制も受けないとすれば、互いの欲望や利害が衝突し争いが起こらずにはおれない。よって「礼」に従って欲望を充足させることで秩序を守る必要があるのである。ここで注意すべきは、荀子は「欲望の充足」自体は否定していないということである。「礼」は何かを我慢することではなく、「欲望の充足」を目的としつつ、それをスマートに実現するものであるらしい。私は、「礼」は「作法」であると理解するのがよいのではないかと思った。

また、荀子は人間は誰しも生まれつきの能力は一緒だという。聖人も賤人も、持って生まれた能力に何の違いもない。しかし聖人は努力して能力を身につけ、賤人は努力することができないから結果として人間の違いが生まれるのである。よって優れた師に出会い、日々たゆまず学び、向上していくことが必要である。だから人間には環境こそ最も大事なものだという。荀子といえば「性悪説」が有名であるが(ただし、本編にはあまり「性悪」とはでてこない)、「性悪説」の行き着くところの結論として、環境や努力の重要性が力強く謳われているのである。

しかし、この思想から当然導かれるべき「人間の平等」が荀子にはない。荀子は階級の差別を肯定する。「誰しも生まれつきの能力は変わらない」といいながら、身分差別を肯定しているところが荀子の思想の不徹底な点である。全体的に、荀子の思想には新しい社会を建設していこうという気迫に乏しく、むしろ既存の社会の仕組みを肯定した上でそれをいかに平穏無事に運営させていくかという視点が強い。もちろん、これは読んでいて何か物足りない。しかし、荀子の時代は、戦国時代の中でも社会が非常に混乱していた時である。おそらく荀子には新しい時代を建設するよりも、社会秩序を維持したいという思いが強かったのだろう。

一方、荀子の思想にも革命的な点がある。それは、日蝕や月蝕、天災といったものを天意と認めず、単なる自然現象と考え、また占いを否定したことである。天は人治に相応して働くという「天人相関」の思想は伝統的に儒家の奉ずるところであったし、筮竹や亀卜によって天意を伺って政治を行なっていくのが古来のあり方だったが、荀子においてはこれが全く否定され、のちの法家へ続く道が開かれたのである。さらに全体的な立論の進め方においても帰納的に論拠を積み重ねていくことが多く、これは「科学的」といってもいい態度である。

しかしながら、荀子の思想には決定的な弱点がある。それは、彼の思想の核心である「礼」について、なんら批判的に検証していないことである。荀子はいつでも「礼」を根本に置く。では一体「礼」とは何であるか? 荀子はそれについて詳しく説明することはないのである。おそらくは、当時の人には「礼」とはこのようなものだ、ということが自明だったので詳らかに説明する必要を感じなかったのだろう。しかしこれは、当時の人の「常識」に頼った思想だと言わざるを得ない。

例えば、「礼論編」において、荀子は葬礼の重要さを力説している。儒家では父母の喪を足掛け3年(正確には25ヶ月)としており、これが長すぎるとの批判があり、特に墨子は葬礼を無意味だと論難した。これに対し、荀子は葬礼が社会秩序を維持するものであるとして擁護する。それの当否は措くとしても、どうしてその葬礼が成立したのか、3年の喪にどのような意味があるのか、そうしたことを検証せずに、無批判に旧来の習慣を肯定したことは不徹底であったと思う。常識に挑戦した墨子との大きな違いである。

とはいえ、荀子の生きた社会は、墨子や孟子の頃よりもずっと乱れていた。むしろこれまでの常識が通用しなくなってきた社会であった。為政者の質は落ち、その場しのぎの政策で民は疲弊していた。であるから、荀子には思想的一貫性よりも、社会秩序の維持を重視する傾きがあるのは無理からぬことである。

そして、そのような社会の様相は現代にも通ずるものがあり、特にその君主論は今にも十分に通用する。例えば荀子は言う。「聡明な君主は立派な人物を求めることに努力するのであるが、暗愚な君主は権勢を得ることに努力する」、「つまらぬ人物を重く用いて人民の上位において威光を振わせ、巧みに口実を設けて取るべきでないのに民衆から財貨をだまし取る。これが国を傷つけそこなう大災厄である」「聡明な君主は臣下と力を合わせることを好むが、愚かな君主は何もかも自分一人ですることを好むのである」、「君主の政治のしかたは、明るいのがよろしく、暗いのはよろしくない。開放的なのがよろしく、秘密的なのはよろしくない」云々。

なお、荀子の文章は論理的であるが、かなりくどくどしたところがあり、論旨の繰り返しも多く長ったらしい。人を説得せずにはおれない力強さはあるものの、大文章であるためそもそも『荀子』を読む人自体が少ないように思う。今の時代には向かない古典かもしれない。

本書は、『荀子』からその主要思想を伝える諸編を選んで日本語訳したもの。日本語訳自体はわかりやすいものの、注が語義の説明のみに留まり、簡単なのが残念である。もう少し解説的な部分もあれば理解の助けになったと思う。

思想の中心「礼」が弱点だが、乱世を生きる力強い思想の書。


【関連書籍の読書メモ】
『墨子』森 三樹三郎 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/11/19.html

古代に「有神論的功利主義」を説いた独創的思想家の書。


2020年11月4日水曜日

『墨子』森 三樹三郎 訳(『世界古典文学全集 19 諸子百家』所収)

墨子の主要著作。

中国の春秋戦国時代(紀元前5世紀の前後200年くらい)、諸子百家と呼ばれる様々な思想家・学派が現れた。彼らは現代でいう思想家ではなく、戦国の世で他国よりも富国強兵を実現させるための政策コンサルタントのような存在であり、諸国を遍歴してその政策を説いた。

今では失われてしまった思想も含め、多くの主義主張が競ったが、その中でもまとまった集団をなしていたのは、儒家と墨家だけだったそうだ。この両者は個人のコンサルではなく、多くの弟子を諸国に派遣するシンクタンクのような存在であったといえる。

しかし、その後の中国の歴史に甚大な影響を与えた儒家とは違い、墨家たちは秦漢の統一時代に入ると雲散霧消してしまい、その思想は後代に伝わることがなかった。それどころか墨子の著作はほとんど無視され、清朝末に至る2000年の間、忘れられるという「絶学」の悲運を味わったのである。

このような次第であるから、墨子の著作は完全な形では伝わっていない上、本文の混乱が激しく、難読中の難読の書とされてきた。また後代の人が追加した部分を含み、墨子の伝記的事実も明らかでない。本書は、墨子元来の著作と見られる部分を中心として主要な諸編を日本語訳したものである(原文は省略されている)。

ではその思想はいかなるものであったか。墨子の原思想を表していると見られる本書所収の諸編のタイトルから、その枢要な内容をメモしてみよう。

尚賢:政治の根本は、義を貴ぶ賢者を任用することである。それには身分の高下は関係ない。(当時において身分制を否定したことは革命的な意味がある。)

尚同:天子の政治は、天下の人々の考えを同一化しなくてはならない。そのためには国や郷里は統一的な考えで信賞必罰を行うべきである。(今から見ると全体主義的な部分を含むが、むしろ民約論に近い内容である。要するに、君主独裁ではなくて人々の考えを君主に帰一させなくてはならないと墨子は言う。)

兼愛:天下の人々が全て愛し合わなければ、強者が弱者を、富者が貧者を、貴人は賤人を食い物にするに決まっており、もしそうなれば社会全体の利益が失われるのだから、博愛の精神で愛し合い、互いの利益を図るべきである。これは非常に難しいことのように思うかもしれないが、例えば戦の時に死の危険を犯して攻め込むようなことに比べてずっと易しいことだ。(墨子は当時のインテリとしては例外的に天帝や鬼神の存在を信じており、それが墨子の思想の根本をなしている。しかしながら兼愛という博愛思想は、キリスト教のそれのような宗教的な価値ではなく、実利面から説かれていることが著しい特徴であり、また意外な部分である。)

非攻: 戦争では仮に勝ったとしても利益は少なく、損失は多いのだから、侵略戦争は行なってはならない。攻戦して滅びた国がたくさんあるという事実を見てもそれは明らかだ。(兼愛の思想から非攻が導かれるのではなく、実利的な理由で侵略戦争が否定されているのが特徴。)

節用:実用的なもの以外は作るべきではない。国が無用な奢侈品ばかり作って民の生活に役立つものを閑却しているから国が富み栄えないのである。(国家財政のあり方を述べたもので、有用な事業のみに税金を使うようにという意味である。)

節葬:葬式を豪華にしたり、長い間(儒家によれば最長3年)喪に服するのは無意味なのでやめるべきだ。(当時の庶民には葬礼のため破産するものがいたり、王公の場合は多数の殉死者を出したりしたからそれを否定したもの。葬礼をになった儒家への対抗の意味もあったのかもしれない。しかし祖先祭祀を重んじる中国では、「節葬」は墨家への最大の非難の的となった)

天志:天の摂理(天志)に従わなくてはならない。天は、君主が善政を行い、民衆が仕事に務め、強者が弱者を助け、平和に暮らすことを求めている。これに適う行いをするのが天の摂理である。(墨子は天志を義の根本原理に据えているが、その内容はやや恣意的なもののように思われる。)

明鬼:鬼神、天神は実在する。歴史を紐解けば、古代の聖王たちはみな鬼神を信じ、実在するものとして行動しており、その存在は明白である。いつでも鬼神が我々の行動を監視しているのだから、誰も見ていない場所でも行いは正しくせねばならない。(諸子百家で有神論を主張したのは墨子のみである。鬼神の存在は墨子の思想の核心であった。)

非楽:音楽を奏することは君主にとって無駄な奢侈である。(墨子は音楽の楽しさ、美しさは否定していない。当時は壮麗な音楽を奏でることが重要な政務のごとく行われ、特に儒家が音楽を政治・道徳を高める手段としていたことが背景にある。しかしそれだけに墨子の「非楽」は非難された。)

非命:運命、宿命といったものは存在しない。運命論を信じてしまうと、努力が無意味となり、正しい行いをしなくなる。過去の聖王も運命論は否定している。未来は自分の行いによって変えられるのである。(「天志」と「非命」は内容的に近い。ただし、墨子の考える鬼神(天)は、行いによってすぐさま応えてくれるようなものではなく、大局的な動きを左右する存在のようである。この性格から、例えば「不幸のうちに死んだ義人」がいるからといって鬼神の存在は否定されない。)

以上、簡単に墨子の思想をまとめてみた。全体を通じて特徴的なことは、鬼神の存在を主張したり天志を根本としたりしている割には、実利を非常に重視して立論していることである。これは功利主義的といってもいいであろう。兼愛や非攻といった墨子の中心思想は、ベンサム的な「最大多数の最大幸福」の原理から導かれるものだったのである。

実利を基準に考えているため、墨子においては「義」の内容が儒家に比べてずっと具体的である。全体(マクロ)に利をもたらすのが墨子にとっての「義」なのである。今の言葉でいえば「公共の福祉」を基準に政策論を考えたのが墨子だといえる。

しかしながら、墨子は様々な主張において過去の聖王(堯舜禹湯)の行いを根拠としている。この点は対立していた儒家と同じである。運命論の否定であったり、鬼神の存在といったようなことで過去の聖王を持ち出してきたのは、実利では説明のつかないことだったからなのだろう。このことは、墨子の論理体系が完全には首尾一貫していなかったことを示唆する。墨子の思想には、実利と鬼神とが奇妙に同居していた。彼の学派は宗教の教団のようなものであったらしいが、それが戦国時代において儒家と並ぶ勢力となった一因でもあり、また滅びてしまった一因でもあるのだろう。

古代に「有神論的功利主義」を説いた独創的思想家の書。

 

2020年8月30日日曜日

『大学・中庸・孟子』金谷 治・湯浅幸孫・日原利国・加地伸行 訳(世界文学全集 第18巻)

儒教の重要な古典。

儒教には四書五経といわれる古典があり、うち四書とは『論語』『大学』『中庸』『孟子』を指す。もともと『大学』『中庸』は(五経の一つである)『礼記』の一部分であり、これを独立させて重視したのは南宋の朱熹(朱子)であった。

朱熹はこれを独立させたばかりでなく、より自らの思想が明確になるように編集しなおし、『大学章句』『中庸章句』として刊行した。特に『大学』への力の入れようは並々ではなく、完成まで10年間もかけた上、死の3日前まで改訂の筆を入れていたという。彼は章の順番を入れ替え、脱文があるとしてそれを補うなど甚だしい改変を行なっていたのである(本書には、朱熹による改変版(「章句版」という)と、原文の両方が収録されている)。

そしてもう一つの改変は、『大学』の作者を曽子だと決めつけ、孔子と関連づけたことだった。『大学』はもともと作者不明の一編であり、独立の作品として注意が払われていたわけではない。これを朱熹に先立って重視したのは韓愈であった。韓愈は儒教の伝統を、尭・舜 → 孔子 → 孔子の門人の曽子 → 孔子の孫の子思 → 孟子と考え、孟子から中絶したとした。

朱熹はこの考えを受け継いで、著作の上での系譜関係を完全にするべく、『大学』を曽子の著作としたのである。こうすれば、以前より子思の著作と考えられていた『中庸』を加えて、『孔子』→『大学』(曽子)→『中庸』(子思)→『孟子』と繋がり、儒教の伝統が連続するのである(しかも朱熹は孟子の門人から教えを受けたとしているから、自らを儒教の伝統の継承者と位置づけることもできた)。

今でこそ四書といえば儒教の聖典とみなされているが、『孔子』以外はさほど重視された著作ではなく、『孟子』ですら朝廷が尊信したのはようやく宋代になってからである。この四書を儒教の系譜を伝えるものとして強調したのは朱熹であり、特にそれを完全にするために必要だったのが『大学』だった。いわば『大学』は、孔子と孫の子思を繋ぐミッシング・リンクなのだ。

そして朱熹が『大学』を重視した理由はもう一つある。それは、有名な八条目「格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下」に代表される、個人の修養が国家の政治や繁栄と一致するという世界観であった。朱熹は若い頃仏教に心惹かれていたが、やがて仏教から離れて儒教の復興を志した。仏教では個人の内面を重視するが、儒教は政治哲学であるため個人の内面は閑却される傾向にあり、ややもすれば科挙のために知識偏重となって精神面は却って堕落していた。こうした堕落した儒学を新しい精神の学問として復興するために、朱熹は一身の修養が国家の安寧へと繋がる『大学』の思想を欲したのである。

しかし本書解説で述べられるように、個人の修養と国家のあり方は直接には繋がらない。むしろ、個人が勉強し、家を斉すことで、国家の不正義を糾弾するということもある。また、いくら個人が修養に努めても、他の国から武力によって滅ぼされることもある。八条目が実現するのは、世界の国々が善政を敷いているという、およそありえない前提の下でしかない。

ただしこれは、『大学』のみならず儒教に通底する世界観である。『中庸』においても、「人間の本性は天が人々に命じたものである」という考えの下、日常の平凡な徳を実践し、日常の平凡な言葉を慎重にすることで、やがて君子として身を立て世界が平安になる、といったことが説かれている。しかし現実の世界では、その場しのぎの姑息な人間が栄達する一方で、真面目で地道な人間が冷や飯を食わされるのがよくある話だ。『大学』にしても『中庸』にしても、個人の修養が具体的にどうやって天下の安寧に繋がっていくのか、全く述べるところがない。むしろこれらは、「世界はこうあるべきだ」という理想論なのである。

『孟子』においてもそうである。孟子は有力な儒家で、多数の弟子を引き連れて諸国を遊説したが、一時期を除いて国政に携わることはなかった。彼の主張は「善政を敷けば、民が富み、諸国から人々がやってきて国はますます強くなり、他国から尊敬されるであろう」ということで、要するに善政の勧めであった。彼は弱者保護や不正の排除といったことを主張している。特に印象深かったのは、孟子が「人民」を重視していることで、「国家の中で最も重要なのは人民」だとし、政治においては「人心の獲得」が必要であるという。これは今の民主主義とは違うにしても、人民の保護とその支持を最重要と考えたことは特筆に値する。

しかし、孟子が生きた時代は生き馬の目を抜く戦国時代であった。孟子の説く善政は、国同士が激しく争う中ではあまりに悠長な考えに見えたことだろう。現実の世界は、孟子の考える理想状態とは程遠く、力ある国が弱い国を蹂躙する野蛮な世界だったのである。であるから、孟子は各国でそれなりに扱われているものの、その献策が受け入れられたようには見えない。彼の思想は厳しい現実世界においては、やや浮世離れしていたといえよう。

ちなみに、孟子の弟子にも、そういう穿った見方をしているものがいる。それが万章という弟子である。『孟子』の中でも、万章との問答が中心の「万章章句(上、下)」は最も興味深い。例えば、「天は尭・舜に天下を与えたというが、それはどうやって与えられたのか」と万章が聞く部分がある。孟子は「天は何も言わない。その人の行動と事蹟とによって、彼に与えることを示すにすぎない」と答えるが、さらに万章は「ではどんな方法で?」と聞き返す。これに対して孟子はいろいろ屁理屈を述べている。しかしあまり説得的ではない。孟子の世界観の中では、正しい君子には天命が下り、天下を手中にするのであるが、具体的にそれがどのような手続きで実現するのかというのは曖昧なのである。

中国では「天」への信仰は、西洋の「神」への信仰とは全く違った。諸子百家の時代、「天」を人格的な神として信仰しているのは墨子くらいのもので、多くは理念的な至高の存在として措定しているに過ぎない。であるから孟子が万章の問いに窮するのももっともなことだった。しかし孟子は個人の行いを正しくすれば天がそれを取り立ててくれる、という楽観的な世界観を基盤にしているわけだから、そこを曖昧のままに済ませたのは思想として徹底していなかったのは事実である。孟子の思想は、ミクロのレベルで悪を挫き善を行うことが天下の(マクロの)太平に繋がる、という途中をすっとばした思想なのである。

でも、だからといって孟子の考えが現実を無視した理想主義にすぎないかというと、そうでもない。善政の勧めだけに、不正や悪政への糾弾は当を得ており、現代の為政者にとっても耳の痛い言葉がたくさんある。事実、明の太祖は『孟子』を嫌い、劉昆孫に命じて『孟子節文』を作らせ、専制君主に都合の悪い箇所を削らせた。四書の一つにして、改竄の憂き目を受けなければならなかったところに『孟子』の価値が窺い知れる。政治が堕落して人民を省みなくなっている現在、『孟子』はもっと読まれるべき著作である。

なお、私が本書を手に取ったのは、桂庵玄樹から始まる薩南学派(戦国時代に南九州で起こった儒学の学派)が朱熹の『四書集註(しっちゅう)』(『四書』の解説)を重視し、桂庵玄樹が訓点をつけた『大学章句』を延徳4年(1492)全国に先駆けて刊行していることがあるからである。薩南学派は僧侶(臨済宗及び法華宗)によって担われていたが、朱熹の排仏的傾向を見るとこれは不思議なことである。『中庸章句』の序においても、朱熹は仏教および道教を非難している。どうして仏教の僧侶たちが露骨に排仏をいう朱熹に惹かれたのだろうか。

思えば、薩南学派に続いて江戸幕府の儒学の基礎を作った藤原惺窩も元は臨済宗の僧侶だったし、林羅山も元来は寺院で修行している。だが藤原惺窩は還俗し、林羅山は僧籍に入ることはなかった。日本の朱子学の受容には、朱熹の排仏的傾向と、僧侶の活躍が微妙に交錯しているのである。

日本においても、中国においても、思想史的な位置付けが興味深い独特な古典。

【関連書籍の読書メモ】
『世界古典文学全集 19 諸子百家』貝塚 茂樹 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/05/19_15.html
諸子百家の思想の概観。

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2020年5月10日日曜日

『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』西谷啓治・柳田聖山編

初期禅のムーブメントを感じる禅籍群。

本書に収められた作品は、本書出版時点においてそれまで通読されたことのないものばかりで、初日本語訳となるものがほとんどである。

筑摩書房は世界古典文学全集の編纂と同時に「禅の語録」というシリーズを編纂していて、それの成果が取り入れられてできたのが本書である。なお「禅の語録」は1969年に刊行が開始されてから、長く途絶して完結したのが2016年。約50年かけて完成した不朽のシリーズである。

詳細に研究したい向きにはもちろん「禅の語録」を薦めるが、一般にはこの『禅家語録』で十分である。何しろ本書1冊で、「禅の語録」6冊分の禅籍を所収する(すごくお得!)。本書では詳細な解説は割愛されているが、本文、註、日本語訳が掲載されているから、本文の内容を知る分には十分なのだ。ただし、小さい活字の2段組なので目には優しくない。

それに本書を通読すると、初期の禅ムーブメントがどうわき起こり、完成していったかがよくわかる。禅籍を扱いながらこのようにエキサイティングな本は珍しい。ぜひ通読をオススメする。本ブログでは既に本書の内容それぞれについてメモを書いてきたが、以下簡単に紹介する(リンク先は読書メモブログ記事)。

『達摩二入四行論』柳田 聖山 訳

http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/03/36a-i.html
敦煌本の発見により明らかになった最初期の禅籍。極めて老荘思想の色が強いのが興味深い。

『六祖壇経』柳田 聖山 訳

https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/01/36a-i.html
六祖こと恵能の激動の生涯とスーパー理論。恵能は「一瞬で悟りの世界に行ける」という頓悟の理論を提唱したとされ、禅の思想を良くも悪くも飛躍させた。彼の前半生の記録は、物語としても面白い。

『頓悟要門』平野 宗浄 訳

https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/04/36a-i.html
「心こそが仏である」という馬祖の考えを精緻に理論化した大珠慧海による頓悟の理論書。

『黄檗伝心法要』入矢 義高 訳

https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/04/36a-i_29.html
初期禅の完成の姿。あまり知られていないが、初期禅の到達点として位置づけたい重要な本である。

『臨済録』秋月 龍珉 訳

https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/05/36a-i.html
本書中、最も有名であり、また手に入りやすい本。人にインスピレーションを与えずにおかない、強烈な能動性がある「語録の王」。

『趙州録』秋月 龍珉 訳

https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/36a-i.html
ヴィヴィッドで分かりやすく、臨機応変に説かれる生きた教え。にもかかわらず、中国でも日本でも本書は等閑に付されてきた。忘れられた名著。 

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2020年5月5日火曜日

『臨済録』秋月 龍珉 訳(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』 所収)

強烈なパワーを持つ「語録の王」。

『臨済録』は、黄檗希運(おうばく・きうん)の弟子、臨済義玄(りんざい・ぎげん)の言行録である。

「上堂(対話による説法の記録)」、「示衆(講義の記録)」、「勘辨(禅者が互いの実力を確かめるために行う問答)」、「行録(臨済の一代記)」の4つの部分によって構成される。

『臨済録』は、しばしば「語録の王」と呼ばれる。禅の語録は数多いが、これほどまでに人々にインスピレーションを与えてきた語録も珍しい。そして、『臨済録』のすごさは、この『禅家語録 I』によって初期禅の思想を追ってみるとより明確になる。

黄檗によって初期禅思想は完成している。臨済が付け加えたものは思想面においては何もないと言ってもよい。しかしその表現は、黄檗とは大違いなのだ。臨済は、とにかく行動的・能動的である。それは、「内面」といったものを信じていないようにさえ見えるほどだ。彼にとっては全瞬間の一挙手一投足が勝負なのである。黄檗に3度殴られて大悟し、黄檗を殴り返した時から、臨済は「理屈じゃない、行動が全て」という原理で動いているように見える。

臨済は言う。「諸君、どこでも自己が主人公となれば、立っている所はすべて真実である」と。

まさに臨済はこれを体現する。彼はいつでも、自分の人生において自分を主人公としている。主人公であるという重荷を引き受けている。だから「出逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢えば羅漢を殺し、父母に逢えば父母を殺し、親類縁者に逢えば親類縁者を殺してこそ、初めて解脱して、何物にも拘束されず、一切に透脱して自在を得る」のである。

臨済が唱え、体現したのは、そういう強烈な個人主義であり、個我の価値であった。そして彼は、それを言葉によって表現するだけでなく、一瞬の機転で具現化した。殴る必要があれば遠慮なく殴ったし、また殴り返された。それまでの禅籍にほとんど全く見られないのに、『臨済録』にはそういう「禅機」が横溢しているのである。

臨済にとって、「悟り」などどうでもよかったのではないかと思える。六祖恵能以来の「煩悩即菩提」といった理論など、臨済にとってはチラシの裏の落書き程度の価値しかなかった。悟ったかどうか、そんなことより、常に「自己」が十全に発揮できること、それが臨済にとっての一大事であった。臨済が禅に革命をもたらしたのは、そういう「能動性」の礼賛であったと思う。それまでの「悟り」の世界が、欲望を寂滅した静的なものとしてイメージされていたのと比べ、臨済の「悟り」は、絶対的な自由を手にした動的なものなのである。

私は『臨済録』を通読するのは二度目だが、改めて読んでみて思ったのは、一見わけが分からなく思える問答でも、後代の訓詁学的な禅とは違い、臨済は常に自分の言葉と行動で対峙しているということである。また「示衆」においては、黄檗から受け継いだ理論を丁寧に解説してもいる。臨済はただパワーが有り余った自己中のオジサンではなくて、「どこからでもかかってこい」という包容力のある人間だ。

臨済自身は「喝」や「三十棒(文字通り30回棒で打つわけではないが棒で殴打する)を多用し、また後の五山文学に繋がるような韜晦な表現も使ったが、それは様式化されたものではなく、あくまでも臨済の衷心からのことだった。だが、臨済の禅があまりにも一世を風靡したために、「喝」や「三十棒」といったことだけが表面的に真似され、重要なことがこぼれ落ちていく危惧も、本書からは感じるところである。

それほど、本書は力に溢れ、人に影響を与えずにはおかない。初期禅の思想を自ら体現し、禅に「能動性」を導入した桁外れの男の言行録。


2020年4月29日水曜日

『黄檗伝心法要』入矢 義高 訳(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』 所収)

禅学概論の書。

『黄檗伝心法要』は臨済義玄(りんざい・ぎげん)の師匠であった黄檗希運(おうばく・きうん)の講義録である。

これは、黄檗の在俗の弟子であった裴休(はいきゅう)が江西の鍾陵における説法(842年)と宛陵での説法(848年)を筆録したものを基本に、他の弟子が記録した宛陵の筆録(宛陵録)を加えたものである。

私はこれまで『禅家語録』によって初期の禅思想のテキストを追ってきたが、本書を読んで感じたのは「禅思想の完成」ということである。

達磨に仮託される初期の禅は、大雑把には仏教的な老荘思想であり「禅」としての独自性は弱かった。一方、六祖恵能(実際にはその弟子の荷択神会(じんね))の頓悟禅は、あまりにも超越的というか、ハッタリ的な部分があり、「そんなものがあればすごいけど多分ないだろう」というスーパー理論である。それを具体的に実践可能な形に組み替えたのが馬祖道一で(※『禅家語録』には馬祖の語録はない)、さらに学問的に整理して経典によって理論付けたのがその弟子の大珠慧海であった。

こうした禅の系譜に基づき、その諸思想を結実させたのが黄檗希運である、と本書からは感じる。その言葉は、論理的かつ直截的であり、また教育的である。禅思想の概論として、本書以上に簡潔かつ明解なものはないだろう。しかし逆に言えば、黄檗自身には独自の思想というものはないように思われる。いわばそれまでの禅思想を集大成し、普遍的な形にまとめたのが黄檗であると言えるかも知れない。

もちろんそれは本書がつまらないということではない。非常な名言が次々に飛び出すとても面白い本だ。例えば次のような言葉がある。
  • 「あらゆる仏と、一切の人間とは、ただこの一心にほかならぬ。そのほかのなんらかのものはまったくない」
  • 「偉大なる菩薩たちが顕現する徳も、実はわれわれ人間にはみな具わっている」
  • 「もともと法というものは一切ないのであり、そんなものの幻想から離却することがむしろ法なのである」
  • 「仏も衆生も、みな君の虚妄の見が作ったものだ」
  • 「山河も大地も、日月も星辰も、すべて君の心の外にあるのではない。三千世界はすべて君という自己にほかならぬ」
  • 「いま大事なことは、あらゆるとき、あらゆる機会に、日常の行住坐臥の一つ一つのうちにひたすら無心を学び、ものを分別することなく、ものに寄りかかることもなく、ものに執着することなく、日ねもすのほほんとして成りゆきにまかせ、まるで阿呆のように生きてゆくことだ」 

本書はこのようにエキサイティングと言えるほど生き生きした禅籍であるが、この完成度があるだけに、却って一抹の不安すら抱かせる。それは、禅思想がここで完成の時を迎え、これ以降は衰退——と言って悪ければ「固定化」——するのではないか、と感じさせるからだ。実際、後代の禅はいわば「訓詁学」となっていく。

ちなみに、『黄檗伝心法要』は北条顕時が来朝僧大休正念に命じて弘安6年(1283)に出版させており、これが日本における禅録流布のはじめとされている。その詳しい事情はわからないが、本書は日本における禅録出版の第一号にふさわしい重要なものである。

しかし異常に(?)行動的な『臨済録』や、衒学的な『碧巌録』、そして意味深長な詩偈など、トリッキーな禅籍が流行するようになると、地味な講義録である本書はさして重要でないものと見なされ、顧みられなくなった。しかし後代の後知恵で評価すれば、『黄檗伝心法要』こそ禅思想そのものとして受け取るべき第一の書であったのである。

初期禅思想の到達点。

2020年4月9日木曜日

『頓悟要門』平野 宗浄 訳(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』 所収)

頓悟の理論書。

禅には北方で行われていた禅(北宗)と南方のそれ(南宗)があるが、『六祖壇経』の六祖こと恵能(えのう)の弟子荷沢神会(じんね)が、
北宗は漸悟——長い修行の末に悟る
南宗は頓悟——すぐさま悟る
だと決めつけてから南宗の独走となった。

そしてそれを新しい角度から発展させるのが馬祖道一である。馬祖道一は優れた弟子を多く輩出し、神会の一派(荷沢宗)をしのぎ後の臨済宗へと発展して行く。そんな馬祖道一の弟子の中でも第一の学匠だった大珠慧海が馬祖の禅を理論化したのが本書である。

本書は上下に分かれており、上巻は大珠による頓悟の理論書である。理論展開としては、問答の形式により、「○○はこうである。なぜなら××経にこのように書いているからである」、または「××経には○○とありますが、これはどういう意味ですか?→それはしかじか」とする形が多い。禅の語録は数多いが、このように禅の教義的根拠を明らかにした著作は少ない。ここには後代の禅のような韜晦な「禅問答」はなく、経典を参照して自らの考え方を明解に述べるという学問的態度が禅籍として実に新鮮である。また、本書では様々な経典が参照されており、禅の立場は特定の経典ではなく、それの「読み方」に依拠するものだったことを感じさせる。

下巻は大珠の語録(言行録)である。上巻の方が禅の歴史において意義深いのかもしれないが、私にとってはやや間怠っこしい。一方、下巻は具体的な問答であるため生き生きしており読んで面白い。元々の大珠の著作は上巻(「頓悟要門入道論」)のみであったが、それに下巻の言行録をセットにしたのは妙叶(みょうきょう)という僧であった。これは『頓悟要門』の普及に役だったと思う。

さて、そんな『頓悟要門』における大珠の主張を一言でいえば、「心こそが仏である」ということになるだろう。そして「究極はそなたのみ」なのだ。「その本性はもともと清浄であって、修行をする必要はない。証を立てたり修行したりという方法を取るものは、思い上がった人間と同じである」という。このあたりは、日本の盤珪禅師の「不生禅」(人は産まれながらに必要なものは全て備わっているという悟りの禅)を思わせる。

しかし同時に「心すらも幻である」と付け加えるのが大珠らしさかもしれない。大珠にとっては地獄も実在のものではなく、心が生みだした幻にすぎない。この世の中には実在的なものは何一つなく、あらゆるものは幻であり、自分が拠り所にするべきなのは自分の心(精神作用)以外は何もないのである。それ(心)が幻だったとしても! このあたりの論理は、ちょっとデカルトの『方法序説』にも似ているところがある。

ところで神会の禅は「煩悩即涅槃」のように、「煩悩があることを肯定することで、それが即ち悟り(涅槃)の世界となる」といった認識の問題を中心に据える。認識一つで悟りの世界にいけるから「頓悟」なのだ。一方、大珠の禅もそうした面はあるが、「心を清浄に保て」といった修養の性格もかなり持っている。大珠の「頓悟」は認識を変えるための方法論を「心」にフォーカスして述べたものといえるかもしれない。

禅籍としては稀なほど学問的に書かれた頓悟の教科書。


【参考文献 読書メモ】
『六祖壇経』
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/01/36a-i.html
唐代の禅僧、恵能の言行録。
内容は歴史的事実ではありえないが、創作的人物としての恵能の言説が魅力的な本。

2020年3月10日火曜日

『達摩二入四行論』柳田 聖山 訳(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』 所収)

最初期の禅籍。

『達摩二入四行論』は最も古い禅籍であり、禅の初期思想を伝えるものである。達摩(「達磨」が一般的な表記だが、敦煌本の発見によりこちらの方が元来の表記とされ、本書ではこちらが採用)という人物の実在は怪しいが、達摩に仮託して表現された初期の禅のエッセンスがつまっている。

本書の表題「二入四行論」は鈴木大拙が便宜的につけたものである。「二入四行」とは悟りに到るための「2つのやり方、4つの実践的方法」を示し、確かに本書冒頭でそのような解説がある。しかしそれは最初だけで、全体としては他の禅籍と同じように達摩、また他の未詳の禅師たちの言行録であって、体系的な論述ではなくエピソード集である。

禅とは「老荘化した仏教だ」としばしば言われ、本書はまさにそれを体現する。真理は「道」と表現され、徹底的に「分別の心」を排除することが勧められている。あらゆる分別的な(分析的な、現実に即して考える)理解は妄想として否定され、「無知は是れ無碍の知なり(無知こそ自在の知り方だ)」など「無」が称揚される。

さらに「無為自然」的なありのままの世界が肯定され、全てが悟り(菩提)でないものはない、という。極めつけは、問答において「『老経(老子)』にしかじかとありますけどこれはどういう意味ですか?」と達摩に尋ねている場面があることだ。達摩は、『老子』に通暁していると考えられたのである。禅とは、老荘思想を仏教によって読み解くことから生まれたものであるようだ。

ところで、この老荘化した仏教は、仏教本来の考え方とは真逆な部分がある。というのは、元来の仏教はあくまで理知的な教えであって、むしろ分別の心を究極に推し進めることによって心の平安を得るものだからである。しかし本書では逆にそれを全否定する。例えば「 もしつとめて心のすがたを内省し、理法のすがたを観察して、つとめて、心のあり方そのものが、寂滅という在り方であり、(中略)そういう心の在り方は、存在の場所がなくて、それが理法の世界の立場であり、(中略)禅によって心が安定し障りのない場所であると——もしこのような考え方をする人は、まさしく無慚な生ける屍である」といった言明はその極端な場合だ。

本書には後代の禅が発展させた概念が萌芽的な形で現れており、思想史的にも興味深い。しかしそんな中で最も相違を感じるのが、本書で理想とされている悟りの姿が老荘の仙人のような静的なものであることだ。後の時代の禅では、悟りの境地は能動的なものであるとされているのとは対照的である。初期の禅は老荘思想の影響から始まったが、そこから老荘とは逆の能動性を獲得することによって発展していったのかもしれない。


2020年1月2日木曜日

『六祖壇経』柳田 聖山 訳(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』 所収)

唐代の禅僧、恵能の言行録。

恵能は貧しい生まれで教育を受けず、字が読めなかった。彼は薪を売って母親を支えていたという。だが町でお経を読んでいる声を聞いて突如発心し、母を棄てて出家し弘忍という高僧の下で修行した。字が読めないので最初は下働きのような形だったが、彼は生まれながらの禅匠であり詩人だったのでやがて頭角を現し、遂に禅の第五祖弘忍から後継者と認められ、ダルマから引き継いだ袈裟を譲られて六祖となった。

しかし字が読めず生まれが卑しかったことで弘忍の弟子たちは恵能を認めず彼を暗殺しようとする。そのため恵能は逃亡。こうして恵能は禅僧としての人生を激動のうちにスタートさせたのである。

本書は、恵能が役人の韋璩(いきょ)という人の求めに応じて行った公開説法の模様を弟子の法海がメモしたものである。恵能のドラマチックな人生と、深遠な教えが縦横に展開されており、禅籍らしからぬ面白さである。

しかしながら、本書にはほぼ全く書いていないが実は『六祖壇経』を額面通り受け取ってはいけない事情がある。というのは、これは恵能の弟子であった荷沢神会(かたく・じんね)という禅僧が、自らが正統な禅の継承者であることを主張するため、師の恵能を持ち上げるべく創作した部分もかなり含まれているからなのである。

荷沢神会は当時大きな反響を呼び起こし、禅の歴史を大きく変えた人物である。彼は自らの正統性を鼓吹するため様々な新説を考案した。例えば、先述した「恵能はダルマから代々引き継いできた袈裟を譲られた」(「伝衣(でんね)説」という)というのも彼の創作である。それまで、法統を継ぐ証しとして袈裟を与えるという慣習自体が存在していなかったと見られる。しかし『六祖壇経』では、あたかもそうした慣習があったものとされてドラマが展開し、恵能に反発した弘忍の弟子たちが袈裟を奪いにやってくる…といった場面が描かれるのである。

神会はまたダルマから自らにいたるまでの祖師の系譜を作為し(「西天八祖説」)、遂に恵能が禅の六祖であることを社会に認めさせた。恵能の生前には、彼は六祖でもなんでもなかったのである。

また神会は禅の思想をもかなり変質させた。彼は北方の禅で行われていた長い修行や座禅を回りくどいものとし、悟りとは一瞬の認識によって得られるものと考えた。そして自らが迷っているという認識を得ることで仏陀になる、迷いが即ち悟りであるという「煩悩即菩提」の「頓悟禅」を推し進めた(頓悟=一瞬で悟る)。こうしたことから、北方の禅が長い修行や座禅によって真理に到達しようとする「漸悟」であり、神会の主宰する南方の禅は「頓悟」であるのでより優れているという「南頓北漸説」をも鼓吹した。

そしてこうした神会の説は、当然のごとく六祖恵能に仮託され、『六祖壇経』に描かれる恵能によって語られているのである。しかしだからといって、恵能の言説の全てが神会の薄っぺらい創作であると思うならそれは間違いだ。『六祖壇経』ほど異本の多い禅籍はないと言われるが、様々な優れた言説が恵能に仮託され、いわば禅の超人として恵能がアイコン化してゆき、超人の言行録として成立したのが『六祖壇経』なのである。

であるから、恵能の言葉は非常に含蓄があるものが多い。確かに神会は恵能を超人として演出したかもしれないが、それは非現実的な瑞祥(花弁が降ってきたとか)をちりばめることによってではなく、あくまでも言葉の力によってなされたものだからである。確かに恵能のような師の下では一瞬に悟ることができるかもしれない、と思うようなところがある。その教えの要諦は「自己に目覚めよ」の一言に集約できる。本来の自己を見つめること、それができたならもう仏陀であるという。これは非常に力強い言葉であって、『六祖壇経』は迷いの中にある人にとって道標になりうる本である。

内容は歴史的事実ではありえないが、創作的人物としての恵能の言説が魅力的な本。

【参考文献】
『禅の歴史』伊吹 敦
↑荷沢神会についてはこの本を参照しました。

2019年10月31日木曜日

『趙州録』秋月 龍珉 訳(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』 所収)

趙州従諗(じょうしゅう・じゅうしん)の言行録。

趙州和尚といえば、かの『無門関』の第1則「狗に仏性はあるのか?」で余りにも有名である。また道元の『正法眼蔵』にもたくさん登場するし、『碧巌録』にもその公案が多く集録されている。

彼の禅風は徹頭徹尾語りと問答にあった。ややもすればすぐに「三十棒!(30回棒で打つ)」と実力行使に出る当時の禅にあって、趙州は禅を言葉で説明することにこだわった。であるから、その言行録は禅のテキストとして貴重であり、広く流布した。

ところが多くの禅籍で取り上げられたためか、肝心の『趙州録』そのものはいつしか忘れられ、原典が顧みられなくなってしまった。中国にも日本にも、『趙州録』の注釈と呼べるものは現代に至るまで存在しなかったのである。

では『趙州録』はつまらないものだったのか、というと実はこれが大変に面白いものだったのである。後代(宋代)に編纂され「公案化」された彼の問答よりも、原典はもっとずっとヴィヴィッドであり、わかりやすい。『趙州録』は神秘的な「公案」ではなくて、直接的な生きた教えなのだ(おそらく、そのために却って廃れたのだろう)。

ではその問答の調子はどんなものかというと、例えば代表的な問に「祖師西来意」というものがある。これは「ダルマ(祖師)がインドから中国に来て伝えようとしたその精神はどんなものですか?」という問である。『趙州録』では、たくさんの僧が趙州にこの質問をしている。趙州のお寺では問答の時間(かノルマ?)があって、僧たちは趙州和尚に質問をすることになっていた。それで、気の聞いた質問を思いつかなかった僧が、「思いつかない時はこういう質問をしたらいいよ」という先輩僧の入れ知恵によって定型的な質問をしていたようなのである。「祖師西来意」はそういう定番質問の一つである。

であるから、そもそも「祖師西来意」を尋ねる僧に切実な疑問というか探求心があろうはずもなく、趙州も軽くあしらっているように見える。そしてその答えはいろいろあり、古来有名な答えは「庭前栢樹子——庭先の栢の木だよ」というものなのだが(『無門関』第37則に取り上げられた)、他にも20以上の答えがある。そこから抽出される趙州の答えの核心は、「ダルマのことはさておいて、それを問うオマエはなんなの?」というものである。「ダルマ云々よりも、まず本来の自己に目覚めないことには話にならないよ」と言ってもよい。

趙州の問答は、質問者の切実度合いと理解度と修行度合いによって変幻自在に変わっていた。であるから、彼の問答の意味を表面的な言葉の意味でだけ考えても無意味であり、「庭先の栢の木がどうして祖師西来意なんだろう?」と考えてもあまり実りはないのである(ちょっと庭先の栢の木を見てみろ、とでも理解した方がいい)。

それを象徴するのが『無門関』第1則にも取り上げられた「狗に仏性はあるのか?」で、『無門関』では趙州は「無」とだけ答え、それについての考究がなされる。そしてこの「無」の一字は禅の究極のようなものと捉えられ、それに因んで『無門関』——「無」に至る門への関所——という標題までつけられているのである。

ところが、『趙州録』を見てみると、「狗に仏性はあるのか?」を質問した僧は2人いて、確かに一人への答えでは「無」と答えているが、もう一人には「家々の門前[の道]は長安の都に通じている(=どんな道でも悟りへ至る道=狗にも仏性はある、という意味と思われる)」と答えている。この2つの問答を見れば、狗に仏性はあるのかないのか、どっちやねん! と思うわけだが、趙州にとってみれば、「なんでオマエは狗の仏性の有無をあーだこーだいうわけ?」というところなのだと思う。『趙州録』の全体を通して、そういう観念的な質問をする時点で「こいつわかってねーな」という応対なのである。

逆に、初歩的な質問、定型的な質問であっても、僧の方に切実な問題意識がある(ように見受けられる)場合には趙州は「いい質問だ」と褒めている。他の僧が同じ質問でメタクソにされているようなものであってもである。趙州の禅は、観念的なものを排し、本来の自己に目覚めることを究極の目的として、あくまでも目の前の人物に応じて臨機応変に説かれるものであった。

であるから、例えば「庭前栢樹子」のような一見すると意味不明の答えであっても、その裏に観念的な世界が広がっているというよりは、極めて具体的・即物的な意味合いがあったと考えるべきなのだと思う。しかし宋代になると、『趙州録』から問答の一部が切り出され、まるで暗号のような公案が多々できあがる。『無門関』はその代表で、それはそれで禅の精神の発露であることは否定しないが、趙州和尚の臨機応変の自在の禅とは、かなり違うものになっていたこともまた事実である。

宋代の禅よりも、その原典の唐代の禅の方が、ずっと普遍的で理解しやすく、私にとっては親しみが持てる。『趙州録』はまさに禅の原点となる、忘れられた名著である。


2019年10月23日水曜日

『碧巌録』(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36B 禅家語録 II』 所収)

日本語訳された『碧巌録』。

『碧巌録』は、「宗門第一の書」と呼ばれ日本の禅宗、特に臨済宗には多大な影響を与えてきた。また難解であることでも有名であり、古来多くの注釈・講釈の本が出版されてきた。しかし意外にも長く日本語訳されることがなく、本書は出版時おそらく初めて日本語全訳された『碧巌録』である。

これは、雪竇(せっちょう)和尚が『伝燈録』から選んだ公案百則に頌(詩)をつけたテキストを作り、それに対して圜悟(えんご)和尚が解説と著語(じゃくご=ツッコミ)をくわえたノートの集録である。

つまり『碧巌録』は雪竇と圜悟の共同執筆なのであるが、ことはそう単純ではない。というのは、雪竇重顕(980年−1052年)と圜悟克勤(1063年−1135年)にはほぼ3世代の開きがあるからだ。

雪竇和尚が編集した公案百則に、3世代経って圜悟和尚が”超編集”を加えて出来たのが『碧巌録』なのである。その”超編集”ぶりを示すため、一則だけ例示しよう(なお、本来は一則につき、垂示(序論)[圜悟]、本則[雪竇]+著語[圜悟]、評唱(参考資料と解説)[圜悟]、頌古[雪竇]+著語[圜悟]、がセットになっているが、今本則+著語のみを引用する。なお本書では評唱は省略され、訳者による短い解説がそれに代わっている)。

第39則 雲門花薬欄 本則
挙。僧問雲門、如何是清浄法身。壒(*1)扱(*2)堆頭見丈六金身。斑斑駁駁是什麽。門云、花楽欄。問処不真答来鹵莽。祝(*3)著磕著。曲不蔵直。僧云、便恁麽去時如何。渾崙呑箇棗。放憨作麽。門云、金毛獅子。也褒也貶。両采一賽。将錯就錯。是什麽心行。
(*本来の漢字がPCで出せないため代字で表現した。*1「艹」不要、*2「扌」の代わりに「土」、*3 「祝」の下に「土」)
※黒字が雪竇による「本則」、青字が圜悟による「著語」。本書では「著語」は本文より小さい活字にすることで区別されている。

(日本語訳)
雲門大師のところへ、一人の僧がやって来て、「宇宙の本体ともいうべきビルシャナ仏とは、どんなかたですか」と尋ねた。ごみ捨て場の中に仏がいらっしゃるよ。きれい、きたない、いろいろなものが入り交じっているやつ、あれは何かね。雲門は、「便所の袖垣だよ」と答えた。質問がいい加減だから、答えもぞんざいだ。打てば響くようにぴったりだ。曲がったものは、曲がったままでよい。「それでは仰せのとおり、花薬欄は花薬欄と承知したら、どうなりましょうか」と、ひねくれた質問をした。こいつ雲門の答えをよく味わってもみず、丸呑みにしたな。うすぼんやりしていて、いい加減なことを問うたな。「獅子中の王者、禅僧中の禅僧とでもいうかな」と、雲門は答えた。上げたり、下げたりだな。花薬欄と金毛の獅子では同じ賽の目だな。雲門も僧もどっちもいかん。どういうつもりでいったのかな。

これを見れば、古来『碧巌録』が難解とされてきた理由が一目瞭然だろう。雪竇の編集した公案本体部分だけを見れば、その趣旨が理解できるかどうかは別として、なんとか読みこなせるものだろう。しかし圜悟がそこにツッコミの嵐を容赦なく加えており、しかもそれが口語調なものだから、ただでさえ文意があっちこっちしている上に日本人にとっては漢文として大変難しいのである。いや、読み下し文でこれを理解するのはほぼ不可能に近い。

しかし『碧巌録』が画期的だったのは、この圜悟のツッコミ部分だった。上の第39則でも、本文だけを見れば常人の理解を超越した何か高遠な問答のように見える。だが圜悟のツッコミも含めてみると、この問答はそれほど立派なものではなく、あまり噛み合っていない話であったことが理解できる。しかも圜悟のツッコミは、単に公案への対し方・味わい方を教えるだけでなく、公案に通底する禅の哲理を仄めかすものとなっているのである。

そもそも公案というものは、過去の偉大な禅匠たちの言行録で、有り難い教えが含まれていると考えられていた。臨済宗が依拠した「看話禅(かんなぜん)」というのは、公案の意味を考究する事によって悟りに至ろうとする禅のことであり、公案を悟りに至った事例と見なし非常に重視した。雪竇和尚が『碧巌録』の元となった公案百則を編集したのも、古来たくさん伝えられてきた公案(『伝燈録』1700則)から決定版的なものを百だけ選んで、その解読のヒントとして詩をつけたのである。

圜悟和尚は、それにツッコミの嵐を加える事によって、公案の意味を丸裸にしてしまった。それは、公案というものは自らの頭で考えることに意味があるのに、圜悟和尚のガイドによって公案が形無しになってしまったとも言えるし、公案集から神秘的なヴェールを剥ぎ、いたずらに公案を至上のものとする一種の思考停止に強烈な鉄槌を加えたとも言える。

そんなことで編集当時から『碧巌録』は毀誉褒貶が激しく、圜悟和尚の弟子大慧は『碧巌録』の版を焼き捨てたと言われる。また編集完成は1125年であったが、これが本格的に刊行されたのはなんと175年後の1300年であった(※1300年以前にも刊行はあったらしいが少部数だったのか残っていない)。そして、中国では『碧巌録』は、あまりにもわかりやす過ぎる禅籍として衝撃をもって迎えられ、大流行したのであった。

ところが日本では、『碧巌録』は難解な禅籍の代表のようになってしまった。先述の通り、『碧巌録』の本質である圜悟のツッコミが、中国語の口語体であるためかえって難しかったのである。そして、あたかも難解であることが『碧巌録』の価値であり、高遠さであると考えられてきた。現代ですら、「『碧巌録』に現代語訳を求めるなど邪道。難解な本文に直にあたってこそ意味がある」と考えている人は多い。しかし中国人がわかりやすい白話文(口語体)で禅を語り理解してきたのに、日本人がわざわざ難解な外国語を通してしか禅を理解できないなんてあるわけがないのである。

『碧巌録』を生き生きとした日本語訳によって表現した本書は画期的な訳業であり、日本の禅籍史に輝くものである。本書の刊行(1974年)より40年以上経過しているが、未だ『碧巌録』の日本語全訳は数えるほどしかない。とはいえ、本書の日本語訳は決定版とはいえない。刊行時点において『碧巌録』研究の集大成であると自負されてはいるものの、多数の訳者の共同作業であり、日本語訳の仕方も統一されていないからだ。読んだ感じとしても、明らかに訳者によって粗密を感じるところである。事実解説にも「歴史的・語学的な課題のすべてを今後に残すこととする。これが禅門の現状である」と記されている。なお分担は以下の通りである。

第1則ー第20則 苧坂光龍(般若道場)
第21則ー第40則 大森曹玄(鉄舟会)
第41則ー第60則 梶谷宗忍(相国僧堂)
第61則ー第80則 勝平宗徹(南禅僧堂)
第81則ー第100則 平田精耕(天龍僧堂) 

『碧巌録』の初めての日本語訳として不朽の価値がある名著。

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