2023年7月17日月曜日

『ユダヤ人とクラシック音楽』本間 ひろむ 著

ユダヤ人の作曲家・演奏家について述べた本。

クラシック音楽では、ユダヤ人の作曲家・演奏家はとても多く、特に現代の演奏家ではユダヤ人は非常に大きな存在感がある。本書は、クラシック音楽におけるユダヤ人の存在についてエッセイ風にまとめたものである。

ユダヤ人は元来音楽的な民ではなかった。というのは、彼らにとって非常に重要だったのは当然ユダヤ教であったのだが、シナゴーグ(ユダヤ教の教会)に楽器を持ち込むことが禁止されていたからだ。

よって、ユダヤ教の音楽は、全て器楽伴奏なしの歌であった。17世紀のシリアで生まれた「シラート・ハバカショート」はユダヤ教の伝統的な嘆詠歌唱であるが、これも中近東の旋律を使ったアカペラであり、ユダヤのエスニックなものとは言いがたい。

また、ヨーロッパに広がったユダヤ人たちは、それぞれの土地で教会以外の場所で音楽文化を育んでいた。特にスペインのユダヤ人たちが生んだ「セファラード音楽」(チターやウードを使う)や、東欧のユダヤ人たちが18〜19世紀に生んだ「クレズマー音楽」は(ヴァイオリン、チェロ、クラリネットなど)は、ユダヤ人たちの大衆音楽として重要である。しかし、これらはクラシック音楽には大きな影響を与えていない。

 本書では次に、著名なオペラにおけるユダヤ人・ユダヤ性について述べるが、結論としては「オペラの世界のメインストリームにユダヤ人音楽家はいない(p.54)」。

一方、オペラを「楽劇」にまでスケール・アップしたワーグナーは、周知の如く、ユダヤ人を徹底的に貶めた。彼はK・フライゲンダンクという名で書いた『音楽におけるユダヤ性』という著作の中で、ユダヤ人音楽家のメンデルスゾーンとマイアベーアを激しく非難し、ドイツ国民のユダヤ人嫌いの一因に芸術・音楽を求めて、ユダヤ人の救済は滅亡であると宣言している。また『宗教と芸術』ではユダヤ人解放政策を非難して「アーリア人」の純粋さを保つべしとした。ワーグナーは、筋金入りの反ユダヤ主義者だったのである(なぜ彼が反ユダヤ主義者になったのかの説明は、本書にはない)。

そしてワーグナーは、その音楽に「呪い」をかけたのだと著者は言う。「呪い」の内容は本書では明確に説明していないが、(ワーグナーは楽劇の中ではユダヤ人を登場させてはいないが)ユダヤ性への嫌悪、ないしは反ユダヤ的なものとしてのアイコン性とでも言えるだろう。つまり、ヒトラーがドイツのナショナリズムの高揚のために、ワーグナーの音楽を使ったことで「呪い」がかかったのではなく、「呪い」はワーグナーの音楽に内在していた、というのが著者の考えだ。

私なりにその「呪い」を解釈すれば、それは「音楽的ナショナリズム」であると思う。ユダヤ人は国を失ったために否応なくコスモポリタンになっていった。であるから、ドイツ・ナショナリズムの権化であるワーグナーの楽劇と、ユダヤ人音楽家たちのコスモポリタン的な音楽は、どこか相容れないものがあったのではないだろうか。

本書ではさらに、フルトヴェングラーの秘書、カラヤンの妻がユダヤ人であったことを取り上げ、ナチス政権下で彼らがどのように振る舞ったか述べている。フルトヴェングラーは信念も一貫性もないとか、カラヤンには自分自身の音楽がなかったとか、けっこう辛辣である。また、その他、様々なユダヤ人演奏家についてエピソード的に語っている。

さらに、現代音楽の成立にもユダヤ人が大きく関わっていたとして、十二音技法をつくったシェーンベルク(両親ともユダヤ人だがキリスト教徒として育てられ、ユダヤ教に改宗した)、リゲティ、スティーヴ・ライヒについて簡単に述べて本書を終えている。また巻末にはユダヤ人音楽家のリスト(簡単な紹介つき)がある。

本書は、全体として何かを論証するとか、クラシック音楽の歴史をユダヤ人から見る…というような大上段のテーマがある本ではなくて、いわばつまみ食い的にユダヤ人音楽家のエピソードをちりばめたものである。それでも、「この音楽家もユダヤ人、この人もそう」という事例が列挙されるだけで、けっこう面白い。

ユダヤ人にからめてクラシック音楽を語る気軽な本。

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2023年7月10日月曜日

『博徒の幕末維新』高橋 敏 著

幕末維新期における博徒の動向を追った本。

本書はなかなか変わった本である。幕末を生きた博徒、竹居安五郎、黒駒勝蔵、勢力富五郎、水野弥三郎といったほぼ無名の人物の動向をひたすらに追いつつ、まるで講談や任侠物のような調子で彼らを描いている。しかも、筆致は学術的であるにもかかわらず明確な学術的主張は見当たらない。著者は博徒の生き方に魅せられて、それを再現するために本書を書いたのかもしれない。

私自身は、幕末の治安と博徒の取り締まりに興味があって本書を手に取った。幕末は非常に治安が悪くなった時期であるとともに、人の移動が激しくなった時期でもある。それまでは関所で通行手形を確認していたのが、幕末はその枠組みがあまり働いていない形跡がある。博徒はいろんなところに移動していたのだが、どういった取り締まりを受けていたのか知りたくなったのである。

本書には「無宿」がたくさん出てくる。竹居安五郎も無宿だ(=竹居村無宿安五郎)。無宿とは人別帳から除外された人のことで、今風に言えば無戸籍者ということになるが、人別帳から除外といっても「無宿」として登載されるので完全に無戸籍というわけでもない。彼らは何らかの罪を犯した罰として人別帳から除外された。

人別帳から除外されると、町人とか百姓とかの枠組みから外れ、まともな仕事に就くことができなくなる。そこで彼らは博徒(=今風に言えばヤクザ)となり、裏社会で生きることになったのである。江戸時代の法制はあまり更正のことを考えていなかったので、こういう仕組みで博徒が次々と生みだされることになった。特に19世紀に入ってからは無宿が多く生みだされ、流人になったものも増大した。

安五郎も、最初から無宿だったのではなく、竹居村の名門中村家の出であったが、新島(伊豆大島の南)に流された一人であった。「19世紀の世情、特に関東の世相は無宿者なくして語れな(p.127)」い。

ところで博徒は、どうやって生活の糧を稼いだのだろうか。それは当然博奕なのだが、博奕は巻き上げる対象がなくては仲間内で金が回るだけである。ではどこからお金が流れてきたのか。本書にはそういう体系的考察はないが、それを窺わせるのが韮山代官江川英龍の台場建設である。

黒船が来航すると、幕府は海防のための台場を沿岸に築造し、そこに据え付ける大砲を鋳造するための反射炉を建設することとした。これの責任者に抜擢されたのが、韮山代官の江川英龍である。この工事の実態が興味深い。台場築造では工事請負人が入札されているのだ。かつての幕府であれば、こうした大規模普請は諸藩にやらせるところである。ところが台場築造は、幕府直轄事業として、多額の予算を割いて実行したのである。

この工事には5000人ともいわれる多くの労働力が必要になったが、それをどうやって調達したか。実は、この人足の調達・動員に博徒が関わっていた。幕府・代官としても、納期内に工事を終わらせることが先決で、人足の出自などにこだわっている場合ではなかった。この工事に関わった博徒・間宮久八は莫大な金を稼いだという。

つまり博徒たちは、現代のヤクザがそうであるように、大規模開発工事にともなう浮動労働力の差配によって金をもうけていたのである。こうした工事は終わってしまえば労働力はお払い箱になるから、長期雇用はできない。その場限りの仕事に動員をかけるのが、博徒の「本業」のひとつであった。

であるから、博徒の親分、例えば竹居安五郎は、ただの荒くれものではなく、強力なリーダーシップを持つ切れ者であった。彼の実兄中村甚五郎も、争論の絶えない村をまとめる実力者(名主)であり、無宿者の増加によって治安が悪くなってきた村で「郡中取締役」に任命されて治安警察権を代行してさえいた。しかしその裏の顔は博徒の巨魁であり、大親分として君臨していた。今でいえば警察とヤクザが裏で癒着していたようなものである。

ところで、幕末には水滸伝が流行する。それも中国の水滸伝をモデルにつくられた日本版の水滸伝である。その背景には、無宿者、博徒、侠客の躍動があった。本書には、関東を荒らしまわった博徒の親方・勢力富五郎を関東取締役が捕らえるための大規模な捜索と抗争が描かれているが、これを「嘉永水滸伝」と呼ぶ。彼らは関東一円を移動しているが、関所などはどのようにしていたのだろうか。むしろ、「支配」によって管轄が分断された体制こそが、彼らが活躍する土台であったのかもしれない。

もちろん、ヤクザと同じく博徒同士も抗争した。「嘉永水滸伝」の第二幕は、博徒間の大喧嘩である。台場築造に活躍した間宮久八は、この抗争の主役の一人であった。彼の敵対勢力である無宿幸次郎らは幕府に処分され処刑されたが、なぜか久八はおとがめなしで後に台場に関わるのである。彼らは、殺す、奪う、盗む、脅かすは当たり前の犯罪まみれの集団であったのに、おとがめなしで幕府の工事に携わったのはどういうわけか。やはり、裏では幕府とアウトローとの共存関係があったと考えざるを得ないのである。

幕末が差し迫ってくると、博徒たちは尊攘運動にも関わるようになる。竹居安五郎の弟分だったのが黒駒勝蔵で、彼は安五郎亡き後に博徒たちのリーダーになった。彼も生家は名主を勤める小池家の次男であり、いわば中間層の出身。彼は尊攘運動にかかわるようになり、指名手配されていたにもかかわらず、2年も経たないうちに官軍先鋒の赤報隊に参加していた(正式な隊員ではない)。

勝蔵の盟友で、やはり博徒の巨魁だったのが水野弥三郎。彼も医師の子に生まれた中間層で、博徒となって大親分にのし上がった。彼は新選組の裏方を務め、赤報隊にもかかわった。彼は博徒ではなく、草莽の勤王のつもりであった。しかし赤報隊は「偽官軍」扱いされ、弥三郎が村々をめぐって請書までとった「年貢半減令」は新政府にとって迷惑な存在になってしまう。弥三郎は「勤王の志これある趣相聞き」と、まるで褒美でもくれるような調子で東山道鎮撫惣督府執事から呼び出され、不意打ちで斬罪梟首の判決を受けた。彼は、新政府のために走り回った自分をだまし討ちする処罰に絶望して自死した。

また黒駒勝蔵も明治4年に、微罪(赤報隊からの脱退)を問われて捕らえられ斬罪に処された。博徒たちを裏で動員していたことが新政府にとって都合が悪く、彼らは歴史から消されたのかもしれない。

幕末のアウトローを始めて学術的に取り上げた労作。

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2023年7月9日日曜日

『秩禄処分—明治維新と武家の解体』落合 弘樹 著

秩禄処分がいかにして行われたかを述べた本。

秩禄処分とは、武士の俸禄・知行を金禄公債と引き換えに廃止した行政処分であり、著者の譬えでは「公務員をいったん全員解雇して退職金も国債での支給とし、そのうえで必要最低限の人員で公職を再編するというような措置(p.4)」である。驚くべきことに、この荒療治はほとんど抵抗なく実施されたのであるが、それはどうしてだったか。本書はその過程を丁寧に追うことでその疑問に答えている。

「第1章 江戸時代の武士」では、そもそもの前提となる、武士の俸禄制度と身分について概説される。

武士は、軍役の義務と引き換えに幕府や大名から知行・俸禄を受けていた。知行には蔵米知行と地方(じかた)知行があり、また俸禄には米百俵などの実高が表示される切米の制度、下級武士の場合は一人当たり五合の計算で米を与える扶持米の制度があり、「十石二人扶持」のようにこれらが併用される場合もあった。なお知行100石といっても、実収入はその税分である現米40石であることにも注意が必要である。

そして、家格・禄高・役職はほぼ一体の関係を持っていた。 つまりある人物をある役職に昇進させる場合、家格が釣り合っていなければ禄高を引き上げて家格をも上げてバランスをとった。「禄」は「家」が負った義務に対する給与であったが、太平の世に軍役があるわけでもなく、次第に無役の家も増えていき、また石高の加増は財政負担も重かった。そこで吉宗は役職手当である「役高」を導入し、禄と役職の分離を図った。

幕末においては、幕府および諸藩で人材登用が行われ、家格主義は見直されて能力主義が採用されていった。特に近代軍制整備する場合は、兵士は画一的に命令系統に並べられることになったから、家格と旧来の軍制での位置づけは邪魔なものになった。しかし家格主義がなくなることはなかった。また言論においても、盛んに公論衆議が叫ばれ、家格にとらわれない建白などが行われた。こうした動向は武士身分の解体の前提となった。

「第2章 維新期の禄制改革」では、維新政府による廃藩置県までの禄制改革が述べられる。

明治2年に版籍奉還が行われる。藩は朝廷に奉還され、旧藩主が藩知事に任命された。これは形式的には将軍の代替わりごとの本領安堵と同じだったが、内実では旧藩主の私有が否定されていた。また藩ごとに様々だった統治機構が統一させられるとともに、様々な家格があった複雑な武士の身分は「士族」へと一本化された。

旧幕臣の場合は、駿河への移住(無禄覚悟)、朝臣化(新政府から禄を受ける)、帰農商の3つの選択肢があった。彼らを雇っていた幕府がなくなったのだから、路頭に迷ってもしょうがないのだが、新政府への帰順という選択肢があったところが面白い。 しかしその場合も、石高が削減されて最大1割にまで縮小した草高を設定し、さらにその二割五分を支給したから、かなり厳しい条件だった。特に石高が大きい場合に削減率が高く、微禄の場合はそれほどでもなかった。またこの削減率は、後に諸藩が行う禄制改革の目安となった。旧来の知行1000石は、明治2年12月の禄制では現石28石が家禄となっており、実収はわずか8%だった。よって、幕臣は駿河へ移住したり、商売を始めたりしたが、それらはことごとく失敗したという。 

一方、公家に対する禄制改革は明治3年12月に行われ、多少は優遇されていたがやはり禄は削減された。家禄の支給が、新政府の大きな負担になっていたからである。また、明治2年8月の官制改革で従来の百官(形式的なポスト)が廃止されていたため、公家の多くが失職状態ともなっていた。公家が夢見た王朝時代の再来は、あえなく露と消えた。

多くの諸藩は財政的に行き詰まりを迎えていたため、こうした改革をむしろ歓迎した。従前のように家臣団を維持していくことはできなかった。よって武士を帰農させたり(苗木藩は士族卒全体を帰農させた!)、家禄を禄券で支給させたりした。高知藩では家禄を家産化し、士族の身分制解体を併せて進めた。

「廃藩の時点までに諸藩の家禄支給高は全体で維新前より38%削減された。士族卒に限れば44%の削減率を示すが、これは廃藩置県後に政府が削減した分を上回る(p.90)」。こうした中で明治4年には廃藩置県が行われた。財政破綻寸前だった藩においては、むしろ廃藩後の方が家禄を受け取れた士族もいて、現場レベルでは廃藩は歓迎された。また藩においても、藩債と藩札の負担を逃れられたことは幸いだった。藩債は新政府が引き継いだが、債権者にとっては悪条件で償還され、藩債全体の8割が切り捨てられたという。なお旧幕府家臣団の債務は私債とみなされたため、江戸の金融を支えてきた札差たちは破産した。

「第3章 留守政府の禄制処分計画」では、岩倉使節団が外遊している中での、秩禄処分の計画とその挫折が述べられる。

廃藩置県では、士族を雇用していた藩がなくなったのだから、士族は無職になったのであり、理屈の上ではその時点で家禄の支給を停止することもできた。しかし新政府は士族の動揺を防止するためや調査の準備期間が必要だったためもあり、削減した上ではあったが家禄の支給を続けていた。 明治4年の段階で、華士族の家禄・賞典禄と社寺禄は歳出の37%に上っていたのである。今だ財源の確立していなかった新政府にとって、これをさらに削減することは喫緊の課題だった。

また、新政府にとってもう一つの課題は(いや、課題ばかりが山積していたのではあるが)、士族による軍事義務の独占の解消であった。近代的軍隊を編成するためには均一的な兵士が必要で、国民皆兵による徴兵軍の創設には士族は解体せざるを得なかった。そして当然、家禄の至急は軍事義務の見返りの意味が大きかったので、士族の解体と家禄の解消(禄券での置き換え=秩禄処分)がセットになって推進された。

士族の解体については、「徴兵告諭」(明治5年11月)と「徴兵令」(明治6年1月)によって、武士が軍事を独占的に担う体制が明確に否定された。 

一方、家禄の解消の実務を担当したのが、大蔵大輔の井上馨である。そして秩禄処分に必要な財源は外国公債によってまかなうこととし、その募集を担ったのが大蔵少輔の吉田清成(薩摩スチューデントの一人)であった。ところが吉田が岩倉使節団と合流すると、森有礼と衝突する。森は、外債の募集を自分の仕事と考え、秩禄処分にも反対だったのである。森は、家禄は世襲の家産(私有財産)だと見なし、秩禄処分はその所有権を政府が侵害するものだと訴えた。森はアメリカの新聞にまで反対論を掲載してあからさまに吉田の仕事を妨害した。結局、明治6年、吉田はアメリカではなく、ロンドンで外公債の募集に成功し約1000万円を調達した。しかしながら、急速な秩禄処分は士族に動揺をもたらす可能性があったために、棚上げにされて井上馨は渋沢栄一とともに政府を去ることになった。

なお、諸藩での禄制改革の結果、全国で禄制が画一化され、それにともなって不利益を蒙ったものたちから苦情が殺到していた。「結果的には秩禄処分に対する士族の不満は禄制廃止そのものより、その前段階の処置に集中(p.130)」した。

「第4章 大久保政権の秩禄処分」では、明治6〜8年頃の秩禄処分に向けた動向が述べられる。

明治6年にいわゆる「征韓論政変」が起こると、大久保利通が中心となった政権が確立した。家禄処分については大久保は積極的で、木戸孝允は難色を示していた。そこで、とりあえず家禄に課税することが決まった。これは家禄を私有財産と認めたことになる。続いて、家禄奉還制が設けられた。これは家禄を奉還すれば家禄の6年分を産業資金(現金および8分利子付き秩禄公債が半額ずつ)が下付されるというもので、割と恵まれた条件であった。ただし地方官(現場)の対応は様々で、多くの士族がこれに応じた県もあれば、鹿児島のように皆無の地方もあった。

なお、家禄を奉還して帰農や商売をしたものの多くは失敗したため、奉還制度は明治8年7月に中止された。

追って、家禄の支給を現米から現金へ変更するという改革が行われた。全国的にも、既に現金(金禄)で渡している地方はあったが、米価の騰貴があって士族には不評だった。しかし明治8年9月、政府は画一的にこれを金禄化し、過去3カ年の貢納石代相場を平均した額で家禄賞典禄を支給することとした。

しかしながらこの時点で、家禄支給の名目はほぼ失われていた。士族の多くは無職で、なんら国家への義務が課されていないのに、給料だけはもらっていたのだから、「無為徒食」との批判が出るのも当然だった。家禄は私有財産であると言う理屈が、家禄支給の最後の砦であった。

「第5章 禄制の廃止」では、いよいよ秩禄処分の実施が述べられる。

明治9年には、朝鮮との間の外交問題が日朝修好条規の調印によって解決され、また政府内の権力闘争も一段落していた。内外の危機が去って改革に手をつけられるようになった政府は、明治9年3月にいわゆる「廃刀令」によって武士の特権を奪った。

その布告の翌日、大隈重信は禄制の最終処分を行うよう政府に提議した。ここでは、家禄には既得権は一切ないとして、廃止するのが当然、という立場が表明されている。政府内には、士族を国の中核として成長させていく考えの井上毅のような人もおり、木戸孝允も士族保護の方策がないなかで家禄を廃止することを憂慮したが、さしたる反対なく秩禄処分は明治9年8月に可決された。

その内容は、(1)6〜14カ年分(元の家禄の条件や金額で異なる)の家禄を公債で下付、(2)元金の払い戻しに30年かける(5年間の据え置き期間+25年間)、 (3)利子は5〜7分とする、といったものである。

これが実施されると、家禄の算定に不満があった人びとからの訂正要求が頻発し、それに応じた訂正作業は昭和期に至るまで続けられることになったが、意外と秩禄処分自体への批判は少なかった。この時期に頻発した不平士族の乱でも、その決起趣意書などに秩禄処分を攻撃する文言は見当たらない。士族たちは、概ねこれを受け入れたのだった。

「第6章 士族のゆくえ」では、 秩禄処分によって士族がどうなっていったかが概略的に語られる。

士族は、一応収入の柱であった家禄がなくなり、30年後には公債による収入もなくなることが既定路線となったわけで、自活する道を探る必要があった。政府は、士族の授産(産業に従事させる)には気を使い、東北の荒蕪地の開墾に振り向けようとしたり、また銀行を通じ士族授産事業への資金貸与を行ったりしたが、それらはやはり成功しなかったものが多かった。貸付金もほとんど回収されなかったという。士族授産事業への資金貸与は、当初は厳密に審査したが末期はある種のばらまきであったようだ。

しかしながら、そもそも大多数の士族は金利だけで生活できるわけもなかったうえ、インフレによって米価が明治13年には明治9年の倍になったので、公債を手放すものも多かった。ただし、確かに士族は全体として没落したが、地道に生活したものもおり、「士族の没落」はイメージ先行の面も大きい。例えば士族は教育への志向が強く、高度な教育を受けたのは士族が多かったので、結果的に要職の多くを士族が占めることになったのである。「結局、明治期を通じて日本の社会は階層間や身分間の大規模な逆転劇はなかった(p.234)」。

私は本書を、明治政府は武士が中心となってできたのに、武士の方では大きな反抗なく秩禄処分を受け入れたのかのはなぜか、という疑問から手に取った。また、社寺禄の扱いはどうだったのかも知りたかった。

その疑問は、前者についてはかなり明解な回答が与えられている。その要点は、武士の特権解体と秩禄処分は、表裏一体ではあったが、実際には別個の論理で行われたということだ。それは、徴兵令や廃藩置県によって武士が(形式的にではあれ)「解雇」された後も、家禄が支給されていたことから明らかである。しかし「解雇」されていた以上、武士にとっても家禄を受給する正当性はなくなったと感じられており、国家の役に立つ存在として自己を規定し直すことが求められていた。

後者の社寺禄については、残念ながら本書ではほとんど扱われていなかった。

全体として、本書は史料からの声とその分析・解説がバランス良く配置され、非常に明解かつ平明である。金禄公債の実態(個別具体の事例など)が書いていないのがちょっとわかりづらい部分があったが、秩禄処分の概要を述べる本としては申し分ないと思う。

秩禄処分について知りたくなったらまず手に取るべき基本図書。

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2023年7月5日水曜日

『徳川幕閣—武功派と官僚派の抗争』藤野 保 著

徳川幕府の草創期を、幕閣から読む本。

私は、老中、若年寄、奉行…といったような徳川幕府の統治機構が、幕末にどう崩壊していくのかに興味を持ち、そもそも幕府の機構とはどのようなものだったのかを知りたくて本書を手に取った。

だが、本書の中心は統治機構そのものというよりは、それらを担った人びとの権力闘争である。なにより、徳川幕府の草創期においては、制度があって人が任用されたのではなく、まず人があってそこに制度を作っていった。

では、その「人」はどう選抜されたか。まずは三河以来の譜代は最も重用された。秀吉から関東に転封させられた際も、有力な家臣を万石以上に封じて江戸の守りを固めているが、この際も三河譜代が優位を占めている。それら家臣団はやがて大名(万石以上)と旗本(万石以下)に分かれていった。この際に重要なことは、家康は転封を契機として、在地性の強かった家臣団と土地との結びつきを断ち切り、近世的な家臣団に編成したということである。

近世の封建制度が、中世のそれと大きく異なることは、家臣団編成という面から見れば、石高制という全国統一的な生産力・軍事力の指標があったことと、もう一つは土地との繋がりが断ちきられているということであったかもしれない。土地よりも、家康という主君に尽くすことが家臣団の存立基盤となったのだった(中世では主君はコロコロ変わる)。また家康の直系一門も幕府を支える有力基盤であった。彼らは家康から土地を与えられた、という意味では封建制であるが、それは土地というより一種の分権であって、土地は観念化されていたと見なせるかもしれない(本書にはそうは書いていないが)。

また関ヶ原の戦後処理において、豊臣系の外様大名に対しては大々的な改易・転封が行われた。没収総高は93名の632万4194石に上る。逆に40名の上級家臣を独立した大名に取り立て(譜代大名第一群)、万石以下の譜代家臣20名を追って大名に取り立てた(譜代大名第二群)。こうして慶長7年までに68名の徳川一門=親藩・譜代大名が作り出された。

慶長8年(1603)に家康は将軍になるが、この際に後陽成天皇から与えられた役職の全部は、「右大臣・征夷大将軍・源氏長者・淳和奨学両院別当」であった。源氏の棟梁としては前例に則ったものだろうが、「淳和奨学両院別当」まで律儀に(?)任じられていることが興味深い。

家康は将軍の地位にあることたった2年で秀忠に将軍職を譲る。これは下剋上の時代を終わらせ、徳川家の永久政権を天下に宣言するためであった。そのため家康は正嫡の区別を厳密にし、血の理論によって権力を継承する準備をしていた。こうして、駿府の家康と江戸の秀忠という二元政治が開始された。この二元政治は表面上は破綻しなかったが、幕閣の権力構造は複雑になった。なお家康は、譜代の家臣の他に、僧侶・学者・豪商・外国人(ウィリアム・アダムスなど)といった多様な家臣をブレーンにしていた。

こうした中でどのような権力闘争が展開されたかといえば、それは武功によって昇進したものたちと、官僚的な統治能力で抜擢されたものたちの争いであった(本書では武功派・吏僚派と表記)。当然ながら、太平の世においては武功はあまり意味をなさなかったので、武功派は徐々に排除されることになった。例えば武功派の重鎮・大久保忠隣(ただちか)は吏僚派の本多正信によって失脚させられ、改易させられた。

家康が亡くなり秀忠へ権力が移ると、幕政の中心は酒井忠世と土井利勝となった。 そして秀忠は、強力な大名統制を開始する。弟の松平忠輝の改易を皮切りに、41名の大名を改易した。さらに大名転封も強力に推し進めた。外様大名の転封は秀忠時代が最も多い。改易や転封が統制策として多用される点に、草創期の近世幕藩権力が中世のそれと大きく違うことが感じられる。また秀忠は、家康時代に重用された豪商グループを遠ざけ、譜代勢力による側近政治が行われるようになった。こうして、小姓組番頭(将軍の親衛隊長)→譜代大名→老職(後の老中)というルールが成立していった。

家光が将軍になると、酒井忠世と土井利勝は引き続き要職に留まったが、小姓として9歳から近習した松平信綱、阿部忠秋、三浦正次、13歳からの堀田正盛という幼なじみグループが側近となった。生まれながらの将軍家光は秀忠以上に大名を統制、外様大名の優遇を辞め、一門・譜代にも強権をもって臨み、49名の大名を改易した。なお、外様大名の転封が寛永年代を境に著しく減少したのは興味深い。一方、東海・畿内の譜代大名の転封・改易はさかんに行われていった。この結果、33名もの一門・譜代大名が取り立てられている。

幕閣機構については、大老・老中・若年寄といった組織が家光時代に確立し、幕閣の首脳は江戸周辺の譜代藩領に集中的に配置された。この時代は、転封が一種の人事異動のような役割になっていたようである。

ところで寛永10年、家康からのブレーン・金地院崇伝が死ぬと、寺社行政が幕閣へとうつることとなり、寛永12年に譜代大名の安藤重長、松平勝隆、堀利重の3名が寺社奉行に任命された。最初から3名任命されているのが興味深い。他、町奉行、勘定奉行が(それまであった制度を整える形で)家光の時代に整備され、三奉行の制度が確立した。さらに代官支配の仕組みについても、幕府の直轄領に統一した法令を発布し、人別帳を作成させるなど実態の把握に努め、奉行から五人組に至る一貫した支配系列が成立した。なお寛永19年(1642)の「土民仕置覚」や翌20年の「郷村御触」などこの時期に百姓支配の諸法令が立て続けに出たのは、寛永19年の大飢饉によるもので、百姓を土地に縛り付け、(農業ではない)商品作りなどを禁じて農業のみに専念させる政策が行われたためである。

また寛永年代には、徐々に貿易統制が強化され、寛永10年の第一次鎖国令(奉書船以外の日本船の海外渡航、海外在留日本人の帰国を禁じた)を皮切りに、 寛永13年の第四次鎖国令(ポルトガル人の子孫および混血児の追放、文通の禁止)によって鎖国体制に入っていった。島原の乱を経ての寛永16年には、第五次鎖国令(ポルトガル船の来貢を全面的に禁止)を発布し、鎖国体制が一応完成。こうして、貿易を担っていた豪商の力は弱まり、幕政への参与する機会もなくなった。それにより内政・外交の全てにわたって幕府権力は老中へと一本化された。

もうひとつ、寛永年代に整えられたのが参勤交代の制度。 寛永11年には譜代大名の妻子の江戸在住を定め、さらに武家諸法度の改訂によって、諸大名の自発的意志によって行われていた参勤を制度化した。またこの改訂で、幕府の軍役体系が整備された。これにより大名・旗本の石高ごとの保有兵力=家臣団数の最小規模が定められ、参勤交代も軍役の一つとして位置づけられた。参勤交代は西ヨーロッパの封建制には見られない幕藩体制独自の制度であった。

家光が48歳で病死すると、将軍は幼い家綱が継ぎ、保科正之が家綱の補佐(元老)となって、老中・若年寄たちの集団指導体制となった。しかし強い個性と指導力を持った家光の死去によって幕閣のパワーバランスが崩れた。そして、大名の改易・転封を強行してきた武断主義的な幕政への批判、旗本の困窮、牢人問題などが絡み合い、ようやくにして幕政は文治主義へと移行していくのである。その嚆矢となったのは、末期養子の制度の緩和であったが、続いて武家諸法度の改正によって、保科正之の主張により殉死が禁止され、追って大名証人制が廃止された(寛文の二大美事と呼ばれる)。

さらに寛文6年(1666)、旗本諸役人に対する役料の支給制度が創設される。それまで「幕府に対する旗本の勤務は、すべて知行・俸禄のあてがい(御恩)に対する奉公としておこなわれ、それが封建的主従関係の基本をなすもの(p.207)」であったが、この改革によって幕府はいよいよ本格的に封建官僚制になっていった。

酒井忠清が大老になる頃には(はじめて大老の名称が使われた)、幕閣の構成が完成し、またそれを担う譜代大名も特定の家に固定されていった。大名改易・転封は著しく減少して領国が固定化し、寛文4年(1664)、「寛文朱印状」が諸大名に一斉に交付された。これに応じ諸大名も地方知行から俸禄制に切り替え、初期検地に匹敵する大規模な寛文・延宝検地を実施した。こうして幕府機構と諸大名、そして身分制秩序が固定化し、全体として幕藩権力機構が確立したのだった。

このような中、農村においては百姓が二極化し、小作人が生じるようになった。幕府は地主—小作関係を認め、小作農民を分付(ぶんづけ)の形で登録・把握した。これは地主制の基点となるものだった。また代官も基盤となる土地から遊離させられ、幕府の徴税官・農政官としての代官の地位に組み替えられた。このように、農村の封建制は中世のそれとは異なる原理により始めていることが注目される。

酒井忠清の手腕には見るべきものはなかったが、幕府権力の確立によって手中にした強権によって「下馬将軍」とあだなされた。これは外様大名の池田光政によって批判され、綱吉が将軍職を継ぐと、綱吉と側近の堀田正俊は忠清に「ゆるゆる養生せよ」と申し渡し、失脚させた。ここから再び幕閣構成は見直され、新しい段階に入っていくが、ここで本書は擱筆されている。

全体を通じて、私の知りたかった徳川幕府の統治機構の内実(例えば、各組織の根拠法、所掌、定員、役料、家格など)はあまり書いていなかったが、近世幕藩権力の特質を幕閣から描くという視点は面白く読んだ。特に、大名の改易・転封の多さは幕末ばかり学んでいる身としては驚いた。草創期の幕藩権力はあきらかに中世的な封建制からはみ出ており、寛永頃には中央集権的な国家権力が完成しているように思われる。だがそれが幼将軍家綱の下で揺り戻しされ、寛文頃に近世的な封建制として再編成されるのである。

徳川幕府における幕政を担った人びとの政争を通じ近世幕藩権力の確立を描く良書。

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2023年7月2日日曜日

『近世日本の学術—実学の展開を中心に』杉本 勲

近世日本の学術の展開を、思想に注目して読み解く本。

近世の日本では、蘭学、そして洋学が勃興した。西洋の科学は大規模に受容されたのだ。西洋の科学が進んでいたのだからそれは当然だと思う人もいるかもしれないが、東アジアに限ってみても、西洋の科学をすんなりと受容したのは例外に属する。なぜ日本では西洋の科学をさほど抵抗なく受け入れることができたのか。本書では、それは受容と言うよりも、むしろ自生的な発展の先に蘭学・洋学があったと観て、その基盤に実学の展開と実学思想があったと説く。

では実学とは何か。それは「実際に役立つ学問」であるが、何が役立つのかは社会によって異なる。近世の日本では、意外なことに朱子学や陽明学も実学であると考えられていた。

第1章 東洋古代の学術の伝来」では、近世までの前提となる日本の学術史が概観される。

日本の学術はほとんど大陸に由来した。中国では学術が古代に驚くべき水準に達し、日本ではそれを受容して律令国家の組織の中に位置づけた(暦や算道、医業など)。しかし中国ではその後停滞し、訓詁的な、あるいは呪術的なものとなっていったものが多い。日本では遣唐使の廃止によって積極的な学術の移入自体がなくなり、平安時代には学術は停滞。呪術や家学になり迷信に置き換わっていった。

中国では宋時代になると朱子学の他さまざまな科学が勃興し学術が息を吹き返したが、医学以外は日本にはあまり影響を与えなかった。

第2章 近世学術の形成」では、近世の入り口までの状況が整理される。

封建社会の成立が近世の学術=実学を生みだす根本条件であった。これは意外に感じる主張である。封建社会では一子相伝的な秘伝主義によって科学技術は停滞せざるをえなかったように思うからである。しかし、近世封建社会は安定しており、しかも農業生産が飛躍的に増大し、 鉱山の開発も盛んになった。これが学術発展の土台であった。また、封建社会は基本的に人間を土地に縛り付けるが、度重なる転封によって技術の伝播が相当に行われた。

また近世の直前には南蛮の文物が盛んにもたらされ、イエズス会は宗教教育機関を設けた。ヨーロッパ人は、貿易や布教を有利に進めるために学術を利用したからである。特に天文・暦法、地理学はイエズス会の宣教使によって知識がかなり進んだ。しかしながら、イエズス会がもたらした知識は保守的なカトリック教会のものであったから、当時のヨーロッパにおける第一級のものではなかった。

先ほど社会の安定が学術発展の土台となったと書いたが、社会の安定は学術の停滞をももたらす場合がある。日本近世の場合は、戦国時代に学術発展の思想が準備されていたことが重要であった。戦国時代ではありのままの真実を見て、道理に従い、客観的・合理的に計算・判断するような精神が重要であった。この精神が近世社会において「政治権力のもとに吸収され、結集されて、専制権力に奉仕する文化に転化していった(p.85)」。特に近世初期は、「客観的な現実主義、人間本位の実力第一主義(p.86)」の、「因習打破や現実謳歌の革新的な風潮がみなぎっていた(p.87)」。

ところが家康の晩年からは新義が禁ぜられ、秘伝主義の「家元制度」が整えられ、さらにキリシタン禁制のため禁書令が出されたことで(寛永7年)、南蛮の科学の流入はストップし、学術の発達は阻害される。しかしそんな中でも、内発的な発展により、数学(和算、特に『塵劫記』は実用数学のレベルを高めた)・医学・本草学(李時珍の『本草綱目』の将来による)は発展を続けた。

第3章 近世中期の学術—実学の興隆」では、元禄〜享保期の学術の勃興が述べられる。

元禄期になると商品経済が発達して商人が豊かになり、また換金作物の導入と購入肥料の活用によって農業生産も増大した。その発展を基盤に、実学思想が展開する。その土台となったのが、江戸初期から盛んになってくる朱子学である。朱子学は「観念的なみせかけ」ではあったが一応合理主義の立場をとり、仏教の彼岸主義を否定した。さらに寛文〜元禄期には古学派が勃興する。山鹿素行や伊藤仁斎・東涯親子によって、朱子学が批判されて経験と実証を重んじた実学思想を展開するのである。さらに享保期からは、荻生徂徠が出て朱子学とは完全に決別することになる。

この時期、特に注目されるのは農学の発展である。元禄期に宮崎安貞の『農業全書』が刊行されるが、江戸期にはこれに至るまでも多くの農書が刊行されており、合理主義と実証主義によって農業技術がまとめられ、しかもそれを書物を通じて農民自身が学ぶという環境が出現した。他、鉱山技術、河川の治水技術、測量、養蚕・繊維工学といった技術・工学が発展していった。農学とともに、こうした学問・技術は必要に迫られて生まれたものであった。

一方、数学・測量・天文・暦・地理・本草・医学といった学問も発達する。

数学は関孝和によって長足の進歩を遂げたが、当時の科学が高等な数学を必要としなかったためもありその後は封建的ギルド主義になっていった。またニュートンやライプニッツが哲学者だったのに比べ、和算家は哲学な素養に欠け、体系的な論理性が十分に発達しなかった。

南蛮書の将来によって発展したのが測量。享保5年(1720)の禁書緩和令によって漢訳の西洋技術書が解禁されると、測量器具も含めて測量の技術がもたらされた。

天文・暦学は、当時の暦が実際と食い違ってきたということから修正の必要に迫られ、南蛮流天文学が導入される。渋川春海は『貞享暦書』を著し、西洋と東洋の暦を参酌し科学的な態度で改暦事業に携わったが、その後半生では科学性は後退して占侯に傾いて行った。

地理・測量については、幕府は全国支配の必要からそれを独占した。早くも正保元年(1644)に国絵図作成を命じ、諸藩から提出されたものを集大成して『日本総図』を作成。すでに高い水準に達していたが、これは秘匿されていた。約1世紀後の伊能忠敬の地図も公開はされていない。ところが世界地図は禁書になっていないのが面白いところで、世界地理の研究は西川如見、新井白石などによって進められた。

本草学は、博物学や物産学に発展。貝原益軒の『大和本草』は中国の本草学の引き写しではない、実証的な態度で記された画期的な名著。平明な国文で書かれていることも特徴である。一方幕府も丹羽正伯を重用して諸国の産物をまとめた(『庶物類纂』)。また物産会も盛んになり、諸国の貴重な薬草などが流通交換され、ありのままの自然を観察する態度が養われていった。

実学の中でもっとも早くに起こったの医学である。伊藤仁斎に影響を受け、陰陽虚実にとらわれない実学的医学を興したのが名古屋玄医。儒学における古学の勃興と古医方には密接な関連があるようだ。ついで出た後藤艮山は、医者が剃髪し僧官に任ぜられていたのを憎み、俗体にかえって髪を伸ばした。その弟子香川修庵に至って日本の実証医学の基礎が据えられた。山脇東洋は、艮山と修庵について古医方を学び、刑死死体の解剖の観察をもとに『蔵志』を記した。ここに古来の五臓六腑の説が虚説であることが暴露された。ただし、『蔵志』では実証の根拠を復古=古典においた。この段階では「せっかく基礎医学としての解剖学の門口に立ちながら、あたらしい医説(理論)を立てることができなかった(p.158)」。

第4章 近世中期の儒学と実学思想」では、上記に述べた学術に関連する、儒学の動向が再検討される。

幕府は、寛永7年(1630)に禁書令を布告した。イエズス会士が布教に役立てるために刊行した漢訳西洋学術書が、キリスト教防遏のために禁止された。幕府には西洋の学問を排斥する意思はなかったが、禁書令によってひとまず西洋の学問は下火になった。ただしオランダ学術書は禁止されていない。さらに貞享2年(1685)、思想統制の一環で検閲が強化され、天文・地理・数学などの舶来の学術書が次々と禁書になった。しかし、検閲をまぬかれた科学知識は漢書となって刊行された。西洋科学は漢学の一分野として成長していったのである。

そして享保5年(1720)、吉宗は禁書緩和令を公布。彼は西洋の文物・学術に強い興味を持っており、また貞享暦の改暦の必要から禁書を緩和したのである。これにより天文・数学・測量・世界地理等の学術書がぞくぞくと輸入された。

ところで、家康が林羅山を登用したことを契機に、幕府は朱子学を官学としていった。朱子学者は仏教を虚学としてみずからを有用な学問=実学と認識した。「格物致知(物に格って知を致す)」は、はなはだ思弁的ではあったが、一応「窮理」の原理として機能した。しかし正統派朱子学は官学化されたことによってかえって停滞し、正統派からはずれた木下順庵・新井白石・室鳩巣らの木門朱子学、山崎闇斎・浅見絅斎らの崎門学派、貝原益軒などが活躍した。特に益軒は、窮理を朱子学の理気論から離脱させ、合理主義・実証主義によって『大和本草』などを刊行した「もっとも偉大な実学思想家(p.175)」である。

そして朱子学へのアンチテーゼとして古学派が勃興。伊藤仁斎が天道と人道を截然と区別し、宇宙論と人生論を別々の領域に設定したことは注目される。古典をありのままに学ぶ態度から、訓詁学ではなく経験と実証を重んじる学問が生まれてきたことが興味深い。仁斎の子の東涯はその態度を推し進め、実学の研究に精魂を傾けた。主著『名物六帖』は一種の百科事典で、同時期に出た寺島良安の『和漢三才図会』に劣らない。

また徳川綱吉の侍医の子として生まれた荻生徂徠は、朱子学の「天地自然の道」「天人合一理論」を否定し、儒学を政治学へ限定した。これにより儒学をイデオロギーから解放し、百科全書家として様々な学術に実証的態度で取り組んだ。徂徠の弟子、太宰春台は現実に即した経済理論を提唱。現実から遊離したきらいのあった儒学が、現実の問題に取り組むようになってきていたのである。

上述の学派に属さない思想家として安藤昌益と三浦梅園がいる。とはいうものの、著者の安藤昌益への評価は極めて低く、儒学を否定しつつその枠内から踏み出すものではなかったとし、中心的な思想であるその農業観もあまりに牧歌的であった、と容赦ない。一方、三浦梅園については「前人未踏の独創家(p.195)」として極めて高い評価を与えている。梅園は徹底した懐疑精神・批判精神を持ち、過去の聖人をも相対化、思想批判の基礎を自然においていわゆる梅園三語(『玄語』『贅語』『敢語』)を著し、主観を排して客観的に実証する態度に徹した。

以上をまとめると、この時期の学術は、南蛮系学術からの影響よりも、むしろ儒学の内発的発展によって実学思想が形成されてきたと言える。朱子学自体が一種の実学を標榜していたのであるが、それのアンチテーゼである古学がより実証的態度を進め、人間から独立した客観的世界として自然界を認識したことが思想上の一つの転回であった。こうした基盤にたって、禁書緩和令や改暦事業によって封建権力が西洋の学問の輸入につとめたことで蘭学が勃興していくのである。「在来学術のある程度の水準にたっしていないところに、突然、異質でしかも数段高等な蘭学=洋学が勃興し、急速に発展することは、とうてい不可能であった(p.202)」。

第5章 蘭学の勃興と実学思想」では、蘭学勃興の入り口までが概観される。私は、本書を蘭学の展開が詳述されていると思って手に取ったのであるが、本書の対象は蘭学の形成期までである。

杉田玄白は、蘭学を『解体新書』以降の蘭学と、それまでのオランダ通詞によるオランダ研究を明確に区別しており、本書でもそれを踏襲し、後者を「通詞蘭学」と呼んでいる。

通詞蘭学では医学が最も進んでおり、本木良意の『和蘭全軀内外分合図』は、『解体新書』の80年も前に翻訳されたオランダ解剖書である。ただし、解剖学の素養のない通詞の翻訳であるから誤訳も多く、『解体新書』とは比べものにならない。それでも通詞らの長年の努力と蘭語知識の蓄積は、蘭学の形成に重要だったのは言うまでもない。

また蘭学形成に重要な役割を果たしたのが、新井白石とオランダに強い興味を持った将軍吉宗である。新井白石は『西洋紀聞』等でオランダについて記述し、おそらくはそうした情報に接した吉宗は、殖産興業のための実学奨励を企図してオランダに興味を持ち、晩年近くに野呂元丈と青木昆陽に蘭学学習の内旨を与えた。なおこの二人が、元丈は伊藤仁斎、昆陽は東涯の門人なのは面白い。

蘭学が花開いたのはいわゆる田沼時代で、幕府の強権と封建制度の弛緩によって奢侈的・開放的な社会のムードとなり、異国趣味を遠慮せずともよいような風潮が生じた。ここで登場したのが『解体新書』である。その翻訳メンバーの盟主が青木昆陽の門人の前野良沢であったが、良沢は豊前中津藩の藩医(江戸詰の侍医)であった。他にもグループメンバーは藩医が多く、桂川甫周のような幕府の奥医師もいた。『解体新書』は幕府や諸藩とは無関係の自発的な事業であったが、藩医・奥医師らが携わっていたことは、蘭学の創始が封建権力に近いところから始まったことを示唆している。 

しかし、幕府や諸藩は蘭学に対しては特に反応していない。藩医たちは目覚ましく活躍したが、封建権力は妨害もしていないが後援もしていないのである。蘭学はあくまで知識人や市井の人による民間的な学問として発展していった。

ところが化政〜天保期となると、対外危機に対処するため幕府や諸藩は西洋の軍事技術を学ぼうとし、これによって武士が蘭学へ進出してきた。ここに蘭学は医学から海防のための軍事へと転回するのである。幕府は文化8年(1811)、天文方に「蕃書和解御用」の一局を設け、蘭学は幕府公認の学術となって、徐々に蘭学の幕府独占体制がきずかれていくことになった。

ではその間の思想はいかなるものであったか。杉田玄白は「古人の説くところ皆空言にて信じ難き事のみ」とし、完全に実証主義の立場に立って西洋科学の優秀性を認めた。前野良沢も『管蠡秘言』では陰陽五行説を排撃している。蘭学者たちの実学思想は、「文明開化期の啓蒙学者の近代的実学思想と、すでに大体同様(p.236)」なものとなっていた。

また彼らは、学術書を読み解く中でヨーロッパの社会制度を知り、「教育・社会保障・交易等の諸制度が完備し、個性や人材が尊重されていること、それらの根底にある人間平等観など(p.240)」を発見したのである。特に司馬江漢はこうした社会の違いを鋭く指摘した。

また本多利明は、真の学問は西洋の窮理学=自然科学であると断じ、海運・貿易・植民地開発・海外計略・河道開削・産業奨励・物価と米価・人口・社会階級・経済段階等の多方面にわたる経済論を『経世秘策』等で次々に訴えている。本多利明においては、蘭学がもたらした新しい世界観が、社会学的な面にまで応用されていることが見て取れるのである。

そして山片蟠桃は、朱子学の中井竹山・履軒兄弟に懐徳堂で学び、麻田剛立に天文・暦・地理を学んでおり、当時としては最高の蘭学知識を習得した人物。彼が断固とした自信を持って地動説を支持している一方、朱子学的宇宙観としての天の観念も共存していることは興味深い。彼は朱子学の格物窮理が、西洋の合理主義・実証主義につらなりうると考えていたようだ。彼は、無神論や市場価格形成理論、経済面の自由競争の擁護など、ほとんど近代的といっていい思想を主著『夢ノ代』で展開するのであるが、その本質においては封建的儒教色を残している。

本書が山片蟠桃で終わっていることはやや唐突の観があるが、それは著者の狙いが「鎖国体制下の自生的な実学の形成とその延長としての蘭学の創始(p.258)」にあるからで、ひとまず18世紀末ごろまでを記述の範囲としているわけである。

「自生的な実学の形成」に重要な基盤を提供したのが、朱子学とそのアンチテーゼである古学派であったということが本書によって蒙を啓かれたところで、思えばヨーロッパでも科学思想を育んだのはスコラ哲学=神学であった。しかしスコラ哲学は同時に科学思想を阻害するものであったごとく、朱子学もその思弁性から、近世科学の限界を定めた面がある。本書の掉尾を飾る山片蟠桃においてその限界が指摘されているのは示唆的である。

一方、古学派についてはその研究態度が実証的であったことから、かなりの程度懐疑主義を推し進めた。蘭学の源流の野呂元丈と青木昆陽が両方古学派出身というのは鋭い指摘である。

ところで、こうした大きな思想的転回があった時期に、ただの一人も僧侶がこの動向に関与していないということは気になった。近世仏教は総じて停滞しているとされてきたが、少なくとも学術面において、ほとんど存在感がないのは事実である。それはなぜなのか改めて興味が湧いた。

なお本書には、参考文献一覧と関係略年表が附属しており、これが非常に参考になる。

近世学術と儒学の関係を解き明かした労作。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸の科学者—西洋に挑んだ異才列伝』新戸 雅章 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/05/blog-post_18.html
江戸時代の科学者11人を紹介する本。気軽に読める江戸時代の科学人物誌。

『江戸人物科学史—「もう一つの文明開化」を訪ねて』金子 務 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/06/blog-post.html
江戸時代の科学者36人を取り上げた本。

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