2016年4月14日木曜日

『人はなぜ花を愛でるのか』日高 敏隆・白幡 洋三郎 編

地球研(総合地球環境学研究所)が企画して人間文化研究機構が開催したシンポジウムに基づいた本。

本書では、動物行動学者の日高 敏隆(地球研の所長)が出した「人はなぜ花を愛でるのか」というテーマに基づいて、様々な分野からその答えを考えるヒントとなる事例が提出されている。大まかな内容は以下の通り。

「はじめに」(日高敏隆)では、本書の基調となる問題意識が説明され、それに対する日高氏なりの考えが提出されている。曰く「花は自分の気持ちを伝えてくれるような気がしていたのではないか。」

「第1章 先史美術に花はなぜ描かれなかったのか」(小川  勝)では、洞窟絵画に花の表現が一切存在しないことを指摘している。

「第2章 六万年前の花に託した心」(小山 修三)では、ネアンデルタール人の墓に花が手向けられていたかもしれないという事例について考察している。

「第3章 花を愛でれば人間か」(大西 秀之)では、人類の進化の歴史を簡単に振り返り、そもそも「花を愛でたかどうか」を確認するのは難しい問題だとしている。

「第4章 メソポタミア・エジプトの文明と花」(渡辺 千香子)では、実利的側面が中心のメソポタミアにおける花の扱いと、象徴や宗教的な価値が中心のエジプトにおけるそれを比較している。

「第5章 人が花に出会ったとき」(佐藤 洋一郎)では、花が人の身近な存在となったのは、「里」が誕生した約1万年前くらいのことだったろうと推測している。森林が中心の世界では花は目立たない。人が手を入れる草地が出来てからたくさんの花が存在するようになった。

「第6章 花をまとい、花を贈るということ」(武田 佐知子)では、日本では花を贈る文化がなぜあまり一般的ではないのかという問いから出発し、古代社会において花を頭につける習慣があったことをやや詳しく論じて、日本では花は下賜されるものだったのではないかと推測している。

「第7章 花を詠う、花を描く」(高階 絵里加)では、主に絵画(西洋絵画、東洋絵画)に登場する花についていろいろと紹介している。

「第8章 花を喰らう人びと」(秋道 智彌)では、花食の事例について紹介している。

「第9章 花を観賞する、花を育てる」(白幡 洋三郎)では、日本の変化咲きアサガオを紹介し、花を栽培しまた観賞する文化について考察している。

全体を通じ中尾 佐助『花と木の文化史』がたびたび参照されており、同書の内容をそれぞれの専門分野から補強するような論考が多い。また、「人はなぜ花を愛でるのか」という問いへの考察としては、同書で既に述べられていることを超える知見は残念ながらほとんどない。

ただ心に残ったのは、花は自分の気持ちを伝えるものだという日高氏の指摘と、花は他者との関係を取り持つ道具として使われてきたのではないかという白幡氏の指摘である。つまり、花は人と人との間に情緒を媒介してきた。花がなぜ情緒を媒介するのかということはさておき、これが山や海、岩や巨木といった他の自然物と花との大きな違いだと思う。

本書では、ほとんど「人はなぜ花を愛でるのか」という問いに答えられていないが、花と情緒の結びつきを考えてゆくことが、この問いへのより深い考察に導いてくれるような気がする。

2016年4月13日水曜日

『花と木の文化史』中尾 佐助 著

人間が観賞用の花と木の栽培をどのように発展させてきたかを概観する本。

本書は「花と木の文化史」という大変広大なテーマを標榜するが、実際に書かれているのはほとんどが品種改良の歴史である。すなわち、人間が花や木とどう付き合ってきたかということの全体像を提示するものではなくて、植物学者の著者らしく、具体的な栽培品種に注目してその来歴を解き明かしつつ、その背景にある花と木の文化について考察するものである。

本書は4部構成となっている。

第1部では、人間はなぜ花を美しいと感じるのかという難しい問いから出発し、文化的な美意識の発展について考察している。

第2部では、世界の花の歴史を概観する。世界には2つの花文化の中心があった。すなわち、中国を中心とする東洋と、エジプトやバビロニアからローマ、西ヨーロッパへと至る西洋である。文明は世界のあちこちで起こったが、本格的な花の栽培・育種がされたのはごく一部しかない。花は観賞以外の実利的な目的がないために、高度に文明が発展すれば必ず栽培されるというものでもないのである。例えば、大変高度な文明を築き上げた古代ギリシアは花の栽培という点ではさほど見るべきものがなかった。

さらに第2部では、いわゆる大航海時代におけるプラント・ハンターの活躍について述べている。花卉園芸文化の発展には異国趣味的なものが意外と大きな役割を果たしており、有用植物の探索と相まって園芸文化の大発展が起こったのが大航海時代である。当時の航海では博物学者も同乗して各地の植物が熱心に検分された。その情熱は、今となってはちょっと想像できないほどである。

第3部では、中国から受け継いだ花卉園芸文化を非常に高度に発展させた日本の花卉栽培の歴史について述べる。日本の花卉園芸は、室町時代以降独自の発展を遂げ、特に江戸時代に至って当時世界最高の水準に達した。桜や椿といった高木性の花木の品種改良は当時の世界で類を見ないことで、他にも専門の園芸業者・植木業者の出現は世界に先駆けており、庶民にまで花の栽培が広まっていた裾野の広さも注目される。日本の誇るべき歴史であろう。

そうした園芸文化の極北として、日本人は現在「古典園芸植物」と呼ばれているものを生みだした。例えば、マツバラン、イワヒバ、オモトといったものである。これらは派手な花が咲くわけでもなく、その奇異な外観を楽しむという非常に地味なものでその観賞には文化的な素養を要し、いわば抽象芸術的なものである。こうした植物は今では細々と栽培されているに過ぎず、世界的にもその価値が認められていないが、日本の花卉園芸文化の到達点を示すものである。

一方で、多種多様な園芸用の品種改良がされながら、日本では育種の原理、すなわち遺伝学の理論が全く存在しなかった。日本(中国でも)の品種改良では、なんと人工交配が全く行われなかったのである。江戸時代にはアサガオの育種が非常なる流行を見たが、実質的にはメンデルの遺伝の法則が使われていながら、それが名人芸的な「秘伝」となり理論化されなかった。他方西洋では、メソポタミアの時代から既に植物の有性生殖の原理が知られており、これが西洋と東洋の花卉園芸文化の相違の一つである。

第4部では、栽培植物ではなく、自然の花と木の景観への観賞ガイドである。自然の中に存在する美しいものを選抜・育種してできあがったのが園芸植物なわけなので、本来は栽培植物による景観の方が自然の景観よりも美しいはずである。しかし著者は植物学者らしく、自然の植生の美に惹かれており、世界各地にある植生の美のスポットを紹介して本書を終えている。

全体を通じてみて、世界史的な花卉園芸文化の到達点は19世紀にあるように感じた。西洋においても、プラントハンターの活躍(その中心は18世紀かもしれないが)や植物学への熱の入れようを考えると、その最高潮は19世紀である。有用植物の探索という実利的な側面があったにせよ、新しい土地での見なれない植物をよく理解したいという文化的営為を強く感じさせられる。日本では、江戸後期から明治にかけて花卉園芸文化は世界最高の水準に達し、多様な品種改良とその観賞態度は簡単に理解できないところまで行き着いた。

翻って現在の花卉園芸文化を考えると、もちろん技術的には長足の進歩を遂げており比較にならないほどだが、異国の土地・植生・気候などへの興味や理解、一見地味な植物にもその美しさを見いだす観賞態度などは、逆に退化しているように感じる。わかりやすい美しさを持った花だけが表面的にだけ持てはやされていないか。つまり花卉園芸文化が悪い意味で大衆化してしまっていないかと思わされた。

現代の遺伝学による新しい品種改良について触れることもできたはずなのに、著者がそれをせずに最後は自然の植生の美について述べたのは象徴的である。人間は不可能と言われた青いバラを作り出すことができた。だが、それを観賞する文化の方が育っていなくては「青いバラすごいねー」という一瞬の話題性だけのことである。花卉園芸文化というのは、ただキレイな品種を求めるコンテスト的なものであっては虚しいのだ。

観賞用の花と木の品種改良の歴史をコンパクトにまとめつつ、それを観賞する人間の態度の方も考えさせられる好著。

2016年4月3日日曜日

『自省録』マルクス・アウレーリウス著、神谷美恵子 訳

哲人皇帝による、魂の葛藤の書。

ローマ皇帝マルクス・アウレーリウスは、「善き人間」であることを何よりも目指していた。理知的で激情に流されることなく、公共の利益を最優先に考え、己の内にある欲望を抑制し、寛容で温和な人間にならんとした。そしておそらく、彼はそういう人間になった。事実アウレーリウスはその仁政で万人に敬愛されていたという。

しかし、彼は自然体で「善き人間」であれたわけではない。周りの俗物たちは彼の高邁な精神を理解することができなかった。妻や息子でさえも、彼の話し相手にはなれなかった。ただでさえ孤独な皇帝の地位にあって、彼には心を許せる人が誰一人いなかったらしい。それでなくても、在位中には蛮族の侵入が相次ぎ、彼は度重なる遠征で席の温まる暇もない程であった。本当は哲学者・書斎人になりたかったアウレーリウスが、軍人として生きなればならなかったのも悲劇であった。

さらには、本書には具体的な記載はないが、おそらく政権内での内紛、讒言や裏切り、佞臣、公共よりも自己の利益や享楽を優先する元老、無能な部下、彼はそういったものに悩まされていたように見える。そしてそういった俗物たちを、軽蔑し、憎み、叱責したくなる衝動に襲われることもあっただろう。彼はこう記す。
他人の厚顔無恥に腹の立つとき、ただちに自ら問うて見よ、「世の中に恥知らずの人間が存在しないということがありうるだろうか」と。ありえない。それならばありえぬことを求めるな。その人間は世の中に存在せざるをえない無恥な人びとの一人なのだ」(第9章43)
と。彼は、そうした度し難い人間に対しても、寛容であろうとした。そうした人間も、ローマ帝国を構成する大事な構成員であると思っていたのである。だが、いくらそう思おうとしても、俗物への沸き上がる嫌悪感は抑えることができない時もあったようだ。そういう時には、「人間はお互い同士のために創られた。ゆえに彼らを教えるか、さもなくば耐え忍べ」(第8章59)というような言葉で、自らを慰めていたに違いない。諦めろ、人間とはそんなものだ、と。「よし君が怒って破裂したところで、彼らは少しも遠慮せずに同じことをやり続けるであろう」(第8章4)から。

このように、本書はアウレーリウスが自己を保つために書いた、自分への備忘録である。

彼の理想を実現するのは困難であった。俗塵にまみれた世界で、独り「善き人間」であることは超人的な努力を要した。何よりも、自分独りがいくら「善き人間」であろうとしても、その他大勢の俗物たちのなかで、それに何の意味があるのか。彼自身が、人生は儚い幻のようなもので、善いことも悪いこともすぐに忘れ去られる、というようなことを繰り返し述べている。「人間に関するものは全て煙であり無」(第10章32)なのだ。そして、自分の仕事が実を結ぶということすら信じられなかった。「万物は変化しつつある。しかしなに一つ新しいものの出現する恐れはない」。彼は、自らがいくら仁政を敷いても、人びとに愛されても、そこに何らの社会的意義もないことを自覚していた。世の中の全ては胡蝶の夢に過ぎなかった。

では何のためにアウレーリウスは超人的な努力を続けたのか。それは、徹底的に自己のためであった。自らがなすべきことをなすこと、あるべき人間でいること、それだけが彼の目標だった。究極の自己満足といってもよかった。「そして結局どこにも真の生活は見つからなかったのだ。それは三段論法をあやつることにもなく、富にもなく、名声にもなく、享楽にもなく、どこにもない。ではどこにあるのか。人間の(内なる)自然の求めるところをなすにある」(第8章1)のである。究極の目的は、自己の完成と救済であった。

こうして、彼は自己の裡へどんどん沈溺していった。社会の雑事は、彼にとっていかほどのものでもなかった。いや、どんなに気持ちをかき乱されても、いかほどのものでもないと思いたかった。「すべては主観にすぎないことを思え。その主観は君の力でどうにでもなるのだ」(12章23)自分にそう言い聞かせ、一方で、そのいかほどでもない皇帝としての仕事には真摯に誠実に取り組んだ。

こうして、マルクス・アウレーリウスはあるべき人間として生き、あるべき人間として死んだ。

決して幸福な人生だったとは言えない。彼が皇帝でなかったら、たいした学者になっていただろう。その方が、自己の救済になっていただろうと思う。「哲学するには、君の現在あるがままの生活状態ほど適しているものはほかにないのだ」(第11章7)と書いているように、悩みの多い皇帝としての生活は確かに彼を陶冶した。しかし、こう自分に言い聞かせねばならなかったほど、彼の人生は自らの「内なる自然」とは違う生き方を要求したのも事実である。

生き方は唯一無二だが、彼の哲学には独自性はないという。思想的には、彼の師エピクテートスの受け売りばかりなのだ。でも本書は哲学書ではない。立派なことを言うなら誰にでも出来る。本書は、立派なことを言うためにものされたものではない。日々の俗事に悩まされ、悲しみ、怒り、無力感にさいなまれ、それでも「善き人間」として生きようとした一人の人間が、自己を保つために書かざるを得なかった魂の葛藤の書なのである。

「しかし君が正しく、慎み深く、思慮深く行動するのを妨げうる者はいない」(第8章32)。最高の知性を持ちながら、ままならない人生を送らざるを得なかったアウレーリウス。それでもその境遇を託(かこ)つことなく、職務を全力で果たしたアウレーリウス。そして超人的努力の果てに、「善き人間」として生きたアウレーリウス。

本書を読めば、少しでも「善き人間」として生きようとする全ての人にとって、マルクス・アウレーリウスはよき友人となるであろう。