陰陽道について先駆的な研究をした村上修一は、祇園社に祀られる牛頭天王を陰陽道の神だと述べたが、私はなぜ牛頭天王が陰陽道の神なのかずっと疑問に思っていた。そこで手に取ったのが本書である。
※以下の章題では、副題は割愛した。
「序章 陰陽道と安倍晴明の基礎知識」では、陰陽道が概説される。
陰陽道は平安時代に日本で生まれた「信仰、祭祀、呪術の体系(p.20)」である。陰陽道は元来「陰陽寮」に所属する役人(陰陽師)が担ったものであるが、有名な安倍晴明は陰陽寮を退官した後に活躍している。官職ではなく、陰陽師が個人の資質で活動するようになったことは陰陽道の確立に重要なことだった。晴明から5代後の安倍泰親(やすちか)は晴明を顕彰し、陰陽道の家としての安倍家を盛り立てた。室町時代には安倍家は土御門家という貴族になり、江戸時代には陰陽道の元締め(土御門家の許状を得ないと陰陽師になれない)となった。なお安倍家と並ぶ陰陽道の家・賀茂家は勘解由小路家となっている。
「第1章 追われる鬼、使役される神」では、陰陽師が使役する神を述べる。
陰陽師は鬼を退散させることができた。しかしそれは鬼を退治するというより、鬼を祀る・饗応することで本来いるべき場所へ移動させるという性格が強い。面白いのは、鬼を払う「方相氏」という神が、いつのまにか払うべき鬼として扱われるようになったことだ。方相氏は4つ目がある異形の神であるが、鬼を払ってくれる方相氏も祀られ饗応されるため、それが混同されるようになったらしい。
そして陰陽道の神といえば「式神」だが、これは当時の記録にはほとんど出てこない(2例あるのみ!)。一方、当時ポピュラーだったのは「護法童子」である。験者(げんざ)は護法童子を使役して物の怪に取りつかれた人の体内から鬼などを追い出す。この護法童子は経典の力が具現化されたもので、低位の鬼神などではない。
ところで、陰陽師の占いに「式占(しきうら)」というものがある。これは、天体の秩序を象徴する「式盤」というものに、様々な神(貴人・天后・大陰・玄武…)を召喚して占いをするものである。式神とは、元々はこの神々だったのではないか。これが護法童子と習合して後世にイメージが膨らんだのが式神であるらしい。
「第2章 冥府と現世を支配する神」では、陰陽道を象徴する泰山府君について述べる。
安倍晴明が祀り始めた神に「泰山府君」がある。泰山府君は中国の道教の「東岳泰山」の信仰に基づく、人間の寿命を管理するとされた神で、配下に司命・司禄がいる。彼の管理する寿命が記録された帳簿(死籍)を書き換えてもらうことで延命を願ったのが泰山府君祭である。なおその際に書き換えを依頼する手紙を「都状」という。一方、密教でも延命は願われたが、その本尊は焔魔天(≠閻魔)であり、その修法が「焔魔天供」であった。こちらでも泰山府君は登場するものの、焔魔天の眷属の一人としてである。この道教と密教のそれぞれの泰山府君がミックスして形成されたのが日本の泰山府君信仰である。
安倍晴明が泰山府君祭を創案したのは老齢になってからである(当然陰陽寮とは何の関係もない)。晴明がひとりの宗教者として泰山府君祭を行うようになったことで、「あらたな「宗教」としての力(p.93)」を陰陽道が持ち始め、陰陽道は密教と浄土教と並ぶ「第三の新興勢力(p.94)」となっていった。
泰山府君祭は、異界の役所である「泰山府」の役人へ死籍を書き換えるよう依頼するものであるから、都状はあたかも役所へ書類を提出するかのような体裁を持ち、多くの神々を祀った。さらに都状では、北斗七星への依頼も行われている。北斗七星が人間の運命を掌るという占星術的な思想が組み合わさったのである。こうして11世紀初頭には貴族たちの間に泰山府君祭の信仰が広がった。
さらに泰山府君祭は、昇進を祈願するものとしても行われるようになった。泰山府君は人間の運命を掌り、「天地の理」そのものを表象するものとして認識されたのである。安倍泰親は九条兼実のために本命日(生まれ年の干支と同じ日)には定例として泰山府君祭を行っている。
鎌倉時代には、これに密教占星術の「宿曜道」がプラスされ、「密教・禅・陰陽道・宿曜道が連結した、あらたな祈祷システム(p.105)」が出来上がっていった。陰陽師は幕府に重用され、「御簡衆(おふだしゅう)」という幕府を構成する一員になっている。陰陽道が幕府権力の維持装置になっていくと、それまでの泰山府君祭では十分ではなくなったのか、修法がインフレし始め多様な祭祀が考案実行された。そして行われるようになったのが「天曽地府祭」である。天曽・地府・北帝大王・五道大王・泰山府君など陰陽道系の諸神を総動員して延命除災などを祈願するものである。天曽地府祭ではもはや泰山府君は絶対的な神格ではなくなっている。
室町時代になると、先述の通り土御門家・勘解由小路家が確立するとともに、陰陽道祭祀は圧倒的に種類が減少し、「泰山府君祭」「天曽地府祭」「三万六千神祭」に整理された。これは権力と結びつくことで祭祀が形骸化したためと考えられる。そして、これらの祭祀で祀られる大勢の神々は、「はたして個別的な「神」としての来歴や働きとして祀られているのか、ただ単に名前だけが羅列されているにすぎないのではないか(p.110)」と考えられる。つまり陰陽道の神々は、観念上の存在になっていったのである。
「第3章 牛頭天王、来臨す」では、牛頭天王について述べる。
牛頭天王といえば、京都の祇園社の祭神である。あの豪壮な山鉾が繰り出す祇園祭の本当の中心は、祇園社から3基の神輿が繰り出され、「お旅所」に留まって再び神社に帰ってくる神幸祭・還幸祭にある。山鉾は、神輿の通り道をお祓いしているのである。この3基の神輿で渡御するのが、素戔嗚尊・稲田姫・八柱御子神(やはしらのみこがみ)である。このうちスサノオは、明治以前には牛頭天王であった(明治時代の神仏分離によって牛頭天王からスサノオに祭神が替えられた)。
では牛頭天王とはどんな神か。インドで釈迦が修行した祇園精舎の守護神であったということになっているが、牛頭天王はインド由来の神ではないどころか、来歴がよくわからない。史料に現れるのは11世紀あたりからで、「「祇園天神」という天神信仰に関わる神格が、祇園御霊会の展開のなかで、いつからか「牛頭天王」と同一視されるようになったと考えられ(p.121)」る。祇園社では、八王子・蛇毒気神・大将軍など仏教でも神話の神でもない異形の神を祀っていた。そしてこれらが、「すべて陰陽道に関わる恐ろしい「暦神」(p.122)」なのだった。
伝説では、牛頭天王は遠い海から来臨した。牛頭天王を兄の巨旦将来は泊めなかったが、弟の蘇民将来はもてなした、という話の筋を持つ伝説だ。なお元来の伝説ではその名前は「武塔(むとう)の神」である。そこでは牛頭天王とは言っていないのに、この伝説が「祇園社の本縁」として祇園の縁起譚として扱われるようになったらしい。この伝説と祇園とをつなげたのが卜部兼方の『釈日本紀』の記述で、兼方は武塔神=スサノオ=牛頭天王と結んだ。そこには異国神を日本の神であると解釈しようとする「中世的なナショナリズム(p.139)」があるという。
さらに室町時代になると、「暦家」である賀茂家が牛頭天王を「天道神」とみなすようになった。牛頭天王は暦・方角に関わる神であるというのである。その主張をしたのが『簠簋内伝(ほきないでん)』という本。『簠簋内伝』は安倍晴明著という触れ込みだったが、実際には鎌倉末期から南北朝時代に著作されたと見られる。『簠簋内伝』における牛頭天王の伝説は、武塔神のそれと大同小異だが、ただ牛頭天王が帝釈天のもとに「天刑星(てんぎょうせい)」として仕えていたのは注目される。宿曜道・密教的な世界観で牛頭天王が語られているのである。さらに牛頭天王と八王子の災厄を防ぐために行われるのが「太山府君王法」というもの。ということは、牛頭天王は悪神であったのだ。だがそれよりも強力な悪神が巨旦の方で、巨旦を呪詛・調伏することで災厄を防ぐのが「五節の祭礼」であった。
こういう、不思議な伝説の後、『簠簋内伝』では暦・方角のタブーを牛頭天王の物語に由来するものとして述べている。なぜ牛頭天王と暦が接続されたのかは明らかではないが、ともかく『簠簋内伝』によって牛頭天王は陰陽道の神として変容していったのである。
「第4章 暦と方位の神話世界」では、『簠簋内伝』の神話とその来歴が述べられる。
江戸時代、土御門泰福(やすとみ)は『簠簋内伝』は安倍晴明の著作ではないことを主張した。泰福は、土御門家を陰陽道の元締めと幕府に認めさせたが、この体制の構築のため、陰陽道を神道に近接させた。『簠簋内伝』と安倍家(土御門家)とを切断したのは、神仏習合的な『簠簋内伝』から離れる必要があったためと思われる。なお泰福は山崎闇斎に入門し(→垂加神道)、伊勢流の神道も学んだ。そして「土御門神道」「安家(あんけ)神道」「天社神道」と呼ばれる神道宗派として陰陽道を創出した。
『簠簋内伝』の実際の作者は、おそらく安倍家とは無関係で、「暦家」であったと見られる。安倍家=土御門家は「天文家」なのだ。大雑把にいえば陰陽道にはこの2つの流れがあった。なおどちらの系統でも、宮廷陰陽道ではタブー等の由来を説くにあたって典拠の書物を示すことが必要だったが、『簠簋内伝』では典拠が示されていないため、在野的な陰陽師の著作であると思われる。
では『簠簋内伝』ではタブー等の由来をどう説いているかというと、牛頭天王を中心とした陰陽道の神々の世界での仕組みが根拠になっているのである。特に巻第二では宇宙創成の神話が語られ、そこには「盤牛王(ばんごおう)」という始原神が登場する。これは中国の宇宙創世神話の「盤古」が影響しているらしい(しかしわざわざ「牛」と変換しているのがミソ)。そして盤牛王の数多くの妻・子供・孫たちが十干十二支を形成したとする。盤牛王こそは「暦の始原神」なのだ。そして禁忌や吉凶の根拠は、その神話であった。
真言宗小野流では『簠簋内伝』の影響を受けた『神像絵巻』が14世紀に作られており、小野流の僧侶たちはこれらの神話を受け入れて発展させた。なお『神像絵巻』では牛頭天王が至高の歴神として描かれた。近世初期には『簠簋内伝』の仮名書き注釈書『簠簋抄』が多数作られるなど普及した。『簠簋内伝』は中世神話の重要な要素となっていたのである。
本章の最後に、あらためて『簠簋内伝』の作者は誰かということが考察される。奈良には、賀茂家=暦家の流れの陰陽師(=奈良陰陽師)が中世後期に活動しており、彼らは「南都暦」「奈良暦」を頒布していた。『簠簋内伝』の作者は特定はできないものの、状況証拠からはこの南都陰陽師の中から生まれたのではないかと考えられる。
「第5章 いざなぎ流の神々」では、現代に生きる陰陽道的な民間信仰「いざなぎ流」について述べる。
高知県香美郡物部村(ものべむら)には、「いざなぎ流」と呼ばれる民間信仰が残っている。これは、太夫(たゆう)という人が様々な呪術を行うものである。「いざなぎ流」には、オンザキ神とか王子・式王子といった耳慣れない神が祀られ、あるいは使役される。特に呪詛は特徴的だ。いざなぎ流の呪詛は「呪詛(すそ)の祭文」という呪文が使われるが、これを分析してみると様々な宗教が混淆したものであることが窺われる。そして特に陰陽道の影響が大きいのである。紙で作った人形に呪いを憑依させて場末に送る手法は極めて陰陽道的だ。とすれば「いざなぎ流」の太夫たちは陰陽師の末裔なのだろうか?
しかし彼らは、自分たちが陰陽師だという認識はないどころか、陰陽師の存在そのものを知らなかった。状況証拠からは太夫=陰陽師なのに、なぜそのような伝承はないのか。そこには、土御門家が陰陽道を神道化し、活動内容を規制していったことが働いていたらしい。「いざなぎ流」は土御門家から禁止された呪術を主にやっていた「博士」の系譜を引く存在だったようなのだ。要するに陰陽道から切り離された存在の一部が「いざなぎ流」として残った、ということらしい。
「終章 「陰陽道」の神々のその後」では、神仏分離による陰陽道の抹殺が簡単に述べられる。
明治維新の神仏分離令では「牛頭天王」が名指しで否定され、また明治3年(1870)には土御門家に対して「天社神道免許」で門人を取ることを禁止された(=陰陽道禁止令)。陰陽道の神々は単一の神話体系によるものではなく、中世神話が複雑に習合した存在であった。そういうものを明治日本は消し去ったのである。
※以下は増補された章である。
「断章1 いざなぎ流への旅」では、物部村でホトケとなっていた先祖の霊をカミ(ミコ神)に祭り上げる事例が語られる。
これは非常に興味深い。物部村では、死後33年とか49年経つとこの祭り上げが行われる。面白いのは、故人の魂はホトケとなっているはずなのに、太夫は「地下に眠る死者の霊」に対して呼びかけることだ。また太夫によって呼び出された死者の霊は、「行文行体(ぎょうもんぎょうたい)」という修行を積み重ねてミコ神となるのだという。この過程で死者の霊が霊感の強い人に乗り移り、やっと神となれたことを「うれしいぞよ、うれしいぞよ」と述べる出来事を著者は実見した。いざなぎ流の祭は、単なる因習ではなく神を実感するものであり、また日ごろの単調な暮らしを打ち破り精神を開放する非日常な「祝祭空間」なのである。
「断章2 安倍晴明ブームの深層へ」では、安倍晴明ブームを考察し、またいざなぎ流と著者とのつきあいを述べている。
「補論 牛頭天王の変貌と「いざなぎ流」」では、いざなぎ流の祭文と『簠簋内伝』の内容、土御門系の陰陽道を検討することで、土御門家が捨象していった陰陽道について考察している。特に牛頭天王は土御門系の陰陽道には全く登場しない。詳細は割愛するが、その中でいざなぎ流では「血の穢れ」「御産の穢れ」が強調されていると指摘しているのは興味深い。
「付論 折口信夫の「陰陽道」研究・再考」では、折口信夫が先駆的に陰陽道を研究し、宮廷陰陽道と民間の陰陽道の2つの系統があったことが早くから指摘されていたことを述べ、民間陰陽道の方が活気をもって広く拡がったとしている。さらに、陰陽道禁止令がなぜ行われたのかを考察し、それが土御門家からの編暦権の奪取が目的であったとする。またそれが「陰陽道」ではなく「天社神道」であったことは、神道の純化・国教化にともなうものでもあったことも示唆している。その後陰陽師たちは徐々に陰陽道を復活させ、明治25年(1892)には「陰陽道本院」や「陰陽道本庁」の設立も計画された。一方、非土御門系の陰陽師たちは、明治9年(1876)に創成された「神道修成派」に加入していったという。
ここから陰陽道についての研究史が整理されて、比較神話学・民俗学の観点から陰陽道が研究されていった様子が、柳田国男や三河納などの研究を紹介しながら述べられる。それは神社神道を絶対化する見方への異議申し立てでもあった。
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本書は、「陰陽道の歴史」、「『簠簋内伝』の神話・伝説」、「いざなぎ流の民俗学的研究」という3つの性格の文章が混じっているため、ややわかりづらい。この3つの関係は次のようになっている。
まず、平安時代の陰陽道は道教をベースとした呪術の体系であり、安倍家と賀茂家の2つの門流があった。鎌倉時代にはこの呪術大系が最高潮に盛り上がるが、室町時代には整理されて一種の形骸化がなされる。それとともに、安倍家→土御門家、賀茂家→勘解由小路家と貴族化し、幕府を支える権力装置となっていった。
その中で、土御門家は「天文道」として天体観測・暦の作成を担い、勘解由小路家は「暦家」として暦や方角の吉凶の占いをメインにするようになった。さらに賀茂家の末流からは奈良陰陽師など民間陰陽師が輩出され、宮廷系の陰陽道とは違う習合的な世界が展開していった。この論拠となったのが『簠簋内伝』であった。一方、宮廷系陰陽道の正統であった土御門家では、近世には陰陽道から呪術的・習合的な要素を捨象し、「天社神道」として自らの体系を再定義し、神道へ接近した。そうすることで土御門家は幕府から陰陽道の元締めと認められたのである。陰陽師を名乗るには土御門家の許状が必要になったことで、民間陰陽師のいくらかは呪術的要素を捨てたと見られる。
そんな中で、土御門家の許状を取得しなかった民間陰陽師もいた。彼らは「陰陽師」を名乗れなかったため、「博士」など陰陽師の異称を名乗り活動した。その末裔が「いざなぎ流」の「太夫」なのである。土御門家の陰陽道は「正統」が確定していたが、民間の陰陽道は絶対的な権威がなかったために中世的な混淆がそのまま継続したらしい。明治時代の神仏分離で陰陽道は禁止され、土御門系も民間のものも陰陽道は抹殺されてしまったが、民間の陰陽道はより実態が不明になってしまった。だが「いざなぎ流」の祭文などを研究することで、失われた民間の陰陽道を復元できるのではないだろうか? 復元まではいかなくても、少なくとも民間陰陽道の世界の一端を窺うことはできだろう。
それは決して「土御門系以外」というような異端だったのではない。『簠簋内伝』を中心とした豊かな神話が展開したことを鑑みると、それは傍流の陰陽道ではなく、むしろ中世陰陽道の中心だった可能性がある。陰陽道の歴史は、「いざなぎ流」から窺える民間陰陽道によって書き換えが必要になるかもしれない、ということなのだ。
ところで、本書は2007年に刊行された著作が、2012年に増補版が出て、それが2024年に文庫化されたものである。著者は癌のため病床で校正を行い、あとがきで「本書が刊行されたときには、研究、教員生活に復帰しているはずだ」と書いているが、退院はしたものの刊行を待たず著者は死去した。つまり本書は著者の遺作である。なお、著者の死去は本書の印刷後であったらしく、そのことは本書には書いていない。
陰陽道の神々を題材にして、陰陽道への見方そのものに再考を迫る良書。
【関連書籍の読書メモ】
『日本陰陽道史話』村上 修一 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/03/blog-post_28.html
日本史における陰陽道の話題をわかりやすく語る本。日本における陰陽道の存在感に改めて光を当てる良書。
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