荘園制を徴税・納税の論理から述べる本。
近年、荘園制のすぐれた概説書が出るようになった。特に伊藤俊一『荘園—墾田永年私財法から応仁の乱まで』は気候変動にも目配せしつつ荘園制を明解に説いている。しかし寺社と荘園とのかかわりは詳細には書いていない。一方、本書の表紙では「税の見返りに求めるべきは、神仏の加護か、武力による安全保障か?」と問いかけており、荘園制における寺社の意味を考えたくて手に取った。
本書は、制度的な変遷よりも、現場の人間がそれにどう対応しようとしたかということを中心に荘園制を描く。著者の視点は、「たとえ武力によって税を強制的にかけられていたとしても常に監督があるわけではないのだから、自主的に納税する論理が納税者側になくてはその制度は長続きしない」というものだ(=「片務的で暴力的な徴税は長続きしない(p.33)」)。ではいかなる論理で中世人は税を払ったのかということが問題になる。
現代では、納税の見返りとしては社会保障やインフラ整備などが挙げられる。それが釣り合っているかどうかはともかく、反対給付があることが納税の意識を支えている。中世も同じではなかったか。それは税を課す側にも言える。「領主にしても、村落にしても、社会に対する責任を自負する存在である(p.26)」からこそ税を取れるのである。では彼らはどういう形でその責任を体現したか。
「第1章 荘園とは何か」では、古代から荘園制成立までが語られる。
課税・納税の論理は荘園に限らず、古代の租庸調にも当てはまっていたはずだ。そのうち調は国家の祭祀のために使われるという建前があったからこそ負担したかもしれないという。「国家が祭祀を代行することが、人々にとって税を払う理由になりえた(p.33)」。同様に、租も神への初穂であった可能性がある。「神への信仰には税をつくりだす力があった(p.35)」。
最初期の荘園は、貴族・豪族・寺社による墾田を認めることによって始まったが、特に東大寺には諸寺院でも最大の4000町の墾田が許可された。鎮護国家の役割を果たしている東大寺だからこその規模なのだ。
なお著者は荘園を「私的」な所有とする認識は適切ではないという。東大寺が荘園を「私有」したと述べても、その「私」にはあまり意味がない。そして墾田永年私財法によって認められる荘園の他、皇族・貴族・寺社などは「官田」「御厨」「御田」「御園」「位田」「識田」「勅旨田」「親王賜田」「神田」「寺田」など多様な名称で土地を所有していた。
墾田にも納税の義務はあったため、口分田でも墾田(荘園)でも農民は納税に後ろ向きで、郡司や国司も彼らと結託して課税逃れをするようになった。農民にとってみれば、税は安い方がいいし、郡司や国司にとっても、真面目に国家へ税を納入するよりも農民と結託して私腹を肥やした方がうまみがある。国家の仕組みが弛緩してくればなおさらだ。国司は官僚機構だが、これがトップに責任と権限を集中した「受領」となり、受領が引き連れてきた郎党が実務を担った。特に統治のかなめとなったのが「目代(もくだい)」という秘書官である。やがて国司の実務は忌避されるようになり、受領は在京しつつ、目代が地方行政を担うという形になった。
租庸調は人への課税(人頭税)であったが、荘園制は土地への課税(いわば固定資産税)である。とはいえ、現在の固定資産税もそうだが、誰がその税を納めるのかという、人とセットでないと徴税はスムーズにいかない。そこで水田に納税責任者の名前をつけて、それを受領が直接把握して徴税する「負名(ふみょう)体制」へと変わっていった。また荘園でも元来は租庸調が納税の基本であったが、やがて土地税である「官物(かんもつ)」とその他いろいろを含む「臨時雑役(ぞうやく)」の二本立てになり、それが中世の「年貢」と「公事(くじ)」へと継承された。臨時雑役は内裏の建設や大嘗会の挙行などに際して課され、その課税の論理には祭祀・信仰があった。さらに、納付の品目も、麦・油・塩など元来はいろいろあったが、これが米に一本化された。これらが概ね10世紀前半に起こった変化である。
摂関期になると、荘園領主(摂関家、大寺社、中下級貴族)が国衙に対して課税の免除を申請するようになった。天皇が成立に関与した荘園であるとか、鎮護国家のための仏事を担う寺社であるといった大義名分が掲げられた。現代から見ると国家的な機構の末端にいる存在が免税を主張するのが奇異だが、農地→(徴税)→国家→(予算)→現場という再配分機能がうまく働かない状態では、「荘園で国家的な事業を自弁しますのでその分免税してください」というのは筋が通っている。こうして設立された課税免除の荘園を「免田型荘園」という。これは荘園の領域全体ではなく、その中の指定された水田に限って免税された。
そして国司が交代するたび(任期4年)に国衙のスタッフが検田を行い、その都度免税の交渉が行われたとみられる。そのため、荘園の絵図などの記録がしっかりと作られた。ちゃんとした記録がないと免税が認められなかったのだろう。しかしこの仕組みは、わざわざ現地調査をしないといけないので国衙スタッフの多大な負担になる(それで徴税できるならいいが、免税のための仕事なのは気が進まなかっただろう)。そこで「10町とか20町とかの切りのよい数値で免田の総額を設定しておくだけの、浮免(うきめん)と呼ばれる方式もあった(p.59)」。これは現地で免田を確認しなくてよいので手間は減っただろうが、免除の申請と受理という作業は変わらずあった。なお、これとは別に、開発領主が切り開いて作った所有地である「私領」もあった。
しかしこのように免税が多くなると、国家としては困るのは当然である。11~12世紀には内裏の建設を行うためなどとして荘園整理令(免税の取り消し)がたびたび出された。国家の意図を越えて国司(受領)が免税を行ったためであろう。それは免税を認めることで国司に何らかのキックバックがあったことを予見させる。後三条天皇が出した「延久の荘園整理令」は、ちゃんとした記録のない荘園を廃止するという実効性を伴っていたが、次の院政期に入ると荘園は急増した。
特に12世紀前半の鳥羽院政期が荘園設立のピークとなった。この頃は、国家の側(天皇家・摂関家)が積極的に荘園を設立した。わずかな私領や免田の荘園を核にして、その周りの土地を全部荘園とするもので(=領域型荘園)、これを設立することを「立荘」という。その名目の典型が、寺院(御願寺)の建立である。つまり社会の最上位層である彼らにしてもフリーハンドで荘園を設定できたわけではなく、国家的事業という大義名分が必要であるという通念は消えていなかったのである。そして、具体的な立荘のプロセスは、(1)御願寺で必要になる経費が〇〇石と算出される→(2)核となる私領や荘園の寄進が行われる→(3)それらの荘園の面積では必要経費に満たないので領域が設定される、といった流れであり、多数の人々が土地を媒介として御願寺というプロジェクトに参与し、その後の利益にも与ったと思われる。
保元の乱に勝利した後白河天皇が発した荘園整理令で、彼は荘園の新設や拡張には後白河天皇・白河院・鳥羽院のいずれかから発行された許可証を要するとした。天皇・上皇の認可が必要というのはすごいことだ。小さい政府・地方分権の性格が強い中世において、荘園制というのは中央集権主義的なのである。結果、「荘園の所有者として認められたのは、天皇家・摂関家・大寺社のみである(p.71)」。しかし彼らは名義上の所有者ではあっても、常にその荘園を実効支配しているとは限らない。
彼らのような荘園所有者を「本所・本家」といい、荘園の経営者を「領家」という。こちらは摂関家未満の貴族などが務めた。さらに現地でその管理を行うものが「荘官」である。荘園の統治構造は「所有・経営・管理」を担う「本所・領家・荘官」の三層構造であった。そしてこの三層構造は国衙の介入を拒否し、直接徴税するようになっていく。しかし国衙の介入を拒否したといっても、その徴税はみかじめ料ではなく、あくまでも国家的事業の遂行に必要な経費をあてがうという意味であった。だからこそ本所は天皇家・摂関家・大寺院のみだったのである。そして天皇家の荘園も、例えば八条院領のように大半が御願寺領だった。御願寺の維持が国家的な意味を付与されていたということになる。寺社が担っていた「鎮護国家」は、公共の性格を持っていた。なお立荘の名目の多くが御願寺だったことは、寺社の維持以外に国家が担う部分が縮小していたためだと考えることもできる。
このように、荘園を「私的な土地所有」と見なすことは適切ではなく、国衙と荘園はともに国家的な意味合いがあったという意味で同質的なものであると考えた方がよい(=荘園公領制)。
「第2章 課税する論理、納税する論理」では、荘園における課税と納税がどういった考えで行われていたかを述べる。
荘園を納税側(百姓)から見ると、年貢を納める点においては国衙領と違いはないが、「公事」すなわち各種の「公的な事務」も負担する必要もあった(※国衙領も公事がなかったわけではない)。これには多種多様な食料品や日用品が含まれ、年中行事の実施や物品の運搬もあった。現代の農村で、各種行事の実施に協力することが前提となっているのと似たようなものかもしれない。そして現代でも、そうした明文化されていない負担が住民の不満の種になりがちなように、当時の人々も領主から無制限に使役されることは「公平(くびょう)」でないとして反抗した。
やがて国衙は税収不足を補うため「一国平均役」として荘園にも課税するようになった。こうして百姓は国衙にも納税するようになったので、彼らは自分自身を(領主の下人ではなく)「公民」であると考えるようになった。では何のために彼らは領主に納税するのか。彼らが領主に要求したのは「安堵」すなわち安全な生活の保障である。一方、領主の方は百姓が納税を果たすことは「忠勤」や「忠節」であると見なした。こうして領主と百姓の間に双務的な関係が成立していった。当時は待遇が悪ければ百姓が逃げてしまう(逃散)ことがあったので、荘園の農民は農奴化しなかったのである。
文治元年(1185)、頼朝は地頭の設置を後白河から了承された。地頭は荘官の一つで、徴税を行った。鎌倉幕府で興味深いのは、将軍は本所にはならなかった、ということである。頼朝の極官は権大納言・右近衛大将で大臣にすら届いておらず、本所となるには地位が低すぎた。源平の合戦の後、平家や後鳥羽院関係者から「平家没官領」「承久没収地」とよばれる大量の荘園を押収したが、これも幕府が所有したのではなく、後高倉や後堀河に返却するなどして処分した。
すなわち鎌倉将軍家は荘園の所有はせず、手に入れたのは領家の立場であった。そして幕府が領家になっていない荘園でも、幕府は地頭の人事権を持っていた。そういう荘園においては、地頭は領家の指揮下には入っているが、地頭がトラブルを起こしても領家は地頭を解任することはできず、幕府に訴えるほかなかった。幕府は地頭を派遣する人材派遣会社のような存在であったと考えることもできる。なお将軍家は荘園を所有していないといっても、本所は(領家を兼ねていないかぎり)荘園の実務に手出しはできず、本所に納められる税も僅かな割合であった。だから領家であることの方がうまみがあり、むしろ本所が領家の地位を欲していた場合もある。鎌倉将軍家は荘園制については名を棄てて実を取ったのである。
ちなみに、「土地の所有を認めてもらう(安堵)かわりに、幕府の忠節を誓う(=御恩と奉公)」という「御家人」の教科書的説明は本書ではされていない。そもそも鎌倉幕府の成立当初からこういった契約的関係があったのではないようで、まずは将軍に名乗り出て御家人になり、地頭へ任命されるという、主従関係の方が先立つようである。
ともかく、開発領主的な地頭ではない、落下傘的に地頭に就任した武士たちが、百姓からより多くの収奪を行おうとしたことは想像に難くない。幕府は「仁政」という理念を掲げ、百姓に保護を加えるように地頭に命じたが、あまり実効性はなかったようだ。こういう状況が生じたのは、課税基準どころか枡さえも明確に決まっていなかったことと、納税の品目が米ばかりではなかったこと、土地に対して固定的な課税率が定められていたのではなく、収穫量に応じた徴税が行われたこと(土地の良否だけでなく豊凶も加味された)、必要経費(例えば灌漑施設の整備費、寺社の維持費・祭礼費など)の控除が認められていたことなどが絡み合っていた。つまり、荘園での課税は良くも悪くも自由度が高かった。
さらに代銭納(百姓から徴収した物品を市場で銭に変えて領主に納入する)が普及すると、収穫物の豊凶に加えて、市場での相場によっても税額が変わることになった。決まりきったものを納税するシステムならば誰が徴税官になっても同じだが、こう変動要素が大きいと有能な徴税官が求められることになるし、なにより面倒な徴税実務が忌避されるようにもなった。こうして、徴税業務を委託することが行われるようになったのである。領家は荘園経営の実務を「預所」に委託し、そこがさらに「預所代」に業務を委託することもあった(後述)。「中世荘園の大きな特質は、請負に次ぐ請負にあった(p.137)」。
ところで、税額から必要経費が控除されたことが極めて興味深い。灌漑施設の整備費が控除されたのはともかく、気になったのは荘内にある寺院・寺社の維持費や祭礼費である。課税額全体からそうした費用が引かれるのではなく、特定の水田を「仏神田」などと指定して、そこが免税されるという仕組みだ。神仏の経費が控除されるとなれば、百姓にとっては神仏を祀らない理由がない。この点が本書で最も蒙を啓かれた点である。中世に膨大に祀られた中小の神仏は、経費控除を目的としたものであったのかもしれない。
例えば、課税は「名(みょう)」という単位(ほぼ集落にあたる)でなされたが、あちらの名では八幡を祀って免田が認められたとなれば、こちらの名でも薬師を祀ろう、というようなことになるのはごく自然だ。よって荘内には多くの寺社が建立された。新見荘では、全76町弱のうち、こうした寺社の免田が1割を占めており、63の名のうち28の名で寺社由来の免田が記録されている。なお新見荘の本所は東寺で、領家は小槻氏であったが、元徳2年(1330)に東寺は小槻氏から領家の地位を獲得している。ここで建立された寺社はどうも東寺とはあまり関係がないようにみえる。それでも「住民が生活のために、ひいては荘園を守るために神仏が必要だといえば、領主はそれをむやみには否定できず、税からの控除を認めねばならなかった(p.150)」。
ところで、本書では指摘されていないが、神仏の祭礼というものは多かれ少なかれ再配分の要素があり、また祭礼を共同で実行することはコミュニティの結束を高める効果が期待できる。田畑が散在した中世荘園の風景を前提とすると(→第3章参照)、百姓たちには共同作業が少なかったと考えられる。神仏の名において「名」ごとに寺社が建立されたことは、百姓が自己組織化していった結果とも解釈できる。中世後期の一揆において神仏の名において惣の結束が確認されたことが想起されよう。
一方、このように控除が様々な理由で認められる課税方法であれば、領家としては適切に徴税できているかいちいち監査しなくてはならない。これは究極的には現場に行ってみなくてはわからない。そこで信頼のおける人物を派遣することが求められるようになった。
「第3章 中世人の生存競争」では、より具体的に納税の場面を見ていく。
そもそも中世の田園は、山裾にまばらに田んぼがあるような状態で、面的に田んぼで覆われていたのではなかった。荘園とは国土開発の仕組みでもあったので、荘園制で墾田は徐々に進んだがそれでも生産性の高い田んぼが並んでいたという風景ではなかった。またその生産性は、「中世後期の先進地域では反収が1石から2石超という幅で推移(p.166)」しており、だいたい1.5石程度であった。そして年ごとの収量の変動がかなり大きかったことが百姓と荘官の軋轢を生んだ。
税を減免する措置のことを「損免」といい、百姓や荘官は台風などの災害や凶作の際に近隣にも被害が出ていることをアピールして「国中平均」とか「一国平均」(で不作になっている)というフレーズを使った。税の減免を求める論理が視野の拡大をもたらしているのが興味深い。領家の方はさらに視野の広い「天下一同」という表現を使い「その災害は天下一同ではない」などといって反論した。
このように、徴税の実務は課税側と納税側の綱引きであった。そこに地頭がやってくることで、この力関係は課税側有利になったように見える。地頭は治安維持も担っていたからである。幕府は仁政を掲げてはいたが地頭は時として暴力的に住民に臨んだ。地頭は本来は徴税官であるが、領家としては荘園の実務を全部地頭に任せることもやるようになった。これを「地頭請」という。地頭に一定額の上納を請け負わせ、それさえ納入されれば地頭に自由にやらせるということである。ところが先述の通り領主(領家)には地頭の人事権がなく、領領主としては困った存在でもあった。そこで荘園を領主と地頭で二分する「下地中分」が行われるようになった。領主としては荘園が半分になってしまう荒療治だが、そうまでして地頭と縁を切りたい領主がたくさんいたということだ。こうして地頭は、(当時は領家とはみなされなかったが)領家と同じような存在、事実上の領主となった。
「第4章 中世社会の変質と税」では、南北朝の動乱から室町までの荘園制が語られる。
戦乱が続くようになると、戦費を調達することが必要になる。そこで幕府は戦時の臨時的処置として「半済(はんぜい)」の権利を守護に与えた。これは領主におさめるべき年貢米の半分を戦費として徴収することである。このおかげで守護は強大な権限を持ち、武士たちと主従関係を構築した。また戦乱により荘園が脅かされると、「よそからやってきた武士たちが、国家や地域の平和を守るために戦ってやると称して、その費用を荘園に請求するようになった(p.210)」。これは西部劇で見たような光景だ。
さらに「一国平均役」の系譜に位置付けられる「反銭(段銭)」も義満の頃から制度化する。全ての土地から徴収する臨時税である。これも朝儀の実施、大寺社の修造などを名目に課された。なおこのおかげで「中止や縮小をやむなくされていた多くの朝儀が復興をみた(p.216)」。室町幕府(足利義満)は徴税という国家的機能を、朝儀を名目にして代行することができるようになったのである。中世後期には反銭は幕府の命を受けた守護が徴収するようになった。これは年貢に比べて一律に課すだけなので簡便で合理的な税であった。
さらに室町将軍家は、鎌倉幕府とは異なって最大規模の荘園領主となった。有力な守護も多くの荘園を獲得した。さらに将軍家は「新たに御願寺を建立してその御願寺に荘園を寄進し、それを財源として先祖の追善仏事を行わせた(p.219)」。また将軍家では「出家した女性が尼門跡と呼ばれる寺院の住持となり、その寺院が荘園を所有するばあいもあった(同)」。つまり将軍家は、院政期の天皇家と同じようなことを行った。義満が創建した相国寺の七重塔(応永6年(1399)落成)は高さが360尺(109メートル)もあった。明徳元年(1390)の尊氏の33回忌法要は大寺院の僧侶と大部分の公卿が参加する国家的イベントであった。これらは白河上皇が仏事に狂奔したのとちょうど符合している。
この頃には本所の意味は薄れてきた。黙っているだけで納税されるという時代でなくなっていたのである。そこで本家は領家の立場を獲得しようとし、大寺院は主にその近隣にある荘園の領家となっていった(そうしなくては寺院の経営が成り立たなくなっていたのだろう)。
播磨国鵤荘(いかるがのしょう)は、数少ない法隆寺の荘園の一つとしてかなり丁寧に経営された。法隆寺は現地に人(僧侶)を派遣するとともに、多額の交際費を使って預所に現地の有力者たちと濃密な関係を構築させた。これは中世後期における荘園経営の成功例であり、そのおかげで納税が確実に行われた。しかし一般的に、遠隔地にある荘園の経営は難しい。領家への忠誠心など期待できないからだ。そこで有能な人物を現地において荘園を監督する必要があり、「代官」が外部から登用されるようになった。これは「預所代」の略である。代官となったのは、禅宗の僧侶、修験道の山伏、金融・倉庫・酒造業者、守護被官などが挙げられる。
しかし代官が適切に仕事をしているかは領主にとって見えづらい。そこには守護関連の支出は把握しづらいという構造的な問題もあった(中世後期には荘園は守護と領主に両属するような状態になっていた)。そこで毎年定額の年貢を納める「請切(うけきり)」という契約が結ばれるようになった。領主にとっては、経費の控除等が適切であるか監査する必要がなく、経営の中身にいちいち目を通さずに済むため楽であった。そしてこの結果、「請切の(代官)希望者が複数現れた場合は、最高額を提示した者を代官に任命する入札(p.242)」のようなことも行われた。これは一種の投機である。
こうなると、「私なら毎年60貫文納められます」という者が代官に採用され、それがうまくいかず解任され、別の「私なら120貫文納められます」という者に替わる…といったように代官がコロコロ変わった。本書にはそういう新見荘領家方の事例が詳しく述べられているが、このようなことをしていてはうまくいくものもうまくいかないだろうと思わされる。代官にとっては荘園は収奪の対象でしかなく、領家はそれをコントロールすることもできない。有象無象の輩が代官の地位争いに参入したことが荘園制を衰退させた一因である。もちろん百姓たちはこのような状態を不満に思い、領主が直接荘園を経営することを求めたこともあったが、領主にとっては面倒な実務に立ち入るよりは、より高額で請切する者に代官をさせる方が楽だったので、あまり実効はなかった。
つまり、荘園からの徴税は面倒な仕事だったので、誰も真面目にやりたくなくなっていたのである。領家も代官も、農村と向き合い長期的に発展させるよりも、その場しのぎで収奪をする方に傾いていった。これは逆に言えば、そんな雑なやり方でもそれなりに徴税できる状態であったことを示唆する。つまり百姓の側に「納税意識」が醸成されており、供出を命じれば(個別の百姓とやりとりしなくても)年貢が納められるコミュニティが確立していたということでもある。こうなると百姓の側としては「代官など不要」と考えるのも無理はない。
「第5章 終わる荘園制」では、荘園制の終焉が述べられる。
応仁の乱の後、明応の政変で将軍になった足利義材は荘園保護をなおざりにして軍事力の誇示に走った。それまでの歴代将軍は、いちおう復古(あるべき姿に戻す)を企図していたが、義材はそれをしなかった。この時点で荘園は保護者を失い、実質的に終了した。
実際、多くの荘園では納税が途絶した。遠隔地を実効支配すること自体ができなくなっていた。それでも、領主の近傍にある荘園からは年貢が納められたし、領主自身が土着して荘園を維持した場合もある。ちゃんとした人物が現地にいさえすれば、この時代でも年貢の納入は期待できた。法隆寺領の鵤荘ではわずかながら納税が続けられたし、東寺僧が下ってきていた新見荘でも天正2年(1574)まで東寺への納税が続いた。
「おわりに」では、荘園制における納税意識が簡単に再考される。
中世においては、納税への反対給付の一つは安全保障であったが、中世後期ではこれがうまく働かなくなった。守護と領主の二重構造もそれに拍車をかけた。しかし神仏の加護を受けるための納税についてはそれなりに機能し続けた。中世後期には神罰・仏罰を怖れないものが増え、世俗化していくと言われているが、戦国大名は戦の勝利を祈願して神仏に盛大な祈りを捧げ、農村の現場でも神仏への加護が期待されていた。神仏の加護が機能している限り、徴税・納税は受け入れられていたということになる。
ただし、「中世人が税を払ううえで重要なのは、誰が税をとりに現場へ姿を現すかということであった(p.283)」。収奪しか考えていない代官が来ても納税したくない。これは納税の論理などとは別次元の問題だ。「すなわち荘園経営の成否を左右したのは、領主の在地性であった(p.284)」。であるならば、島津荘が戦国時代を通じ成長し、島津氏が有力な戦国大名となったのも理解できる。南九州では、領主と百姓の関係が他の地域に比べれば比較的に安定していたのである。
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本書は全体として、具体例と考察、制度の説明のバランスがよく読みやすい。個人的には近世の土地制度・租税制度へどう移行していくのかという部分があるとより税の本質が見えてくるのではないかとも思ったが、扱っている時代が中世なのでこれはないものねだりだろう。また、徴税・納税の論理に神仏の存在を大きく取り上げた点は本書のもっとも面白い点であり、蒙を啓かれた点であるが、著者が「神仏への信仰」としている点だけは気になった。中世において「信仰」なる概念は存在しないのではなかろうか。中世人の神仏への向き合い方は、「信仰」のような内面的なものではなく、より実体的なものであったと思われる。
中世には、全国に末寺末社が建立され、多くの百姓が出家するようになったし、戦国時代にはいわゆる鎌倉新仏教が全国を掩うこととなった。こうしたことが荘園の在り方にどう影響を与えているのか。あるいは神仏の在り方に荘園制はどう影響を与えているのか。しばしば中世は「宗教の時代」であるといわれる。中世が宗教の時代であることと、荘園制の時代であることは密接にかかわっているように思われる。
納税と神仏の関係を独自の視座で語る良書。
【関連書籍の読書メモ】
『荘園—墾田永年私財法から応仁の乱まで』伊藤 俊一 著
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荘園の通史。荘園を学ぶ上での基本図書。
『鎌倉仏教の中世』平 雅行 著
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中世仏教を顕密体制論に基づき再構築して語る本。荘園制度における寺社(特に寺院)の在り方について、延暦寺を中心に述べている(第3章)。
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