2018年1月11日木曜日

『廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち』佐伯 恵達 著

宮崎で行われた廃仏毀釈についてまとめた本。

明治維新前後、宮崎は薩摩藩の一部であった地域があるため、鹿児島がそうであったように激しい廃仏毀釈が行われた。本書は、その次第を丹念にまとめたものである。

第1章では、廃仏毀釈に至るまでの歴史が簡約される。江戸時代の廃仏思想や平田神道の流行、水戸藩の動向など思想面での準備が語られている。なお、平田神道についての著者の理解は少し一面的過ぎると感じた。平田神道といっても、実際には一枚岩ではない。例えば平田篤胤の弟子である大国隆正も平田派に含めて説明しているが、大国派は平田派と対立していく。著者は僧侶(+高校教諭)であるだけに仏教関係の考証は非常に緻密であるのだが、神道面についてはやや概略的である。

第2章では、薩摩藩の一向宗弾圧が述べられる。この章は廃仏毀釈には直接の関係はないが、廃仏に先行した薩摩藩の仏教弾圧の歴史として位置づけられる。

第3章では、神仏分離以降の明治政府の宗教政策について簡単に触れ、ケーススタディとして寺院から神社へと変更された10例が詳しく紹介される。

第4章では、薩摩のあおりを受けて宮崎で断行された廃仏毀釈について同じくケーススタディとして13例が詳しく紹介されている。特に第4章の事例紹介は地元のことであり、具体的かつ詳細な事情が述べられていて参考になる。

第5章では、全国編、宮崎編の2つの神社創建の歴史が年表になっており、さらに終戦に至るまでの宗教政策についての年表を加え、都合3つの年表が掲載されている。この年表は、当時の神社やお寺を巡る状況をありありと想像させてくれ、また宮崎編の年表は地元神社の動向をかなり詳しくまとめており、とてもわかりやすく力作である。

そして最後に、「仏教徒よ甦れ」と題したあとがきによって本書は締められている。本書は全体的に、神道を排撃し仏教を称揚するという立場をとっており、著者の一面的な見方には少し首をかしげるようなところもある。しかしこの最後の後書きで、近年国家神道的なものが復活しつつあるのは(首相の靖国神社参拝など)、「仏教徒(特に僧侶)がだらしないのも大きな原因だ」と述べ、仏教徒に反省を促している。上から目線と捉える方もいるだろうが、私はこの後書きは仏教徒へ向けられた素晴らしい檄であると思った。

廃仏毀釈や神道の見方はやや一面的なところはあるが、仏教側への考証は緻密で、地元に関する情報が豊富な真摯に書かれた本。

2018年1月10日水曜日

『岩倉具視—維新前夜の群像〈7〉』大久保 利謙 著

維新前後の岩倉具視についてまとめた本。

岩倉具視は、身分が高くない公家の家に生まれた。生来頭脳が明晰で、朝廷での役職がなかった頃から公家の中では飛び抜けた存在だったらしい。ただし人柄はそれほどでもなく、人望はなかったそうだ。

そんな岩倉が一躍政治の舞台に登場したのが、和宮降嫁問題である。これは公武合体の象徴として幕府側によって企画され、朝廷内には反対も根強かったが岩倉の調整によって実現する。なお、この際に岩倉は薩摩藩とも手を結び、これが後の倒幕へと繋がっていく糸になる。

和宮降嫁の実現によって岩倉は政治的功績を挙げたかに見えたが、幕府の権威低下や攘夷熱の高まりによって、逆にこれが失点と見なされるようになり、それどころか岩倉は姦物とされて遂に洛中から追放される。

こうして岩倉は「岩倉村」という寒村に追いやられ、暗殺の危険に怯えながら蟄居を余儀なくされた。事実上の幽閉逃亡生活である。岩倉の追放が解かれ、再び表舞台に登場するのはようやく慶応3年になってからで、彼は明治維新の直前まで地下活動しか展開できなかった。

しかしまさにこの潜伏時代が、傲岸不遜だった岩倉を人間的に成長させたと著者は見る。この環境の中でも、岩倉はめげなかった。王政復古という目標を持ち続け、情報をもたらしてくれる少数の知人を頼り、蟄居生活の中でも新しい時代の構想を考え続けるのである。そしてこの時代に、公武合体派であった岩倉は幕府を見限り、反幕府的な王政復古へと方針転換する。

なお、この地下活動の時代に岩倉の手となり目となった仲間に、藤井良節と井上石見の兄弟がいた。彼らは御由羅騒動のために薩摩藩から脱藩し、その後近衛家の家中となっていた。二人は岩倉を定期的に訪れ、薩摩藩や朝廷の動向を知らせ、また岩倉の手足となってその運動に協力していた。その縁があって、大久保利通はやがて岩倉と通じるようになるのである。

こうして、薩摩藩が遂に長州再征反対を明確にし、幕府と対決する姿勢を明らかにしたとき、朝廷の裏側に形成されつつあった岩倉の一派=中御門経之・正親町三条実愛・中山忠能らが王政復古派へと転換し薩摩と手を結ぶようになった。地下活動に甘んずるしかなかったにも関わらず、岩倉は水面下で様々な運動を画策し、また献策を考え、雄大な新国家構想によって不思議と人を魅了して、こうした動きを組織していったのである。

そして幕府が遂に限界を迎えて大政奉還すると、薩摩藩と岩倉の一派によって、急転直下の「王政復古の大号令」というクーデターがしかけられることになる。薩摩の兵力が朝廷を包囲する中で、岩倉は蟄居を免ぜられると同時に僧頭のまま衣冠をつけ、王政復古発令に関する文書を入れた小函を持って参朝。劇的な政治への再登場であった。

明治維新を薩摩藩がリードできたのは、まさにこの岩倉具視というパートナーがいてこそであった。薩摩藩には、武力はあっても朝廷を変革する理論も手がかりもなかった。逆に岩倉には、新国家への構想と朝廷工作の下地はあっても、武力がなかったのである。この2つの力が結びついたことが、王政復古のクーデターを可能にした。

そして、王政復古とは単に朝廷に政権が移ったことを意味するのではなかった。岩倉は同時に朝廷の改革をも構想し、この時に朝廷の摂関政治(摂関・内覧・議奏・伝奏・国事御用掛等)を終わらせた。明治維新とは江戸幕府の終わりであったと同時に、数百年続いた朝廷のアンシャン・レジームの終焉でもあったのである。

本書では、維新後の岩倉の働きは簡単に触れられるに過ぎないが、岩倉と三条実愛は、雄藩連合の性格が強かった明治政府での難しい舵取りをよく処理した。ところが政府の議論が西洋風の憲法制定へと向かう中で、あくまでも公家政治家であった岩倉は持論を貫徹し、天皇政治を推進するという守旧的傾向を示すようになる。岩倉は最後の仕事として欽定憲法の大綱を自分でまとめ、死と戦いながら天皇大権擁護に執念を燃やした。

絶版状態なのが非常にもったいない、維新前後の岩倉具視を知るための重要な本。

2018年1月5日金曜日

『サムライニッポン 文と武の東洋史』石毛 直道 著

「武」をキーワードにした、日本文化論。

著者の石毛直道氏は、主に食の分野を専門にするの文化人類学者・民族学者。各地をフィールド・ワークするうちに日本文化の東アジアでの位置づけや特色に興味を持ち、あまり専門的でない立場から書いたのが本書である。

その内容は、「中国文明を受容した東アジアの社会においては、儒教を基盤とした「文」の論理が優越していたのに、日本では儒教は本格的には導入されず、力で現実問題を解決していく「武」の論理が支配的となったため、他の東アジア諸国にはない社会の特徴ができた」とまとめられる。

これは首肯できる主張であるが、しかしこの程度のことは半世紀も前に仏教学者の中村 元が『日本人の思惟方法』で世界に訴えていたことの同工異曲ではないか。専門的でない立場からの気軽な本であるにしても、表面的な内容であるように感じた。

ただしその中に「都市と外食」という一節があり、ここは著者の専門であるだけにものすごく参考になった。ここでは、世界の諸都市において外食産業がどのように始まったかということが概観されており、たった10ページほどしかないがこの部分だけでも本書の価値がある。その節では、19世紀前半の江戸はおそらく世界で最も飲食店が集中した都市であったと考えられる、と指摘しているが、こうしたことをもう少し書いてくれる方が日本文化の特色が浮かび上がってくるのではないかと感じた。

全体的には平凡だが、食文化についてはさすがに参考になる文化論。