2017年3月26日日曜日

『知識の灯台―古代アレクサンドリア図書館の物語』デレク・フラワー著、柴田 和雄 訳

古代アレクサンドリア図書館にまつわる人々についてエッセイ風に語る本。

数々の伝説に彩られた古代アレクサンドリア図書館。その蔵書数は定かではないが、古代社会においては世界最大だったと思われる。併設の学術施設(ムーセイオン)とともに、古代社会における知の中心として数々の学者や文化人が文明の精華を生みだした。

その失われた図書館を再建しようというプロジェクトが20世紀の終わりに動き出し、エジプト政府とユネスコとの共同事業として、かつてアレクサンドリア図書館があったとされる場所に2001年に再建された。

本書は、それを記念してエジプト出身の著述家・テレビ局キャスターであるデレク・フラワーがアレクサンドリア図書館にまつわる人々についてまとめた本である。

内容は、図書館そのものというよりも学者・文化人の紹介がメインで、紹介されている数も多いのでそれぞれの項目の記載は簡潔であり、体系的というよりエピソード的である。

本書を買ったのは、古代アレクサンドリア図書館がどんなものであったのか、ということに関心を持ってのことであったから、これはちょっと期待はずれだった。

しかし驚いたのは、新アレクサンドリア図書館の約2億ドルという建設費。本書では厖大な建設費用として紹介されていたが、世界の知の中心を再建するという野心的な目標を達成するための建物と最初の蔵書が約2億ドル、つまり200億円程度で済んでしまうというのは格安ではないか。

日本で考えると、東京五輪の費用が何兆円、リニア新幹線が何兆円、原発の廃炉費用が何兆円とか言われているが、世界の知の中心の再建、というには大げさにしても文化発展の基礎となる大図書館をたった何百億円で設立できるとしたら、そういうことにお金を使った方がどんなにか有意義だろう、と思われた。

ところで、本書でアレクサンドリアで活躍した学者を、数学者や医学者も含めて「アレクサンドリア学派」と呼んでいるが、これは正確な用語法なのだろうか。アレクサンドリア学派というと文法・文献学の学派のことかと思っていたので気になった。ジャーナリストの著作であるから学問的に厳密でないことは仕方ないのかもしれないが。

古代アレクサンドリア図書館のことについては説明は少ないが、古代の知をつくった人々について気軽に読める本。

2017年3月21日火曜日

『島津重豪』芳 即正 著

薩摩藩が雄飛する基礎をつくった型破りの藩主、島津重豪(しげひで)の初の本格的評伝。

重豪の人生は決して順調な出発だったとはいえない。産まれた時に母を亡くし、また父も11歳にして亡くした。しかも薩摩藩ではこのころ数代病身の藩主が続いており、先々代の藩主は若くして病死し藩政は停滞していた。しかも先代藩主(父)も若くして急遽病死したという事情から、彼は僅か11歳という若さで藩主になったのである。

若い重豪は貪欲に知識を吸収した。侍読(じどく)となったのは室鳩巣(むろ・きゅうそう)の学派の儒者たち。山田有雄や児玉実門である。重豪は儒者を重用し、たくさんの書籍を購入したり、郡山遜志には藩主心得の書ともいうべき『君道』を編纂させた(1769年)。
 
しかし重豪は書斎の人ではなかった。唐船が漂着していると聞けば見学に行くなど、機会を捉えて外国の見聞を広めた。長崎では帰化中国人が創建した4つの寺とオランダ商館にも訪問し、特にオランダ商館長ヘンミー、その後任ズーフとは親交を深めている。重豪はオランダ商館を通じてオランダ文物の収集にも努めた。閉鎖的で遅れていた日本の端っこの地、鹿児島で、重豪は世界に目を開いていた。

そんな重豪にとっては、鹿児島の遅れた社会が気にくわない。期待した成果は上げられなかったが、重豪は鹿児島の風俗矯正にも力を入れた。また、乱暴だった鹿児島の士族たちに文治主義を徹底させた。まだ戦国の遺風が残っていた鹿児島の士族社会を、平和な時代に適した官僚的なシステムへと組み替えていったのである。さらに、他国人の出入りを自由化した。商業振興のための方策だった。

重豪の治世に光るのは文教政策である。藩士の教育施設である造士館・演武館を設立し、医学院と薬園もつくった。ついで薩摩藩独自の暦を作成・研究する明時館を創建した。この明時館は天文観測施設を備えており別名「天文館」ともいうが、これが後の繁華街天文館の名の起こりである。

さらに各種の図書編纂事業、研究事業も行った。20代で着手し半世紀以上を費やした中国の口語辞典『南山俗語考』、藩の正史である『島津国史』、国学者の白尾国柱に命じた神代山稜の研究、その白尾らによる農業生物の巨大な百科全書とも言うべき『成形図説』、南西諸島の薬草の薬効について中国の学者に問い合わせたものをまとめた『質問本草』、中国帰りの琉球客に中国の事情を自らインタビューした記録である『琉客談記』、晩年になって自らまとめた鳥類事典『鳥名便覧』など多岐にわたる。また、重豪の命であるとは明確でないながら、重豪に仕えた石塚崔高が磯永周経と公刊した『円球万国地海全図』は、高橋景保が地球図を公刊するまでは我が国最大の世界図であった。

重豪は各種の開花政策を精力的に進め、43歳の若さで隠居した。娘の茂姫は将軍家斉の御台所(正妻)となって重豪は将軍外戚となり、隠居屋敷があった高輪で書籍編纂など文化事業に一層力を入れた。

ところが、重豪を継いだ藩主・斉宜(なりのぶ)は近志録党と呼ばれる一党を重用して一種の揺り戻し政策を実施。重豪の開明・拡大路線から一転して保守・緊縮路線へと藩政を転換させた。これに重豪は激怒し、藩法で厳禁されている党類を結んだという廉で一党を粛清。切腹13名、遠島25名を含む111名もの大量処分であり、近世薩摩藩史上最大の政変であった(近志録崩れ)。

こうして重豪は、次期藩主斉興(なりおき)の藩政後見となり表舞台に返り咲く。しかしこの頃には藩の財政も限界に近づき重豪自身が緊縮路線を実施。調所広郷(ずしょ・ひろさと)を重用して財政改革を強行した。文政末年(1830年)には、藩の借金(藩債)の額は500万両にも達していた。この巨額の借金の原因が、重豪の積極的な開明・拡大路線にあると言われるのであるが、著者の問題意識は、本当にこの借金は重豪が元兇なのであろうか。ということである。

実は私も、本書を手に取った興味は、果たしてこのような巨額の借金をどうやって借りたのだろうか? ということだった。この頃の薩摩藩の経常収入はせいぜい20万両弱である。その20倍以上もの借金は、そもそも普通は借りることすらできない。いくら重豪が「下馬将軍」と渾名されるほどの影響力があったにしても、商人がこのような返済される見込みのないお金を貸すものだろうか?

この疑問に対して、著者は文政年間に大阪で藩財務を担当した新納時升(にいろ・ときのり)の証言を取り上げて考究していく。結論を言えば、この500万両の借金は、重豪がつくったものではなく、重豪治世が終わってから、藩財政の悪化が露見したためにまともなところから金が借りられなくなり、高利で金を借りるしかなくなってその利子が雪だるま式に増えてできたものだ、ということができる。

その証左の一つが藩債の推移を表したこの図(p.208)。それまでも毎年の赤字経営ではあったが、文政年間(重豪は隠居後)に急に借金が激増している。普通の経営をしていたら、このような急激な借金の増え方はしない。

実は、文政に先立つ文化10年秋頃、薩摩藩では徳政令(借金踏み倒し)を行っているのである。これで商人たちからの信用がガタ落ちして金を貸して貰えなくなった。しょうがないので、特定の豪商には藩財政の帳簿を見せて信用して貰おうとしたが、今まで大藩だと思って金を貸していたのにその家計は火の車だ、ということがわかってしまい、信用を増すどころかかえって底を見透かされる結果になった。

そこでしょうがなく牙儈(すあい・仲買人)の手を借りることになり、彼らに有利な条件で藩の商材の売買を任す代わりに高利もやむなく借金をするようになったのである。そのため僅か10年あまりで借金は5倍以上に膨らみ、藩財政は逼迫の度合いを一層増していた。

重豪に重用された調所広郷はこれを打開するため様々な財政改革を実施するが、そのハイライトである500万両の借金踏み倒し(正確には、借金の証文を無利子250年分割払いに勝手に書き換えた事件)は、この借金が正当な条件によるものではなく牙儈の姦計と高利による不当なものであったことを逆手に取った、一種のしっぺ返しだったのだろうと著者は考える。私自身、500万両もの借金の証文が勝手に書き換えられると大変な混乱や暴動が起こるのではないか、なぜ穏便に事は済んだのか、と今まで疑問であったが、債主たる牙儈たちには後ろ暗いことがあって、公に訴え出られない理由があったのだろうと得心がいった。

重豪は、後進的だった薩摩藩を幕末には日本をリードさせる西南の雄藩に変えたきっかけを作った。ひ孫の斉彬は、その開明的な手腕を引き継いでさらに産業振興事業にも取り組んでいるが、重豪が斉彬に与えた影響は非常に大きいだろう。鹿児島の幕末史を研究する上では、重豪をその出発点におかなければならないと強く感じさせられた。

一次資料に基づいてわかりやすくまとめられた島津重豪のコンパクトな伝記。

【関連書籍】
『島津重豪と薩摩の学問・文化—近世後期博物大名の視野と実践』 鈴木 彰・林 匡 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/04/blog-post_22.html
島津重豪とその周辺に関する論文集。


2017年3月13日月曜日

『江戸の本屋さん—近世文化史の側面』今田 洋三 著

江戸時代の出版・流通事情をまとめた本。

「これまでの江戸の文化研究といえば、作品の形式や内容や、作者・思想家についての研究ばかりで、作品を出版し、世の中に送り出し、作品と読者をむすびつける役割を果たす書物屋・出版業の人々について研究することがあまりにもおろそかではないのか」という問題意識から、著者は江戸時代に出版された本の奥付(本の最後にある著者や出版社が記載されたページ)を手当たり次第に捜索し、特別な記録が残されていない、出版業で働いていた人びとの姿を浮かび上がらせ、江戸時代の出版史としてまとめたのが本書である。

江戸初期の出版業の中心は京都である。寛永年間のころ(1620〜40年代)京都の町衆は大寺院と結んで仏典や儒書、日本の古典などを刊行するようになった。武士たちも、武力による統治から次第に文治主義へと移行してきて、行政官にふさわしい教養を身につけなくてはならなかった。この時代の出版業は、こうした特権階級の知識人たちと関係を結ぶことで成立した。こうして京都には「書林十哲」と呼ばれる10の大書商が現れた。

元禄期(1700年代前後)になると、大阪の書商が勃興してくる。当時京都には100軒以上本屋(出版社)があったが、大阪には30軒に満たなかった。しかしこの少数勢力が出版界に新風を入れた。井原西鶴の『好色一代男』を嚆矢とする浮世草子類、すなわち好色本である。『好色一代男』(1663年)の成功でこれに類する好色本がたくさん出版され、本は特権階級・知識階級のみが読むものではなく、大衆的な商品になっていった。

俳諧の本もたくさん出版された。そして都会だけでなく、おそらくは俳諧のネットワークを通じて農村にまで本は流通するようになる。本書に例示される豪農の「読書生活」は驚くべきものだ。田舎にいながら、書物の行商が頻繁に訪ねてきてたくさんの本を借りたり買ったりしている。かつては書商が特権階級と結びついていたのでさして宣伝の必要もなかったが、大衆向けの本が作られるようになると宣伝・流通の方もやらなくてはならない。それまで本が売られていなかったところへ積極的に切り込んでいく書商が現れるのである。江戸時代の農村にここまで知識の流通があったのかと蒙を啓かされる思いであった。

元禄時代の出版文化を象徴する存在に「八文字屋」がある。八文字屋は井原西鶴の成功の2匹目のナマズを狙ったような出版社で、とにかく売れる本をたくさん世に出した。その経営の特徴は、(1)庶民向け、(2)好色性、(3)実用性、(4)教訓性、(5)積極的な販売策、(6)稿本の積極的確保(売れる原稿を仕入れる)といったもので、要するに庶民にとって商品価値の高い本を積極的に販売する、ということである。八文字屋は一つの時代をつくったが、こうした特徴からその場しのぎ的な作品を残したに過ぎず、出版文化を発展させる力はなかった。それどころか、元禄文化をダメにしてしまうようなところすら内在していた。

一方、幕府の方でもこの新興の出版業については厳しい言論統制で臨んだ。既に寛文期(1660年代)にその規制は始まっている。時代が進むにつれ規制はどんどん厳しくなり、元禄の頃には「批判がましい言動をとる者は、あっという間に死刑に処せられ、三宅島・大島に流罪、島流しにする」というくらいになっていた。また幕府は書物屋に組合を作らせ、相互監視させるという策をとった。

享保の頃になると、江戸の書商も次第に形を整えてくる。最初は京都の書商の出店(でみせ)のような系列店が多かったのが、だんだんと江戸生え抜きの出版社の方が(両者抗争しつつ)中心になっていった。こうした江戸の出版文化を象徴する出来事が、杉田玄白の『解体新書』の出版(1775年)である。これを出版したのが江戸の書商を代表する須原屋市兵衛。須原屋市兵衛は、杉田玄白の他、平賀源内、森島中良ら田沼時代に活躍した一流の学者の作品、それも学問史上画期的な作品を矢継ぎ早に出版した。文化人や学者のパーソナルな交流から生まれた学問的成果を出版して公的な場面に送り込んでいく役割を市兵衛は果たしていた。

市兵衛は、学問的成果だけでなく、当時の農村の疲弊や社会の矛盾をえぐり出す『民間備荒録』といった本を採算を度外視して出版。さらに『三国通鑑図説』や『万国一器界万量総図』など世界地図・地理書をも刊行し、世界のありさまを日本人に知らしめようとした。しかし『三国通鑑図説』は幕府から絶版の処分にされ、罰金を払わされた。そして市兵衛の盟友・森島中良は松平定信の家臣に取り立てられ、在野の啓蒙勢力であった市兵衛らのサークルは瓦解させられた。田沼時代の江戸文化の結晶を社会に送り込んできた須原屋市兵衛は、急速に没落して版木も他の出版社に売り払い、誠に寂しい晩年を送ることになった。

須原屋市兵衛についで現れたのが、写楽を世に出したことで有名な「蔦重」こと蔦屋重三郎。重三郎は吉原に生まれ、ちょうど『解体新書』が出版される頃、吉原の案内書である『吉原細見』の出版権を手に入れ、『細見』の序文を一流の知識人に書いてもらい、積極的に販売するという手法で頭角を現した。重三郎は、町人と武士が一体となった江戸っ子文化の創出に、演出家的な役割を果たしつつ出版経営を行った。浄瑠璃本、黄表紙(絵付きの滑稽本)、狂歌本などを次々に出版し、しかも町人・武士といった身分にとらわれず一流の文人に依頼して高水準なものを生みだした。

さらに重三郎は、当局の政策を茶化す『文武二道万石通』といった時事を風刺する作品も世に送り出し大評判を得る。「蔦重」が時事に取材して黄表紙を成功させたことは当時の出版社を驚かせた。それまでの洒落本や狂歌本は売れたとしても所詮は「通」向けのもので流通量も限られていた。ところが重三郎の黄表紙は、いわば漫画本であるから大衆向けのものであった。こうして、江戸の識字層は一気に黄表紙や様々な「読書」へと引きずり込まれていったのである。

しかし重三郎の冒険も、やはり松平定信によって弾圧されることになる。松平定信は寛政2年(1790年)に出版取締りの触書を出した。要するに、幕府にとって都合の悪いことは出版できないという規制だ。重三郎は見せしめとして捉えられ、多額の罰金と刑罰を受けた。重三郎はそれでもめげずに、利益を度外視して写楽の絵を刊行したが、それが最後の出版文化への挑戦で、晩年は寂しく亡くなった。そうした晩年の蔦重の下で手代をしていたのが若き日の滝沢馬琴、寄宿していたのが十返舎一九である。

続く化政期に入ると、中下層の町人にまで文化の受容層が拡大して出版物の数は膨大となり出版文化は興隆の時を迎えたが、質的には停滞していた。そもそも言論統制がさらに厳しくなり、筆禍事件、禁書が頻発したため当たり障りのない本しか出せなくなった。そこで活躍したのが貸本屋だ。出版は難しくても、写本(書き写した本)なら草の根の活動であるため規制をかいくぐりやすい。この時代は貸本屋が「秘本」の流通を担った。貸本屋の店頭はなじみ客たちの文化サロンにもなった。 江戸だけで10万軒に及ぶ貸本屋があったという。

幕末期には、本の需要は地方にも拡大してくる。地方の本屋(出版社)は江戸の本屋と提携して本を出すようになった。幕末には、封建社会の動揺が切実な課題として地方にも迫ってきていた。こうした課題に対応するための本が求められるようになったし、寺子屋での教科書需要も大きくなってきていた。特に、天保の救荒対策のため武士層にかつてない書籍需要が生じたという。それは庶民としても同じで、寺子屋の増加に象徴されるように、この時期に読み書きの必要性を大きく感じるようになったようだ。危機を乗り切るためどうしたらいいか、そういう実用的な知識が書物に期待されるようになっていた。

学術・文化、そして近代的ジャーナリズムを育んだ江戸の出版文化は、厳しい統制によって停滞させられつつも明治維新を準備した。しかしいざ明治期に移ると、江戸時代までの書物屋は、明治の中頃までにほとんど没落し去ってしまった。新しい印刷技術や新聞を代表とする急テンポのジャーナリズムといった新しい時代の情報流通に対応できず、明治の新興出版業者との競争に負けてしまったのである。江戸幕府は、言論を弾圧した出版文化の敵役ではあったが、江戸の出版文化はやはり幕藩体制にその基盤を負っていた。敵対していた江戸幕府の滅亡と共に、江戸の書商たちが消え去ってしまったのは怖ろしい皮肉である。

本書は、そうした消え去った歴史を、奥付などの限られた原資料を基に1ピースずつ再構成した労作であり、江戸の出版文化の豊かさに驚かされるだけでなく、それを弾圧した幕府との対決と敗北、そしてその終焉までも一気に読ませる歴史絵巻でもある。

書商という文化の裏方から見る江戸の文化史。