2016年9月29日木曜日

『ほらふき男爵の冒険』ビュルガー編、新井 皓士 訳

ほらふき男爵ことミュンハヒハウゼン男爵の語る奇想天外な冒険譚。

ミュンヒハウゼン男爵は実在の人物で、実際にロシアで従軍、活躍し、中年になってからは狩猟と思い出話三昧の生活を楽しんだ。そういう自慢話の名手であったミュンヒハウゼンに、いつしか名も無き人々が伝承的なほら吹き話を仮託するようになり、次第に荒唐無稽、奇想天外、奇妙奇天烈な冒険譚がいくつか形成されてきた。

そういう意味では、「「ほらふき男爵」の話は個人的創作というより、猟人や兵士、船員や釣り人などが、一杯機嫌でやる自慢話・大話に属する、いわば民間伝承の民俗的遺産」なのだ(本書「解説」より)。

例えばこんなのがある。馬車で狼から逃げていたところ、狼に追いつかれて馬のお尻に狼が食いついた。ビックリした馬はなおさら早く逃げようと走るが、狼はドンドン馬の体を食い破って馬の体の中にすっぽり入ってしまう。ところがあまりにすっぽり馬の体の中に入ったので、そのまま馬具がつき、ミュンヒハウゼン男爵は遠慮無く狼に鞭を振るう。そうして無事「狼の馬車」で目的地に着いたんだとか。

まあ、こういう下らない話のオンパレードである。忙しい現代の生活には、全く必要の無い馬鹿馬鹿しい話である。

ところが、この馬鹿馬鹿しい話が成立した背景はなかなかに興味深いことを、本書を読んで知った。

ミュンヒハウゼン男爵の冒険譚が最初にまとめられたのは伝承地のドイツではなくイギリスで、1785年、ルードルフ・エーリヒ・ラスペという人物による。ラスペはドイツの笑い話集『おもしろ文庫』から民間伝承的に収録されていたミュンヒハウゼン男爵の話をピックアップして、もとは脈絡のない断片的小話の集まりであったものを一人称の語りとして連続性をもたせ、「ほら吹き男爵」を創造したのであった。

こうして最初は英語で書かれた「ほら吹き男爵」は、ゴットフリート・アウグスト・ビュルガーによって1786年にドイツ語に翻訳され、ドイツに「逆輸入」される。しかもこの翻訳は、ラスペの作品を下敷きにしつつも翻案の域を超えてリライトされたもので、文学的価値が高いものとして再創造された作品である。

ところがもっと面白いことがある。実は、ビュルガーがこの馬鹿馬鹿しい『ほらふき男爵』をリライトしていたのは、彼が最愛の妻アウグステを亡くし「狂いたける獅子」となって悲嘆のどん底になっていた時期なのだ。

ビュルガーは才能はあったが人生の歯車は狂っていたタイプ。彼が最初に結婚したのはアウグステの姉ドレッテだった。だが次第にその妹アウグステと愛し合うようになり、すったもんだあった末にドレッテ=名義上の妻、アウグステ=心の妻、という形に落ちつくが、結婚生活約10年でドレッテが病死、翌年ようやくビュルガーはアウグステと正式に結婚したものの、なんとアウグステもその僅か半年後には死んでしまう。世間から不道徳と誹られつつ実らせた恋の、あまりに哀切とした幕切れであった。そしてそのさらに半年後に、ビュルガーは『ほら吹き男爵』に着手するのである。

しかも才能はありながら、学者としての仕事には恵まれなかったビュルガーは、貧乏の中でこの仕事を成し遂げる。にもかかわらず、彼はこの仕事で一切の稿料をもらっていないらしい。それどころか、これは編訳者なしの匿名出版で、大評判になって版を重ねることになるこの『ほらふき男爵』がビュルガーの手によるものとは、世間には全く知られることがなかった。こういう次第であるから当然のことながら、ビュルガーは生前評価されることもなく、窮乏のうちに息を引き取ることになる。この『ほらふき男爵』は文学的野心や欲得とは無関係になされた仕事だったのである。

ビュルガーが、どんな気持ちで「ほらふき男爵」を書き上げたのか、その心境を伝えるものは何も残っていない。しかし私はどうしても想像してしまう。最愛の人を失って、気も狂わんばかりの寂寞に押しつぶされそうになりながら、この馬鹿馬鹿しい話を一心不乱に書き上げた彼の姿を。この荒唐無稽なほらふき話は、彼にとってどんな意味があったのだろう。心の救済だったのだろうか。辛い現実を忘れるための逃避先だったのだろうか。それとも、亡き妻アウグステへの捧げ物だったのだろうか。でもこの作品からは、そういう陰影はほとんど感じることができない。あっけらかんとしたミュンヒハウゼン男爵が、とことん馬鹿馬鹿しい話を続けるだけで。

でもきっと、ビュルガーの人生にとって、この壮大なほら話は必要なものだったのだろうと確信できる。現実があまりにも辛い場合には、それと直接対決するのではなくて、それをコケにして、笑い飛ばして、逃げ出すにこしたことはない。空想と虚構の世界へと。

新井 皓士の自由闊達な翻訳とギュスターヴ・ドレの挿絵も素晴らしい、不朽の名作。

2016年9月20日火曜日

『プロカウンセラーの共感の技術』杉原 保史 著

プロのカウンセラーである著者が、相談を受ける立場として身につけたい共感の技術を解説した本。

共感とは、人の気持ちと同じ気持ちになることだとか、あるいは人の気持ちをぴたりと言い当てることだ、と誤解されているという。そうではなく、共感とは個人と個人の境界線が曖昧になり、互いに影響し合う「プロセス」のことだと著者は定義する。私なりの言葉で言えば、共感とは、頭の中に存在している状態(例えばAさんのいうことはよくわかるなあ、というような気持ち)のことではなく、個人が相互作用する「場」のことなのだろうと理解した。

そのような共感の場をつくりだすためにはどうしたらよいか。著者はその第一歩は「自分が感じたことを素直に認識し、それを放っておく(離れる)こと」だという。もちろん、相手のいうことを真摯に聞くということも大事である。でもそれ以前に、相手の話を聞いている「自分」が感じたこと、それに注意を向けることが重要で、そこに性急な価値判断をせずに、とりあえず「そう感じた」という事実だけを認識していく。

人の相談話を聞いていると、なにかうまいことを言ってやろうとか思うものであるし、つい自分の意見を言ってしまいたくなる。というか、相談を求められているわけだから、自分の意見を言わないといけない、くらいに思うのが普通だ。が、著者によれば、少なくとも共感の場をつくりだすということにおいては、そういう「自分の視点」からまず離れる必要がある。自分を中心に考えるのではなく、相手の仕草、そぶり、声の調子、そして話の内容、そういったものをしっかりと感じ、同時にそこから自分が感じているものを認識できるようになれば、自然と相手の立場でものを考えられるようになり、いつのまにか共感のプロセスに入ってけるのだという。

本書には、自分の感じたことを認識することがどうして共感に繋がるのかという理論的な説明はない。しかしプロのカウンセラーとしての実践に基づいているため、実際は非常に説得的である。

他の部分でも、「そういう考え方があったのかー!」というような目からウロコみたいな内容はないが、著者の豊富な実践に裏打ちされているものであるだけに、説得力と深みのある議論が展開されている。

正直なことをいうと、私は人の話を「共感的に」聞くのが下手であり、どうも知に傾いたような聞き方をすることが多い。あまり批判的ではない方だと思うが、分析的というか「この人はこういう考え方をする人なんだな」みたいに聞いてしまうことが多く、どうしてもそこに個人と個人の境界線を截然と引くような態度があると思う。本書を読むと、そいう態度自体は悪くないどころか、むしろ共感できないことを認識するのは共感の第一歩だ、ということで安心したのだが、そこで留まっていては結局相談者の力になるのは難しい。より深く人の心を理解し、また相談者自らの変化を催すためには、どうしても共感するというところまで認識を深めないといけない。

本書の内容の約半分は、そういう「認識の深め方」の指南とでもいうべきもので(本書においてこういう言葉が使われているわけではない)、これはカウンセリングのやり方そのものの解説ではないが、日常生活における相談事への対処には十分に活用できるようなハウツーになっている。認識を深めていくためには、自分が注意深い観察者になるだけでは不十分で、結局は相手が心を開いて話してくれなくてはならないわけだから、その基礎に共感の技術が必要になってくるのである。

人は、共感してくれる話し手がいるときは、自分でも思ってもみなかったような言葉が出てくるものである。というのは、心の奥底の自分にとって大事な部分は、実はとても曖昧かつ複雑であり、容易には言語化できないようなもので、「話を聴いている人の反応によってもかなりの部分が形成されてくる類のもの」だからだ。それが「表層に掘り起こされたときにとった具体的な形は、話し手と聴き手の共同作品と言ってもいいほどのもの」だと著者は言う。つまり、心の奥底に閉じ込めていた気持ちは一人では取り出せないのである。共感して聴いてくれる誰かがいなくては、それはずっと謎のままなのだ。

このように、共感する技術というのは、「うんうん、その話分かるよー」とただ相づちを打つ技術ではなく、相手の心の深い部分に触れるために必要な技術なのである。

2016年9月9日金曜日

『梁塵秘抄』後白河法皇 編纂、川村 湊 訳

『梁塵秘抄』に基づいて書かれた詩集。

本書は、一応『梁塵秘抄』の現代語訳ということで販売されているが、実態としては翻案であり、ほぼ創作に近いものが多い。例えばこんな調子である。

【訳】
甘い言葉も やさしい嘘も
あなたの口から 聞きたいの
ほんとの愛など うそっぱち
いまの 夢だけ あればいい

【原歌】
狂言綺語のあやまちは 仏を讃(ほ)むるを種として 麁(あら)き言葉も如何なるも 第一義とかにぞ帰るなる

どうしてこんな超訳がなされているかというと、もともと『梁塵秘抄』というものは庶民の間での流行歌を収録したもので、「今様(いまよう)=当世風」の言葉の世界が展開されているものであるから、まじめくさった古典の翻訳ではなく、あえて今様の現代語訳にしようという意図があるのである。

私は、その意図には大変共感する。庶民の俗謡を表現するのに、韜晦な訳文を使うのはよくないと思う。しかし本書ではこの意図は十分成功しているとはいえない。というのは、著者の現代語訳は、今様というよりも昭和歌謡調、演歌調であり、どちらかというとレトロな、古くさい表現が多いのである。そして、原歌と比べてどうも「ありがち感」が増している。

つまり、『梁塵秘抄』の詩想を、ありがちな演歌型にはめて表現したような現代語訳が多い。『梁塵秘抄』への入り口として、こういう遊びが入った作品に親しむのもいいと思うが、肝心の現代語訳があまりよくないというのが根本的な問題である。

私が思うに、『梁塵秘抄』を現代詩に翻案するとすれば、演歌というよりヒップホップのようなものになぞらえる方がよい。試みに先ほどの歌を私が訳してみればこんな風だ。

【風狂訳】
うまいセリフ とびきりのライム でも
それ中身空っぽ! なんて言うなよ?
見かけだけクール てわけじゃないんだぜ
ほんとうはフール マジでクソまじめさ
神も 仏も 畏れる男
不器用なリリック でもわかってくれるだろ?
この歌の価値!

ちなみに原歌を少し解説すると、「無闇に飾り立てた言葉や小説・和歌の類は、仏教の立場からは過ちとされるが、その本意には仏への讃仰(今の言葉で言ったら「人間讃歌」かもしれない)があるわけで、それが乱暴な言葉や無理な言葉であっても、結局はその本意こそ重要で軽んずべきではない」というような意味であると思う。

この歌は、この俗謡集を編纂した後白河法皇のまさに衷心が仮託されたものである気がする。後白河法皇は、天皇・上皇の地位にありながら、当時の庶民の歌に惹かれてその練習に明け暮れた。ハイ・カルチャーが支配する宮中の中で、サブ・カルチャーを愛好していた変わり者だった。社会の主流派から軽んじられた俗な流行歌に狂い、最高の地位にありながら、名も無き歌人(うたびと)から歌を習った。後白河法皇の周りには、一種のサブカル・サークルができあがったが、彼ほどの熱意で庶民の歌を歌う人間は他になく、孤独もあったようである。

その後白河法皇が、何十年来聞き、習い、歌った歌を、せめて後の世に残しておこうと編纂したのがこの『梁塵秘抄』なのである。後白河法皇がいなかったら、決して残らなかったであろう、社会のはみ出しものたちの謡。陳腐な昭和歌謡の枠にはめてしまうのは、惜しいと思うのである。

2016年9月8日木曜日

『宗教を生みだす本能―進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド著、依田 卓巳 訳

宗教を進化の産物と見る視点から、宗教の来し方行く末について考える本。

著者は進化学の研究者でもないし、宗教学の専門家でもない。本書はジャーナリストである著者が、これまでの研究成果をまとめ、それに対する自らの考えを述べた本である(つまり著者自身の研究ではない)。

私は、宗教の進化心理学的考察については、本書でも参照されている主要な一般向け書籍を割合読んできた。例えば、パスカル・ボイヤー『神はなぜいるのか?』、ダニエル・C・デネット『解明された宗教』、スティーブン・ドーキンス『神は妄想である』、Marc Hauser "Moral Minds"、スティーブン・ピンカーの諸著作といったものだ。こうした書籍に既に目を通していれば、本書のようなジャーナリストがまとめた本を手に取る必要はないかもしれない。だが、素人には素人の慧眼というものもあるので、自らの理解を確認する意味も兼ねて本書を読んでみた。

本書は、概ね4つの内容から構成される。

第1に、宗教は進化の産物であることを論じる(第1〜3章)。すなわち、宗教行動は人間が恣意的に作った文化ではなく、生得的にプログラムされている行動であるということだ。宗教を持った集団はより生き残りやすかったため、宗教を持つ遺伝子はどんどん広まっていった。宗教には集団を結束させる力があり、宗教を持たない集団との戦闘においては、信心深い集団の方が有利だったのである。なぜなら宗教には、自己の利益を顧みないで組織的な行動を優越させる力があるからだ。

この部分は、既存研究のまとめがほとんどであるが、少し要約が過ぎて議論に丁寧さを欠くのが気になる。歯切れよく言おうとするあまり、未だ研究が煮詰まっていないことについても素人の独断を発揮している部分がある。例えば、宗教が進化の産物だとするのは今や通説だとしても、宗教を構成する行動全てが適応的(子孫を多く残せる)かどうかはまだ明らかではない。パスカル・ボイヤーは人間が神を認知するのは、人間の生得的な認知機構の誤作動や副作用であると考えるが、そうした考えを一蹴して、宗教行動の全てが進化的に獲得された、生き残りに有利なものだったと決めつけるのは粗い議論である。

この部分だけでなく全体として、素人の蛮勇というか、先行研究を大雑把にまとめて臆断するような粗い論調が目立つ。宗教の進化・変容というものは、まだ分かっていないことがとても多いので慎重に扱うべきものと私は思う。この部分だけで本1冊分くらい使いたいところである。

第2に、宗教に先立つものとして、音楽やトランスを伴う儀礼が進化したのではないかと論じる(第4、5章)。ここは少し面白いところで、私自身は音楽の発生を宗教と関連させて考えたことがなかった。確かに、音楽は宗教と密接な関係を持ち、その進化の黎明において宗教と共に発達したことはありそうなことである。トランスについては、ヒト以外の霊長類には集団で動きを同期させる(同じリズムに乗る)能力はないとして、なぜヒトでは集団でのリズム運動が発達したか、という考察から原始宗教におけるトランスの重要な役割を推測している。これらは概ね納得できる議論ではあるが、ここに提出された事例が少なすぎるので、悪く言えば床屋談義の域を出ていないようにも思われる。音楽については、リズムだけでなくメロディーや和声のことも考えると宗教との関連で全てを理解することはできないのは当然なので、もう少し広い視野で起源を研究すべきだろうと思った。先行研究を確認したいところである。

第3に、狩猟採集社会から定住社会へ、そして都市文明への社会進歩に応じて、どのように宗教が変容していったかを論じる(第6、7章)。ここは一種のケーススタディ(事例紹介)であり、 あまり理論的なことは述べられていない。しかも提出された事例も少ないので、著者の考える宗教の変容を語るために、恣意的に事例が選ばれているように感じる。特に、定住社会以降の宗教の変容については、ユダヤ、キリスト、イスラムという3大一神教を取り上げているが、このかなり特殊な宗教を事例の代表として持ってきたのはよくなかったと思う。

第7章は、ユダヤ教史、キリスト教史、イスラム教史の要約となっているが、その取り上げ方もあまり誠実なものではない。例えばキリスト教史については、随所にポール・ジョンソンの『キリスト教の2000年』が参照されているが、これはローマ史を繙くのに塩野七生の『ローマ人の物語』を参照するようなもので、学術的な態度としては疑問である。イスラム教史に至っては、ムハンマドは実在していなかった、という仮説をかなり重んじて述べており、無闇にセンセーショナルなことを言おうとしているだけではないかと感じた。

また、宗教が進化的な産物とするならば、最初の人類が既にそれを持っていたはずなので、全ての宗教はその祖宗教からの系統を描けるのだ、という仮説を述べている(つまり全ての宗教は遡るとある一つの宗教へとたどり着くという)が、これはちょっと先走り過ぎの議論である。遙かに研究が先行している言語ですら、全ての言語の祖語があったのかどうかということは未だ明らかでない。こういう議論は軽率であると思う。

第4に、宗教の発展を辿りつつ、社会機構にまつわる様々なことを論じる(第8〜12章)。道徳、取引(経済)、出生率の調整、天然資源の管理、戦闘、国家(アメリカの宗教事情)、そして宗教の未来について。この部分の議論はあまり深みのあるものではなく、それぞれ簡単に宗教との関わりが述べられているに過ぎない。我々は既に脱宗教化した世俗国家に生きているので、こうした社会機構の様々な面に宗教が深く関わっていたことを忘れがちであるが、現在でも宗教は大きな影響力を持っているんですよ、という主張である。ここについては、著者は随分気焔を上げて書いているが、別段新味のある内容でもないと思う。

全体として、専門家ではないから議論が浅くなりやすいのは仕方ないとしても、その浅い議論から断定的に述べる粗忽さが目に付いた。エピソードをいくつか紹介して、そこからすぐに結論に飛びつくようなところがあり、論理的に堅牢でない書物である。ジャーナリストはジャーナリストらしく、自らの見解はあまり述べないで、現在の研究の最前線を素直にまとめるだけでももっと充実した本が書けたのではないかと思う。そもそも、著者はジャーナリストでありながら、本書を書くために誰一人として取材していないようである。要するに、これは刊行資料を読んだだけでわかったつもりになり、自分の考えを付け足した本で、そのために著者の独善が修正されずそのまま書かれている。

また、文化の進化ということを考える際に重要なはずの「ミーム」の概念が全く提出されていないことは重大な問題だと思う。宗教がある程度適応的だったにしても、それが広まるには宗教を生みだす遺伝子が存在している必要はない。宗教がミーム(つまりそれを伝えていく文化的遺伝情報)によって伝わっていけば十分なのだ。ダニエル・C・デネットなどは、宗教は我々に寄生するミームを持つ、譬えればウイルスみたいな存在である、というようなことを述べていて、このアイデアは本書においても紹介する必要があったと思う。

いろいろ問題点を述べてきたが、一つだけ擁護するとすれば本書の内容はそれほど的外れではない。議論は粗忽で、同じことの繰り返しが多く、筆の運びは論理的繋がりが曖昧だが、書かれていることそのものは妥当なことが多い。進化生物学や宗教学者たちにもしっかり取材して書けば、かなり面白い本になったような気がする。

宗教の進化を探るという面白いテーマとそれなりの内容を持ちながら、書き方がマズい惜しい本。

2016年9月2日金曜日

『ガラスの道』由水 常雄 著

ガラス工芸がどこで生まれ、どのように伝播し、どう発展したかを世界史的に述べる本。

本書は、ガラス工芸家でありガラスの研究者である由水 常雄が、十数年の研究の結果をまとめ、世界で初めての試みとして「ガラスの世界史」を概説したものである。ガラス探求のためプラハのカレル大学(大学院)に留学したり、中近東にフィールドワークをしている著者らしく、概説とはいえ調査は綿密を極め、通説のつぎはぎではなく、通説を批判的に検証しつつ糾合し、堅牢な歴史を紡いでいる。

ガラスという人類史上初めての人工素材が誕生したのは、メソポタミアにおいてだったらしい。紀元前2200年くらいのことで、遅れて紀元前15世紀あたりにエジプトでもガラス技術が花開いた。その後、ガラスは「文化伝播の露払い」として、文明交渉の歩みとともにユーラシア大陸に広がっていった。

特にその技術が大きく発展したのがローマ帝国において。それまでは「コア・ガラス」といって、ガラス器の製作は粘土などで作った土台に融かしたガラスを巻き付ける方法によって行われていたが、ローマ帝国の地中海沿岸において現代のガラス器製法と同じ「吹きガラス」技法が開発される。これが1世紀のことで、これによりガラス器の大量生産が可能になり、また技法も格段に進歩して、それまでの百年で作られる量のガラス器がわずか1年で作られた、というほどガラス文化が花開いた。これがユーラシア大陸を席巻したローマン・グラスである。2、3世紀には、「あらゆる種類のガラス器が作られ、超豪華なガラス器から、ごく普通の日常ガラス器、飲食器や容器のほかに、窓ガラス、モザイク、鏡、装飾品などが作られていた」。

ローマ帝国が滅亡しても、ガラス文化の中心は中近東でありつづけた。ローマン・グラスを受け継いで、完成されたデザインと大量生産という、現代的なガラス製造によってユーラシア大陸中にガラス器を輸出したのが、ササーン朝ペルシアである。これまでササーン・グラスはそのデザインの少なさなどから実態が不明であったが、ササーン・グラスの製造体制を近代的工場生産システムと推測したのは著者の創見である。

ササーン・グラスといえば、我が国の正倉院宝物にあるガラス器の一群が思い起こされるが、著者は水も漏らさぬ厳密な考証によって、これらが検証によらず古代から伝来したササーン・グラスとされてきただけで、実際には来歴が詳らかでない品がかなり混入していることを明らかにする。この正倉院宝物の調査は、追って『正倉院ガラスは何を語るか - 白瑠璃碗に古代世界が見える』と『正倉院の謎』でもさらに展開されている。

ササーン・グラスの後に発展したのがビザンチン・グラスである。ローマン・グラスの伝統を受け継ぎつつも、イスラーム文化にも影響されて育ったビザンチン・グラスは、従来その名のみ高い一方で実態は不明であった。それが近年考古資料の出土などによってだんだんと明らかになってきているとのことである。しかし、本書ではイスラーム世界でのガラス工芸については簡単に触れられているのみで、詳細は今後の研究が俟たれる。

そして近世に入ると、有名なベネチアン・グラスが勃興してくる。 シリアやビザンチン帝国からガラスの技術を学んだベネチアは、国家財政を支える重要な輸出品としてガラス器の製造を始め、東方のガラス産地が戦乱によって潰滅することで世界の一大ガラス供給地となり巨利を得る。しかしその裏には、その技術を流出させぬようガラス工人をムラノ島という島に一人残らず幽閉し、貴族のように厚遇しながらも奴隷のように働かせるという非人道的政策があった。14世紀から15世紀、こうして国家の力によりガラス技術は研ぎ澄まされていった。

一方で、ベネチアとは真逆のやり方でヨーロッパにガラス技術を伝播していったのが同じイタリアのアルターレという小都市。アルターレにはガラスの同業者組合があり、ヨーロッパ各地にこの組合員を派遣して技術を広めていったのである。ベネチアと比べれば知名度はないが、ヨーロッパのガラス工芸の発展に寄与した面からいえば、この「アルタリスト」の活躍はベネチアよりも遙かに重要だ。

しかし技術的には、国家政策によってガラス製造を推し進めたベネチアはアルターレの敵ではなかった。各国はベネチアのガラス器を競って買い求め、大きな鏡やシャンデリアなどの高価なガラス器の購入はその財政を傾けるほどであった。そのため各国は、ベネチアにスパイを送り込んでムラノ島に幽閉されているガラス工人たちの引き抜きを試み、逆にベネチアの隠密はそれを防禦するという激烈な産業スパイ戦が繰り広げられた。

このスパイ戦は意外な展開によって終わりをみせた。16世紀になって、ベネチアのガラス製造法が本になって出版されだしたのである。そして1612年、フィレンツェにおいてアントニオ・ネリがガラス工芸の集大成とも言うべき『ガラス製造法』を出版すると、ヨーロッパにはベネチアの進んだガラス技術が一気に伝播していった。ネリの『ガラス製造法』は、我が国でも翻訳・出版されており、世界各国にガラス技術を伝えていったガラス史上もっとも基本的な著作となった。

これ以降のガラスの歴史は、本書ではごく簡単に描かれるに過ぎない。ボヘミアン・グラスとかアール・ヌーボーのガラスについては専門の著作も多く、概説としては深入りするには及ばないとの判断であろう。

ところで、ユーラシア大陸の東へと伝わっていったガラスについては不思議な運命が待っていた。中国には早くも周代にはガラスが伝わっていたらしい。そして戦国時代にはトンボ玉が流行し、しかもその製造も始まっていた。だが古代において中国では粘土の低いガラスが製造されていて、ガラスといえば鋳作(型に鋳れて作る)するものとの観念ができあがってしまった。これにより、吹きガラスの技法が開発された後も、この観念に阻害されて吹きガラスをうまくこなせなかったほどの悪影響を与えたとのことだ。

さらに、古代中国では、象嵌ガラスなど装飾にはよくガラスは使われたが、不思議なことにガラス器はほとんど作られなかった。一方で、窓ガラスは唐の武帝が使ったという記録があり、これは事実とすれば地中海沿岸の諸都市に先んじており世界初のことだった。その形状は不明であるが、漢〜晋代には確実に窓ガラスが使われており、このような古代に窓ガラスを使うことが理想の建物の条件ともなっていたことは驚異的なことである。

このように、地中海世界とは違う形でガラス文化を発展させた中国文明であったが、その後はガラス器はほとんど発展しなかった。ユーラシア大陸中に広まったローマン・グラスも、さほど中国人の関心を引かなかったらしい。同じガラスの技術である釉薬を使う陶磁器は絢爛豪華に発展したのに、なぜガラス器は閑却されたのかよく分からない。中国人がガラスに再び熱を入れるのはずっと後代の清代になってからで、玉器を模したレリーフ(カメオ)・グラスである乾隆グラスの開発を待たねばならない。技術的にも困難であり、ガラス界にかつてなかったデザインで登場した乾隆グラスは世界的に影響を与え、乾隆グラスの工房自体は消失して廃絶してしまったが、アール・ヌーボーのカメオ・グラスの登場に繋がっていく。

中国とは違った形でガラス文化を受容したのが朝鮮半島の新羅で、著者は出土資料を丹念に紐解き、大量のローマン・グラスが中国を経由せずに新羅に輸入されていたことを突き止める。新羅は中国文化よりも遠方のローマ文化を積極的に導入し、国力の源泉としていたことがガラス器から見えてくるという。この考えは後に出版された『ローマ文化王国—新羅』でさらに詳細かつ大胆に展開されている。

本書は、一部専門的な記載もあるが概ね読みやすく、かつ情報は正確で考証が綿密であり、ガラスの歴史書として第一級の価値を持っている。著者は、本書が処女作というからビックリである。本書によって示された着想は著者のその後の著作によってさらに花開かされており、そういう意味では処女作にふさわしい、由水 常雄という人物を知る上でもキーになる本であろう。

あえて難点を言えば、ガラス工芸の歴史であるため、工芸ではないガラス器(例えば実験器具や医療器具など)についてはほとんど記載がないことと、イスラーム・グラスについてはかなり簡潔な記載しかないことである。私は、ガラスの実験器具こそが中世において化学が発展した主な要因ではないかと思っており、イスラーム・グラスやそれを受け継いだベネチアン・グラスから錬金術が展開されたことは象徴的である。未だ詳細が明らかになっていないイスラーム・グラスの実態が解明されるにつれ、こうした研究が進むことを期待したい。

文明の精華であるガラス器を通じて、文明の伝播・交渉を考えさせる素晴らしい本。