2026年4月6日月曜日

『ひとかけらの木片が教えてくれること 木材×科学×歴史』田鶴 寿弥子 著

木材解剖学に関するエッセイ。

著者は、木材(それはしばしば小さな木片である)の解剖学的特徴からその種を同定するという仕事(研究)を行っている。木片を薄くスライスして顕微鏡で観察するのが基本だが、文化財の調査では試料を採取できない場合も多い。その場合、自然に剥落した木片が使われることもある。ボロボロの状態であるためスライスができない場合は、Spring-8(放射光の施設)でそれを観察する。

そのようにすれば、専門家なら樹種などすぐに分かってしまうのではないかと思うが、どうやらそうではないらしい。そもそも針葉樹は組織がシンプルでほとんど区別がつかないという。よって著者はいろいろと工夫したり、五感を使って精細に観察したりして樹種の同定を行っている。そうした努力により「国内の木材については、植物分類学上の科、属、種の内、属レベルまでであれば、ほとんど識別できる状況(p.42)」になっている。 

本書は著者が手がけた事例のいくつかを紹介しながら、木材解剖学の初歩を紹介したり、文化財の紹介をしたりするエッセイ的な本である。大まかに言えば、本の前半では木材解剖学の話が、後半は文化財の話が多い。

私は仏像の樹種について興味があって本書を手に取った。仏像については、まず日本に仏像が伝来した当初はクスノキによる造像が行われていたようだ。それが8世紀に入ると用材に大きな変化がおこる。針葉樹による造像に変化したのである。特に使われたものはカヤである。

ではなぜそのような変化がおこったか。著者は中国から「栢木」という概念が伝わってきたためではないかと考える。 「栢木」とは、『十一面神呪心経』の注釈『十一面神呪心経義疏』(慧沼)に「白檀の代用材」として説かれているものである。ここでは「白檀がないならばその代わりに栢木を使って十一面観音像を製作しなさい」と書かれている。この義疏に書かれていたばかりでなく、中国では白檀の代用材としての栢木の観念が7世紀後半には広まっていたらしい。ではこの「栢木」は日本では何の木だと認識されていたかというと、これがカヤのことではなかったのか、というのが実際の調査から見えてきた結論である。

日本の古代では、建造物の柱材としてヒノキ、コウヤマキ、スギ、モミに次いでカヤが使われている。なおコウヤマキにはなんらかの信仰心があったと思われ、棺材としても使われていた。古墳時代や奈良時代にはコウヤマキが建築においても重要視されていたが過剰な伐採によって枯渇したと考えられる。カヤもコウヤマキと同じように信仰心から重視された可能性がある。

さらに神像にもカヤが多く使われていた可能性がある。著者が調査した11〜14世紀の滋賀県蔵の神像7体はカヤだった。この他、ケヤキ、サクラ属などが神像に使われたことが著者が調べた神像の範囲では明らかになった。そして平安時代以降はヒノキが使われる事例が増えている。さらに世界の博物館・美術館に流出した神像9体について調べると、8体がモクレン属、1体がクリ属であった。どうやら出雲から世界に散逸した(と考ええられる)平安時代の神像の多くがモクレン属で造られていたようだ。これは実は珍しい事例で、モクレン属のホオノキが蛇に見立てられて御神木となったという説もあることから、何らかの意味がある用材選択であったと見られる。

ちなみに、仏像の用材選択において日本と中国では大きな違いがあり、中国では軽い材が好まれて使われた。シナノキ属、ヤナギ属、キリ属などが使われている。「なぜキリ属のような軽い木で造像を行ったのか、不思議(p.127)」。「中国では仏像を持ち運ぶ習慣があったのか、あるいは植生が限られていたのか(同)」、現時点ではよく分からない。なお中国では「栢木」はイトスギ属であったと考えられる。

この他、木床義歯(木で造った入れ歯)、茶室に使われた木、近代建築の建築用材(大正時代には少なからず北米産材が使用されている!)などの話題が盛り込まれている。

本書は少し無理にエッセイ風にしている部分を感じた。柔らかいタッチにするために不自然にエッセイ風表現にしているような箇所があるのである。たとえば著者の小さい頃の思い出が挿入されるなどであるが、そういう箇所の文章はなんだか精彩を欠く。著者本来の文章はもう少し学術的なのかもしれない(論述を書いている部分の方がかえって読みやすい)。ただしエッセイ風を装った(?)口絵写真などは大変雰囲気がよかった。

あまり耳慣れない木材解剖学に文化財の話題で親しめる入門書。 

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2026年4月5日日曜日

『斎宮——伊勢斎王たちの生きた古代史』榎村 寛之 著

斎宮と斎王について読み物風にまとめた本。

古代から鎌倉時代まで、天皇と関係の近い皇女が斎王(さいおう)として伊勢神宮に仕えるために派遣された。斎王が居住した場所が斎宮(さいくう)である。本書は、斎宮・斎王とはいかなるものであったかを豊富な情報量かつ親しみやすい語り口で紐解くものである。

斎王とは、「天皇の代替わりごとに未婚の皇族女性から選ばれて、その天皇一代の間、伊勢神宮に仕える人(p.1)」である。その人選は建前としては亀卜(占い)によるが、かなり恣意性があったと考えられる。1年に3回伊勢神宮(内宮・外宮)に参詣するのがその主要な任務であった。そしてその居住地が斎宮であり、これは条坊制を持つ小規模な都ともいうべき場所であった。斎宮には斎宮寮という維持機関が置かれ、さらにその下には21の司が置かれた。斎宮は本格的な官僚機構を持つシステムなのである。

また賀茂神社にも嵯峨天皇の時代から皇女が派遣された。こちらは賀茂斎王といい、その居住地から斎院ともいわれる。賀茂斎院は9世紀前半から13世紀前半まで存在し、斎宮よりも存続期間が短かった。

なお、斎王は伊勢神宮の主宰者ではなかったのはもちろんである。伊勢神宮には祭主が別に存在し、古代には祭主は都に住んでいた。現地にいる斎王と、都にいる伊勢神宮の祭主という対照は興味深い。祭主は12世紀には伊勢に土着するようになり、実質的な支配者となった。伊勢神宮を祀るために斎王が必要だったのではなく、祀るのはあくまでも祭主であったと考えられる。

では斎王はなぜ伊勢神宮に置かれたのか。伝説では、『日本書紀』にあるトヨスキイリビメとヤマトヒメがその元になったとされるが、これは『日本書紀』編纂時の作為と見られる。7世紀前半の理想的な斎王像が彼女らに投影されている。5~6世紀にも伊勢神宮に皇女が使えているが、こちらには「どうもダメな雰囲気が漂っている(p.15)」。具体的に言えば、不祥事を起こして更迭されたり、そもそも不在だったり、3代の天皇にわたって斎王を務めたりしている。要するにこの時代ではまだ制度的に不完全なのである。

斎王が成立する前提となったのは、大王(天皇)の娘が特別な存在とされたことであり、大王の血縁集団の聖性の確立と関わっている。その意味では「伊勢神宮の祭祀は「大王家」の確立と連動して整備が始まったといえないこともない(p.17)」。

そもそも天照大神自体が、壬申の乱後の皇統の確立にあたって天武天皇が「感得」したものであり、「中央集権体制にふさわしい神として創出されたもの(p.41)」である。また天照大神が女性神とされるのは、女性(天皇)に護られていた天武の状況を反映したものである可能性がある。そして天武は自らの娘大来皇女を伊勢に派遣し祀らせた。彼女は天照大神の「グレードをたしかなものにする役割を負った(p.42)」。つまり人工的に創出した天照大神/伊勢神宮の特別感・隔絶感を演出するために派遣されたのが大来皇女だったと著者は考える。この時代には斎王という職名もなく、斎宮寮のような官司もなかったと思われるが、これが実質的な斎王の始まりである。続く持統天皇はおそらくは天武とは異なる伊勢神宮体制を志向し斎王を置かなかったが、この頃に伊勢を完全に支配下においたと考えられる。

天武朝以降の斎王の特徴として、選ばれてすぐに伊勢に向かうわけではないということがある。彼女は一年ほど泊瀬(はつせ)斎宮という仮の宮で過ごした。9世紀には「野宮(ののみや)」と呼ばれた。これは京外の適地がその都度選ばれた。そして9月に数百人を従えて伊勢に下っていった。これを群行(ぐんこう)という。

斎宮寮が本格的に整備されたのは聖武天皇の娘、井上内親王の頃で、『続日本紀』によれば121名の官人が任命されている。斎宮はミニ内裏のようなもので、宗教施設ではなく「皇族の生活維持のために置かれたシステム(p.30)」であろう。

先述のとおり、斎王は年に3回伊勢神宮にお参りしたが、その3回とは9月の神嘗祭と、6月・12月の月次祭であるとされる(『延喜斎宮式』)。そして斎宮の役割は「三節祭の二日目に内宮・外宮の内玉垣御門に入って拝礼して、太玉串を奉ることである。実はこれが何を意味しているかはよくわからない(p.32)」。8世紀には4月と9月に行われる神衣祭(かんみそのまつり)にも参加していた可能性がある。またこのほか、斎宮内で新嘗祭や忌火祭(いんびのまつり)などの神事もあった。面白いのは、元日には斎王は拝まれもした。天皇の拝賀と似たように、斎王は斎宮寮の職員から拝賀され、また3日には伊勢神宮の宮司、禰宜、度会郡の神郡の郡司が斎王を拝賀した(p.185)。

斎宮の財政は国家と独立しており、常陸国から京までの各国が調庸を負担した。国家からの給付を受け取るのではなく独自に徴税機構があったのである。どうしてこのような仕組みで運営されたのか極めて興味深い。条坊制を持つ広大な斎宮が整備されたのは桓武天皇の時代で、520人以上が働き、2、3000人が関係していたとみられる。『大和物語』では斎宮が「竹の都」と呼ばれている。斎宮とは一つの都市だったのである。斎宮頭は伊勢守や介を兼任することもあり、斎宮寮は「伊勢南部地域のもう一つの国府(p.117)」のような存在になった。なお斎宮は淳和天皇の時代に多気郡から(伊勢神宮近傍の)度会郡に移転している。これは斎宮を通じて伊勢神宮の支配を強める政策であった可能性が高い。しかし承和6年(839)に度会の斎宮は消失し、再び多気郡に戻った。ここから「斎宮と伊勢神宮が対立しつつ棲み分けるという平安時代の体制(p.120)」になる。

斎王は任期を終えると(天皇が交代となると)、難波津に下って3か所で禊を行った。そして僧侶によって風誦が行われて数か月してから自邸に戻っていたらしい。往還それぞれに数か月~1年をかけているのが不思議でならない。深い意味があったと思われるが不明である。

本書では、斎王のケーススタディとして7人が取り上げられている。すなわち大来皇女、井上内親王、朝原内親王、徽子内親王、嫥子内親王、良子内親王、媞子内親王である。これらの人物は多くの人にとって「名前を聞いたことがあるかも」という存在であるが、著者はその伝記的事実を詳しく述べている。彼女らはそれぞれドラマチックな生涯を生きており読み物として面白いが、ここでは彼女らの伝記は割愛してポイントのみ述べる。

まず、斎王には非常に幼い頃に任命される場合があった。斎王は独身が務めるものとされており、年少であったのは当然だが例えば井上内親王は5歳、朝原内親王は4歳で斎王に任命されている。なお斎王を務めた後に結婚するのは可能だが、平安期には内親王の結婚相手は少なかったので一生独身だった人が多い。

なぜ斎王は幼少で任命されたのか。それは天皇の即位にともなって選ばれたことが大きいようだ。まだ天皇も若いので、基本的に天皇の娘が務めた斎王は自然と幼少になった。娘(内親王)がいない場合は女王でもよいとされたが、10世紀後半からは女王の方が普通になった。皇女にとって斎王は有り難い役職ではなく、できれば任命を避けたかったため、女王にお鉢が回ってきたということのようだ。「この時代には伊勢斎王になることは一つの悲劇と認識されていたふしもある(p.135)」。

斎王の任命を避けたかったのは、京を離れ伊勢に赴任しなければならなかったことと(賀茂斎王=斎院はそれほど嫌がられてはいなかった)、仏教から隔離されたこと、神への捧げものとしての「聖なる犠牲(p.141)」であると考えられていたことなどが要因であると考えられる。『源氏物語』でも六条御息所の怨霊は斎宮にあって仏教から離れていたので恋の執着から離れられないと告白している。

では斎王は仏教を遠ざけて精進潔斎の生活をしていたのかというとそうでもなく、普段の斎王は「都の姫君とほとんど変わらない装いをしていた(p.96)」。どうも常日頃から神に奉仕するようなものではなく、三節祭を中心とした年に数回の祭の日のみに任務を負ったようだ。あまり働いたようではない。また都を離れて寂しい暮らしをしていたわけでもないようで、斎王の周辺には文化的サロンがあり、また都とのネットワークもそれなりにあったらしい(もちろん斎王によって違いはある)。

そして斎王を務めた女性は、かなり優遇されていた時期がある(それだけ斎王が敬遠されていたということかもしれない)。元斎王という肩書きは貴族社会では重く、たとえ短い間でも(白河天皇の皇女媞子(やすこ)内親王の場合は3歳から9歳の間だけ)斎王を務めることは重要なキャリアと見なされた。媞子内親王は未婚でありながら女院(郁芳門院)となっている。

ところで、元来は皇女が務めた斎王を女王(天皇の孫や姪など)が務めるということになると、父親にとっては娘を斎王として差し出すことが政治的な得点ともなった。本人とその父親にとってのキャリアアップの手段として斎王が捉えられたケースもある。キャリアアップはしなくても、元斎王には天皇から贈られた荘園などによってその後の生活は保証されており、「羽振りがよければかなり安楽で、社会から大事にされる生活も送れた(p.172)」。だが軽視された時代もあり、たとえば藤原実資の妻の妹(恭子女王)は22年間も斎王を務めているが、『小右記』では彼女の記録は全くない。この頃の斎宮はかなり簡素化されていたようで、都の人も斎王に対する関心を失っているように見える。「天皇と摂関、あるいは皇太后との一体性が強まれば、家長的性格は摂政や関白に移り、斎王への期待度は薄まる(p.269)」。

ところが院政期になると再び天皇家は家長権を摂関家から取り戻し、斎王は再び重視された。後白河院が4人の娘を斎王にしている(p.231)のは、自らの権力基盤を確立する一環であったと考えられる。

しかし伊勢神宮でも神仏習合が進んでくると斎王の意義が低下してしまう。さらに伊勢神道がおこると、「神話の組み替えのなかで、斎王はしだいに時代遅れな存在となっていた(p.270)」。斎宮は神仏習合には全く対応していなかった。「鎌倉時代後期、斎宮は神宮からも社会からも、よくわからない存在と化していたらしい(p.271)」。「後嵯峨天皇の皇女ので亀山天皇の時代の愷子内親王を最後に斎王の群行は行われなくなる(p.278)」。むしろこの時代まで群行があったのも驚きだが。

そして治承寿永の乱(源平の合戦)では斎王の任命が中絶した。しかし内乱の直後、7歳の少女(故高倉天皇の娘で後鳥羽天皇の異母姉、潔子(きよこ)内親王)が斎王に任命された。「神仏にすがる気持ちが特に強くなっていた(p.160)」のかもしれない。また「頼朝はかなり本気で斎王制度復活に助力していた(p.161)」。彼は平氏勢力が強い伊勢の地に斎王を通じて影響力を及ぼす目的があったようである。

こうして鎌倉時代には斎王制度は維持されたが、建武の新政が崩壊すると斎王を選んだり派遣したりすることができなくなっていった模様で、14世紀頃には形骸化していった。「当時の権力者会がもはや斎王を不可欠なものとは考えていなかった(p.177)」し、斎王の前提となる天皇の権力が空洞化した結果でもある。 

この他、本書には斎王にまつわる多様な話題が盛り込まれているが(面白いのは、斎藤という名字は斎宮に務めた藤原氏に由来するということ)、ここでは割愛する。

終章(第5章)は「斎王とは何だったのだろう」と題されているが、この「何だったのだろう」という書き方にも著者の戸惑いが現れている。著者は本書で詳しく斎王について述べながらも、斎王を「ほとんど何の役に立っていたのかよくわからない存在(p.39)」だと率直に言う。斎王の置かれる理由は律令にはその規定がなく(p.259)、『延喜式』の「祝詞式」では「天皇の在位や寿命が長いことを祈念するため」とし、これは天皇と一対一対応するという斎王の在り方とは一応論理的に接続する。しかしながら、どうして未婚女性が務めるのか、わざわざ伊勢に居住するのはなぜか、といった点はそれだけでは説明できない。

著者は、斎宮、すなわち小さな都・行政庁としての斎宮が置かれたことを重視し、これが天皇家による伊勢神宮の支配のための機関だったと考える。つまり斎宮の造営に画期的な意義があり、「斎王が誰であっても構わな(p.281)」い体制となったと考えるのである。そもそも伊勢神宮は天皇家がその権威を潤色するために創作した存在と考えられるが、政権の思惑を越えて一人歩きし出したので、それを再び政権のコントロール下に置くために設けられたのが斎宮・斎王であるということになる。「9世紀以降の斎王は、天皇ごとに天照大神と再契約したことの象徴としての性格が薄れ、国家を安定させるためにシステマティックに守護神の祭祀を行う存在にシフトチェンジしたと考えられる(p.262)」。

そして斎王にはもう一つの役割があった。それは「天照大神のセンサーのような役割(p.263)」である。斎宮では毎月の晦日に卜庭神(うらにわのかみ)の祭が行われ、斎王の肉体に異変がないか調べる占いが行われていた。斎王が伊勢に居住しなければならなかったのは、このセンサー的役割を果たすためであると著者は考える。 

要するに斎王は天皇の身代わりであったようだ。ではなぜ斎王は未婚の女性なのか。巫女的な性格が期待されたのだろうか。あるいは神への捧げものとしての女性だったのか(『今昔物語集』などによれば、神への生け贄としては女性が献げられている)。巫女(みこ)と皇子(みこ)が同じ訓なのもなんだか示唆的だがこれは考えすぎかもしれない。ところで天皇が女性であった場合は「置かれたり置かれなかったりしている(p.195)」。ただしそもそも女性天皇がいた奈良時代には、天皇と斎王との関係は制度的に安定していなかったこともその背景にある。 

本書が全く触れていない斎王の謎は、群行であると私は思う。斎王は多くの(しばしば数百人の!)官人を連れて伊勢へ下向したわけだが、なぜ多くの官人は斎王とともに人事異動したのか。天皇の代替わりで大量の官人がいっぺんに人事異動したとは聞いたことがない。そもそも大量の人事異動を行うと仕事がスムーズにいかないのは容易に想像される。にもかかわらず斎宮の場合は斎王とともに多くの官人が伊勢に赴任した。交替するのは斎王だけで、官人は留任するという仕組みの方がずっとスムーズなのにどうしてこんなことが行われたのか。しかも斎宮末期の後嵯峨天皇の時代まで群行が行われていたのだから、何らかの意味があったに違いない。このあたりに斎王・斎宮の意味を解く鍵があるような気がする。また、同じく条坊制を持ち、そこへの赴任が忌避されていた大宰府との類比も考えたくなる。

以上のことから、私なりに斎王・斎宮制度が確立した桓武朝におけるその意義について考えてみると、斎王・斎宮とは伊勢神宮の託宣への対策であったように思われる。

まず、斎王がなぜ未婚皇女が務めたかであるが、これは天皇を裏切る可能性の最も少ない人物であるからではなかろうか。天皇が自分の名代として誰かを伊勢に派遣することを考えると、最も避けたいのはその人物の裏切りによって「○○を天皇にすべし」といった託宣を出されることである。よって皇子は絶対に避けたい。その人物が伊勢神宮の託宣だといって自らを皇緒に就けよと言ってきた場合の政治的混乱は避けがたい。だから皇子および王は論外であり、女性が望ましい。さらに未婚であることも望ましい。結婚していては外戚の力が侮りがたいからだ。これが斎王が未婚皇女(または女王)が務めた理由であろう。女性天皇が一般的であった奈良時代はこの部分がイレギュラーになり、斎王があったりなかったりした可能性がある。

次に避けたいのは、斎王が傀儡化することである。つまり斎宮に務めている官人が伊勢神宮と癒着し、斎王を傀儡にして政権にとって不都合な託宣を出すというのも困る。よって斎宮の幹部を斎王とともに総入れ替えするのが安全である。これが群行ではなかったか。伊勢は大宰府よりは京に近いが、コントロールしきれない程度には遠いと思われる。斎王というアイコンがあり、伊勢神宮の権威を借りれば斎宮は政権にとって十分脅威となる。群行という制度にはこの対策が織り込まれていると考えるのが自然である。

桓武天皇は、2代前の称徳天皇の時代に「宇佐神宮神託事件」で道鏡が天皇になりかけたのを心に刻んでいたはずである。「宇佐神宮神託事件」の舞台となったのが大宰府である。この事件は大宰府の官人が道鏡と癒着して偽の託宣を報告してきたことが発端となっている。同様な事件が伊勢で起こったらどうするのか。それを避けるためには、伊勢神宮から託宣が勝手に出されないように対策しておく必要がある。そこで古い時代にあった斎王制度を修正し、巨大な行政機関を付属させることでよりシステマティックにした仕組みとして斎王・斎宮制度を再構築したと考えられるのである。

実際に、斎王からの託宣の事例がある。 斎王・嫥子内親王が、斎宮頭の藤原相通を弾劾する託宣を暴風雨の中叫んだのである。藤原相通はその地位を利用して受領のように私腹を肥やしていたらしい。そして託宣では祭主の大中臣輔親を斎宮頭に据えるように述べるのである。理路整然とした託宣には作為的なものが多く含まれ、そもそも都にこの託宣を報告しているのが大中臣輔親であることから、藤原相通の横暴に困った嫥子内親王が地位向上を目論む大中臣輔親と結託して神託を演じた可能性が極めて高い。この託宣の結果、藤原相通は罷免され、大中臣輔親が斎宮寮の大別当に任じられるのである。大中臣輔親はその後急死したため斎宮の権限が祭主・大中臣氏に回収されることはなかったが、この事件は斎王と伊勢神宮が結託すれば大きな政治的影響力を行使しうることを示唆している。

この事件は例外であるが、斎王が伊勢神宮の託宣対策であったとすると、託宣の力が無くなっていけば斎王の存在意義がなくなるのは当然である。そういう観点から斎王の歴史を読み解いてもいいかもしれない。 

斎王・斎宮の歴史をいろんな側面から辿る良書。

【関連書籍の読書メモ】
『伊勢神宮の成立』田村 圓澄 著 
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伊勢神宮・天照大神がどのように出来上がったか推測する本。天照大神の成立を『日本書紀』の丁寧な読解で明らかにした堅牢な本。 

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2026年3月30日月曜日

『日本中世の墓と葬送』勝田 至 著

日本中世の墓と葬送について書いた本。

本書は、日本中世の墓や葬制について研究してきた著者が旧稿を元に加筆修正して執筆したものである。特に第1部の「中世民衆の葬制と死穢」については1987年に発表された著者が中世葬墓制を初めて扱った論文で、やはり時代を感じる部分がある(著者自身が「今日からみるといささか古色がある(p.7)」としている)。著者の中世葬墓制の研究は『死者たちの中世』でまとめられており、本書はその補遺として読むのがよいようだ。本書でも『死者たちの中世』を参照することが促されている。

第1部 死体遺棄と触穢について―中世前期の葬送と墓制―

「第1章 中世民衆の葬制と死穢―特に死体遺棄について」では、中世前期において死体遺棄が広く行われていたことを述べる。前述のように、これは著者が中世葬墓制を初めて扱った論文であるばかりでなく、また中世前期の葬制について史料を博捜して実証的に述べた論文としては当該分野の研究史において嚆矢となるものであろう。

中世前期においては、触穢があったために親族以外は葬送に関与できず(関与すべきでないという規範があったかもしれず)、結果として手厚く葬られたのは貴族に限られ、民衆においては死体遺棄のような簡易な葬送が行われた。それどころか、穢を避けるために死にそうな病人を家から追い出すことも行われていた。このことは本論文以前から言われていたようだが、著者はこれを大量の史料によって精緻に実証している。

なお「京畿百姓」が病人を遺棄することを弘仁4年(813)に国家が規制しており、穢を気にしなければならなかった貴族ではなく百姓(ひゃくせい)が病人遺棄を行っていることは、古い民俗に基盤があった可能性もある。

著者は「死者はその家族が葬るべきで血縁のないものが関わってはならない」とする規範こそ死穢の本質ではないかと述べる(p.37)。穢が、室内など閉鎖空間でしか伝染しないことは、穢はイエの支配権が及ぶ範囲で広まるという観念が基盤にあると考えられ、そういう観念が延喜式の穢の規定を生み出したのではないかというのである。なおこの仮説が著者のその後の研究でどう扱われたのか詳らかでない。

ところで、死体遺棄は「ランクの低い葬法ではあっても、悪ではなかった(p.41)」し、不吉でもなかったようだ。古代には山に遺体を棄てるという葬法があり、それを基盤にしていたのかもしれない。少なくとも風葬は古代には一般的だった。だが血縁者が風葬を行うのは「葬法」の一つであるが、非血縁者が死体を遺棄する(ほったらかしにすることを含め)のは「非葬法」であると著者は考える。

こうした状態から、多くの人が葬送される状態になっていった次第は『死者たちの中世』で記述されているが、本稿では今後の課題としている。

「第2章 中世の屋敷墓」では、屋敷墓成立について中世のイエ制度の成立過程と関係づけて述べる。

屋敷墓は、屋敷の土地内に設けられた墓のことである。著者はまず現行民俗の事例を整理し、(1)家の始祖的人物を祀ることが多い。株ごとに本家に祀ることもある、(2)丸い石などが墓となっていることが多い、(3)地神、地主神などがあわせて祀られることが多い、などの特徴を抽出している。こうした屋敷墓は古い民俗なのか、それとも死穢観念以降に生まれたものなのか。

文献に見える最古の屋敷墓的墓制は、『日本後紀』延暦16年(797)正月25日条にある「便葬家側、積習為常」を禁じた文言で、高取正男はこれをもって民衆は穢を気にしていなかったと論じた。著者はこれに対し、血縁者内ではそもそも死穢の観念に抵触しないと考えており(第1章)、高取の見方に修正を加えている。なお中世の屋敷墓の発掘結果によれば、家の存続期間に比べて埋葬されている死者の数が少なく、被葬者は特別な人と考えられる。

屋敷と墓がセットになっている文献上の事例は、弘長2年(1262)の関東下知状に屋敷と隣接して先祖の墓があったというものである(p.75)。延元3年(1337)の高野山への寄進状では、屋敷付属のものと解釈できる「代々墓所」の文言がある。この頃になると在地領主クラスの場合「屋敷付属の墓はかなり一般的(p.78)」になっていた模様で、敷地に墓が存在することは「所有権の移動に対する抵抗力が大変強いものだったと思われ(中略)、屋敷地の墓は在地領主のイエ支配権を補強する機能を果たしていた(p.79)」と考えられる。

よって、所有権を奪うために墓を破壊するという行為も行われた。墓に植えられた樹木に霊が宿るという観念もあったため、わざわざその樹を引き抜くことも行われている。中世の在地領主だけでなく、名主層にも屋敷墓は見られる。こうした事例を鑑みると、屋敷墓は古い民俗ではなく、屋敷地の所有権を補強するために中世に成立した習慣だったと考えられる。

次に著者は死者の魂がどこにあったと考えられていたかを考察する。前述のように墓所の木に霊が宿っているとする観念は古代からあり、樹が依り代のように考えられていた。『葬喪記』(永長2年(1097)奥書)には木(通常は松)を植えることで「従此人之気去成神」という記述があり、墓に樹を植えることで神になるという観念があったことが窺える。その後、共同墓地では木ではなく卒塔婆や石塔を建てるようになったが、屋敷墓では古態が残ったと考えられる。

なお本筋とは関係がないが、弘安10年(1287)の寄進状(紀伊安養寺文書)の冒頭に「主君御聖霊幷二親幽霊為仏果得道」とある文言は興味を引いた。主君の「御聖霊」と親の「幽霊」の「仏果得道」を願って寄進するという言葉の使い方が大変面白い。これは当時の常識的感覚なのだろうか。またこの書状では盂蘭盆を行うことが約束されており、この頃(13世紀)に盂蘭盆は普及したらしい。

また、屋敷墓の場合、そこに住んでいる子孫からの供養が絶えづらい考えられたこともその成立を促したかもしれない。逆に祖先の遺志に反して土地を処分すれば祟りによる威嚇があると考えられていた。つまり「特定の状況下で先祖の意思が死後永く残って子孫を拘束するというイエ制度的観念(p.99)」が屋敷墓に付随していた。いうなれば屋敷墓に祀られた死者は、強力な死者なのである。元享4年(1324)に浄土真宗の存覚が著した『諸神本懐集』には、「先祖オバミナカミトイハイテ、ソノハカヲヤシロトサダムルコト、マタコレアリ(=先祖をば皆神と斎いて、その墓を社と定むること、またこれあり)(p.101)」とある。この頃には、先祖が神になるという観念が一般的になっていたことが窺える。

「第3章 文献から見た中世の共同墓地」では、中世の墓地が何と呼ばれたかを調査している。

墓について文献で記載されることは少なく、著者は各種の文書から墓地・墓を示す言葉を抽出している。まず墓地については「塚原」が多く、「塚」「〇塚(狐塚、三塚など)」「石塚」(集石墓を表す表現)などという。鎌倉時代には塚という土を盛った形態の墓地が多かったと解釈できる。個々の墓については、「墓所(はかどころ、むそ)」、「壇」などといっている。

また、共同墓地を指しているのが「三昧」で、中世前期には普通になっている。「蓮台野」は元来は一般名詞ではないが12世紀中期以降に共同墓地の名称として使われた。なお荼毘所(火葬場)も「三昧」と言われた。

上述のように結果だけ書くと簡単だが、著者は様々な史料を博捜してこうした用語を検討している。またその過程を通じ、「特に墓域が定まっておらず、所有者がいない土地に散発的に墓を作る時代があり、やがて僧がやってきて経塚を造って特定の場所を勝地であるとして、大きな共同墓地が出現するようになった」という流れを想定している。またそのような共同墓地でも塚を作ることができたのは一部の人だけだと考えられる。

中世後期から近世初期にかけて、共同墓地を指す言葉として「塚原」に代わって「墓原(はかわら)」が使われるようになる。墓の形態が「塚」から「石塔」になったことを暗示しているように思われる。

「第4章 中世触穢思想再考」では、穢について史料に基づき概念を整理している。

著者は穢には①『延喜式』などに規定された穢、②内裏を中心とし穢が周囲から侵入するという同心円構造、③らい者・非人の穢、④共同体のとるエネルギー状態の一つとする穢(ハレ・ケ・ケガレ)の4つの論点があるという。本稿ではこのうち①~③を取り上げる。なお④はその後の研究でほぼ否定されており、「史料的な実証は困難なため、本章ではとりあげない(p.136)」と④を取り上げなかった著者のセンスが光っている。

まず①については史料に現れる穢を取り上げ、また穢の語が使われた事例をいくつか挙げている(墓への「濫穢」、山陵への「犯穢」など)。そして穢そのものが天皇へ害を及ぼすのではなく、神域が穢になったことで神が怒り、天皇を病にさせるといった回路があったという。穢→神→天皇という順だ。つまり「神と関係ない局面では、制度上の穢というものは存在しない(p.145)」。

つづいて②も検討されるが、これは後に山本幸司の『穢と大祓』で詳細に分析された内容であるためここではメモを割愛する。

③については、中世ではらい者は穢とされていたと思われるが、古代ではどうだったか。はっきりと穢とする規定はないが、著者は穢と同様のものと捉えられていたのではと推測している。ただしこの考察はたった4つの史料のみに基づいておりさらなる考究を要するように思われた。また、著者は触穢規定が整備されたのちは、「規定上の穢とらい者の穢は別個の存在となる(p.156)」とする。そして「らい者の穢」が非人身分の成立に関わってくると著者は考える。さらに非人身分の成立について考察されているが、これについてもごく簡単なスケッチに留まっている。

第2部 伝統的葬墓制の形成―中世後期の様相

「第1章 中世後期の葬送儀礼」では、中世後期の葬儀を葬具と儀礼に注目し、それが「死者を仏として葬る」ものとなったことを述べる。

中世後期では葬具や儀礼が発達し、近年まで日本で伝統的な葬式とされてきたものの源流となった。本章ではそれらが一つ一つ検討されている。

:死者を竪棺または桶にいれて、それを龕(がん)という屋根のついた輿の一種に納めた。『禅苑清規』(1103、1201再刻)にその規定があり、これに基づいて行われたとみられる。円爾は龕に入れて葬られ(1280)、瑩山紹瑾が定めた『瑩山和尚清』(1324)には入龕等の仏事の規定がある。1364年に没した光厳院の葬儀は「唐様以龕葬申云々」とあり、龕を使うのは唐様であり、当時は珍しかったことがわかる。龕は棺桶に座らせることが前提となるが、死後硬直が始まってからでは死体をその体制にするのが難しい。死去後速やかに死体を座らせたとみられる。現行民俗では坐棺い入れて体制を整えることを「ホトケを寄せる」とか「ホトケ様つくり」などといい、「仏にする」前提となっているように見受けられる。

幡と天蓋:幡とは、紙を切って作るもので「仏」「法」「僧」「宝」と書き、その下に「諸行無常」「是生滅法」「生滅滅已」「寂滅為楽」の4句を書いたものである。天蓋は吊るして使う仏像の荘厳具であるが、龕とセットで用いられた。幡については、律令の「喪葬令」で親王一品の葬儀で「幡四百竿」とされたり、聖武天皇の「仏に奉るが如し」という葬儀で4本用いられるなど、古くから使われたが中世前期には普及はしていなかったようだ。『死者たちの中世』では幡と天蓋を禅宗が葬式に導入したものとしていたが、著者はこれを改め、「幡や天蓋は禅宗とは独立して、日本において仏像の荘厳具から葬具への転用が行われ、13世紀後半ころから用いられるようになった(p.173)」とし、それを進めたのはおそらく天台浄土教だという。「往生人が仏の世界の一員になり、幡や天蓋に荘厳されて極楽に向かうという発想から、それが葬儀において棺を荘厳するのに使われるようになるのは自然な推移である(p.175)」。

四花:四花(しか)とは、紙の左右に細かい切れ込みを入れたものを竹の棒に巻き付けたもので4本が普通である。中世後期には「雪柳(せつりゅう)」というものが見え、『禅苑清規』では「仏喪花」を龕の上に置くとしている。雪柳は散花のように散らすもので、「仏喪花」は娑羅樹を象ったもので紙で作られていた。仏喪花が雪柳に、さらに四花に変化していったとしている。「現状では、四花は娑羅樹をかたどったもので、中国禅宗由来の葬具であるという伝統的な解釈を採用しておきたい(p.179)」。五来重は四花は御幣であったとするが、鎌倉時代の葬列では棺に御幣が立てられており、四花の由来とは別に御幣が葬具として使われていたことは留意すべきである。

善の綱:善の綱とは、棺・龕に結び付け、その前方または後方に伸ばし、人がそれにつかまって引く布の綱である。東日本では「縁の綱」ということが多い。仏像に綱をつけて結縁のために人々が手に取ったことが起源と考えられ、死者を仏に見立てる一環であると理解できる。史料の上では南北朝期の「一向上人臨終絵」が古く、往生人に対して行われたのが次第に一般の死者に広まっていったと思われる。民俗例では善の綱は孫または夫人がつかまることが多いが、15世紀の将軍家の葬儀では後継者が引くのが普通である。善の綱を引くことには重い意味が付与されていたようだ。武士の葬儀では善の綱は広く行われたが天皇家の場合はこれを記した史料がない。

位牌位牌は文献上は足利尊氏のもの(1358)が初出である。15世紀では位牌を持つのは一族の僧や喝食(修行中の少年)であることが多く、跡継ぎの役ではなかった。しかし16世紀中期には家督の持つべきものと考えられるようになっており(1550年の足利義晴の葬儀など)、善の綱と位牌の位置づけが逆転したようだ。なお、位牌には死者の人格(霊)が宿ると考えられるようになった可能性がある。

敬礼法(三匝):三匝(さんそう)とは、火葬の前に龕が火屋のまわりを三回まわることである。インドでは仏に対して三回右回りする「右繞三匝」という儀礼があり、また『大般涅槃経後分』では釈迦の棺がみずから空中に浮きあがってクシナガラの城門などを三回繰り返して巡ったというエピソードがある。中世前期には記録がないが、室町時代になると三匝が行われるようになった。民俗例では棺が左回り(つまり三匝とは逆)に回るのはかなり一般的である。葬送であるから仏に対するのと逆にしているかもしれないが詳らかではない。もしかすると、死者の方向感覚を失わせるという理由があったかもしれない。

拾骨:白河法皇の火葬(1129)の場合は翌朝に近親の者6人が炉の東西に畳を敷いて座り、箸で骨を取り上げて対面の者も箸で受け取り、その後はそれぞれが拾って金銅の壺に入れた。壺は白い絹で包んで、院近親の藤原長実が首にかけて歩いた。この場合は近親の者(とはいえその半数は出家している)が行っているが、中世後期の貴族・上級武士の葬儀では、沐浴・入棺・骨拾いは禅宗や律宗の僧侶に任されていることが多い。なお中世後期は拾骨は葬儀から3日目の朝に行われることがしばしばあるが、なぜ先延ばししたのかはわからない。

葬儀見物:中世後期には上級武士の葬儀は昼に行われるようになり(だからこそ幡・天蓋などの見せる葬具が発達した)、社会的地位を誇示する意味からも見物人を集めることとなり、将軍足利義煕の葬儀(1489)では「見物雑人如稲麻竹葦」、六角氏の家臣永原氏の葬儀(1536)では「貴賤男女見物数万矣」、豊臣秀長の葬儀(1591)では「人数廿万人モコレアルベキ」と言われた。

無常講:無常講とは葬送の互助会である。覚如の『改邪鈔』(1337)では「往生浄土ノミチモシラス、タダ世間浅近ノ无常講トカヤノヤウニ諸人オモヒナスコト、ココロウキコトナリ(p.200)」とある。ここでは仏光寺派などの異流が往生の信心を閑却して、無常講のようなことだと世間の人が思っているのはけしからんという文脈で無常講が出てくる。鎌倉時代後期には金石文にも「念仏講州」「結衆」が見え、14世紀には無常講という名の互助組織が成立したようだ。この名の由来は、隠岐に流された後鳥羽院が死の直前(1239)に著した『無常講式』にある可能性がある。ただしこれは念仏講で葬式の手順に触れているわけではない。葬式互助は戦国期には「念仏講」の名でも盛んになる。戦国期には庶民も参加している。日蓮宗にも独自の互助組織があった可能性があるがまったく不明である。

なお、本章は『死者たちの中世』の第3・4章に続くものとして位置づけられており、私は本章を読むために本書を手に取った。

「第2章 「京師五三昧」考」では、京都近郊にあったいくつかの火葬場・墓地について、史料を博捜して実態を推測している。

近世初期の京都には5つの火葬場「五三昧」があるという説があり、本稿はこれを史料に基づき緻密に追及している。まず、この5カ所がどこかというのもあやふやであるが、史料を総合して鳥辺野・千本・最勝河原・四塚・中山であろうとする。このうち、鳥辺野は次章で取りあげ、本章ではそれ以外の4カ所について沿革を明らかにしている。本稿は非常な労作で情報量が豊富だが、私は京都近郊の地理に疎いので正直あまり頭に入ってこなかった。以下、気になった点のみ述べる。

まず、火葬場は近世以前も迷惑施設であった。最勝河原では火葬の臭気が問題になり、奉行所から移転を命じられている。それに対して火葬場側は「此の処さへ辺土にて迷惑仕候に(現在の場所さえ辺地で営業に差し支えるのに)」と反論している。火葬というのは、割合に上層の葬儀法であり、元来仏教的な葬儀法であるから、古代では火葬されることは贅沢でありがたいものだという観念があったとされる。にもかかわらず、火葬場が迷惑施設とみなされているのは、火葬の位置づけが庶民化し、特別にありがたいものだという意識がなくなっていることを窺わせる。

興味深いのは「千本」。ここは多くの寺院があり、しかもそれらは葬場または墓地となっていた。「これらの寺を含む広い範囲が千本と呼ばれる室町京都の一大葬送センターであった(p.254)」。そしてその近辺にあったのが蓮台野である。院政期にあった「蓮台」という葬儀施設がその名称の起源になったようだ。近世では上品蓮台寺が蓮台野を管理していたが、この寺の起源には不明確なところが多い。山本尚友は堀河天皇の遺骨が安置された香隆寺をその前身としている。中世後期の蓮台野には、墓地を管理する「野法師」がいた(「蓮台野法師」の省略形かもしれない)。慶長3年(1598)の方広寺大仏供養で蓮台寺聖僧が参加しようとしたことに東寺が反対しており、葬式寺としての蓮台寺が忌まれたことを示している。

墓地のある土地の寄進が行われたとき(1324)、「御先祖墳墓」があるのでこの墓を移動したりせず今後も菩提を弔う、と約束している文書があるが(p.262)、これは墓が移動されたり祭祀が廃絶したりすることがよくあることだったのを逆に示しているのかもしれない。

五三昧は元来は荒野のようなところであったと思われるが、陵墓・貴族の墓(堂宇もあったかもしれない)が設けられたり、僧侶によって経塚が立てられたりすることで火葬場・共同墓地となっていき、やがて周辺の寺院に囲い込まれることで消滅していった。土井浩は五三昧を「境内墓地化以前の葬所」であると指摘している。なお18世紀の山岡浚明『類聚名物考』では、寺ではなく鳥部山・鳥へ野に葬る風習が京都にあるとして「すへて江戸も都会の所にハこの風やみたるそよからぬ事にハはあるそかし(=江戸の町中でこのような風習がなくなったのはよくないことである)(p.270)」と言っている。江戸では鳥辺野のような寺院墓地でない庶民的な葬所がなかったから、高密度の埋葬が行われ、頻繁に墓の掘り返しが行われ、墓は社会問題になっていたのである。

「第3章 鳥辺野考」では、前章で割愛されていた鳥辺野について詳説している。

本章でまず驚いたのは、鳥辺野がどの範囲のどこであるか、いまだ不明であることである。鳥辺野というと京都の東側にあるという漠然としたイメージはあったが、その範囲には諸説あり、また時代によっても変遷があるのだという。その概略をいえば、鳥辺野は限定された領域から始まったが拡大し、近世に限定されていったということになる。まず古代には阿弥陀峰(清水寺の南にある山)の一帯が葬所となっていたと思われ、ここが元来の鳥辺野だった可能性がある。これが徐々に拡大し、『親鸞伝絵』が書かれた鎌倉末期には「今の知恩院付近から滑石越に至る広大な範囲が鳥辺野と呼ばれていた(p.288)」。

もう一つの中心は鳥辺山や西大谷に近い六道珍皇寺で、ここは異界との境界に位置すると思われていた。院政期には「珍皇寺四至内に「左衛門大夫堂」「伴入道ゝ(堂)」など人名をつけた多くの堂が存在し、墓堂と考えられている(p.290)」。珍皇寺では院政期に盂蘭盆会がにぎやかに行われたらしい。これらのことから、珍皇寺が面する野原(鳥辺野)が平安後期から住民の葬所として確立していたと思われる。

また近世には珍皇寺の東側に「南無地蔵」と呼ばれた空き地があり、そこは昔宝福寺という時宗寺院があった跡だとされていた。ここも火葬場・墓地となっており、「南無地蔵の葬場は、近世から伝承的にさかのぼれる最古の葬場の一つ(p.298)」である。

近世に鳥辺野・鳥辺山といわれたのは、西大谷背後の墓地である。ここは「浄土真宗・日蓮宗・時宗の諸寺院が共同墓地として利用していた(p.301)」。つまり、近世の鳥辺野は清水寺の西側あたりに限定されてきていたと考えられる。また地理的な事情から、墓地・火葬場について清水坂(非人の集団=坂惣中)は何らかの権益を有していた。

ちなみに、南無地蔵も阿弥陀峰も鳥辺山も、豊国廟の建設にあたって移転させられたとの伝承がある。これらは火葬の臭気が不浄とされたようだ。やはり火葬場は迷惑施設なのである。なお中世には「鳥辺野広域圏」に南無地蔵・鳥辺山(2カ所)・赤築地・阿弥陀峰・延仁寺という少なくとも6カ所の火葬場があった。火葬場が迷惑施設であることを考えると、これは多すぎるような気がする。なぜ6カ所も必要だったのだろうか。

「第4章 さまざな死」では、異常な死に方をしたケースの葬送や墓について述べている。

異常な死に方をした場合は、特別に弔いが必要とされたり、あるいは死体への恐れが通常より強かったりし、葬送にも通常とは違う特徴がみられた。特に、異常者の霊は死んだ場所に留まるという観念が古くからあり、死体とは別に場所の扱いも普通とは違っていた。特に戦死者の場合は、戦場にとどまる「霊を鎮めることは政治的に戦勝者の急務(p.321)」であり、久野修義は「戦後処理としての鎮魂が必要とされていた」と指摘している。また中世前期は戦場の死体は放置されたようだが、中世後期では従軍に際しては陣僧を伴って参戦し、戦死後は陣僧が死体を葬送したり国元への通知を行った。

異常死者の場合は、死体を分割することも行われた。これは死者の復活を阻止する措置だったかもしれない。特に反乱者の場合は死体を分割したという説話が多い。一方、死体を分割すると(特に首がないと)往生できないと考えられており、また首そのものにも怨念がこもっているとも考えられた。

このほか、水死体、産褥死、自殺者などの場合について現行民俗での事例も参照しつつまとめている。それらに共通するのは、往生させようとするよりも、その怨念や穢れが周りの人に害を及ぼさないようにするという思想である。一般の死者の場合は往生させることが優先されるのであるが、これがないのは日本の往生思想の特質を表しているようにも思われた。

本書は全体として、史料に基づいて緻密に論証し、また民俗例も参考に葬送の本質について考究している。ただし冒頭にも述べた通り、古い学説に基づいている箇所があるのは注意が必要である。例えば島津毅は『日本古代中世の葬送と社会』で勝田の説にいくつかの面で修正を行っているし、穢については近年より厳密な考証が行われており、穢がどの程度実体的に扱われたかは再考を要する(ただし、私自身は穢はそれなりに実体的だったと考えている)。そうした注意点はあるが、本書の中心である「中世後期の葬送儀礼」は今のところ本書以降にはまとまった研究がなく、「死者を仏として葬る」習俗の論考としては本書が通説といって差し支えないであろう。

葬送の本質について史料と民俗で迫る労作。

【関連書籍の読書メモ】
『死者たちの中世』勝田 至 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_9.html
中世、多くの死者が墓地に葬られるようになる背景を説き明かす本。本書と合わせて読むことは必須。思想面は手薄だが、中世の葬送観について総合的に理解できる良書。

『日本古代中世の葬送と社会』島津 毅 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/07/blog-post.html
日本の古代・中世における葬送の実態を再考する論文集。勝田の説を批判的しつつも発展させている。古代中世の葬送史の新たなスタンダードとなるべき労作。

『穢と大祓』山本 幸司 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/11/blog-post_24.html
穢(けがれ/え)の歴史的事実を明らかにする本。穢の実態を初めて明らかにした労作。

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2026年3月15日日曜日

『魔の系譜』谷川 健一 著

日本史において魔とされる存在をエッセイ風に語った本。

本書は、在野の民俗学者、谷川健一の処女作である(民俗学者はそもそも在野が多いが)。ただし正確には最初の単著ではないのかもしれない。著者自身が「私には本書を処女作と呼んでみたいものがある(p.3)」と書いている。

谷川はもともと平凡社の編集者で、雑誌『太陽』の初代編集長をつとめた。その後執筆活動に入り、持ち前の編集能力によって『日本庶民生活史料集成』、『日本民俗文化大系』などもまとめている。そうした著者の仕事に通底するのは、人の交流・移動に大きな関心が寄せられているということだと私は思う(後半生では特に南島との交流に力がそそがれた)。ところが、この処女作ではそういう要素がほとんど感じられない。著者自身が「処女作とよびたい」というこの本が、彼のライフワーク的なテーマとは少しずれていたというのがなんだか興味深い。

著者が「魔の系譜」に注目するのは、日本では善良さよりも悪の方に積極的な意味が見出されてきたからだ。強烈な怨みを持った人には、自ら「往生」を拒否し、魔となって復讐することを誓った人がいる。つまり復讐するためには魔とならざるを得なかった。キリスト教圏ではそもそも幽霊や怨霊が教義的に位置づけられていないが、復讐のために魔となった人はちょっと見当たらない。

しかし日本では、そういう魔の存在がかなり実体的に捉えられた。慶応4年8月、明治天皇の勅使が崇徳上皇の霊を讃岐から京都に迎えたことはそれを如実に示している。本書にはその宣命が掲載されているがその中で「この頃皇軍に向かい奉る陸奥出羽の賊徒をば速やかに鎮め定めて云々」と祈られている。戊辰戦争を鎮める力が崇徳上皇の霊に期待されていたのである(!)。

讃岐に流された崇徳上皇は、指から流れる血で五部大乗経を書き、それをどこかに納めて欲しいと希望したが、信西はこれに不審を抱き天皇も拒否した。魔の力を怖れたのである。こうして崇徳上皇は爪も髪も切らず「生きながら天狗の姿にならせたもう」(『保元物語』)と言われた。讃岐では崇徳上皇ゆかりの地には、「血の宮」とか「煙の宮」という普通の神社とは違う祀り方がされている。崇徳上皇を祀る頓証寺には天狗の相模坊(なんと大権現だと言われる)が合祀された。貴人の恨みのエネルギーは非常に大きいのである。

世の中が不穏になると、崇徳上皇の恨みのエネルギーが怖ろしくまた頼りがいのあるものに思われるようになった。文久3年(1863)には崇徳上皇の第七百回忌が行われているのはその象徴だ。

仏教の教説では、死者がいつまでも現世に留まって社会に害悪を及ぼすという理屈はないが、人々は強い恨みを持って死んだものは怨霊や天狗、天魔となって災いをもたらし、時にはその霊威を以て災いを鎮める力も持っていると考えていたのである。

次に著者が取り上げるのは「バスチャン」である。これは、長崎の隠れキリシタンたちが禁教の中で作り上げた独自の教説に現れる実在の人物である。これは古代ローマで殉教した軍人サンセバスチャンに由来した名前と思われる。バスチャンは、禁教下で儀式を暦通りに行うため「バスチャン暦」を寛永11年(1643)に作ったとされる(島原の乱の4年前)。

そもそも隠れキリシタンの教義は元の形からかなり変容していた。それを示すのが彼らが造った教義書『天地始之事』である。ここには土俗化したキリスト教世界観が表明され、デウスはもはや万能神ではなく農耕神のようなものになっている。またマリアがルソン国の帝王ゼウスから求愛されるなど荒唐無稽な説話も含まれる。

バスチャンは隠れキリシタンの指導者で、密告通報されて78回の拷問の末斬首された。彼は処刑前に、いつか黒船に乗った司祭がやってきてキリシタンが公認されるだろうとの予言を残していた。このバスチャンが信仰対象になり、それはやがてキリスト教というより「バスチャン信仰」と呼ぶべきものになっていった。著者は、それはバスチャンが処刑されたということによるのではないかと考える。しかもこの場合、崇徳上皇のような恨みの力ではなく、処刑による「苦痛の快楽」が影響していたのではないかというのだ。

「苦痛の快楽」とは矛盾するようだが、著者はそこに「苦しむ神、悩む神、人間の苦しみをおのれに背負う神」が重ね合わされたと考える。イエスが人間の罪を背負って処刑されたことの変奏なのだ。ここで急に話題転換し、諏訪大社(上社)の「外県御立座神事(そとあがたみたてましのしんじ)」と「大御立座神事(おおみたてましのしんじ)」が取り上げられる。これは神使の出発式なのだが、この神使を務める幼い童男は、馬上にくくりつけられて虐待され、かつては殺されたこともあったと言われる。占いによって神に選ばれた者が殺されるということは、人間を生贄にした時代の痕跡なのかもしれない。

このほか、著者はほとんど脈絡なくさまざまな民俗信仰や他界観念を取り上げる。例えば平田篤胤の『勝五郎再生紀聞』。これは前世の記憶を持つという少年にインタビューした記録である。同じく篤胤の『仙境異聞』。これは天狗の世界と行き来した少年寅吉のインタビューである。篤胤が寅吉に入れ込んだのは彼の性格から当然としても、多くの国学者や知識人が寅吉に興味を持ったのは当時の世界観を窺う上で興味深い。ちなみに篤胤には『霧島山幽境真語』という、霧島の明礬山で26年過ごした時の不思議な体験談もある。著者はこうした記録を、夢野久作の『ドグラ・マグラ』を起点に(⁉)読み解く。私にはそのつながりがちょっとよくわからないのだが(著者は夢野久作のファンで、本書には随所に夢野作品への言及がある)、冥界とのつながり、生まれ変わりの思想、死者が蘇ることへの恐怖などが混然となって表明されているという。

また、百姓が害虫を亡霊と見立てたこと、享保の飢饉で年貢の減免を行ったことで失脚して失意の中に死んだ久留米藩の稲次因幡を農民たちが神として祀ったことなどを取り上げ、「虫送りにともなう亡霊供養は、(中略)飢饉にともなうさまざまな犠牲者の鮮烈な記憶をながく保存しようとする意図も含まれていた(p.201)」とする。

こうした多様な事例が本書に登場するが、それらに通底する概念を私なりに提示すると、「日本では、異界(あの世)が現世を補完するものとして捉えられていた」ということになる。もちろんキリスト教でもそういう面はある。例えば悪人があの世で裁かれるといったことはそれにあたる。だがそれは、現世での報いをあの世で受けるという一方通行な性格が強い。ところが日本の場合は、現世→あの世という方向だけでなく、あの世→現世という方向でも影響が及ぼされる。現世とあの世は地続きであり、あの世は現世の矛盾やままならなさを埋め合わせるだけでなく、時に現世に浸潤してその是正を求めるのである。

そしてその媒介をしたのが、魔と呼ばれる存在であった。キリスト教では善良なものこそ神の下に伺候して影響力を行使した。聖人はその代表的な例だ。ところが日本では、善良な魂や幸福な魂は子孫を遠くから見守りはするが現世への影響は限定的だった。強い恨みをもって死んだもの、異常な死に方をしたものなどがその負のエネルギーによってあの世とこの世をつないだのである。そしてそれとは少し違うが、天狗もそういう存在だったのかもしれない。天狗はこの世のものでもあり、あの世のものでもあった。つまり境界的なのだ。魔についての考察は、その後の谷川民俗学とは少し異質な出発点かと思ったが、境界的なものに注目する点では通底するものがあるのかもしれない。

谷川民俗学の原点。

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2026年2月27日金曜日

『よみがえる古代の港―古地形を復元する』石村 智

日本の古代の港の実態を地形から推測する本。

日本の美称で「豊葦原の瑞穂の国」という言葉があるが、古代の日本には葦が生い茂る湿原的な浅瀬がたくさんあり、そういう地形の場所が港となっていた。そういう痕跡は、「~津」という地名に残されている。「津」は「船が安全に停泊できる波の穏やかな場所」を指す言葉で、古代の港は「~津」と呼ばれたものが多い。

だが現代では、「~津」はかなり内陸にある場所が多いため、そこが港であったことがわかりづらくなっている。例えば吉備津神社の吉備津は現在の海岸線から20キロメートルも内陸に位置し、難波津は10キロメートルほど離れている。どうしてこういうことになってしまったのか。

実は、吉備津は外海に面した港ではなく、潟湖(かたこ※)地形の場所に設けられた港だった。潟湖地形とは、河川の河口部に砂州が形成されることで天橋立のような海との仕切りができ、その内側が浅い汽水湖となった、いわゆる「ラグーン(内海)」となっている地形のことである。なお、古代において潟湖地形が港として利用されていたことを先駆的かつ包括的に論じたのが『日本の古代3 海を越えての交流』所収の森浩一「潟と港を発掘する」という論文である。

吉備津の場合、そのすぐ間際まで「吉備の穴海(あなうみ)」というラグーンになっていたし、難波津の場合も瀬戸内海に面しており、さらにその内陸側に「河内湖」というラグーンがあって、生駒山のふもとには白肩津(しらかたのつ)という港が設けられていた。こういう潟湖地形は河川からの沖積作用によって徐々に埋まり、また近世以降は干拓や河川改修によって耕地化された。このようにして、古代の港「津」はかなり内陸に位置することになったのである。

また興味深いことに、こういう古代の港の近くには、海上からのランドマークとなるような形で古墳が築造されていることが多い。これは海上からの目印になっていた可能性がある(ただし著者は、海からは意外と遠くから見えないと指摘している)。本書ではいくつかの地域の古代の港とその近隣の古墳を概観してそれぞれ考察している。なお古代地形については、「カシミール3D」というGISソフトを利用して復元している。

本書で取り上げられているのは、丹後、瀬戸内海(御津、室津、鞆の浦など)、遣新羅使のたどったルート(瀬戸内と宗像)、伊豆、平安京周辺、標津(北海道)、網取(西表島)の港である。以下、そのうち気になったところのみ述べる。

瀬戸内海は、古代から重要な海上ルートであったが、ここには複雑で早い潮流が流れており非常に航行が難しい海でもある(シーカヤックの第一人者内田正洋氏によると「世界で最も難しい海」(p.100))。著者はそのうち御津と室津を比較している。播磨灘に面した御津は古代にはラグーンのほとりに位置し、葦の生い茂る泥湿地帯だったと思われる。ちなみにその手前の半島にあるのが輿塚古墳であり、周辺には古墳時代以前の遺跡も多い。一方、室津はその近くにあり、ここも行基が開いたという伝説がある歴史的な港である。しかし自然条件は対照的で、室津は切り立った崖に囲まれた入り江である。史料を調べると、御津の方がより古くから栄えたが、奈良時代以降には室津の方が重要性が増していったことが窺える。それは、遣唐使船をはじめとした大型の船が御津には入港できなかったためと思われる。その代わりに水深の深い入り江に立地する室津が選択されていくのである。

著者は、葦が生い茂るラグーンの浅瀬にある港を「浅い港」、リアス式海岸の入り江にある水深の深い港を「深い港」と呼んでいる。古墳時代までは「浅い港」が栄え、奈良時代以降に構造船が航行するようになると「深い港」が栄えたというのが大まかな見取りである。そして「浅い港」は、ラグーンが陸化することにより機能を喪失していった。室津は現代でも港であるが、御津の方は今では海に面してすらいない。ただし、ある時期までは「深い港」と「浅い港」は併存していたと考えられる。

ここで著者は古代の船の構造について推測している。先史時代から丸木舟はあったが、弥生時代には準構造船(丸木舟に舷側板をとりつけた船)が登場した。そして古代には大陸・朝鮮半島からの影響で、底が平たい構造船が登場したと考えられる。ただし著者もいうように「船の構造を示す考古学的な資料はまったく見つかって(p.89)」いない。遣唐使船では1艘あたり100人以上の人が乗っていた場合があるので、かなり大きかったことだけは間違いない。

著者はさらに、奈良時代にたびたび繰り返された遷都を水上交通の観点から述べている。例えば難波京は平城京と併存していたが、これは海上交通に利便の地として造営されたとみられる。そしてこの時代の都城は複都制とも呼ぶべきもので、複数の都市を使い分けていたと考えた方が自然だ。難波京は646年に造営されて784年まで、途中に空白期間はあるが活用されている。この難波京がどんな地形に造営されたのかというと、難波津は大阪湾と河内湖を仕切る場所にあったのである。この時代に海上交通がいかに重視されていたかを難波京の立地は如実に示している

しかし難波津は、沖積作用によって河内湖が陸化することで機能を失っていった。難波堀江という、河内湖と難波津をつなぐ人工水路を仁徳天皇が造っているところを見ると、古墳時代中期にはすでに河内湖は陸化が進行していたと考えられる。また『続日本紀』には、762年に遣唐使船が難波津で動けなくなるという事件が発生しているので、河内湖の陸化が進んだのかもしれない(難波津は河内湖に面していたわけではないが)。そして784年には長岡京へ遷都して難波京は廃止されている。こうしたことから、難波津の港としての機能は早くも古代に失われつつあったと判断できる。

古代の港はラグーンに位置していたということはよく言われるが、古代の地形が示されることは少ない。一方、本書はカシミール3Dを使って大まかではあるが古代の地形を示しており、とても分かりやすい。本書は全体として大上段の主張があるわけではなく、様々な事例を「あれもあるこれもある」式で連ねた本である。著者は元来、オセアニアの人類学・考古学を専門としており、日本の古代は専門の中心ではないため、ある意味「肩の力を抜いて書いた本」のような気がする。

ラグーンに位置していた古代の港をわかりやすく示した小著。

※本書では「潟湖」に「かたこ」とルビがあるが、国語辞典的には「せきこ」という。

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2026年2月15日日曜日

『古墳と埴輪』和田 晴吾 著

古墳を多面的に考究する本。

古墳時代は、3世紀中ごろから6世紀後半にかけて350年続いた。この間、日本各地で大小10万基を超える数の古墳が造られた(文化庁によると古墳・横穴を合わせた数は15万4700基!)。古墳は支配秩序であり、権力のモニュメントであったが、他界観や信仰の意味も問わなければその本質には迫れない。本書は、古墳に残る痕跡から葬送儀礼(それを著者は「古墳の儀礼」と呼ぶ)や他界観・信仰を推測するとともに、古代中国文明との関連を考察するものである。

「第1章 古墳の出現とその実態」では、古墳について概説している。

弥生時代には円形や方形の周溝墓が造られ、次第にそれが支配権力を表すものとして分化・発展し、権力の格差付けを示すものとなった。その中で前方後方、前方後円の墳丘墓が現れる。円形・方形ではない墓の形は世界的に見ても珍しい。しかし大陸の影響は大きく、後漢から皇帝陵が円形に変わったことで日本でも円形優位となり、その後隋・唐では皇帝陵が全て方形になると日本でも飛鳥時代初期の大王墳は方形となっている。中国的墓制の影響を窺う上での好例は弥生後半の楯築墳丘墓で、この古墳には円形・組合式木棺を入れた木槨・割竹形木棺・家型土器・人型土製品など中国の墓制を受けた特徴がある。これをさらに発展させたのが3世紀中葉の箸墓古墳(前方後円墳)で、それは弥生的な葬送儀礼と中国式墓制を総合したものであったと考えられる。これは大王墳としてスタンダードとなった。大王墳は巨大な前方後円墳、首長はそれに次ぐ前方後円的な墳墓、民衆では方形の周溝墓、さらにその下層では木棺墓、土坑墓といった墓の秩序が日本列島を覆った。権力者の墓制のみならず、民衆レベルにまで墓の秩序が浸透したのは興味深い。

この秩序は、古墳のサイズ、副葬品などでも差別化され、また時期によって古墳の形が変化する。しかし驚くほど多様なのは棺・槨・室である。棺とは遺体の入れ物、槨とは棺を入れる施設、室とは棺を入れるとともに儀礼を行うスペースを言う。「古墳の墳丘を中心とする秩序だった外観とは異なり、埋葬施設は実に多様であった(p.34)」。

古墳時代の棺は我々がイメージする木棺とは違い、古墳に据え付けられていた。つまり遺体を入れた棺を古墳に運んできて納入したのではなくて、古墳にビルトインされた棺に遺体を運んで入れた。このように棺は動かす必要がなかったので数トンもあるような石棺が出現した。そして死者の入棺は古墳で行われた。これが墳丘頂上部で最後の別れを行うという古墳独特の葬法を生んだ。

棺には大きく2つの潮流があった。一つは密封型の棺(「閉ざされた棺」)、もう一つは逆に開放的な棺(「開かれた棺」)である(九州の古墳ではそもそも棺がなく死体が床にそのまま置かれていたもの(死床)もあった)。畿内の古墳での中心は「閉ざされた棺」である。

そして古墳の外観には「何らかの世界」が表現された。円筒埴輪を並べたり、葺石を並べたりするといったことである。著者はこれを他界の表現であると捉えている。ここで飲食物の供献を中心とした儀礼が少なくとも一度は行われた。

そして古墳の著しい特徴は、その後にはもう祭祀が行われなかったらしいことである。これは長く祭祀が続けられた中国の皇帝陵の場合との大きな違いだった。「人びとが一定期間、定期的に古墳へやってきて祭祀を行ったような痕跡はまったく見つかっていない(p.49)」。後述のように、古墳は大陸の影響を大きく受けていたが、この部分が非常に異なっていた。「古墳そのものは亡き首長の霊や歴代の祖霊を祀る場所とはならなかったと推測される(p.52)」。

なお、飲食物の供献は、最初は本物の飲食をささげていたと思われるが、その後土器で作った模倣品になった。これについて著者は埋葬後の儀礼が「永遠に続くことを期待したもの(p.51)」とする。そして副葬品も、当初は実物を入れていたのが仮器化が進行し、ミニチュア鉄器や滑石制模造品などになった。これは手抜きをしたのではなく、あえて実物を作らないことで他界のものであることを表現したと著者は考えている。

「第2章 他界としての古墳」では、古墳から推測される他界観について述べている。

大陸での死生観・他界観で代表的なのは、周末の『礼記』にある「魂気は天に帰り、形魄は地に帰る」というものだ。人間の霊には魂・魄の2種類があるとする観念である。これを古墳時代の日本人が受容したと著者は考え、「閉ざされた棺」では「形魄は墳丘内部の棺・槨のなかに厳重に密封された(p.56)」という。ただし、『礼記』では「地に帰る」としているのに、著者が遺体とともに形魄があったとする根拠は不明だ。また、なぜ形魄を厳重に密封する必要があったのかも判然としない

一方、魂気をどう扱ったかについては、古墳には船を描いたものや舟型の棺など船の要素が散見され、船で魂が他界へ運ばれたと考えられる。さらには、古墳に埋葬する際には、死体を船に納め、これを牽いて古墳に運ぶ儀礼があったと考えられている。さらに、それらの船の船首に鳥が留まっていることも多い。これは当初鳳凰的な鶏だったのが、古墳時代中期には渡り鳥と思われる水鳥になっている。古墳時代の人々は、鳥にいざなわれて船で異界へ赴くという他界観を抱いていたようだ。著者はこれを「天鳥船(あまのとりふね)信仰」と名付けている。この信仰は前方後円墳とともに出現し、その消滅とともに姿を消した。

「第3章 埴輪の意味するもの」では埴輪について概説している。

古墳には多種多様な埴輪が副葬・配置された。時代的にいうと、円筒・壺・家・鶏・武具・船・馬・人物がだいたいこの順番で登場した。埴輪のほとんどは当時実在したものを象っており、空想的な構想力が横溢している縄文土器や土偶とは大きく異なる。どうやら古墳時代の異界は、現世と似たような世界だと思われていたようだ。

だが埴輪は現世のモノそのものではない。例えば壺などはわざわざ底に穴をあけて役に立たなくしている。このように敢えて現世で役に立たなくし他界のものとしての性格を与えることを埴輪化・仮器化という。つまり古墳内は他界と思われていた。古墳の墳丘上には埴輪が置かれることで他界であることが表現され、特に出入り口(=造出)周辺は入念にしつらえられた。古墳時代中期中葉、そうした表現方法が完成した直後に人物・動物の埴輪が出現する。

人物は、大きく分けて武装した人と非武装の人がいる。また被葬者自身が表現されたと考えられる埴輪もある。ふんどし姿の男性(便宜的に「力士」と呼ぶ)や女性の埴輪もある(なお女性が葬られたと見られる古墳もある)。また、女性の埴輪については、かつては巫女とされてきたが、食事など身の回りの世話をする者である可能性が高い。このように、埴輪の人物は現世同様あらゆる階層の男女がいる。人物埴輪は被葬者に服属して近侍する集団を表現していると見られる。なお動物では、半数を占めるのが馬で、その他に犬・鹿・猪・牛などがある。

埴輪の表現は、当初は呪術的・祭祀的なものであったが古墳時代中期に軍事的・実務的なものに変わっていった。この変化には、女性首長が消えたという背景がありそうで、大陸から父系イデオロギー・主従関係の在り方の流入があったのかもしれない。

なお、副葬品には武器・武具、鏡・装身具、農工漁具がある。このうち武器・武具は埴輪と共通している(その意味は不明だ)。なお土器類は副葬されない。副葬品と埴輪はどのような使い分けがされていたのか。著者はこれについて「古代中国から伝わった前漢以前に普及していた「槨墓的要素」と、秦漢以後に広がった「室墓的要素」が、列島の古墳の儀礼の中で混じりあい融合した結果(p.109)」とする。遺体を副葬品とともに他界に送り出す槨墓から、古墳に室を設けてそこを他界として表現する室墓へと変遷したが、これが副葬品+埴輪という組み合わせに対応しているというのである。

古墳は死後の世界の可視化であり、それは他界の表現としては仏教的な浄土表現に先行する最初のものである。これが古墳の第一の文化史的・精神史的意義だという。

「第4章 古墳の儀礼と社会の統合」では、古墳の築造の社会的意義について述べる。

古墳づくりは巨大プロジェクトである。膨大な労働力が投入され、また高い土木技術を必要とした。「素朴な道具と人海戦術にもかかわらず、前方後円墳形の墳丘の左右線対称で精美な形と仕上がりの良さには驚かされる(p.115)」。これには今でいう3D測量が必要だが、どんな測量技術を用いたのだろう。さらにそれを可能にした労務管理能力にも注目だ。大山古墳では2000人近い労働者が15年以上も作業に従事したと計算されているが、この人々をどう管理したのだろうか。造営キャンプを示す遺構はまだ見つかっていない。また数トンもある石棺はしばしば遠方から運ばれた。巨大な阿蘇石を有明海沿岸から畿内まで運んだというのだから驚く。著者は当時の船舶でこれが運べるか実験しており、現代でさえ航路上に位置する多くの人々の協力が必要だったといい、「高度な航海技術はもちろん、安定した自然条件、平和な政情と社会交通インフラの整備などがその成功を支えた(p.121)」と述べている。そして日本全国で同様な水準の前方後円墳を造ることができたのは、王権が技術支援(技術者の派遣等)したかららしい。古墳を造れることは、それを支えるインフラと技術と人があり、しかもそれが統合されていたことを示唆する。

というよりも、古墳づくりを行うために、あるいは古墳づくりがあったからこそ、そうした統合があったのかもしれない。だから著者は「古墳は造りつづけることに意味があった(p.131)」と考える。古墳の築造というプロジェクトを通じて社会を統合したのが古墳時代だったことになる。しかし古墳の被葬者にとってはともかく、民衆にとって古墳づくりはありがたいプロジェクトではなかった。国家的体制が整ってくると古墳づくりは単なる「労役や租税へと転化していった(同)」。

古墳は世界的に見てもかなり巨大な墓だが、これは日本列島のみならず東アジアに向けたデモンストレーションであったと著者は考える。墓の巨大さに比べて埋葬施設や副葬品は貧弱なのがその根拠の一つである。

このように古墳は多分に政治的な存在であり、その形態は国家による秩序に支配されていた。では魂が赴く他界の方はどうか。この点に関し明確な証拠はないが、著者は「他界においても、大王の祖神を頂点に各首長一族の祖霊・祖神を整理し秩序づける作業が進行したものと思われる。それは『記紀』に記された神話や伝承などが整えられていった過程でもあった可能性が高い(p.138)」としている。

「第5章 古墳の変質と横穴式石室」では、古墳時代中期から後期が概説される。

古墳時代前期から中期では、各地の首長を大王が統合するという社会システムだったのが、中期から後期では首長権力が後退し中央集権体制になる。その画期は「筑紫君磐井の乱」だという。この時期に登場する群集墓について著者は「国民の誕生(p.147)」と位置づける。また大王墳は120m程度とかえって小型化する。これは権力のデモンストレーションの必要が薄れたためかもしれない。また古墳の形態としては、横穴式石室が普及する。槨から室への転換は、墳丘上での儀礼が不要となり、追葬が可能になったという変化を伴っていた。横穴式石室には九州的石室、畿内的石室、それらの複合的石室の3つがある。

最も早く登場するのは4世紀後半の九州的石室で、3人分の遺体を死床に並べるものが多い。これはどこからか伝わったのではなく、九州で発生したと見られる。なお宮崎県南部から鹿児島県東部には「地下式横穴」という独自の墓がある(直下に掘り進んでから横穴となる構造)。これも九州的石室がアレンジされたのではなく独自に生まれたものらしい。畿内的石室は藤の森型を基礎に発展したものと考えられ、九州的石室が伝わったものではないようである。

九州的石室と畿内的石室の最も大きな違いは、九州的石室では先述のとおり棺がなく遺体が露出していたのに、畿内的石室ではしばしば巨大で厳重な石棺で遺体が密封されていたということである。面白いことに、島根(出雲)と和歌山には九州的石室に影響を受けたと見られる開放型の棺がある。こうした「閉ざされた棺」「開かれた棺」の違いに対し、著者は「密封型の棺では、死者は棺の中に密封され玄室内を自由に動きまわることができないのに対し、開放型の棺では、死者は棺を抜けだし玄室内を自由に動きまわることができる(p.168)」と述べ「前者では、死者は永遠の眠りにつく、あるいは消滅すると考えられたのに対し、後者では死者は蘇り室内を自由に動きまわると考えられたのである(同)」というが、この考えは逆の可能性も考慮が必要だと思う。

つまり、厳重に遺体を密封したのは、死者が蘇ったり、あるいは死者の魂が悪霊となって悪さをするのを防ぐという理由があったかもしれないし(消滅すると考えられていたなら厳重に密封する意味もない)、逆に遺体が密封されず露出していたのは、蘇る心配も悪霊になる心配もないということだったかもしれない。九州的石室では3人が順に葬られるが、2人目や3人目の遺体を運び込むときには1人目の遺体(や遺骨)がそこに露出していたはずだ。現代人であればこれは気味悪いと考えるが、当時の人はそう思っていなかったことになる。ただし、開放型に属する出雲の黄泉国訪問神話では死体が腐乱して悪霊化するので、著者の考えは少なくとも出雲では整合的だ。

なお黄泉国訪問神話を検討すると、それは九州的石室が描写されていると考えられるという。しかし黄泉比良坂に当たる構造は日本の古墳にはなく、これは中国の墓道の方が合致する。黄泉国訪問神話は中国で原型がつくられ、九州に伝わったものが後に列島風に書き換えられたものと著者は分析している。

なお、古墳には内部に装飾が施されたものが550基あまりあり、特に九州の装飾古墳は華麗である。当初の古墳装飾は辟邪的性格が強い。これは死体を怖ろしいと思っていたか、もしくは死体に怖ろしい存在が接触するのを避けたかのいずれかであろう。古墳時代後期の装飾古墳では辟邪的要素が薄れ、石室内で死者が生活しているという観念を前提としたものになっているという。

「第6章 古代中国における葬制の変革と展開」では、古代中国の葬制を概説している。

日本の古墳は、実は古代中国の葬制に大きく影響を受けている。古墳は日本古来の葬制ではないし、その他界観も在来のものではない。では古代中国の葬制はどうだったのかというのが問題になるが、この点について本章は手際よく要点をまとめており大変価値が高い。

古墳では、大雑把に言って槨墓から室墓へという変化があったが、古代中国では前5世紀~前3世紀という長い時間をかけて同様の変化があった。まず古代中国の墓は、墳丘はなく、地下に槨を封入するといったものだった。これは「閉ざされた棺」であった。しかも多くの副葬品と殉死も伴った。ということは、死後の生活が観念され、死後に奉仕する家臣を共に埋葬したとしか考えられない。ただし他界は現世とは別のレイヤーにあったために、生活のための部屋は不要だったと解釈できる。

これが春秋末期・戦国初期になると、槨内に死者が動くための通路や扉が現れ、やがて室に変化した。これは墓の中で死者が生活しているという観念に変わったことを意味する。さらに石棺にも出入口が設けられた。ということは、死者は石棺から抜け出して生活すると考えられたのは間違いない。ただし実際に石棺に出入口を作るのではなく、出入口風の装飾(偽門)を付けるというものも多い。死者の肉体が蘇るというよりは、その魂が出てくると考えていたのかもしれない。また墓内には多様な装飾が施された。特に絹に絵を描く帛画では、死者の魂が龍に乗って昇仙するというテーマが描かれたのが面白い。やがて殉葬は衰退し、その代わりに土や木で作った人形模造品が副葬され、また青銅製の副葬品も徐々に姿を消し、食器や道具や家畜などの木や土の模造品(仮器)となった。他界の表現となったということになる。こうした変化とあわせて方形の墳丘が設けられるようになった。

秦・前漢の時代には室墓が定着し、身分による墳丘の格差も進行した。前漢の満城1号墓(河北省)では地下に大規模な空間が設けられ、まさに死者の生活空間となっている。こうした変化を踏まえると、槨墓的な元来の魂魄観・他界観が変化し、死者は天上に昇るのではなく地下で暮らすと考えられた可能性が高い。これが黄泉国の観念の元になっていると思われる。卜千秋墓(河南省)では壁画が残っているが、ここには西王母が表現されている。室内の他界が崑崙山とつながっていると認識されていたかもしれない。

後漢になると大型墓の墳丘は円形に変わり、槨墓はほとんどなくなった。石棺に図像を表現した画像石棺が盛んに作られたが、そのテーマは被葬者が車馬で無事他界に到着し迎え入れられたことを示すものが多い。ちなみにその他界の建物の屋根には鳳凰が留まっている。

三国時代から南北朝時代になると、205年に魏の曹操が薄葬を命じ、また222年に曹丕が墳丘並びに陵前の寝殿・集落の造営を禁じてからは葬制・墓制が大きく変化した。また南北朝期からは地域ごとに多様となった。ここからは北部と南部の記述が並行され、しかも薄葬と厚葬の揺り戻しが繰り返され動向は複雑である。結果のみをまとめると、北部では玄室で死者が暮らしているという観念が続き「開かれた棺」であったが、南部ではそうした観念が希薄で玄室は閉鎖的で槨的なものになっていった。そして玄室の前室は祭祀のためのスペースとなった(墓室内祭祀)。なお南北ともに追葬が行われるようになり、夫婦の合葬は基本となった。

他方、長江以南では船棺葬という独自の葬制があった。丸木舟(のような棺)に遺体を封入するのである。この地域では船が他界への乗り物だという観念があった。ただし南部へ室墓が普及した段階では船棺葬は低調となった。

また鳥船信仰についてはどうか。先述のように、北部では龍に乗って天上に赴くという観念から車馬で赴くように変化した。鳳凰は乗り物というよりは他界からの死者である。南部で、こうした北部的観念と他界への乗り物としての船が融合し、鳥に導かれて船で他界に赴くという観念が生まれたと思われる。ただしこの他界は海上ではなく天上にある可能性が高い。ベトナムや東南アジアにも船を他界の乗り物と見なす観念があり、これが中国と日本に別々に伝わっている可能性もある。

「第7章 日中葬制の比較と伝播経路」では、弥生時代からの葬制が振り返られ、これまでの知見が総合される。

弥生時代の日本の葬制は基本的に「閉ざされた棺」で、そこに中国から槨墓的要素・室墓的要素・船棺などの要素が伝わってきた。古墳時代に埴輪が登場することは、他界の表現という室墓(「開かれた棺」)的な変化を表している。しかしこの段階では墳丘内部では槨墓的な「閉ざされた棺」であった。そして天鳥船信仰が伝わってくる。天鳥船信仰が長江流域から伝播したという直接的な資料はないが、古墳時代の葬制の基層は弥生文化+長江流域の船棺葬であったと見られる。

中期には船棺は退潮して葬送儀礼(古墳の儀礼)が完成するとともに、他界表現はより充実した。古墳の儀礼では、「葬列から埴輪配列が示す他界表現まで、画像石に表現された昇仙図の筋書きが大きな影響を与えた可能性がある(p.251)」。人物埴輪の出現は、俑の情報を元にして列島風にアレンジされたものだったと思われる。なお日本には確実な殉死の例はない。

一方、九州の「開かれた棺」の系譜は北朝・高句麗系の棺・室に求めるほかない。ただし九州の地下式横穴については、「北朝で発達した土洞墓との関連を推測させるだけで、詳細は不明(p.258)」。

後期では、畿内的石室・九州的石室が展開したが、畿内では「閉ざされた棺」が続いた。本来は石室は「開かれた棺」とセットであるべきだがここで一種のねじれが生じている。また畿内では石室内で食物の供献が行われた。これは死者の食べ物なのか。かつてこの儀礼は「ヨモツヘグイ(他界の食べ物を食べることで他界の者になること)」と理解されたが、「閉ざされた棺」である限りそれは死者の食物ではありえない。死者との別れの儀式ではないかというのが著者の考えである。

さらに6世紀後半には、夫婦を中心とする複数埋葬が多くなる。九州的石室にも複室構造をもつものが現れ、また彩色した絵画が登場した。なおこうした葬制には高句麗の影響が大きいと見られるが、高句麗には天鳥船信仰の表現はまったくない。

後期後葉、天鳥船信仰は退潮し、埴輪も見られなくなる。古墳は他界表現を失い、墓標に近づいた。社会的にも古墳による社会秩序から、法制的原理の規定が優越するようになったと見られる。

このように、「日本列島の弥生・古墳時代の葬制・墓制は、新石器時代以来の中国大陸における葬送・墓制の影響を強く受けつつも、それらを巧みに消化し、列島独自に作りあげたもの(p.227)」なのである。

本書は全体として、古墳について詳しくかつ網羅的にまとめており、教科書的な価値が高い。ただし文献史料との対照は部分的なものにとどまり、考古学からの知見が主である。またその中で、類書では等閑に付されがちな他界観について考究しているのが興味深い。特に他界観を「開かれた棺/閉ざされた棺」と「槨墓/室墓」という二元的な原理で考察しているのが明解である。

しかしながら、著者がいう他界観が腑に落ちない点も多い。そこで私は著者の二元軸に付け加えて「死体を怖ろしいものだと思うか/そうでないか」を付け加えたい。密封した「閉ざされた棺」は、死体が永遠の眠りにつくとか霊魂が消滅するとか考えるよりも、単純に「死体が怖ろしかった」と考える方がすっきりと説明できる。逆に死床に死体を露出させて安置した九州の人々は、死体が石室内で動きまわれるようにしたと考えるより、死体をそれほど怖れていなかったとした方が理に適う。というのは、追葬する時には先に埋葬した人はすっかり骨になっていただろうから、「室内を動きまわって生活していた」という観念は育みがたいと思うのだ。

ところで黄泉国訪問神話で、イザナギは死んだイザナミに会いに行くが、これはイザナギが死者を恐れていなかったことを示唆する。しかし腐敗したイザナミの姿を見てしまいイザナギは逃げ出す。ここで初めてイザナギは死者への恐れを抱いている。これはどう解釈できるのか、今私にもよくわからないが気になる神話である。

もう一つ、著者が注目していないのは気候である。古墳時代は、「古墳寒冷期」と呼ばれる日本の歴史の中では顕著な寒冷期に当たっていた。これは死体の腐敗が遅れることを意味していたと思う。九州でそれほど死体が恐れられていなかったとすれば、それは九州が比較的暖かだったために速やかに腐敗・分解して骨になったからだと考えたい。逆に畿内では、寒冷なために長く死体が保存されたことが恐ろしさにつながったと解釈できる。つまり、他界観がどうこうというより、単純に死体がどう腐敗・分解して骨になったかという点も、古墳の葬制に影響を与えたのではないかと思うのである。

古墳時代の他界観についていろいろと考えさせる良書。

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2026年2月7日土曜日

『日本人の葬儀』新谷 尚紀 著

日本人の葬儀について民俗学の立場から概説する本。

本書は1992年に発表されたもので、内容がやや古い。私は新谷尚紀(たかのり)が若い頃にどんな視点から葬儀を見ていたのだろうと本書を手に取った。新谷尚紀は本書を発表した後も精力的に葬祭や信仰の研究を続け、民俗学の立場からの葬祭史の第一人者となっている。

「I 葬儀の深層」では、葬儀にまつわる民俗が大量の事例とともに紹介される。

ここでは日本人の葬儀が概説されるとともに、そこで米が重要な役割を担っていたことが強調される。そもそも香奠は、葬儀期間中の関係者の食糧として持ち寄られたものだった。ではなぜ米でないといけないのか。著者は「米にはある種の霊力があると考えられていた」と考える。死の力を中和するために米が必要だったというのだ。

また「四十九餅」という民俗事例が紹介される。私は聞いたことがなかったが広く分布しているらしい。葬儀が終わった後に四十九餅(しばしばそれは49個の餅である)を搗き、埋葬の直後や四十九日に食べたり寺に持って行ったりして死者との別れをするというものである。これについて著者は「かつて日本の葬送儀礼においては、死後四十九日間程度のモガリの期間が存在したということを暗示(p.60)」しているという。

それから、死者が出るとそのケガレは火を通じて感染するものと考えられ、使う火を別にする(別火)という習慣もあった。これは不思議なことにお産の時も似たようなことがある。葬式と誕生にはどこか通ずる部分があるらしい。

葬儀が終わると大抵は墓塔を建てるが、石積みをするというのがもっと古くからの民俗だ。神社や寺に石を奉納することもよくあることで、その石を水辺から拾ってくることも多い。これは丸っこい石が好まれたという以上の理由があるのかもしれず、水辺から持ってくることに意味があった可能性がある。

「II 葬儀の歴史」では、古代・中世・近世の葬儀が文献史料から概説される。

まずは古代天皇の葬儀である。記紀によれば、天皇は死後一定期間、殯(もがり)の儀礼が行われた。天武天皇の場合、2年間もさまざまな儀礼が行われた。具体的には発哭・発哀・慟哭などの哭泣儀礼、歌舞、供物(特に食事)がささげられた。ここで天皇はまだ完全な死者とはみなされず、食膳をささげ続け、同時に哭泣が行われ、最後に誄(しのびごと)がささげられて儀礼が完了した。それにしてもどうして殯が行われたのかはっきりしない。著者は歌舞がささげられる理由は、死んだ人の魂は怖ろしく災いをもたらすから、それを鎮める鎮魂の儀礼だったとするが、これは「完全な死者とは見なさない」という前提と食い違うような気もする。殯が立脚していた死生観とはなんなのだろう。

8世紀から9世紀には、天皇家は積極的に薄葬を進めた。これは儒教的な思想に基づき、葬送に多くの費用を費やすことが民の負担になるという考えで行われたと著者は考えている。確かに大火薄葬令では、葬送造墓に財を尽くすことは「諸の愚俗(おろかびと)のする所なり」とされている。おそらくはこの葬送推進の一環で殯は文武天皇を最後に行われなくなり、立派な墓(陵)も作られなくなった。一方で、初七日から七七日までの追善供養はむしろ盛んになっている。嵯峨天皇と淳和天皇はさらに薄葬を徹底させ、墓自体が不要だと述べている。淳和天皇は「人没して精魂天に皈る。而るに空冢墓(からちょうぼ)に存す」と言っている。墓には魂はなく空っぽだといい、彼は散骨を指示した。一方で同様に薄葬を指示した嵯峨天皇は仏教儀礼は推奨し「釈家の論、絶棄すべからず」と言っている。清和天皇になると自ら出家入道の身で西方に向かって結跏趺坐し、手に定印を結んで入滅した。

平安時代の貴族の葬送については、寛弘8年(1011)の一条天皇の葬送を『御堂関白記』『権記』『小右記』の記録を元に紐解いている。この葬送では、四十九日の法事とか一周忌など現代と同じような儀礼がすでに実行されている。気になったのは、火葬した後の遺骨に幾人かがしばらく祗候していることである。また遺骨は円成寺に3年安置され、一周忌までは伴侶6名で阿弥陀護摩を修し、その後は5名の僧で念仏を奉仕することとしている(その後陵に埋葬)。遺骨に対する儀礼が3年間もあったのは興味深い。

また万寿2年(1025)に亡くなった藤原嬉子の葬儀もさまざまに記録されておりこれも詳述される。当時は母は子の葬送に立ち会わないという習慣があったが、この理由は気になる。また葬儀後に銀製の多宝塔が建立されているのも興味深い。また現代と違うのは、「僧を中心とする盛大な儀式があまり行われていない(p.183)」ことである。

次に中世である。ここでは、中世の葬儀の次第について記した「吉事次第」とその類書「吉事略儀」をまず参照する。これらの儀礼は現在の葬送儀礼とさほど異なるものではないが、枕飯や枕団子、四十九日餅など、食物についての記事は全く見えない。これには著者も「不可解だ」としている。次に天文19年(1550)に行われた足利義晴の葬送が「万松院殿穴太記(あなほき)」によって述べられる。ここでは位牌が葬儀の中心的位置を占めているのが注目される。なお位牌は紙で包まれ(←⁉)、「新捐館万松院殿贈一品左相府曄山照公大居士昭儀」と書かれていた。また葬儀後に位牌所をどこにするかで軽い綱引きが行われているのも注目される。ほとんどの儀礼が現代と共通だが、違うのは葬儀に際して馬をひくということである。

近世の葬儀については、幕府の奥右筆であった屋代弘賢が全国各地にアンケート調査をした結果が残っているのでこれから窺う。このアンケート調査は文化12年(1815)に行われ、調査項目は葬儀だけでなく各地の年中行事や冠婚葬祭を調査するものである。それらを見ると、やはり位牌の存在感が大きい。位牌は相続者を明示する機能を持っていた。それから水戸藩では「士以上」が仏式ではなく「儒法」によって葬儀が行われており、墓地が菩提寺ではない場所に置かれている。町人以下は仏式のようだ。全体を通じて、近世の葬送習俗は現代(戦前戦後あたり)と同じものである。

「III 他界への憧憬」では、日本人が抱いていた他界観が様々な民俗事例から推測される。

柳田国男は『先祖の話』で、盆には先祖・新仏・無縁仏の3種の霊がやってくると述べたが、民俗事例を見てみるとそのような区別はなく、時代的な変遷として様々な祀り方があったと考えた方が自然であることがわかった。家に仏壇が常設され位牌が祀られるようになって盆の習俗が変化した結果としてあたかも3種の霊を区別していたかのような様相となった。ではなぜ無縁仏を祀るという発想が出てきたのか。著者はこれについて、庶民はただ先祖を祀るとだけ考えていたのに、それに対して「戸外の盆棚は無縁仏をまつるものだ」と檀家寺の住職が盛んに説いた事例があることを指摘し、無縁仏とは仏壇に祀られない霊が寺院によってクローズアップされた結果広まったのではないかとしている。一方で、無縁仏を祀る観念の方が古い可能性もあるといい、要するによくわからない。

次に、これも柳田国男が提起した「人を神に祀る風習」について取り上げ、その背景には遺骨と霊魂を分離する思想があったことを指摘している。明治神宮は明治天皇を祀ってはいてもそこに遺骨(や遺体)はない。逆に言うと、遺骨や遺体があればそこは神社たりえないのではないかという。当初は慰霊の施設でも、いったん神とされてしまうと何らかの霊威があるものとされ、祈願の対象ともなった。そしてそういうことを期待して、人を神に祀ろうとする利害関係者もいた。

次に他界観の検討で、面白い事例が提示される。同じような海辺にある半農半漁の村でも、死後は海の彼方に魂を送るとしている場所と、山の方に死者の世界の入り口があると観念されている場所の両方が見いだせるというのだ。これについて著者は日本人の他界観は「そう単純な画一的なものではない(p.291)」といい、他界観は「それぞれの地域社会ごとに、伝統的な生活の蓄積の中で形成されてきている(同)」という。この指摘は重要だ。つまり、他界観については正統的教義がない(または弱い)というのが日本の特徴だということなのである。もちろん仏教では六道輪廻とか浄土とか様々に死後の世界を喧伝したが、こうした死後イメージは日本人の他界観に全面的には受け入れられていないのは間違いない

また各地には怪物退治と人身御供の伝説が大量に残っている。どうやら日本人の他界イメージは怖ろしいものであるらしい。もしくは日本人の神のイメージが生贄を求める怪物的なものであったのかもしれない。

さらに一の谷墓地での調査結果が簡単に触れられ、中世から近世への墓地の変遷が概括される。一の谷墓地は、鎌倉から戦国までの長い間、見付の町(静岡県磐田市)の墓地としてあらゆる階層の人々が葬られた場所である。これは町の中にあるのではなく、町の後背地にある。豊後国の大友氏は町の中に墓を作ることを禁じているが、一の谷墓地にも同様の事情があったのかもしれない。ただし、大友氏が府中への墓所を作ることを禁じているということは、実際にはそうする人がいたことを意味する。一般の人にとって町中に墓地を作ることは自然なことだったが、権力者にとっては都合が悪かったことになる。また見付の町には多くの寺院があったが、それらの寺院は葬送や死者供養にはかかわっていなかったと見られる。墓地に隣接した護世寺(浄土宗)だけがその役割を担っていたようだ。近世になると見付の町にある各宗派の寺院に境内墓地がつくられるようになり一の谷墓地は廃絶した。

最後に、昔話「三枚のお札」をキーにして、日本人の心性において便所に妙な存在感があることを指摘している。

最初に述べたように、この本はやや古く、ケガレ概念の扱いなどは現代から見ると脇が甘いような気がする。日本人の葬儀の思想を解明しようとするよりは、わかっていることをまとめてその後の議論の土台を作っているような本である。ただし最後の「三枚のお札」の考察は毛色が違い、葬儀とは直接の関係はないながら、子供の遊び歌などから異界観を探っていく手法はより幅広く展開できる可能性を感じた。

また全体を通じて特に注意を引いたのが、近世における位牌の存在感の大きさである。位牌こそが近世での死の儀礼の中心だったのかもしれない。

ちなみに、本書には著者がその後取り組むことになる研究テーマの多くが萌芽的に表れているように思われる。特に、葬儀そのものよりその背景にある他界観に注目していることは著者の独自性であり興味を引いた。

葬儀と他界観を合わせて考察した先駆的論考。

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