2023年4月25日火曜日

『漂泊—日本思想史の底流』目崎 徳衛 著

日本における漂泊の思想をエッセイ風に探る本。

著者によれば日本の思想史には3つの類型が登場するという。第1に、宗教的な志向、第2に、政治的・社会的な志向、そして第3に、そうした規範ではなく、旅をしつつ生の実相を見つめる志向である。すぐに看取されるとおり、この類型はあまりに大雑把で、しかも第3の類型については理念的すぎ、ちょっと導入からひっかかる。

ともかく、本書は日本思想史に登場する第3の類型である(と著者が考える)漂泊的志向について、歴史に沿って述べるものである。ただし、本書では「漂泊」が厳密には定義されていない。著者が何を持って漂泊と見なすか、やや恣意的であるように見受けられる(後述)。このように、枠組みがあやふやであるために、本書は残念ながら思想史としては成り立たず、著者自身が述べるようにエッセイの範疇だ。

日本における漂泊の原型は、ヤマトタケルの軍旅である。それはなぜか。記紀神話によれば、ヤマトタケルはただ戦いに赴いたのではなく、そこに詩心が伴っていた。漂泊者の原型とは、運命的悲劇によってよるべない放浪に赴く詩人なのである。

しかし万葉集は未だ漂泊以前である。それは、万葉集には夥しい羇旅歌が収められてはいるものの、大和から離れて故郷を懐かしむ気持ちが濃厚で、旅そのものに生きる態度が見られないからだ。ただし遊行女婦(うかれめ)という、旅先にある男を慰めた女たちには、漂泊的な性格が看取できる。彼女たちのよるべない暮らしは、例えば大伴家持のような高位の官人の旅よりも、漂泊の詩心を育んだのに違いない。なお本書には指摘がないが、「遊行女婦」という当て字も興味深い。彼女たちの存在は「遊行」であると見えたのだろうか。

最初に漂泊の思想が形をなしたのは、伊勢物語であるという。在原業平のありし日の色好みと老いて後の零落は、放浪の悲劇を鮮明な形で表現している。一方、女性がよるべない境遇に陥り、放浪して生きながらえるというモチーフは源氏物語の宇治十帖にも描かれ、小野小町が零落して遊女になって漂泊したという伝説にも見られる。才女や美女が哀れな末路を辿りさすらうという物語を人びとは好んだのだ。

それはフィクションの世界だけではない。後深草院の寵愛を受けた女房二条は宮仕えを辞して諸国行脚をし『とはずがたり』にまとめている。そこには「妄執と信仰の間をたえず揺れ動く心情」が表現された。それが「中世漂泊者特有のエネルギー」であった。

中世には、漂泊が一つの形をなすようになる(=著者曰く「中世的漂泊観念」)。漂泊に形を与えたのは「名所」と「歌枕」だった。名前を出すだけで情感が生じる「名所」、そしてその地名を読み込んだ名歌、そしてその名歌を本歌取りにした作品の続出が、「歌枕」を成立させた。特に陸奥の「歌枕」は特異な魅力をもった。中将実方(さねかた)は政争の果てに陸奥へ赴き、歌枕を訪ね歩いた。それは観光というようなものではなく、むしろ「痴(をこ)」なる行為であった。端正な王朝文化から逸脱して風狂に近づいたのだ。漂泊は反俗精神を内包していた。

能因も陸奥・出羽を訪れ、大漂泊者の劈頭となった。彼は数寄者であり、遁世(出家)の形をとってはいたが、宗教的な修行の跡はなく、歌道に沈潜することが目的であったと見られる。彼は非僧非俗(世俗的生活も捨てなかった)の暮らしの中で数寄心に殉じて漂泊した。

その能因を手本にしたのが西行である。西行は、実際に旅に出ていた期間はたった3年ほどだが、信仰と数寄を共に高いレベルまで高め、命がけの修行の中でも消えない詩心、「甘美な何か(p.188)」を漂泊に託し、「魂の漂泊」をなした。しかし次第に信仰と数寄に引き裂かれ「いかにすべきわが心」と嘆ずるようになった。

なお、中国への渡航のように、理想郷への脱出・まだ見ぬ国への憧れも漂泊思想に影響を与えた。本書には宋の五台山へ参詣しようとした源実朝の事例が述べられているが、現実を打開する術がない時に、脱出の衝動を持った実朝は、実際には旅をしていなかったとしても漂泊者の系譜に位置づけられる。

『一言芳談』は念仏行者・遁世者の言葉を収録したものであるが、ここに「人生そのものが旅(今生は一夜の宿り)」とする中世漂泊思想が表明されている。人生は仮のもので、旅の宿り(一時的なもの)にすぎないとすれば、教学までも否定の対象となりうる。

その虚無主義を超克したのが一遍である。彼の旅は苦悩や零落によるものでなく、大衆に崇められ、法悦に乱舞する大勢に囲まれてのものだったが、彼はどこか孤独で、あらゆるものを捨て去って遊行した。それは自らを超越的立場におくもので、人間的な営みである漂泊とは対極的なものであった。

連歌師宗祇の旅も、漂泊とは似ても似つかない、ビジネスライクなものであった。戦国たけなわのころに宗祇は各地に招かれ悠々と旅をし、城に着けば至れり尽くせりでもてなしされた。しかし制作された連歌には、そうした実態は出てこず、「今生は一夜の宿り」の無常観、旅と人生の連結が表現されている。漂泊が現実から遊離し、類型化した語りになっているのである。それでも宗祇の中には、日常性に埋没しきれない数寄心が蠢いていた点で、漂泊者とみなせる。

そして近世に向かうにつれ、宗教が地獄を恐れる切実なものから遊興じみたものへと転化したように、旅も恐ろしいものから楽しいものへと変わっていった。近世には物見遊山の旅は厖大に行われたが、かえって漂泊のような反俗的な旅は少なくなった。著者はこれを「漂泊不在の季節」と呼ぶ。 そんな中で漂泊に足を踏み入れたのが芭蕉である。

彼は人生に行き詰まり隠遁し、さらに生活の後ろ盾の全く無い中で漂泊に身を委ねた。その旅は、西行を追慕して名所を周到に巡るものだったから漂泊とはいえない。しかしその精神は、全てを捨て、数寄心に殉じ、おのれを詩人としつつも、それを「妄執」と見なす漂泊の定型に合致していた。

ここで筆者の考察は終えられているが、さらに近世後期については、架空遍歴譚(例えば、平賀源内の『風流志道軒』、春川恋町の「異国奇談和荘兵衛」など)が少し取り上げられる。それは解放への欲求を反映したものと見られ、また近代になると西洋への憧れ、逃走が新たな漂泊の局面をなしてくる。

しかしそうしたものよりも、田山花袋が「東京の十三年」で書いている次の言葉は、近代における旅の本質を突いている。「旅に出さへすると、私はいつも本当の私となつた。」

著者が「あとがき」で述べるところによれば、「この一巻で追求しようとした主題は、古来日本人の心の底を流れてやまない漂泊の思いの、思想史的位置づけである(p.315)」ということだが、この意図は成功しているとはいえない。本書の方法論には問題が2つある。

第1に、漂泊を定義づけておらず、著者が漂泊と思いたいものを漂泊と見なし、漂泊者とみなしたい人を漂泊者としているということだ。西行は、たった3年ほどしか旅をしていないのに漂泊者としているし、逆に全国を巡りに巡った一遍が漂泊者ではないというのも首肯しがたい。著者は最初から「漂泊の思想とはこのようなものだ」と決めて、その結論に合致するように人物を当て嵌めていっている。だから歴史を繙いても著者が最初に措定した思想以上のものが出ていない。また近世には、よるべない旅に生きた人びとが大勢いたのであるが、そうした人びとを全て漂泊者でないと片付け、「漂泊不在の季節」としたのは大きな瑕疵であろう。

第2に、漂泊と仏教の関係を正面から取り上げなかったことである。仏教においては、遍歴することに大きな意味があり、勧進しながら、托鉢しながら諸国行脚をすることが非常に重要な修行であった。古来信仰によって日本を回ったものは数えきれぬほど存在する。それらは、よるべない放浪とは違ったものもあったが、著者のいう漂泊の性格のいくらかは持っていた。確かにそれらが詩心を常に伴っていたとは言えない。しかし漂泊に詩心がなぜ必須なのか、本書では遂に説明されない。仏教思想による漂泊を捨象したことは、漂泊の思想を大きく切り詰めるものである。

このような問題があるため、本書では漂泊の思想が十分に展開しない。意地悪な言い方をすれば、著者のいう「漂泊」は単なるセンチメンタルな旅にすぎない。著者自身が「気楽なエッセー」と述べているのだから、「思想史」として批判するのはフェアではないとは思うが、思想を記述する堅牢な枠組みを設けた上で書けば、全然違ったものになったように感じられ、惜しまれる。

曖昧な枠組みで書いているため、漂泊を十分に書ききれなかった惜しい本。


2023年4月23日日曜日

『蘭方医桑田立斎の生涯』桑田 忠親 著

幕末を生きた蘭方医の伝記。

桑田立斎は、小児への種痘に取り組んだ蘭方医である。幕末には西洋医学がさかんに流入し、特に天然痘のワクチン「種痘」についてはかなり普及した。種痘の接種に取り組んだ蘭方医は多く、特に長与専斎は有名だ。そうした中で、本書の主人公の桑田立斎はそれほど有名な人物とはいえない。

立斎がやや独特だったのは、彼が小児科の開業医だったことと(当時「小児科」という概念があったのか不明であるが、本書では「小児科医」ということになっている)、幕命で蝦夷地(北海道)に行き種痘をしたこと、7万もの人に種痘をしたことである。

私は本書を2つの興味から手に取った。一つは、幕末の蘭方医がどんな存在だったか知りたかったこと、もう一つは、蘭方医がどんな髪型をしていたかということである。どうして髪型が気になるのかと訝しむ向きも多いだろうが、当時の髪型は社会的地位を示すものなのである。

ただし、本書は史料に基づいた評伝ではなく、桑田立斎を広く知ってもらうための小説である。よって、髪型のことも触れられてはいるが、それが事実なのかフィクションなのか判断がつかず、本書は私の興味に完全には応えてくれなかった。以下、髪型を踏まえつつ簡単にメモする。

桑田立斎は、文化8年(1811)、新発田藩の下級武士の次男、村松五八郎として生まれた。彼は明王院という地蔵菩薩を祀る寺院で生まれ地蔵菩薩のお弟子となっていたので、元服を過ぎても稚児髪を剃り落とした時のままの坊主頭であった。武士ではない、という徴(しるし)だろう。

ちなみにその頃、蘭方医の町医者(島田本道(竹斎))は総髪をしていた、とある。既に蘭方医の町医者がいた、ということ自体が興味深い。では蘭方医ではない医者(つまり漢方医の医者)は、どういう髪型をしていたか。医者は法橋とか法印といった僧侶としての位を持っていた(持っているものもいた)ので、剃髪していたようにも思うが本書には髪型の記載はなかった。

村松五八郎、改め村松和は蘭方医を志し、江戸に2度遊学する。しかし十分に西洋医学を学ぶことはできず、帰郷後、島田竹斎の蔵書に接して勉強した。ここには『西説内科撰要』18巻などがあった。西洋医学書は、維新前に漢訳され、少ないながら流通していた。

村松和は再度江戸に出て、蘭方医坪井誠軒の日習塾に入った。和はこの頃も坊主頭だったという。当時、江戸には戸塚静海、大月俊斎、竹内玄同、伊東玄朴ら蘭方医の大家がいた。彼らは幕府か諸藩に仕えて侍医となっていた。また高野長英、渡辺崋山、小関三英、鈴木春山らの尚歯会も西洋文明の積極的輸入を図っていたが、尚歯会は「蛮社の獄」で弾圧される。彼らは政治批判の廉によって捕縛されたが、西洋医学自体は弾圧の対象とはなっていない。

村松和は坪井誠軒の紹介で蘭方医桑田玄真の養嗣となり、32歳の時に深川西大工町に小児科医院を開業した。結婚して子どもを設けた後、嘉永2年に伊東玄朴から牛痘種痘の痘苗を分けてもらい、牛痘種痘を開始。それを機に立斎と号した。39歳の時である。

立斎は種痘を進めるために『済幼私説』『済幼問答』という小冊子、『牛痘発蒙』という本を出版。そして実際に多くの人びとに種痘を施した。また小児養育に関する本『愛育茶譚』や『宝ハ子ニ勝ル物無きの弁』という冊子も出版するなど、多くの啓蒙書・パンフレットを送り出した。立斎は、民衆に種痘を広めるための啓発活動に力を入れたのである。

こうした活動が注目されたのか、彼は老中阿部正弘から幕命を受け、当時天然痘が流行していた蝦夷地に渡ってアイヌに種痘を施すことになった(深瀬洋春という江戸の蘭方医も同じ幕命を受けて蝦夷地に渡ったが、二人は別々に行動)。

アイヌへの種痘は狩り出して無理矢理接種するというようなものだったらしいが、立斎は人道的な方法によって行った。また立斎と助手などの一行は、箱館から十勝へ渡り、根室から国後島にまで行った。これは当時、立斎の養父桑田玄真の実子、関谷順之助が国後島(箱館奉行所国後出張所)で勤めていたからであった。なお蝦夷地行きから立斎は頭髪を生やすようになった、とされている。総髪になったのだろうか。

蝦夷地では、幕府から出た費用の他に200両ほどの私財も投じ、6400人に種痘を施した。江戸に帰還して安政5年(1858)には、江戸でコレラが大流行する。また同年、伊東玄朴らが種痘所を江戸に設置することを幕府に申請し認められた。これは蘭方医82人の醵金による私設の種痘所である。これは文久元年(1861)に西洋医学所と改称され、東京大学医学部につながっていくものである。

文久2年(1862)には、麻疹が江戸に大流行した。麻疹は天然痘以上に致死率が高かったので、江戸市中だけで26万人以上の人が亡くなった。「坂下門外の変や生麦事件よりも、全国的に大流行した麻疹のほうが、一般庶民にとって、はるかに身近な大事件だったのである(p.179)」。麻疹の治療にも立斎が必死で当たったことは言うまでもない。

立斎は、生涯で10万人に種痘を施すという目標を立てており、維新の混乱で江戸から避難する人が出る中でも医院を開き続けた。ところが種痘の注射を打とうとしたところ、注射器を握ったまま突然死した。慶応4年(1868)、享年58歳。生涯に種痘を施したのは約7万人であった。「幕末のジェンナー」と評される。

本書の著者、桑田忠親は立斎の子孫で(忠親の曾祖父が立斎)、本家に蔵されていた『桑田立斎年表』と『遺言状』という史料に基づいて、フィクションを適宜交えて本書を書いている。著者の専門は戦国時代から織豊時代、特に茶道の歴史について研究した。よって幕末を舞台にした本書は、専門から外れる。

先述の通り、蘭方医やその髪型についての情報は期待通りのものではなかったが、本書を読みつつ、幕末における西洋医学の受容について改めて興味が湧いた。さらには、それは洋学全体の受容の中でどのように位置づけられるのか。今後勉強してみたい。

 

2023年4月6日木曜日

『旅のなかの宗教—巡礼の民俗誌』真野 俊和 著

四国遍路を中心に日本における巡礼について述べた本。

巡礼とは、聖地に赴くことをいう。メッカ巡礼とか、エルサレム巡礼といったように。そして日本の場合、特定の目的地を持たず、神社仏閣を(しばしば当てもなく)巡る巡礼もある。

気軽に旅行に行けなかった近世以前の社会においては、旅はほとんど宗教的な目的のものに限られていた。そして同時に、宗教そのものが旅を通じて形作られてきた。聖たちはひたすらに歩き、遊行することそのものが修行の本質だと考えていた。だから巡礼は、日本の宗教の核心といってよい。 

そしてまた、定住し農業を営むことを基本とした日本において、そこからあぶれたものが頼ったのが旅でもある。旅は「もうひとつの生存様式(p.40)」であった。

旅に生きた人々には、空也、一遍のような高僧もいたが、「鉢叩き」「鉦打ち」といった半僧半俗の下級宗教者、「すたすた坊主」や「高野行人」のような乞食芸能者もいた。また「熊野比丘尼」「歌比丘尼」といった、春をひさぎつつ宗教的に漂泊した女性も決して少なくなかった。こうした人々は、生きるために旅をしていたのだ。

そして彼らの旅は、常に物乞いを伴っていた。それは糊口をしのぐために必要なものであると同時に、彼らの宗教の本質的部分でもあった。モノをもらって集めること自体に、聖性があったようなのだ。

また日本の巡礼には、古くは特に順路の定めがなかったが、やがて西国三十三観音、秩父三巡山観音、四国八十八箇所(以下「四国遍路」という)といった定型的な巡礼コースとそのやり方が確立していった。

なかでも四国遍路は、組織的に形成されたものではなく、民衆の側からの自然発生的な行為として産まれ、何らの教義的位置づけもなかった点で他の巡礼コースと異なる。どの寺が札所となりどの寺が番外札所となるか、といったことも正確な理由付けを与えることは難しい。それどころか、近代になるまで札所寺院では遍路を誘致することも、教理化することもなく、信者として扱うこともなかった。どちらかというと巡拝者は寺院にとって厄介者であった。よって「四国霊場には、ほとんどあらゆる宗教に共通してみられる、神・仏と人間との間の仲介役である神職・僧侶と信者たちという二元的な関係にもとづく宗教行為や宗教体験の一切が存在しない(p.61)」。

遍路の宗教的な核心は弘法大師信仰であり、遍路は弘法大師と直接に関係を結ぶための修行であった。遍路は「同行二人」(弘法大師と共に巡る)を標榜し、個別の寺院よりもそちらの方が重要な意味を持った。

では遍路はどうやって生まれたか。西国三十三観音などと比べ、遍路の起源は謎に包まれている。もちろん空海が開創したという伝説は事実ではない。どうやら遍路は、補陀落渡海の信仰と空海ゆかりの金剛頂寺(金剛定寺とも)の乞食(こつじき)が核となって出来上がったものらしい。早ければ11世紀後半、遅くとも平安時代末には、四国の海岸を回る信仰が成立した。遍路では寺院が先にできたのではなく、まず「道」が出来て、巡拝者たちの拠点として寺院が出来上がっていったというように考えられる。

四国遍路の祖とされる伝説的人物が「右衛門三郎」だ。彼は富と権力を持っていたが、托鉢の僧侶をすげなく打擲したため八人の子どもが次々と死に、乞食しながら巡礼して改心、大師の加持を得る(生まれ変わる)、といった伝説が伝わっている。現実には、この伝説が出来上がったのは四国遍路が成立した後のことだが、この伝説において既に大師と巡拝者とが直接関係を結ぶことが述べられているのが象徴的だ。

次に、どのような人々が遍路を旅したか。遍路は苦行であるから、遍路に行かざるを得ないくらい追い詰められた人が遍路を歩いた。例えば、家から追われ故郷から追われた、寄る辺ない人々、病気になった人々といったものだ(病気も前世の業罰のためと考えられていた事情もある)。例えば「金比羅宮のあの長い石段の両側には、ほとんど一段ずつといってよいほどに、参拝客の喜捨をあてにした癩者たちが並んでいた(p.98)」。しかしともかく遍路を巡りさえすれば、なにがしかの喜捨を受け、とりあえず生きていけるという社会福祉のような意味もあった。

しかし辻堂や岩穴に寝起きする彼ら乞食遍路は、人々から嫌われ蔑まれた。それが戦前までの遍路のかなりの部分を占めていた。

なお本書では、巡礼者の事例として、遍路ではないものの野田泉光院の場合が詳述されている。しかし野田泉光院については別途読書メモに書いたことがあるのでここでは割愛する。

江戸時代初期の貞享4年(1687)、遍路の歴史にとって画期的な本『四国辺路道指南(みちしるべ)』が上梓された。作者は諸国を行脚する修行僧、宥弁真念。これによって四国霊場のまとまった案内が初めて公になった。札所の数や順序などもこの真念によるものだという説がある。ついで元禄2年(1689)、高野山の学僧石堂寂本は大著『四国遍礼霊場記』全7巻を出した。さらに翌元禄3年(1690)、真念は遍路の信仰説話集である『四国遍礼功徳記』上下巻を著した。彼は遍路屋を開設したり、標石の建立といった仕事もしている。真念の宗教は、「雑然とした、どちらかといえば完成度の低い要素を多分に含んでいた(p.118)」が、民衆宗教としての四国遍路の確立に大きな影響を及ぼした。

とはいえ、遍路を巡った巡拝者たちが、皆がみな切羽詰まった信仰を持っていたわけではなかった。その一例として、江戸時代後期の文政2年(1819)に四国遍路の旅に出た新井頼助の様子が詳しく紹介される。その旅は物見遊山のためだった。それは各地をついでに観光しつつ、木賃宿(米は持参でたきぎ代のみの宿)や善根宿(遍路を無料で泊まらせる宿)に泊り、のんきに札所を巡るものだった。それでも村に帰ると、「十日近くにわたって祝いの人びとが訪れ(p.131)」、四国遍路の成就を祝った。遍路の大部分は乞食で嫌われていた、ということと、遍路を終えた人への祝賀とが、同時に存在していた。

一方、哥吉という少年は11歳から14歳まで苦難に満ちた巡礼を行った。彼は養母とともに四国遍路に入った。村にいても食っていけないので、托鉢に頼って生きようとしたのだ。しかし途中で母と弟が死亡。哥吉は遍路を続け、途中である六部と出会い行動を共にする。ところが彼は親元に送ってやるといいながら、自分の巡礼につきあわせ、九州、西日本、東日本と巡ることになった。その六部が死んで哥吉はようやく故郷に帰った。無一文でも、親無しでも、遍路・巡礼に出れば生きていけたという実例だ。

大正時代、後に女性史の分野で名をなす高群逸枝は、24歳の時に四国遍路に出た。四国遍路を志した理由は明確にはわからないが、 彼女には「観音の申し子」として育てられた宗教的なバックボーンがあった。道すがら伊藤宮次という老人と出会い、この老人と同行してお修行=托鉢をしながら(実際には老人が托鉢して)遍路を歩いた。なお遍路には、一日に3軒ないし7軒、もしくは遍路中に21軒のお修行をしなければならないという不文律があった。彼女は不潔な遍路宿・木賃宿に苦しめられ、病気に冒された醜い遍路たちに言葉を掛けることもできず、「遍路旅へのそこはかとない憧れ」は打ち砕かれた。しかし彼女はその経験を「遍路愛」として昇華させた。

しかし遍路を歩いた巡拝者には、やはり最後にすがる信仰として旅に出たものが現代でも少なくない。事実、医師からも見放された難病が遍路で劇的に快癒したり、躄(いざり)が歩けるようになったりといった奇跡は、今でも続々と生みだされている。そしてそういう霊験にあずかることの出来た人々は、それを文章にして公開し、持ち物を奉納した(いざり車、ギプス、松葉杖等)。立江寺には、小指を切って奉納するという奇妙な風習まであったという。

そして、それらの霊験譚は乞食遍路によって各地に伝播され、四国遍路の名を高からしめたのだろう。四国遍路の霊験譚には、普通のはやり神や神社仏閣の場合とは違う特徴がある。それは、特定の寺院や本尊、特定の霊験に期待するのではなく、仮にある寺で霊験を得たとしても、遍路全体のおかげによるものと見なしていることだ。それは「多彩な状況のすべてを一挙に解決するオールマイティとしての、大師(p.191)」にすがることが遍路の本質であったからなのだろう。よって、現代でも霊験は生みだされてはいるが、それらには札所寺院側の関与の程度が希薄なのだ。四国遍路は特定の宗教的エリートによってではなく、民衆によって維持され再生産される霊場なのである。

他方、遍路を受け入れる民衆社会には、接待の文化があった。 巡拝者にお茶や果物を振る舞うことである。遍路は札所よりも、地域社会との関わりの方が深かった。接待にはいくつかの形態があり、遠方からの出張である「接待講」による組織的なものもあれば、個人的なもの、村全体で接待するものもある。

では村落社会は温かく遍路を迎えたかというと、これがなかなか複雑だった。先述の通り遍路は嫌われ蔑まれていた。だが遍路は、ある意味で敬われてもいた。村の人びとは彼らを接待することに意義を感じていた。それは単なる同情心ではなく、畏れに近かった。接待は、おそらくは巡拝者のもたらす災厄を避けるための供物だったのであろう。

また、巡礼は様々な人が交錯したから、文化の運搬も担っていた。四国には様々な文化が持ち込まれ、また全国各地へと広めてもいった。遍路には文化的価値があった。

しかしながら近代になると、遍路への風向きは悪くなる。明治9年、植木枝盛が主筆だった『土陽新聞』は、体系的かつ理路整然とした遍路排斥論を掲載した。これに先駆け、高知県は遍路を追放する禁令を出している。遍路を規制・管理下に置こうとするのは近世から始まっており、例えば天保4年(1833)の土佐国では「他国遍路の出入国の場所、領内の通過日数、順路の指定と脇道にそれることの禁止、呪的行為、勧進、托鉢等の禁止からはじまって、遍路に対する規制はさまざまな面にまでおよんでいた(p.224)」。反面、藩当局には遍路を保護する姿勢もあったのが興味深い。

遍路を規制しながらも、同時に遍路の存在を是認していたのが近世であったが、近代になると旅人を受け入れる人びとの側の方の意識が変わり、「巡礼は乞食・物乞いにほかならない」と見なされていった。そして日本は「乞食を貧民として、社会脱落者として遇するしかできない社会(p.230)」となった。ここに近代的乞食観の形成の一端が窺える。

今でも四国遍路は盛況であるが、その点では近世までのあり方とは異なっているのである。

全体として、本書は四国遍路については歴史・習俗・社会的認知まで含め、多面的に記述しておりとてもわかりやすい。しかし「旅をする宗教」というテーマとしては、四国遍路のみに終始した観があり、やや物足りなくも感じた。巡礼・勧進・乞食に生きた宗教者は古来たくさん存在した。そういう巡礼する宗教のあり方の中で、四国遍路はどう位置づけられるのか、そういう疑問が浮かんでくる。

なお著者は、東京教育大学理学部数学科を卒業後、同大学院で日本史に転向している。私も数学科卒なので親近感を抱いた。本書は初の単著のようだ。

四国遍路を理解するための平易な良書。

【関連書籍の読書メモ】
『泉光院江戸旅日記——山伏が見た江戸期庶民のくらし』石川 英輔 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/05/blog-post_21.html
日本を巡った山伏の旅日記。江戸時代のイメージが一変する、読んで楽しい日記の解説。

 

 

2023年4月2日日曜日

『開国と幕末の動乱(日本の時代史20)』井上 勲 編

幕末から明治維新までを通史とトピックで述べる本。

私は「開国」に興味があって本書を手に取ったが、本書では「開国」が真正面から扱われていない(むしろ同シリーズ『明治維新と文明開化(日本の時代史21)』の方が「開国」について述べている)。なお、私の言う「開国」とは西洋文明の流入と開港・貿易のことである。

さらには、「幕末の動乱」についても普通に考える幕末の動乱——安政の大獄、天狗党の乱、天誅の流行といったような——は、簡単にしか触れられない。「開国と幕末の動乱」という枠組みで書いてあるのは、井上 勲による冒頭の通史のみである。よって、本書はタイトルと内容に不一致があると言わざるを得ない。

では本書には何が書いてあるか。

一言で言えば、それは「幕末明治の横顔」である。通常の幕末維新史では取り上げられないニッチなテーマを盛り込んだのが本書である。

通史「開国と幕末の動乱』(井上 勲)では、ペリー来航から王政復古に至るまでの政治史を描いている。印象に残ったのは、近世社会の秩序が開国直後から緩んでいっていることだ。対アメリカ外交の方針について広く意見を聞いたのもそうだし、朝廷が幕府の人事にまで容喙したり、「戊午の密勅」を水戸藩士に手渡したりといったことも含まれる。形式面でも内容面でも、近世社会を支える枠組みが早くも形無しになっていた。

枠組みが流動していった結果、幕府が委任されていると考えられた「大政」の枠外に「国事」という、朝廷が最終決定権を持つ領域が形作られていった。また雄藩と呼ばれる外様の大藩は、その藩主が幕政から排除されていたため、「国事」に参画していこうとする意欲を持っていた。ここに、雄藩(有志大名)が幕府機構から離脱して直接朝廷と結びついていく構造があった。

雄藩の活動は、当初は公武合体運動として具体化し、次に尊皇攘夷運動へと進んだ。こうした活動の中で、藩を基盤とする身分格式は次第に無意味化した。京都の治安維持のため新設された「京都守護職」に就任した会津藩主松平容保が配下にしたのが新撰組だったが、彼らは会津松平氏の家臣ではなく浪士集団であった、ということにもそれが象徴されている。

長州勢力を朝廷から駆逐した「八月十八日の政変」後に設けられた参与会議では、徳川慶喜とともに有志大名が参与に任命された。既に徳川ー譜代・親藩ー外様といった格式秩序は失われ、有志大名は「朝廷と幕府の最高の政策決定に参加し得る権限(p.58)」を身につけた。しかし参与会議は話がまとまらずあえなく瓦解し、いわゆる一会桑政権が時局を担った。

この時に徳川慶喜が将軍後見職を辞して就いたのが、「禁裏守衛総督兼摂海防御御指揮」という新設の職である。「総督」とか「御指揮」という役職名が、幕府の旧来の機構からすでにはみ出していた。 慶喜は幕府と有志大名の双方から調停の役割を期待されたが、幕府と有志大名は対立していたのだから、結果的には板挟みにならざるを得なかった。そしてその板挟みの中で、長州藩が朝敵としてスケープゴートになっていく。

長州藩では、攘夷の戦争に備えて「武士ならびに農工商また猟師また神職・僧侶等を構成員とする軍事集団が編成されていた(p.67)」。ここでは幕府よりもずっと先鋭的に身分格式が崩壊していた。

時局の問題は、開国か攘夷か、長州をどうするか、という2点が大きかったが、第1の点は開国やむなしと時勢は収束した。あとはそれをどうやって正当化するかという手続き論だった。しかし長州問題については政争の末に分極化し、慶喜と薩摩藩がそれぞれの極に位置した。にもかかわらず、慶喜は極としての十分な権威を持っていなかった。14代将軍家茂が長州戦争の最中に死去しても、将軍職を固辞して受けなかったのもそのためだ。

慶喜は将軍就任の大義を得るため諸侯会議の開催を構想。20名の諸侯に上洛令が出された。そこでは「藩主ではないにもかかわらず指名された者が五名いて、徳川慶勝・鍋島斉正・山内豊信・伊達宗城・島津久光の有志大名がそれ(p.84)」であった。将軍ー藩主ー家臣という身分秩序は、ここでも形無しになっている。身分よりも実力がものをいう社会になっていた。しかし結果的には一人の有志大名も上洛せず、慶喜の権威は不完全なまま将軍となった。

慶喜は、直接手を下したわけではないが幕政を広範に改革し(慶応幕政改革)、積極的な外交を行った。パリ万博に参加し、徳川昭武を将軍名代としてヨーロッパに派遣。また慶喜は、松平慶永・山内豊信・伊達宗城・島津久光を招集して四侯会議を開催したが、長州問題で意見が折り合わずこれも瓦解した。幕府と有志大名の最終的な決裂であった。

極めて流動的な時局の中で、大政奉還と王政復古の政変があり、幕藩体制の統治機構の根幹が一括して精算された。だがこの王政復古とは、文字通りの復古ではなく、会議体の構築をそう呼んだに過ぎなかった。その会議体のトップが総裁・有栖川宮熾仁親王。「皇族ないし親王が、摂家を措いて朝廷の主宰者の地位に就くことは前例をみな(p.107)」かった。

徳川慶喜はこの体制から排除されていたが、辞官・納地を受け入れ、体制に参入しようとした矢先に鳥羽伏見の戦いが勃発し、討薩を表明。しかし直後に逃亡して戦線が瓦解、新政府はここに確立したのである。

「Ⅰ 幕末の「世直し」待望」(宮崎ふみ子)では、「世直し」「世直り」を求めた幕末の民衆宗教を取り上げる。幕末には、物価高騰、治安の悪化、災害、大地震、コレラなどが民衆を襲い、人々は社会の変革を希求した。当時の錦絵には、地震の化身であるナマズがかえって救済者として描かれているものがあるほどだ。では民衆は「世直し」後にはどのような世界を期待したか。本章では、不二道と黒住教、「ええじゃないか」を取り上げそれを考察している。

富士講の一種である不二道では「みろくの世」という理想世界が近づいているとしていた。そして「みろくの世」に近づくために肝要なのは「心」であるという、二宮尊徳・石田梅岩的な唯心論を説いた。その教義には幕府にとって危険な面はあまりなかったが、幕府は嘉永2年(1849)に富士講・不二道を「新義之異法」として禁止した。だがこの取り締まりは徹底されず、不二道はさほど打撃を受けなかった。

一方、黒住教は病気治しから初まり、吉田神道を援用して権威を得、太陽神としての天照大神への信仰を強調した。黒住教では「神代」「神世」が理想の世とされたが、それは「三千年の昔」の再来であり、大和風の文化が再興される時であった。

「ええじゃないか」は、伊勢神宮のお札等が降ったことををきっかけに起こった民衆の祝祭であるが、本章ではこのケーススタディとして三河国牟呂村、東海道藤沢宿の場合を取り上げて、その祭礼等がどのように行われたのかを分析している。その中で注目されるのは、藤沢宿で葬礼の仮装行列が行われていることで、これは明らかに伝統とは異なる要素である。また祝祭が20日間も続くことも異例だった。

「ええじゃないか」で謳われた「世直し」は、生活条件の改善を求めていた。しかし「ええじゃないか」は心情的にはそれを基調としながらも、その要求を正面から掲げることはせず、祝祭の中に日常性から逸脱することで消極的にそれを表現した。

なお「ええじゃないか」は伊勢神宮のお札をきっかけにすることが多かったが、おかげ参り(伊勢参宮)に行くことは少なく、人々は近隣の名社に参詣した。多くの人が手近に神社参詣を楽しむことができるようになっていたから、伊勢神宮の重要性は低下していた。「ええじゃないか」を伊勢信仰や天照大神信仰に短絡的に結びつけることはできない。

明治維新後、為政者たちは幕末の庶民信仰に類似した形式と内容で、宗教的色彩を帯びつつ民衆を告諭した。明治維新は民衆が求めていた「世直し」そのものであるとしつらえたのである。しかしそこでは、真の要求であった生活条件の改善は置き去りにされており、神話の世の中が具現化したということだけが謳われていた。

「Ⅱ 動乱の時代の文化表現」(延広 真治) は、本書中異色の論考。文久以降の舌耕文芸(講談・落語・浮世草子・歌舞伎などの大衆文芸)における怪談話についてその変遷を詳細にまとめている。ところが、怪談話の内容に深入りしているために、それが「動乱の時代」とどう結びつくのか全くわからない。本編は完全に「文芸史」の範疇である。

本編では「怪談牡丹灯籠」に先行する怪談話を分析。それは、「幽霊が恨みを晴らすために現れるがお札が貼ってあって家へ入れない。そこに第三者が通りかかり、幽霊がお札を剥がすことを依頼。その人物によりお札が剥がされて幽霊が対象者を呪い殺す」といった基本的な筋を持つ。そこで私が気になったのは、この「お札」が「二月堂の牛王(のお札)」である話がとても多いということである。二月堂とは明示されなくても「牛王」であることが多い。どうやらこの頃の家には、戸口に戸守(とまもり)と呼ぶお札が貼ってあり、その代表が「二月堂の牛王」であったらしい。

二月堂とは、言うまでもなく東大寺二月堂(お水取りが行われている場所)。それで私はかつて二月堂には牛王こと牛頭天王が祀られていたのかと思ったが、(以下、読書メモの範疇を超えるが)調べてみるとそうではないらしい。普通には「牛王のお札」とは「牛王宝印」のことで、熊野の牛王が有名であるが、二月堂でも「牛玉(ごおう)刷り」というお札があり、今でも作られているということである。

「Ⅲ 「武威」の国—異文化認識と自国認識」(池内 敏)では、近世の日本人が、自国をどのような国として認識したかが述べられる。まず為政者の側では、将軍を「日本国大君」と対外的に呼ばせたのが注目される。これは実質的には対朝鮮の自国認識であった。日本は自らを小中華に位置づけ、朝鮮はそれになびく国と見なしていた。

それは朝鮮との交流窓口であった対馬においてもいえる。対馬は異文化衝突の現場でもあったが、それがやがて「優れた日本」と「劣った朝鮮」との問題であると捉えられるようになり、外交交渉においても朝鮮を武威でもって押さえつけることへの憧憬すらも表明された。日本は、朝鮮よりも武力のある強い国でなければならなかった。そういう為政者の態度は民衆にも共有されていたものと見られる。

また、「武威」の国として重要な神話が神功皇后三韓征伐であり、歴史的事実として秀吉の朝鮮侵略があった。ただし神功皇后の神話の流布は、常に朝鮮への蔑視や武威の強調に力点があったのではないということにも注意が必要である。

「武威」は自国認識としては広く共有されていたと見られるが、現実の日本は長く武力行使することはなく、その統治も江戸時代中頃からは「礼」に基づくものに変質し、「武威」は観念的なものになっていた。それでも「武士」は武力の現実・限界を感じていたようだ。幕末には、むしろ国家運営から排除されてきた人々の方が、対外危機に際して好戦的な意見を持ち、武力行使を願望していたのである。

「Ⅳ 徳川の遺臣—その行動と論理」(井上 勲)では、徳川の遺臣について述べている。

まず、「遺臣」とは何か。遺臣とは、王朝交代が激しかった中国で、前王朝に仕え、現王朝に仕えることをよしとしなかった人々である。とすれば、形式上であれずっと天皇が統治してきた日本には遺臣はいない。水戸藩の「大日本史」の「隠逸伝」でも、俗世間から遠ざかった隠者が語られるだけで、遺臣は登場しない。ところが徳川は、朝廷とは別に王朝と呼ぶに足る機構を持っていた。よって幕府の崩壊に伴い「遺臣」が生まれることとなった。

大政奉還後に朝廷が諸侯に上洛を命じた時、朝廷に従うことを潔しとしなかった諸侯は官位を返上しようとした。官位が無ければ朝廷とは関係がなく、上洛令に応える必要はないからだ。官位返上の嘆願書を出した譜代大名は94名もいた。しかし頼るべき徳川慶喜は、新政府軍の攻撃を受ける前に自ら権力を解き、彼らをほとんど見捨てた。新政府に恭順の態度を取ったからである。徳川の臣であろうとした人々は、梯子を外された恰好になった。幕府に殉じて自刃した川路聖謨(としあきら)は間違いなく遺臣である。

また、新政府に反発した諸藩は奥羽列藩同盟を結成。蝦夷地に「徳川の一族を迎えて君主とし、遺臣による政治体を構築(p.252)」しようと夢想した。遺臣であろうとした人々の最後の夢であった。

幕府に殉じなかった旧幕臣は、新しい時代をそれぞれに生きた。旧幕臣や朝敵とされた藩の士族にキリスト教徒が多かったことは注目される。世の中の波に乗れなかった人々が、キリスト教に惹かれたのだ。例えば奥野昌綱がそうである。

一方、旧幕臣であった成島柳北は朝野新聞主宰して言論人になり、文明開化の世の中を批判的に見た。同じく福沢諭吉は、新しい世の中を批判的に見ながらも、流れに棹さした。福沢諭吉は「士族の精神」の振起を期待しながらも、西郷を擁護した「丁丑公論」、勝海舟の江戸城無血開城を批判した「痩我慢の説」を筐底に蔵し続けたのである。福沢の死後これらが公刊されると、「痩我慢」を続けていた旧幕臣にとっても、新政府で栄達した旧幕臣にとっても、これは明治維新をどう見るかという問題提起となった。

「Ⅴ 明治維新とアジアの変革」(山室 信一)では、 明治維新がアジアの国々にどう見られたのかを述べている。

明治維新は、アジアの国々にとって自らの変革のお手本と捉えられた。中国での洋務運動でも日本の経験は参照された。しかし暦法や服制など、生活文化までも西洋を盲目的に真似したのは批判されている。

さらに日清戦争後には、旧体制を変革するためにより真摯な関心が明治維新に寄せられ、黄遵憲の『日本国志』が大きな影響を与えた。特に康有為は日本に学び、『日本政変考』を編んで光緒帝に進呈。康有為は明治維新の経過を自らの都合のいいように改竄して皇帝に報告し、それが受け入れられ「百日維新」が実されたが、西太后によるクーデターにより頓挫した。ただしその中で教育の重要性は普遍的だったので、日本への留学や日本書の翻訳はその後も続けられた。

一方孫文にとっては、明治維新はお手本でありながらも、その神権政治などは受け入れがたかった。むしろどうして革命(明治維新)を起こすような人物が生まれたかという、教育や思想、精神の方に関心があり、西郷隆盛は革命家であると同時に日本の象徴として受け取られた。しかし日本があからさまに中国を蚕食するようになると、明治維新は批判の対象となっていった。

 

全体として、先述したように、本書は「開国と幕末の動乱」という自ら設定したテーマから逸脱した論考が多い。特にⅣとⅤは維新後を扱っており、論考自体の質はともかくとして、本書に掲載することは適当ではなかったと思う。

その上、全体を通じて浮かび上がってくるものがあるかというと、そうでもなく、構成が散漫であると言わざるを得ない。かなり自由に書いた論考の集成だ。せめて「開国と幕末の動乱」という時代の枠組みを守って書いて欲しかった。編集の井上勲自身が維新後を中心とした論考(Ⅳ)を書いているので、自由な編集方針だったのだろうが残念だ。

幕末明治の横顔を様々な角度から書いた論考集。