2023年1月29日日曜日

『明治国家と宗教』山口 輝臣 著

明治時代の宗教と国家の関係について2つの側面から述べる本。

本書ではまず明治時代の宗教を巡る学説の成立史が顧みられる。村上重良・藤谷俊雄の国家神道を中心とする見解、神社非宗教論に基づく平野武の見解、そして国家神道=神社神道としてよりフラットに捉えた阪本是丸の見解が述べられ、少なくとも現在では「国家神道」という枠を取り払い、むしろ国家と宗教の関係を研究する方向へと進んできた。ではそもそも「宗教」とは何か。

こうして、明治時代に「宗教」がどう認識され、どう語られたかという第1部の主題が登場する。

さらにその応用編として「神社改正ノ件」と呼ばれる宗教政策がどのような影響をもたらしたか、という第2部の主題が考究される。第1の点は理念的な枠組みを考えるもので、第2の点は具体的に政策決定のプロセスを追っていくものであるが、この2点は無関係ではなく、「宗教」とは何かという理念的な枠組みが現実の宗教行政に大きな影響を及ぼしていた。

第1部 19世紀—宗教の生成/「国家と宗教」の制度化

「宗教」は、明治期に新しくできた言葉である。それがいかに構築されたか。まず、宗教という言葉は"religion"の翻訳語である。では"religion"がどのようなものとして認識されたかというと、これはとりもなおさずキリスト教のことであった。であるから、キリスト教を基本として「宗教」の概念が形作られた。本書では当時の様々な論客がどう「宗教」を語ったか、その語り方の分析を通じて「宗教」概念を剔抉している。

これを私なりにまとめると、第1に「宗教」は文明の一つの要素として語られた。後には宗教はむしろ後進的なものと見なされるが(c.f. マルクス「宗教は民衆のアヘンである」)、この頃の日本では「宗教」は文明を構築する土台であると考えられた。

第2に、仏教とキリスト教を対置して、どちらが文明の土台として適しているのか、という視点から「宗教」が語られた。そして少なくとも神道は「宗教」の体を成していないとされ、はなからその議論の範疇に入っていなかったということも指摘できる。 

大日本帝国憲法の制定においては、国教制定の検討もあった。伊藤博文は憲法調査のためベルリンのグナイストの講義を受けているが、グナイストは仏教を国教に制定するようアドバイスした。当時のヨーロッパでは国教は「信教の自由」に抵触しないものと考えられていた。一方、福沢諭吉は日本の文明化のため、キリスト教を国教に据えるべきではないかと考えた。もちろん元田永孚のような神道主義者はこれに強硬に反対。伊藤は国教自体に反対だったので、政府内で論争が起こった。森有礼や井上馨も宗教自由化の論陣を張った。

実はこんな中でも、キリスト教が公許されていたかどうかは曖昧だった。明治6年にキリスト教禁止の高札は除去されていたが、かといってキリスト教を容認するというはっきりとした表明もなかったからだ。外務卿・井上馨は対外的な問題からこれを公許するよう主張。一方、内務卿・山県有朋は、路線は同じながら、宗教の自由化や仏教の保護を検討した。

当時、国家の宗教者制度である「教導職」は曲がり角を迎えていた。神官の教導職兼任の廃止や、教導職の存在意義の低下があり、教導職自体を廃止する趨勢になっていた。そもそも教導職の意義はキリスト教対策にもあったから、キリスト教公許がなされるなら教導職は不要となる。しかしそうなると教導職という制度を通じて国家と関係を樹立してきた神道勢力が困る。神社と寺院、国家のそれぞれの思惑が絡んで議論が錯綜。結局、関係者の合意が得られた点のみが成案となった。すなわち明治17年、教導職の廃止(太政官布達19号)、そしてそれまで教導職のみに認められていた葬儀を自由化した自葬の解禁(太政官布達20号)である。

これはキリスト教の公許まで踏み込んだものではなかったが、実質的にはキリスト教容認と近い効果を持った。同年、農商務卿で陸軍中将でもある西郷従道の長男従理がアメリカで客死し、ハリストス教会でその葬儀が執行されたのはその証左だ(従理は7歳でロシアに留学し、ロシア正教の洗礼を受けていた)。また教皇レオ3世の親書が明治天皇に奉呈された際、天皇は「耶蘇教徒ヲ保護スル他ノ臣民ト異ナルナカラン」と答え、未だ国内ではキリスト教の扱いを明確に変えたとは表明されていなかったものの、対外的にはキリスト教は保護の対象とされた。その後、外務省はこの方針を対内的にも貫徹させようとしたが、敢えて容認を表明すると軋轢を生じると反対されて挫折する。しかしながら、もはや「憲法における信教自由規定で公許は代用できる」との考えが広まり、キリスト教の扱い自体が焦点から外れていった。

一方、神社には逆風が吹いていた。太政官布達19号では、寺院には「管長制」が示されていたが、神社については何も打ち出されていなかったのである。明治4年には神社は国家の祭祀とされたものの徐々にその優遇は終わり、「明治17年末の時点では、神宮・官国弊社に国庫から経費・営繕費・神饌幣帛料が支出なされている以外、神社へ「公費」支出はできない状態となっていた(p.123)」。もちろん神道者たちはこれに不満を抱き、様々な運動を起こすことになる。彼らの要求は大まかに言えば2つあった。第1に、神社のみを取り扱う行政部局をもうけること(できるなら神祇官の再興)、第2に、神社へ国庫から支出すること、である。参議には大木喬任・佐佐木高行・山田顕義という神祇官設置論者も存在しており、これは無茶な要求ではなかった。

内務省はこうした中「神社改正ノ件」を提出。その内容は(1)神宮への支出は増額の上で継続するが、(2)官国幣社への支出は将来的に廃止、ただし10年間補助金を下付するのでその一部を貯蓄し、独立自営の体制を整えること、であった。内務省は官国幣社を「独立自営」できる存在にして国家から切り捨てようとした。しかしこれは閣内の反対も強く、三条実美太政大臣の預かり置きとなった。 

ところが明治18年末の内閣制度の創設で状況は変化。元田永孚は宮中顧問官に、大木喬任・佐佐木高行は閣外になり、「宗教家」森有礼が閣内へ。こうした状況で明治19年2月に「神社改正ノ件」は改めて提出される。官国幣社の増加に加え、別格官幣社制度でも官社が増加し、神社が国庫を圧迫しているとされ、また神社の存亡は人々の信仰に任すべきだとされた。そして「神社改正ノ件」は、(2)の補助金年限を15年に延長する修正などを経て可決。

予算から見ると「神社改正ノ件」は、明治17年の国庫支出を基準とし、それを超えないように国全体の神社費総額を決め、予算を神宮に重点的に配分して逆に官国幣社の予算を削減するという内容であった。では、官国幣社が15年間の補助金(保存金)の貯蓄によって「独立自営」の経営に移行するのは現実的だったかどうか。実は計算上でも7割の神社の慢性的な経営難が予想されていたのである。

このような中での大日本帝国憲法の制定。すでに「信教自由」は関係者の共有する路線であり、神道を国教にするなどありえないことであった。そして「宗教の自由」の規定によって、「宗教か否かということが、本格的に問題とされざるを得なくなってくる(p.153)」。宗教と非宗教では、保障される自由をはじめとして扱いが異なっていたからだ。

第2部 20世紀へ—宗教の変容/「国家と宗教」の転形

20世紀に入ると、日本での宗教の在り方は「宗教学」の影響を受けるようになる。宗教は行政的な扱いよりも学問の対象として規定された。本部では、姉崎正治、岸本能武太、加藤玄智の見解が触れられ、宗教の範囲が広がっていった次第が語られている。結果として、神社非宗教論は分が悪くなる。宗教学によれば、教義や教祖がなくても神社は宗教と見なせたからだ。

明治22年、憲法が発布されると、議会開設を見越して佐佐木高行、元田永孚、山田顕義らを中心にした神祇官設置運動が起こった。この頃、府県郷村社の神職が僧侶同然に扱われるのではという噂が流布していたから、神社勢力は逆風をはねのける必要を感じていた。こうして明治23年頃、神社のみを取り扱う行政部局=神祇院(神祇官)設置建議が提出される。ところが時を同じくして、内務省は「神社改正ノ件」による神社費から「共通臨時営繕費」を捻出させる案を閣議に提出。実質的な補助金の減額である。要するに、政府内では神社を特別扱いしようとする勢力と、神社の格下げを図る勢力が真っ向から対立していた。

格下げを図る勢力にとっても表立って神社への崇敬を否定することはできなかったが、神社派の主張の趣旨をくみ取りながらも、行政的な理屈でそれを「神祇局」へ格下げする案へ縮小させた。また「神社改正ノ件」の改定案に対して、佐佐木らはかえって予算を拡充する案を提出したり、明治初年に上地(土地の取り上げ)された土地(特に山林)を社寺に還付する運動を起こしたりしたが、こちらも行政的見地から実効策は矮小化していった。こうして議会開設前の神祇官設置運動と神社への予算拡充運動は挫折した。なお、神祇官への反対は神祇不敬と結びつけられていたが、明治天皇は神祇官設置に反対だったとみられる。また明治24年には元田、吉井友実が死去、山田は病気になりその後死去、ということで、政府内の神道派は弱体化した。

しかし憲法に基づいて議会が発足すると、神職たちは議会を通じた神祇官設置運動を開始した。神職たちがその代表を議会に送り込めば、議論はいくらでも可能なのだ。全国には大勢の神職がいたものの、最初のうちは落選議員もおり、議題も上程に至らなかった。よって第7議会まではさしたる成果がない。ただしそうした過程の中で、神祇官と天皇親祭論(天皇が祭祀をつかさどっているなら神祇官など不要)との調整、また神社が宗教でないなら内務省社寺局で神社が宗教として扱われていることとどう折り合いをつけるか、といった理屈が俎上にあげられ、整理されていった。

第8議会(明治27年~28年)が運動の転機となった。それまで紛糾していた国全体の予算問題の折り合いが付き、他の問題について議論する余裕が出たという事情もある。神社に関するものとして上地林問題、神祇官設置問題、古社寺保存問題が議論され、上地林、神祇官設置は否決されたものの、古社寺保存の予算は増額された。これは古社寺目当ての外国人観光客の落とすお金も期待されて成案を見たもので、古社寺との限定付きではあったがその経営の一助となった。そして第10議会(明治29~30年)では政府自ら「古社寺保存法」を提出し成立。これは「国家と特別な関係を有する古社寺という存在が法律で認められた(p.223)」ことに他ならなかった。

また、上地林問題については第13議会(明治31~32)で取り上げられる。そもそも社寺の土地を強制的に取り上げたこと自体が不当だとする論調で審議が始まり、「国有林野法」「国有土地森林原野下戻法」等が成立した。これは、上地された土地を必要に応じて社寺の境内に編入・払下・保管・下戻ができるようになったことを意味する。これが現実に社寺の経営を改善するかどうかは制度の運用次第であり、議論はそのような局面に移っていった。

一方、神祇官設置運動については、水面下で様々な運動があったがなかなか成果が出なかった。そして関係者は、条約改正との関係からも神祇官の速やかな設置は無理だと感じ、せめて神社専門の行政部局を設置することを第一歩にしたいと考えるようになった。こうして大隈重信内閣では「神社局」を設置する案が実現一歩手前までいったものの、大隈内閣の崩壊し実現に至らなかった。第13議会では大津淳一郎議員らが「神社と宗教との区域をはっきりすべきだ」として神社に関する特別官衙の設置を建議。これまでの運動が挫折した結果、神道派は最小限の目標に照準を定めるようになっていた。それは、神社を他の宗教とは違う存在にしたいということであった。よって神社非宗教論がクローズアップされてくる。しかし内務省の考えは、「社寺」は古社寺保存法など同一の法律で一括されていて何ら差しさわりはなく神社専門部局などいらない、というもので建議は否決された。

なお、内務省社寺局はそれなりに現場(神社・寺院)の希望を考慮した方針で行政を行っており、例えば寺格・僧爵構想(実現せず)など社寺の振興を図ってはいた。ただそうしたものは政府全体の方針とはなりえなかったのである。

政府全体として優先されたのは、対外的な問題である。条約改正の前提としてキリスト教を公許し、宗教を行政にしっかり位置づけることが必要だった。ついに明治32年、事実上キリスト教のみを対象とする宗教に関する省令が可決。こうしてキリスト教が行政の対象になると「社寺局」の名称変更は避けがたかった。そして寺院、神社、キリスト教…などではなく、それらを包括した宗教法案が求められ、山県内閣は同年これを提出した。

具体的には、この宗教法案は宗教団体を法人とするものであった(教会は社団法人または財団法人に、寺は財団法人に、ただし教派・宗派は法人になれない)。法案では宗教者に徴兵猶予を認めるなど宗教に対して優しい立場で作られており、世論はこれを歓迎したが、仏教諸派(32宗派)は仏教とキリスト教が同列に扱われたことを不服とし、議会が紛糾して否決された。

これを対岸の火事のようにみていたのが全国神職会。そしてここぞとばかりに「神社局」の設置の運動を開始。そして意外なことに明治33年にすんなりと設置された。それは(1)神社局はもはや神祇官を想起せしめるものではなくなっていた、(2)内務省が局の新設に前向きだった、(3)いずれにせよ社寺局の名称変更が必要だった、という事情があったと考えられる。すなわち実際上は社寺局が「宗教局」と「神社局」に分割された。もともと小さい社寺局であったから、神社局は他の一課くらいの規模だった。しかしそれが宗教局と別に設けられたのには大きな意味があった。神職たちの希望通り、神社は宗教ではないということが行政機構の上で明確になったからだ。

そして神社局を勝ち取った神職たちは、その運動の結果として「神社局ー関係議員ー全国神職会」という神職の全国組織化と行政機構への組み入れを成し遂げた。これが宗派を超えて一枚岩になれなかった仏教とは違い、その後の神社をめぐる行政に大きな役割を果たしていくことなるのである。また神社局が中心となって「神社協会」が設立(明治35年)、直後には全国神職会は「神社局と方針を共に」することを規約に明記し、一種の御用団体となっていく。神職・関係議員はこうした基盤を整えた上で、「神社改正ノ件」の廃止に乗り出した。

それまでの間も、「神社改正ノ件」は種々の修正を加えられていた。神社は、予算不足で保存金の貯蓄が思うようにできず、将来の「独立自営」のためのお金を切り崩さざるを得なくなっていた。ということは補助金期間が終われば経営が行き詰まる。そうなると神社を「独立自営」に移行させようとする「神社改正ノ件」の元々の趣旨が崩壊する。よって補助金の増額が行われ、また経費・経常営繕費ー共通臨時営繕費ー永遠資本金(保存金)の比率も「50%ー15%ー35%」から「70%ー25%ー5%」とする改正が明治34年度から実施された。これは明らかに「独立自営」から遠ざかっており、政府もそれを認めていた。

神職・関係議員たちはこうした状況を逆手に取り、官国幣社の経費を国庫支弁にすること、府県郷村社の経費(神饌幣帛料)を府県郡市町村に負担させることの2点(「二大問題」)を議員立法で要求。内務省としても「独立自営」路線が破綻しているのは明らかなため、この法案が通過した方が都合が良かった。しかし府県郷村社はあまりに数が多いことから公費支出が現実的でない。そこで、神社合祀によって数を減らすことが論議されるようになるのである。ただしこれは当初は到底現実的でないと反対論が優勢で、全国神職会も財政難から十分な活動ができず「二大問題」は進展しなかった。

ところが、明治37年に省内最年少の水野錬太郎が神社局長に就任したことをきっかけに事態が動く。神社局は最小の局だったので、廃仏毀釈を知らない世代、明治元年生まれの水野が抜擢されたのだ。彼は「二大問題」を解決すべく議員立法ではなく政府として議案を提出した。そしてあっさりと保存金制度を終わらせ官国幣社の経費は国庫支弁となり、府県郷村社の神饌幣帛料を府県郡市町村から支出することが勅令で可能となった。まさに一瀉千里で「神社改正ノ件」のプランは瓦解した。ただしこの政策では、府県郡市町村から府県郷村社全てに強制的に支出しようとしたのではない。「神饌幣帛料ヲ供進スルコトヲ得」とし、共進する神社の指定は地方長官が行うこととした。

一見、これは神社を保護する政策かに見えたこれが、結果的には神社合祀、すなわち神社の大規模な合併運動を引き起こしたのである。すなわち、神饌幣帛料を地方政府が供進する神社は「独立自営」できるような重要なものに限られたから、その指定を受けることは神社を「選別」することであり、より広い氏子圏、経営基盤をもった選別に耐える神社を創出すべく弱小神社の合併をもたらしたのである。そして内務省も神社合祀を促進する政策を行い、神社合祀が国家レベルの政策として展開していった。

これは内務省としては「社寺合併」を謳っており寺院も対象としていたが、実際に合併が行われたのはほぼ神社である。この運動は地方改良運動と結びつけられ、地方局府県課長井上友一が就任して運動は頂点に達する。神社は「町村の民心結合の核」として編成し直された。これに最も反対したのは和歌山県選出代議士の中村啓次郎。彼は明確な神社宗教論に立ち、合祀は宗教心を損なうとして反対した。一方で、全国神職会も、大津淳一郎などの神道関係議員も神社合祀には内部の意見の違いなどから反対せず、神社の激減を拱手傍観した。

こうして、神社は「独立自営」を求められ国家から距離を置かれていた19世紀とは全く異なる存在となった。神社合祀という痛手はあったにしろ、国家・地方政府と明確に結びついた存在として他の「宗教」とは隔絶したものになったのだ。そして神道関係者たちは、改めて神祇官の再興と、神道を国教になぞらえることを希望するようになる。とはいえ、神社は宗教ではない、という建前でこれまで進んできた。神社が「国教」になったら、それは宗教なのか? 神社非宗教論は揺らいでいた。

一方、反目してきた宗教者たちは日露戦争の遂行を前に協調を図るようになった。そして内務官僚の床次竹二郎も各教の代表者を会同させることを計画。床次が明治45年に出した「私見」では「国民一般に、宗教を重んずるの気風を、興さしめんことを要す」として三教(仏教、神道、キリスト教)を協調させることを計画、政府と三教の代表での協力関係が確認された。明らかに国家と宗教との関係は変質していた。その変質の先にいわゆる「国家神道」があったのである。

本書全体を通じて、国家と宗教の関係のターニングポイントを一つ選ぶとすれば、内務省神社局が創設された時だろうと私は思う。これは行政機構上の小さな改組ではあったが、宗教局と神社局が分割され、神社が宗教ではないという解釈が行政機構の上で確認されたことは理念的にも大きかった。神社非宗教論は今から見れば詭弁に等しいが(当時でも詭弁だと見なす人は多かった)、その詭弁が歴史を動かす力になった。そして神社のみを扱う局ができたことは、神社のみに焦点をあてた政策の実行が自然と催され、明治初年とは違った形で神社が優遇されるきっかけになったのである。

本書に述べられるその経緯は、村上重良が『国家神道』で描いたものとはかなり異なっている(なお本書では「国家神道」の用語は慎重に避けられている)。村上重良は「国家神道」を明治初期の政策の延長線上に出現したものと捉えているが、本書ではそうではない。明治10〜20年代には国家はむしろ世俗的であった。神社勢力は国家から見放されつつあり、そのプランこそが「神社改正ノ件」であった。神社勢力はこれを挽回すべく関係者を総動員して予算面・組織面の改善を図ったがうまくいかなかった。こうして国家は宗教的なリベラル路線に進むかに見えた。しかし神社は宗教ではないという論理を押し通し続けた結果、明治33年「神社局」の創設にこぎ着け、そこから先は彼ら自身も意図しなかったほど神社は国家と親密な関係を樹立していくのである。

ただし本書ではよくわからなかったところもある。明治はじめに「神社は宗教ではない(国家の祭祀である)」と整理されたとき、神社における宗教的な部分は「教派神道」として分離されたが、教派神道は上述の動きにどう関連していたのか、あるいはしていなかったのか、本書には詳らかでない。そして教派神道が、神社非宗教論をどう見ていたのかも、ちょっと気になった。

本書は全体を通じて、議会議事録などを執拗なまでに丁寧に追い、成案を見なかったり、審議未了になったりした事項までも追求している。神社や神道を巡る水面下の動きが克明に描き出される様はエキサイティングですらあった。

世俗的になっていた国家が、どうして宗教的に揺り戻されていったのか。本書はそれを水面下の動きから解明した労作である。

 

【関連書籍の読書メモ】
『国家神道』村上 重良 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/07/blog-post.html
国家神道の本質を描く。国家神道を考える上での基本図書。

2023年1月22日日曜日

『思想史講義【明治編Ⅰ】』山口 輝臣/福家 崇洋 編

明治時代をキーワードで読み解く本。

普通「思想史」というと、時代を代表する思想家の著述を取り扱う。明治初期だと、福沢諭吉や中江兆民といった人たちだろう。とこが本書はそういう切り口ではなく、時代を象徴する16のキーワードを概説する形で明治時代を語っている。そのキーワードと著者は次のとおりである。

「王政復古」清水光明、「祭政一致」山口輝臣、「公議」奈良勝司、「修史」佐藤大悟、「万国公法」川尻文彦、「征韓と脱亜」小川原正道、「自由民権」真辺将之、「政論」松田宏一郎、「郡県と封建」湯川文彦、「富国強兵」鈴木 淳、「文明開化」谷川 穣、「人種改良」横山 尊、「国語」安田敏朗、「自治」渡辺直子、「衛生」赤司友徳、「元気」高山大毅

またこのほか、8つのコラムがあり、短いながらも興味深い論点を提示している。そのタイトルと著者は次のとおりである。

「本願寺」辻岡健志、「アイヌ」マーク・ウィンチェスター、「琉球」草野泰宏、「亡命朝鮮人」茂木克美、「玄洋社」石瀧豊美、「新聞」寺島宏貴、「士族」内山一幸、「宣教師」藤本大士

 これらについてそれぞれメモを書いてしまうと長大になるので、以下私が気になったもののみ述べる。

王政復古:天保改革期、メディア環境は大きく変化した。この時期に出版統制が行われるのと並行し、実は規制が緩和されたのだ。天保13年(1842)「新板書物之儀ニ付御触書」で学術書に限り歴代将軍の事績などを記述することが可能になった。中井竹山『草茅危言』、荻生徂徠『政談』や歴史書(『日本外史』など)が公然と流通し、江戸時代の上皇の著作(後水尾天皇『当時年中行事』、霊元天皇『元陵御記』)なども出版される。こうして、政治論や歴史書を読みふけった世代が「復古」を目指す幕末の志士として活躍していくのである。

そして、そんな「政治の世代」だけでなく、実は幕府自身が「復古」を強調するようになっていた。安政期以降、幕府の政治文書で「寛永以前」が多用されるようになる。鎖国以前に返ることで開国を正当化したのである。将軍家茂も「質直之士風」に復古したいと述べている。久留米藩の真木和泉の献策「経緯愚説」にはすでに神武創業への言及もある。島津久光は「皇国復古」を掲げた。足利三将軍梟首事件の捨札にも「今や万事復古し、旧弊一新の時運」とあった。

これらの構想は、武家政権以前の朝廷中心の政治体制ということ以外は曖昧であったし、現実的には王政復古は行い難いとみなされていた(島津久光など)。それを意外な形で具体化したのが土佐藩の後藤象二郎で、彼は西欧をモデルとした二院制の議会を京都に設立することを「王政復古」としたのである。

祭政一致:祭政一致はなぜ王政復古の詔で掲げられたのか。これは祭祀と政治が一致するということであるが、その起源は何か。それは北畠親房の『神皇正統記』と見なすのが定説である。そこでは上古の中臣氏について述べた文脈でのことだったが、やがて拡大解釈されていく。特に「祭り」と「政(マツリゴト)」が同じ訓であることは決定的な論拠とされ、古代天皇制の特質と考えられるようになった。山崎闇斎の垂加神道でもそれが主張された。本居宣長は言葉の原意を探っていく考察の中で「天皇の政をマツリゴトとすることはあり得ない」との結論に至ったが宣長の説はあまり影響力を持たなかった。

明治維新で「神祇官」が復興されると一度は祭政一致体制となったが、それはすぐに修正され神祇官は廃止された。その後、神祇官を再興しようという運動が続いていくが、「祭政一致など憲法違反だ」「祭政一致は過去のものだ」と一蹴され、結局再興されることはなかった。

公論:ペリーの来航後、老中阿部正弘はその国書を公開して広く意見を求めた。これは専制的に運営されてきた幕府にとって異例のことで、以後人々は政治的議論を戦わせることになる。そして様々な階層の人々が自らの意見を建白の形で提出し「言路洞開」を求めた。しかし彼らはみんなで意見を出し合えばよい結論が出るはずだとのナイーヴなイメージを持っており、多様な意見をどう糾合するか、意見が対立したときにどうするかといった議論の仕方については関心が薄かった。また、薩摩藩の大久保利通が「衆議」を味方につけようとして、かえって衆議からしっぺ返しをくらったように、衆議は収拾がつかなくなる危険性を帯びていた。よって明治維新後は、期待された「公議所」も各藩の正論が衝突してうまくいかず早々に諮問機関に格下げされ、政権はむしろ全員一致主義に傾いていった。

万国公法:『万国公法』は、米国の著名な国際法学者ヘンリー・ホイートンの『国際法原理』が1864年に中国で翻訳出版されたもので、すぐに日本に伝わり幕末に開成所より翻刻された。勝海舟、横井小楠、坂本龍馬、中岡慎太郎が『万国公法』に言及しているが、広く読まれたのは間違いない。なお開成所版以外にも和訳、訓読本が各地で作られている(鹿児島では重野安繹が1870年に訳述)。『万国公法』は難解ながら原文に忠実な漢訳だったが、漢学者たちの理解を通してだったことで、万国公法は日本では「性法(理性によって自然に定まる法)」「天地の公道」「天理」として受け取られた(実際には違った)。あたかも「万国公法」が天理に基づいて行われる国際社会の秩序であり、そこへの参入が文明化であると。しかし外交の現実では「万国公法は弱国を奪ふ一道具」(木戸孝允)にすぎなかった。こうして国際社会への幻想「万国公法」は消えていった。

自由民権:自由民権運動は、民衆に根差した運動ではなく、むしろ国家主義を志向していた。「民撰議院設立建白書」には租税共議権の考えや民衆に参政権を与えよという主張があり、また各地で「私擬憲法草案」が作成されるなど、権利や自由の思想が広まっていなかったわけではない。「愛国公党」の出現は、政治に関して私的に団結することが重罪とされていた近世的桎梏の打破でもあった。しかしそれらの動きは、結局は国家に結びつくことを前提としたものだった。よってそれらは団結論=一大政党論を形成していく。ただし異なる政党が並立することを前提とした立憲改進党(大隈重信)の創設はそれらとは趣を異にした。

富国強兵:富国強兵は明治政府のスローガンの一つと思われているが、明治初年にはあまり使われていない。むしろ阿部正弘が「富国強兵之基本」と開国を捉えたり、太宰春台の『経済録』(1729)で富国強兵が主張されるなど、江戸時代から使われていた言葉である。また慶応元年(1865)には将軍家茂は列国に対して国を閉ざすために富国強兵を進めてきた、と朝廷に説明している。明治政府がこのような言葉を積極的に使わないのは当然だ。国民への教導運動を行った教導職たちも、積極的に富国強兵を説いた形跡はない。しかし次第にこの言葉は再定義されてゆく、福沢諭吉は『文明論之概略』で強兵の土台として富国を論じ、西村茂樹は「富国強兵説」という演説で富国強兵に道徳的・質実剛健な社会・風俗という意味を込め、文明開化と対置させた。こうして1880年代半ばには江戸時代からの言葉のイメージが払拭され、知識人も遠慮なくこの言葉が使えるようになった。

文明開化:文明開化は肉食、特に牛鍋によって表象された。角田米三郎は、肉を食うことが「復古」であり文明開化だとして100万頭の養豚事業を計画した。種豚証券を発行して金を集め、希望者に種豚を預けて飼育させ、育った豚を買い取って販売した利益を配当する、という構想だ。大真面目な事業だったが、予想以上に肉食が広がり豚肉の価格が下落したことで立ち消えになった。一方、佐田介石という西本願寺派の僧侶は「ランプ亡国論」など舶来品排斥運動で民衆に熱狂的に支持された。貧民には貧民なりの消費生活が維持されるべきであり、舶来品は経済構造を変えてしまうのでよくない、という主張だった。角田と佐田のやったことは正反対だったが、文明開化が庶民に及ぼす影響を考えた点では共通していた。

自治:「自治」は明治10~20年代に新鮮に映った言葉であった。人々は「自治」に期待した。当初(いわゆる新三法)の自治は、町村の領域を「私」とみなしていた。「私」の領域に国家が介入すべきでないから自治に任す、という論理だった。しかし1884年の改正で町村は国家の下請け機関的に扱われるようになる。一方で、旧幕以来、町村が自治的に運営されてきたことが発見され、井上毅は「地方自治制ノ意見」(1885)で「旧来町村ノ制ハ自治」であると断言した。ただし井上は自治の唱道者ではなく、府県制・郡制の導入にあたってはそれが自治機関にならないよう主張した。明治初期の政策担当者たちは、旧幕時代の「自治」を発見したことで、日本でも自治(立憲体制)が可能であると考えたようだ。

衛生:「衛生」という言葉を作ったのは、適塾出身で、オランダ人軍医ポンぺに学んだ長与専斎である。衛生はすでに明治前に始まっていた。その一例が種痘事業であり、嘉永2年(1849)以降に本格的に普及していった。開港以来、西洋医学が流入してくる中で、医療だけでなく公衆衛生を行政的に進める必要が日本人医者に痛感されていった。幕府医官らも西洋医学に基づく養生書を刊行しており、近世の衛生=養生思想の普及に一役買っている。またポンぺは幕府に対しても衛生行政の必要性を訴えた。薬事行政は漢方医の抵抗もありスムーズには進まなかったが、安政のコレラで幕府が認識を変えたこともあり、種痘事業は概ね順調に進んだ。

全体として本書は、明治時代を近世からの断絶と見るのではなく、むしろ近世からの連続と捉える視点で貫かれている。明治時代を表象するといっても過言ではない「富国強兵」が近世からの言葉であり、むしろ近世的な負の語感を払拭することで人口に膾炙するようになったとの指摘は驚きである。他にも、公論、万国公法、衛生といったものが実際には近世に淵源を持っていた。それどころか公論や万国公法は、幕末の方にその重点があり、明治後にはかえって後退していっているように感じられる。

なお「講義」を名乗っているだけあり、一つ一つの論考が読みやすい分量でまとまっており、論考の後ろにはさらに考えを深めるための参考文献とその解題が掲げられていてとても便利である。まさに大学の講義を受けているような感じを抱いた。

明治時代を多面的に再考する、読みやすい本。

2023年1月9日月曜日

『「文明論之概略」を読む』(上中下巻)丸山 真男 著

丸山真男による福沢諭吉『文明論之概略』の講義録。

著者丸山は、岩波書店の編集者に『文明論之概略』(以下『概略』)についての講義を依頼された。編集者たちによるそのテープ起こしを基にまとめなおしたのが本書である。本書の元となった講義は、『概略』を丸山が注釈しながら読んでいくというものであったから、本書には『概略』の本文はポイントのみしか載っていない。よって本書冒頭に、「本書は必ず『概略』のテキストを座右に置きつつ読むこと。『概略』を読まずに本書だけを読んで『概略』がわかった気になってはいけない」と口を酸っぱくして書いてある。

ところが、私は『概略』はもちろん所有しているものの、手間を惜しんでいちいち参照せず、本書だけを読んだ。よって本書の真面目な読者とはいえない。以下、邪道な読み方をしたことを前提として書く。

福沢諭吉の評価は割れている。一万円札の肖像になっているくらい有名で、また明治初期を代表する言論人であることは確かだ。しかし彼の言説を顧みてみれば、例えばアジアへの侵略を正当化する「脱亜論」や、朝鮮革命への裏からの関与に代表されるような国家主義との結託があり、高い評価が確定しているとは言えない。むしろ戦後は福沢批判の方が強勢だったかもしれない。そんな中で丸山真男は福沢諭吉を称揚し、擁護した。そんな丸山にしても、福沢の最高の仕事が『概略』であるとしているのは含みがある。明治10年までの福沢は啓蒙思想を代表する思想家とされてあまり批判はなく、評価が割れているのは晩年の福沢の方だからだ。やっぱり晩年の福沢は今ではちょっと評価できない、というのは確かのようだ。

本書では『概略』の注釈であるからその内容を一つひとつ解説していくが、私は「真面目な読者」ではないので網羅的にメモすることはせず、まず全体的な印象を述べる。

その印象を一言でいえば、「ものすごく現代的」ということに尽きる。まずその調子が、丸山も言う通り「嘲弄的」であり、あたかも「俺の言うことが理解できないやつはバカ」とでもいいたげな様子である。そして本書冒頭の「議論の本位を定めること」というのが非常に今っぽかった。これは、「これから〇〇のために何が必要かを議論しますので、本題に入る前に交通整理をしましょう」という話である。当時の議論は各々が勝手に自己主張するようなものであったので、福沢は議論が錯綜しないようにその土台を厳密に構築したのである。それは理解できる。しかしながら、このような議論の整理を厳密にすれば、どのような議論でも正当化できるような気がしてしまった。もちろん福沢は、今から見て無茶な主張をしているわけではない。それどころか、今から見ても十分に通用するような先進的議論をしている。例えば「異論を認めること」とか「人々の自由こそ社会が発展する基盤」といったようなことである。しかしそういう主張をするために、周到に反論をつぶしながら最後に嘲弄的な様子で畳みかけるのが、良くも悪くも実に今っぽい。

では『概略』の目的とするものは何か、それは「ヨーロッパの文明」を日本に導入することである。なぜそれが必要かというと、日本が国際社会の中で独立を保っていくためには「ヨーロッパの文明」が不可欠だから(と福沢は考えた)である。しかし福沢は、西洋文明を絶対視していない。彼は2度アメリカに行き、またヨーロッパも幕臣として歴訪していた。であるから、西洋文明が額面通りに受け取れないものであることはよく承知しており、手放しで西洋礼賛したわけではない。それどころか自由や独立を喧伝しているヨーロッパ人が中国人を犬のように扱っているのを見て、文明の美名のもとに隠された実態を知っていたのである。さらに福沢は一人ひとりの資質は日本人の方が優れているとさえ考えていた。それでも日本では社会の仕組みが悪いため、一人ひとりが優れていても社会全体としてはその能力が発揮できず停滞していると福沢はいう。だから、西洋文明には悪いところもあるが、そのよいところを取り入れて社会を改良していこうではないか、というのが福沢の考えなのだ。

ではそもそも「文明」とは何か。これが本書で展開される「文明論」である。といっても福沢がいう「文明」は、ガス灯とか牛鍋のようないわゆる「文明開化」で持てはやされたものではなく、文明を動かす力、文明の基となる人々の精神の方を取り上げる。具体的には、福沢はフランスのギゾー『ヨーロッパ文明史』とイギリスのバックル『イギリス文明史』を大きく援用して「文明」を語る。なお本書ではギゾーがいうには…のようにいちいち出典が明らかにされない。また福沢はギゾーらに準拠しながらも、日本の状況に巧みに置き換え、わかりやすい比喩を挟みつつ説明している。これは今でいえば剽窃になるかもしれないが、かなりこなれたアレンジだと思った。そしてそのアレンジには、儒教の古典が縦横に引用される。もともと福沢は適塾で学んでおり儒学を極めていた。にもかかわらず福沢は儒教にはあまり価値を置いていない(というか辛辣に批判する)。それなのに古典から自由に引用しているのが意外でもあり、また当時の学術的な知の在り方を窺わせるものでもある。

そこで展開される文明論は、統治形態、つまり政治機構の歴史が中心である。彼は日本の歴史を批判的に検証し、いわば「歴史観」をひっくり返す。そして福沢は、有徳なものが統治すれば世が治まるという儒教的な統治論を否定し、人民の考えこそが歴史を動かす力であり国家の基本であるという、一種の民主主義を述べる(明治維新も、門閥政治の打破を目指した人民による革命だと福沢は見ていた)。しかし福沢は多数決とか世論といったものの危険性をよくわきまえていた。だからこそ、国家が発展するためには一部の指導者層だけが道理をわかっているのではだめで、世の中の多くが発展を目指して動かなくてはならない。そのために福沢は『概略』を著して「衆論」を主導しようとしたのだった。

江戸時代には徒党を組んで議論をすること自体が禁じられており、日本には政治に関する民衆の議論そのものがなかった。福沢はこれからの世は「衆論」を興すことが重要だとし、そのための出版の自由、演説による大勢への訴え、議論の習慣、そしてその基盤となる学問の重要性などを訴えるのである。一方で、福沢が全く歯牙にもかけなかったのが道徳、徳の問題である。当時は維新直後のアノミー状態が続いていて、道徳的頽廃が進んでいた。ところが福沢は(伝統的な)徳は、尊重すべきだけれども(としつつも福沢は伝統的な徳を明らかにバカにしており、あまり尊重している様子はない)、文明とは別の問題、として切り捨てている。当時としては「徳義」は政治的に重要な眼目だったにもかかわらずだ。

宗教についても似たような考えで、当時の多くの開明派が西洋文明の基盤にはキリスト教があると考えていたのに、福沢は「宗教などどれも似たようなもの」と述べ、宗教全般に対して冷めた目を向ける(ある意味神仏を擁護する)。文明の導入はあくまで智愚に関することで善悪とは関係ない、というのだ。この辺りもクールな現代人的であると思った。さらに政治権力がその正統性を宗教に負うことを批判的に捉え、「現代ではかつては鬼神のせいだとされていたことが科学で解明されてきているのだから、信仰が失われるのも当然だ」と科学万能論的無神論を主張する。そして宗教にとらわれるよりも、精神の自由の方が大事だ、というのである。当時としては異端な主張だ。

そして宗教や徳ではなく、社会のルールの方を精緻化し、政治を技術的な問題に落とし込もうというのが福沢の考えだ。人々を統治する・人々が統治されるための、合理的なやり方を開発していこうというのだ。つまり福沢の議論は「法治主義」を貫く。しかし、その後の日本は法治主義を十分に発達させることなく、国家の運営が国民一人ひとりの個人規範に埋め込まれていく「徳義の社会」になったのは周知のとおりである。

こうして文明論を語った福沢は、『概略』後半に日本の問題へと切り込んでいく(『概略』第9章 日本文明の由来)。福沢は日本の歴史を顧みて、そこに「権力の偏重」という大きな問題があると見る。「権力の偏重」とは、あらゆるものに上下関係が設定され、上のいうことは絶対、下には偉そうにふるまう、というように、対等な関係がないことをいう。これは極言すれば、社会のすべては治者に責任があるということだ。だからこそ福沢は「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」というのである(『学問のすゝめ』第4編)。例えば太平洋戦争終結時に連合国軍は、日本人はあれほど狂信的な戦いを続けたのだから政府が降服しても国民は自発的なレジスタンスが続くに違いない、と予想していた。ところが現実には政府が降服したら連合国軍のいうことが絶対、というように国民がすっかり変わってしまった。これは日本人には国を作っていくのが自分たちだという自覚がなく、単に上に従っているだけだという象徴である。要するに日本人は政府の奴隷に過ぎない。そして日本人は上への従順だけがあって、横の連帯意識がない。日本では「独立市民等の事は夢中の幻に妄想したることもある可からず(下巻p.117)」。これも今の日本にそのまま当てはまることだろう。

次に福沢は「日本文明」の具体的なあり方を検討する。最初は宗教だ。そこで福沢が神道をたった4、5行で片付けているのが面白い。明治8年の段階でも神道は全く重要なものとみなされていなかったようだ。そして日本の仏教は俗権(政治権力)に寄生して存在してきたと一蹴している。なお文明史を述べるところでは、ヨーロッパでは宗教(教皇)と王権(俗権)が分離したことが強調されているが、それがここの伏線になっている。

次に学問である。儒学は一種の御用学問であり、日本の歴史を通じて学問はついに民衆のものとなることなく、政治権力に奉仕するものに過ぎなかった。江戸時代には、民衆が自主的に学び、また政治権力と距離を置いた儒学の系譜が生まれたが、明治以降にはかえって教育が政府によって人々を支配する道具となっていったのは皮肉である。

さらに支配階級であるところの武士(のエートス)に筆は進む。福沢は自分自身もかつて武士であったが、『概略』では武士のエートスのマイナス面ばかりを強調している。それは要するに「上にへつらい、下に威張る」だけで存在自体が社会の停滞の一因だった、というものだ。

このように論じて、「日本は古来、文明を進めるために必要な一国の体をなしていない(下巻p.171)」と福沢は断じる。ではどうすればいいか。これについて福沢は具体的な処方箋を提示しない。それは「概略」の議論の範囲を超えたものだからだ。しかし福沢は日本の改革を人々の気質を変えようとするより、むしろ理財(経済)面の発展に託していたようだ。要するに「これからの社会は武士的であるより商人的で行こう」というようなことだろう。「「品行」「ディグニティ」「敢為活撥の気象」を具えた「ミドル・クラス」が成長することこそ、彼の畢生の念願だった(下巻p.200)」。

しかし彼は次章(第10章 自国の独立を論ず)で、金儲け万能主義を批判する。品行なき商業はむしろ害悪であると福沢は考えた。では日本はどうしたらいいのか。福沢はこの結論にあたる章で、尊王論的国体論、聖人の道、キリスト教立国論、万国公法論、攘夷論・軍事的ナショナリズム論、鎖国復活論を一つひとつ取り上げ、否定していく。そして現実の外交(福沢の用語では「外国交際」)が「禽獣の道」であることを自覚しながらも、西洋列強と並ぶ国際社会(西洋的国家システム)へ入っていくほかない、と断言するのである。そのために必要な条件は、日本が「主権国家」であり「国民国家」であることだ。

19世紀の世界で「主権国家」として西洋的国家システムに入りえたものは、東アジアでは日本しかない。「日本を西洋の属国にしない」というような曖昧な表現ではなく、明確にその条件を述べた点で、福沢はやはり慧眼だったといわねばならない。ただし先述の通り、どうやってそれを実現するかの議論は「概略」の範疇を越える。だがこうして文明を論じてきた『概略』は、その総括として日本の「独立」をパセティック(悲壮)に主張するのである。そして国の独立を達成するために必要なのが、全国民の「国民としての自覚」であり、「独立自尊の精神」ということになる。それは外国交際は、よくも悪くも必然的に国民全員の精神に影響を及ぼしていくからで、特に外国人がその非情な論理で日本を蹂躙していく(と福沢は予想した)ことで、日本人は否応なく奮起せざるを得ないだろう、というのだ。

これは「概略」の議論をあまりに単純化しているとしても、この論理展開では福沢が考えたのが「国家の運営が国民一人ひとりの個人規範に埋め込まれていく「徳義の社会」」と相似形の社会だったとみなされてもしょうがない。『概略』のこの結論は、福沢が後年批判されることになる国家主義が明治8年の段階ですでに胚胎していたという兆候なのかもしれない。全体的には人々の自由や平等、独立を標榜しつつ、それが奇妙に国家の目的へと統合されていくのが私の『概略』の印象だ。もちろん、人々の力を総動員しなくては日本は独立を保てなかったのだ、というのは事実だろう。しかし福沢はついに「国家など知ったことか」とは言わなかった。「国家」は人間が生きていくための装置でしかない、といったドライな認識を示しながら、やはり「国家」の側から人間を捉えたのが福沢の限界であり、それが後年になって批判されることになった淵源であろう。

しかしながら『概略』の議論は、様々な面で現代的であり、いまだに有効な主張がたくさんある。率直に言って、今の日本ですら、福沢が理想とした社会・国民の資質に全く到達していない(=文明化されていない)。福沢の皮肉屋で嘲弄的な調子には品のなさを感じるが、彼は狙って偽悪的に叙述し、人々の奮起を促している(ような気がする)。「反論できるものなら反論してみろ」と福沢が言っているようだ。そして21世紀の日本人も、福沢に反論できるとは思えないのでる。

なお本書は口頭での講義を基にしたものであるため、初版上巻は事実関係の間違いがとても多く、著者丸山真男は本書を公刊したことを後悔したくらいである。読むならば第2版以降をお勧めする(なお初版中巻に上巻の正誤表がついている)。

『文明論之概略』講義の稀有な記録。


2023年1月7日土曜日

『女人禁制』鈴木 正崇 著

女人禁制とは何かを多角的に述べる本。

日本では、女性が入ってはならないとされてきた山などの聖域がある。これは近年は女性差別の文脈から批判にされされるようになった。一方で、そうした山を信仰してきた人たちは、「これは女性差別ではなく伝統であり信仰」とそれに反論してきた。男女平等と伝統や信仰が相いれない時はどうしたらいいのか。本書はそうした二項対立を超えるため、そもそも女人禁制とは何かを考究するものである。

「女人禁制への視角」では、女人禁制の現状が概説される。女人禁制が大きな変化を被ったのは明治5年、政府が「女人結界」を廃止した際である。これは博覧会に女性を含む外国人を招くため、霊山(京都)の女人結界が邪魔になった政府が場当たり的に廃止したものであった。さらに同年、修験宗が廃止されたことで山岳信仰は大きな変化を受ける。今では女人禁制の山は大峯山と後山(岡山県美作市)しかない。

では近世では女人禁制はもっと多かったのか。これがそう単純ではない。女人禁制の祭りとして有名なのは京都の祇園祭(の山鉾巡行)であるが、実は近世までは女性が参加していた。ここでの女人禁制は「創られた伝統」である。もっと時代をさかのぼれば、女性はむしろ祈祷や神事の中核であり、古代文献には女人禁制という用語自体がない。だが近世に神事から女性を排除する動きがあったのは事実で、吉田神道は神子(みこ)を不浄なものとして祭祀の場から排除した。「女人結界」の用語も近世初期の仮名草子から頻出するようになる。また神道だけでなく、大相撲、酒造り、トンネル工事にも女人禁制は残っている。

「大峯山の現状」では、女人禁制の焦点となっている大峯山の複雑な経緯が述べられる。修験道の聖地大峯山は、神仏分離令や修験宗廃止令によって明治初期に変貌させられ、護持院(山上本堂の管理をする寺院の総称)、地元の吉野・洞川(どろがわ)、八嶋役講(信徒集団)の三者が女人禁制の山上ヶ岳を共同管理している。この山上ヶ岳は、昭和21年にアメリカ人女性が登攀しようしたことをきっかけに、女人禁制を破ろうとする女性が相次いだ。しかし総じてそれは売名を目的とたもので、かえって女性が道具に使われていた(男性にそそのかされた行為であった)。

そんな中で異色なのは酒井秀子の場合だ。彼女は両親から「大日如来の申し子」として育てられ、長じて「八大教」という宗教を立ち上げた。また醍醐寺三宝院から修験道大僧正の位も得ている。女性初の快挙であった。彼女は信仰心から大峯山を目指し(山上ヶ岳ではなく)大日山(稲村ヶ岳)へ登攀した。稲村ヶ岳への登山は女性の大峯山修行のコースとして後に定着した。

また昭和41年にこの地域が国立公園に編入されたことをきっかけに、観光コースとの兼ね合いから女人禁制の区域が昭和45年に縮小された。また女性信者の受け皿を作る必要もあり、様々な面で徐々に女人禁制は緩められた。

そして2000年、大峯山の女人禁制を解禁しようという修験教団の動きがあったが、禁制に批判的な奈良県教職員組合の女性教諭らが山上ヶ岳に無断で登頂して大問題となる。解禁への地元の反対も渦巻く中で事態が混迷し、結局解禁は先送りされた。大峯山が、女人禁制によって特別な場所になっていることは確かだ。

「山と女性」では、なぜ山が女人禁制となるのか、その基盤をより広い視野から探っている。女人禁制の山がある一方で、そうでない山があるのはどうしてか。例えば熊野はそうではなく、熊野比丘尼は熊野信仰の中核を支えていた。柳田国男は、女人結界の伝説によく登場するトランニ(都藍尼)という女性を巫女を指す古代の一般名詞だと推定した。尼は山の神の顕現であると考えられる。

高野山の伝承では、弘法大師の母も登場し、また女人禁制を確立した山の近くには、開山に関わった僧の母の伝承(廟や祠)が数多く見受けられる。仏教に母子の結びつきを重要なものとする考えが導入された影響と考えられる。女人禁制の山で多くの場合伝承されているのは、女性が登ろうとした際に怪異な現象が起きてそこから先に行けなかった、というものだ。僧の母の場合もそれが多い。こうして女性を排除することで山の聖性や怪奇の力が強調されたのである。しかもそれは、ここから先は行ってはダメという明確な境界をもって主張された。つまりその境界性・神聖性の確立に女性の存在が一役買っているのである。

「女人結界」では、女人結界の成立と歴史についてまとめている。女人結界の始まりは平雅行の9世紀後半説と、西口純子の11世紀後半説がある。ただ用語としてはともかく、9世紀後半には実質的には存在していたと考えられるという。また女人結界の理由は不邪淫戒に基づくもの(女性を遠ざけるため)という。しかし古代の僧尼令では男女の戒律は対称に設定されていたのに、なぜ女性に対する規制だけが突出したか。それには尼寺が消滅したことが原因であると牛山佳幸は考えた。尼は正式な受戒ができなかったこともあり、官僧から尼を締め出す方針がとられ、10世紀ごろまでに尼寺は激減した。これと並行して、仏典にある女人罪業観と触穢思想とが融合して女性の不浄観が生み出されたと考えられる。そして修行の場を清浄に保つためとして女人結界が生まれたのである。

このプロセスには陰陽師の活躍が一役買っていたかもしれないが、やはり大きいのは修験道である。修験道の山での修行には性的な要素も豊富に含まれる。そのための女人禁制という意味も大きい。修験道の成立には、山を異界と見る平地民・農耕民の世界観と、山を活動の場にする狩猟民の世界観がそれぞれ影響を与えている。狩猟民は血を穢れと思わず、女性の血の障りも気にしない。かつては山で活躍する巫女もいた。女性が不浄なものとみなされて排除された…というような単純なものではなく、修験道は女性原理(胎内くぐり、生まれ変わりなど)を取り入れる形でその儀礼を発達させ、であるがゆえに女性を遠ざけることになったのかもしれない。

「仏教と女性」では、仏教の教義における女性の位置づけが改めて考証される。法華経には女性には五障があり垢穢(くえ)の身だから成仏できないとされている。しかしこれが仏教伝来の際には強調されていない。「五障三従」といった女性差別的な文言が教説の中で定着していくのは9世紀後半の摂関期からである。「律令制下の家父長制原理がしだいに確立して貴族社会に浸透して、貴族女性の政治的地位が低下したことがあり、これに穢れ観の肥大化が加わったとみるのがほぼ定説(p.144)」である。

しかしその動向は直線的ではなく、女人往生思想もあった。特に一遍は男女問わず極楽往生を説いている。また道元は女人結界を痛烈に批判し、男女を区別すること自体を拒否した。

女性の不浄観の確立に一役買ったのは、偽経(中国で作られたお経)の『血盆経』である。室町時代、15世紀頃に伝来し、江戸時代に写本が流布した。ここでは血の穢れのために女性が「血の池地獄」に落ちるとし、その影響で出産で亡くなった女性が苦しむと考えられるようになった。これは女性の生物学的特徴そのものを、さらには出産をも罪と見なす女性差別的な経典というほかない。しかし仏典が女性の罪と不浄を説くからこそ、女性は仏教に救いを求める必要があった。『血盆経』は女性の護符となったし、芦峅(あしくら)寺の「布橋灌頂会」は女性の極楽往生を確定させるものとして多数の女性信者が集まり莫大な収入をもたらした。

「穢れ再考」では、女人結界の基盤である「穢れ」が再考される。「神聖と不浄は表裏一体(p.169)」である。「穢れ」の成立は、「神聖」の確立でもある。古代には汚れの観念ははっきりしたものでなく、それが確立するのは9世紀あたりで、神=清浄が強調されるとともに、女性の穢れ(月経、出産)が規制されるようになった。これは日本に限ったことではなく血の穢れの規制や女人禁制は世界中に存在する。なお明治5年には政府が産褥の規制を解き、明治6年には「自今混穢ノ制被廃候事」として「制度的に産穢など触穢に関するものを廃止(p.184)」している。

さらに本書では、民俗学や文化人類学を使って「穢れ」を定義する試みがされているが、私にはピンとこなかった。

最後に、「男女平等と伝統が相反する場合にはどうしたらよいか」ということについて本書を読んで感じたことを述べたい。まず、そこでいう「伝統」とはいつの話なのかということだ。近世なのか中世なのか、はたまた近代なのか。それとも「皆が伝統だと思っているもの」なのか。それについて共通理解を得ないことには話が進まない。

確かに日本では、女性を不浄なものとする価値観が仏教や修験道、陰陽道といった様々な方向から形作られてきた。今から考えると女性差別としか言えない教えがあったのだ。それが日本の伝統なんだといえばその通りだ。しかし近世までの「伝統」は、日本人はほとんど捨て去ったというのも事実である。今ではチョンマゲをしている人は誰もいない。女人禁制だってごく限られた場所だけに残っている。それは絶滅寸前の動物のような、保護しなければならない存在だろうか。それとも根絶するべき存在だろうか。本書はこの点に関しては慎重に中立的な立場を貫いている。

しかし本当の伝統ならばともかく、「皆が伝統だと思っているもの」であった場合は、伝統を墨守する意味はあんまりないのは自明であり、そういうケースが多いのである。

女人禁制を歴史・思想から中立的に考える貴重な本。

【関連書籍の読書メモ】
『仏と女(シリーズ 中世を考える)』西口 順子 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/12/blog-post_21.html
仏教における女性のあり方を考える論文集。中世仏教の女性のあり方を様々な事例から紐解く真面目な本。


2023年1月6日金曜日

『徳川家の夫人たち(人物日本の女性史 8)』円地 文子 監修

徳川家の女性たちを描く本。

徳川将軍家の中心が、将軍その人であることは言うを待たない。ではその奥方や娘たちは歴史に何の役割も果たさなかったかというとそうでもない。特に幕藩権力の成立期、そして幕末という、権力の不安定な時期には女性の存在が非常に重要だったのである。本書は江戸初期と幕末を生きた徳川家の女性の生涯を述べるものである。

伝通院お大の方(杉本苑子):伝通院こと無量山寿経寺に眠るのが、徳川家康の母・お大の方である。お大の方の系図は極めて複雑である。彼女は水野忠政の娘で松平広忠に嫁いだが、当時の婚姻は合従連衡の政略の手段であるから、その系図をちゃんと説明しようと思ったらとても簡単にはいかない。ともかく彼女は戦国時代を生き抜くための駒として、自分の幸せと関係なく離縁と結婚を受け入れなければならなかった。それでも彼女は平穏に一生を終えたから幸せな方であった。

築山殿(西村圭子):築山殿は家康の正室であるが、38歳で夫の命令によって息子の信康とともに殺害された。家臣団の中での織田派と反織田派の対立の犠牲になったのが二人で、全ての矛盾が築山殿と信康に押しつけられたのだった。築山殿は今川氏の一族(関口氏)の出で、今川氏と松平氏の協力関係の中で家康と結婚、嫡男信康を生む。信康はわずか9歳で信長の娘徳姫と結婚。この頃の婚姻は国政そのものであった。信康は長じては戦に天賦の才能を見せ、家康の信頼も厚かった。ところが信長は、突然「信康が武田勝頼に内通している」として殺害するよう家康に命じた。おそらくはそれは事実ではなく、信康が邪魔になった信長は、娘を嫁がせているにもかかわらず、というか嫁がせているからこそ排除する必要を感じ、家康にこの非情な命令を行ったのである。信康が狂気の性格であったというのは作り事なのだろう。しかしこれが信長の独断だったかというとそうではなく、これは築山殿・信康・石川数正に対してお大の方・酒井忠次・大久保忠世という、家臣団分裂の政争の結果でもあった。

英勝院(安西篤子):徳川家康には2人の正室と15人の側室があった。英勝院太田氏お梶の方は側室の一人で家康の末子市姫の母、家康最晩年の側室である。お梶は家康に寵愛され、関ヶ原の合戦に共をしたほどで、家康は戦勝後にお梶を「お勝」と改めさせた。どうやらお勝は野心家であったらしく、自ら望んで家康の側室であることを選んだようだ。家康の死後はただちに仏門に入り英勝院となった。そして家光の許しを得て鎌倉に英勝寺を建立。実母に愛されなかった家光は他の老女に母の面影を求めたのか、英勝院への気遣いは並一通りではなかった。英勝院が病を得ると懇ろに看病させ、幼い家綱を見舞いにやらせ、また自らも見舞った。英勝寺は今でも鎌倉唯一の尼寺である。

千姫(新免安喜子):千姫は徳川秀忠の長女である。婚姻が政治であり、縁組みは本人の希望など顧みる余裕などなかった時に、千姫は自分の選んだ相手と結婚した。当時としては奇跡的なことである。であるから千姫の事績には虚像がつきまとう。美しく、奔放で、悪女という虚像である。彼女を巡る系図も例によって複雑であるが、要するに彼女は豊臣秀頼に嫁いだ。しかし家康が豊臣家を滅ぼすときに、彼女は強制的に離縁させられる。一方的な離縁であったために彼女は縁切寺である満徳寺に一時入れられた。ちなみに彼女は秀頼の庶子を養女にして命を助け、鎌倉の東慶寺に入れている。後の天秀尼である。彼女は秀頼との離縁後、本多忠刻に恋して結ばれた。しかしせっかく生まれた男子は夭折。正室といえども男子を生まなくてはその地位は確立しない。よって江戸城へ戻らされた。竹姫は大奥のあるじとなったが、その後落飾して天寿院となり、家光の死後は徳川宗家の最長老となって陰の実力者となって手腕を振るった。

東福門院和子(水江漣子):東福門院こと徳川和子は徳川秀忠の娘で、後水尾天皇に嫁いだ女性である。幕藩権力を確立するため、彼女は後水尾天皇に14歳で入内させられた。武家の娘を女御に迎え入れるのは平清盛の娘徳子以来のことで、後水尾天皇は抵抗したという。入内に際して幕府から贈られた進物も莫大で、権勢は朝廷を圧倒していたから、後水尾天皇としても承知するほかない。秀忠が京都に入るにあたっては、公家たちも這いつくばって迎えた。そして和子は待望の皇子高仁を生んだがわずか3歳で死去。次の皇子も生まれてすぐ亡くなった。後水尾天皇は幼い興子に譲位。約860年ぶりの女帝である。なお後水尾天皇が譲位したのには、紫衣事件が影響したとみられる。紫衣事件とは、元和以来、主な寺院の住持の出世したり紫衣を与えられて任官昇進をするときに幕府の事前の許可を得て天皇が綸旨を下すことになっていたのを、朝廷はそれを無視して勝手に綸旨を与えており、それを寛永4年に幕府が無効だと宣言し、綸旨を没収した事件である。これによって大徳寺の沢庵宗彭らは流罪となった。幕府としては大寺院と朝廷との直接的な関係を断ち切ろうとし、後水尾天皇を中心とする朝廷はそれに抵抗したということになる。ともかく中宮和子は後水尾天皇の譲位によって東福門院となった。後水尾天皇は上皇になってかえって多くの女性と子をもうけたが、東福門院との関係は冷え切ったものではなかったことは確実だ。そしてそれは千洞御所を中心に宮廷文化が花開く時代でもあり、東福門院は王朝文化復興に大きな役割を果たした。

天璋院(来水明子):天璋院こと篤姫は、徳川第13代将軍家定の御台所(正室)である。彼女は徳川幕府最後の十数年、実質的に江戸城の女主人であった。彼女は薩摩藩島津家の出で、島津斉彬の養女となり、さらに近衛家の養女となって将軍家に輿入れした。これは薩摩がゴリ押ししたのではないが、当時一橋慶喜の擁立を図っていた薩摩は、篤姫を通じて大奥工作をする腹づもりだったと見られる。しかし慶喜擁立が失敗し、結婚後わずか2年で夫家定だ死去。未亡人となった篤姫は天璋院となった。皮肉なことに薩摩藩は幕府と敵対していくが、江戸城の無血開城にあたっても篤姫の存在は斟酌されたに違いない。しかし天璋院は徳川家を離れること無く、最後まで徳川家の夫人として生き、明治16年に死んだ。

和宮(田中澄江):和宮は、公武合体の象徴として徳川第14代将軍家茂に嫁いだ皇女である。直宮と将軍との結婚は、霊元天皇の皇女八十宮の7代将軍家継との婚約以来であった(家継が夭折したため実際には結婚していない)。和宮はすでに有栖川熾仁と婚約しており、孝明天皇も難色を示したが、幕府は朝廷の権威を借りるため、かなり強引に和宮との婚儀を進めた。であるだけに、この婚礼は幕府の威信をかけて莫大な資金が投入された。一方で、婚礼に際して江戸でも御所風にすることという条件があったにもかかわらず、いざ和宮が江戸城に入ってみれば武家風であり、和宮の意向は通らなかった。ただ一つ救いだったのは、夫家茂が和宮を愛し、夫婦の間はむつまじかったということである。それでも和宮は身長がたった4尺しかなく強健でなかったためか二人の間には子供は生まれなかった。幕府が倒れると和宮は京都へ帰り、明治10年に脚気衝心で亡くなった。

通読してみて面白かったのは、「天璋院」と「和宮」の章の比較である。幕末、幕府に送り込まれながら、その母体が反幕的になっていったという点で天璋院と和宮には共通項が多い。夫に早くに先立たれたのも同じである。しかし維新後には、天璋院はあくまでも徳川側を貫いたのに対して、和宮は幕府をすぐに見限り京都へ帰ってしまった。こうしたことから、「天璋院」の方では和宮はいやいやながら幕府に嫁ぎ、ついに婚家に染まらなかった情の薄い女だと描かれる。一方「和宮」では、運命に翻弄されながらも筋を貫いたいじらしい女性として描かれる。一体どちらが実態に近いのだろうか。「天璋院」では「和宮がいかにも夫思いの優しい妻であったかのように言いなすのは、どれもみな明治も後半の、天皇制全盛の時代になってから作られた美談であり、神話である(p.205)」と一蹴する。おそらくこちらが真実なのだろう。

ところで和宮には一つ不思議な点がある。和宮の死体には左手の手首から先がなかったのだ。公武合体の象徴であればこそ、和宮は恨みを買うに足りる存在だった。おそらくそれは兇徒によって傷つけられたものなのだろう。

徳川幕府を女性から見る好著。


2023年1月3日火曜日

『江戸期女性の生きかた(人物日本の女性史 10)』円地 文子 監修

江戸時代の様々な女性を描く。

江戸時代は、『女大学』に代表されるような封建道徳が幅を利かせていた。女性は男性の従属物として生きるほかなく、大きく活躍した女性は少なかった。よって江戸時代の女性の生の声はあまり残っていない。本書ではそんな中で記録に留められた数少ない女性たちを描くものである。

滝沢みちと只野真葛(杉本苑子):滝沢馬琴は、日本で初めての職業小説家であり、読み捨ての本ではなく高度なプロットと難解な漢語をちりばめた本格的作品を書いた。そんな馬琴は若いころ、下駄屋ではあるが家持の娘と蔦重(蔦屋重三郎)の勧めで結婚した。二人の間に生まれた長男は宗伯といい、元来病弱で医師にはなったがまともな仕事はできず、長じてからも馬琴が一家の大黒柱であった。その宗伯に嫁いできたのが「おみち」である。馬琴のファンであった前松前藩主志摩守章宏は宗伯を抱え医師として三人扶持を支給していたが、それも出仕できず辞職。宗伯夫婦の仲は当然のように悪くなり、夫婦喧嘩が絶えなかった。しかしその宗伯も結婚後8年で死去する。この時、馬琴は69歳。右目は失明し、左の一眼でなんとか仕事をしていた。

宗伯に先立たれた馬琴は、宗伯の息子太郎が身を立つようにしてやろうと、どうにかこうにか金を捻出して幕臣(鉄砲同心)の株を買った。 しかしその頃遂に両目とも失明してしまう。畢生の大作『八犬伝』も未完成で、馬琴74歳。今や一家が頼りとするのはおみちしかいない。こうして、字すら知らなかったおみちが馬琴の手となって『八犬伝』を書き上げるのである。もちろん代書人を雇ったことはあったが、病的なまでに誤字や間違いを許さない馬琴の気に入るものはなかったため、おみちがやるしかなかったのだ。しかし馬琴の作品は難しい熟語が頻出する技巧的なものだ。文盲だったおみちがそれを書くためには血の滲むような努力を要した。馬琴は最晩年まで著述をやめなかったが、それらの筆記は全ておみちが受け持った。無名の主婦に過ぎなかったおみちは『八犬伝』を通じて歴史に名を残したのである。

只野真葛は紀州藩の医師工藤球卿の娘で、仙台の伊達侯の重職の後家として迎えられた。彼女は義理の息子を慈しみ育て、義父・夫を見取って息子が家督を継ぐと隠居した。彼女は書くことが好きだったから隠居後にエッセイなどを書き、有名な『独考(どっこう/ひとりかんがえ)』を著したのは55歳の時だった。そして彼女はこうしたものを出版したいと考え、馬琴に手紙を出すのである。しかし有閑階級のお嬢さんでのびのびとエッセイを書いた真葛と、日々生活と葛藤する中で至高の作品を追い求める馬琴では、依って立つ条件が違いすぎた。『独考』は封建道徳から自由な立場で文明批評をした斬新なものだったが、馬琴には単に不愉快なものにすぎず、結局二人の音信は途絶えた。

上方女(田辺聖子):本章では物語に登場する女を読み解いて、上方女のいきいきとした姿を描いている(とはいえフィクションとしていくらか割り引く必要があるのはもちろんだ)。近松門左衛門『曽根崎心中』のお初(女郎)、『心中天の網島』のおさん(妻)と小春(遊女)、井原西鶴『好色五人女』のヒロインたちが取り上げられる。彼女たちに共通するのは、江戸時代の享楽的な雰囲気の中で本気の恋をし、真摯に生きようと(あるいはそのためにこそ死のうと)することだ。

太田垣蓮月(生方たつゑ):太田垣誠(のぶ)こと蓮月の出自ははっきりしない。彼女は高貴な生まれながら養子に出された。男子も及ばぬ武術の才能を見せ、また利発な少女だったようだ。しかし不幸な結婚をし離縁、養父の孝養のため再婚し今度は幸せな結婚生活を送ったが、夫は若くして死んでしまった(亡くなる前日に誠は薙髪)。33歳の彼女は出家を決意。知恩院大僧正によって得度し、養父とともに出家した。こうして彼女は蓮月尼となる。やがて養父が亡くなると剃髪し、いよいよ孤独な生活となった。しかしその寂寥が、彼女に新しい人生をもたらすのである。彼女は書や武道、囲碁にも長けて師範することができたが、弟子となる人々に男性が多かったので人を導くことを避け、生活の糧として陶芸を嗜むようになった。彼女は放浪とも言える度重なる宿替え(引っ越し)をしながら、陶芸を芸術にまで高めた(蓮月焼)。また香川景樹の門に入って和歌を学び、和歌を通じて多くの人々と交流した。蓮月尼が交際したのは、橘曙覧、税所敦子、野村望東尼、富岡鉄斎などがいる。彼女の交友は広く、遊女とまで和歌のやりとりをした。

松尾多勢子(岩橋邦枝):松尾多勢子は信濃国下伊那の豪農の家に生まれ、従兄の北原因信(よりのぶ)に和歌などの教育を受けた。この因信が伊那国学の中心人物の一人であった。多勢子は結婚すると(結婚後の姓が松尾)、模範的な嫁として家業に勤しんだ。また夫のお供でよく旅をした。長男夫婦もしっかりしており、多勢子は45歳で若隠居の身となって自由になった。文久元年(1861)には平田門に入門。和宮の一行を間近で見た多勢子は、宗教的情熱を帯びて尊王論に邁進するようになる。文久2年、多勢子は夫の許しを得て京都へ向かい、白川資訓(すけのり)のもとへ出入りし始めた。彼女はお金の心配をする必要もなく、和歌修業の女楽隠居として、怪しまれずに公卿や宮中に出入りして志士との連絡係となって活躍した。他の志士たちより二回りも年上の50代の彼女は、異色の女志士として平田銕胤にも高く評価され、岩倉具視の命を救ったこともある。しかし彼女自身は「ますらをの心はやれど手弱女(たをやめ)の甲斐なき身こそかなしかりけり」と女の身の不甲斐なさを詠んだ。多勢子はやがて帰郷し、久坂玄瑞、相良総三、角田忠行など逃亡した志士を松尾家で保護した。

維新後は、岩倉具視に招かれ客分として邸に住み家政を取り仕切り、「岩倉の周旋ばば」とか「女参事」と呼ばれた。しかし彼女は、明治維新が自分の想いとは違ったものになりつつあることを感じた。相良総三が「ニセ官軍」とされて斬罪に処されたのもショックだった。多勢子は明治2年には岩倉家を辞して郷里へ帰った。多勢子が勤王に明け暮れたため、すっかり家運が傾いていたから、郷里では息子を助けて家運挽回に励んだ。もはや中央とは何の交渉もなかった。明治14年に岩倉具視は再び彼女を招き、しぶしぶながら多勢子は孫とともに東京に赴いた。何不自由なく暮らしたが、平田国学の信奉者で71歳の多勢子には新しい時代の東京は「西洋の奴隷」に見え、2年で滞京を打ち切った。それでも愛国の情には変わらず、明治25年、82歳の時に、志士の中で一番仲が良かった品川弥次郎(当時文部大臣)に宛てて長文の建白書をしたためた。宮司神官を国の判任官待遇にすべしとのもので、これは明治27年に実現している。志士たちが彼女を忘れていくなかで、品川弥次郎だけは「松尾のばあさん」と手紙のやりとりをし、署名には親愛を込めて「やじより」と書いた。

廓の女性(宮尾登美子):江戸時代には、世界でも珍しい公娼制度である遊廓があった。江戸や京都の他にも地方で公認されたところも25カ所あった(薩摩には山鹿野がある)。本章ではこの遊廓の制度を解説している。当初は高級なものであった遊廓は次第に庶民化し、遊女自体の格も下級が増えたため、最上級の太夫は宝暦末以降は姿を消した。当初の遊廓では、客に簡単に肌を許さなかったという。遊廓の女性たちが百姓女の貧しい出だったのはいうまでもないことで、人身売買ではなく形の上では年季奉公であった。彼女たちはおぼこ娘たちだったに違いないが、次第にきらびやかな遊廓の世界に馴致された。本章ではそんな中でも伝説的な名妓として、高尾(何代かいる)、夕霧が紹介されている。彼女たちは単なる高級娼婦だっただけでなく、当時の理想の女性像にまで影響を与えた。さらに本章では、一種の私娼である芸者について取り上げる。江戸後期には、遊女から芸者へと時代のスターは移った。幕末には遊女や芸者に身を落とす若い娘は膨大となった。

唐人お吉(安西篤子):お吉は、横浜でアメリカ総領事ハリスに一時的に仕えた女性である。彼女は生活に困り、芸妓として働いた末(しかしこれは真実かどうかわからない)、名目は看護婦としてハリスにやとわれた。異人に仕えることが恐怖されていた時代である。体調を崩していたハリスからの看護人の要求を、下田奉行は日本の慣習に照らして侍妾を求めているものと理解し、女をあてがったものと思われる。なお後にヒュースケンは看護婦の名目で侍妾を求めていた事実がある。しかしハリスが彼女を性の対象とした証拠はない。ほんの数日彼女はやとわれ、当てが外れたハリスはすぐに暇を出した。彼女はせっかくありついた高給の仕事を辞めたくはなかったが、結局は続けることはできなかった。その後は、小料理屋を開いたがお吉自身の酒乱のためもあり潰れ、悲惨な生活を送った。異人の性の相手は「ラシャメン(洋妾)」と呼ばれ、吉原の高級娼婦も及ばぬ高給取りであり、蔑みの的でもあった。それは良家の子女たちを異人たちから守る防波堤であり、大いに奨励されたことではあるが、高給取りであったことから羨みが嫉妬となり、やがて憎悪の対象となったのだ。そしてお吉はこの指弾の対象となっていく。なぜほんの一時、しかもハリスが手を出さなかったらしきお吉がラシャメンの代表のようになり軽蔑されればならなかったのか。それはよくわからない。しかし彼女が、「人も怕(おそ)れる異人に、最初に抱かれることを決意した女(p.208)」なのは事実である。

江戸期の女性群像(林 玲子):本章では史料の端々に現れる様々な女性を描いている。機屋の娘いとは、8歳で桐生の私塾松声堂に入門。先生は「機屋であり織物商人である田村家の長女梶子である(p.214)」。彼女は橘守部の高弟であった。6年間の教育を終えて彼女は守部に預けられ、素晴らしい教育を受けて桐生に帰った。彼女の子どもの一人が、橘家に養子に迎えられた国学者橘道安である。質屋の若女房みねは「日知録」という日記を残した。近世庶民の女性が残した日記として貴重である。みねは8歳で町内の手習い師匠・前野久右衛門の妻女ために入門。彼女は教養が高く、家業は夫や奉公人に任せていたが家事に励み、時には仕事をうっちゃって息抜きをする、等身大の姿が日記に残っている。さらに本章では島流しにされた女、孝子として表彰された女、養父に売春させられていることを評定所に必死に訴えた女、上州の世直し一揆の女大将たちが簡潔に描かれている。

本書は全体として、近世の庶民女性の姿をいろいろな角度から捉えようとしたものであり、いろいろと考えさせられる。

第1に、この時代に女性が活躍するためには、誰かの妻や母であるという義務から解放される必要があったということだ。滝沢みちは夫の死亡後に底力を発揮し、太田垣蓮月は出家後に養父をみとって孤独になってから自分の人生を生きた。松尾多勢子の場合は少し違っていて、夫の公認の下で志士活動をしたが、それにしても隠居の身であればこそできたことであろう。女は男の従属物だった。

第2に、そうはいっても女性に教育が閉ざされていたわけではないということだ。確かに各藩の藩校や江戸の昌平黌などは男性のみに入学を許可していた。しかし只野真葛は高い教養を身につけ、遊女たちは『源氏物語』の写本を所有して美しい字を書いた。「手紙遊女」という手紙専門で客を招く能書家もいたという。庶民の女性、機屋のいと、若女房みねも今でいえば小学生くらいの頃からしっかりとした教育を受けた。しかも女性の先生に習ってだ。無教育だったらしき滝沢みちの場合も、目の見えない馬琴が熱心に字を教えた。みちの筆跡は馬琴にそっくりだったという。少なくとも「女に教育は無用」とか「女に学問は無理」といった考えは本書の登場人物からは感じられない。かえって明治期に入ってからの方が、女は社会から疎外され「良妻賢母」としてのみの役割に押し込められた感がある。

近世の女性にも、社会に出て活躍していた人はおそらくたくさんいるのだろう。しかしそうした人生は、歴史の中に埋もれてしまった。我々が知れることはほんのわずかである。

近世の女性の在り方を考えさせる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸の女』三田村 鳶魚 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/12/blog-post.html
江戸の性風俗を述べる本。江戸時代の女性研究の古典。


2023年1月2日月曜日

『信仰と愛と死と(人物日本の女性史 7)』円地 文子 監修

信仰に生きた女性を江戸時代中心に述べる本。

「人物日本の女性史 全12巻」のシリーズは女性の手だけによって歴史を生きた女性を描くものであり、本書はその一冊である。このシリーズでは一冊ごとにだいたい7人の女性を取り上げ、主に作家がその生涯を簡潔にまとめている。学者の文章でないから大変読みやすく、また他ではあまり取り上げられない人物がたくさん登場するのがよい。なおテーマで巻が分けられており時代ごとではないが、本書の中心は江戸時代である。

恵信尼(円地文子):恵信尼は親鸞の妻である。親鸞は半僧半俗を標榜し、堂々と妻帯した。これは浄土真宗の基本的態度となり、(親鸞自身は自らを僧であるとはしていなかったが)僧侶の妻帯世襲が続いていく。だがそれは消極的な意味で僧侶の女犯が公認されたということではなく、親鸞在世時から妻の恵信尼が窮乏に耐えつつ布教に大きな役割を果たし、また子の覚信尼もその発展に尽くしたことが積極的に評価されたと考えらえる。親鸞の御影堂を東山大谷の地に造ったのは覚信尼であり、その子孫によって代々引き継がれた。

文智尼(安田富美子):文智尼は後水尾天皇の第一皇女梅宮である。しかし幕府は徳川和子を後水尾天皇の正妃として入内させたから、梅宮の母(およつ)と彼女が生んでいた皇子たちが邪魔になった。そこで幕府はおよつを遠ざけ皇子たちを強制的に出家させた。和子も政略の犠牲になった女性で、次々に息子たちは夭折、突然譲位した後水尾天皇を継いだのは、和子の生んだわずか7歳の興子内親王、明正(めいしょう)天皇である。千年来の女帝であった。一方、梅宮は鷹司教平(のりひら)に嫁いでいたが、婚家にあること3年で離縁し出家。その理由はわからない。梅宮は、定慧明光仏頂国師こと一絲文守(いっし・もんじゅ)の下で得度し、以後文智尼として57年にわたる信仰の生涯に入った。一絲は無師独悟であるが沢庵の教えを受けた傑僧で、やがて二人は深く愛し合うようになった。しかし二人は愛に溺れるには道心堅固すぎた。一絲から文智尼への手紙には、「ただ互いに老を待つまでに候」と引き裂かれる思いが吐露されている。しかし老いを待つまでもなく、一絲は39歳で死去。以後文智尼は厳しい禅の道に生きるのである。一絲の菩提を弔うため自らの手の皮をはいで手皮経を書いたのに、その壮絶な決意がにじみ出ている。彼女は徳川和子こと東福門院の後援を受け、大和村に移って山村円照寺をつくり、そこで厳しい戒律を守り、弱い人々の味方となって静かに一生を終えた。彼女は、尼門跡寺院に入って安楽な生涯を送った並の皇女が及ばない宗教者だった。本書中の白眉。

天秀尼(永井路子):天秀尼は豊臣秀頼の娘である。徳川家康によって豊臣一族が亡ぼされる中、彼女は家康の孫千姫の養女となっていた関係からか生かされ、鎌倉の東慶寺に押し込まれた。一種の飼い殺しであるが、将軍家の子女は尼寺入りするという慣習があり、これはむしろ人道的な処置だったかもしれない。しかも彼女は養母千姫の後援を受けていたから、徳川家の権威によって東慶寺が発展する契機とさえなった。そして普通は入寺した貴種の尼は貴族的な生活を送ったが、どうやら天秀尼は求道心が強かった。沢庵に書状で教えを乞ういていることからもそれが裏書される。過酷な宿命にあったからこそ、禅に命を懸けたのだろう。彼女の面目を示したのが、「会津四十万石改易事件」。天秀尼は東慶寺で会津藩から逃げてきた堀主水の妻子をかくまい、傲然と寺院の独立を主張するのである。高野山でさえアジール的特権を失っていた時代のことだ。以後、東慶寺は女の駆込寺として群馬の満徳寺と並び発展していくのである。

慈音尼(柴 桂子):近江の商人の娘に生まれた慈音尼(俗名不詳)は、8歳で母を亡くし出家の宿願を抱いた。父たちはそれに反対したが、こっそりと家を出て自秀という尼の弟子となった。ところがいざ出家してみると学者になりたいという心が起こって経や禅録の勉学を熱心にするようになり、やがて難行苦行に取り組んだがついに悟りを開くことはできなかった。それどころか体を壊し身内のものを頼って養生することになり、この時に石田梅岩の噂を聞いて梅岩のもとを訪れるのである。石田梅岩は無料で誰にでも教え「石門心学」を説き、その講釈は人気だった。石田梅岩の考えは雑多な教えを折衷したもので、あるがままの自分と社会を認め、その中で知足して生きるのがよいというものであった。慈音尼は梅岩に魅了されて入門し、厳しく教えてほしいと願った。これに応えて梅岩は他の弟子には優しく教えたのに、慈音尼には厳しく接したという。梅岩は人間に対してだけでなく、雀や鼠にも優しく、自分には厳しく倹約を守り、徳の高さがにじみ出ていた。慈音尼は梅岩に感化されて厳しい修行をし、ある時にハッと悟りを得た。そして梅岩の死後、慈音尼は江戸へ布教の旅へ出た。梅岩と同じような無料の講釈である。おそらく慈音尼30~40歳の10年間ほどと思われる。しかし慈音尼は病気がちで十分な成果が出る前に故郷に帰り、63歳でこの世を去った。梅岩の言葉を記録した『道得問答』の執筆や江戸へのいち早い石門心学の布教は評価できる。

中山みき(小栗純子):みきは地主の娘に生まれ、一生を独身のまま過ごし尼として生きる希望があったが、13歳の頃、やはり地主の妻として嫁いだ。婚家は人もうらやむ裕福な家であったが、夫はみきを愛すことなく、富にまかせて女遊びをし、家業にも身が入らなかった。そんな中でもみきは模範的な主婦として精いっぱい働いた。みきは、貧しい百姓たちが夫婦力を合わせて額に汗して働いている様子を見て、富こそ人間の幸福を奪ってしまうものだと思わずにはいられなかった。貧農こそ彼女の理想であった。41歳になったみきは健康を崩し、加持による治療を受けた。その時みきの体に神が下り、その神は三日三晩もの間不眠でみきをもらいうけると主張した。仕方なく家の者が承知すると、みきは神の命令として家産を次々と処分させた。「貧におちきる」ことが神なるみきにとって必要なことだったのだ。生きるための労働こそみきにとっての幸せであった。さらに夫が死去すると、安産の約束「おびや許し」を与えることからみきの救済者としての活動が始まった。みきは教祖然とせずやさしい慈母のようであった。そして慶応2年ごろからは『御筆先』と呼ばれる神の言葉の執筆が始まる。やがて彼女の教えは天理教として発展、政治権力に対して激しい批判をもいとわず、みきは90歳で世を去るまで18回も警察に拘留処分を受けた。

キリシタンの女性(阿部光子):本章ではまず戦国時代のキリスト教布教の歴史が述べられ、キリシタン大名高山右近の妻や細川ガラシヤについて触れられるが、だいたいは一般的な日本のキリシタン史をなぞるものである。右近ら信者たちは家康によって国外追放となり、ジャンク船に乗ってマニラに着いた。右近は国賓の待遇を得たが病を得て死亡した。このほか小西行長の妻、行長の軍の捕虜となった朝鮮貴族の娘、ジュリアおたあなど、歴史の端々に登場するキリシタンの女性について述べている。

全体として、私の興味は本書前半の尼の部分にあったが、読みやすくてつい全部読んでしまった。なお本書のみならず本シリーズの他の巻にも言えることだが、現代から見ると女性を一面的に捉えたきらいがあり、例えば本書表題の「信仰と愛と死と」も、女性だから愛という安直さを感じる。内容にも、「女らしく…」とか「女性らしい~」といった表現が散見される。それらは内容を毀損するものではないが、今から見ると時代を感じざるを得ない。

しかしながら、男ばかりが取り上げられる歴史の本の中にあって、女性だけの、女性による歴史のシリーズが作られたことはまことに意義深く、その中でも本書は「尼」に注目している点で先見の明がある。

尼となった女の生き方を考えさせる価値の高い本。

【関連書籍の読書メモ】
『東慶寺と駆込女』井上 禅定 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/12/blog-post_22.html
駆け込み寺として著名な東慶寺について述べる本。天秀尼について述べている。


『京の社—神と仏の千三百年』岡田 精司 著

京都の代表的な神社の歴史を述べる本。

京都には日本を代表する神社がたくさんある。本書は、それらから約20社を選び、神社の変化を通じて神仏の歴史を述べるもので、「「国家」と「天皇」から開放された自由な視点で、しかも科学的に記述された平易な一般的な本(p.6)」として書かれたものである。

私自身の興味としては、近世から明治維新に神社がどのように変化したかということにあるので、以下そこを中心にメモする。なお例えば第1章は「県主の神から王城鎮護の神へ」などと表題がつけられているが、ここではそこで取り上げている神社を見出しに代えた。

第1章 二つの賀茂神社:上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下鴨神社(鴨御祖神社)は、共通の大祭を挙行するなど密接に関係しながらも別の神社として存在している。この神社は元は一つの神社で、古代から民衆からの支持を集め、祭りに群衆が押し寄せたため朝廷は禁令を出すほどだった。天平10年(738)、朝廷は禁令を撤廃する代わりに賀茂神社と賀茂県主家の勢力分断を図り、神社を二つに分けたのである。こうして朝廷により掣肘を受けていた両社だが、長岡京以後は伊勢神宮並の国家の最高神として遇せられるようになる。例えば賀茂神社には天皇家から「斎王(いつきのひめみこ)」が派遣された(承久の乱で断絶)。なお5月の賀茂祭の中にある葵祭は、勅使を迎える祭のハイライトであるが、応仁の乱以降は中断し、元禄7年(1694)に再興されている。これは史料を元に再興されたものであるから古代の儀式ものそのものではないが、この勅使奉幣の祭儀が現在の他神社への勅使奉幣の基準となっている(全16社)。

第2章 伏見稲荷神社:古代の稲荷の信仰は稲荷山の三つの峰を祀ったものであるが、応仁の乱の時にこの峰は戦火に見舞われて全ての社殿・宝物は焼失した。現在の本殿は室町時代に再建されたものである。稲荷信仰は朝廷と結びつくことなくあくまで民衆的なものとして発展したことが特徴。大祭「稲荷祭」は戦国時代に中断し、江戸時代の安永3年(1774)に再興された。伏見稲荷は東寺との関係が深く、平安時代後期に土地を守る地主神として東寺の鎮守神になったものとみられる。伏見稲荷の神職には「秦氏系」と「荷田氏系」の二つがあるが、両系統の勢力関係が東寺との関係に影響しているようだ。なお荷田氏は竜頭太の子孫とされる一族で、国学者の荷田春満もこの一族。秦氏一門が神職を務め、荷田氏はその下で働いていたが両氏はなにかにつけ対立していたという。なお稲荷神社は他の大社と違って御師がいない。稲荷信仰は宗教者が組織したのではなく、あくまで民衆の自発的なものだった。明治期に建てられた境内の大量の「お塚」はその象徴である。

第3章 日吉大社:日吉神社は、古代からの比叡山の山岳神を祀ったものであり、元来は「ヒエ神社」といったようだが、これに「日吉」の字が宛てられ、これが平安時代に入って「吉」の読みがエからヨシに変わって「ヒヨシ神社」になった。近代にはこれを古代の呼称へ戻す動きがあったが、今では地元の人もヒヨシと言っている。日吉大社は山王二十一社と多くの末社から構成され、山・岩・泉・樹木の崇拝など古代信仰の要素と、神仏習合の要素が様々に残り、さながら「古代信仰の博物館」である。日吉の神々は明治維新までは「山王権現」(山王元弼真君になぞらえた呼称)と中国風に呼ばれ、二十一社には全て本地仏が定められ仏教的な建築と雰囲気の場所だった。天台宗の神仏習合理論は「山王神道」として体系化された。ところで比叡山といえば信長の焼き討ちであるが、三塔十六谷の全てが焼き払われたのを再興したのが山王権現の大宮神主の祝部行丸父子。「彼は一切の資料が焼失した中で、祭祀から縁起・伝承、さらには社頭の景観や神像・建築・調度に至るまで、記憶によって復原し、多くの著作を残し(p.101)」た。延暦寺の天海僧正の復興事業と合わせて特筆すべき業績である。しかし明治時代になって神仏分離が行われると、山王社の二宮の世襲社司であった樹下茂国は神職らの武装集団「神威隊」と農民を率いて廃仏毀釈を行い、その後二十一社の名称も祭神も全てが改められた。

第4章 石清水八幡宮:八幡大神は東大寺の鎮守神として祭られたことでもわかるように国家と密接な関係を持っていた。石清水八幡宮が男山に創建されたのは、貞観元年(859)。それは藤原家が政権を掌握するための装置の一つだったらしい。そして元は「石清水八幡宮護国寺」といい、これは神仏が完全に融合した神社でも寺院でもない「宮寺(みやでら)」という特殊な宗教組織だった(神宮寺との混同に注意)。『延喜式』でも石清水八幡宮は神社として扱われていない。 運営は僧侶が担い、神官はその下にあった。また僧侶の最高位の別当職は紀氏の子孫が世襲していたが、彼らは妻帯し世襲するという僧侶としては特殊なあり方だった。また男山の山上には護国寺、麓には極楽寺という二つの中心的寺院があり、神仏習合形式の祭祀を支えていた。八幡神が国家の守護神となったのは、母子信仰を基盤として祭神を応神天皇母子として再構成したことによるところが大きい。さらに武士の時代になると源氏の帰依を受け、石清水から勧請して鶴岡八幡宮が鎌倉に創建。また御家人たちも各地に八幡宮を鎮守神として石清水から勧請した。明治維新の際には、山内の多くの堂塔は鳥羽伏見の戦いと廃仏毀釈によってほぼ破壊され、「宮寺」から完全な「神社」として転換させられた。「山上の中心的存在だった護国寺の跡も、今は雑木林の生えるにまかせたまま(p.128)」である。

第5章 北野天満宮:皇族でも藤原氏でもない菅原道真が右大臣兼右大将まで昇進したのは異例人事であった。そのため藤原氏一門の恨みを買い大宰府に左遷される。彼自身は不運を嘆きながらも強い怨みを持っていたわけではないが、月食・彗星・雷など都を襲う天変地異と関係者の突然死などをきっかけに、藤原氏専横への反発もあいまって道真の怨霊跋扈がささやかれ、宮廷や貴族ではない民衆の間から道真を神として祭ろうとする動きが起こった。こうして創建された北野天満宮は、死者の霊を神として祭る最初の神社となった。ちなみにこれも神仏習合の天台宗の「宮寺」である。11世紀初めからは比叡山延暦寺の下に置かれ、曼殊院が北野別当職を務めた。これは宮門跡の寺院であり、その下に松梅院・徳勝院・妙蔵院の三祠官家があって彼らは法体(僧形)で神前に奉仕し妻帯、そしてその下に俗体の神人(じにん)がいるという構成になっていた。そのうち西京の麹座神人は特に有名である。なお天神様が学問の神になったのは南北朝期からであり、菅公の霊が宋に渡って禅を修めたという「渡唐天神」の信仰が生まれてからである。

第6章 祇園社(八坂神社):中世を代表する信仰が、祇園社こと「祇園社感神院」の牛頭天王信仰である。それは神や仏の枠に収まらない、陰陽道の強い影響下に形成された異形の神格であった。中世にはこのような異形の神々が流行していたらしい。祇園社感神院ははじめ興福寺の末寺であったが延暦寺の末寺となり、京における庶民信仰の重要な拠点だった。天台座主が祇園社の検校を兼ね、その下に僧侶の組織があり神職はいなかった神仏習合寺院である。ここでも社僧は僧形でありながら妻帯世襲する者たちで、ここも「宮寺」だった。しかし明治維新後にはこれが神仏分離させられ、神像群は破壊されて、祭神もスサノヲに改変されて八坂神社となった。スサノヲとの結合は鎌倉時代から説かれ始め、吉田神道の下で強化されたようだ。なお現在の円山公園はかつて祇園社感神院・安養寺・長楽寺などの寺坊や堂塔が点在する場所で、明治4年(1871)に明治政府が接収(上地)し、公園としたものである。近代日本の都市公園は大寺院の境内地だった場所が多い。

第7章 吉田神社:吉田神社は宗源一実神道(吉田神道)によって全国の神社・神職を支配し、また寺院・僧侶から独立した数少ない神社である。吉田神社は元は奈良の春日神社から分祀したもので、神職を世襲した卜部氏は神祇官の雑事に従事する下級の役人であった。卜部氏はやがて神祇大副(たいふ)を世襲するようになるがこれは神祇官の次官である。卜部氏が別れて吉田氏と平野氏となり、両家は古典研究の家として厖大な古典を所蔵していた。現在残る国宝・重文の『日本書紀』などの写本は両家の人々の筆写によるものが少なくない。室町時代には吉田兼俱が出、彼が生みだした宗源一実神道によって全国の神社に影響を与えた。これは本地垂迹説を逆にした一種の神仏習合理論であり、彼は巧みな話術とその著作によって人々を惹きつけた。さらに文明16年(1484)には八百万の神々を全て祭る八角形の「斎場大元宮」を境内に設け、伊勢神宮までも吉田神社に移すという破天荒なことも計画した。兼俱は政治的手腕を発揮して朝廷の公認をとりつけ、伊勢神宮側は認めなかったものの斎場所内に伊勢神宮を祭ることに成功した。兼俱は「神祇官長上」と称したが、「長上」官とは、もともとは律令制度で勤務形態の常勤の官人をさすものに過ぎなかった。彼はこれをあたかも「神祇伯」と並ぶ長官のような錯覚を抱かせ、この権威を以て「宗源宣旨」と「神道裁許状」を出し、全国の神社に対して神階や神号の授与、装束の許可・笏や檜扇を持つ特権を与えていたのである。その後、天正18年(1590)には天皇家の神棚である「八神殿」が秀吉が聚楽第を建てる際に大元宮の北側に移され、吉田家では神祇官を名目的に復興させたとして「神祇官代」と称した。さらに江戸時代に入ると、幕府は吉田神社の権威を追認したため、全国各地の神社が大金を奉納して吉田家に「縁起」の製作までも依頼し、それによって全国の神社の祭神が記紀神話の神々に統一されていった。これは「明治維新の祭神統一政策の先駆をなす動き(p.197)」である。近世の吉田家は「大名に準じるほどの権勢と富を誇っていた(同)」。吉田神道の下に服さなかったのは、「伊勢神宮や出雲大社、賀茂神社といった幕府の認めた特別な大社。日吉山王社のような、天台宗・真言宗直属の大寺院配下の宮寺や神社。それに白川神道に属した一部の神社だけ(同)」であった。こうした神社支配も明治維新によって否定され、吉田家は華族に列せられて東京移住を命じられ、斎場大元宮も政府の命令で末社に落とされた。

第8章 豊国大明神と東照大権現:平穏に亡くなったのに神として祭られた最初の人物が豊臣秀吉である。彼が作った方広寺大仏殿(大仏は秀吉時代には地震の影響もあって完成せず、秀頼時代に鋳造)の鎮守八幡社として作られたのが豊国廟である。この豊国廟の境内は30万坪にもおよぶ広大なもので、創建時もさることながら七回忌がど派手で、京の街全体が熱狂の渦に包まれた。しかし江戸幕府はこれを社殿はもちろん墓所までも完全に破却し、僅か20年足らずで消滅した。なお大仏は江戸幕府によって溶かされ寛永通宝になっている。明治政府は1868年8月、豊国神社再興を決定。新日吉神社の神殿を仮の社殿として、その後方広寺大仏殿の跡地に再建した。明治31年(1898)には秀吉没後300年祭が盛大に挙行された。日清戦争直後で、秀吉が海外侵略の英雄としてクローズアップされた時期だった。

徳川家康の葬儀を行ったのが、吉田家の一門で豊国神社の社僧だった神龍院梵舜だというのが面白い。葬儀の翌年には後水尾天皇から「東照大権現」の神号が贈られた。これは南禅寺の金地院崇伝から「大明神」とする案がでたものの、延暦寺の南光坊天海が反対して天台宗の山王一実神道によって「大権現」を勧めたことによる。東照宮は伊勢神宮と並ぶ存在として幕府から扱われ、「東照」も天照大神を意識し、「宮」号にも特別な意味があった。東照宮は、京都にも金地院(南禅寺塔頭)境内と比叡山延暦寺の境内に分祀された。なお天海は東照宮を管理する神宮寺として日光山輪王寺を創始して門跡寺院とし、自らは天台座主として延暦寺・寛永寺・輪王寺を宰領した。その後、寛永寺門跡(関東在住)が延暦寺・輪王寺門跡を兼ね、天台座主に就任することが慣例となった。これは皇族(門跡)が幕府の廟に仕えるという朝幕関係を図式化したものといえる。東照宮の祭神は徳川家康だが、実は三尊形式で左は延暦寺の護法神の摩多羅神、右は比叡山の地主神である日吉山王権現である。これは明治政府の神仏分離によって源頼朝と豊臣秀吉に変えられ、延暦寺との関係も断たれ日吉大社の末社とされた。

第9章 白峰神宮・水無瀬神宮・霊山護国神社:明治政府は神社や神道を大きく改変した。明治8年(1875)には『神社祭式』という図入り手引き書を全国の神社に配布し、「神前の飾りつけ、祝詞の文章から祭具の細かい点にいたるまで、政府の方針通りに画一化(p.228)」したのである。そして明治政府は民衆の信仰や伝統とは無関係に神社を創建した。その一つが崇徳院を祭る白峰神宮である。崇徳院は讃岐に流されて国家を恨んで死に、歴史を通じて恐れられ、霊界の「大魔王」になったと信じられた。これが幕末の混乱期に想起され、文久2年(1862)が崇徳院700回忌に当たっていたことから国学者や公家から崇徳院の霊を祭る運動が起こり、新政府の下で実現したのが白峰神宮である。崇徳院の陵(白峰陵)から霊を移す神霊奉還の祭典が行われた慶応4年8月は会津若松城をめぐる攻防戦の真っ最中であった。こうして崇徳院の霊は、恐ろしい怨霊から皇宮守護の神へと転化したのである。明治6年(1873)、ここには「淡路廃帝」と呼ばれた淳仁天皇も合わせて祭られた。また同年、承久の乱で流刑となった後鳥羽上皇など三帝の霊もそれぞれの陵墓から奉還され、大阪府に水無瀬宮に祭られた。これらと前後し、戦乱で命を落とした皇子たちの霊を祭る神社が明治初期の数年間に次々創建されている。また維新前にも討幕派の諸藩が東山の霊山(りょうぜん)にそれぞれ藩ごとに殉難者の墓地をつくっていたが、これが明治政府によって「霊山官祭招魂社」として神社になった。昭和14(1939)に、戊辰戦争以外の一般の戦死者も祭るようになったので「京都霊山護国神社」と改称する。日本の宗教史の中で、味方の戦没者だけを英雄視して神道形式で祭るのは異例なことであった。

第10章 平安神宮・護王神社・梨木神: 明治22年(1889)の大日本帝国憲法制定の頃から、それまでと性格の違う神社が造られるようになる。平穏に生涯を終えた天皇たちの霊が神として祭られるようになるのである。明治23年の奈良の橿原神宮はその第一号だ(神武天皇)。明治27年(1894)は平安遷都1100年であったことで、これに向け国家の後援を受けて設立運動が起こり、記念祭の日程と重ねて第4回内国勧業博覧会を開催する計画で創建がスタートした。建設は巨費を要したがその大部分は民間募金によったという。この計画を経済界が支持したのは、沈滞気味の関西の経済を活気づける意味合いがあったのではないかということだ。鎮座の翌年には平安遷都千百年祭が盛大に催されたが、そこには陸海軍の戦利品展示場が設けられたり、軍備品が展示されるなど、天皇の神社が海外侵略の軍事行動と結びついてもいた。なお昭和15年(1940)には、紀元二千六百年記念行事の一環で孝明天皇の霊が合祀されている。護王神社は元は神護寺の境内にあった和気清麻呂の霊を祭る護王善神廟。孝明天皇から神号を贈られて神社となった。皇室の血統を守った功績が幕末期に回顧されたのであろう。梨木神社は三条実万(さねつむ)を祭る神社で明治18年(1885)に創建された。これらは「神社としては全く異例で、何故彼らが神とされたのか、不可解(p.261)」で、「明治政府首脳たちの政治的意図があった(同)」と思われる。その背景には、荒れるに任せていた京都御所を1880年頃から即位儀礼の場として保存し、周辺を整備する方針に転換したことがあると思われる。

本書は全体として、専門的事項を述べるものながら大変平易で面白い。私自身、最初は自分が関心ある第2章、第3章あたりだけ資料として読むつもりだったのに、面白くてつい全部読んでしまった。

また著者は「宮寺」を、神社・寺院とは別の第三類型=「僧侶が主導する祭祀形態」として強調しているが、これは私も全く知らなかったことである。これまで神仏習合について書いた本を読んできたが、これについては読んだ記憶がなかった。「宮寺」については著者も後書きで「この本で初めて一般向きに平易に書けた」と述べている。

上述したように、本書の中盤までの神社は古代に創建されていながら、祭神や儀式は時代ごとにかなり変わってきたり、断絶したりしている。特に本書を読んで応仁の乱が及ぼした影響は大きいと感じた。また断絶した祭などが再興されるのが江戸時代が多いのが印象的である。そして明治維新では信仰の改変と言うべき変化を蒙った。神社は古代から国家の影響を大きく受けてきた存在であり、明治維新ではそれが先鋭的に現れたといえる。

10のケーススタディによって神社と国家の歴史を述べた面白い本。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸時代の神社』高埜 利彦 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/12/blog-post_28.html
江戸時代の神社や神道がどのようであったか述べる本。本書と合わせて読むと近世の神社の理解が深まる。江戸幕府の神社政策の概略がまとまった良書。