日本の各地に、首塚・胴塚・千人塚などと呼ばれる塚が残されている。これらを著者は「戦死塚」と呼ぶ。それらには、
(1)その場所(あるいは近傍)で行われた戦闘での犠牲者の遺体が埋葬された(と伝わる)場合、
(2)戦闘の有無にかかわらず処刑・自害等により死亡した人の遺体が埋葬された(と伝わる)場合、
の2つがあり、(1)は戦死だが(2)はそうではないのには注意を要する。この区別は本書ではあまり重要ではないが、概念的にはそういうことになる。なお著者の定義では戦死塚とは「合戦や戦時の謀略の渦中で戦死・自決・処刑された死者を埋葬したとする謂れのある古跡(p.7)」である。
私が興味があったのは(1)の方で、特に戦国時代の首塚・千人塚について歴史的な事実が知りたくて本書を手に取ったのだが、本書は民俗学的な観点から戦死塚を語っており、また戦国時代については取り上げていないため、私自身の関心とはずれがあった。民俗学的な観点とは、「その塚に本当に戦死者が埋葬されているかどうか、本当に誰それの供養塔なのか、といった史実の確認はいったん脇に置き、人々がそこを戦死塚として伝承し、そう扱ってきた意味を問う」ということである。著者ははっきりと「歴史的真贋は関心の埒外である(p.8)」と書いている。
確かに蘇我入鹿の首塚など、民俗学的観点から見ないと切って捨てることになる。大化の改新で殺された蘇我入鹿は、斬首されてその首が飛び回ったという伝説があり、その首塚が各所に残っている。そのうち三重県松坂市の山中にあるのは、巨大な五輪塔である。もちろんこの巨大な五輪塔は蘇我入鹿の首塚・供養塔ではありえない。そもそも飛鳥時代には五輪塔そのものがない。では、なぜこの五輪塔は蘇我入鹿の首塚とされたのか。
巨大な五輪塔が山中にあれば、「これは一体誰の供養塔なんだろう」と思うのが人情だ。というのは、中世前期の五輪塔には通常何も文字が刻まれていないから誰の五輪塔なのかわからないのである。そこで江戸時代あたりに、知識人が周辺の歴史的事実を掘り起こし、「もしかしてこれは〇〇の供養塔ではないか」という仮説を提示したのだろう。そして、それを聞いた民衆が話に尾ひれを付けて誰それの首塚だという伝承ができあがってくるのだと考えられる。本書で取り上げられる戦死塚は、そのようにして出来上がったと考えらえるものが非常に多い。戦死塚はある意味で近世の産物だ。
しかし壬申の乱の敗者大友皇子の首塚とされる場所(岐阜県関ケ原町)は、五輪塔などはなく「自害峰」と呼ばれるただの森である(特徴的な三本の杉の木がある)。かつて地元住民は岐阜県等にここを陵墓として公認するように誓願を行っていたから、地元としては確実な伝承だと見なしていた。しかしそのような場所が首塚とされるに至った経緯は全くの不明だ。日本各地に、不気味な森(それは死体を棄てる場所だったと考えられるところが多い)が残されているから、ここも不気味さの謂れとして大友皇子が担ぎ出されたのかもしれない。
首塚といえば有名なのが東京大手町にある平将門の首塚である。ただし大手町の首塚は「そこが首塚であったことを示す石碑と、その保存区域のこと(p.65)」である。関東大震災後に大蔵省が首塚を壊して仮庁舎を建設したところ不幸が相次いで将門の祟りとの風聞がたち、これに応じて大蔵省が仮庁舎を撤去して将門の慰霊を行ったものだ。将門は、「討ち取られた武将の首が、衆人環視のもとに晒されたことがわかる初の事例(p.67)」であり、首を晒すということの衝撃が怨霊譚の成立に影響しているのかもしれない。
そもそも、首級を晒すというのは考えてみれば異常な刑罰だ。ギロチンで首が落とされたマリー・アントワネットとルイ16世も首が民衆に掲げられたと言われているが、一定期間晒されたとは聞かない。首を切り離すだけでもかなりの嗜虐性があるのに、さらにそれを晒すというのはどういう心情なのだろう。ともかく、首を晒すという行為と、その後「首塚」とされる場所が生まれてきたことを考えると、日本人は「首」に対して特別な意味を付与していたように思われる。
ちなみに将門の首は藤原秀郷により京へ運ばれたとされ(『将門記』)、洛中で晒された(『平治物語』)。ではなぜ大手町に首塚があるのか。伝説では、将門の首は晒されても3月も生き続け、「わが頸を続(つ)いで今一軍(ひといくさ)せん」と夜な夜な嘯いていた(『太平記』)。この話がもとになって、首は関東へ飛んでいったという伝説が出来上がったらしい。そして大手町の首塚は、早くも鎌倉時代には将門の塚であると認識されていた可能性がある。そして、なぜ将門の塚が京から遠く離れた場所にあるのか、という説明として首が飛んでいったという伝説が江戸時代初期に生まれたと著者は考えている。
ところで、蘇我入鹿の場合も首は飛んでいたが、首は飛ぶのに死体が飛ぶという伝説がないのは気になる。切り離された首というのは、すでに人ならざる者(幽鬼)と捉えられていた可能性が高い。
ちなみに関東には将門の首塚とされるところが何カ所もあり、またそれらの首塚は霊験あらたかなところとされる。怨霊のエネルギーが霊験と受け取られるのは菅原道真の場合と同じで、権威に抵抗したことが民衆からありがたいものとして表象されたという側面もある。ちなみに関東には将門の胴体を埋葬したとされる「胴塚」も多い。そしてそれぞれの場所について、一応もっともらしい伝承が付随している。それは、地域のアイデンティティが首塚に仮託されているということなのかもしれない。歴史という形のないものを可視化する一つの装置が首塚だともいえる。
これに続いて、著者は源平の合戦(の特に平氏側)や楠木正成・新田義貞の首塚について語っている。将門の首の場合もそうだが、とにかく誰それの首塚とされるものはたくさんある。もちろんそれらには誤伝も多い。例えば楠木正成の首塚とされる歓心院(大阪府河内長野市)の「御首塚」は、1359年に同寺で死去した新待賢門院の墓だったのではという。しかしながら、簡単には誤伝ともいえない場所が多く、それなりに筋が通った伝承が残されている。歴史的に正成とは縁が浅い北関東にも正成の首塚とされる場所があるが、これすらも正成本人ではなくてもその縁者との関係があった形跡がある。著者が「正史から追いやられた、あるいは忘却された事実の一端を語っているような気がしてならない(p.152)」と述べるように、たくさんの首塚はそれぞれが正史に異を唱えている。
しかしながら、誰それの首塚とされるものが近隣に何カ所もあるような状況は珍しくない。著者は指摘していないが、「これらの全てが正しいことはありえない」と近世の人でも感じたことは間違いない。例えば新田義貞の首塚とされる古跡は京都から上野国新田郡(群馬県)までの道筋に4カ所ある。街道を通る人が矛盾を感じなかったとは思えない。このうち群馬県には桐生市と太田市に義貞の首塚があり、これは近接していると言っていい。これをどう解釈したらいいのだろうか。近世以前の人は、著者と同じように史実の真贋は関心の埒外だったのだろうか。異伝同士が矛盾しているから、異伝の説得力が低下しているような気がする。
ただし、数多くの異伝が生まれる事情もある。史書では首の処理についてはことさら記載されていないことが多く、そこに異伝が生じる余地があった。多くの首塚には、故人と親しかった誰それが密かに首を持ち去って埋葬したという伝説が伴う。これも真実であるかどうか疑わしいが、このような伝説が成立する前提条件があったことは間違いない。つまり晒された首・胴体の処遇を人々は気にしていた。そして首を晒す方に任せていたら満足に弔われない可能性があったということだ。例えば、関ケ原の合戦で西軍毛利家の軍師的な存在であった安国寺恵瓊の胴体は、西笑承兌が引き取りを申し出たが奥平信昌により拒否された(p.213)。重罪人は弔わせないという意思があったのだろう。さらには、晒し首にあった人の墓はちゃんと造営されていなかった可能性が高い。首・胴体が合わさって親族が正規の墓所を作っていたら異伝が生じる余地はない。
ここで、著者は指摘していないが戦死塚の呼称について述べたい。近世以前の戦死塚は、ほとんどが「〇〇塚」という呼称を持ち、「〇〇墓」と呼ばれるのは極めて稀である。なぜ「墓」でなく「塚」なのか。勝田至によれば、中世前期までは墓所は「塚原」と呼ばれており、個々の墓も塚状であることが普通だったという。つまり「塚」の方が古い言葉である。そして中世後期以降に、塚状ではない、我々がイメージする石塔を伴う「墓」へと変化したとされる。先ほど述べたように、戦死塚は多分に近世の産物という側面があるが、石塔中心の「墓」の観念が広まっていた近世に、なぜ墓の古称である「塚」という言葉が使われたのか。
それは、近世の人々にとって、戦死塚は「墓」の概念に当てはまらず、むしろ「塚」と呼ぶ方がしっくりくるものだったからではないだろうか。もちろん、戦死塚には実際に塚状になっていた場所もある。特に古墳が誰それの首塚とされているような場合はそうである。ところが五輪塔など石塔が伴っている首塚の方がむしろ多い。これは何を意味するのか。「塚」と「墓」の違いは、形態だけでなく追善の在り方にもある。墓所が「塚」と呼ばれていた頃(中世前期)には、墓所には継続的な追善の祭祀(〇回忌など)が希薄であったが、「墓」と呼ばれるようになると追善法要が普通となった。この違いが「塚」の呼称に反映されているのかもしれない。戦死塚とされる場所は、少なくとも親族により継続的な祭祀が行われていない場所なのである。そもそも、親族により継続的な祭祀が行われていたとすれば、異伝が生じることもない。蘇我入鹿の五輪塔にかこつけて述べたように、誰のものだかわからない大きな五輪塔があるからこそ伝説が生まれるのである。
つまり、親族による祭祀が継続的に行われている場所は、戦死者が埋められていたとしても「塚」ではなく、それは誰それの「墓」なのではないだろうか。
もう一つ注意したいのは、定義上当然であるが、戦死塚の全てについて、死骸(の一部)が埋葬されているという伝承があることである。実は、中世の石塔は必ずしも墓(遺体・遺骨の埋葬)を伴ってはいなかった。蘇我入鹿の首塚とされる五輪塔のような、古い時代の石塔は追善のための「供養塔」である可能性が高い。「供養塔」は墓とは違っていくつあってもよく、実際に生前にいくつもの「供養塔」が建てられることもあった。なお生前に建立する供養塔を「逆修塔」ということもある。近世には「逆修塔」の慣習はほぼ途絶えたと思われるが、戦国時代末までにはよく見られる。この時代にはいつ死ぬかわからず、死んでちゃんと供養が受けられるか不安だったからに違いない。
ともかく、古い石塔の場合はそれが墓であるとは限らない。にもかかわらず、戦死塚はかならず墓であると伝承されている。これには3つの要因が考えられる。第1に、「塚」は必ず葬地を指す言葉で、供養塔には当てはまらない。この「塚」の原意が戦死塚に反映されていると思われる。第2に、石塔=墓という近世の常識が戦死塚の伝承の基盤となっている可能性が高い。そして第3に、遺骸が埋葬されているということに人々が霊的な価値を感じていた。「供養塔」ではそれがない。首が埋まっているからこそ、そこは霊験あらたかな場所ともなるのである。
そう考えると、戦死塚の伝承は、「祭祀が途絶えた墓」という不安定な存在を、人々の手によって祭祀を継続させるために生まれたものなのかもしれない。どこの誰かもわからない墓(石塔)に、人々は手を合わせることはできない。だが誰もそれを管理しないのも気持ちが悪い。だが、「〇〇戦役の犠牲者の墓」ということなら、たとえそこに親族・先祖が含まれていなくても、不遇な最後を迎えた人々のために人々は手を合わせ、それなりに管理していく。あるいは、それが過去の偉人の首塚であるということになれば、地域の歴史を物語る存在として管理していく価値を感じる。これこそが、日本各地に膨大な戦死塚が生まれた理由なのではないだろうか。
念のためいうと、この理屈はすべての戦死塚に当てはまるわけではない。もちろん来歴が確実な本当の首塚もある(例えば藤堂仁右衛門が建立した大谷吉継の首塚(p.196))。それに石塔がない戦死塚がある。例えば関ケ原の戦いの戦死者が埋葬された「東首塚」には塚だけがあり石塔がない。この塚が本当に戦死者の埋葬地なのかははっきりしないが、著者はこの首塚が竹中重門が築いたものとの伝承を紹介し、「家康が竹中重門に命じて首塚を築いたとする逸話は、後世、家康の神格化と竹中家による首実験場の整備が進むなかで、竹中家の先祖と家康との直接的な結びつきを示すものとして生成したのではないか(p.180)」としている。戦死塚伝承の生成には、様々な理由がある。
なお、近世には晒し首されてもその扱いは「お構いなし(=公権力は関与しない)」ということが慣例となり、死体は親族が懇ろに弔うのが普通になったと思われる。そもそも近世は平和な時代なので戦争自体がない。こうなると首塚の伝承はあまり生まれないが、幕末になって世の中が混乱するとまた首塚が生まれるようになった。そして幕末以降の戦死塚は、さすがに来歴が明らかなものが多くなる。それでも西郷隆盛の首がどうなったか異説がいくつか並立しているように、やはり首の扱いには異説があった。人々は首の行方について関心を持っていたが、確定的な情報がないというのは戦国時代と似たり寄ったりだ。
ところで、「千人塚」または類似の呼称を持つ古跡は全国に158例あり、そのうち103例が戦国時代のものである。これまで、戦死塚は多分に伝承的なものという前提で述べてきたが、「千人塚」は真実の戦死者埋葬遺跡である場合が多そうだ。それは、第1にその多くが詳しい築造の経緯を伝承していないこと(伝承が先走っている気配がない)、第2に塚の被葬者がその土地と深い縁を持たないとされること(地域の歴史・アイデンティティとの関連が薄い)、第3に祟りをもたらす存在として地域住民に怖れられていること、からいえる。そして千人塚は、名のある武将の首塚などとは違い、「不特定多数の戦死者の亡骸が一緒くたに埋葬されたと伝えられている(p.285)」。こういう場合、人々は死者は祟りやすいと考えていたようだ。
逆にいうと、仮に戦没など不遇な死を迎えたとしても、しかるべき人からの霊的処遇を受けることができれば祟りの原因にはならないと人々は考えていた。だからこそ中世後期以降の戦争では、敵味方にかかわらず戦後に大規模な供養が行われた。その供養は敵味方区別しない博愛の精神ではなく、祟りを怖れる心から行われていたといってよい。しかし死体の処理は間に合わないことが多く、やむをえず地元住民の手によって不十分な供養のまま処理され、それが不気味な戦死塚として伝わった。ちなみに最初に書いたように、こちらの方が私の主要関心である。
ところが、戊辰戦争以降にはガラリと様相が変わる。戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いでは、薩摩藩兵の全戦死者は一人ひとり墓標が立てられて供養されているのに、旧幕府軍の亡骸はそのまま放置されたという。「旧幕府側の戦死者のゆくえは諸説紛々としており、正確なことはわからない(p.299)」。
「戦死塚からみた鳥羽伏見の戦いの特徴は、勝者と敗者の戦死者が、同一箇所・手法により埋葬されることが、けっしてなかった点である。換言すれば、勝者は味方の戦死者のみを厚遇し、敵はお構いなしという、それまでの日本の戦争ではほとんど聞かれなかった戦死者の霊的処遇のあり方が、この戦いを契機に出現した(p.301)」。そして新政府側の埋葬地は後年「官修墓地」となった。一方、「賊軍」の側の亡骸は地域住民によって遠慮がちに埋葬された。西南戦争の官軍側の戦死者は靖国神社で「英霊」となっているが、西郷軍側の戦死者は靖国神社では祀られず地元の南洲墓地に眠っている(地元民としては靖国神社などに祀られてほしくないが)。こうした点について、著者は「怨親平等や、勝者が敗者に憐憫の情を注ぐといった中世以来の伝統的な思想や民俗的価値観(p.318)」が無化された結果と考えているが、私はその背景に死者の祟りを怖れなくなっていたことがあるように思う。
なぜ死者が祟らなくなったのか。それは死後の魂の在り方に対する考え方が変わったためと思われるが、これについては機会を改めて考えてみたい。
ちなみに本書の巻末には、大化の改新から西南戦争までの期間に築かれたと伝えられる全国(沖縄を除く46都道府県)の戦死塚の一覧=1686例が150ページ以上にわたって掲げられている。この表がたいへんな労作である。著者は古戦場や城跡めぐりを趣味としており、その過程で知った戦死塚の情報を、自らの専門である民俗学にひきつけてまとめたのが本書とのことだ。文献だけでなく、実際に現地に行っているのに大変価値がある。
戦死塚から敗者への処遇を考える、足で稼いだ労作。
【関連書籍の読書メモ】
『日本中世の墓と葬送』勝田 至 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2026/03/blog-post_30.html
日本中世の墓と葬送について書いた本。葬送の本質について史料と民俗で迫る労作。
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