2026年4月24日金曜日

『税と権力――中世人はどうして税を払うのか』似鳥 雄一 著

荘園制を徴税・納税の論理から述べる本。

近年、荘園制のすぐれた概説書が出るようになった。特に伊藤俊一『荘園—墾田永年私財法から応仁の乱まで』は気候変動にも目配せしつつ荘園制を明解に説いている。しかし寺社と荘園とのかかわりは詳細には書いていない。一方、本書の表紙では「税の見返りに求めるべきは、神仏の加護か、武力による安全保障か?」と問いかけており、荘園制における寺社の意味を考えたくて手に取った。

本書は、制度的な変遷よりも、現場の人間がそれにどう対応しようとしたかということを中心に荘園制を描く。著者の視点は、「たとえ武力によって税を強制的にかけられていたとしても常に監督があるわけではないのだから、自主的に納税する論理が納税者側になくてはその制度は長続きしない」というものだ(=「片務的で暴力的な徴税は長続きしない(p.33)」)。ではいかなる論理で中世人は税を払ったのかということが問題になる。

現代では、納税の見返りとしては社会保障やインフラ整備などが挙げられる。それが釣り合っているかどうかはともかく、反対給付があることが納税の意識を支えている。中世も同じではなかったか。それは税を課す側にも言える。「領主にしても、村落にしても、社会に対する責任を自負する存在である(p.26)」からこそ税を取れるのである。では彼らはどういう形でその責任を体現したか。

「第1章 荘園とは何か」では、古代から荘園制成立までが語られる。

課税・納税の論理は荘園に限らず、古代の租庸調にも当てはまっていたはずだ。そのうち調は国家の祭祀のために使われるという建前があったからこそ負担したかもしれないという。「国家が祭祀を代行することが、人々にとって税を払う理由になりえた(p.33)」。同様に、租も神への初穂であった可能性がある。「神への信仰には税をつくりだす力があった(p.35)」。

最初期の荘園は、貴族・豪族・寺社による墾田を認めることによって始まったが、特に東大寺には諸寺院でも最大の4000町の墾田が許可された。鎮護国家の役割を果たしている東大寺だからこその規模なのだ。

なお著者は荘園を「私的」な所有とする認識は適切ではないという。東大寺が荘園を「私有」したと述べても、その「私」にはあまり意味がない。そして墾田永年私財法によって認められる荘園の他、皇族・貴族・寺社などは「官田」「御厨」「御田」「御園」「位田」「識田」「勅旨田」「親王賜田」「神田」「寺田」など多様な名称で土地を所有していた。

墾田にも納税の義務はあったため、口分田でも墾田(荘園)でも農民は納税に後ろ向きで、郡司や国司も彼らと結託して課税逃れをするようになった。農民にとってみれば、税は安い方がいいし、郡司や国司にとっても、真面目に国家へ税を納入するよりも農民と結託して私腹を肥やした方がうまみがある。国家の仕組みが弛緩してくればなおさらだ。国司は官僚機構だが、これがトップに責任と権限を集中した「受領」となり、受領が引き連れてきた郎党が実務を担った。特に統治のかなめとなったのが「目代(もくだい)」という秘書官である。やがて国司の実務は忌避されるようになり、受領は在京しつつ、目代が地方行政を担うという形になった。

租庸調は人への課税(人頭税)であったが、荘園制は土地への課税(いわば固定資産税)である。とはいえ、現在の固定資産税もそうだが、誰がその税を納めるのかという、人とセットでないと徴税はスムーズにいかない。そこで水田に納税責任者の名前をつけて、それを受領が直接把握して徴税する「負名(ふみょう)体制」へと変わっていった。また荘園でも元来は租庸調が納税の基本であったが、やがて土地税である「官物(かんもつ)」とその他いろいろを含む「臨時雑役(ぞうやく)」の二本立てになり、それが中世の「年貢」と「公事(くじ)」へと継承された。臨時雑役は内裏の建設や大嘗会の挙行などに際して課され、その課税の論理には祭祀・信仰があった。さらに、納付の品目も、麦・油・塩など元来はいろいろあったが、これが米に一本化された。これらが概ね10世紀前半に起こった変化である。

摂関期になると、荘園領主(摂関家、大寺社、中下級貴族)が国衙に対して課税の免除を申請するようになった。天皇が成立に関与した荘園であるとか、鎮護国家のための仏事を担う寺社であるといった大義名分が掲げられた。現代から見ると国家的な機構の末端にいる存在が免税を主張するのが奇異だが、農地→(徴税)→国家→(予算)→現場という再配分機能がうまく働かない状態では、「荘園で国家的な事業を自弁しますのでその分免税してください」というのは筋が通っている。こうして設立された課税免除の荘園を「免田型荘園」という。これは荘園の領域全体ではなく、その中の指定された水田に限って免税された。

そして国司が交代するたび(任期4年)に国衙のスタッフが検田を行い、その都度免税の交渉が行われたとみられる。そのため、荘園の絵図などの記録がしっかりと作られた。ちゃんとした記録がないと免税が認められなかったのだろう。しかしこの仕組みは、わざわざ現地調査をしないといけないので国衙スタッフの多大な負担になる(それで徴税できるならいいが、免税のための仕事なのは気が進まなかっただろう)。そこで「10町とか20町とかの切りのよい数値で免田の総額を設定しておくだけの、浮免(うきめん)と呼ばれる方式もあった(p.59)」。これは現地で免田を確認しなくてよいので手間は減っただろうが、免除の申請と受理という作業は変わらずあった。なお、これとは別に、開発領主が切り開いて作った所有地である「私領」もあった。

しかしこのように免税が多くなると、国家としては困るのは当然である。11~12世紀には内裏の建設を行うためなどとして荘園整理令(免税の取り消し)がたびたび出された。国家の意図を越えて国司(受領)が免税を行ったためであろう。それは免税を認めることで国司に何らかのキックバックがあったことを予見させる。後三条天皇が出した「延久の荘園整理令」は、ちゃんとした記録のない荘園を廃止するという実効性を伴っていたが、次の院政期に入ると荘園は急増した。

特に12世紀前半の鳥羽院政期が荘園設立のピークとなった。この頃は、国家の側(天皇家・摂関家)が積極的に荘園を設立した。わずかな私領や免田の荘園を核にして、その周りの土地を全部荘園とするもので(=領域型荘園)、これを設立することを「立荘」という。その名目の典型が、寺院(御願寺)の建立である。つまり社会の最上位層である彼らにしてもフリーハンドで荘園を設定できたわけではなく、国家的事業という大義名分が必要であるという通念は消えていなかったのである。そして、具体的な立荘のプロセスは、(1)御願寺で必要になる経費が〇〇石と算出される→(2)核となる私領や荘園の寄進が行われる→(3)それらの荘園の面積では必要経費に満たないので領域が設定される、といった流れであり、多数の人々が土地を媒介として御願寺というプロジェクトに参与し、その後の利益にも与ったと思われる。

保元の乱に勝利した後白河天皇が発した荘園整理令で、彼は荘園の新設や拡張には後白河天皇・白河院・鳥羽院のいずれかから発行された許可証を要するとした。天皇・上皇の認可が必要というのはすごいことだ。小さい政府・地方分権の性格が強い中世において、荘園制というのは中央集権主義的なのである。結果、「荘園の所有者として認められたのは、天皇家・摂関家・大寺社のみである(p.71)」。しかし彼らは名義上の所有者ではあっても、常にその荘園を実効支配しているとは限らない。

彼らのような荘園所有者を「本所・本家」といい、荘園の経営者を「領家」という。こちらは摂関家未満の貴族などが務めた。さらに現地でその管理を行うものが「荘官」である。荘園の統治構造は「所有・経営・管理」を担う「本所・領家・荘官」の三層構造であった。そしてこの三層構造は国衙の介入を拒否し、直接徴税するようになっていく。しかし国衙の介入を拒否したといっても、その徴税はみかじめ料ではなく、あくまでも国家的事業の遂行に必要な経費をあてがうという意味であった。だからこそ本所は天皇家・摂関家・大寺院のみだったのである。そして天皇家の荘園も、例えば八条院領のように大半が御願寺領だった。御願寺の維持が国家的な意味を付与されていたということになる。寺社が担っていた「鎮護国家」は、公共の性格を持っていた。なお立荘の名目の多くが御願寺だったことは、寺社の維持以外に国家が担う部分が縮小していたためだと考えることもできる。

このように、荘園を「私的な土地所有」と見なすことは適切ではなく、国衙と荘園はともに国家的な意味合いがあったという意味で同質的なものであると考えた方がよい(=荘園公領制)。

「第2章 課税する論理、納税する論理」では、荘園における課税と納税がどういった考えで行われていたかを述べる。

荘園を納税側(百姓)から見ると、年貢を納める点においては国衙領と違いはないが、「公事」すなわち各種の「公的な事務」も負担する必要もあった(※国衙領も公事がなかったわけではない)。これには多種多様な食料品や日用品が含まれ、年中行事の実施や物品の運搬もあった。現代の農村で、各種行事の実施に協力することが前提となっているのと似たようなものかもしれない。そして現代でも、そうした明文化されていない負担が住民の不満の種になりがちなように、当時の人々も領主から無制限に使役されることは「公平(くびょう)」でないとして反抗した。

やがて国衙は税収不足を補うため「一国平均役」として荘園にも課税するようになった。こうして百姓は国衙にも納税するようになったので、彼らは自分自身を(領主の下人ではなく)「公民」であると考えるようになった。では何のために彼らは領主に納税するのか。彼らが領主に要求したのは「安堵」すなわち安全な生活の保障である。一方、領主の方は百姓が納税を果たすことは「忠勤」や「忠節」であると見なした。こうして領主と百姓の間に双務的な関係が成立していった。当時は待遇が悪ければ百姓が逃げてしまう(逃散)ことがあったので、荘園の農民は農奴化しなかったのである。

文治元年(1185)、頼朝は地頭の設置を後白河から了承された。地頭は荘官の一つで、徴税を行った。鎌倉幕府で興味深いのは、将軍は本所にはならなかった、ということである。頼朝の極官は権大納言・右近衛大将で大臣にすら届いておらず、本所となるには地位が低すぎた。源平の合戦の後、平家や後鳥羽院関係者から「平家没官領」「承久没収地」とよばれる大量の荘園を押収したが、これも幕府が所有したのではなく、後高倉や後堀河に返却するなどして処分した。

すなわち鎌倉将軍家は荘園の所有はせず、手に入れたのは領家の立場であった。そして幕府が領家になっていない荘園でも、幕府は地頭の人事権を持っていた。そういう荘園においては、地頭は領家の指揮下には入っているが、地頭がトラブルを起こしても領家は地頭を解任することはできず、幕府に訴えるほかなかった。幕府は地頭を派遣する人材派遣会社のような存在であったと考えることもできる。なお将軍家は荘園を所有していないといっても、本所は(領家を兼ねていないかぎり)荘園の実務に手出しはできず、本所に納められる税も僅かな割合であった。だから領家であることの方がうまみがあり、むしろ本所が領家の地位を欲していた場合もある。鎌倉将軍家は荘園制については名を棄てて実を取ったのである。

ちなみに、「土地の所有を認めてもらう(安堵)かわりに、幕府の忠節を誓う(=御恩と奉公)」という「御家人」の教科書的説明は本書ではされていない。そもそも鎌倉幕府の成立当初からこういった契約的関係があったのではないようで、まずは将軍に名乗り出て御家人になり、地頭へ任命されるという、主従関係の方が先立つようである。

ともかく、開発領主的な地頭ではない、落下傘的に地頭に就任した武士たちが、百姓からより多くの収奪を行おうとしたことは想像に難くない。幕府は「仁政」という理念を掲げ、百姓に保護を加えるように地頭に命じたが、あまり実効性はなかったようだ。こういう状況が生じたのは、課税基準どころか枡さえも明確に決まっていなかったことと、納税の品目が米ばかりではなかったこと、土地に対して固定的な課税率が定められていたのではなく、収穫量に応じた徴税が行われたこと(土地の良否だけでなく豊凶も加味された)、必要経費(例えば灌漑施設の整備費、寺社の維持費・祭礼費など)の控除が認められていたことなどが絡み合っていた。つまり、荘園での課税は良くも悪くも自由度が高かった

さらに代銭納(百姓から徴収した物品を市場で銭に変えて領主に納入する)が普及すると、収穫物の豊凶に加えて、市場での相場によっても税額が変わることになった。決まりきったものを納税するシステムならば誰が徴税官になっても同じだが、こう変動要素が大きいと有能な徴税官が求められることになるし、なにより面倒な徴税実務が忌避されるようにもなった。こうして、徴税業務を委託することが行われるようになったのである。領家は荘園経営の実務を「預所」に委託し、そこがさらに「預所代」に業務を委託することもあった(後述)。「中世荘園の大きな特質は、請負に次ぐ請負にあった(p.137)」。

ところで、税額から必要経費が控除されたことが極めて興味深い。灌漑施設の整備費が控除されたのはともかく、気になったのは荘内にある寺院・寺社の維持費や祭礼費である。課税額全体からそうした費用が引かれるのではなく、特定の水田を「仏神田」などと指定して、そこが免税されるという仕組みだ。神仏の経費が控除されるとなれば、百姓にとっては神仏を祀らない理由がない。この点が本書で最も蒙を啓かれた点である。中世に膨大に祀られた中小の神仏は、経費控除を目的としたものであったのかもしれない。

例えば、課税は「名(みょう)」という単位(ほぼ集落にあたる)でなされたが、あちらの名では八幡を祀って免田が認められたとなれば、こちらの名でも薬師を祀ろう、というようなことになるのはごく自然だ。よって荘内には多くの寺社が建立された。新見荘では、全76町弱のうち、こうした寺社の免田が1割を占めており、63の名のうち28の名で寺社由来の免田が記録されている。なお新見荘の本所は東寺で、領家は小槻氏であったが、元徳2年(1330)に東寺は小槻氏から領家の地位を獲得している。ここで建立された寺社はどうも東寺とはあまり関係がないようにみえる。それでも「住民が生活のために、ひいては荘園を守るために神仏が必要だといえば、領主はそれをむやみには否定できず、税からの控除を認めねばならなかった(p.150)」。

ところで、本書では指摘されていないが、神仏の祭礼というものは多かれ少なかれ再配分の要素があり、また祭礼を共同で実行することはコミュニティの結束を高める効果が期待できる。田畑が散在した中世荘園の風景を前提とすると(→第3章参照)、百姓たちには共同作業が少なかったと考えられる。神仏の名において「名」ごとに寺社が建立されたことは、百姓が自己組織化していった結果とも解釈できる。中世後期の一揆において神仏の名において惣の結束が確認されたことが想起されよう。

一方、このように控除が様々な理由で認められる課税方法であれば、領家としては適切に徴税できているかいちいち監査しなくてはならない。これは究極的には現場に行ってみなくてはわからない。そこで信頼のおける人物を派遣することが求められるようになった。

「第3章 中世人の生存競争」では、より具体的に納税の場面を見ていく。

そもそも中世の田園は、山裾にまばらに田んぼがあるような状態で、面的に田んぼで覆われていたのではなかった。荘園とは国土開発の仕組みでもあったので、荘園制で墾田は徐々に進んだがそれでも生産性の高い田んぼが並んでいたという風景ではなかった。またその生産性は、「中世後期の先進地域では反収が1石から2石超という幅で推移(p.166)」しており、だいたい1.5石程度であった。そして年ごとの収量の変動がかなり大きかったことが百姓と荘官の軋轢を生んだ。

税を減免する措置のことを「損免」といい、百姓や荘官は台風などの災害や凶作の際に近隣にも被害が出ていることをアピールして「国中平均」とか「一国平均」(で不作になっている)というフレーズを使った。税の減免を求める論理が視野の拡大をもたらしているのが興味深い。領家の方はさらに視野の広い「天下一同」という表現を使い「その災害は天下一同ではない」などといって反論した。

このように、徴税の実務は課税側と納税側の綱引きであった。そこに地頭がやってくることで、この力関係は課税側有利になったように見える。地頭は治安維持も担っていたからである。幕府は仁政を掲げてはいたが地頭は時として暴力的に住民に臨んだ。地頭は本来は徴税官であるが、領家としては荘園の実務を全部地頭に任せることもやるようになった。これを「地頭請」という。地頭に一定額の上納を請け負わせ、それさえ納入されれば地頭に自由にやらせるということである。ところが先述の通り領主(領家)には地頭の人事権がなく、領領主としては困った存在でもあった。そこで荘園を領主と地頭で二分する「下地中分」が行われるようになった。領主としては荘園が半分になってしまう荒療治だが、そうまでして地頭と縁を切りたい領主がたくさんいたということだ。こうして地頭は、(当時は領家とはみなされなかったが)領家と同じような存在、事実上の領主となった。

「第4章 中世社会の変質と税」では、南北朝の動乱から室町までの荘園制が語られる。

戦乱が続くようになると、戦費を調達することが必要になる。そこで幕府は戦時の臨時的処置として「半済(はんぜい)」の権利を守護に与えた。これは領主におさめるべき年貢米の半分を戦費として徴収することである。このおかげで守護は強大な権限を持ち、武士たちと主従関係を構築した。また戦乱により荘園が脅かされると、「よそからやってきた武士たちが、国家や地域の平和を守るために戦ってやると称して、その費用を荘園に請求するようになった(p.210)」。これは西部劇で見たような光景だ。

さらに「一国平均役」の系譜に位置付けられる「反銭(段銭)」も義満の頃から制度化する。全ての土地から徴収する臨時税である。これも朝儀の実施、大寺社の修造などを名目に課された。なおこのおかげで「中止や縮小をやむなくされていた多くの朝儀が復興をみた(p.216)」。室町幕府(足利義満)は徴税という国家的機能を、朝儀を名目にして代行することができるようになったのである。中世後期には反銭は幕府の命を受けた守護が徴収するようになった。これは年貢に比べて一律に課すだけなので簡便で合理的な税であった

さらに室町将軍家は、鎌倉幕府とは異なって最大規模の荘園領主となった。有力な守護も多くの荘園を獲得した。さらに将軍家は「新たに御願寺を建立してその御願寺に荘園を寄進し、それを財源として先祖の追善仏事を行わせた(p.219)」。また将軍家では「出家した女性が尼門跡と呼ばれる寺院の住持となり、その寺院が荘園を所有するばあいもあった(同)」。つまり将軍家は、院政期の天皇家と同じようなことを行った。義満が創建した相国寺の七重塔(応永6年(1399)落成)は高さが360尺(109メートル)もあった。明徳元年(1390)の尊氏の33回忌法要は大寺院の僧侶と大部分の公卿が参加する国家的イベントであった。これらは白河上皇が仏事に狂奔したのとちょうど符合している。

この頃には本所の意味は薄れてきた。黙っているだけで納税されるという時代でなくなっていたのである。そこで本家は領家の立場を獲得しようとし、大寺院は主にその近隣にある荘園の領家となっていった(そうしなくては寺院の経営が成り立たなくなっていたのだろう)。

播磨国鵤荘(いかるがのしょう)は、数少ない法隆寺の荘園の一つとしてかなり丁寧に経営された。法隆寺は現地に人(僧侶)を派遣するとともに、多額の交際費を使って預所に現地の有力者たちと濃密な関係を構築させた。これは中世後期における荘園経営の成功例であり、そのおかげで納税が確実に行われた。しかし一般的に、遠隔地にある荘園の経営は難しい。領家への忠誠心など期待できないからだ。そこで有能な人物を現地において荘園を監督する必要があり、「代官」が外部から登用されるようになった。これは「預所代」の略である。代官となったのは、禅宗の僧侶、修験道の山伏、金融・倉庫・酒造業者、守護被官などが挙げられる。

しかし代官が適切に仕事をしているかは領主にとって見えづらい。そこには守護関連の支出は把握しづらいという構造的な問題もあった(中世後期には荘園は守護と領主に両属するような状態になっていた)。そこで毎年定額の年貢を納める「請切(うけきり)」という契約が結ばれるようになった。領主にとっては、経費の控除等が適切であるか監査する必要がなく、経営の中身にいちいち目を通さずに済むため楽であった。そしてこの結果、「請切の(代官)希望者が複数現れた場合は、最高額を提示した者を代官に任命する入札(p.242)」のようなことも行われた。これは一種の投機である。

こうなると、「私なら毎年60貫文納められます」という者が代官に採用され、それがうまくいかず解任され、別の「私なら120貫文納められます」という者に替わる…といったように代官がコロコロ変わった。本書にはそういう新見荘領家方の事例が詳しく述べられているが、このようなことをしていてはうまくいくものもうまくいかないだろうと思わされる。代官にとっては荘園は収奪の対象でしかなく、領家はそれをコントロールすることもできない。有象無象の輩が代官の地位争いに参入したことが荘園制を衰退させた一因である。もちろん百姓たちはこのような状態を不満に思い、領主が直接荘園を経営することを求めたこともあったが、領主にとっては面倒な実務に立ち入るよりは、より高額で請切する者に代官をさせる方が楽だったので、あまり実効はなかった。

つまり、荘園からの徴税は面倒な仕事だったので、誰も真面目にやりたくなくなっていたのである。領家も代官も、農村と向き合い長期的に発展させるよりも、その場しのぎで収奪をする方に傾いていった。これは逆に言えば、そんな雑なやり方でもそれなりに徴税できる状態であったことを示唆する。つまり百姓の側に「納税意識」が醸成されており、供出を命じれば(個別の百姓とやりとりしなくても)年貢が納められるコミュニティが確立していたということでもある。こうなると百姓の側としては「代官など不要」と考えるのも無理はない。

「第5章 終わる荘園制」では、荘園制の終焉が述べられる。

応仁の乱の後、明応の政変で将軍になった足利義材は荘園保護をなおざりにして軍事力の誇示に走った。それまでの歴代将軍は、いちおう復古(あるべき姿に戻す)を企図していたが、義材はそれをしなかった。この時点で荘園は保護者を失い、実質的に終了した。

実際、多くの荘園では納税が途絶した。遠隔地を実効支配すること自体ができなくなっていた。それでも、領主の近傍にある荘園からは年貢が納められたし、領主自身が土着して荘園を維持した場合もある。ちゃんとした人物が現地にいさえすれば、この時代でも年貢の納入は期待できた。法隆寺領の鵤荘ではわずかながら納税が続けられたし、東寺僧が下ってきていた新見荘でも天正2年(1574)まで東寺への納税が続いた。

「おわりに」では、荘園制における納税意識が簡単に再考される。

中世においては、納税への反対給付の一つは安全保障であったが、中世後期ではこれがうまく働かなくなった。守護と領主の二重構造もそれに拍車をかけた。しかし神仏の加護を受けるための納税についてはそれなりに機能し続けた。中世後期には神罰・仏罰を怖れないものが増え、世俗化していくと言われているが、戦国大名は戦の勝利を祈願して神仏に盛大な祈りを捧げ、農村の現場でも神仏への加護が期待されていた。神仏の加護が機能している限り、徴税・納税は受け入れられていたということになる。

ただし、「中世人が税を払ううえで重要なのは、誰が税をとりに現場へ姿を現すかということであった(p.283)」。収奪しか考えていない代官が来ても納税したくない。これは納税の論理などとは別次元の問題だ。「すなわち荘園経営の成否を左右したのは、領主の在地性であった(p.284)」。であるならば、島津荘が戦国時代を通じ成長し、島津氏が有力な戦国大名となったのも理解できる。南九州では、領主と百姓の関係が他の地域に比べれば比較的に安定していたのである。

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本書は全体として、具体例と考察、制度の説明のバランスがよく読みやすい。個人的には近世の土地制度・租税制度へどう移行していくのかという部分があるとより税の本質が見えてくるのではないかとも思ったが、扱っている時代が中世なのでこれはないものねだりだろう。また、徴税・納税の論理に神仏の存在を大きく取り上げた点は本書のもっとも面白い点であり、蒙を啓かれた点であるが、著者が「神仏への信仰」としている点だけは気になった。中世において「信仰」なる概念は存在しないのではなかろうか。中世人の神仏への向き合い方は、「信仰」のような内面的なものではなく、より実体的なものであったと思われる。

中世には、全国に末寺末社が建立され、多くの百姓が出家するようになったし、戦国時代にはいわゆる鎌倉新仏教が全国を掩うこととなった。こうしたことが荘園の在り方にどう影響を与えているのか。あるいは神仏の在り方に荘園制はどう影響を与えているのか。しばしば中世は「宗教の時代」であるといわれる。中世が宗教の時代であることと、荘園制の時代であることは密接にかかわっているように思われる。

納税と神仏の関係を独自の視座で語る良書。

【関連書籍の読書メモ】
『荘園—墾田永年私財法から応仁の乱まで』伊藤 俊一 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/03/blog-post.html
荘園の通史。荘園を学ぶ上での基本図書。

『鎌倉仏教の中世』平 雅行 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/10/blog-post_23.html
中世仏教を顕密体制論に基づき再構築して語る本。荘園制度における寺社(特に寺院)の在り方について、延暦寺を中心に述べている(第3章)。

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2026年4月10日金曜日

『廃仏毀釈はなぜ起きたのか』栗林 文夫 著

鹿児島の廃仏毀釈について史料に基づき語る本。

幕末から明治にかけて、鹿児島では徹底的な廃仏毀釈が行われた。全寺院が廃止され、全僧侶が還俗させられたのである。このように徹底的な廃仏運動が遂行されたのは大藩では例がなく、鹿児島の廃仏毀釈はよく語られる。

しかし研究面では名越護『鹿児嶋藩の廃仏毀釈』が2011年に刊行されて後はまとまった研究は行われていない。また同書は、今では注意して扱う必要がある法難史観(仏教を被害者として描く史観)の影響があり、事実関係についても修正すべき点がある。こうした状況を受け、著者は一つ一つの事実を文献によって確かめ、憶測を排し確定的に言えることのみを以て鹿児島の廃仏毀釈を記述した。

鹿児島の廃仏毀釈については、これまで市来四郎の記録(談話)が根本史料となってきた。市来四郎は廃仏毀釈運動の中心人物であり、他の記録がほとんど残っていないことからそれはやむを得なかったといえる。しかし市来の証言は額面通りに受け取れない部分があることも次第に明らかになってきた。そこで著者はこれまであまり史料批判されなかった市来の記録を確かめるという作業を行っている。その結果、細かい部分(後述の寺院数など)でより実態に肉薄している。

なお、本書のタイトルは「廃仏毀釈はなぜ起きたのか」だが、廃仏毀釈が起こった経緯やそれが徹底された理由は本書の中心ではなく、また鹿児島の事例のみの記述である(全国の話ではない)ことには注意が必要である。

「第1章 廃仏毀釈を知る」では、廃仏毀釈前の概況および重要人物の仏教観が述べられている。

薩摩藩では士族の人口割合が高く(明治4年の段階で26%)、武士を各地に分散して居住させる外城制度(延享元年(1744)では113の外城があった)があるなど、他藩とは違った特徴があった。一向宗(真宗)を禁制にしているのも他藩との著しい違いである。各郷(外城)では、菩提寺として曹洞宗寺院が、祈願寺として真言宗寺院が定められ、この2宗の寺院数が多かった。文化年間(1804~18)の記録では曹洞宗50%、真言宗33%、臨済宗11%ほどで、浄土宗、時宗、法華宗は少数派で天台宗は記録がない。なおこの記録では本土の寺院数は1840である。

宗教政策としては、キリシタンと一向宗の取り締まりために宗体座(しゅうたいざ)が設置され、後に宗門改所となった。この宗門改所は「宗門改」(本書には説明がないが、おそらく他藩の宗旨人別改と同じと思われる)と「宗門手札改」を実施した。この「宗門手札改」とは、「14.5センチ×7.5センチほどの大きさの木札に、年月日・担当役人名・父親の名前・本人名・宗旨・年齢などを書いて各人に渡した(p.43)」ものである。これは身分証のようなもので、7、8年ないし14、5年ごとに手札改めが行われ、明治3年(1879)まで30回ほど実施された。これが木札である点は気になる。宗旨人別改の場合は檀那寺の押印が必要だったのだが、木札の場合は押印がない。この木札の作成業務は郷士(外城に居住する武士)が行い、「寺院は一切関与しなかった(p.44)」。そのことを以て著者は「つまり寺請性制度がなかったということになる(同)」としている。しかし本書には「宗門改」についての説明がない。こちらでは寺院の関与はどうであったのか気になった。

薩摩藩では、18世紀以降、藩主による僧侶批判が行われるようになった。宝永2年(1705)の島津吉貴の訓諭では「国中之僧侶近年道学之心懸薄く」としている。これは大寺院の門主に対して出され、以後藩主交代の際の恒例になった。江戸時代の説話集『浦之波』には、薩摩藩主が僧侶を批判した話がいくつか収録されている。それらの話では、何らかの処分が行われようとした時に僧侶がそれを救おうとしなかったことが批判の的になっている。それらは史実とは思えないが、僧侶が人々を救わないことに対し説話の収録者が不満に思っていたことは確かである。

また種ケ島氏の「家譜」では、僧侶の問題行動が種々記録されている(余談ながら著者は種子島も専門的に研究しているので種子島の話題がたくさん盛り込まれている)。幕末には種子島の重要な寺院3つともが無住(住職がいない)になっており、家譜の編纂者は「仏法廃壊」と慨嘆している。これらの事から、薩摩藩では19世紀以降に僧侶への風当たりが強くなっていたことが明らかである。仏教が衰微しつつあった可能性もある。

さらに、鹿児島では国学が盛んになった。しかし国学=排仏・廃仏ではない。薩摩藩の著名な国学者に白尾国柱・山田清安・八田知紀がいるが、彼らは「嫌仏」ではあっても廃仏とはいいがたい。平田篤胤門人の後醍院真柱は廃仏毀釈の中心人物であったことは間違いなく、国学は廃仏毀釈の重要な背景ではあるが、国学の隆盛と廃仏毀釈を直結させることはできない。

平田篤胤と島津家には交流があり、重豪(しげひで)・斉興(なりおき)・斉宣(なりのぶ)・斉彬・奥平昌高(重豪二男、豊前中津藩主)との交流があったことが『気吹舎日記』で確認でき、天保2年には白金の薩摩藩邸で篤胤による講説も始められている。著者は「藩主たちが、どこまで篤胤の説に私淑していたかは、実際のところ不明としかいいようがない(p.60)」というが、好意的だったのは確かである。

藩主のこうした動向は薩摩藩士にも影響を与えていたと思われる。薩摩藩は特に平田門人の多い藩ではないが、要路にいる藩士に平田門人が散見される。とはいえその他大勢の藩士にどう受容されていたかは不明であり、「「国学=悪」「平田篤胤=廃仏毀釈の元凶」(p.63)」との図式は再検討されるべきとしている。

重豪以降の藩主の仏教観を検証してみると、重豪は「増え続ける祖先の祭祀とそれに伴う財政的な負担を少しでも減らそうと(p.64)」しつつも、法事は欠かさず実施しており仏教にたいする否定的な考えはうかがうことはできない。

斉興は在俗のまま大僧都(僧位)、上人(僧官)を有しており、藩主在任中に大覚寺門跡から「亮忍」という法諱をもらっている宗教家でもあり、「虎巻大法」なる密教の修法を行って、家臣たちにも伝授していた。このように密教に傾倒した背景には、外国勢力が自国領域内に頻繁に侵入したことがあるのではないかという。

斉彬はどちらかといえば仏教・寺院に対して好意的だったと推測される。ただし「神社の由来などの多くは中古(平安時代)に僧侶たちの附会妄談により神威が瀆されている(p.70)」と認識したり、「近代合理主義的な思考を有していた(p.72)」という点は見逃せない。斉彬は敬神の情があつく、家督後初入部の際に鹿児島神社などの古社に黄金製の大幣を奉納しており、鹿児島神社へ奉納したものは長さ1丈(約3m)もあった。斉彬には廃仏の意図はなかったが、敬神と合理主義が強調されて廃仏が斉彬の遺志であったかのようにされ、「廃仏毀釈のスケープゴート(p.74)」になったと著者は考える。

久光(※藩主ではない)は、若い頃は仏教好きであったようだ。しかし中年には明確に仏教に批判的になっていた。廃仏毀釈を主導する部下を後援したのは久光である。

次に藩士であるが、有馬新七の仏教観は面白い。彼の「淫祠を除く説」では、仏教伝来や本地垂迹説など割合に正確な歴史認識に基づいて仏教を批判している。いわれなき批判ではなく正確な事実に基づいて仏教を批判しているのが注目される。井上備前守長従は花尾神社の大宮司であるが、「井上備前守ヨリ霧島神社祭儀復古ノ上書」(明治元年)を残している。彼は霧島で別当寺が幅を利かせている状況を遺憾とし、神仏分離を主張している。市来四郎は廃仏毀釈を主張した人の一人であるが、彼は「先祖の菩提は寺院、祈願は神社、日常的には氏神・産土神、一種の娯楽として寺社の祭りに参加していた(p.87)」。つまり意外と普通で、現代のわれわれと同じような宗教との付き合い方だった。

「第2章 廃仏毀釈が徹底された理由」では、廃仏毀釈を編年的に述べている。

まず、廃仏毀釈前にすでに廃壊したり、整理されたりした寺院があった。特に種子島では、種子島久柄の口上覚(1808)で財政的な理由から廃寺同然となった寺院を「取り除きたい」としている。廃寺同然となった寺院など放っておいたらいいような気がするが、それをわざわざ「取り除きたい」としているのは寺院の維持が権力の責任だという社会通念があったためであろうか。

嘉永6年(1853)では、外国船からの防備の必要から、諸国寺院の梵鐘を大砲・小銃に鋳造すべきとする太政官符が出された。これを受けて薩摩藩でも梵鐘の回収を行ったが、ちょうど藩主斉彬が急死したため鋳造はしていない。斉彬の死はその祟りだとの噂もあったという。

文久2年(1862)には記録奉行伊地知季安(すえやす)により藩内の寺社調査が行われる。これは島津久光の命令ではないかと著者は推測している。なおこの調査理由は「皇国之儀は神明之威力を以て夷賊降伏之先蹤もこれ有る事(p.96)」などといい、祭礼がちゃんと行われているか調査するといった意味合いだった。

なお同年から、薩摩藩では天保通宝と琉球通宝を鋳造しており、この材料が梵鐘であった。市来は「無用ノ梵鐘(中略)[が]資料ニ供セラレ(中略)有用ニ充タレタルハ稀代ノ英断(p.103)」であるという。「鋳銭事業を契機とした寺院所蔵の梵鐘鋳つぶしは、このすぐ後に行われた神仏分離と廃仏毀釈のハードルを結果的に下げることになったと思われる(同)」。

さらに薩英戦争では、「戦争準備のため、寺院の合併・移転が行われた(p.104)」。薩英戦争の本陣は千眼寺に置かれたが、千眼寺は慈国寺に合併されている。その他南泉院も移転している。

慶応元年(1865)の春に藩の少壮者たちが廃仏断行・僧侶還俗を進言し、これが久光の容れるところとなって廃仏毀釈が実行された…とされてきたが、具体的な動きが始まるのは慶応2年5月なので、慶応元年春というのは市来の間違いで慶応2年の春であったと著者は考える(考察は割愛するが、「一応、両論を併記する(p.128)」としている)。ここから盛んに合寺廃寺が行われ、神社の合祀等も行われた。しかし、慶応2年12月には関係者が更迭されており「反対者からの手痛い反撃(p.111)」によるものと思われる。

慶応3年にもその動きは続く。寺が残っても石高が削減された場所があり、廃寺政策の目的が経済的なものであったことが窺える。ちなみに8月には「寺々より訴え出候儀段々これ有り」として加治木郷で対応が協議されているところを見ると、僧侶らからの反発・異論があったことが確認できる。僧侶は決して唯々諾々と従ったのではないが、廃寺政策は強行されていった。

ところで本書では強調されていないが、廃寺のみならず「合寺」があったところは注目すべきである。「合寺」は当初は寺院の全廃が念頭になかったことを示す。また位牌の扱いも興味深い。家老桂久武の指令に曰く「廃寺にあった位牌を残存している寺に移したならば、その寺の仏壇が混雑するので、今より「集霊位」を置くこと。(中略)これまで寺院に安置していた位牌を自家へ引き取るのは自由(p.116)」。「仏壇が混雑」とはおためごかしであろうが、「集霊位」などというものを考案したのは誰だろう。

慶応4年(1868)は明治維新後である。神仏判然令が発せられ、「仏体を破壊するなどの過激な行為は鹿児島でも実際に起こっていた(p.118)」。藩庁が「仏像・石碑を夜陰に及んで破却した族(やから)があったが、粗暴の所行は許されるものではない(p.119)」と達している。ここに「石碑」が含まれているのが極めて注意を引く。なおこの時期はまだ一斉に廃寺しようとするものではない。

明治2年3月に忠義夫人の暐子(てるこ)が産後病気のため死去し、この葬儀が神葬祭(神道式の葬儀)で行われた。神葬祭は三島通庸の創意によるものだった。この葬儀がきっかけとなり藩内の寺院全廃へと方向転換していった。なお10月に寺僧に相当の手当てを支給することを決めている。寺院の供給高を召し上げたためである。修験者についても、聖護院に対して「藩内僧侶壱人も罷り申さぬ旨」を伝えている。ちなみにこの時期は軍事方が廃仏運動を主導している。12月には志布志で地頭から「志布志隊長中」に宛てて「万一未だ廃寺になっていない寺院があれば早々に廃すべきこと(p.123)」等が言われているので、志布志ではこの時点で主だった寺院は全て廃寺になっていたと判断できる。

著者は『鹿児島県地誌上下』(「鹿児島県資料集」16・17)、『日向地誌』(平部嶠南)を元に廃寺年表を作っている(p.130)。薩摩・大隅・日向の記録にある419ヵ寺が廃寺になった年をまとめた素晴らしい参考資料である。主な数値を挙げると、
慶応元年    4ヵ寺(0.95%)
慶応3年    105ヵ寺(25.06%)
[慶応中    13ヵ寺(3.10%)]
明治元年    27ヵ寺(6.44%)
明治2年    130ヵ寺(31.03%)
明治3年    48ヵ寺(11.46%)
明治4年    8ヵ寺(1.91%)
となっている。まず慶応3年に105ヵ寺、25%という大きなピークがあり、明治2-3年(合わせて42%)がもう一つのピークになっていることがわかる。この表より、従来廃寺が完了したのは明治2年といわれていたが、明治4年までかかったことが明らかになった(ただし明治4年に廃寺になった8ヵ寺のうち7ヵ寺は日向国諸県郡であり、日向国には時期不明の廃寺が多い。これが何を意味するのか不明)。

また、廃仏毀釈は戊辰戦争で中断したと言われてきた。実は私も拙著『明治維新と神代三陵』でその説を踏襲し、鹿児島の廃仏毀釈を前期と後期に分けた。しかし著者は廃仏毀釈に中断はなかったと強調している。実をいうと、拙著の執筆段階で著者(栗林氏)には草稿を見せていたのだが、著者からはこのことについて指摘があり「前期と後期に分けるのはどうなの?」と言われていた。しかし私は、前期の廃仏毀釈は財政的な理由が主で、後期には思想的な理由(全廃が前提)という性格の違いを重視して前期後期に分けた。前述の通り、慶応3年と明治2-3年という前後2つのピークがあり、廃仏の性格も異なることから前期・後期に分ける考えは今でも変わっていないが、拙著を取り上げ精緻な論証で「中断はなかった」ということを示してくれたことには深甚な感謝を表したい。

続いてケーススタディとして、花尾神社(の別当寺平等王院)、枚聞神社、川辺郷の事例を述べている。

平等王院は慶応3年に「廃寺之節華尾山江仰渡」で大乗院への合寺を命じられた。その内容は廃寺に伴う各種の処置を細かく命じており、単に廃寺しろというだけでない面が興味深い。「大宮司役所は取り除き、同所へ建立した護国御神殿の前通りの道幅を三間ほど広げ、左右に杉を植え付けること(p.138)」など道幅の拡幅まで指示している。また「山内の町石(一町ごとに道程を記した石)に彫刻している梵字は、今回すべて消し除くこと(同)」として梵字が破壊対象になっているのも気になった。そして召し上げた石高は「帖佐与蔵入りとし、海陸軍方へ差仕分け」るとするが、所務米は神職らへ配分するよう量を指定して命じている。

枚聞神社は年代不明であるが「廃寺方被仰渡」という史料が残っている(神社なのに廃寺と言っているのがよくわからない)。それによれば古来数多くの神が祀られてきたがそれらの祭神が祀られてきたのは「虚妄無稽種々之怪談」と断じ、縁起や掛物等「全て此の節焼き捨て」て、祭神を大日孁命(おおひるめのみこと)のみに限定した。暴力的ではあるがちゃんと理論武装していたことが窺える。

川辺郷では「神社方日帳」という史料が残っており、日付事に出来事がまとめられて廃仏の細かい動向がわかる。ここで位牌の処置、石高の処分(やはり海陸軍方へ!)などの他に気になったのは、明治元年に「廃移寺・合院の跡地面は、衆中家督で別宅していない者、社家無禄の者で家造りができない者へ親疎なく借地を申し付ける(p.148)」としている点。廃寺に伴う財産の接収が一種の恩賞に使われているということである。また修験道について明治2年には「修験宗を滅ぼすものではない」として、三宝院からの離脱もないと明言している三宝院宮御役所からの達書が残っているのも面白い。さらに宝福寺からは「修理がままならないので取り除き方を許可してほしい」という自ら廃寺を希望する文書があり、また飯倉神社からは「早めに修補を仰せつけていただきたい」などとしている。これらを見ると寺社の管理は藩権力に大きく依存していたように思える。寺社に石高が与えられてその中で自弁していたというより、石高とは別に営繕までも藩が担っていたような印象を受ける。実際、明治3年に「谷山作硝局御修甫掛・営繕奉行見習」が飯倉神社の修補のために「惣社絵図面」を提出するように命じ、人足を手配している。これは非常時のみの体制だったかもしれないが、寺社の営繕に藩が責任を有していたとすれば、廃寺政策が行われたのも理解できる。

このほか、種子島・吐噶喇列島、そして修験道の廃仏についても記述があるがここでは割愛する。

ここで著者は冒頭に述べた市来四郎の記録の問題点を検討している。その題材としているのは、市来が廃仏前にあった寺院数を1066ヶ寺としているが、1616ヶ寺とする書籍もあり、これはどちらが正しいのかという考察である。結論だけ述べると、1616ヶ寺は1066ヶ寺を転記ミスしたもの。そして市来が述べている1066ヶ寺(および寺領石高等も)は、得能通昭(とくのう・みちあき)の『通昭録』55巻(鹿児島県資料集59 『通昭録』8)にある数字を転記したものと推測できる。『通昭録』55巻は安永元年~9年の間に成ったと思われ、18世紀後半の数字である。市来は、これを幕末の寺社数としているのである。このように、市来は史料の扱いが雑である。また出典も明らかにせず、ミスも多いようだ。廃仏毀釈の根本史料である市来四郎の記録にはこのような問題があることを常に念頭に置いておかなければならない。

ところで著者は指摘していないが、『通昭録』も含め各種の史料に「神社・堂宇・寺院」の数が掲載されているのは気になった。「神社・寺院」だけでなくなぜ「堂宇」があるのか。これは、神社・寺院だけでは捉えられない様相を伝えていると思われる。例えば17世紀後半から18世紀前半のある記録では神社4415、堂宇4046、寺院1815とある。神社と寺院を合わせた6030のうち、32%にあたる1615に堂宇がなかったということになる。著者は近世における薩摩藩の寺社数の変遷を各種の史料からまとめているが(p.177)、その平均でも30%の寺社には堂宇がない計算になる。現代の常識では堂宇がない寺社は寺社としてみなしがたい。それを考えるとそもそも1066ヶ寺という数字も、多分に帳簿上(つまり寺号のみの寺院を含めたもの)である可能性がある。少なくとも、当時の人は「堂宇」の数もなければ実態が捉えられないと考えていたことはいえると思う。

ちなみに、何を神社とし、何を寺院と捉えるかもこうした統計を見る時には注意が必要だ。例えば地蔵堂のようなもの(お堂はあるが地蔵が一体安置されているだけの場所)は寺院かどうか。あるいはしめ縄で結界され石祀がある場所は神社と見なし得るかどうか。当時の寺社は藩権力によって認められて存立していたと考えられるので、こうした民衆的な自然発生的なものは数字に入っていないようにも思うものの、県内に神社が4415もあったというのはさすがに多すぎ、神社についてはこうしたものまで含めていたと考えるのが自然だ。とすると寺院の1815についてもかなり小さな施設まで入っていると思われる。このような点についても今後考察が必要だと思われる。

廃仏毀釈は同時代の人にどう受け止められていたか。なかなか史料に残っていないことだが、いくつかの例が挙げられている。税所篤の実兄の最初篤清は住職であった人物だが、寺を召し上げられ還俗を命じられた。彼はその後の人生に「さほど困難も感じることはなかった」と淡々と述懐している(批判できなかった可能性がある)。神官の岩元式部は廃仏前夜に記録を残しているが「神官にも影響があるのでは」とビクビクしている。島津家の歴代位牌は福昌寺墓地内に埋納された。その塚が「列聖群霊旧牌合瘞冢」である。これは位牌を処分しなければならないことに抵抗を感じていた証拠である。幕末明治の文化官僚であった木脇啓四郎は明治31年に「恐れ乍ら御失策と伺い奉る」と廃仏政策に対して真っ向から批判する文章を書いた。このような批判が残されることは珍しい。なお、著者は県内にも意外に多くの仏像が残されていることに触れ「廃仏毀釈に反対する人々が(中略)ひっそりと持ち帰り今に伝えられた(p.194)」としているが、全てがそうであったとはいえず、どうして多くの仏像が残ったのかはさらなる検証が必要であろう。

鹿児島で廃仏毀釈が徹底された理由としては、以前から上意下達の鹿児島の県民性に求める説があるが著者はこれを批判するとともに、これまでの研究をまとめて9つの要因を挙げ、それらが複合した結果であろうとしている。

「第3章 神社にとっての明治維新」では、神社の創建、改変などについて述べている。

鹿児島では幕末に楠公社や照國神社が創建された。これは新しい国家観に基づく神社であった。また戊辰戦争後に招魂社も造営された。これは県内各地に「私祭」として設立されたが、その一部は運動の結果官祭になった。

一方、盂蘭盆会や庚申祭といった旧来の習慣は否定され、神社祭祀としては伊勢神宮信仰が導入された。藩は仏教に代わる新たな宗教として敬神思想を普及させ、そのためのテキスト『神習草(かみならいぐさ)』が配布された。また多くの神社が合併させられ、またその名が知政所により改められた。新たな社名を付けるにあたっては、神仏習合的な要素を削り、神話に出てくる神の名を使うといった方針があったように見受けられる。また歴代の島津氏を祭神とする神社も創建された。奄美地方では高千穂神社を中心とした新しい神社が多数創建された。「それまで「外国」として認識されてきた奄美諸島に高千穂神社を配祀することは、この地域を領土的、さらに精神的・思想的にも「日本」のなかに組み入れようとする意図が読み取れる(p.220)」。

「第4章 「全廃」からの寺院の復興」では、廃仏毀釈後の鹿児島の仏教界の動向が簡潔に語られる。

明治11年には曹洞宗の福昌寺(島津家菩提寺)が再興され、12年には本堂も再建された。しかし明治19年以降に暴風雨のため本堂が倒壊したと考えられ、隈之城に移転した。南林寺も再興が試みられたが寺号使用は許可されず大中寺として再興された。また真言宗では、明治12年に大乗院が最大乗院として再興された。他、臨済宗、法華宗なども復興の動きを見せた。このように寺院復興の動きはなかったわけではないがそれほど盛んだったようには見えない。なにより、寺院再興は外部から赴任した人によってなされていることが多い。鹿児島に大勢いたはずの元僧侶はどのような思いでいたのだろうか。なお、そんな中で教線を急拡大したのは浄土真宗である。

「終章 廃仏毀釈とは何だったのか」では、これまでの論述をまとめ、改めて論点を整理している。

主な点は、(1)国学の影響が大きかったのは間違いないにしても、国学者全員が廃仏毀釈に賛成していたとはいえない。(2)近世の神仏習合の在り方にも注意が必要。(3)廃仏毀釈の経過は単純ではなく通説を鵜呑みにすべきでない、といったところである。

最後に、黎明館での企画展など廃仏毀釈や鹿児島の仏教文化についての社会の関心について触れ、またSNSで一部の過激な主張(やデマ)が拡散しがちな状況と廃仏論者の意見が通ってしまった150年前の状況を類比させるとともに、近年の寺離れにも言及して擱筆している。

本書は全体として、「こういう本が鹿児島の廃仏毀釈をまとめるのに必要だった」と感じるものである。著者がいうように、鹿児島の廃仏毀釈はこれまで断片的にしか語られておらず、文献に基づいて丁寧に経過を追った研究が少ない。本書は、今後の鹿児島の廃仏毀釈を語る上での基本文献と位置づけられるものである。

ただし、本書は石造物や民俗については手薄である。また、鹿児島の中でも徹底的に仏教的なものが破壊された地域とそれほどでもない地域がある。本書は島嶼部に目配せしているが本土の中での偏差にはあまり注意していない。今後は、本書の知見を土台としてより民衆に近い部分の動向を明らかにしていくことが期待される。

文献に立脚して鹿児島の廃仏毀釈を描いた今後の基本図書。

【関連書籍の読書メモ】
『鹿児島藩の廃仏毀釈』名越 護 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/10/blog-post_18.html
鹿児島の廃仏毀釈の実態について、郷土資料を中心にまとめた本。やや概略的すぎるきらいはあるものの、鹿児島の廃仏毀釈について総合的にまとめられたわかりやすい本。

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2026年4月6日月曜日

『ひとかけらの木片が教えてくれること 木材×科学×歴史』田鶴 寿弥子 著

木材解剖学に関するエッセイ。

著者は、木材(それはしばしば小さな木片である)の解剖学的特徴からその種を同定するという仕事(研究)を行っている。木片を薄くスライスして顕微鏡で観察するのが基本だが、文化財の調査では試料を採取できない場合も多い。その場合、自然に剥落した木片が使われることもある。ボロボロの状態であるためスライスができない場合は、Spring-8(放射光の施設)でそれを観察する。

そのようにすれば、専門家なら樹種などすぐに分かってしまうのではないかと思うが、どうやらそうではないらしい。そもそも針葉樹は組織がシンプルでほとんど区別がつかないという。よって著者はいろいろと工夫したり、五感を使って精細に観察したりして樹種の同定を行っている。そうした努力により「国内の木材については、植物分類学上の科、属、種の内、属レベルまでであれば、ほとんど識別できる状況(p.42)」になっている。 

本書は著者が手がけた事例のいくつかを紹介しながら、木材解剖学の初歩を紹介したり、文化財の紹介をしたりするエッセイ的な本である。大まかに言えば、本の前半では木材解剖学の話が、後半は文化財の話が多い。

私は仏像の樹種について興味があって本書を手に取った。仏像については、まず日本に仏像が伝来した当初はクスノキによる造像が行われていたようだ。それが8世紀に入ると用材に大きな変化がおこる。針葉樹による造像に変化したのである。特に使われたものはカヤである。

ではなぜそのような変化がおこったか。著者は中国から「栢木」という概念が伝わってきたためではないかと考える。 「栢木」とは、『十一面神呪心経』の注釈『十一面神呪心経義疏』(慧沼)に「白檀の代用材」として説かれているものである。ここでは「白檀がないならばその代わりに栢木を使って十一面観音像を製作しなさい」と書かれている。この義疏に書かれていたばかりでなく、中国では白檀の代用材としての栢木の観念が7世紀後半には広まっていたらしい。ではこの「栢木」は日本では何の木だと認識されていたかというと、これがカヤのことではなかったのか、というのが実際の調査から見えてきた結論である。

日本の古代では、建造物の柱材としてヒノキ、コウヤマキ、スギ、モミに次いでカヤが使われている。なおコウヤマキにはなんらかの信仰心があったと思われ、棺材としても使われていた。古墳時代や奈良時代にはコウヤマキが建築においても重要視されていたが過剰な伐採によって枯渇したと考えられる。カヤもコウヤマキと同じように信仰心から重視された可能性がある。

さらに神像にもカヤが多く使われていたようだ。著者が調査した11〜14世紀の滋賀県蔵の神像7体はカヤだった。この他、ケヤキ、サクラ属などが神像に使われたことが著者が調べた神像の範囲では明らかになった。そして平安時代以降はヒノキが使われる事例が増えている。さらに世界の博物館・美術館に流出した神像9体について調べると、8体がモクレン属、1体がクリ属であった。どうやら出雲から世界に散逸した(と考ええられる)平安時代の神像の多くがモクレン属で造られていたようだ。これは実は珍しい事例で、モクレン属のホオノキが蛇に見立てられて御神木となったという説もあることから、何らかの意味がある用材選択であったと見られる。

ちなみに、仏像の用材選択において日本と中国では大きな違いがあり、中国では軽い材が好まれて使われた。シナノキ属、ヤナギ属、キリ属などが使われている。「なぜキリ属のような軽い木で造像を行ったのか、不思議(p.127)」。「中国では仏像を持ち運ぶ習慣があったのか、あるいは植生が限られていたのか(同)」、現時点ではよく分からない。なお中国では「栢木」はイトスギ属であったと考えられる。

この他、木床義歯(木で造った入れ歯)、茶室に使われた木、近代建築の建築用材(大正時代には少なからず北米産材が使用されている!)などの話題が盛り込まれている。

本書は少し無理にエッセイ風にしている部分を感じた。柔らかいタッチにするためにあえてエッセイ風表現にしているような箇所があるのである。たとえば著者の小さい頃の思い出が挿入されるなどであるが、そういう箇所の文章はなんだか精彩を欠く。著者本来の文章はもう少し学術的なのかもしれない(論述を書いている部分の方がかえって読みやすい)。ただしエッセイ風味の口絵写真は大変雰囲気がよかった。

あまり耳慣れない木材解剖学に文化財の話題で親しめる入門書。 

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2026年4月5日日曜日

『斎宮——伊勢斎王たちの生きた古代史』榎村 寛之 著

斎宮と斎王について読み物風にまとめた本。

古代から鎌倉時代まで、天皇と関係の近い皇女が斎王(さいおう)として伊勢神宮に仕えるために派遣された。斎王が居住した場所が斎宮(さいくう)である。本書は、斎宮・斎王とはいかなるものであったかを豊富な情報量かつ親しみやすい語り口で紐解くものである。

斎王とは、「天皇の代替わりごとに未婚の皇族女性から選ばれて、その天皇一代の間、伊勢神宮に仕える人(p.1)」である。その人選は建前としては亀卜(占い)によるが、かなり恣意性があったと考えられる。1年に3回伊勢神宮(内宮・外宮)に参詣するのがその主要な任務であった。そしてその居住地が斎宮であり、これは条坊制を持つ小規模な都ともいうべき場所であった。斎宮には斎宮寮という維持機関が置かれ、さらにその下には21の司が置かれた。斎宮は本格的な官僚機構を持つシステムなのである。

また賀茂神社にも嵯峨天皇の時代から皇女が派遣された。こちらは賀茂斎王といい、その居住地から斎院ともいわれる。賀茂斎院は9世紀前半から13世紀前半まで存在し、斎宮よりも存続期間が短かった。

なお、斎王は伊勢神宮の主宰者ではなかったのはもちろんである。伊勢神宮には祭主が別に存在し、古代には祭主は都に住んでいた。現地にいる斎王と、都にいる伊勢神宮の祭主という対照は興味深い。祭主は12世紀には伊勢に土着するようになり、実質的な支配者となった。伊勢神宮を祀るために斎王が必要だったのではなく、祀るのはあくまでも祭主であったと考えられる。

では斎王はなぜ伊勢神宮に置かれたのか。伝説では、『日本書紀』にあるトヨスキイリビメとヤマトヒメがその元になったとされるが、これは『日本書紀』編纂時の作為と見られる。7世紀前半の理想的な斎王像が彼女らに投影されている。5~6世紀にも伊勢神宮に皇女が使えているが、こちらには「どうもダメな雰囲気が漂っている(p.15)」。具体的に言えば、不祥事を起こして更迭されたり、そもそも不在だったり、3代の天皇にわたって斎王を務めたりしている。要するにこの時代ではまだ制度的に不完全なのである。

斎王が成立する前提となったのは、大王(天皇)の娘が特別な存在とされたことであり、大王の血縁集団の聖性の確立と関わっている。その意味では「伊勢神宮の祭祀は「大王家」の確立と連動して整備が始まったといえないこともない(p.17)」。

そもそも天照大神自体が、壬申の乱後の皇統の確立にあたって天武天皇が「感得」したものであり、「中央集権体制にふさわしい神として創出されたもの(p.41)」である。また天照大神が女性神とされるのは、女性(天皇)に護られていた天武の状況を反映したものである可能性がある。そして天武は自らの娘大来皇女を伊勢に派遣し祀らせた。彼女は天照大神の「グレードをたしかなものにする役割を負った(p.42)」。つまり人工的に創出した天照大神/伊勢神宮の特別感・隔絶感を演出するために派遣されたのが大来皇女だったと著者は考える。この時代には斎王という職名もなく、斎宮寮のような官司もなかったと思われるが、これが実質的な斎王の始まりである。続く持統天皇はおそらくは天武とは異なる伊勢神宮体制を志向し斎王を置かなかったが、この頃に伊勢を完全に支配下においたと考えられる。

天武朝以降の斎王の特徴として、選ばれてすぐに伊勢に向かうわけではないということがある。彼女は一年ほど泊瀬(はつせ)斎宮という仮の宮で過ごした。9世紀には「野宮(ののみや)」と呼ばれた。これは京外の適地がその都度選ばれた。そして9月に数百人を従えて伊勢に下っていった。これを群行(ぐんこう)という。

斎宮寮が本格的に整備されたのは聖武天皇の娘、井上内親王の頃で、『続日本紀』によれば121名の官人が任命されている。斎宮はミニ内裏のようなもので、宗教施設ではなく「皇族の生活維持のために置かれたシステム(p.30)」であろう。

先述のとおり、斎王は年に3回伊勢神宮にお参りしたが、その3回とは9月の神嘗祭と、6月・12月の月次祭であるとされる(『延喜斎宮式』)。そして斎宮の役割は「三節祭の二日目に内宮・外宮の内玉垣御門に入って拝礼して、太玉串を奉ることである。実はこれが何を意味しているかはよくわからない(p.32)」。8世紀には4月と9月に行われる神衣祭(かんみそのまつり)にも参加していた可能性がある。またこのほか、斎宮内で新嘗祭や忌火祭(いんびのまつり)などの神事もあった。面白いのは、元日には斎王は拝まれもした。天皇の拝賀と似たように、斎王は斎宮寮の職員から拝賀され、また3日には伊勢神宮の宮司、禰宜、度会郡の神郡の郡司が斎王を拝賀した(p.185)。

斎宮の財政は国家と独立しており、常陸国から京までの各国が調庸を負担した。国家からの給付を受け取るのではなく独自に徴税機構があったのである。どうしてこのような仕組みで運営されたのか極めて興味深い。条坊制を持つ広大な斎宮が整備されたのは桓武天皇の時代で、520人以上が働き、2、3000人が関係していたとみられる。『大和物語』では斎宮が「竹の都」と呼ばれている。斎宮とは一つの都市だったのである。斎宮頭は伊勢守や介を兼任することもあり、斎宮寮は「伊勢南部地域のもう一つの国府(p.117)」のような存在になった。なお斎宮は淳和天皇の時代に多気郡から(伊勢神宮近傍の)度会郡に移転している。これは斎宮を通じて伊勢神宮の支配を強める政策であった可能性が高い。しかし承和6年(839)に度会の斎宮は消失し、再び多気郡に戻った。ここから「斎宮と伊勢神宮が対立しつつ棲み分けるという平安時代の体制(p.120)」になる。

斎王は任期を終えると(天皇が交代となると)、難波津に下って3か所で禊を行った。そして僧侶によって風誦が行われて数か月してから自邸に戻っていたらしい。往還それぞれに数か月~1年をかけているのが不思議でならない。深い意味があったと思われるが不明である。

本書では、斎王のケーススタディとして7人が取り上げられている。すなわち大来皇女、井上内親王、朝原内親王、徽子内親王、嫥子内親王、良子内親王、媞子内親王である。これらの人物は多くの人にとって「名前を聞いたことがあるかも」という存在であるが、著者はその伝記的事実を詳しく述べている。彼女らはそれぞれドラマチックな生涯を生きており読み物として面白いが、ここでは彼女らの伝記は割愛してポイントのみ述べる。

まず、斎王には非常に幼い頃に任命される場合があった。斎王は独身が務めるものとされており、年少であったのは当然だが例えば井上内親王は5歳、朝原内親王は4歳で斎王に任命されている。なお斎王を務めた後に結婚するのは可能だが、平安期には内親王の結婚相手は少なかったので一生独身だった人が多い。

なぜ斎王は幼少で任命されたのか。それは天皇の即位にともなって選ばれたことが大きいようだ。まだ天皇も若いので、基本的に天皇の娘が務めた斎王は自然と幼少になった。娘(内親王)がいない場合は女王でもよいとされたが、10世紀後半からは女王の方が普通になった。皇女にとって斎王は有り難い役職ではなく、できれば任命を避けたかったため、女王にお鉢が回ってきたということのようだ。「この時代には伊勢斎王になることは一つの悲劇と認識されていたふしもある(p.135)」。

斎王の任命を避けたかったのは、京を離れ伊勢に赴任しなければならなかったことと(賀茂斎王=斎院はそれほど嫌がられてはいなかった)、仏教から隔離されたこと、神への捧げものとしての「聖なる犠牲(p.141)」であると考えられていたことなどが要因であると考えられる。『源氏物語』でも六条御息所の怨霊は斎宮にあって仏教から離れていたので恋の執着から離れられないと告白している。

では斎王は仏教を遠ざけて精進潔斎の生活をしていたのかというとそうでもなく、普段の斎王は「都の姫君とほとんど変わらない装いをしていた(p.96)」。どうも常日頃から神に奉仕するようなものではなく、三節祭を中心とした年に数回の祭の日のみに任務を負ったようだ。あまり働いたようではない。また都を離れて寂しい暮らしをしていたわけでもないようで、斎王の周辺には文化的サロンがあり、また都とのネットワークもそれなりにあったらしい(もちろん斎王によって違いはある)。

そして斎王を務めた女性は、かなり優遇されていた時期がある(それだけ斎王が敬遠されていたということかもしれない)。元斎王という肩書きは貴族社会では重く、たとえ短い間でも(白河天皇の皇女媞子(やすこ)内親王の場合は3歳から9歳の間だけ)斎王を務めることは重要なキャリアと見なされた。媞子内親王は未婚でありながら女院(郁芳門院)となっている。

ところで、元来は皇女が務めた斎王を女王(天皇の孫や姪など)が務めるということになると、父親にとっては娘を斎王として差し出すことが政治的な得点ともなった。本人とその父親にとってのキャリアアップの手段として斎王が捉えられたケースもある。キャリアアップはしなくても、元斎王には天皇から贈られた荘園などによってその後の生活は保証されており、「羽振りがよければかなり安楽で、社会から大事にされる生活も送れた(p.172)」。だが軽視された時代もあり、たとえば藤原実資の妻の妹(恭子女王)は22年間も斎王を務めているが、『小右記』では彼女の記録は全くない。この頃の斎宮はかなり簡素化されていたようで、都の人も斎王に対する関心を失っているように見える。「天皇と摂関、あるいは皇太后との一体性が強まれば、家長的性格は摂政や関白に移り、斎王への期待度は薄まる(p.269)」。

ところが院政期になると再び天皇家は家長権を摂関家から取り戻し、斎王は再び重視された。後白河院が4人の娘を斎王にしている(p.231)のは、自らの権力基盤を確立する一環であったと考えられる。

しかし伊勢神宮でも神仏習合が進んでくると斎王の意義が低下してしまう。さらに伊勢神道がおこると、「神話の組み替えのなかで、斎王はしだいに時代遅れな存在となっていた(p.270)」。斎宮は神仏習合には全く対応していなかった。「鎌倉時代後期、斎宮は神宮からも社会からも、よくわからない存在と化していたらしい(p.271)」。「後嵯峨天皇の皇女ので亀山天皇の時代の愷子内親王を最後に斎王の群行は行われなくなる(p.278)」。むしろこの時代まで群行があったのも驚きだが。

そして治承寿永の乱(源平の合戦)では斎王の任命が中絶した。しかし内乱の直後、7歳の少女(故高倉天皇の娘で後鳥羽天皇の異母姉、潔子(きよこ)内親王)が斎王に任命された。「神仏にすがる気持ちが特に強くなっていた(p.160)」のかもしれない。また「頼朝はかなり本気で斎王制度復活に助力していた(p.161)」。彼は平氏勢力が強い伊勢の地に斎王を通じて影響力を及ぼす目的があったようである。

こうして鎌倉時代には斎王制度は維持されたが、建武の新政が崩壊すると斎王を選んだり派遣したりすることができなくなっていった模様で、14世紀頃には形骸化していった。「当時の権力者会がもはや斎王を不可欠なものとは考えていなかった(p.177)」し、斎王の前提となる天皇の権力が空洞化した結果でもある。 

この他、本書には斎王にまつわる多様な話題が盛り込まれているが(面白いのは、斎藤という名字は斎宮に務めた藤原氏に由来するということ)、ここでは割愛する。

終章(第5章)は「斎王とは何だったのだろう」と題されているが、この「何だったのだろう」という書き方にも著者の戸惑いが現れている。著者は本書で詳しく斎王について述べながらも、斎王を「ほとんど何の役に立っていたのかよくわからない存在(p.39)」だと率直に言う。斎王の置かれる理由は律令にはその規定がなく(p.259)、『延喜式』の「祝詞式」では「天皇の在位や寿命が長いことを祈念するため」とし、これは天皇と一対一対応するという斎王の在り方とは一応論理的に接続する。しかしながら、どうして未婚女性が務めるのか、わざわざ伊勢に居住するのはなぜか、といった点はそれだけでは説明できない。

著者は、斎宮、すなわち小さな都・行政庁としての斎宮が置かれたことを重視し、これが天皇家による伊勢神宮の支配のための機関だったと考える。つまり斎宮の造営に画期的な意義があり、「斎王が誰であっても構わな(p.281)」い体制となったと考えるのである。そもそも伊勢神宮は天皇家がその権威を潤色するために創作した存在と考えられるが、政権の思惑を越えて一人歩きし出したので、それを再び政権のコントロール下に置くために設けられたのが斎宮・斎王であるということになる。「9世紀以降の斎王は、天皇ごとに天照大神と再契約したことの象徴としての性格が薄れ、国家を安定させるためにシステマティックに守護神の祭祀を行う存在にシフトチェンジしたと考えられる(p.262)」。

そして斎王にはもう一つの役割があった。それは「天照大神のセンサーのような役割(p.263)」である。斎宮では毎月の晦日に卜庭神(うらにわのかみ)の祭が行われ、斎王の肉体に異変がないか調べる占いが行われていた。斎王が伊勢に居住しなければならなかったのは、このセンサー的役割を果たすためであると著者は考える。 

要するに斎王は天皇の身代わりであったようだ。ではなぜ斎王は未婚の女性なのか。巫女的な性格が期待されたのだろうか。あるいは神への捧げものとしての女性だったのか(『今昔物語集』などによれば、神への生け贄としては女性が献げられている)。巫女(みこ)と皇子(みこ)が同じ訓なのもなんだか示唆的だがこれは考えすぎかもしれない。ところで天皇が女性であった場合は「置かれたり置かれなかったりしている(p.195)」。ただしそもそも女性天皇がいた奈良時代には、天皇と斎王との関係は制度的に安定していなかったこともその背景にある。 

本書が全く触れていない斎王の謎は、群行であると私は思う。斎王は多くの(しばしば数百人の!)官人を連れて伊勢へ下向したわけだが、なぜ多くの官人は斎王とともに人事異動したのか。天皇の代替わりで大量の官人がいっぺんに人事異動したとは聞いたことがない。そもそも大量の人事異動を行うと仕事がスムーズにいかないのは容易に想像される。にもかかわらず斎宮の場合は斎王とともに多くの官人が伊勢に赴任した。交替するのは斎王だけで、官人は留任するという仕組みの方がずっとスムーズなのにどうしてこんなことが行われたのか。しかも斎宮末期の後嵯峨天皇の時代まで群行が行われていたのだから、何らかの意味があったに違いない。このあたりに斎王・斎宮の意味を解く鍵があるような気がする。また、同じく条坊制を持ち、そこへの赴任が忌避されていた大宰府との類比も考えたくなる。

以上のことから、私なりに斎王・斎宮制度が確立した桓武朝におけるその意義について考えてみると、斎王・斎宮とは伊勢神宮の託宣への対策であったように思われる。

まず、斎王がなぜ未婚皇女が務めたかであるが、これは天皇を裏切る可能性の最も少ない人物であるからではなかろうか。天皇が自分の名代として誰かを伊勢に派遣することを考えると、最も避けたいのはその人物の裏切りによって「○○を天皇にすべし」といった託宣を出されることである。よって皇子は絶対に避けたい。その人物が伊勢神宮の託宣だといって自らを皇緒に就けよと言ってきた場合の政治的混乱は避けがたい。だから皇子および王は論外であり、女性が望ましい。さらに未婚であることも望ましい。結婚していては外戚の力が侮りがたいからだ。これが斎王が未婚皇女(または女王)が務めた理由であろう。女性天皇が一般的であった奈良時代はこの部分がイレギュラーになり、斎王があったりなかったりした可能性がある。

次に避けたいのは、斎王が傀儡化することである。つまり斎宮に務めている官人が伊勢神宮と癒着し、斎王を傀儡にして政権にとって不都合な託宣を出すというのも困る。よって斎宮の幹部を斎王とともに総入れ替えするのが安全である。これが群行ではなかったか。伊勢は大宰府よりは京に近いが、コントロールしきれない程度には遠いと思われる。斎王というアイコンがあり、伊勢神宮の権威を借りれば斎宮は政権にとって十分脅威となる。群行という制度にはこの対策が織り込まれていると考えるのが自然である。

桓武天皇は、2代前の称徳天皇の時代に「宇佐神宮神託事件」で道鏡が天皇になりかけたのを心に刻んでいたはずである。「宇佐神宮神託事件」の舞台となったのが大宰府である。この事件は大宰府の官人が道鏡と癒着して偽の託宣を報告してきたことが発端となっている。同様な事件が伊勢で起こったらどうするのか。それを避けるためには、伊勢神宮から託宣が勝手に出されないように対策しておく必要がある。そこで古い時代にあった斎王制度を修正し、巨大な行政機関を付属させることでよりシステマティックにした仕組みとして斎王・斎宮制度を再構築したと考えられるのである。

実際に、斎王からの託宣の事例がある。 斎王・嫥子内親王が、斎宮頭の藤原相通を弾劾する託宣を暴風雨の中叫んだのである。藤原相通はその地位を利用して受領のように私腹を肥やしていたらしい。そして託宣では祭主の大中臣輔親を斎宮頭に据えるように述べるのである。理路整然とした託宣には作為的なものが多く含まれ、そもそも都にこの託宣を報告しているのが大中臣輔親であることから、藤原相通の横暴に困った嫥子内親王が地位向上を目論む大中臣輔親と結託して神託を演じた可能性が極めて高い。この託宣の結果、藤原相通は罷免され、大中臣輔親が斎宮寮の大別当に任じられるのである。大中臣輔親はその後急死したため斎宮の権限が祭主・大中臣氏に回収されることはなかったが、この事件は斎王と伊勢神宮が結託すれば大きな政治的影響力を行使しうることを示唆している。

この事件は例外であるが、斎王が伊勢神宮の託宣対策であったとすると、託宣の力が無くなっていけば斎王の存在意義がなくなるのは当然である。そういう観点から斎王の歴史を読み解いてもいいかもしれない。 

斎王・斎宮の歴史をいろんな側面から辿る良書。

【関連書籍の読書メモ】
『伊勢神宮の成立』田村 圓澄 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/11/blog-post_17.html
伊勢神宮・天照大神がどのように出来上がったか推測する本。天照大神の成立を『日本書紀』の丁寧な読解で明らかにした堅牢な本。 

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2026年3月30日月曜日

『日本中世の墓と葬送』勝田 至 著

日本中世の墓と葬送について書いた本。

本書は、日本中世の墓や葬制について研究してきた著者が旧稿を元に加筆修正して執筆したものである。特に第1部の「中世民衆の葬制と死穢」については1987年に発表された著者が中世葬墓制を初めて扱った論文で、やはり時代を感じる部分がある(著者自身が「今日からみるといささか古色がある(p.7)」としている)。著者の中世葬墓制の研究は『死者たちの中世』でまとめられており、本書はその補遺として読むのがよいようだ。本書でも『死者たちの中世』を参照することが促されている。

第1部 死体遺棄と触穢について―中世前期の葬送と墓制―

「第1章 中世民衆の葬制と死穢―特に死体遺棄について」では、中世前期において死体遺棄が広く行われていたことを述べる。前述のように、これは著者が中世葬墓制を初めて扱った論文であるばかりでなく、また中世前期の葬制について史料を博捜して実証的に述べた論文としては当該分野の研究史において嚆矢となるものであろう。

中世前期においては、触穢があったために親族以外は葬送に関与できず(関与すべきでないという規範があったかもしれず)、結果として手厚く葬られたのは貴族に限られ、民衆においては死体遺棄のような簡易な葬送が行われた。それどころか、穢を避けるために死にそうな病人を家から追い出すことも行われていた。このことは本論文以前から言われていたようだが、著者はこれを大量の史料によって精緻に実証している。

なお「京畿百姓」が病人を遺棄することを弘仁4年(813)に国家が規制しており、穢を気にしなければならなかった貴族ではなく百姓(ひゃくせい)が病人遺棄を行っていることは、古い民俗に基盤があった可能性もある。

著者は「死者はその家族が葬るべきで血縁のないものが関わってはならない」とする規範こそ死穢の本質ではないかと述べる(p.37)。穢が、室内など閉鎖空間でしか伝染しないことは、穢はイエの支配権が及ぶ範囲で広まるという観念が基盤にあると考えられ、そういう観念が延喜式の穢の規定を生み出したのではないかというのである。なおこの仮説が著者のその後の研究でどう扱われたのか詳らかでない。

ところで、死体遺棄は「ランクの低い葬法ではあっても、悪ではなかった(p.41)」し、不吉でもなかったようだ。古代には山に遺体を棄てるという葬法があり、それを基盤にしていたのかもしれない。少なくとも風葬は古代には一般的だった。だが血縁者が風葬を行うのは「葬法」の一つであるが、非血縁者が死体を遺棄する(ほったらかしにすることを含め)のは「非葬法」であると著者は考える。

こうした状態から、多くの人が葬送される状態になっていった次第は『死者たちの中世』で記述されているが、本稿では今後の課題としている。

「第2章 中世の屋敷墓」では、屋敷墓成立について中世のイエ制度の成立過程と関係づけて述べる。

屋敷墓は、屋敷の土地内に設けられた墓のことである。著者はまず現行民俗の事例を整理し、(1)家の始祖的人物を祀ることが多い。株ごとに本家に祀ることもある、(2)丸い石などが墓となっていることが多い、(3)地神、地主神などがあわせて祀られることが多い、などの特徴を抽出している。こうした屋敷墓は古い民俗なのか、それとも死穢観念以降に生まれたものなのか。

文献に見える最古の屋敷墓的墓制は、『日本後紀』延暦16年(797)正月25日条にある「便葬家側、積習為常」を禁じた文言で、高取正男はこれをもって民衆は穢を気にしていなかったと論じた。著者はこれに対し、血縁者内ではそもそも死穢の観念に抵触しないと考えており(第1章)、高取の見方に修正を加えている。なお中世の屋敷墓の発掘結果によれば、家の存続期間に比べて埋葬されている死者の数が少なく、被葬者は特別な人と考えられる。

屋敷と墓がセットになっている文献上の事例は、弘長2年(1262)の関東下知状に屋敷と隣接して先祖の墓があったというものである(p.75)。延元3年(1337)の高野山への寄進状では、屋敷付属のものと解釈できる「代々墓所」の文言がある。この頃になると在地領主クラスの場合「屋敷付属の墓はかなり一般的(p.78)」になっていた模様で、敷地に墓が存在することは「所有権の移動に対する抵抗力が大変強いものだったと思われ(中略)、屋敷地の墓は在地領主のイエ支配権を補強する機能を果たしていた(p.79)」と考えられる。

よって、所有権を奪うために墓を破壊するという行為も行われた。墓に植えられた樹木に霊が宿るという観念もあったため、わざわざその樹を引き抜くことも行われている。中世の在地領主だけでなく、名主層にも屋敷墓は見られる。こうした事例を鑑みると、屋敷墓は古い民俗ではなく、屋敷地の所有権を補強するために中世に成立した習慣だったと考えられる。

次に著者は死者の魂がどこにあったと考えられていたかを考察する。前述のように墓所の木に霊が宿っているとする観念は古代からあり、樹が依り代のように考えられていた。『葬喪記』(永長2年(1097)奥書)には木(通常は松)を植えることで「従此人之気去成神」という記述があり、墓に樹を植えることで神になるという観念があったことが窺える。その後、共同墓地では木ではなく卒塔婆や石塔を建てるようになったが、屋敷墓では古態が残ったと考えられる。

なお本筋とは関係がないが、弘安10年(1287)の寄進状(紀伊安養寺文書)の冒頭に「主君御聖霊幷二親幽霊為仏果得道」とある文言は興味を引いた。主君の「御聖霊」と親の「幽霊」の「仏果得道」を願って寄進するという言葉の使い方が大変面白い。これは当時の常識的感覚なのだろうか。またこの書状では盂蘭盆を行うことが約束されており、この頃(13世紀)に盂蘭盆は普及したらしい。

また、屋敷墓の場合、そこに住んでいる子孫からの供養が絶えづらい考えられたこともその成立を促したかもしれない。逆に祖先の遺志に反して土地を処分すれば祟りによる威嚇があると考えられていた。つまり「特定の状況下で先祖の意思が死後永く残って子孫を拘束するというイエ制度的観念(p.99)」が屋敷墓に付随していた。いうなれば屋敷墓に祀られた死者は、強力な死者なのである。元享4年(1324)に浄土真宗の存覚が著した『諸神本懐集』には、「先祖オバミナカミトイハイテ、ソノハカヲヤシロトサダムルコト、マタコレアリ(=先祖をば皆神と斎いて、その墓を社と定むること、またこれあり)(p.101)」とある。この頃には、先祖が神になるという観念が一般的になっていたことが窺える。

「第3章 文献から見た中世の共同墓地」では、中世の墓地が何と呼ばれたかを調査している。

墓について文献で記載されることは少なく、著者は各種の文書から墓地・墓を示す言葉を抽出している。まず墓地については「塚原」が多く、「塚」「〇塚(狐塚、三塚など)」「石塚」(集石墓を表す表現)などという。鎌倉時代には塚という土を盛った形態の墓地が多かったと解釈できる。個々の墓については、「墓所(はかどころ、むそ)」、「壇」などといっている。

また、共同墓地を指しているのが「三昧」で、中世前期には普通になっている。「蓮台野」は元来は一般名詞ではないが12世紀中期以降に共同墓地の名称として使われた。なお荼毘所(火葬場)も「三昧」と言われた。

上述のように結果だけ書くと簡単だが、著者は様々な史料を博捜してこうした用語を検討している。またその過程を通じ、「特に墓域が定まっておらず、所有者がいない土地に散発的に墓を作る時代があり、やがて僧がやってきて経塚を造って特定の場所を勝地であるとして、大きな共同墓地が出現するようになった」という流れを想定している。またそのような共同墓地でも塚を作ることができたのは一部の人だけだと考えられる。

中世後期から近世初期にかけて、共同墓地を指す言葉として「塚原」に代わって「墓原(はかわら)」が使われるようになる。墓の形態が「塚」から「石塔」になったことを暗示しているように思われる。

「第4章 中世触穢思想再考」では、穢について史料に基づき概念を整理している。

著者は穢には①『延喜式』などに規定された穢、②内裏を中心とし穢が周囲から侵入するという同心円構造、③らい者・非人の穢、④共同体のとるエネルギー状態の一つとする穢(ハレ・ケ・ケガレ)の4つの論点があるという。本稿ではこのうち①~③を取り上げる。なお④はその後の研究でほぼ否定されており、「史料的な実証は困難なため、本章ではとりあげない(p.136)」と④を取り上げなかった著者のセンスが光っている。

まず①については史料に現れる穢を取り上げ、また穢の語が使われた事例をいくつか挙げている(墓への「濫穢」、山陵への「犯穢」など)。そして穢そのものが天皇へ害を及ぼすのではなく、神域が穢になったことで神が怒り、天皇を病にさせるといった回路があったという。穢→神→天皇という順だ。つまり「神と関係ない局面では、制度上の穢というものは存在しない(p.145)」。

つづいて②も検討されるが、これは後に山本幸司の『穢と大祓』で詳細に分析された内容であるためここではメモを割愛する。

③については、中世ではらい者は穢とされていたと思われるが、古代ではどうだったか。はっきりと穢とする規定はないが、著者は穢と同様のものと捉えられていたのではと推測している。ただしこの考察はたった4つの史料のみに基づいておりさらなる考究を要するように思われた。また、著者は触穢規定が整備されたのちは、「規定上の穢とらい者の穢は別個の存在となる(p.156)」とする。そして「らい者の穢」が非人身分の成立に関わってくると著者は考える。さらに非人身分の成立について考察されているが、これについてもごく簡単なスケッチに留まっている。

第2部 伝統的葬墓制の形成―中世後期の様相

「第1章 中世後期の葬送儀礼」では、中世後期の葬儀を葬具と儀礼に注目し、それが「死者を仏として葬る」ものとなったことを述べる。

中世後期では葬具や儀礼が発達し、近年まで日本で伝統的な葬式とされてきたものの源流となった。本章ではそれらが一つ一つ検討されている。

:死者を竪棺または桶にいれて、それを龕(がん)という屋根のついた輿の一種に納めた。『禅苑清規』(1103、1201再刻)にその規定があり、これに基づいて行われたとみられる。円爾は龕に入れて葬られ(1280)、瑩山紹瑾が定めた『瑩山和尚清』(1324)には入龕等の仏事の規定がある。1364年に没した光厳院の葬儀は「唐様以龕葬申云々」とあり、龕を使うのは唐様であり、当時は珍しかったことがわかる。龕は棺桶に座らせることが前提となるが、死後硬直が始まってからでは死体をその体制にするのが難しい。死去後速やかに死体を座らせたとみられる。現行民俗では坐棺い入れて体制を整えることを「ホトケを寄せる」とか「ホトケ様つくり」などといい、「仏にする」前提となっているように見受けられる。

幡と天蓋:幡とは、紙を切って作るもので「仏」「法」「僧」「宝」と書き、その下に「諸行無常」「是生滅法」「生滅滅已」「寂滅為楽」の4句を書いたものである。天蓋は吊るして使う仏像の荘厳具であるが、龕とセットで用いられた。幡については、律令の「喪葬令」で親王一品の葬儀で「幡四百竿」とされたり、聖武天皇の「仏に奉るが如し」という葬儀で4本用いられるなど、古くから使われたが中世前期には普及はしていなかったようだ。『死者たちの中世』では幡と天蓋を禅宗が葬式に導入したものとしていたが、著者はこれを改め、「幡や天蓋は禅宗とは独立して、日本において仏像の荘厳具から葬具への転用が行われ、13世紀後半ころから用いられるようになった(p.173)」とし、それを進めたのはおそらく天台浄土教だという。「往生人が仏の世界の一員になり、幡や天蓋に荘厳されて極楽に向かうという発想から、それが葬儀において棺を荘厳するのに使われるようになるのは自然な推移である(p.175)」。

四花:四花(しか)とは、紙の左右に細かい切れ込みを入れたものを竹の棒に巻き付けたもので4本が普通である。中世後期には「雪柳(せつりゅう)」というものが見え、『禅苑清規』では「仏喪花」を龕の上に置くとしている。雪柳は散花のように散らすもので、「仏喪花」は娑羅樹を象ったもので紙で作られていた。仏喪花が雪柳に、さらに四花に変化していったとしている。「現状では、四花は娑羅樹をかたどったもので、中国禅宗由来の葬具であるという伝統的な解釈を採用しておきたい(p.179)」。五来重は四花は御幣であったとするが、鎌倉時代の葬列では棺に御幣が立てられており、四花の由来とは別に御幣が葬具として使われていたことは留意すべきである。

善の綱:善の綱とは、棺・龕に結び付け、その前方または後方に伸ばし、人がそれにつかまって引く布の綱である。東日本では「縁の綱」ということが多い。仏像に綱をつけて結縁のために人々が手に取ったことが起源と考えられ、死者を仏に見立てる一環であると理解できる。史料の上では南北朝期の「一向上人臨終絵」が古く、往生人に対して行われたのが次第に一般の死者に広まっていったと思われる。民俗例では善の綱は孫または夫人がつかまることが多いが、15世紀の将軍家の葬儀では後継者が引くのが普通である。善の綱を引くことには重い意味が付与されていたようだ。武士の葬儀では善の綱は広く行われたが天皇家の場合はこれを記した史料がない。

位牌位牌は文献上は足利尊氏のもの(1358)が初出である。15世紀では位牌を持つのは一族の僧や喝食(修行中の少年)であることが多く、跡継ぎの役ではなかった。しかし16世紀中期には家督の持つべきものと考えられるようになっており(1550年の足利義晴の葬儀など)、善の綱と位牌の位置づけが逆転したようだ。なお、位牌には死者の人格(霊)が宿ると考えられるようになった可能性がある。

敬礼法(三匝):三匝(さんそう)とは、火葬の前に龕が火屋のまわりを三回まわることである。インドでは仏に対して三回右回りする「右繞三匝」という儀礼があり、また『大般涅槃経後分』では釈迦の棺がみずから空中に浮きあがってクシナガラの城門などを三回繰り返して巡ったというエピソードがある。中世前期には記録がないが、室町時代になると三匝が行われるようになった。民俗例では棺が左回り(つまり三匝とは逆)に回るのはかなり一般的である。葬送であるから仏に対するのと逆にしているかもしれないが詳らかではない。もしかすると、死者の方向感覚を失わせるという理由があったかもしれない。

拾骨:白河法皇の火葬(1129)の場合は翌朝に近親の者6人が炉の東西に畳を敷いて座り、箸で骨を取り上げて対面の者も箸で受け取り、その後はそれぞれが拾って金銅の壺に入れた。壺は白い絹で包んで、院近親の藤原長実が首にかけて歩いた。この場合は近親の者(とはいえその半数は出家している)が行っているが、中世後期の貴族・上級武士の葬儀では、沐浴・入棺・骨拾いは禅宗や律宗の僧侶に任されていることが多い。なお中世後期は拾骨は葬儀から3日目の朝に行われることがしばしばあるが、なぜ先延ばししたのかはわからない。

葬儀見物:中世後期には上級武士の葬儀は昼に行われるようになり(だからこそ幡・天蓋などの見せる葬具が発達した)、社会的地位を誇示する意味からも見物人を集めることとなり、将軍足利義煕の葬儀(1489)では「見物雑人如稲麻竹葦」、六角氏の家臣永原氏の葬儀(1536)では「貴賤男女見物数万矣」、豊臣秀長の葬儀(1591)では「人数廿万人モコレアルベキ」と言われた。

無常講:無常講とは葬送の互助会である。覚如の『改邪鈔』(1337)では「往生浄土ノミチモシラス、タダ世間浅近ノ无常講トカヤノヤウニ諸人オモヒナスコト、ココロウキコトナリ(p.200)」とある。ここでは仏光寺派などの異流が往生の信心を閑却して、無常講のようなことだと世間の人が思っているのはけしからんという文脈で無常講が出てくる。鎌倉時代後期には金石文にも「念仏講州」「結衆」が見え、14世紀には無常講という名の互助組織が成立したようだ。この名の由来は、隠岐に流された後鳥羽院が死の直前(1239)に著した『無常講式』にある可能性がある。ただしこれは念仏講で葬式の手順に触れているわけではない。葬式互助は戦国期には「念仏講」の名でも盛んになる。戦国期には庶民も参加している。日蓮宗にも独自の互助組織があった可能性があるがまったく不明である。

なお、本章は『死者たちの中世』の第3・4章に続くものとして位置づけられており、私は本章を読むために本書を手に取った。

「第2章 「京師五三昧」考」では、京都近郊にあったいくつかの火葬場・墓地について、史料を博捜して実態を推測している。

近世初期の京都には5つの火葬場「五三昧」があるという説があり、本稿はこれを史料に基づき緻密に追及している。まず、この5カ所がどこかというのもあやふやであるが、史料を総合して鳥辺野・千本・最勝河原・四塚・中山であろうとする。このうち、鳥辺野は次章で取りあげ、本章ではそれ以外の4カ所について沿革を明らかにしている。本稿は非常な労作で情報量が豊富だが、私は京都近郊の地理に疎いので正直あまり頭に入ってこなかった。以下、気になった点のみ述べる。

まず、火葬場は近世以前も迷惑施設であった。最勝河原では火葬の臭気が問題になり、奉行所から移転を命じられている。それに対して火葬場側は「此の処さへ辺土にて迷惑仕候に(現在の場所さえ辺地で営業に差し支えるのに)」と反論している。火葬というのは、割合に上層の葬儀法であり、元来仏教的な葬儀法であるから、古代では火葬されることは贅沢でありがたいものだという観念があったとされる。にもかかわらず、火葬場が迷惑施設とみなされているのは、火葬の位置づけが庶民化し、特別にありがたいものだという意識がなくなっていることを窺わせる。

興味深いのは「千本」。ここは多くの寺院があり、しかもそれらは葬場または墓地となっていた。「これらの寺を含む広い範囲が千本と呼ばれる室町京都の一大葬送センターであった(p.254)」。そしてその近辺にあったのが蓮台野である。院政期にあった「蓮台」という葬儀施設がその名称の起源になったようだ。近世では上品蓮台寺が蓮台野を管理していたが、この寺の起源には不明確なところが多い。山本尚友は堀河天皇の遺骨が安置された香隆寺をその前身としている。中世後期の蓮台野には、墓地を管理する「野法師」がいた(「蓮台野法師」の省略形かもしれない)。慶長3年(1598)の方広寺大仏供養で蓮台寺聖僧が参加しようとしたことに東寺が反対しており、葬式寺としての蓮台寺が忌まれたことを示している。

墓地のある土地の寄進が行われたとき(1324)、「御先祖墳墓」があるのでこの墓を移動したりせず今後も菩提を弔う、と約束している文書があるが(p.262)、これは墓が移動されたり祭祀が廃絶したりすることがよくあることだったのを逆に示しているのかもしれない。

五三昧は元来は荒野のようなところであったと思われるが、陵墓・貴族の墓(堂宇もあったかもしれない)が設けられたり、僧侶によって経塚が立てられたりすることで火葬場・共同墓地となっていき、やがて周辺の寺院に囲い込まれることで消滅していった。土井浩は五三昧を「境内墓地化以前の葬所」であると指摘している。なお18世紀の山岡浚明『類聚名物考』では、寺ではなく鳥部山・鳥へ野に葬る風習が京都にあるとして「すへて江戸も都会の所にハこの風やみたるそよからぬ事にハはあるそかし(=江戸の町中でこのような風習がなくなったのはよくないことである)(p.270)」と言っている。江戸では鳥辺野のような寺院墓地でない庶民的な葬所がなかったから、高密度の埋葬が行われ、頻繁に墓の掘り返しが行われ、墓は社会問題になっていたのである。

「第3章 鳥辺野考」では、前章で割愛されていた鳥辺野について詳説している。

本章でまず驚いたのは、鳥辺野がどの範囲のどこであるか、いまだ不明であることである。鳥辺野というと京都の東側にあるという漠然としたイメージはあったが、その範囲には諸説あり、また時代によっても変遷があるのだという。その概略をいえば、鳥辺野は限定された領域から始まったが拡大し、近世に限定されていったということになる。まず古代には阿弥陀峰(清水寺の南にある山)の一帯が葬所となっていたと思われ、ここが元来の鳥辺野だった可能性がある。これが徐々に拡大し、『親鸞伝絵』が書かれた鎌倉末期には「今の知恩院付近から滑石越に至る広大な範囲が鳥辺野と呼ばれていた(p.288)」。

もう一つの中心は鳥辺山や西大谷に近い六道珍皇寺で、ここは異界との境界に位置すると思われていた。院政期には「珍皇寺四至内に「左衛門大夫堂」「伴入道ゝ(堂)」など人名をつけた多くの堂が存在し、墓堂と考えられている(p.290)」。珍皇寺では院政期に盂蘭盆会がにぎやかに行われたらしい。これらのことから、珍皇寺が面する野原(鳥辺野)が平安後期から住民の葬所として確立していたと思われる。

また近世には珍皇寺の東側に「南無地蔵」と呼ばれた空き地があり、そこは昔宝福寺という時宗寺院があった跡だとされていた。ここも火葬場・墓地となっており、「南無地蔵の葬場は、近世から伝承的にさかのぼれる最古の葬場の一つ(p.298)」である。

近世に鳥辺野・鳥辺山といわれたのは、西大谷背後の墓地である。ここは「浄土真宗・日蓮宗・時宗の諸寺院が共同墓地として利用していた(p.301)」。つまり、近世の鳥辺野は清水寺の西側あたりに限定されてきていたと考えられる。また地理的な事情から、墓地・火葬場について清水坂(非人の集団=坂惣中)は何らかの権益を有していた。

ちなみに、南無地蔵も阿弥陀峰も鳥辺山も、豊国廟の建設にあたって移転させられたとの伝承がある。これらは火葬の臭気が不浄とされたようだ。やはり火葬場は迷惑施設なのである。なお中世には「鳥辺野広域圏」に南無地蔵・鳥辺山(2カ所)・赤築地・阿弥陀峰・延仁寺という少なくとも6カ所の火葬場があった。火葬場が迷惑施設であることを考えると、これは多すぎるような気がする。なぜ6カ所も必要だったのだろうか。

「第4章 さまざな死」では、異常な死に方をしたケースの葬送や墓について述べている。

異常な死に方をした場合は、特別に弔いが必要とされたり、あるいは死体への恐れが通常より強かったりし、葬送にも通常とは違う特徴がみられた。特に、異常者の霊は死んだ場所に留まるという観念が古くからあり、死体とは別に場所の扱いも普通とは違っていた。特に戦死者の場合は、戦場にとどまる「霊を鎮めることは政治的に戦勝者の急務(p.321)」であり、久野修義は「戦後処理としての鎮魂が必要とされていた」と指摘している。また中世前期は戦場の死体は放置されたようだが、中世後期では従軍に際しては陣僧を伴って参戦し、戦死後は陣僧が死体を葬送したり国元への通知を行った。

異常死者の場合は、死体を分割することも行われた。これは死者の復活を阻止する措置だったかもしれない。特に反乱者の場合は死体を分割したという説話が多い。一方、死体を分割すると(特に首がないと)往生できないと考えられており、また首そのものにも怨念がこもっているとも考えられた。

このほか、水死体、産褥死、自殺者などの場合について現行民俗での事例も参照しつつまとめている。それらに共通するのは、往生させようとするよりも、その怨念や穢れが周りの人に害を及ぼさないようにするという思想である。一般の死者の場合は往生させることが優先されるのであるが、これがないのは日本の往生思想の特質を表しているようにも思われた。

本書は全体として、史料に基づいて緻密に論証し、また民俗例も参考に葬送の本質について考究している。ただし冒頭にも述べた通り、古い学説に基づいている箇所があるのは注意が必要である。例えば島津毅は『日本古代中世の葬送と社会』で勝田の説にいくつかの面で修正を行っているし、穢については近年より厳密な考証が行われており、穢がどの程度実体的に扱われたかは再考を要する(ただし、私自身は穢はそれなりに実体的だったと考えている)。そうした注意点はあるが、本書の中心である「中世後期の葬送儀礼」は今のところ本書以降にはまとまった研究がなく、「死者を仏として葬る」習俗の論考としては本書が通説といって差し支えないであろう。

葬送の本質について史料と民俗で迫る労作。

【関連書籍の読書メモ】
『死者たちの中世』勝田 至 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_9.html
中世、多くの死者が墓地に葬られるようになる背景を説き明かす本。本書と合わせて読むことは必須。思想面は手薄だが、中世の葬送観について総合的に理解できる良書。

『日本古代中世の葬送と社会』島津 毅 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/07/blog-post.html
日本の古代・中世における葬送の実態を再考する論文集。勝田の説を批判的しつつも発展させている。古代中世の葬送史の新たなスタンダードとなるべき労作。

『穢と大祓』山本 幸司 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/11/blog-post_24.html
穢(けがれ/え)の歴史的事実を明らかにする本。穢の実態を初めて明らかにした労作。

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2026年3月15日日曜日

『魔の系譜』谷川 健一 著

日本史において魔とされる存在をエッセイ風に語った本。

本書は、在野の民俗学者、谷川健一の処女作である(民俗学者はそもそも在野が多いが)。ただし正確には最初の単著ではないのかもしれない。著者自身が「私には本書を処女作と呼んでみたいものがある(p.3)」と書いている。

谷川はもともと平凡社の編集者で、雑誌『太陽』の初代編集長をつとめた。その後執筆活動に入り、持ち前の編集能力によって『日本庶民生活史料集成』、『日本民俗文化大系』などもまとめている。そうした著者の仕事に通底するのは、人の交流・移動に大きな関心が寄せられているということだと私は思う(後半生では特に南島との交流に力がそそがれた)。ところが、この処女作ではそういう要素がほとんど感じられない。著者自身が「処女作とよびたい」というこの本が、彼のライフワーク的なテーマとは少しずれていたというのがなんだか興味深い。

著者が「魔の系譜」に注目するのは、日本では善良さよりも悪の方に積極的な意味が見出されてきたからだ。強烈な怨みを持った人には、自ら「往生」を拒否し、魔となって復讐することを誓った人がいる。つまり復讐するためには魔とならざるを得なかった。キリスト教圏ではそもそも幽霊や怨霊が教義的に位置づけられていないが、復讐のために魔となった人はちょっと見当たらない。

しかし日本では、そういう魔の存在がかなり実体的に捉えられた。慶応4年8月、明治天皇の勅使が崇徳上皇の霊を讃岐から京都に迎えたことはそれを如実に示している。本書にはその宣命が掲載されているがその中で「この頃皇軍に向かい奉る陸奥出羽の賊徒をば速やかに鎮め定めて云々」と祈られている。戊辰戦争を鎮める力が崇徳上皇の霊に期待されていたのである(!)。

讃岐に流された崇徳上皇は、指から流れる血で五部大乗経を書き、それをどこかに納めて欲しいと希望したが、信西はこれに不審を抱き天皇も拒否した。魔の力を怖れたのである。こうして崇徳上皇は爪も髪も切らず「生きながら天狗の姿にならせたもう」(『保元物語』)と言われた。讃岐では崇徳上皇ゆかりの地には、「血の宮」とか「煙の宮」という普通の神社とは違う祀り方がされている。崇徳上皇を祀る頓証寺には天狗の相模坊(なんと大権現だと言われる)が合祀された。貴人の恨みのエネルギーは非常に大きいのである。

世の中が不穏になると、崇徳上皇の恨みのエネルギーが怖ろしくまた頼りがいのあるものに思われるようになった。文久3年(1863)には崇徳上皇の第七百回忌が行われているのはその象徴だ。

仏教の教説では、死者がいつまでも現世に留まって社会に害悪を及ぼすという理屈はないが、人々は強い恨みを持って死んだものは怨霊や天狗、天魔となって災いをもたらし、時にはその霊威を以て災いを鎮める力も持っていると考えていたのである。

次に著者が取り上げるのは「バスチャン」である。これは、長崎の隠れキリシタンたちが禁教の中で作り上げた独自の教説に現れる実在の人物である。これは古代ローマで殉教した軍人サンセバスチャンに由来した名前と思われる。バスチャンは、禁教下で儀式を暦通りに行うため「バスチャン暦」を寛永11年(1643)に作ったとされる(島原の乱の4年前)。

そもそも隠れキリシタンの教義は元の形からかなり変容していた。それを示すのが彼らが造った教義書『天地始之事』である。ここには土俗化したキリスト教世界観が表明され、デウスはもはや万能神ではなく農耕神のようなものになっている。またマリアがルソン国の帝王ゼウスから求愛されるなど荒唐無稽な説話も含まれる。

バスチャンは隠れキリシタンの指導者で、密告通報されて78回の拷問の末斬首された。彼は処刑前に、いつか黒船に乗った司祭がやってきてキリシタンが公認されるだろうとの予言を残していた。このバスチャンが信仰対象になり、それはやがてキリスト教というより「バスチャン信仰」と呼ぶべきものになっていった。著者は、それはバスチャンが処刑されたということによるのではないかと考える。しかもこの場合、崇徳上皇のような恨みの力ではなく、処刑による「苦痛の快楽」が影響していたのではないかというのだ。

「苦痛の快楽」とは矛盾するようだが、著者はそこに「苦しむ神、悩む神、人間の苦しみをおのれに背負う神」が重ね合わされたと考える。イエスが人間の罪を背負って処刑されたことの変奏なのだ。ここで急に話題転換し、諏訪大社(上社)の「外県御立座神事(そとあがたみたてましのしんじ)」と「大御立座神事(おおみたてましのしんじ)」が取り上げられる。これは神使の出発式なのだが、この神使を務める幼い童男は、馬上にくくりつけられて虐待され、かつては殺されたこともあったと言われる。占いによって神に選ばれた者が殺されるということは、人間を生贄にした時代の痕跡なのかもしれない。

このほか、著者はほとんど脈絡なくさまざまな民俗信仰や他界観念を取り上げる。例えば平田篤胤の『勝五郎再生紀聞』。これは前世の記憶を持つという少年にインタビューした記録である。同じく篤胤の『仙境異聞』。これは天狗の世界と行き来した少年寅吉のインタビューである。篤胤が寅吉に入れ込んだのは彼の性格から当然としても、多くの国学者や知識人が寅吉に興味を持ったのは当時の世界観を窺う上で興味深い。ちなみに篤胤には『霧島山幽境真語』という、霧島の明礬山で26年過ごした時の不思議な体験談もある。著者はこうした記録を、夢野久作の『ドグラ・マグラ』を起点に(⁉)読み解く。私にはそのつながりがちょっとよくわからないのだが(著者は夢野久作のファンで、本書には随所に夢野作品への言及がある)、冥界とのつながり、生まれ変わりの思想、死者が蘇ることへの恐怖などが混然となって表明されているという。

また、百姓が害虫を亡霊と見立てたこと、享保の飢饉で年貢の減免を行ったことで失脚して失意の中に死んだ久留米藩の稲次因幡を農民たちが神として祀ったことなどを取り上げ、「虫送りにともなう亡霊供養は、(中略)飢饉にともなうさまざまな犠牲者の鮮烈な記憶をながく保存しようとする意図も含まれていた(p.201)」とする。

こうした多様な事例が本書に登場するが、それらに通底する概念を私なりに提示すると、「日本では、異界(あの世)が現世を補完するものとして捉えられていた」ということになる。もちろんキリスト教でもそういう面はある。例えば悪人があの世で裁かれるといったことはそれにあたる。だがそれは、現世での報いをあの世で受けるという一方通行な性格が強い。ところが日本の場合は、現世→あの世という方向だけでなく、あの世→現世という方向でも影響が及ぼされる。現世とあの世は地続きであり、あの世は現世の矛盾やままならなさを埋め合わせるだけでなく、時に現世に浸潤してその是正を求めるのである。

そしてその媒介をしたのが、魔と呼ばれる存在であった。キリスト教では善良なものこそ神の下に伺候して影響力を行使した。聖人はその代表的な例だ。ところが日本では、善良な魂や幸福な魂は子孫を遠くから見守りはするが現世への影響は限定的だった。強い恨みをもって死んだもの、異常な死に方をしたものなどがその負のエネルギーによってあの世とこの世をつないだのである。そしてそれとは少し違うが、天狗もそういう存在だったのかもしれない。天狗はこの世のものでもあり、あの世のものでもあった。つまり境界的なのだ。魔についての考察は、その後の谷川民俗学とは少し異質な出発点かと思ったが、境界的なものに注目する点では通底するものがあるのかもしれない。

谷川民俗学の原点。

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2026年2月27日金曜日

『よみがえる古代の港―古地形を復元する』石村 智

日本の古代の港の実態を地形から推測する本。

日本の美称で「豊葦原の瑞穂の国」という言葉があるが、古代の日本には葦が生い茂る湿原的な浅瀬がたくさんあり、そういう地形の場所が港となっていた。そういう痕跡は、「~津」という地名に残されている。「津」は「船が安全に停泊できる波の穏やかな場所」を指す言葉で、古代の港は「~津」と呼ばれたものが多い。

だが現代では、「~津」はかなり内陸にある場所が多いため、そこが港であったことがわかりづらくなっている。例えば吉備津神社の吉備津は現在の海岸線から20キロメートルも内陸に位置し、難波津は10キロメートルほど離れている。どうしてこういうことになってしまったのか。

実は、吉備津は外海に面した港ではなく、潟湖(かたこ※)地形の場所に設けられた港だった。潟湖地形とは、河川の河口部に砂州が形成されることで天橋立のような海との仕切りができ、その内側が浅い汽水湖となった、いわゆる「ラグーン(内海)」となっている地形のことである。なお、古代において潟湖地形が港として利用されていたことを先駆的かつ包括的に論じたのが『日本の古代3 海を越えての交流』所収の森浩一「潟と港を発掘する」という論文である。

吉備津の場合、そのすぐ間際まで「吉備の穴海(あなうみ)」というラグーンになっていたし、難波津の場合も瀬戸内海に面しており、さらにその内陸側に「河内湖」というラグーンがあって、生駒山のふもとには白肩津(しらかたのつ)という港が設けられていた。こういう潟湖地形は河川からの沖積作用によって徐々に埋まり、また近世以降は干拓や河川改修によって耕地化された。このようにして、古代の港「津」はかなり内陸に位置することになったのである。

また興味深いことに、こういう古代の港の近くには、海上からのランドマークとなるような形で古墳が築造されていることが多い。これは海上からの目印になっていた可能性がある(ただし著者は、海からは意外と遠くから見えないと指摘している)。本書ではいくつかの地域の古代の港とその近隣の古墳を概観してそれぞれ考察している。なお古代地形については、「カシミール3D」というGISソフトを利用して復元している。

本書で取り上げられているのは、丹後、瀬戸内海(御津、室津、鞆の浦など)、遣新羅使のたどったルート(瀬戸内と宗像)、伊豆、平安京周辺、標津(北海道)、網取(西表島)の港である。以下、そのうち気になったところのみ述べる。

瀬戸内海は、古代から重要な海上ルートであったが、ここには複雑で早い潮流が流れており非常に航行が難しい海でもある(シーカヤックの第一人者内田正洋氏によると「世界で最も難しい海」(p.100))。著者はそのうち御津と室津を比較している。播磨灘に面した御津は古代にはラグーンのほとりに位置し、葦の生い茂る泥湿地帯だったと思われる。ちなみにその手前の半島にあるのが輿塚古墳であり、周辺には古墳時代以前の遺跡も多い。一方、室津はその近くにあり、ここも行基が開いたという伝説がある歴史的な港である。しかし自然条件は対照的で、室津は切り立った崖に囲まれた入り江である。史料を調べると、御津の方がより古くから栄えたが、奈良時代以降には室津の方が重要性が増していったことが窺える。それは、遣唐使船をはじめとした大型の船が御津には入港できなかったためと思われる。その代わりに水深の深い入り江に立地する室津が選択されていくのである。

著者は、葦が生い茂るラグーンの浅瀬にある港を「浅い港」、リアス式海岸の入り江にある水深の深い港を「深い港」と呼んでいる。古墳時代までは「浅い港」が栄え、奈良時代以降に構造船が航行するようになると「深い港」が栄えたというのが大まかな見取りである。そして「浅い港」は、ラグーンが陸化することにより機能を喪失していった。室津は現代でも港であるが、御津の方は今では海に面してすらいない。ただし、ある時期までは「深い港」と「浅い港」は併存していたと考えられる。

ここで著者は古代の船の構造について推測している。先史時代から丸木舟はあったが、弥生時代には準構造船(丸木舟に舷側板をとりつけた船)が登場した。そして古代には大陸・朝鮮半島からの影響で、底が平たい構造船が登場したと考えられる。ただし著者もいうように「船の構造を示す考古学的な資料はまったく見つかって(p.89)」いない。遣唐使船では1艘あたり100人以上の人が乗っていた場合があるので、かなり大きかったことだけは間違いない。

著者はさらに、奈良時代にたびたび繰り返された遷都を水上交通の観点から述べている。例えば難波京は平城京と併存していたが、これは海上交通に利便の地として造営されたとみられる。そしてこの時代の都城は複都制とも呼ぶべきもので、複数の都市を使い分けていたと考えた方が自然だ。難波京は646年に造営されて784年まで、途中に空白期間はあるが活用されている。この難波京がどんな地形に造営されたのかというと、難波津は大阪湾と河内湖を仕切る場所にあったのである。この時代に海上交通がいかに重視されていたかを難波京の立地は如実に示している

しかし難波津は、沖積作用によって河内湖が陸化することで機能を失っていった。難波堀江という、河内湖と難波津をつなぐ人工水路を仁徳天皇が造っているところを見ると、古墳時代中期にはすでに河内湖は陸化が進行していたと考えられる。また『続日本紀』には、762年に遣唐使船が難波津で動けなくなるという事件が発生しているので、河内湖の陸化が進んだのかもしれない(難波津は河内湖に面していたわけではないが)。そして784年には長岡京へ遷都して難波京は廃止されている。こうしたことから、難波津の港としての機能は早くも古代に失われつつあったと判断できる。

古代の港はラグーンに位置していたということはよく言われるが、古代の地形が示されることは少ない。一方、本書はカシミール3Dを使って大まかではあるが古代の地形を示しており、とても分かりやすい。本書は全体として大上段の主張があるわけではなく、様々な事例を「あれもあるこれもある」式で連ねた本である。著者は元来、オセアニアの人類学・考古学を専門としており、日本の古代は専門の中心ではないため、ある意味「肩の力を抜いて書いた本」のような気がする。

ラグーンに位置していた古代の港をわかりやすく示した小著。

※本書では「潟湖」に「かたこ」とルビがあるが、国語辞典的には「せきこ」という。

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