2020年7月13日月曜日

『日本宗教史 I, II』笠原 一男 編(その1)

教科書風にまとめられた日本宗教史。

本書は、各分野の第一線の研究者が分担して執筆した日本の宗教史である。本書の前にも、こうした試みは幾多にもまとめられているが、本書は特に「宗教信仰史、政治権力と宗教、倫理と宗教、日本人と民俗」などの新しい研究成果を踏まえて新鮮な角度から外観したものという。

I、IIで合わせて800ページを超えるものであり(それでも、各項目はかなり簡潔に感じる)、その内容を網羅的にまとめるのは困難なので、以下私なりに感じた部分のみを述べる。

まず、日本の宗教の歴史を振り返ると、例外なく時代の転換期には、宗教、中でも民衆宗教が複数誕生したと編者はいう。そして現代(出版時1977年)も、たくさんの宗教が信者の獲得にしのぎを削っている状態だ。日本人は宗教に何を託してきたのか、日本民族と宗教の関係はいかなるものか、それが本書を貫く視点である。

第 I 部 原始・古代の社会と宗教

仏教伝来前の日本の宗教については、非常に簡潔な記載である。弥生時代の祭祀や聖地はその後にはあまり引き継がれなかったのに比べ、古墳時代の祭祀や聖地はそのまま継続して発展していくことが多いという指摘が興味深い。どうも日本人の宗教意識は古墳時代くらいが画期となっているようだ。

仏教公伝、崇仏派と排仏派の争い、聖徳太子については、今から見るとちょっと古びた記載である。今では、これらは多分に伝説と作為があると見られているが、本書では史実として書かれている。

私があまり意識していなかったのが、奈良時代の山林仏教だった。奈良時代でも、深山に分け入って呪験力を得た修行者が、官寺や宮廷において祈祷に奉仕する場合が多かった。しかし彼らの存在は僧尼令から逸脱しており、正式な仏教者ですらなく(=私度僧)、厳重な禁断を蒙ってもいた。

私には、奈良仏教は「平地の仏教」であるというイメージが強かった。法隆寺、薬師寺、唐招提寺、東大寺、興福寺など、南都六宗=奈良仏教の大寺院は例外なく平地に作られているからである。しかしそれを補完するものとして、非合法的な山林仏教が栄えていたというのが、平安時代の新しい仏教の動きに繋がってくるのである。

平安時代の仏教は、本書では「山の仏教」と「里の仏教」の2項目で描かれる。「山の仏教」とは言い得て妙で、平安時代の仏教を代表する天台宗と真言宗は、言うまでもなく比叡山と高野山を拠点としたわけで、奈良時代の仏教が「平地の仏教」であるなら、平安時代の仏教は「山の宗教」なのである。

なぜ平安仏教は「山」を指向したか、それは「平地の仏教」が貴族と癒着し、仏教本来の精神性が失われたからであった。そのため都市と距離を置いた「山」を拠点として新しい仏教を構築しようとしたのが平安時代の仏教であったといえる。そしてその中心になったのが、最澄と空海、そして中国からもたらされた密教であった。

最澄は、受戒のたった三ヶ月後、比叡山に入る。その後最澄は中国に渡ったが、最澄に期待されたのは天台の総合的な教えというよりは密教であり、そのおかげで公認された。

また最澄は、法相宗の徳一との論争の中で天台の教えの独自性を明確化し、特に天台僧には「具足戒は必要なく、大乗戒(『梵網経』に基づく十重四十八軽戒)がふさわしい」として南都六宗との決別を宣言した。南都仏教の側では当然これを認めなかったが、最澄の死後、藤原冬嗣らの奏請によって勅許され、延暦寺の号が授与されるとともに戒の授戒が行われ、ここに天台教団は完全に南都仏教から自立したのである。

しかし天台宗は、世俗の権力とは徐々に妥協していった。摂関期に天台座主になった良源は、教団に入ってきた貴族の子弟を優遇するという門閥重視の教団経営を行い、天台宗を変質させつつも興隆に導いた。

一方の空海は、大学を中退した一介の山林修行者として出発。やがて入唐して最新の密教をもたらし、嵯峨天皇にも重用された。だが最澄とは異なり、空海の場合は南都仏教との関係は融和的であった。最澄は南都仏教教団から「大乗戒壇」設立反対の非難を受けて憂死したが、まさにその年に、東大寺内に灌頂道場=真言院が創設されたのはその象徴である。

ところが空海没後には、真言宗はゴタゴタが続いた。天台宗の場合にも、山門(延暦寺)と寺門(園城寺)の抗争があって必ずしも教団は一枚岩ではなかったが、比叡山が中心であることは揺るがなかった。真言宗の場合は、空海があまりにも偉大なカリスマであったためにその没後には収拾がつかなくなり、東寺と高野山という地理的にも離れた二大潮流が9世紀末まで争い続ける。10世紀には東寺がこの抗争に勝利して中心となったが、11世紀には仁和寺(広沢流)と醍醐寺(小野流)にまた二分され、流派が分裂していく。

しかもそこには、思想的な発展はほぼ何もなかった。真言宗は現世利益を追求する行法の大系になり、空海の精神は閑却された。それなのに一方で、空海伝説は加速していった。最澄はほとんど伝説化されなかったのに、空海は各地で霊跡を残したことになり大師信仰が確立。また高野山では空海がまだ生き続けているという伝説が生まれ、納骨の習慣が広まり広大な墓域が出現した。比叡山にはあまり墓がないのとは対照的である。

また平安仏教を特徴付けるのは、「山の宗教」であるということの他に、浄土教の大流行がある。浄土へ往生することが、この時代の宗教的な大目標になった。また、往生は思想というよりも、「実際に往生したこと」が人々を惹きつけ、そのための証拠として各種の往生伝が流行した。特に源信の浄土教思想(ex.『往生要集』)に代表される天台宗の浄土思想は次世代の仏教を形作っていく土台となる。

第 II 部 中世の社会と宗教

鎌倉仏教の旗手たち、法然、親鸞、一遍、道元、栄西、日蓮の6人は、一遍を除く5人が天台宗で学んだ。天台宗が新しい仏教の母体となったのである。対して、真言宗からは新しい仏教が全くといっていいほど生まれなかった(真義真言宗くらい)。真言宗は鎌倉時代には思想的には停滞していた。だが東国を中心に教勢は拡大。南北朝時代から室町時代初期にかけては真言教学が集大成していく。天台宗に絶え間ない思想の展開があったとすれば、真言宗にはそういう発展はなかった代わり、実践的な布教活動が展開された。

鎌倉仏教については、伝統的な(最新の研究成果を取り入れていない)描き方である。本書出版は黒田俊雄の「顕密体制論」が発表された直後であり、その成果を取り入れられなかった模様だ。よって現在から見ると本書の記載は鎌倉新仏教の生成発展に比重がありすぎ、当時の宗教界の大勢を等閑にしている感じがする(もっと「寺社勢力」のことについて紙幅を割くべきだっただろう)。

法然と親鸞についてはあまり接続を強調せず、どちらかというと独自性を強調した書き方。真宗については蓮如が重要視されているのがよかった。親鸞の信仰は研ぎ澄まされたものに完成していたが、親鸞は組織者としては全く一流ではなかった。親鸞の存命時にはその影響力は小さく、また弟子たちは四分五裂して好き勝手していたのである。死後発展したのも、親鸞の本流を次ぐ本願寺ではなく、亜流の仏光寺教団であった。

本願寺を発展させ、本流の面目を回復させたのは蓮如であった。蓮如は親鸞の信仰の本道を蘇生させるとともに、真宗の教えをわかりやすく説き、また門徒とは徹底的な平等・朋友の立場を貫き、服装の色までも気を遣い、人心の掌握に細心の注意を怠らなかった。さらに世俗の権力と対立せず、門徒には権力への服従を求めた。にも関わらず、この頃加賀一向一揆が起こって真宗の国が生まれたことは皮肉である。

時宗についてはけっこう詳しく書かれているのがよかった。興味深かったのは、託何(たくが)の『器朴論』である。時宗は、一遍が一冊の本も残していないので教義らしい教義がなかった。よって一遍の孫弟子の時代になると拠り所となる教義が必要になってきた。それで託何が書いたのが『器朴論』である。ここでは密教(真言宗)の即身成仏観から導き出された「この世が浄土」という思想が展開される。他の鎌倉仏教が天台宗的であるのに、時宗のみが真言宗的な教義を形成していくのが興味深い。

また時宗は、上人が遊行(全国を廻る)するのが特権であり義務だったが、これが時の政権に(少なくとも室町時代を通じ、戦国争乱の時でも!)かなり優遇されていたのが不思議である。遊行上人は関所の通過が自由で、乗馬や人夫を徴用する権利を持っていた。遊行上人の威光はかなり大きかったようだ。

禅宗については、臨済宗については教科書的な記述である(特に重点はなく簡潔にまとまっている)。曹洞宗については(当然であるが)道元が大きく取り上げられる。しかしその思想については意外とあっさりと扱っている。道元の次は瑩山紹瑾(けいざん・じょうきん)が教団を発展させた立役者である。瑩山紹瑾は、曹洞禅を密教化させ、また白山信仰など諸神仏の信仰を教義に組み入れて教義を時代に適合させた。また峨山韶碩(がざん・しょうせき)の超人的な布教活動によって、全国的に非常な勢いで曹洞宗が普及し、驚異的な発展を遂げたのである。

日蓮については、今までさほど注目していなかったが、通史によって他と比べてみるとその異彩ぶりが際立っている。他の鎌倉仏教は、基本的に中国から輸入された教義・思想に基づいてそれを発展させたものだが、日蓮宗の「南無妙法蓮華経」は全くのオリジナルだ。日蓮が三度の諫暁(かんぎょう=権力者への意見具申)をしながらも当然の如く黙殺され、災害や国難が続くのは正しい仏教信仰(日蓮の考え)が採用されないからだと怒り、不遇のままに世を去るまで、日蓮のドン・キホーテ的な戦いは続いた。

日蓮宗は、他宗排斥の強硬な姿勢があり、基本的には法華経のみを信奉する一神教的な性格が強い。これはもはや「新しい仏教」なのだと思った。しかし、日蓮没後わずか2、3年にして諸宗との協調的な気運が生まれてきた。法華経唯一主義では居心地が悪かったからであろう。そうして、諸宗との関係や師弟関係などによって高弟らは門流として分裂していき、統合されない門流の総括として中世日蓮宗が展開していくのである。

さらに、「三十番神(一月の一日ごとに守護神が宛てられた)信仰」が取り込まれるとともに、日蓮宗は京都の町衆に受け入れられ、天文年間(1530年代)には日蓮宗は京に大流行、町衆は日蓮宗によって京都を自治するようになる。しかしこの頃の日蓮宗は、日蓮が構想した「新しい仏教」ではなく、すっかり伝統的仏教の枠内に収まるものになっていたと言えるだろう。

また本書では、通史部分に加え、主に鎌倉仏教の旗手たちが女性の救済をどう考えたかという「女性と仏教」、神道理論の誕生(特に吉田神道)と修験道の小史である「中世の神道と修験」が掲げられている(以上第 I 巻)。

第 II 巻へつづく)


2020年7月6日月曜日

『国家神道』村上 重良 著

国家神道の本質を描く。

国家神道とは、明治から敗戦までの国民の思想を国家が統制するための強力な道具だった。本書は、国家神道がどう生まれ、どう発展し、どう国民を支配したかをまとめた、ほとんど最初の本である。であるから、本書は国家神道を考える上での基本的な視座を確立した。

本書ではまず古代の神道の成り立ちから述べる。神社神道は、原始的な民族宗教が創唱宗教(仏教)に完全には包摂されないままに発展して生まれたもので、原始宗教的な体質を保持し続けた世界的に「まれに見る特異な宗教」であると著者は見る。神仏習合の理論によって仏教と神道は理念的には接続され、実際に民衆の間でも仏教と神道はほとんど区別されていなかったが、「原始宗教以来の共同体の祭祀」という性格は幸か不幸かずっと変わらなかった。「神社神道という、あまりにも特異な民族宗教の存在こそ、国家神道の形成を可能にした最大の要因」であると著者は言う(p.10)。

つまり、神道が教義的な内容を欠いた祭祀の体系という容れ物的なものであったために、明治以来の国家権力は「その時々の政治的必要に応じて、惟神の道に、フリー・ハンドで恣意的な内容をもりこむことができた」のである(p.224)。

国家神道の淵源は、幕末の儒家神道と復古神道にある。江戸時代、儒学が勃興してくると、本来は全く出自を異にする儒学と神道が不思議に結びつくようになり、神儒習合の各派が登場した。本来の神道には倫理的な教義は存在しなかったが、そこに儒教から忠孝の概念が導入され、神道が封建的イデオロギー性を獲得していったのである。特に山崎闇斎の垂加神道は強烈な天皇崇拝の性格が大きな影響を及ぼした。また平田篤胤の復古神道は、復古の絶対化によって新たな儀礼や祝詞を創造するとともに、神道がほとんど重視していなかった死後の魂の問題を取り扱い、神道に「宗教としての実体」を作りだした。

明治維新を迎えると、神道は当初国教化されたが、それはすぐに挫折して宗教は自由化された。ところが神道は宗教ではないとされて逆に国家がそれを強制することが可能になり、やがて国民生活全てを支配した。その過程を著者は(1)形成期(明治維新〜明治20年代初頭)、(2)教義的完成期(帝国憲法発布〜日露戦争)、(3)制度的完成期(明治30年代末〜昭和初期)、(4)ファシズム的国教期(満州事変〜敗戦)の四期に整理して述べている。

(1)形成期では、復古政策の一環として古代以来の「神祇官」が政府に復興され、まず神仏分離と、それに伴って各地で廃仏毀釈が行われた。また神祇官神殿には、八柱の皇神と全ての天神地祇、歴代皇霊が祀られた。これは「国家が直接、全神社の全祭神を支配するという、新しい宗教国家の構想に発するもの」(p.92)であり、神社は全て国家の祭祀として公的性格を与えられ、追って社格が定められた。一方で寺社領は上知(あげち=政府に取り上げられ)されて、寺領からの収入を絶たれた仏教勢力は弱体化した。

こうした神道優遇の諸施策が矢継ぎ早に実施されたが、国民教化についてはうまくいかなかった。そのため神祇官は神祇省に格下げされ、さらに教部省となって大教院体制が敷かれ、これまで教化運動から排除されていた仏教諸勢力も合同して国民教化が図られた。しかしその内容は、皇室への崇敬と祖先祭祀をミックスして人工的に作られた薄っぺらい教えだったためにうまくいかず、また政教分離を主張する開明派官僚からの評判も悪かった。例えば森有礼は「この創作された宗教をわが国民に対して押しつけようとする試み」を厳しく非難した。仏教勢力も国民教化運動の矛盾を問題視して脱退。こうして大教院と教部省は解体し、国民教化運動は終わりを告げた。

さらに神道界はその後混乱し、祭神論争(祀るべき神にオオクニヌシを加えるかどうかの論争)が起こった。これは神道内の論争によって決定することができず勅裁によって解決された。このゴタゴタがきっかけになって、明治15年(1882)政府は神社神道を一般の宗教から切り離して国家の祭祀とすることにした。神社神道を「宗教ではない」という整理にしたのである。神社の宗教活動については神社から分離された宗教である「教派神道14派」が公認された。

(2) 教義的完成期では、帝国憲法が発布されて「信教ノ自由」が認められるが、それに続いて「教育勅語」が発布される。帝国憲法で認められた「信教ノ自由」はあくまで「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限二於テ」の限定つきであったから、政府は表向きには信教の自由を掲げながら(そして帝国憲法の起草者たちは、日本には国教制度はないという見解をとり続けながら)、国家の都合によっていかようにも宗教を弾圧することができた。この見えない国教制度の当然の帰結として宗教公認制度が出来、各宗派の管長を勅任官(高級官僚)とすることによって、宗教を国家に従属させ支配した。

一方で、伊藤博文は政教分離の原則を強調し、私立学校令(明治32年)では学校教育で宗教教育が行えないこととなった。学校では宗教を教えないようにしつつ、宗教ではない「国家神道」は、いくらでも学校に強制できる体制が整った。とはいえ政府内も一枚岩ではなく、国家神道を国教化したい勢力と、反国教化の西欧流の合理主義的勢力があった。国教の教義の基本となる文書「教育勅語」を作成する際、この2つの勢力を代表して起草作業を行ったのが国教派の元田永孚(ながざね)と反国教派の井上毅(こわし)であり、その見解の妥協点として「宗教にかんする問題はすべて除かれ」、「君主の個人的著作」として各大臣の副署を欠いた異例の形式で発布された。

ところが、ひとたび「教育勅語」が発布されるや、政府内のそのような対立は問題ではなくなり、学校教育で叩き込まれたことによっておそるべき強制力を以って国民の意識に浸透した。それは、儒教にもとづく封建的忠誠の観念と、祖先崇拝の観念との結合であり、有事の際には天皇に命を捧げることを理想とする教えであった。さらに全国の小学校に天皇、皇后の「御真影」が下賜された。「教育勅語」と「御真影」は、国家神道にとっての聖典と神像の役割を果たした。国家神道は宗教ではない、とされていたが、「それは特定の神を立て、それらの神々への信仰を説く、まぎれもない宗教であった」(p.140)。

(3)制度的完成期では、国家神道の各種の儀礼や祭祀が整備されるとともに、国家神道の軍事的性格が強まっていく。天皇の祭祀、すなわち宮中祭祀は、日露戦争後の明治41年(1908)の皇室祭祀令によって決定され、おびただしい祭典が定められた。しかしそれは、神嘗祭や新嘗祭を除いてほとんどが明治期に整備されたものだった。

ところで時代は遡るが、明治20年(1887)に官国幣社の神職制度が定められ、内務省が宮司を直接任命するようになったのを初めとして、府県社、郷社、村社、無社格の神官神職制度が系統的に整備され、神官の人事権は政府・地方庁が完全に掌握していた。このことは神社の数の増大をもたらした。それは、政府が私的な神社の存在を認めず、全ての神社を公的なものとして取り扱ったため、「路傍の小祠でも、いちおうの形を整えて神社と称することで、自動的に公的性格を賦与され、管理、運営のうえで、公費の支出を期待することができた」(p.166)からであった。

こうした群小神社の存在は政府にとって好ましくなかったため、明治39年(1906)、内務大臣原敬のもとで神社の大々的な合併に着手し、神社の統廃合は明治39〜42年に頂点に達した。これは「神社寺院仏堂合併跡地譲与二関スル件」によって後押しされた。これは、合併によって不要になった境内地(官有地)を、合併した神社に譲与することを許可したものである。こうして、村社は村ごとに一社、無社格は字ごとに一ないし数社に減らす方針が断行され、約19万余あった神社が、大正初年までに11万余社に激減した。

この神社整理によって全国各地の由緒ある古社が破壊され、神事や行法も多く失われた。国家神道の威信を保つために、神道の伝統が破壊されたのである。そしての代わりに導入されたのが、宮中祭祀を基準として画一化された祭式であった。画一化されたのは祭式だけでなく、「祭神の明らかでない神社については、祭神をさだめたほか、祭式の制定、社殿、社地等の確保についても、(中略)可能なかぎり画一化する方針をとった」(p.174)。全国どこでも、神社といえば鳥居、奥の神殿、その前の拝殿、そして手前の手洗所があるが、これはこの時に画一化したことによって整備された面も大きい。

そして神社整理の動きと並行して、政府は神社界の多年の要望に応えて、国庫共進金制度が整えられた。まず官国幣社の経費が国庫負担になり、また府県社や郷社、村社の経費も地方庁から支出できることと定められた。ただし、全ての神社がこの恩恵を受けたわけではなく、府県社以下の神社では限定的な支出だった上、共進指定されなくてはその支出を受けられなかった。その基準を決めたのは内務省であり、実質的には神社を官社、共進指定神社、指定外神社に三分する最終的な社格の設定であった。

さらに明治41年(1908)には、総理大臣桂太郎の副署により「戊辰詔書」が発布された。これは「国民教化を健全化」するため、国民に対し、国家を隆昌に導き、皇祖皇宗の威徳を発揚するように命じたものである。これは国民教化の新経典として普及が図られ、全国の神社で「奉読」された。神社は国家主義のイデオロギーを強制する拠点となり、地方行政の運営にあたっては神社が最大限に利用された。

なお、全体的な傾向として神社は整理統合され減少したが、新たに創建され、しかも国家的な位置付けを持つ神社が出現した。それは、(i)近代天皇制国家のための戦没者を祀る神社(靖国神社、護国神社)、(ii)南北朝時代の南朝方忠臣を祀る神社(湊川神社)、(iii)天皇・皇族を祀る神社(橿原神宮、平安神宮、明治神宮)、(iv)植民地、占領地に創建された神社(朝鮮神宮、昭南神社)といったものである。これらは国家神道の教義を代表し天皇制を支えるものであり、極めて高い社格を持った。

ちなみに鹿児島でも、(iii)の類型として日向三代を祀る神社が霧島神宮、鹿児島神宮、鵜戸神宮として列格された。もともと日本には「天皇を神として神社に祀る伝統はなかったが、国民の間に天皇崇拝を定着させるために、天皇、皇族を祭神とする神社という新しい発想が具体化された」(p.190)のである。こうした新設の神社では、新設であるにも関わらず、ことさらに古式・古制が強調され、境内地も古くからの社叢であるかのように設えられた。国体の教義は、神代に淵源するものだと強弁することしか国民に強制する根拠を持ち得ないものだったからである。であるから、新たに作り出した儀礼や神社までもが、まるで悠久の昔から続けられてきたものであるかのうような錯覚を国民に与えた。

(4)ファシズム的国教期では、国家神道は国民生活の全てを支配した。神社は宗教ではないという建前は、各宗教勢力と軋轢を生んだが、満州事変の勃発を期に思想統制は加速度的に強化され、結局はいかなる宗教上の理由によっても、国家神道は拒否できないこととなった。さらに昭和14年(1939)、宗教団体法が公布され、これにより各宗教各宗派は半強制的に合併させられ、仏教は13宗56宗派が13宗28宗派に統合された。宗教団体法は「天皇制ファシズムによる宗教の統制と利用を完璧にするための宗教法であった」(p.204)。

さらに皇紀2600年を機に「神祇院」が設立された。これは神祇官の神祇省への格下げ後、70年ぶりの失地回復であった。この設立を機に神社行政は大幅に拡充強化され、遂行中の戦争は「聖戦」であるという侵略思想が鼓吹された。神道を国教とせよという主張も公然となされたが、皮肉なことに帝国憲法の「信教ノ自由」条項が防壁の役割を果たした。

こうして国家神道は絶頂を迎えたが、終戦によってGHQにより形式的には解体された。「神祇院が廃止され、国家神道に終止符が打たれた1946年2月2日は、日本の宗教史にながく記念されるべき日となった」(p.215)。しかし私的な信仰としては神社は規制を受けなかった。戦争中の神社関係団体がまとまって神社本庁が設立されたことで、国体の教義と神社の中央集権的編成は形を変えて存続した。

「紀元節」は「建国記念の日」と変わって復活し、神社に公的性格を与えようとする戦前回帰的な運動が開始されている。「広範な国民が、国家神道に主体的な関心をもち、その本質を確認することなしには、国家神道の復活を阻止し、日本の民主主義を前進させることは不可能」(p.ii)だというのが、著者が本書を書いた動機でもある。

また本書では、国家神道の歴史を縦糸とすれば、江戸時代から勃興してきた神道系の民間宗教の歴史が横糸として語られる。黒住教、天理教、金光教などである。これらは、江戸幕府の封建的宗教政策によって民衆の心から離れた仏教に代わって、現世利益や人間中心主義、開明性(男女の平等)を説くなど、人々の救済のために生まれた宗教であった。

それらの教義や神話は、神道に基づくものであったし、また表向きには政府に従属していた。しかし国家神道を絶対化していった政府は、いくら政府に従順であってもそれらを異端として扱い、異質な神話の存在そのものを不敬とみなした。国家神道のファシズム的国教期においては、 大本教に対する大弾圧が行われ、同教本部の全施設を破壊し尽くした。このほか、「ひとのみち教団」「ほんみち」なども弾圧を受けた。

こうした弾圧によってこれらの宗派は壊滅こそしなかったものの、神道が人々の素直な信仰心から発展していく芽が摘まれることとなった。断行された神社整理においても、多元的な伝統が断絶させられ、国家の都合によって画一的なものへと矯正されてしまった。国家神道の成立過程において、「神道」は強化されたのではなく、むしろ国家の都合で歪められ、削ぎ落とされ、画一化され、換骨奪胎され、人々の信仰心を受け止められるものではなくなっていた。

国家神道は確かに仏教やキリスト教、神道系の民間宗教を弾圧したが、最も激しく破壊し尽くされたのは、ほかならぬ「神道」だったのである。

国家神道を考える上での基本図書。


【関連書籍の読書メモ】
『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』安丸 良夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/05/blog-post_2.html
明治初年の神仏分離政策を中心とした、明治政府の神祇行政史。
『国家神道』まで繋がる明治初年の宗教的激動についてはこの本が詳しく、しかも深い。

『国家神道と日本人』島薗 進 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/02/blog-post_23.html
明治維新から現在に至るまでの「国家神道」を概観する本。
本書は俯瞰的な視野を持ち、「下からの国家神道」運動(民衆が国家神道の強化を求めた運動)から皇室祭祀まで、小著ながら様々な角度で「国家神道」を再考する。