2017年5月26日金曜日

『あなたの体は9割が細菌:微生物の生態系が崩れはじめた』アランナ・コリン 著、矢野 真千子 訳

腸内微生物がいかに人間の心身の健康に影響しているかを述べた本。

我々の体内には100兆個もの微生物が棲んでいて、それらは単に消化を助けるといったことに留まらない多様な役割を担っていることが分かってきた。「人間」を理解するためには人間そのものだけを研究してもだめで、細胞の個数としては90%を占めるこれらの微生物群(マイクロバイオータ)をも理解しなければならない。

かつては、マイクロバイオータは文字通りブラックボックスであった。人間の腸内に棲息する微生物は多くが嫌気性で酸素に触れると死んでしまうので人工的な環境で培養が難しい。だからどんな微生物がいるのかよくわかっていなかったが、DNA解析の技術が進んでそれが可能になった。具体的には、単離・培養しなくても生物群をまとめてDNA解析することで、どんな微生物がいるのか一括で調べることができるようになったのである。

こうして、腸内を調べることができるようになると、マイクロバイオータは指紋のように人それぞれで異なっていて、これまで考えられていた以上に我々の健康を左右しているということがわかってきた。

特に、「20世紀病」と呼ばれる病に、マイクロバイオータが深く関係していた。例えば、1型糖尿病(インスリンを分泌する組織を免疫系が破壊してしまう糖尿病)、アレルギー、肥満、自閉症といったものにだ。

1型糖尿病やアレルギーは免疫系の誤作動と言えるが、実は免疫系組織の60%は腸内にあり、腸内のマイクロバイオータがこうした誤作動の原因となっているのではないかと推測されている。例えば、子どもの頃にたくさんの抗生物質を処方された人はアレルギーになりやすいという。これは、抗生物質そのものがアレルギーの原因になったというよりも、抗生物質によって腸内のマイクロバイオータが攪乱されて本来あるべき微生物の生態系が形成されないことが原因であると考えられる。

ちなみにニキビも腸内マイクロバイオータが一枚噛んでいると考えられている。未開社会にはほとんどニキビはなく、先進国にしかみられない。ニキビは洗顔が足りないからできるのではないのだ。しかも、顔に棲んでいる細菌というよりも、腸内環境の方がニキビに大きな影響を及ぼしている可能性が高い。

もっと関連が明らかなのは肥満である。例えば肥満の人と痩せ型の人の腸内マイクロバイオータを比べると違った特徴が現れる。では、それは肥っているからマイクロバイオータが
肥満型になのか、それとも肥満型のマイクロバイオータを持っているから肥るのか、因果関係はどっちなのだろうか?

マウスで実験してみるとそれがわかる。肥満マウスの腸内マイクロバイオータを無菌マウスに移植すると、過食するわけではないのにそのマウスは肥ってしまう。そのマウスに次に痩せ型マウスの腸内マイクロバイオータを移植すると、今度は痩せはじめる! 肥満の原因は、食べ過ぎや運動不足、つまり摂取カロリーが消費カロリーを上回っていることだと思いがちだが、それよりもカロリーのやりくりの仕方が鍵だ。その「カロリーのやりくりの仕方」を決めているのが、どうやら腸内マイクロバイオータらしい。

腸内マイクロバイオータの多くは大腸に棲んでいる。大腸は、かつてはただ水分を吸収する重要でない器官と思われていたが、人間(小腸)に分解できなかった食物を微生物に分解させ、人体に有用な物質へと変換し、また免疫系の中枢の一つとなっている重要な器官だということがこうしてわかってきた。

腸内のマイクロバイオータは免疫や体型に影響を与えるだけでなく、精神面にも大きな影響を及ぼす。その一つが自閉症で、幼い頃に抗生物質によって腸内環境が大きく破壊されてしまった人が自閉症になるケースが散見されている。自閉症の人の腸には有害な微生物が多く存在していて、それが症状の原因となっている可能性がある。実際、ある種の抗生物質を投与してその有害な微生物を殺すと、一時的に自閉症の症状が軽くなるという。このほかにも、腸と脳が繋がっているという様々な事例が報告されている。

このように、腸内のマイクロバイオータは我々の心と体の健康に深く関わっていることが徐々に明らかになってきたのであるが、「20世紀病」が20世紀ににわかに増加してきたのはまさに腸内のマイクロバイオータの問題だったと思われる。

「昔はアレルギーなんてなかった」という証言に対して、「昔もアレルギーはあったが、より重大な疾患・感染症の陰に隠れて見えなかっただけ」という意見がある。しかし1型糖尿病は特に戦後に有意に(しかも急激に)増加しているし、自閉症だって有病率が有意に増加している。かつて目立たなかったものが目立っているだけ、では説明がつかない。こうしたものが腸内のマイクロバイオータによって引き起こされているとするなら、1940年代からの抗生物質の普及と濫用がその原因として浮かび上がってくる。

抗生物質は生命を救う薬であるが、そのリスクがはっきりとはわからなかったために軽度な病気でも「念のため」と処方され、先進国では一度も抗生物質を投与されないで育つ子どもはほとんど皆無になった。成長の重要な時期に抗生物質で腸内のマイクロバイオータが攪乱され、豊かな腸内生態系を築けなかったことが、「20世紀病」の発現に関係していそうなのだ。

また、特に大量に抗生物質が投与されているのが畜産産業。食肉には抗生物質はさほど残留していないが、家畜の糞にはたくさん残留していて、これによって作られた堆肥が農地に撒布され、野菜が抗生物質を含んでいる可能性がある。畜産が盛んなアメリカ南部の肥満率が高いことは偶然ではないのではと示唆されている。

そして、腸内のマイクロバイオータ形成に非常に重要だと分かってきたのが自然分娩である。自然分娩では母の膣内に赤ちゃんが必要とする腸内マイクロバイータの「苗」が分娩前に増加してこれを赤ちゃんに受け渡す仕組みがある。さらに、母乳には赤ちゃんの腸内マイクロバイオータを有用・友好的に保つための驚異的な仕組みもある。例えば、母乳には人間が消化できないオリゴ糖がたくさん含まれているが、これは以前は母乳を分泌する際の副産物だろうと思われていた。だがこのオリゴ糖は、赤ちゃんの腸内にいるある種の微生物のための餌だったのである。そして、この濃度は赤ちゃんの腸内環境の変化を主導するように変わっていく。母乳育児というと愛情が深まるとか、心理的なメリットが強調されることが多いが、それよりもむしろ腸内マイクロバイオータの形成において重要な行為なのである。先進国では母子に危険がない場合でも計画的に帝王切開が行われることが多いが、帝王切開と完全な粉ミルクによる育児には、腸内環境が正常に整わないというリスクがある。

このように腸内マイクロバイオータが重要であり、しかもそれが大量の抗生物質で攪乱されているとなると、腸内マイクロバイオータの移植によって様々な問題を解決できるのではないか、という発想が生まれてくる。SF的に言うと、「前向きになる微生物」を移植するとか、「記憶力がよくなる微生物」を移植するといったようなことが可能になるかもしれない。人の9割が微生物でできているのなら、1割の自分自身のDNAを変えることはできないが、残り9割は変えられるということなのだ。それはまだ夢物語であるにしても、ある種の疾患は、既に腸内マイクロバイオータの移植によって治療することが可能になっている。もっとはっきり言えば、「糞便移植」である。

心身が健康な人の糞便を、ちょっとした処理をしてミキサーにかけて直腸から注入する、もしくは経口摂取するという単純な方法で、ある種のひどい下痢などには目覚ましい効果を上げるという。また、難病である多発性硬化症も糞便移植によって治癒したケースがある。さらに自閉症の子どもを抱える親たちも、子どもに糞便移植を行って症状が改善している場合がある。糞便移植は(医薬品を使わないため)医療行為ではなく、未だ医師たちに広く認められてもいない上、それぞれの疾患への効果も科学的に確定していない段階にあるが、腸内マイクロバイオータの改善という意味では確かに有効な方法らしい。こうしたことから、アメリカでは既に糞便バンク(健康な人の糞便を移植用に冷凍保存して活用できるようにするネットワーク)が産まれている。

しかし、藁をもすがる思いの難病を抱えた人と違い、普通の人は健康になるために人の糞便を体内に入れたり、ましてや飲むことなどちょっと考えられない。こういう普通の人は、どうやって腸内マイクロバイオータの改善をすればよいのか。そのためには、食生活の改善しかない。具体的には、食物繊維の多い食事だ。食物繊維は人間には分解・吸収できないが、微生物の食べものになるのだ。現代人のマイクロバイオータが正常に働いていない背景には、食物繊維の明らかな不足がある。タンパク質や脂肪の摂取量は多くなったのに、食物繊維の摂取量は激減しているのである。つまり野菜不足が、「20世紀病」を引き起こす原因の一つかもしれない。

本書全体を通じて感じたことは、我々は腸内に微生物たちを飼っている、というよりは、我々と微生物たちは共に一つのシステムを形成しているのだ、ということだ。我々と微生物は一体不可分であり、互いに影響を与えながら生きる。そのダイナミズムを理解せずして健康になるための方策も分からないのだと痛感した。

なお、著者の専門は微生物学ではないが(専門は進化生物学)、個人的体験から腸内マイクロバイオータに感心を持ち各地の専門家に丁寧な取材を行って書いたのが本書であり、ただ論文を読んで最新の研究事情をまとめた本や専門家から聞きかじった話を見栄えよくまとめただけの本とは違う。サイエンス・ライターとして模範的な仕事ぶりだと思った。

腸内マイクロバイオータの重要性について蒙を啓かされる良書。

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