2023年7月2日日曜日

『近世日本の学術—実学の展開を中心に』杉本 勲

近世日本の学術の展開を、思想に注目して読み解く本。

近世の日本では、蘭学、そして洋学が勃興した。西洋の科学は大規模に受容されたのだ。西洋の科学が進んでいたのだからそれは当然だと思う人もいるかもしれないが、東アジアに限ってみても、西洋の科学をすんなりと受容したのは例外に属する。なぜ日本では西洋の科学をさほど抵抗なく受け入れることができたのか。本書では、それは受容と言うよりも、むしろ自生的な発展の先に蘭学・洋学があったと観て、その基盤に実学の展開と実学思想があったと説く。

では実学とは何か。それは「実際に役立つ学問」であるが、何が役立つのかは社会によって異なる。近世の日本では、意外なことに朱子学や陽明学も実学であると考えられていた。

第1章 東洋古代の学術の伝来」では、近世までの前提となる日本の学術史が概観される。

日本の学術はほとんど大陸に由来した。中国では学術が古代に驚くべき水準に達し、日本ではそれを受容して律令国家の組織の中に位置づけた(暦や算道、医業など)。しかし中国ではその後停滞し、訓詁的な、あるいは呪術的なものとなっていったものが多い。日本では遣唐使の廃止によって積極的な学術の移入自体がなくなり、平安時代には学術は停滞。呪術や家学になり迷信に置き換わっていった。

中国では宋時代になると朱子学の他さまざまな科学が勃興し学術が息を吹き返したが、医学以外は日本にはあまり影響を与えなかった。

第2章 近世学術の形成」では、近世の入り口までの状況が整理される。

封建社会の成立が近世の学術=実学を生みだす根本条件であった。これは意外に感じる主張である。封建社会では一子相伝的な秘伝主義によって科学技術は停滞せざるをえなかったように思うからである。しかし、近世封建社会は安定しており、しかも農業生産が飛躍的に増大し、 鉱山の開発も盛んになった。これが学術発展の土台であった。また、封建社会は基本的に人間を土地に縛り付けるが、度重なる転封によって技術の伝播が相当に行われた。

また近世の直前には南蛮の文物が盛んにもたらされ、イエズス会は宗教教育機関を設けた。ヨーロッパ人は、貿易や布教を有利に進めるために学術を利用したからである。特に天文・暦法、地理学はイエズス会の宣教使によって知識がかなり進んだ。しかしながら、イエズス会がもたらした知識は保守的なカトリック教会のものであったから、当時のヨーロッパにおける第一級のものではなかった。

先ほど社会の安定が学術発展の土台となったと書いたが、社会の安定は学術の停滞をももたらす場合がある。日本近世の場合は、戦国時代に学術発展の思想が準備されていたことが重要であった。戦国時代ではありのままの真実を見て、道理に従い、客観的・合理的に計算・判断するような精神が重要であった。この精神が近世社会において「政治権力のもとに吸収され、結集されて、専制権力に奉仕する文化に転化していった(p.85)」。特に近世初期は、「客観的な現実主義、人間本位の実力第一主義(p.86)」の、「因習打破や現実謳歌の革新的な風潮がみなぎっていた(p.87)」。

ところが家康の晩年からは新義が禁ぜられ、秘伝主義の「家元制度」が整えられ、さらにキリシタン禁制のため禁書令が出されたことで(寛永7年)、南蛮の科学の流入はストップし、学術の発達は阻害される。しかしそんな中でも、内発的な発展により、数学(和算、特に『塵劫記』は実用数学のレベルを高めた)・医学・本草学(李時珍の『本草綱目』の将来による)は発展を続けた。

第3章 近世中期の学術—実学の興隆」では、元禄〜享保期の学術の勃興が述べられる。

元禄期になると商品経済が発達して商人が豊かになり、また換金作物の導入と購入肥料の活用によって農業生産も増大した。その発展を基盤に、実学思想が展開する。その土台となったのが、江戸初期から盛んになってくる朱子学である。朱子学は「観念的なみせかけ」ではあったが一応合理主義の立場をとり、仏教の彼岸主義を否定した。さらに寛文〜元禄期には古学派が勃興する。山鹿素行や伊藤仁斎・東涯親子によって、朱子学が批判されて経験と実証を重んじた実学思想を展開するのである。さらに享保期からは、荻生徂徠が出て朱子学とは完全に決別することになる。

この時期、特に注目されるのは農学の発展である。元禄期に宮崎安貞の『農業全書』が刊行されるが、江戸期にはこれに至るまでも多くの農書が刊行されており、合理主義と実証主義によって農業技術がまとめられ、しかもそれを書物を通じて農民自身が学ぶという環境が出現した。他、鉱山技術、河川の治水技術、測量、養蚕・繊維工学といった技術・工学が発展していった。農学とともに、こうした学問・技術は必要に迫られて生まれたものであった。

一方、数学・測量・天文・暦・地理・本草・医学といった学問も発達する。

数学は関孝和によって長足の進歩を遂げたが、当時の科学が高等な数学を必要としなかったためもありその後は封建的ギルド主義になっていった。またニュートンやライプニッツが哲学者だったのに比べ、和算家は哲学な素養に欠け、体系的な論理性が十分に発達しなかった。

南蛮書の将来によって発展したのが測量。享保5年(1720)の禁書緩和令によって漢訳の西洋技術書が解禁されると、測量器具も含めて測量の技術がもたらされた。

天文・暦学は、当時の暦が実際と食い違ってきたということから修正の必要に迫られ、南蛮流天文学が導入される。渋川春海は『貞享暦書』を著し、西洋と東洋の暦を参酌し科学的な態度で改暦事業に携わったが、その後半生では科学性は後退して占侯に傾いて行った。

地理・測量については、幕府は全国支配の必要からそれを独占した。早くも正保元年(1644)に国絵図作成を命じ、諸藩から提出されたものを集大成して『日本総図』を作成。すでに高い水準に達していたが、これは秘匿されていた。約1世紀後の伊能忠敬の地図も公開はされていない。ところが世界地図は禁書になっていないのが面白いところで、世界地理の研究は西川如見、新井白石などによって進められた。

本草学は、博物学や物産学に発展。貝原益軒の『大和本草』は中国の本草学の引き写しではない、実証的な態度で記された画期的な名著。平明な国文で書かれていることも特徴である。一方幕府も丹羽正伯を重用して諸国の産物をまとめた(『庶物類纂』)。また物産会も盛んになり、諸国の貴重な薬草などが流通交換され、ありのままの自然を観察する態度が養われていった。

実学の中でもっとも早くに起こったの医学である。伊藤仁斎に影響を受け、陰陽虚実にとらわれない実学的医学を興したのが名古屋玄医。儒学における古学の勃興と古医方には密接な関連があるようだ。ついで出た後藤艮山は、医者が剃髪し僧官に任ぜられていたのを憎み、俗体にかえって髪を伸ばした。その弟子香川修庵に至って日本の実証医学の基礎が据えられた。山脇東洋は、艮山と修庵について古医方を学び、刑死死体の解剖の観察をもとに『蔵志』を記した。ここに古来の五臓六腑の説が虚説であることが暴露された。ただし、『蔵志』では実証の根拠を復古=古典においた。この段階では「せっかく基礎医学としての解剖学の門口に立ちながら、あたらしい医説(理論)を立てることができなかった(p.158)」。

第4章 近世中期の儒学と実学思想」では、上記に述べた学術に関連する、儒学の動向が再検討される。

幕府は、寛永7年(1630)に禁書令を布告した。イエズス会士が布教に役立てるために刊行した漢訳西洋学術書が、キリスト教防遏のために禁止された。幕府には西洋の学問を排斥する意思はなかったが、禁書令によってひとまず西洋の学問は下火になった。ただしオランダ学術書は禁止されていない。さらに貞享2年(1685)、思想統制の一環で検閲が強化され、天文・地理・数学などの舶来の学術書が次々と禁書になった。しかし、検閲をまぬかれた科学知識は漢書となって刊行された。西洋科学は漢学の一分野として成長していったのである。

そして享保5年(1720)、吉宗は禁書緩和令を公布。彼は西洋の文物・学術に強い興味を持っており、また貞享暦の改暦の必要から禁書を緩和したのである。これにより天文・数学・測量・世界地理等の学術書がぞくぞくと輸入された。

ところで、家康が林羅山を登用したことを契機に、幕府は朱子学を官学としていった。朱子学者は仏教を虚学としてみずからを有用な学問=実学と認識した。「格物致知(物に格って知を致す)」は、はなはだ思弁的ではあったが、一応「窮理」の原理として機能した。しかし正統派朱子学は官学化されたことによってかえって停滞し、正統派からはずれた木下順庵・新井白石・室鳩巣らの木門朱子学、山崎闇斎・浅見絅斎らの崎門学派、貝原益軒などが活躍した。特に益軒は、窮理を朱子学の理気論から離脱させ、合理主義・実証主義によって『大和本草』などを刊行した「もっとも偉大な実学思想家(p.175)」である。

そして朱子学へのアンチテーゼとして古学派が勃興。伊藤仁斎が天道と人道を截然と区別し、宇宙論と人生論を別々の領域に設定したことは注目される。古典をありのままに学ぶ態度から、訓詁学ではなく経験と実証を重んじる学問が生まれてきたことが興味深い。仁斎の子の東涯はその態度を推し進め、実学の研究に精魂を傾けた。主著『名物六帖』は一種の百科事典で、同時期に出た寺島良安の『和漢三才図会』に劣らない。

また徳川綱吉の侍医の子として生まれた荻生徂徠は、朱子学の「天地自然の道」「天人合一理論」を否定し、儒学を政治学へ限定した。これにより儒学をイデオロギーから解放し、百科全書家として様々な学術に実証的態度で取り組んだ。徂徠の弟子、太宰春台は現実に即した経済理論を提唱。現実から遊離したきらいのあった儒学が、現実の問題に取り組むようになってきていたのである。

上述の学派に属さない思想家として安藤昌益と三浦梅園がいる。とはいうものの、著者の安藤昌益への評価は極めて低く、儒学を否定しつつその枠内から踏み出すものではなかったとし、中心的な思想であるその農業観もあまりに牧歌的であった、と容赦ない。一方、三浦梅園については「前人未踏の独創家(p.195)」として極めて高い評価を与えている。梅園は徹底した懐疑精神・批判精神を持ち、過去の聖人をも相対化、思想批判の基礎を自然においていわゆる梅園三語(『玄語』『贅語』『敢語』)を著し、主観を排して客観的に実証する態度に徹した。

以上をまとめると、この時期の学術は、南蛮系学術からの影響よりも、むしろ儒学の内発的発展によって実学思想が形成されてきたと言える。朱子学自体が一種の実学を標榜していたのであるが、それのアンチテーゼである古学がより実証的態度を進め、人間から独立した客観的世界として自然界を認識したことが思想上の一つの転回であった。こうした基盤にたって、禁書緩和令や改暦事業によって封建権力が西洋の学問の輸入につとめたことで蘭学が勃興していくのである。「在来学術のある程度の水準にたっしていないところに、突然、異質でしかも数段高等な蘭学=洋学が勃興し、急速に発展することは、とうてい不可能であった(p.202)」。

第5章 蘭学の勃興と実学思想」では、蘭学勃興の入り口までが概観される。私は、本書を蘭学の展開が詳述されていると思って手に取ったのであるが、本書の対象は蘭学の形成期までである。

杉田玄白は、蘭学を『解体新書』以降の蘭学と、それまでのオランダ通詞によるオランダ研究を明確に区別しており、本書でもそれを踏襲し、後者を「通詞蘭学」と呼んでいる。

通詞蘭学では医学が最も進んでおり、本木良意の『和蘭全軀内外分合図』は、『解体新書』の80年も前に翻訳されたオランダ解剖書である。ただし、解剖学の素養のない通詞の翻訳であるから誤訳も多く、『解体新書』とは比べものにならない。それでも通詞らの長年の努力と蘭語知識の蓄積は、蘭学の形成に重要だったのは言うまでもない。

また蘭学形成に重要な役割を果たしたのが、新井白石とオランダに強い興味を持った将軍吉宗である。新井白石は『西洋紀聞』等でオランダについて記述し、おそらくはそうした情報に接した吉宗は、殖産興業のための実学奨励を企図してオランダに興味を持ち、晩年近くに野呂元丈と青木昆陽に蘭学学習の内旨を与えた。なおこの二人が、元丈は伊藤仁斎、昆陽は東涯の門人なのは面白い。

蘭学が花開いたのはいわゆる田沼時代で、幕府の強権と封建制度の弛緩によって奢侈的・開放的な社会のムードとなり、異国趣味を遠慮せずともよいような風潮が生じた。ここで登場したのが『解体新書』である。その翻訳メンバーの盟主が青木昆陽の門人の前野良沢であったが、良沢は豊前中津藩の藩医(江戸詰の侍医)であった。他にもグループメンバーは藩医が多く、桂川甫周のような幕府の奥医師もいた。『解体新書』は幕府や諸藩とは無関係の自発的な事業であったが、藩医・奥医師らが携わっていたことは、蘭学の創始が封建権力に近いところから始まったことを示唆している。 

しかし、幕府や諸藩は蘭学に対しては特に反応していない。藩医たちは目覚ましく活躍したが、封建権力は妨害もしていないが後援もしていないのである。蘭学はあくまで知識人や市井の人による民間的な学問として発展していった。

ところが化政〜天保期となると、対外危機に対処するため幕府や諸藩は西洋の軍事技術を学ぼうとし、これによって武士が蘭学へ進出してきた。ここに蘭学は医学から海防のための軍事へと転回するのである。幕府は文化8年(1811)、天文方に「蕃書和解御用」の一局を設け、蘭学は幕府公認の学術となって、徐々に蘭学の幕府独占体制がきずかれていくことになった。

ではその間の思想はいかなるものであったか。杉田玄白は「古人の説くところ皆空言にて信じ難き事のみ」とし、完全に実証主義の立場に立って西洋科学の優秀性を認めた。前野良沢も『管蠡秘言』では陰陽五行説を排撃している。蘭学者たちの実学思想は、「文明開化期の啓蒙学者の近代的実学思想と、すでに大体同様(p.236)」なものとなっていた。

また彼らは、学術書を読み解く中でヨーロッパの社会制度を知り、「教育・社会保障・交易等の諸制度が完備し、個性や人材が尊重されていること、それらの根底にある人間平等観など(p.240)」を発見したのである。特に司馬江漢はこうした社会の違いを鋭く指摘した。

また本多利明は、真の学問は西洋の窮理学=自然科学であると断じ、海運・貿易・植民地開発・海外計略・河道開削・産業奨励・物価と米価・人口・社会階級・経済段階等の多方面にわたる経済論を『経世秘策』等で次々に訴えている。本多利明においては、蘭学がもたらした新しい世界観が、社会学的な面にまで応用されていることが見て取れるのである。

そして山片蟠桃は、朱子学の中井竹山・履軒兄弟に懐徳堂で学び、麻田剛立に天文・暦・地理を学んでおり、当時としては最高の蘭学知識を習得した人物。彼が断固とした自信を持って地動説を支持している一方、朱子学的宇宙観としての天の観念も共存していることは興味深い。彼は朱子学の格物窮理が、西洋の合理主義・実証主義につらなりうると考えていたようだ。彼は、無神論や市場価格形成理論、経済面の自由競争の擁護など、ほとんど近代的といっていい思想を主著『夢ノ代』で展開するのであるが、その本質においては封建的儒教色を残している。

本書が山片蟠桃で終わっていることはやや唐突の観があるが、それは著者の狙いが「鎖国体制下の自生的な実学の形成とその延長としての蘭学の創始(p.258)」にあるからで、ひとまず18世紀末ごろまでを記述の範囲としているわけである。

「自生的な実学の形成」に重要な基盤を提供したのが、朱子学とそのアンチテーゼである古学派であったということが本書によって蒙を啓かれたところで、思えばヨーロッパでも科学思想を育んだのはスコラ哲学=神学であった。しかしスコラ哲学は同時に科学思想を阻害するものであったごとく、朱子学もその思弁性から、近世科学の限界を定めた面がある。本書の掉尾を飾る山片蟠桃においてその限界が指摘されているのは示唆的である。

一方、古学派についてはその研究態度が実証的であったことから、かなりの程度懐疑主義を推し進めた。蘭学の源流の野呂元丈と青木昆陽が両方古学派出身というのは鋭い指摘である。

ところで、こうした大きな思想的転回があった時期に、ただの一人も僧侶がこの動向に関与していないということは気になった。近世仏教は総じて停滞しているとされてきたが、少なくとも学術面において、ほとんど存在感がないのは事実である。それはなぜなのか改めて興味が湧いた。

なお本書には、参考文献一覧と関係略年表が附属しており、これが非常に参考になる。

近世学術と儒学の関係を解き明かした労作。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸の科学者—西洋に挑んだ異才列伝』新戸 雅章 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/05/blog-post_18.html
江戸時代の科学者11人を紹介する本。気軽に読める江戸時代の科学人物誌。

『江戸人物科学史—「もう一つの文明開化」を訪ねて』金子 務 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/06/blog-post.html
江戸時代の科学者36人を取り上げた本。

★Amazonページ
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