2020年8月25日火曜日

『日本宗教史 I, II』笠原 一男 編(その2)

前回からのつづき。第II巻について)

第 III 部 近世の社会と宗教

江戸時代の仏教各派は、幕府からの保護とともに強い統制を受けた。この保護と統制について、本書は詳しく述べており参考になる。

保護の面は、全ての人民をどこかの寺に所属させ、その戸籍管理(冠婚葬祭の証明書発行、キリシタンでないことの証明)と旅行手形の発行を寺院が担うという寺請制度による。これは僧侶を半公務員化することであった。これは寛文12年(1635)頃に完成したと見られる。この頃に幕府に寺社奉行が置かれたからである。

一方、統制の方も強力だ。(1)本末制度によって寺院全てをヒエラルキーの下におき、本山を支配することによって全寺院を体制内に組み込んだ。(2)教学を固定化し、その教学の研究を振興することによって、寺院の思想を社会と遊離した象牙の塔的なものに変質させた。(3)僧侶の生活規則を幕府が定めた。(4)寺領を保護するという名目の下で検地を行い寺領を削減し、経済基盤を奪った。といったものである。これらの政策は、中世に寺院が持っていた特権を剥奪するとともに、抵抗の手段をも奪うという巧妙なものであった。

こうして経営が弱体化し、民衆の心と遊離した寺院は、存在としては保護されていたが収入は少なくなったため、葬儀を担う「葬式仏教」化することにより収入を確保するようになっていったのである。そして葬式仏教が制度として確立し、檀家と寺の関係が固定化されることで、個人の内面は置き去りにされ、信仰は形式化してしまった。こうして、もはや仏教は民衆の宗教心を託せるものではなくなっていた。

であるから、江戸時代の人々は、檀家寺にではなく、山伏や御師たち——季節ごとにやってきて、厄除け、病除、安産、子育てなどさまざまな効能のあるお札やお守りを配ったり、祈祷を行った——に信仰を寄せた。こうした人々は、固定的な菩提寺所属の僧侶からさげすまれた宗教者であり、儒者たちによって迷信・邪教などといって退けられていたが、実際には彼らの「祈祷仏教」が江戸時代の民衆宗教の中心となった。

江戸時代の神道についても、幕府から統制を受けている。寛文5年(1665)には、「諸宗寺院法度」とともに、「諸社禰宜神主法度」も出された。この法度では、神社の所有田地の売買禁止などが規定されているが、より重要なこととして、吉田家(唯一神道=吉田神道)を神道の家元的存在と認めたことがある。吉田家は幕府によりお墨付きを得たことで、神道の総元締めとして発展していく。

なお、享保期あたりから吉田家に対抗したのが古代以来の神道家だった白川家であるが、本書ではこれについてはあまり書かれていない。

本書では、さらに各宗派の動向が簡潔にまとめられている。

浄土宗:人倫徳目、忠孝といった封建論理を勧奨し、幕藩体制内における模範的人間を育成することが中心となった。新しいタイプの往生伝が生まれ、往生のためには忠孝のような時代が要請する倫理が必要だとされるようになる。しかしこうした体制派と反発した「道心(どうしん)」という非正規僧が活発に活動するようになり、民衆の支持を得た。

時宗:徳川幕府は寺領百石を時宗に与え、遊行上人には、前時代の慣例を踏襲して50匹の伝馬徴発権を与えた。教団の宗主に伝馬徴発権が与えられたのは時宗だけである。遊行上人には幕府が無視できないほど絶大な権威があり、大名並みに優遇されていた。

遊行にあたっての宿舎・食事も全て藩側の負担でまかなわれた。遊行上人が通行するとなれば、何ヶ月も前に通告され、遊行上人のための札引場、湯殿、雪隠、屋根の新設や修理、畳替え、障子の修理、道路普請、架橋、石垣作りまで藩がやっているのである。遊行上人通行予定地に伝馬の設置がない場合は、回国を機会に伝馬が設置されたところもあった。藩にとっては遊行上人の回国は迷惑以外の何者でもなかったが道路整備などに果たした遊行上人の役割は大きかった。こうしてやってきた遊行上人の配るお札には、大勢の人が殺到し、争って受けた。また時宗の教義は江戸時代には確立し、学寮制度とそれに対応した昇進のシステムが完備された。

禅宗:道者超元、隠元隆琦が来日。隠元は黄檗山万福寺(黄檗宗)を創建して寺領400石を与えられた。道者超元は在留8年で帰国したが、その門下には月舟宗胡や盤珪永琢がいる。

曹洞宗では、道元に返ろうという宗統復古運動が起こった。その先駆は万安英種(ばんなん・えいしゅ)で、その下に参じた月舟宗胡が発展させた。月舟は道元の『正法眼蔵』を研究し、その門下から多くの学僧を輩出した。その一人が卍山道白(まんざん・どうはく)であり、彼は一師印証(一人の師からだけ法を継ぐこと)を幕府に訴えて法制化し、嗣法の乱脈を糺してその門下は大いに栄えた。元禄の頃には、江戸駒込の栴檀林や芝の青松寺の獅子窟などには千人あまりの修行僧が集まって禅を学んだという。

このような主流教団とは別に、托鉢の旅を続けたり乞食僧として草庵に隠れ住んだ飄逸の僧が幾人もいた。例えば、穴風外(あなふうがい)、良寛といった僧侶である。こうした人々は、原始仏教そのままの托鉢苦行や道元の理想とした出家者の在り方に近かった。

臨済宗は、江戸時代にはかつての禅風が衰えていたが、沢庵(大徳寺派)、愚堂(妙心寺派)などが出て復興に向かい、愚堂の弟子、盤珪永琢が大いに民衆教化に取り組んだ。さらに古月禅材、白隠が出て臨済宗は近代的な民衆禅として復活した。白隠はわかりやすく禅の真理を説き、禅を近世社会に適合させようとした。白隠ほど大衆に親しまれた禅者はいない。

日蓮宗と不受不施:日蓮宗は信長と敵対したことで教勢を殺がれたが、秀吉は懐柔策をとった。ところが、秀吉の方広寺大仏の千僧供養への対応で日蓮宗は二つに割れる。日蓮宗は法華経唯一主義であったが、その原理を貫けば大仏への供養はできなかった。ここで大仏を供養した主流派(受派)と、しなかった不受不施派に分かれるのである。その後の日蓮宗の歴史は、主流派と不受不施派の抗争(というよりも、不受不施派の弾圧)の歴史である。こうして不受不施派は地下に潜伏することになった。近世の日蓮宗の内部はごたごたしていたが、在家の人々の宗教活動は盛んであり、日蓮宗は近代の新宗教の巨大な母体となる。

真宗:真宗は、納税の義務を怠るなとか、公儀の定めを守れといった封建権力への服従を門徒に強く訴えた。本願寺末寺の僧侶たちによってまとめられた『妙好人伝』は理想的念仏者像を集大成したものである。それによれば、お上に対する忠節、親に対する孝行、そして念仏が必要なのだという。このように本願寺が封建権力に従順だったのは、前時代の一向一揆の前歴から来る危険思想観をぬぐい去るための喧伝という側面もあった。さらに門徒には上納金の義務もあった。

このように封建的思想の喧伝機関となり精神的な拠り所としての意味を失った本山から背を向け、地下に潜った真宗の門徒たちが「隠れ念仏」となった(鹿児島の「隠れ念仏」とは全く別の集団)。隠れ念仏(御蔵法門・土蔵法門などとも言う)たちは、形骸化した本山の信仰を痛烈に批判し、法主を否定し、自らこそ真宗の正統であるとした。しかし隠れ念仏は本山からの厳しい摘発を受けたため、地下活動によって徐々に教義が秘儀化していき、真宗の精神から離れていった。

時代は遡るが、キリシタン関係の動向も詳しく記述される。大変興味深かったのが、殉教における殺害方法である。有名な、慶長2年(1597)の26人の殉教では、磔にされて槍で突かれたのをはじめとして、火炙り、斬首などで処刑されているが、斬首はともかくとして(これはやや温情的な殺し方だったように思われる)、磔や火炙りといった処刑法は当時一般的だったのだろうか? どうもキリシタン用の処刑法だったように感じる。ではなぜキリシタンは磔や火炙りにしたのか。より苛酷残忍な殺し方をしたのかもしれないが、その処刑方法が中世の魔女狩りにおけるそれと似ているのが気になった。

修験道については、17世紀に修験寺院が激増したという記述が気になった。本書では、それは修験道法度(慶長18年(1613)によって修験者が本山派・当山派のいずれかに所属することとなり、さらにそれが天台宗寺門派(本山派)、真言宗(当山派)に包摂される体制となって地域社会への定着が進んだことが理由とされている。要するに、幕府は山岳から修験者を追放し、寺院に所属させる政策を採ったのであるが、このせいで(このおかげで?)結果的に修験寺院が増加し、修験者自体も増加したようである。

そして急増した末寺を統括するため、本山派・当山派では管理機構を整え、教義が整えられるとともに、峰入回数等に基づいて位階を与えるシステムなど教団秩序が形成された。戦国時代までの修験者は山林を跋渉して得た法力によって祈祷を担う存在であったが、それが次第に定着しシステム化された位階と教義によって本山からお墨付きを得て活動するようになっていくのである。

これはもちろん、修験道に変質をもたらした。山林での修行よりも道場内での観法(観念的訓練)が重視されるようになったし、自然そのままが仏身であるという考え方が薄れて、お経を重視するようになってきた。また峰入も儀式化・形式化し、集団峰入をはじめとして峰入が昇進のために行われるようにすらなって、中世の捨身修行的を旨とした峰入はほとんど見られなくなった。

内容は中世とは変質したが、修験道の持つ呪術性は庶民の心を摑み、修験者は様々な願いに応じて祈祷をおこなった。例えば、虫除け、雨乞い、安産祈願、卜占、調伏や憑きもの落とし、病気平癒、営利栄達、家屋の新築など、ありとあらゆる庶民の希求に応えた。これらは、現在神社が担っている祈祷と似たような部分がある。また近世期になると、修験者に触発された在俗の人が山岳修行を行うようになった。この動きが近世の山岳系の新宗教(冨士講、御嶽講)に繋がっていく。

第 III 部 近世の社会と宗教

近世の宗教については、類書に比べてあっさりした記述だと思った。教派神道についても、しっかり取り上げられるのは天理教と金光教のみである。このどちらも、江戸時代の宗教——煩瑣な教義や庶民の生活と遊離した観念的な教え——を否定し、人間中心主義にたって、庶民の素朴な願いを受け止める存在であった。こうした宗教が幕末に出現したこと自体が、江戸時代の人々の満たされない宗教心を象徴しているかのようである。

そういう満たされない宗教心に応えようとしたもう一つの宗教が、キリスト教であった。幕末にはキリスト教はまだ禁教であったが、西欧列国が江戸幕府のキリスト教弾圧政策を問題視したこともあり、布教活動が進んでいった。

その際、カトリック教団に非常に特徴的だったことは、病める人や貧しい人、差別されている人を救う社会活動を実践していたということである。結局、この動きは大きな影響力を持つことはなかったが、高く評価できる。

一方、プロテスタント教団(というよりもその宣教師たち)は、英語教育や殖産工業政策への協力を通じ、中産知識人へ大きな知的影響力を持つことになった。日本にやってきた宣教師たちは人格や学識の面で優れた人が多かったから、彼らを英語教師として接していた人たちも感化される形で洗礼を受けるものが出てきた。キリスト教の受容は救いを求めるというよりは、「啓蒙」を求めて行われたという側面が大きい。それはあくまでも知的理解に留まるものであったという評価もできるが、日本の文化や倫理の面においては、獲得した信徒の数以上の影響力を及ぼしたという面もあった。

国家神道についての記述は、基本的に村上重良『国家神道』に則っているようだ。この分野は私はちょっと詳しいので、なるほどという記述はなかったが、改めて注目させられたのが神社合祀についてである。神社合祀は、神社を公的機関と位置づけたことの結果として生じた。公的機関であることから幣帛料の供進を行うこととなったが、あまりに神社の数が多いため予算が足りない。そこで内務省は、一村に一社ずつ幣帛料供進社を定めて、他をその社に合祀することを推進したのだった。

内務省は合併跡地の無償譲渡を可能とする勅令などによって神社整理を進めたが、驚くべきことに内務省は、神社整理を直接に指令した法律も省令も出していない。神社整理は、法律的に強制したのではなく、地方長官のさじ加減に任せつつ、地方の人々が自主的に行った(ことにされた)ものなのだ。このやり方が、今から見ても極めて「日本の行政」っぽい。

国家神道の時代に、仏教はどのように対応したかについては、類書で読んだことがない内容で新鮮だった。明治維新後の廃仏毀釈、そして国家神道体制に入り、仏教者は否応なく自らの立ち位置を見直さなくてはならなくなった。そういう時、「必ずといっていいほど仏教存亡の危機や末法観とともに戒律論争に熱気をおびる仏教者の姿がみられる」として、国家に迎合していった仏教教団の趨勢と離れて、仏教本来の在り方に立ち返ろうとした人々がいた。

例えば福田行誡(ぎょうかい)は、宗派仏教を弊害が多いものとして通仏教(仏教はひとつ)の立場をとり、持戒持律を重視して、小乗仏教をみなおそうとした。この他、釈雲照、原担山(たんざん)が紹介されている。

また、曹洞宗から還俗した大内青巒(せいらん)は、慈雲飲光(じうん・おんこう)の「十善戒」に傾倒し、原担山に啓発されて在俗の立場から言論活動を行った。「十善戒」は明治の新仏教運動に大きな影響を与えた教理で、仏教倫理を十の徳目(禁止事項)として整理したものである。また慈雲の『十善法語』も明治の仏教者に大きく取り上げられたが、慈雲がこのように大きな影響力を持っていたことに驚かされる。

これらの他、国家的視野に立って日蓮主義運動を進めた田中智学、国粋主義と仏教を結合させた井上円了などが明治の仏教運動の担い手であった。またこの時期は、仏教を歴史上の事実として捉え、実証的な仏教史を構築していった時代でもあった。その成果は人々の仏教観に新鮮な息吹をもたらした。

本書は、最後に「新宗教の誕生と発展」「現代の既成宗教」の2章が置かれている。この章は歴史というより現在を扱うものである。敗戦による宗教の自由化で、数々の新宗教が生まれた。その口火を切ったのが「璽宇教事件」である。これは、狂信的な信者を集めていた璽宇(じう)教に警察が調査にはいり、それを信者だった大相撲の双葉山が乱闘して妨害した事件である。

新宗教は、人々の宗教心の飢えに応じて生まれたものでもあったが、泡沫的で奇抜な宗教が次々生まれたり(笑ったのは映磁尊(エジソン)を祀る「雷神教」)、また様々な事件を起こしてそれがジャーナリズムにセンセーショナルに取り上げられたりしたことによって、淫祠邪教であるとの見方がされるようになっていった。

一方、既成宗教(仏教)も各宗で強い危機感から刷新運動が行われた。その危機感は、都市にはもはや菩提寺意識を持たず、自らを無宗教と見なす人々が多くなり、また農村では人口減少によって寺院が維持できなくなるケースが出てきたことなどによる。江戸時代の宗教政策によって「家の宗教」となっていた仏教は、「個人の信仰」として現代的に生まれ変わろうとしているが、未だその道筋は不透明である。

全体を通じて、本書はかなりよくまとまっている。多数の執筆者がいるにもかかわらず、その調子が一定であり、内容の粗密があまりない。また読みやすく、索引や年表も充実している。参考文献リストはやや素っ気ないが、概論(大学の学部生レベル)としては一般的な水準である。

ただ、図像史、建築史、宗教的な文化史(墓塔の造営などの歴史)、民間信仰についてはあまり触れられていない。特に道教をほとんど全く取り上げていないのはちょっと残念である。

また、本書は「日本人は宗教に何を託してきたのか、日本民族と宗教の関係はいかなるものか」を視点としてまとめたというが、これについてのまとまった考察がなかったのも少し残念だった。本書は現代の宗教について述べて終わっているが、終章では日本宗教史を俯瞰した時に見えてくるものについて語っていたらよかったと思う。

ただ、本書はあくまで事実を淡々と述べており、そういう大上段の文化史的な考察をしていないのはいいところでもある。例えば末木 文美士『日本宗教史』が「古層の形成・発見」というテーマを設定して日本宗教史を述べているのと比べると、この淡々さは安心できる部分だ。

つまり、本書は「地味ではあるが堅実にまとめている」のが特色である。鋭い考察などはないが、基本的事実をしっかり押さえるのにはよい本。


【関連書籍の読書メモ】
『国家神道』村上 重良 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/07/blog-post.html
国家神道の本質を描く。国家神道を考える上での基本図書。

『日本宗教史』末木 文美士 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_14.html
古代から現代に到る日本宗教史を概観する本。
「<古層>の形成・発見」はピンと来ないが、日本宗教史の詩論として価値ある本。


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