2018年6月28日木曜日

『重野安繹と久米邦武—「正史」を夢みた歴史家』松沢 裕作 著

近代日本における最初の歴史家ともいうべき重野安繹(やすつぐ)と久米邦武の小伝。

重野安繹と久米邦武というと、明治政府が行った修史事業の中心的メンバーであったにも関わらず言論弾圧によって政府を去り、修史事業も頓挫したことで有名だ。しかしこの二人がどういった人物だったのかはよく知らなかった。特に重野については薩摩藩出身の人物であるのにこれまでなんとなく人物像は知らないで済ませてきた。そこで手に取ったのが本書である。

重野が歴史に登場するのは薩英戦争においてである。重野は漢学を修めた昌平黌(江戸幕府の最高学府)での人脈や学殖を買われ、薩英戦争の戦後処理の首席交渉官のような立場に抜擢される。その後、家庭の事情などから自ら政治の表舞台から去り、島津久光の命により「皇朝世鑑」という歴史書の編纂に携わった。明治維新後には政府に出仕し、明治8年には太政官正院修史局副長となって歴史家としての本格的な活動をスタートさせた。

一方、重野より一回り下の久米邦武は、佐賀藩において学者として活躍していたが、その名が知られるようになったのは明治維新後、岩倉使節団に随行してその記録『特命全権大使米欧回覧実記』を書き上げたことによる。彼は経済的なことにもかなり関心があったようで、文明比較論的な視座とともに当時はあまり顧みられなかった統計情報についても気配りしている。

この2人はその学識が認められ、長松幹(つかさ)、川田剛、小河一敏(おごう・かずとし)、などとともに明治政府の修史事業に携わることとなった。この事業は拡大や縮小を経て二転三転しながら進められたが、最終的には明治10年に「修史館」となり、重野と対立していた川田を追放して重野が主導権を得、ついに重野は「大日本編年史」の執筆に着手する。そしてその右腕になったのが久米であった。

この事業は、国家権力によって正史を編む、というものだった。よって、史料の収集も権力を背景に半ば強制的に行い、各地から大量の一次資料が収集された。これは強権的な側面もあったが、一次資料に基づく歴史の記述という日本の実証的歴史研究の出発点にもなり、この資料群は後に東京大学史料編纂所に引き継がれている。なお修史事業は明治21年に帝国大学に移管され、明治24年には史誌編纂掛となる。

重野は当初、漢学者として漢文による伝統的な史書を執筆することを考えていたようだ。ところが、実際に集められた史料を付き合わせてみると、従来『太平記』などで流布し歴史だと思われていたことが必ずしも事実ではないらしいという部分が目についてきた。重野は伝統的な史書の構成を批判してむしろ西洋の歴史学に範を取り、厳密な考証による歴史記述を志向していく。

そして明治20年台前半には、『太平記』の記述が事実ではないこと、特に楠木正成の忠臣児島高徳(たかのり)が実在の人物ではないことを主張してこれが問題となり、やがて重野は新聞などで「抹殺博士」なるあだ名で呼ばれることになる。国民道徳の重要な材料であった楠木正成の歴史が事実でないと主張することは、不道徳なことだとみなされたのである。

一方、久米は元来挑発的な論文を発表するきらいがあったが、そんな中、明治24年の「神道は祭天の古俗」という論文が大問題となった。この論文で久米は、神道は古代人類に普遍的に見られる原始的祭祀の一種であるとした。これは現代から見ると当然のことであるし、当時としても発表当初は学術誌に掲載されたこともあり問題視されなかった。

しかし田口卯吉というジャーナリストによって『史海』という一般誌に挑発的に紹介されたことで久米のもとには脅迫的な反論が届くようになる。久米は論文を撤回したが騒ぎはそれで収まらず、内務省はこの論文が発表された『史学会雑誌』と『史海』を発禁処分とした。さらに久米は辞表を提出して帝国大学文科大学教授と史誌編纂委員を依願免職した。これが有名な「久米邦武筆禍事件」(本書では「久米事件」と表記)である。

この事件には東京大学総長加藤弘之も積極的には擁護せず、それどころか重野ですら沈黙を守った。この時点で、修史事業は危殆に瀕していたといえよう。そして明治26年、井上毅は修史事業を抜本的に改革する案を閣議に提出。修史事業は肝心の歴史書はいつまでも出来あがらず、編纂委員は考証ばかりに力を注いでいる、と批判し、事実上歴史書の編纂を諦めるものであった。

こうして重野と久米は修史事業から去った。重野はそれでも引き続き一人の歴史学者として活動し続けた。重野は依然として漢学の大家であり、初代史学会長として歴史学会の重鎮であった。晩年には81歳という高齢でヨーロッパへの視察旅行にも旅だった。そして死の直前まで『国史綜覧』という編年体史書の編纂を続け、「大日本編年史」の夢を追い続けていた。

久米もまた旺盛な執筆活動を続けた。立教大学や東京専門学校(→早稲田大学)で教鞭を執り、『日本史学』『日本古代史』『南北朝時代史』などを出版した。だが久米の歴史記述は後世の史学からみると考証が甘く、やがて柳田国男らから批判された。

ちなみに頓挫した修史事業は、収集した史料の編纂と刊行のみが続けられた。今も東京大学で続けられている『大日本史料』『大日本古文書』である。しかし収集した史料はいかなる名目でも一切外部に漏洩してはならず、個人の論説の発表は制限された。「久米邦武筆禍事件」の再来を恐れていたのだ。重野や久米がいささか無頓着に学問の自由を謳歌したのとは違い、やがて国家が学問をも手中に収める時代がやってくるのである。

近代日本にとって「歴史観」が問題となった最初のケースについて生き生きと知れる良書。

【関連書籍】
『嵐のなかの百年—学問弾圧小史』向坂 逸郎 編著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/06/blog-post_23.html
明治から昭和初期にかけての学問・言論への弾圧についての論考集。
いかにして言論の自由が失われていったか克明に知らされる良書。

2018年6月23日土曜日

『嵐のなかの百年—学問弾圧小史』向坂 逸郎 編著

明治から昭和初期にかけての学問・言論への弾圧についての論考集。

本書には「学問弾圧小史」の副題がつくが、大久保利謙氏執筆の「洋学の迫害」「ゆがめられた歴史」がそれにあたるもので、その他の論考については学問そのものへの弾圧というよりも言論弾圧に関する内容が多く、社会主義思想家であった向坂逸郎が編者であるからか特に社会主義思想への弾圧について詳しい。

私自身の興味は、「ゆがめられた歴史」に述べられている、重野安繹、久米邦武、喜田貞吉、津田左右吉のケースについて知りたくて本書を手に取った。

これらのケースのみならず社会主義思想への弾圧についても言えることだが、全体として弾圧された学問・言論は、特に過激なものではなかった。それどころか当時の学問水準から見ても至極妥当・穏当な見解のものが多く、 実際に著作物の発表直後は何ら問題視されなかった場合も多いのである(例:津田左右吉の『古事記及日本書記の研究』)。

ところが、そういう書物がひとたび右翼主義者の注目するところとなるや盛んに攻撃が加えられ、「国体を毀損する」「国体の明徴に疑義を生ぜしめる」などといって学説が極めて危険で、「国体」を否定するものであるかのように喧伝し、やがて当局もこれを問題視したことで発禁処分、そして大学からの追放といった厳重な弾圧が加えられていった。

しかし「国体」というあやふやで、どうとでも使える概念を使い、学説を理解することもなくその片言隻句を捉えて批判のための批判を繰り広げたことは、結局は国民の自由を自ら狭めていくことになった。「国体」は神聖不可侵のものとなり、国家の根幹に思考停止せざるを得ない領域ができてしまったことで我が国の思想は著しく退歩し、ファシズム国家へと変容する原因となった。

本書は、学問・言論への弾圧の歴史をまとめたものというより、弾圧の個別のケースについての小論といった性格が強く、全体的な弾圧史の見通しはよくない。具体的には、時系列的に何があったということが書いていない場合が多く、弾圧の事実については既知のものとして論評が中心になっている小論もある。

ただし、昭和の言論弾圧の歴史について書いた本は多いが明治・大正の学問の弾圧についてまとめた本はあまり多くなく、この部分だけでも本書の価値は大きいと言えよう。また、美濃部達吉の「天皇機関説」については息子の美濃部亮吉がまとめており、津田左右吉の研究については本人を訪ねて取材しているなど、関係者に直接取材しまとめているので、そういう点でも本書には価値がある。

いかにして言論の自由が失われていったか克明に知らされる良書。

【関連書籍】
『続・発禁本』城 市郎 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/11/blog-post_24.html
明治以来の様々な「発禁本」を紹介。
発禁本から権力と言論の対峙を考えさせる奥深い本。


2018年6月18日月曜日

『日本仏教史入門』田村 芳朗 著

日本仏教史を日本文化論と絡めて概説した本。

日本仏教史としての本書の特色は、第1に教学史にあまり深く立ち入っていないことである。例えば、南都六宗の説明は簡略だし、曹洞宗と臨済宗の違いはほとんど語られていない。

第2に、その代わり社会状況や文芸、民間信仰など仏教の周辺についてはやや詳しく述べられており、完結した仏教史ではなく、歴史の中の仏教の動きについて理解を深められる。

そして第3に、日本にとって仏教は外来思想として受容されたものであるから、それをどう消化し、日本流なものとして再創造したか、という観点で仏教史が記述されているということだ。よって、本書には一種の日本文化論の側面がある。

通読した感想としては、まず仏教史としては非常に読みやすいと感じた。煩瑣な教学史を大胆に捨象しているので退屈な部分がなく、時代毎の仏教の趨勢を理解するのによい。また仏教の周辺についての記載は、近現代の新興宗教についてなどは少し詳しすぎる感じもしたが、全体的に見れば要を得ており、気づかされる点も多かった。

一方、本書には著者なりの仏教各宗派・各思潮への評価が割と出ているところがあり、それについては疑問を抱く点もあった。例えば、著者は天台本覚思想を日本仏教の一つの到達点として「これは仏教思想史上のみならず世界哲学史上における究極・最高の哲理であるといえよう」と称揚するのであるが、なぜそのように評価できるのか、その理由は全く書かれていない。

というのは、元来の仏教において悟りというものは理知的に到達するもののはずなのに、本覚思想ではあるがままの姿が肯定され、後には「山川草木悉有仏性」などといって自然物すらもそのままで仏となりうるという極論まで生んだ。確かに仏教の日本化の行き着くところであり、一つの到達点であるとは思うが、それを究極・最高の哲理とまで言えるかどうか。例えば、この思想でどれだけの人が救われたというのか、社会にどれだけよい影響を及ぼしたというのか。宗教である以上、そうした観点から評価を受けてしかるべきであるが、本書にそうした観点はなくやや一方的な記述となっておりあまり説得的ではなかった。

また、著者が非常に重視している日蓮宗・日蓮主義については詳しい一方、浄土教系については記述が薄いのも気になった点である。信徒数だけでいえば、現代日本では浄土真宗が最も多いと思うので、浄土教系の動きはもう少し詳述してもよかったと思う。

全体的に「入門」ということで、かなり略述している部分があるので物足りない点もあるものの、巻末の日本仏教史年表はそれを補う力作で非常に参考になる。年表だから記載は簡潔だが内容は豊富で、仏教史上の主要な著作も網羅されており、この年表だけでも本書の価値があると思う。

簡略すぎるきらいはあるが、その分とても読みやすく特に巻末の年表が素晴らしい本。


2018年6月6日水曜日

『フランス・ルネサンスの人々』渡辺 一夫 著

フランスでルネサンス期に生きた12人の小伝。

普通、ルネサンスというとまずはイタリアで活躍したダ・ヴィンチやダンテといった人々を思い起こすし、そうでないにしてもチョーサーやモンテーニュのように文芸復興運動の担い手を想起するのであるが、本書の中心となるのは、そうした華々しい文化活動ではなく、暗澹たる宗教戦争を引き起こすことになる旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の争いの渦中にあった人々である。

彼らは、いわば近代社会の産みの苦しみに立ち会わなければならなかった人々であった。

宗教改革は、聖書の原典研究という地味な活動から始まった。エラスムスやルッターといった人々は、当時のキリスト教、特に教会の行動が聖書に書かれた精神から乖離し、元来の精神性をなくして夾雑物に覆われ、権力に歪められた存在だと批判した。聖書の原典をたずねることで、社会のしくみへの懐疑が生まれたのであった。

そして彼らは「それはキリストと何の関係があるのか?」と問い、現今のキリスト教(旧教)を改革しようとするにせよ(エラスムス)、それを破壊し新しい教会を打ち立てようとするにせよ(ルッター、カルヴァン)、あるべき正しい道を自由な精神で選び取って進もうとした。

しかし、それは頑迷固陋な旧教と清新な新教の争いではなかった。自由な検討の精神から始まったはずの新教も、旧教側からの容赦ない弾圧、粛正、虐殺を受けることによって過激に凝り固まっていき、やがては新しい狂信となって旧教側を弾圧・粛正することになるのである。それこそが新教の教祖の一人ともいうべきカルヴァンの呪われた運命であった。

そのカルヴァンと一度は盟友になりながら、当初の理想を忘れ旧教弾圧の独裁者となり悪鬼道へと堕ちていくカルヴァンを勇気と理知をもって批判したのがセバスチアン・カステリヨンである。しかしカルヴァンは、カステリヨンを異端として排撃した。

またカステリヨンと同様に、聖書に記載のない数々の迷信を斥け、清新な神学を打ち立てようとしたミシェル・セルヴェも、カルヴァンに教えを請うていたものの、やがてその神学はカルヴァンを激怒させ、セルヴェはカルヴァンによって逮捕され異端として火刑に処されたのである。

旧教と新教の争いという大きな構図の中に、敵味方が入り乱れた様々なドラマがあった。本書はそうした12人の人生を辿ることによって、根本の精神をたずね、社会に対して率直に検討を行うことの難しさを描き、精神が硬直する悲劇(あるいはあまりにも悲惨すぎるがゆえの喜劇)を垣間見せるものである。

しかしその筆は非常に抑制的である。フランス・ルネサンスの文芸に通じた著者の学殖が傾けられ、事実を整理し正確に述べることに大半が費やされ、皮相的な文明批評じみたところはない。しかしその行間のはしばしに、感情の高ぶりともいえる社会への警鐘が感じられるのである。

本書は終戦間際から書き継がれ、漸次改訂させられてきたものであり、戦後社会の行方を案じるような部分も見受けられる。『フランス・ルネサンスの人々』は決して過去の興味深いエピソードを開陳するだけの本ではなく、人類社会が普遍的に直面している危険性——争いや失敗を避けることは十分可能なのに、破滅へと猛スピードで進んでしまう危険性——に目を向けさせる本でもある。

「そして、人間というものは、何という「無欲」なものだろうとも思った。つまり、血を流さないですむ道がありながら、その道を歩こうともしないからである」(p.119)

宗教改革にまつわる人々の人生を通じ、人間が原罪的に背負った愚かさをほのかに感じさせる名著。

※本書で描かれる12人
ギョーム・ビュデ、アンブロワーズ・パレ、ベルナール・パリッシー、ミシェル・ド・ロピタル、ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)、エチレンヌ・ドレ、ギョーム・ポステル、アンリ4世、ミシェル・セルヴェ、ジャン・カルヴァン、イグナチウス・デ・ロヨラ、セバスチヤン・カステリヨン