2020年5月5日火曜日

『臨済録』秋月 龍珉 訳(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』 所収)

強烈なパワーを持つ「語録の王」。

『臨済録』は、黄檗希運(おうばく・きうん)の弟子、臨済義玄(りんざい・ぎげん)の言行録である。

「上堂(対話による説法の記録)」、「示衆(講義の記録)」、「勘辨(禅者が互いの実力を確かめるために行う問答)」、「行録(臨済の一代記)」の4つの部分によって構成される。

『臨済録』は、しばしば「語録の王」と呼ばれる。禅の語録は数多いが、これほどまでに人々にインスピレーションを与えてきた語録も珍しい。そして、『臨済録』のすごさは、この『禅家語録 I』によって初期禅の思想を追ってみるとより明確になる。

黄檗によって初期禅思想は完成している。臨済が付け加えたものは思想面においては何もないと言ってもよい。しかしその表現は、黄檗とは大違いなのだ。臨済は、とにかく行動的・能動的である。それは、「内面」といったものを信じていないようにさえ見えるほどだ。彼にとっては全瞬間の一挙手一投足が勝負なのである。黄檗に3度殴られて大悟し、黄檗を殴り返した時から、臨済は「理屈じゃない、行動が全て」という原理で動いているように見える。

臨済は言う。「諸君、どこでも自己が主人公となれば、立っている所はすべて真実である」と。

まさに臨済はこれを体現する。彼はいつでも、自分の人生において自分を主人公としている。主人公であるという重荷を引き受けている。だから「出逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢えば羅漢を殺し、父母に逢えば父母を殺し、親類縁者に逢えば親類縁者を殺してこそ、初めて解脱して、何物にも拘束されず、一切に透脱して自在を得る」のである。

臨済が唱え、体現したのは、そういう強烈な個人主義であり、個我の価値であった。そして彼は、それを言葉によって表現するだけでなく、一瞬の機転で具現化した。殴る必要があれば遠慮なく殴ったし、また殴り返された。それまでの禅籍にほとんど全く見られないのに、『臨済録』にはそういう「禅機」が横溢しているのである。

臨済にとって、「悟り」などどうでもよかったのではないかと思える。六祖恵能以来の「煩悩即菩提」といった理論など、臨済にとってはチラシの裏の落書き程度の価値しかなかった。悟ったかどうか、そんなことより、常に「自己」が十全に発揮できること、それが臨済にとっての一大事であった。臨済が禅に革命をもたらしたのは、そういう「能動性」の礼賛であったと思う。それまでの「悟り」の世界が、欲望を寂滅した静的なものとしてイメージされていたのと比べ、臨済の「悟り」は、絶対的な自由を手にした動的なものなのである。

私は『臨済録』を通読するのは二度目だが、改めて読んでみて思ったのは、一見わけが分からなく思える問答でも、後代の訓詁学的な禅とは違い、臨済は常に自分の言葉と行動で対峙しているということである。また「示衆」においては、黄檗から受け継いだ理論を丁寧に解説してもいる。臨済はただパワーが有り余った自己中のオジサンではなくて、「どこからでもかかってこい」という包容力のある人間だ。

臨済自身は「喝」や「三十棒(文字通り30回棒で打つわけではないが棒で殴打する)を多用し、また後の五山文学に繋がるような韜晦な表現も使ったが、それは様式化されたものではなく、あくまでも臨済の衷心からのことだった。だが、臨済の禅があまりにも一世を風靡したために、「喝」や「三十棒」といったことだけが表面的に真似され、重要なことがこぼれ落ちていく危惧も、本書からは感じるところである。

それほど、本書は力に溢れ、人に影響を与えずにはおかない。初期禅の思想を自ら体現し、禅に「能動性」を導入した桁外れの男の言行録。


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