2021年3月17日水曜日

『三宅観瀾・新井白石(叢書・日本の思想家14)』新藤 英幸 著(その1)

三宅観瀾と新井白石の伝記。

【三宅観瀾】
乃木希典は明治天皇に殉死する直前、東宮御所(皇太子)に赴いて自ら筆写したある本を献じた。それこそが三宅観瀾の主著『中興鑑言』である。では本書の内容、そしてそれを書いた三宅観瀾とは何者か。

三宅観瀾は、京都あるいは滋賀の下級侍(父の生業は医者であったとも学者であったとも言われるが明らかでない)の家に生まれた。しかし父は彼が14歳の時に他界し生活は困窮する。観瀾には歳が10ほど上の兄(三宅石庵)がいたが、この兄弟は生来頭が良く、近所の子どもたちに読み書きを教えながら、赤貧洗うが如き生活の中で勉学に励んだ。しかしどうしても生活が立ちゆかなくなり、家財道具を売って京都の街に出て行った。

京都でもちゃんとした職に就くことはできず、生活は楽にならなかったが、彼は山崎闇斎の学問を知り、20歳くらいの時に闇斎の弟子の浅見絅斎の門人となった。ただし入門した時に既に観瀾の学問はかなり完成していたから、絅斎は観瀾を同士として遇したのではないかという。また絅斎の下で学んだのは6年程度であるから、絅斎の学問をそっくり継承したというような門人ではなかった。

そんな観瀾は、窮乏に耐えかねて元禄11年に江戸にやってきた。そして江戸で急に風向きが好転しはじめる。わずか半年で水戸光圀の目に留まり、『大日本史』の編纂のために水戸藩に招かれたのである。この時、光圀72歳。観瀾は26歳であった。1年半後に光圀は死去するが、人生の残り時間が少ないことを自覚していた光圀は、『大日本史』の完成を焦り、俊英を捜していたのである。

観瀾は、やがて『大日本史』編纂の主筆(正確には彰考館総裁)となる。その主な功績の一つは、将軍伝、将軍家族伝、将軍家臣伝を立てたことである。『大日本史』は中国の史書に範を取っていたから、中国には存在しない「将軍」をどう扱うかは大きな問題だった。だが現実に日本の歴史には将軍が存在して大きな役割を果たしたのだから、それを項目立てるのは今から見ればごく自然なことで、功績でもなんでもないように見える。しかしこういう、現代的な常識というか、現実に立脚した素直な視点を持っていたのが観瀾の独自性であったといえる。

そして『大日本史』編集の過程において、観瀾は彰考館の先輩であり親友でもあった栗山潜鋒と三種の神器の扱いについて論争するが、これも一つの功績だろう。彼らの議論は、ほとんどの点で一致しており、水掛け論的ではなかったものの、遂に両者は見解を一致させることがなかった。その論争の要点は、天皇の正統と三種の神器の関係をどう考えるかだった。

南北朝期において、南朝と北朝のどちらを正統と見なすか。潜鋒は、あくまで神器の所在が正統性を示すと考えたのに対し、観瀾は、神器は正統性の象徴にすぎないから、君主の義(すなわち優れた治世)が正統性を保証すると考えた。極端にいえば、悪政を行った天皇は神器を持っていても放逐されてもしょうがないというのである。

一方、時代の趨勢は潜鋒の方にあって、世の人は神器を絶対視する学説を盛んに述べていたようである。しかしそうすると、神器が君主を選んでいるという話になり、結局は天皇の正統性の根源は神勅(天照大神から与えられた、日本を統べるべしという命令)にあるという神懸かり理論になっていく。そういう空想的な理論を廃し、神器を単なる象徴とだけ考えたところは観瀾の極めて現代的なところである。

こうした正統論は主著の『中興鑑言』でも詳細に展開されている。『中興鑑言』とは、後醍醐天皇の「建武の新政」の失敗を徹底的に批判したもので、要するに「建武の新政が失敗したのは、後醍醐天皇の失策と失徳が原因であった」という天皇批判の書である。

この中で特異なことは、土木(宮殿の造営などの節約)、聚斂(政権の維持には税金の徴集が絶対に必要になるので、政権担当者が清廉でなくてはならない。また貨幣論や資源の節約を述べる)といった経済政策を述べていることである。観瀾は、観念的・形式的な論理ではなく、現実の生活に立脚して経済面を強調したのである。

また、後醍醐天皇の失政を批判する中で、修身など帝王の学が強調され、「何よりも神器を持つ者が、衆心を掌握して帰服させるほどの徳をそなえた人物でなければならず、そうでないと、せっかくの神器も意味のない虚器にひとしくなってしまう(p.65)」と警告している。

つまり、乃木希典が後の大正天皇にこの書を献じたのは、人々の暮らしを第一に考える有徳な君主となってほしいというメッセージであったのだろう。

観瀾は38歳の頃、新井白石の推挙によって幕府に召し抱えられ、駿河台の屋敷に安住できるようになった。幕臣の儒者という安定した地位を得た観瀾は、次第に文人的になっていった。師の絅斎は現実との一切の妥協を許さず、困窮の中でも独立独歩を貫き通したのに比べ、いわば常識人であった観瀾は、悪く言えば「世渡り」がうまかったのである。それを示唆するのが、新井白石の失脚後、連座をおそれて白石との交友を意図的に消去したらしき痕跡があることである。

とはいえ、観瀾の儒者としての価値は、論理一徹ではない「常識派」のところにあった。だから、その議論は今から見ても十分に理解できるものだ。山本七平は、観瀾を「「神懸かり」化しない最後の人の一人」と述べたが、観瀾の筋が日本の儒学の主流になっていたら、明治国家の在り方も随分変わっていたかもしれない。

しかしながら本書を読むと、観瀾が今ではほとんど忘れ去られた理由も理解でき る。彼は、常識人であったために、論理の力によって新しい世界を創造するといった力はなく、絅斎のように己の道を絶対化することもなかったので、人々を鼓舞するような言論を生みだすこともなかったのである。

(つづく)

【関連書籍の読書メモ】
『現人神の創作者たち』山本 七平 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/03/blog-post.html
現代日本まで生きる「朱子教」の呪縛を解きほぐした力作。日本朱子学の流れにおける観瀾の位置づけは本書が参考になる。



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