2026年3月30日月曜日

『日本中世の墓と葬送』勝田 至 著

日本中世の墓と葬送について書いた本。

本書は、日本中世の墓や葬制について研究してきた著者が旧稿を元に加筆修正して執筆したものである。特に第1部の「中世民衆の葬制と死穢」については1987年に発表された著者が中世葬墓制を初めて扱った論文で、やはり時代を感じる部分がある(著者自身が「今日からみるといささか古色がある(p.7)」としている)。著者の中世葬墓制の研究は『死者たちの中世』でまとめられており、本書はその補遺として読むのがよいようだ。本書でも『死者たちの中世』を参照することが促されている。

第1部 死体遺棄と触穢について―中世前期の葬送と墓制―

「第1章 中世民衆の葬制と死穢―特に死体遺棄について」では、中世前期において死体遺棄が広く行われていたことを述べる。前述のように、これは著者が中世葬墓制を初めて扱った論文であるばかりでなく、また中世前期の葬制について史料を博捜して実証的に述べた論文としては当該分野の研究史において嚆矢となるものであろう。

中世前期においては、触穢があったために親族以外は葬送に関与できず(関与すべきでないという規範があったかもしれず)、結果として手厚く葬られたのは貴族に限られ、民衆においては死体遺棄のような簡易な葬送が行われた。それどころか、穢を避けるために死にそうな病人を家から追い出すことも行われていた。このことは本論文以前から言われていたようだが、著者はこれを大量の史料によって精緻に実証している。

なお「京畿百姓」が病人を遺棄することを弘仁4年(813)に国家が規制しており、穢を気にしなければならなかった貴族ではなく百姓(ひゃくせい)が病人遺棄を行っていることは、古い民俗に基盤があった可能性もある。

著者は「死者はその家族が葬るべきで血縁のないものが関わってはならない」とする規範こそ死穢の本質ではないかと述べる(p.37)。穢が、室内など閉鎖空間でしか伝染しないことは、穢はイエの支配権が及ぶ範囲で広まるという観念が基盤にあると考えられ、そういう観念が延喜式の穢の規定を生み出したのではないかというのである。なおこの仮説が著者のその後の研究でどう扱われたのか詳らかでない。

ところで、死体遺棄は「ランクの低い葬法ではあっても、悪ではなかった(p.41)」し、不吉でもなかったようだ。古代には山に遺体を棄てるという葬法があり、それを基盤にしていたのかもしれない。少なくとも風葬は古代には一般的だった。だが血縁者が風葬を行うのは「葬法」の一つであるが、非血縁者が死体を遺棄する(ほったらかしにすることを含め)のは「非葬法」であると著者は考える。

こうした状態から、多くの人が葬送される状態になっていった次第は『死者たちの中世』で記述されているが、本稿では今後の課題としている。

「第2章 中世の屋敷墓」では、屋敷墓成立について中世のイエ制度の成立過程と関係づけて述べる。

屋敷墓は、屋敷の土地内に設けられた墓のことである。著者はまず現行民俗の事例を整理し、(1)家の始祖的人物を祀ることが多い。株ごとに本家に祀ることもある、(2)丸い石などが墓となっていることが多い、(3)地神、地主神などがあわせて祀られることが多い、などの特徴を抽出している。こうした屋敷墓は古い民俗なのか、それとも死穢観念以降に生まれたものなのか。

文献に見える最古の屋敷墓的墓制は、『日本後紀』延暦16年(797)正月25日条にある「便葬家側、積習為常」を禁じた文言で、高取正男はこれをもって民衆は穢を気にしていなかったと論じた。著者はこれに対し、血縁者内ではそもそも死穢の観念に抵触しないと考えており(第1章)、高取の見方に修正を加えている。なお中世の屋敷墓の発掘結果によれば、家の存続期間に比べて埋葬されている死者の数が少なく、被葬者は特別な人と考えられる。

屋敷と墓がセットになっている文献上の事例は、弘長2年(1262)の関東下知状に屋敷と隣接して先祖の墓があったというものである(p.75)。延元3年(1337)の高野山への寄進状では、屋敷付属のものと解釈できる「代々墓所」の文言がある。この頃になると在地領主クラスの場合「屋敷付属の墓はかなり一般的(p.78)」になっていた模様で、敷地に墓が存在することは「所有権の移動に対する抵抗力が大変強いものだったと思われ(中略)、屋敷地の墓は在地領主のイエ支配権を補強する機能を果たしていた(p.79)」と考えられる。

よって、所有権を奪うために墓を破壊するという行為も行われた。墓に植えられた樹木に霊が宿るという観念もあったため、わざわざその樹を引き抜くことも行われている。中世の在地領主だけでなく、名主層にも屋敷墓は見られる。こうした事例を鑑みると、屋敷墓は古い民俗ではなく、屋敷地の所有権を補強するために中世に成立した習慣だったと考えられる。

次に著者は死者の魂がどこにあったと考えられていたかを考察する。前述のように墓所の木に霊が宿っているとする観念は古代からあり、樹が依り代のように考えられていた。『葬喪記』(永長2年(1097)奥書)には木(通常は松)を植えることで「従此人之気去成神」という記述があり、墓に樹を植えることで神になるという観念があったことが窺える。その後、共同墓地では木ではなく卒塔婆や石塔を建てるようになったが、屋敷墓では古態が残ったと考えられる。

なお本筋とは関係がないが、弘安10年(1287)の寄進状(紀伊安養寺文書)の冒頭に「主君御聖霊幷二親幽霊為仏果得道」とある文言は興味を引いた。主君の「御聖霊」と親の「幽霊」の「仏果得道」を願って寄進するという言葉の使い方が大変面白い。これは当時の常識的感覚なのだろうか。またこの書状では盂蘭盆を行うことが約束されており、この頃(13世紀)に盂蘭盆は普及したらしい。

また、屋敷墓の場合、そこに住んでいる子孫からの供養が絶えづらい考えられたこともその成立を促したかもしれない。逆に祖先の遺志に反して土地を処分すれば祟りによる威嚇があると考えられていた。つまり「特定の状況下で先祖の意思が死後永く残って子孫を拘束するというイエ制度的観念(p.99)」が屋敷墓に付随していた。いうなれば屋敷墓に祀られた死者は、強力な死者なのである。元享4年(1324)に浄土真宗の存覚が著した『諸神本懐集』には、「先祖オバミナカミトイハイテ、ソノハカヲヤシロトサダムルコト、マタコレアリ(=先祖をば皆神と斎いて、その墓を社と定むること、またこれあり)(p.101)」とある。この頃には、先祖が神になるという観念が一般的になっていたことが窺える。

「第3章 文献から見た中世の共同墓地」では、中世の墓地が何と呼ばれたかを調査している。

墓について文献で記載されることは少なく、著者は各種の文書から墓地・墓を示す言葉を抽出している。まず墓地については「塚原」が多く、「塚」「〇塚(狐塚、三塚など)」「石塚」(集石墓を表す表現)などという。鎌倉時代には塚という土を盛った形態の墓地が多かったと解釈できる。個々の墓については、「墓所(はかどころ、むそ)」、「壇」などといっている。

また、共同墓地を指しているのが「三昧」で、中世前期には普通になっている。「蓮台野」は元来は一般名詞ではないが12世紀中期以降に共同墓地の名称として使われた。なお荼毘所(火葬場)も「三昧」と言われた。

上述のように結果だけ書くと簡単だが、著者は様々な史料を博捜してこうした用語を検討している。またその過程を通じ、「特に墓域が定まっておらず、所有者がいない土地に散発的に墓を作る時代があり、やがて僧がやってきて経塚を造って特定の場所を勝地であるとして、大きな共同墓地が出現するようになった」という流れを想定している。またそのような共同墓地でも塚を作ることができたのは一部の人だけだと考えられる。

中世後期から近世初期にかけて、共同墓地を指す言葉として「塚原」に代わって「墓原(はかわら)」が使われるようになる。墓の形態が「塚」から「石塔」になったことを暗示しているように思われる。

「第4章 中世触穢思想再考」では、穢について史料に基づき概念を整理している。

著者は穢には①『延喜式』などに規定された穢、②内裏を中心とし穢が周囲から侵入するという同心円構造、③らい者・非人の穢、④共同体のとるエネルギー状態の一つとする穢(ハレ・ケ・ケガレ)の4つの論点があるという。本稿ではこのうち①~③を取り上げる。なお④はその後の研究でほぼ否定されており、「史料的な実証は困難なため、本章ではとりあげない(p.136)」と④を取り上げなかった著者のセンスが光っている。

まず①については史料に現れる穢を取り上げ、また穢の語が使われた事例をいくつか挙げている(墓への「濫穢」、山陵への「犯穢」など)。そして穢そのものが天皇へ害を及ぼすのではなく、神域が穢になったことで神が怒り、天皇を病にさせるといった回路があったという。穢→神→天皇という順だ。つまり「神と関係ない局面では、制度上の穢というものは存在しない(p.145)」。

つづいて②も検討されるが、これは後に山本幸司の『穢と大祓』で詳細に分析された内容であるためここではメモを割愛する。

③については、中世ではらい者は穢とされていたと思われるが、古代ではどうだったか。はっきりと穢とする規定はないが、著者は穢と同様のものと捉えられていたのではと推測している。ただしこの考察はたった4つの史料のみに基づいておりさらなる考究を要するように思われた。また、著者は触穢規定が整備されたのちは、「規定上の穢とらい者の穢は別個の存在となる(p.156)」とする。そして「らい者の穢」が非人身分の成立に関わってくると著者は考える。さらに非人身分の成立について考察されているが、これについてもごく簡単なスケッチに留まっている。

第2部 伝統的葬墓制の形成―中世後期の様相

「第1章 中世後期の葬送儀礼」では、中世後期の葬儀を葬具と儀礼に注目し、それが「死者を仏として葬る」ものとなったことを述べる。

中世後期では葬具や儀礼が発達し、近年まで日本で伝統的な葬式とされてきたものの源流となった。本章ではそれらが一つ一つ検討されている。

:死者を竪棺または桶にいれて、それを龕(がん)という屋根のついた輿の一種に納めた。『禅苑清規』(1103、1201再刻)にその規定があり、これに基づいて行われたとみられる。円爾は龕に入れて葬られ(1280)、瑩山紹瑾が定めた『瑩山和尚清』(1324)には入龕等の仏事の規定がある。1364年に没した光厳院の葬儀は「唐様以龕葬申云々」とあり、龕を使うのは唐様であり、当時は珍しかったことがわかる。龕は棺桶に座らせることが前提となるが、死後硬直が始まってからでは死体をその体制にするのが難しい。死去後速やかに死体を座らせたとみられる。現行民俗では坐棺い入れて体制を整えることを「ホトケを寄せる」とか「ホトケ様つくり」などといい、「仏にする」前提となっているように見受けられる。

幡と天蓋:幡とは、紙を切って作るもので「仏」「法」「僧」「宝」と書き、その下に「諸行無常」「是生滅法」「生滅滅已」「寂滅為楽」の4句を書いたものである。天蓋は吊るして使う仏像の荘厳具であるが、龕とセットで用いられた。幡については、律令の「喪葬令」で親王一品の葬儀で「幡四百竿」とされたり、聖武天皇の「仏に奉るが如し」という葬儀で4本用いられるなど、古くから使われたが中世前期には普及はしていなかったようだ。『死者たちの中世』では幡と天蓋を禅宗が葬式に導入したものとしていたが、著者はこれを改め、「幡や天蓋は禅宗とは独立して、日本において仏像の荘厳具から葬具への転用が行われ、13世紀後半ころから用いられるようになった(p.173)」とし、それを進めたのはおそらく天台浄土教だという。「往生人が仏の世界の一員になり、幡や天蓋に荘厳されて極楽に向かうという発想から、それが葬儀において棺を荘厳するのに使われるようになるのは自然な推移である(p.175)」。

四花:四花(しか)とは、紙の左右に細かい切れ込みを入れたものを竹の棒に巻き付けたもので4本が普通である。中世後期には「雪柳(せつりゅう)」というものが見え、『禅苑清規』では「仏喪花」を龕の上に置くとしている。雪柳は散花のように散らすもので、「仏喪花」は娑羅樹を象ったもので紙で作られていた。仏喪花が雪柳に、さらに四花に変化していったとしている。「現状では、四花は娑羅樹をかたどったもので、中国禅宗由来の葬具であるという伝統的な解釈を採用しておきたい(p.179)」。五来重は四花は御幣であったとするが、鎌倉時代の葬列では棺に御幣が立てられており、四花の由来とは別に御幣が葬具として使われていたことは留意すべきである。

善の綱:善の綱とは、棺・龕に結び付け、その前方または後方に伸ばし、人がそれにつかまって引く布の綱である。東日本では「縁の綱」ということが多い。仏像に綱をつけて結縁のために人々が手に取ったことが起源と考えられ、死者を仏に見立てる一環であると理解できる。史料の上では南北朝期の「一向上人臨終絵」が古く、往生人に対して行われたのが次第に一般の死者に広まっていったと思われる。民俗例では善の綱は孫または夫人がつかまることが多いが、15世紀の将軍家の葬儀では後継者が引くのが普通である。善の綱を引くことには重い意味が付与されていたようだ。武士の葬儀では善の綱は広く行われたが天皇家の場合はこれを記した史料がない。

位牌位牌は文献上は足利尊氏のもの(1358)が初出である。15世紀では位牌を持つのは一族の僧や喝食(修行中の少年)であることが多く、跡継ぎの役ではなかった。しかし16世紀中期には家督の持つべきものと考えられるようになっており(1550年の足利義晴の葬儀など)、善の綱と位牌の位置づけが逆転したようだ。なお、位牌には死者の人格(霊)が宿ると考えられるようになった可能性がある。

敬礼法(三匝):三匝(さんそう)とは、火葬の前に龕が火屋のまわりを三回まわることである。インドでは仏に対して三回右回りする「右繞三匝」という儀礼があり、また『大般涅槃経後分』では釈迦の棺がみずから空中に浮きあがってクシナガラの城門などを三回繰り返して巡ったというエピソードがある。中世前期には記録がないが、室町時代になると三匝が行われるようになった。民俗例では棺が左回り(つまり三匝とは逆)に回るのはかなり一般的である。葬送であるから仏に対するのと逆にしているかもしれないが詳らかではない。もしかすると、死者の方向感覚を失わせるという理由があったかもしれない。

拾骨:白河法皇の火葬(1129)の場合は翌朝に近親の者6人が炉の東西に畳を敷いて座り、箸で骨を取り上げて対面の者も箸で受け取り、その後はそれぞれが拾って金銅の壺に入れた。壺は白い絹で包んで、院近親の藤原長実が首にかけて歩いた。この場合は近親の者(とはいえその半数は出家している)が行っているが、中世後期の貴族・上級武士の葬儀では、沐浴・入棺・骨拾いは禅宗や律宗の僧侶に任されていることが多い。なお中世後期は拾骨は葬儀から3日目の朝に行われることがしばしばあるが、なぜ先延ばししたのかはわからない。

葬儀見物:中世後期には上級武士の葬儀は昼に行われるようになり(だからこそ幡・天蓋などの見せる葬具が発達した)、社会的地位を誇示する意味からも見物人を集めることとなり、将軍足利義煕の葬儀(1489)では「見物雑人如稲麻竹葦」、六角氏の家臣永原氏の葬儀(1536)では「貴賤男女見物数万矣」、豊臣秀長の葬儀(1591)では「人数廿万人モコレアルベキ」と言われた。

無常講:無常講とは葬送の互助会である。覚如の『改邪鈔』(1337)では「往生浄土ノミチモシラス、タダ世間浅近ノ无常講トカヤノヤウニ諸人オモヒナスコト、ココロウキコトナリ(p.200)」とある。ここでは仏光寺派などの異流が往生の信心を閑却して、無常講のようなことだと世間の人が思っているのはけしからんという文脈で無常講が出てくる。鎌倉時代後期には金石文にも「念仏講州」「結衆」が見え、14世紀には無常講という名の互助組織が成立したようだ。この名の由来は、隠岐に流された後鳥羽院が死の直前(1239)に著した『無常講式』にある可能性がある。ただしこれは念仏講で葬式の手順に触れているわけではない。葬式互助は戦国期には「念仏講」の名でも盛んになる。戦国期には庶民も参加している。日蓮宗にも独自の互助組織があった可能性があるがまったく不明である。

なお、本章は『死者たちの中世』の第3・4章に続くものとして位置づけられており、私は本章を読むために本書を手に取った。

「第2章 「京師五三昧」考」では、京都近郊にあったいくつかの火葬場・墓地について、史料を博捜して実態を推測している。

近世初期の京都には5つの火葬場「五三昧」があるという説があり、本稿はこれを史料に基づき緻密に追及している。まず、この5カ所がどこかというのもあやふやであるが、史料を総合して鳥辺野・千本・最勝河原・四塚・中山であろうとする。このうち、鳥辺野は次章で取りあげ、本章ではそれ以外の4カ所について沿革を明らかにしている。本稿は非常な労作で情報量が豊富だが、私は京都近郊の地理に疎いので正直あまり頭に入ってこなかった。以下、気になった点のみ述べる。

まず、火葬場は近世以前も迷惑施設であった。最勝河原では火葬の臭気が問題になり、奉行所から移転を命じられている。それに対して火葬場側は「此の処さへ辺土にて迷惑仕候に(現在の場所さえ辺地で営業に差し支えるのに)」と反論している。火葬というのは、割合に上層の葬儀法であり、元来仏教的な葬儀法であるから、古代では火葬されることは贅沢でありがたいものだという観念があったとされる。にもかかわらず、火葬場が迷惑施設とみなされているのは、火葬の位置づけが庶民化し、特別にありがたいものだという意識がなくなっていることを窺わせる。

興味深いのは「千本」。ここは多くの寺院があり、しかもそれらは葬場または墓地となっていた。「これらの寺を含む広い範囲が千本と呼ばれる室町京都の一大葬送センターであった(p.254)」。そしてその近辺にあったのが蓮台野である。院政期にあった「蓮台」という葬儀施設がその名称の起源になったようだ。近世では上品蓮台寺が蓮台野を管理していたが、この寺の起源には不明確なところが多い。山本尚友は堀河天皇の遺骨が安置された香隆寺をその前身としている。中世後期の蓮台野には、墓地を管理する「野法師」がいた(「蓮台野法師」の省略形かもしれない)。慶長3年(1598)の方広寺大仏供養で蓮台寺聖僧が参加しようとしたことに東寺が反対しており、葬式寺としての蓮台寺が忌まれたことを示している。

墓地のある土地の寄進が行われたとき(1324)、「御先祖墳墓」があるのでこの墓を移動したりせず今後も菩提を弔う、と約束している文書があるが(p.262)、これは墓が移動されたり祭祀が廃絶したりすることがよくあることだったのを逆に示しているのかもしれない。

五三昧は元来は荒野のようなところであったと思われるが、陵墓・貴族の墓(堂宇もあったかもしれない)が設けられたり、僧侶によって経塚が立てられたりすることで火葬場・共同墓地となっていき、やがて周辺の寺院に囲い込まれることで消滅していった。土井浩は五三昧を「境内墓地化以前の葬所」であると指摘している。なお18世紀の山岡浚明『類聚名物考』では、寺ではなく鳥部山・鳥へ野に葬る風習が京都にあるとして「すへて江戸も都会の所にハこの風やみたるそよからぬ事にハはあるそかし(=江戸の町中でこのような風習がなくなったのはよくないことである)(p.270)」と言っている。江戸では鳥辺野のような寺院墓地でない庶民的な葬所がなかったから、高密度の埋葬が行われ、頻繁に墓の掘り返しが行われ、墓は社会問題になっていたのである。

「第3章 鳥辺野考」では、前章で割愛されていた鳥辺野について詳説している。

本章でまず驚いたのは、鳥辺野がどの範囲のどこであるか、いまだ不明であることである。鳥辺野というと京都の東側にあるという漠然としたイメージはあったが、その範囲には諸説あり、また時代によっても変遷があるのだという。その概略をいえば、鳥辺野は限定された領域から始まったが拡大し、近世に限定されていったということになる。まず古代には阿弥陀峰(清水寺の南にある山)の一帯が葬所となっていたと思われ、ここが元来の鳥辺野だった可能性がある。これが徐々に拡大し、『親鸞伝絵』が書かれた鎌倉末期には「今の知恩院付近から滑石越に至る広大な範囲が鳥辺野と呼ばれていた(p.288)」。

もう一つの中心は鳥辺山や西大谷に近い六道珍皇寺で、ここは異界との境界に位置すると思われていた。院政期には「珍皇寺四至内に「左衛門大夫堂」「伴入道ゝ(堂)」など人名をつけた多くの堂が存在し、墓堂と考えられている(p.290)」。珍皇寺では院政期に盂蘭盆会がにぎやかに行われたらしい。これらのことから、珍皇寺が面する野原(鳥辺野)が平安後期から住民の葬所として確立していたと思われる。

また近世には珍皇寺の東側に「南無地蔵」と呼ばれた空き地があり、そこは昔宝福寺という時宗寺院があった跡だとされていた。ここも火葬場・墓地となっており、「南無地蔵の葬場は、近世から伝承的にさかのぼれる最古の葬場の一つ(p.298)」である。

近世に鳥辺野・鳥辺山といわれたのは、西大谷背後の墓地である。ここは「浄土真宗・日蓮宗・時宗の諸寺院が共同墓地として利用していた(p.301)」。つまり、近世の鳥辺野は清水寺の西側あたりに限定されてきていたと考えられる。また地理的な事情から、墓地・火葬場について清水坂(非人の集団=坂惣中)は何らかの権益を有していた。

ちなみに、南無地蔵も阿弥陀峰も鳥辺山も、豊国廟の建設にあたって移転させられたとの伝承がある。これらは火葬の臭気が不浄とされたようだ。やはり火葬場は迷惑施設なのである。なお中世には「鳥辺野広域圏」に南無地蔵・鳥辺山(2カ所)・赤築地・阿弥陀峰・延仁寺という少なくとも6カ所の火葬場があった。火葬場が迷惑施設であることを考えると、これは多すぎるような気がする。なぜ6カ所も必要だったのだろうか。

「第4章 さまざな死」では、異常な死に方をしたケースの葬送や墓について述べている。

異常な死に方をした場合は、特別に弔いが必要とされたり、あるいは死体への恐れが通常より強かったりし、葬送にも通常とは違う特徴がみられた。特に、異常者の霊は死んだ場所に留まるという観念が古くからあり、死体とは別に場所の扱いも普通とは違っていた。特に戦死者の場合は、戦場にとどまる「霊を鎮めることは政治的に戦勝者の急務(p.321)」であり、久野修義は「戦後処理としての鎮魂が必要とされていた」と指摘している。また中世前期は戦場の死体は放置されたようだが、中世後期では従軍に際しては陣僧を伴って参戦し、戦死後は陣僧が死体を葬送したり国元への通知を行った。

異常死者の場合は、死体を分割することも行われた。これは死者の復活を阻止する措置だったかもしれない。特に反乱者の場合は死体を分割したという説話が多い。一方、死体を分割すると(特に首がないと)往生できないと考えられており、また首そのものにも怨念がこもっているとも考えられた。

このほか、水死体、産褥死、自殺者などの場合について現行民俗での事例も参照しつつまとめている。それらに共通するのは、往生させようとするよりも、その怨念や穢れが周りの人に害を及ぼさないようにするという思想である。一般の死者の場合は往生させることが優先されるのであるが、これがないのは日本の往生思想の特質を表しているようにも思われた。

本書は全体として、史料に基づいて緻密に論証し、また民俗例も参考に葬送の本質について考究している。ただし冒頭にも述べた通り、古い学説に基づいている箇所があるのは注意が必要である。例えば島津毅は『日本古代中世の葬送と社会』で勝田の説にいくつかの面で修正を行っているし、穢については近年より厳密な考証が行われており、穢がどの程度実体的に扱われたかは再考を要する(ただし、私自身は穢はそれなりに実体的だったと考えている)。そうした注意点はあるが、本書の中心である「中世後期の葬送儀礼」は今のところ本書以降にはまとまった研究がなく、「死者を仏として葬る」習俗の論考としては本書が通説といって差し支えないであろう。

葬送の本質について史料と民俗で迫る労作。

【関連書籍の読書メモ】
『死者たちの中世』勝田 至 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_9.html
中世、多くの死者が墓地に葬られるようになる背景を説き明かす本。本書と合わせて読むことは必須。思想面は手薄だが、中世の葬送観について総合的に理解できる良書。

『日本古代中世の葬送と社会』島津 毅 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/07/blog-post.html
日本の古代・中世における葬送の実態を再考する論文集。勝田の説を批判的しつつも発展させている。古代中世の葬送史の新たなスタンダードとなるべき労作。

『穢と大祓』山本 幸司 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/11/blog-post_24.html
穢(けがれ/え)の歴史的事実を明らかにする本。穢の実態を初めて明らかにした労作。

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2026年3月15日日曜日

『魔の系譜』谷川 健一 著

日本史において魔とされる存在をエッセイ風に語った本。

本書は、在野の民俗学者、谷川健一の処女作である(民俗学者はそもそも在野が多いが)。ただし正確には最初の単著ではないのかもしれない。著者自身が「私には本書を処女作と呼んでみたいものがある(p.3)」と書いている。

谷川はもともと平凡社の編集者で、雑誌『太陽』の初代編集長をつとめた。その後執筆活動に入り、持ち前の編集能力によって『日本庶民生活史料集成』、『日本民俗文化大系』などもまとめている。そうした著者の仕事に通底するのは、人の交流・移動に大きな関心が寄せられているということだと私は思う(後半生では特に南島との交流に力がそそがれた)。ところが、この処女作ではそういう要素がほとんど感じられない。著者自身が「処女作とよびたい」というこの本が、彼のライフワーク的なテーマとは少しずれていたというのがなんだか興味深い。

著者が「魔の系譜」に注目するのは、日本では善良さよりも悪の方に積極的な意味が見出されてきたからだ。強烈な怨みを持った人には、自ら「往生」を拒否し、魔となって復讐することを誓った人がいる。つまり復讐するためには魔とならざるを得なかった。キリスト教圏ではそもそも幽霊や怨霊が教義的に位置づけられていないが、復讐のために魔となった人はちょっと見当たらない。

しかし日本では、そういう魔の存在がかなり実体的に捉えられた。慶応4年8月、明治天皇の勅使が崇徳上皇の霊を讃岐から京都に迎えたことはそれを如実に示している。本書にはその宣命が掲載されているがその中で「この頃皇軍に向かい奉る陸奥出羽の賊徒をば速やかに鎮め定めて云々」と祈られている。戊辰戦争を鎮める力が崇徳上皇の霊に期待されていたのである(!)。

讃岐に流された崇徳上皇は、指から流れる血で五部大乗経を書き、それをどこかに納めて欲しいと希望したが、信西はこれに不審を抱き天皇も拒否した。魔の力を怖れたのである。こうして崇徳上皇は爪も髪も切らず「生きながら天狗の姿にならせたもう」(『保元物語』)と言われた。讃岐では崇徳上皇ゆかりの地には、「血の宮」とか「煙の宮」という普通の神社とは違う祀り方がされている。崇徳上皇を祀る頓証寺には天狗の相模坊(なんと大権現だと言われる)が合祀された。貴人の恨みのエネルギーは非常に大きいのである。

世の中が不穏になると、崇徳上皇の恨みのエネルギーが怖ろしくまた頼りがいのあるものに思われるようになった。文久3年(1863)には崇徳上皇の第七百回忌が行われているのはその象徴だ。

仏教の教説では、死者がいつまでも現世に留まって社会に害悪を及ぼすという理屈はないが、人々は強い恨みを持って死んだものは怨霊や天狗、天魔となって災いをもたらし、時にはその霊威を以て災いを鎮める力も持っていると考えていたのである。

次に著者が取り上げるのは「バスチャン」である。これは、長崎の隠れキリシタンたちが禁教の中で作り上げた独自の教説に現れる実在の人物である。これは古代ローマで殉教した軍人サンセバスチャンに由来した名前と思われる。バスチャンは、禁教下で儀式を暦通りに行うため「バスチャン暦」を寛永11年(1643)に作ったとされる(島原の乱の4年前)。

そもそも隠れキリシタンの教義は元の形からかなり変容していた。それを示すのが彼らが造った教義書『天地始之事』である。ここには土俗化したキリスト教世界観が表明され、デウスはもはや万能神ではなく農耕神のようなものになっている。またマリアがルソン国の帝王ゼウスから求愛されるなど荒唐無稽な説話も含まれる。

バスチャンは隠れキリシタンの指導者で、密告通報されて78回の拷問の末斬首された。彼は処刑前に、いつか黒船に乗った司祭がやってきてキリシタンが公認されるだろうとの予言を残していた。このバスチャンが信仰対象になり、それはやがてキリスト教というより「バスチャン信仰」と呼ぶべきものになっていった。著者は、それはバスチャンが処刑されたということによるのではないかと考える。しかもこの場合、崇徳上皇のような恨みの力ではなく、処刑による「苦痛の快楽」が影響していたのではないかというのだ。

「苦痛の快楽」とは矛盾するようだが、著者はそこに「苦しむ神、悩む神、人間の苦しみをおのれに背負う神」が重ね合わされたと考える。イエスが人間の罪を背負って処刑されたことの変奏なのだ。ここで急に話題転換し、諏訪大社(上社)の「外県御立座神事(そとあがたみたてましのしんじ)」と「大御立座神事(おおみたてましのしんじ)」が取り上げられる。これは神使の出発式なのだが、この神使を務める幼い童男は、馬上にくくりつけられて虐待され、かつては殺されたこともあったと言われる。占いによって神に選ばれた者が殺されるということは、人間を生贄にした時代の痕跡なのかもしれない。

このほか、著者はほとんど脈絡なくさまざまな民俗信仰や他界観念を取り上げる。例えば平田篤胤の『勝五郎再生紀聞』。これは前世の記憶を持つという少年にインタビューした記録である。同じく篤胤の『仙境異聞』。これは天狗の世界と行き来した少年寅吉のインタビューである。篤胤が寅吉に入れ込んだのは彼の性格から当然としても、多くの国学者や知識人が寅吉に興味を持ったのは当時の世界観を窺う上で興味深い。ちなみに篤胤には『霧島山幽境真語』という、霧島の明礬山で26年過ごした時の不思議な体験談もある。著者はこうした記録を、夢野久作の『ドグラ・マグラ』を起点に(⁉)読み解く。私にはそのつながりがちょっとよくわからないのだが(著者は夢野久作のファンで、本書には随所に夢野作品への言及がある)、冥界とのつながり、生まれ変わりの思想、死者が蘇ることへの恐怖などが混然となって表明されているという。

また、百姓が害虫を亡霊と見立てたこと、享保の飢饉で年貢の減免を行ったことで失脚して失意の中に死んだ久留米藩の稲次因幡を農民たちが神として祀ったことなどを取り上げ、「虫送りにともなう亡霊供養は、(中略)飢饉にともなうさまざまな犠牲者の鮮烈な記憶をながく保存しようとする意図も含まれていた(p.201)」とする。

こうした多様な事例が本書に登場するが、それらに通底する概念を私なりに提示すると、「日本では、異界(あの世)が現世を補完するものとして捉えられていた」ということになる。もちろんキリスト教でもそういう面はある。例えば悪人があの世で裁かれるといったことはそれにあたる。だがそれは、現世での報いをあの世で受けるという一方通行な性格が強い。ところが日本の場合は、現世→あの世という方向だけでなく、あの世→現世という方向でも影響が及ぼされる。現世とあの世は地続きであり、あの世は現世の矛盾やままならなさを埋め合わせるだけでなく、時に現世に浸潤してその是正を求めるのである。

そしてその媒介をしたのが、魔と呼ばれる存在であった。キリスト教では善良なものこそ神の下に伺候して影響力を行使した。聖人はその代表的な例だ。ところが日本では、善良な魂や幸福な魂は子孫を遠くから見守りはするが現世への影響は限定的だった。強い恨みをもって死んだもの、異常な死に方をしたものなどがその負のエネルギーによってあの世とこの世をつないだのである。そしてそれとは少し違うが、天狗もそういう存在だったのかもしれない。天狗はこの世のものでもあり、あの世のものでもあった。つまり境界的なのだ。魔についての考察は、その後の谷川民俗学とは少し異質な出発点かと思ったが、境界的なものに注目する点では通底するものがあるのかもしれない。

谷川民俗学の原点。

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2026年2月27日金曜日

『よみがえる古代の港―古地形を復元する』石村 智

日本の古代の港の実態を地形から推測する本。

日本の美称で「豊葦原の瑞穂の国」という言葉があるが、古代の日本には葦が生い茂る湿原的な浅瀬がたくさんあり、そういう地形の場所が港となっていた。そういう痕跡は、「~津」という地名に残されている。「津」は「船が安全に停泊できる波の穏やかな場所」を指す言葉で、古代の港は「~津」と呼ばれたものが多い。

だが現代では、「~津」はかなり内陸にある場所が多いため、そこが港であったことがわかりづらくなっている。例えば吉備津神社の吉備津は現在の海岸線から20キロメートルも内陸に位置し、難波津は10キロメートルほど離れている。どうしてこういうことになってしまったのか。

実は、吉備津は外海に面した港ではなく、潟湖(かたこ※)地形の場所に設けられた港だった。潟湖地形とは、河川の河口部に砂州が形成されることで天橋立のような海との仕切りができ、その内側が浅い汽水湖となった、いわゆる「ラグーン(内海)」となっている地形のことである。なお、古代において潟湖地形が港として利用されていたことを先駆的かつ包括的に論じたのが『日本の古代3 海を越えての交流』所収の森浩一「潟と港を発掘する」という論文である。

吉備津の場合、そのすぐ間際まで「吉備の穴海(あなうみ)」というラグーンになっていたし、難波津の場合も瀬戸内海に面しており、さらにその内陸側に「河内湖」というラグーンがあって、生駒山のふもとには白肩津(しらかたのつ)という港が設けられていた。こういう潟湖地形は河川からの沖積作用によって徐々に埋まり、また近世以降は干拓や河川改修によって耕地化された。このようにして、古代の港「津」はかなり内陸に位置することになったのである。

また興味深いことに、こういう古代の港の近くには、海上からのランドマークとなるような形で古墳が築造されていることが多い。これは海上からの目印になっていた可能性がある(ただし著者は、海からは意外と遠くから見えないと指摘している)。本書ではいくつかの地域の古代の港とその近隣の古墳を概観してそれぞれ考察している。なお古代地形については、「カシミール3D」というGISソフトを利用して復元している。

本書で取り上げられているのは、丹後、瀬戸内海(御津、室津、鞆の浦など)、遣新羅使のたどったルート(瀬戸内と宗像)、伊豆、平安京周辺、標津(北海道)、網取(西表島)の港である。以下、そのうち気になったところのみ述べる。

瀬戸内海は、古代から重要な海上ルートであったが、ここには複雑で早い潮流が流れており非常に航行が難しい海でもある(シーカヤックの第一人者内田正洋氏によると「世界で最も難しい海」(p.100))。著者はそのうち御津と室津を比較している。播磨灘に面した御津は古代にはラグーンのほとりに位置し、葦の生い茂る泥湿地帯だったと思われる。ちなみにその手前の半島にあるのが輿塚古墳であり、周辺には古墳時代以前の遺跡も多い。一方、室津はその近くにあり、ここも行基が開いたという伝説がある歴史的な港である。しかし自然条件は対照的で、室津は切り立った崖に囲まれた入り江である。史料を調べると、御津の方がより古くから栄えたが、奈良時代以降には室津の方が重要性が増していったことが窺える。それは、遣唐使船をはじめとした大型の船が御津には入港できなかったためと思われる。その代わりに水深の深い入り江に立地する室津が選択されていくのである。

著者は、葦が生い茂るラグーンの浅瀬にある港を「浅い港」、リアス式海岸の入り江にある水深の深い港を「深い港」と呼んでいる。古墳時代までは「浅い港」が栄え、奈良時代以降に構造船が航行するようになると「深い港」が栄えたというのが大まかな見取りである。そして「浅い港」は、ラグーンが陸化することにより機能を喪失していった。室津は現代でも港であるが、御津の方は今では海に面してすらいない。ただし、ある時期までは「深い港」と「浅い港」は併存していたと考えられる。

ここで著者は古代の船の構造について推測している。先史時代から丸木舟はあったが、弥生時代には準構造船(丸木舟に舷側板をとりつけた船)が登場した。そして古代には大陸・朝鮮半島からの影響で、底が平たい構造船が登場したと考えられる。ただし著者もいうように「船の構造を示す考古学的な資料はまったく見つかって(p.89)」いない。遣唐使船では1艘あたり100人以上の人が乗っていた場合があるので、かなり大きかったことだけは間違いない。

著者はさらに、奈良時代にたびたび繰り返された遷都を水上交通の観点から述べている。例えば難波京は平城京と併存していたが、これは海上交通に利便の地として造営されたとみられる。そしてこの時代の都城は複都制とも呼ぶべきもので、複数の都市を使い分けていたと考えた方が自然だ。難波京は646年に造営されて784年まで、途中に空白期間はあるが活用されている。この難波京がどんな地形に造営されたのかというと、難波津は大阪湾と河内湖を仕切る場所にあったのである。この時代に海上交通がいかに重視されていたかを難波京の立地は如実に示している

しかし難波津は、沖積作用によって河内湖が陸化することで機能を失っていった。難波堀江という、河内湖と難波津をつなぐ人工水路を仁徳天皇が造っているところを見ると、古墳時代中期にはすでに河内湖は陸化が進行していたと考えられる。また『続日本紀』には、762年に遣唐使船が難波津で動けなくなるという事件が発生しているので、河内湖の陸化が進んだのかもしれない(難波津は河内湖に面していたわけではないが)。そして784年には長岡京へ遷都して難波京は廃止されている。こうしたことから、難波津の港としての機能は早くも古代に失われつつあったと判断できる。

古代の港はラグーンに位置していたということはよく言われるが、古代の地形が示されることは少ない。一方、本書はカシミール3Dを使って大まかではあるが古代の地形を示しており、とても分かりやすい。本書は全体として大上段の主張があるわけではなく、様々な事例を「あれもあるこれもある」式で連ねた本である。著者は元来、オセアニアの人類学・考古学を専門としており、日本の古代は専門の中心ではないため、ある意味「肩の力を抜いて書いた本」のような気がする。

ラグーンに位置していた古代の港をわかりやすく示した小著。

※本書では「潟湖」に「かたこ」とルビがあるが、国語辞典的には「せきこ」という。

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2026年2月15日日曜日

『古墳と埴輪』和田 晴吾 著

古墳を多面的に考究する本。

古墳時代は、3世紀中ごろから6世紀後半にかけて350年続いた。この間、日本各地で大小10万基を超える数の古墳が造られた(文化庁によると古墳・横穴を合わせた数は15万4700基!)。古墳は支配秩序であり、権力のモニュメントであったが、他界観や信仰の意味も問わなければその本質には迫れない。本書は、古墳に残る痕跡から葬送儀礼(それを著者は「古墳の儀礼」と呼ぶ)や他界観・信仰を推測するとともに、古代中国文明との関連を考察するものである。

「第1章 古墳の出現とその実態」では、古墳について概説している。

弥生時代には円形や方形の周溝墓が造られ、次第にそれが支配権力を表すものとして分化・発展し、権力の格差付けを示すものとなった。その中で前方後方、前方後円の墳丘墓が現れる。円形・方形ではない墓の形は世界的に見ても珍しい。しかし大陸の影響は大きく、後漢から皇帝陵が円形に変わったことで日本でも円形優位となり、その後隋・唐では皇帝陵が全て方形になると日本でも飛鳥時代初期の大王墳は方形となっている。中国的墓制の影響を窺う上での好例は弥生後半の楯築墳丘墓で、この古墳には円形・組合式木棺を入れた木槨・割竹形木棺・家型土器・人型土製品など中国の墓制を受けた特徴がある。これをさらに発展させたのが3世紀中葉の箸墓古墳(前方後円墳)で、それは弥生的な葬送儀礼と中国式墓制を総合したものであったと考えられる。これは大王墳としてスタンダードとなった。大王墳は巨大な前方後円墳、首長はそれに次ぐ前方後円的な墳墓、民衆では方形の周溝墓、さらにその下層では木棺墓、土坑墓といった墓の秩序が日本列島を覆った。権力者の墓制のみならず、民衆レベルにまで墓の秩序が浸透したのは興味深い。

この秩序は、古墳のサイズ、副葬品などでも差別化され、また時期によって古墳の形が変化する。しかし驚くほど多様なのは棺・槨・室である。棺とは遺体の入れ物、槨とは棺を入れる施設、室とは棺を入れるとともに儀礼を行うスペースを言う。「古墳の墳丘を中心とする秩序だった外観とは異なり、埋葬施設は実に多様であった(p.34)」。

古墳時代の棺は我々がイメージする木棺とは違い、古墳に据え付けられていた。つまり遺体を入れた棺を古墳に運んできて納入したのではなくて、古墳にビルトインされた棺に遺体を運んで入れた。このように棺は動かす必要がなかったので数トンもあるような石棺が出現した。そして死者の入棺は古墳で行われた。これが墳丘頂上部で最後の別れを行うという古墳独特の葬法を生んだ。

棺には大きく2つの潮流があった。一つは密封型の棺(「閉ざされた棺」)、もう一つは逆に開放的な棺(「開かれた棺」)である(九州の古墳ではそもそも棺がなく死体が床にそのまま置かれていたもの(死床)もあった)。畿内の古墳での中心は「閉ざされた棺」である。

そして古墳の外観には「何らかの世界」が表現された。円筒埴輪を並べたり、葺石を並べたりするといったことである。著者はこれを他界の表現であると捉えている。ここで飲食物の供献を中心とした儀礼が少なくとも一度は行われた。

そして古墳の著しい特徴は、その後にはもう祭祀が行われなかったらしいことである。これは長く祭祀が続けられた中国の皇帝陵の場合との大きな違いだった。「人びとが一定期間、定期的に古墳へやってきて祭祀を行ったような痕跡はまったく見つかっていない(p.49)」。後述のように、古墳は大陸の影響を大きく受けていたが、この部分が非常に異なっていた。「古墳そのものは亡き首長の霊や歴代の祖霊を祀る場所とはならなかったと推測される(p.52)」。

なお、飲食物の供献は、最初は本物の飲食をささげていたと思われるが、その後土器で作った模倣品になった。これについて著者は埋葬後の儀礼が「永遠に続くことを期待したもの(p.51)」とする。そして副葬品も、当初は実物を入れていたのが仮器化が進行し、ミニチュア鉄器や滑石制模造品などになった。これは手抜きをしたのではなく、あえて実物を作らないことで他界のものであることを表現したと著者は考えている。

「第2章 他界としての古墳」では、古墳から推測される他界観について述べている。

大陸での死生観・他界観で代表的なのは、周末の『礼記』にある「魂気は天に帰り、形魄は地に帰る」というものだ。人間の霊には魂・魄の2種類があるとする観念である。これを古墳時代の日本人が受容したと著者は考え、「閉ざされた棺」では「形魄は墳丘内部の棺・槨のなかに厳重に密封された(p.56)」という。ただし、『礼記』では「地に帰る」としているのに、著者が遺体とともに形魄があったとする根拠は不明だ。また、なぜ形魄を厳重に密封する必要があったのかも判然としない

一方、魂気をどう扱ったかについては、古墳には船を描いたものや舟型の棺など船の要素が散見され、船で魂が他界へ運ばれたと考えられる。さらには、古墳に埋葬する際には、死体を船に納め、これを牽いて古墳に運ぶ儀礼があったと考えられている。さらに、それらの船の船首に鳥が留まっていることも多い。これは当初鳳凰的な鶏だったのが、古墳時代中期には渡り鳥と思われる水鳥になっている。古墳時代の人々は、鳥にいざなわれて船で異界へ赴くという他界観を抱いていたようだ。著者はこれを「天鳥船(あまのとりふね)信仰」と名付けている。この信仰は前方後円墳とともに出現し、その消滅とともに姿を消した。

「第3章 埴輪の意味するもの」では埴輪について概説している。

古墳には多種多様な埴輪が副葬・配置された。時代的にいうと、円筒・壺・家・鶏・武具・船・馬・人物がだいたいこの順番で登場した。埴輪のほとんどは当時実在したものを象っており、空想的な構想力が横溢している縄文土器や土偶とは大きく異なる。どうやら古墳時代の異界は、現世と似たような世界だと思われていたようだ。

だが埴輪は現世のモノそのものではない。例えば壺などはわざわざ底に穴をあけて役に立たなくしている。このように敢えて現世で役に立たなくし他界のものとしての性格を与えることを埴輪化・仮器化という。つまり古墳内は他界と思われていた。古墳の墳丘上には埴輪が置かれることで他界であることが表現され、特に出入り口(=造出)周辺は入念にしつらえられた。古墳時代中期中葉、そうした表現方法が完成した直後に人物・動物の埴輪が出現する。

人物は、大きく分けて武装した人と非武装の人がいる。また被葬者自身が表現されたと考えられる埴輪もある。ふんどし姿の男性(便宜的に「力士」と呼ぶ)や女性の埴輪もある(なお女性が葬られたと見られる古墳もある)。また、女性の埴輪については、かつては巫女とされてきたが、食事など身の回りの世話をする者である可能性が高い。このように、埴輪の人物は現世同様あらゆる階層の男女がいる。人物埴輪は被葬者に服属して近侍する集団を表現していると見られる。なお動物では、半数を占めるのが馬で、その他に犬・鹿・猪・牛などがある。

埴輪の表現は、当初は呪術的・祭祀的なものであったが古墳時代中期に軍事的・実務的なものに変わっていった。この変化には、女性首長が消えたという背景がありそうで、大陸から父系イデオロギー・主従関係の在り方の流入があったのかもしれない。

なお、副葬品には武器・武具、鏡・装身具、農工漁具がある。このうち武器・武具は埴輪と共通している(その意味は不明だ)。なお土器類は副葬されない。副葬品と埴輪はどのような使い分けがされていたのか。著者はこれについて「古代中国から伝わった前漢以前に普及していた「槨墓的要素」と、秦漢以後に広がった「室墓的要素」が、列島の古墳の儀礼の中で混じりあい融合した結果(p.109)」とする。遺体を副葬品とともに他界に送り出す槨墓から、古墳に室を設けてそこを他界として表現する室墓へと変遷したが、これが副葬品+埴輪という組み合わせに対応しているというのである。

古墳は死後の世界の可視化であり、それは他界の表現としては仏教的な浄土表現に先行する最初のものである。これが古墳の第一の文化史的・精神史的意義だという。

「第4章 古墳の儀礼と社会の統合」では、古墳の築造の社会的意義について述べる。

古墳づくりは巨大プロジェクトである。膨大な労働力が投入され、また高い土木技術を必要とした。「素朴な道具と人海戦術にもかかわらず、前方後円墳形の墳丘の左右線対称で精美な形と仕上がりの良さには驚かされる(p.115)」。これには今でいう3D測量が必要だが、どんな測量技術を用いたのだろう。さらにそれを可能にした労務管理能力にも注目だ。大山古墳では2000人近い労働者が15年以上も作業に従事したと計算されているが、この人々をどう管理したのだろうか。造営キャンプを示す遺構はまだ見つかっていない。また数トンもある石棺はしばしば遠方から運ばれた。巨大な阿蘇石を有明海沿岸から畿内まで運んだというのだから驚く。著者は当時の船舶でこれが運べるか実験しており、現代でさえ航路上に位置する多くの人々の協力が必要だったといい、「高度な航海技術はもちろん、安定した自然条件、平和な政情と社会交通インフラの整備などがその成功を支えた(p.121)」と述べている。そして日本全国で同様な水準の前方後円墳を造ることができたのは、王権が技術支援(技術者の派遣等)したかららしい。古墳を造れることは、それを支えるインフラと技術と人があり、しかもそれが統合されていたことを示唆する。

というよりも、古墳づくりを行うために、あるいは古墳づくりがあったからこそ、そうした統合があったのかもしれない。だから著者は「古墳は造りつづけることに意味があった(p.131)」と考える。古墳の築造というプロジェクトを通じて社会を統合したのが古墳時代だったことになる。しかし古墳の被葬者にとってはともかく、民衆にとって古墳づくりはありがたいプロジェクトではなかった。国家的体制が整ってくると古墳づくりは単なる「労役や租税へと転化していった(同)」。

古墳は世界的に見てもかなり巨大な墓だが、これは日本列島のみならず東アジアに向けたデモンストレーションであったと著者は考える。墓の巨大さに比べて埋葬施設や副葬品は貧弱なのがその根拠の一つである。

このように古墳は多分に政治的な存在であり、その形態は国家による秩序に支配されていた。では魂が赴く他界の方はどうか。この点に関し明確な証拠はないが、著者は「他界においても、大王の祖神を頂点に各首長一族の祖霊・祖神を整理し秩序づける作業が進行したものと思われる。それは『記紀』に記された神話や伝承などが整えられていった過程でもあった可能性が高い(p.138)」としている。

「第5章 古墳の変質と横穴式石室」では、古墳時代中期から後期が概説される。

古墳時代前期から中期では、各地の首長を大王が統合するという社会システムだったのが、中期から後期では首長権力が後退し中央集権体制になる。その画期は「筑紫君磐井の乱」だという。この時期に登場する群集墓について著者は「国民の誕生(p.147)」と位置づける。また大王墳は120m程度とかえって小型化する。これは権力のデモンストレーションの必要が薄れたためかもしれない。また古墳の形態としては、横穴式石室が普及する。槨から室への転換は、墳丘上での儀礼が不要となり、追葬が可能になったという変化を伴っていた。横穴式石室には九州的石室、畿内的石室、それらの複合的石室の3つがある。

最も早く登場するのは4世紀後半の九州的石室で、3人分の遺体を死床に並べるものが多い。これはどこからか伝わったのではなく、九州で発生したと見られる。なお宮崎県南部から鹿児島県東部には「地下式横穴」という独自の墓がある(直下に掘り進んでから横穴となる構造)。これも九州的石室がアレンジされたのではなく独自に生まれたものらしい。畿内的石室は藤の森型を基礎に発展したものと考えられ、九州的石室が伝わったものではないようである。

九州的石室と畿内的石室の最も大きな違いは、九州的石室では先述のとおり棺がなく遺体が露出していたのに、畿内的石室ではしばしば巨大で厳重な石棺で遺体が密封されていたということである。面白いことに、島根(出雲)と和歌山には九州的石室に影響を受けたと見られる開放型の棺がある。こうした「閉ざされた棺」「開かれた棺」の違いに対し、著者は「密封型の棺では、死者は棺の中に密封され玄室内を自由に動きまわることができないのに対し、開放型の棺では、死者は棺を抜けだし玄室内を自由に動きまわることができる(p.168)」と述べ「前者では、死者は永遠の眠りにつく、あるいは消滅すると考えられたのに対し、後者では死者は蘇り室内を自由に動きまわると考えられたのである(同)」というが、この考えは逆の可能性も考慮が必要だと思う。

つまり、厳重に遺体を密封したのは、死者が蘇ったり、あるいは死者の魂が悪霊となって悪さをするのを防ぐという理由があったかもしれないし(消滅すると考えられていたなら厳重に密封する意味もない)、逆に遺体が密封されず露出していたのは、蘇る心配も悪霊になる心配もないということだったかもしれない。九州的石室では3人が順に葬られるが、2人目や3人目の遺体を運び込むときには1人目の遺体(や遺骨)がそこに露出していたはずだ。現代人であればこれは気味悪いと考えるが、当時の人はそう思っていなかったことになる。ただし、開放型に属する出雲の黄泉国訪問神話では死体が腐乱して悪霊化するので、著者の考えは少なくとも出雲では整合的だ。

なお黄泉国訪問神話を検討すると、それは九州的石室が描写されていると考えられるという。しかし黄泉比良坂に当たる構造は日本の古墳にはなく、これは中国の墓道の方が合致する。黄泉国訪問神話は中国で原型がつくられ、九州に伝わったものが後に列島風に書き換えられたものと著者は分析している。

なお、古墳には内部に装飾が施されたものが550基あまりあり、特に九州の装飾古墳は華麗である。当初の古墳装飾は辟邪的性格が強い。これは死体を怖ろしいと思っていたか、もしくは死体に怖ろしい存在が接触するのを避けたかのいずれかであろう。古墳時代後期の装飾古墳では辟邪的要素が薄れ、石室内で死者が生活しているという観念を前提としたものになっているという。

「第6章 古代中国における葬制の変革と展開」では、古代中国の葬制を概説している。

日本の古墳は、実は古代中国の葬制に大きく影響を受けている。古墳は日本古来の葬制ではないし、その他界観も在来のものではない。では古代中国の葬制はどうだったのかというのが問題になるが、この点について本章は手際よく要点をまとめており大変価値が高い。

古墳では、大雑把に言って槨墓から室墓へという変化があったが、古代中国では前5世紀~前3世紀という長い時間をかけて同様の変化があった。まず古代中国の墓は、墳丘はなく、地下に槨を封入するといったものだった。これは「閉ざされた棺」であった。しかも多くの副葬品と殉死も伴った。ということは、死後の生活が観念され、死後に奉仕する家臣を共に埋葬したとしか考えられない。ただし他界は現世とは別のレイヤーにあったために、生活のための部屋は不要だったと解釈できる。

これが春秋末期・戦国初期になると、槨内に死者が動くための通路や扉が現れ、やがて室に変化した。これは墓の中で死者が生活しているという観念に変わったことを意味する。さらに石棺にも出入口が設けられた。ということは、死者は石棺から抜け出して生活すると考えられたのは間違いない。ただし実際に石棺に出入口を作るのではなく、出入口風の装飾(偽門)を付けるというものも多い。死者の肉体が蘇るというよりは、その魂が出てくると考えていたのかもしれない。また墓内には多様な装飾が施された。特に絹に絵を描く帛画では、死者の魂が龍に乗って昇仙するというテーマが描かれたのが面白い。やがて殉葬は衰退し、その代わりに土や木で作った人形模造品が副葬され、また青銅製の副葬品も徐々に姿を消し、食器や道具や家畜などの木や土の模造品(仮器)となった。他界の表現となったということになる。こうした変化とあわせて方形の墳丘が設けられるようになった。

秦・前漢の時代には室墓が定着し、身分による墳丘の格差も進行した。前漢の満城1号墓(河北省)では地下に大規模な空間が設けられ、まさに死者の生活空間となっている。こうした変化を踏まえると、槨墓的な元来の魂魄観・他界観が変化し、死者は天上に昇るのではなく地下で暮らすと考えられた可能性が高い。これが黄泉国の観念の元になっていると思われる。卜千秋墓(河南省)では壁画が残っているが、ここには西王母が表現されている。室内の他界が崑崙山とつながっていると認識されていたかもしれない。

後漢になると大型墓の墳丘は円形に変わり、槨墓はほとんどなくなった。石棺に図像を表現した画像石棺が盛んに作られたが、そのテーマは被葬者が車馬で無事他界に到着し迎え入れられたことを示すものが多い。ちなみにその他界の建物の屋根には鳳凰が留まっている。

三国時代から南北朝時代になると、205年に魏の曹操が薄葬を命じ、また222年に曹丕が墳丘並びに陵前の寝殿・集落の造営を禁じてからは葬制・墓制が大きく変化した。また南北朝期からは地域ごとに多様となった。ここからは北部と南部の記述が並行され、しかも薄葬と厚葬の揺り戻しが繰り返され動向は複雑である。結果のみをまとめると、北部では玄室で死者が暮らしているという観念が続き「開かれた棺」であったが、南部ではそうした観念が希薄で玄室は閉鎖的で槨的なものになっていった。そして玄室の前室は祭祀のためのスペースとなった(墓室内祭祀)。なお南北ともに追葬が行われるようになり、夫婦の合葬は基本となった。

他方、長江以南では船棺葬という独自の葬制があった。丸木舟(のような棺)に遺体を封入するのである。この地域では船が他界への乗り物だという観念があった。ただし南部へ室墓が普及した段階では船棺葬は低調となった。

また鳥船信仰についてはどうか。先述のように、北部では龍に乗って天上に赴くという観念から車馬で赴くように変化した。鳳凰は乗り物というよりは他界からの死者である。南部で、こうした北部的観念と他界への乗り物としての船が融合し、鳥に導かれて船で他界に赴くという観念が生まれたと思われる。ただしこの他界は海上ではなく天上にある可能性が高い。ベトナムや東南アジアにも船を他界の乗り物と見なす観念があり、これが中国と日本に別々に伝わっている可能性もある。

「第7章 日中葬制の比較と伝播経路」では、弥生時代からの葬制が振り返られ、これまでの知見が総合される。

弥生時代の日本の葬制は基本的に「閉ざされた棺」で、そこに中国から槨墓的要素・室墓的要素・船棺などの要素が伝わってきた。古墳時代に埴輪が登場することは、他界の表現という室墓(「開かれた棺」)的な変化を表している。しかしこの段階では墳丘内部では槨墓的な「閉ざされた棺」であった。そして天鳥船信仰が伝わってくる。天鳥船信仰が長江流域から伝播したという直接的な資料はないが、古墳時代の葬制の基層は弥生文化+長江流域の船棺葬であったと見られる。

中期には船棺は退潮して葬送儀礼(古墳の儀礼)が完成するとともに、他界表現はより充実した。古墳の儀礼では、「葬列から埴輪配列が示す他界表現まで、画像石に表現された昇仙図の筋書きが大きな影響を与えた可能性がある(p.251)」。人物埴輪の出現は、俑の情報を元にして列島風にアレンジされたものだったと思われる。なお日本には確実な殉死の例はない。

一方、九州の「開かれた棺」の系譜は北朝・高句麗系の棺・室に求めるほかない。ただし九州の地下式横穴については、「北朝で発達した土洞墓との関連を推測させるだけで、詳細は不明(p.258)」。

後期では、畿内的石室・九州的石室が展開したが、畿内では「閉ざされた棺」が続いた。本来は石室は「開かれた棺」とセットであるべきだがここで一種のねじれが生じている。また畿内では石室内で食物の供献が行われた。これは死者の食べ物なのか。かつてこの儀礼は「ヨモツヘグイ(他界の食べ物を食べることで他界の者になること)」と理解されたが、「閉ざされた棺」である限りそれは死者の食物ではありえない。死者との別れの儀式ではないかというのが著者の考えである。

さらに6世紀後半には、夫婦を中心とする複数埋葬が多くなる。九州的石室にも複室構造をもつものが現れ、また彩色した絵画が登場した。なおこうした葬制には高句麗の影響が大きいと見られるが、高句麗には天鳥船信仰の表現はまったくない。

後期後葉、天鳥船信仰は退潮し、埴輪も見られなくなる。古墳は他界表現を失い、墓標に近づいた。社会的にも古墳による社会秩序から、法制的原理の規定が優越するようになったと見られる。

このように、「日本列島の弥生・古墳時代の葬制・墓制は、新石器時代以来の中国大陸における葬送・墓制の影響を強く受けつつも、それらを巧みに消化し、列島独自に作りあげたもの(p.227)」なのである。

本書は全体として、古墳について詳しくかつ網羅的にまとめており、教科書的な価値が高い。ただし文献史料との対照は部分的なものにとどまり、考古学からの知見が主である。またその中で、類書では等閑に付されがちな他界観について考究しているのが興味深い。特に他界観を「開かれた棺/閉ざされた棺」と「槨墓/室墓」という二元的な原理で考察しているのが明解である。

しかしながら、著者がいう他界観が腑に落ちない点も多い。そこで私は著者の二元軸に付け加えて「死体を怖ろしいものだと思うか/そうでないか」を付け加えたい。密封した「閉ざされた棺」は、死体が永遠の眠りにつくとか霊魂が消滅するとか考えるよりも、単純に「死体が怖ろしかった」と考える方がすっきりと説明できる。逆に死床に死体を露出させて安置した九州の人々は、死体が石室内で動きまわれるようにしたと考えるより、死体をそれほど怖れていなかったとした方が理に適う。というのは、追葬する時には先に埋葬した人はすっかり骨になっていただろうから、「室内を動きまわって生活していた」という観念は育みがたいと思うのだ。

ところで黄泉国訪問神話で、イザナギは死んだイザナミに会いに行くが、これはイザナギが死者を恐れていなかったことを示唆する。しかし腐敗したイザナミの姿を見てしまいイザナギは逃げ出す。ここで初めてイザナギは死者への恐れを抱いている。これはどう解釈できるのか、今私にもよくわからないが気になる神話である。

もう一つ、著者が注目していないのは気候である。古墳時代は、「古墳寒冷期」と呼ばれる日本の歴史の中では顕著な寒冷期に当たっていた。これは死体の腐敗が遅れることを意味していたと思う。九州でそれほど死体が恐れられていなかったとすれば、それは九州が比較的暖かだったために速やかに腐敗・分解して骨になったからだと考えたい。逆に畿内では、寒冷なために長く死体が保存されたことが恐ろしさにつながったと解釈できる。つまり、他界観がどうこうというより、単純に死体がどう腐敗・分解して骨になったかという点も、古墳の葬制に影響を与えたのではないかと思うのである。

古墳時代の他界観についていろいろと考えさせる良書。

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2026年2月7日土曜日

『日本人の葬儀』新谷 尚紀 著

日本人の葬儀について民俗学の立場から概説する本。

本書は1992年に発表されたもので、内容がやや古い。私は新谷尚紀(たかのり)が若い頃にどんな視点から葬儀を見ていたのだろうと本書を手に取った。新谷尚紀は本書を発表した後も精力的に葬祭や信仰の研究を続け、民俗学の立場からの葬祭史の第一人者となっている。

「I 葬儀の深層」では、葬儀にまつわる民俗が大量の事例とともに紹介される。

ここでは日本人の葬儀が概説されるとともに、そこで米が重要な役割を担っていたことが強調される。そもそも香奠は、葬儀期間中の関係者の食糧として持ち寄られたものだった。ではなぜ米でないといけないのか。著者は「米にはある種の霊力があると考えられていた」と考える。死の力を中和するために米が必要だったというのだ。

また「四十九餅」という民俗事例が紹介される。私は聞いたことがなかったが広く分布しているらしい。葬儀が終わった後に四十九餅(しばしばそれは49個の餅である)を搗き、埋葬の直後や四十九日に食べたり寺に持って行ったりして死者との別れをするというものである。これについて著者は「かつて日本の葬送儀礼においては、死後四十九日間程度のモガリの期間が存在したということを暗示(p.60)」しているという。

それから、死者が出るとそのケガレは火を通じて感染するものと考えられ、使う火を別にする(別火)という習慣もあった。これは不思議なことにお産の時も似たようなことがある。葬式と誕生にはどこか通ずる部分があるらしい。

葬儀が終わると大抵は墓塔を建てるが、石積みをするというのがもっと古くからの民俗だ。神社や寺に石を奉納することもよくあることで、その石を水辺から拾ってくることも多い。これは丸っこい石が好まれたという以上の理由があるのかもしれず、水辺から持ってくることに意味があった可能性がある。

「II 葬儀の歴史」では、古代・中世・近世の葬儀が文献史料から概説される。

まずは古代天皇の葬儀である。記紀によれば、天皇は死後一定期間、殯(もがり)の儀礼が行われた。天武天皇の場合、2年間もさまざまな儀礼が行われた。具体的には発哭・発哀・慟哭などの哭泣儀礼、歌舞、供物(特に食事)がささげられた。ここで天皇はまだ完全な死者とはみなされず、食膳をささげ続け、同時に哭泣が行われ、最後に誄(しのびごと)がささげられて儀礼が完了した。それにしてもどうして殯が行われたのかはっきりしない。著者は歌舞がささげられる理由は、死んだ人の魂は怖ろしく災いをもたらすから、それを鎮める鎮魂の儀礼だったとするが、これは「完全な死者とは見なさない」という前提と食い違うような気もする。殯が立脚していた死生観とはなんなのだろう。

8世紀から9世紀には、天皇家は積極的に薄葬を進めた。これは儒教的な思想に基づき、葬送に多くの費用を費やすことが民の負担になるという考えで行われたと著者は考えている。確かに大火薄葬令では、葬送造墓に財を尽くすことは「諸の愚俗(おろかびと)のする所なり」とされている。おそらくはこの葬送推進の一環で殯は文武天皇を最後に行われなくなり、立派な墓(陵)も作られなくなった。一方で、初七日から七七日までの追善供養はむしろ盛んになっている。嵯峨天皇と淳和天皇はさらに薄葬を徹底させ、墓自体が不要だと述べている。淳和天皇は「人没して精魂天に皈る。而るに空冢墓(からちょうぼ)に存す」と言っている。墓には魂はなく空っぽだといい、彼は散骨を指示した。一方で同様に薄葬を指示した嵯峨天皇は仏教儀礼は推奨し「釈家の論、絶棄すべからず」と言っている。清和天皇になると自ら出家入道の身で西方に向かって結跏趺坐し、手に定印を結んで入滅した。

平安時代の貴族の葬送については、寛弘8年(1011)の一条天皇の葬送を『御堂関白記』『権記』『小右記』の記録を元に紐解いている。この葬送では、四十九日の法事とか一周忌など現代と同じような儀礼がすでに実行されている。気になったのは、火葬した後の遺骨に幾人かがしばらく祗候していることである。また遺骨は円成寺に3年安置され、一周忌までは伴侶6名で阿弥陀護摩を修し、その後は5名の僧で念仏を奉仕することとしている(その後陵に埋葬)。遺骨に対する儀礼が3年間もあったのは興味深い。

また万寿2年(1025)に亡くなった藤原嬉子の葬儀もさまざまに記録されておりこれも詳述される。当時は母は子の葬送に立ち会わないという習慣があったが、この理由は気になる。また葬儀後に銀製の多宝塔が建立されているのも興味深い。また現代と違うのは、「僧を中心とする盛大な儀式があまり行われていない(p.183)」ことである。

次に中世である。ここでは、中世の葬儀の次第について記した「吉事次第」とその類書「吉事略儀」をまず参照する。これらの儀礼は現在の葬送儀礼とさほど異なるものではないが、枕飯や枕団子、四十九日餅など、食物についての記事は全く見えない。これには著者も「不可解だ」としている。次に天文19年(1550)に行われた足利義晴の葬送が「万松院殿穴太記(あなほき)」によって述べられる。ここでは位牌が葬儀の中心的位置を占めているのが注目される。なお位牌は紙で包まれ(←⁉)、「新捐館万松院殿贈一品左相府曄山照公大居士昭儀」と書かれていた。また葬儀後に位牌所をどこにするかで軽い綱引きが行われているのも注目される。ほとんどの儀礼が現代と共通だが、違うのは葬儀に際して馬をひくということである。

近世の葬儀については、幕府の奥右筆であった屋代弘賢が全国各地にアンケート調査をした結果が残っているのでこれから窺う。このアンケート調査は文化12年(1815)に行われ、調査項目は葬儀だけでなく各地の年中行事や冠婚葬祭を調査するものである。それらを見ると、やはり位牌の存在感が大きい。位牌は相続者を明示する機能を持っていた。それから水戸藩では「士以上」が仏式ではなく「儒法」によって葬儀が行われており、墓地が菩提寺ではない場所に置かれている。町人以下は仏式のようだ。全体を通じて、近世の葬送習俗は現代(戦前戦後あたり)と同じものである。

「III 他界への憧憬」では、日本人が抱いていた他界観が様々な民俗事例から推測される。

柳田国男は『先祖の話』で、盆には先祖・新仏・無縁仏の3種の霊がやってくると述べたが、民俗事例を見てみるとそのような区別はなく、時代的な変遷として様々な祀り方があったと考えた方が自然であることがわかった。家に仏壇が常設され位牌が祀られるようになって盆の習俗が変化した結果としてあたかも3種の霊を区別していたかのような様相となった。ではなぜ無縁仏を祀るという発想が出てきたのか。著者はこれについて、庶民はただ先祖を祀るとだけ考えていたのに、それに対して「戸外の盆棚は無縁仏をまつるものだ」と檀家寺の住職が盛んに説いた事例があることを指摘し、無縁仏とは仏壇に祀られない霊が寺院によってクローズアップされた結果広まったのではないかとしている。一方で、無縁仏を祀る観念の方が古い可能性もあるといい、要するによくわからない。

次に、これも柳田国男が提起した「人を神に祀る風習」について取り上げ、その背景には遺骨と霊魂を分離する思想があったことを指摘している。明治神宮は明治天皇を祀ってはいてもそこに遺骨(や遺体)はない。逆に言うと、遺骨や遺体があればそこは神社たりえないのではないかという。当初は慰霊の施設でも、いったん神とされてしまうと何らかの霊威があるものとされ、祈願の対象ともなった。そしてそういうことを期待して、人を神に祀ろうとする利害関係者もいた。

次に他界観の検討で、面白い事例が提示される。同じような海辺にある半農半漁の村でも、死後は海の彼方に魂を送るとしている場所と、山の方に死者の世界の入り口があると観念されている場所の両方が見いだせるというのだ。これについて著者は日本人の他界観は「そう単純な画一的なものではない(p.291)」といい、他界観は「それぞれの地域社会ごとに、伝統的な生活の蓄積の中で形成されてきている(同)」という。この指摘は重要だ。つまり、他界観については正統的教義がない(または弱い)というのが日本の特徴だということなのである。もちろん仏教では六道輪廻とか浄土とか様々に死後の世界を喧伝したが、こうした死後イメージは日本人の他界観に全面的には受け入れられていないのは間違いない

また各地には怪物退治と人身御供の伝説が大量に残っている。どうやら日本人の他界イメージは怖ろしいものであるらしい。もしくは日本人の神のイメージが生贄を求める怪物的なものであったのかもしれない。

さらに一の谷墓地での調査結果が簡単に触れられ、中世から近世への墓地の変遷が概括される。一の谷墓地は、鎌倉から戦国までの長い間、見付の町(静岡県磐田市)の墓地としてあらゆる階層の人々が葬られた場所である。これは町の中にあるのではなく、町の後背地にある。豊後国の大友氏は町の中に墓を作ることを禁じているが、一の谷墓地にも同様の事情があったのかもしれない。ただし、大友氏が府中への墓所を作ることを禁じているということは、実際にはそうする人がいたことを意味する。一般の人にとって町中に墓地を作ることは自然なことだったが、権力者にとっては都合が悪かったことになる。また見付の町には多くの寺院があったが、それらの寺院は葬送や死者供養にはかかわっていなかったと見られる。墓地に隣接した護世寺(浄土宗)だけがその役割を担っていたようだ。近世になると見付の町にある各宗派の寺院に境内墓地がつくられるようになり一の谷墓地は廃絶した。

最後に、昔話「三枚のお札」をキーにして、日本人の心性において便所に妙な存在感があることを指摘している。

最初に述べたように、この本はやや古く、ケガレ概念の扱いなどは現代から見ると脇が甘いような気がする。日本人の葬儀の思想を解明しようとするよりは、わかっていることをまとめてその後の議論の土台を作っているような本である。ただし最後の「三枚のお札」の考察は毛色が違い、葬儀とは直接の関係はないながら、子供の遊び歌などから異界観を探っていく手法はより幅広く展開できる可能性を感じた。

また全体を通じて特に注意を引いたのが、近世における位牌の存在感の大きさである。位牌こそが近世での死の儀礼の中心だったのかもしれない。

ちなみに、本書には著者がその後取り組むことになる研究テーマの多くが萌芽的に表れているように思われる。特に、葬儀そのものよりその背景にある他界観に注目していることは著者の独自性であり興味を引いた。

葬儀と他界観を合わせて考察した先駆的論考。

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2026年2月6日金曜日

『成熟する江戸(日本の歴史17)』吉田 伸之 著

江戸の町を3つのテーマで語る本。

本書は、講談社「日本の歴史」の一冊である。こういう本は対象とする時代の概説を行うものであるが、本書はそういう常識に当てはまらない。著者自身が「民衆世界の細部を精緻に描写することを基軸とした全体史の構想(p.354)」というとおり、類書では全く扱われないような細かいことが延々と続き、私には疎い分野が多かったので正直通読に苦労した。著者の通史に対するスタンスは第1章に詳述されているが、アナール派の史観に影響を受けているようだ。

著者が近世江戸を見る基本的なスタンスは分節構造である。すなわち、一極集中的な権力とそれに従う人々というのではなく、様々なレベルで権力を分有する諸団体が重層的に重なり合って社会が成立していたとする。

そしてその「権力を分有する諸団体」を著者は社会的権力」と呼ぶ。それは自然発生的なものであったり、幕府が公認したものであったりした。特に幕府が公認するかどうかがキーになっているのは言うまでもない。そして社会的権力の在り方が社会そのものの在り方を規定した、というのが著者の考えである。

第1章は、江戸時代中期の政治史と社会構造の概説である。江戸時代の町や村は法人的な自治組織であり、全国に6万3千の村と1万の町があったと推計されている。さらに、町や村という地縁的組織とは別に、「職種・機能などをめぐる社会的な結合、あるいは協同組織(p.35)」が存在した。そしてこうした組織の設立が幕府によって推奨された時期もあった。享保6年(1721)には江戸の町で96の職種について商人や職人の組合をつくるよう町奉行所が命じている。ここで、町(地縁)を基礎に支配する従来のやり方から変節しているのである。

これは村でも同様だ。農村でも農間渡世とか作間稼ぎの名目で多様な商売が展開され、職種ごとに共同組織が生み出された。こういう共同組織が社会的権力なのである。

本書では『熙代勝覧』という絵巻物を考察の入り口とする。『熙代勝覧』はベルリン国立東洋美術館に所蔵されている12メートルの絵巻物で、作者は未詳、制作年代は文化・文政年間(1804~30)と見られる。ここでは神田から日本橋に至る700メートルの街並みが連続して精緻に描かれており、店舗、路上販売者、行きかう人々が画面いっぱいに溢れ、そこには按摩・虚無僧・芸能者・神官・僧侶などの姿も含まれる。この絵巻物に登場するものを丁寧に読み込んでいくのが本書の方法論である。

なお、本書の読解で肝心なところは、社会的権力の動向がどう全体史に接続されるのかだが、私にはそれを把握する力量がなく、正直なところ個別事項の羅列以上の理解ができていない。そんなわけで、一知半解もいいところだが以下わかる範囲でメモを書いておきたい。

「第2章 社会的権力―豪商と町」では、社会的権力について改めて規定され、その事例として三井が取り上げられる。

社会的権力とは、「支配権力とは別に、生産や流通、武力や知識などを独占することで、周辺の地域社会に対して私的な支配力を及ぼす社会層」(著者の説明を要約)である。例えば在地社会(農村)では、豪農がそれにあたる。幕府は当初質流れなどで土地が集積されるのを嫌ったが、享保改革では一転してこれが容認されて質地の集積が進み、幕府は豪農を支配機構の末端に組み込んでいった。

町の場合のそういう存在が「大店(おおだな)」だ。大店とは、だいたい間口が4~5間(7~9メートル)、ほぼ10人以上の奉公人を抱え、抱屋敷(本店や居住地と別の土地)を持つ地主で、「出入中(でいりじゅう)」という集団を従属下においている有力町人をいう。そしてこの代表が三井だ。著者は三井を「超大店」と表現している。本章では、三井がどう支配的な立場を確立していったかがこれでもかというくらい詳述されているが、ポイントのみ述べる。

三井は近江にルーツを持つ一族で、武士から町人に自主的に変わった家系であった。江戸に支店を持ち、京都から仕入れた品を江戸で販売し、呉服屋としては後発であったが急成長した。その急成長を他の呉服屋は快く思わず、三井を流通から締め出すという営業妨害をしたものの、三井は江戸の店を引越しさせて対抗し、「現金掛け値なし」の画期的な販売方式によって売り上げを伸ばした。さらには両替商としても成長し、その原資で土地を次々と購入して地主となった。その基盤によって幕府の御用商人となり、「呉服屋と両替店という二つの営業部門それぞれにおいて幕府の御用を勤めるという、類例のない特権的な商人としての地位(p.90)」が確立した。

その本店は我々が考える三井のイメージとは全く違う。三井本店ではそれぞれ半独立した売り場が10~20展開していたのである。これらは三井の手代やその見習の子供が切り盛りしていた。三井は、単一の商売ではなく、本店の中で小規模な小売店をそれぞれ競争させるというテナント業的な経営を行っていた。

この経営を支えたのが京都店での仕入れである。三井は江戸と同時期に京都に進出したが、そのころの京都の町は零細な家持=小町人で構成されていた。しかし平和な時代が続いて京都の土地は値上がりし、結果的に零細な商人が締め出されて有力商人に寡占されていった。しかもそういう有力商人は他所から来た新しい町人だった(三井もその一例だ)。

ところで、こういう超大店の三井本店がどんな巨大な店だったのかというと、本書に明確には書いていないが、間口を足し合わせると21間の店だったようだ。つまり間口38メートルくらいということになる。確かに江戸時代の店舗としては度外れて巨大であるが、現代のショッピングモールと比べたらずっと小さい。当時は徒歩での移動であるから、商圏がそれほど大きくなく、店のサイズは自然と制約された。そんな中で、江戸城の需要を賄ったことが三井の発展にとって大きかったことは容易に想像できる。江戸城は狭い範囲に1万人くらいの人が働いていたし、呉服の需要も大きかった。三井が江戸城の呉服の御用(元方=将軍方の需要、払方=大名・旗本に下賜する品)を獲得したのは1680年代で、両替の御用が1690年代である。御用を獲得するためのコストがどうであったのか記述はないが、1700年代の三井の発展は御用を抜きにしては考えられない。

「第3章 身分的周縁―勧進と芸能」では、「願人」「乞胸(ごうむね)」を中心にして身分的周縁の問題が扱われる。

身分的周縁とは、武士や農民といった固定的身分とは別に、流動的に存在した商人・日用・乞食=勧進層・芸能者などのことをいう(著者の説明を要約)。ここで商人も入っているのが面白い。商人は土地を媒介せず、領域的支配権力によって人身が緊縛されないから身分的周縁なのだ。

日用(ひよう)はその日暮らしのフリーターである。彼らは人宿(ひとやど)とよばれる周旋業者によって仕事についたが、そういう業者も共同組織を形成していた。この浮動層を幕府は快く思わず、人返しの法などで抑制しようとしたがうまくいかず、江戸時代後期は彼らの存在は社会問題化する。乞食=勧進層は他者からの施しを得て生活する者で、代表的なものは非人である。非人は非人で共同組織を形成し、清掃・行刑などの負担をし、村や町に雇用されて番人を務め、非人の取り締まりを行った(…と本書にはあるが、非人はその職務への対価を受け取っていたので乞食や勧進とは違うように思った)。芸能者は、勧進層から派生して生まれ、喜捨を得るための見世物としての芸能に特化していった者たちである。

こうした社会的周縁のものたちの中でも、最下層にあたるのが「願人」と「乞胸」だ。

「願人」とは願人坊主ともいう乞食僧である。彼らは5、6人でチームを組み、住吉踊りをしたり、ふざけた口上を述べたりして楽しませ喜捨を受けた。そしてその一部は判物(はんじもの)という謎かけのような刷り物を配り、午後になると「先刻あげましたる考えもの」などといって代金を請求した。本書には詳らかでないが、謎がわからないと金を払う必要があり、逆に謎が解けたらお金がもらえるというゲーム的・賭博な要素もあったようだ。これは多くの人にとって迷惑だったので、江戸では享保4年(1729)に「違法な行為を行う願人はその身を願人の頭にあずけることとする」という町触れを出している。ここで町奉行なりが直接処罰するのではなく、身柄を「願人の頭」にあずけるという処置が極めて近世的である。

「願人の頭」の元締めの一つが、京都の鞍馬寺の塔頭、大蔵院と円光院である。この二つの塔頭は江戸触頭を置いて願人を支配したらしい。いつから触頭が置かれたのかははっきりしないが天和年間(1681~83)には確認できる。これは本山派修験で触頭が置かれたのと同時期だ。

ここで面白い事例が紹介されている。「禅門坊主が本寺もないのに勧進のため徘徊して迷惑している」と願人が寺社奉行所に訴えているのである。やっていることは願人と禅門坊主=乞食では変わらないのだが、寺社奉行はこの訴えを認め「願人に紛らわしい行いをするものは願人の支配下に置くこと」などと裁許している。ここにも近世的人身把握の特質が窺える。幕府は、ある種の行動を特定の集団に排他的に認めることで、社会的に把捉されない人間(ここでいう禅門坊主)の発生を防止したのである。つまり幕府にとってフラフラしている人間は好ましくなく、かならず中間団体に所属させようとした。

そして中間団体にとってもこの政策は好都合だった。大蔵院の場合は、判物料(銭50文)と一人当たり半年につき銭300文の礼銭が江戸触頭を通じて上納された。要するに大蔵院は、願人の身元引受人になることで利益を得ていたのである。そしてこの組織で役人をしていた願人は、平願人から上納されるお金の上前を撥ねることで生活していたと思われる。

では願人の実態はいかなるものであったか。出家・社人・山伏・修験・神職は町家に居住することが禁じられていたが(天保13年の触れ)、陰陽師・普化僧・道心者・尼僧・行人・神事・舞太夫・願人は裏店に居住することが許されていた。そんなわけで彼らはいろんなところに住んでいた。もちろん場末に集住してはいたが、三井が地主をしていた場所(橋本町)にもいた。また本筋とは関係ないが面白いのは、旗本が拝領した屋敷(土地)を地借りや店借に賃貸して、その経営を家守にゆだねて地代・店賃を収入の足しにしていたことである。武家地に町人が住んでいたのと、旗本が地主化しているのが興味深い。また願人の役人層は、木賃宿(ぐれ宿)を経営していた。

願人は最下層といっても現代のホームレスとは少し違う。彼らには組織があり、その組織には配下の者を勧進に廻らせるテリトリーと木賃宿の営業権などを持っていた。そしてその組織における役員にはそれなりのうまみがあって、組織内では主導権争いが行われていた。ちなみに彼らの名前は、〇〇→××房→△△坊 と昇進したようである(この名前の変化が、漢字が読めないと意味がないものであることは気になる)。願人の触頭の一人であった良山は本山に「法師僧正」という位を申請している(却下された)。その申請の口上で面白いのは、願人は「修験同様」だと主張している点である。これは願人の在り方から修験の在り方を想像させる事例として興味深い。

しかし安政大地震後、勧進がうまくいかなくなり彼らは日雇で稼ぐようになって(と彼らは言うがそれを額面通り受け取っていいのか不明。単に日雇の単価が上昇して勧進より稼げるようになっただけのようにも見える)、元治元年(1864)以降、大蔵院に上納を納めることはなくなり明治維新を迎えている。そして明治後は、ぐれ宿が貧民窟になったという。

次に取り上げられるのが乞胸である。乞胸は江戸に特有の下級芸能者で、浄瑠璃や物真似など12種の芸能を行い、天保13年(1842)には749人いた。彼らの芸は、いわば浅草演芸場の前座で行われるような雑多で卑俗なものだったようである。彼らは乞胸頭(仁太夫)から鑑札をもらって「営業」していた。そして家業の上では非人頭の善七の支配を受けた。つまり人別帳には町人として搭載されつつも、別途非人の名前帳にも報告された。この点は重要である。善七の支配下にあるのは「非人」だが、乞胸は「家業の上」でしか善七の支配を受けず身分は町人なみなのだ。つまり乞胸の在り方は近世的な身分支配から逸脱しているのである。「乞胸」は名実ともに身分ではないのだ。

そして仁太夫は、寺社など(←この「など」が重要)で芸をして渡世をするものを乞胸として組み入れようとした(寺社の境内で芸をする場合は寺社奉行の管轄で、乞胸の居所である町とは支配が違う)。これは当然、鑑札の見返りに金銭を得ていたからに他ならない。そして当然、そういう芸人はこの一種のみかじめ料を払うことを嫌い、寺社内に逃げ込んで乞胸の手を逃れようとした。しかし理屈の上では、12種の芸能を行う存在として組織があった乞胸の方が、勝手に芸をしている者たちより立場が強かったのは言うまでもない。彼らは町奉行の後ろ盾を得て、そういう勝手な芸能者を配下に組み込んでいった。乞胸はいわば仮想的な「身分」なのだ。

ここで本章では、江戸における芝居の在り方、劇場への規制などを詳述しており、いかに江戸の町や文化が規制によって出来上がったものであるか如実に物語っている。簡単に言うと、江戸では幕府公認の三座だけが常設の芝居小屋を持つことができ、それに準じる存在は寺社の境内地の屋根のない小屋で「晴天芝居」を日を限って開催した。さらに面白いのが、「芝居ではなく販売会(しかも歯磨き袋の!)の余興で芝居をしているという体」で営業しているものである(香具師芝居)。ところがこれが三座の芝居にも匹敵するかのような興行だったのである。彼らは明らかに規制の裏をかいていた。

こうした事情があったからか、乞胸を構成する12種の芸能は、それぞれが小集団を形成し、乞胸頭支配からの離脱と解放を求めるようになっていった。なにしろある芸能の小集団が「乞胸に包摂されるか、香具師にくみこまれるか、あるいは西国での説教者に組織されるかは、必ずしも自明ではない(p.237)」し、どの集団に包摂されるか、それともされないかでの損得は一概に言えなかったからだ。

なお、江戸時代後期には、新しいタイプの芸能が流行する。寄席(よせ)である。寄席には4つのルーツがあり、その一つが乞胸なのだが、それまでの興行と違うのは芝居地とか寺社の境内ではなく、町屋の中で行われる点である。乞胸頭にとって、乞胸以外の3つのルーツの寄席は自らの中に取り込んでいくべき存在であった。そこで乞胸頭は彼らに営業を認める代わりに礼銭(みかじめ料)を請求しようとしたがうまくいかず、その世話人(会場)から「相応の心付」をもらっていた。それは苦肉の策ではあったが、それにしても世話人からいくばくかのお金を徴収できたことに、近世的身分の特質が現れている。寄席が乞胸のテリトリーであることは公認されていたのである。

こんな中、天保13年(1842)、寄席に対する大弾圧が実行された。江戸に238か所あった寄席の大半をつぶし、「古くからある寺社境内の分9カ所、町人地(中略)の計30カ所を残存させて、そこでは神道講釈・心学・軍書講談・昔咄し(p.235)」のみが許された。本筋とは関係ないが、この「神道」「心学」「軍書」「昔咄(≒歴史)」なる演目の組み合わせは極めて興味深い。この弾圧は結局うまくいかず、翌年には演目が限定されつつも寄席は「勝手次第」となった(もちろん演目の限定もすぐに形無しになった)。

乞胸の在り方は、近世的な「身分」の変節を暗示している。元来の「身分」は職能と一体化したもので、幕府による人身掌握と密接にかかわっていた。そのために「身元引受人」を公認して集団の特権を認め、また集団の内部をその支配に委ねていたのである。しかし乞胸はそういう近世的身分の特質を持っていない。にもかかわらず興行の特権は幕府から公認を受けていた。乞胸を公認することで幕府(町奉行)が得るメリットは何なのか? どうもそれがよくわからない。私には、乞胸は幕府の身分支配の仕組みの裏をかいて利益を得ていたように思われる

「第4章 市場に集う人々」では、野菜市場と魚市場を中心とした小経営者たちの姿が詳述される。

本章は、私の特に疎い分野であるので、簡略にメモする。現代の野菜流通では、市場が設立されてそこに仲買が登録され競りに参加し、仲買から小売りが商品を買うという仕組みになっているが、江戸時代にもこれと似たような仕組みがあった。地方からの物品は問屋(といや)が集荷して江戸に運び、それが仲買に委託販売され(手数料は約5%。現代の市場とほぼ同じ!)、仲買が小売に売っていた。ポイントは、現代のような市場(いちば)が江戸時代にはなく、問屋が集荷・運送・元売り(正確には産地からの委託販売)を特権的に担っていたということである。そして問屋が集中している領域が青物市場なのである(なので「市場」といっても現代とは言葉の意味が違う)。

想像がつくように、幕府は問屋(正確には問屋の組合=組)の存在を公許して市場を間接的に支配した。そして問屋が担ったのが江戸城への物品の納入(=御用)である。ところが江戸城には相場よりも低い価格で納品しなくてはならず、その差額は問屋が負担した。つまり問屋は存在を認めてもらうかわりに江戸城への見えない負担金が課されていた。

また野菜・果物一般とは別に特別な納入品目があり、その一つが薩摩芋だった。薩摩芋をめぐる産地と問屋との諍いが本書に詳述されており興味深い。薩摩芋が特殊だったのは、産地が問屋を通さず販売しようとしたという点で、それは薩摩芋が庶民の主食だったためにその重要性が大きく、産地の力が強かったということのようだ。

魚市場でも事情は似ている。しかし魚の場合は、幕府は組の独占を公認していたいたものの、従来の組の独占による弊害を除くために幕府により新たな組(新肴場)が設立されているのが注目される。これは従来の組が手数料を5%から6%に引き上げたのに反発した浜方(漁師)が江戸への直販を求めて幕府に直訴したことを受けて行われたものである。魚市場の場合でも幕府は江戸城の御用を組に負わせていたいたのであるが、このような政策によって魚が安くなるという目論見があったらしい。冷蔵設備のなかった時代、鮮魚は高級品であり、特に将軍の毎日の食事になった鯛はそうだった。野菜と違って、魚の購入は江戸城の負担になっていたということのようだ。

そして問屋は、仕入れを独占するために多額の前貸し金(敷金)を納入していた。公儀の公認によって問屋になったというより、この敷金が独占の根拠だとすると、幕府にとって問屋を保護する必要がなく、むしろ競争があった方が好都合だったのかもしれない。どうも野菜市場とは違う様相が見て取れる。

さらには、仲買の方も野菜とは少し違う。魚市場の仲買場所(板舟という)も細かく区分けされて小商人の競争が行われていた…のが、なんと次第に板舟は少数の商人に寡占された。というより板舟の権利を持つものが地主化し、それが板舟権を持たないものに賃貸されていたのである。これはある意味、公正な競争が行われた結果のように見える。

ここで本章では、日本橋近くの安針町で、武蔵国の豪農が町屋敷を地代収入を目的に購入した事例が紹介されていて興味深い。この豪農は板舟を設置する権利も購入し、仲買に町屋敷を貸して収入を得ていた。もはや土地を基準とした人身掌握が不可能になっていた様子が明らかである。幕府から公許を得た中間団体が力を持ち、それを通じて人身を掌握するという政策では、個人が実力(市場原理)で「社会的権力」になってしまうと、幕府はこれを掌握することができないのである。

そしてこういう個人を、中間団体が快く思わないのはいうまでもない。凋落しつつある中間団体は個人が勝手に営業することの規制を公儀に求め、そこから逃れようとする人々との間で縄張り争いが繰り広げられた。例えば家守(いえもり)と魚問屋と零細な出商人はその利益をめぐって対立していた。家守とは、地主から物件の管理を委託された人のことをいう(現実にその物件を利用している者は店借り)。要するに、家守は地主の代理人である。零細な出商人は規制を真面目に守らずに逸脱的に商売を行い、家守はそういう勝手な真似をされると既得権益が犯されるために町奉行にその取り締まりを訴え、魚問屋は旧来のシステムを守るために四苦八苦していた。旧来のシステムが守られることで利益を得る点では魚問屋と家守は共通だったが、家守は実働はせず、市場から得られる地代収入だけが目的だったのが違った。

幕末の安政6年(1859)、南町奉行所に7組の魚市場関係者約二千人が押しかけた。逸脱的な魚商売を取り締まれという徒党行為であった。彼らの訴えは一部認められたが、雑魚(庶民向けの魚)を専ら取り扱う新たな魚市場の新設という結果ももたらした。幕府は問屋の独占を認めてはいたが、全魚種での独占を守ることはせず、雑魚についてはかえって問屋外での取引を公認したのである。「7組による鮮魚流通の独占態勢は、18世紀が確立期であり、19世紀に入ると中頃までにはその独占が破られる新たな動きがいろいろな形で出てくる。(中略)そしてあいも変わらず厖大な奢侈的消費を続ける江戸城の御用は、7組の存立にとってもはや最悪の桎梏でしかなくなって(p.325)」いった。

ここでは、18世紀の御用がうまみがあるものだったのに比べ、19世紀の御用は単なる負担でしかなくなっている様子が見て取れる。もちろん三井と魚市場を単純に比べることはできない。だが江戸城という巨大な市場が19世紀には支配的でなくなっているということだけは間違いない。それは市民社会の成長・成熟を示唆しているのである。

「第5章 江戸の小宇宙」では、江戸橋広小路に展開した商売の在り方について述べ、近世の民衆世界の到達点について概括を行っている。

江戸橋広小路=四日市は、町が管理する空き地である。この空き地には時限的な小商売や遊興の場が展開し、町はそこから地代を徴収した。それは単なる場所貸しの土地だったのではなく、様々な利権が重層的に設定されていた。それは役割分担と棲み分けと競争の綯い交ぜになったものだった。江戸橋広小路は近世の商業社会の縮図かもしれない。18世紀は、「世界史と本格的に出会う前の到達点(p.358)」なのである。

本書全体を通じて、私は近世的身分の在り方に着目したが、これは本書の問題意識ではない。本書は民衆世界において様々なレベルで権力を分有する諸団体がいかに重層的に重なり合っていたかを克明に描くものだからである。しかしその諸団体が、どうして団体たりえたのかが私の関心事項である。以下、すでに述べたところと重なる部分もあるが本書を読みながら考えたことをスケッチしてみよう。

近世初期において、幕府は町や村という土地(とその領主権力)を通じて人身を把捉した。その要諦は、町に住む町人、村に住む農民といった調子で、職能と身分と居住地が三位一体で設定されたことにあったと思われる。

ところが商人や勧進層のような土地にとらわれないものが蔟生すると、それをとりまとめる中間団体を積極的に育成して、その中間団体を通じて人身を掌握した。職能・身分・居住地の三位一体が崩れたことを受けて、自然と基礎となったのが職能と身分である。幕府は中間団体にある種の職能を排他的に認めてその集団内の統治を委ねた。ところが身分はこれと完全には連動していなかった。町に住み、町の人別帳に搭載されれば、所属している中間団体にかかわらず身分としては町人だからだ。これは幕府にとっても意図せざる結果であったに違いない。身分は町人でも乞胸の名前帳に載っているなら、乞胸として扱うべきなのだろうか、それともあくまで町人なのだろうか。人身把握が複線化することで、当人にもそれが曖昧になり、身分というものが有効に機能しなくなっていったように思われる。

さらに競争の結果、豪農とか大店のような、中間団体とは別の面で社会的権力を行使できる存在が現れた。こういう事情から、中間団体を通じて人身を掌握する政策が有効でなくなった。幕府は中間団体を尊重する政策を惰性的に続けるが、その意味は低減していったように思われる。そしてもう一つ困ったことは、豪農とか大店は蓄えた財力を使って地主化したということである。武蔵国の豪農が江戸の町屋敷を所有し、そこから地代を徴収した。あるいは、武家地にある旗本の拝領屋敷が分割されて町家となり、そこには町人が住んだ。こうした事例で窺えるとおり、村とか町のような縦割りでは実態がわからなくなっていた。にもかかわらず、相も変わらず人別帳は町や村といった地縁団体によって作成され、形式的には江戸の町は武家地・寺社地・町人地の3種に分かれていた。人と土地の管理形態が現状にそぐわないものになっていたことは明らかだ。はっきりと社会問題になっていたわけではないが、それが19世紀初頭の江戸が抱えていた病魔だったようである。

江戸の町を詳しく描くことで、18世紀の社会の実態を考える労作。

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2025年12月21日日曜日

『図説 死の文化史―ひとは死をどのように生きたか』フィリップ・アリエス著、福井 憲彦 訳

ヨーロッパで人々が死をどう表現してきたか述べる本。

著者のフィリップ・アリエスは、アナール派の歴史家である。彼は熱帯植物の研究所に入り、その後開発途上国向けの技術協力研究所となったその研究所に37年間在籍した技術者であった。アリエスは本業でもそれなりの業績を残したらしいが、自ら「日曜歴史家」を標榜して、本業の傍らで歴史研究に打ち込んだ。代表的な著作として『〈子供〉の誕生―アンシャン・レジーム期の子供と家族生活』(杉山光信・杉山恵美子 訳)がある。

本書『図説 死の文化史』がいかなる本であるかは、アリエスのもう一つの主著『死を前にした人間』(成瀬駒男 訳)から説明する必要がある。彼は1950年代に図像と文学作品の中で子供がどう表現されてきたかを研究し『〈子供〉の誕生』を執筆した後、弟の死から感じてきた死への尊崇の念について研究することを決意した。彼は遺言書や墓碑銘を収集して、哲学や神学の観点ではなく、テクストに基づいて人々が死をどう表現してきたかに取り組み、1976年に8か月、W・ウィルソン国際学術センターの特別研究員になった時、一気呵成に書き上げたのが『死を前にした人間』である。その方法論は、「均質的資料の量的分析(墓の形態、地形、墓碑銘、奉納額などへの統計的方法の適用)とは対照的なもの、すなわち様々な非均質的資料から集団的感性の無意識の表現を解読する方法(『死を前にした人間』訳者あとがきp.582)」であった。

アリエスは多くの文学作品で、人が死ぬ場面(やそれにまつわる場面)がどう描かれているか、絵画作品でどう死や死体が描かれているか紐解き、ヨーロッパにおいて人が死をどう捉えてきたかまとめたのである。これは原著で650ページ、日本語訳で2段組み580ページもある大著だ。なお、この『死を前にした人間』も手元にあるが、これを読むには私のヨーロッパ文化の前提知識が足りないのでまだ読んでいない(最初だけ読んだ)。ともかくこの著作により、アリエスはヨーロッパにおいて人々の死への感性と葬送儀礼が大きく変化してきたことを、キリスト教の教えをほとんど援用せずに(!)説明した。まさにそれはアナール派の考え方――国家の動きとは無関係に社会は変化していく、という社会と歴史の見方を死について応用したものであり、アナール派の巨頭リュシアン・フェーヴルがいう「心性史」の一つの実践であった。

この大著『死を前にした人間』には一つの図版もなかったのだが(ただし日本語訳には参考として口絵が掲載されている)、アリエスはこの執筆に先立って1940年代から墓・墓碑・教会の納骨堂・芸術作品などの図像を収集しており、『死を前にした人間』を5分の1ほどに圧縮して図像を中心として改めて死の受容や表現についてまとめたのが本書『図説 死の文化史(原題:死を前にした人間のイメージ)』なのである。よって、本書は『死を前にした人間』が前提となっている。ただし本書は単なる図版付きの前著の要約ではない。また、前著で提示した枠組み(「飼いならされた死」「己れの死」「遠くて近い死」「汝の死」「倒立した死」)は、本書ではそのままは受け継がれていない。このように、本書は『死を前にした人間』を図像の歴史によって修正し発展させたものであり、それが完成したのはアリエス自身の死のたった4か月前であった。

私が本書を読んで最も驚かされたのは、ヨーロッパ文化≒キリスト教文化では、死体を写実的に表現したいという観念が、古代から近代にいたるまで強固に持続してきた、ということである。アリエス自身は、そのことを当然と考えて何も指摘していないのだが、日本人の私からするとこれ自体が日本人とヨーロッパ人(といってもアリエスは東欧をほとんど無視しているが)の死に対する大きな違いを象徴していると思う。

日本文化において死が表現されている図像作品というと、例えば中世の『餓鬼草子』があるがこれはかなり例外的なものだし、『一遍上人絵伝』のような作品では死も描かれるがそれはストーリーの構成上控えめに描かれているだけだ。文学作品では、どのように死を迎えたか、辞世の句は、といった死の表現は豊富であるにもかかわらず、図像となると日本の場合は死や死体を直接に描くということは少ない。この日欧の心性の違いは何に起因するのか、極めて興味深い。

「第1章 墓地と教会」では、古代から16世紀あたりまでの墓地が概観される。

本書が対象とするのはキリスト教世界である。ローマ帝国がキリスト教化した頃には、墓地は都市の外の街道筋に設けられていた。墓は都市から遠ざけられ、また貧しい人々は市外の捨て場のようなところに葬られたと考えられる。ところが紀元後2-3世紀頃に都市の中に墓地が出現する。それらは、(日本でいうところの)甕棺墓とか、整然とした地下の納骨堂(ローマのヴィニア・コディーニにある)のようなものだ。一方、4世紀頃には農村に墓地が出現する。畑の中(しばしば小高い場所)に、居住地から離れて集団的な墓地が設けられたのである。これまたアリエスは指摘していないが、すでにこの時期に家族ごとなどではなく、個人の墓がずらずらと並べられていることに日本との大きな違いを感じる。そして石棺の向きが整然と揃えられていることには、深い意味があるに違いない。アリエスはそれを「ひとつの世界イメージをあらわしているようにみえる(p.19)」という。

こうした墓地文化に決定的な影響を与えたのが聖人の存在であった。聖人の墓も当初は市外にあったが、聖人崇拝の高まりの中で聖人の墓が聖地と見なされて参拝されるようになり、そこに教会が建てられていった。元来キリスト教の教会に墓地の機能はなかったが、こうして教会に墓が付属するようになったのである。こうした教会墓地の発掘資料(5-6世紀)を見ると、そこには立派な(ほとんど定型化されていたと思われる、大きさの揃った)石棺がギチギチに並べられていて壮観でさえある。木棺ではなく石棺だったのか、木棺もあったが朽ちてしまったのかは本書からはわからないが、この頃の墓には石棺が本質的に重要だったことが窺える(それは死体を永久保存しようとする試みだったように思われる)。また重要な人物の石棺には入念な彫刻が施されていた。そして10から11世紀ごろには、すべての教会に墓が付属するようになった。日本で寺院に墓地が付属するようになったのはこの少し後だが、同じような歴史をたどっているのが面白い。

こうして教会墓地が都市内に設けられるようになった。具体的には、15-16世紀の墓地は教会に隣接した歩廊で囲まれた広場状の部分で、共同墓穴に遺体が何層にもわたって無秩序に積み重ねられて埋葬されていた。整然と石棺を並べた頃の墓地とは全く違うのだ。ここでは、墓に個人的な要素はなく、教会の敷地に埋葬されることだけが重要で、乱雑に死体が扱われていた。さらに面白いことに、新しい遺体を埋葬するために死体が定期的に掘り起こされ、その骨が納骨堂に乱雑に積み上げられたり、墓地の歩廊の上に芸術的に並べられたり(しかも個人ごとではなく骨の種類ごとにまとめて!)、装飾に使われたりした。 ナポリの納骨堂では整然としゃれこうべが並べられ、ブルターニュの納骨堂では骨が乱雑に投げ込まれていた。捨てることもできないからしょうがなく保管している、という感じである。これが16世紀までのヨーロッパの墓地であった。

「第2章 墓碑」では、再びアッピア街道の時代までさかのぼって墓碑が概観される。

整然とした石棺の墓地が設けられていたころ、墓碑も盛んに作られた。そうした墓碑は故人が何者であるか述べるとともに、しばしば故人の肖像があしらわれていた。個人のアイデンティティが重視されていたことは墓碑から見ても明らかだ。石棺にも碑文が刻まれていたり、または石棺が空の墓碑として使われたりすることもあった。後者はどういうことかというと、石棺が二段重ねになっていて、遺体が入っている下の段は埋められて見ることができないが、そのすぐ上の地上に空の石棺(つまりダミーの石棺)が乗せられて、ときに装飾が施されていた。これはあまり多くなかったものの、石棺が持つ意味を象徴する特異な事例である。つまり、石棺は元来は見えていることが重要だった。おそらく死体の存在を主張するためにだ。日本の中世ならば墓塔や供養塔が果たしている役割を、石棺が担っているのである。

ところが先述の通り、5世紀頃から墓から個人要素が希薄になると墓碑はなくなり、約5世紀にわたって姿を消した(!)。「これはまったく、とてつもない現象です(p.55)」。代わりに現れるのは十字架である。石棺の使用はいくつかの場所では13世紀まで続いたが、それらの石棺にも装飾や碑文はなく、教会の中にありさえすればよいという調子で、誰の石棺ともわからない状態となっていった。

この状況が変わったのは11世紀頃で、墓碑銘と似姿が造られるようになった。フランスの修道院長イザルズの墓碑は、長い碑文と故人が横臥している像が組み合わさったもので、これは後に広く製作された横臥像の初期の作例である。さらに13世紀末の教会参事会員エメリックの小さな墓碑は、その後の墓にかかわる図像の全てが詰め込まれている。それは、①死者の戸籍情報、②横臥像(死んでいるのか寝ているのかはともかくとして横たわった像)、③天使が魂を天上へ連れていく様子、④中心にいる父なる神(審判)、⑤祈禱像(故人が祈っている姿)で構成される(※)。11世紀頃、ただ教会に埋葬されればよく墓は匿名的なものだという意識から、故人の魂を昇天させ、それを長く記録に留めたいという意識に変わっていったようなのだ。そして墓碑は、「銘文つき墓碑」「横臥像の墓碑」「祈禱像の墓碑」の三系列によって構成されるようになった。これらの形態が普及したのは16世紀頃のようだ。普及に500年もかかっているのも面白い。

※アリエスはこの他に「⑥終末論的な要素」があるというが、私にはそれが具体的に何なのかわからなかった。

なお留意すべきことに、墓碑と墓(埋葬の位置)は必ずしも一致しなかった。墓碑はしばしば教会の内壁や外壁に据えられたが、埋葬は地下墓地であったりし、人々は死体の場所には無頓着であることが多かったように見える。また墓碑銘は最初は「修道士〇〇ここに横たわれり」といった簡素なものであったが、やがて長文になっていった。

「横臥像の墓碑」は、寝そべった姿の故人の彫像を墓碑とするものである。これは死んでいるのでも寝ているのでもなく、当初は明らかに立像が横倒しになったものであった(なぜ横倒しにしたのかは不詳)。なので横臥像ではなく立像の墓碑もある。本書に掲載されている13世紀から15世紀の横臥像の墓碑は、等身大で作られたとみられる大理石の立派な彫像で、かなり高位の人物であることは間違いないが、王族だらけとも限らず、騎士や宗教者でも作られている。また横臥像はしばしば石棺(や石棺に擬えられた石の台座)の上に表現されたが、例によってそこに死体が収納されていたわけではなかった。

さらに、アリエスは当然のこととして指摘していないが、この芸術作品のような横臥像には、しばしば作者の名前が刻まれているのに驚かされる。フィレンツェで1453年に死去したカルロ・マルスッピーニという人の横臥像の墓碑は、デジデリオ・ダ・セッティニャーノという人の「作品」である。この墓碑は、華麗な装飾が施された石棺を模した台座に、目をつぶった故人が横たわっており、墓碑ではなく芸術作品であると言われてもおかしくないものだ。日本でも、華麗な装飾を施した石塔の墓碑はあるが、これに石工の名が刻まれることは(絶対にないとはいわないが基本的に)なかった。墓碑の製作は彫刻家にとって「作品」を作るのと同様の仕事だったということになる。これも日欧の大きな違いであろう。

また、このマルスッピーニの横臥像は、明らかに立像ではなく横臥した彫像であり、さらには死んだ姿であると思われる。先述のとおり横臥像は最初は横倒しになった立像であったのだが、これがいつのまにか寝姿の像になり、死んだ姿を記録するもののようになっていった。ただし、これは死そのものを記録するというよりは、天に召された「至福者」の像であったというのがアリエスの考えだ(生きている時はまだ天に行っていないのだ)。

しかし15世紀以降、個人の死骸の表現は写実の度を増していった。1525年の傭兵隊長グイダレㇽロ・グイダレㇽリの横臥像は、恐ろしく写実的で完成度が高い。彼は明らかに昇天の至福に満ちているのではなく、死の苦痛に眉を顰めている。それにしても、非常な高位ではない人物が、高い完成度の芸術作品のような横臥像を製作されているのは、ルネサンス期の繁栄を考えても驚かされる。

ちなみに横臥像の墓碑は男性から興ったが、女性にも作られるようになり(それも読書する姿で!祈祷書なのだろう)、夫婦そろった横臥像墓碑も作られるようになった。それにしても16世紀の横臥像墓碑は、とんでもなく芸術的であり、技巧的だ。これらは教会から移動されることがないから日本人の目に触れることはほとんどないが、ヨーロッパの彫像史の重要な潮流になっているのは間違いない。

次に祈祷像とは、故人の立像が横臥している姿で祈りの体制をとっている像から始まり、横臥像とそれほどはっきりとは区別できなかったが、教会の壁面に据えられることが多かったという点に違いがあったのと、これは写実的な表現よりも、聖書のストーリーによって墓碑を(しばしば過剰に)装飾するという方向へ向かっていった。16世紀フランスの、城館の礼拝堂にある墓碑では、像の台座に「ラザロの蘇生」の場面が入念に浮き彫りされている。故人の記録や顕彰より、聖書物語の場面の方が中心になっているのである。ブルゴス大聖堂にある1536年の副司教ペドロ・デ・ビリェハスの墓碑は驚異的だ。大聖堂の壁に据えられた祈祷像の上方に、受胎告知からの場面が途方もない規模で彫刻され、その頂点には父なる神が据えられている。まるでロダンの「地獄の門」を髣髴とさせる壮大な墓碑なのだ。もはや墓碑は墓碑であることを超えて、天上の世界への入り口のような扱いになっている。

つまり、横臥像の系譜と祈禱像の系譜は、同じように横たわる人物という基本的デザインから出発したが、一方は死体の表現へと向かい、一方は昇天する魂の行き先(天国)の描写を含むより多様な表現を包摂する方へと向かった。そして横臥像の系譜は16世紀に途絶え、祈禱像の系譜が貧しい人の墓にも展開するようになるのである。そして、もはや祈禱像は横臥せず、合掌した祈りの姿勢をとって、昇天することをひたすら祈るようになった。17世紀のヴィルロワ大公廟には、一族が合掌して跪いている(おそらく等身大の)写実的な大理石彫刻がずらずら並んでいる。死してなお祈り続けているのである。

そして、もはやこの祈禱像は、墓碑であるというより、はっきりと故人の肖像を志向していた。そもそもそこに死体が埋葬されていなかったことは言うまでもない。であれば、それは墓碑であるよりも故人を記録し顕彰するための肖像彫刻であると考えるべきだ。そのため、彫刻家は、故人が生きている時に製作を準備したが、それができなかった場合、死後まもなく石膏で型を取って(→デスマスク)、それを元に彫刻がつくられた。こういう流れから、墓碑は死の瞬間の故人を固定するようなものになっていくのである。14世紀にはすでにそうした「作品」が散見される。つまり「死面」(死んだときの顔だけの彫刻作品)とか死者の胸像のようなものが造られたのである。これまた、日本的感覚からするとちょっと異様な墓碑の形態だ。生前の姿の肖像ではなく、死体の肖像が写実的に表現されるようになったのである。ただし先述の通り、本来は生きている間に肖像を準備するのが望ましかったので、墓碑は生前の姿と死体の姿という二系統が存在していた。だが生前の姿の系統の方は、(墓碑ではない)単なる肖像彫刻と区別がつかなくなり、やがて溶解していったように見える。ヴェネツィアのサンタ・マリア・ゾベニーゴ・オ・デル・ジーリオ教会の正面には、17世紀のバルバロ家の一族の生き生きとした彫刻が並んでいるが、これは墓碑であるという性格が希薄になっている。そしてこの17世紀の大きな像からなる墓碑は、横臥像から始まり祈禱像まで続いてきた一連の動きに終止符を打つものであった。

なお、一般の墓碑の大多数が、こうした高度な芸術性を持つものでなかったのはいうまでもない。大多数は平面の石板に銘文を刻む墓碑銘という形式を好み、そこには図像があしらわれることも多かったが、やはり浮彫りの費用がかさばったためか、大多数は文章の方が中心であった。そこには面白いことに、「教会には〇〇を遺贈し、その引き換えに永続的な回向を依頼する」というような契約の文面が広く見られた。しかもそこには、故人とその相続人と同資格で、公証人の名前が刻まれているのである! 故人は教会との契約に基づいて確かに天国へ召されたという証明書のごときものとして墓碑銘が刻まれたということになる。逆に言えば、それがなければ人々は天国に行けないものと観念していたのかもしれない。

「第3章 家から墓まで」では、人が死ぬときはどんな状況で、死んでからどう埋葬されたのかを絵画資料を基に述べている。ここでは、古代の資料はなく、中世(11世紀頃)から始まっており、ほとんどは14世紀以降だ。

14世紀、人が死ぬときには大勢の人が集まって、最後の罪の許しを請う儀式を行った。これは死にゆく人に長いロウソクを持たせて行うものらしい(後には、参列者の方が長いロウソクを持つように変わったようだ)。修道僧や高位聖職者の場合は、今わの際に教会に運ばれ、最後の聖餐と終油を受け、息を引き取った後に「最後の祈禱」を受けた。ともかく、人が死ぬときには聖職者が呼ばれ、告解とか聖体拝領とか、さまざまな儀式が行われたのである。そしてその場には聖職者だけでなく大勢の人が集まっていた。これまた驚くべきことに、この臨終の場面は画題として好まれ、芸術作品には様々な人の入滅の場面が描かれた。またこうした臨終の場面でなくても、死の間際はよく画題となった。有名なところでは、『ソクラテスの死』(ダヴィッド)、『聖母の死』(カラヴァッジォ)などが想起できる。これも日欧の違いを感じさせる事象だ。

そしてそれらの作品を見てみると、19世紀には司祭が描かれなくなっていることが注意される。「キリスト教的な死の荘厳な儀礼は、迷信的なものだと見なされ(p.164)」るようになったらしい。そして参列者の数も減っている。かつては大勢が死に立ち会ったが、もっとも近親で悲嘆にくれる親族のみに限定されるべきものとなっていった。アリエスはこれを「死の私化(p.165)」という。しかしながら、高貴な人から貧しい人まで、臨終の場面が大量に描かれたことを考えると、死が秘匿すべきものでなかったことだけは確かだ。(それにしても、貧民窟で死ぬ母親がどうして画題になったのか理解に苦しむ。誰がどこにその絵を飾ったのだろう⁉)

次に人が死んだ後について述べる。ここは時代が行ったり来たりしてわかりにくい。まず中世では、遺体は裸にされて屍衣という布によってくるまれ石棺に安置された。中世では屍衣をぴったりと縫い合わせて死体を覆っていた(顔も見えない)。13世紀頃に、死体が目に見えるのはよくないことだという風潮になったためらしい。また中世の半ばには木の棺が普及する(アリエスは強調していないが、これは大きな変化だ)。それでも屍衣の習慣は変わらなかった。ただし南ヨーロッパでは頭部だけは見えるようにされた。

遺体の葬送は、中世の初期ではかなり簡素だったらしく、それを描いたものは残っていない。聖職者とか高位の者が死んだ場合も特段の葬送行列はなかったらしい。一方で、埋葬には意味が付与されており、13世紀の墓にはしばしば副葬品が伴っている。盃や壺、水差しといったものが副葬品として出土しているが(何が入っていたのか不明)、不思議なことにこうしたものを埋葬することについて同時代の記録がない。おそらく知的エリートにとって不合理な習俗だったのであろう。なお、先に「人々は死体の場所には無頓着であることが多かった」と書いたが、それは全ヨーロッパ的な現象ではなかったようだ。

中世半ば以降には、徐々に葬送行列が儀礼化する。また都市においては、敬虔な俗信徒たちの団体(信心会とか兄弟団などと呼ばれる)は貧者たちを葬送する手伝いをしていたらしい。14~15世紀には大勢での葬送行列がありうべきものとして観念されていた。

そして徐々に、(少なくとも高位の人の場合は)死体は人々に示されるべきだと考えられるようになり、防腐処理が施されたり(内臓が腐りやすいので取り出すなど)、遺体の代わりの蝋人形のようなものが代わりに葬送行列で見せられたりした。こういう代理の像は言うまでもなく本人に似ている必要があったから、デス・マスクが取られるようになった。また中世末頃からは、葬送行列は土葬の前に教会の内部へゆくようになった。聖壇でミサをあげるためである。臨終の儀礼や埋葬の意義が退潮して、死後のミサの方が大事になっていったのである。

こうした変化に基づいて、16~18世紀では、死体の安置は(貴族を別にすれば)家の門口や通りにおいてなされていた。そして19世紀には全く新しい死の文化が登場することになる。

「第4章 あの世」では、あの世や死者の世界が中世以降にどう表現されてきたかを墓碑や芸術作品に基づいて述べている。

古代(カロリング朝)の人々は、死者の魂は天使に連れられて天国へ行く、とシンプルに考えていた。ところが中世になると、死者は天国へ行くのではなく、一種の待機場所に置かれ、キリストが解放してくれるのを待つと考えられるようになった。すなわち、死者の魂は「最後の審判」を受けるまで待機するというわけだ。「最後の審判」という観念は壮大に表現された(1335年ポルトガルのイネス・デ・カストロの墓碑を見よ!)。復活した死者は一人ひとりが人生の決算表を持って裁きを受け、悪しき行いをした人間は地獄に落ちることとなった。地獄はビザンツの宗教画ではつつましやかなものだったが、13-16世紀には厖大で雑多な世界へと発展する。

なお、待機場所の観念は14世紀に神学者たちによって否定され、死者の魂は直接に天国や地獄に行くように考えられるようになったらしい。ただし、待機場所の観念は公式には否定された後も長く影響を持ち続けた(後述)。16世紀には「最後の審判」は墓碑からは姿を消し、地獄がしばしば表現された。墓碑に地獄を表現するとはいったいいかなる心象なのか不思議だ。

15世紀に流行した『往生の術』という小さな印刷本には、人が死に直面した時に、誘惑するために、あるいは誘惑を妨害するために超自然的存在が取り囲む様子をありありと表現されており興味深い。そして死は生の終わりというより、一種の救済でもあった。最後の審判ではなく、死の瞬間に全生涯が清算され、それが神によって認められるというのが『往生の術』の死生観なのだ。

同じ時代、「主流とはいえない(p.240)」が、全く別の死の潮流があった。それは「マカーブル(おぞましい)」(死)と呼ばれており、その主人公は「トランジ」すなわち腐乱しつつある死体である。アラス(フランス)の旧サン=ヴァースト修道院にある15世紀の横臥像は衝撃的だ。骨と皮ばかりになって、体中に蛆が湧いているのだ。このような横臥像がなぜ製作されたのか理解に苦しむ。一体、この横臥像で表された人物はいかなる考えでこのようなおぞましい像で表現されたのだろう。ともかく、この潮流では、死は思い切りおぞましく表現され、絵画には死神がおどろおどろしく死体を取り囲んだ。この潮流は、14-15世紀のペスト禍が生み出したものと解釈されている。

少し時代が遡るが、11−12世紀にあの世観に大きな変化があった。それは煉獄の発見である。煉獄とは、地獄に落ちることはまぬかれるが、一定の罰を受けてから救済されるという場所である。これは先述の「待機場所」に取って替った。煉獄のイメージは長いこと表されなかったが(地獄っぽかったり天国っぽかったりして固定的イメージがなかった)、17世紀以降に爆発的に表現された。煉獄は、あの世ではあるが未だ天国や地獄には行っていないという意味で現世に近い。故人が煉獄にいるという観念によって、故人の魂をより身近に感じられたようだ。故人は、アイデンティティ(=精神や肉体)を保持したまま、いまだに存在し続けていると考えられたのだ。なお、煉獄はキリスト教の教義にはうまくはまらなかったのだが、民衆側が主体となってその観念が成長した。

本書には詳らかでないが、17世紀には横臥像にしろ往生術にしろ、あるいはトランジにしろ、死の表現は下火になったように見受けられる。それは、カトリックとプロテスタントの抗争が影響しているのかもしれないがよくわからない。ともかく、18世紀になるとそれまでの伝統的な死者の表現は影を潜め、ふたたび屍衣のヴェールに包まれた立像として表されるようになった。そして18-19世紀は死にまつわる豊かなイメージは姿を消し、不信仰を咎める教会プロパガンダ(壮大ではあるが個人的・個性的な要素が希薄でひたすらに教会への服従を喧伝する作品)が大量に表現されるようになった。

このような中、19世紀にあの世は「愛しあっていた者どうしが再会できる場だ(p.263)」という新しい観念が登場する。19世紀といえば、幽霊との交信術がまことしやかに研究されたが、人々は死者と再会することを求めていたのである。

「第5章 すべては空なり」では、16世紀から始まる死を芸術に表現する潮流について概観される。

それは「暴力と恐怖とセックスと(p.272)」が、生と死を媒介として混じりあったものである。この潮流では、おどろおどろしいトランジは、乾いた骸骨になって戯画化される。トランジは個別的死者であったが、この骸骨は抽象的な「死」を表すアイコンになっているように見受けられる。そして死神は骸骨によって表徴された。また若い娘と死(骸骨やトランジ)がエロティックに絡み合う絵画が制作されるようになった。若い娘の死が画題になるのはわかるとして、その陰部に手を伸ばすのが骸骨であるというのは今日的感性からすると全く腑に落ちない。

また死体や骸骨は、解剖学的な興味のまなざしを向けられるようになった。解剖の様子は画題となり、解剖標本も芸術作品のように扱われた。もしかしたら、学問的な興味にかこつけて、実はエロティックな興味が先行していたのかもしれない。ともかく、解剖学的に正確で戯画化された骸骨は、いわば「市民権」を得て、多くの芸術に登場した。「死を想え(メメント・モリ)」だけではその現象は説明できない。

17世紀後半、ローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ教会に設置された彫刻家ジョヴァンニ・バッティスタ・ジスレーニの墓碑は、上部に本人の肖像があるのに、下の方に骸骨になった本人の彫刻が安置されている。何のための骸骨なのだろうか。18世紀前半、ルクセンブルクの教会に納められた葬礼メダルでは、骸骨になった夫婦が抱き合った姿が表現されている。なぜ二人は骸骨で表現されなければならなかったのかこれまた不明だが、この作例からは骸骨の表現が広く受け入れられていたことが如実に窺える。

さらに骸骨は、天使のように羽を生やし、故人の魂を天に連れて行く表現もされるようになった。羽を生やした骸骨がキリスト教の教理の中でどう理解されたのか極めて興味深い。このように、骸骨が活躍する一方で、同時にあの世観は地殻変動を起こしつつあった。それを象徴するのが、1709年のローマの墓碑だ。それは夫婦の墓碑で、夫の彫像の下には「虚無(ニヒル)」と、妻の彫像の下には「闇(ウンブラ)」とだけ刻まれているのだ。もはや確固たる信仰は退潮していた。日常的なものの中に骸骨が置かれた静物画は、「空虚」なるジャンル名を以って呼ばれる。死はいつもそばにあるで、生ははかないのだ。

また骸骨そのもの(かつて教会の納骨堂に放り込まれていたもの)やミイラが、展示されるようになった。ローマのサンタ・マリア・デㇽラ・コンチェツィオーネ教会の地下礼拝堂(カプチン会のもの)は、18世紀におびただしい骸骨で装飾が施されている。特にイタリアではこのような顕示が長い間続いていたらしい。

これまでは骸骨の系譜であったが、再び16世紀に戻って別の系譜について述べる。それは、人の死体を写実的に表現するものである。第2章では写実的な死体が表現された墓碑を見たが、16世紀には絵画でも死体が好んで描かれた。故人を表現するにしても、生き生きとした姿ではなくなぜ死んだ姿を描くのか、不思議だ。特に17世紀の『死んだ子供』という絵画など、「どうせなら楽しく笑った子供のを絵を描いてもらったらよかったのに」と思ってしまう。アリエスはこうした作品を「家の室内にかけられるためのものだったにちがいありません(p.318)」というが、誰が好き好んで死体の絵を掛けたのかと思う。

17世紀には死体の写実性はさらに進み、絵画の中ではリアルな死が劇的に表現された。ルーベンスの『墓に納められる聖ステパノ』などはその際立った例である。19世紀には、死はもはや官能的に表現されている。これは日本で切腹が美化されているのと似たような部分がある。こうした動向を総括して、アリエスは「わたしたちの文化には16-17世紀の前後で、驚くほどの差異があることに、目を奪われます(p.331)」としているが、私にはその差異が明確にはわからなかった。ただ、やみくもに昇天を願うとか地獄を怖れるとかではなく、好奇のまなざしが「死」に注がれ、死にロマンが付与されるようになったようには感じられる。

「第6章 墓地の回帰」では、18世紀末から登場した新しい墓地のモデルについて述べている。

第1章では教会付属の墓地が述べられたが、一方で野外墓地もなかったわけではない。野外墓地で重要なアイコンになったのが十字架である。墓に十字架を立てるのは意外と古くメロヴィング朝からと考えられる(仮説としている)。そうした墓地では、墓石の上部に丸い枠の中に表現された十字架が刻まれていた。十字架に終末論的要素を付与するのは、元来のキリスト教の教義にはなく、「たぶん、キリスト教圏の神経中枢にあたる部分ではなく、孤立した、あるいは周辺的な地域(p.338)」に墓に十字架をあしらう習慣が続けられたと考えられる。

しかし墓石に十字架のみをあしらうことだけでは人々は満足せず、16世紀頃からは徐々に故人の個性を墓石に反映させるようになった。墓石自体が十字架型に加工されて、その内部に職人の道具が刻まれている、というような調子である。そして18世紀頃になると、農民や職人など、これまで個別的な墓を持てなかった人々が墓を建立するようになり、個性的でエネルギッシュな墓石が創作されるようになった。そして「墓碑が個人別で目に見えるようなものになっていったとき、それは十字架とはちがった形を、むしろ採ってゆきます。すなわち、頂点の部分が丸くなった長方形の墓標、という形(p.346)」になった。第2章で見た墓碑は全部が教会内部に設置されたものだったが、ここでは野外に設置される墓標に墓碑があしらわれるようになったことを述べている。墓標という小さな壁面に、十字架や、故人の立像や、故人の商売道具など様々なものが素朴に表現された。それらから感じるのは、「自分らしい墓石をつくりたい」という自己確認の欲求である。

そして18世紀に、水平状の墓石が現れる。さらに19世紀前半に「それまでは別々だった三つの要素(十字架、垂直に立った墓標、水平状の墓石)が接合され、(中略)一般的な型の墓がひとつのものとして形成された(p.354)」。先述のようにヨーロッパでは長く、墓碑の場所と遺体の埋葬場所は違ったが、この墓地では、遺体の場所を正確に表示するのが墓石の役割となり、埋葬場所を覆うために水平状の墓石が採用されたのである。これは野外墓地の場合であるが、教会に埋葬される場合も遺体は匿名的なものでなくなり、バラバラに遺骨を投げ込むようなやり方はもはやされなかった。遺骨は個人ごとに分けられて管理された。南欧では、「たんすの引き出しのような納棺用の蜂の巣状の小穴(p.361)」の教会墓地(納骨堂)が設けられることとなった。いわば墓地のマンションである。

そうでもしなくては個人の遺体を埋葬するには土地が足りなかったので、やがて墓地は郊外の風光明媚な場所に公園のように作られるようになった。それは、伝統的な宗教の墓地の在り方からは全く導き出せないものである。そして「生き残った人たちは、死によって引き離された人たちの墓を定期的に訪れるという、かつてはなかった習慣を、身につけ(p.367)」た。いうまでもなくキリスト教では年忌法要がないから墓参の習慣はこれまでなかったのである。なおこうした墓地は、ほどなく墓で埋め尽くされてしまい、また都市の膨張によって市街地へ吸収された。

「第7章 他者の死」では、19世紀以降の死生観が述べられる。

前章で述べたように、19世紀には墓は大激変を迎えた。そこには死生観の変化をも伴っていた。1815年にアメリカの女の子が学年末の実習課題で作った壁掛けの詩集は、それを象徴的に示している。それは「ABC…」と文字を刺繍する練習課題なのだが、そこに亡くなった兄弟の墓誌情報まで刺繍されているのだ。さらに、その時にはまだ死んでいなかった兄弟については、後に追加で刺繍された。現代人には「そんなことは子供むきのテーマではない(p.373)」と思うが、子供が練習課題で作ってしまうくらい、当時は普及したものであった。死者を記録し、追悼することは「残された者のつとめ」として受け取られた。

こうして現代まで続く「服喪の拡大」「想い出の崇拝」「墓地通いや墓参り」という死の習俗が出来上がった。アリエスはそう言っていないが、死は準備すべきものであるという観念が発達し、その手続きに沿って処理することに人々は美徳を見出していたように思われる。さらにその観念には、意外と信心・信仰が影響していないようなのも注目される。

そして死者との想い出を記録する、肖像や墓参の様子をあしらった小物(ペンダントとかブローチ)が誂えられ、さらに死後の肖像も盛んに描かれた。これは、第2章で見た死者の横臥像のリバイバルである。死産によって死後硬直した母子と悲嘆にくれる親族を描いた19世紀アメリカの絵は、死の想い出という観念の要諦を饒舌に物語っている。現代日本では、「こんなものをどこに飾るというのか」となりそうな画題が、当時は人気があった。19世紀末に写真が登場すると、死んだ子供の写真を(晴れ着を着せて)撮ることが人気となった。子供との楽しい想い出を記録するならばわかるが、死んだ子供の写真であるのがポイントだ。美化された想い出より、おどろおどろしくてもリアルな死に顔を記録することに意味があった。そもそも16世紀以前には子供の墓はなかったが、19世紀以後には子供の墓が一般的になったのも大きな変化だった。

もちろん写真や絵画だけでなく、上級の人々は手の込んだ彫刻を作った。それはさすがに死に姿ばかりでなかったが、死んだ子供を彫刻で表現することは愛情の表現でもあったに違いない。「19世紀の新しい墓地に立てられた墓は、悲愴感と想像力とにおいて、その先行者である17世紀バロックのものをしのいで(p.388)」いる。そしてこうした墓地での肖像彫刻は、やがて家族全員が表現されるようになった(犬まで含め!)。まったく集合写真のような墓碑彫刻が出来上がったのだ。もっとも、死んだ時の姿をリアルに記録する潮流はそれとは別に続いた。この二つの潮流が組み合わさって、死体と、それに寄り添う遺族をドラマチックに表現した墓碑もある。ジェノヴァの墓地にある1879年のラファエル・ピエノーヴィの墓碑彫刻はその驚異的な例だ。この彫刻では、若い女性が、ベッドに横たわる死んだ夫に語りかけている。二人の愛は、この墓碑によって永遠に記録されたのである。「19世紀の墓地は、いわば家族愛の博物館です(p.394)」。19世紀の人々は、故人がいかに家族から愛されていたかを劇的な表現で記録したがった。

もちろん、庶民の場合はそんなコストをかけられなかったが、墓石にレリーフをあしらうなどして家族愛を天真爛漫に表現した。それすらもできなかった人々は、集合写真で故人との想い出を記録した。写真は、一種の墓碑として扱われた

「第8章 そしていま」では、現代の死が扱われる。現代では、死は見せびらかすものではなくなり、家の私的な空間、あるいは病院でひっそりと処理される。もはや死は神との関係ではなく、単なる生の終わりであり、豊穣な(というよりも過剰な⁉)象徴性はそぎ落とされ、原初的なものへと回帰しているのかもしれない。

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本書は全体として、時代が行ったり来たりし、ヨーロッパの死の文化を一緒くたにしてまとめているので、文章は平易ではあるものの、なかなかわかりづらい。死の文化は、イタリアやスペインなどの南欧とフランス・ドイツ・イギリスにはやや差異があるようなので、2本立てにして語った方がわかりやすかったように思う。またテーマごとに語っているのは理解はしやすいが、テーマの内部でも編年的ではない記述となっているのがややこしい。要するにアリエスの筆はあっちに行ったりこっちに行ったりする。また、ヨーロッパの死の文化について疎い私には判断ができないのだが、なんとなく「つまみ食い」的な部分があるようにも感じる(本書は400ページ以上もある大著であるから「つまみ食い」というのは失礼だが)。

というような不備があるものの、本書はヨーロッパの死の文化を語る上で画期的なものであると私は思う。おそらく、本書に書かれていることの多くはヨーロッパでは常識的なことなのだろう。ところがそれを総合し、文化史として結実させたことに大きな意義を感じる。

また私は日本の死の文化に大きな関心を寄せているが、日欧の比較を行う上で本書は啓発的な価値が大きい。冒頭にも述べたが、ヨーロッパでは死を写実的に表現しようという流れがずっと続いていた。日本では死そのものを観念的に美化する方向へ向かったが、ヨーロッパでは死は肉体的でありおどろおどろしく表現された。特に鋭い違いを見せるのは、ヨーロッパではリアルな死体が好んで表現(彫刻・絵画・写真)されたということである。

では、なぜ死体はリアルに記録されたのか。実はアリエスは、「どうしてこうなったか」について本書ではごく簡潔にしか書いていない。しかもそれは象徴的な理由に留まり、その考察は埒外に置かれている。もしかしたらそれは前著『死を前にした人間』で展開されている可能性はあるが、どうやらそうではなく、意図的にそういう考察を排除している感じがする。少なくとも、本書ではキリスト教の教理の変遷についてほとんど説明していない。アリエスは、死に対する感性は、キリスト教がどう教えたかとは無関係に変遷したと考えているようだ。考察はともかくとして、死の文化がどうであったかを総合することに注力されているのが本書なのだ。

ところで、本書を読みながら日欧の違いを面白く感じた一方で、そこには巨大な共通性が横たわっていることも指摘せざるを得ない。それは、ヨーロッパ文化は一見キリスト教に支配されているように見えるが、実際のところ庶民はそこまで思想的に統制されていなかったことを示唆している。要するに庶民は、自分たちが自然と思える方法で死に向き合った。そしてそれは日欧でそれほどの違いはなかったのだ。庶民がつくった素朴でしかも個性的な墓は、そういう共通の心情をはっきりと伝えている。そこにキリスト教も仏教も関係ない。故人の魂を天国(や浄土)へ向かわせ、故人の戸籍情報を記録し、埋葬した場所を大切にするという心情は不変なのだ。

ヨーロッパの死の文化を図像によって総合的に述べた労作であり名著。

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