2020年12月31日木曜日

『カルル・チェルニー—ピアノに囚われた音楽家』グレーテ・ヴェーマイヤー 著、岡 美知子 訳

チェルニーの人生を辿り、19世紀前半の音楽シーンを描く。

チェルニーといえば、ピアノ学習者にはおなじみで、『チェルニー30番』とか『同40番』などの練習曲に苦労した記憶は誰にでもある。だが、チェルニーという音楽家がどのような人物であったのかは知らない人が多い。本書は、チェルニーという知られざる音楽家の全貌を紹介するとともに、それを通じて19世紀ヨーロッパにおける音楽事情を活写するものである。

チェルニーは、850曲以上を出版した作曲家であった。彼はベートーヴェンの弟子であるが、ベートーヴェンが作品番号を与えたのが150曲に満たなかったのを考えると非常なる多作家である。ではその内容はどのようなものであるか。今では練習曲が高名であるがそれは作品全体のごく一部であり、全体の半分を占めるのは当時流行したオペラや歌曲のパラフレーズ(編曲やアレンジ)である。

なにしろ、当時は録音ができないため、音楽を楽しみたい市民は、劇場に行くか、あるいは自分たちで演奏する以外にはなかった。だから、今の人が流行の曲をカラオケで歌うのと同じように、当時の市民は自宅のピアノ(やその他の簡単な伴奏楽器)でオペラや歌曲を演奏したのである。そのため、誰でもさほど練習せずとも弾ける簡単なパラフレーズは非常に需要が大きかった。ウィーンでこういう仕事を一手に引き受けていたのがチェルニーである、といっても過言ではない。

我々は、チェルニーがどのようなパレフレーズを作曲したかを辿ることで、今では失われた当時のウィーンの音楽シーンを再構成することができる。それは、必ずしも古き良き時代の記憶を呼び起こすことではない。むしろ、苦々しい音楽シーンの記録でありさえする。

19世紀初頭のウィーンは、政治的な混乱のまっただ中にあった。1848年、ヨーロッパの他の都市より遅れてウィーンにも革命が起こるが、この革命の年まで、ウィーンの貴族や市民たちは先の見えない政治情勢に右往左往した。この、一見するとナポレオン戦争後の平和な時代、社会の不平等や格差は大きく広がり、どうしようもない矛盾が世の中に横たわっていた。それゆえに人びとは自分が政治的に無力であると諦観し、混乱した政治を視て見ぬ振りしながら、「政治から芸術にへ、社会から個人へ、現実から夢へと逃避した(p.48)」。

そして人びとは音楽に熱狂した。だがそこで好まれたのは真の芸術ではなかった。理想に燃えた高尚な芸術ではなく、その場しのぎの、簡単に盛り上がるがすぐに忘れられる音楽が好まれた。そもそも、音楽は政治に従属していた。オペラの台本は検閲され、問題のある箇所は削除され書き換えられた。そういう中で、音楽は当たり障りのないものへと堕落していった。チェルニーが厖大にパラフレーズした作品は、そういう、閉ざされた時代の産物であった。彼は高尚な芸術を作るよりは、市民の需要に応えた、まるで手工業製品のような作品—ビーダーマイヤー(小市民)様式の曲—を生みだした。

また、19世紀前半は、空前の「名人芸(ヴィルトゥオジテート)」の時代でもあった。産業の発展とともに市民階級が音楽を楽しむようになると、誰にでも分かるすごい音楽、として「名人芸」がもてはやされた。つまり、人間業でないスピード、跳躍、和音の連打といったものである。折しも、ウィーンの音楽シーンにヴァイオリンの悪魔、ニコロ・パガニーニが出現して人びとは熱狂した。1830〜1848年に活躍した名人芸的ピアニストといえば、フンメル、カルクブレンナー、リスト、タールベルグといった絢爛たるヴィルトゥオーゾが挙げられる。

そして、こうした綺羅星に憧れて、いやその収入に憧れて、多くの親たちは子供に音楽教育を施すのである。14歳以下の少年少女たちが機械的に訓練させられたピアノの技を披露し、市民が喝采した。子供が難しい曲を弾けば喝采するのは当然である。そして演奏会での収入は、思うように出世できない中産階級の親たちには魅力的だった。こうしてウィーンでは空前の音楽教育ブームが到来する。

ウィーンに医者が500人もいなかかった時代に、「心もとない知識でレッスンをしている人も勘定に入れれば、実際に1,600人のピアノ教師が稼働していたという(p.165)」。 このような莫大なピアノレッスンの需要に応え、優れた音楽教師として多くの俊英を育てたのがチェルニーであった。

ピアノの神童であったチェルニーは、ベートーヴェンの弟子となりピアノや作曲を学んでいた。チェルニーがベートーヴェンのような芸術家になる理想を持っていたことは疑いない。 だが、彼の両親は演奏旅行を行うには歳を取りすぎており、また裕福でもなかった。チェルニーは15歳の頃から、毎日20人もの生徒のレッスンを朝から夕方まで行った。それは、おそらく少年にとって耐え難い日々であったに違いない。

チェルニーは非常に規則正しく生活し、毎日のレッスンを終えると、夜には毎晩作曲を行った。 残された大量の作品は、おそらくは日中のつまらない仕事を埋め合わせようとする試みであり、皮肉なことに夢破れた結果でもあった。

だがチェルニーがいやいやながらピアノレッスンを行っていたとしても、その手法は時代に先んじていた。彼は無味乾燥で機械的な指の訓練を誡め、音楽的に優れた演奏を行うことを目的にしている。今のピアノ学習者は『チェルニー40番』の無味乾燥さに嫌気が差しているだろうが、当時としてはチェルニーの指導は大変優れていた。とはいってもチェルニーが自身の練習曲を弾かせて生徒をうんざりさせたことも間違いはない。進展する産業化社会の中で、音楽の世界のみならず「勤勉」で「禁欲的」なピューリタン的なやり方が求められるようになっていた。チェルニーは、ピアニストの卵たちに「労働」を指示したのである。チェルニーの、いわば「公文式」のような指導は、時代の子であったともいうことができる。

だが、当時は(今でも?)頭ごなしに子供を押さえつけ、泣き叫んでも無理矢理弾かせるような苦行のような「指導」が横行していたことを考えると、チェルニーの元に引きも切らさず入門希望者が訪れたのは不思議ではない。チェルニーの指導はとても穏やかで、人間味に溢れていたという。

ベートーヴェンの弟子としての名声も彼の成功に一役買っていたには違いないが、ピアノ教師として優秀であったことは確実だ。しかもチェルニーは、リストのような天才少年が現れると無料でレッスンを行った。貧しかったリストはチェルニーの家で住み込みで教わっている。

1840年代になると、名人芸の時代は下火になる。そこに音楽的な感動はなく、いわば一発屋的なものだったからだ。例えばリストは、もはや名人芸の演奏会を開くのではなく、作曲に重点を置いていった。一方チェルニーは、1827年に母親を、1832年に父親を亡くして天涯孤独となった。それまでのチェルニーは、年老いた両親を支えなくてはならないという責任感が大きかったようにみえる。そして自由な立場になった1836年、彼は36年に及んだピアノ教師業を一切辞める決心をした。時にチェルニー45歳であった。

チェルニーは、それまでの需要に応えた音楽活動を、後悔し始めていた。自分の音楽的才能を無駄遣いしてしまったのではないかと。そして間違った作品を大量に生みだしていた無意味さを思うのだった。そして後半生を懸けて、本当に自分が作りたかった芸術の道へと入っていくのである。彼は大量のパラフレーズを作るのを辞め、「古典様式」—つまりハイドンやベートーヴェンの到達した音楽様式—の曲を作るようになった。しかもそれらは気軽に演奏出来るものではなく、本格的な芸術を志向していた。

また、チェルニーは1837年にJ.S.バッハのクラヴィーア作品(『平均律クラヴィーア曲集』)の校訂版、1839年にはスカルラッティの校訂版を出版する。このスカルラッティ校訂版は、先駆的な掘り起こしであった。またチェルニーは自身では作曲の教本は書かなかったが、アントニン・ライヒャの『作曲法講義』(仏語)を独訳して注釈をつけて出版した。彼はピアノ教師から引退した後も、変わらぬ勤勉さで幅の広い仕事を行っている。なおチェルニー版の『平均律』は、時代に先んじたものではなく、また19世紀の過剰なアーティキュレーション(表情付け)によって味付けされたものであるが、これはベートーヴェンが弾いていたバッハを再現したものと言われており、その意味で価値のあるものである。

それに、チェルニーは廃れゆくポリフォニー(多声)音楽の擁護者でもあった。名人芸への賛美の裏で、ポリフォニー音楽は演奏会で人気がなく、地味で衒学的、時代遅れなものと見なされていたのがこの時代であった。チェルニーは『フーガ演奏教本』Op.400を作曲し、また最晩年には『クラシック・スタイルにおけるピアニスト』(24の全調性による前奏曲とフーガ)を作曲している。

さらにチェルニーは、『完全なる音楽史の概要(Umriss der ganzen Musik-Geschifgt)』を1851年に出版する。これは音楽事典であり、トロイア戦争の時代から1800年に至るまでの音楽年表であった。チェルニーは完全主義者であったから、どんな仕事でも高い完成度を持っていなければ満足しなかった。「あらゆる時代を網羅して著名な音楽家の一覧を挙げ、年齢に従って作品を列挙し、それを年代順に並べた。また国別、時代別に区切って、同時代の歴史的事件を並列し、アルファベット順の人名索引を備えた(p.297)」この音楽史の巻末には1477名の音楽家が索引に挙げられた。

こうした労作を準備しながら、50年代のはじめ頃のチェルニーは非常に多作だったというのが驚きを禁じ得ない。チェルニーは、若い頃、糊口を凌ぐために作らなければならなかったくだらない音楽を上書きするかのように、弦楽四重奏曲や交響曲などの本格的な作品をどんどん生みだし、「死を目前にしてもなお人生の階段をもう一段昇ることを考えていた(p.120)」。

1857年、ある出版人に向けてチェルニーは書いている。「あんなもの(注:チェルニーを有名にした練習曲群)は私の芸術家という職には何のプラスにもならないのです。もし神が私の人生に今少しの猶予をくださるのなら、私はこの何年来とり組んでいる『四重奏、交響曲、教会音楽など』の芸術作品によって、ひとえに出版業の方々に対する好意から犯してきたあやまちを正したいと思っています(p.121)」と。そしてこの手紙を出したたった10日後、チェルニーは10万フロリーンという多額の遺産を残して死んだ。

チェルニーの人生は、良くも悪くも小市民的であった。彼は芸術に殉じて破滅的な人生を歩むタイプではなかった。芸術家として生きる夢がありながら、現実と妥協してより堅実なピアノ教師となり、社会の求めるままに流行の曲のパラフレーズを書きまくった。その仕事は規則正しく、また穏当で優れたものであったが、本当にやりたいことではなかった。彼が本来の自分に目覚めたのは45歳の時で、それはやや遅すぎたのである。

だが、チェルニーは優れたピアノ演奏家を育て、それは次の音楽の主流を作っていった。フランツ・リスト、ハンス・フォン・ビューローなどといった「チェルニーの門下生を数えあげれば、二十世紀にいたるまでピアノ音楽界は彼の流れをくむ人々で占められていたといわざるをえない(p.166)」。その意味では、彼を大音楽家と言って差し支えないと思うのである。そして、最晩年に作曲した『クラシック・スタイルにおけるピアニスト』は、まさにチェルニーがベートーヴェンの弟子であり、対位法を使いこなした優れた作曲家であったことを如実に物語る傑作である。チェルニーの本当の姿は、もっと知られるべき価値がある。

本書は、当時の史料を縦横に駆使しており、またチェルニーの人生を時代的に辿るというよりトピック的に巡っているので、やや難解である。ただ、この本を手に取る人はある程度音楽史や音楽に詳しい(少なくとも楽譜は読める)人だと思う。そういう人にとってはかなりエキサイティングで、滅法面白い本である。

また、本書には上にまとめたこと以外にも興味深い事項(例えば暗譜演奏、即興演奏の扱いについてなど)が盛り込まれている。チェルニーにあまり興味がない人にも音楽ファンに広くお勧めできる本である。

時代に適合しすぎた音楽家チェルニーを描いた力作。

 

2020年12月30日水曜日

『音楽と音楽家』シューマン 著、吉田 秀和 訳

シューマンによる音楽時評。

シューマンは、若い頃に文学の道に進むか迷ったほど文筆にも秀でていた。結局彼は音楽の道に進んだが、1833年のライプツィヒで、仲間たちと音楽の行く末を論じているうちに、「進んで事態を改善し、芸術のポエジーの栄誉をもう一度取り戻そうではないか」と新しい雑誌を創刊することになった。

それが「音楽新報」という雑誌であった。シューマンはいろいろな事情から、やがてこの雑誌の編集長的な立場として筆を振るうことになる。本書は、「音楽新報」が活動していた約10年間の、シューマンが執筆した諸編の抄訳である。

当時、「ロマン派」と呼ばれる新しい音楽が続々と発表されていたが、その音楽の真価は十分に理解されていなかった。シューマンらは、それらに対する時に攻撃的なまでの擁護を雑誌上で行った。

「音楽新報」の言論の価値は、次のようにまとめられる。

  • ベートーヴェン崇拝を確立したこと。
  • シューベルトの世界を再発見したこと。
  • ショパンを天才と認めて多くの作品を取り上げたこと。
  • ベルリオーズを強力に擁護し、ドイツ楽壇に紹介したこと。
  • メンデルスゾーンの新古典主義的な作曲を積極的に評価したこと。
  • J.S.バッハ(特に『平均律』)の価値を最大限に喧伝したこと。
  • ブラームスを歓迎したこと。

これらは全て、現在の音楽史では完全に正統的な評価である。というよりも、シューマンの価値判断が、間違いなく「定評」を作ったのである。

第一級の音楽家であったシューマンが、当時の第一級の音楽家のことを理解できたのは当然として、実はその文章の方もロマン派まっただ中の時代の雰囲気を感じてなかなか面白い。シューマンはジャン・パウルに傾倒していたそうで、ところどころにその言及もある(とはいえ、ジャン・パウルに比べると文章は断然まとまっている(笑))。

また、中期以降は硬派な評論になっていくが、初期の方は架空のキャラ=フロレスタンとオイゼビウス、ラロー先生の語りになっており、音楽評論としてはやや冗長であるが青年の遊び心(なのか、双極性障害のような人格分裂なのか?)が読んでいて楽しい。ただし、このやり方は結局何が言いたいのか煙に巻かれているような部分もある。やはり署名記事の方が価値は高い。

ところで、本書は音楽評論家として著名な吉田秀和の初めての本である。吉田は、この本を訳している時は内務省地方局庶務係に勤務していて、勤務時間中に堂々と本を広げて翻訳をしたらしい。戦争中の昭和16年にそんなフマジメが許されたというのが不思議である。今だったら懲戒解雇ものだろう。

ロマン派の歴史を、音楽作品でだけでなく文筆によっても作ったシューマンの評論。


『殉教と民衆—隠れ念仏考』米村 竜次 著

相良藩(人吉藩)を中心として真宗禁制の実態を描く本。

相良藩では、薩摩藩と同じく江戸時代に真宗(一向宗)が禁止されていた。しかしその実態は、史料がほとんど残っていないため謎に包まれている。本書は、相良藩を中心として近世南九州における真宗禁制を、いくつかのトピックをキーにして読み解くものである。

第1のトピックは、貞享4年(1687)、相良藩で14人もの集団入水自殺が行われたもの。その身分は種々雑多であり、その集団を結びつけていたものが何かがわからず、しかも彼らは自殺の理由について何の手がかりも残さなかった。しかしそれは、幕府が切支丹禁制の弾圧を布達した直後のことであり、著者は14人を隠れ切支丹か、隠れ念仏の徒であったかもしれないと推測している。

第2は、隠れ念仏の「毛坊主」や講を組織した人びとについての考察である。毛坊主とは、俗人の僧侶(のような働きをした者)である。彼らは普段は農業などに従事するが、裏の世界では隠れ信徒を束ねる指導者の役割を果たした。本書では「伝助」や「高沢徳右衛門」という毛坊主の動向をかなり詳しく追っている。伝助は、累代にわたって襲名された毛坊主の名前であり、5代連続で殉教した。高沢徳右衛門は、藩の家老までも隠れ念仏の信徒に引き込むという大胆な組織者だった。(高沢に関して、「ナバ山騒動」という農民一揆の事が語られている。これは隠れ念仏との直接の関連はないが面白い一節である。」)

第3は、転びもの、つまり転向者について。隠れ念仏の信徒であることが露見すれば、厳しい拷問が行われた。当然、転向するものも出てくる。そして彼らは取り締まり組織の一員(一向宗訴人)となり、今度は摘発側に回らざるをえないのである。それが転向の証明となった。

ところで、鹿児島県出水地方の隠れ念仏の信徒は、夜中に肥後水俣の源光寺へやってきて念仏を行った。このような基盤があった出水では、一気に1700人もの人が隠れ念仏の信徒であると申し出てきたことがある(=元文5年頃)ほど真宗が盛んだった。この出水地方に、まさに隠れ念仏の取り締まりをしていた税所家の文書が残っていて、隠れ念仏研究には必須の史料である。著者はこれを頼りにして、弾圧と転向のリアルを探っている。

藩では、通常は隠れ念仏を泳がせていたと著者は見る。その動向を把握して、いつでも摘発ができるようにしておいたのだ。そして飢饉など藩の財政状況が厳しくなってきたとき、一気に弾圧を加え、厳しい拷問によって組織を潰滅させた。それは、真宗の信仰には上納金を必要とするため、藩財政を圧迫するものとみて問題視したのだという。

第4は、三業惑乱について。隠れ念仏の講の内部では、教義上の解釈と信仰のあり方に関して紛争が絶えなかったという。系統的な指導がなかったのだから当然である。幕末、真宗本願寺派(西本願寺)の本山でも、三業惑乱という教義上の争いがあった。

三業惑乱の詳細は本書に詳しいが、隠れ念仏との直接の関係はない。ただ、この争いで異端とされた願生帰命主義派(欲生派)は、地下に潜伏して隠れ念仏への布教に活路を見いだすのである。その一人が追放判決を受けて熊本・鹿児島に逃げてきた大魯(岡大道)という人物。彼は天草、甑島、永吉(吹上)を回って、「細布講」や「煙草講」という講を組織した。

彼は自身の教えこそが正しいと民衆に教え、その当てつけのように厖大な上納懇志を本山に毎年送りつけた。大魯によって鹿児島西部一帯は念仏の興隆を見せたが、同時に三業惑乱の抗争が隠れ念仏にも持ち込まれた。なお大魯が身を隠していた洞穴が永吉に残っており、大魯の墓は光専寺にあるという。

第5に、隠れ念仏の民俗学的な視点からの考察である。この部分は事例の列挙的である。特に隠し部屋の造作などは興味を惹かれる。本書の著者は真宗の住職であるが、本山には批判的であるものの、かといって隠れ念仏を称揚するでもなく、フラットな視点で隠れ念仏を語る。隠れ念仏は、隠す必要があるために呪術化していった。それは、本来の真宗から離れていくことでもあった。そして、そのように土着化したからこそ隠れ念仏が盛行したのかもしれない。「隠すこと、擬装することが嗜好的と言ってもいいほどに逆に信徒をむしばんでしまうこともあるのである。祈祷を許さない真宗の教典のゆえに、逆に秘事化、呪文化することによって有難みと娯しみを見出す(p.275)」のだった。

構成がスッキリしていないため全体的にはわかりにくいが、ちゃんと現地に取材してまとめられた隠れ念仏考察の本。


2020年12月22日火曜日

『倭寇―海の歴史』田中 健夫 著

倭寇を軸に、14〜16世紀の東シナ海の歴史を描く。

倭寇と一口に言っても、時代も場所も様々であり、日本人も朝鮮人も中国人もおり、その目的も略奪から交易まで多様だった。そもそも、大陸では秀吉の朝鮮出兵も「倭寇」と見なされており、「倭寇」はカッチリとした歴史概念ではない。

広義に考えれば倭寇は日本と大陸の関係が生じてから20世紀に至るまで存在していたのであるが、本書では狭義の倭寇を叙述の対象とし、その活動が最も激しかった「14〜15世紀の倭寇」・「16世紀の倭寇」にフォーカスして述べる。

なおこの二つは、時代が違うだけでなく、その性質が全く異なるものであるため区分されている。人によっては「前期倭寇」「後期倭寇」と呼ぶこともあるが、この用語では連続したものの前期と後期に区分しているというイメージとなるということで本書では採用されていない。

14〜15世紀の倭寇

【高麗における倭寇】 高麗は、元の侵攻によって存亡の危機を迎え、空前の混乱状態となって警察・軍備もグダグダになった。すなわち、沿岸警備が疎かになり、この空隙を塗って倭寇の活動が急激に活発化したのである。1350年から高麗王朝が倒壊した1392年までの約40年間、倭寇は朝鮮半島を荒らし回った。

この頃の朝鮮半島の倭寇は、略奪行為が中心だった。倭寇は船数数百、兵数数千というような大軍で押し寄せ、騎馬隊までも引き連れていた。彼らは糧食を奪い、また人も掠って奴隷として売っていた。

もちろん、こうした不法行為に対して、朝鮮側は日本に対して抗議を行った。高麗時代はその効果は限定的であったが、李氏朝鮮が成立すると太祖李成桂は室町幕府に倭寇の禁止を要求する。足利義満はこれを受けて賊船を禁止し、また被虜人を送還して朝鮮との友好的な関係を樹立した。

さらに、李氏朝鮮は、それでも活動する倭寇には懐柔策を以て当たった。投降すれば土地や家財を与え、妻を娶らせ、また貿易の権利を与えて優遇するというものだった。倭寇(対馬、壱岐、松浦地方の人が多かった)はこれに続々と従った。こうして降伏した日本人は「投化倭人」などと呼ばれ、やがて朝鮮政府の中枢にまで入り活躍していく。

また、朝鮮は倭寇への懐柔策として日本の諸豪族に通商の許可を与えた。こうして朝鮮との貿易が活発化。ただしあまりに多くの豪族(の使節)が朝鮮に渡航してその接待が負担になったため後に貿易は制限する方向となった。ともかく、李氏朝鮮政府は、日本とちゃんとした外交関係を樹立し、倭寇として活動していたものを「投化倭人」や貿易商人へ変質させることで倭寇の猛威を収束させた。

【中国における倭寇】元と日本とは正式な国交はなかったものの、両国間で貿易は盛んに行われた。特に寺社の造営費用をまかなうために大寺院が貿易船を派遣した。また禅僧の往来も多かった。この時代、貿易を目的に渡航して、思うような成果が出ない場合に略奪を働いた場合が多かったらしいが、元代の史料はあまり残っていないので実態はよくわからない。

明代には、倭寇の活動はかなり激しくなる。その内容は、高麗の場合とほぼ同様であった(時代的にも同じ)。明の太祖洪武帝は、国際秩序の確立のためにも倭寇の問題を解決しなければならなかった。洪武帝は懐良親王に使節を送り、懐良親王を日本国王と認めて国交を開こうとしたが、懐良親王は今川了俊らに抑圧されその任を果たすことはなかった。

一方、この時期、明では洪武帝による功臣の粛清に関してもめ事があり、その余波によって日本との通交は断絶、また中国人民が海上に出ることを禁じた「海禁政策」を強行した。これにより諸外国との明との通交は朝貢一本に絞られることとなった。

足利義満は、征夷大将軍を譲り、剃髪して、国政の官職から離れてから、洪武帝没後の応永8年(1401)、明に使節を送り通商を求めた。彼は律令体制外にある一種の「自由人」として、日本国王として振る舞えた。明では義満を日本国王と認めて巨大な金印を送り、日本を中国中心の国際秩序(華夷秩序)に位置づけ倭寇の鎮圧を命じた。これに応じて義満は倭寇の取り締まりを行い、そのために倭寇の活動は下火となっていった。

義満死後、日明間の通交が断絶していた時期には、倭寇の船団が明の防衛によって全滅に近い被害を受けた「望海堝の戦い」があり、また朝鮮が倭寇の本拠地と見なした対馬を征伐する「応永の外寇」が起こった。幕府の取り締まりや、これらの戦いで15世紀には倭寇の活動は終わりを告げた。

それを埋め合わせるように、東シナ海では貿易が活発になっていく。明が海禁政策をとったことで、琉球が東南アジアとの中継貿易のハブとして栄えることとなった。また、幕府やその傘下の豪族(特に大内氏と細川氏)、堺の商人たちが綯い交ぜになって行われたのが明への朝貢の形をとった日明貿易である。応永8年(1401)[前出]から天文16年(1547)に至る約150年間に19回、遣明船が派遣された。

明の海禁政策は、中国の国民が海上に出ることを禁じた政策だが、多国間の貿易が盛んになる中で国家がこのような規制を行うことは無理があった。そのため、役人に賄賂を送って行う密貿易が盛んになっていき、15〜16世紀になると密貿易の方が主流になってしまった。

また、遣明船が入港していた寧波では、大内氏と細川氏の争いから「寧波の乱」が起こった。この結果遣明船は大内氏が独占したものの、大内氏の没落とともに遣明船は終止符を打つ。

一方、この時期にポルトガル商人たちが東シナ海を頻繁に訪れるようになった。明ではポルトガル商人たちを倭寇と同然に見なしたが、沿岸の住民たちは彼らと交易を望み、密貿易が行われるようになった。その中心が雙嶼(そうしょ:リャンポー)である。これは寧波の東方に浮かぶ島で、許棟(きょとう)の兄弟が仕切って一大貿易拠点となった。その傘下で活躍したのが有名な王直である。

しかし、嘉靖27年(1548)、雙嶼は大摘発によって潰滅させられた。許棟は捉えられ、王直は逃亡、賊徒は多数殺され、船は焼き払われた。これを主導したのが朱紈(しゅがん)という剛直な官僚であった。だが朱紈のこの強引なやり方は批判され、後に彼は自害し、その後海禁は緩むこととなった。

16世紀の倭寇

王直は以前から日本人と関係を持ち貿易を行っていたので、逃亡後、私貿易が出来る場所として五島、追って平戸を拠点とした。平戸での彼は二千人の部下を擁し、豪奢な屋敷に住んで王者さながらの生活を送った。彼は学問に明るく、とかく争いが起こりがちな密貿易における調停者としての資質にも優れていた。まさに王直は倭寇国の王であった。

また王直は、中国大陸においても舟山群島の瀝港(れきこう)を半ば黙認された形の密貿易拠点とすることに成功した。しかしやがて瀝港も明政府によって掃討され、潰滅してしまった。こうした摘発・攻撃を受けたことは、密貿易団の性格を変えていった。雙嶼時代は、不法行為ではあったが平穏に貿易が行われていたのであるが、雙嶼潰滅後の密貿易団は武装するようになり、海賊化していく。嘉靖32年(1553)、王直は倭寇の大船団を引き連れて中国沿岸を襲った。こうした劫掠は「嘉靖大倭寇」と呼ばれ嘉靖35年頃まで続いた。

なお、王直と同類の海賊の首領に、徐海、陳東、葉明がいた。このうち、徐海は日本では明山和尚と呼ばれて尊敬された人物で、大隅に縁があったようだ。陳東は、伝説では薩摩の領主の弟というが、その真偽はともかく薩摩人を多く部下に持っていた。嘉靖大倭寇は、現地住民や日本人、ポルトガル人などと協力しながら展開した反政府的な寇掠であった。なお「倭寇」といっても、この頃の倭寇の主体は中国人で日本人はそれほど多くなかった模様である。

一方、明では倭寇対策が重要な政策課題となった。しかし海防の責任者(総督)は次々に更迭され、指揮命令系統は混乱していた。そのために倭寇の活動が可能となったのである。嘉靖35年、そんな中で総督になったのが浙江巡撫 胡宗建である。彼は日本に使者(蒋洲、陳可願)を派遣し、王直に「もし帰国するなら、海禁を緩めて貿易を許可し、罪は問わない」と利を以て誘った。王直はこれを信じ帰国したが、王直の罪を許すべきでないという廷義によって、嘉靖38年(1559)斬首された。胡宗建は、結果的には王直を騙し討ちにしたことになる。

こうして王直が討伐されたことは、他の倭寇集団を弱めることになり、徐海の一党も潰滅。倭寇はその後もなくなったわけではないものの、かつてほどの勢いはなくなった。

そして明の隆慶元年(1567)、200年にわたった海禁令が解除され、中国人の海外渡航や貿易が許可されることとなった(ただし日本への渡航は引き続き禁止された)。こうして倭寇出現の根本原因が取り除かれたため、16世紀末には倭寇の活動はほぼ終熄した。

倭寇の大きな出現原因は、日中間の貿易が自由化されていなかったにも関わらず、互いに貿易の必要性は大きかったことであった。例えば、ちょうど日本は戦国時代で、鉄砲の火薬のために硝石を大量に必要としたが、日本では硝石が産出せず、中国から輸入するしかなかった。そのため非合法ルートの貿易が必要になるのである。その一つが倭寇だったように思われる(本書でははっきりそう書いてはいない)。

もちろん、生糸、水銀、古銭(日本には自国の鋳銭がなかった)、薬材なども日本の需要は大きかった。また『論語』『大学』『中庸』といった古書(古典)も重要な輸入品であった。

それに関して、ちょっと面白いのは、日本は朝鮮からたびたび「大蔵経」を輸入しているということである。高麗では元の侵略を避ける願を掛け、国家の総力を挙げて「高麗版大蔵経」六千数百巻を彫造していた。日本はこれを盛んに求め、康応元年(1389)から天文8年(1539)までの150年間に83回も「大蔵経」を求め、43部が渡来している。足利義持などは版木までも要求した(当然断られた)。なぜ日本は「大蔵経」をこぞって求めたのか興味が湧いた。

ところで、倭寇は中国人の間に日本人の凶暴な印象を与えたが、一方では、倭寇の時代を経たことで、中国の日本に対する認識が一新されたという副産物があった。それまでの中国には『魏志倭人伝』くらいしかまとまった日本の情報がなく、日本へも無関心であった。だがこの時代、中国は倭寇対策のために日本研究が盛んに行われ、日本に関する正確で具体的な情報がまとめられた。その主なものは次の通りである。

『日本国略考』(1523):定海薜俊(せつしゅん)による明代日本研究書の先駆。所収の日本地理図は中国における最古の日本地図。
『日本図纂』『籌海図編』(1561、1562):鄭若曾が蒋洲・陳可願に聞き取りし、また様々な取材と情報収集を経てまとめたもの。倭寇研究のバイブルとなり後の多くの日本研究の書物が『籌海図編』の記述を踏襲した。
『日本一鑑』(1565):豊後大友義鎮の下に滞在した鄭舜功の書。戦国時代の日本を知るうえでも優れた史料。日本人の美点を多く認め、中国人の日本人観を一変させた。
『日本風土記』(1592):侯継高『全浙兵制考』の付録。倭寇対策よりも、日本の事物を知ることを楽しんだ様子の書。

倭寇は、いろんな意味で中国・朝鮮と日本の間にあった存在だった。日中・日朝の関係が確立し、穏やかな交流が行われていれば存在し得なかった。いくら利が大きかったにしても、討伐されてしまえば意味はない。そこに彼らが存在する隙間があったからこそ、活動できた。軍事・防衛の隙間、交易の規制の隙間があったということだ。ということは、彼らを理解するためには、中国・朝鮮と日本の外交関係、そしてそれぞれの国の内政を理解しなくてはならない。その編み目がほころんだ部分に、倭寇の生きるフィールドがあった。だが、私にはその基本となる前提知識がないので、本書をしっかり理解できたのか心許ない。

明や李氏朝鮮の歴史、室町幕府の外交政策などを勉強してから、改めて本書を読んでみるとかなり理解が進むのではないかと思った。

倭寇の動きを追うことで、東シナ海の激動の歴史を垣間見られるエキサイティングな本。

【関連書籍の読書メモ】
『海洋国家薩摩』徳永 和喜 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/04/blog-post.html

鎖国体制の中でも薩摩が東アジア世界と繋がっていたことを述べる。倭寇が活躍した時代、薩摩ではまた別の形の密貿易が行われていた。

 

2020年12月10日木曜日

『王法と仏法—中世史の構図』黒田 俊雄 著

仏教をキーにして中世社会を考察する論文集。

黒田俊雄は、「顕密体制論」によって中世(鎌倉・室町時代)の仏教の見方を一変させた。約50年前の話である。

鎌倉時代といえば、親鸞や一遍、日蓮や栄西といった「鎌倉仏教」の時代であると誰もが思っていた。ところが同時代資料を繙いてみれば、「鎌倉仏教」はあまり社会的影響力を持っていなかった。むしろ、天台宗と真言宗、そして荒廃していたとはいえ南都諸宗といった旧仏教=「顕密仏教」が国家と癒着して強大な権力を持ち、政治権力とは異なる原理の権門として機能していたことが明らかになった。これが「顕密体制論」の乱暴な要約である。本書は、この考えから書かれた論文をまとめたものであり、黒田史学のエッセンスに触れることができる本である。

以下、気になった論文についてメモする。

「王法と仏法」:中世より前の、平安時代の仏教は「鎮護国家」のための国家の下部機関的な意味合いが強い。ところが中世になると、仏教は独自の立場を築き、「王法と仏法は車の両輪である」というような「王法仏法相依論」が仏教側から盛んに言われるようになった。確かに顕密仏教は国家と癒着はしていたが、王法と仏法を同列に並べられるようになったところに、中世の仏教が獲得した力が象徴的に現れている。

 「日本宗教史上の「神道」」:近世以前には自立した宗教としての「神道」は存在しなかったことの論証。『日本書紀』にも既に「神道」の語は見えるが、それは「道教」を意味していたのではないかという指摘が面白い。その他、著者は時代毎の「神道」という語の用例を検討して、近世以前の「神道」は独立した宗教を意味していなかったことを示している。「神道」が仏教と対置される「日本の民族的宗教の名称」の意味が確立したのは、林羅山その他による「儒家神道」以降だという。

「「院政期」の表象」:院政期をどう見るか。院政期は、古い秩序が崩壊して新しい秩序へと移行するまでの混乱期であったのか、それともそれ自体が清新なエネルギーに満ちた躍動の時代であったのか。著者はいくつかの立場を比較検討して、公家・武家・大寺院などの権門が並立して一つの秩序をつくっていた多彩な時代であると結論づけている。政治権力の在り方があまりにもややこしく、これまで避けていた院政期について興味を持った。

「歴史への悪党の登場」:14世紀は「悪党の世紀」であった。悪党は既存の社会秩序からはみ出し、反権威的で、自由であるが地に根を下ろしたふてぶてしさがあった。著者は悪党を社会変動の申し子と見て、「悪党のやったことは(中略)いちがいに称讃できるようなものではない」としながらも、その存在を最大限に評価する。それは、古代以来の諸権威に抑圧されていた人びとの精神を解放する触媒となったのである。「悪党は、正義や愛や清潔や真理を掲げたのではなくむしろそれにどんでん返しをくらわせ」た。時代も場所も違うが、フランスのフランソワ・ヴィヨンが思い起こされる。

「中世における武勇と安穏」:中世は長く続く合戦の時代であったが、だからこそ人びとは平穏な暮らしを希求した。「安穏こそがこの世における至高・無上・究極の価値」だった。古代仏教が「欣求浄土」であるならば、中世仏教は「現世安穏、後生善処」に帰結する。生き残るために武勇を必要とすることは宿業と感ぜられ、武士たちが仏教を熱烈に必要とした。しかし農民を中心とする大多数の人びとは、平穏な暮らしを築こうとする活発な動きがみなぎっていたのであり、一揆もそういう視点から捉え直すことが必要である。

本書には、これら雑駁な論文が収められており、「黒田史学」のエッセンスとはいえ(というかエッセンスだからこそ)全体像が若干見えにくい。しかし、平雅行による巻末の解説「黒田俊雄氏と顕密体制論」が非常に明快で、参考になった。黒田史学を「武士中心史観からの脱却」と位置づけ、歴史学への貢献や今に残された課題をまとめて、さらに本書所収の論文について簡潔に紹介している。

やや専門的だが、今なお日本中世の社会の見方を再考させる力を持った論文集。

【関連書籍の読書メモ】
『寺社勢力—もう一つの中世社会』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/blog-post_13.html

中世における寺社勢力の勃興と衰退を述べる。中世の申し子とも言える寺社勢力を通じて当時の社会の内実を考えさせる良書。

 

2020年12月7日月曜日

『魔群の通過—天狗党叙事詩』山田 風太郎 著

水戸の天狗党の長征とその悲劇を描く小説。

天狗党とは、水戸藩の尊皇攘夷派のことである。よく知られているとおり、幕末、水戸藩には「水戸学」と呼ばれる国粋主義的な歴史学・政治哲学が生まれた。水戸学は、国学と合流し、尊王攘夷・倒幕運動の原動力になっていく。

徳川斉昭の擁立にも成功した天狗党は水戸藩政を一度は牛耳るが、安政の大獄によって弾圧され、佐幕の保守派(諸生党)の方が藩政の主導権を握るようになる。こうして藩政から遠ざけられた天狗党は、藩の首脳部はもちろん、攘夷を約束しながらいっこうにそれを実施しない政府にも不満を抱き、その一部が一種の示威行動として挙兵する。

ところが、この無謀な、というよりも本来は単なるデモンストレーションだった行動が、不思議な運命の悪戯によって、同調するつもりがなかった他の天狗党の面々をも巻き込んで一大内戦へと発展していく。幕末明治にかけて、時の政府に対抗して起こされた戦争は数多いが、純然たる藩内の内戦と呼べるものはこの「天狗党の乱」が唯一である。

しかも、この内戦は日本の歴史を通じて稀に見るほどの殲滅戦であった。水戸藩は、天狗党、諸生党の両派が親類縁者まで互いに殺し尽くして人材が払底した。明治政府の成立に果たした水戸藩の役割は決して小さくなかったにもかかわらず、結局政府に高官を輩出することがなかったのはこのためである。水戸藩の自滅を招いた戦い、それが「天狗党の乱」であった。

本書は、この内戦のうち、追い詰められた天狗党が、天皇と将軍徳川慶喜(水戸藩主徳川慶篤の弟にあたる)へ申し開きを行うため京都へ行軍したことを題材とした小説である。

天狗党約千人は、無用な戦を避けるために大変な難路を進んだ。例えば、真冬にもかかわらず軽装で登山して峠を越え、食料補給はその場しのぎだった。この行軍は甘い見込しかもたず、全く無計画的であったが、超人的な努力と、多くの人命を犠牲にして行われる。天皇と将軍は、きっと天狗党の衷心を理解してくれるだろう、という希望的観測だけを頼りにして。

この無謀な行軍には、諸生党の首魁級の係累である二人の美しい女性が、人質として同行させられていた。本書の小説的な中心は、この女性二人をめぐって若い主人公たちが揺れ動く模様であり、これはおそらく創作であるが非常に面白く読んだ。

ところで、天狗党の乱を書こうと思えば、どうしても水戸学や尊王攘夷運動ということを説明せずにはおれないはずなのに、実は本書にはそういうくだくだしい説明は一切ない。そういう背景は、何となく既知のものであるかのように端折って、すぐさま本題に入っていくその手法が、小説として大変うまくできている。

いや、実際のところ、天狗党にしろ諸生党にしろ、その元は思想闘争だったかもしれないが、挙兵直後から尊王とか攘夷といったことはどこかへ吹っ飛んでしまったようなのだ。例えば、戦後処理では、勝者である諸生党は天狗党を一気に352人も(!)死刑にする。その上、妻子までも斬首や永牢という重刑を加える。これなどは、戦国時代はいざ知らず、近世社会においては例を見ない凄まじいものである。これが「思想」闘争の結果と言えるか。

さらに、倒幕が進んで佐幕派の諸生党が没落し、天狗党の残党が息を吹き返すと、今度は彼らが諸生党の大粛清に乗り出す。その中心となったのが武田金次郎(天狗党の首謀者の一人武田耕雲斎の孫)であるが、彼は天狗党の乱で親類縁者が斬殺された復讐のため、修羅の道に入ってしまった人物だ。本書は、なぜ武田金次郎は修羅にならなければならなかったのか、を説明したものといえるかもしれない。そしてそれは、尊王攘夷のような思想には関係がなかった。

思想ではなく、血の応酬が本質だったのだ。

血の応酬であるがために、諸生党と天狗党は、お互いを滅ぼし尽くさずにはおれなかった。彼らのように、佐幕開国と尊王攘夷が藩論を二分した藩は多いが、その対立が内戦まで行き着いたのは水戸藩だけであり、その厖大なエネルギーの無駄遣いによって自滅した藩も水戸藩以外にない。

ところが本書の筋立てでは、この、傍から見ると狂っているようにしか見えない水戸藩が、実際には少数の過激派を除いてそれなりに穏当な道を選ぼうとしているのだ。しかし結果的には、水戸藩は破滅への道をひた走っていた。水戸藩が内戦まで行き着いた原因は、水戸の風土や思想、気質ではなく、混乱の時代の巡り合わせに過ぎなかった、と作者は考えているようだ。それが当を得たものなのか、私には判断できない。しかし、その内実、戦乱に参加したものの心理の描き方は非常にリアルに感じた。

「天狗党の乱」を通じ、対立がエスカレートして自滅まで至る人びとの愚かさを描いた傑作。

【関連書籍の読書メモ】
『フランス・ルネサンスの人々』渡辺 一夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/06/blog-post.html
フランスでルネサンス期に生きた12人の小伝。争いや失敗を避けることは十分可能なのに、破滅へと猛スピードで進んでしまう危険性に目を向けさせる本。※天狗党の乱とはもちろん無関係。