2021年3月7日日曜日

『現人神の創作者たち』山本 七平 著

朱子学の日本的変容を述べる本。

『現人神の創作者たち』という書名からは、誰しも国家神道の創作者、すなわち明治時代から戦前に至るまでの政治家や内務官僚のことを予想するに違いない。あるいは、敬神思想を鼓吹した国学者たちのことを。しかし本書の内容は、江戸時代の朱子学者たちの著作を紐解くという、一見迂遠なものである。

なぜ朱子学が現人神に繋がるのか。それは、江戸幕府の正統性を示すために官学となった朱子学が、皮肉なことに革命思想ともいうべき尊皇思想を生みだし、さらには「政治的人格神」を必要とせしめたからである。朱子学には現人神の思想は全く内在していなかったのにも関わらず、不思議な因縁から狂信的な方向へ誘導する道標が打ち立てられていった。

しかし、戦後日本は朱子学(特に後述する浅見絅斎)を消し去った。それが言い過ぎなら少なくとも忘れ去った。であるから、戦後日本は、なぜ誤った道へ歩まざるを得なかったのか、自覚することができなくなった。もちろん、日本が破滅的な戦争へ突き進んだのは朱子学のせいだけではない。朱子学は表立って人々を狂気へと駆り立てはしなかった。だが朱子学は、表面的な煽動よりも、ずっと目立たないところで日本人に深い影響を与えた。朱子学は、人々が当然と見なす、ある種の「考え方の型」を形作ったのである。

であるから、日本人は朱子学を忘れたけれども、朱子学が打ち立てていった道標はそのまま残った。現代の日本でも、その道標は依然として社会に残っている。それは「消したがゆえに把握できなくなった伝統の呪縛(p.12)」である。朱子学を知ることは、我々を未だに束縛している不気味な伝統から自由になるために必要なのだ。

朱子学者たちが考え続けたのは、オーソドキシー(正統性)とレジティマシー(政治権力の正統性)の基準についてだった。それがいつのまにか個人の内面のあり方までも規定する道標となっていったのである。様々な朱子学者が、後の世から見れば跳び石にも見えるような形で、「現人神」への道筋を用意していた。

例えば、明からの亡命者である朱舜水(しゅ・しゅんすい)は楠木正成を再発見する。それまでの楠木正成は軍略の天才ではあっても尊王の士ではなかった。楠木正成を「尊王」の文脈から発見したのが中国人だったとは意外である。水戸光圀は朱舜水に心酔して、その思想は水戸の「大日本史」の編纂に影響を与えた。

山鹿素行(やまが・そこう)は『中朝事実』で「日本こそが真の中国である」と主張した。素行は、現在の中国は堕落しており、中国文明が途切れることなく息づいているのは日本の方だと誇大妄想的に考えた。いわば彼は「愛国者」で、日本の現実の体制を絶対視し賛美したのである。当然、こうした態度は幕府から歓迎された。そこに変革のイデオロギーは一切なかった。

そもそも朱子学には、変革よりも、現実の体制を承認する思想の方が濃厚だった。朱子学を生んだ朱熹は、中国文明(南宋)が外夷(元)に朝貢せねばならないという屈辱的な時代に生まれた。そこで朱熹は、実際の支配関係・権威よりも、理念上の正統のみによって現実を再構築するという性格の思想を発達させた。その思想は、幕府にとっては己の正統性を擁護する御用学問たりえたが、幕府は朱子学に基づく統治を行うことはせず(!)、その体制の原理を「個人倫理」として再編集し、個人の規範に組み込んでいくことが誘導された。

それを体現したのが山崎闇斎である。山崎闇斎は「内外一致」(自らの内なる義がそのまま外の秩序となる)といった朱子学的態度を徹底的に一貫させ、弟子たちを恐怖せしめるほどの厳しさで接した。その学問は「崎門学」と呼ばれ、彼は朱子学をいわば「朱子教」にまで進めたといえる。闇斎は晩年に神道に奔り「垂加神道」を創始するが、それ以前にも「崎門教教祖」と呼んでおかしくない存在だった。

一方、闇斎の弟子の佐藤直方(なおかた)は、闇斎とは違った徹底の仕方をした。直方は正統派の朱子学を純粋に推し進めた。それは醒めた合理主義であり、日本特殊論を越えた普遍主義であった。彼は学問には峻厳であったが、闇斎のような「師弟の礼」は言わず、自分自身が生涯学び続け、天とか神を形而上の存在と見なして相手にしなかった(そのために闇斎から破門された)。佐藤直方こそは、朱子学を貫き通すことによって近代合理主義に辿り着いた日本朱子学の到達点であった。しかしながら直方は後の世にはほとんど影響を与えなかった。

後世に甚大な影響を与えたのは、同じく闇斎の弟子の浅見絅斎(けいさい)である。絅斎の『靖献遺言(せいけんいげん)』は維新の志士たちのバイブルとなり、倒幕の原動力のひとつともなった。その内容は中国における政治的な「殉教者列伝」ともいうべきもので、政治権力の正統性に拘り抜いて死んだ8人が取り上げられる。

その8人とは、屈原、諸葛孔明、陶淵明、顔真卿、文天祥、謝枋得、劉因、方孝孺である。このうち屈原から文天祥までは、それまでの(そして現在の)日本でも受け入れやすい人物であるが、『靖献遺言』が独特だったのは、謝枋得、劉因、方孝孺というちょっと無名の人物を最大に称揚したことだ。本書でもこの部分は大変熱のこもった議論が展開されており、また他の本にはあまり出てこないところであるから以下やや詳しくメモする。

では彼らはどういった人物か。

方孝孺(ほう・こうじゅ)は明の永楽帝の正統性をあくまで認めなかった人物。彼は永楽帝から詔勅を書くよう丁重にお願いされたが、永楽帝を王権の簒奪者と見て絶対にそれに従わなかった。怒った永楽帝は彼を捉え、また親類全ての財産を没収する。それでも方孝孺は言うことを聞かない。そこで宗族は847人も坐死し、さらには母族妻族にまで戮せられ、また多くが流刑にされた。方孝孺は磔にされ、口の両側を耳までえぐられ7日間苦しんで死んだ。

こうした例は日本の歴史には見出しがたい。確かに永楽帝は強引に帝位を奪った面はあるが、それが方孝孺に何の関係があるというのか。詔勅の起草を拒もうとも、永楽帝はビクともしない。彼は、永楽帝の正統性を絶対に認めなかったために、無辜の一族もろとも無惨に殺された。その行動には前向きな結果をもたらす意義は全くないどころか、普通に考えれば破滅的に愚かな行為である。いわば彼は、帝位の正統性=「義」を守るという「個人倫理」に殉教し、しかも一族を巻き添えにしたとしか言えない。

だが絅斎は、この政治的殉教を賛美した。絅斎にとっては政治は統治の技術ではなく宗教だった。とはいえ、その殉教の対象は「神」ではない。「しかし絅斎のように考えていけば、そこにはどうしても、「政治的神」が必要になってくる(p.169)」。それは、『靖献遺言』の中では「天」とだけ表現されているが、それがやがてこの書をバイブルとした人々の中で天→(政治的人格神)→天皇と変換されていくのである。

また、『靖献遺言』全体の約半分も費やしているのが謝枋得(しゃ・ほうとく)編である。謝枋得は、宋の文武の官で、自らの正義を貫く硬骨漢であった。彼は元との戦いに敗れ、敗軍の将となる。しかし、彼は戦死も自殺もせず、家族をも棄てて敵前逃亡した。それはひとえに、彼の年老いた母を養うため(つまり「孝」のため)であった。

元の世になって優秀な宋の遺臣の推挙が行われ、彼はその第一位に選ばれるが、枋得はそれを固辞する。枋得にとって元はあくまでも王位を簒奪した夷狄であり、それに仕えることなど問題外だった。彼の使えた宋はもはや滅んでいるのにもかかわらず。そして彼は5日間食を断って自害する。宋の一小官吏に過ぎなかった彼は、ほとんど意地を張っているだけの独り相撲によってあっけない生涯を終えたのである。

枋得にとって重要だったのは、世俗の栄達ではなかったのももちろん、宋の繁栄ですらなかった。君である宋王朝が滅びようが、そんなことは彼には関係なかった。彼にとっては「孝」や「忠」、「義」といった個人倫理を貫き通すことが唯一の価値だった。「「君」の方がどうであろうと、「臣」である彼の方は、それと無関係に「義」に生きていたのである(p.182)」。

この態度を推し進めると、いくら君主の方がダメであっても、臣下たる個人は「義」によって自ら律し、組織論とは無関係に(=謝枋得は王朝が滅亡しても臣として振る舞っている!)、個人倫理として組織の歯車になるという行動原理が導かれる。まさにこれこそ、朱子学が江戸幕府の体制擁護の官学となりえた理由でもあった。江戸幕府の内実がどうであれ、あくまでも幕府に忠義を尽くさねばならないと演繹されるからである。

しかし浅見絅斎は、朱子学的な形式論を推し進めた結果、江戸幕府の正統性は、天子(天皇)から権力を付託されていることにしかないと考えた。とすれば、本当の「君」である天皇にのみ従い、「組織論とは無関係に」考えるなら、「簒臣」である幕府から政権を奪還することこそが「忠」であるということになる。これが、御用学問の朱子学が、皮肉にも倒幕の理論となっていった理由である。

そして「組織論とは無関係に、個人倫理として組織の歯車になる」という原理は、倒幕だけでなく、太平洋戦争の際の「無制限に自らを君主(天皇)と一体化する」態度に繋がっていく。また、二・二六事件を起こした青年将校たちも、あくまで天皇に忠であると本人たちは考えていた。組織論からいえば天皇に権限を与えられていた上官を斬殺しながら、それが「君側の姦」を除く忠義だと思っていた。

それは過去の話ではなく、この原理は今でも日本人の心に深く刻まれている。「まるで自身が為政者であるかのような体制擁護」「一労務者であるにもかかわらず、あたかも経営者のような視点で仕事を考えること」「無制限に会社に自己犠牲することが立派であると見なす考え」といった現代日本のいびつな常識は、まさに『靖献遺言』が打ち立てた道標の先にあったものなのである。少なくとも中世までの日本には、支配体制を絶対化してそれに信仰にも似た献身を献げるのが是であるという、「忠義」が異様に肥大化した思想はない。

そして絅斎が創出した新たな「個人倫理」は、それが「国民倫理」であることをも求めるものであった。

このように『靖献遺言』が残した遺産は極めて大きく、他国を夷狄と見なし日本を世界の盟主と見なす空想的概念(「鬼畜米英」、「大東亜共栄圏」)、外交的妥協を悪と見なす態度(平和を主張するものは非国民、「一億玉砕」)、首脳部の責任を追及せず失敗を国民の自発的行動の結果だと見なす曖昧な責任論(「一億総懺悔」)といったものは、『靖献遺言』にその淵源があるのである。

ただし、絅斎の思想が倒幕の原理となっていくためには、過去の日本の「歴史の過ち」(正統の錯誤)を指摘する作業が必要であった。江戸幕府が「歴史の過ちの結果生じた政府」であることを示すことで、朱子学は変革のイデオロギーとなりえたのである。そういう作業をしたのが、皮肉な上にも皮肉なことに、幕府の藩屏であるはずの水戸藩の『大日本史』編纂であった。

『大日本史』の名編集長であったのが安積澹泊(あさか・たんぱく)、著者兼編集者が栗山潜鋒(くりやま・せんぽう)、三宅観瀾(みやけ・かんらん)である。その基本方針は二転三転したが、それは中国の歴史には登場しない「天皇」の正統性を、中国の歴史論理で示そうとしたからだといえる。それに、彼らは浅見絅斎のように論理を徹底させることをしなかった。

朱舜水の直弟子であった安積澹泊は『大日本史』の論賛で天皇の政治責任を問うたが、同時に忠義の士も称揚した。彼は相対主義者であって、表向きには天皇を絶対だとしながらも、ある意味では日本的な曖昧さで「あちらも立ててこちらも立てる」式の歴史を述べた。これは、彼が水戸の彰考館の史館総裁であったという地位も影響していたのだろう。

一方、その部下の栗山潜鋒(闇斎の孫弟子にあたる)は一館員であったためより自由に論じることができた。彼の『保建大記』では、天皇家から武家への政権の移行は、天皇家の「失徳」によると論じた。彼は、鎌倉幕府の樹立の原因は後白河帝が君主としての規範を失って政治を混乱させたためにあると考えた。そして遠慮なくそれに批判を加えて衝撃を与えた。

その議論は、『孟子』のいう天命論を背景にしていた。天命を失った君は放伐されるのが当然だ(湯武放伐論)というのである。では天皇の正統性は何に由来するか。細かい議論は省略するが、彼は神器の保持を正統性の象徴と見なした。『孟子』の考え方からは失徳の君は追放されてしかるべきだが、政権を武家に委譲したとはいえ天皇家は依然として存続している。それを正当化するには儒教式論理では不可能で、そこには中国には存在しない「神器」を登場させるしかなかったのである。ただし彼は神器は政権の絶対保証ではなく、「徳」の方が絶対でそれに引きつられるのが神器だと考えていた。

浅見絅斎の弟子、三宅観瀾は、絅斎の弟子でありながら闇斎・絅斎の用意した徹底性の路線を継承しなかった人で、水戸の招聘に応じたことで絅斎から破門された。絅斎は天子のみを絶対化して、幕府に仕えることを潔しとしなかったのである。彼は闇斎・絅斎とは全く異なり、いわば現代人と同じような常識的な感覚を持ち、わずか36歳で世を去った親友の栗山潜鋒のような鋭さもなかった。いわば彼は「神懸かり」化しない最後の人の一人だった。

観瀾は『中興鑑言』で、後醍醐天皇に仮借なく筆誅を加えた。彼にとっては南朝は滅亡した王朝であり、南朝の後醍醐天皇をいくら批判しても現在の天皇家(北朝由来)に失礼なわけがないのである。そして彼の結論は「神器のある所が正統とは必ずしもいえないが、正統な者は必ず神器を持つ」と要約できる。そして何を持って正統とするかを、彼は君主の「義」に置いた。彼のいう「義」とは、個人倫理・政治倫理・統治能力のことである。観瀾の議論はまことに現代的であって、要するに優れた政治を行うことが統治の正統性の根拠であり、失政の君は退陣してしかるべきだというのである。

このように、栗山潜鋒と三宅観瀾は、朱子学を土台として天皇批判を行い、天皇の正統性を相対化する試みを行ったが、不思議なことにその議論はやがて「神器」の保持自体に焦点が移っていき南朝正統論が生まれることになる(!)。また「天皇の失徳によって政権が武家に移ったのだから、天皇の徳が回復したら政権は自動的に天皇の元に戻る」という大政奉還の思想が形作られる契機ともなったのである。

本書の中心的な議論はここまでで、この後に赤穂浪士をどう考えるかという応用問題が付録的に述べられる。佐藤直方は赤穂浪士を理路整然と徹底的に否定した(このために直方は人気がなくなり影響力を失った面がある。しかし現代の法理から見るとその理屈は最も正鵠を射ている)。一方、林羅山は浅野内匠頭を処罰した幕府の一員であるにも関わらず、処罰を不服として報復した赤穂浪士を称揚した。そして浅見絅斎は『四十六士論』において、組織論を無視して主君への忠義という個人倫理のみによって行動する人間が出てくることを暗に期待してすらいる。

世論は、法理よりも人情を重要なものと見なして、幕府もそれを歓迎してそのように誘導した。そして絅斎はその風潮を逆用し、人情を「義」に変換して「義」のために幕府も法も無視することを煽動していた。表向きには「殉忠」を叫びながら、「殉忠」によって体制を瓦解させる思想が胚胎しはじめていた。

まさに、絅斎が『靖献遺言』を刊行した元禄元年(1688)に明治維新への第一歩は始まったのである。

本書は、朱子学者の著作からの引用(漢文の書き下し文)が多く、しばしば数ページが引用の連続となる。一方で解説は少なく、やや読解力を要する。また率直に言って端正な論考とは言い難く、著者自身が書きながら考えているような節が見受けられる。いわば本書は「研究ノート」であって、広く一般向けに朱子学の解説を行ったものではなく、著者自身が自分の頭の整理のために書いたものだ(本書の「あとがき」にそのような記述がある)。

また、冷戦下の刊行当時の社会情勢に引きつけて解説するような部分が散見され、当時はこれでわかりやすかったと思うが、今では却ってピンと来ないものになっている箇所もある。

私自身、本書の読解にはちょっと苦労し、1日3ページずつ読むような読書によってなんとか咀嚼できた。このように本書は取っつきやすいものとはお世辞にも言えないが、近代日本の思想上に特異な地位を占める朱子学——とりわけ浅見絅斎の思想——を丁寧に繙いた本は貴重であり、江戸時代後期からの思想史においてスッポリと抜け落ちていたピースが埋まるような気がした。

現代日本まで生きる「朱子教」の呪縛を解きほぐした力作。 


【関連書籍の読書メモ】
『日本政治思想史[十七〜十九世紀]』渡辺 浩 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/05/blog-post_11.html(その1)
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/05/blog-post_14.html(その2)
江戸時代から明治維新に至るまでの、日本の政治思想の変遷を辿る本。朱子学が体制擁護の官学として出発しながら、それが尊王論を生みだし倒幕の理論となっていく全体的な見通しは本書の記述が優れている。

 

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