2022年7月24日日曜日

『維新の衝撃 近代日本宗教史第1巻』(島薗 進、末木 文美士、大谷 栄一、西村 明 編)

幕末から明治10年代くらいまでを中心とした日本宗教史。

『近代日本宗教史(全6巻)』は、多くの研究者の協力の下、平易かつ本格的な近代日本宗教史として企画編纂されたものである。体裁としては通史というよりはトピック毎の論文となっており、その間に短いコラムが挟まっている。

「第1章 総論—近世から近代へ」(末木文美士)は、巻頭に相応しい、端正な歴史の概観である。これまでの研究成果を踏まえつつ、神仏分離から国家神道までの道筋を語り、今後の課題を提出している。国学では「幽界」と「顕界」の問題、仏教教団については特に西本願寺派(の島地黙雷)の動向に注目し、仏教界といえど単なる被害者ではなかったことを述べている。

「第2章 天皇、神話、宗教—明治初期の宗教政策」(ジョン・ブリーン)では、(1)宮中儀礼・祭祀、(2)伊勢神宮、(3)比叡山と日吉神社がケーススタディ的に述べられる。(1)では、神祇官の廃止は福羽美静など津和野派の求めた結果であったとし、国家儀礼としての天皇による祭祀を創出する取組を述べている。本節は、明治政府の当初の宗教政策を述べるものとしてもよくまとまっている。(2)では、伊勢神宮が国家の大廟として変貌した様を簡潔に描く。(3)では、最初に廃仏毀釈の被害者となった日吉神社について取り上げる。これは類書に比べかなり詳細である。さらに、まだあまり研究が進んでいない延暦寺の明治維新について概観している。延暦寺は「座主」に天皇の承認を必要とするなど朝廷との深い関係があったが、それが明治初期に急速に解体されていった。

「第3章 国体論の形成とその行方」(桐原健真)では、まず「国体」という言葉の持つ「魔術的な力」を表す象徴的な事件=金城女学校での「地久節不敬事件」(1908年)が取り上げられる。さらに「国体」という用語の出自について水戸学(特に会沢正志斎と藤田東湖)の思想が検証されるとともに、幕末の国学者たちが儒学的普遍主義の「国体論」から分離して日本固有の論理に基づいた新たな「国体論」に跳躍させたと説く。特に大国隆正は平田篤胤がこだわったあの世=幽界の問題から距離を置き、現世主義の考えから天皇を「世界の総王」であるとして「皇国」の「国体」の優越を説いた。ただし水戸学者たちと国学者たちの思想がどう連結していたかは記載がない。

「第4章 宗教が宗教になるとき—啓蒙と宗教の時代」(桂島宣弘)では、外来の概念"religion"に日本の「宗教」が合わせていった過程を述べている。岩倉使節団は外遊において、ヨーロッパ諸国の文明の基盤には宗教があることを発見し、また信教の自由が外交問題となっていることに衝撃を受ける。また森有礼は藩政時代にイギリス留学し、また維新後はアメリカに赴任していたため、早くから「政教分離」「信教自由」を主張していた。当然森は、明治政府の宗教政策を批判し、「自分でつくったreligionを人民に押しつける政府の企て」と非難した。森は「明六社」の創立者の一人であるが、明六社でも宗教論が様々に議論された。そういった趨勢の中、啓蒙知識人たちの間では、religion以前の宗教と見られた庶民の信仰は文明と相容れないものと見られるようになった。特に病気直しについては、西洋医学を阻害する有害な「迷信」と考えられた。そこで金光教などの新宗教は、本来は病気直しを中心とする素朴な民間信仰であったにもかかわらず、文明国に相応しい「宗教」へ自ら改革していくのである。一方、島地黙雷は神道をreligionと呼べるものではないと批判したが、国家の方でも神道儀礼を国民に強制する都合から、神道は宗教ではないとされた。開明的な仏教者であった島地と国家の思惑が奇妙に一致していたのが興味深い。

「第5章 近代神道の形成」(三ツ松誠)では、西川須賀雄を取り上げて近代神道の形成過程を追っている。西川須賀雄は佐賀藩出身で、六人部是香(むとべ・よしか)の門人となった。六人部は篤胤の門人であった神職である。佐賀藩には六人部の門人となったものが多かった。佐賀藩では学問が家禄や役職維持のための条件として使われ、藩校弘道館から大隈重信や江藤新平など俊英が輩出された。その講道館教授に枝吉神陽がおり、彼は矢野玄道の友人で国学的な思想を持ち、皇派志士に大きな影響を与えていたのである。西川須賀雄は大教院開講式で説教を行い、修験宗廃止令の後、出羽神社(羽黒山)に宮司として赴任。須賀雄の下で旧来の修験組織は「赤心報国教会」へ改変(!)、その他多方面に教化活動を展開した。

「第6章 新宗教の誕生と教派神道」(幡鎌一弘)では、幕末に遡って新宗教の動向が述べられる。明治政府は「神道は宗教ではない」と整理したので、神社神道から宗教としての「教派神道」が分離された。一見、新宗教(黒住教、金光教、天理教など)と教派神道は全く別の動きをしているがその動向は緩やかに繋がっていた。国家・社会の近代化なしに新宗教の勃興もあり得なかったからである。

「第7章 胎動する近代仏教」(近藤俊太郎)では、仏教勢力が国家の中に位置づけを得て自らを近代化していく様子が述べられる。神仏判然令以降、仏教は国家から冷たくあしらわれていたが、西本願寺の僧侶大洲鉄然は寺院寮を設けて諸国の寺院を管理させるよう政府に建議を提出した。これを受け1870年閏10月に民部省の中に寺院寮が設けられたものの、わずか1年後の1871年(明治4年)7月、民部省は廃止。以後、「社寺に関する庶務は戸籍寮のなかに設けられた社寺課で処理された(p.218)」。同年9月、島地黙雷は教部省の設置を求めた建言を提出。10月、左院では江藤新平が寺院省の設置を建議し、1872年3月には神祇省が廃止されて教部省が設置された。また、同年6月には「政府は仏教七宗に教導職管長を置き、それを通じて仏教を統制することとした(p.220)」。一方この時代は真宗にとっては画期的な意義を有し、「真宗」公称許可、真宗各本山住職の華族化、親鸞への大師号宣下などが教部省の下で実現した。教部省は各宗管長に「従来の宗規を調べて届け出よ」との達しを出し、これによって仏教教団は規則の調査・整備の必要に迫られ、近代化を進める契機となった。本節では、浄土真宗(特に本願寺派(西本願寺))がどのように自己改革をしていったのかを述べているが、その内容は、国家との関係でいえば、常に天皇・国家に融和的であったといえる。さらに本節では、自己修養と社会矯風を目指す「反省会」が取り上げられる。一種の仏教青年会であった彼らは、真宗を「新仏教」として規定し直し、過去の仏教との決別を図った。

「第8章 キリスト教をめぐるポリティクス」(星野靖二)では、幕末から明治初期のキリスト教・キリスト者の動向が述べられる。初期のプロテスタント集団「三バンド」(横浜、熊本、札幌)、札幌農学校のクラークのキリスト教的教育、漢文聖書による活動など、明治にキリスト教が徐々に広まっていく様子が概略的に理解できた。特にキリスト教を受容したのに旧幕臣が多かったという指摘は面白い。彼らは「キリスト教に日本の精神面における維新を仮託していた(p.260)」。明治初期には、キリスト教は文明の宗教であったが、一方でキリスト教は学問的知見と矛盾するという批判もあった。明治期、日本人は西洋文明をほぼ無批判に受け入れたが、キリスト教だけは必ずしも全面的に受容しなかった。そこに日本人や明治維新の特質が見られるように思う。

本書は全体として、「関心のある人には誰にも読めるような平易な通史を目指したい(巻頭言)」との意気込みがありながらも、「平易な通史」とは言えない。まず、各章ごとの独立性が高く、編年的に書かれていないために通史の体裁を為していない。また、何年に何があったというような年表風の記載がなく、各章で時代が行ったり来たりするのがわかりにくい。そして出来事の記述よりもその分析や論述の方が中心であるために、「誰にも読める」ものになっていないと思う。せめて巻末に年表をつけたらよかったのにと思う。

それから不思議なことに、本書では神仏分離と廃仏毀釈についてはごく簡単にしか触れていない。第2章で日吉神社の廃仏毀釈が取り上げられるくらいである。明治初期における宗教政策の動向を語る上で、神仏分離と廃仏毀釈については不可欠だと思うが、なぜ記述が軽いのか気になった。

一方で、既にこの分野の類書を手にしているある程度詳しい人にとっては、多角的に明治期の宗教史が検証できるので、本書は参考になるものだと思う。とはいえ、本書は多角的ではあっても体系的ではない。やや散漫な論文集の印象があるのは否めない。

近代日本の国家と宗教の関係に焦点を当てた論文集。

 

 

2022年7月18日月曜日

『壱人両名—江戸日本の知られざる二重身分』尾脇 秀和 著

「壱人両名」を通じ江戸時代の身分制を再考する本。

「壱人両名」とは、村の百姓「利左衞門」が、同時に公家の家来「大島数馬」である、というように、一人で二つの名前を持ち、それぞれで活動しているものをいう。

ある村の百姓・A右衛門が、別の村の百姓・B左衞門であるというケースや、百姓〜町人、町人〜町人、町人〜武士など、様々な場所や身分を横断して一人二役をしていたのが「壱人両名」なのである。

江戸時代は身分差別の時代であり、百姓・町人と武士の間には超えられない壁があったと考えられてきた。しかし実際にはそうではなく、百姓や町人が武士になることは金があれば簡単にできたということは近年広く知られるようになった。ところが本書を読むと、百姓を兼ねる武士とか、親が百姓で同居の子どもが武士である(しかもそれぞれ相続していく)といった事例を通じ、そもそも江戸時代の身分とは何なのか? と改めてわからなくなってしまう。

身分を横断する「壱人両名」なるものが、どうして生まれたのか。

第1に、それは江戸時代の「名前」の在り方が関わっていた。江戸時代には、百姓は百姓らしい、武士には武士らしい名前であることが求められていた。名前が社会的立場を表示するものだったからである。そもそも、百姓は名字を公称することはできなかった。そこで、二つの社会的立場を兼ねる場合には、自然と名前も別になる素地があったのである。

第2に、江戸時代は徹底的に縦割りの社会であった。国家による一元的な国民管理などは存在せず、各「支配」に人々が所属し、その中での秩序が優先されていた。「支配」とは、今の用語とは違い、「上位のものから配分された仕事や領域、更には、分配されたそれらを管轄・統治することを意味(p.32)」する言葉である。百姓なら領主が「支配」であるが、これも○○村の領主は誰々…というような単純なものではないこともあった。村は各百姓ごとに領主が定まっている場合も多く(「相給」という)、この集落の領主は誰々…というような切り分け方ではなかったのである。「支配」はあたかもモザイクのように社会を切り分け合っていた。そして「支配」内の秩序は重視される代わり、幕府も各「支配」に統治を委任し、それぞれの「仕来り」を承認する考えであったので、「支配」間の整合性はどうでもよかった。

では、「支配」にまたがって活動する場合はどうなのだろうか。18世紀以降、様々な立場を兼ねる、つまり兼業するものが多くなったが、例えば町人が、勘定奉行の下でその「御用」(公務)にも従事するようになったらどうなるのか。町人は「町」の「支配」で、勘定奉行の下での仕事は、勘定奉行の「支配」である。このように二つの支配系統に属するものを「両支配」という。もちろん勘定奉行での仕事がフルタイムのものなら、「支配替」を行い、町人を辞めて武士になることもできた。ところが商売も続けるということになると、武士になることはできない(武士には商売は禁じられていた)。そこで、勘定奉行の仕事の間だけ武士になる、といういわばパートタイム武士(その間のみ苗字帯刀が許される)が生まれたのである。

第3に、江戸時代の戸籍ともいえる「人別」の仕組みが関係していた。「人別」は各「支配」ごとに作成されたが、それを統合する仕組みはなく、「支配」内で整合していればそれでよかった。ここでX村の百姓・A右衛門が、Y村の百姓・B右衛門の土地を購入して耕作することを考えてみる。A右衛門がY村に移住する場合は、X村の「人別」から抹消する手続き(「人別送り」)が必要である。これは、必ずしも法令では定まっていなかったが自然発生的に行われた慣習である。ところが、こうした手続きは個人ではできず、五人組などの共同申請が必要だった。そしてX村で元々耕作していた土地は誰かが耕作し続けなければ村としては困る。百姓ですらも名前が名跡となる「株」となっていた。

X村の土地も、Y村の土地も問題なく耕作され、年貢が納められることが大事であり、「人別」の仕組みを考えれば、A右衛門とB右衛門の「株」が欠番にならないことが大事だったのである。そこで、A右衛門がどちらの村に住んでいたにしても、X村ではA右衛門、Y村ではB右衛門としてそれぞれの土地を耕作すれば、何の問題もないというわけだ。このように一人が別の人別に登録されることを「両人別」といい、表向きは禁止されていたが、これは村の必要に応じたうまいやり方であり、A右衛門が何か問題を起こさない限りは決してバレなかったのである。ポイントは、A右衛門の事情と同じくらい、村の都合で生まれたのが「両人別」だったということだ。

もちろん、こうしたことはやらないで済むならそれに越したことはないので、例えばX村のA右衛門の「株」は息子のC次郎に継がせ、自分がY村でB右衛門の「株」を継承することで「両人別」を避けることができる。ところがC次郎が早死にした場合はどうするか。A右衛門(C次郎)の「株」が欠番になってしまうのを避けるためにB右衛門がX村のA右衛門を兼ねる、といった対応が必要になるわけだ。江戸時代の「人別」が非常に細かい範囲で縦割りに作られており、「人別」上の秩序が優先されることでこういう事態が生じるのである。また、百姓だけでなく武士や町人(商人)においても、それぞれの社会的立場は「株」化していた。そしてその「株」の欠番を避けるため、継承に適当な人物がいない場合でもそれが「空き株」として名跡(名義)が残され、別の人物がその役目を果たしている、ということが多かった。

であるから、「何屋何兵衛」が実在する人間か、それとも非実在の名跡であるかを、名前はもちろん「人別」を見て判断することもできないのである。 

第4に、武士の格式とその経済的な豊かさが見合っていなかったということがある。江戸時代、武士は支配階級として幅をきかせていたと思いがちだが、例えば植民地の支配階級のように我が物顔に振る舞えていたわけではない。それどころか、先述の通り商売が禁止されていたなど、制限も多かった。本書には書かれていないが、石高と格式にも対応関係はないのである。そして江戸時代中頃から、経済的に没落する武士が多くなり、武士の「株」は金銭で売買されるようになった。金さえ積めば百姓が旗本になることも簡単だった。

そこで、百姓や町人が武士の「株」を買って武士になることがよく見られたのだが、問題は武士には商売はおろか、町や村の土地を所有することもできず(居住もできず)、耕作も認められていなかったという点である。そこでこれまで通りの収入を確保するためには、武士であると同時に、百姓や町人としての経済活動を続け(町人名義で土地を所有して商売をし)なくてはならない。こうして「壱人両名」の状態になるのである。

また逆に、元は武士であるが小禄であるため、村の土地を買って耕作しようとする者も出てくる。その場合も武士のままでは土地の所有も耕作もできないため、百姓の名義にして購入・耕作ということが行われるのである。

なお、町人が百姓でもあるような「壱人両名」は「人別」を偽る行為であったので罪ではあったが、単なる公文書偽造であって重罪ではなかった(過料が通例)。ところが百姓と武士を兼ねるのは重罪で、これは明らかになれば追放刑などが科された。また当然、公議は名義上での土地の所有などを禁じていたが、ここには武士の経済という抜き差しならない問題が横たわっていた上、「支配」が徹底的に縦割りであるという仕組みがあったので、そういった「壱人両名」が横行したのである。

第5に、庶民の身分上昇への思惑があった。これまで見たように、江戸時代の身分は移動できないものではなかったので、身分・格式を高めようとする庶民がいた(だが、武士になったからといって実利はあまりなかったのに、やはり身分上昇を図ったのは今から見ると少し不思議である)。例えば、京都では町人が「地下官人」(朝廷の仕事を行う人)を兼ねることがよく見られた。地下官人は苗字帯刀が許されていたからである。

もちろん、「地下官人」は朝廷の「支配」であり、町の「人別」から抜け出ることになる。ところで今まで述べてこなかったが、「人別」は、武士や公家は対象外としていた。 それは、武士や公家には所属する「支配」の長=支配頭がいたので、庶民の「人別」に当たる「宗旨改一札」はあったものの、その「社員名簿」に登録されることが「人別」の代わりであり、身分の確認においては支配頭に確認すれば事足りたためである。

そこで庶民には、「人別」を抜けることが高い格式を得ることだといった意識が生じた。 そこで例えば「地下官人」になることが身分上昇の手段となった。ところが「地下官人」が専業だったら問題はないが、これは裕福な町人が名誉職的に得るものであり、無給であることも多かった。そこで元の職業を続けながら町人としての経済活動を続ける必要から、「壱人両名」が生じたのである。

類似の事例で興味深いのは、神職の場合である。神職の場合、吉田家が許状を出していた、という、「株」で理解される他とは異なる事情がある。吉田家は全国の神職の元締めとして、神職として認める(=神職としての名前を許す)許状を金銭と引き換えに出していたのである。例えば百姓が吉田家から苗字帯刀を認められれば、祭礼の間は武士身分と見なされる。それだけなら問題はないが、「自分は百姓ではなく神職である」と「人別」にそのように登録するように求めたらどうなるか。「壱人両名」が、次第に「人別」の離脱を図っていったのである。

このように、江戸時代の中頃から「壱人両名」は広く見られた現象であった。合法のものも非合法のものもあったが、非合法の場合であってさえ、おおっぴらにならなければ誰の迷惑にもならなかった。社会の秩序を維持する一つの手段だったのである。

ところが、明治維新になると「壱人両名」は終わりを告げる。京都府が明治元年に定めた「戸籍仕法書」では、村や町だけでなく武士・神職・僧侶など族籍ごとの戸籍を作ったが、このような縦割り戸籍では「壱人両名」が生じるなど、国民の正確な把握が困難であった。しかし明治4年4月には族籍別を廃止し、同じ町や村に住む人間を全て対象にした戸籍を編成することとした(=壬申戸籍)。さらに12月には華・士族・卒に農工商の職業を営むことが許可され、また身分別の土地設定が解消された。また明治5年には名前を一つだけにするという布告が出、「壱人両名」を成立させていた、制度的な基盤や身分格式の別がなくなっていった。

本書は「壱人両名」をテーマにしながら、「人別」の説明が丁寧で、また明治政府の戸籍行政の変遷もわかりやすくまとめている。これは意外と丁寧に説明されることがない事項なので参考になった。

また、本書を読みながら疑問だったのが、僧侶とその他の身分の「壱人両名」はあったのかどうか、ということである。神職と違い、僧侶の場合は剃髪するので、簡単に2つの身分を兼ねることができないように思う。本書には医師と町人を兼ねるケースが紹介されているが、医師も剃髪している場合があるので、髪型は関係なかったのかどうか気になった。髪型も身分格式を表示する重要な表象だったはずである。

それから、江戸後期に「株」の売買によって従前の身分と格式が非常に流動的になっていたことは、本書のテーマからは逸れるが興味を引いた。フランス革命の場合も、その前夜に売官の制によって新興の階級が実質的に貴族化していく現象が見られたが、江戸時代も全く同じ様相を呈している。江戸幕府を存立させる重要な前提であった「身分」が解体したことにより、黒船が来なかったとしても革命前夜の条件が整っていたのかもしれない。

江戸時代の社会の在り方を「人別」から見る良書。

【関連書籍の読書メモ】
『氏名の誕生 ——江戸時代の名前はなぜ消えたのか』尾脇 秀和 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/02/blog-post_21.html
今の日本人の「氏名」がどうして生まれたのか解明する本。日本人の「名前」について知るための必読書

『日本の近世7 身分と格式』朝尾直弘 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/05/blog-post_8.html
江戸時代の身分について考察する論文集。近世の身分について多角的に検討した充実した好著。

 

2022年7月4日月曜日

『渋沢栄一 近代の創造』山本 七平 著

維新前後の渋沢栄一を描く。

渋沢栄一は、文久3年に攘夷の示威行動「高崎城乗っとり」のグループにいたが(後述)、その11年後には第一国立銀行の総監役となった。死をも辞さない熱狂的な攘夷主義者であった栄一が、なぜたった11年で近代化政策の推進者となったのか。本書は、その変化を描きつつ、一貫していたものとは何かを探るものである。

渋沢栄一は、埼玉の百姓に生まれた。といっても才覚ある祖父や父によって彼の家は豪農となり、藍玉の商売によって巨利を得ていたから、百姓というよりは商人であった。渋沢家は領主を凌ぐほどの富を持ち、文化にも遠慮なく金を使っていた。一方で、栄一が贅沢品を買ったのを見て父が非常に落胆したことがある。必要なお金は大胆に使うが、華美を嫌い、「百姓」としての誇りを持っていたのが彼の父であり、生涯、栄一はこの父を尊敬した。

そして彼は、義兄で従兄でもある、10歳年上の尾高藍香(おだか・らんこう)に大きな影響を受けた。藍香は石門心学流の実学を重んじ、経営や技術にも明るい上、儒学にも造詣が深い教養人であった。そんな彼はあくまでも江戸時代の学問の枠内から(つまり洋学の影響ではなく)、幕府の倒壊は間近であると見通すとともに、郡県制・実力主義の人材登用の新制度へと変えなければならない、と確信する。埼玉の一農民でしかなかった藍香はこうして革命を夢見て倒幕=尊皇攘夷運動に身を投じ、カリスマ的魅力でグループを組織していった。その一員となったのが従弟の渋沢栄一、従弟の喜作であり、弟の尾高長七郎であった。

そしてその決起計画が「高崎城乗っとり」であった。横浜にある外国の商館を焼き討ちするため、まずは領主の居城高崎城を夜襲して武器弾薬を奪おうというのである。そして関東一円に趣意を喧伝してその動きに呼応させ、天下の形勢を一変させようとするものであった。彼らは長州がこれによって挙兵すると考えていたらしい。

しかしこの計画は、藍香が京都に派遣していた弟・長七郎の必死の説得によって中止される。決起の準備が整った頃、同志69名が帰郷した長七郎を取り囲んで会議を行ったところ、長七郎が意外にも反対したのである。彼らの計画は一言で言えば空想的すぎた。京都で坂下門外の変などに間近に接してきた長七郎には、それが単なる犬死にで終わることが分かっていた。こうして会議は激論となった。しかし激論となったこと自体に注目すべきである。というのは、異論を唱えた長七郎を「切って捨てろ」とはならなかったからだ。彼らは狂信的な攘夷主義者であったが、「激論」を戦わせて答えを出すという、文明的な態度を持っていたのである。

こうして藍香たちは36時間もの議論をぶっ続けで行い、長七郎がもたらした時事情報を吟味した結果、計画は中止となった。議論によってこうした決断が出来たということが、彼らが血気にはやる若者集団なだけでなかったことを窺わせる。

計画中止により、一転、栄一たちは捕縛の危険にさらされることとなった。それまで計画の遂行のために大枚をはたいて武器を買い集めていたからだ。やむにやまれず栄一らは故郷を去る。逃亡同然だったが、栄一の父は出奔に際して「思うままにせよ」と述べ100両を餞別に与えた。「これは父の豪(えら)い所だと思う(p.185)」。

なお出奔に際して、栄一は父に自分を勘当するよう申し出たが(これは自分に事件があった時に実家に迷惑がかからないようにするため)、父は今すぐに勘当する必要はなかろうといい、栄一は妻子を実家に残し、喜作とともに京都に旅立った。

ところで、なぜ埼玉の農民グループが激論によって答えを出すという態度を身につけていたのか。著者はその背景に「詩」を見る。栄一が17歳の時、藍香と二人で藍の売り込み旅行に信州に出かけたことがあった。セールスの出張である。その際、二人は旅の様子を漢詩にしたため、『巡信記詩』という詩集を作った。「十七歳の農家の一青年がセールスをしながらこういう詩を作っていた時代が日本にもあった(p.166)」。二人には相当な漢文の知識があり、それは特別なことではなかった。そして詩の世界に遊ぶことは、「絶対管理されない「一貫している詩の心」(p.184)」を持っていることであった。言い換えれば、彼らはいつでも世界を日常語と違う論理によって見ることができた。しかもそれは、どこまでも個人の内面のみから生じる自由な世界であった。著者はこの漢詩の能力こそ幕末明治の人の「思考の武器」だったという。

京都へ着いた栄一たちは、しばらく旅館に泊まって志士気取りをしていたが、彼らは一介の田舎ものに過ぎず「藩」の後ろ盾がないので相手にもされない。不安になって長七郎を京都に呼び出したところが上京の途上で捕縛されてしまう。これは後に「高崎城乗っとり」とは無関係であることがわかったが、この知らせに栄一らは震え上がる。またその時既に栄一たちは無一文どころか25両の借金もあった。進退窮まった彼らに手をさしのべたのが、一橋家に仕えていた平岡円四郎という男。京都で知り合って意気投合していた相手だった。

元々栄一たちは幕府の倒壊間近と感じていたので一橋家に仕えるつもりは毛頭無かったが、平岡に説諭されて一橋慶喜の下で働くことになった。しかし自分たち自身が納得するためにも、その際に慶喜に倒幕を勧めるという異例の建言をした上で臣下になっている。よほど平岡は栄一らに目をかけていたのだろう。それに平岡にとっても、自分の手足となって絶対に裏切らない、有能な部下が欲しかった時期であった。こうして栄一は「武士」になる。百姓と武士という「身分」の移動を妨げる障壁は何もなかった。武士として雇われれば武士なのである。

平岡の下で、栄一は諜報員のような働き(大坂で、薩摩藩出身の折田要蔵を探る)をして認められ、今度は一橋家の兵隊をリクルートする命を帯びて関東で集めるが、その折りに平岡が水戸藩士に暗殺されてしまった。だが平岡の後を継いだ黒川嘉兵衛にも栄一は認められ、今度は関西で兵隊をリクルートする仕事(歩兵取立御用掛)をした。慶喜は京都守護職であったにもかかわらず、手兵がいなかったからである。栄一は456人もの応募者を連れて京都に帰った。そうなると今度は、この手兵を養うためのお金が必要になる。こうして栄一は一橋家の勘定組頭となって財政改革に取り組むのである。

当時の大坂は、為替や先物取引、両替(江戸時代の貨幣制度は複雑で、しかも幕府は紙幣を発行していなかったので両替が発達した)、質(しち)といった金融面で非常に発達していた。栄一はこうした仕組みを学び、一橋家の財政改革を推し進めた。ところが、主君一橋慶喜が将軍となってしまう。主君が将軍となれば臣下は喜びそうなものだが、栄一は幕府の倒壊は近いと思っていたから、将軍にならぬよう、と建言していたほどだった。こうして、今度は栄一は幕臣となった。倒幕論者だった栄一が幕臣となったのは皮肉なものである。

しかしここで転機が訪れる。慶喜からの命で、慶喜の弟・徳川昭武に随行してフランスへ行かされるのである。昭武はパリの万国博覧会に出席するとともにヨーロッパを巡遊し、ナポレオン3世より招待されてフランスに留学する予定だった。そこには攘夷派の志士が護衛のため随行することとなっていたが、攘夷派の心情も分かり、会計や実務に明るい栄一に白羽の矢が立ったのである。もちろん栄一自身もかつては強硬な攘夷派だったのだが、すでにその頃栄一は開国指向へと変わっていた。幕臣となっては面白くないから百姓に戻ろうとまで思っていたので、栄一はこの話に飛びついた。

この栄一の洋行で、特徴的なことが2つある。

第1に、栄一は西洋を毛嫌いしたり、逆に感化されて西洋礼讃になるようなところがなかったことである。彼は慣れない食べ物も「うまい」と食べ、西洋の新技術に感心したが、今風にいえば「フラット」だった。栄一は技術や実務といった面から西洋を見ていたから、自分の感情を交えず社会を冷静に観察した。一方、思想や宗教といったものはあまり関心がなかったようである。

第2に、彼は一行の中で会計実務を一手に担ったので、特に西洋の会計制度に熟達するようになったことだ。そして合本組織(株式会社)の存在を知り、これこそが日本の悪弊「官尊民卑」を是正する切り札になると確信するのである。一株は武士が持っても百姓が持っても一株で平等。そして利益は株式に従って分配される。財利のことを武士がいうのはみっともないという日本の常識と違い、彼は西洋諸国の君主が殖産興業(特に製鉄)に力を入れているのを目の当たりにして衝撃を受けた。しかしそれを国家による官営工業で実現するのではなく、民間の零細な資本を集めて実現するべきと考えたところに彼の非常な独自性がある。

こうして西洋の社会を実地で学んでいたところに幕府瓦解の報が入った。彼らを派遣していた政権がなくなってしまったのだ。同行者は次々と帰国。一方、栄一はなるだけフランスに留まり続けようとし、母国からの送金なしに昭武とともに留学を続けようと画策した。ところが幕府瓦解によりナポレオン3世の態度も冷淡となり、フランスに居続けることは不可能だった。滞仏2年弱。道半ばでの帰国だった。栄一29歳の時である。

帰国後、栄一の戻るべき場所はなかったから、駿河に行って慶喜に仕えることにした。ただしこれは仕事がなく困って慶喜を頼ったということではなく、慶喜への恩に報いるために百姓になってでも奉公しようという考えだった。そういう栄一にも慶喜は冷淡だったが、彼を勘定組頭に任命するなど手元に置こうとした。慶喜は情は薄かったが栄一の有能さは買っていた。だが栄一には宮仕えをする気はなかった。それよりも、フランスで学んだ「合本組織」による商業の振興に興味があった。彼は一橋家の強力も得て、民間の資本も募り「商法会所」を設立する。これは銀行と商社を足したような組織であった。栄一はこの頭取となって積極的な商社活動を行い、「水を得た魚」のように活躍した。彼はこの活動をライフワークとし、家族も呼び寄せて駿河に永住するつもりであった。

が、明治2年に突然新政府よりスカウトされて栄一は「大蔵省租税司」となる。栄一としては自分の事業を中断することだったからこの出仕は残念であり、新政府には反発心もあった。しかも新政府には栄一の知人は一人としていなかったから、政府内でもこの起用に反対する人がいたらしい。著者は、慶喜から栄一という有能な駒を引きはがすための人事ではなかったかと推測している。ともかくこうして栄一は新政府の一員となり、それは不本意でもあったが結果的には目覚ましい働きをする。新政府の役人はかつての志士上がりばかりで、政局に聡いばかりで実務には疎かったから、実務経験豊富な栄一が重宝された。

そして栄一は、大隈重信の下、大蔵省の「改正局改正掛長」(兼務)として制度改革に大なたを振るうことになった。これは今風に言えば政策研究所である。ここでは自由闊達な議論が行われ、アメリカの制度を参考として多くの改革が実施された(栄一はフランスへの留学経験があったのにアメリカの制度をより多く参考にした)。「明治政府における渋沢栄一の政治上の最大の業績といえば、この改正局をつくったことであろう(p.575)」

ここで栄一が提言・研究したことは、例えば全国測量、度量衡の改正、貨幣制度、禄制改革、駅伝制の改正、外資を導入しての鉄道の敷設、金納による租税納入(実施は明治7年)などである。栄一が関与したこうした改正事業は200近くあるという。なお明治3年8月には改正掛が「穢多非人の称を廃して平民籍に編入」する措置も行っている。

明治4年の廃藩置県では、藩札や藩の借金の扱いに苦心しつつも乗り切った。そして栄一は大蔵大丞(事務次官)に昇進するが、ここで新政府最大の実力者大久保利通と対立する。その要点は、栄一は各省に予算をつけて、その中で事業を推進する考えであったが(つまり今から見れば当然のやり方)、大久保らは予算(使えるお金の上限)など設定する必要はなく、その都度の必要に応じてお金を支出すればよい、という考えだったのである。陸海軍に大きな支出決定をしようとした大久保と対立して、栄一は辞職を決意した。

大久保らが岩倉使節団で外遊に出発すると、政治的対立が棚上げされたことを奇貨として近代化政策はさらに進められたが、やはり予算の対立があって栄一は井上馨とともに政府を去った。

政府を去った渋沢は、「国立第一銀行」の総監役(頭取)となる。「国立第一銀行」は栄一が設立したもので、三井組・小野組が共同で運営する国立銀行である。三井・小野は全くの対等であったから、組織が綱引きで立ちゆかなくなることを怖れ、彼らを調停する頭取として渋沢を雇ったのである。渋沢は頭取といっても雇用契約に基づく「雇われ社長」であった。なお、本書での説明は簡潔だが、この「国立銀行」は敢えて言えばアメリカの連邦準備銀行(これは民間の銀行)に近い。ポイントは紙幣の発行がこの銀行を通じてなされることである。その原資は何かというと、新政府が乱発してきた巨額の不換紙幣(太政官札など)であり、これを回収して兌換紙幣に替えてゆくことがこの銀行の当初の大きな役割であった。また大蔵省の出納事務もこの銀行でなされた。

なお、この銀行の設立にあたっても、栄一は広く株主を募っているのが面白い。実際には三井・小野の出資が大部分であるが、5分の1ほどが一般の株主の出資であった。国立銀行を株式会社的に運営しようとしたことに栄一の信念を感じる。

本書は「第一国立銀行」出発の時点で筆が擱かれている。ただし、強硬な攘夷主義者の一農民であった渋沢栄一が、たった11年後に「国立第一銀行」の頭取になる経緯が詳細に語られ、「そこには常に変わらない一貫したものを感ずる(p.658)」とされながらも、一貫したものは何か、変化したものは何か、というまとまった考察は本書にはない。

本書を通じて私なりに感じたのは、まず栄一の中で変化した点は経済観念である。栄一は豪農の息子であり何不自由なく育っている。京都に行った時も残金の計算もせずに旅館に泊まり、結果無一文になっている。そして喜作とともにネズミを捕まえて食べるのである。この時、栄一は、経済の裏付けがなかったら、いくら立派な思想や主張があっても役に立たないと悟る。ここに大きな転向があった。そしてちょうどその時に一橋家の勘定組頭という会計責任者となったことで、栄一は会計・金融の道へと入っていくのである。

次に、変化しなかった点は、おそらく身分平等の意識であろう。栄一は百姓時代、父の名代として代官に呼び出されて500両の御用金(要するに強制的な寄附)を申しつけられた。一般には500両は大金だが、渋沢家にとってはなんでもない。だが金を出させる方が偉そうにして、こちらを軽蔑しているものだから栄一は憤慨した。身分の差、というもののバカらしさを感じた原体験だったようだ。その後も一貫して、栄一は身分の差の解消に取り組んでいるように見える。彼にとって経済は、身分の平等を実現するための方策だったように思えてならない。

本書は全体として、栄一の自伝の引用を基調として、それを一つひとつ読み解いていくような形で書かれている。扱っているのは人生のたった11年間であるが非常に丁寧な評伝である。しかしながら、「近代の創造」を副題としているのに、維新政府で栄一が何を行ったかは極めて概略的にしか述べられないのは少し物足りない。彼の携わった近代化施策はもう少し詳しく知りたかった。「穢多非人廃止」にしても一言だけで終わっている。

私自身の興味としては、渋沢栄一と戸籍法の関わりについて知りたくて本書を手に取った。戸籍法も、栄一が「改正掛」で調査して公布したものの一つであるが、本書ではそれについての詳細はない。ただ、どのような経緯や環境でそういった仕事を手がけたのか、ということはよく理解できた。

渋沢栄一の若き日の11年間を追う大著。