2021年3月24日水曜日

『バッハ復活―19世紀市民社会の音楽運動』小林 義武 著

19世紀にバッハが再発見されていく様子を述べる本。

バッハは、死後急速に忘れられた。もともと存命中にも第一級の作曲家として認められていたわけではなく、鍵盤楽器(特にオルガン)の演奏家として知られていただけだったから、早くに忘れられたとしても不思議ではない。しかし19世紀になって、バッハは次第に再発見され、西洋音楽史上でも最も重要な作曲家とみなされるようになる。クラシックの作曲家の中で、このように「復活」したのはバッハだけである。

とはいっても、バッハは完全に忘却されていたのではない。鍵盤楽器の作曲家としては、一部のマニアの間で筆者譜がやりとりされ、知る人ぞ知る音楽家であった。19世紀に再発見されたのは、声楽・宗教音楽の作曲家としてのバッハであった。

本書ではこの再発見の様子について、演奏などの「実践的活動」、理論や音楽史など「著述活動」、「筆写譜蒐集活動」、「音楽出版」の4つの活動分野で述べている。

【実践的活動】
メンデルスゾーンは、豊かで文化的な家庭に育ち、早くからその才能を開花させた。また特に母方の家系はバッハとの関係が深く、14歳のメンデルスゾーンが誕生日プレゼントとして『マタイ受難曲』の筆写譜を母方の祖母からもらったほどだった。そしてこの筆写譜を利用して、1829年3月10日、歴史的な『マタイ受難曲』が若干20歳のメンデルスゾーンの指揮によって蘇演されるのである。これは、メンデルスゾーンの指揮者としてのデビューでもあった。

『マタイ受難曲』の演奏は音楽家のみならずドイツ中の文化人にも衝撃を与えた。バッハはドイツの民族的ロマン主義によってゴティック様式の作曲家とみなされて称揚され、ドイツの誇りとして高い評価を与えられるようになった。

ただし、この時の演奏はバッハの曲そのものではなく、当時の人々が受け入れやすいようにメンデルスゾーンがアレンジしたものだった。とはいっても、当時、バッハの難解複雑な音楽を「改善」しようとする僭越な風潮があった中で、メンデルスゾーンはできるだけ原典を尊重していた。

【著述活動】
1802年に出版されたフォルケルの『バッハ伝』では、ドイツ国民主義を背景に「バッハの芸術は、ドイツ国民の遺産であり、その作品の保存に努めることは、ドイツ国民の義務である」としている。バッハは、単に偉大な音楽家として再発見されたのではなく、いわば愛国者によって利用された。

1850年、バッハの死後100年たって、バッハ協会がライプツィヒに設立された。これはシューマンやイグナーツ・モシェレスなど多くのバッハ崇拝者たちの献身的な努力の結果であり、バッハ運動の実りであった。1865年にはカール・ヘルマン・ビッターの『バッハ伝』、1873年にはフィリップ・シュピッタの『ヨハン・セバスチャン・バッハ』が出て、バッハ研究を飛躍的に進歩させた。

【蒐集活動】
バッハの作品はほとんど刊行されず、また刊行された少数の作品の発行部数も極めて僅かだったため、その作品の流布には筆写譜が大きな役割を果たした。それらを蒐集し保存した人々はバッハ運動の影の担い手であった。特にベルリンにはバッハの弟子が多く、自然と筆写譜も集まり19世紀のバッハ運動の本拠地となった。バッハの弟子ヨハン・フィリップ・キルンベルガーは音楽図書館を設立し、バッハを中心として音楽史上重要な作品を蒐集した。また同じくバッハの弟子ヨハン・フリードリヒ・アグリコラ、クリストフ・ニッヒェルマンも筆写譜を蒐集した。

ベルリンと並んで、バッハが後半生を過ごした街ライプツィヒもバッハ伝承には非常に大きな役割を果たした。ライプツィヒでは、ドイツの他の地方で全くバッハが忘れられていた頃にもバッハの音楽が奏でられていた。特にクリスチャン・フリードリヒ・ペンツェルは少年の頃から多くのバッハの作品を筆写し、後世に重要な資料を伝えた。

また当時は、出版社も印刷譜ではなく筆写譜を販売していたが、特にブライトコップフ社はバッハの死後11年目に最初の筆写譜目録を印刷して大量の曲を掲載しており、重要な筆写譜を遺した。

しかしなんといっても、バッハ筆写譜の蒐集保存活動で重要なのはフランツ・ハウザーである。ハウザーは、バッハの作品を消失から救うため自筆譜・筆写譜の体系的蒐集を始め、当時のバッハコレクションとしては最も完全なものを築き上げた。特にハウザーが一生をかけて作成したバッハの作品目録は、堅実かつ綿密な研究によって「旧バッハ全集」の先蹤となった。

【出版活動】
バッハ没後の出版で大きな意味を持ったのが、1765年から刊行された『バッハ四声コラール選集』(4巻)。バッハ四声コラールはロマン派の和声法を準備した。多くの作曲家がこれを和声法習得の手本として学んでいる。

19世紀には、チューリヒのハンス・ゲオルグ・ネゲリが「バッハ及び他の巨匠の、厳格なる様式の音楽芸術作品」という標題で、バッハ、フレスコバルディ、フローベルガー、ヘンデル等の対位法の大家の作品選集を企画した。この企画の第1巻がバッハの『平均律』であり、1801年頃の出版であった。これが『平均律』の最も古い印刷譜の一つである。

バッハ協会(先述)の設立を契機としてバッハ全集をまとめることとなり、厳密な資料批判によって『旧バッハ全集』が19世紀後半に順次出版され(1851年〜1899年)、全集の完成を以てバッハ協会は解散した(旧バッハ協会)。しかし当時の技術的限界(写真を利用出来なかったことなど)や必ずしも体系的な構成でなかったことなどの反省から、より完全な『新バッハ全集』が企画され、またバッハ運動の実践的活動を促進する目的で新バッハ協会が創立された。

全体を通じて本書は、バッハ復活の道程をわかりやすく述べており大変参考になる。ただし、ドイツ以外のバッハ運動については簡略な記述である。例えば、イギリスやオーストリア(特にウィーン)でもバッハの再評価・再発見はいろいろな動きがあったはずだが、そういうものはほとんど述べられていない。また演奏史の方では、『マタイ受難曲』を詳しく取り上げる一方で、鍵盤作品についてはほとんど述べていないのは少し物足りない。

また、バッハの作品が「愛国者」によってドイツの民族意識の高揚に使われたということについては、その背景の社会情勢の説明がもうちょっとあったらよかったと思う。特に巻末に年表があったら理解が早かったと思った。

しかし本書は、小著でありながら情報量が豊富であり、読みやすく、類書も見当たらないので大変価値の高い本である。

 

2021年3月20日土曜日

『三宅観瀾・新井白石(叢書・日本の思想家14)』新藤 英幸 著(その2)

【新井白石】
実を言うと、本書のうち新井白石の方は、読むつもりがなかった。しかしちょっと読み始めたら面白くてつい全部読んでしまった。

新井白石の祖父・父は、古武士のような面持ちがある人物で、剛毅な性格のため仕官と浪人を繰り返した。将来の白石の浮沈を予感させるようで、導入から引き込まれる。

白石が生まれた頃、父は上総国の久留里藩主・土屋利直に仕えていた。利直は自分の子供よりも、家臣の子である白石を殊の外かわいがったという。白石が、産まれながらに人並み外れて聡明であったためだろう。白石は特定の師を持たなかったが、独学で四書五経を読みとき、さらに全て暗誦したとされる。彼は天性聡明であった上に、貫徹させずにはおれない非常な努力家でもあり、利直の期待に応えて自らを鍛えていた。

しかし白石が19歳の時、利直が死去し、お家騒動が勃発。そのために白石は父の跡を継ぐことが出来ず土屋家を放逐され、浪人となって十数年間も貧困の極みを味わうのである。

その後、古河藩の堀田家に仕えたが藩主の死去に伴い再び浪人化。白石は私塾を開いて日を送っていた。こうした浮沈の日々を送る中で、白石は木下順庵の門人となった。この頃の儒家の正統は言うまでもなく林家であって、順庵は将軍家の侍講までつとめながらも儒家としては傍系である。白石は貧乏なため正式に月謝を払ったこともなかったが、才能が認められて別格の扱いだったという。

そして甲府藩から順庵に門人のリクルートが来たとき、その筆頭になったのが白石だった。こうして白石は甲府藩主・徳川綱豊の儒臣として仕えるようになった。綱豊は稀に見るほどの学問好きな藩主であり、白石は四書五経を継続的に進講した。例えばある年は『詩経』を162回、『大学』を3回、『論語』を7回といった調子である。『春秋』の講義などは、合計6年かかって157回行っている。綱豊が将軍になってからもこの講義は続き、19年の間、合計1299日間も白石が進講した。そして自然と、白石と綱豊にには強い信頼関係が生まれたのだった。

なお講義の合間に、白石は337家の歴史を記述した主著『藩幹譜』を著した。 

徳川綱吉が死去すると、綱豊が徳川家宣として将軍職を継いだ。こうして白石は一躍幕政に参与することになった。白石53歳の時であった。白石は、甲府藩時代からの家宣(綱豊)の重臣・間部詮房(あきふさ)と共に幕政を支えた。白石はただの政治顧問ではなく、長年に亘って家宣の侍講をつとめてきた間柄であったから、その意見は概ね受け入れられて文治主義が推進された。

家宣の治世は、悪貨の流通や「生類憐れみの令」といった綱吉の無理な政策の修正が課題であった。家宣は綱吉の遺訓であった「生類憐れみの令」を理由をつけて停止させ、そのために罰せられていた人々を総計8831人も恩赦した。徳川家始まって以来の大赦であった。こうした政策は、白石の考えがかなりの程度反映されていた。長崎での貿易の制限(海舶互市新例)も白石の建言によるものである。

しかし家宣は病弱で、将軍就任後たった3年余りで死去してしまった。幼い徳川家継が跡を継ぐと、白石と間部詮房が引き続き政権を支えたが、それは前時代からの惰性的な政権であったというべきで、強力な後ろ盾だった家宣亡き今、白石自身も自らの時代が終わったことを自覚していた。

そして家継も幼くして死去し、跡を継いだ徳川吉宗は白石を免職した。失脚した白石からは潮が引くように人が遠ざかり、旧友や門人も離れ去っていった。白石の晩年はまことに孤独で失意に満ちたものだった。木下順庵門下で最も白石と親しく、白石を尊敬していた室鳩巣(むろ・きゅうそう)も、吉宗に取り立てられてからはその交友が急激に冷たくなっていった。

こうした時期に、白石は自らの学問に回帰する。 『方策合編』『東音譜』『東雅』『南島志』『蝦夷志』『経邦典例』『経世典例』『孫武兵法択』『史疑』(日本古代史の精密な論析、失われた)など、青年時代からの研究が矢継ぎ早にまとめられたのである。

しかし白石は再び世に出ることはなかった。白石自身、最晩年には「今は、どうにかして何も知らない老人と見られたいと心がけております(p.199)」と知人に述べている。こうして白石は孤独に死んだ。

白石の激動の人生から目が離せない簡略な伝記。

 

2021年3月17日水曜日

『三宅観瀾・新井白石(叢書・日本の思想家14)』新藤 英幸 著(その1)

三宅観瀾と新井白石の伝記。

【三宅観瀾】
乃木希典は明治天皇に殉死する直前、東宮御所(皇太子)に赴いて自ら筆写したある本を献じた。それこそが三宅観瀾の主著『中興鑑言』である。では本書の内容、そしてそれを書いた三宅観瀾とは何者か。

三宅観瀾は、京都あるいは滋賀の下級侍(父の生業は医者であったとも学者であったとも言われるが明らかでない)の家に生まれた。しかし父は彼が14歳の時に他界し生活は困窮する。観瀾には歳が10ほど上の兄(三宅石庵)がいたが、この兄弟は生来頭が良く、近所の子どもたちに読み書きを教えながら、赤貧洗うが如き生活の中で勉学に励んだ。しかしどうしても生活が立ちゆかなくなり、家財道具を売って京都の街に出て行った。

京都でもちゃんとした職に就くことはできず、生活は楽にならなかったが、彼は山崎闇斎の学問を知り、20歳くらいの時に闇斎の弟子の浅見絅斎の門人となった。ただし入門した時に既に観瀾の学問はかなり完成していたから、絅斎は観瀾を同士として遇したのではないかという。また絅斎の下で学んだのは6年程度であるから、絅斎の学問をそっくり継承したというような門人ではなかった。

そんな観瀾は、窮乏に耐えかねて元禄11年に江戸にやってきた。そして江戸で急に風向きが好転しはじめる。わずか半年で水戸光圀の目に留まり、『大日本史』の編纂のために水戸藩に招かれたのである。この時、光圀72歳。観瀾は26歳であった。1年半後に光圀は死去するが、人生の残り時間が少ないことを自覚していた光圀は、『大日本史』の完成を焦り、俊英を捜していたのである。

観瀾は、やがて『大日本史』編纂の主筆(正確には彰考館総裁)となる。その主な功績の一つは、将軍伝、将軍家族伝、将軍家臣伝を立てたことである。『大日本史』は中国の史書に範を取っていたから、中国には存在しない「将軍」をどう扱うかは大きな問題だった。だが現実に日本の歴史には将軍が存在して大きな役割を果たしたのだから、それを項目立てるのは今から見ればごく自然なことで、功績でもなんでもないように見える。しかしこういう、現代的な常識というか、現実に立脚した素直な視点を持っていたのが観瀾の独自性であったといえる。

そして『大日本史』編集の過程において、観瀾は彰考館の先輩であり親友でもあった栗山潜鋒と三種の神器の扱いについて論争するが、これも一つの功績だろう。彼らの議論は、ほとんどの点で一致しており、水掛け論的ではなかったものの、遂に両者は見解を一致させることがなかった。その論争の要点は、天皇の正統と三種の神器の関係をどう考えるかだった。

南北朝期において、南朝と北朝のどちらを正統と見なすか。潜鋒は、あくまで神器の所在が正統性を示すと考えたのに対し、観瀾は、神器は正統性の象徴にすぎないから、君主の義(すなわち優れた治世)が正統性を保証すると考えた。極端にいえば、悪政を行った天皇は神器を持っていても放逐されてもしょうがないというのである。

一方、時代の趨勢は潜鋒の方にあって、世の人は神器を絶対視する学説を盛んに述べていたようである。しかしそうすると、神器が君主を選んでいるという話になり、結局は天皇の正統性の根源は神勅(天照大神から与えられた、日本を統べるべしという命令)にあるという神懸かり理論になっていく。そういう空想的な理論を廃し、神器を単なる象徴とだけ考えたところは観瀾の極めて現代的なところである。

こうした正統論は主著の『中興鑑言』でも詳細に展開されている。『中興鑑言』とは、後醍醐天皇の「建武の新政」の失敗を徹底的に批判したもので、要するに「建武の新政が失敗したのは、後醍醐天皇の失策と失徳が原因であった」という天皇批判の書である。

この中で特異なことは、土木(宮殿の造営などの節約)、聚斂(政権の維持には税金の徴集が絶対に必要になるので、政権担当者が清廉でなくてはならない。また貨幣論や資源の節約を述べる)といった経済政策を述べていることである。観瀾は、観念的・形式的な論理ではなく、現実の生活に立脚して経済面を強調したのである。

また、後醍醐天皇の失政を批判する中で、修身など帝王の学が強調され、「何よりも神器を持つ者が、衆心を掌握して帰服させるほどの徳をそなえた人物でなければならず、そうでないと、せっかくの神器も意味のない虚器にひとしくなってしまう(p.65)」と警告している。

つまり、乃木希典が後の大正天皇にこの書を献じたのは、人々の暮らしを第一に考える有徳な君主となってほしいというメッセージであったのだろう。

観瀾は38歳の頃、新井白石の推挙によって幕府に召し抱えられ、駿河台の屋敷に安住できるようになった。幕臣の儒者という安定した地位を得た観瀾は、次第に文人的になっていった。師の絅斎は現実との一切の妥協を許さず、困窮の中でも独立独歩を貫き通したのに比べ、いわば常識人であった観瀾は、悪く言えば「世渡り」がうまかったのである。それを示唆するのが、新井白石の失脚後、連座をおそれて白石との交友を意図的に消去したらしき痕跡があることである。

とはいえ、観瀾の儒者としての価値は、論理一徹ではない「常識派」のところにあった。だから、その議論は今から見ても十分に理解できるものだ。山本七平は、観瀾を「「神懸かり」化しない最後の人の一人」と述べたが、観瀾の筋が日本の儒学の主流になっていたら、明治国家の在り方も随分変わっていたかもしれない。

しかしながら本書を読むと、観瀾が今ではほとんど忘れ去られた理由も理解でき る。彼は、常識人であったために、論理の力によって新しい世界を創造するといった力はなく、絅斎のように己の道を絶対化することもなかったので、人々を鼓舞するような言論を生みだすこともなかったのである。

(つづく)

【関連書籍の読書メモ】
『現人神の創作者たち』山本 七平 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/03/blog-post.html
現代日本まで生きる「朱子教」の呪縛を解きほぐした力作。日本朱子学の流れにおける観瀾の位置づけは本書が参考になる。



2021年3月14日日曜日

『肉食妻帯考—日本仏教の発生』中村 生雄 著

日本仏教における肉食妻帯についての論考。

本書の主張は次の3点に集約できる。すなわち、(1)古代における日本仏教では肉食妻帯が禁じられたが、いずれも厳格には守られず、特に妻帯については常態化した。(2)親鸞と本願寺教団は妻帯を積極的に位置づけ、おそらくはそのためもあって近世に大きな発展を遂げた。それは日本仏教の特質を示しているものと考えられる。(3)明治政府が僧侶の肉食妻帯を自由化したことは、ほとんど議論なく仏教界に受け入れられた。

本書の著者は日蓮宗の寺に生まれた。しかしなぜか親鸞に心惹かれ、日本思想史・比較宗教学を専攻するようになってからも親鸞の思想を高く評価するようになる。よって本書においても、上の(2)の主張の分量が多く、浄土真宗が妻帯(というより家族原理)を基礎として発展したことを特に重視している。他宗派でも、特に明治以降は寺院が世襲されていくことは多かったのであるが、多くの場合、住職の奥さんは好ましいものと考えられず、梵妻・大黒などと隠語じみた名称で呼ばれ、檀家からは歓迎されていなかった。ところが浄土真宗の場合、住職の奥さんは「坊守(ぼうもり)」と呼ばれて、寺院経営の要とすら考えられた。

しかしながら、元来の仏教の教えから言えば、世俗の縁を切るからこその出家である。それが家族原理という最大の世俗の縁を温存してたものならば、もはやそれは出家とは呼べない。親鸞も、「非僧非俗」と自らを位置づけて妻帯に踏み切ったので、出家者として妻帯したのではない。浄土真宗の興隆を考える時、それが脱戒律化というか、世俗化した仏教であったことは確かに日本社会の特質を考える上で有効であるだろうが、著者の述べるようにそこを評価できるかというと、個人的には疑問だった。

なお(3)について、興味深かったのが、明治政府は僧に対し畜髪・妻帯を許可したのであるが、1年後に尼に対して同様の許可を行ったということ。しかし多くの僧がなし崩し的に畜髪・妻帯に踏み切った一方、尼の場合はほとんど畜髪や結婚は行わなかった。それは、男性の場合は畜髪・妻帯しても僧として引き続き認められたのに対し、女性の場合は畜髪・結婚すればもはやそれは尼として認められなかったからではないか、という。男女でこのような非対称性が生まれたのは興味深い。このあたりに、日本人の仏教受容のキーが潜んでいそうである。

本書は、僧侶の肉食妻帯の是非を論じるものではなく、なぜ日本仏教は肉食妻帯を受け入れたか、どのように受け入れたかを検証することで、日本仏教の特質を探ろうとするものである。しかしながら、本書はいわば論点整理というか序論で尽きているところがあり、日本仏教の特質を探ろうとはするものの、その作業は本格的にはなされないままに終わっている。

というのも、実は本書は著者の没後に刊行されたものである。著者は肉食妻帯を中心的なテーマとして「日本仏教の発生」というタイトルでの単著を準備していた。しかし2008年に急性白血病を発症し、2010年には逝去してしまった。本書は、これまで著者と数多くの仕事をしてきた三浦佑之らが、著者が書いた論文や発表をまとめたもので、2004年あたりまでの論文が多い。要するに、本書は「日本仏教の発生」を考察するための前段階の論文をまとめたもので、草稿段階のものといえる。

よって、その内容は率直に言って生煮えと言わざるを得ないものだ(重複も多い)。だが、それを責めるのは酷というものだろう。

 

2021年3月9日火曜日

『家族と女性(シリーズ 中世を考える)』峰岸 純夫 編

中世における家族の様相を女性の在り方を中心として述べる論文集。

日本の中世においては、今ほど女性は従属的な立場に置かれてはいなかった。女性は財産権を持ち、政治においても重要な役割を果たした。慈円が『愚管抄』で「女人入眼(にょにんじゅげん)ノ日本国」としたように、大事なことは女性が決めたのである。しかし同時に、中世期は徐々に家父長制が成立し、女性の立場が弱くなっていった時代であるともいえる。本書は、王権における女性から下人の女性まで、様々な階層の女性を眺めながら、中世期の家族の在り方の変化を述べる8つの論文を収録する。

1 王権の中の女性(野村育世):摂関期は、母系尊属(外戚)が力を持った時代だといえる。院政期になると、父系尊属(上皇(院))が力を持つようになる。摂関期から院政期への移行の画期となったのが陽明門院禎内親王。摂関期まではほとんどの皇女は不婚だったが院政期にかけて皇女は近親婚を重ねる。また不婚の皇女は王権の中で様々な役割を担っていた。その一つは斎王のような宗教的役割だが、院政期にはそれが「女院」に変化する。「女院」は若年の天皇の准母(名義上の母)になって、王領を相続した。八条女院領や長講堂領といった巨大荘園群を持った女性大富豪が誕生したのである。彼女らは政権の中枢の争いからは距離を置くことで、荘園の相続をはじめとした王権の基盤を支えた。では彼女らはただの財産相続人だったかというとそうでもなく、例えば亡き夫の財産処分権を「後家」が持ったように、この時代の女性は独自の意志決定権があり、権威があったからこそ相続人になれた。だが、一族のために不婚を強いられたという面も否定はできない。なお室町期になると不婚の皇女は比丘尼として寺に入るようになる(比丘尼御所)。

2 武家の家訓と女性(鈴木 国弘):鎌倉時代においては、御家人は本家・分家といった一族が単位になっていたのではなく、むしろ女性を媒介とする親族的イエ連合の性格が強かった。つまり舅−婿の関係も血縁と同じくらい強かったのである。そうした親族の在り方は自然と妻を夫と独立した存在にした。この時代には、妻は夫と別の下人を持ち、別に財産を持っているということが珍しくなかったのである。また嫡男がイエの外交面を受け継いだ一方で、「嫡女」はイエの祭祀や家政の面を守り、訴訟の主体ともなっていた。このように鎌倉期までの武家の女性は男性へ隷属していなかったが、鎌倉時代後期には徐々に家父長制が確立していき、室町期には女性をモノとして扱う風潮が出てくる。

3 村落と女性(蔵持 重裕):中世村落においては、女性経営の農地が存在した。本節では、女性農業経営の実態を離縁の実態や寺への土地の寄進から探っている。そこから読み取れることは複雑だが、中世において村落は一種の法人的な性格を持つようになり、女性経営を保護したとは言える。だが、女性経営は公事の負担が免除されているなど、男性経営と比べ一段劣ったものと扱われていたのも事実である。

4 下人の家族と女性(磯貝 富士男):本節では中世における下人の様相が詳しく述べられる。一口に下人といっても多様な形態があり、大きく分けて債務奴隷(質人下人)と永久奴隷(永代下人)がある。 さらに下人が子どもを産んだ場合、その子どもがどのように位置づけられるかの問題がある(質人下人の場合、家族全員が下人にされるケースは稀であるため)。基本的には、女の子は母に、男の子は父に引き取られたようだ。なお、女の下人(下女)は、主人が性的支配権を持ち、下女を妾とする場合も多く、また下女が別の男と結婚する場合は主人の許可が必要であった。さらに主人の従者が下人と結婚する場合(従者婿)は、従者婿は主人に対し労務を提供する義務があった。一方、男の下人については下女ほどの支配権が確認されない。やはり女性は、男性に比べ従属的な地位に置かれていたことは間違いないようである。

5 後家の力(飯沼 賢司):中世においては後家は遺産の処分権を有した。北条政子は北条家を惣領し、やがて父時政をも追放した。これは、後家の権威が父方の存在に由来するものではないことを示唆する。古代においては兄弟共同体を基本に家族が構成されていたが、10世紀の終わりから11世紀にかけて、夫婦を単位とする家族が前面に登場し「夫婦同財」の観念が確立していく。後家は地頭職の継承においても重要な役割を果たしており、嫡男に替わって後家が長年地頭を務めるケースがあった。しかし中世後期には、嫡男への単独相続が一般化していき、後家が介在しなくてもイエの継承が保障されるようになり、後家の力は失われていった。

6 村落の墓制と家族(勝田 至):本節では、家族の在り方や女性の様相についてはあまり語られず、中世の墓制の全体像が簡潔に説明される。それまでは葬儀は深夜に行われていたのに、中世後期には次第に日中に行われるようになったという記述が興味を引いた。なお墓石の建立や供養の面で、男女が異なった扱いをうけていたということは史料に見当たらないという。例えば高野山は女人禁制であったが、死後は女性の納骨も普通に受け入れられた。中世では、死後の扱いは男女平等だったようだ。

7 家族を構成しない女性(細川 涼一):本節では、単身女性、すなわち下女、尼、遊女・白拍子、非人の女性がどのようなものであったかが淡々と記述される。男と女の結びつきが自由であると同時に不安定だった妻問婚の時代(古代)が終わり、社会全体が夫婦を単位として動く時代(中世)になってくると、どんな身分の女性でも、単身である場合には特別に身の振り方を考えなくてはならなくなった。その最良の場合が尼寺であったと見なせる。特に律宗尼寺は、女性がイエに従属し埋没しない自律的個人として生きる拠り所であった。しかし尼寺にしても、結局は女性が個人として自己実現をはかる場ではありえなかった。

8 女性の発心・出家と家族(勝浦 令子):女性が出家する場合、男性といかなる差があったか。彼女たちは自由に出家することはできず、夫との性愛関係・子供養育・家政経営など婚姻生活における女性の役割からの引退が必要だった。よって、夫の死後や老年での出家が多かった。というよりむしろ、夫の死後に出家して夫の菩提を弔うことは妻の重要な役割とまで考えられていた。ただし、中世においては「嫉妬」が罪業と考えられていたから、夫の浮気によって嫉妬を感じた罪によって出家を行うことは、女性側からの離婚手続きとして消極的に認められていた。出家した女性は尼として世俗的な義務から解放され、また諸国への旅が可能となるなど様々な自由を手にした。

全体を通読してみて思うのは、中世は家族の在り方が大きく変わった時代であるということである。兄弟や妻方の親族を含むゆるやかで大きなイエ連合から、夫婦を核として嫡男への一子単独相続を基本とする核家族的なイエに変化した。 では、そうした変化はどうして起こったのか? 本書はそれについてはあまり述べていない。しかし理由はともかくとして、この時代に人々の「イエ観」が大きく変わったのは間違いない。それには「仏教的夫婦観」も影響していたのかもしれないと控えめに書いてあって興味を引かれた。

具体的なケースを多数引き、女性の在り方の記述を通じて中世の家族観の変化を浮かび上がらせる好著。

 【関連書籍の読書メモ】
『仏と女(シリーズ 中世を考える)』西口 順子 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/12/blog-post_21.html
仏教における女性のあり方を考える論文集。

 

2021年3月7日日曜日

『現人神の創作者たち』山本 七平 著

朱子学の日本的変容を述べる本。

『現人神の創作者たち』という書名からは、誰しも国家神道の創作者、すなわち明治時代から戦前に至るまでの政治家や内務官僚のことを予想するに違いない。あるいは、敬神思想を鼓吹した国学者たちのことを。しかし本書の内容は、江戸時代の朱子学者たちの著作を紐解くという、一見迂遠なものである。

なぜ朱子学が現人神に繋がるのか。それは、江戸幕府の正統性を示すために官学となった朱子学が、皮肉なことに革命思想ともいうべき尊皇思想を生みだし、さらには「政治的人格神」を必要とせしめたからである。朱子学には現人神の思想は全く内在していなかったのにも関わらず、不思議な因縁から狂信的な方向へ誘導する道標が打ち立てられていった。

しかし、戦後日本は朱子学(特に後述する浅見絅斎)を消し去った。それが言い過ぎなら少なくとも忘れ去った。であるから、戦後日本は、なぜ誤った道へ歩まざるを得なかったのか、自覚することができなくなった。もちろん、日本が破滅的な戦争へ突き進んだのは朱子学のせいだけではない。朱子学は表立って人々を狂気へと駆り立てはしなかった。だが朱子学は、表面的な煽動よりも、ずっと目立たないところで日本人に深い影響を与えた。朱子学は、人々が当然と見なす、ある種の「考え方の型」を形作ったのである。

であるから、日本人は朱子学を忘れたけれども、朱子学が打ち立てていった道標はそのまま残った。現代の日本でも、その道標は依然として社会に残っている。それは「消したがゆえに把握できなくなった伝統の呪縛(p.12)」である。朱子学を知ることは、我々を未だに束縛している不気味な伝統から自由になるために必要なのだ。

朱子学者たちが考え続けたのは、オーソドキシー(正統性)とレジティマシー(政治権力の正統性)の基準についてだった。それがいつのまにか個人の内面のあり方までも規定する道標となっていったのである。様々な朱子学者が、後の世から見れば跳び石にも見えるような形で、「現人神」への道筋を用意していた。

例えば、明からの亡命者である朱舜水(しゅ・しゅんすい)は楠木正成を再発見する。それまでの楠木正成は軍略の天才ではあっても尊王の士ではなかった。楠木正成を「尊王」の文脈から発見したのが中国人だったとは意外である。水戸光圀は朱舜水に心酔して、その思想は水戸の「大日本史」の編纂に影響を与えた。

山鹿素行(やまが・そこう)は『中朝事実』で「日本こそが真の中国である」と主張した。素行は、現在の中国は堕落しており、中国文明が途切れることなく息づいているのは日本の方だと誇大妄想的に考えた。いわば彼は「愛国者」で、日本の現実の体制を絶対視し賛美したのである。当然、こうした態度は幕府から歓迎された。そこに変革のイデオロギーは一切なかった。

そもそも朱子学には、変革よりも、現実の体制を承認する思想の方が濃厚だった。朱子学を生んだ朱熹は、中国文明(南宋)が外夷(元)に朝貢せねばならないという屈辱的な時代に生まれた。そこで朱熹は、実際の支配関係・権威よりも、理念上の正統のみによって現実を再構築するという性格の思想を発達させた。その思想は、幕府にとっては己の正統性を擁護する御用学問たりえたが、幕府は朱子学に基づく統治を行うことはせず(!)、その体制の原理を「個人倫理」として再編集し、個人の規範に組み込んでいくことが誘導された。

それを体現したのが山崎闇斎である。山崎闇斎は「内外一致」(自らの内なる義がそのまま外の秩序となる)といった朱子学的態度を徹底的に一貫させ、弟子たちを恐怖せしめるほどの厳しさで接した。その学問は「崎門学」と呼ばれ、彼は朱子学をいわば「朱子教」にまで進めたといえる。闇斎は晩年に神道に奔り「垂加神道」を創始するが、それ以前にも「崎門教教祖」と呼んでおかしくない存在だった。

一方、闇斎の弟子の佐藤直方(なおかた)は、闇斎とは違った徹底の仕方をした。直方は正統派の朱子学を純粋に推し進めた。それは醒めた合理主義であり、日本特殊論を越えた普遍主義であった。彼は学問には峻厳であったが、闇斎のような「師弟の礼」は言わず、自分自身が生涯学び続け、天とか神を形而上の存在と見なして相手にしなかった(そのために闇斎から破門された)。佐藤直方こそは、朱子学を貫き通すことによって近代合理主義に辿り着いた日本朱子学の到達点であった。しかしながら直方は後の世にはほとんど影響を与えなかった。

後世に甚大な影響を与えたのは、同じく闇斎の弟子の浅見絅斎(けいさい)である。絅斎の『靖献遺言(せいけんいげん)』は維新の志士たちのバイブルとなり、倒幕の原動力のひとつともなった。その内容は中国における政治的な「殉教者列伝」ともいうべきもので、政治権力の正統性に拘り抜いて死んだ8人が取り上げられる。

その8人とは、屈原、諸葛孔明、陶淵明、顔真卿、文天祥、謝枋得、劉因、方孝孺である。このうち屈原から文天祥までは、それまでの(そして現在の)日本でも受け入れやすい人物であるが、『靖献遺言』が独特だったのは、謝枋得、劉因、方孝孺というちょっと無名の人物を最大に称揚したことだ。本書でもこの部分は大変熱のこもった議論が展開されており、また他の本にはあまり出てこないところであるから以下やや詳しくメモする。

では彼らはどういった人物か。

方孝孺(ほう・こうじゅ)は明の永楽帝の正統性をあくまで認めなかった人物。彼は永楽帝から詔勅を書くよう丁重にお願いされたが、永楽帝を王権の簒奪者と見て絶対にそれに従わなかった。怒った永楽帝は彼を捉え、また親類全ての財産を没収する。それでも方孝孺は言うことを聞かない。そこで宗族は847人も坐死し、さらには母族妻族にまで戮せられ、また多くが流刑にされた。方孝孺は磔にされ、口の両側を耳までえぐられ7日間苦しんで死んだ。

こうした例は日本の歴史には見出しがたい。確かに永楽帝は強引に帝位を奪った面はあるが、それが方孝孺に何の関係があるというのか。詔勅の起草を拒もうとも、永楽帝はビクともしない。彼は、永楽帝の正統性を絶対に認めなかったために、無辜の一族もろとも無惨に殺された。その行動には前向きな結果をもたらす意義は全くないどころか、普通に考えれば破滅的に愚かな行為である。いわば彼は、帝位の正統性=「義」を守るという「個人倫理」に殉教し、しかも一族を巻き添えにしたとしか言えない。

だが絅斎は、この政治的殉教を賛美した。絅斎にとっては政治は統治の技術ではなく宗教だった。とはいえ、その殉教の対象は「神」ではない。「しかし絅斎のように考えていけば、そこにはどうしても、「政治的神」が必要になってくる(p.169)」。それは、『靖献遺言』の中では「天」とだけ表現されているが、それがやがてこの書をバイブルとした人々の中で天→(政治的人格神)→天皇と変換されていくのである。

また、『靖献遺言』全体の約半分も費やしているのが謝枋得(しゃ・ほうとく)編である。謝枋得は、宋の文武の官で、自らの正義を貫く硬骨漢であった。彼は元との戦いに敗れ、敗軍の将となる。しかし、彼は戦死も自殺もせず、家族をも棄てて敵前逃亡した。それはひとえに、彼の年老いた母を養うため(つまり「孝」のため)であった。

元の世になって優秀な宋の遺臣の推挙が行われ、彼はその第一位に選ばれるが、枋得はそれを固辞する。枋得にとって元はあくまでも王位を簒奪した夷狄であり、それに仕えることなど問題外だった。彼の使えた宋はもはや滅んでいるのにもかかわらず。そして彼は5日間食を断って自害する。宋の一小官吏に過ぎなかった彼は、ほとんど意地を張っているだけの独り相撲によってあっけない生涯を終えたのである。

枋得にとって重要だったのは、世俗の栄達ではなかったのももちろん、宋の繁栄ですらなかった。君である宋王朝が滅びようが、そんなことは彼には関係なかった。彼にとっては「孝」や「忠」、「義」といった個人倫理を貫き通すことが唯一の価値だった。「「君」の方がどうであろうと、「臣」である彼の方は、それと無関係に「義」に生きていたのである(p.182)」。

この態度を推し進めると、いくら君主の方がダメであっても、臣下たる個人は「義」によって自ら律し、組織論とは無関係に(=謝枋得は王朝が滅亡しても臣として振る舞っている!)、個人倫理として組織の歯車になるという行動原理が導かれる。まさにこれこそ、朱子学が江戸幕府の体制擁護の官学となりえた理由でもあった。江戸幕府の内実がどうであれ、あくまでも幕府に忠義を尽くさねばならないと演繹されるからである。

しかし浅見絅斎は、朱子学的な形式論を推し進めた結果、江戸幕府の正統性は、天子(天皇)から権力を付託されていることにしかないと考えた。とすれば、本当の「君」である天皇にのみ従い、「組織論とは無関係に」考えるなら、「簒臣」である幕府から政権を奪還することこそが「忠」であるということになる。これが、御用学問の朱子学が、皮肉にも倒幕の理論となっていった理由である。

そして「組織論とは無関係に、個人倫理として組織の歯車になる」という原理は、倒幕だけでなく、太平洋戦争の際の「無制限に自らを君主(天皇)と一体化する」態度に繋がっていく。また、二・二六事件を起こした青年将校たちも、あくまで天皇に忠であると本人たちは考えていた。組織論からいえば天皇に権限を与えられていた上官を斬殺しながら、それが「君側の姦」を除く忠義だと思っていた。

それは過去の話ではなく、この原理は今でも日本人の心に深く刻まれている。「まるで自身が為政者であるかのような体制擁護」「一労務者であるにもかかわらず、あたかも経営者のような視点で仕事を考えること」「無制限に会社に自己犠牲することが立派であると見なす考え」といった現代日本のいびつな常識は、まさに『靖献遺言』が打ち立てた道標の先にあったものなのである。少なくとも中世までの日本には、支配体制を絶対化してそれに信仰にも似た献身を献げるのが是であるという、「忠義」が異様に肥大化した思想はない。

そして絅斎が創出した新たな「個人倫理」は、それが「国民倫理」であることをも求めるものであった。

このように『靖献遺言』が残した遺産は極めて大きく、他国を夷狄と見なし日本を世界の盟主と見なす空想的概念(「鬼畜米英」、「大東亜共栄圏」)、外交的妥協を悪と見なす態度(平和を主張するものは非国民、「一億玉砕」)、首脳部の責任を追及せず失敗を国民の自発的行動の結果だと見なす曖昧な責任論(「一億総懺悔」)といったものは、『靖献遺言』にその淵源があるのである。

ただし、絅斎の思想が倒幕の原理となっていくためには、過去の日本の「歴史の過ち」(正統の錯誤)を指摘する作業が必要であった。江戸幕府が「歴史の過ちの結果生じた政府」であることを示すことで、朱子学は変革のイデオロギーとなりえたのである。そういう作業をしたのが、皮肉な上にも皮肉なことに、幕府の藩屏であるはずの水戸藩の『大日本史』編纂であった。

『大日本史』の名編集長であったのが安積澹泊(あさか・たんぱく)、著者兼編集者が栗山潜鋒(くりやま・せんぽう)、三宅観瀾(みやけ・かんらん)である。その基本方針は二転三転したが、それは中国の歴史には登場しない「天皇」の正統性を、中国の歴史論理で示そうとしたからだといえる。それに、彼らは浅見絅斎のように論理を徹底させることをしなかった。

朱舜水の直弟子であった安積澹泊は『大日本史』の論賛で天皇の政治責任を問うたが、同時に忠義の士も称揚した。彼は相対主義者であって、表向きには天皇を絶対だとしながらも、ある意味では日本的な曖昧さで「あちらも立ててこちらも立てる」式の歴史を述べた。これは、彼が水戸の彰考館の史館総裁であったという地位も影響していたのだろう。

一方、その部下の栗山潜鋒(闇斎の孫弟子にあたる)は一館員であったためより自由に論じることができた。彼の『保建大記』では、天皇家から武家への政権の移行は、天皇家の「失徳」によると論じた。彼は、鎌倉幕府の樹立の原因は後白河帝が君主としての規範を失って政治を混乱させたためにあると考えた。そして遠慮なくそれに批判を加えて衝撃を与えた。

その議論は、『孟子』のいう天命論を背景にしていた。天命を失った君は放伐されるのが当然だ(湯武放伐論)というのである。では天皇の正統性は何に由来するか。細かい議論は省略するが、彼は神器の保持を正統性の象徴と見なした。『孟子』の考え方からは失徳の君は追放されてしかるべきだが、政権を武家に委譲したとはいえ天皇家は依然として存続している。それを正当化するには儒教式論理では不可能で、そこには中国には存在しない「神器」を登場させるしかなかったのである。ただし彼は神器は政権の絶対保証ではなく、「徳」の方が絶対でそれに引きつられるのが神器だと考えていた。

浅見絅斎の弟子、三宅観瀾は、絅斎の弟子でありながら闇斎・絅斎の用意した徹底性の路線を継承しなかった人で、水戸の招聘に応じたことで絅斎から破門された。絅斎は天子のみを絶対化して、幕府に仕えることを潔しとしなかったのである。彼は闇斎・絅斎とは全く異なり、いわば現代人と同じような常識的な感覚を持ち、わずか36歳で世を去った親友の栗山潜鋒のような鋭さもなかった。いわば彼は「神懸かり」化しない最後の人の一人だった。

観瀾は『中興鑑言』で、後醍醐天皇に仮借なく筆誅を加えた。彼にとっては南朝は滅亡した王朝であり、南朝の後醍醐天皇をいくら批判しても現在の天皇家(北朝由来)に失礼なわけがないのである。そして彼の結論は「神器のある所が正統とは必ずしもいえないが、正統な者は必ず神器を持つ」と要約できる。そして何を持って正統とするかを、彼は君主の「義」に置いた。彼のいう「義」とは、個人倫理・政治倫理・統治能力のことである。観瀾の議論はまことに現代的であって、要するに優れた政治を行うことが統治の正統性の根拠であり、失政の君は退陣してしかるべきだというのである。

このように、栗山潜鋒と三宅観瀾は、朱子学を土台として天皇批判を行い、天皇の正統性を相対化する試みを行ったが、不思議なことにその議論はやがて「神器」の保持自体に焦点が移っていき南朝正統論が生まれることになる(!)。また「天皇の失徳によって政権が武家に移ったのだから、天皇の徳が回復したら政権は自動的に天皇の元に戻る」という大政奉還の思想が形作られる契機ともなったのである。

本書の中心的な議論はここまでで、この後に赤穂浪士をどう考えるかという応用問題が付録的に述べられる。佐藤直方は赤穂浪士を理路整然と徹底的に否定した(このために直方は人気がなくなり影響力を失った面がある。しかし現代の法理から見るとその理屈は最も正鵠を射ている)。一方、林羅山は浅野内匠頭を処罰した幕府の一員であるにも関わらず、処罰を不服として報復した赤穂浪士を称揚した。そして浅見絅斎は『四十六士論』において、組織論を無視して主君への忠義という個人倫理のみによって行動する人間が出てくることを暗に期待してすらいる。

世論は、法理よりも人情を重要なものと見なして、幕府もそれを歓迎してそのように誘導した。そして絅斎はその風潮を逆用し、人情を「義」に変換して「義」のために幕府も法も無視することを煽動していた。表向きには「殉忠」を叫びながら、「殉忠」によって体制を瓦解させる思想が胚胎しはじめていた。

まさに、絅斎が『靖献遺言』を刊行した元禄元年(1688)に明治維新への第一歩は始まったのである。

本書は、朱子学者の著作からの引用(漢文の書き下し文)が多く、しばしば数ページが引用の連続となる。一方で解説は少なく、やや読解力を要する。また率直に言って端正な論考とは言い難く、著者自身が書きながら考えているような節が見受けられる。いわば本書は「研究ノート」であって、広く一般向けに朱子学の解説を行ったものではなく、著者自身が自分の頭の整理のために書いたものだ(本書の「あとがき」にそのような記述がある)。

また、冷戦下の刊行当時の社会情勢に引きつけて解説するような部分が散見され、当時はこれでわかりやすかったと思うが、今では却ってピンと来ないものになっている箇所もある。

私自身、本書の読解にはちょっと苦労し、1日3ページずつ読むような読書によってなんとか咀嚼できた。このように本書は取っつきやすいものとはお世辞にも言えないが、近代日本の思想上に特異な地位を占める朱子学——とりわけ浅見絅斎の思想——を丁寧に繙いた本は貴重であり、江戸時代後期からの思想史においてスッポリと抜け落ちていたピースが埋まるような気がした。

現代日本まで生きる「朱子教」の呪縛を解きほぐした力作。 


【関連書籍の読書メモ】
『日本政治思想史[十七〜十九世紀]』渡辺 浩 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/05/blog-post_11.html(その1)
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/05/blog-post_14.html(その2)
江戸時代から明治維新に至るまでの、日本の政治思想の変遷を辿る本。朱子学が体制擁護の官学として出発しながら、それが尊王論を生みだし倒幕の理論となっていく全体的な見通しは本書の記述が優れている。