日本中世の墓と葬送について書いた本。
本書は、日本中世の墓や葬制について研究してきた著者が旧稿を元に加筆修正して執筆したものである。特に第1部の「中世民衆の葬制と死穢」については1987年に発表された著者が中世葬墓制を初めて扱った論文で、やはり時代を感じる(著者自身が「今日からみるといささか古色がある(p.7)」としている)。著者の中世葬墓制の研究は『死者たちの中世』でまとめられており、本書はその補遺として読むのがよいようだ。本書でも『死者たちの中世』を参照することが促されている。
第1部 死体遺棄と触穢について―中世前期の葬送と墓制―
「第1章 中世民衆の葬制と死穢―特に死体遺棄について」では、中世前期において死体遺棄が広く行われていたことを述べる。前述のように、これは著者が中世葬墓制を初めて扱った論文であるばかりでなく、また中世前期の葬制について史料を博捜して実証的に述べた論文としては当該分野の研究史において嚆矢となるものであろう。
中世前期においては、触穢があったために親族以外は葬送に関与できず(関与すべきでないという規範があったかもしれず)、結果として手厚く葬られたのは貴族に限られ、民衆においては死体遺棄のような簡易な葬送が行われた。それどころか、穢を避けるために死にそうな病人を家から追い出すことも行われていた。このことは本論文以前から言われていたが、著者はこれを大量の史料によって精緻に実証している。
なお「京畿百姓」が病人を遺棄することを弘仁4年(813)に国家が規制しており、穢を気にしなければならなかった貴族ではなく百姓(ひゃくせい)が病人遺棄を行っていることは、古い民俗に基盤があった可能性もある。
著者は「死者はその家族が葬るべきで血縁のないものが関わってはならない」とする規範こそ死穢の本質ではないかと述べる(p.37)。穢が、室内など閉鎖空間でしか伝染しないことは、穢はイエの支配権が及ぶ範囲で広まるという観念が基盤にあると考えられ、そういう観念が延喜式の穢の規定を生み出したのではないかというのである。なおこの仮説が著者のその後の研究でどう扱われたのか詳らかでない。
ところで、死体遺棄は「ランクの低い葬法ではあっても、悪ではなかった(p.41)」し、不吉でもなかったようだ。古代には山に遺体を棄てるという葬法があり、それを基盤にしていたのかもしれない。少なくとも風葬は古代には一般的だった。だが血縁者が風葬を行うのは「葬法」の一つであるが、非血縁者が死体を遺棄する(ほったらかしにすることを含め)のは「非葬法」であると著者は考える。
こうした状態から、多くの人が葬送される状態になっていった次第は『死者たちの中世』で記述されているが、本稿では今後の課題としている。
「第2章 中世の屋敷墓」では、屋敷墓成立について中世のイエ制度の成立過程と関係づけて述べる。
屋敷墓は、屋敷の土地内に設けられた墓のことである。著者はまず現行民俗の事例を整理し、(1)家の始祖的人物を祀ることが多い。株ごとに本家に祀ることもある、(2)丸い石などが墓となっていることが多い、(3)地神、地主神などがあわせて祀られることが多い、などの特徴を抽出している。こうした屋敷墓は古い民俗なのか、それとも死穢観念以降に生まれたものなのか。
文献に見える最古の屋敷墓的墓制は、『日本後紀』延暦16年(797)正月25日条にある「便葬家側、積習為常」を禁じた文言で、高取正男はこれをもって民衆は穢を気にしていなかったと論じた。著者はこれに対し、血縁者内ではそもそも死穢の観念に抵触しないと考えている(第1章)。なお中世の屋敷墓の発掘結果によれば、家の存続期間に比べて埋葬されている死者の数が少なく、被葬者は特別な人と考えられる。
屋敷と墓がセットになっている文献上の事例は、弘長2年(1262)の関東下知状に屋敷と隣接して先祖の墓があったというものである(p.75)。延元3年(1337)の高野山への寄進状では、屋敷付属のものと解釈できる「代々墓所」の文言がある。この頃になると在地領主クラスの場合「屋敷付属の墓はかなり一般的(p.78)」になっていた模様で、敷地に墓が存在することは「所有権の移動に対する抵抗力が大変強いものだったと思われ(中略)、屋敷地の墓は在地領主のイエ支配権を補強する機能を果たしていた(p.79)」。
よって、所有権を奪うために墓を破壊するという行為も行われた。墓に植えられた樹木に霊が宿るという観念もあったため、わざわざその樹を引き抜くことも行われている。中世の在地領主だけでなく、名主層にも屋敷墓は見られる。こうした事例を鑑みると、屋敷墓は古い民俗ではなく、屋敷地の所有権を補強するために中世に成立した習慣だったと考えられる。
次に著者は死者の魂がどこにあったと考えられていたかを考察する。前述のように墓所の木に霊が宿っているとする観念は古代からあり、樹が依り代のように考えられていた。『葬喪記』(永長2年(1097)奥書)には木(通常は松)を植えることで「従此人之気去成神」という記述があり、墓に樹を植えることで神になるという観念があったことが窺える。その後、共同墓地では木ではなく卒塔婆や石塔を建てるようになったが、屋敷墓では古態が残ったと考えられる。
なお本筋とは関係がないが、弘安10年(1287)の寄進状(紀伊安養寺文書)の冒頭に「主君御聖霊幷二親幽霊為仏果得道」とある文言は興味を引いた。主君の「御聖霊」と親の「幽霊」の「仏果得道」を願って寄進するという言葉の使い方が大変面白い。これは当時の常識的感覚なのだろうか。またこの書状では盂蘭盆を行うことが約束されており、この頃(13世紀)に盂蘭盆は普及したらしい。
また、屋敷墓は子孫からの供養が絶えることがないと期待できる。そして祖先の遺志に反して土地を処分することなどがあれば祟りによる威嚇があると考えられた。「特定の状況下で先祖の意思が死後永く残って子孫を拘束するというイエ制度的観念(p.99)」が屋敷墓に付随していた。いうなれば屋敷墓に祀られた死者は、強力な死者なのである。元享4年(1324)に浄土真宗の存覚が著した『諸神本懐集』には、「先祖オバミナカミトイハイテ、ソノハカヲヤシロトサダムルコト、マタコレアリ(=先祖をば皆神と斎いて、その墓を社と定むること、またこれあり)(p.101)」とある。この頃には、先祖が神になるという観念が一般的になっていたことが窺える。
「第3章 文献から見た中世の共同墓地」では、中世の墓地が何と呼ばれたかを調査している。
墓について文献で記載されることは少なく、著者は各種の文書から墓地・墓を示す言葉を抽出している。まず墓地については「塚原」が多く、「塚」「〇塚(狐塚、三塚など)」「石塚」(集石墓を表す表現)などという。鎌倉時代には塚という土を盛った形態の墓地が多かったと解釈できる。個々の墓については、「墓所(はかどころ、むそ)」、「壇」などといっている。
また、共同墓地を指しているのが「三昧」で、中世前期には普通になっている。「蓮台野」は一般名詞ではないが12世紀中期以降に共同墓地の名称として使われた。なお荼毘所(火葬場)も「三昧」と言われた。
上述のように結果だけ書くと簡単だが、著者は様々な史料を博捜してこうした用語を検討している。またその過程を通じ、「特に墓域が定まっておらず、所有者がいない土地に散発的に墓を作る時代があり、やがて僧がやってきて経塚を造って特定の場所を勝地であるとして、大きな共同墓地が出現するようになった」という流れを想定している。またそのような共同墓地でも塚を作ることができたのは一部の人だけだと考えられる。
中世後期から近世初期にかけて、共同墓地を指す言葉として「塚原」に代わって「墓原(はかわら)」が使われるようになる。墓の形態が「塚」から「石塔」になったことを暗示しているように思われる。
「第4章 中世触穢思想再考」では、穢について史料に基づき概念を整理している。
著者は穢には①『延喜式』などに規定された穢、②内裏を中心とし穢が周囲から侵入するという同心円構造、③らい者・非人の穢、④共同体のとるエネルギー状態の一つとする穢(ハレ・ケ・ケガレ)の4つの論点があるという。本稿ではこのうち①~③を取り上げる。なお④はその後の研究でほぼ否定されており、「史料的な実証は困難なため、本章ではとりあげない(p.136)」と④を取り上げなかった著者のセンスが光っている。
まず①については史料に現れる穢を取り上げ、また穢の語がつかわれた事例をいくつか挙げている(墓への「濫穢」、山陵への「犯穢」など)。そして穢そのものが天皇へ害を及ぼすのではなく、神域が穢になったことで神が怒り、天皇を病にさせるといった回路があったという。穢→神→天皇という順だ。つまり「神と関係ない局面では、制度上の穢というものは存在しない(p.145)」。
つづいて②も検討されるが、これは後に山本幸司の『穢と大祓』で詳細に分析された内容であるためここではメモを割愛する。
③については、中世ではらい者は穢とされていたと思われるが、古代ではどうだったか。はっきりと穢とする規定はないが、著者は穢と同様のものと捉えられていたのではと推測している。ただしこの考察はたった4つの史料のみに基づいておりさらなる考究を要するように思われた。また、著者は触穢規定が整備されたのちは、「規定上の穢とらい者の穢は別個の存在となる(p.156)」とする。そして「らい者の穢」が非人身分の成立に関わってくると著者は考える。さらに非人身分の成立について考察されているが、これについてもごく簡単なスケッチに留まっている。
第2部 伝統的葬墓制の形成―中世後期の様相
「第1章 中世後期の葬送儀礼」では、中世後期の葬儀を葬具と儀礼に注目し、それが「死者を仏として葬る」ものとなったことを述べる。
中世後期では葬具や儀礼が発達し、近年まで日本で伝統的な葬式とされてきたものの源流となった。本章ではそれらが一つ一つ検討されている。
龕:死者を竪棺または桶にいれて、それを龕(がん)という屋根のついた輿の一種に納めた。『禅苑清規』(1103、1201再刻)にその規定があり、これに基づいて行われたとみられる。円爾は龕に入れて葬られ(1280)、瑩山紹瑾が定めた『瑩山和尚清』(1324)には入龕等の仏事の規定がある。1364年に没した光厳院の葬儀は「唐様以龕葬申云々」とあり、龕を使うのは唐様であり、当時は珍しかったことがわかる。龕は棺桶に座らせることが前提となるが、死後硬直が始まってからでは死体をその体制にするのが難しい。死去後速やかに死体を座らせたとみられる。現行民俗では坐棺い入れて体制を整えることを「ホトケを寄せる」とか「ホトケ様つくり」などといい、「仏にする」前提となっているように見受けられる。
幡と天蓋:幡とは、紙を切って作るもので「仏」「法」「僧」「宝」と書き、その下に「諸行無常」「是生滅法」「生滅滅已」「寂滅為楽」の4句を書いたものである。天蓋は吊るして使う仏像の荘厳具であるが、龕とセットで用いられた。幡については、律令の「喪葬令」で親王一品の葬儀で「幡四百竿」とされたり、聖武天皇の「仏に奉るが如し」という葬儀で4本用いられるなど、古くから使われたが中世前期には普及はしていなかったようだ。『死者たちの中世』では幡と天蓋を禅宗が葬式に導入したものとしていたが、著者はこれを改め、「幡や天蓋は禅宗とは独立して、日本において仏像の荘厳具から葬具への転用が行われ、13世紀後半ころから用いられるようになった(p.173)」とし、それを進めたのはおそらく天台浄土教だという。「往生人が仏の世界の一員になり、幡や天蓋に荘厳されて極楽に向かうという発想から、それが葬儀において棺を荘厳するのに使われるようになるのは自然な推移である(p.175)」。
四花:四花(しか)とは、紙の左右に細かい切れ込みを入れたものを竹の棒に巻き付けたもので4本が普通である。中世後期には「雪柳(せつりゅう)」というものが見え、『禅苑清規』では「仏喪花」を龕の上に置くとしている。雪柳は散花のように散らすもので、「仏喪花」は娑羅樹を象ったもので紙で作られていた。仏喪花が雪柳に、さらに四花に変化していったとしている。「現状では、四花は娑羅樹をかたどったもので、中国禅宗由来の葬具であるという伝統的な解釈を採用しておきたい(p.179)」。五来重は四花は御幣であったとするが、鎌倉時代の葬列では棺に御幣が立てられており、四花の由来とは別に御幣が葬具として使われていたことは留意すべきである。
善の綱:善の綱とは、棺・龕に結び付け、その前方または後方に伸ばし、人がそれにつかまって引く布の綱である。東日本では「縁の綱」ということが多い。仏像に綱をつけて結縁のために人々が手に取ったことが起源と考えられ、死者を仏に見立てる一環であると理解できる。史料の上では南北朝期の「一向上人臨終絵」が古く、往生人に対して行われたのが次第に一般の死者に広まっていったと思われる。民俗例では善の綱は孫または夫人がつかまることが多いが、15世紀の将軍家の葬儀では後継者が引くのが普通である。善の綱を引くことには重い意味が付与されていたようだ。武士の葬儀では善の綱は広く行われたが天皇家の場合はこれを記した史料がない。
位牌:位牌は文献上は足利尊氏のもの(1358)が初出である。15世紀では位牌を持つのは一族の僧や喝食(修行中の少年)であることが多く、跡継ぎの役ではなかった。しかし16世紀中期には家督の持つべきものと考えられるようになっており(1550年の足利義晴の葬儀など)、善の綱と位牌の位置づけが逆転したようだ。なお、位牌には死者の人格(霊)が宿ると考えられるようになった可能性がある。
敬礼法(三匝):三匝(さんそう)とは、火葬の前に龕が火屋のまわりを三回まわることである。インドでは仏に対して三回右回りする「右繞三匝」という儀礼があり、また『大般涅槃経後分』では釈迦の棺がみずから空中に浮きあがってクシナガラの城門などを三回繰り返して巡ったというエピソードがある。中世前期には記録がないが、室町時代になると三匝が行われるようになった。民俗例では棺が左回り(つまり三匝とは逆)に回るのはかなり一般的である。葬送であるから仏に対するのと逆にしているかもしれないが詳らかではない。もしかすると、死者の方向感覚を失わせるという理由があったかもしれない。
拾骨:白河法皇の火葬(1129)の場合は翌朝に近親の者6人が炉の東西に畳を敷いて座り、箸で骨を取り上げて対面の者も箸で受け取り、その後はそれぞれが拾って金銅の壺に入れた。壺は白い絹で包んで、院近親の藤原長実が首にかけて歩いた。この場合は近親の者(とはいえその半数は出家している)が行っているが、中世後期の貴族・上級武士の葬儀では、沐浴・入棺・骨拾いは禅宗や律宗の僧侶に任されていることが多い。なお中世後期は拾骨は葬儀から3日目の朝に行われることがしばしばあるが、なぜ先延ばししたのかはわからない。
葬儀見物:中世後期には上級武士の葬儀は昼に行われるようになり(だからこそ幡・天蓋などの見せる葬具が発達した)、社会的地位を誇示する意味からも見物人を集めることとなり、将軍足利義煕の葬儀(1489)では「見物雑人如稲麻竹葦」、六角氏の家臣永原氏の葬儀(1536)では「貴賤男女見物数万矣」、豊臣秀長の葬儀(1591)では「人数廿万人モコレアルベキ」と言われた。
無常講:無常講とは葬送の互助会である。覚如の『改邪鈔』(1337)では「往生浄土ノミチモシラス、タダ世間浅近ノ无常講トカヤノヤウニ諸人オモヒナスコト、ココロウキコトナリ(p.200)」とある。ここでは仏光寺派などの異流が往生の信心を閑却して、無常講のようなことだと世間の人が思っているのはけしからんという文脈で無常講が出てくる。鎌倉時代後期には金石文にも「念仏講州」「結衆」が見え、14世紀には無常講という名の互助組織が成立したようだ。この名の由来は、隠岐に流された後鳥羽院が死の直前(1239)に著した『無常講式』にある可能性がある。ただしこれは念仏講で葬式の手順に触れているわけではない。葬式互助は戦国期には「念仏講」の名でも盛んになる。戦国期には庶民も参加している。日蓮宗にも独自の互助組織があった可能性があるがまったく不明である。
なお、本章は『死者たちの中世』の第3・4章に続くものとして位置づけられており、私は本章を読むために本書を手に取った。
「第2章 「京師五三昧」考」では、京都近郊にあったいくつかの火葬場・墓地について、史料を博捜して実態を推測している。
近世初期の京都には5つの火葬場「五三昧」があるという説があり、本稿はこれを史料に基づき緻密に追及している。まず、この5カ所がどこかというのもあやふやであるが、史料を総合して鳥辺野・千本・最勝河原・四塚・中山であろうとする。このうち、鳥辺野は次章で取りあげ、本章ではそれ以外の4カ所について沿革を明らかにしている。本稿は非常な労作で情報量が豊富だが、私は京都近郊の地理に疎いので正直あまり頭に入ってこなかった。以下、気になった点のみ述べる。
まず、火葬場は近世以前も迷惑施設であった。最勝河原では火葬の臭気が問題になり、奉行所から移転を命じられている。それに対して火葬場側は「此の処さへ辺土にて迷惑仕候に(現在の場所さえ辺地で営業に差し支えるのに)」と反論している。火葬というのは、割合に上層の葬儀法であり、元来仏教的な葬儀法であるから、古代では火葬されることは贅沢でありがたいものだという観念があったとされる。にもかかわらず、火葬場が迷惑施設とみなされているのは、火葬の位置づけが庶民化し、特別にありがたいものだという意識がなくなっていることを窺わせる。
興味深いのは「千本」。ここは多くの寺院があり、しかもそれらは葬場または墓地となっていた。「これらの寺を含む広い範囲が千本と呼ばれる室町京都の一大葬送センターであった(p.254)」。そしてその近辺にあったのが蓮台野である。院政期にあった「蓮台」という葬儀施設がその名称の起源になったようだ。近世では上品蓮台寺が蓮台野を管理していたが、この寺の起源には不明確なところが多い。山本尚友は堀河天皇の遺骨が安置された香隆寺をその前身としている。中世後期の蓮台野には、墓地を管理する「野法師」がいた(「蓮台野法師」の省略形かもしれない)。慶長3年(1598)の方広寺大仏供養で蓮台寺聖僧が参加しようとしたことに東寺が反対しており、葬式寺としての蓮台寺が忌まれたことを示している。
墓地のある土地の寄進が行われたとき(1324)、「御先祖墳墓」があるのでこの墓を移動したりせず今後も菩提を弔う、と約束している文書があるが(p.262)、これは墓が移動されたり祭祀が廃絶したりすることがよくあることだったのを逆に示しているのかもしれない。
五三昧は元来は荒野のようなところであったと思われるが、陵墓・貴族の墓(堂宇もあったかもしれない)が設けられたり、僧侶によって経塚が立てられたりすることで火葬場・共同墓地となっていき、やがて周辺の寺院に囲い込まれることで消滅していった。土井浩は五三昧を「境内墓地化以前の葬所」であると指摘している。なお18世紀の山岡浚明『類聚名物考』では、寺ではなく鳥部山・鳥へ野に葬る風習が京都にあるがとして「すへて江戸も都会の所にハこの風やみたるそよからぬ事にハはあるそかし(=江戸の町中でこのような風習がなくなったのはよくないことである)(p.270)」と言っている。江戸では鳥辺野のような寺院墓地でない庶民的な葬所がなかったから、高密度の埋葬が行われ、頻繁に墓の掘り返しが行われ、墓は社会問題になったのである。
「第3章 鳥辺野考」では、前章で割愛されていた鳥辺野について詳説している。
本章でまず驚いたのは、鳥辺野がどの範囲のどこであるか、いまだ不明であることである。鳥辺野というと京都の東側にある場所という漠然としたイメージはあったが、その範囲には諸説あり、また時代によっても変遷があるのだという。その概略をいえば、古代にはかなり広大な領域が鳥辺野と認識されており、それが徐々に限定されていったということになる。まず古代には阿弥陀峰(清水寺の南にある山)の一帯が葬所となっていたと思われ、ここが元来の鳥辺野だった可能性がある。これが徐々に拡大し、『親鸞伝絵』が書かれた鎌倉末期には「今の知恩院付近から滑石越に至る広大な範囲が鳥辺野と呼ばれていた(p.288)」。
もう一つの中心は鳥辺山や西大谷に近い六道珍皇寺で、ここは異界との境界に位置すると思われていた。院政期には「珍皇寺四至内に「左衛門大夫堂」「伴入道ゝ(堂)」など人名をつけた多くの堂が存在し、墓堂と考えられている(p.290)」。珍皇寺では院政期に盂蘭盆会がにぎやかに行われたらしい。これらのことから、珍皇寺が面する野原(鳥辺野)が平安後期から住民の葬所として確立していたと思われる。
また近世には珍皇寺の東側に「南無地蔵」と呼ばれた空き地があり、そこは昔宝福寺という時宗寺院があった跡だとされていた。ここも火葬場・墓地となっており、「南無地蔵の葬場は、近世から伝承的にさかのぼれる最古の葬場の一つ(p.298)」である。
近世に鳥辺野・鳥辺山といわれたのは、西大谷背後の墓地である。ここは「浄土真宗・日蓮宗・時宗の諸寺院が共同墓地として利用していた(p.301)」。つまり、近世の鳥辺野は清水寺の西側あたりに限定されてきていたと考えられる。そういう事情から、墓地・火葬場について清水坂(非人の集団=坂惣中)は何らかの権益を有していた。
ちなみに、南無地蔵も阿弥陀峰も鳥辺山も、豊国廟の建設にあたって移転させられたとの伝承がある。これらは火葬の臭気が不浄とされたようだ。やはり火葬場は迷惑施設なのである。なお中世には「鳥辺野広域圏」に南無地蔵・鳥辺山(2カ所)・赤築地・阿弥陀峰・延仁寺という少なくとも6カ所の火葬場があった。火葬場が迷惑施設であることを考えると、これは多すぎるような気がする。なぜ6カ所も必要だったのだろうか。
「第4章 さまざな死」では、異常な死に方をしたケースの葬送や墓について述べている。
異常な死に方をした場合は、特別に弔いが必要とされたり、あるいは死体への恐れが通常より強かったりし、葬送にも通常とは違う特徴がみられた。特に、異常者の霊は死んだ場所に留まるという観念は古くからあり、死体とは別に場所の扱いも普通とは違っていた。特に戦死者の場合は、戦場にとどまる「霊を鎮めることは政治的に戦勝者の急務(p.321)」であり、久野修義は「戦後処理としての鎮魂が必要とされていた」と指摘している。また中世前期は戦場の死体は放置されたようだが、中世後期では従軍に際しては陣僧を伴って参戦し、戦死後は陣僧が死体を葬送したり国元への通知を行った。
異常死者の場合は、死体を分割することも行われた。これは死者の復活を阻止する措置だったかもしれない。特に反乱者の場合は死体を分割したという説話が多い。一方、死体を分割すると(特に首がないと)往生できないと考えられており、また首そのものにも怨念がこもっているとも考えられた。
このほか、水死体、産褥死、自殺者などの場合について現行民俗での事例も参照しつつまとめている。それらに共通するのは、往生させようとするよりも、その怨念や穢れが周りの人に害を及ぼさないようにするという思想のように思われる。一般の死者の場合は往生させることが優先されるのであるが、これがないのは日本の往生思想の特質を表しているようにも思われた。
本書は全体として、史料に基づいて緻密に論証し、また民俗例も参考に葬送の本質について考究している。ただし冒頭にも述べた通り、古い学説に基づいている箇所があるのは注意が必要である。例えば島津毅は『日本古代中世の葬送と社会』で勝田の説にいくつかの面で修正を行っているし、穢については近年より厳密な考証が行われており、穢がどの程度実体的に扱われたかは再考を要する(ただし、私自身は穢はそれなりに実体的だったと考えている)。そうした注意点はあるが、本書の中心である「第1章 中世後期の葬送儀礼」は今のところ本書以降にはまとまった研究がなく、「死者を仏として葬る」習俗については本書が通説といって差し支えないであろう。
葬送の本質について史料と民俗で迫る労作。
【関連書籍の読書メモ】
『死者たちの中世』勝田 至 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_9.html
中世、多くの死者が墓地に葬られるようになる背景を説き明かす本。本書と合わせて読むことは必須。思想面は手薄だが、中世の葬送観について総合的に理解できる良書。
『日本古代中世の葬送と社会』島津 毅 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/07/blog-post.html
日本の古代・中世における葬送の実態を再考する論文集。勝田の説を批判的しつつも発展させている。古代中世の葬送史の新たなスタンダードとなるべき労作。
『穢と大祓』山本 幸司 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/11/blog-post_24.html
穢(けがれ/え)の歴史的事実を明らかにする本。穢の実態を初めて明らかにした労作。
★Amazonページ
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