「氏名がどうして生まれたのかって? そんなものずっと前からあっただろう」と思う人もいるかもしれない。もちろんずっと前から呼び名はあった。だがそれは、今の名前の常識とは全然違うもので、しかも武家と公家で別の常識の下に構成されていたのである。
本書では、「氏名」の創出について説明する前に、その前提となる江戸時代の「名前の常識」が丁寧に解説される。史料を読むうえで必要な「名前の常識」は、こうしてまとまって説明されることは意外と少ない。本書の前半は日本史を学ぶものにとっては必須のものであると感じた。
実際には身分によって違うのでかなり複雑だが、要点のみそれをまとめておく。
【武士の場合】
まず、江戸時代までの男性は頻繁に改名した。武士では、少なくとも、幼名、成人名、当主名、隠居名という4つの名前を経るのが一般的だった(と本書にはあるが、さらに戒名=死後の呼称を加えてもいいかもしれない)。名前は頻繁に変わるのが常識だったし、それに不便を感じてもいなかった。それは、名前が社会的立場を表すものだったからである。身分の変動に応じて改名を行うことは道理にかなっていたのだ。
そして名前を構成する要素も今とは異なっていた。例えば、幕末の薩摩藩主「島津斉興(なりおき)」は当時の名前では「松平大隅守斉興(まつだいら・おおすみのかみ・なりおき)」である。ここで(1)「松平」は幕府から許されている苗字、(2)「大隅守」は幕府から許されている正式な官名、(3)「斉興」は「名乗(なのり)」と呼ばれるものだ。
(1)の苗字「松平」はいいとして(いや、「島津」はどこに行ったの? と思うかもしれないがそれは置いておく)、(2)の「官名」は名前の構成要素なの? と思うかもしれない。しかし「名前が社会的立場を表すもの」である以上、むしろ当時の常識としてはこれが名前の本体だった。平常使用する名前はこの「官名」だった。今でいえば、「総務課長~!」と役職で呼ぶ感覚に近いかもしれない。「総務課長」は会社の中だけだが、江戸時代の「大隅守」は日本全体で通用するのである。
「大隅守」のような上級の官名は幕府の許可を要し、また朝廷からの「従四位下」のような叙位と任官(叙任)の手続きも必要だった。手続き自体は簡単だったが叙任には少なからぬ費用もかかった。だからこそ上級の名前として意味があった。そして注意すべきは、この手続きは「大隅守」という役職につけてもらうことではなく、あくまで「改名」の手続きであったことだ。
なお「官名」は、斉興の場合は「大隅守」が実態にも即しているもののこれは例外で、一般的には例えば「信濃守」と名乗っていても信濃を治めている人とは限らないし、「越中守」が何人もいる、といったことも普通だった。これらはもともとは守護の官名に由来してはいるが、その元来の意味は忘れられ、ただ「偉い人がつける名前」としての機能のみが残っていたのである。
ちなみにもっと身分の低い人の場合は、「疑似官名」というそれっぽいものがそれに宛てられていた。「近江」とか「主膳」「伊織」といったものだ。これらは官名に基づきながら正式なものではなかったので自由に使えた。しかし「疑似官名」すらも使わず、「三郎右衛門」とか「源兵衛」といった名前もあった。これらは元は官名の変形であったが次第に一般化して庶民的な名前になっていた。「官名」「疑似官名」や庶民的名前も含め、この事実上の個人名となっている部分を「通称」という。
(3)の「名乗」の方は、今から見ると名前に近いように見えるが、これは平常は全く使用しないものだった。当時の人が「斉興殿!」と呼びかけることはなかった。では何に使っていたのかというと、「書判(かきはん)」というサインに小さく添えるものだったのである。それでも身分の高さや血統を示す役割はあったので、上流の武士はあるルールに沿って作られた「名乗」を「設定」していた。
これだけでもややこしいが、さらに「本姓」がある。これは「源」「藤原」「橘」などの貴種からの来歴を示す(ということになっていた)もので、これが正式な(=書面上の)姓であった。斉興の場合は「源」が「本姓」だ。だがこれも斉興を「源さ~ん!」などと呼ぶことはありえなかった。
そして「本姓」に付属するものとして「尸(かばね)」があった。「尸」はもともとは氏姓(うじ・かばね)の「姓」だが、これだと字面上ややこしいので本書では「尸」で統一されている。朝廷が与えた「八色の姓」…「真人」「宿禰」「朝臣」などに由来したもので、斉興の場合は「朝臣」になる。
ということを全部まとめれば、斉興の名前は「松平 大隅守 源 朝臣 斉興」ということになるが、これは便宜的に繋げて書いただけで当時このような名前が使われていたということではない。あくまでも名前の本体は「松平大隅守」=「苗字+通称」であったことに注意が必要である。他の要素はそれを修飾するものであったといえる。そして今の感覚ではこうした名前はややこしいと感じるが、当時の人は全く不便は感じておらず、むしろ名前が秩序を形成するものであった以上、その目的に最適なものと捉えられていた。
【公家の場合】
公家の名前も、見た目は武士の場合と似たような構成だった。 例えば、「権大納言正三位藤原朝臣稙房(ごんのだいなごん・じょうざんみ・ふじわらのあそん・たねふさ)」といった調子だ。「権大納言」(官位)と「正三位」(位階)が先頭に置かれているのは大きな違いだが、その構成要素は似ている。
武士の「苗字」 に当たるものを公家では「称号」(今の称号とは違う意味)と呼び、例えば「近衛」「九条」といったものがあったが、これは決して「名前」とは見なされず、正式な署名である「位署書(いしょがき)」 には書かれなかった。先ほどの「稙房」の称号は「万里小路(までのこうじ)」である。
このように公家の名前も武家と似たような要素で構成されていたものの、そこには重大な違いがあった。第1に、公家は武士のように「改名」をしなかった。武士以上に複雑に「官名」は変わっていったが(つまり昇進していったが)。それは名前が変わったとは見なされず、名前はあくまで「姓・尸・名」つまり先ほどの例では「藤原朝臣稙房」であった。ただし、通常「藤原稙房さん」と呼ばれることはなく、実名を呼ぶのを憚って「万里小路権大納言」などと呼んだ。であるから、実態としては武士と同じように「称号」(武士の場合の「苗字」)+「官名」で呼び、頻繁に名前が変わっていたにもかかわらず、それを名前だとは認識していなかったわけだ。
第2に、公家の官名は武士のように名目だけのものではなく、ちゃんと定員があった。もちろん律令制における官職は有名無実のものとなり、公家たちも官名に見合った仕事をしていたわけではなく給与もなかった。しかし公家では官名を実態を伴ったものと擬装し、少なくともそれが擬装に足るものでなくてはオカシイと考えた。武士が使っていた「疑似官名」のようなものは、公家からすれば笑止千万なのだ。それはそれっぽいだけで全く由緒もなにもない、官名のような響きがするだけの言葉だったのだから。
これまでのことを「島津斉興」を例にしてまとめると、次のようになる。
┌武士が認識する名前┐
(1)苗字 (2)官名・通称 (3)本姓 (4)名乗 ←武家側の呼称
松平 大隅守 源 (朝臣) 斉興
(1)称号 (2)官名・通称 (3)姓・尸 (4)(実)名 ←公家側の呼称
└公家が認識する名前┘
つまり、同じ名前を見ても、どこを「名前」と認識するのかという常識が公家と武家では違った。とはいえ公家は、武家が「疑似官名」のような正式な官職を無視した名前を使うのを苦々しくは思っていたが、別段この二つの常識が併存していて何ら問題はなかったのである。
問題は、明治維新政府が公家と武士の連合政権として出発したために、この「名前の常識」を統一しなければならなくなった時に起こったのである。
【明治維新後】
新政府は「王政復古」の名の下に太政官とその下の七官を置いて、さらにその序列を明らかにするため各職名に1〜9等の「官等」を定めた。例えば「会計官の副知官事」は2等官、といった具合である。
これが名前の混乱の元となった。明治政府には「官位秩序の範囲にあった朝廷や諸侯の世界に、無位無官の「徴士」が入り込んできた(p.179)」ために、上司より部下の方が「名前の上では」偉い、ということが起こったのである。例えば明治元年の会計官用度司は、長官である知司事が城田図書(きだ・ずしょ)という無位無官の徴士(水口藩士)、その部下の判司事には鈴木右近将監(うこんのしょうげん)という従五位下の地下(下級公家)、といった具合である。「図書」は「疑似官名」で、「右近将監」は朝廷が任命した正式な「官名」である。もちろん「右近将監」の方が名前上ではずっと偉い。これでは「名前が社会的立場を表すもの」という常識が通用しないのである。
そこで朝廷では、無位無官だった徴士に職名に見合った位階を授け、それを名前にすることにした。「大隈八太郎」は「大隈四位」(もちろん大隈重信のこと)といったように。しかしこれは辞退する人が大量に出たのでうまくいかず、そもそも下級公家は多くが最下級の8等官だったが名前の上では高位だったので整合がとれなかった。名義上の「官名」と実際にある「官職」、名義上の「位階」と実際の「官等」が別個に存在していた。
そこで政府は明治元年11月、出仕中は「官位」「官名」を使わないように命じた。下っ端のくせに高い「官位」で偉そうな「官名」を名乗っているのは混乱の元だから名前自体を使うな、というのである。もちろん名前がなくなると困るので、各自「官名」以外の名前に改名した。
また、新政府は各国諸侯等の名前を把握する必要があったが、実際に名前を提出させてみると武家と公家では「名前の常識」が違ったので提出された名前の構成がまちまちであった。そこで政府では名前を文書上「苗字+官名」に統一することにした。それまでは諸侯(大名)は「領国名+官名」で名乗っていたが、これ以降は苗字が使われるようになった(例:肥前少将→鍋島少将)。
一方、旧幕臣に対しては、旗本は「官名」の停止がなされ、下大夫以下については強制的に「官名」を奪われた(官位褫奪(ちだつ))。 例えば「高木伊勢守」は「高木伊勢」といった具合だ。官員の場合は「官位」以外の名前に自由に改名できたのに、旧幕臣は「守」(下司)を除くなど強制的な措置によって新たな名前がつけられた。
こうした潮流の中、明治2年6月の版籍奉還に伴って中央政府の機構改革が行われ、大蔵省や民部省といった古代律令制を模した組織へと鞍替えされた(二官六省制)。こうして古代の官職が復活した結果、今まで有名無実化していた「官名」が一斉に廃止され(百官廃止)、今後は実質を伴った新官名=職名のみを使うこととなった。「越前守」のような旧来の「官名」は一切の例外なく使用禁止となったのである。このような強硬な改革が行われたのは、結局、「名前が社会的立場を表すもの」という常識が通用しなくなった結果、名実を一致させることが現実的に便利でもあり、また官名・官職を実質化しようとしていた公家の思惑とも合致していたからであろう。
この結果、日常の「名前」は次の3パターンに整理された。①苗字+官名(官員のみ)、②苗字+位階、③苗字+通称、である。
しかしこれにも問題は多かった。①の場合、例えばある役職に同じ苗字の人が複数人いると同じ名前になってしまい区別ができない。実際篠山藩では「吉原大参事」が二人いて困ったので一人を「東吉原大参事」に改名した。わざわざ苗字の方を変えたのは、役職の方が社会的身分を表示するために重要だったからだ。
②でも同様の問題が生じた。だが明治3年11月、旧官人と元中大夫らの位階を全て廃止するという強硬手段によって、彼らの名前は半ば強制的に「称号(苗字)+実名」とされた。
なお③の場合では、少数の者は「実名」を「通称」にも使用した。先ほどの斉興の例では、「大隅守」が使えなくなったので代わりに「斉興」を「通称」とした、ということになる。なお中には「通称」を廃して「実名」のみを使用する、という認識でそうした者もいたようだ。
そして明治3年12月、名前を巡る問題を解決する大転換がなされる。先ほどの①のように、同姓同官のものが複数いる場合の不便を考慮し、新政府は「官名+苗字+実名」の順で標記するように決定したのである。これまで「加藤大学大丞」と書いていたものを「大学大丞加藤弘之」と書くようにしたわけだ。つまり、「官名」を名前扱いするのを辞め、あくまでも肩書きとして扱うようになった。
明治4年の廃藩置県に続いて行われた官制改革で政権から多くの公家が排除されると、それまで公家の常識で行われてきた名前政策が転換する。明治4年10月には公家がこだわってきた姓尸の使用があっさりと廃止された。こうして名前を構成する要素は「苗字」「通称」「実名(名乗)」の3つになった。
さらに明治5年5月7日、太政官は「通称と名乗はどちらか一つだけにせよ」という布告を出した。「通称」「名乗」の両方があるのは煩瑣で、それまでの名前の改革によって二つある現実的な意味が薄れていたからである。こうして「通称」「名乗」はなし崩し的に統合され、全く新たな概念として「名」が登場し、名前は「苗字(氏)+名」になったのである。「氏名」誕生の瞬間であった。
【氏名と国民管理】
本書は「氏名」誕生について述べた後、「氏名」と国民管理について述べる。これまでの話は武士と公家についてだったが、ここからは庶民まで含めた話になる。
まず、明治政府は明治3年9月に「苗字自由令」を出した。それまで庶民は苗字を公称するのを禁じられていたがその規制が撤廃された。だがどうしてその規制を撤廃したのかという理由は詳らかではない。著者は、それは租税増徴を図るため「江戸時代の身分格式を整理する一環としてなされた措置であって、それ以外の目的はなんら見出し得ない(p.261)」とし、「この時期の政府は、平民の人名とか苗字なんぞに関心がない(同)」と言い切っている。
続いて明治5年9月には、それまで苗字を持っていなかった僧侶に苗字を必ず設定するように命じた。「なんでもいいから苗字をつけろ」という命令であった。なぜ由来・由緒など全く無くても構わないのに、苗字を強制的につけさせたのか。それは国民管理の都合上であった。明治4年には戸籍法が定められ、明治5年には戸籍の編成が行われていたからだ。苗字がなくては不都合だったのだ。
そして、明治5年11月の徴兵詔書・徴兵告諭によって徴兵令が定められ、徴兵制度を厳格に実行するため国民管理をさらに厳密にやる必要があった。当初、徴兵対象者の80%が兵役を逃れていたのである。
そこで山県有朋は「徴兵の取り調べ」のために平民にまで苗字を強制的に名乗らせることを提案し、明治8年2月、政府はなぜ苗字を名乗らなければならないのか一切説明しないまま「苗字を必ずつけるように」とする太政官布告を出した。「現在日本人が、氏と名という組み合わせを絶対に使用するようになったのは、この布告が事実上の起点なのである(p.267)」。
なお時間が前後するが、「氏名」の誕生から僅か3ヶ月後の明治5年8月には「改名禁止」の太政官布告も出されていた。それまでは頻繁に改名することが普通だったし、「壱人両名」といって一人の人物が二つの名前で立場(武士と百姓とか)を使い分けていたことがあった。そうしたことが禁止され、この太政官布告以降、生まれた時から変わらない一つの名前を名乗るようになったのである。もちろんこの措置は、名前がコロコロ変わると管理の手間がかかるという都合によって行われたのである。
明治元年からのたった5年あまりで日本人の「名前」は大きく代わった。名前は「苗字」と「名」から構成され、それは一生涯変わらない、という新たな常識が樹立されたのである。
なお、本書では女性の名前についても最後に簡単に触れられる。女性の名前に「通称」「実名」の区別はないが強いて言えば「実名」に近い。しかし男の場合と決定的に違うのは苗字を冠することがないことで、結婚して姓が変わる変わらないなどという観点がそもそもなかったという。
私が本書を手に取ったのは、この後半部分の「氏名と国民管理」に興味があったからだが、前半の江戸時代の名前の解説も非常にためになった。そして、著者が「苗字の強制を「明治政府によって苗字を名乗る自由を得た、封建社会から「解放」された」など——なんらかの政治的目的や思想的影響のもと、そんな妄想が語られたこともあり、今なおそれを信じさせられている人も多い(p.291)」と述べるそのままの妄想を信じていたのが私である。
しかしそれが「妄想」であることをちゃんと理解するには、江戸時代の名前の扱いについて正確に認識しておく必要があった。本書によってようやくその蒙が啓かれたところである。
日本人の「名前」について知るための必読書
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