2026年5月31日日曜日

『仏教土着――その歴史と民俗』高取 正男 著

仏教と民俗宗教の関係を考察する本。

本書は、昭和45年のNHKラジオのFM文化講座「日本民俗学の課題」の一部をまとめたもので(それにしても昔のNHKFMは硬質なテーマを放送していた)、仏教が土着するとはどういうことかをいくつかの題材で考察している。

日本人の信仰はまことに雑駁としたもので、そこには仏教にはない要素が多分に含まれていた。しかし多くの日本人は、正月や盆の行事、民俗芸能、日常生活の隅々にあった俗信をまさに仏教の一環であるとも認識してきたのである。西川如見は「町人嚢」のなかで「日本にての聖霊祭の躰も、一向に仏法のみを用いたるものにあらず、みそ萩、青萱の筵、土器(かわらけ)、麻(お)がらの箸など、唐天竺の様子にはあらず、神道の躰なりといへり(p.21)」と述べている。如見がこう述べているということは、一般的にはそれが仏法に基づくものと認識されていたことを示している。なお、そういう儀礼は神道のものだ、というが実際には神道でもなく、今でいう民俗信仰であった。

前近代の社会において、民俗信仰こそ民衆の生活を強力に規定していた。廃仏毀釈で仏教を全廃した旧苗木藩領(岐阜県加茂郡白川町)では、仏教を棄てて100年にもなっているというのに(※本書刊行当時)、その死後の世界についての考え方はほとんど周りの村と変わらない。これは、人々が仏教を棄てたつもりで捨てきれなかったというよりは、そもそも彼らの他界観が仏教の理論に基づくものでなかったからだと解釈できる。この強力な民俗信仰を無視しては仏教は土着できなかったはずだ、というのが著者の考えである。仏教は「民俗信仰と妥協し、さらにはそれと離れがたく結びついている(p.30)」。

しからば民俗信仰とは何か? これがなかなか難しい。民俗信仰には一貫した理論もそれを唱道した人物もおらず、とらえどころがない。例えば7歳までに死んだ子供の埋葬を大人とは違う墓地にしたり、家の床下に埋めるといった村があったが、これは何に基づくのか。明らかにその観念の基盤は仏教ではない。著者はこうした行動を「早く生まれ変わってほしい」とか逆に「遠くの仏の世界ではなく近くに留まっていてほしい」といった願望の現れとしているが、実のところその理由は不明というほかない。なお縄文時代の竪穴住居の入り口の床下に幼児の遺体が埋葬されていた例もあるそうだ。

民俗信仰と仏教の関係を考察するために著者がとりあげる題材が、鹿児島にあった「カヤカベ教」という民俗宗教である。薩摩藩では一向宗が禁じられていたため、一向宗を奉じる人々は隠れ念仏を行っていた(※著者は「かくし念仏」と書くが、ここではより一般的な「隠れ念仏」とする)。本願寺(本山)は秘密裏に信徒を組織していたが、弾圧が激しくなった時期に本山との連絡が途絶えた地域があり、そこでは独自の念仏信仰が発展した。そうしてできた信仰が霧島の牧園町・横川町にあった「カヤカベ教」の名で呼ばれるものである。

「カヤカベ教」は他称で、その教徒たちは「牧園横川聯盟霧島講」と呼ぶ。表向きは霧島講(霧島信仰、霧島修験)の形をとり、大正や昭和の初めでは霧島神宮側では彼らを「萱壁組合」とか「萱壁講」とか呼んでいた。このほか彼らは、カヤカベ教を「吉永どんの宗教」とも自称してきた。藩当局の弾圧がもっとも激しかった時期に教団を主宰したのが親幸という人物で、彼の俗名を吉永市蔵といい、その死後、教祖の地位をその直系の子孫で継承したことで「吉永どんの宗教」というようになったのだという。

カヤカベ教については、龍谷大学が昭和39年に調査団を組織して調査を行い、その結果は『カヤカベ かくれ念仏』(法蔵館)としてまとめられた。著者はこの調査団の一員であったため、本書ではカヤカベ教についてかなり詳しく紹介されている(一般向けの本では本書が一番詳しいかもしれない)。

カヤカベ教では、牧園が11、横川が6つの「郡(こい)」という組織に編成されていた。一般の平教徒は「御同行衆(ごずぎょうしゅう)」と呼ばれ、その中の信心堅固なものが「知識」に昇格し、さらに郡ごとに「郡親(こいおや)」というリーダーが選ばれた。法会や葬式はこの郡親が主宰する。数個の郡を統括するのが「中親」で、教団運営の相談役として「取次ぎ」がいる。調査の時点で、郡親20数名、中親8名、取次ぎ3名がいた。このほか調査以前には、霊媒的な役目と考えられる「杓取り」という女性がいた。これらの役職は一代限りで終身であった。親幸の妻靏亀(つるかめ)も霊媒的な体質で、彼女は親幸とは後に別れてカヤカベ教の別派「権次法」をつくった。

カヤカベ教は基本的には浄土真宗の教義を踏襲しているが、「オツタエ」という口承で伝えられてきた説教(法話)が興味深い。これには「仏法のはじまりや天地の開闢、聖徳太子の治世、法然・親鸞の事蹟から石山合戦、さらにはこの教えが起こり、伝承する過程での宗教坊や親幸の事蹟など(p.85)」が含まれた全13種が伝えられている。また、独自の教義として鶏肉を絶対に食べないことがある(知らずに鶏肉を食べても浄土には行けない、という)。著者はこれは隠れ念仏を偽装するためにことさら戒律を強調した結果生まれた教義と考えている。このほか、「お書物」と呼ばれる文書が残されている(後述)。

カヤカベ教に入信するためには、郡の全員から承認を受け「ヒキイレ」という儀式を行うことから始まり、様々な儀式が用意されているが、特に葬式は注目される。教徒が亡くなるとその衣類を郡親の元に持参し、その衣類を一種の御霊代としてお座がたつ。そして葬式を行い、夜に納棺する。さらに翌日、タユドン(太夫)などと呼ぶ神職を呼んで神式による葬式を行う。神葬祭は、明治以降に加わった偽装のための葬式と思われる。このように二重の葬式をするのは、信教自由となって浄土真宗が解禁された明治以降にも彼らが隠れ念仏をしていたからである。

「お書物」には、親幸が教徒たちに回覧させた文書が含まれており、これは一種の冥界通信であった。親幸は亡くなった教徒が、ちゃんと浄土へ行ったか知らせていた。面白いことに信心堅固なものほど短い時間で浄土へ到達するとされていた。親幸は3日ほど寝続けることがあり、そういう時に親幸は「霧島の神に連れられて浄土へ行っていたという(p.103)」。しかし阿弥陀如来に近侍したのではなく、薬師如来・伊勢・霧島六社権現・聖大明神が阿弥陀如来の言葉を次々に取り次いで親幸に伝えた、というような形で書かれた文書が多い。かと思うと、「かいの崎(健崎)」の庄兵衛の父親の次太郎(過去の往生者)は阿弥陀如来に近侍しているとされ、この次太郎を取次ぎとして阿弥陀如来にいろいろと相談がなされてもいた。

ともかく、教団内で何か相談事があると、親幸に願い、親幸から霧島六社権現、権現から伊勢、伊勢から阿弥陀如来といった形で願いが累次に取り次がれ、阿弥陀如来からの回答はこの逆ルートで伝えられた。教団の組織運営に関することはこうした手続きが厳重を極め、文政11年の「御状」はその極致である。曰く「(杓取りに復帰させてくれという)春菊とお末の願いについて、御聖大明神と上積大明神の二神が86人の供衆といっしょに、二度と取違いはさせないと起請文を書いて、霧島六社権現に願い、それを受け取った霧島権現は、自分たち一存ではできないといって、日向の大当の権現以下の三神と相談し、2516人の供廻りと起請文を書いて伊勢に願い、伊勢の神は5032人の供廻りっと起請文を書いて、阿弥陀如来の取次役に願い、取次役は供廻り2万65人と言葉をそろえ、起請文を書いて如来に差し出した(p.112)」。これに対し如来は、二人を帳面に書き込むと帳面を汚すことになるといって、新しく名簿を作り直すことを命じ、玉突き的に人事の変更が行われた。

これに対し著者は「こういう託宣類似のことが、真実をこめて書上げられている点に、当時、カヤカベ教徒のおかれていた状況が、悲しいまでに反映している(p.113)」とするが、その「状況」とは何を意味するのか。また詳細は割愛するが、カヤカベ教の人事はなかなかうるさく、先ほどの「杓取り」復帰が重大な問題となったように、複雑な組織機構を備えていた。そしてこのような重要文書は、普通教祖か中親のもとで保管されていると思いがちだが、実見できた3か所は全て女性の有力平教徒のもとであった。このことはカヤカベ教の組織が単純なピラミッド構造ではなかったことを窺わせる。

本書の記述から伝わってくるカヤカベ教の印象は、著者が強調する「弾圧された秘密宗教」のイメージとは少し違う。また著者はカヤカベ教の土俗性・民俗性に注目するが、「民俗宗教」と仏教諸派はどう違うか。著者は民俗宗教を「民衆の手によって雑多な信仰・儀式などが付加されていって出来上がったもの(著者の説明を要約)」と認識しているが、仏教諸派も同じような性格は指摘できる。民俗宗教と仏教諸派の違いは程度問題に過ぎない。しかし普通の民俗宗教は、全体として一貫した理屈がなく、特定の唱道者がおらず、宗教のための上意下達的な組織がない(ただし講のようなものはある)ということは言える。

そういう意味からは、カヤカベ教はむしろ仏教諸派のような唱導宗教に近い。親幸という教祖がおり、教祖が伝えとされる物語が信仰の中核となっていたのは、民俗宗教というより唱導宗教の特徴だ。

親幸は霊媒気質で、見てきたように異界を話す人物だったのだろう。今でも鹿児島にはそういう人がときどきいる。カヤカベ教はまさに「吉永どんの宗教」すなわち「親幸教」であったのだろうと私は思う。カヤカベ教が、元来は隠れ念仏であったというのは疑い得ない。ところがカヤカベ教は京都の本山を不審のまなざしで見ており、「本来の教えを伝えているのはこちらだ」という意識が強い。これは何を意味するか。カヤカベ教は確かに弾圧されていたが、それは藩当局からではなく、本山からだったと考えた方が理に適う。

おそらく、隠れ念仏に対する藩当局の弾圧が激しくなった時期に、この地域の隠れ念仏信徒は本山との連絡が途絶え、そこに現れたのが親幸であったのだろう。親幸は阿弥陀如来とつながり、本山以上の権威を作り上げた。そして親幸自身の仕事であるかどうかはともかく、信徒を本山とは全く違う形に組織した。その組織原理は、秘密保持というよりは権威の演出に大きな力が割かれているように見える。そして故人が浄土へ往生できたかの決定権を親幸が持ち、往生にかかった時間によって教徒をランク付けした。こういう教団を、本山が異端として排撃しないわけがない。鹿児島の一向宗弾圧は、常に行われていたわけではなく、激しく弾圧された時期とそうでもない時期がある。そうでもない時期には本山は信徒とそれなりにつながっていた(でなければ隠れ念仏自体が不可能である)。であるから、カヤカベ教を本山が矯正しようとした可能性は大きい。

とすると、カヤカベ教の幹部としては本山に対抗する必要があっただろう。そのために作られたのが、天地開闢からの歴史を物語る「オツタエ」や、累次の神仏の取次ぎだったように思われる。一見荒唐無稽な神仏の取次ぎは、親幸・教祖の超越的な権威を強調するためのストーリーではなかったか。少なくともこれは秘密保持とは何ら関係ないのは明らかで、むしろどこか遊戯的な要素も感じさせる。ちなみに取次ぎに登場する「聖大明神」はこの地域にある地元の神社の神である。地元の神社の神から阿弥陀仏までがつながり、それを手中にしていたのが教団幹部だった。

そして本山がいう真宗の教義は多分に理念的・形而上学的であるが、カヤカベ教のそれは即物的・具体的だ。「どんな悪人でも一度でも南無阿弥陀仏と唱えれば往生できる」といわれるより、「私が浄土に行って確かめたところ、故人は浄土まで3刻かかったがようやく到達できた。日頃の信心のおかげだ」といわれる方が納得感がある。この納得感を武器に本山に対抗して出来上がったのがカヤカベ教であったような気がしてならない。つまりカヤカベ教は、藩政府だけでなく本山からも隠れていた隠れ念仏なのではないか。

この仮説を裏付けるように、はじめ龍谷大学の調査団が村に入った時、教徒たちは「ある種の恐慌といってよい状態(p.99)」となった。彼らは本山が「むりやりに「折伏」しに来たと判断した(同)」のである。こうした状況証拠から考えると、彼らが信教自由以降も隠れ念仏を続けたのは、ほかならぬ本山から隠れていたためと結論付けてよい。

本山という理論的支柱から決別した時、土俗的なコミュニティがどう宗教性を発展させるかという実例がカヤカベ教なのかもしれない。カヤカベ教は、「真宗教義の土俗化したものという言葉だけでは説き明かせない厳しい宗教性が、教徒たちの日常生活を貫いていた(p.99)」と著者はいう。迷信といえばそれまでだが、先述の「鶏を食べない」をはじめとして、カヤカベ教では各種の生活規定(戒律)があり、それを厳しく守っていた。そしてよく言われるように、真宗は仏教諸派の中では最も迷信を拒否した宗派である。真宗では阿弥陀仏の絶対性が強調され、それ以外を些事として退けた。結果として、真宗では他の仏教諸派がうるさく言うような細かい儀礼や生活規定をほとんど否定し、信心のみを強調した。真宗の根本である念仏すらも、ああしろこうしろという規定はなく、一生に一度でも唱えれば阿弥陀仏は必ず往生へ連れて行ってくれるという。

そして真宗では「(他力に頼るほかない)悪人こそ阿弥陀仏は救ってくれる」という悪人正機説を強調した。ところが、こうした真宗教義は、真面目に生きている真宗門徒にとってそれほど魅力的でも信仰しがいのあるものでもなかったように私には思える。もちろんそうした教義は、悪を重ねなければ生きていけない人々、自力救済はできそうもない人々に真正面から向き合って形作られたものではあった(それに真宗では、すべての人は悪人だと喝破した)。しかし真面目に生きている(と自認する)人からすれば、そうした教義は何か物足りない。日頃の生活で戒律を守り、信仰に身を捧げている人こそ救われる方がずっと信仰のしがいがある。つまり「信仰しがい」が自然に発展していったのがカヤカベ教だったのではないだろうか。少なくとも、南無阿弥陀仏と唱えるだけの抽象的な救済よりも、鶏を食べないなど具体的な戒律・生活規範を守る方が、集団の結束を高め、内的な安心感(=これだけやっているのだから大丈夫という確証)を得やすかったと考えられる。

著者は「真宗教義の土俗化したものという言葉だけでは説き明かせない厳しい宗教性」がカヤカベ教にあるというが、むしろ土俗化しているからこそ厳しい宗教性が発展していったと考える方が自然である。

話が飛躍するようだが、日本の部活動ではおそろしく厳しい修養が行われることがある。厳格な上下関係、挨拶と礼儀、道具に対する手入れ、グラウンド・体育館の徹底的な清掃、まるで苦行のごとく自らを追い込むこと、先輩や親・指導者への感謝の強調、生活規律(服装・時間管理・身だしなみ)の遵守などは、ほとんど宗教のようである。そしてこれは、著者がいう「宗教の土俗化」を象徴的に表しているような気がする。スポーツ科学に基づいた指導を行う本当の一流校ではこういうことは少ない(と聞く)が、ちゃんとした指導者を得難い田舎の名門校でこそこうした厳しい修養が行われることが多い。これは、合理的な指導・理論に基づいた訓練よりも、精神性や根性論が優先されがちな日本の「土俗性」を示しているのではないだろうか? 歴史的経緯はあるにしても、かつて部活動が丸刈りだったのは、得度に際し剃髪していた仏教の在り方と共通するものがあったのではないだろうか。このように、部活動には土俗性と宗教性が同居していたと私は考える。そしてカヤカベ教の在り方は、部活動と通じるものがあるように思えるのである。

つまり、宗教の土俗化とは、高僧の高邁な理想が堕落することを意味するように思えるが、実際には、民衆が自ら望んで宗教を「スパルタ式」にしていくことなのかもしれない。実際に彼らは様々な生活規定・禁忌を生み出す。そして理論に通じた高僧がいないことで、そういう何の根拠もない「迷信」がいつまでも退けられず、徐々に規定が累積して生活ががんじがらめになっていく。実際にカヤカベ教は、そういう状態に陥っていた節がある。龍谷大学の調査をしぶしぶながら受け入れたのは、「鶏精進をはじめ不可解な禁忌の数々を守り、深夜の儀式を維持する後継者の育成は、不可能になりつつある(p.100)」という現状があったからだった。「この宗教が早晩消滅せざるをえないことは、どのように信心堅固な老人でも、ひとしく認めるところ(同)」であったのである。「水は飲むべきだし、練習はむやみやたらにすべきでなく適度な休息が必要」などといってくれる「権威」がない状態では、日本人の土俗性はどんどん迷信が生まれ厳しく守られていく傾向にある、ということは部活動が示している。

ところでカヤカベ教では、本山には親鸞の「カチビル」すなわちミイラが安置されており、心だけ浄土に行ったとしている。なぜ親鸞のミイラがあると考えたのか不明だが、著者は湯殿山の即身仏などと類比し、これは古い民俗に基づく観念(信仰上のアタヴィズム(atavism 先祖返り))ではなかったかと述べている。即身仏とは、自ら命を絶ってミイラ化することであるが、上述の部活動的土俗性と、自ら命を絶つという究極の献身が相性がいいことは首肯されることだろう。カヤカベ教と部活動を類比することは、カヤカベ教には大変失礼な見方であるかもしれないが、部活動で育まれた人間性は本物であるとも私は思う。ほとんど宗教的とさえいえる部活動での人格陶冶は、決して迷信でがんじがらめになった人間を生み出すのではない。むしろ合理的なスポーツ科学によるトレーニングによって人格が陶冶されるかどうかの方が怪しい。そちらの方がスポーツの技能はより向上するかもしれないが、やはり挨拶・儀礼・感謝・報恩のような部活動的指導の方が、人格面では有効だと思う。同様に、理念的・形而上学的な本山よりも、カヤカベ教の方がもしかしたら宗教的にはすぐれた内実を備えていたかもしれないのである。それが迷信や禁忌だらけだというだけで。

これに関し、著者は呪術について一章を設けて考察しているが、そこで非常に重要な指摘がある。曰く「科学が事物に潜んでいる法則を運用するように、呪術は事物のなかにある呪力を利用して現実の目的を達成しようとするからで、呪力という超自然の存在を前提にしながら、それに対する礼拝や祈願を含まないのが呪術本来のありかたである(p.157)」。つまり呪術は元来精神的なものでなく、科学的な思考に基づいているというのである。

私は「水を飲むな」と言われた時代の人間だが、それは部活動生を苦しめるためでなく「水を飲むとかえって疲れる」というのが理由だと言われていた。「水を飲むな」という「迷信」は、「水を飲むと疲れやすい」という一応は科学的な論理に支えられていたということになる。これは現代の科学により否定されたから現在の部活動では水を飲ませるようになったが、まさにこれは「水を飲むな」が精神的なものから出た指導ではなかったことを示している。

これを呪術・宗教に応用して考えれば、何事も宗教的に「スパルタ化」していきがちなのが日本人の土俗性であるが、それは科学によっていかようにでも変容しうることを示しているのではないだろうか。だからこそ、教義に基づいた部派宗教は科学時代でもそれなりに存続しているものの、民俗宗教は科学時代には事実上壊滅してしまった。もちろん民俗宗教の壊滅は、それが依拠していたコミュニティの崩壊や少子化、ライフスタイルの変化にも基づく。科学的思考が寄与した部分は一因でしかないだろう。

かつての精神的な「部活動」も、健全でスポーツ科学に基づいた「地域スポーツクラブ」へと変わりつつある。それが宗教からの土俗性の払拭と軌を一にしているといったら大げさだろうか。

カヤカベ教から宗教の土俗性を考える啓発的な本。

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2026年5月15日金曜日

『死者の救済史―供養と憑依の宗教学』池上 良正 著

民衆宗教を死者への対応の視点から再考する本。

本書は、「救済史」を冠しているが歴史を述べるものではなく、著者の宗教についての考え方を述べるもので、前半は供養、後半は憑依について述べ、最後に供養と憑依が共通の土台に基づくものであるとしてまとめている。

著者の日本の民衆宗教についての基本的考えは、「苦しむ死者」「浮かばれない死者」の魂をどうにかして「安らかな死者」へと救済することが期待されていた、とするものだ。

しかし著者自身も控えめに述べているが、古代の日本人が死者を「救済を必要とする存在」として認識していたかどうかは定かでなく、この前提が成立していたのかどうか疑わしい。

次に、「苦しむ死者」「浮かばれない死者」への対応として2つのシステムがあったと著者は考える。第1に〈祟りー祀り/穢れ―祓い〉システム、第2に〈供養/調伏〉システムである。第1のシステムは、祟る死者を祀ることによって慰霊するか、もしくはその死者が穢れているとして祓うという考えを表しており、著者はこれは仏教以前からある在来のものであると見なしている。第2のシステムは仏教による対応である。そしてこの2つのシステムは排他的なものではなく、在来の第1システムの上に第2システムが付け加わって、多彩な死者との向き合い方が生まれたと著者は考える。

ここでも著者は、第1のシステムについて仏教以前に死者が祟ると考えられていた証拠はないと一応は述べるが(p.41)、それでもこうした考えが在来のものであったとして話を進めている。しかしながら、証拠がないものを前提にするのは腑に落ちず、「苦しむ・浮かばれない死者を救済する」という前提も含め、著者の考えは図式が先行しており、史実への立脚が薄弱であるように感じた。管見の限りでは、〈祟りー祀り〉が現実化するのは平安時代以降で(古代において祟るのは死者ではなく神である)、また〈穢れー祓い〉は古代には死者に対して適用される観念ではない(死・死体は「穢」の一つであったが、それを「祓う」という対処法がない)。このように、著者の措定する図式は堅牢なものとはいいがたい。

それはともかく、こうした考えの下に『日本霊異記』で「苦しむ死者」がどう考えられていたかを分析し、続いて『法華験記』『沙石集』などから、その対処法がどう変わってきたかが述べられている。その要諦は、読経・念仏・造像・写経のような追善行為によって、自業自得・因果応報という自己責任で個人の行いによって完結していた死後の在り方が、他者からの働きかけでどうにかできるものに変換したのだ、ということである。読経・念仏・造像・写経といった行為は、本来は仏や僧侶への供養(布施)なのであるが、これが「死者への供養」と変換されていることも注目される。なお、このことを著者は「死者との個別取引」と呼んでいる。

このような変換によって、死者は「仏法による済度を願う弱者の地位(p.79)」になったという。一方で、生きている側にとってみれば、苦しむ死者などにおびえる必要がなくなったということになる。悪霊が現れたとしても、仏法によって調伏=救済できるのであれば怖れるに足りない。実際、「信長、秀吉、家康などの武将は、多くの敵味方の将兵の屍のうえに政権奪取をなしとげたにもかかわらず、日ごと夜ごとに怨霊に悩まされるということは、もはやなかった(p.92)」。『太平記』などの軍記物には、怨霊などにおびえず「俺の施しによって成仏させてやる(p.101)」といった「平安時代の貴族たちとは、根本的に異なる精神性(p.99)」が描かれている。そして亡霊の方も「むしろ大般若経の読誦を受けたことに感謝して、成仏してしまう(p.108)」。

だからこそ幽霊・亡霊などを手軽に扱えるようになったという側面があり、近世には怪談・怪異文学が全盛期を迎えることになった。ただしそこに描かれる幽霊は、成仏だけを願う存在ではなく、自由奔放にふるまっている。能のようなある程度類型化した世界と民衆が考えていた幽霊の世界はちょっと違うようだ。

さらに、著者は目を世界の民俗宗教に転じ、「世界宗教の土着化」の問題を探るテーマとして死者の供養を考察している。イスラーム圏、ロシア、ラテン・アメリカが取り上げられ、これらの地域では世界宗教を受け入れつつも土着の考えと融合したあり方で死者を扱っていることが指摘される。いわゆる世界宗教では、個別の死者を弔うことに大きな意味を付与していないが、結局、人間というものは死者に対して何らかの慰霊を行いたくなるものである。

なお、キリスト教では死者の魂の行方は元来「最終審判における天国と地獄」とイメージされていたが、これでは遺族による慰霊・供養の余地はない。そこで中世では、「とりなしの祈り(代禱)」とよばれる生者の力添えによって、人が受ける苦しみが軽減されるような中間的来世である「煉獄」が考えられるようになった。仏教の地獄も時限的であって生者の働きかけで苦痛が軽減されるという意味では同じであるから、地獄と煉獄は共通の性格が認められる。そして煉獄の存在によって、キリスト教圏でも日本の民俗・民衆宗教と似たような「死者供養」が行われているから、「比較供養論」=「比較煉獄論」が可能になると著者はいう。

次に考察の対象になるのが「憑依」である。まず「憑依」という言葉が研究史においてどう使われてきたのかを述べ、キリスト教での神の啓示などが事例に挙げられてその問題が提起される。それを簡単に述べると、「憑依」というと悪霊や苦しむ死者が「憑く」もので、神や仏の示現を宗教者が受け取る場合は「憑依」とは表現されないが、その両者に実質的な違いはどれほどあるのだろうか? ということである。これは現代の研究者の持つバイアスであると同時に、史料にも見出せる固定観念である。怨霊やもののけ相手だと「つく」「くるふ」「霊病」「物ぐるひ」などと表現され、神の場合は「つく」「託す」「のる」「かかる」「おりる」などと表現されているからだ。もちろん、憑依と神託では若干違う部分も見られるが、共通性の方が大きいと著者は考え、その境界は不明瞭だという。

そこで著者は「憑依」という語をより広い意味で定義することを提案し(その定義自体はここでは割愛する)、ケーススタディとして『比良山古人霊託』が取り上げられる。21歳の女性に憑りついた比良山の大天狗との問答記録である。ここで著者は「憑依」の文脈から離れ、問答自体の興味深い点をいくつか指摘している。問答者は天狗から要人や知り合いが死後に得脱・往生できたかどうかについて聞き出そうとしているが、天狗はある種の人々を「天狗道に堕ちた」と言っているのが面白い。鴨長明『発心集』にも天狗になった僧侶の事例が掲載されているが、日本人は僧侶が得脱に失敗して転生する場所として「天狗道」をイメージしてきたらしい。元来、転生先には天道・人間道・阿修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の六道しかなかったのだが、阿修羅道のような存在として「天狗道」が付け加わったのである。

仏法に帰依しているならば人間道以上に転生することが期待されるものの、行いがあまりよろしくない僧侶についてはそうなっていてほしくない、という人々の期待が「天狗道」を生んだのではないかと思わされる。そして天狗道は、僧侶であるにもかかわらず、現世に激しい執着と怨念を抱いて死んだものの行先でもあった。つまりキリスト教圏の人々が「煉獄」を必要としたように、日本人は天狗道を必要としたのかもしれない。天狗は、仏法に詳しく、験力があり、死後の運命や他界の様子について知っており、そして人に憑依する。このある意味なんでもありの「境界的性格(p.186)」が天狗道を特徴づけている。

そしてここで重要なことは、天狗道という仏教の経典には現れない存在が憑依によって一般人の口から語られ、それが職業的宗教者の言よりも重んじられていた、という事実である。これは他の文化圏でも当てはまる。人々は教理よりも憑依を通じて霊的世界を知れると考えていた。そして「仏教的世界」と「巫者的世界」は別に存在していたのではなく融合していた。

ここで著者は無住の『沙石集』『雑談集』を分析の対象とする。僧侶が「夢」で「示現」を受けるエピソードを示し、それが実体として憑依の一種とみられるにもかかわらず、その正統性をアピールするために「夢」や「示現」といった用語が使われているらしいことを指摘する。そして高僧に死人の霊が取り憑いた事例を示す。つまり憑依は巫女のような下級宗教者とか平信徒だけでなく高僧にも起こりうる現象で、やはりそれは霊的世界へのチャネルとして扱われていた。だからこそ職業的巫者である巫女が、仏僧に拮抗しうる力があるとして認められていたのでもあった。そうした女性は「一方では「霊病」などといわれながらも、一定の仏教的教義を武器に、絶大な評判を得ていたことが推察される(p.222)」。

「憑依」が霊的世界へのチャネルであるとするならば、「供養」もそうだというのが著者の考えである。そして憑依で重要なことは、物狂いの状態になった時に、「憑依した霊的存在に名前をつけ、体験それ自体の存在価値を言語化する行為(p.229)」を行えるか否か、ということである。つまり単なる物狂いになっただけでは錯乱と変わりない。それが誰それの霊であるということが合理的に解釈できるかどうかが大事なのである。

「苦しむ死者」を自らに憑依させて要求を聞き出し、それに応じて供養を行うということは、霊的世界と現実世界を合理的に繋いでいることになる。そこに、教理的な宗教が担えない部分が存在している。近代では、憑依は主流派の宗教からは排除され、いかがわしい存在と扱われがちであるが、かつては憑依を介して死者の世界と現世とを繋いだ行者的な人々が大きな役割を果たしていた。現代でもそういう霊能者は存在しており、本書では密教系の女性僧侶の活動が例として取り上げられている。彼女は、霊が今どうなっているかを代弁し、残された人にどうして欲しいかを伝える。それは、苦しむ霊を救済するというよりも、残された人(ここでの例は子どもを失った女性)を救済する行為なのである(著者は指摘していないが)。

それは、憑依や供養がどう発展してきたのかを示唆している。それは「苦しむ死者」を「安らかな死者」に変えるというより、生と死の世界を統合した解釈を提供し、死者に執着して苦しむ生者をこそ救済するためにあったのではないかということだ。憑依や供養といった「死者との個別取引」の回路は、本来はどうにもならない「死」という現実を、事後的に働きかけることによって救済することを可能とし、そしてそのことによって生者にこそ救済を与えたのである。

供養と憑依をキーにして死者と生者との関係性を再考する変わった視点の本。

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2026年5月7日木曜日

『悟りと葬式――弔いはなぜ仏教になったか』大竹 晋 著

仏教による葬式や追善がいかにして始まったか述べる本。

仏教は、本来は個人の悟りを求めるものであったが、徐々に葬祭や追善を担うようになった。つまり死者のためのものになっていった。これは日本だけでなく東アジアに広く見られる。

ではそれはどのようにして、なぜ始まったのか。本書は極めて広い視野で経典を渉猟し、その次第を明らかにしている。具体的には、スリランカや東南アジアに現存している上座部のパーリ語三蔵、インド本土に展開していた説一切有部の漢訳・蔵訳の三蔵、そして大乗仏教の諸文献を動員し、布施・葬式・戒名・慰霊・追善・起塔についてその始まりを述べる。

なお、本書では出家者と在家者を明確に区別して扱っている。日本の場合は在俗出家があったためこの区別はあまり意味がなくなったが、元来の仏教ではこの区別は重要だ。

「第1章 布施の始まり」では、布施を成り立たせている論理が述べられる。

仏教の元来の目標は、煩悩を断ち切って輪廻から脱することにある。では在家者が出家者に布施という贈与を行うのは、この目標にどのように位置づけられるのか。

出家者が出家するのは、煩悩を断ち切るためである。では在家者はどうか。在家者は、煩悩を断ち切ることはできないが、来世ではせめて善趣(天・人間)に生まれたいと願う。そこでインドでは出家者に布施をするという副徳を積むことによって善趣への転生が図られるようになった。この背景には聖者崇拝がある。なぜ聖者に布施を与えることが「大きな果/報酬(←本書に頻出する用語。ここでは善趣への転生を表す)」となるのか。その理由は経典には述べられていないが、聖者への帰依そのものが重要であったようだ。つまり布施は「決して、出家者が在家者に提供してくれるサービスに対する代価ではない(p.30)」。しかし後に、葬式、戒名、慰霊、追善、起塔を出家者が提供するようになり、布施がそれらに対する代価としての性格を持つようになった。

「第2章 葬式の始まり」では、仏教が葬式を担うようになった次第を4つのケースに分けて論じている。

4つとは、(1)出家者が出家者の葬式を行う、(2)在家者が出家者の葬式を行う、(3)出家者が在家者の葬式を行う、(4)在家者が出家者に布施を与えて引導させて在家者の葬式を行う、である。

(1)出家者が出家者の葬式を行う

インドでは元来、出家者の遺体は路傍に捨てられていたらしく、『摩訶僧祇律』には「捨て去るべき」と規定されてさえいる。だが在家者の遺体は捨てられておらず、出家者の遺体遺棄は在家者から白い目で見られていたと考えられる。そこで在家者との軋轢を避けるため、出家者は仲間の遺体を葬るようになった。

中国では出家者の遺体は遺棄されていなかったと考えられ、唐代の道宣は「法王(ブッダ)と転輪聖王(帝王)とはともに火葬による(p.40)」と指示している(『続高僧伝』)。通常の出家者は林葬によったらしい。また北宋では禅宗が広まり、その教団運営規則「清規」で出家者の葬送法が規定された。

日本では平安時代以前は土葬が行われていたが、平安時代では穢の思想から死体遺棄が行われた。しかし出家者の遺体は火葬されるようになっていった。

(2)在家者が出家者の葬式を行う

インドでは、亡き出家者が阿羅漢である場合に在家者が出家者の葬式を行うようになった。『ディーガ・ニカーヤ』大般涅槃経では如来と転輪聖王を葬式することが述べられている。スリランカを訪れた法顕も阿羅漢の死者を在家者の国王が行ったことを報告している(『高僧法顕伝』)。またその際、四つ辻に塔を建てることも行われたらしく(『根本説一切有部毘奈耶雑事』)、遺体供養とは葬式と起塔とを含む概念であった。

南方(スリランカ)では、出家者は自らが聖者であると主張することが律によって禁じられていた。よって亡き出家者が聖者かどうかはわからなかったが、周囲の人によって聖者であると目される場合は葬式が行われるようになった。

中国でも同様であるが、これはインドや南方からの影響ではないらしい。中国では在家者と出家者がともに葬式を行ったと思われる。智顗の葬儀の場合は出家者と在家者が遺言に基づいて彼の遺体を龕に納めて墳墓に保存した。

日本では、在家者が出家者の葬式を行うことはほとんど考えられなかった。そもそも日本では聖者と目されるような出家者はあまり現れなかった。

(3)出家者が在家者の葬式を行う

インドでは、亡き在家者が阿羅漢である場合に出家者がその葬式を行うことが説一切有部において考え出された。しかし阿羅漢でない場合は葬式の対象とならなかった。8世紀には後期密教の『グヒヤサマージャ・タントラ』などに基づき、異生(=凡夫)の場合も出家者が葬式を行うようになった。

中国でも、インドからの影響ではなく、異生の葬式を出家者が行うことが考え出された。その最古の例は5世紀に曇遷が在家者の葬式を行ったものである。唐においては道宣が在家者が父母兄姉の場合に出家者がその葬式を行うことを認めている。

日本でも、中国からの影響ではなく、異生の葬式を出家者が行うことが古代に考え出された。

(4)在家者が出家者に布施を与えて引導させて在家者の葬式を行う

これはインドでは考え出されなかった。インドでは家庭行事において出家者に布施を与えて儀式を行ってもらうことはあったが、引導(亡者を導く)はしなかった。

南方でも同様である。僧侶が葬式に呼ばれても、それは引導のためではなく悪魔を追い払うためだった。

中国では北宋の初めころから在家者の葬式に出家者が訪れるようになったが、これは法語を与えて道理に気づかせることが目的であった。禅宗の出家者は悟り体験によって聖者の力を持っていると見なされており、その力が期待されていたが、これは引導そのものではなかった。

引導が考案されたのは日本においてである。その確実な最古の記録は9世紀の醍醐天皇の葬式である。さらにそれに先立って『都氏文集』には仁寿2年(852)に出家者に呪願させて在家者の葬式をしたと見なせる記録がある。引導は、元来は阿弥陀仏や勢至・観音に亡者を導くことをお願いするものだったが、鎌倉時代に禅宗が伝来すると、掩土や下火にあたって亡者に法語を与えることがそのまま引導であると考えられるようになり、そうした儀式は多宗派も模倣した。

「第3章 戒名の始まり」では、戒名が与えられるようになった次第を2つのケースに分けて論じている。

2つとは、(1)出家者が戒を授ける時、(2)出家者が亡者に戒を授ける時である。

(1)出家者が戒を授ける時

インドでは、戒名は考え出されなかった。仏典では十代弟子は氏族名や本名で呼ばれており、あだ名でよばれていた出家者も記録されている。所属部不明の『増一阿含経』ではブッダが比丘たちに本名で呼ぶことを禁止しており、後になって出家者が改名することも見られたが、授戒の際に名前が付けられたのではない。

授戒の際に名前を与えることが考案されたのは中国である。中国では北朝において出現した『梵網経』(5世紀)に基づいて、南朝で菩薩戒を授ける時に菩薩名を与えることが考えられるようになり、これが隋へと受け継がれた。これは、成人の時に字(通称)を与える習俗が応用されたとみられる。しかし唐以降は、菩薩名は廃れていった。

日本では、中国の習慣を引き継いで『梵網経』による在家者の授戒に菩薩名を付けることが行われたが、平安時代以降はほとんど行われなくなった。そして、室町時代に瑩山紹瑾の門流が『菩薩戒』の菩薩戒と菩薩名を与えてそれが広まり、遅くとも15世紀には在家者向けの授戒会が開かれて名を与えられたことが確認できる。

※在家者への菩薩戒の授戒のみの話で、出家者の場合は別に考慮が必要。

(2)出家者が亡者に戒を授ける時

出家者が亡者に戒を授けることはインドではなかった。亡者へ戒を授けることはタイ、チベット、日本に特有である。南方では死者の魂が付近に留まっていると思われていたため、出家者は在家者の要望に応えていたようだ。

亡者に戒名を授けることは日本で考え出された。臨終出家の最古の例は淳和天皇ないし仁名天皇で、臨終出家でも戒名は与えられた。死後出家の最古の例は九条兼実の息子、良通であ(1188)、死後出家でも戒名は与えられた。臨終出家や死後出家は出家としては多分に形式的であるが、出家者は速やかに涅槃にいけるという聖者崇拝がその背景にあった。浄土真宗や日蓮宗では、出家しなくてもすぐさま浄土へ転生して仏になるとされていたものの、やはり亡者に戒名を与えていた。

「戒名」は日本において生まれた言葉で、元来は法諱・法名・法号と呼ばれていたが、江戸時代に使われるようになった。戒を授けることと同時に与えられるためにこのような名称になったと思われる。そして、死後出家の際に与えられる名として戒名という言葉が生まれた(つまり戒名は「死後戒名」であった)と考えられるが、生前に与えられる法諱・法名・法号も江戸時代に戒名と呼ばれるようになっている。死後出家・死後戒名は江戸時代以前からあったが、これが一般化したのは『宗門檀那請合之掟』の影響であるとしている。

さらに日本では、鎌倉時代に位牌が宋から伝えられると、位牌に院号・位号(居士など)・置字(霊位など)を使ってランク付けされることが行われた。なお中国では位牌は出家者のためのもので、在家者には「神主(しんしゅ)」が用いられたが、日本では出家者・在家者ともに用いられた。

なお位牌において戒名にランク付けが行われたことは真言宗の頼勢により『引導能印鈔』(1669)で批判されている。ちなみに「居士」が元来寺院のスポンサーを表す言葉であるように、位号などは生前の身分によって付けられた。しかし本来は出家すれば在家時の身分は無関係になる。よって死後戒名に院号や位号をつけることは、亡者を在家者のままに留めることとなるから「矛盾している(p.118)」と著者は批判している。

「第4章 慰霊の始まり」では、慰霊という概念を整理し、5つのケースに分けて論じている。

まず慰霊とは、「すでに悪趣へ転生している亡者に布施を供えること、あるいはさらに善趣へ転生させること(p.121)」と定義している。5つのケースとは、(1)在家者が亡者に布施を供える、(2)在家者が出家者に布施を与えて亡者を餓鬼道から善趣へ転生させる、(3)在家者が出家者に布施を与えて亡者を悪趣から善趣へ転生させる、(4)出家者/在家者が布施に呪文を唱えて亡者を餓鬼道から善趣へ転生させる、(5)出家者/在家者が亡者に呪文を唱えて悪趣から善趣に転生させる、である。一見してわかりにくいが、布施を与える対象が亡者なのか、出家者なのか、そして亡者の転生先が餓鬼道であるかどうかがポイントとなる。

(1)在家者が亡者に布施を供える

インドでは、亡者にお供えものをするという土着習俗があった。仏教ではそれを取り入れ、餓鬼道に転生している亡者にお供えをすることで餓鬼道での飲食物が提供できると理論化した。

(2)在家者が出家者に布施を与えて亡者を餓鬼道から善趣へ転生させる

インドでは前項の習慣が発展し、餓鬼に布施を与えることで善趣へ転生させることができると考えられるようになった。上座部の『ペータヴァットゥ』では、餓鬼に布施を与えるという慈悲によって与えた人はやがて善趣に転生し、餓鬼自身もただちに善趣へ転生するらしきことが書いてある。これは聖者崇拝がその基盤にあると考えられる。

(3)在家者が出家者に布施を与えて亡者を悪趣から善趣へ転生させる

さらにインドでは、餓鬼道以外の悪趣(地獄趣、畜生趣)にある亡者も出家者への布施で善趣へ転生させられると考えられるようになった。『盂蘭盆経』にそのことが述べられている。布施の対象は、仏・独覚・声聞・十地の菩薩であり、亡者や施主が善趣へ転生できる理由も、聖者が「定」に入ることの利益であるとされる。なお同経は以前中国で作成された偽経であるとされていたが、近年は偽経ではないと考えられている。

中国では『盂蘭盆経』に基づいて、出家者に布施を与える盆が使われるとともに、亡者の慰霊を行う中元節が成立した。

日本では古代に盂蘭盆会が伝わり、7月15日に出家者に布施を与えていたが、これがやがて亡者へ布施(供物)を与えるように変化して「お盆」となった。

(4)出家者/在家者が布施に呪文を唱えて亡者を餓鬼道から善趣へ転生させる

だんだんややこしくなってきたが、ここのポイントは「呪文を唱えて」という要素である。これもインドにおいて土着習俗に基づいて考え出された。7世紀頃の初期密教(『救抜焔口餓鬼陀羅尼経』)ではこのような考えが生まれていた。筆者は指摘していないが、呪文が登場したのは、聖者の存在感が弱まってきたことを感じさせる。聖者が定に入る功徳によって善趣へ転生するという考えのリアリティが低下し、呪文の効果だとした方が人々に受け入れられるようになったのではなかろうか。

中国では『救抜~経』が伝わり、餓鬼道のみならず悪趣から善趣への転生が可能と考えられるようになって、そのためのマニュアル(『施諸餓鬼飲食儀軌』、『施諸餓鬼飲食及水法幷手印』、『瑜伽集要焔口施食儀』など)が数多く作られた。中国では悪趣にいる亡者を呪文によって善趣へ転生させる需要が大きかったのではないかと感じさせる。

日本でも中国から『救抜~経』が伝わり、同様の考えとなった。

(5)出家者/在家者が亡者に呪文を唱えて悪趣から善趣に転生させる

これもインドで考え出され、7世紀頃の初期密教に属する『仏頂尊勝陀羅尼経』において説かれた。また『不空羂索神変真言経』でも光明真言などの呪文が善趣への転生に有効だとされている。

前出の経典が中国に伝わると、呪文によって亡者を善趣に転生させることが行われるようになったが、本書に掲載された事例は全て葬式の際に呪文を唱えるものである。明確ではないが、こちらは葬式の儀式として広まったため、広く亡者の慰霊という意味では布施を行う(4)の方が主流となったようである。

日本でも前出の経典が伝わって同様の展開となり、特に葬式の際の土砂加持が普及した(明恵が普及に力を入れた)。呪文(真言・陀羅尼)に力があるならば、わざわざ出家者に布施を行って呪文を唱えてもらう必要はなく、在家者が呪文を唱えれば十分ということになるが、江戸時代の臨済宗の悟り体験者たち(至道無難、盤珪永琢)はその見解に否定的だった。つまり呪文は出家者(聖者)が唱えてこそ意味があると思われていたようだ。

「第5章 追善の始まり」では、2つのケースに分けて追善の始まりについて考察している。

まず追善とは、亡者が未だどこへも転生していない間(通常49日間)の間に、亡者に善を追加してやることで、通常は「出家者に布施を行うという副徳を亡者に振り向ける」という形で行われる。2つのケースとは(1)在家者が出家者に布施を与えて追善を行う、(2)在家者が出家者に布施を与えて追善に類することを行う、である。

(1)在家者が出家者に布施を与えて追善を行う

インドにおいては、慰霊は行われたが、追善は行われていない。つまりすでに悪趣に転生した亡者を善趣へ転生させることは可能であったが、未だどこへも転生していない亡者を何らかの儀式によって善趣へ転生させることはできないと考えられていた。そもそもインドの大部分の部派では中有(中陰)を認めず、転生は速やかに行われると考えられていた。説一切有部と唯識派では中有を認めており、その期間は49日間であるとすることが多い。しかし説一切有部と唯識派でも他者による追善は考えられていない。

追善が考え出されたのは中国である。中国では『梵網経』により三七日、七七日の追善が行われるようになった。具体的には経典の読誦・講説・斎会(出家者に食事を与える)である。追善は『梵網経』の後にも継承されるとともに、七日おき(累七)に追善を行うという習俗が確立した。そして本来の追善は中有の間だけに意味があるが、儒教の祖先祭祀の習俗に影響されて「百日、小祥(一年の喪の終わり)、大祥(三年の喪の終わり)」も仏事として行われるようになった。

日本でも持統天皇の七七日の斎会を嚆矢として追善が行われ、聖武天皇では一周忌が行われている。鎌倉時代には三十三回忌まで含めた十三仏事が成立した。室町時代には、十三仏事でなく、十三年の間毎年年忌の斎会が行われることもあった。

(2)在家者が出家者に布施を与えて追善に類することを行う

ここでは南方の事例のみが述べられている。南方は上座部圏なので先述のとおり中有を認めず理論的に追善はありえない。ところがタイやベトナムでは死後七日目に「七日供養」と呼ばれる事実上追善と同様のことが理論的な裏付けなく行われている。

「第5章 起塔の始まり」では、3つのケースに分けて起塔(塔を建てること)の始まりを論じている。

3つとは(1)出家者が出家者の塔を起てる、(2)在家者が出家者の塔を起てる、(3)在家者が在家者の塔を起てる、の3つである。なお、ここでいう起塔は、一般的に塔を建立することではなく、誰かのために(墓としての)塔を建立することを意味している。

(1)出家者が出家者の塔を起てる

墓標としての塔を起てることはインドで考え出された。上座部の『ディーガ・ニカーヤ』大般涅槃経では、ブッダは如来・独覚・声聞・転輪聖王は塔に値すると述べている。それは、塔を見て心が浄らかになり、それによって天界に転生するからだという。ここで転輪聖王も含まれているのが注目される。このように元来は塔に値するのは悟りを開いた人に限られていたが、悟りを開いていない人にもそれは徐々に拡大された。

説一切有部のヴィマラークシャ(4-5世紀)の聞き書き『五百問事』には、「その遺骨を収めて亡者のために俱攞(くら)と呼ばれる塔を作ることがある。形は小塔のようであり、上に相輪がない」とある。「俱攞」とはkula(塚)の音写であるという。後期密教の実践マニュアルでも同様の記載がある。この時期には塔の建立は異生まで拡大されている。

異生の出家者の塔を特に望んだのは、比丘尼であったらしい。しかし元来は聖者の記念碑的なものであった塔を異生にまで起てることには比丘からは抵抗があったようだ。「比丘尼が出家者の塔を起てては感傷に浸り、比丘とのあいだで問題が起こったことはいくつかの部派に共通して伝えられている(p.193)」。

中国においてはインドとは独立に出家者が出家者(異生含む)の塔を起てることが東晋の半ばまでに自然に考え出され、唐にも受け継がれた。『禅苑清規』では夭折の出家者は火葬した遺骨を普同塔(共用の塔)に、高徳の出家者は遺体を結跏趺坐させたまま龕に納めて塔の地下に入れることが記されている。高徳の出家者の場合の塔はかなり大きいことが予想される。

日本では、なかなか起塔の習慣は生まれなかった。平安時代には出家者の廟を建てることは行われており、比叡山には最澄の廟があった。円仁は「比叡山には最澄の他に廟を造るな」と遺言していたが円仁の廟も比叡山に造られ、後にその廟の前に法華経を安置した塔も起てられた。しかしこれはあくまで法華経を安置する塔であって墓塔ではない。良源は天禄3年(972)に、自らの墳墓の上に真言を安置した塔を起てるよう遺言した。これは墓標の性格が強いが、それでも真言のための塔である。出家者が出家者の塔を起てるようになったのは、鎌倉時代に禅宗によって中国から伝わってからと考えられる。

(2)在家者が出家者の塔を起てる

亡き出家者のための塔を在家者が起てることはインドで考え出された。これはブッダが在家者に起塔の作業を任せたためとも考えられる。『根本説一切有部毘奈耶雑事』には、「阿羅漢の塔は相輪が四重」などその形態についての規定も見える。なお、聖者の遺骨に供養(布施)を行うことでその福徳によって天界への転生や般涅槃すると考えられていたが、これには異論もあったとのことである。

南方での状況は複雑であるが、基本的にはインドでの起塔が継承された。

中国でも、亡き出家者が聖者である場合は在家者によってその塔が起てられるようになった。南朝の劉宋にいたインド人出家者グナヴァルマン(求那跋摩)が亡くなった時は、出家者と在家者がともに「白塔」を起てている。智顗の場合も遺言に「二つの白塔を起て、見る人に菩提心を発させよ」とあり、「白塔」が起てられた(円珍はその墳墓を見ている)。起塔は亡き出家者が聖者である場合が中心で、聖者の記念碑的な性格が強かったようにも思われる。それにしても「白塔」とは何だろうか。

日本の場合は、在家者が出家者の塔を起てることはほとんどなかった。

(3)在家者が在家者の塔を起てる

インドでは、一般的ではなかったが土俗習俗に基づいて在家者が在家者の塔を起てることがあった。ただし本書にある事例は貴族の場合のみであるため、「土俗習俗」というよりは、記念碑的なものであった可能性もあると思った。

南方では在家者の塔は起てられていない。

中国では、唐において在家者の塔が起てられるようになり、北宋においてまとめられたとされる『臨終方訣』では在家者の葬式について窣堵波(ストゥーパ)の中に安置するという葬法が述べられている。

日本では、在家者の墳墓の上に呪文(陀羅尼)を安置した塔が起てられるようになった。文献上最古の事例は仁明天皇で、平安時代には天皇の陵の上に塔を起てることが行われた。醍醐天皇、御一条天皇、堀河天皇などである。在家者が在家者の墓として、五輪塔や宝篋印塔などの塔を起てるようになったのは鎌倉時代で、これらは「従来、日本において始まったと考えられていたが、近年、北宋の時代の中国において始まって、日本へ伝わったと考えられるようになっている(p.221)(石田尚豊、吉川功)」。ただし塔に遺骨を納入することは日本で始まったらしい。

「結章 葬式仏教の将来」では、これまでを総括し、仏教が葬式のためのものになったのはなぜなのかまとめている。

その結論は、「在家者が聖者崇拝を背景としてそれを願い、出家者が土俗習俗を背景としてそれに応えたから(p.226)」である。布施・葬式・戒名・慰霊・追善・起塔は、いずれも在家者が聖者を慕う気持ちを具現化したことが契機となっているのである。

とすれば、現在の日本において葬式仏教が衰退しつつあるのは、出家者が世俗化したことによって聖者を慕う気持ちがなくなっていることも一因であると考えられる。一般的には、葬式仏教の衰退は「家」の分解という社会経済的な側面から語られがちだが、著者は出家者の質がその本質にあると見る。本書に述べられる明治期の高徳な僧侶・西山禾山が執り行う葬式は、「確かにこういう人に葬式をしてもらえるなら、今の人も葬式をしたいと思うかもしれない」と思わせるものである。

そして、「出家者の悟りのための宗教と、在家者の葬式のための宗教とはまったく矛盾しない(p.232)」と著者は考え、むしろ高徳な出家者の出現こそ葬式仏教の復興に必要だと考えている。

「付録 『浄飯王般涅槃経』の真偽をめぐって」では、現代の日本で出家者が在家者の葬式を行ってよいという根拠として使われてきた同経について述べている。同経は中国の南北朝時代に流通したものである。本書では同経の全訳を掲載し、その文言を先行する経典(『大智度論』など)と比較することで、「中国において、ブッダもまた父の葬式を行った孝子であることを主張するために作られた、偽経であると考えらえる(p.256)」と結論づけている。

****

本書は、インド・南方・中国・日本を横断して葬式仏教の来歴を語るものであるため一つ一つの項目は簡潔であるが、同時に緻密でもある。葬式仏教というと、日本の仏教の特質の一つとして捉えられがちで、その来歴も日本で完結する形で考察されることが多い。ところが本書では、仏教発祥・伝来の地ではそれぞれ仏教が葬式を担うようになった次第が述べられており、蒙を啓かれた思いである。ただし、それはインド、中国、日本と伝わってきたのではなく、断絶も見られる。特に中国は、インドから葬式仏教が伝わったというよりは、独自に葬式仏教が発展したという性格が強い。日本の葬式仏教は中国から伝わった部分も多いだけにこの点は注意が必要だと思った。

また、著者は葬式仏教の基盤には聖者崇拝があると述べるが、これはインド・南方・中国・日本を横断して概括的に言えるとしても、日本の状況にぴったりあてはまるとは限らない。というのは、葬式仏教として最も成功した宗派である浄土真宗を考えてみると、親鸞その人が「非僧非俗」を標榜し、浄土真宗では今でも「同朋」(宗教指導者と一般信徒、というのではなく門徒はみな平等、というような意味を含む)という言葉が使われるように、浄土真宗の葬式は必ずしも高徳な僧侶のありがたさで広まったわけではない。葬式仏教の創始は聖者崇拝によったとしても、それが広まった要因はまた別に考察する必要がある。

なお葬式や起塔の対象に、インドにおいてすでに「転輪聖王」が含まれていたことは気になった。転輪聖王とは仏教的な理想の帝王であるが、実際には現実の統治者にも適用された。つまり葬式仏教の対象に転輪聖王を含めたことは、仏教が世俗的統治者と融和的な姿勢にあったことを示唆する。日本の中世では王法仏法が相即不離であるとされたが、これは決して日本社会の特質ではないのである。葬式仏教について考察する上でも、日本の歴史だけを考えるのではなく、東アジアへも目を向けて共通の土台に基づいて考察することが非常に重要だと痛感した。

葬式仏教の来歴をかつてない視野で解明した労作。

【関連書籍の読書メモ】
『葬式仏教』圭室 諦成 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/11/blog-post_30.html
仏教が葬式を担うようになった次第を述べる本。葬式仏教論の嚆矢である名著。

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2026年4月24日金曜日

『税と権力――中世人はどうして税を払うのか』似鳥 雄一 著

荘園制を徴税・納税の論理から述べる本。

近年、荘園制のすぐれた概説書が出るようになった。特に伊藤俊一『荘園—墾田永年私財法から応仁の乱まで』は気候変動にも目配せしつつ荘園制を明解に説いている。しかし寺社と荘園とのかかわりは詳細には書いていない。一方、本書の表紙では「税の見返りに求めるべきは、神仏の加護か、武力による安全保障か?」と問いかけており、荘園制における寺社の意味を考えたくて手に取った。

本書は、制度的な変遷よりも、現場の人間がそれにどう対応しようとしたかということを中心に荘園制を描く。著者の視点は、「たとえ武力によって税を強制的にかけられていたとしても常に監督があるわけではないのだから、自主的に納税する論理が納税者側になくてはその制度は長続きしない」というものだ(=「片務的で暴力的な徴税は長続きしない(p.33)」)。ではいかなる論理で中世人は税を払ったのかということが問題になる。

現代では、納税の見返りとしては社会保障やインフラ整備などが挙げられる。それが釣り合っているかどうかはともかく、反対給付があることが納税の意識を支えている。中世も同じではなかったか。それは税を課す側にも言える。「領主にしても、村落にしても、社会に対する責任を自負する存在である(p.26)」からこそ税を取れるのである。では彼らはどういう形でその責任を体現したか。

「第1章 荘園とは何か」では、古代から荘園制成立までが語られる。

課税・納税の論理は荘園に限らず、古代の租庸調にも当てはまっていたはずだ。そのうち調は国家の祭祀のために使われるという建前があったからこそ負担したかもしれないという。「国家が祭祀を代行することが、人々にとって税を払う理由になりえた(p.33)」。同様に、租も神への初穂であった可能性がある。「神への信仰には税をつくりだす力があった(p.35)」。

最初期の荘園は、貴族・豪族・寺社による墾田を認めることによって始まったが、特に東大寺には諸寺院でも最大の4000町の墾田が許可された。鎮護国家の役割を果たしている東大寺だからこその規模なのだ。

なお著者は荘園を「私的」な所有とする認識は適切ではないという。東大寺が荘園を「私有」したと述べても、その「私」にはあまり意味がない。そして墾田永年私財法によって認められる荘園の他、皇族・貴族・寺社などは「官田」「御厨」「御田」「御園」「位田」「識田」「勅旨田」「親王賜田」「神田」「寺田」など多様な名称で土地を所有していた。

墾田にも納税の義務はあったため、口分田でも墾田(荘園)でも農民は納税に後ろ向きで、郡司や国司も彼らと結託して課税逃れをするようになった。農民にとってみれば、税は安い方がいいし、郡司や国司にとっても、真面目に国家へ税を納入するよりも農民と結託して私腹を肥やした方がうまみがある。国家の仕組みが弛緩してくればなおさらだ。国司は官僚機構だが、これがトップに責任と権限を集中した「受領」となり、受領が引き連れてきた郎党が実務を担った。特に統治のかなめとなったのが「目代(もくだい)」という秘書官である。やがて国司の実務は忌避されるようになり、受領は在京しつつ、目代が地方行政を担うという形になった。

租庸調は人への課税(人頭税)であったが、荘園制は土地への課税(いわば固定資産税)である。とはいえ、現在の固定資産税もそうだが、誰がその税を納めるのかという、人とセットでないと徴税はスムーズにいかない。そこで水田に納税責任者の名前をつけて、それを受領が直接把握して徴税する「負名(ふみょう)体制」へと変わっていった。また荘園でも元来は租庸調が納税の基本であったが、やがて土地税である「官物(かんもつ)」とその他いろいろを含む「臨時雑役(ぞうやく)」の二本立てになり、それが中世の「年貢」と「公事(くじ)」へと継承された。臨時雑役は内裏の建設や大嘗会の挙行などに際して課され、その課税の論理には祭祀・信仰があった。さらに、納付の品目も、麦・油・塩など元来はいろいろあったが、これが米に一本化された。これらが概ね10世紀前半に起こった変化である。

摂関期になると、荘園領主(摂関家、大寺社、中下級貴族)が国衙に対して課税の免除を申請するようになった。天皇が成立に関与した荘園であるとか、鎮護国家のための仏事を担う寺社であるといった大義名分が掲げられた。現代から見ると国家的な機構の末端にいる存在が免税を主張するのが奇異だが、農地→(徴税)→国家→(予算)→現場という再配分機能がうまく働かない状態では、「荘園で国家的な事業を自弁しますのでその分免税してください」というのは筋が通っている。こうして設立された課税免除の荘園を「免田型荘園」という。これは荘園の領域全体ではなく、その中の指定された水田に限って免税された。

そして国司が交代するたび(任期4年)に国衙のスタッフが検田を行い、その都度免税の交渉が行われたとみられる。そのため、荘園の絵図などの記録がしっかりと作られた。ちゃんとした記録がないと免税が認められなかったのだろう。しかしこの仕組みは、わざわざ現地調査をしないといけないので国衙スタッフの多大な負担になる(それで徴税できるならいいが、免税のための仕事なのは気が進まなかっただろう)。そこで「10町とか20町とかの切りのよい数値で免田の総額を設定しておくだけの、浮免(うきめん)と呼ばれる方式もあった(p.59)」。これは現地で免田を確認しなくてよいので手間は減っただろうが、免除の申請と受理という作業は変わらずあった。なお、これとは別に、開発領主が切り開いて作った所有地である「私領」もあった。

しかしこのように免税が多くなると、国家としては困るのは当然である。11~12世紀には内裏の建設を行うためなどとして荘園整理令(免税の取り消し)がたびたび出された。国家の意図を越えて国司(受領)が免税を行ったためであろう。それは免税を認めることで国司に何らかのキックバックがあったことを予見させる。後三条天皇が出した「延久の荘園整理令」は、ちゃんとした記録のない荘園を廃止するという実効性を伴っていたが、次の院政期に入ると荘園は急増した。

特に12世紀前半の鳥羽院政期が荘園設立のピークとなった。この頃は、国家の側(天皇家・摂関家)が積極的に荘園を設立した。わずかな私領や免田の荘園を核にして、その周りの土地を全部荘園とするもので(=領域型荘園)、これを設立することを「立荘」という。その名目の典型が、寺院(御願寺)の建立である。つまり社会の最上位層である彼らにしてもフリーハンドで荘園を設定できたわけではなく、国家的事業という大義名分が必要であるという通念は消えていなかったのである。そして、具体的な立荘のプロセスは、(1)御願寺で必要になる経費が〇〇石と算出される→(2)核となる私領や荘園の寄進が行われる→(3)それらの荘園の面積では必要経費に満たないので領域が設定される、といった流れであり、多数の人々が土地を媒介として御願寺というプロジェクトに参与し、その後の利益にも与ったと思われる。

保元の乱に勝利した後白河天皇が発した荘園整理令で、彼は荘園の新設や拡張には後白河天皇・白河院・鳥羽院のいずれかから発行された許可証を要するとした。天皇・上皇の認可が必要というのはすごいことだ。小さい政府・地方分権の性格が強い中世において、荘園制というのは中央集権主義的なのである。結果、「荘園の所有者として認められたのは、天皇家・摂関家・大寺社のみである(p.71)」。しかし彼らは名義上の所有者ではあっても、常にその荘園を実効支配しているとは限らない。

彼らのような荘園所有者を「本所・本家」といい、荘園の経営者を「領家」という。こちらは摂関家未満の貴族などが務めた。さらに現地でその管理を行うものが「荘官」である。荘園の統治構造は「所有・経営・管理」を担う「本所・領家・荘官」の三層構造であった。そしてこの三層構造は国衙の介入を拒否し、直接徴税するようになっていく。しかし国衙の介入を拒否したといっても、その徴税はみかじめ料ではなく、あくまでも国家的事業の遂行に必要な経費をあてがうという意味であった。だからこそ本所は天皇家・摂関家・大寺院のみだったのである。そして天皇家の荘園も、例えば八条院領のように大半が御願寺領だった。御願寺の維持が国家的な意味を付与されていたということになる。寺社が担っていた「鎮護国家」は、公共の性格を持っていた。なお立荘の名目の多くが御願寺だったことは、寺社の維持以外に国家が担う部分が縮小していたためだと考えることもできる。

このように、荘園を「私的な土地所有」と見なすことは適切ではなく、国衙と荘園はともに国家的な意味合いがあったという意味で同質的なものであると考えた方がよい(=荘園公領制)。

「第2章 課税する論理、納税する論理」では、荘園における課税と納税がどういった考えで行われていたかを述べる。

荘園を納税側(百姓)から見ると、年貢を納める点においては国衙領と違いはないが、「公事」すなわち各種の「公的な事務」も負担する必要もあった(※国衙領も公事がなかったわけではない)。これには多種多様な食料品や日用品が含まれ、年中行事の実施や物品の運搬もあった。現代の農村で、各種行事の実施に協力することが前提となっているのと似たようなものかもしれない。そして現代でも、そうした明文化されていない負担が住民の不満の種になりがちなように、当時の人々も領主から無制限に使役されることは「公平(くびょう)」でないとして反抗した。

やがて国衙は税収不足を補うため「一国平均役」として荘園にも課税するようになった。こうして百姓は国衙にも納税するようになったので、彼らは自分自身を(領主の下人ではなく)「公民」であると考えるようになった。では何のために彼らは領主に納税するのか。彼らが領主に要求したのは「安堵」すなわち安全な生活の保障である。一方、領主の方は百姓が納税を果たすことは「忠勤」や「忠節」であると見なした。こうして領主と百姓の間に双務的な関係が成立していった。当時は待遇が悪ければ百姓が逃げてしまう(逃散)ことがあったので、荘園の農民は農奴化しなかったのである。

文治元年(1185)、頼朝は地頭の設置を後白河から了承された。地頭は荘官の一つで、徴税を行った。鎌倉幕府で興味深いのは、将軍は本所にはならなかった、ということである。頼朝の極官は権大納言・右近衛大将で大臣にすら届いておらず、本所となるには地位が低すぎた。源平の合戦の後、平家や後鳥羽院関係者から「平家没官領」「承久没収地」とよばれる大量の荘園を押収したが、これも幕府が所有したのではなく、後高倉や後堀河に返却するなどして処分した。

すなわち鎌倉将軍家は荘園の所有はせず、手に入れたのは領家の立場であった。そして幕府が領家になっていない荘園でも、幕府は地頭の人事権を持っていた。そういう荘園においては、地頭は領家の指揮下には入っているが、地頭がトラブルを起こしても領家は地頭を解任することはできず、幕府に訴えるほかなかった。幕府は地頭を派遣する人材派遣会社のような存在であったと考えることもできる。なお将軍家は荘園を所有していないといっても、本所は(領家を兼ねていないかぎり)荘園の実務に手出しはできず、本所に納められる税も僅かな割合であった。だから領家であることの方がうまみがあり、むしろ本所が領家の地位を欲していた場合もある。鎌倉将軍家は荘園制については名を棄てて実を取ったのである。

ちなみに、「土地の所有を認めてもらう(安堵)かわりに、幕府の忠節を誓う(=御恩と奉公)」という「御家人」の教科書的説明は本書ではされていない。そもそも鎌倉幕府の成立当初からこういった契約的関係があったのではないようで、まずは将軍に名乗り出て御家人になり、地頭へ任命されるという、主従関係の方が先立つようである。

ともかく、開発領主的な地頭ではない、落下傘的に地頭に就任した武士たちが、百姓からより多くの収奪を行おうとしたことは想像に難くない。幕府は「仁政」という理念を掲げ、百姓に保護を加えるように地頭に命じたが、あまり実効性はなかったようだ。こういう状況が生じたのは、課税基準どころか枡さえも明確に決まっていなかったことと、納税の品目が米ばかりではなかったこと、土地に対して固定的な課税率が定められていたのではなく、収穫量に応じた徴税が行われたこと(土地の良否だけでなく豊凶も加味された)、必要経費(例えば灌漑施設の整備費、寺社の維持費・祭礼費など)の控除が認められていたことなどが絡み合っていた。つまり、荘園での課税は良くも悪くも自由度が高かった

さらに代銭納(百姓から徴収した物品を市場で銭に変えて領主に納入する)が普及すると、収穫物の豊凶に加えて、市場での相場によっても税額が変わることになった。決まりきったものを納税するシステムならば誰が徴税官になっても同じだが、こう変動要素が大きいと有能な徴税官が求められることになるし、なにより面倒な徴税実務が忌避されるようにもなった。こうして、徴税業務を委託することが行われるようになったのである。領家は荘園経営の実務を「預所」に委託し、そこがさらに「預所代」に業務を委託することもあった(後述)。「中世荘園の大きな特質は、請負に次ぐ請負にあった(p.137)」。

ところで、税額から必要経費が控除されたことが極めて興味深い。灌漑施設の整備費が控除されたのはともかく、気になったのは荘内にある寺院・寺社の維持費や祭礼費である。課税額全体からそうした費用が引かれるのではなく、特定の水田を「仏神田」などと指定して、そこが免税されるという仕組みだ。神仏の経費が控除されるとなれば、百姓にとっては神仏を祀らない理由がない。この点が本書で最も蒙を啓かれた点である。中世に膨大に祀られた中小の神仏は、経費控除を目的としたものであったのかもしれない。

例えば、課税は「名(みょう)」という単位(ほぼ集落にあたる)でなされたが、あちらの名では八幡を祀って免田が認められたとなれば、こちらの名でも薬師を祀ろう、というようなことになるのはごく自然だ。よって荘内には多くの寺社が建立された。新見荘では、全76町弱のうち、こうした寺社の免田が1割を占めており、63の名のうち28の名で寺社由来の免田が記録されている。なお新見荘の本所は東寺で、領家は小槻氏であったが、元徳2年(1330)に東寺は小槻氏から領家の地位を獲得している。ここで建立された寺社はどうも東寺とはあまり関係がないようにみえる。それでも「住民が生活のために、ひいては荘園を守るために神仏が必要だといえば、領主はそれをむやみには否定できず、税からの控除を認めねばならなかった(p.150)」。

ところで、本書では指摘されていないが、神仏の祭礼というものは多かれ少なかれ再配分の要素があり、また祭礼を共同で実行することはコミュニティの結束を高める効果が期待できる。田畑が散在した中世荘園の風景を前提とすると(→第3章参照)、百姓たちには共同作業が少なかったと考えられる。神仏の名において「名」ごとに寺社が建立されたことは、百姓が自己組織化していった結果とも解釈できる。中世後期の一揆において神仏の名において惣の結束が確認されたことが想起されよう。

一方、このように控除が様々な理由で認められる課税方法であれば、領家としては適切に徴税できているかいちいち監査しなくてはならない。これは究極的には現場に行ってみなくてはわからない。そこで信頼のおける人物を派遣することが求められるようになった。

「第3章 中世人の生存競争」では、より具体的に納税の場面を見ていく。

そもそも中世の田園は、山裾にまばらに田んぼがあるような状態で、面的に田んぼで覆われていたのではなかった。荘園とは国土開発の仕組みでもあったので、荘園制で墾田は徐々に進んだがそれでも生産性の高い田んぼが並んでいたという風景ではなかった。またその生産性は、「中世後期の先進地域では反収が1石から2石超という幅で推移(p.166)」しており、だいたい1.5石程度であった。そして年ごとの収量の変動がかなり大きかったことが百姓と荘官の軋轢を生んだ。

税を減免する措置のことを「損免」といい、百姓や荘官は台風などの災害や凶作の際に近隣にも被害が出ていることをアピールして「国中平均」とか「一国平均」(で不作になっている)というフレーズを使った。税の減免を求める論理が視野の拡大をもたらしているのが興味深い。領家の方はさらに視野の広い「天下一同」という表現を使い「その災害は天下一同ではない」などといって反論した。

このように、徴税の実務は課税側と納税側の綱引きであった。そこに地頭がやってくることで、この力関係は課税側有利になったように見える。地頭は治安維持も担っていたからである。幕府は仁政を掲げてはいたが地頭は時として暴力的に住民に臨んだ。地頭は本来は徴税官であるが、領家としては荘園の実務を全部地頭に任せることもやるようになった。これを「地頭請」という。地頭に一定額の上納を請け負わせ、それさえ納入されれば地頭に自由にやらせるということである。ところが先述の通り領主(領家)には地頭の人事権がなく、領領主としては困った存在でもあった。そこで荘園を領主と地頭で二分する「下地中分」が行われるようになった。領主としては荘園が半分になってしまう荒療治だが、そうまでして地頭と縁を切りたい領主がたくさんいたということだ。こうして地頭は、(当時は領家とはみなされなかったが)領家と同じような存在、事実上の領主となった。

「第4章 中世社会の変質と税」では、南北朝の動乱から室町までの荘園制が語られる。

戦乱が続くようになると、戦費を調達することが必要になる。そこで幕府は戦時の臨時的処置として「半済(はんぜい)」の権利を守護に与えた。これは領主におさめるべき年貢米の半分を戦費として徴収することである。このおかげで守護は強大な権限を持ち、武士たちと主従関係を構築した。また戦乱により荘園が脅かされると、「よそからやってきた武士たちが、国家や地域の平和を守るために戦ってやると称して、その費用を荘園に請求するようになった(p.210)」。これは西部劇で見たような光景だ。

さらに「一国平均役」の系譜に位置付けられる「反銭(段銭)」も義満の頃から制度化する。全ての土地から徴収する臨時税である。これも朝儀の実施、大寺社の修造などを名目に課された。なおこのおかげで「中止や縮小をやむなくされていた多くの朝儀が復興をみた(p.216)」。室町幕府(足利義満)は徴税という国家的機能を、朝儀を名目にして代行することができるようになったのである。中世後期には反銭は幕府の命を受けた守護が徴収するようになった。これは年貢に比べて一律に課すだけなので簡便で合理的な税であった

さらに室町将軍家は、鎌倉幕府とは異なって最大規模の荘園領主となった。有力な守護も多くの荘園を獲得した。さらに将軍家は「新たに御願寺を建立してその御願寺に荘園を寄進し、それを財源として先祖の追善仏事を行わせた(p.219)」。また将軍家では「出家した女性が尼門跡と呼ばれる寺院の住持となり、その寺院が荘園を所有するばあいもあった(同)」。つまり将軍家は、院政期の天皇家と同じようなことを行った。義満が創建した相国寺の七重塔(応永6年(1399)落成)は高さが360尺(109メートル)もあった。明徳元年(1390)の尊氏の33回忌法要は大寺院の僧侶と大部分の公卿が参加する国家的イベントであった。これらは白河上皇が仏事に狂奔したのとちょうど符合している。

この頃には本所の意味は薄れてきた。黙っているだけで納税されるという時代でなくなっていたのである。そこで本家は領家の立場を獲得しようとし、大寺院は主にその近隣にある荘園の領家となっていった(そうしなくては寺院の経営が成り立たなくなっていたのだろう)。

播磨国鵤荘(いかるがのしょう)は、数少ない法隆寺の荘園の一つとしてかなり丁寧に経営された。法隆寺は現地に人(僧侶)を派遣するとともに、多額の交際費を使って預所に現地の有力者たちと濃密な関係を構築させた。これは中世後期における荘園経営の成功例であり、そのおかげで納税が確実に行われた。しかし一般的に、遠隔地にある荘園の経営は難しい。領家への忠誠心など期待できないからだ。そこで有能な人物を現地において荘園を監督する必要があり、「代官」が外部から登用されるようになった。これは「預所代」の略である。代官となったのは、禅宗の僧侶、修験道の山伏、金融・倉庫・酒造業者、守護被官などが挙げられる。

しかし代官が適切に仕事をしているかは領主にとって見えづらい。そこには守護関連の支出は把握しづらいという構造的な問題もあった(中世後期には荘園は守護と領主に両属するような状態になっていた)。そこで毎年定額の年貢を納める「請切(うけきり)」という契約が結ばれるようになった。領主にとっては、経費の控除等が適切であるか監査する必要がなく、経営の中身にいちいち目を通さずに済むため楽であった。そしてこの結果、「請切の(代官)希望者が複数現れた場合は、最高額を提示した者を代官に任命する入札(p.242)」のようなことも行われた。これは一種の投機である。

こうなると、「私なら毎年60貫文納められます」という者が代官に採用され、それがうまくいかず解任され、別の「私なら120貫文納められます」という者に替わる…といったように代官がコロコロ変わった。本書にはそういう新見荘領家方の事例が詳しく述べられているが、このようなことをしていてはうまくいくものもうまくいかないだろうと思わされる。代官にとっては荘園は収奪の対象でしかなく、領家はそれをコントロールすることもできない。有象無象の輩が代官の地位争いに参入したことが荘園制を衰退させた一因である。もちろん百姓たちはこのような状態を不満に思い、領主が直接荘園を経営することを求めたこともあったが、領主にとっては面倒な実務に立ち入るよりは、より高額で請切する者に代官をさせる方が楽だったので、あまり実効はなかった。

つまり、荘園からの徴税は面倒な仕事だったので、誰も真面目にやりたくなくなっていたのである。領家も代官も、農村と向き合い長期的に発展させるよりも、その場しのぎで収奪をする方に傾いていった。これは逆に言えば、そんな雑なやり方でもそれなりに徴税できる状態であったことを示唆する。つまり百姓の側に「納税意識」が醸成されており、供出を命じれば(個別の百姓とやりとりしなくても)年貢が納められるコミュニティが確立していたということでもある。こうなると百姓の側としては「代官など不要」と考えるのも無理はない。

「第5章 終わる荘園制」では、荘園制の終焉が述べられる。

応仁の乱の後、明応の政変で将軍になった足利義材は荘園保護をなおざりにして軍事力の誇示に走った。それまでの歴代将軍は、いちおう復古(あるべき姿に戻す)を企図していたが、義材はそれをしなかった。この時点で荘園は保護者を失い、実質的に終了した。

実際、多くの荘園では納税が途絶した。遠隔地を実効支配すること自体ができなくなっていた。それでも、領主の近傍にある荘園からは年貢が納められたし、領主自身が土着して荘園を維持した場合もある。ちゃんとした人物が現地にいさえすれば、この時代でも年貢の納入は期待できた。法隆寺領の鵤荘ではわずかながら納税が続けられたし、東寺僧が下ってきていた新見荘でも天正2年(1574)まで東寺への納税が続いた。

「おわりに」では、荘園制における納税意識が簡単に再考される。

中世においては、納税への反対給付の一つは安全保障であったが、中世後期ではこれがうまく働かなくなった。守護と領主の二重構造もそれに拍車をかけた。しかし神仏の加護を受けるための納税についてはそれなりに機能し続けた。中世後期には神罰・仏罰を怖れないものが増え、世俗化していくと言われているが、戦国大名は戦の勝利を祈願して神仏に盛大な祈りを捧げ、農村の現場でも神仏への加護が期待されていた。神仏の加護が機能している限り、徴税・納税は受け入れられていたということになる。

ただし、「中世人が税を払ううえで重要なのは、誰が税をとりに現場へ姿を現すかということであった(p.283)」。収奪しか考えていない代官が来ても納税したくない。これは納税の論理などとは別次元の問題だ。「すなわち荘園経営の成否を左右したのは、領主の在地性であった(p.284)」。であるならば、島津荘が戦国時代を通じ成長し、島津氏が有力な戦国大名となったのも理解できる。南九州では、領主と百姓の関係が他の地域に比べれば比較的に安定していたのである。

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本書は全体として、具体例と考察、制度の説明のバランスがよく読みやすい。個人的には近世の土地制度・租税制度へどう移行していくのかという部分があるとより税の本質が見えてくるのではないかとも思ったが、扱っている時代が中世なのでこれはないものねだりだろう。また、徴税・納税の論理に神仏の存在を大きく取り上げた点は本書のもっとも面白い点であり、蒙を啓かれた点であるが、著者が「神仏への信仰」としている点だけは気になった。中世において「信仰」なる概念は存在しないのではなかろうか。中世人の神仏への向き合い方は、「信仰」のような内面的なものではなく、より実体的なものであったと思われる。

中世には、全国に末寺末社が建立され、多くの百姓が出家するようになったし、戦国時代にはいわゆる鎌倉新仏教が全国を掩うこととなった。こうしたことが荘園の在り方にどう影響を与えているのか。あるいは神仏の在り方に荘園制はどう影響を与えているのか。しばしば中世は「宗教の時代」であるといわれる。中世が宗教の時代であることと、荘園制の時代であることは密接にかかわっているように思われる。

納税と神仏の関係を独自の視座で語る良書。

【関連書籍の読書メモ】
『荘園—墾田永年私財法から応仁の乱まで』伊藤 俊一 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/03/blog-post.html
荘園の通史。荘園を学ぶ上での基本図書。

『鎌倉仏教の中世』平 雅行 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/10/blog-post_23.html
中世仏教を顕密体制論に基づき再構築して語る本。荘園制度における寺社(特に寺院)の在り方について、延暦寺を中心に述べている(第3章)。

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2026年4月10日金曜日

『廃仏毀釈はなぜ起きたのか』栗林 文夫 著

鹿児島の廃仏毀釈について史料に基づき語る本。

幕末から明治にかけて、鹿児島では徹底的な廃仏毀釈が行われた。全寺院が廃止され、全僧侶が還俗させられたのである。このように徹底的な廃仏運動が遂行されたのは大藩では例がなく、鹿児島の廃仏毀釈はよく語られる。

しかし研究面では名越護『鹿児嶋藩の廃仏毀釈』が2011年に刊行されて後はまとまった研究は行われていない。また同書は、今では注意して扱う必要がある法難史観(仏教を被害者として描く史観)の影響があり、事実関係についても修正すべき点がある。こうした状況を受け、著者は一つ一つの事実を文献によって確かめ、憶測を排し確定的に言えることのみを以て鹿児島の廃仏毀釈を記述した。

鹿児島の廃仏毀釈については、これまで市来四郎の記録(談話)が根本史料となってきた。市来四郎は廃仏毀釈運動の中心人物であり、他の記録がほとんど残っていないことからそれはやむを得なかったといえる。しかし市来の証言は額面通りに受け取れない部分があることも次第に明らかになってきた。そこで著者はこれまであまり史料批判されなかった市来の記録を確かめるという作業を行っている。その結果、細かい部分(後述の寺院数など)でより実態に肉薄している。

なお、本書のタイトルは「廃仏毀釈はなぜ起きたのか」だが、廃仏毀釈が起こった経緯やそれが徹底された理由は本書の中心ではなく、また鹿児島の事例のみの記述である(全国の話ではない)ことには注意が必要である。

「第1章 廃仏毀釈を知る」では、廃仏毀釈前の概況および重要人物の仏教観が述べられている。

薩摩藩では士族の人口割合が高く(明治4年の段階で26%)、武士を各地に分散して居住させる外城制度があるなど(延享元年(1744)では113の外城があった)、他藩とは違った特徴があった。一向宗(真宗)を禁制にしているのも他藩との著しい違いである。各郷(外城)では、菩提寺として曹洞宗寺院が、祈願寺として真言宗寺院が定められ、この2宗の寺院数が多かった。文化年間(1804~18)の記録では曹洞宗50%、真言宗33%、臨済宗11%ほどで、浄土宗、時宗、法華宗は少数派で天台宗は記録がない。なおこの記録では本土の寺院数は1840である。

宗教政策としては、キリシタンと一向宗の取り締まりために宗体座(しゅうたいざ)が設置され、後に宗門改所となった。この宗門改所は「宗門改」(本書には説明がないが、おそらく他藩の宗旨人別改と同じと思われる)と「宗門手札改」を実施した。この「宗門手札改」とは、「14.5センチ×7.5センチほどの大きさの木札に、年月日・担当役人名・父親の名前・本人名・宗旨・年齢などを書いて各人に渡した(p.43)」ものである。これは身分証のようなもので、7、8年ないし14、5年ごとに手札改めが行われ、明治3年(1879)まで30回ほど実施された。これが木札である点は気になる。宗旨人別改の場合は檀那寺の押印が必要だったのだが、木札の場合は押印がない。この木札の作成業務は郷士(外城に居住する武士)が行い、「寺院は一切関与しなかった(p.44)」。そのことを以て著者は「つまり寺請性制度がなかったということになる(同)」としている。しかし本書には「宗門改」についての説明がない。こちらでは寺院の関与はどうであったのか気になった。

薩摩藩では、18世紀以降、藩主による僧侶批判が行われるようになった。宝永2年(1705)の島津吉貴の訓諭では「国中之僧侶近年道学之心懸薄く」としている。これは大寺院の門主に対して出され、以後藩主交代の際の恒例になった。江戸時代の説話集『浦之波』には、薩摩藩主が僧侶を批判した話がいくつか収録されている。それらの話では、何らかの処分が行われようとした時に僧侶がそれを救おうとしなかったことが批判の的になっている。それらは史実とは思えないが、僧侶が人々を救わないことに対し説話の収録者が不満に思っていたことは確かである。

また種子島氏の「家譜」では、僧侶の問題行動が種々記録されている(余談ながら著者は種子島も専門的に研究しているので種子島の話題がたくさん盛り込まれている)。幕末には種子島の重要な寺院3つともが無住(住職がいない)になっており、家譜の編纂者は「仏法廃壊」と慨嘆している。これらの事から、薩摩藩では19世紀以降に僧侶への風当たりが強くなっていたことが明らかである。仏教が衰微しつつあった可能性もある。

さらに、鹿児島では国学が盛んになった。しかし国学=排仏・廃仏ではない。薩摩藩の著名な国学者に白尾国柱・山田清安・八田知紀がいるが、彼らは「嫌仏」ではあっても廃仏とはいいがたい。平田篤胤門人の後醍院真柱は廃仏毀釈の中心人物であったことは間違いなく、国学は廃仏毀釈の重要な背景ではあるが、国学の隆盛と廃仏毀釈を直結させることはできない。

平田篤胤と島津家には交流があり、重豪(しげひで)・斉興(なりおき)・斉宣(なりのぶ)・斉彬・奥平昌高(重豪二男、豊前中津藩主)との交流があったことが『気吹舎日記』で確認でき、天保2年には白金の薩摩藩邸で篤胤による講説も始められている。著者は「藩主たちが、どこまで篤胤の説に私淑していたかは、実際のところ不明としかいいようがない(p.60)」というが、好意的だったのは確かである。

藩主のこうした動向は薩摩藩士にも影響を与えていたと思われる。薩摩藩は特に平田門人の多い藩ではないが、要路にいる藩士に平田門人が散見される。とはいえその他大勢の藩士にどう受容されていたかは不明であり、「「国学=悪」「平田篤胤=廃仏毀釈の元凶」(p.63)」との図式は再検討されるべきとしている。

重豪以降の藩主の仏教観を検証してみると、重豪は「増え続ける祖先の祭祀とそれに伴う財政的な負担を少しでも減らそうと(p.64)」しつつも、法事は欠かさず実施しており仏教にたいする否定的な考えはうかがうことはできない。

斉興は在俗のまま大僧都(僧位)、上人(僧官)を有しており、藩主在任中に大覚寺門跡から「亮忍」という法諱をもらっている宗教家でもあり、「虎巻大法」なる密教の修法を行って、家臣たちにも伝授していた。このように密教に傾倒した背景には、外国勢力が自国領域内に頻繁に侵入したことがあるのではないかという。

斉彬はどちらかといえば仏教・寺院に対して好意的だったと推測される。ただし「神社の由来などの多くは中古(平安時代)に僧侶たちの附会妄談により神威が瀆されている(p.70)」と認識したり、「近代合理主義的な思考を有していた(p.72)」という点は見逃せない。斉彬は敬神の情があつく、家督後初入部の際に鹿児島神社などの古社に黄金製の大幣を奉納しており、鹿児島神社へ奉納したものは長さ1丈(約3m)もあった。斉彬には廃仏の意図はなかったが、敬神と合理主義が強調されて廃仏が斉彬の遺志であったかのようにされ、「廃仏毀釈のスケープゴート(p.74)」になったと著者は考える。

久光(※藩主ではない)は、若い頃は仏教好きであったようだ。しかし中年には明確に仏教に批判的になっていた。廃仏毀釈を主導する部下を後援したのは久光である。

次に藩士であるが、有馬新七の仏教観は面白い。彼の「淫祠を除く説」では、仏教伝来や本地垂迹説など割合に正確な歴史認識に基づいて仏教を批判している。いわれなき批判ではなく正確な事実に基づいて仏教を批判しているのが注目される。井上備前守長従は花尾神社の大宮司であるが、「井上備前守ヨリ霧島神社祭儀復古ノ上書」(明治元年)を残している。彼は霧島で別当寺が幅を利かせている状況を遺憾とし、神仏分離を主張している。市来四郎は廃仏毀釈を主張した人の一人であるが、彼は「先祖の菩提は寺院、祈願は神社、日常的には氏神・産土神、一種の娯楽として寺社の祭りに参加していた(p.87)」。つまり意外と普通で、現代のわれわれと同じような宗教との付き合い方だった。

「第2章 廃仏毀釈が徹底された理由」では、廃仏毀釈を編年的に述べている。

まず、廃仏毀釈前にすでに廃壊したり、整理されたりした寺院があった。特に種子島では、種子島久柄の口上覚(1808)で財政的な理由から廃寺同然となった寺院を「取り除きたい」としている。廃寺同然となった寺院など放っておいたらいいような気がするが、それをわざわざ「取り除きたい」としているのは寺院の維持が権力の責任だという社会通念があったためであろうか。

嘉永6年(1853)では、外国船からの防備の必要から、諸国寺院の梵鐘を大砲・小銃に鋳造すべきとする太政官符が出された。これを受けて薩摩藩でも梵鐘の回収を行ったが、ちょうど藩主斉彬が急死したため鋳造はしていない。斉彬の死はその祟りだとの噂もあったという。

文久2年(1862)には記録奉行伊地知季安(すえやす)により藩内の寺社調査が行われる。これは島津久光の命令ではないかと著者は推測している。なおこの調査理由は「皇国之儀は神明之威力を以て夷賊降伏之先蹤もこれ有る事(p.96)」などといい、祭礼がちゃんと行われているか調査するといった意味合いだった。

なお同年から、薩摩藩では天保通宝と琉球通宝を鋳造しており、この材料が梵鐘であった。市来は「無用ノ梵鐘(中略)[が]資料ニ供セラレ(中略)有用ニ充タレタルハ稀代ノ英断(p.103)」であるという。「鋳銭事業を契機とした寺院所蔵の梵鐘鋳つぶしは、このすぐ後に行われた神仏分離と廃仏毀釈のハードルを結果的に下げることになったと思われる(同)」。

さらに薩英戦争では、「戦争準備のため、寺院の合併・移転が行われた(p.104)」。薩英戦争の本陣は千眼寺に置かれたが、千眼寺は慈国寺に合併されている。その他南泉院も移転している。

慶応元年(1865)の春に藩の少壮者たちが廃仏断行・僧侶還俗を進言し、これが久光の容れるところとなって廃仏毀釈が実行された…とされてきたが、具体的な動きが始まるのは慶応2年5月なので、慶応元年春というのは市来の間違いで慶応2年の春であったと著者は考える(考察は割愛するが、「一応、両論を併記する(p.128)」としている)。ここから盛んに合寺廃寺が行われ、神社の合祀等も行われた。しかし、慶応2年12月には関係者が更迭されており「反対者からの手痛い反撃(p.111)」によるものと思われる。

慶応3年にもその動きは続く。寺が残っても石高が削減された場所があり、廃寺政策の目的が経済的なものであったことが窺える。ちなみに8月には「寺々より訴え出候儀段々これ有り」として加治木郷で対応が協議されているところを見ると、僧侶らからの反発・異論があったことが確認できる。僧侶は決して唯々諾々と従ったのではないが、廃寺政策は強行されていった。

ところで本書では強調されていないが、廃寺のみならず「合寺」があったところは注目すべきである。「合寺」は当初は寺院の全廃が念頭になかったことを示す。また位牌の扱いも興味深い。家老桂久武の指令に曰く「廃寺にあった位牌を残存している寺に移したならば、その寺の仏壇が混雑するので、今より「集霊位」を置くこと。(中略)これまで寺院に安置していた位牌を自家へ引き取るのは自由(p.116)」。「仏壇が混雑」とはおためごかしであろうが、「集霊位」などというものを考案したのは誰だろう。

慶応4年(1868)は明治維新後である。神仏判然令が発せられ、「仏体を破壊するなどの過激な行為は鹿児島でも実際に起こっていた(p.118)」。藩庁が「仏像・石碑を夜陰に及んで破却した族(やから)があったが、粗暴の所行は許されるものではない(p.119)」と達している。ここに「石碑」が含まれているのが極めて注意を引く。なおこの時期はまだ一斉に廃寺しようとするものではない。

明治2年3月に忠義夫人の暐子(てるこ)が産後病気のため死去し、この葬儀が神葬祭(神道式の葬儀)で行われた。神葬祭は三島通庸の創意によるものだった。この葬儀がきっかけとなり藩内の寺院全廃へと方向転換していった。なお10月に寺僧に相当の手当てを支給することを決めている。寺院の供給高を召し上げたためである。修験者についても、聖護院に対して「藩内僧侶壱人も罷り申さぬ旨」を伝えている。ちなみにこの時期は軍事方が廃仏運動を主導している。12月には志布志で地頭から「志布志隊長中」に宛てて「万一未だ廃寺になっていない寺院があれば早々に廃すべきこと(p.123)」等が言われているので、志布志ではこの時点で主だった寺院は全て廃寺になっていたと判断できる。

著者は『鹿児島県地誌上下』(「鹿児島県資料集」16・17)、『日向地誌』(平部嶠南)を元に廃寺年表を作っている(p.130)。薩摩・大隅・日向の記録にある419ヵ寺が廃寺になった年をまとめた素晴らしい参考資料である。主な数値を挙げると、
慶応元年    4ヵ寺(0.95%)
慶応3年    105ヵ寺(25.06%)
[慶応中    13ヵ寺(3.10%)]
明治元年    27ヵ寺(6.44%)
明治2年    130ヵ寺(31.03%)
明治3年    48ヵ寺(11.46%)
明治4年    8ヵ寺(1.91%)
となっている。まず慶応3年に105ヵ寺、25%という大きなピークがあり、明治2-3年(合わせて42%)がもう一つのピークになっていることがわかる。この表より、従来廃寺が完了したのは明治2年といわれていたが、明治4年までかかったことが明らかになった(ただし明治4年に廃寺になった8ヵ寺のうち7ヵ寺は日向国諸県郡であり、日向国には時期不明の廃寺が多い。これが何を意味するのか不明)。

また、廃仏毀釈は戊辰戦争で中断したと言われてきた。実は私も拙著『明治維新と神代三陵』でその説を踏襲し、鹿児島の廃仏毀釈を前期と後期に分けた。しかし著者は廃仏毀釈に中断はなかったと強調している。実をいうと、拙著の執筆段階で著者(栗林氏)には草稿を見せていたのだが、著者からはこのことについて指摘があり「前期と後期に分けるのはどうなの?」と言われていた。しかし私は、前期の廃仏毀釈は財政的な理由が主で、後期には思想的な理由(全廃が前提)という性格の違いを重視して前期後期に分けた。前述の通り、慶応3年と明治2-3年という前後2つのピークがあり、廃仏の性格も異なることから前期・後期に分ける考えは今でも変わっていないが、拙著を取り上げ精緻な論証で「中断はなかった」ということを示してくれたことには深甚な感謝を表したい。

続いてケーススタディとして、花尾神社(の別当寺平等王院)、枚聞神社、川辺郷の事例を述べている。

平等王院は慶応3年に「廃寺之節華尾山江仰渡」で大乗院への合寺を命じられた。その内容は廃寺に伴う各種の処置を細かく命じており、単に廃寺しろというだけでない面が興味深い。「大宮司役所は取り除き、同所へ建立した護国御神殿の前通りの道幅を三間ほど広げ、左右に杉を植え付けること(p.138)」など道幅の拡幅まで指示している。また「山内の町石(一町ごとに道程を記した石)に彫刻している梵字は、今回すべて消し除くこと(同)」として梵字が破壊対象になっているのも気になった。そして召し上げた石高は「帖佐与蔵入りとし、海陸軍方へ差仕分け」るとするが、所務米は神職らへ配分するよう量を指定して命じている。

枚聞神社は年代不明であるが「廃寺方被仰渡」という史料が残っている(神社なのに廃寺と言っているのがよくわからない)。それによれば古来数多くの神が祀られてきたがそれらの祭神が祀られてきたのは「虚妄無稽種々之怪談」と断じ、縁起や掛物等「全て此の節焼き捨て」て、祭神を大日孁命(おおひるめのみこと)のみに限定した。暴力的ではあるがちゃんと理論武装していたことが窺える。

川辺郷では「神社方日帳」という史料が残っており、日付事に出来事がまとめられて廃仏の細かい動向がわかる。ここで位牌の処置、石高の処分(やはり海陸軍方へ!)などの他に気になったのは、明治元年に「廃移寺・合院の跡地面は、衆中家督で別宅していない者、社家無禄の者で家造りができない者へ親疎なく借地を申し付ける(p.148)」としている点。廃寺に伴う財産の接収が一種の恩賞に使われているということである。また修験道について明治2年には「修験宗を滅ぼすものではない」として、三宝院からの離脱もないと明言している三宝院宮御役所からの達書が残っているのも面白い。さらに宝福寺からは「修理がままならないので取り除き方を許可してほしい」という自ら廃寺を希望する文書があり、また飯倉神社からは「早めに修補を仰せつけていただきたい」などとしている。これらを見ると寺社の管理は藩権力に大きく依存していたように思える。寺社に石高が与えられてその中で自弁していたというより、石高とは別に営繕までも藩が担っていたような印象を受ける。実際、明治3年に「谷山作硝局御修甫掛・営繕奉行見習」が飯倉神社の修補のために「惣社絵図面」を提出するように命じ、人足を手配している。これは非常時のみの体制だったかもしれないが、寺社の営繕に藩が責任を有していたとすれば、廃寺政策が行われたのも理解できる。

このほか、種子島・吐噶喇列島、そして修験道の廃仏についても記述があるがここでは割愛する。

ここで著者は冒頭に述べた市来四郎の記録の問題点を検討している。その題材としているのは、市来が廃仏前にあった寺院数を1066ヶ寺としているが、1616ヶ寺とする書籍もあり、これはどちらが正しいのかという考察である。結論だけ述べると、1616ヶ寺は1066ヶ寺を転記ミスしたもの。そして市来が述べている1066ヶ寺(および寺領石高等も)は、得能通昭(とくのう・みちあき)の『通昭録』55巻(鹿児島県資料集59 『通昭録』8)にある数字を転記したものと推測できる。『通昭録』55巻は安永元年~9年の間に成ったと思われ、18世紀後半の数字である。市来は、これを幕末の寺社数としているのである。このように、市来は史料の扱いが雑である。また出典も明らかにせず、ミスも多いようだ。廃仏毀釈の根本史料である市来四郎の記録にはこのような問題があることを常に念頭に置いておかなければならない。

ところで著者は指摘していないが、『通昭録』も含め各種の史料に「神社・堂宇・寺院」の数が掲載されているのは気になった。「神社・寺院」だけでなくなぜ「堂宇」があるのか。これは、神社・寺院だけでは捉えられない様相を伝えていると思われる。例えば17世紀後半から18世紀前半のある記録では神社4415、堂宇4046、寺院1815とある。神社と寺院を合わせた6030のうち、32%にあたる1615に堂宇がなかったということになる。著者は近世における薩摩藩の寺社数の変遷を各種の史料からまとめているが(p.177)、その平均でも30%の寺社には堂宇がない計算になる。現代の常識では堂宇がない寺社は寺社としてみなしがたい。それを考えるとそもそも1066ヶ寺という数字も、多分に帳簿上(つまり寺号のみの寺院を含めたもの)である可能性がある。少なくとも、当時の人は「堂宇」の数もなければ実態が捉えられないと考えていたことはいえると思う。

※この「堂宇」は神社・寺院とは別の小堂を示している可能性もある。ただし神社の4415は小堂まで含めていると考えられるので、その場合は仏教的な小施設と考えられる。 

ちなみに、何を神社とし、何を寺院と捉えるかもこうした統計を見る時には注意が必要だ。例えば地蔵堂のようなもの(お堂はあるが地蔵が一体安置されているだけの場所)は寺院かどうか。あるいはしめ縄で結界され石祀がある場所は神社と見なし得るかどうか。当時の寺社は藩権力によって認められて存立していたと考えられるので、こうした民衆的な自然発生的なものは数字に入っていないようにも思うものの、県内に神社が4415もあったというのはさすがに多すぎ、神社についてはこうしたものまで含めていたと考えるのが自然だ。とすると寺院の1815についてもかなり小さな施設まで入っていると思われる。このような点についても今後考察が必要だと思われる。

廃仏毀釈は同時代の人にどう受け止められていたか。なかなか史料に残っていないことだが、いくつかの例が挙げられている。税所篤の実兄の税所篤清は住職であった人物だが、寺を召し上げられ還俗を命じられた。彼はその後の人生に「さほど困難も感じることはなかった」と淡々と述懐している(批判できなかった可能性がある)。神官の岩元式部は廃仏前夜に記録を残しているが「神官にも影響があるのでは」とビクビクしている。島津家の歴代位牌は福昌寺墓地内に埋納された。その塚が「列聖群霊旧牌合瘞冢」である。これは位牌を処分しなければならないことに抵抗を感じていた証拠である。幕末明治の文化官僚であった木脇啓四郎は明治31年に「恐れ乍ら御失策と伺い奉る」と廃仏政策に対して真っ向から批判する文章を書いた。このような批判が残されることは珍しい。なお、著者は県内にも意外に多くの仏像が残されていることに触れ「廃仏毀釈に反対する人々が(中略)ひっそりと持ち帰り今に伝えられた(p.194)」としているが、全てがそうであったとはいえず、どうして多くの仏像が残ったのかはさらなる検証が必要であろう。

鹿児島で廃仏毀釈が徹底された理由としては、以前から上意下達の鹿児島の県民性に求める説があるが著者はこれを批判するとともに、これまでの研究をまとめて9つの要因を挙げ、それらが複合した結果であろうとしている。

「第3章 神社にとっての明治維新」では、神社の創建、改変などについて述べている。

鹿児島では幕末に楠公社や照國神社が創建された。これは新しい国家観に基づく神社であった。また戊辰戦争後に招魂社も造営された。これは県内各地に「私祭」として設立されたが、その一部は運動の結果官祭になった。

一方、盂蘭盆会や庚申祭といった旧来の習慣は否定され、神社祭祀としては伊勢神宮信仰が導入された。藩は仏教に代わる新たな宗教として敬神思想を普及させ、そのためのテキスト『神習草(かみならいぐさ)』が配布された。また多くの神社が合併させられ、またその名が知政所により改められた。新たな社名を付けるにあたっては、神仏習合的な要素を削り、神話に出てくる神の名を使うといった方針があったように見受けられる。また歴代の島津氏を祭神とする神社も創建された。奄美地方では高千穂神社を中心とした新しい神社が多数創建された。「それまで「外国」として認識されてきた奄美諸島に高千穂神社を配祀することは、この地域を領土的、さらに精神的・思想的にも「日本」のなかに組み入れようとする意図が読み取れる(p.220)」。

「第4章 「全廃」からの寺院の復興」では、廃仏毀釈後の鹿児島の仏教界の動向が簡潔に語られる。

明治11年には曹洞宗の福昌寺(島津家菩提寺)が再興され、12年には本堂も再建された。しかし明治19年以降に暴風雨のため本堂が倒壊したと考えられ、隈之城に移転した。南林寺も再興が試みられたが寺号使用は許可されず大中寺として再興された。また真言宗では、明治12年に大乗院が最大乗院として再興された。他、臨済宗、法華宗なども復興の動きを見せた。このように寺院復興の動きはなかったわけではないがそれほど盛んだったようには見えない。なにより、寺院再興は外部から赴任した人によってなされていることが多い。鹿児島に大勢いたはずの元僧侶はどのような思いでいたのだろうか。なお、そんな中で教線を急拡大したのは浄土真宗である。

「終章 廃仏毀釈とは何だったのか」では、これまでの論述をまとめ、改めて論点を整理している。

主な点は、(1)国学の影響が大きかったのは間違いないにしても、国学者全員が廃仏毀釈に賛成していたとはいえない。(2)近世の神仏習合の在り方にも注意が必要。(3)廃仏毀釈の経過は単純ではなく通説を鵜呑みにすべきでない、といったところである。

最後に、黎明館での企画展など廃仏毀釈や鹿児島の仏教文化についての社会の関心について触れ、またSNSで一部の過激な主張(やデマ)が拡散しがちな状況と廃仏論者の意見が通ってしまった150年前の状況を類比させるとともに、近年の寺離れにも言及して擱筆している。

本書は全体として、「こういう本が鹿児島の廃仏毀釈をまとめるのに必要だった」と感じるものである。著者がいうように、鹿児島の廃仏毀釈はこれまで断片的にしか語られておらず、文献に基づいて丁寧に経過を追った研究が少ない。本書は、今後の鹿児島の廃仏毀釈を語る上での基本文献と位置づけられるものである。

ただし、本書は石造物や民俗については手薄である。また、鹿児島の中でも徹底的に仏教的なものが破壊された地域とそれほどでもない地域がある。本書は島嶼部に目配せしているが本土の中での偏差にはあまり注意していない。今後は、本書の知見を土台としてより民衆に近い部分の動向を明らかにしていくことが期待される。

文献に立脚して鹿児島の廃仏毀釈を描いた今後の基本図書。

【関連書籍の読書メモ】
『鹿児島藩の廃仏毀釈』名越 護 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/10/blog-post_18.html
鹿児島の廃仏毀釈の実態について、郷土資料を中心にまとめた本。やや概略的すぎるきらいはあるものの、鹿児島の廃仏毀釈について総合的にまとめられたわかりやすい本。

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2026年4月6日月曜日

『ひとかけらの木片が教えてくれること 木材×科学×歴史』田鶴 寿弥子 著

木材解剖学に関するエッセイ。

著者は、木材(それはしばしば小さな木片である)の解剖学的特徴からその種を同定するという仕事(研究)を行っている。木片を薄くスライスして顕微鏡で観察するのが基本だが、文化財の調査では試料を採取できない場合も多い。その場合、自然に剥落した木片が使われることもある。ボロボロの状態であるためスライスができない場合は、Spring-8(放射光の施設)でそれを観察する。

そのようにすれば、専門家なら樹種などすぐに分かってしまうのではないかと思うが、どうやらそうではないらしい。そもそも針葉樹は組織がシンプルでほとんど区別がつかないという。よって著者はいろいろと工夫したり、五感を使って精細に観察したりして樹種の同定を行っている。そうした努力により「国内の木材については、植物分類学上の科、属、種の内、属レベルまでであれば、ほとんど識別できる状況(p.42)」になっている。 

本書は著者が手がけた事例のいくつかを紹介しながら、木材解剖学の初歩を紹介したり、文化財の紹介をしたりするエッセイ的な本である。大まかに言えば、本の前半では木材解剖学の話が、後半は文化財の話が多い。

私は仏像の樹種について興味があって本書を手に取った。仏像については、まず日本に仏像が伝来した当初はクスノキによる造像が行われていたようだ。それが8世紀に入ると用材に大きな変化がおこる。針葉樹による造像に変化したのである。特に使われたものはカヤである。

ではなぜそのような変化がおこったか。著者は中国から「栢木」という概念が伝わってきたためではないかと考える。 「栢木」とは、『十一面神呪心経』の注釈『十一面神呪心経義疏』(慧沼)に「白檀の代用材」として説かれているものである。ここでは「白檀がないならばその代わりに栢木を使って十一面観音像を製作しなさい」と書かれている。この義疏に書かれていたばかりでなく、中国では白檀の代用材としての栢木の観念が7世紀後半には広まっていたらしい。ではこの「栢木」は日本では何の木だと認識されていたかというと、これがカヤのことではなかったのか、というのが実際の調査から見えてきた結論である。

日本の古代では、建造物の柱材としてヒノキ、コウヤマキ、スギ、モミに次いでカヤが使われている。なおコウヤマキにはなんらかの信仰心があったと思われ、棺材としても使われていた。古墳時代や奈良時代にはコウヤマキが建築においても重要視されていたが過剰な伐採によって枯渇したと考えられる。カヤもコウヤマキと同じように信仰心から重視された可能性がある。

さらに神像にもカヤが多く使われていたようだ。著者が調査した11〜14世紀の滋賀県蔵の神像7体はカヤだった。この他、ケヤキ、サクラ属などが神像に使われたことが著者が調べた神像の範囲では明らかになった。そして平安時代以降はヒノキが使われる事例が増えている。さらに世界の博物館・美術館に流出した神像9体について調べると、8体がモクレン属、1体がクリ属であった。どうやら出雲から世界に散逸した(と考ええられる)平安時代の神像の多くがモクレン属で造られていたようだ。これは実は珍しい事例で、モクレン属のホオノキが蛇に見立てられて御神木となったという説もあることから、何らかの意味がある用材選択であったと見られる。

ちなみに、仏像の用材選択において日本と中国では大きな違いがあり、中国では軽い材が好まれて使われた。シナノキ属、ヤナギ属、キリ属などが使われている。「なぜキリ属のような軽い木で造像を行ったのか、不思議(p.127)」。「中国では仏像を持ち運ぶ習慣があったのか、あるいは植生が限られていたのか(同)」、現時点ではよく分からない。なお中国では「栢木」はイトスギ属であったと考えられる。

この他、木床義歯(木で造った入れ歯)、茶室に使われた木、近代建築の建築用材(大正時代には少なからず北米産材が使用されている!)などの話題が盛り込まれている。

本書は少し無理にエッセイ風にしている部分を感じた。柔らかいタッチにするためにあえてエッセイ風表現にしているような箇所があるのである。たとえば著者の小さい頃の思い出が挿入されるなどであるが、そういう箇所の文章はなんだか精彩を欠く。著者本来の文章はもう少し学術的なのかもしれない(論述を書いている部分の方がかえって読みやすい)。ただしエッセイ風味の口絵写真は大変雰囲気がよかった。

あまり耳慣れない木材解剖学に文化財の話題で親しめる入門書。 

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2026年4月5日日曜日

『斎宮——伊勢斎王たちの生きた古代史』榎村 寛之 著

斎宮と斎王について読み物風にまとめた本。

古代から鎌倉時代まで、天皇と関係の近い皇女が斎王(さいおう)として伊勢神宮に仕えるために派遣された。斎王が居住した場所が斎宮(さいくう)である。本書は、斎宮・斎王とはいかなるものであったかを豊富な情報量かつ親しみやすい語り口で紐解くものである。

斎王とは、「天皇の代替わりごとに未婚の皇族女性から選ばれて、その天皇一代の間、伊勢神宮に仕える人(p.1)」である。その人選は建前としては亀卜(占い)によるが、かなり恣意性があったと考えられる。1年に3回伊勢神宮(内宮・外宮)に参詣するのがその主要な任務であった。そしてその居住地が斎宮であり、これは条坊制を持つ小規模な都ともいうべき場所であった。斎宮には斎宮寮という維持機関が置かれ、さらにその下には21の司が置かれた。斎宮は本格的な官僚機構を持つシステムなのである。

また賀茂神社にも嵯峨天皇の時代から皇女が派遣された。こちらは賀茂斎王といい、その居住地から斎院ともいわれる。賀茂斎院は9世紀前半から13世紀前半まで存在し、斎宮よりも存続期間が短かった。

なお、斎王は伊勢神宮の主宰者ではなかったのはもちろんである。伊勢神宮には祭主が別に存在し、古代には祭主は都に住んでいた。現地にいる斎王と、都にいる伊勢神宮の祭主という対照は興味深い。祭主は12世紀には伊勢に土着するようになり、実質的な支配者となった。伊勢神宮を祀るために斎王が必要だったのではなく、祀るのはあくまでも祭主であったと考えられる。

では斎王はなぜ伊勢神宮に置かれたのか。伝説では、『日本書紀』にあるトヨスキイリビメとヤマトヒメがその元になったとされるが、これは『日本書紀』編纂時の作為と見られる。7世紀前半の理想的な斎王像が彼女らに投影されている。5~6世紀にも伊勢神宮に皇女が使えているが、こちらには「どうもダメな雰囲気が漂っている(p.15)」。具体的に言えば、不祥事を起こして更迭されたり、そもそも不在だったり、3代の天皇にわたって斎王を務めたりしている。要するにこの時代ではまだ制度的に不完全なのである。

斎王が成立する前提となったのは、大王(天皇)の娘が特別な存在とされたことであり、大王の血縁集団の聖性の確立と関わっている。その意味では「伊勢神宮の祭祀は「大王家」の確立と連動して整備が始まったといえないこともない(p.17)」。

そもそも天照大神自体が、壬申の乱後の皇統の確立にあたって天武天皇が「感得」したものであり、「中央集権体制にふさわしい神として創出されたもの(p.41)」である。また天照大神が女性神とされるのは、女性(天皇)に護られていた天武の状況を反映したものである可能性がある。そして天武は自らの娘大来皇女を伊勢に派遣し祀らせた。彼女は天照大神の「グレードをたしかなものにする役割を負った(p.42)」。つまり人工的に創出した天照大神/伊勢神宮の特別感・隔絶感を演出するために派遣されたのが大来皇女だったと著者は考える。この時代には斎王という職名もなく、斎宮寮のような官司もなかったと思われるが、これが実質的な斎王の始まりである。続く持統天皇はおそらくは天武とは異なる伊勢神宮体制を志向し斎王を置かなかったが、この頃に伊勢を完全に支配下においたと考えられる。

天武朝以降の斎王の特徴として、選ばれてすぐに伊勢に向かうわけではないということがある。彼女は一年ほど泊瀬(はつせ)斎宮という仮の宮で過ごした。9世紀には「野宮(ののみや)」と呼ばれた。これは京外の適地がその都度選ばれた。そして9月に数百人を従えて伊勢に下っていった。これを群行(ぐんこう)という。

斎宮寮が本格的に整備されたのは聖武天皇の娘、井上内親王の頃で、『続日本紀』によれば121名の官人が任命されている。斎宮はミニ内裏のようなもので、宗教施設ではなく「皇族の生活維持のために置かれたシステム(p.30)」であろう。

先述のとおり、斎王は年に3回伊勢神宮にお参りしたが、その3回とは9月の神嘗祭と、6月・12月の月次祭であるとされる(『延喜斎宮式』)。そして斎宮の役割は「三節祭の二日目に内宮・外宮の内玉垣御門に入って拝礼して、太玉串を奉ることである。実はこれが何を意味しているかはよくわからない(p.32)」。8世紀には4月と9月に行われる神衣祭(かんみそのまつり)にも参加していた可能性がある。またこのほか、斎宮内で新嘗祭や忌火祭(いんびのまつり)などの神事もあった。面白いのは、元日には斎王は拝まれもした。天皇の拝賀と似たように、斎王は斎宮寮の職員から拝賀され、また3日には伊勢神宮の宮司、禰宜、度会郡の神郡の郡司が斎王を拝賀した(p.185)。

斎宮の財政は国家と独立しており、常陸国から京までの各国が調庸を負担した。国家からの給付を受け取るのではなく独自に徴税機構があったのである。どうしてこのような仕組みで運営されたのか極めて興味深い。条坊制を持つ広大な斎宮が整備されたのは桓武天皇の時代で、520人以上が働き、2、3000人が関係していたとみられる。『大和物語』では斎宮が「竹の都」と呼ばれている。斎宮とは一つの都市だったのである。斎宮頭は伊勢守や介を兼任することもあり、斎宮寮は「伊勢南部地域のもう一つの国府(p.117)」のような存在になった。なお斎宮は淳和天皇の時代に多気郡から(伊勢神宮近傍の)度会郡に移転している。これは斎宮を通じて伊勢神宮の支配を強める政策であった可能性が高い。しかし承和6年(839)に度会の斎宮は消失し、再び多気郡に戻った。ここから「斎宮と伊勢神宮が対立しつつ棲み分けるという平安時代の体制(p.120)」になる。

斎王は任期を終えると(天皇が交代となると)、難波津に下って3か所で禊を行った。そして僧侶によって風誦が行われて数か月してから自邸に戻っていたらしい。往還それぞれに数か月~1年をかけているのが不思議でならない。深い意味があったと思われるが不明である。

本書では、斎王のケーススタディとして7人が取り上げられている。すなわち大来皇女、井上内親王、朝原内親王、徽子内親王、嫥子内親王、良子内親王、媞子内親王である。これらの人物は多くの人にとって「名前を聞いたことがあるかも」という存在であるが、著者はその伝記的事実を詳しく述べている。彼女らはそれぞれドラマチックな生涯を生きており読み物として面白いが、ここでは彼女らの伝記は割愛してポイントのみ述べる。

まず、斎王には非常に幼い頃に任命される場合があった。斎王は独身が務めるものとされており、年少であったのは当然だが例えば井上内親王は5歳、朝原内親王は4歳で斎王に任命されている。なお斎王を務めた後に結婚するのは可能だが、平安期には内親王の結婚相手は少なかったので一生独身だった人が多い。

なぜ斎王は幼少で任命されたのか。それは天皇の即位にともなって選ばれたことが大きいようだ。まだ天皇も若いので、基本的に天皇の娘が務めた斎王は自然と幼少になった。娘(内親王)がいない場合は女王でもよいとされたが、10世紀後半からは女王の方が普通になった。皇女にとって斎王は有り難い役職ではなく、できれば任命を避けたかったため、女王にお鉢が回ってきたということのようだ。「この時代には伊勢斎王になることは一つの悲劇と認識されていたふしもある(p.135)」。

斎王の任命を避けたかったのは、京を離れ伊勢に赴任しなければならなかったことと(賀茂斎王=斎院はそれほど嫌がられてはいなかった)、仏教から隔離されたこと、神への捧げものとしての「聖なる犠牲(p.141)」であると考えられていたことなどが要因であると考えられる。『源氏物語』でも六条御息所の怨霊は斎宮にあって仏教から離れていたので恋の執着から離れられないと告白している。

では斎王は仏教を遠ざけて精進潔斎の生活をしていたのかというとそうでもなく、普段の斎王は「都の姫君とほとんど変わらない装いをしていた(p.96)」。どうも常日頃から神に奉仕するようなものではなく、三節祭を中心とした年に数回の祭の日のみに任務を負ったようだ。あまり働いたようではない。また都を離れて寂しい暮らしをしていたわけでもないようで、斎王の周辺には文化的サロンがあり、また都とのネットワークもそれなりにあったらしい(もちろん斎王によって違いはある)。

そして斎王を務めた女性は、かなり優遇されていた時期がある(それだけ斎王が敬遠されていたということかもしれない)。元斎王という肩書きは貴族社会では重く、たとえ短い間でも(白河天皇の皇女媞子(やすこ)内親王の場合は3歳から9歳の間だけ)斎王を務めることは重要なキャリアと見なされた。媞子内親王は未婚でありながら女院(郁芳門院)となっている。

ところで、元来は皇女が務めた斎王を女王(天皇の孫や姪など)が務めるということになると、父親にとっては娘を斎王として差し出すことが政治的な得点ともなった。本人とその父親にとってのキャリアアップの手段として斎王が捉えられたケースもある。キャリアアップはしなくても、元斎王には天皇から贈られた荘園などによってその後の生活は保証されており、「羽振りがよければかなり安楽で、社会から大事にされる生活も送れた(p.172)」。だが軽視された時代もあり、たとえば藤原実資の妻の妹(恭子女王)は22年間も斎王を務めているが、『小右記』では彼女の記録は全くない。この頃の斎宮はかなり簡素化されていたようで、都の人も斎王に対する関心を失っているように見える。「天皇と摂関、あるいは皇太后との一体性が強まれば、家長的性格は摂政や関白に移り、斎王への期待度は薄まる(p.269)」。

ところが院政期になると再び天皇家は家長権を摂関家から取り戻し、斎王は再び重視された。後白河院が4人の娘を斎王にしている(p.231)のは、自らの権力基盤を確立する一環であったと考えられる。

しかし伊勢神宮でも神仏習合が進んでくると斎王の意義が低下してしまう。さらに伊勢神道がおこると、「神話の組み替えのなかで、斎王はしだいに時代遅れな存在となっていた(p.270)」。斎宮は神仏習合には全く対応していなかった。「鎌倉時代後期、斎宮は神宮からも社会からも、よくわからない存在と化していたらしい(p.271)」。「後嵯峨天皇の皇女ので亀山天皇の時代の愷子内親王を最後に斎王の群行は行われなくなる(p.278)」。むしろこの時代まで群行があったのも驚きだが。

そして治承寿永の乱(源平の合戦)では斎王の任命が中絶した。しかし内乱の直後、7歳の少女(故高倉天皇の娘で後鳥羽天皇の異母姉、潔子(きよこ)内親王)が斎王に任命された。「神仏にすがる気持ちが特に強くなっていた(p.160)」のかもしれない。また「頼朝はかなり本気で斎王制度復活に助力していた(p.161)」。彼は平氏勢力が強い伊勢の地に斎王を通じて影響力を及ぼす目的があったようである。

こうして鎌倉時代には斎王制度は維持されたが、建武の新政が崩壊すると斎王を選んだり派遣したりすることができなくなっていった模様で、14世紀頃には形骸化していった。「当時の権力者会がもはや斎王を不可欠なものとは考えていなかった(p.177)」し、斎王の前提となる天皇の権力が空洞化した結果でもある。 

この他、本書には斎王にまつわる多様な話題が盛り込まれているが(面白いのは、斎藤という名字は斎宮に務めた藤原氏に由来するということ)、ここでは割愛する。

終章(第5章)は「斎王とは何だったのだろう」と題されているが、この「何だったのだろう」という書き方にも著者の戸惑いが現れている。著者は本書で詳しく斎王について述べながらも、斎王を「ほとんど何の役に立っていたのかよくわからない存在(p.39)」だと率直に言う。斎王の置かれる理由は律令にはその規定がなく(p.259)、『延喜式』の「祝詞式」では「天皇の在位や寿命が長いことを祈念するため」とし、これは天皇と一対一対応するという斎王の在り方とは一応論理的に接続する。しかしながら、どうして未婚女性が務めるのか、わざわざ伊勢に居住するのはなぜか、といった点はそれだけでは説明できない。

著者は、斎宮、すなわち小さな都・行政庁としての斎宮が置かれたことを重視し、これが天皇家による伊勢神宮の支配のための機関だったと考える。つまり斎宮の造営に画期的な意義があり、「斎王が誰であっても構わな(p.281)」い体制となったと考えるのである。そもそも伊勢神宮は天皇家がその権威を潤色するために創作した存在と考えられるが、政権の思惑を越えて一人歩きし出したので、それを再び政権のコントロール下に置くために設けられたのが斎宮・斎王であるということになる。「9世紀以降の斎王は、天皇ごとに天照大神と再契約したことの象徴としての性格が薄れ、国家を安定させるためにシステマティックに守護神の祭祀を行う存在にシフトチェンジしたと考えられる(p.262)」。

そして斎王にはもう一つの役割があった。それは「天照大神のセンサーのような役割(p.263)」である。斎宮では毎月の晦日に卜庭神(うらにわのかみ)の祭が行われ、斎王の肉体に異変がないか調べる占いが行われていた。斎王が伊勢に居住しなければならなかったのは、このセンサー的役割を果たすためであると著者は考える。 

要するに斎王は天皇の身代わりであったようだ。ではなぜ斎王は未婚の女性なのか。巫女的な性格が期待されたのだろうか。あるいは神への捧げものとしての女性だったのか(『今昔物語集』などによれば、神への生け贄としては女性が献げられている)。巫女(みこ)と皇子(みこ)が同じ訓なのもなんだか示唆的だがこれは考えすぎかもしれない。ところで天皇が女性であった場合は「置かれたり置かれなかったりしている(p.195)」。ただしそもそも女性天皇がいた奈良時代には、天皇と斎王との関係は制度的に安定していなかったこともその背景にある。 

本書が全く触れていない斎王の謎は、群行であると私は思う。斎王は多くの(しばしば数百人の!)官人を連れて伊勢へ下向したわけだが、なぜ多くの官人は斎王とともに人事異動したのか。天皇の代替わりで大量の官人がいっぺんに人事異動したとは聞いたことがない。そもそも大量の人事異動を行うと仕事がスムーズにいかないのは容易に想像される。にもかかわらず斎宮の場合は斎王とともに多くの官人が伊勢に赴任した。交替するのは斎王だけで、官人は留任するという仕組みの方がずっとスムーズなのにどうしてこんなことが行われたのか。しかも斎宮末期の後嵯峨天皇の時代まで群行が行われていたのだから、何らかの意味があったに違いない。このあたりに斎王・斎宮の意味を解く鍵があるような気がする。また、同じく条坊制を持ち、そこへの赴任が忌避されていた大宰府との類比も考えたくなる。

以上のことから、私なりに斎王・斎宮制度が確立した桓武朝におけるその意義について考えてみると、斎王・斎宮とは伊勢神宮の託宣への対策であったように思われる。

まず、斎王がなぜ未婚皇女が務めたかであるが、これは天皇を裏切る可能性の最も少ない人物であるからではなかろうか。天皇が自分の名代として誰かを伊勢に派遣することを考えると、最も避けたいのはその人物の裏切りによって「○○を天皇にすべし」といった託宣を出されることである。よって皇子は絶対に避けたい。その人物が伊勢神宮の託宣だといって自らを皇緒に就けよと言ってきた場合の政治的混乱は避けがたい。だから皇子および王は論外であり、女性が望ましい。さらに未婚であることも望ましい。結婚していては外戚の力が侮りがたいからだ。これが斎王が未婚皇女(または女王)が務めた理由であろう。女性天皇が一般的であった奈良時代はこの部分がイレギュラーになり、斎王があったりなかったりした可能性がある。

次に避けたいのは、斎王が傀儡化することである。つまり斎宮に務めている官人が伊勢神宮と癒着し、斎王を傀儡にして政権にとって不都合な託宣を出すというのも困る。よって斎宮の幹部を斎王とともに総入れ替えするのが安全である。これが群行ではなかったか。伊勢は大宰府よりは京に近いが、コントロールしきれない程度には遠いと思われる。斎王というアイコンがあり、伊勢神宮の権威を借りれば斎宮は政権にとって十分脅威となる。群行という制度にはこの対策が織り込まれていると考えるのが自然である。

桓武天皇は、2代前の称徳天皇の時代に「宇佐神宮神託事件」で道鏡が天皇になりかけたのを心に刻んでいたはずである。「宇佐神宮神託事件」の舞台となったのが大宰府である。この事件は大宰府の官人が道鏡と癒着して偽の託宣を報告してきたことが発端となっている。同様な事件が伊勢で起こったらどうするのか。それを避けるためには、伊勢神宮から託宣が勝手に出されないように対策しておく必要がある。そこで古い時代にあった斎王制度を修正し、巨大な行政機関を付属させることでよりシステマティックにした仕組みとして斎王・斎宮制度を再構築したと考えられるのである。

実際に、斎王からの託宣の事例がある。 斎王・嫥子内親王が、斎宮頭の藤原相通を弾劾する託宣を暴風雨の中叫んだのである。藤原相通はその地位を利用して受領のように私腹を肥やしていたらしい。そして託宣では祭主の大中臣輔親を斎宮頭に据えるように述べるのである。理路整然とした託宣には作為的なものが多く含まれ、そもそも都にこの託宣を報告しているのが大中臣輔親であることから、藤原相通の横暴に困った嫥子内親王が地位向上を目論む大中臣輔親と結託して神託を演じた可能性が極めて高い。この託宣の結果、藤原相通は罷免され、大中臣輔親が斎宮寮の大別当に任じられるのである。大中臣輔親はその後急死したため斎宮の権限が祭主・大中臣氏に回収されることはなかったが、この事件は斎王と伊勢神宮が結託すれば大きな政治的影響力を行使しうることを示唆している。

この事件は例外であるが、斎王が伊勢神宮の託宣対策であったとすると、託宣の力が無くなっていけば斎王の存在意義がなくなるのは当然である。そういう観点から斎王の歴史を読み解いてもいいかもしれない。 

斎王・斎宮の歴史をいろんな側面から辿る良書。

【関連書籍の読書メモ】
『伊勢神宮の成立』田村 圓澄 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/11/blog-post_17.html
伊勢神宮・天照大神がどのように出来上がったか推測する本。天照大神の成立を『日本書紀』の丁寧な読解で明らかにした堅牢な本。 

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