幕末から明治にかけて、鹿児島では徹底的な廃仏毀釈が行われた。全寺院が廃止され、全僧侶が還俗させられたのである。このように徹底的な廃仏運動が遂行されたのは大藩では例がなく、鹿児島の廃仏毀釈はよく語られる。
しかし研究面では名越護『鹿児嶋藩の廃仏毀釈』が2011年に刊行されて後はまとまった研究は行われていない。また同書は、今では注意して扱う必要がある法難史観(仏教を被害者として描く史観)の影響があり、事実関係についても修正すべき点がある。こうした状況を受け、著者は一つ一つの事実を文献によって確かめ、憶測を排し確定的に言えることのみを以て鹿児島の廃仏毀釈を記述した。
鹿児島の廃仏毀釈については、これまで市来四郎の記録(談話)が根本史料となってきた。市来四郎は廃仏毀釈運動の中心人物であり、他の記録がほとんど残っていないことからそれはやむを得なかったといえる。しかし市来の証言は額面通りに受け取れない部分があることも次第に明らかになってきた。そこで著者はこれまであまり史料批判されなかった市来の記録を確かめるという作業を行っている。その結果、細かい部分(後述の寺院数など)でより実態に肉薄している。
なお、本書のタイトルは「廃仏毀釈はなぜ起きたのか」だが、廃仏毀釈が起こった経緯やそれが徹底された理由は本書の中心ではなく、また鹿児島の事例のみの記述である(全国の話ではない)ことには注意が必要である。
「第1章 廃仏毀釈を知る」では、廃仏毀釈前の概況および重要人物の仏教観が述べられている。
薩摩藩では士族の人口割合が高く(明治4年の段階で26%)、武士を各地に分散して居住させる外城制度(延享元年(1744)では113の外城があった)があるなど、他藩とは違った特徴があった。一向宗(真宗)を禁制にしているのも他藩との著しい違いである。各郷(外城)では、菩提寺として曹洞宗寺院が、祈願寺として真言宗寺院が定められ、この2宗の寺院数が多かった。文化年間(1804~18)の記録では曹洞宗50%、真言宗33%、臨済宗11%ほどで、浄土宗、時宗、法華宗は少数派で天台宗は記録がない。なおこの記録では本土の寺院数は1840である。
宗教政策としては、キリシタンと一向宗の取り締まりために宗体座(しゅうたいざ)が設置され、後に宗門改所となった。この宗門改所は「宗門改」(本書には説明がないが、おそらく他藩の宗旨人別改と同じと思われる)と「宗門手札改」を実施した。この「宗門手札改」とは、「14.5センチ×7.5センチほどの大きさの木札に、年月日・担当役人名・父親の名前・本人名・宗旨・年齢などを書いて各人に渡した(p.43)」ものである。これは身分証のようなもので、7、8年ないし14、5年ごとに手札改めが行われ、明治3年(1879)まで30回ほど実施された。これが木札である点は気になる。宗旨人別改の場合は檀那寺の押印が必要だったのだが、木札の場合は押印がない。この木札の作成業務は郷士(外城に居住する武士)が行い、「寺院は一切関与しなかった(p.44)」。そのことを以て著者は「つまり寺請性制度がなかったということになる(同)」としている。しかし本書には「宗門改」についての説明がない。こちらでは寺院の関与はどうであったのか気になった。
薩摩藩では、18世紀以降、藩主による僧侶批判が行われるようになった。宝永2年(1705)の島津吉貴の訓諭では「国中之僧侶近年道学之心懸薄く」としている。これは大寺院の門主に対して出され、以後藩主交代の際の恒例になった。江戸時代の説話集『浦之波』には、薩摩藩主が僧侶を批判した話がいくつか収録されている。それらの話では、何らかの処分が行われようとした時に僧侶がそれを救おうとしなかったことが批判の的になっている。それらは史実とは思えないが、僧侶が人々を救わないことに対し説話の収録者が不満に思っていたことは確かである。
また種ケ島氏の「家譜」では、僧侶の問題行動が種々記録されている(余談ながら著者は種子島も専門的に研究しているので種子島の話題がたくさん盛り込まれている)。幕末には種子島の重要な寺院3つともが無住(住職がいない)になっており、家譜の編纂者は「仏法廃壊」と慨嘆している。これらの事から、薩摩藩では19世紀以降に僧侶への風当たりが強くなっていたことが明らかである。仏教が衰微しつつあった可能性もある。
さらに、鹿児島では国学が盛んになった。しかし国学=排仏・廃仏ではない。薩摩藩の著名な国学者に白尾国柱・山田清安・八田知紀がいるが、彼らは「嫌仏」ではあっても廃仏とはいいがたい。平田篤胤門人の後醍院真柱は廃仏毀釈の中心人物であったことは間違いなく、国学は廃仏毀釈の重要な背景ではあるが、国学の隆盛と廃仏毀釈を直結させることはできない。
平田篤胤と島津家には交流があり、重豪(しげひで)・斉興(なりおき)・斉宣(なりのぶ)・斉彬・奥平昌高(重豪二男、豊前中津藩主)との交流があったことが『気吹舎日記』で確認でき、天保2年には白金の薩摩藩邸で篤胤による講説も始められている。著者は「藩主たちが、どこまで篤胤の説に私淑していたかは、実際のところ不明としかいいようがない(p.60)」というが、好意的だったのは確かである。
藩主のこうした動向は薩摩藩士にも影響を与えていたと思われる。薩摩藩は特に平田門人の多い藩ではないが、要路にいる藩士に平田門人が散見される。とはいえその他大勢の藩士にどう受容されていたかは不明であり、「「国学=悪」「平田篤胤=廃仏毀釈の元凶」(p.63)」との図式は再検討されるべきとしている。
重豪以降の藩主の仏教観を検証してみると、重豪は「増え続ける祖先の祭祀とそれに伴う財政的な負担を少しでも減らそうと(p.64)」しつつも、法事は欠かさず実施しており仏教にたいする否定的な考えはうかがうことはできない。
斉興は在俗のまま大僧都(僧位)、上人(僧官)を有しており、藩主在任中に大覚寺門跡から「亮忍」という法諱をもらっている宗教家でもあり、「虎巻大法」なる密教の修法を行って、家臣たちにも伝授していた。このように密教に傾倒した背景には、外国勢力が自国領域内に頻繁に侵入したことがあるのではないかという。
斉彬はどちらかといえば仏教・寺院に対して好意的だったと推測される。ただし「神社の由来などの多くは中古(平安時代)に僧侶たちの附会妄談により神威が瀆されている(p.70)」と認識したり、「近代合理主義的な思考を有していた(p.72)」という点は見逃せない。斉彬は敬神の情があつく、家督後初入部の際に鹿児島神社などの古社に黄金製の大幣を奉納しており、鹿児島神社へ奉納したものは長さ1丈(約3m)もあった。斉彬には廃仏の意図はなかったが、敬神と合理主義が強調されて廃仏が斉彬の遺志であったかのようにされ、「廃仏毀釈のスケープゴート(p.74)」になったと著者は考える。
久光(※藩主ではない)は、若い頃は仏教好きであったようだ。しかし中年には明確に仏教に批判的になっていた。廃仏毀釈を主導する部下を後援したのは久光である。
次に藩士であるが、有馬新七の仏教観は面白い。彼の「淫祠を除く説」では、仏教伝来や本地垂迹説など割合に正確な歴史認識に基づいて仏教を批判している。いわれなき批判ではなく正確な事実に基づいて仏教を批判しているのが注目される。井上備前守長従は花尾神社の大宮司であるが、「井上備前守ヨリ霧島神社祭儀復古ノ上書」(明治元年)を残している。彼は霧島で別当寺が幅を利かせている状況を遺憾とし、神仏分離を主張している。市来四郎は廃仏毀釈を主張した人の一人であるが、彼は「先祖の菩提は寺院、祈願は神社、日常的には氏神・産土神、一種の娯楽として寺社の祭りに参加していた(p.87)」。つまり意外と普通で、現代のわれわれと同じような宗教との付き合い方だった。
「第2章 廃仏毀釈が徹底された理由」では、廃仏毀釈を編年的に述べている。
まず、廃仏毀釈前にすでに廃壊したり、整理されたりした寺院があった。特に種子島では、種子島久柄の口上覚(1808)で財政的な理由から廃寺同然となった寺院を「取り除きたい」としている。廃寺同然となった寺院など放っておいたらいいような気がするが、それをわざわざ「取り除きたい」としているのは寺院の維持が権力の責任だという社会通念があったためであろうか。
嘉永6年(1853)では、外国船からの防備の必要から、諸国寺院の梵鐘を大砲・小銃に鋳造すべきとする太政官符が出された。これを受けて薩摩藩でも梵鐘の回収を行ったが、ちょうど藩主斉彬が急死したため鋳造はしていない。斉彬の死はその祟りだとの噂もあったという。
文久2年(1862)には記録奉行伊地知季安(すえやす)により藩内の寺社調査が行われる。これは島津久光の命令ではないかと著者は推測している。なおこの調査理由は「皇国之儀は神明之威力を以て夷賊降伏之先蹤もこれ有る事(p.96)」などといい、祭礼がちゃんと行われているか調査するといった意味合いだった。
なお同年から、薩摩藩では天保通宝と琉球通宝を鋳造しており、この材料が梵鐘であった。市来は「無用ノ梵鐘(中略)[が]資料ニ供セラレ(中略)有用ニ充タレタルハ稀代ノ英断(p.103)」であるという。「鋳銭事業を契機とした寺院所蔵の梵鐘鋳つぶしは、このすぐ後に行われた神仏分離と廃仏毀釈のハードルを結果的に下げることになったと思われる(同)」。
さらに薩英戦争では、「戦争準備のため、寺院の合併・移転が行われた(p.104)」。薩英戦争の本陣は千眼寺に置かれたが、千眼寺は慈国寺に合併されている。その他南泉院も移転している。
慶応元年(1865)の春に藩の少壮者たちが廃仏断行・僧侶還俗を進言し、これが久光の容れるところとなって廃仏毀釈が実行された…とされてきたが、具体的な動きが始まるのは慶応2年5月なので、慶応元年春というのは市来の間違いで慶応2年の春であったと著者は考える(考察は割愛するが、「一応、両論を併記する(p.128)」としている)。ここから盛んに合寺廃寺が行われ、神社の合祀等も行われた。しかし、慶応2年12月には関係者が更迭されており「反対者からの手痛い反撃(p.111)」によるものと思われる。
慶応3年にもその動きは続く。寺が残っても石高が削減された場所があり、廃寺政策の目的が経済的なものであったことが窺える。ちなみに8月には「寺々より訴え出候儀段々これ有り」として加治木郷で対応が協議されているところを見ると、僧侶らからの反発・異論があったことが確認できる。僧侶は決して唯々諾々と従ったのではないが、廃寺政策は強行されていった。
ところで本書では強調されていないが、廃寺のみならず「合寺」があったところは注目すべきである。「合寺」は当初は寺院の全廃が念頭になかったことを示す。また位牌の扱いも興味深い。家老桂久武の指令に曰く「廃寺にあった位牌を残存している寺に移したならば、その寺の仏壇が混雑するので、今より「集霊位」を置くこと。(中略)これまで寺院に安置していた位牌を自家へ引き取るのは自由(p.116)」。「仏壇が混雑」とはおためごかしであろうが、「集霊位」などというものを考案したのは誰だろう。
慶応4年(1868)は明治維新後である。神仏判然令が発せられ、「仏体を破壊するなどの過激な行為は鹿児島でも実際に起こっていた(p.118)」。藩庁が「仏像・石碑を夜陰に及んで破却した族(やから)があったが、粗暴の所行は許されるものではない(p.119)」と達している。ここに「石碑」が含まれているのが極めて注意を引く。なおこの時期はまだ一斉に廃寺しようとするものではない。
明治2年3月に忠義夫人の暐子(てるこ)が産後病気のため死去し、この葬儀が神葬祭(神道式の葬儀)で行われた。神葬祭は三島通庸の創意によるものだった。この葬儀がきっかけとなり藩内の寺院全廃へと方向転換していった。なお10月に寺僧に相当の手当てを支給することを決めている。寺院の供給高を召し上げたためである。修験者についても、聖護院に対して「藩内僧侶壱人も罷り申さぬ旨」を伝えている。ちなみにこの時期は軍事方が廃仏運動を主導している。12月には志布志で地頭から「志布志隊長中」に宛てて「万一未だ廃寺になっていない寺院があれば早々に廃すべきこと(p.123)」等が言われているので、志布志ではこの時点で主だった寺院は全て廃寺になっていたと判断できる。
著者は『鹿児島県地誌上下』(「鹿児島県資料集」16・17)、『日向地誌』(平部嶠南)を元に廃寺年表を作っている(p.130)。薩摩・大隅・日向の記録にある419ヵ寺が廃寺になった年をまとめた素晴らしい参考資料である。主な数値を挙げると、
慶応元年 4ヵ寺(0.95%)
慶応3年 105ヵ寺(25.06%)
[慶応中 13ヵ寺(3.10%)]
明治元年 27ヵ寺(6.44%)
明治2年 130ヵ寺(31.03%)
明治3年 48ヵ寺(11.46%)
明治4年 8ヵ寺(1.91%)
となっている。まず慶応3年に105ヵ寺、25%という大きなピークがあり、明治2-3年(合わせて42%)がもう一つのピークになっていることがわかる。この表より、従来廃寺が完了したのは明治2年といわれていたが、明治4年までかかったことが明らかになった(ただし明治4年に廃寺になった8ヵ寺のうち7ヵ寺は日向国諸県郡であり、日向国には時期不明の廃寺が多い。これが何を意味するのか不明)。
また、廃仏毀釈は戊辰戦争で中断したと言われてきた。実は私も拙著『明治維新と神代三陵』でその説を踏襲し、鹿児島の廃仏毀釈を前期と後期に分けた。しかし著者は廃仏毀釈に中断はなかったと強調している。実をいうと、拙著の執筆段階で著者(栗林氏)には草稿を見せていたのだが、著者からはこのことについて指摘があり「前期と後期に分けるのはどうなの?」と言われていた。しかし私は、前期の廃仏毀釈は財政的な理由が主で、後期には思想的な理由(全廃が前提)という性格の違いを重視して前期後期に分けた。前述の通り、慶応3年と明治2-3年という前後2つのピークがあり、廃仏の性格も異なることから前期・後期に分ける考えは今でも変わっていないが、拙著を取り上げ精緻な論証で「中断はなかった」ということを示してくれたことには深甚な感謝を表したい。
続いてケーススタディとして、花尾神社(の別当寺平等王院)、枚聞神社、川辺郷の事例を述べている。
平等王院は慶応3年に「廃寺之節華尾山江仰渡」で大乗院への合寺を命じられた。その内容は廃寺に伴う各種の処置を細かく命じており、単に廃寺しろというだけでない面が興味深い。「大宮司役所は取り除き、同所へ建立した護国御神殿の前通りの道幅を三間ほど広げ、左右に杉を植え付けること(p.138)」など道幅の拡幅まで指示している。また「山内の町石(一町ごとに道程を記した石)に彫刻している梵字は、今回すべて消し除くこと(同)」として梵字が破壊対象になっているのも気になった。そして召し上げた石高は「帖佐与蔵入りとし、海陸軍方へ差仕分け」るとするが、所務米は神職らへ配分するよう量を指定して命じている。
枚聞神社は年代不明であるが「廃寺方被仰渡」という史料が残っている(神社なのに廃寺と言っているのがよくわからない)。それによれば古来数多くの神が祀られてきたがそれらの祭神が祀られてきたのは「虚妄無稽種々之怪談」と断じ、縁起や掛物等「全て此の節焼き捨て」て、祭神を大日孁命(おおひるめのみこと)のみに限定した。暴力的ではあるがちゃんと理論武装していたことが窺える。
川辺郷では「神社方日帳」という史料が残っており、日付事に出来事がまとめられて廃仏の細かい動向がわかる。ここで位牌の処置、石高の処分(やはり海陸軍方へ!)などの他に気になったのは、明治元年に「廃移寺・合院の跡地面は、衆中家督で別宅していない者、社家無禄の者で家造りができない者へ親疎なく借地を申し付ける(p.148)」としている点。廃寺に伴う財産の接収が一種の恩賞に使われているということである。また修験道について明治2年には「修験宗を滅ぼすものではない」として、三宝院からの離脱もないと明言している三宝院宮御役所からの達書が残っているのも面白い。さらに宝福寺からは「修理がままならないので取り除き方を許可してほしい」という自ら廃寺を希望する文書があり、また飯倉神社からは「早めに修補を仰せつけていただきたい」などとしている。これらを見ると寺社の管理は藩権力に大きく依存していたように思える。寺社に石高が与えられてその中で自弁していたというより、石高とは別に営繕までも藩が担っていたような印象を受ける。実際、明治3年に「谷山作硝局御修甫掛・営繕奉行見習」が飯倉神社の修補のために「惣社絵図面」を提出するように命じ、人足を手配している。これは非常時のみの体制だったかもしれないが、寺社の営繕に藩が責任を有していたとすれば、廃寺政策が行われたのも理解できる。
このほか、種子島・吐噶喇列島、そして修験道の廃仏についても記述があるがここでは割愛する。
ここで著者は冒頭に述べた市来四郎の記録の問題点を検討している。その題材としているのは、市来が廃仏前にあった寺院数を1066ヶ寺としているが、1616ヶ寺とする書籍もあり、これはどちらが正しいのかという考察である。結論だけ述べると、1616ヶ寺は1066ヶ寺を転記ミスしたもの。そして市来が述べている1066ヶ寺(および寺領石高等も)は、得能通昭(とくのう・みちあき)の『通昭録』55巻(鹿児島県資料集59 『通昭録』8)にある数字を転記したものと推測できる。『通昭録』55巻は安永元年~9年の間に成ったと思われ、18世紀後半の数字である。市来は、これを幕末の寺社数としているのである。このように、市来は史料の扱いが雑である。また出典も明らかにせず、ミスも多いようだ。廃仏毀釈の根本史料である市来四郎の記録にはこのような問題があることを常に念頭に置いておかなければならない。
ところで著者は指摘していないが、『通昭録』も含め各種の史料に「神社・堂宇・寺院」の数が掲載されているのは気になった。「神社・寺院」だけでなくなぜ「堂宇」があるのか。これは、神社・寺院だけでは捉えられない様相を伝えていると思われる。例えば17世紀後半から18世紀前半のある記録では神社4415、堂宇4046、寺院1815とある。神社と寺院を合わせた6030のうち、32%にあたる1615に堂宇がなかったということになる。著者は近世における薩摩藩の寺社数の変遷を各種の史料からまとめているが(p.177)、その平均でも30%の寺社には堂宇がない計算になる。現代の常識では堂宇がない寺社は寺社としてみなしがたい。それを考えるとそもそも1066ヶ寺という数字も、多分に帳簿上(つまり寺号のみの寺院を含めたもの)である可能性がある。少なくとも、当時の人は「堂宇」の数もなければ実態が捉えられないと考えていたことはいえると思う。
ちなみに、何を神社とし、何を寺院と捉えるかもこうした統計を見る時には注意が必要だ。例えば地蔵堂のようなもの(お堂はあるが地蔵が一体安置されているだけの場所)は寺院かどうか。あるいはしめ縄で結界され石祀がある場所は神社と見なし得るかどうか。当時の寺社は藩権力によって認められて存立していたと考えられるので、こうした民衆的な自然発生的なものは数字に入っていないようにも思うものの、県内に神社が4415もあったというのはさすがに多すぎ、神社についてはこうしたものまで含めていたと考えるのが自然だ。とすると寺院の1815についてもかなり小さな施設まで入っていると思われる。このような点についても今後考察が必要だと思われる。
廃仏毀釈は同時代の人にどう受け止められていたか。なかなか史料に残っていないことだが、いくつかの例が挙げられている。税所篤の実兄の最初篤清は住職であった人物だが、寺を召し上げられ還俗を命じられた。彼はその後の人生に「さほど困難も感じることはなかった」と淡々と述懐している(批判できなかった可能性がある)。神官の岩元式部は廃仏前夜に記録を残しているが「神官にも影響があるのでは」とビクビクしている。島津家の歴代位牌は福昌寺墓地内に埋納された。その塚が「列聖群霊旧牌合瘞冢」である。これは位牌を処分しなければならないことに抵抗を感じていた証拠である。幕末明治の文化官僚であった木脇啓四郎は明治31年に「恐れ乍ら御失策と伺い奉る」と廃仏政策に対して真っ向から批判する文章を書いた。このような批判が残されることは珍しい。なお、著者は県内にも意外に多くの仏像が残されていることに触れ「廃仏毀釈に反対する人々が(中略)ひっそりと持ち帰り今に伝えられた(p.194)」としているが、全てがそうであったとはいえず、どうして多くの仏像が残ったのかはさらなる検証が必要であろう。
鹿児島で廃仏毀釈が徹底された理由としては、以前から上意下達の鹿児島の県民性に求める説があるが著者はこれを批判するとともに、これまでの研究をまとめて9つの要因を挙げ、それらが複合した結果であろうとしている。
「第3章 神社にとっての明治維新」では、神社の創建、改変などについて述べている。
鹿児島では幕末に楠公社や照國神社が創建された。これは新しい国家観に基づく神社であった。また戊辰戦争後に招魂社も造営された。これは県内各地に「私祭」として設立されたが、その一部は運動の結果官祭になった。
一方、盂蘭盆会や庚申祭といった旧来の習慣は否定され、神社祭祀としては伊勢神宮信仰が導入された。藩は仏教に代わる新たな宗教として敬神思想を普及させ、そのためのテキスト『神習草(かみならいぐさ)』が配布された。また多くの神社が合併させられ、またその名が知政所により改められた。新たな社名を付けるにあたっては、神仏習合的な要素を削り、神話に出てくる神の名を使うといった方針があったように見受けられる。また歴代の島津氏を祭神とする神社も創建された。奄美地方では高千穂神社を中心とした新しい神社が多数創建された。「それまで「外国」として認識されてきた奄美諸島に高千穂神社を配祀することは、この地域を領土的、さらに精神的・思想的にも「日本」のなかに組み入れようとする意図が読み取れる(p.220)」。
「第4章 「全廃」からの寺院の復興」では、廃仏毀釈後の鹿児島の仏教界の動向が簡潔に語られる。
明治11年には曹洞宗の福昌寺(島津家菩提寺)が再興され、12年には本堂も再建された。しかし明治19年以降に暴風雨のため本堂が倒壊したと考えられ、隈之城に移転した。南林寺も再興が試みられたが寺号使用は許可されず大中寺として再興された。また真言宗では、明治12年に大乗院が最大乗院として再興された。他、臨済宗、法華宗なども復興の動きを見せた。このように寺院復興の動きはなかったわけではないがそれほど盛んだったようには見えない。なにより、寺院再興は外部から赴任した人によってなされていることが多い。鹿児島に大勢いたはずの元僧侶はどのような思いでいたのだろうか。なお、そんな中で教線を急拡大したのは浄土真宗である。
「終章 廃仏毀釈とは何だったのか」では、これまでの論述をまとめ、改めて論点を整理している。
主な点は、(1)国学の影響が大きかったのは間違いないにしても、国学者全員が廃仏毀釈に賛成していたとはいえない。(2)近世の神仏習合の在り方にも注意が必要。(3)廃仏毀釈の経過は単純ではなく通説を鵜呑みにすべきでない、といったところである。
最後に、黎明館での企画展など廃仏毀釈や鹿児島の仏教文化についての社会の関心について触れ、またSNSで一部の過激な主張(やデマ)が拡散しがちな状況と廃仏論者の意見が通ってしまった150年前の状況を類比させるとともに、近年の寺離れにも言及して擱筆している。
本書は全体として、「こういう本が鹿児島の廃仏毀釈をまとめるのに必要だった」と感じるものである。著者がいうように、鹿児島の廃仏毀釈はこれまで断片的にしか語られておらず、文献に基づいて丁寧に経過を追った研究が少ない。本書は、今後の鹿児島の廃仏毀釈を語る上での基本文献と位置づけられるものである。
ただし、本書は石造物や民俗については手薄である。また、鹿児島の中でも徹底的に仏教的なものが破壊された地域とそれほどでもない地域がある。本書は島嶼部に目配せしているが本土の中での偏差にはあまり注意していない。今後は、本書の知見を土台としてより民衆に近い部分の動向を明らかにしていくことが期待される。
文献に立脚して鹿児島の廃仏毀釈を描いた今後の基本図書。
【関連書籍の読書メモ】
『鹿児島藩の廃仏毀釈』名越 護 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/10/blog-post_18.html
鹿児島の廃仏毀釈の実態について、郷土資料を中心にまとめた本。やや概略的すぎるきらいはあるものの、鹿児島の廃仏毀釈について総合的にまとめられたわかりやすい本。
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