2017年5月11日木曜日

『日本政治思想史[十七〜十九世紀]』渡辺 浩 著(その1)

江戸時代から明治維新に至るまでの、日本の政治思想の変遷を辿る本。

明治維新は、日本の社会にとって急展開の変革だった。にも関わらず、盤石に見えた江戸幕府は速やかに雲散霧消し、さほどの抵抗もなく人々は新様式の社会に順応していった。なぜならば、明治維新の背景となる思想的な準備が江戸時代になされていたからだ、というのが著者の考えだ。

このように、本書は「徳川の治世の元で(中略)政治・社会の在り方を根底から変革させ、新体制を生み出させるような何かが、知的にも、すでに起きていた(p.4)」という認識の下、17〜19世紀における儒学を中心とした知的な変遷を辿るものである。

徳川幕府の成立当初においては、統治の大義名分を示すという意味での政治思想にはさほどの意味がなかった。戦国の覇者が今のところ徳川である、というだけで、いつまた戦乱の世に戻るとも知れなかったし、武士たちはいつでも臨戦態勢を取れるよう準備していた。ただ戦国の覇者としての「御威光」があれば、人々はそれにひれ伏していたのである。

しかし、いつまでも戦乱の世はやってこなかった。こうなると、武士は支配階級としての存在意義がなくなってくる。戦は起こらないのに、見せかけの武力だけで「御威光」の一端を担っていた。そのために、「武士道」はほとんど「武士らしさ」を偽装する演技になってしまった。

そんな偽装をしても、太平の世の中でいつまでも武断政権が続くわけがない。「武」はもはや不要の世界になっていた。「武」による統治から、「文」による統治、文治主義へ移行して行かざるを得ないのである。

そこで徐々に勃興してくるのが、儒学である。当初、幕府は儒学を統治原理としては採用しなかったから、江戸初期において儒学は「遊芸」の一つにすぎなかった。思想集団としても、例えば寺院が全国に組織化されていたのに比べれば、日本全体でほんの数十人しかいない少数勢力だった。だが、それが遊芸であるがために、かえって本気になる人も出てくる。俳諧や茶の湯が遊芸として発展していったごとく、儒学も遊芸として普及していくのである。

この頃の儒学といえば、ほとんど「朱子学」と同義である。朱子学は、孔孟の教えを基盤にして、森羅万象をも説明する緻密な理論を打ち立てていた。(本書には詳しく書かれないが)朱子学を奉じる林羅山は徳川家康に厚遇され、そのブレーンの一人となった。林羅山は朱子学の官学化に寄与し、朱子学はやがて「正学」とされて特別扱いされてゆく(寛政異学の禁)。

しかし、江戸幕府(本書の用語では「公儀」)の支配原理が儒学でない以上、儒学が広がることは実は危険だった。というのも、儒学によれば支配者は「天命」を受けた「聖人」であり、「聖人」は最高の「徳」の体現者でなくてならない。だが江戸幕府は徳によって支配しているのではなく、武力によって支配しているのが歴史的事実なのだ。そもそも、儒学というものは統治の学である。これを学んだものが科挙によって抜擢され、統治機構に組み込まれていくという仕組みがないのに、遊芸として統治の学が学ばれるということ自体が一つの倒錯であった。

よって、儒者たちは、自らの理想とする理知的な社会と、無知な武人が支配する現実の落差を感じ、現実を変革しようとするにせよ、あるいは理論を修正するにせよ、なんらかのつじつまを合わさなくてはならなかった。

山崎闇斎の門人で、正統な朱子学者だと自認していた浅見絅斎(けいさい)は、そういう矛盾の中で、一種の尊王論にまで至った。彼は現状の君臣関係を絶対化し、それを儒者らしく「道」だとしたが、これを突き詰めると徳川すら天皇の臣ということになり、将軍は「天子の御名代(代理人)」として統治しているに過ぎないということになってくる。現状の秩序をあくまでも肯定する立場から、武家の支配それ自体の正統性に疑問を投げかけるという逆説的な事態が生じたのである。徳川体制ができて約100年、儒学がようやく地位を得てきた頃のことであった。

元来、儒学は「革命」を肯定する。ひとたび「天命」が下ってもそれは絶対ではない。「天子」が本来の統治を忘れ、権力におごり享楽に耽れば、天変地異などにより「天」はその意志を変えたことを示し、新たな「天命」を下して権力者をすげ替える(放伐・革命)のである。儒学は、世がうまく治まっていれば現状肯定の思想であるが、世が乱れれば革命の思想となるのである。

そんな儒学であったから、儒者は必ずしも政権に重用されなかった。だがその例外が、6代将軍家宣に使えた新井白石である。新井は、家宣が将軍になる前からの学問の相談相手だったことにより、旗本として取り立てられ官位をも与えられて統治全般にわたって大きな影響力を持った。新井白石は将軍のブレーンとして朱子学に基づいて政策を立案し、しかもそれがかなり実行に移された。

彼は、日本を「儒教」によって統治する国に作りかえようとした。例えば、武家諸法度を初めて全面改正し、万民を道徳的たらしめる訓示へと変質させた。さらに、儒教としては重要な「礼」制定の努力もなされた。即位と元服、孔子廟礼拝、服喪の規定、外交儀礼の改正といったものだ。彼は中国的な「儒教」を日本に適用しようとしたのである。そういう新井白石だったから、天皇の権威は認めていたが、『日本書紀』に描かれるような神の子孫としての神聖性は否定していた。

しかし新井白石の改革は、8代将軍吉宗によって否定されることになる。武家諸法度は元に戻され、儒教に基づく礼楽は取りやめになった。日本を儒教によって治める国にしようとした朱子学者による改革は、挫折によって終わった。

新井白石とほぼ同時代を生きた荻生徂徠(おぎゅう・そらい)は、こうした朱子学の挫折を目の当たりにして、朱子学を批判して独自の儒学思想(いわゆる「徂徠学」)を作り出した。

徂徠は、儒学の根本に帰ろうとした。一種の復古主義である。孔孟の教えを素直に解釈し、夾雑物のない儒学を樹立した。しかも醒めた現実主義と悲観主義によってそれを現実の社会に適用しようとした。いくら普遍的な「道(真理)」の実践であるといっても、「天子」の「徳」によって人民が感化されて世の中が治まる、といった話は徂徠にとっては呑気すぎるのであった。「天子」たる統治者は、社会制度を巧妙に設計して人民を治めなくてはならない、というのが徂徠の基本姿勢だ。

徂徠にとって、徳川の治世は末期的な状況だった。様々な改革を行い、根本から立て直す必要があった。彼は吉宗にも政策提言を行っているがその内容は過激である。現状の秩序を維持するため、家ごとに株を定めて移動を禁じ、身分毎に生活の様式と水準を固定、さらに貨幣をも廃止し、武士は城下町集住をやめて知行地に住まわせるようにさせ、都市化による商品経済化を停止させる。また徂徠は、宗教を「愚民」への統治の道具として使うことを構想した。このように徂徠の思想は、徹底して反進歩・反成長・反都市化・反市場経済であり、上下の差別を固定化し、統治は反民主主義的に行い、個人の生活については反自由・反平等であった。徂徠は、本来は古に復るという保守思想から出発したはずが、反近代のラディカルな改革案に至ったのである。

だが、当然ながらこのような提言が受け入れられるはずもない。徂徠は、幕府がこの提言を受け入れないとしたら、きっと再び乱世に陥ってしまうだろうと予言して死んだ。「聖人」による統治でない限り、天がそれを許すはずがない、世が乱れるはずだ、というのが儒学の教えなのだ。しかしやはり太平の世は続いた。徂徠学を学んできたものたちは、彼らが批判するやり方で統治してなぜ太平の世の中が続くのか、という難問に突き当たることになった。それを解かない限り、徂徠学は間違いだったということになる。

徂徠が復ろうとした儒教そのものは間違っていなかったが、それは結局カラ(中華)の人を治める道具だったのだ、というのがその解答の一つとなった。日本人は元来優れているから「聖人の道」なしに治まるのだ、というのである。制度が儒教に基づいていないのに、太平の世が続いている鍵は「人」だとされた。こうして、徂徠学の存在意義は否定され、むしろ中国に対する日本優位論さえわき起こった。その後の国学の台頭は、徂徠学の崩壊の結果という一面もあるのである。

新井白石にせよ、荻生徂徠にせよ、理念的には保守思想から出発して、現状の権威や秩序をあくまでも肯定し保存しようとする中から、理想と現実のギャップを埋めるために社会を根本から作りかえようとする改革志向の儒学が生じたと言える。しかしその改革は、現実の社会に立脚して課題を解決していこうとするものではなく、あくまでも理念上の問題から構想されたものであった。

(つづく)

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