2018年5月20日日曜日

『五重塔』幸田 露伴 著

幸田露伴の若き日の傑作中編小説。

本書は、技倆はありながらも魯鈍なために「のっそり」と馬鹿にされる大工十兵衛が、一世一代の仕事として五重塔建築に名乗りを上げて、本来建築を担うはずであった源太と一悶着起こしたものの、立派に五重塔を仕上げるまでの話である。

この物語の形式的な主人公は十兵衛であるが、ほとんど十兵衛の心理描写はない。十兵衛は内省的な性格ではなく、ただ五重塔を自分がつくってみたいという一徹な、思い詰めた感情があるだけだ。

一方で、源太は違う。源太は腕も確かで義理も人情も篤く、人望もある職人であり、また江戸っ子風の気っぷの良さもある。彼は十兵衛を目に掛けてきた恩人であって、仕事を取り合うというよりは譲り合う気持ちでいる。その源太が、様々な葛藤を抱えながらも、結局は魯鈍な十兵衛に五重塔の仕事を全て譲るというのがこの物語の極点であって、私としては源太の方が善良な近代的人間性を表しているように思った。一方、十兵衛の方はいわばなりふり構わない中世的な人間であって、象徴的に考えれば、この物語は近代的視点から中世的な生き方が肯定されるという仕組みになっていると思う。

ところで本書中、出来たばかりの五重塔が暴風雨に見舞われる描写があって、これは坪内逍遙に激賞されたことで日本文学中の名文とされている。描かれる暴風雨の夜は、単純な風景描写ではなく寓意と象徴の嵐でもあって、このような書き方が可能なのかと驚くほどの、空前にして絶後の表現だ。外国語への翻訳が非常に困難と感じさせる、日本語の一つの到達点である。

文体は文語であるが慣れればそれほど難しくはなく、そのリズムを摑めば割合に読みやすい。現代の基準からすれば一文がたいへん長く、1ページで1文というくらい長い文もあるが、表現は簡潔で品格があり、文の長さはむしろ心地よく感じる。

このような文章はいつまでも読んでいたくなるのである。

【関連書籍】
『連環記』幸田 露伴 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/07/blog-post.html 
幸田露伴、最晩年の中編。露伴の到達した言語世界の精華。

2018年5月10日木曜日

『西郷札 傑作短編集(三)』松本 清張

松本清張の短編時代小説集。

表題となっている「西郷札」は、松本清張の処女作で懸賞小説へ応募された作品。この処女作の出来は非常によく、後の清張を予感させるものとなっている。実際ドラマ化もされており、清張の短編の中で割合に知られている。

西郷札とは、西南戦争時に薩軍が軍費調達のために作ったその場しのぎのお金のことで、本作ではこの西郷札が重要な仕掛けとして明治半ばの人間ドラマが動いていく。これがノンフィクションともフィクションとも判断できないような仕掛けになっていて(しかし私の知る範囲ではフィクションである)、いわば歴史の隙間を描いたような不思議な作品に仕上がっている。

その他、江藤新平の末路を実録風に描いた「梟示抄」、幕末に大名、家老、軽輩(と作中では書かれているが比較的高禄取りの家臣)の子として生まれた3人の人生の明暗を描く「啾々吟」など12編が収録。

全体として共通しているのは、敗者や世の中に疎まれたもの、恋に破れたものなど、いわば「負け組」とされる人々を忠心に物語が構成されていることで、同じ歴史小説でも概して「勝ち組」を描くのがうまい司馬遼太郎とはかなり違う読後感である。

ただし特に後半に収録された作品の出来はそれほどでもなく、ちょっと感傷的すぎるというか、例えば恋情のもつれから刃傷沙汰に及ぶようなありきたりの展開が散見される。ある意味では歴史小説(というか時代劇もの)として安定的な作品とも言えるが、山本周五郎とか藤沢周平とか、こういうタイプの小説にはもっと上手(うわて)がいることを考えると物足りない感じは否めなかった。

というわけで、全体的な出来は高くないが、処女作「西郷札」は(繰り返しになるが)非常に読み応えがあって、それだけでも本書の価値はあると思う。

ところで、あの松本清張が、作家の出発点として西郷札というモチーフを取り上げたということが私には興味深く、そういう思いで本書を手に取った。これは西南戦争の戦後処理の裏話みたいなものだし、「梟示抄」も西南戦争前夜の粛正の話である。また他の話も、明治維新にあたって、新しい時代にうまく乗れなかったものが主人公となっていることが多く、松本清張の作家としての視点をよく示していると思う。勇壮な英傑たちが躍動する司馬遼太郎の歴史小説とは対極的なのである。


2018年5月6日日曜日

西郷隆盛と西南戦争

私は鹿児島の人間だから、西郷隆盛というと、もう物心ついた時からいろいろ聞かされていて、内容はあまり覚えていないが高校生の頃に伝記(か海音寺潮五郎の小説か)を読んだ記憶がある(曖昧)。

その後祖父が「これも読みなさい」といって3冊、本をくれた。

『西郷隆盛のすべて―その思想と革命行動』(濵田尚友)、『首丘の人 大西郷』(平泉 澄)、の2冊は覚えているが、3冊目がなんだったか今や分からなくなってしまった。『南洲翁遺訓』だったか。こちらも曖昧である。

なぜ曖昧かというと、これらの本を読んでも、どうも西郷隆盛という人間が自分の中にスッと入ってこない。だいたい、これらの本はどれも最初から西郷隆盛賛美を決めてかかっているところがあって、大げさに言えば、「西郷はかくも偉大であった」というようなことが結論としてあり、それに枝葉をつけたような書きぶりなのだ。

それで、どうも西郷隆盛は自分にとって謎の存在ということになってしまった。伝記的なことを一応は知っていても、等身大の姿というものが見えなかったのである。

そんな西郷に再び興味を抱いたのはだいぶ後になってからで、西南戦争のことが気になり出してからだった。

そのきっかけは、『近代日本の戦争と宗教』(小川原 正道)という本だ。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2013/12/blog-post.html

この本で、西南戦争には「不平士族の暴発」だけでない、多様な性格があった事を知った。西南戦争発端の裏側には、鹿児島で布教を進めたい西本願寺と、真宗の教化によって鹿児島の民衆を政府に馴化しようとする大久保利通らの思惑があった。

西南戦争を起こした者たちには、単なる新政府への不平不満だけでなく、思想的な反抗があったということが朧気ながらに見えた。

なぜ、鹿児島の士族たちは、明治維新を主導しながらも反政府的になってしまったのか。西郷はなぜ、その士族たちを抑えることが出来ずに望まない戦争に担ぎ出されたのか。鹿児島の歴史を知るにつれ、それが私の中で大きな疑問となっていった。

もちろん、通り一辺倒の答えならすぐに準備できる。鹿児島の士族たちが反政府的になったのは彼らが廃藩置県で無職になってしまったからだし、西郷が彼らを止められなかったのは、県内各所の温泉など巡っていて現場(城下)にいなかったからだ。

でも私は、もっと深いレベルで西南戦争を理解したいと思った。西南戦争は、「鹿児島の明治維新」を象徴するものであり、いろいろな意味でその後の日本を先取りしている点がある。そしてその中心にいる西郷隆盛を、今までとは違った視角から理解したくなった。

そういう視角を準備してくれたのが、『南洲残影』(江藤 淳)である。
↓読書メモ 
 https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2016/11/blog-post.html

本書は、西郷が残した文学作品(漢詩)や檄(指示)を読み解くことで、西郷の心情に迫ろうとするもので、その内容の多くが西南戦争に費やされている。

本書が用意した視角というのは、西郷を「維新の英雄」としてではなく、むしろ「国賊として討伐された敗者」として描いたことだ。西郷賛美でも西郷否定でもなく、一人の非命の人間として西郷を理解しようとする姿勢が、意外と類書にはない。本書によって初めて、私は西郷という人間がこちらの方へ歩み寄ってくれたような気がした。

だが本書の憾みは、適度な距離感をもって語りはじめたはずの著者が、最後には西郷に飲み込まれ、「日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を持ったことがなかった」といったことを言い出すことである。私には、西郷が「思想」だったとはどうしても思えないのだ。いや、「西郷の思想」が何だったのかさえ、未だ茫洋としてつかみどころがないのである。

一方、猪飼隆明は『西郷隆盛―西南戦争への道』によって、西郷の行動原理が「忠君」であることを主張した。
↓読書メモ 
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2015/08/blog-post.html

要するに西郷は古いタイプの人間で、武士としてのあるべき行動原理である「忠」をずっと守っていたというのである。

最初は主君島津斉彬に対し、そしてその後は明治天皇に対して。そして明治天皇も、ことのほか西郷を寵愛したという。それは、他の維新の功臣が形式的にしか天皇を尊重していなかったのと比べ、西郷は天皇を主君として仰いでいたからではないかという気がする。

また、西郷もその胸の内に様々な葛藤を抱えていた。

例えば、斉彬が残した国(鹿児島藩)を解体してしまってよいのかという葛藤だ。700年も続いた島津氏の支配を、「廃藩置県」を行うことで微臣に過ぎぬ自分が終わらせてよいのか。そういった葛藤を、西郷は天皇への忠心によって乗り越えたという。

私は、本書を読んで、西郷は、みずから「時代遅れの男」であることを自覚しつつ、むしろ「時代遅れの男」として死のうと決意した人間であると思うようになった。西南戦争は彼にとっては望まない戦争であったが、彼以上に「時代遅れの男」たちであった鹿児島の士族を見捨てきれなかったのも、西郷の西郷らしい点であった。

このことは、最初期に「藩」という意識を脱却し、日本の「政治家」としての自覚を持った進歩的な人間、大久保利通と全く対照的な点だった。

だがもちろん、西郷はただの「時代遅れの男」ではなかった。

西郷は鹿児島の士族たちとは、全く違う想いを抱いていた。明治政府のやり方が気にくわなかったのは事実であるが、彼の中には「万国公法」と通ずる進歩的思想が旧来の儒教道徳の上に打ち立てられてもいた。

だから、「時代遅れの男」ばかりの鹿児島の不平士族たちの中にあって、西郷は孤独だった。鹿児島の大勢の士族に慕われながら、実のところ西郷は四面楚歌だったのである。

そもそも、士族が失職した原因である「廃藩置県」は西郷が主導したものなのだ。鹿児島の士族は西郷をまつりあげたけれども、内心憤懣やるかたない想いがあったのではないか。そういう空気を感じられるのが、『西南戦争 遠い崖—アーネスト・サトウ日記抄13』(萩原 延壽)に描かれる一場面である。
↓読書メモ 
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2015/08/13.html

明治10年2月11日、もうあと数日で薩軍が進軍を開始するというその時、西郷は旧知のサトウを突然訪問した。その時の様子をサトウはこう記す。

「西郷には約二十名の護衛が付き添っていた。かれらは西郷の動きを注意深く監視していた。そのうちの四、五名は、西郷が入るなと命じたにもかかわらず、西郷に付いて家の中へ入ると主張してゆずらず、さらに二階に上がり、ウイリスの居間へ入るとまで言い張った」
護衛たちは、他ならぬ西郷を監視していたのであった。そして西郷は、西南戦争のさなかにあっても直接に指揮を執らせてもらえなかった。戦場から隔離され、激しい戦闘が行われている裏側で、西郷は呑気にウサギ刈りなどしていたのである。いや、「させられていた」と言う方が正しいか。彼は西南戦争において、少なくとも戦いの半ばまで蚊帳の外に置かれていた。

しかしながら、西郷がただ士族たちのいいように手玉に取られていたかというと、それはまた違う。

当時イギリスの外交官で日本に赴任していたオーガスタス・マウンジーが『薩摩国反乱記』(安岡 昭男 補注)を書いているが、彼は仕事の外交記録としてではなく、一個人として本書を書きイギリスで公刊した。
↓読書メモ 
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2017/09/blog-post_8.html

マウンジーは、イギリスにとっては東洋の遅れた島国の内輪もめにすぎない西南戦争についてなぜ一書をものしたのか。それは、おそらく彼が西郷隆盛を高く評価していたからであり、西郷はイギリス人にとっても知って損はない人間だと信じていたからであろう。

マウンジーは、西南戦争については「封建制度をいくらか復活させようとする最後の真剣な企図であった」としていて、それ自体に進歩的意義は認めていない。しかし西郷については「その波瀾に富んだ生涯とその悲劇的な死とによって、国民の間で、「東洋の偉大な英雄」との称号を得、またイギリスの読者の興味をひくにも事欠かないのである」と述べている。

彼がこうした記述をしたことを考えてみても、西郷が鹿児島の士族にいいように使われていただけということは考えにくく、戦争中はかなり自由を制限されていたとはいえ、西郷が西南戦争の性格に大きな影響を及ぼしていることは確実なのだ。西南戦争は西郷にとって望まない戦だったが、鹿児島ではこの戦いは「せごどんのイッサ(戦)」と呼ばれ、確かに「西郷の戦い」だったのである。

そして、西郷の思想そのものが西南戦争にどう現れているか、ということはさして重要ではない。それよりも、西南戦争において、西郷にどのような思想が付託されていたのか、ということが、この戦争を理解する上でもっと重要だ。

西南戦争は、「時代遅れの男」たちの守旧的な戦いであると同時に、明治維新の精神が骨抜きになっていくなかで、自由と言論をもって権力に対抗し明治維新の大業を貫徹させようとする進歩的な思想を持った人々の戦いでもあった。

そういう西南戦争の二面性を描いたのが、『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦』(小川原 正道)である。
↓読書メモ 
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2018/04/blog-post_23.html

五箇条のご誓文では「万機公論に決すべし」とされていなかがら、実際には言論が制限され、薩長の政治家たちによる独裁政権(有司専制)が敷かれていたのが明治政府の実態であった。

そのため、いわゆる「民権派」という、自由と言論を重視する勢力が勃興してきたのが明治10年の頃である。そして「民権派」は、政府の横暴なやり方を糺すには武力を使うこともやむなしとさえ考えつつあった。例えば、板垣退助は明治政府の独裁を打破するため西郷を擁した反乱を企図し、島津久光に建言するのである。

後に板垣は西郷に批判的に転じるが、こういう背景があったから、薩軍には民権を求める進歩的な人々が多数参加している。

薩軍には、武士の特権を信じ封建制の復活を目指す人々と、自由と言論を信じ民権の拡大を目指す人々という、全く正反対の勢力が奇妙に同居していた。しかもそれぞれの勢力が、共にその思想を西郷に託していたのである。

どうしてそんなことが起こりえたのか。例えばこれが大久保利通であったなら、こんなことは起こりえなかっただろう。ほとんど共通点がない正反対の思想が西郷その人に付託されたという事実そのものが、西郷という人物を読み解く鍵であるように私には思える。

そして二つの思想の唯一の共通点は、理想の社会を実現するために身命をなげうつ点であったろう。ご一新の世の中に順応しえた人々が薩軍を冷ややかに見つめる中で、「この社会は間違っている」と憤った人々が西郷を旗印に集結した。社会を自分たちの手で変えようとする第2の明治維新を、西郷と共に起こそうとした。

だがこの戦いは、敗北を宿命付けられていたとも言える。なぜなら当の西郷にはその気がなかったからだ。彼は、あくまで明治天皇に忠誠を尽くそうとしていたのだから。

西郷をどう評価するかということは、近代日本の歩みを評価することと等しい。西郷には、古い社会の理想と新しい社会の理想が、両方投影されていた。しかし自分ではそのどちらも選び取ることが出来ず、新しい社会の理想を夢見ながら、「時代遅れの男」として死んだ。

「武士らしく生きることができない世の中なら、せめて武士らしく死なせてくれ」とでも言わんばかりの同胞と共に。

こうして西郷は「神話」となった。彼はあくまで黙して語らない。だから彼をどう評価してよいのか、考えれば考えるほど途方に暮れてしまう。

明治時代を鋭い目で見た橋川文三でさえ、西郷をどう扱えばいいのか悩んだ。『西郷隆盛紀行』(橋川 文三)は、依頼された西郷の評伝を書くために行った対談や小文をまとめたものだが、これを読めば西郷の評価がどうして難しいのかが分かるだろう。
↓読書メモ 
https://shomotsushuyu.blogspot.jp/2018/04/blog-post_7.html

だから、こうしていくつかの本を読んできたが、私もまだ「西郷隆盛と西南戦争」をどう考えたらいいのか、正直よく分からないのだ。以前とは違った意味で、西郷隆盛は私にとって謎の存在のままだ。

それにまだまだ知りたいことがいくつかある。西郷が設立したと一般的には思われているが、実はそうではないらしい「私学校」の実態について(例えば徳富蘇峰の『近世日本国民史「西南戦争」第1巻』参照)。西南戦争を始めた戦犯ともいうべき篠原国幹や桐野利秋、別府晋介といった人々の動向。そして私学校を保護して薩軍を支援し、実質的な薩軍の代理人をつとめたといえる県令・大山綱良のこと。

こうしたことを分かった上でないと西南戦争の評価は出来ないし、西郷の評価もできないだろう。近代日本史の分水嶺であった西南戦争は、もっと深く理解されてしかるべき戦いだ。もう少し、書の径(みち)をさまよってみなくてはならない。


2018年5月2日水曜日

『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』安丸 良夫 著

明治初年の神仏分離政策を中心とした、明治政府の神祇行政史。

本書は、廃仏毀釈や神仏分離はなぜ起こったのか、どのようなことがあったのか、そしてそれはどう終熄していったのかを述べるものである。

「Ⅰ 幕藩制と宗教」では、明治政府の根本思想とも言うべき「復古神道」に至るまでの思想史が信長の一向宗弾圧や秀吉のキリシタン禁制にまで遡って簡潔に述べられる。近世後期に至って、荻生徂徠、太宰春台、中井竹山、会沢安(正志斎)など儒学者、水戸学者が廃仏論を展開し、「祭祀による人心統合」が次第に企図されていった。

「Ⅱ 発端」では、慶応4年に「神祇官」が復興され、「国体神学」が政府の正統性を担保する思想として確立し、具体的施策として神仏分離政策が実施していく過程が述べられる。神祇官は政治的には弱小勢力であり、職掌も狭く、祭祀と宗教政策と国民教化のみが活動を許された領域であったが、そこに結集した国学者たちは情熱をもって彼らの理想の実現に取り組んだ。

その具体的活動が神仏分離政策であり、それは神社から仏教的要素を取り除くという簡単な指示でしかなかったが、これが時代の趨勢という見えない力の手を借りて巨大な影響を社会に及ぼしていく。例えば、神仏分離政策そのものは必ずしも廃仏を意図したものではなかったものの、それが恰も仏教的要素の「破壊」までも含意していると(半ば意図的に)誤解したものたちは、興福寺や日吉山王社のような大寺院を破却したのであった。

一方、国体神学は仏教的要素の破壊だけでなく、新たな神道の構築をも企図していた。例えば国家の功臣を祀る神社(楠木正成を祀る「湊川神社」や後の「靖国神社」)を創建し、天皇家の葬祭を神道式に改め、国家規模で新たな神道を実現しようとした。だがこの動きに釘を刺したのが西本願寺で、西本願寺は元来尊皇的で政府と近く、多額の献金をしていたことなどを背景に、神道優遇策に反対する力となっていく。

「Ⅲ 廃仏毀釈の展開」では、実際に地方で展開した廃仏毀釈運動について述べられる。具体的には、明治政府の神仏分離政策を先取りして実施していた津和野藩、狭い範囲で廃仏が強行的に実施された隠岐、佐渡、苗木藩が取り上げられる。こうしたところでも、廃仏に最も抵抗したのは真宗門徒であり、一度廃仏されても速やかに復興を果たしたのも真宗が多かった。富山藩や松本藩の場合、廃合寺政策が推し進められながらも、真宗の抵抗によって挫折している。この他廃仏毀釈が行われた地域として、薩摩藩、土佐藩、平戸藩、延岡藩などがある。

廃仏毀釈は、明治政府の政策そのものではなく、神仏分離政策を過激に解釈して起こった地方的な運動であったから、隠岐や佐渡、薩摩といった、他の地域と隔絶し地方権力が強力だったところで展開しやすかった。

「Ⅳ 神道国教主義の展開」では、国体神学を全国的に実現するために行われた種々の政策について述べられる。明治政府が国教化しようとした「神道」は、全ての宗教行為を祖霊祭祀と皇室崇拝に組み替え、それを総括するものとして産土社から国家的大社までの神社を据える一方、記紀神話に位置づけられない信仰を異端として圧殺するものであった。これを実現するため、国民教化の役割を担う「宣教使」の設置、伊勢神宮を国家の宗廟として改変すること、神職の世襲を禁じ全ての神社を国家の管理下に置くとともに全国の神社をヒエラルキー的に整理統合すること、国家的祝祭日(元始祭、天長節など)の設定などが矢継ぎ早に行われた。こうして新たな宗教大系が民衆に強制されていった。

「Ⅴ  宗教生活の改変」では、こうした新たな宗教大系がどのような影響を及ぼしたかがケーススタディ的に述べられる。修験道については特に影響が大きく、神仏混淆が最も進んだ宗教だったことから、元来の信仰が大胆に組み替えられ、神道的に再解釈されてしまった。また古来より信仰されてきた地域の小社については、記紀神話に基づかないものが多かったため、各種の民俗信仰や民俗行事・習俗が淫祠邪教とされて廃止された。こうした動きは、強権的なものというよりも、「迷信を打破する」といったような「啓蒙や進取のプラスの価値」として人々に迫り、強力にその信仰を組み替えていった。

「Ⅵ 大教院体制から「信教の自由」へ」では、このように推し進められた神道国教化政策がどのように挫折していったかが述べられる。神道へ露骨な優遇は西本願寺を中心とした仏教勢力の働きかけによって改められ、神仏合同で国民教化を担う「教部省」が設置され、具体的教化の機関として「大教院」等を置き、その根本原則として「三条の教則」が定められた。ところが人々に新たな信仰を強制することには、軋轢を生まずにはおかなかった。また当初は協力的だった仏教側も次第に離反的となり、ヨーロッパの宗教事情を踏まえた西本願寺の島地黙雷の運動によって「信教自由」を求めるようになった。一方で明治政府としても、不平等条約の改正の条件として諸国から信教の自由を求められるなどし、明治8年5月に大教院は解散、以後各宗が独自で布教活動をするようになった。こうして神仏分離政策から始まった一連の宗教政策は挫折した。

ところが、これは国家のイデオロギー的要請に対して各宗派がみずから有効性を証明する自由競争、すなわち各宗派が自主的に国家へ奉仕していく体制への端緒を開いた。こうして、後の「国家神道」という、宗教を超越した宗教の誕生へと繋がっていくのだった。神仏分離と廃仏毀釈は、その政策意図が貫徹できなかったという意味では失敗した政策であったが、それは、「国家神道」へと至る道筋となるものだったのである。

全体を通読して、西本願寺の対応に多くの紙幅が割かれ、神仏分離政策を挫折せしめた大きな力である仏教勢力の動きがよく理解できる。また上述のまとめでは触れなかったがキリスト教対応についても詳しい。キリスト教への対応が、神道国教化の大きな目的だったのである。一方、「国体神学」の生みの親である本居宣長や平田篤胤の思想については簡潔な記載しかなく、明治初年の神祇行政に巨大な影響力をもった津和野派の思想的はほぼ触れられていない。本書は国学思想についてあまり立ちっていないのが憾みの一つである。

しかしながら、込み入った動きを見せる明治の宗教行政史を非常にわかりやすくまとめており、しかも決して概略的な記載に留まらない深みを持っている。私は本書を数年前にも通読しているが、この分野の他の文献をいくつか読んで改めて本書に向かったとき、やはり本書はこの分野の基本文献となる重要な本であると確信したところである。

「国家神道」まで繋がる明治初年の宗教的激動を、わかりやすくしかも深く学べる名著。

【関連書籍】
『明治維新と国学者』阪本 是丸 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/02/blog-post_11.html
国学者が近代天皇制国家の創出に果たした役割と限界について考察する重厚な論文集。

2018年5月1日火曜日

『靖国神社』大江 志乃夫 著

靖国神社とは何か、丁寧に解き明かした本。

著者の大江志乃夫は、靖国神社や忠魂碑に関する訴訟において原告側の証人として意見陳述することになった。しかしとても半日足らずの尋問では回答できない難しい内容であるため、予め「意見書」を裁判所に提出し、法廷ではそれを補足するという形を取った。本書は、その際の「意見書」を元に、全面的に書き改めたものである。

この訴訟は、靖国神社や忠魂碑へ行政が公式に関与することが信教の自由や政教分離に反し違憲であるという訴えであった。よって彼は靖国神社が「国体」と一体不可分のもので、軍国主義と宗教とを結びつける施設であったことを緻密に論証していった。

第1章では、現在の靖国神社にまつわる問題が概観され、その成立史をまとめている。靖国神社は政教一致の戦前日本を象徴する存在であったため、戦後はその形を変えたものの、「私的な宗教法人」であることを盾にしてその性格は大きな変更なくして現在に至った。

第2章では、靖国神社を生みだした「国家神道」の成立が簡単にまとめられている。大日本帝国憲法において天皇が統治権を持つとされた唯一の根拠は「天壌無窮の皇統」にあるとされた。このことは、天皇の権威の源泉が(武力ではなく)宗教性であるために無制限の権力の拡大を招き、「国家神道」があらゆる宗教を超越し、全ての国民を統御する力を持つまでになった。

第3章では、靖国神社の成立史を、より多面的に分析している。靖国神社は陸海軍が管轄する軍事施設であったが、その思想的背景には古くからの御霊信仰があった。しかし元来の御霊信仰は現世に恨みを以て死んだ人を祀るというものであるが、靖国神社ではこれが忠臣を神として祀るというものへと転換された。これは新たに創出された信仰であるために、すぐには軍人においてすら受け入れがたかった。しかし天皇が靖国神社を伊勢神宮と並ぶ最高の宗教施設として遇したことや教育(祭祀の強制)等、大規模な顕彰の行事などにより、日露戦争後に戦前の靖国神社信仰が確立した。

第4章では、当初は軍の管轄ではなかったが、やがて在郷軍人会の関与の下で事実上の靖国神社の地方での分祀になっていく「忠魂碑」や「護国神社」についてまとめている。本章は、本書成立の直接の契機である訴訟に関するものであり、靖国問題を考える上でのケーススタディと捉えることができる。多くの地方で残されている「忠魂碑」や「護国神社」がその成立の事情から説き起こされ、非常に参考になった。

「おわりに」では、本書成立の事情が述べられるとともに、著者の強烈な問題意識「一身を天皇に捧げた戦死者の魂だけでもなぜ遺族のもとにかえしてやれないものか、なぜ死者の魂までも天皇の国家が独占しなければならないのか」が提起される。まさに靖国神社は、国家へ尽くすことのみを最高の徳行とし、本来悲劇であるはずの戦死が栄光に満ちた名誉であると転換させる宗教装置として働いた。それは、本来は私的領域に属する戦死者の魂の行方までも国家が管理することによって完成したのである。

著者が当事者として強烈な問題意識のもとに書き上げ、靖国神社成立の事情が豊富な一次資料によって明かされた名著。