2017年1月30日月曜日

『バナナと日本人―フィリピン農園と食卓のあいだ』鶴見 良行 著

日本人のバナナ需要に応えるため、フィリピンのバナナ・プランテーションがいかにして成立し、またそこで労働者がいかに苦しんでいるかを告発した本。

フィリピンのバナナ産業は、国際資本4社に完全に支配されている。すなわち、デルモンテ、キャッスル&クック(ドール)、ユナイテッド・ブランズ(チキータ)、住友商事(バナンボ)の4社である(括弧内はブランド名)。住友を除く3社は米国資本であり、この3社でバナナの作付面積のほぼ8割を支配している。フィリピンのバナナ産業は、フィリピンが作ったものというよりは、米国資本が作ったものだ。しかしその背景には、日本人にも大きな関わりがある。

フィリピンのバナナ産業の原型は、戦前日本人が作った「ダバオ麻農園」まで遡る。フィリピンには戦前多くの日本人が入植して「アバカ麻」という植物を育てる農園を経営していた。アバカ麻とは、麻と名はついているがバナナと似た植物で、水に強いことから船に使うロープなどの原料となった。戦争のため海軍がどんどん増強されていった時代であり、アバカ麻は飛ぶように売れた。日本人たちは半ばイカサマのような方法でフィリピンの土着の人から土地を奪って開墾を進め、アバカ農園をミンダナオ島のダバオというところに作ったのである。

日本の敗戦でこの農園は雲散霧消してしまうが、これが戦後のバナナ農園の原型を準備した。

日本が戦争の痛手を克服し高度経済成長期を迎えると、日本のバナナ需要が急激に高まってきた。60年代の話である。1950年には6600トンだったバナナの輸入は、ピークの1972年には106万2900トンになり、実に160倍もの伸びを見せている。バナナはいくらでも売れる商品だった。これに目をつけたのが米国資本の商社である。

フィリピンは米国にとって植民地だったから、強力な権益を持っていた。日本も米国にとって戦後そうした位置づけにあったとも言えるが、米国がフィリピンに対して行ったこと日本に対するそれは随分違う。例えば、日本では農地解放(地主層の解体)をやったがフィリピンではやらなかった。地主の問題は同様に存在していたのにだ。

むしろ、米国商社はフィリピンの地主層と結託して大規模農園を作った。もともと、米国はスペイン統治時代にできた大地主制のプランテーションでフィリピン人が苦しんでいることを知っていたから、1903年には公有地法を定めて法人・個人の土地所有をそれぞれ1024ha、24haに制限していた。しかし米国資本商社にとってはこの制限は障害となる。この法の制限を、あの手この手でかいくぐってバナナ・プランテーションが発達していく。

例えばデルモンテが使った方法は奇抜なものだ。デルモンテは米国海軍に働きかけて、バナナ農園適地の高原を海軍基地(!)として指定させた。そして海軍からその土地を借りるという手段で8000haもの農園を手に入れるのである。1934年にフィリピンが独立するとその土地はフィリピンに返還されたが、デルモンテは超法規的な国有企業の「国立開発公社」をフィリピンに設立させ、今度はその公社から土地を借りるという形をとった。この8000haもの土地に対し、1937年から1956年までの18年間に同社が払った地代はわずか4100ドルである。詐欺的な手段によって、米国資本の商社はフィリピン人から土地を奪っていったのである。

そして土地を奪われたフィリピンの人びとには、バナナ農園で働くという選択しか残っていなかった。

形式的には、契約栽培など地場の農園が自主的に商社と取引するという形が取られたが、実質的にはフィリピンの農民に選択肢はなかった。作付計画から農薬散布、出荷検品にいたるまで、全て商社のいいなりだったからだ。生産性を向上させて、所得を上げようということすら難しかった。なぜなら、形の上ではバナナは全量買取りだったが、商社は相場を調整するために、検品の厳しさを自由自在に変えて買取量を上下させていたからだ。酷いときには、集荷されたバナナの半分が廃棄された。これでは頑張って収量を上げても意味がなかった。

そもそも、バナナ栽培は農民に全く利益が出ないように作られていた。栽培指導、農薬代、生産資材代、手数料…としてバナナの売り上げはどんどん天引きされ、手元に残るのは売り上げの1割ほどしかなかった。当然そんな薄利では生活できようはずもない。農民は、商社の下請けから借金をして生活をせざるを得なかった。こうなると、返すアテのない借金のために、商社の農奴になるのと同じことだった。農民に出来るのは、夜逃げくらいしかなかったが、そうしたとしても、港湾のスラムでのバナナ積み込みの荷役が待っていた。バナナ農園で働くよりももっと厳しい仕事である。

フィリピンのバナナ産業は、まさに「生かさず殺さず」のシステムである。儲けるのは、商社だけになるように巧妙に設計され、そのシステムから逃げることもできないように仕組まれていた。それというのも全ては、日本人のバナナの需要があったからのことだ。

日本のバナナ輸入の業者は、急激に伸びるバナナ需要を前にして、商社に強気の契約を持ちかけた。前もって定めた価格で、全量買い取るという契約である。バナナはいくらでも売れる、と思っていたのだ。だが実際は、日本人がバナナばかりを際限なく食べ続けるなんてことはあるわけがなかった。1972年をピークに消費は漸減していく。それでも全量買取の縛りがあったので日本の輸入業者はバナナを商社のいいなりに輸入せざるを得ない。バナナは「3年に1度当たればいい」というバクチ的商品になっていた。

しかし、結局日本の輸入業者はバナナのバクチには負けてしまう。このバナナ貿易は巨額の赤字を計上して契約を終えた(以後、買取制ではなく入札制に変わる)。ここでも儲けたのは、国際資本の商社だけだったのである。

そしてフィリピンのバナナ産業には、あくどい仕掛けもあった。バナナには、先進国では使用が禁止されているような毒性の強い農薬が大量に使われていたのだ。米国企業は、自国では販売が禁止されている農薬をフィリピンに輸出して使わせていたのである。先進国では厳しい環境基準を守っているように見せかけながら、「植民地」では現地の人の健康被害にも、環境汚染にも全く気にも留めなかった。このために、バナナ農園には体を壊した人がたくさんいるらしい。

こうして、日本人のバナナ需要をアテにしてつくられたフィリピンのバナナ産業は、フィリピンの人びとと環境を搾取し、自生的な成長の機会を奪ってしまった。貧しい人がもっと貧しく、富める人がもっと富むメカニズムが固定化され、フィリピンの農民はどんどん没落していった。自給自足的でのどかな世界に生きていた土着の人びとは、いきなり生き馬の目を抜く国際競争の世界に投げ出され、なすすべなく溺れていったのである。

この悲惨な自体に対し、我々日本人は全くの無罪ではありえない。何しろ、安いバナナを輸入しているのは、他ならぬ我々だからである。一番悪いのは商社なのは間違いないが、我々には、少なくとも道義的責任があるだろう。すなわち、もう少しマシなやり方はできないのか? と問いかける責任はある、と私は思う。

綿密な調査から、国際資本の商社がいかにしてフィリピン人を合法的に搾取する体制を作ったかを克明に記録した名著。

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2017年1月20日金曜日

『食事の文明論』石毛直道 著

世界各国の食事の在り方が、近代文明の影響によってどのように変容してきたかを語る本。

著者は文化人類学者の石毛直道。「鉄の胃袋」の異名を持ち、世界各国でフィールドワークして様々な土着の料理を食べてきた人物だ。彼がたくさんの食卓を見るうちに沸き上がってきた「人類の食事の文明はどういう志向性を持つのか」という疑問。本書は、それを学問的というよりもエッセイ風に思索していったものである。

人類の食事を考える際に、最も基本となる単位は「家族」である。というよりも、食事を分け与える最小単位として「家族」というものが成立したのだろう。家族がそのメンバーにどう食物を分配するか(時間的な意味でも。例えば一日3食にするか2食にするか)、そしてそれを取り巻く社会がどう家族ごとに分配するかというのがまず問題になる。それには、宗教や文化や労働の在り方、社会システムなどが影響する。

例えば、一日3食が普及したのはなぜか、という問題。前近代の社会はもともと一日2食が普通だった。それなのに日本でも欧州でも、同じような時期に一日3食の習慣が広まっているのはどうしてか。一般的には、灯火の普及で夜の生活が長くなり3食に分けて食べないと体が持たなかったからと言われているが、著者は近代社会では長時間うんと働かなくてはならなくなったのが最大の原因ではないかと考える。

さらに日本で朝に飯炊きをするという習慣も会社労働や学校などの普及によって導入されたものだ。会社や学校は、昼に帰宅が難しい場合があり弁当を持って行かなくてはならない。よって弁当をつくるために朝に飯炊きをする必要が生じたのだという。

このように、伝統的な食事の在り方は近代文明の波を受けて劇的に変わってきている。その変化はどこへ向かっているのか。それは著者自身にもまだ茫洋としているようだ。しかし社会が豊かになって食物が豊富になり分配のややこしい手続きが省略されるといった傾向はある。そしてそのことは、食事の分配機能の最小単位である家族の在り方にまで影響を及ぼしつつある。

一昔前では、一人で生活してちゃんと3食食べることは不可能に近かったが、電化製品や加工食品の普及で、今ではそんなことは全く難しいことではない。毎日の食事を用意するために「家族」があるのではなく、むしろ共に食事することが「家族」を維持する役目を担うようになってきた。こうなると、「機能集団としての意味が弱くなった家庭生活の運営というものは、大人も参加したママゴト遊びのようなもの」になったのである。

要するに、食事から見れば、我々の文明にはもはや「家族」は不要なのだ。しかしこれはいっときの栄華のなせることなのかもしれない。「ふたたび食物の獲得と分配をめぐって家族が機能する時代がやってくる可能性もある。(中略)そのときまで、フィクションとしてでも家族を存続させるために、われわれはつかの間のママゴト遊びを演じているのかもしれない。」

食事を通じて、姿が見えない社会の基底まで考えさせる好著。