2023年9月30日土曜日

『近世の解体(日本史講座 第7巻)』歴史学研究会・日本史研究会 編

歴史学研究会・日本史研究会の第4次の講座の第7巻。近代の国民国家の形成過程を述べる論文集。

「近世の解体」というタイトルからは明治維新後を思い浮かべる人も多いだろうが、本書に収録された論文のほとんどは近世は内部から解体していったという立場に立ち、その解体過程を述べている。

1 18-19世紀転換期の日本と世界」(横川 伊徳)では、幕府の置かれた対外的状況が概観される。従来、幕府では貿易統制を行ってきたが、外国船が来港して直接の通商を求められるようになり貿易統制政策が変化。貿易の緩和を志向した。そして自然発生的に発展してきた蘭学を体制内に取り込む(文化8年、蕃書和解御用の設置)とともに、軍備が強化された。

2 伝統都市の終焉」(吉田 伸之)では、江戸時代後期の幕府の商業政策を述べる。元禄7年(1694)、江戸では「十仲間」が結成された。これは江戸の代表的な商人の組合である。享保6年(1721)、幕府は商売人の組織化を目論見、多業種で組合を作らせた。幕府はこの組合を通じて、相場を報告させたり、販売数量を把握したりした(十仲間・十二品問屋体制)。文化度になるとこうした組合はあらゆる業種に拡大し、総額1万200両の冥加金の上納を対価に〆株として株仲間数を限定し、いわば公認カルテルのような体制を構築した。ところが天保12年(1841)、幕府は逆にこれら株仲間の解散を命じる。株仲間体制が物価の高騰を招いているとして、カルテル体制を厳禁して自由競争に転換したのである。ところが市場は混乱し、自由競争にしても物価は下がらなかった。そこで約10年後の嘉永4年、諸問屋が「古復」されて組合を以前のように再興させた。ただし冥加金はなく株札を幕府から交付もしなかった。本章は、近世の解体というよりは、幕府の商業政策の混乱・迷走を描いている。

「3 地域社会の成立と展開」(奥村 弘)では、身分制の解体について研究史を振り返りながら述べている。近世身分制の解体に新しい視座をもたらしたのが朝尾直弘の「身分的中間層論」である(庶民の上層が領主の御用を請けることで地域財政システムの一部を担い、中間層として成立していくこと)。一方、かわたもの(穢多)がその職能を物権化させ、また職能化していったことによる身分上昇も見逃せない。この二つはその力学は違っていたが、それまでの身分・職能・格式が一体化したあり方を崩すものとして共通していた。しかし幕府はそうした動きと同時に身分制の強化も図った。それにより、身分が曖昧になっていくのではなく、一見「新たな身分」が作り出されていくような形となった。明治維新が起こると、明治政府は職能と身分の分離を図り、身分を解体する方向となった。さらに廃藩前(明治3年〜)には、統治身分としての武士を解体していく。この頃は、賤民解放令に代表されるように、身分を解体するのではなくて、「身分的なものを認めない」という形に変わった。現実を認めてそれを変えようとするのではなく、非身分的な社会の仕組みを規定して、そこから逸脱したものを取り締まっていくというやり方に変わったのである。

「4 近世的物流構造の解体」(斎藤 善之)では、近世後期に発達した新興海運勢力について述べる。近世初期には、近江商人など幕藩権力や領主に保護された存在が海運を担ったが、天明の飢饉を契機として、農民的商品経済を担う新しい海運勢力が勃興した。北前船、奥州廻船、尾州廻船がその代表であり、この3つで全国の海岸をきれいに三分割してカバーした。これらの新興海運勢力の特徴としては、運賃積ではなく買積であり、市場競争原理が優越していたこと、魚肥など農民向けの商品を積んだことである。彼らの活動によって幕藩制流通機構が解体させられ、近代国民市場が内側から形成された。

5 明治維新と近世身分制の解体」(横山 百合子)では、近世後期と明治維新後における身分制の解体を述べる。なお、私はもともとこの論文を読みたくて本書を手に取った。なのでやや詳細にメモする。最初に、朝尾直弘の「身分的中間層論」と塚田 孝の「身分的周縁論」による諸身分の形成という2つの学説が批判的に紹介される。朝尾は武士と農民・町人の身分の流動化により中間層が生まれて身分制が解体したという見地で、大雑把にいえば身分が曖昧化していったという見方である。一方塚田は、社会的分業の進展によって諸集団が生まれ、その諸集団が公的認知を得て身分を形成し、新しい身分が複雑大量に存在したことで収拾がつかなくなって身分が形無しになっていったという見方。本章はこの2つの見方を接続するような形で身分制の解体を述べている。

まず、近世には身分と御用(職能・職分)が次第に分離していった。これは、御用を申し付ける集団が身分上昇を求めた結果、名字帯刀などの権利を得ることで、幕府としても身分と職能・職分は別物だという整理にならざるをえなかったからである。そして、身分と分離されたことで、こんどは職分が身分化するようになってくる。

例えば、ある種の職分にある者たち(例として下金買・屑金吹が挙げられている)は、支配系列を町人ではなく金座附にするよう求め認められた。「支配」とは、(本章には述べられないが)町奉行とか寺社奉行とか、私領主といった、要するに領域的支配権を持った者たちであるが、彼らは職分を盾に町奉行の支配を離れて、金座―勘定所支配系列に入ったのである。こういうことは多くの職分で発生した。だがこれは、町が身分的共同体であることをやめたわけではなく、むしろ町が身分的共同体であるという前提があったからこそ、その支配から脱したのである。

職分と身分が分離していったことは、当然、同じ業種に身分の異なる者(例えば町人と武士)が従事するということも多くなってくる。そして職分が身分化したということは、従前の身分が無意味化していったということでもある。このあたりが非常にややこしい。そもそも身分とは何なのか。身分は職分と結びついて成立した概念であったが、身分が職分と分離した結果、身分集団の固有の政治的性格が弱まり、身分が階梯序列という意味合いになっていくのである。

職分と身分の分離を象徴するのが、慶応4年、エタ・非人を統括する弾左衛門に対して縦隊取建の功を賞して「身分平人」としたことだ。弾座衛門はエタ・非人だからこそ、その身分集団を統括していたはずなのだが、身分集団を統括する、という職分に対して「平人」とする処置がとられた。このように、幕末における身分をめぐる状況はななり複雑なものになっていた。

明治維新後、政府はむしろ身分政策については揺り戻しの方向になる。明治元年に百姓地・町人地の所持は百姓・町人に限るという措置を行い、また東京では武士地・町人地を峻別するなど土地の身分的性格を再び明確にした。そして同年11月には京都府士籍法・卒籍法・社寺籍法の全国適用によって身分の確定と再編を進めた。しかしながら、武士身分を戸籍によって把握することは非常に難しかった。町人地に混在していた脱藩士や無籍者もいたし、支配の系列がいろいろだったからだ。そこで政府は武士地・町人地・社寺地の区別なく府下を取締六大区四七小区に区分して(元来は府兵制の区)、明治2年11月、この区を基に士族籍・卒籍を編成することにした。支配ごとではなくて、属地的に再編成するための「新しい身分」が士族・卒であったということになる。

また明治2年8月公布の東京府戸籍編成法は、弾左衛門傘下のエタ・非人以外の多様な周縁的身分(梓神子、町医師、検校、勾当、角力など)を市籍に統合し、結果としてエタ・非人(賤民)が峻別されることになった。市籍は、多様な人々を属地的かつ戸主を基準にして編成するものであり、従来の擬制的な「家」「店」を単位とする把握とは違った原理に基づいていた。そしてその形式主義が貫徹された結果、男性尊属中心主義が確立していった。

さらに明治4年には戸籍法が公布。これは住居地編成主義によって、全ての人を属地主義によって把握するもので、戸籍編成原理としては従前の身分はなくなった。住居地編成主義は治安維持を目的として採用されたものであることは疑いがない。つまり身分を否定する目的はなく、むしろ行政は身分制(少なくともそれまでの社会の仕組み)の存続を前提としていた。しかし「属地主義による住民把握」と「身分組織に依存する行政」は非効率的で、「一ツノ人民ニ二ツノ触頭」という状態に陥り、東京府は士卒・寺社触頭廃止を弁官に上申した。明治4年12月、「政府と東京府は、武士地・町地・寺社地の区別を撤廃して空間の身分的性格を否定し(p.160)」身分制が解体していったのである。身分制の解体の主眼は国民国家創出のために四民平等を進めた、というような話ではないのである。

6 移行期の民衆運動」(久留島 浩)では、百姓一揆の変質を述べる。百姓一揆は無秩序な暴動ではなく、村役人によって組織され一定の決まりに則った民衆運動である。また広域における合法的嘆願運動である国訴は近世の民間社会の到達点である。こうしたものが天保期から変質し、一揆の作法からの逸脱行為が目立つようになってくる。村はそうした逸脱行為を懸念し、それまでの一揆の作法を改めて自覚するようになるとともに、逸脱層である青年たちを村に改めて取り込もうとした。地誌の編纂は村の自覚を促すものとして機能したという。維新後は、国家に対決しつつも下からの国民形成に寄与した自由民権運動によって民主主義的思想は回収されていった。

7 文化の大衆化」(神田 由築)は、近世の大衆芸能の変質について述べる。特に家元制をとらなかった浄瑠璃を題材として、興行を成立させる「場」と浄瑠璃の業界団体(因(ちなみ)講)、素人とプロ、侠客との関係など、様々な面から検証している。しかし私は芸能については疎いため、あまり理解できなかった。ただし、芸能関係では親子ではなく師匠―弟子という文脈が重要だったことや(身分制と違う点)、近世的な芸能は素人も参画したものであったが、近代には文化の「消費者」としての大衆が現れてきたという指摘にはハッとさせられた。

8 産業の伝統と革新」(谷本 雅之)は、産業の近代化について述べる。産業の近代化というと、工業制手工業の発達、すなわち資本と労働の集積が想起されるが、日本の近世では、生産設備の大規模化や高度化を伴わない産業の近代化があった。本章では綿織物産業を例にとり、様々な面の展開を述べている。それを約すれば、農家の副業を主体とした労働を問屋制が統合し、流通面での組織化が図られたこと、決済手段が現金取引から信用決済に移行し、金融の発達を催したこと、また輸入綿糸が活用されたことにより、問屋制家内工業が成立したのだという(これを「在来型経済発展」といっている)。器械製糸工場によってアメリカ向け輸出品が作られた工場制工業化の流れもあった(長野県諏訪郡の例)が、維新後も「在来型経済発展」は、民間経済の枢要な部分を占め続けた。

9 蝦夷地・琉球の「近代」」(岩崎 奈緒子)は、近世においては体制外にあった蝦夷地・琉球が国内に取り込まれた過程を述べている。蝦夷地の場合は、それが取り込まれたのは明らかにロシアの脅威への対抗措置であった。蝦夷地警衛が実現するのが寛政11年である。これから松前藩への復領(警備費用の負担が大きかったため)、そして幕末の再直轄へと変化する。そして再直轄後には、明確に開拓の方向性が打ち出された。一方、琉球の場合は清との関係があってより複雑だ。幕府や薩摩藩は琉球へも外圧が来ていることに危機感を抱いたが、表向きには琉球は清に服属していたために現状を積極的に変更することはなかった。ところがアヘン戦争などで清の国力に対する疑義が生まれると、琉球は日本に従属しているとする立場へと転換し、維新後、台湾出兵を契機に日本の琉球支配を認めさせた。

10 明治維新論」(羽賀 祥二)では、明治維新の経過を理念的に捉えなおしている。特に「大政奉還、版籍奉還、藩政奉還(武器・兵員・城郭の奉還)、家禄奉還と続く、奉還運動を通じて天皇を元首とする主権国家は創出されていった(p.325)」ことを述べている。本論はいわゆる大所高所からの議論、といったものでここに要約することができないが、私が注目していた2つの史料が取り上げられていたのでメモしておく。一つは幕末に陸軍総裁の松平乗謨(のりかた)の「病夫譫語」(版籍奉還と酷似した主張)、もう一つは民部省の杉浦譲が立案した「戸籍法原稿」で、戸籍法の理念が復古思想によって基づいて主張されているものである。

本書は全体として、専門的に勉強した人に向けて書かれており、初学者には向かない。上述したように私は芸能に疎いため、「7 文化の大衆化」については結局どういうことだったのかよくわからなかった。他の項目も理解には粗密があり、正直なところ精読していない論文もある。しかしながら、要するに本書は「明治維新での急進的な改革がそれほどの軋轢を生まずに遂行できたのは何故なのか」を近世に溯って示したものなのである。

それは、既に近世には社会の様々な面で地殻変動ともいうべき変化が起こっていたからなのである。それは概ね天保期を境にしていた。近世幕藩体制の基礎となるシステム、身分、流通、商業、対外関係などが、各主体によるそれなりに合理的な判断によって徐々に変容させられ、結果として社会がそれまで通りには動かないようなものに変化してしまった。だからこそ人々は明治維新後の急展開の改革に対応することができたのである。その意味で、近代は近世に始まっている、とはっきりということができる。

近世後期から維新期の近代化を社会基盤から説明する専門書。

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2023年9月26日火曜日

『神と仏—民俗宗教の諸相—(日本民俗文化体系4)』宮田 登 編

神と仏をめぐる民俗文化の考察。

日本人の宗教観は、神(神祇信仰)と仏(仏教)の間で揺れ動いてきた。そしてその背景には、土着の民俗信仰があった。本書は神と仏を軸にして日本人の宗教観を考察する論考集である。

序章 神と仏―民俗宗教の基本的理解」(宮田 登)では、仏教受容の歴史を概観し、神仏習合を「神と仏の緊張関係」としている。そして民俗信仰や習俗に仏事が接近し、それを理論づけたりしてきた一方で、神祇信仰の方は民俗的なものに対して冷淡だった、と指摘している。もちろん神事は仏事も遠ざけており、12世紀に普及した呪法「神事札」は神事に僧尼を遠ざける呪法であったが、日ごろ召し使っている尼や入道はこれを憚らないなどという都合の良い注釈があったのが面白い。神と仏の間には、曖昧な領域が横たわっていた。

さらに、高取正男の「神仏隔離」を援用しつつ、死穢を忌んだのは国家の側で民衆は気にしていなかったことに触れ、一方で穢気の解除(祓え)の方法については、陰陽道との習合の結果、複雑化・多様化していったとする。「神道的な禊ぎをうまく用いつつ、形代や撫物の祓えの具を合理的に組み合わせた方法を陰陽師たちが導入(p.46)」したのである。陰陽道は神祇信仰にかなり大きな影響を与えているようだ。しかもそれは、自然発生的というよりは、支配者層の強烈な作為によるものであり、それがイデオロギーとしての神道を形成した。一方、民衆のカミガミは「淫祠」とされ、正統なものではないと位置づけられつつも存続していくことになる。

第1章 シャーマンの世界」(佐々木宏幹・山下欣一)では、まず世界のシャーマニズムを概観し、そのうえで日本のシャーマニズムの特色を述べている。シャーマニズムとはトランスや神がかりを伴うものだけでなくいろいろなグラデーションがある。日本の民俗信仰はそのような多様なシャーマニズムを内包しており、8~9世紀初頭には「託(くる)い」を役割とする卜者が重要な位置を占めていたという。この頃、神からの「託宣」が頻繁に出たことはその証左である。しかしながら、民俗的なシャーマニズムは神にも仏にも取り込まれていない領域が大きい。もちろん修験道を中心に、激しい修行によって神仏を感得するというような思想はあったが、それは神道でも仏教でも中心的なものではなかった。

さらに本章では、女性が中心になっている南島のシャーマン(ユタ、ノロなど)について述べている。それらは血縁や本人の生まれながらの資質が重要視されていることが興味深い。

第2章 女性司祭の伝統」(上井久義)では、古代の神事には女性の役割が大きかったことを述べる。例えば神の託宣をするのは女性であり、巫女は神事の中心的な存在であった。これは卑弥呼までさかのぼれる伝統なのかもしれない。

ところで、巫女が未婚の、あるいは婚姻を禁止された女性であったということは興味深い。しかしながら巫女が婚姻を貫くことはその継承に問題をはらむ。その点で斎王(いつきのひめみこ)は伊勢神宮で物忌みし祀りを担当した未婚の皇女であるが、これは未婚の期間を利用した幾分か合理的な方法である。

古代社会において高い地位を誇った女性司祭であるが、国家は男性司祭を正統として、女性はその補佐役として位置付けて行った。これは、託宣の重要性が低下していったことが背景にあるのかもしれない。しかし各地の民俗には、女性が受け持つ様々な神事が残されている。

第3章 仏教の民間受容」(伊藤唯真)では、仏教が受容される歴史を振り返り、どういう点が人々に訴えたのか述べている。神と仏は似ているが、様々な対照的な性格を持っていた。仏教は「他国神」「異国神」として受け取られたが、それは地域を超えた普遍神であったという指摘が面白い。また、神は遊幸し、仏は常在する、などというのもそういう違いの一つである。

第4章 神社と神道」(中牧弘允)では、神道の形成が批判的に検討される。日本人は神と仏をごちゃまぜにしているように見えて、実は両者を峻別してきた。そして仏教に対して意識的に神道は構成されたが、その思想的内実はなんだったか。それを著者は宗教的土着主義だという。そして神道が構成されるにあたり、「官の神」(延喜式神名帳にある国家に祀られる神)「野の神」(自然発生的な信仰や情念に導かれて祀られた神)の対立もそこには孕んでいた。

国家は、神祇官の設置や国家祭祀によって神々を再編成し、その頂点にある天皇の権威を高めた一方で、「野の神」は抑制した。有名な「常世の虫」の禁止や「夜刀の神」の殺害は、祀るべき神と祀るべからざる神を国家の方が決めていたことを示唆する。

やがて神祇祭祀は、道教や陰陽道の影響、禁忌意識や吉凶の理論が付加され、やがて神仏習合が進んでいった。ただし伊勢神宮は神仏習合の流れに逆らい、仏教を穢れたものとして扱った(仏教を表す言葉を忌詞(いみことば)にするなど)。また称徳朝の頃に出来た伊勢神宮寺は、徐々に遠ざけられ廃絶した。

鎌倉時代になると伊勢神道の「神道五部書」など、神道は仏教と思想的に対決するようになった。それらは道家や儒家の思想、特に陰陽五行説に拠って仏教と対抗したが、やはり神道の思想は多くが借り物であった。しかしながら意外なことに、著者は先述の通りその思想内容を土着主義だという。つまり、理論的には借り物だったが、内容は「しきたりの重視」とか「歴史」を尊ぶものだったということかもしれない(本章には詳らかでない)。ともかく、「「蕃神」「官の神」「野の神」、もしくは外来宗教、民族宗教、民俗宗教の鼎立こそ、普遍主義の蹂躙やシンクレティズムの進行を阻止してきた三極構造なのである(p.274)」。

第5章 民衆の宗教」(西垣晴次)では、記録に明らかでない民衆宗教の実態を、様々な傍証から推測している。例えば、神社を表す「社」には「ヤシロ」と「モリ」の2つの訓があるが、これは「モリ」から、建物を前提とした「ヤシロ(屋代)」への過程を物語るものであろう。また「モリ」は、森全体を神聖視していたのが、そのうちの一本を選ぶことで神木の信仰になっていったに違いない。この際注意すべき事は、それが「この木を切ると祟る」という、恐ろしい力から始まっていることである。

また、古くは水田よりも雑穀の方が民衆の主食だったと思われるのに、神事が米に関わることばかりで、雑穀にかかわる儀礼があまり見られないのは謎である。

民間には巫覡が多く活動し、権力の方もそれを無視できないほどであった。国家の側は民間の巫覡を詐巫(さふ)として批判したが、それは律令国家の側に取り込んだ真の巫覡がいたことを示している。どうやら詐巫の方は病気を治したり口寄せをする巫覡で、真の巫覡は神社に所属して託宣を得るタイプの巫覡であるようだ。国家は律令制の下で地方官社への奉幣制度を通じて地方官社の祭祀を中央のそれに組み込み、ひいてはその巫覡たちを国家に従属するものとして取り扱った節がある。

御霊会も初めは民間で行われたもので、それを国家が取り入れたのは民衆の宗教を体制のうちに取り込もうとする意図があった。しかしなんでも国家が取り込んだのではなく、御霊会に附属して行われた神の意志をうかがうための馳射(ちしゃ)、相撲(すまい)、騎射、競馬といったものは公の方には取り入れられなかった。

やがて律令国家の弛緩とともに国家祭祀の体系が解体されて、一宮、二宮制という国ごとの祭祀へと再編成される趨勢の中、民間では小祠を辻に建てることが流行。これを国家は「淫祠」として禁圧した。何を祀るべきか、祀らざるべきかを決めていたのはあくまでも国家であった。

第6章 魔と妖怪」(小松和彦)では、柳田国男以来の妖怪の概念を再検討し、「魔」と「妖怪」について述べている。本編は本書中の白眉である。柳田は神の零落したものが妖怪だとしたが、著者は「祀られていない超自然的存在」とみる。そして妖怪となることで祀られ、神となることを求めているのだという。これを宮田登は「祀り上げ祀り棄ての構造」と表現している。神→妖怪→神→妖怪、というこの可変性が「妖怪」を把握する重要なポイントだそうだ。

またしばしば妖怪は退治されるが、その後祀り上げられることも多い。退治するだけでは十分ではなく、その後に祀られるのが日本人の霊に対する観念を表しているようだ。

近世には「幽霊」が急激に変質する。それまでの幽霊は、メッセージを伝えるために生前の姿で出現していた。しかし近世には『東海道四谷怪談』のような幽霊芝居や絵画の影響で、幽霊は棺に納めた死人の姿で出現するようになり、また足がなかったり顔や体が異様に描かれるようになった。さらに恨みと幽霊が深く結合(恨みをもって死んだものが幽霊化する)した。

人が「魔」や「妖怪」または「幽霊」になる場合、西洋の場合は悪魔に魅入られるといった要因によるが、日本の場合は、自分自身の内面に生じた邪悪な感情(嫉妬、恨み、憎しみ)が度を超したときに自ずから変化するというのが著しい特徴である。

そして、そういう場合に行われるのが呪詛である。平安時代には貴賤を問わず禁呪道系・道教系の呪術・邪術、「厭魅」とか「蠱毒」といったものに魅了された。しかし度重なる弾圧によりそうしたものは姿を消し、呪禁師たちは姿を消したものの、陰陽道がそうした呪術の代わりを担うようになった。また修験者もそうしたものの一部を担ったし、民間では「憑きもの筋」の家は動物霊を使って不思議なわざを行った。民俗宗教の世界では、超自然に働きかける方法が多種多様に考案された。

ところが意外なことに、沖縄を例外として、「異界について想像力を働かせておらず、異界描写はきわめて乏しい(p.404)」。近世には妖怪が厖大に作り出され、描かれたが、彼らは日常の中の異界(つまり便所とか橋とか)におり、いわゆる「異界」にはいなかった。妖怪が流行したのは絵師たちに拠る部分もあったが、にしてもなぜ妖怪がクローズアップされたのか考えなくてはならない。「真に問題になるのは、「魔」や「妖怪」を必要としている「我々」のほうなのではないだろうか(p.412)」。

第7章 自然と呪術」(宮田 登・小野重朗)では、超自然に対する働きかけの全体像を述べている。呪(まじな)いと神仏への祈願はどういう関係だろうか。弘法大師が悪魔(磐梯山の神)を調伏したのは本当に仏教の領域のことなのか。民間には厖大な呪いがあり、それは神祇信仰や仏教、陰陽道の影響を受けているが、特に陰陽道の影響は大きく、「民俗としてある各地の唱えごとや呪文は、いずれも陰陽道に淵源を持つ(p.427)」。だが未だに陰陽道と日本の呪いとの関係の考察は十分でない。(以上、宮田。以下は小野による)

呪術は神の信仰を母体としていない。むしろ現実的合理的な知識から発した生活技術に基づいたものだと考えられる。例えば、奄美大島ではカネサル(庚申)の日にシマガタメ牛を殺し、その肉を食べるとともに牛の足を木に吊り下げた。これは何の意味があるか。この日は山の神が降りてくる日とされており、その日に栄養のあるものを食べて、しかも食べたことをわかるようにして、山の神の侵入を断念させたものと考えられる。ところがこの合理的な考えが忘れられ、「牛の骨の臭気でカネサルの神を追っ払う」というようになると、呪術らしい気配をまとっていった。「呪術本来の古い形は科学的な生活の技術であった(p.436)」が「それが非科学的、俗信的な方向に変遷する傾向を持っている(同)」のである。

川の神とか水の精霊の祭が、12月1日とか6月1日であるのも、鮮明で忘れない日を決めておいたことがあるのだろう。本章では水の神への畏れの習俗・敵対の呪術が、太鼓踊りという歓待の呪術へと転換した例を取り上げている。さらに虫送り、疱瘡勧進(病気送り)などが悪神への歓待の例として触れられる。ここで我が大浦町の疱瘡踊りが比較的詳細に記述されているのは面白い。疱瘡は言うまでもなく天然痘だが、疱瘡踊りでは疱瘡団子という団子を食べる。疱瘡対策のために栄養のある団子を食べるという知恵が、疱瘡神をもてなして早く次の村へ行ってほしいという踊りに発展し、そのために伊勢神を勧請する…というように、合理的思考から呪術へ、さらに信仰へ、という展開が見られる。

一方、竜神信仰を母体にしていると考えられる綱引き(十五夜綱の引き回し)が、やがて信仰が欠落し、綱の物理的な力で厄災をさえぎる「道切り」という呪術になった例もある。こちらは信仰から呪術へ、である。知恵、呪術、信仰は一方方向ではなく、様々に転換するようだ。さらに、呪術は「複雑な心意を伴う呪術から、簡単な呪術へ、さらに卜占へ、という変遷(p.460)」もあった。

本書は全体として、大変エキサイティングである。各編に論旨の重複がやや多いところがあるが、様々な角度から神と仏を見直しており、類書にない深みがあるように感じた。最も蒙を啓かれたことは、日本には、神と仏ではなく、それに民俗宗教を加えた三極構造があったということだ。

ただ、「民俗宗教」の用語は少し違和感がある。例えば、疱瘡踊りは概念的には「民俗宗教」の一部なのかもしれない。しかし「宗教」行事として行われていたわけではない。疱瘡を避けるための実用的な技術として行われていたのだ。「虫送り」(田んぼの除虫をするための習俗)も、田んぼから虫を取り除きたいという切実な必要に駆られて行われたもので、宗教的な意味を感じて行われていたのではない。同様に、本書に引かれる厖大な民俗的行事・習俗などは、全てが民衆の具体的な必要に応じて行われた「生活の技術」の一部であった。

ただし、「生活の技術」としての本来の意味が失われ、見せかけだけの合理的な説明が付加される(山の神を牛の骨の臭気で追っ払う、など)ことで、呪いに変化していくことは多かった、ということは言える。とはいえ、それが宗教・信仰であったかというとそうとはいえない。十五夜行事は呪い的な意味が大きいが、そのものは宗教とか信仰の一環とは見なせないだろう(現代においても行われているのだから)。このように、「民俗宗教」の中には普通の意味で「宗教」とされるものとは異質な要素がたくさん含まれている。そして逆に、「宗教」に必要な要素(例えば教義)は必ずしも備えていない。少なくとも、それは精神世界の理論だったのではなく、物質世界の課題を解決するためのものだった。

であるから、「民俗宗教」というより「生活の技術」あるいは「民間科学」といった用語が適当であろう。そして、神道や仏教も、そうした技術なり科学なりの一つとして受容されたと思われる。もっと正確に言えば、民衆の「生活の技術」「民間科学」は神道や仏教により潤色され、より洗練されたり、より呪術的になったり、より普遍的な基盤を与えられたりした。鹿児島では虚空蔵菩薩が疱瘡除けに効果があるとされたのもその一例である。

戦後、多くの民俗行事などが消えていったが、それは宗教的な意味よりも、例えば疱瘡(天然痘)の効果的な予防法が確立したこととより深く関連しているのだろう。

神と仏をより広い視野から捉えた名著。

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2023年9月20日水曜日

『小栗上野介—忘れられた悲劇の幕臣』村上 泰賢 著

小栗上野介の評伝。

小栗上野介忠順(こうずけのすけ・ただまさ)は幕末における幕臣で、西洋にならった重工業の発展の基礎をつくった人物である。しかし維新後、おそらくはその有能さが危険視され、官軍によってあっけなく殺されてしまった。

本書はまず幕府使節がアメリカへ旅発つ場面から始まる。日米修好通商条約の批准書を交換するための渡航であった。正使、副使、目付(=三使)にはそれぞれ9名ずつの随行者がいてそれだけで30人。小栗上野介は、この三使の一人の目付である。また、その外に従者や諸国の藩士もいて総勢77名。彼らは三使が十万石の格式で行列するための装備を積み、アメリカが派遣したボウハタン号(外輪蒸気帆走船)に乗り込んだ。これに随行したのが咸臨丸で、こちらには勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎が乗っていた。

この航海は、ボウハタン号はアメリカ人が運行していたのは当然として、咸臨丸の方も日本人は全く役に立たず、アメリカ人水兵たちによって運行されたというのが面白い。最初、日本人はアメリカ水兵たちの同乗に不満で「便乗させてやる」という気でいたそうだが、日本人は船酔いになっていた上、共同で事に当たるという習慣がなく(身分の違うものが同じ仕事を協力して行うという観念がなかった)、船の操縦は全く出来なかった。そんな中、ジョン万次郎だけがまともに働けたそうだ。

ボウハタン号の方も暴風雨の中を進み、日本人たちはずぶ濡れで船酔いになり、すぐにでもどこかへ上陸したくなった。彼らは、異国船打払令で上陸を拒んでいたことが、いかに非人道的なことであったかを身を以て知った。そして難渋している日本人を気遣うアメリカ人水兵の人間性に触れ、「攘夷」の気持ちはなくなっていったに違いない。そして、日本人たちは途中でアメリカ人水夫の葬式に提督以下が参加し、深い悲しみの真情を露わにているのを見て、上下の別なく情を通わせていることに感銘を受けている。こうして「次第にアメリカ人を「形式的な礼儀よりも真情でつながる人々」と理解(p.65)」するようになった。

ボウハタン号は、サンフランシスコにつき(咸臨丸はここで引き返した。何のための随行だったのかよくわからない)、パナマへ移動、パナマ鉄道を通って大西洋側に出て、ロアノウク号で海路ワシントンへ上陸した。そしてワシントンで一行は盛大な歓迎を受ける。日本人を一目見るため、4000キロも離れたところから人々が見物に来たという。それほどの歓迎を受けたのは、(1)物珍しかった、(2)日本の使節が大人数だった、(3)諸外国に先駆けて日本と条約を結んだという優越感がアメリカにあった、ためではないかという。ホイットマンの「われわれのところへ、/この時遂に東洋がやってきたのだ」という詩の一節は、その感興を伝えている。

彼らは7階建てのホテルに案内され、水洗便所など文明そのものの施設設備に驚愕した。

批准書の交換では、アメリカはまず日本式にやらせてから、再び西洋式で行っている。日本文化を尊重しているのだ。条約の内容はともかく、当時のアメリカは日本を一方的に下に見ていたわけではないことは明白である。なおこの頃は、アメリカは南北戦争前で心の余裕があった時期である。日本がこの頃にアメリカを訪問したことは運が良かった。

一行はさらに、ワシントン海軍造船所を視察。ここは船に関するあらゆるものを製造する総合工場で、日本では鍛冶屋が何日もかかって切るような鉄を豆腐のように切っていた。一行は「鉄の国」の力をまざまざと見せつけられたのである。この視察が後の横須賀造船所に繋がる。

さらにニューヨークでは市始まって以来ともいわれる大歓待を受けた。そして彼らは政府造幣局を訪ね、日米金貨の分析実験を行い、日本とアメリカの通貨交換レートに不当な差があることを認めさせた。小栗はこの試験を忍耐強くかつ科学的な態度で求めたが、その態度と知性はアメリカ人からも賞讃された。ただし、通貨交換レートの変更については幕府・ハリスともに事前に相談していなかったので、勘定組頭の森田清行がアメリカ政府と交渉を行うことを強硬に反対。結局、追って改鋳によって通貨交換レートは調整された。

そしてニューヨークを後に使節団は帰国の途に就いた。この際にアフリカ回りで日本へ帰ったので、結果的に彼らは世界一周した初めての日本人になった。この時にアフリカで奴隷を見て衝撃を受ける。彼らには友好的だった白人が、黒人奴隷には動物以下に接していることに「文明」の裏面を見たのである。

こうして彼らは帰国。しかしその頃攘夷の嵐が吹き荒れており、アメリカ船に乗った彼らは一切歓迎されることなく、アメリカでの見聞を語ることさえ憚られた。そのような中にあって、小栗はアメリカの進んだ文明を範とすべきと敢然と主張したのである。

小栗は外遊の経験から外国奉行に就任するが、上司の意見と対立して更迭される。しかし小栗は外国の事情に通じて経済面に明るく、しかも能吏であったために、「勘定奉行(勝手方)、江戸町奉行、歩兵奉行、陸軍奉行、軍艦奉行、海軍奉行……と、幕府の要職に就いては、上司の慣例前例に縛られた意見と衝突すると辞任し、また再任されることをくりかえし(p.115)」た。

そんな中での小栗の大きな功績は、横須賀造船所を造ったことである。幕府には、船は外国から買えばよい、造船所の建設には金がかかりすぎる、という意見もあったが、小栗は造る技術がなければ十分な修理もできないのだからどうしても造船所を造るべき、として老中にせまり決定させた。「いずれ売り出す(政権を譲り渡す)としても、土蔵付き売家の栄誉が残るだろう」と言った逸話は有名である。

造船所の建設はアメリカに協力を頼みたかったが、アメリカは南北戦争でそれどころではないためフランスに技術支援を依頼。なお小栗は造船所決定にあたり反対派の機先を制して軍艦奉行を辞任。日本側の責任者はフランス語がわかる小栗の盟友、栗本鋤雲に任し、小栗は実務家として携わった。そして造船所建設のため来日したのがフランスのヴェルニーである。彼はまだ29歳であったが有能で誠意に満ち、最初は若すぎて訝しんだ日本人たちも彼を信用して事業を進めた。

なお造船所は維新後、慶応4年閏4月1日に明治政府に引き継がれる。明治政府は支払いを苦労しつつその建設を進め、明治4年に第1号ドックが完成。国内外の船舶修理が意外な高収入となって当初の見込よりもかなり収支はよかったようだ。

この他小栗が手がけたのは、滝川野大砲製造所(水利に苦労し、完成はしたが稼働したかは不明)、横浜のフランス語学校の設立(幕府がフランス式陸軍を導入したことに伴うもの)が挙げられる。これらも維新後は明治政府が接収し、特にフランス語学校は中央幼年学校となって陸軍の首脳を輩出することになる。

また慶応3年には、日本初の株式会社「兵庫商社」の設立を提議した。これは大坂の商人に組合を作らせ、西洋との貿易を共同して行わせようとしたものである。それまで彼らは個別に取引をしていたため、安く買いたたかれ、また高く買わされていた。幕府は商人たちに商社の設立を命じたものの、幕府解散や経営の不慣れなどにより、うまくいかないうちに解散している。

時期は前後するが、勘定奉行として携わったのが「築地ホテル」の開業。この際も民間資本による株式会社の手法で資金を集めて建設させた。このホテルは、いわゆる安政五ヶ国条約によって宿泊施設を設けることが約束されていたことに対応するものである。これを小栗は今で言うPFIのような形で建設したのである。これは外国人には評判が良かったが、幕府倒壊などで経営はうまくいかず、完成後3年半で「銀座の大火事」によって消失した。

この他、小栗はガス灯設置や郵便制度、鉄道の建設といったことを提案している。彼はアメリカで見聞した「人・モノ・情報の流通の正確・安全・迅速・簡易・大量化が、いずれも近代国家に欠かせない社会基盤と見て、制度の導入設立を提案していた(p.183)」のである。

小栗は、幕府倒壊直前に勘定陸軍両奉行を解任された。主戦論を唱えていた小栗が、慶喜の煮え切らない態度に諫言したことが原因のようだ。彼は知行地の上州上田権田村に移住し、「前朝の頑民」となって一生を終わろうとした。彼は帰農して教育に携わろうと考え、「いずれこの谷から太政大臣(首相)を出してみせる」と決意した。実際、養嗣子又一は横浜仏語伝習所の最初の伝習生でフランス語に堪能、用人塚本真彦は数学、英語に明るく、荒川祐蔵と佐藤藤七も小栗とともに世界一周した若者であった。権田村には世界一周した人物が小栗もあわせて4人いたのである。

ところがここで事件が起こる。打ち壊し運動の矛先が小栗に向いたのだ。暴徒と化した2千人が小栗のもとに向かった。しかし彼は、暴徒たちに統制がとれていないことを見て取り反撃に出て、暴徒を追っ払った。その後暴徒を排出した四ヶ村は詫びを入れている。

しかし新政府はこれを「逆謀が判然とした」として小栗の捕縛を三藩に命じた。ところがそのような事実はないから、三藩の使者は小栗邸で丁寧な対応を受けて戻ってきた。これに東山道軍の軍監原保太郎(長州)と豊永貫一郎(土佐)は激怒。三藩の兵を引き連れて権田へ討ち入って小栗を捕縛し、取り調べもなく斬首した。小栗は幕府側の人物で戦わずして斬られた、ただひとりの人物である。

大隈重信の「明治の近代化はほとんど小栗上野介の構想の模倣に過ぎない」 、東郷平八郎の「日本海海戦の勝利は、小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたおかげ」、という言葉があるように、小栗忠順は明治時代の「文明開化」を先取りしていた。しかしながら、それが十全に実現せず、幕府が彼の構想を実現できなかったのもまた事実である。そこに幕府の限界があったともいえる。

なお小栗は幼少期より安積艮斎(あさか・ごんさい)に学び、温かい指導の下で現実主義の思想を育んでいた。特に年配の結城啓之助と自由闊達な議論を戦わせたことは大きな影響を与えたようだ。しかし同年輩の上流武家の息子らから、頑固な理屈屋、天狗、狂人とまでよばれていたことは、彼のありようを知れて興味深い。相当な変わり者だったのは間違いない。

本書は全体として、平易で読みやすく、小栗上野介忠順の重要性を余すところなく伝えている。彼は新政府からは逆賊扱いであったために顕彰が長い間なされず、地元に「罪なくして斬らる」の石碑を建てた時でさえ、「天皇陛下の軍隊が罪の無いものを斬るはずがない」と難癖を付けられたほどである。維新史において、彼は表舞台にいなかったためによく知られているとは言いがたいが、「早すぎた文明開化」を主導した幕臣としてもっと取り上げられてもよいように思った。

文明開化を先駆けた幕臣を描く良書。

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2023年9月7日木曜日

『桓武天皇—決断する君主』瀧浪 貞子 著

桓武天皇の皇統意識を考究する本。

本書はまず、桓武天皇即位までの皇統と政治的状況を詳述する。壬申の乱で勝利したのが大海人皇子こと天武天皇(弟)で、敗者が天智天皇(兄)の太子・大友皇子であるが、ここで皇統は天智系から天武系に移っていた。

持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳(重祚)と、続く天皇は全て天武の血筋である。

ところが桓武天皇は、天智の子孫である。天武系とは血縁がない。ここで天皇の皇統が、天武系から天智系に戻ったのである…とされてきた。しかし著者は、桓武天皇はあくまで天武系として自らの血統を意識していた、と述べる。

その淵源は、天智の子の施基皇子(大友の兄弟)である。天武は自らの子4人だけでなく施基、川島という天智の子2人まで含めた6人を天武と皇后鸕野の子どもとして扱うと盟約したのである。これには、天智から政権を簒奪したことを正当化する意味(天智の子どもも自分を認めている、という形)と、贖罪の意味があったと著者はいう。施基は6人中では最も長生きしたので、最後の「天武の皇子」として立場が重くなっていった。

とはいえ、天武直系ではなかったから、天皇には遠い立場だった。ところが孝謙/称徳天皇には跡継ぎがいなかったため、施基の子の白壁王に白羽の矢が立った。白壁王が聖武天皇の娘(井上内親王)をキサキの一人に迎えていたことも有利に働いた。なお白壁王の擁立を推進したのは藤原永手であるらしい。こうして白壁王は光仁天皇として即位。なお光仁は父の施基に天皇号を追尊している。

次の天皇は、光仁と井上皇后の子・他戸親王であるのが自然だった。後に桓武天皇として即位する山部王は、光仁の別のキサキ高野新笠の子で、天皇の子どもではあるが皇統からは一段遠い立場である。しかも高野新笠は渡来系であったから、なおさら山部が即位する可能性はなかったのである。山部は天皇を支える事務官僚であった。

ところが、井上皇后は光仁天皇を呪詛したとして皇后の地位を剥奪される。そしてそれに連動して他戸皇太子(すでに立太子していた)が廃されたのである。それによって山部親王が突如として立太子した。これに前後して藤原良継と藤原百川がそれぞれの娘を山部に娶らせていることを鑑みると、山部の擁立は良継・百川兄弟の仕業であったことは間違いない。彼らは衰微していた藤原式家の挽回を狙い、敢えて即位の可能性のない山部を担ぎ出して、傀儡化することを計画したらしい。(なお百川は山部の即位前に死去した。)

こうして山部=桓武天皇が誕生した。そしてこの即位の翌日、早良親王が皇太子に立てられた。これは異例のことであった。皇位継承問題の混乱が続いたことを憂慮した桓武が、これ以上の政治的策動を避けるために早良の立太子を急いだのかもしれない(これが前例となり、平安時代には即位と同時に皇太子を定めるようになった)。

早良親王は桓武の弟で、幼くして仏道を志し11歳で出家、光仁の即位で親王禅師と呼ばれたが、立太子に際して還俗した。早良をわざわざ還俗させてまで立太子したのは、自らの血統を補強する意味合いと、親王禅師早良が仏教界に人脈を持ち人望があったためと考えられる。

桓武天皇が行った二大事業は、遷都と蝦夷征伐である。桓武は奇計により即位したことから、「強固な国家体制を新たに創出する以外に道はな(p.81)」く、その一つが遷都であったと著者は位置づける。遷都は「政治的パフォーマンス」だったとの見方である。また、棄都の大義名分は「歴代遷宮の慣習・伝統(p.85)」だったのではないかと著者は推測している。なお平城京では生活廃棄物の処理ができていなかったといった問題も指摘されている。一般的には遷都は南都六宗との決別が理由とされるが、著者はそれについてはほとんど触れていない(p.93に「重要な目的の一つ」とあるのみ)。

遷都事業は、藤原種継と和気清麻呂の働きによって実現し、特に種継が事実上のプロジェクトマネージャーだったようである。種継は長岡を視察して場所を決定、造長岡宮使に任命され、造営を開始した。そのわずか5ヶ月後、延暦3年11月、桓武は遷都を断行する。延暦3年が甲子革令の年にあたっており、11月1日が19年に一度の「朔旦冬至」という縁起の良い日だったからという。

工事を推進した種継は桓武の第一の寵臣になったが、翌延暦4年に暗殺される。捜査の結果、大伴家持・継人らが早良親王と示し合わせて種継を殺害し、早良を擁立しようと企てたものとされた。逮捕者の多くは春宮坊職員や造東大寺司の役人であった。しかしこの事件は不思議である。早良と桓武の間はギクシャクしていたと考えられているが、早良は既に皇太子であり、即位のために種継を暗殺する理由はないのである。著者はそう述べていないが、やはり桓武自身が、自身の嫡子安殿親王の立太子を実現するために早良を抹殺したと考える方が自然だと思う。

桓武は『続日本紀』の編纂にあたり早良の関係記事を削除していることも、自身が手を下したことの傍証であろう(その後、種継の子孫が記事を挿入し、嵯峨天皇が再削除した)。 早良は食を断って自死したとされるが、これも慫慂されたもののようだ。なお早良の廃太子は、天智天皇陵、光仁天皇陵、聖武天皇陵に奉告されている(山陵奉拝は桓武にとって重要な意味を持っていたらしい)。これは桓武の皇統意識を考える上で興味深い。天武系の意識が遠ざかって天智系が強調されるともに、聖武の存在が重要となっていた。

こうして、早良の抹殺を受け、安殿親王が立太子された(12歳)。この2週間前に桓武は交野で「効天祭祀(効祀)」を行っている。これは中国の皇帝が夏至・冬至に行う天神を祭る儀式である。日本では桓武が二度、文徳天皇が一度の3例しかない(3例とも代拝)。ここで桓武は天神(昊天上帝)とともに光仁天皇を神として祭った。なぜ桓武は効祀を行ったのか、著者はいろいろと推測しているが、安殿親王の立太子の正統性を確立する方策であった、という以上のことは不明である。

一方、長岡京の工事は種継亡き後も佐伯今毛人がついで遂行されたが、今毛人が高齢のため退いた頃から造都事業は狂い始めた。桓武も工事に積極的に関与するようになったものの、設計の甘さから工事が行き詰まった。どうやら測量がちゃんと行われていなかったらしい。さらに桓武が新造内裏「東宮」に移る前後より、相次いで不幸や異変が起こり、皇太子安殿が病気になった。これが陰陽師により早良の祟りであるとされ、桓武はすぐに淡路島に勅使を派遣して霊を慰めた。著者によれば、陰陽師が早良の祟りであると占ったこと、それを公表し手厚く霊を祀り陳謝したことは桓武の「演出」だったという。

祟りとの関連は不明だが、その半年後、長岡京は放棄される。理由はどうあれ、桓武にとっては手痛い失敗であった。こうして平安京への遷都が改めて実施されることになった。この際、賀茂大神や伊勢神宮、各山陵に遷都を奉告しているが、ここで聖武天皇陵が除外されているのが注目される。「皇統に代わってこのミウチ意識が桓武の拠り所になって(p.167)」いったと著者はいうが、これは素直に考えれば聖武路線からの転換を意味しているのではないか。

平安京の造営事業は、長岡京以上の大規模なものとなり、人びとの負担も大きかった。延暦13年(794)に遷都はしたものの、造営事業は道半ばであった。桓武は「徳政相論」という造営の可否を問う討議を家臣に行わさせ、その議論を踏まえて造営事業の停止を決断した。これは桓武の勇断を示すものとなったという。

なお桓武天皇には数多くのキサキがおり、結果として後宮が急速に発展し、城内にも位置づけられた。キサキたちはのちに「女御」と「更衣」に整理されてゆく。

この他、桓武天皇が力を入れた事業としては、先述のようにまず蝦夷征伐がある。なかなか戦果を上げられない軍に対し、桓武は口を極めて罵倒した。山陵に征夷を奉告しているのも興味深い。そして坂上田村麻呂を征夷使、ついで征夷大将軍に抜擢して大きな成果を上げた。著者によれば「造都と軍事」は政治的パフォーマンスとして結びついていたという。

次に遣唐使の派遣。桓武は、光仁天皇以来25年ぶりに遣唐使を派遣した。この際、別離の宴を全て中国式で行ったというのが面白い。また、出発スケジュールの混乱によって本来乗船の予定ではなかった空海が最澄とともに渡唐することになったのも面白い歴史の悪戯である。

次に法典の編纂・整備。養老律令を改定した「刪定律令」24条、「刪定令格」45条、国司の交替の法令集である「延暦交替式」などがある。また『続日本紀』の編纂においては、先述の通り早良の記述を天皇自身が削除するなど特異な経緯を持ち、自身の治政を書かせたのも六国史では『続日本紀』のみである。

本書は全体として、政局の記述が大部分を占め、社会情勢の説明や後世への影響といったものはほとんど書かれていない。桓武天皇は多くのキサキを持ち、子どもが多かったのでそこから「桓武平氏」が生まれたが、こういうことも不思議と本書では触れていない。また、長岡京への遷都、平安京への遷都もあくまでも政治的パフォーマンス、政局の結果としており、他の理由も書いてはいるものの、教科書以上に簡易な記述である。

このように政局の記述に大きなウエイトを割いたのは、通説の桓武天皇像を打破するためであるようだ。通説では桓武天皇は、(1)天智の血統であり、(2)早良親王の怨霊に怯えていた、とされる。うち(1)については、桓武はむしろ天武の血統を自覚していた、とする著者の論考は説得的である。また著者は、晩年の桓武は聖武へ回帰しつつあったとしているが、これも状況証拠的とはいえ首肯できる見解である。

一方、(2)については、著者の主張は「怨霊対策はたくさんやっているが、それは怨霊を恐れたためではなく、自らの正統性を高めるための政治的手腕であった」とまとめられる。だが、所詮桓武の内面を知るすべはなく、怨霊を恐れていたかどうかはわからないとする他ない。そして、度重なる怨霊対策(早良親王に崇道天皇号を追号、墓を山陵とする、山陵へ僧や陰陽師の派遣、淡路国へ常隆寺を建立、崇道天皇の命日を国忌に、崇道天皇陵の大和国への改葬、冥福を祈った一切経の書写、諸国分寺の僧に春秋二季の読経を命じた)が行われたのは事実であり、「怨霊に気を遣っていた」のは間違いない。

また、著者はたびたび「桓武は決して仏教そのものを否定したのではない。桓武が忌避したのは政治に介入した奈良仏教、都市仏教である(p.188)」というようなことを述べている。例えば早良親王=崇道天皇の霊を慰めるために淡路国に常隆寺を建立するなど「仏教そのものを否定したのではない」というのは理解できる。しかしこの時代には奈良仏教・都市仏教以外はかなり脆弱である。地方寺院はあったがやはり奈良仏教が中心であった。桓武が仏教の9割以上を忌避しているのは確かだ。

実際、平安京の造営にあたっては、南都六宗の平安京への移転を認めず、洛中には東寺・西寺のみしか許さなかった。それどころか、平安京への寺院建立自体が見られないことを見ると「桓武が忌避したのは政治に介入した奈良仏教、都市仏教である」との主張も若干怪しい。また、南都六宗は、平安京の近隣(城外)への移転も行っていない。これは不思議なことである。南都六宗は、やろうと思えば城外へは移転できたはずなのに、なぜしなかったのか。

そもそも、桓武天皇が(長岡京や)平安京へ遷都しようとしたのは、南都六宗の仏教勢力の力が強くなりすぎ、それと決別するためであった…と通説では言われるが、では南都六宗の勢力を抑えて遷都を敢行できた、その政治的な力の源泉はどこにあったのだろう。

本書によれば、それは敵対勢力の粛清によるものであった、ということなのかもしれない。早良親王の排除はその典型であるが、そもそも桓武天皇自身が藤原式家の策動によって擁立された天皇であり、いわば「政局に乗るのがうまい」というのが、桓武の政治的な力だったのかもしれないと思う。

なお、桓武は亡くなる2ヶ月前に勅を下し、「災害を除去して福をもたらすには仏教がもっとも優れている、朕は仏教を盛んにして人びとに利益をもたらしたいと述べている(p.263)」。これは、最澄が天台宗に年分度者を要請したことに応えた中にある言葉であるが、やはりそれまでは「仏教を盛んに」してはいなかった、という自覚があったのかもしれない。やや政策の転換を感じさせる意味深な言葉である。

ところで、著者はずいぶん桓武に共感・感情移入しながら本書を執筆しており、例えば「桓武の一途な思いが伝わってこよう(p.218)」、「征討を「板東の安危」と捉える桓武の並々ならぬ決意に、身震いがする(p.212)」、「早良に対する桓武の心情には、兄弟への睦まじさが秘められていたように思われる(p.259)」、といった調子で、特に後半に行くほど桓武への共感・感情移入が多くなる。歴史を考察する場合は、ある程度その対象から距離を置き、事実から冷徹に論理を導き出さねばならない。その点で、本書はやや危なっかしいところがあるように思う。素人がこのように批評するのは僭越であるが、率直な感想である。

また、『桓武天皇』をタイトルにした新書にしては、著者の関心事項の考証が長大で、桓武天皇の事績を端正にまとめたものとは言えない。これは専門書での出版が適切だったのではないか。だが、これは著者ではなく編集者の責任かもしれない。

桓武天皇を政局から見直して通説を打破しようとした本。

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2023年9月2日土曜日

『古代寺院の成立と展開』岡本 東三 著

古代寺院の建立を概説する本。

本書は、仏教の導入や古代寺院の建立について、政治的な文脈から述べるものである。欽明朝において仏教は私的な信仰から政治的イデオロギーに転化していき、在来の自然神とは違った役割を負うようになった。

蘇我氏と物部氏の戦いの後、勝った馬子が飛鳥寺を、厩戸皇子が四天王寺を建立したことで、それは「政治的モニュメント」「政治的デモンストレーション」となった。国家が仏教を受容することは東アジアの国際秩序を共有するという「ヤマト政権の「古代化」あるいは「文明開化」を意味(p.8)」したのである。

そして古墳は、寺院造営に置き換わる。つまり寺院は国家的なモニュメントとしての役割を帯びたのだった(「古墳から寺院へ」)。その後も古墳は作られるが、前方後円墳体制は終わる。仏教が古墳という葬送装置を駆逐したことは副次的な影響ではあったが、その後の仏教の歴史を鑑みると興味深い。

当初、寺院は貴族の邸宅の一部に仏像を安置するような形態(捨宅寺院)であったが、ついに飛鳥には伽藍が建立される(飛鳥寺)。それはまさに文明を象徴し、また蘇我氏専制体制を象徴するものであった。642年、「僧正・僧都・法頭」と呼ばれる僧官制の原形となる統制機関が飛鳥寺に置かれ、飛鳥寺は国家的・公的な寺院となった。

本書では飛鳥寺の造営過程について触れ、それが未熟な技術ではなく、完成された技術を導入する形で行われたことを述べ、また瓦の文様を概観し、寺院建築がどのような経路でどう伝播していったかを簡単にまとめている。また7世紀中期の地方寺院については山田寺式軒瓦が関与しているとし、孝徳朝の評制施行の地域再編に伴う在地の動向として捉えられている。

しからば地方豪族はなぜ寺院を造立したか。それは国家の場合と同じく、「「古墳」にかわる新しい在地の支配秩序・支配原理の確立は必須で(中略)、祖霊追善と現世利益の普遍性をもった仏教に求め(p.61)」たからである。

他方、川原寺式の瓦も全国に広がっていったが、それは壬申の乱に対する地方豪族への論功行賞から寺院建立が始まったとする学説が紹介される(八賀晋の説)。さらに法隆寺西院伽藍について詳しく紹介し、法隆寺式軒瓦の全国分布について述べている。

天武朝になると、国家仏教体制の基盤が整えられる。673年僧官制の改革、677年大官大寺の整備、680年諸寺への食封(じきふ)の停止(←意味深)が打ち出され、685年「家毎に、仏舎(ほとけのおおとの)を作りて[…]礼拝供養せよ」という詔が発布された。この時期にはおそらくはこれに呼応して郡ごとに地方寺院が作られた。

さらに国家仏教の総仕上げとして「僧尼令」が制定され、仏教は国家祭祀となった。ところで藤原京には紀寺・本薬師寺・大官大寺の3つがあったが、都に紀氏の氏寺があったのが謎だということだ(氏寺ではなかったのか?)。

都が平城京に移ると、さながら仏教都市の様相を呈し、後に南都六宗と呼ばれる諸寺院が出来上がった。しかし郡司や豪族層は、仏教があつく保護されていることを逆手に取り、所領や財産を寺に移して保全する行動をとり始めた。財産保全のために寺が乱立したのである。こうした弊害を是正するため、得度・受戒のシステムを整備するとともに、713年には諸寺の田記の誤りを修正させ、寺田対策として716年に「寺院併合令」を発した。また721年には按擦使や大宰府に命じて併合令の徹底化を図っている。これは一定の成果をあげ、735年に併合令は終結している。

741年には国家仏教政策が転換し、地方に国分寺・国分尼寺の造営を命じた。が、督促令まで出したにもかかわらず国分寺は完成せず、しかも各国でつくられた国分寺は国家統制が十分になされず千差万別なものとなった。そして仏教は国家主義的な色彩を帯びてはいたが、次第に民衆にも受容され、墾田永年私財法の発布以降は、村落内寺院がどんどんつくられるようになるのである。

本書は全体として、仏教の置かれた政治的状況が要領よくまとめられており、古代仏教については教科書レベルの知識しか無かった私にとっては蒙を啓かれる思いだった。ただし、ある程度知識がある人を対象にしているのか、簡潔すぎる記述が却って謎を深める結果になった部分もある。例えば上にメモしたように、政府は680年に諸寺への食封を停止しているが、これは寺院保護の趨勢とは逆のようで気になった。

ともかく、仏教は日本へは政治的なものとして伝わり、政治的な存在として発展した。地方豪族層や民衆も、それを(少なくとも当初は)政治的なものとして受け取ったということになる。しかしそれは、仏教が皮相的にしか理解されていなかった、ということにはならない。例えば政治的というならば、古墳も政治的な産物であったが、古墳は日本在来の思想によってつくられていたに違いない。そして古墳を寺院が駆逐したということは、政治的なモニュメントの交代以上のものがありそうである。古墳による死後の観念が、仏教による死後の観念に置き換わったということだからだ。この点はさらに詳しく知りたいところである。

古代寺院をキーワードに古代仏教の政治性を語る啓発的な本。

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2023年9月1日金曜日

『神道とは何か—神と仏の日本史』伊藤 聡 著

神道の歴史を概観する本。

神道とは古代より連綿と受け継がれてきた神祇信仰ではない。今の神道は明治政府の神仏分離政策によって、いわば政策的に生み出されたものである。では元の神道はどうだったか。実は、いつ神道が生まれたのかということすらも、古代から近代(!)までいろいろとあり、定説はまだない。よって本書では、神道以前の神祇信仰から説き起こし、近世に至るまでの仏教を含めた信仰世界の歴史を概観することで神道の形成について述べている。

古代においては、カミやマツリという言葉、崇仏論争、神仏習合、法楽(神のための造寺造仏)、八幡神、本地垂迹説、陰陽道や修験道などについて簡単に整理している。神祇信仰そのものというよりは、紙幅のほとんどは仏教の動向について費やされており、意外と神祇官など神祇制度についての記述は簡略である。

また、道鏡失脚後に光仁天皇が神事から僧侶を遠ざけた平安時代の神仏隔離が取り上げられる。これは高取正男が『神道の成立』で提唱したもので、神道成立の画期とされている。

この趨勢の中で伊勢神宮でも神仏隔離が行われ、僧侶の参拝を禁止した。しかしながら、その理由はいまいち明瞭でない。しかも伊勢神宮の神官(祭主・大宮司・禰宜)には、退職後あるいは死の直前に出家しているものが多く、後の廃仏のような思想はなかったようだ。伊勢神宮の神官は、神と仏の間で苦労していた。

そういう中で、天照大神の本地は観音だとか、大日如来だとかいう説が登場する。観音説は伊勢神宮の内部から出てきており、大日如来説の初見は真言宗小野流の成尊の書『真言付法纂要抄』にある。後者の場合、仏教的には「粟散辺土」(延喜17年(917)の『聖徳太子伝暦』)とされる日本を、天照大神・天皇の存在によって「神国」と逆転させる密教化した神国思想が展開されており、明らかに仏教側が伊勢神宮にすり寄っている気配が感じられる。

東大寺の復興に尽力した重源の場合も、伊勢神宮(内宮・外宮)に大般若経をそれぞれ奉納するよう求め、これにより前例のない神宮法楽供養が行われている。行基信仰においても、彼が東大寺建立のために伊勢神宮に参って天照大神の示現を得たという説話が登場する。この頃、仏教勢力は伊勢神宮の存在にずいぶん頼っていたということは間違いない。

こうした動きに呼応してのことであろう。伊勢神宮周辺でも、後に「両部神道」を形成する教理書の一群が製作された。伊勢神宮の祭神・社殿・由緒等を仏教教理によって説明したのである。中でも重要なのは、志摩国吉津の仙宮院で撰述されたと考えられる『中臣祓訓解(なかとみのはらえくんげ)』である。これらの書では、伊勢神宮の内宮・外宮を胎蔵界・金剛界曼荼羅になぞらえ、社参自体を一種の灌頂作法と見なしている。

さらに鎌倉中期以降は仙宮院以外にも広がり、両部神道書がどんどん登場した。それらの中で後世に大きな影響を与えたのが後醍醐天皇に仮託された『麗気記』であり、「これは南北朝期以降、『日本書紀』と並ぶ中世神道の最も重要な聖典と見なされるようになった(p.96)」。

一方の伊勢神宮では、こうした動きと前後して外宮の渡会氏が「伊勢神道」を形作っていた。外宮が内宮と同格(さらには優越)であることを示すために構築された神道理論である。まず『造伊勢二所太神宮宝基本記』、次いで『倭姫命世記』、その後、文永・弘安頃までに『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『豊受皇太神御鎮座本紀』がなった。これを後に「神道五部書」という。これらでは、天照大神は天御中主神と同体とされ、また内外宮を胎金両界とするなど両部神道の理論が援用されている。しかしながら南北朝期には渡会氏は南朝につき、南朝の衰亡とともに力を失った。

南北朝期から室町期では、仏教側では神道書が伝授されることで次第に流派が形成された。細かい違いは省くが、三宝院流、三輪流、西大寺流、御流などが生まれ、中世末期には「神道に十二流あり」と言われている。御流では、天照大神が如意宝珠の垂迹だと考えていたことが面白い。これらは真言系が多いようで、比叡山(天台宗)の方では山王一実神道が生まれている。黒田俊雄は「神道は仏教の一部だった」としたが、それはこうした状況を述べたものだろう。

鎌倉新仏教では、(1)法然・親鸞は神祇不拝だったが、浄土宗ではだんだん神道説を導入した。(2)時衆は一遍が各地の神社をめぐっており、神祇信仰を全面的に受け入れた。(3)臨済宗では、台・密・禅兼修を基本としたことから神祇信仰と融和的で、特に円爾の聖一派では神宮との関係が深い。室町後期には吉田神道に学ぶものが出、近世神道の揺りかごになった。(4)曹洞宗は、瑩山紹瑾が本地垂迹思想を受け入れ、禅僧が在地の神々を化度・帰伏させていくという説話が生まれた。(5)日蓮宗では護法善神思想を受け入れ、三十番神信仰を導入した。三十番神信仰をめぐって吉田兼倶から論争を仕掛けられているのが面白い。つまり、鎌倉新仏教では浄土真宗を除き、神祇信仰と融和的だったのである。

こうした仏教と神祇信仰の融和により、どんどん新しい神格が追加されていった。本地垂迹説による実神・権神に加え法性神(本覚神)、蛇神(垂迹した神は蛇体と観念されたのが不思議)、神は心に宿るという観念、御霊信仰から発展した人神信仰(豊国大明神、東照大権現)、御法神、習合神(蔵王権現、牛頭天王、荒神)、外来の神(泰山府君、媽祖)、弁財天や鬼子母神などの女神信仰といったものである。「弁財天は宇賀神と同体」などとするような、神格をつなげる理論が盛んになる一方で、神格が整理されるのではなく、むしろ乱立する方向になっていったことが興味深い。

また、多種多様な神道(に関係ある)説も登場。天皇の世は百代をもって滅亡するという「百王思想」、『野馬台詩』や『聖徳太子未来記』といった予言書、そして『日本書紀』の再解釈ともいうべき「中世日本紀」(神話記述の総称である「日本紀」の名のもとに、多くの異説・異伝が付け加えられて成立した新たなテキスト群)が中世国家へと変質していく平安末から出来上がっていった(先述の「神道五部書」などもその一環)。

そういう動きによって出来上がっていったのが「中世神話」である。例えば、大日印文・第六天魔王をめぐる国土創生神話(第六天魔王が三種の神器を授けたとか!)など面白い。それらの神話は、以前からの神話の表面上の記述の背後にある別の意味を見出し、意味を重ね合わせることによって変奏したものであった。

中世神話の中で肥大化し、後世に大きな影響を与えたのが神功皇后の三韓征伐神話。これにより朝鮮蔑視が増幅された。『八幡愚童訓』で「新羅国の大王は日本国の犬」という言説が書かれたことは、後の秀吉の朝鮮出兵へ繋がっていく。

近世神道については、著者の専門である中世に比べだいぶ簡単な記述である。まず吉田兼倶の吉田神道の成立について述べる。それは吉田家の『日本書紀』研究を土台にしてはいたが、密教修法の模倣による祭祀儀礼の創出、捏造による古代からの権威の創出といったことが綯い交ぜになっていた。吉田神道は、独自の教義・経典・祭祀組織を持った、自立した神道を始めて形成した。

また、近世神道では「天道」の概念が重要となった。これは「思想の還俗」を象徴するものであるという。さらに鎌倉期以来の諸教一致思想が進む中で、易・道教(老子)・仏教(密教)・儒教が全て「神道」なのだと吉田兼倶は言っている。これは、神道が根本で、道教や仏教はそこから派生したものなのだ、という倒錯した立場である。しかし神仏儒三教一致思想は、石田梅岩や手島堵庵など心学でも盛んに言われるようになった。

さらに、儒家は神道を再解釈し「儒家神道」を生みだす。林羅山は『神道伝授』『本朝神社考』を著して理当地神道なる独自の神道を早くも生みだしていたが、やはり山崎闇斎の垂加神道の影響が大きかった。これは朱子学の「理」の概念を「神」に結びつけ、習合的理解ではなく、神道を倫理主義的に理解することによって生みだしたものである。

そして、神道は国学と接続していく。これは、基礎的文献の出版によって中世的な附会説が排斥されて、実証的研究が行われるようになったことを背景としていた。中世に生みだされた典籍が偽書として指弾され、神話や古典が批判的に見直されたのである。ところが平田篤胤以降、再びそこに宗教性が導入されていったのは皮肉である。

最後に、「神道」の成立について著者の見解がまとめられており、それを要約すれば、(1)仏教の本地垂迹説の影響を受け神を教理化した中世期が一つの画期であり、それは「神道」の読みが「ジンドウ」から「シントウ」へ変化したことでも根拠付けられる(マーク・テーウェンの説)が、(2)神仏分離・廃仏毀釈によって仏教と分離したことによって民族宗教としての神道が成立した、とまとめられる。

本書は全体として、著者の専門である中世期を中心に神祇信仰の変化を詳述するものであるが、神道成立の画期である近代はほとんど全く触れられず、近世についてもかなり概略的である。特に江戸幕府による神道統制について等閑に付したのはバランスが悪かったと思う。また、時代が行ったり来たりするのは頭の整理に苦労した。ただし中世については新書を超えるレベルの専門性があり、大変参考になる。

なお、神道説の随所に聖徳太子が出てくるのに興味が湧いた。太子信仰と神道の繋がりは本書にはまとまって書いてはいないが、神仏融和の象徴として聖徳太子が扱われていたのかもしれない。

中世神道を中心に、神道の多様な側面を描いた良書。

【関連書籍の読書メモ】
『神道の成立』高取 正男 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/07/blog-post_21.html
神道の成立過程を丹念に辿る本。神道成立前夜の動向を、細かい事実を積み重ねて究明した労作。

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