2021年6月4日金曜日

『「黄泉の国」の考古学』辰巳 和弘 著

古墳時代のあの世観を推測する本。

古代、海沿いの崖にある自然の洞窟(海蝕洞窟)は、しばしば葬送の場所になった。そこでは海に向けて置かれた船形の木棺で葬られた場合が散見される。また、古墳に船形木棺が安置されることもたびたびあった。それは「舟葬(しゅうそう)」と呼ばれる葬送方法で、神話学者の松本信広はこれを東南アジアの海洋文化に淵源するものと見た。

また、古墳には内部に様々な絵が描かれたものがあるが(装飾古墳)、そこにもゴンドラ型の船のモチーフがしばしば登場する。その他、霊魂を運ぶ(ように見える)馬も描かれることが多い。こうしたことは何を意味しているのだろうか。

著者によれば、そういった考察はこれまでの考古学ではあまりされてこなかったのだという。そうした空白を埋めるべく、古代人が考えた死後の世界を考古学的遺物を通じて推測したのが本書である。

しかしがら、そうした推測が妥当なものだと言えるのか、私には全く判断が付かなかった。悪く言えば著者の妄想のような推測もある。描かれたもの、残されたものは多様に解釈可能であるから、著者の解釈はたくさんある可能性の中の一つに過ぎず、「そういう考え方もできる」以上の受け止めは難しいと感じた。

とはいえ、船や馬といった移動手段を葬送に関係させたということは、「古代人は死後の世界を、船や馬を使って行く遠いところにある場所」と認識していたのではないか、という考えは説得的だと思った。

しかし例えば、記紀では死んだイザナミは「黄泉比良坂(よもつひらさか)」を過ぎたところにいるわけで、さほど遠い所にいる印象ではない。少なくとも現世と地続きにあの世が存在している感じである。この違いはどう考えればいいのだろうか。黄泉の国神話は日本に元々あったものではなく、外来のものなのかもしれないと思わされる。

というわけで、本書を読み終えても、古代人のあの世観はよくわからない…というのが率直なところだ。

舟葬に関する議論は興味深いが、著者の推測がどの程度妥当なのか不明なためなんともいえない本。


2021年6月2日水曜日

『新編 大蔵経—成立と変遷』京都仏教各宗学校連合会編

大蔵経の歴史を描く本。

大蔵経とは、仏教の経典や律・論書等、すなわち仏教のテキストの集成である。それはただテキストを集めたものではなく、大蔵経に編入(入蔵)するかどうかは、中国においては皇帝の勅許を必要としたほど権威ある集成であり、大蔵経は仏教テキストの正統にして最大のデータベースであった。

大蔵経は、成立の当初からかなり大部であった。劈頭に置かれることが多かった『大般若経』だけでも600巻あって、その全体は時代ごとの変遷はあるが大体5000巻余りを要したのである。であるから、これを出版するという事業はとても個人の力のなし得るところではなく、国家またはそれに並ぶような権力・財力によってようやく可能となるようなものだった。

即ち、大蔵経の歴史を繙くことは単にテキストの行方を追うだけでなく、国家と仏教の関係を概観するようなことでもあるのだ。

インド

仏教テキストが最初にまとめられたのはインドであり、幾たびか「仏典結集」が行われてテキストが整理されていった。しかし小乗仏教においては、論や律はテキスト化されたが、経典は基本的に口誦するものであり写本は作られなかったようである。経典が写本化していくのは大乗仏教以降であり、現在発見されている最古の写本はガンダーラから発見されたカローシュティー文字のもので紀元1世紀のものである。

中国

一方、中国においては仏典は翻訳によって普及した(最初からテキストで流布した)。そして翻訳の混乱を避けるため、翻訳された仏典の目録を作ることが次第に大蔵経に繋がっていく。特に五胡十六国時代には仏教が非常に盛んになってテキストの整備が進んだ。しかし中国では廃仏運動もたびたび起こり、特に隋代の前には徹底的な廃仏があった。隋代には、逆に仏教の復興運動が起こって、初めて組織的に大蔵経を整備する体制が作られた。隋代には写本の一切経(大蔵経の先蹤)もたくさん作られたようである。

唐代には『開元録』全20巻が著される。これは大蔵経編成史上、最善の総合目録である。これにより1076部、5048巻の大蔵経の構成が明示され、その後の大蔵経は『開元録』の構成を長く踏襲した。またこの頃より入蔵には勅許が必要とされるようになった。

なお、こうした大蔵経編纂の動きとは別に、石刻経典が制作された歴史もある。末法思想などを受け、仏典の永続性を願い、経典を石に刻んだのである。特に隋代の静琬(じょうえん)は、全経典の全文を石板に刻んで洞窟内に封蔵し、法滅の到来に備えるという異次元の事業を企画した。この事業は300年かけて完成され、さらに補刻追雕は明末まで約一千年に及ぶ一大護法事業であった。これは今でも1万4620石が保存されている。

開板(印刷)の大蔵経のはじめは、宋の太祖による開宝蔵(蜀版大蔵経)である。太祖は四川の人心収攬政策の一環としてこれを企画したと見られる。開宝蔵は日本僧奝念(ちょうねん)によって日本にももたらされ、藤原道長に献上された。その後、金版大蔵経、契丹版大蔵経、などが開版された。

さらに11世紀後半からは、国家ではなく寺院による大蔵経開板が行われる。蜀版大蔵経以来の伝統がある福建では福州東禅等覚院、それに続き福州開元禅寺が開板。江南では思渓円覚禅院、蹟砂延聖禅院、白雲宗教団の普寧寺などが大蔵経を開版した。これらは、地域の富豪や名家からの協力や浄財を募って実施されるプロジェクトであった。ただし、蹟砂延聖禅院の場合は、なんと僧了懃(りょうごん)によるたった一人の個人的運営でスタートした。しかしそれにしても大檀越(支援者)が現れてようやく事業が進捗していったのである。

なお白雲宗は仏教系の新宗教であったが、元のクビライに教団の公認と大蔵経開板の許可を取り付け、14年という短期間で完成した。普寧寺蔵は中国のみならず日本にも多くもたらされた。(なお元は勅版大蔵経もつくっている。)

明代になると、南・北両京で勅版大蔵経が開板した。南蔵は、洪武南蔵と永楽南蔵の2種が作られた。北蔵は、永楽帝によって永楽南蔵と時を隔てずして企画され、非常に精確であったが宮中に秘蔵され、「特賜」や「奏請」以外に入手が不可能だった。そのため明末にはその普及版とも言うべき嘉興蔵が寺院・民間の力によって開板された。嘉興蔵の大きな特徴は、それまでの折り本に変わって袋とじ製本を採用したことである。南蔵・北蔵は日本へは舶載されなかったが嘉興蔵は50蔵以上輸入されたと見られる。

清代では、雍正帝が大蔵経開板を企画して乾隆帝の時に完成した。これが龍蔵である。中国では、古代から近世までずっと大蔵経が作られ続けていたといえる。その事業の目的は必ずしも弘法だけでなく、政治的な意図も多分に含まれていたのであるが、大蔵経が国家・民間のそれぞれで継承・発展せしめ続けられてきたのは確かである。

朝鮮

朝鮮では高麗時代に2度の大蔵経開板が行われた。1度目は、契丹の侵攻を受けて、仏力による契丹退散を祈願して大蔵経が開板された。この版木はモンゴルの侵攻によって焼失してしまったため、モンゴル軍の退散を祈願して2度目の大蔵経が開板された。

日本

日本では、奈良時代に(「大蔵経」ではなく)「一切経」の書写が盛んになった。「一切経」は当時の用語で、大蔵経よりも意味が広く、たくさんのお経の集成といった意味合いで使われていた。最古の確実な一切経書写は「聖武天皇発願一切経」。国家的な写経機構もあり、7〜8世紀には頻繁に一切経の書写がなされた。

平安時代前期には一切経書写は一時低調になるが、9世紀には律令国家が諸国に一切経の書写を命じ、実際に(全国でないにしても)実行に移された。また平安時代後期になると、各地の寺社で勧進(寄附集め)による一切経書写が広く行われるようになった。また奝念によって開宝蔵が日本にもたらされると(前述)、筆写ではなく印刷の大蔵経が正統な一切経であるという意識が生まれ、強い憧れが生じた。

11世紀になると、末法思想の影響を受けて一切経を供養する「一切経会」が行われるようになる。これは、衆僧を請じ、転読あるいは真読して供養し、またそれに付随して管弦舞楽を行う貴族の遊楽の行事である。

中世に入ると、栄西、重源らは宋版の大蔵経を持ち帰り、次第に大蔵経が宗教的・政治的に重要な役割を果たすようになっていく。それには、二度の元寇の脅威も影響していた。大蔵経に国土安全や攘災の役割が期待されたのである。例えば、弘安2年(1280)、西大寺の叡尊は亀山天皇からの勅命を受けて、多くの僧侶を率いて伊勢神宮(内宮・外宮)に参詣し、亀山天皇から託された大蔵経を内・外宮に献納した。神社に大蔵経を献納するというのが今から見ると面白い。また禅僧で宗像社一宮座主だった色定法師は一人で一切経を書写した(色定法師一切経)。一切経会も賀茂社など神社で催されるのが恒例だったが、神社でも一切経は重んじられたようである。

南北朝・室町期で注目されるのは、足利尊氏発願の一切経である。尊氏は南北朝動乱で命を失った敵味方一切の亡魂供養のために一切経書写を発願した。この一切経は、亡魂供養のみならず政治的混乱を収拾し、社会の安定を図る意図が込められていた。後年、足利義満によって万部経会が始められ、歴代将軍が参詣する北野社で行われる重要行事となった。このため、北野社ではこの法会を管掌した覚蔵坊増範が主導して一切経が書写された(北野社一切経)。

室町期、特に応永年間には多くの大蔵経が海外(特に高麗)に求められた。しかも足利義持は高麗に大蔵経の版木を譲ってもらえるように交渉した(当然断られた)。この時期は「応永の平和」と呼ばれる安定期である。かつては元寇によって大蔵経の価値が高まった一方で、平和になっても大蔵経が求められたのが不思議といえば不思議である。しかしさらに不思議なことに、大蔵経の需要は大きかったのにもかかわらず、日本で大蔵経が開板されることはなく、海外に依存していた。一切経の書写は多く行われていたにもかかわらず印刷はされなかったのはなぜか。技術的な問題だけでなく思想的なものが関わっていそうである(筆写の方が有り難いという認識があったのかもしれない)。

江戸期に入ると、遂に日本でも大蔵経が出版される。しかも宗存版、天海版、鉄眼版と、立て続けに3回も開板された。

宗存版の著しい特徴は、それまでの大蔵経が木版による整版だったのに対し、古活字版だったことである。宗存版は残念ながら未完に終わったが、世界初の活字版大蔵経であった。なお印刷は北野社の経王堂(万部経会を開催するための広大な建物)で行われた。

天海版は、徳川家光の支援を受け、日本初の活字版大蔵経として完成した。印刷部数は30部程度と少ないが、出版文化史に残る業績である。

鉄眼版は、いわば普及版の大蔵経である。黄檗僧の鉄眼道光は何の資金的裏付けも持たない一介の僧侶であったが、全国に行脚して浄財を集め、非常なる情熱で全6930巻を完成させた。これは全国に予約販売のような形で販売され、当時405蔵が納入されたという。昭和までに2000蔵以上が納品されたヒット商品であった。鉄眼版大蔵経によって全国共通の大蔵経の底本ができたことは、日本の仏教を大きく転換させるほどのインパクトがあった。これをきっかけに、以後の各宗派では盛んに校訂が作られ、近代仏教学の成立に繋がっていった。

明治になると、日本初の金属活字を利用した「大日本校訂大蔵経(縮刷大蔵経)」(明治14年)が出版された。これは廃仏毀釈で痛手を受けた仏教界の再興を願って、島田蕃根(みつね)、福田行誡(ぎょうかい)が企画したものである。これは明治の仏教学研究に大きな影響を与え、海外でも評価された。

有名な「大正新脩大蔵経」(昭和9年完成)は、それまでの大蔵経とは違い研究のためにまとめられたもので、大蔵経の集大成でもあり、仏教研究の基礎的文献として世界各地で今でも使われている(DB化されてインターネットで利用出来る)。

本書では大蔵経の歴史を書くにあたり、それぞれ判型(一行何字・何行といった)や千字文函号(いろはに…と同じような千字文の字によるナンバリング)の有無をまとめており、そうした形式面の変遷をたどるだけでも面白い。

本書を読みながら驚きを禁じ得なかったのは、冒頭に書いたように大蔵経の出版は「とても個人の力のなし得るところではない」のにもかかわらず、それに果敢に挑戦した無謀な人物が歴史にはたびたび登場することだ。

では、彼らは何故人生を賭けてまで大蔵経を出版しようとしたのだろうか? 本書にはそれは詳らかに書いていないし、そもそも発願の趣旨は史料に残っていることは少なく、よくわからない。弘法のためということは言えても、弘法の手段としてなぜ一切経の出版を選んだのか、そこは非常に興味を引かれるところである。

その点に関して一つ言えることは、中国と日本・朝鮮では大蔵経の持つ意味が少し異なっていたということだ。中国では、大蔵経はテキストとして意味があったが、日本・朝鮮ではテキストの内容よりも大蔵経の存在自体に象徴的意味を見出していたように見受けられる。元寇に際して高麗が大蔵経を開板して攘災を願い、また叡尊が伊勢神宮に大蔵経を献納して敵国降伏を願ったように、大蔵経は不思議な力を持っているとさえ見られていた。大蔵経は、テキストの集成以上のものだったのである。

大蔵経とは何かを学ぶための最良の本。

 

2021年5月15日土曜日

『世界古典文学全集 19 諸子百家』貝塚 茂樹 編

諸子百家の思想の概観。

本書は、諸子百家の思想家の中から、墨子、荀子、管子、韓非子、孫子の5名を選んで、著作から主要な部分を日本語訳したものである。なお本書で収録されていない諸子百家(の主なもの)は、儒家本流(孔子・孟子)と道家(老子・荘子)である。

そもそも諸子百家とは春秋戦国時代に活躍した思想家であるが、実際には今のコンサルに近いもので、各国を遊説して政治経済政策を説いていた。

そこで説かれていることは、紀元前の社会への言説であるにもかかわらず、びっくりするほど現代に通じるものがある。人間の社会は、2000年以上経ってもそんなに変わっていないということのようである。 

春秋戦国時代というのは、非常なる乱世であった。それまでの安定した社会の仕組みが壊れ、戦争につぐ戦争の果てに社会が再構築されていく時代である。こういう時代背景は、今の世の中にも通じる所があるかもしれない。本書のような本は現実の社会には役に立たないもののように思うかも知れないが、決してそうではないと思う。

本書はもちろん気になる思想家のみを読むのでも十分に面白い。それに小さい活字の上下二段組み450ページは結構な分量だから通読を躊躇う人もいるだろう。しかしそれぞれの著作は抄訳であるため、読むのは意外と大変ではない(原著の半分〜2/3くらいになっている。ただし「孫子」は全訳)。諸子百家の主要思想がこの一冊で概観できると思うと、労力的にもかなりお得な本だと思う。

本ブログでは既に本書の内容それぞれについてメモを書いてきたが、以下簡単に紹介する(リンク先は読書メモブログ記事)。

墨子
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/11/19.html
実利と鬼神とが奇妙に同居した、不思議な「有神論的功利主義」の書。 

荀子
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/11/19_23.html
科学的な思考によって儒学を再解釈し、環境や努力の重要性を謳う、乱世を生きる力強い思想の書。

管子
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/02/19.html
現実的な人間理解の上に構築された政治経済学。法治主義の思想は近代的ですらある。しかし論文集的であるため一貫性はなく、通読するにはちょっと冗長。

韓非子
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/05/19.html
人間不信の君主論。絶対主義国家を構築するための冷徹な政治経済学であるが、それを実行する君主もまたロボットのように非人間的であらねばならないという救いのない書。

孫子
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/05/19_14.html
記述の態度が当時としては非常に新しい。故事ではなく論理性によって説明するのが現代的。最高の兵法書。

 

 

2021年5月14日金曜日

『孫子』貝塚 茂樹 訳 (『世界古典文学全集 19 諸子百家』所収)

孫子の思想。

本編は『孫子』の全訳である。『孫子』は思想書ではない。あくまで兵学書である。火攻めにする時はどうするかとか、どのような地形で攻めるべきか、退却するべきか、といったような戦いの細かい話もある。

ところが、諸子百家の様々な思想を読んでから『孫子』を読むと、これが紛れもなく新しい時代の「思想」のように感じられるのである。

その新しさは、第1に説明が論理的で全く故事に頼っていないことである。儒家はもちろん諸子百家の全てが、何かを説明する時は必ず故事(歴史)を持ち出す。歴史はあまり参考にならないと考えているらしき『韓非子』でさえも、やはり故事を踏まえて自らの主張をしている。しかし孫子は故事など全く使わない。歴史に疎かったのでなければ、自らの理論によほど自信があったのだと思う。そして故事に頼らず論理のみによって説明するため、文章が非常に簡明である。

第2に、観念論や名分論を廃した、実証・現実に立脚する態度である。例えば「戦争の原理から考えて将軍が勝てないと判断したならば、君主がぜひ戦えといっても、戦わないほうがいいのである」というような言葉は当時の言論の中では衝撃的である。「君主を諫めた方がいい」ならばあるが、将軍の判断で勝手に君主に背いてもよいというのは他の諸子百家の思想には存在しない。『韓非子』であれば、君主に背くなどそれだけで死刑になる。では『孫子』ではなぜこういうことを言うか。それは単純で「そのことがまた君主にも利益になる。そういうことができる将軍はじっさい国家の宝ということができるであろう」からだ。負け戦はしない方がいいに決まっている。君主がいくら戦争をしたくてもだ。そういう当たり前の価値判断をするところが『孫子』が革命的に新しい点である。

第3に、具体的な戦争の仕方を述べているにもかからず、言葉が妙に(?)普遍的であり、いろいろな応用が利く記載が多いことである。「たたかいは国の大事[…]であるから、事前によくよく調査が必要である」「戦争上手も、敵に敗けない態度をつくることはできるが、敵をして敗かされる態勢をとらせることはできない(常に負けないことはできるが必ず勝つということは不可能)」といったようなことは、非常に応用力が大きな言葉だと思う。そうであるのも、『孫子』の表現が本質をズバッと突いるからだ。『孫子』のいうことは、ある意味では当たり前のことばかりであるが、それを素直に表すところが新しい。つまり『孫子』の新しさは思想よりも、その「態度」にあると言える。

古来、孫子が最高の兵法書とされたのも納得である。

 

2021年5月13日木曜日

『韓非子』本田 済 訳(『世界古典文学全集 19 諸子百家』所収)

韓非の主要思想。

本編は『韓非子』全55編の中から、主要な30編を日本語訳したものである。韓非は中国の戦国時代の末期、韓の公子として生まれた。彼は荀子の弟子となったが、生まれつき口が吃りでうまく喋れなかった。華麗な弁舌で思想や政策を説く儒家や墨家が貧窮の徒であったのとは対照的で、この境遇はその思想にも反映しているものと考えられる。

韓非の思想を一言でまとめれば、「人間不信の君主論」である。

韓非は、人間を利己的存在だと見なした。であるから信賞必罰以外にはその行動はコントロールできないのだという。儒家のみならず、多くの思想家が仁義礼智といった道徳によって社会規範を確立しようとしたのに比べ、韓非はそういった内面的なものを一切信じない。信じないどころか有害なものと見なす。君主はアメと鞭によって臣下を使役すべきであるが、もしそうしたものに靡かない臣下がいれば、それは殺してしまうしかない、と韓非は述べている。人間の良心や内面的な欲求というものを徹頭徹尾信じなかったのが韓非である。

しかし韓非がそのような人間不信に陥ったのも無理はない。当時は戦国時代の末期であり、血で血を洗う戦争が行われていた。しかも政治は混乱しており、有能で廉潔な士が冷や飯を食わされる一方で、自己の利益しか顧みない口先だけの奸臣が君主に取り入って幅をきかせていた。本来政治に携わるべきでない無能で有害なものが私利私欲のために国家を食い物にしていたのが韓非の時代であった。韓非の憂憤はその文章のみでも伝わって余りある。

では、一体どうすれば君主はそのような奸臣に蝕まれずにすむか。韓非に依れば、まず君主は誰も信じてはいけないという。たとえ家族であってもである。子に裏切られて弑されることも多いのだから、わが子すら警戒しなければならないし、愛妾などもってのほかである。

そして自らの好みや感情を表すことなく、常に冷徹で冷静でなければならない。なぜなら君主の好みが明らかになると、それに合わせて取り入ろうとする奸臣が出てくるからである。さらに臣下に対しては徹底的に言行一致させる。口だけうまくて何もしない無能な臣下を排除するためである。ただしこれは簡単ではない。臣下は君主に都合の良い報告しかしないからだ。であるから、君主は臣下の言葉が真実であるか検証しなくてはならない。そして計画されたものより成果が足りなかったらもちろん処罰し、多くても処罰する。計画以上に達成するのも言行不一致であり、それは君主に対する罪なのである。

このように、韓非の考えでは君主であることは決して楽ではない。諸子百家の他の思想家と違う点はここである。韓非と同じ法家の管子などは「優秀な宰相と法律の体系さえあれば、君主は何もしなくてよろしい。無為自然である」というようなことを言っている。儒家などもこのような調子で、「君主の仕事は人事であり、優秀な人材を配置したら後は君主の仕事はない」というような主張がある。これらの主張は、君主の責任を人事や立法に限定するものだから、君主にとっては都合がよかったに違いない。

ところが韓非では、国家運営の究極の責任は全て君主にあり、国が栄えるも滅ぶも君主次第、もし国が傾いたとすればそれは君主が悪い、と君主の責任を糾弾する姿勢が鮮明である。こういうことを遠慮仮借なく主張したのが韓非らしいところである。これは韓非が公子という身分であったためだろう。

しかし君主やそれを取り巻く重臣にはこのような正論が受け入れづらいことは韓非にもよくわかっていた。「説難(ぜいなん)」という篇には、政策を説く危険性が縷々述べられている。君主が元来持っている性向と合致しない政策は、いかに正しいものであっても受け入れられる可能性は少ない。それどころかそういうことを説く論客は我が身を危うくすると警告している。そのような危険性を十分認識していながら、使節として秦に赴いたとき韓非自身がその非運にあって、あろうことか相弟子の李斯に殺されてしまうのである。

ただし、それは秦の王(後の始皇帝)に疎まれたためではない。それどころか秦王は『韓非子』の「孤憤」と「五蠹(ごこ)」の2篇を読んで「この作者に会えるなら死んでもよい」と述べたと伝えられる。李斯は韓非が秦王に重用されるのを怖れて殺したのである。実際、秦王が始皇帝になると韓非の政治理論は実行に移された。李斯の文章や、その筆と考えられる始皇帝の告諭を見ると『韓非子』の剽窃に近いものが感じられるという。

始皇帝が実行した『韓非子』の政治理論の中心は法治主義である。『韓非子』では、法を厳密に実行することによって統治する方策が述べられている。しかし他の法家との大きな違いは、法を至上のものとするのではなく、あくまでも統治の道具と見なす考えである。『管子』では、緻密な法体系があれば君主のやるべきことはなにもなく、むしろ君主すらも法令に従う必要があるとしていたのに、『韓非子』では立法と行政はどちらが欠けてもだめで、また君主は法の上に君臨しなければならないと考えている。

法家思想の流れを考えると『韓非子』はその集大成に位置するのであるが、法の下の平等など近代法学に合致するのは『管子』の方で、『韓非子』はそういう近代法学的な部分は却って後退して、法が政治理論の一つの道具になっているように見受けられる。韓非にとっては君主絶対主義が重要で、法治主義はそれを支えるものに過ぎなかったようだ。

私は『韓非子』を読みながら、他の諸子百家の思想家と比べ何か物足りなさを感じざるを得なかった。文章は憂憤の情に溢れて激越であり、説得力も高い。特に始皇帝が唸った「五蠹」などは非常なる名篇である。しかしながら、その人間理解の皮相さに、「本当にそうだろうか、人間とは?」と自問してしまうのである。韓非によればほとんど全ての人間は利に従って行動するという。であるにしても、手近にある小さな利益と、辛抱して得られる大きな利益を比べた時にどう行動するかは千差万別であろう。利益を求めるにしても、何の利益をどのように求めるかを考えなくては人間の行動は理解できない。

しかし『韓非子』では、皆がみな刹那的な利益ばかりを求めるとでも言わんばかりなのである。もちろんこれは韓非の生きた時代が戦乱の世であったことによるのだろう。人々が刹那的な生き方をするのも当然である。ところがここに一つの矛盾がある(←ちなみに「矛盾」という言葉は『韓非子』が出典)。韓非の言うような統治を行うとして、それで君主が得られる利益はなんなのかということだ。

韓非の描く君主像は、とても幸福とはほど通い。誰も信じず、愛さず、好みは隠し、安逸を許されることもなく、冷徹で、お気に入りの臣下を贔屓することもできない。まるでロボットのような君主を演じなくてはならないからだ。ではそうした人間を演じることで、君主の得られる利益は何なのか? 『韓非子』によれば、それはひとえに他国に勝つということなのである。確かにそれは大きな利益には違いない。だが普通の君主は、贅沢をしたり美姫をかしづかせたり、親族の栄達を図ることに実際の利益を見出しており、他国に勝つというのはそのための方策に過ぎない。『韓非子』の人間不信を君主に向ければ、当然君主すらそうした卑近な欲望に従って生きているとせざるを得ないのである。

だが『韓非子』では、君主は他国に勝つということを第一の利益として、それ以外の人間的喜びを全て放棄した存在として描かれている。そのようなことがあるだろうか? ありうるとすれば、他国からの脅威を警戒している最中だけだろう。『韓非子』の説く政治理論はきわめて現実的であるにも関わらず、その君主像は空想的ですらある。

つまり『韓非子』では、人間をどう見るかという視点が一貫していない。だから『韓非子』は「人間の学」として見れば破綻していると思う。韓非は、古の聖人の統治は立派なものであったとしながらも、「世異なれば事(こと)異なる」と言って、そのような統治は今の世には現実的でないと言う。古の聖人のような立派な君主は今はいないし、民衆の方も昔とは違ってしまっているからだ。だから凡庸な君主でも実行可能な政治理論が必要だというのである。

それなのに『韓非子』の描く君主は、およそ不可能なほどストイックに統治を行うロボットのような人間にならざるをえなかった。それが『韓非子』のいきついた矛盾であったのである。

諸子百家の君主論の究極であるとともに、皮相的な人間理解に限界を感じる悲劇の書。


2021年5月10日月曜日

『ナショナリズム──その神話と論理』橋川 文三 著

日本のナショナリズムの起源を後期水戸学から探る本。

本書はアンバランスな論考である。著者自身があとがきで「敗退の記録」と述べているように、とりあえずぶち上げた「ナショナリズム論」をどうにかこうにか形にするべく悪戦苦闘した末、途中で投げ出したような代物だ。「この書物は、せいぜい全体として日本ナショナリズムというテーマに迫るための序説のうちの序論(p.245)」で終わったものなのだ。

では本書が内容の薄い本かというとそうではない。確かに論考のバランスは取れていない。序論で提出された壮大なテーマはほとんど消化不良のままに終わる。だが短い記述の中に日本のナショナリズムの特質が描き出されており、長大な思想史の一部分を垣間見たような気になる本である。

序論では、ヨーロッパのナショナリズム論のエッセンス(特にナチスを巡るもの)が紹介され、ナショナリズムは自然発生的なものではなく(それどころかしばしば郷土愛とは相容れず)人為的に作られたものであると述べる。さらにルソーのナショナリズム論に触れ、ナショナリズムは、神を失った社会で「一般意志」(主権者の意志)に服従させるための「新しい神」を創出するものであったと見る。ナショナリズムは、自国の誇りを鼓舞するというような単純なものでなく、最初から「公共の利益」のために全てを犠牲にすることを求めるグロテスクなものとして生まれた。ナショナリズムとは「新しい政治的共同体への忠誠と愛着の感情(p.49)」なのだ。

第1章では、日本におけるネーションの誕生を考察する。それにあたりまずは徳川斉昭(水戸藩主)、会沢正志斎(水戸学者)、大橋訥庵(儒学者)らの水戸学に関係した夷狄排撃論が紹介される。彼らは日本を「神州」と位置づけつつも、それはあくまで封建領主の所有であると考え、また民衆を愚民視して露骨に猜疑した。その論には挙国一致を呼びかける風はなく、彼らの頭に共同体の一員としての民衆(=ネーション)は存在していない。後期水戸学はナショナリズムの母体ではあるが、そのものはネーションを生まなかった。

一方、脱藩して東北に行き、水戸学と出会って「歴史」を発見した吉田松陰は違った人間観を持っていた。彼は男女を対等なものと見なし、民衆どころか部落民をも差別しなかった。しかも理詰めでそうしていたわけではなく、ごく自然な人間の情感や「善意」からの行動だった。この「善意」が(ある意味では皮肉なことに)ネーションを予見させた。

松陰は猛烈に歴史を勉強し、歴史の核心に「忠誠心」を据えた。その忠誠とは体制に盲従するのではなく、時として君主に諫言するのも厭わないもので、表面的な忠誠のみしかない佞臣は最も彼が嫌ったところである。であるから、彼はあくまでも幕府に忠誠を誓っていた。ところが倒幕論者の勤王僧黙霖とのやりとりの中で松陰は転向し、正統な統治者は天皇のみであると考えるようになった。そして天皇に対する「億兆」として、天皇以外の人々が相対化されることになったのである。

こうして体制擁護の学であった水戸学から倒幕の思想が生まれてきたのであるが、豪農層・商人層が信奉していた国学からも、別の面から一種の革命思想が生長してきた。それは、本居宣長が古代をユートピアとして描きつつ、この世の全てを神のはからいとして肯定し、ただあるがままに身を任せることを理想化したことから始まる。あるがままの対極が儒教的な規範、すなわち封建的社会論であったので、国学は結果的に封建社会の仕組みを根底から批判することになった。宣長の思想は徹底的に非政治的であったために、かえって現実の政権を相対化する役割を果たしたのである。

さらに平田篤胤は、宣長の思想を神学に転化させた。日本人はみな神の後裔であるとされ、彼の鼓吹した天皇に対する仰望=恋闕(れんけつ)はキリスト教の「神への愛」にも比すべきのとなった。ここでも人々は天皇の前に平等であると考えられるようになる。

幕末にネーション形成への機運が起こった背景には現実的な要請があった。夷狄を攘うための武力を必要としたことから国民兵(農民も兵士としてとりたてる)の構想がむしろ民衆側から提出されたし、また下級武士たちは無能な上級武士たちを押しのけるため能力本位な社会の仕組みを求めていた。そうした階級上昇を求める切実な要望に呼応するかのように、水戸学からも国学からも、天皇を超越的な支配者とし、それによって全ての階級を相対化する一種の平等思想が生まれていたのである。「自己の身命にいたるまで皆天皇の御物」という意味で、天皇以外の全ての人は平等なのである。どうやら日本における「平等」の概念は、まずは「天皇の前における平等」として理解されたようだ。

第2章では、このように準備されていた思想が明治政府樹立後にどのように変節して行ったかが述べられる。明治政府は攘夷の実現のために樹立されたにもかかわらず、実際的な必要から開国を進めた。いくら日本が神州だと述べたところで、現実には日本は多くの国の中の一国に過ぎず、列強に伍するための富国強兵には「万国公法」に従うべしとされた。

国学者たちはその時勢の流れについていけず、大国隆正のように「日本」への狂信と世界への開明性が奇妙に繋がった例外もあったにしろ、古代社会を理想とする国学は急速に顧みられなくなっていった。そうした国学者たちの失望を島崎藤村は『夜明け前』に書いた。

そして本書には詳らかでないが、国学と共倒れしたのが水戸学を含む儒学であった。国学との無意味な主導権争いによって政府首脳から愛想を尽かされ、より実用的かつ倫理的でもあった洋学が明治政府によって大々的に採用されることになるのである。

このように、幕末に意図せずして成長しつつあった「平等」の思想は、十分に形にならないままうやむやに立ち消えてしまった。そして「文明開化」に邁進する政府によって従前の思想が全て無意味化されてしまい、武士も民衆も、思想的なアノミー状態に突入する。雨あられのように乱発された難解で朝令暮改な布告は民衆を苦しめ、むしろ無気力で刹那的にしていった。旧時代は安定し自律した生活を営んでいたのに、新政府はその基盤を破壊したのである。

しかし今度は、政府の方がネーション=国民を求めることになる。それは、対外的な脅威に対抗する挙国一致体制を作るため、進んで国家に身を献げる民衆を創出する必要があったからだ。民衆は「国民」として国家に組み込まれた。そのための一手が「天皇親政」であった。ここで「天皇の前における平等」が持ち出された。しかしそれよりも国民意識を持たせたのは、納税や兵役の義務、そして戸籍の作成であったと著者は見る。

特に戸籍法は、「国民概念の法的表現」であり画期的な意義を有した。そしてそれが戸(家族)を単位としたことは日本のナショナル・キャラクターに大きな影響を与えた。国家が直接個人を支配するのではなく、家を介して支配する仕組み・前提が出来上がっていったからである。それまで一般民衆は家(イエ)にはまるで無縁だったのに(そもそも名字すら持っていなかった)、歴史的にそうであった以上に権威主義的でしかも上位権力に卑屈な家の概念が国家によって持ち込まれ、それによって明治期のネーションが形成されていったのである。

そしてもう一つ、国民の創出を別の方向から訴えていたのが自由民権運動であるが、これにしても国家に進んで命を捧げる共同体を作るために国会を作ることが必要だ、というようなロジックを使っており、「愛国」のための国民創出という点では政府の考えとほとんど変わらなかった。

すなわち、日本では「国民のナショナルな目醒めを経て国民国家が成立したのではない。列強に伍すべき「国民国家」が少数の専制的指導者によって設計され、それに必要な国民は教育によて創り出された(p.252 渡辺京二による解説)」のである。そして、日本は国民国家であるにもかかわらず、国民の意思(一般意志)は顧みられることはなく、主権者はあくまでも天皇であった。そして戦後、主権者が国民となっても、未だに確固たる「国民」は生まれていない。

本書は、著者自身が「序説のうちの序論」という通り、日本ナショナリズム論のアイデアが提示されただけで終わった感がある。特に不十分に感じたのが、吉田松陰の転換がどう幕末の思想史に繋がってくるかという点と、戸籍法についての考察である。しかしそういう点はあるにせよ、本書の視点はユニークで十分に読む価値がある。というのは、水戸学や国学が明治国家の政治にどう繋がって行ったのかという論考は多いのだが、それが民衆の「思想」にどう反映したかという論考は意外と数少ないからだ。

私なりに本書の結論をまとめると次の通りである。(1)日本においては「国民」はあくまでも天皇=国家と億兆(個人)という縦の関係のみで創出され、共同体を構成する「同胞」といった横の関係は十分に発達しなかった(むしろ明治政府は横の関係が発達することを恐れ民衆の団結を弾圧した)。(2)そして縦の関係は、それまで武士以外では見られなかった権威主義的な家父長制を導入することによって具体化した。(3)日本国民は、天皇ー戸主ー家族という関係で位置付けられ、そこに国民の意思を代表する機関が中間に存在しなかったために、国民の一般意志(主権)はないがしろにされ、またその発達を阻害した。

幕末明治における「国民」の成立を通じて語られる出色の近代日本論。

【関連書籍の読書メモ】
『現人神の創作者たち』山本 七平 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/03/blog-post.html
朱子学の日本的変容を述べる本。現代日本まで生きる「朱子教」の呪縛を解きほぐした力作。本書は前期水戸学までで筆が擱かれているため、後期水戸学から出発する『ナショナリズム』と合わせて読むと現代までの接続がよく理解できる。

『夜明け前』島崎 藤村 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/08/12.html
幕末明治の社会を、ひとりの町人の一生を通して描いた大河的小説。

 

2021年4月30日金曜日

『ハイドン 新版(大作曲家・人と作品)』大宮 真琴 著

ハイドンの伝記。

ハイドンは古典派音楽の黎明を担った人物であり、音楽史上に重要な位置を占めている。しかし日本では評伝に恵まれておらず、本書は1962年に出版された時点で日本語での最初のハイドン伝であった。この頃、ハイドン研究は日進月歩で進んでおり、特に著者とも交友があったロビンス・ランドンは1978年に全5巻の『ハイドン』を完成させてハイドン研究に画期をもたらした。本書は、ランドンの『ハイドン』によって旧版を改訂した新版である(1981年出版)。

ヨーゼフ・ハイドンはオーストリアのローラウという村に生まれた。ハイドンの生家は特別に音楽の教育を施せるほどではなかったが、ハイドンは早くから音楽的才能を示し、特に歌がうまかったので、8歳でウィーンのステファン寺院の合唱童児として引き取られる。

ステファン寺院にいた10年間、ハイドンは体系的な音楽教育を受けることはできなかったものの、ヴァイオリンなどの楽器の習練を行い、またその音楽的雰囲気によって生きた音楽の訓練を積んだ。しかし変声期を迎えて使いものにならなくなるとすげなく解雇され、17歳のハイドンは金も希望もない状態でウィーンの街に投げ出された。

宿無しのハイドンはある親切なテノール歌手の家の屋根裏に身を寄せ、半年後、暖炉もなければ窓もない惨めな屋根裏に居を構えた(ミヒャエラーハウス)。しかしハイドン自身はとにもかくにも独立した部屋を持ち、虫食いのクラヴサンを所有していることに満足していた。そしてこの頃、ハイドンは作曲を独学した。フックスの『グラドゥス・アド・パルナッスム』、マテゾンの『完全なる楽長』、ケルナーの『ゲネラルバス教程』の3冊で作曲理論を学んだらしい。またこの頃、エマヌエル・バッハ(J.S.バッハの子)のソナタと出会って熱心に研究した。 

やがてハイドンに運が向き始める。19歳の時には最初の劇音楽「せむしの悪魔」を作曲、成功させた。そして様々な幸運に導かれ、音楽好きな貴族フュールンベルク男爵に雇われる。ハイドンは男爵の自邸での音楽会を担った。この時期、ハイドンは最初期の弦楽四重奏曲を書いた。またハイドンのもとには様々な仕事が舞い込み、不安定だが多忙で自由な生活を送った。

ハイドンは27歳の時、フュールンベルク男爵の推挙によってボヘミアのモルツィン伯爵に楽長兼作曲家として仕えることになった。12〜16名のオーケストラを率いる立場だった。この時期、ハイドンは生涯最大の過ちを犯す。それはマリア・アンナ・アロイジアという女性と結婚したことだ。彼女は喧嘩好きで嫉妬深く、偏屈で浪費家だった。結局彼女との間には子どもを授かることもなく、暖かい家庭を築くことはなかった。ハイドンは家庭で孤独だった。そしてそのために、「いっそう彼は、芸術の世界に沈潜して(p.53)」 いった。

そして1761年、29歳のハイドンはオーストリアとハンガリーの境界あたりにあるアイゼンシュタットの町に赴任する。ハンガリーの大貴族、エステルハージ家の副楽長として仕えるためだった。当主パウル・アントン侯は大変な音楽愛好家で楽団を増強したが、その一環としてのハイドンの起用だったようだ。だがハイドンが雇用されて1年もたたないうちにパウル・アントン侯は死去し、弟のニコラウス・ヨーゼフが後を継いだ。ハイドンが30年にわたって仕え、親密な主従関係を結んだのはこのニコラウス侯である。

ハイドン赴任の当時のエステルハージ家の楽団は16人で、楽長は名目的なものだったので副学長だったハイドンが事実上楽長としての職務を果たした。 ハイドンは演奏に関しては厳格で細かい指示を与えたが、人柄は穏和で、何事につけても争うことがなく、楽団員を温かく保護した。そしてオーケストラを自由に使えるという、作曲家としてはこの上ない環境で、ハイドンは交響曲や室内楽曲を精力的に作曲していった。

ニコラウス侯は、エステルハージ家の「ヴェルサイユ宮」を作ることを思い立ち、避暑地としてノイジートラー湖畔に「エステルハーザ」と名付けた新しい宮殿を造営した(1784年完成)。ここは見渡す限り泥土に覆われた田舎の寂しいところだったが、ニコラウス侯はここが気に入って一年の大半を過ごすようになり、またここを芸術のセンターにしようとした。エステルハーザでは週に2回もオペラが上演され、他に人形芝居(マリオネット:音楽付き人形喜劇)も頻繁に演じられた。ハイドンは楽長に昇進し、交響曲、オペラ、マリオネット、そしてニコラウス侯が演奏するバリトン(チェロとギターを足したような楽器)の曲など、侯の要望に応じて厖大な作品を生みだした。

1781年、ハイドンは「ロシア四重奏曲」と呼ばれる弦楽四重奏曲のセットを出版する。これはソナタ形式の完成を告げるものだった。この頃、ハイドンの全ヨーロッパ的な名声が確立し、外部からの作曲の依頼が多数舞い込むようになった。1785年にはスペインのカディスの司教座聖堂参事会からの依頼で『十字架上のキリストの七語』が作曲され、同じ頃、パリの民間のオーケストラ、コンセール・ド・ラ・オランピックからの依頼で「パリ交響曲」と呼ばれる交響曲群(82番〜87番)が生みだされた。

また1780年代には、ハイドンはウィーンでモーツァルトと会うようになった。「ロシア四重奏曲」はモーツァルトに影響を与え、モーツァルトは6つの弦楽四重奏曲を作曲してハイドンに献呈した(ハイドン・セット)。二人は様々な点で正反対だったが、互いに天才として認め合っていた。ハイドンはモーツァルトが不遇だった時期に、彼を「最も偉大な作曲家」「100年に一度の天才」と言って憚らなかった。

ところで、ハイドンの音楽が最も人気を博したのはイギリスだった。折しも1790年、ニコラウス侯が亡くなり、後を継いだアントン侯は音楽好きではなかったので、ハイドンは名誉楽長となって暇になった。そこでハイドンはエステルハーザを離れてイギリスに行くことにした。ロンドンではヨハン・ペーター・ザロモンというヴァイオリニストが演奏会を企画し(ザロモン演奏会)、ハイドンの交響曲は喝采を浴びた。社交界からもハイドンは大歓待を受けた。

ハイドンは人気者としてチヤホヤされる騒々しい生活はあまり好きではなかったらしい。しかしロンドンにおける日々はハイドンの生涯で最も幸福な時期でもあった。しかも演奏会からは莫大な収益があった。ハイドンは2度ロンドンに渡り、一度はロンドンに永住する気にもなったほどだ。

2度目のロンドン旅行から帰ってきたハイドンは、アントン侯を継いだ新しいエステルハージ家当主ニコラウス2世から再び楽長に任じられた。ニコラウス2世は、かつてのエステルハージ家の楽団を再建しようとし、また今や全ヨーロッパ的名声を持つハイドンを抱えるという誘惑に勝てなかったのである。

しかしニコラウス2世の音楽の趣味はかなり偏っていた。彼は伝統的な宗教音楽を好み、新しい時代の音楽を切り拓いてきたハイドンの音楽はあまり好きでなかった。それでもハイドンは古くからの恩があるエステルハージ家から離れようとはせず、むしろ新しい主人の好みに合わせて宗教音楽の作品を作るようになった。ハイドンの晩年を飾る一連のミサ曲がエステルハージ家のために生みだされた。

そしてロンドン旅行の際、オラトリオ『メサイア』などヘンデルの偉大な作品に触れ刺激を受けていたハイドンは、全ての力を傾注してオラトリオ『天地創造』を作曲した。『天地創造』はロンドンで手に入れた台本をスヴィーテン男爵が翻訳し、また男爵が音楽愛好家の貴族から作曲の費用を集めるなど、男爵との協力のもとで作られたものである。これは各地で異常な成功を収めた。また男爵は『天地創造』の成功を受けて、「四季」の台本を作成してハイドンにオラトリオを作曲させた。「四季」の台本はあまり詩的ではなく、ハイドンは乗り気でなかったがこれも傑作となった。『天地創造』『四季』はハイドンの全声楽作品の中で燦然と輝く作品である。

ハイドンの晩年は様々な栄誉に彩られていた。ハイドンほどの名声を手中にした音楽家は、西洋音楽史でも初めてだったかもしれない。1809年、77歳でハイドンは死んだ。ちょうどナポレオン軍がオーストリアに侵攻してきた時で、ウィーンは占領下だったので死去時にはほとんど知られなかったが、葬式の後日、ウィーン中の名士が集まって追悼式が行われた。そこでウィーンの音楽家たちが歌った曲は、親友モーツァルトの『レクイエム』だった。

ハイドンの人生で特徴的なことは、キャリアの中心がエステルハージ家の楽長という地味で地方的なポジションだったことだ。エステルハーザ宮はヨーロッパの端っこで、周りには何もない田舎だった。ハイドン自身、田舎に勤務することの不利を感じていた。しかしこのヨーロッパの音楽シーンの中心とは離れた浮世離れした環境で新しい時代の音楽が生まれ、しかもそれが認められることになったのが不思議である。このあたりの事情は本書には詳らかではない。

ハイドンはロンドン旅行の前には、ウィーンとエステルハーザを往復する以外には大旅行をしたことがなかった。この時代の音楽家は各地の宮廷を渡り歩くのが成功の常道であったにもかかわらずだ。ハイドンの成功は、当時のセオリーとは違った形であったのは間違いないようだ。エステルハーザでの職務は多忙だったが、孤独で喧騒のない環境は却って芸術が醸すのによかったのかもしれない。

本書は、伝記が約半分で、4分の1が作品の簡単な解説、その他に作品リストと年表、交友リストなどとなっている。本書は、ハイドンの生涯を知ることの出来る良書であるが、一つ物足りない点がある。それは、記述のスタンスとして、音楽の内容には極力踏み込まないようにしていることである。主役はあくまでもハイドンの人生であるということだ。

音楽についての記載は簡略だが、正確かつ抑制された筆によるハイドンの伝記。