2017年2月26日日曜日

『日本文化の多重構造―アジア的視野から日本文化を再考する』佐々木 高明 著

日本文化の基層に存在する多様な文化について述べる本。

日本文化が、大まかに言って縄文文化と弥生文化のハイブリッドで形成されたことはよく知られている。しかしもっと細かく見てみると、縄文文化には東部ユーラシアに由来する「ナラ林文化」と、アッサムから東南アジア、雲南に連なる「照葉樹林文化」があるという。さらに、熱帯アジア島嶼部の「南島式耨耕(どうこう)文化」が黒潮を伝って渡ってきている可能性もある。本書は、日本文化がこうした多様な出自を持つ文化が共存することで生まれたものであることを論証するものである。

そのために、著者の専門である民族学の他、民俗学、考古学や歴史学、生態学といった様々な学問分野の成果が総動員されており、特に第Ⅰ部および第Ⅱ部はそうした既存研究の集大成的なものとして書かれている。

著者は、このうちの「照葉樹林文化論」の提唱者の一人であり、本書においてもこの説明の比重が最も大きい。照葉樹林文化の特徴を一つ挙げれば、モチモチした食品への強い志向があることである。餅やチマキ、オコワといったモチモチネバネバした食品は他の文化ではあまり好まれないが、この文化では特別な場面で価値が高いものとして扱われハレの日の儀礼的食品になる。この他、味噌など大豆の発酵食品の使用、飲茶の慣行、麹を使う酒の製造、蚕の繭から絹をつくる技術、漆の使用、ドングリ類を水にさらしてアク抜きする技法、柑橘類やシソやエゴマの栽培といったものも照葉樹林文化圏に共通する特徴である。

また、著者の専門は「焼畑」であるため照葉樹林文化の中でも特に焼畑については詳しく書かれている。焼畑というと遅れた農法のように思われるけれども、東アジアの環境の中では持続可能で完成された農法であり、焼畑による雑穀栽培は早い時期に完成形に達して日本に伝播した。昭和はじめくらいまでは特に西日本の山間部において、焼畑によるアワを中心とした雑穀とイモ類の栽培は普通に見られるものだった。第Ⅲ部では、この「焼畑」の系譜が著者自身のフィールドワークに基づき丁寧に解明されている。

日本文化の基層、すなわち衣食住の基本的技術と慣習を見てみると、この照葉樹林文化によっている部分が非常に大きいという。弥生時代になって大陸から稲作文化が伝来してきても、生活の基本となる技術にはほとんど変更が加えられなかった。例えば、竪穴住居や狩猟・漁撈の技術、石器・土器・木器・骨角器などの製作、植物の採集・畑作農耕の技術などは縄文文化をそのまま引き継いだのである。稲作文化と共にやってきたものは、銅鏡や銅剣などの武器や祭器、卜骨(ぼっこつ:骨占い)や鳥霊信仰、支石墓のような新しい墓制、そして社会的・政治的統合原理というような、非常にシンボリックなもの、「剣と鏡」に象徴される支配原理こそが弥生文化の中心だった。

つまり日本文化は、照葉樹林文化によって形作られた生活基盤の上に稲作が導入され、それによって政治的に統合されて出来たものだと考えることができる。

第Ⅳ部では、この稲作文化についてアジア的視点で考察し、日本に導入された稲作がどのようなものだったかを推測し、稲作文化を再考している。それによれば、稲作の技術は早い時期に完成していたが生産性は低いもので、雑穀栽培や堅果類の採集に頼らなければ生活していけないものだった。しかし稲作自体は、たった2、3世代という短い期間で北部九州から西日本に広まっているのだという。なぜこの新参の技術が素早く広がったかというと、既に西日本には照葉樹林文化式の雑穀栽培の伝統があり、イネ科植物栽培に必要な知識が蓄積されていたからではないかと推測している。

このように、縄文文化的なものと弥生文化的なものは補完し合い、いわばいいとこ取りのような形で日本文化の形成に寄与してきた。しかし近世幕藩体制が確立してくると、山で焼畑をして雑穀栽培で暮らすようなライフスタイルは統治者の論理と合わなくなってくる。石高制=米社会が成立するためには、米以外のものを中心に据える暮らしはあってはならなかった。そこで体制側は、非稲作民の山村の集団に対して武力による大弾圧を強行した。

例えば、椎葉村では1619年に幕府が討伐の大軍を差し向け、山中男女千余人がことごとく捉えられ、140人の首がはねられた。これをみて婦女20人が自殺するなど、合わせて200人以上が死んだ。人口千人ほどの村には潰滅的打撃である。このように、米社会への参画を強要した幕府側に反抗して山村各地で一揆が起こったが、全て幕府側の勝利に終わり、しかも大量の殺戮を伴っているという。日本文化の基層に存在する照葉樹林文化は消え去ることはなかったが、そのライフスタイルはこの時期にかなりの程度矯正されてしまった。

本書の多くは著者がそれまでに発表した論文をまとめたものであるが、若干重複は多いものの構成は散漫ではなく書き下しのようなまとまりがある。著者の主張する日本文化の多重構造は、多くの物証に基づくもので説得的であり、日本文化をアジアの中において理解する上での重要な要素であると感じた。

なお終章では、多元的で多重な構造をもつ日本文化は、多様な文化を柔軟に対応する優れた特色を持っていると主張される。21世紀は多文明が協調していく社会になるはずで、その時代の諸事象に対し、日本文化は容易に適応しうる特性を有しているのだ、としている。「私が本書の結論として言いたかったのは、この事実である(p.326)」ということだが、これについては我田引水の感が否めない。

というのは、近世幕藩体制の成立の産みの苦しみだとしても、山村の非稲作民を弾圧した歴史が存在している以上、日本文化が他文化に対して寛容だという主張は成り立たないはずである。むしろ、稲作文化が照葉樹林文化などの非稲作文化を「基層」に追いやってできたのが日本文化だという見方が正確な気がする。基層に追いやられた文化は消えはしなかったが、稲作とそれを主導する支配階級の原理に屈服していったのが日本の生活文化史ではないのか。雑穀栽培が事実上消滅してしまったことはその証左のように思える。

ちなみに、照葉樹林文化の特質の一つに山上他界や山の神信仰の観念があるという。私には山岳信仰の系譜をしっかり理解したいという思いがあり、この事実は大変興味深かった。

終章のまとめは蛇足だが、それ以外は先行研究を縦横に駆使し、アジアを俯瞰して日本生活文化史を位置づけた非常に内容の濃い本。

【関連書籍】
『日本文化の形成』 宮本 常一 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2012/09/blog-post_3.html
独自の視点から、日本文化の形成に大きな役割を果たした先住民(縄文人)や海洋民、焼畑耕作、秦人などについて語る本。


2017年2月23日木曜日

『国家神道と日本人』島薗 進 著

明治維新から現在に至るまでの「国家神道」を概観する本。

国家神道とは何だったのか? 村上重良の古典的研究(『国家神道』)をはじめ、それを批判した葦津珍彦ら神道側からの反論、これまでも様々な立場からの研究が行われてきた。しかし著者によれば、それらの研究は神社神道、すなわち神社界の動向を中心に据えすぎており、皇室祭祀が十分に取り上げられていなかったという。本書は、こうした点を踏まえ、先行研究を批判しつつより広い視座に立って「国家神道とは何だったのか?」を検証していくものである。

本書第1章および第2章では、国家神道の位置づけや、それがどう捉えられて来たかを解説する。国家神道というと分かったつもりになっているものであるが、改めてそれが何かを説明するのは難しい。例えば、国家神道とは宗教だったのだろうか? その中心に神話から続く万世一系の天皇への崇敬や皇室祭祀といったものがある以上、宗教的な色彩があることは確実だが、その完成形においては国家神道は宗教とは位置づけられなかった。

明治維新では「祭政一致」が志向され、国家は宗教を全て管理し神道を国教化しようとしたが、神道は宗教勢力としては脆弱であり、仏教やキリスト教の反対によりこれは一度は頓挫した。また政教分離や信教の自由といった問題も惹起することから、「神道は宗教ではない」という整理にされてしまった。人びとは、倫理感や死生観といった「私」の領域では仏教やキリスト教を信仰しながら、国家的秩序に関わる「公」の領域では神道に従うという宗教的二重構造を生きることになった。

そうした二重構造を可能にしたのは、神社界の働きかけよりも、記念式典などの国家的行事や学校教育の力が非常に大きかった。特に「教育勅語」の影響は甚大であり、「それが国民自身によって読み上げられ、記憶され、身についた生き方となった」(本書p.39)という意味で、教育勅語は国家神道の教典的な役割を果たした。

第3章では、どうやって国家神道が形作られたか述べる。維新政府は成立当初より国家神道の創出を構想していた。そのため、数々の新たな皇室祭祀体系を考案したり、伊勢神宮を国家の神社として作りかえ、全国の神社を皇室を頂点とするヒエラルキーにまとめたりした。ではそうしたことが明治政府の急ごしらえの思いつきだったかというとそうでもなく、幕末期からの国学の興隆がそれを準備していた。

具体的には、長州藩に隣接する津和野藩の大国隆正の思想が大きく影響しているようだ。津和野藩主の亀井茲監(これみ)は大国の思想に基づき、明治維新前に神仏分離や神葬祭を行っていたが、津和野藩は長州藩の盟友として維新勢力の王政復古のプログラムに携わり、亀井の神社政策は明治政府でも踏襲されることになる。この津和野派はやがて神道行政を牛耳って祭政一致路線を選択していく。伊藤博文など非宗教路線を指向する勢力と妥協しつつも、彼らの思想は後に生みだされる「国家神道」の青写真となった。

第4章と第5章は、教育勅語以降から戦後を取り扱う。国家神道は、それを構想した人も思いも寄らなかったほど強力に発展していった。当初は国家からの強制の意味合いが強かったものが、次第に民衆側からその強化が叫ばれ出す。これを本書では「下からの国家神道」運動と呼んでいる。ところが、ここにも二重構造が存在した。というのは、小学校から続く教育過程において祭祀王としての天皇が徹底的に教え込まれ、民衆のレベルでは天皇は絶対不可侵の存在となっていたが、高等教育以上のエリートには天皇が「天皇機関説」的なものとして捉えられ、実質的には天皇の権力はほとんどなく、官僚機構が自由に操れる存在となっていた。

戦後、GHQは「神道指令」により国家神道を解体したが、天皇の存在そのものが悪いのではなく、天皇を至上としながらそれを恣意的に操作できる政府こそが問題である、との認識の下、皇室と国家の結びつきこそ弱めたものの、皇室祭祀は皇室の私的な宗教行為と整理されてほとんど存続させられた。しかし国家神道の中心に皇室祭祀がある以上、それが廃止させられなかったことは国家神道の命脈を絶つものではなかった。戦後から時間が経つにつれ、神社勢力は国家と神社の結びつきを改めて強化しようと画策し成功するようになった。例えば、建国記念の日の制定(紀元節復活運動)、伊勢神宮と皇位が不可分だと政府に認めさせること(神宮の真姿顕現運動)、そして行幸する天皇に三種の神器を伴わせること(剣璽御動座復古運動)などだ。こうなってくると、国家神道が全く解体されたとは言えなくなってくる。今でも国家神道は存続している、というのが本書における著者の大きな主張である。政府が右傾化し神道的なものが擡頭しつつある現在、本書の主張はより切実に迫ってくる。

国家神道の歴史書であると同時に、現代の社会にまで大きな影響を与え続けている国家神道の動きにも留意した、小著ながら充実した本。

【関連書籍】
『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』安丸 良夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/05/blog-post_2.html
明治初年の神仏分離政策を中心とした、明治政府の神祇行政史。
「国家神道」まで繋がる明治初年の宗教的激動を、わかりやすくしかも深く学べる名著。


2017年2月15日水曜日

『神都物語:伊勢神宮の近現代史』ジョン・ブリーン著

現在の伊勢神宮がどうやって形作られたのかを説明する本。

伊勢神宮というと、天皇家の神話的祖先である天照大神を祀る天皇の神社であり、国家的性格を持つ神社でもある。しかしこうした伊勢神宮の在り方は、伝統的なものとは全く違う。これは明治維新後につくられたものだ。例えば、明治になるまで天皇は伊勢神宮を参拝したことがなかった。

江戸時代において、天皇と伊勢神宮が全く関係なかったかというとそうではない。遷宮の諸儀礼の日取りの宣下、幣史の派遣など、特別な関係にあったことは間違いない。しかし天皇家の宗廟として祀られていたわけではなかった。庶民のレベルにおいても、天照大神を祀る内宮(ないくう)はさほど注目されず、豊受大神を祀る外宮(げくう)の方が参拝客がずっと多かった。

これが劇的に変貌を遂げるのが明治になってからである。明治維新は、王政復古、すなわち天皇が治めていた古代王朝のリバイバルを己のレジティマシー(正統性)の旗印にした。このため、神社政策は国家統一の重要な1ピースであった。徐々に改められて政策自体は世俗的になっていくものの、最初は「神祇官」が置かれ文字通り祭政一致の体制が取られたほどだった。

こうした趨勢の下、伊勢神宮は国家的神社としてまるきり作りかえられる。まず天皇との特別な関係が樹立され、天皇が参拝する神社となった。それを主導したのは、岩倉具視や木戸孝允、そして神社政策を委託されていた津和野藩の亀井茲監(これみ)と福羽美静(ふくば・びせい)らだそうである。そして、自治的・世襲的に運営されていた伊勢神宮は国家の管理化に置かれ、人事が国家政策となり、「浄化」されていった。

具体的には、まず廃仏毀釈が行われ、伊勢から仏教勢力が一掃された。そして神宮大麻(お札)の頒布を担っていた御師(おんし)と呼ばれる世襲職をはじめ神宮の世襲役職が全て廃止され、宮司も中央からの任命になり、祭主も皇族が務めるようになった。また伊勢の街自体が「神都」として作りかえられ、猥雑な妓楼街は主要道路から遠ざけられ、自然消滅させられていった。さらに、天皇との特別な関係の樹立のために、今に続く数々の儀礼が定められ(『神宮明治祭式』)、新しい神道理論も確立していった。この際に26の明治以前の儀礼が廃止され、新しい儀礼が21も取り入れられたという。伊勢神宮は、こうして明治以前のそれとは全く違う神社になっていったのだ。なお、こうした改革を主導したのは、内宮の神職だった浦田長民(ちょうみん)という人物である。

しかしこうした改革は、伊勢神宮がこれまで数百年に渡って培ってきた地域社会や全国の信者との関係性にも大きく変更を迫るものでもあった。交通の改善や伊勢の観光地化、旅館による広報といった数々の策が打たれたが、こうした改革のために参拝者は明治以前よりもむしろ減少してしまった。つまり神宮には矢継ぎ早の改革が行われたが、伊勢という街を見た時には明治初期は停滞の時期であった。

1929年の式年遷宮がこうした停滞を打ち破る画期となる。式年遷宮の当日に、総理大臣はじめ多くの国務大臣など国家の要人だけでなく、軍までも参加した。そして遷宮当日は休日に指定され、文部省は全国の小学校に奉賀式を執り行うよう指示した。文字通り国家儀礼として式年遷宮を行ったのである。こうなるとメディアでも伊勢神宮が多く取り上げられるようになり、国民の間に国家の神社としての認識が浸透してくる。また、小学校では「一生に一度は神宮に参拝した方がいい」と教えられはじめ、遂には「参拝しなくてはならない」に変更された。これを受けて修学旅行での伊勢神宮参拝が広まり、参拝客はどんどん増加していった。特に1935年の「国体明徴声明」(天皇を立憲君主ではなく時空を超越した聖なる君主として位置づける声明)以後はこれに拍車がかかった。開戦により伊勢神宮自体の整備は停滞したが、1941年の参拝客は年間400万人に達し、また神宮大麻の頒布数も1945年には当時の世帯数とほぼ同じ1400万体にも登っている。ただしこの頃、参拝客はまだ内宮ではなく外宮を中心に参拝していた。

戦後、「国家神道」の中心であった伊勢神宮はGHQにより存続の危機に立たされた。天皇の宗廟として細々と存続するのか、それとも単なる神社となるかを迫られた。伊勢神宮側は、当初は天皇の宗廟となる意向であったが、それだと予算的にも限られ宗教活動も制限されるということで、私的宗教法人となる道を選んだ。

しかし伊勢神宮は、単なる神社にはならなかった。GHQの目が光っているうちは表立った活動は控えていたが、徐々に天皇家との特別な関係も復活させていった。さらに、国家的な神社としての性格も獲得していった。本書の用語ではそれを「脱宗教法人化」という。その象徴となったのが1959年の正月、岸信介が総理大臣として参拝した時であった。戦後にも私的に参拝した総理はいた(鳩山一郎、石橋湛山)。しかし岸は、非公式参拝としていたにもかかわらず、随行者60人以上を連ねて明らかに公的行事として参拝を行ったのである。これに続き、池田勇人は神宮にある「八咫(やた)の鏡」が神話に基づくものであり、公的なものであるという答弁書を決定した。こうして、戦後日本でも神話が公認されて、天皇の神的性格は確認されたのである。天照大神は、国家に公認された神になった。

こうして、交通(バイパス)整備という事情もあって、戦後にはついに内宮への参拝者が外宮へのそれを上回るようになった。一度「単なる神社」になりかけた伊勢神宮は、また戦前と同じように国家と皇室の神社として国民に認識されるようになった。2013年、安倍総理大臣は戦後の首相として初めて式年遷宮に参列した。伊勢の式年遷宮は、またしても国家儀礼になりかけている。

伊勢神宮というと、古代より続く伝統の牙城のように思われている。しかしそれは事実とは全く異なる。むしろ国家が民衆支配の道具として創り出した伝統の方が多い。ただし、伊勢神宮は国家に翻弄された存在というわけでもない。積極的に国家と関わり、自らの権威を高めるように働きかけたのも伊勢神宮だった。

本書を読む上での私の興味は、なぜ伊勢神宮だけがこのような特別な存在になれたのかということだった。靖国神社や明治神宮ならば、最初から国家が創ったものだから分かる。しかし伊勢神宮は、最初から国家の神社だったわけではないし、そうならない道もあったように思われる。だが伊勢神宮は国家の神社となった。なぜなのだろうか。その答えは本書にはない。ただ、それは明治政府の誰か偉い人が決めたというより、地元伊勢の人を含めて多くの人の思惑が絡み合っていることだけは確かだ。

その大勢の中の一人に、薩摩出身の田中頼庸(よりつね)という人がいる。田中は明治時代に神宮の大宮司となり、浦田長民と対立しながらも神宮の改革を手がけた上、神社の宗教活動が禁止されると(神道は宗教でないということになり政教分離に抵触しないとされた)神宮を飛び出して「神宮教」という宗教を立ち上げて神宮大麻の配布などを行った異色の人物である。本書は田中の事績を辿るものではないからその全貌はわからなかったが、この人物もより掘り下げて知りたいと思った。

近代に成立した国家の神社としての伊勢神宮の姿に迫る、コンパクトながら内容の濃い歴史書。


2017年2月12日日曜日

『東シナ海文化圏の民俗—地域研究から比較民俗学へ』下野敏見 著

東シナ海に共通してはいるが様々な地域的変異がある民俗を取り上げ、その伝播や起源を考える論文集。

著者は鹿児島を代表する民俗学者の下野敏見氏。本書は、著者が『隼人文化』と『鹿児島民俗』に提出した論文を中心に、「東シナ海文化圏」にまつわる論文をまとめたもので、「第一章で身近な地域からだんだんひろがった地域の比較をなし、第二章でさらにひろげて近隣の国の資料もとり入れ、第三章では隣国の現地にどっぷりつかって調べあげた資料をもとに、日本の民族を省みて比較するという構成」(あとがきより)である。

個人的に興味を持って読んだのは、「鬼火焚き・門松の意味するもの」(第1章第1節)、「南日本の石神信仰—立神と陰陽石と三ツ石」(第1章第3節)、「南からみたハレ・ケガレ論—エビスと水死体」(第2章第2節)、「十五夜綱引の源流—門ノ浦のヨコビキに寄せて」(第2章第3節)の4編。

著者はこうした材料で「東シナ海文化圏」を構想する。そもそも、民俗学は比較の学である。民俗文化はただその地域の伝統を見ているだけでは見えてこない。隣村とはどう違いがあるか、また隣の地域とはどう違うか、そして隣の国とはどう違うのか、ということを次第に視野を広げてみることで、その民俗伝承の持つ意味が明確になってくる。例えば、綱引き一つとっても、小正月に綱引きをする地域と十五夜に綱引きをする地域がある。だからそれらがどう分布しているかを調べれば、伝達の経路や時期が分かったり、その伝統がどこで生まれたかが分かってくる。

いろいろな民俗現象で著者はそれを考え、文化伝播について調べていく。日本の文化伝播は基本的には畿内を中心とした同心円状になっており、畿内で生まれた文化が次第に広がっていったものが多い。となると、南九州などは日本の端っこなわけだから、最も後進的な地域となってしまう。だが、さらに視野を広げてみれば、違った文化伝播の同心円が見えてくる。それが下の図である(序章より)。


これを見ると、南西諸島、台湾、中国南部沿岸、朝鮮半島南部、そして九州が同じ同心円の中に収まっている。つまり文化は決して畿内中心ばかりではなく、いわば海を中心とした文化伝播も起こっていたわけだ。この、海を中心とした文化伝播によって形作られた地域が「東シナ海文化圏」である。

とはいえ、この図で言われていることがどれほど妥当なのかは、本書だけでは判断することができない。もう少し材料が必要だし、衣食住全般にわたった比較が必要になるだろう。ただし、本書に取り上げられた民俗についていえば、かなりの程度こうした文化圏の存在は肯定できる。

書き下ろしではないので論文ごとの粗密はあるが、郷土研究から出発しより広い視野に誘ってくれる好著。