2021年1月29日金曜日

『田中正造の生涯』林 竹二 著

田中正造の評伝。

田中正造は、幕末に栃木県の小中村(現 栃木県佐野市)の百姓の家に生まれる。百姓といっても名主を務めるような家で、父の跡を継いで名主になり、正造はこの小さな村の名主を12年務めた。

彼は小中村の「政治」に責任を負って、藩レベルの政治とは異質のまとめ役をこなした。それは、自治的な慣行や寄合における合意を尊重する、ボトムアップ式のものだった。彼は名主ではあったが身分意識は薄く、村人の代表として領主との対立を辞さず、領内7ヶ村の農民の抵抗運動を組織して、暗君(失政の領主)を退陣させる実績を残した。そのために正造は投獄されたが、これが、権力に決して屈しない、正造の戦いの始まりだった。

正造は、明治11年に政治に一身を捧げようと決心する。きっかけは、土地の投機に成功して3千円という大金を手に入れたことだった。この金は正造に「公共のために尽くす自由」を与えた。正造は、なんと35年間の予算を立て、金を稼がなくても政治活動ができるように計画を立てた。38歳の時だった。

こうして政治家となった田中正造が取り組んだのが、足尾銅山鉱毒事件である。足尾銅山は、古河鉱業が明治になってから政府の後援を受けて驚異的に成長させた銅山である。明治17年には、大鉱脈にいたる坑道が完成し産出量は激増、それに伴って渡良瀬川の鉱毒汚染は酷くなり、流域の漁民は消え失せ、稲は立ちながら枯れるようになった。

しかし驚くべきことに、古河鉱業はそうした汚染を低減するどころか、採掘した捨て石を川に投棄する有様だった。鉱山では、銅を取り出した後の残りの石の処分が問題になる。公式には遠く離れた土地に石捨て場が設けられていたが、そこまで運ぶコストを削減するため、川際にこれを積み上げていた。古河は、暴風雨が来るのを待ってこれをダイナマイトで破壊し人為的に土石流を起こして処分していたのである。

そもそも渡良瀬川はよく氾濫を起こす川だった。しかし自然の氾濫は上流の肥沃な土を運んでくるもので、洪水の後は3年は肥料はやらなくてもよいというほど土が肥えた。だから流域の人々は洪水と共存していたのだ。ところが、古河鉱業によって渡良瀬川は死の川になり、半ば人為的に起こされるようになった頻繁な洪水は人々の生活を追い詰めていった。

田中正造は、明治24年にこの問題を取り上げてから、たびたび議会で政府の姿勢を問いただし、古河鉱業の悪事を暴き、人々の困窮を救うべきことを訴えた。しかし政府は歯牙にも掛けなかった。政府は国民のことはどうでもよく、古河鉱業を守る方がずっと重要だと考えていた。後に首相になる原敬は、古河鉱業の副社長でもあった。政府と企業は癒着して、経済発展のために邁進していた。

明治31年、流域の農民たちは、度重なる洪水に耐えかねて東京に請願・デモ(当時の言葉で「押し出し」)を行うため一万名で大挙して押しかけようとしたが、正造はこれを止め、代表者50名のみを残して帰村させた。そのようなことをすれば大量の逮捕者が出るおそれがあったし、正造は、政治家として言論の力によって事態を改善したいと思っていた。

板垣退助をはじめとした自由民権運動の旗手たちが結局は政権に取り込まれていったのを考えると、田中正造ほど言論の力を信じていた明治の政治家はいなかったかもしれない。板垣たちが政権に近づいたのは、日本では権力を握らなければ結局何もできないという(絶望的なことに現代の日本でもほとんど変わらない)事実があったからだ。権力があれば白も黒にできるが、言論の力では白を白と認めさせることすらできないのである。だが正造は、言論の力を信じ、デモ行進を止めた。

しかし、やはり言論の力は無に等しかった。いくら正造が鉱毒問題を訴えても、足尾銅山の企業責任は議会で取り上げられることはなかった。それどころか政府は、鉱毒について人々が文句を言って「世間をさわがす」ことが鉱毒問題であると見なしていたのである。

事実、政府は鉱毒問題をなきものにしようとしていた。明治24年、梁田・足利郡の有志が『足尾銅山鉱毒——渡良瀬川沿岸被害事情』というパンフレットを出版すると、政府はこれを発禁にした。続いて発刊された「足尾の鉱毒」という雑誌も発禁処分。政府は人民の救済を図るどころか、被害の実情を隠蔽しようとして言論を封殺した。

だから、正造がいくら議会で政府を問い詰めようとも、のれんに腕押しだった。政府はのらりくらりとした答弁で古河鉱業の加害行為を容認していた。

政府は、鉱毒被害に対しては「粉鉱採集器をつけさせるから以後は被害もなくなるだろう」と解決済みの態度を示し、これまでの被害に対しては古河鉱業に幾ばくかの補償を行わせることとした。ところがこれは政府が古河鉱業と結託して行った示談工作であった。被害民たちは、この政府の姿勢を信じて、わずか2ヶ月くらいの間に全被害村で示談契約が古河との間で結ばれた。肥料代の半分にも満たない僅かなお金で住民は買収され、全ての権利を放棄させられた。だが、そもそも「粉鉱採集器」は選鉱機械であって鉱毒の流出を防ぐ装置ではなかったのである。

だから示談が結ばれた後も鉱毒被害が減ずることはなかった。正造は鉱毒被害が解決していないことを訴えたが、政府は「それは既に古河鉱業と住民との間で示談が成立したことで、解決済みの問題だ」として取り合うことをしなかった。

さらに明治33年、いっこうに鉱毒問題の埒があかないことに業を煮やした農民たちは、また大挙して請願に出発する。ところが憲兵を交えた警官隊が彼らを襲い、無抵抗の農民を包囲して殴る蹴るの暴行を加えた。これが「川俣事件」である。51名が凶徒嘯集の罪名の元に起訴され、農民指導者はすべて投獄された(もちろん裁判には政治が介入していた)。これで鉱毒問題を巡る農民の大衆的直接行動は後を絶った。

政府は、人民のための政府ではなかった。政府は人民を保護することはなく、むしろ都合の悪い人民を排除するのが仕事だった。政府は古河市兵衛の代理人に過ぎなかった。正造は議会と政治に絶望し、 議員を辞めた。そして、最後の手段として天皇への直訴を行う。明治34年、正造は拝観人の行列から飛び出して直訴の書状を掲げた。すぐに取り押さえられ、一晩勾留されたが、処置に困った政府は彼を狂人として早々に釈放した。こうして正造の東京での議員生活は終わりを告げ、彼は鉱毒被害の中心である谷中村に入っていくのである。

一方、天皇への直訴は不発に終わったものの世論の注目を浴び、政府はそれを鎮めるために「鉱毒問題調査委員会」を設置した。この時期、榎本農相は現地の惨状を視察して、鉱山の廃止を決めていたと考えられるが、鉱毒問題調査委員会の渡辺 渡(工学博士)はその結論をひっくり返す。彼は長く古河の技術顧問を務めていたのである。そのロジックはこうだ。今の鉱毒予防の措置は十分ではない。つまりいくらでも改善の余地があるから、今すぐに創業を停止する必要は無い、というものだ。

こうして鉱毒問題調査委員会は「予防措置命令」を出しただけで解散してしまった。政治が企業に従属していただけでなく、科学すら企業に従属していた。こうして古河鉱業の責任は一切問われることはなく、後の問題は流域の住民をどうやって納得させるかだけになっていた。

その方法は、渡良瀬川の改修工事であった。国は、巨額の予算を掛けて、度重なる水害を予防するために河川改修を行うことにした。これは本来、足尾銅山がなければ必要なかった工事であるし、それどころか、本当の問題は鉱毒であったのに、それを治水問題にすり替えて解決したことにしようという手段であった。

その犠牲者とも言うべき場所が、正造が入っていった谷中村であった。谷中村は、栃木県によって潰滅させられようとしていた。栃木県は、谷中村の村民を「救済」するため、村を「潴水池(遊水池)」にすることを決定した。明治35年に襲った大規模な洪水によって、村の堤防は破壊されたままになっていた。県はこれを補修しないで放置しておき、村そのものを遊水池にして全村民を移住させ、洪水問題を解決しようとしたのである。明治37年、遊水池設置のために県会で強行採決された予算上の名目は、「堤防修築費」だったにも関わらずだ。

谷中村がこのように権力に翻弄されたのは、村自身に弱みがあったからでもあった。村には明治35年以来、村長のなり手がなく、意思を統一することができなかった。さらに村には、村を売りたがっていた有力者がいた。彼らは、鉱毒で汚染された、洪水の頻発する土地で生きるよりも、むしろそれを売り飛ばす方が得だと考えた。その首魁とも言うべき存在が、安生(あんじょう)順四郎である。彼は権力者に取り入って村の土地の買収の仲介を行い、また混乱に乗じて村の財産を横領して私腹を肥やした。多くの村人たちは、県が公式の買収活動をする前に、「今のうちに売れるものは売っておいた方がよい」という安生らの流す風説を信じて、二束三文で土地を売ってしまった。安生の活躍によって、本来の評価額よりもはるかに低い金額で谷中村の人々は土地を手放した。

田中正造は、明治37年、63歳の時、まさに滅ぼされようとしていた谷中村に入る。その頃の谷中村は、既に村ではなく半ば沼になっていた。明治39年までの間に住民のほとんどは谷中村を捨て、谷中村は廃されてしまった。だが450戸中の19戸、百人あまりの村民が、「無法非道な権力の意志にしたがうよりも、この人間の住むところでない「人外境」に生きる道(p.129)」を選ぶ。正造は、残りの生涯をこの踏みとどまった村民と生きることになる。

明治39年、栃木県は村を遊水池にする事業の遂行のためと称して、村人が血が滲む思いで補修した堤防を壊し(!)、さらに立ち退きに応じなかったとして村人の家を強制的に破壊、しかも破壊費用まで村人に出させた。しかも折悪しく、家屋の破壊の夜、豪雨が降り出し洪水が起こる。最後の住人たちは文字通り無一物となり果て、ずぶ濡れになりながら全くの露宿で一夜を明かした。それでも彼らは全員、平然と元の屋敷跡に粗末な仮小屋を建てて、亡村に座り込んだのである。

田中正造は、もはやこうなれば移転しかないと考えた。村民のために移転先を用意し、移転を勧めた。だがその提案を全員が断る。今さら移転するくらいなら、家を破壊される前に出て行っている、というのだ。正造には、彼らの忍耐強さが理解できなかった。家を破壊されても平然としていて権力に怒っている様子もなく、なぜそうまでして沼となった亡村に留まり続けるのかと。「真相未だ相分かり兼候点これあり候」と正造は書いた。

そもそも、正造は谷中村の人々の戦いを、最初からまるきり理解していなかった。憲法や法律、人権といったことを知らない、無学無知な憐れむべき農民のために、自分が代わりに言論を奮って戦っているのだと、正造はそう思っていた。同志は谷中村民ではなく、東京の仲間であり、自分は谷中村の「保護者」であると考えていた。後に田中正造の伝記を書くことになる、正造の同志・木下尚江は、残った谷中村民を「列伝に値する勇者」だと最大級に称讃し、「非暴力、不服従の戦いの中に世界史的な偉大な啓示」を見ていたのに、正造は彼らを愚民としか思っていなかったのである。「まさしく言語道断ともいうべき正造の不分明」だった。

だが、正造は村民をまるで理解していなかったが、村を離れることはなかった。木下尚江が、村民を最大級に称讃しながらさっさと村を離れていったのとは対照的だ。そもそも正造が谷中村で過ごすようになったのは、最初は長居するつもりはなかったのに、彼らの惨状を見て離れるに忍びなくなったからだった。正造は村人を愚民だと見なしていたが、彼らと共に死ぬ覚悟をし、彼らを無限に愛していた。

そして正造の真に偉大な戦いが、ここから始まるのである。

そのきっかけは、村民の死に立ち会ったことのようである。 明治41年に死んだ村民竹沢友弥は末期の言葉として「仮小屋のなかで死ねるのはせめてもの満足だ」と語った。なぜ原始人のような生活をし、治療を拒否してまで亡村に踏みとどまり、それを満足としたのか。正造は自省せざるを得なかった。こうして「苦学」の日々が始まった。

やがて正造は、村民の生活全てがそのまま戦いであることを理解するようになる。彼は「不断に何の気負いもなく谷中人民が、きびしい戦いに従事しているのを知った(p.168)」。それは正造が取り組んできた言論の戦い、政治的な戦いとは異質なものだった。それは、政治的な手段が全て尽きたところに残された、たった一つの戦い、個人の権利に国家が立ち入ることを拒み通す戦い、自ら選んだ人生を生きるという戦いだったのである。

正造は、「予は目なし、耳なし、愚人中の愚人というべきのみ」と自分の不分明を恥じた。戦っているのは、正造ではなくて谷中村民だったことがはっきりとわかった。正造は、知識人、言論人としての自分を解体し、谷中人民を師として、自己と人生とを根底から問い直すことを始めた。彼は自ら「下野の百姓」と称し、谷中の村人と一緒になって生きた。そしてかつて自らが言論によって同志とともに展開してきた谷中の戦いが虚しいものだったことを悟った。それは「まったく的外れで、無意味で、こっけいな、空騒ぎ(p.159)」に過ぎなかった。

なぜなら、人民を守る意志も、言論を尊重する態度も、国家になかったからだ。政治は、言葉の遊びにすぎなかったのである。政治の退廃は行くところまで進み、天地を破壊してまで私利私欲が追求されるなかで、憲法や人道を持ち出すことに何の意味があるのか。天地が砕けた日本で、どうしたら人は自らを守ることができるのか。村人を愚民と見なした「田中正造」はもういなかった。正造の同志は「日本第一智謀者、日本第一の富有者たる谷中村民(p.191)」であった。

またこの時期、正造は、キリスト教に惹かれていった。日本人が神を持たないことが、日本を亡ぼす最大の原因だと見なし、「天国にゆく道ぶしん」をはじめた。正造は受洗していないのでキリスト者とは見なされていないし、聖書を至上のものとしたわけではないが(むしろ「聖書にくらべて谷中を読むべき也」といった)、その思想はキリスト者のそれといってよい。正造は、キリスト教が国民を救う唯一の力だとし、「目的宗教改革にあって、他は一切無頓着」とした。

やがて正造は渡良瀬川流域を踏破して、治水の徹底的な調査を始める。栃木県は鉱毒汚染から治水に問題をすり替えて渡良瀬川改修工事を行ったため、治水事業にはまやかしがあった。正造は、後世の参考とするため「間違った治水」を記録する事業を始めたのである。それはもはや、政治の間違いを糾弾する行為ではなかった。裁くのは「天」であった。自然の摂理に反した治水はいつかは破綻する。実際、谷中村が遊水池とされても、いっこうに洪水は減っていなかった。言論を武器としなくなった正造は、「摂理」を自らの柱としていたように見える。

そして治水調査の旅半ばにして、正造は力尽き、72歳でその生涯を終えた。奇しくも、35年の予算を組んで政治に発心してから、35年目のことであった。彼は無一文になっていた。

仮に正造がいなくても、おそらく谷中村の人々はそこに居座り続けたに違いない。しかし正造がそこにいたおかげで、黙殺される運命にあった谷中村の人々の戦いは不滅のものとなった。そこに座り込んだ人々は、時勢を読むことができない分からず屋だったのではなく、権力の横暴を深く憎み、非暴力・不服従の抵抗を貫き通した人々だったということが、正造を通して記録されたのである。

本書は、木下尚江の『田中正造之生涯』を下敷きに、現地や存命中の人に取材してまとめたものである。一般向けに書かれたものであるためにやや省略が多く、正造の私的な面(例えば結婚など)については一切触れておらず前後関係がわかりにくい箇所がある。また、その筆致は時に激情に流れ、冷静な評伝とはいえない。

だが、正造の戦いを述べようと思えば、感情の高ぶりを抑えることができなかったのもやむを得ないだろう。正造の戦いは、何かに打ち勝つ戦いではなかった。谷中村の人々と共に生きること全てが戦いであり、敢えていえば継承していくための戦いであった。そしてそれは、田中正造の生涯をかけて、実現したのである。

非常なる熱量を以て語られる田中正造論。

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2021年1月17日日曜日

『鑑真幻影―薩摩坊津・遣唐使船・肥前鹿瀬津』中村 明蔵 著

鑑真と坊津に関する伝説を批判検証する本。

薩摩の坊津(現 南さつま市坊津町)は、鑑真が艱難辛苦の末に日本に辿りついた土地であり、古来貿易港として栄え、遣唐使船がここから大陸へ向けて出発した地である、といわれてきた。

しかし鑑真が坊津へやってきたことは、『唐大和上東征伝』に「秋妻屋浦」(現 南さつま市坊津町秋目)が出てくるので史実と認められるにしても、その他については多分に伝説的な要素を含む。著者は史料や考古学の成果を活用してその伝説の多くが事実でないことを述べる。その結果をまとめれば次の通りとなる。

まず、坊津は古来貿易港として栄えたという点については、(1)日本・中国・朝鮮の史料を博捜しても、坊津の名称は古代の記録に見当たらないこと、(2)坊津の中心でありその名称の元になったという一乗院(西海金剛如意珠山龍厳寺一乗院)についても、中世以前の記録がなく、中世の創建であると考えられること、(3)一乗院跡の発掘調査においても、古代に遡る遺物が出土しなかったこと、から、あくまでも中世から発展した貿易港であったと考えられる。

次に、遣唐使船が坊津から出発したというのはどうだろうか。遣唐使船は、当初は「北路」と呼ばれる、北九州から朝鮮半島に進んで大陸へと渡るルートを取っていた。ところが新羅と敵対的な関係になると朝鮮半島を経由せずに大陸へと渡る「南路」が中心となり、特に薩南諸島沿いに進む「南島路」が開かれて、遣唐使船は全て坊津を出発していったのだという。

ところがこれも史料を検証してみると、往路で「南島路」を取った遣唐使船は皆無であり、復路についても鑑真のそれを含む2回だけしかない。つまり「南島路」は、臨時的に利用されたルートであり、坊津はその途上にあった寄港地であるにすぎないということになる。

ただし、「南島路」を取って帰国した2回の遣唐使船は、偶然にそのルートを通ったわけではないと考えられる。当時、朝廷は薩南諸島の島々に政策的な関心を寄せていた。そこから珍しい品が手に入るからであり、自らを中華に擬していた朝廷は外夷の従属を求めた。よって南島からも定期的に朝貢が行われ、朝廷はそれに応えて南島人たちに授位していたのである。ところがこの朝貢が神亀4年(727)で途絶える。そこで、再び朝貢を求めるために2回(天平5年(733)、天平勝宝4年(752))の遣唐使船は、帰路に南島路を取ったと思われるのである。

そうした政策的な要請があったにしろ、南島路は遣唐使船の通常ルートではなかった。そして坊津は古代からの要港ではなく、せいぜい中世から勃興した港だったのである。では、なぜ遣唐使船が出発したとか、古代から栄えたとかいう伝説が通説として広まっているのだろうか。

それは、最近で言えば『坊津町郷土誌』がそうした伝説を事実として記述したためであるし、さらに遡れば、『三国名勝図絵』が坊津が古代から栄えた港であったことを薄弱な根拠によって誇張して書いたからなのである。ただし、ではなぜ『三国名勝図絵』の編纂者たちは坊津の歴史をひどく誇張して書いたのかということについては詳らかでない。

本書には書いていないが、さらに遡ると、既に寛政7年(1795)に白尾国柱が編纂した『麑藩名勝考』に坊津が「日本三津」の一つだったことが挙げられており、『三国名勝図絵』のタネ本と考えられる。坊津の伝説が成立した事情を考察するには、『麑藩名勝考』も考慮に入れる必要があるだろう。

さらに、鑑真に関してもう一つの不確かな伝説がある。それは、鑑真が秋目に到着してから大宰府へ行く途中、肥前鹿瀬津(現 佐賀市嘉瀬町)に上陸したという伝説である。これは佐賀市によって事実とみなされ、嘉瀬町には「鑑真和上上陸記念碑」が建立された。しかしこれは、安藤更生が『鑑真』で「鹿瀬津に上陸したのではないだろうか」と推測したことが広まるうちに地元で既成事実化したもので史料上の裏付けは一切存在しない。

このように、本書は坊津と鑑真の伝説を批判的に検証したもので、「坊津は古来栄えたすごいところだ」と思っている人には面白くない本であろう。しかし史実を無視して顕彰を行うよりも、実態を理解することの方がずっと意義がある。実はこういう「つくられた歴史」は至るところにあるので、そういうケーススタディの一つとして見れば、必ずしも坊津や鑑真に興味のない人も読んで損のない本である。

本書の批判は学問的なものだが、前提知識はほとんど必要とせず、要点がまとまっており、大変読みやすい。なお本書の出版と同時期(2005年)に黎明館の栗林文夫氏が「坊津一乗院の成立について」(黎明館調査報告研究第18集所収)で、一乗院の成立が古代に遡りえないことをより学術的に論証している。

坊津の幻影を丁寧に除去した真面目な本。

 

2021年1月14日木曜日

『黄表紙・洒落本の世界』水野 稔 著

黄表紙・洒落本の勃興と衰退を描く。

洒落本とは、遊里の世界を面白おかしく書くことを基調とする本の一群で、半紙四つ折りのサイズ、せいぜい30〜40丁(枚)のものを定型とする。

洒落本を特徴付ける概念は「(つう)」である。

遊里とは特殊な閉ざされた世界であった。そしてそこは、閉ざされ隔離されているだけに、がんじがらめになった現実から開放される自由な場所でもあった。現実の世界でその能力を活かす機会を持たなかった知識人は、遊里の世界に沈潜し、そこを機知によって彩ることで憂さを晴らした。

であるから、洒落本はふざけた訓読や遊戯的気分を持ちながらも、かなりの和漢の学識に裏付けられたものとして出発した。そしてその世界観が、「権威に対するひそやかな抵抗感や凡俗に対する優越感(p.6)」を伴って、一つの具体的表現として結晶化した概念が「通」である。

「通」とは、例えば遊里でしか通用しない言葉、つまりギョーカイ用語をひけらかしたり、ことさらに遊女との関係を仄めかしたり、要人たちとの人脈を強調したりする…といった「半可通」の対立概念である。つまり、そういう「通っぽい」俗物を超脱した立場が「通」なのだ。

もっと積極的に言えば、「充実したもののつつましやかな発現(p.105)」が「通」である。知識は十分にありながらも外部にひけらかすのを抑制し、その場に適した行動ができるスマートな行き方である。「半可通」を笑い飛ばしながら、洒落本作者たちは「通」とは何かを追求した。

洒落本の定番のスタイルは、「半可通」の主人公が若くてウブな脇役を連れて遊里に出かけ、「半可通」は道すがらいかに自分がその道に長けているかを大言壮語するが、実際には遊女に冷遇されて手痛い目にあう(のを読者は面白がる)、といったものである。そしてそういう場面が、会話中心の文体によって展開されていく。この文体は、戯曲的といってもよいものである。

当初の洒落本は機知を中心とした和漢の学識に基づくふざけが中心だったが、これだと教養がある人間にしかその面白さがわからない。それが会話中心の平明な表現を獲得することにより、人物の写実描写で醸し出される自然の笑いを描けるようになったのが「小説としての大きな飛躍(p.27)」であった。

なお、こうした洒落本の定型をつくったのが、田舎老人多田爺(いなかろうじんただのじじい)作の『遊子方言』(明和7年(1770))という作品である。筆名からして人を食っているのが洒落本だ。

このように、「通」によって発展した洒落本は、次第に「うがち」へ向かって行く。

「うがち」とは、遊里の人間関係、遊客遊女の手管魂胆といった人間心理を「うがつ」ということである。洒落本は「半可通」を軽く笑い飛ばすよりも、遊里の人間模様を心理的に描くことに重点が移っていった。

一方、黄表紙の方は、草双紙(くさぞうし)というジャンルの一種。1冊5丁(=10ページ)が二三冊でセットになった形態の本で、毎丁絵が大きく入っていて、絵の周り(余白)に平仮名を主とした文章があるという絵本の形をとっているものである。なお黄表紙は当時は「青本」と呼ばれていたが(←ややこしい)、安永4年(1775)を境として、それ以前の草双紙を「青本」、それ以後を「黄表紙」と呼ぶのが文学史のならわしである。

その画期となったのが、安永4年の恋川春町(こいかわ・はるまち)の『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』である。

元々、絵本の形態を取っていたことから分かるように、黄表紙(青本)は、子供向けの本であった。ところが恋川春町はこの形態を使って、大人向けの作品を作ったのである。内容は、いわゆる「胡蝶の夢」のストーリーを使いつつ、夢の中で「半可通」になった金々先生が遊里で遊び尽くし、身を持ち崩すというもの。これは洒落本を元にして構想されたものであり、絵本的な戯画ではなく写実的なイメージによっても草双紙を革新するものだった。

春町はさらに洒落本的世界から踏み出して、『高慢斉行脚日記(こうまんさいあんぎゃにっき)』で社会諷刺を行い、『参幅対紫曽我(さんぷくついむらさきそが)』では武家社会の裏側を暴露するような作品も書いた。彼は独創的な才能を以て、荒唐無稽な筋書きを持ちながらも、かえって現実に密着するという黄表紙の基本的発想を確立したのである。まさに黄表紙は大人のマンガであった。

といっても、そこには深刻な社会批判や世の中を変えていこうとする気概はなかった。黄表紙は、「教訓や諷刺というのではない、明るい戯笑に徹した、夢にひとしいむだの遊び(p.88)」であった。それが黄表紙のよさでもあったし、また限界でもあった。また、黄表紙は形だけは童蒙のためのもの、という姿勢は崩さなかった。実質的には大人が楽しむものであっても、「子供向け」という看板を掲げ続けることで、当局からの批判をかわそうとしたのである。

黄表紙の頂点の一つに位置するのが、山東京伝である。浮世絵師であった京伝は絵・文の両方を書いた。彼の代表作『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』(天明5年(1786))は、即物的な写実主義(何屋の誰それ、といったような現実の遊里をそのまま描く)を用いつつ、滑稽な主人公(艶二郎)が大まじめに色男ぶった行動によって読者を笑わせ、遊里で遊び尽くすという庶民の夢をむしろ笑殺するものだ。物にとりつかれてひたむきに走る自意識過剰の艶二郎的な性格・発想は、その後の黄表紙の笑いの類型を作った。

山東京伝は同時に洒落本にも進出する。マンガ家が小説家に転身したようなものである。彼の本格的な小説とみなせる最初の作品が『江戸生〜』の2年後の『通言総籬(つうげんそうまがき)』。ここではまた艶二郎が登場するが、滑稽味ではなく、通人の生息した特殊な社交世界の有様を描くことが狙いとなっている。そこで展開される会話は、言葉が即座に遊戯化されてゆくもので、洒落本中でもっとも練り上げられた知的なものである。それは、「思うこと、考えることが、そのまま十分に言えないことに慣らされていたこの時代の庶民が、遊里のようないわば安全地帯で、せめて言葉の遊びに憂さを晴らそうとした(p.134)」ことを反映していた。

一方、 そういう写実の行き過ぎ、「うがち」によって遊里の内幕を暴露することによって作者自身が半可通的になってゆく愚かしさを痛烈に批判したのが万象亭(まんぞうてい)の『田舎芝居』(天保5年(1734))であった。「うがち」よりも「笑いの回復」が彼の主張であった。

そのような主張はまだ駆け出しだった山東京伝に向けられたものではなかったが、京伝自身も心に期すところがあったのか、やがて彼も表面的な写実主義に飽き足らなくなり、何屋の誰それといったような特定個人の関心から次第に離れ、遊里の人間関係の様相を類型的にとらえて深く観察し、心理の内奥に立ち入っていく。そうして出来た作品が『傾城買四十八手(けいせいがいしじゅうはって)』(寛政2年(1790))である。

これは「黄表紙とは反対に内へ内へと狭く深く沈潜しようとした洒落本が、特殊な社会的環境における単なる事象の知識という表面的なうがちから進んで、人間の性情・心理の洞察に到り得た作品として、最高のものと評価(p.161)」される。こうしたものが順調に発展していけば、京伝はさらに新しい分野を開きえたかもしれない。

ところがこの動きは幕府の寛政の改革によって掣肘を加えられる。田沼意次の失脚とそれに続く寛政の改革は、黄表紙の世界でもそれとなく諷刺され、例えば朋誠堂喜三二の『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどおし)』(天明8年(1788))はこの事件を取材して波瀾を巻き起こした。ただしそこに幕府批判の意図はなく、単に現実を戯画化して笑い飛ばしただけであった。だがこの作品をきっかけに幕政を茶化した作品が大量に生みだされるのである。当然、当局がそれを見過ごすはずもなく、幕政を茶化した(とされた)作者は弾圧を加えられた。

山東京伝は、画工としての比較的軽い処分に留まったものの、小心な京伝はそれにショックを受け、『傾城買〜』以降、筆を折って謹慎しようとしたのを、版元の蔦屋がむりやりにまた引き出し、寛政3年に三部作の洒落本を出版した。

この三部作は、これまでの遊興的雰囲気とはうってかわって、遊里の世界の悲しい暗さをもしみじみと描き、冷徹な観察による本来の写実が進められた。しかし一方で登場人物の感情を一歩引いて眺める余裕はなくなり、「むしろ黄表紙・洒落本作者が通と洒落の意識から、ことさらに拒否してきたともいえる、世話浄瑠璃風の義理人情のモラルとそれに伴う感傷(p.194)」が強調された。ちなみに、この作品も諷刺を目的としてはいなかったもののやはり絶版を命じられ、遂に京伝は筆を折った。

こうして、黄表紙はかつてのそれとは全く違うものとなっていった。韜晦さは姿を消し、平明である代わりにもう意表をつく奇警な観察はなくなる。ユーモアよりも義理人情と封建道徳の教化が高らかに謳われる。かつて京伝は『復讐後祭祀(かたきうちあとのまつり)』できまじめな敵討ちを笑い飛ばしたが、今やそうした敵討ちこそが黄表紙で称揚されるようになった。不謹慎なギャグを飛ばした黄表紙には、たちまち作者や版元に抗議が殺到した。当局が規制した以上に、読者の方も黄表紙の楽しみ方をわからなくなっていた。

それは、寛政改革前後に従前の豪商たちが没落して「通」を支える地盤が失われたためでもあった。 知識的な「うがち」よりも「人情」、「通」に代わって「いき」が支配的になっていった。

新しく擡頭してきた江戸読本(よみほん)と提携することでこうした傾向はさらに進み、草双紙敵討ものの全盛を見る。もはやそれはストーリーを売り物にするため長編化していく。1冊5丁が十冊にも及ぶものとなり、やがて合冊した製本となって草双紙の「合巻(ごうかん)」と呼ばれるものに移行した。こうして黄表紙は名実ともに消え去ったのである。

洒落本も似たような運命を辿る。末期の洒落本は、抒情的な感傷に満たされた甘美な描写が喜ばれ、会話文を主体とした形はとっていても、かつての滑稽味は姿を消し、写実描写の鋭さはなくなり、ひたすら涙を誘う「泣本(なきほん)」と呼ばれる低俗なものとなっていく。そしてそれは堕落とみなさられるのではなく、むしろ人情をうつすのが小説の本道だという考えになっていった結果であった。

次の文学運動を担うのは、十返舎一九や式亭三馬である。彼らも黄表紙から出発して洒落本にも大きな存在感を示した。しかし彼らは「通」好みの作品を書くのではなく、いずれも「大衆を相手とする新しいジャンルに自己の本領を見出した(p.208)」 。人間の愛情を直接的に描く「人情本」が次の主役になるのである。

本書は小著ながら、黄表紙・洒落本が生まれ、滅んでいった様子をつぶさに述べたものであり、引用がやや不親切(現代の読者には馴染みのない言葉をそのまま引用している)であるが、全体的にはわかりやすい。

黄表紙と洒落本の話が割とまぜこぜになっているのでややこしかったが、この二つは相即不離に影響し合いながら発達していったためにこれはやむを得ないと思う。

ところで、黄表紙・洒落本が没落して人情本に移行したのは文学的には発展とはいえなかったのかもしれない。しかし黄表紙・洒落本の多くが舞台とし、自由を謳歌した遊里は、遊び人にとっては自由だったかもしれないが、そこで働く遊女たちにとっては自由どころではなかった。「うがち」によって遊里を精密に写実しようとするほど、却ってそこには不自由な女の哀しみを書かざるを得なかったのではないか。

山東京伝の最後の三部作は、そういう観察の行き着くところであったような気がする。黄表紙・洒落本を没落させたのは確かに寛政の改革であった。だがその衰退は、内在した矛盾——遊里の遊びを茶化せるのは客だけだという非対称性——があったのではないだろうか。

黄表紙・洒落本の歴史を通じて当時の社会や文学の在り方を考えさせる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸の本屋さん—近世文化史の側面』今田 洋三 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/03/blog-post.html
江戸時代の出版・流通事情をまとめた本。蔦屋重三郎(版元)が『文武二道万石通』を出版した意義についてはこちらを参照。書商という文化の裏方から見る江戸の文化史。

 

2021年1月4日月曜日

『クレメンティ—生涯と音楽』レオン・プランティンガー 著、藤江 効子 訳

クレメンティの評伝。

クレメンティといえば、ピアノ学習者には「ソナチネアルバム」に入っている数曲の愛らしいソナタでおなじみだろう。

ところがそれ以外のクレメンティの作品に触れる人は少なく、またどのような作曲家であったかを知る人は少ない。クレメンティはモーツァルトと同世代であるが、存命中はモーツァルトよりも有名で、ハイドンとベートーヴェンを除けば、誰よりもヨーロッパ中に令名を轟かしていた。

またとかく旬の短かった音楽家の世界で、(演奏会からは遠ざかっていたとはいえ)80歳近くまで現役であり続け、60年に亘って第一線で活躍し続けたのも驚異的なことだった。さらにピアニストとして得た収入で事業を興し(正確には買収)、事業家としても成功した。音楽家としても事業家としても一流の仕事をしたのがクレメンティである。ところが、彼の音楽は今の時代にはさほど評価されているとはいえない。「後世の評価がこんなにも激しく下降を辿ったのは、ほんの僅かの作曲家——テレマンとマイヤベーアが思い起こされる——だけである(p.7)」(※)。

ムツィオ・クレメンティは、1752年、ローマで生まれた。幼い頃から音楽教育を受け、12歳でオラトリオを作曲し、14歳で教会の常任オルガニストの地位を得るほどオルガンに熟達した。しかしイタリアでの音楽教育は対位法を中心としたもので、よく言えば伝統的、悪く言えば時代遅れであったようだ。そしてイタリアを旅行中のイギリスの貴族、ピーター・ベックフォードに彼は買われる。

ベックフォードは、ドーセットでの彼の邸宅で音楽会が催せるように、クレメンティ少年を7年契約で連れて行ったのだ。こうしてクレメンティは、僅か14歳で故郷を離れ、指導もされず、ほとんど手助けもなしに自分の進路を切り開かねばならなかった。しかし彼は、驚異的なまでの厳格さで自己管理を行い、ローマで学んだ音楽理論を上書きするように、最新の音楽を「独学」していった。クレメンティの音楽は、貴族の邸宅での音楽的従僕という屈辱的な立場で、ハープシコードに向かう長い孤独な時間によって形作られた。

ただ、ベックフォードは一廉の音楽愛好家で、その邸宅にはJ.S.バッハの『平均律クラヴィーア曲集』の「ロンドン自筆譜」が所有されていたらしい。当時まだ出版されておらず人口に膾炙していなかったバッハの音楽を研究できたことはクレメンティにとって僥倖だった。

また、この時期にクレメンティがイタリアを離れ、イギリスで自己を磨いたことは、結果的には彼の人生に有利に働いた。イギリスは一足先に産業革命を迎えておりヨーロッパの中での先進国であり、イギリス人は大陸から美術品を輸入しまくっていた。あらゆるものが「古典的」な美風を備えるべきとされ、「古楽コンサート」(J.C.バッハ=アーベル)が盛況となり、世紀の終わり頃には「廃墟」が恭しく新造されるほどであった。イギリス人は音楽家もたくさん「輸入」し、「18世紀後半のイタリア器楽の中心はイギリスの首都だった、といっても過言ではない(p.35)」。紛れもなく、イギリスは音楽の中心地だったのである。

ドーセットでの7年の奉公契約を終えたクレメンティはロンドンに出る。何の後ろ盾もなかったクレメンティは当初はパッとしなかったが、1770年代後半に王立劇場の指揮者の職を得て人生が好転し始める。そして1779年の春にOp.2のピアノソナタ(6曲)が出版されて、彼の名声が確立した。

ところでクレメンティが大陸旅行を行った際、ヨーゼフ2世の下でモーツァルトとの弾き比べが行われたのは割と有名なエピソードである。この頃のクレメンティは名人芸的(曲芸的)な技術はあったが、聴く人によってはいくぶん粗野に感じられるものだった。また彼のこの頃のピアノ技法は前時代に属するものだったようである。なお、モーツァルトの『魔笛』序曲はクレメンティの作品を下敷きにした形跡がある。

クレメンティは倦まず弛まず努力するタイプの人間であった。彼の最初期の作品の多くは、必ずしも素晴らしい才能を予見させるものではないが(また、名声をなしてからも駄作がある)、持ち前の学究的な態度でその精度を向上させていった。特に1780年頃に早くもバロック時代の(特にバッハの)フーガを研究し、自ら複雑な後期バロック様式のフーガを作曲していたことは特筆に値しよう。

彼は次第に、名人芸の誇示を辞め、メロディー豊かで高貴な演奏様式を好むようになり、18世紀の終わり頃にはロンドンでの作曲家・演奏家としての絶頂に達した。そして1790年、38歳で公的なピアニストとしての活動を終了する。この頃、ピアニストと言えば十代の若手が普通であって、クレメンティはかなり年上であったことも引退の理由であった。だがそれよりももっと大きかったと推測されるのは、いかに広く世間に認められていたにしても、ヴィルトゥオーゾ(名人)であるだけでは、社会的地位が低かったということである。クレメンティは若い頃の孤独で屈辱的な経験があるだけに「名声」や社会的地位には強くこだわった。

クレメンティは、ある時期は交響曲の作曲家として名をなそうと努力した事もあったが、結局ハイドンの交響曲には太刀打ち出来なかった。クレメンティの音楽は一流ではあっても超一流ではなかったのである。一方、ピアノ教師としては、多くの有望な弟子を育て成功した。特に有名な弟子は、クラマー、ベルティーニ、ジョン・フィールドである。彼は特別高額な謝礼は設定していなかったものの、かなり大勢の弟子を教えていたらしい。

クレメンティは音楽によって財をなし、それを事業に投資して自身で会社を経営した。事業内容は、楽譜の出版・販売、ピアノの製造・販売である。世紀の変わり目頃に、クレメンティは芸術から事業へと足場を移した。イギリスでは、事業家になることは「尊敬さるべき地位への一歩と見られた(p.144)」。彼は度を超した極端な倹約家で、疑り深く、金銭にガメつく、自らの楽譜出版の収入のために駄作を量産した時期もあった。「クレメンティほどの能力ある人物が、明らかに収入の増大と、Opus番号を増やすだけの目的で、このような手段に頼ったことを知るのは悲しいことである(p.148)」。

それであっても、彼の最良の作品(例えばOp.34 no.2のピアノソナタ)は、彼が第一級の音楽性の持ち主であったことを如実に示している。

1802年から、50歳となったクレメンティは8年にも及ぶ大陸旅行を行う。これは旅行というより出張と言った方がよいもので、目的は自社のピアノ販売・販路拡張と、楽譜の出版のための出版社や作曲家との交渉のためであった。この出張によって、クレメンティはベートーヴェンのいくつかの曲の楽譜出版の権利を得、イギリスにおけるベートーヴェンの主要な出版社となることができた。

またこの旅行中、彼は弟子を大陸の主要な都市に配置し、ピアノ販売の代理人として活用した。なおアレクサンダー・クレンゲルはこの旅行の中でクレメンティの一門に入り、ペテルブルクに残って(駐在させられて)いる。

この時期、クレメンティは自身の作品の出版をほとんど行っていない。それは、事業に軸足が移ったためでもあるが、それ以上に「自作を手当たり次第に出版するという悪習から脱却した(p.197)」ためでもある。彼は完全に納得ゆくまで自作を公表しなくなっていた。作曲家としては、内省の時期であった。

1810年代、クレメンティの会社はベートーヴェンの作品の出版によって輝かしい業績を挙げ、また1813年にはクレメンティらロンドンの最高の音楽家たちは共同してフィルハーモニー協会を設立し、クレメンティはその常任指揮者に就任した。また同年、クレメンティはスウェーデンの王立音楽アカデミー会員ともなった。60代のクレメンティは今や十分な社会的地位にいて、多くの弟子に囲まれ、名実共に大家として遇された。孤独で疑り深かったクレメンティはすっかり自分を変えることが出来た。

それでも、クレメンティは向上することをやめなかった。一つは、彼のピアノ芸術の集大成である『グラドゥス・アド・パルナッスム』の作曲である。これは、約55年に及ぶ作曲・改訂・編集の産物であり、全てが新作ではないが、「クレメンティ自身の鍵盤音楽技法の要約的記録、最終的総括」であり、プレリュード、フーガ、カノン、スケルツォ、ソナタなどの多様な曲の100曲もの集成である。彼は既に時代遅れのように思われていたフーガを数多くこの曲集に収録した。この曲集は、練習曲の体裁は取っていたが、「これらの曲のかなりの部分は(中略)一般的練習曲とは異なっていた。すなわち、それらは純粋に多声的なのであった(p.239)」。

『クラドゥス』1巻は1817年、3巻が完結したのが1826年。その曲集は、技術的な目的から音楽的な目的へと次第に高まっていき、遂に「堂々たる一種の遺書、遺言状」であり、彼の鍵盤音楽技法の総決算となった。70代の音楽家が、このような一大作品集を作り得たということが驚異的である。

もう一つは、晩年までも交響曲の作曲を辞めなかったことである。クレメンティにとって、最後に追い求めた名声が交響曲の作曲家として認められることであった。しかし、ベートーヴェンが現れて別格の交響曲を作曲し、それ以上の作品が誰にとっても不可能になってしまったため、クレメンティは敗退を余儀なくされた。だが、70代の作曲家が交響曲にトライし続けたのは、大変なエネルギーであったはずである。

クレメンティは、1832年、80歳で亡くなった。葬儀には、数多くの民衆が訪れたという。遺体は、ウエストミンスター大聖堂の修道院に葬られた。床にはこう刻まれている

ピアノフォルテの父と呼ばれた
ムツィオ・クレメンティ
音楽家として
また作曲家としての
ヨーロッパ中に認められた彼の名声は
この修道院に
埋葬されるという
栄誉を彼に与えた

クレメンティの音楽家としての人生は、輝かしい成功を収めた。こんなにも長い期間、演奏家・作曲家・教育者として活躍した人は同時代にいなかった。クレメンティの人生が、そのまま、ピアノという楽器の成立時期にもあたっていたので、彼は「ピアノフォルテの父」と呼ばれるに相応しい業績を残した。

しかし、その内容を詳細に見てみれば、そこには一抹の哀しみがあるように思う。まず、クレメンティが偏愛した対位法的な作品は、成功しなかったということだ。クレメンティはカノンやフーガといった後期バロックの込み入った作品を理想としていたが、そのような様式ではクレメンティは遂に第一級の作品を書くことができなかった。15歳からの7年間という大事な時期、正規の音楽教育を受けられなかったことは、クレメンティの生涯に長く悪影響を及ぼした。

次に、彼は優れた音楽性を持っていたにも関わらず、余りにも事業に熱心であったために、本当なら到達してもおかしくなかった音楽的高みに辿り着くことができなかったように見える、ということだ。少年の頃の長く辛い孤独な境遇を克服して、自由闊達な境地に辿り着くのに、彼は半世紀ほどもかけなければならなかった。

クレメンティは、学究肌で、語学に堪能であり(ヨーロッパ諸語のほとんどをしゃべれた)、「特にラテン文学に素養があり、数学と天文学の熱心な研究者(p.71)」でもあった。いわば彼は、天才なのだった。少年の頃のやや時代遅れな教育を別とすれば、彼はほとんど独学によってヨーロッパのピアノ界の頂点まで上り詰めたのである。しかしそれが、彼の限界をも定めてしまったという面が否めない。

なお、本書は音楽について論評する際には必ず楽譜を掲示し、かなり専門的な部分(楽典的なところ)まで考証する。正直言うと、私はそういう部分は読み飛ばした。音大の学部レベルの本である。しかしそこを読み飛ばしたにしても、クレメンティの人生は面白く、楽譜が読めない人にも十分楽しめる本だと思う。

独学の「ピアノフォルテの父」の実像に迫った快作。

※原著出版1977年。その後、テレマンについては再評価されており、「激しく下降」は現代では当たらない。


2021年1月2日土曜日

『日待・月待・庚申待』飯田 道夫 著

日待・月待の考察。

今では失われてしまった習俗に日待(ひまち)・月待(つきまち)がある。今でも寺院の隅などに「二十三夜塔」と刻まれた石塔が立っていることがあるが、これは「月待塔」と総称される石塔で、この習俗の名残だ。

日待・月待とは、特定の月(普通は1月、5月、9月)の特定の日(例えば「二十三夜待」であれば、23日)に、余興などをしながら眠らずに過ごすという行事である(日待・月待の行事内容にはほとんど差がない)。

では、これは一体何のために行われたものか。日待・月待は広く行われた一般的な習俗であったにもかかわらず、これがわからない。すでに江戸時代の文化人たちが、「日待は○○のためにするものであろう」といった調子で推測を交えて語っている。この行事をやっていた江戸時代の人々も、余興をして徹夜するという遊興の方に重点があったせいで、行事の本質を忘れてしまい、役者を呼んで騒いだり、遊郭で遊び呆ける日としか認識していなかったようである。

現代の民俗学では、日待・月待をそれぞれ五穀豊穣を祈った太陽信仰・月信仰と見る。寝ずに夜を過ごし、太陽が出てくる様子を拝むのが日待だというのだ。例えば「二十三夜待」も、二十三夜の月(当時は太陰暦だったので、日付と月齢は一致する)を拝する信仰であると。

確かに、農村に残る日待・月待を観察してみればそういう結論になる。農村では何かにつけ五穀豊穣を祈るものだし、太陽や月も豊作を司るものとして敬われたのは事実である。しかし、日待で太陽をそのまま拝むとは妙に原始的であるし、別に徹夜せずとも早起きして朝日を拝めばよいはずなのに、なぜ夜中起きている必要があるか。どうも民俗学の説明では行事の本質が見えてこないのである。

そこで著者は、随筆や文芸作品といった近世の文献に日待・月待がどのように描かれているかを渉猟し、日待・月待とは一体なんであったのか推測する。その過程を省いて結論だけ書けば次のようになる。

まず、三長斎月(正五九月)の一定期間(元来は一ヶ月間)、精進潔斎して仏事を修する行事があった。これは、この期間、帝釈天が人々の行いを宝鏡に映し出して監視すると考えられたために行われたもの。この期間だけでも行いを正しくするため悔過(けか)の法が行われることもあった。また、満月がこの宝鏡と同一視され、満月に行いを見せる行事へと変質していったと思われる。さらに、鏡餅も、この宝鏡とみなされたアイテムではなかったかと著者は言う。

それはともかく、元来は精進潔斎して一月を過ごす仏事であったらしいが、一ヶ月間も精進潔斎するのは日常生活に差し障りがあるので、それが短縮されやがて1日となった。また月に自らの正しい行いを見せるという趣旨に変わっていき、結果として徹夜して過ごすことになったと考えられる。また神は賑やかなことが好きであるという考えで、精進潔斎というより楽しく騒いで夜を明かすというように変わっていった。これが日待である。ところが「日待」は単に「徹夜する」というだけの意味の言葉となり、広く使われるようになったため用語が混乱した。

よって、日待に太陽信仰は関係なく、朝日を拝むという行為自体が行われていなかったと考えられる。江戸時代の識者が「日待」=「日祭り」と考え考証したことが裏目となり、太陽信仰であるという誤解が生まれたのだという。また、用語としては”日”待であるが、行事の趣旨からは”月”に自分の行為を見せるというところに重点があったことにも注意しなくてはならない。

では月待の方はどうか。大雑把にいうと「月待」というもの自体がなかったというのが著者の考えである。というのは、「二十三夜待」などというものはあったが、これは別に月とは関係なかったというのである。もちろん「十三夜夜待」「十九夜待」「二十六夜待」といったいわゆる月待は、月に行いを見せるということがあったり、月を拝んだりと、全く月と関係ないわけではないが、本質的にはそれぞれその仏の縁日(縁が深い日)に仏事を修することであり、月はオマケであった。例えば「二十三夜待」の場合、勢至菩薩を祀ることが行事の中心であって、月には象徴的な意味しかないというのである。

なお、庚申待については、江戸時代は「日待・月待・庚申待」とセットで認識されていたので本書でも一緒に扱われているが、著者は前著(『庚申信仰』等)によってこれを詳細に考察しているため、本書では簡単な説明である。

著者は、英文科卒で航空会社に勤務した人で、日本の文化は専門ではない。海外に出た時に日本文化への無知を感じて古典文芸を紐解いたことをきっかけにこういった研究をするようになったのだという。よって、本書は必ずしも専門的な考証を経たものではないが、民俗学や宗教学の立場で研究するよりもかえって自由に検討ができているように感じ好感を持った。

ただ、上述の結論については、私自身はスッキリと納得したとはいえない。日待・月待という行事が多様であるため、都合のいいところで切り取ればどうとでも言える部分があるし、特に月待については、著者の説明では徹夜しなくてはならない理由が薄弱に思える。著者自身も一つの考えであるという立場で、決定的なものとは見なしていない。さらなる考究が行われることを期待したい。

とはいえ、日待・月待のような地味な研究は今の世の中では人気がなく、「さらなる考察」は当面出そうにないのが現実である。そんなわけで本書は、日待・月待について、現段階では最もよくまとまった考察の書である。

自由な立場で日待・月待を論じた価値のある本。


2021年1月1日金曜日

『19世紀のピアニストたち』千蔵 八郎 著

19世紀前半のピアニストたちの多様な生き様。

18世紀の終盤から19世紀前半は、まさにピアノの時代であった。ちょうどその頃、ピアノという楽器が長足の進歩を遂げてどんどん表現の幅が広がり、また上層中産階級の家庭に普及した。そしてたくさんのピアニストがデビューし、持てはやされた時代でもあった。

本書は、そうしたピアニストたちの人生を紹介し、生き生きとしたピアノの時代の雰囲気を描くものである。

主に取り上げられているのは、フンメル、クレメンティ、フィールド、ベートーヴェン、カルクブレンナー、モシェレス、アルカン、リスト、ショパン、チェルニー…といったところである。この他、女性の音楽家も数多く登場する。

当時のピアニストの在り方は、今のクラシックのピアニストよりも、ポップスやロックのバンドマンたちに近い。というのは、演奏会を企画開催する団体がほとんどなかったからで、彼らは自身の手でその披露の場を作らなくてはならなかった。

まず演奏会は、人口の多い都市に乗合馬車で向かうところから始まる。当時はまだ鉄道がなく、悪路をゆく乗合馬車を何十時間も乗り継いでヨーロッパ中を巡る必要があった。一つの町で継続的に演奏会に人を呼ぶのは、人口のずっと多い現代でも難しいからだ。それに、録音もジャーナリズムもなかった時代、音楽家として名を上げようと思えば、どうしても自分が出向いて演奏する必要がある。だから、まずピアニストは長時間の移動に耐える体力が必要だった。

目的の都市についたら地域の顔役に挨拶し、演奏会の開催の許可やその協力を取り付ける。ここで重要なのは共演者の確保である。というのは、ヨーロッパ中に名声が轟いているようなピアニストでない限り、たくさんのチケットがいきなり売れるわけはない。そこで、「歌がうまい誰々さんの娘」というような、地元の音楽愛好家に共演してもらうのである。そうすることで、知り合い票によってチケットを売りさばくことができる。そして関係者は多い方がいい。だからこの時代は、ピアニストが単独でリサイタルするということはなく、いろいろな人が演奏したり出し物をするような、今でいう演芸大会のような形のコンサートが行われていた。

もちろん、そこで出演してもらう共演者には主催者であるピアニストが出演料を出す必要がある。チケット収入から、会場費、出演料などを引いた残りが本人の収入となるが、いつの時代も興行とは難しいもので、儲かる時もあれば損する時もあった。この時代のピアニストは、芸術家というよりは「興行主」であり、むちゃくちゃな人生を歩んだ異色の人物が多かったのである。一言でいえば、当時のピアニストはヤクザっぽかった。

しかし、実は彼らの本当の目的は興行収入ではなかった。演奏会で評判がよければ、良家の子女や音楽家志望の若者がレッスンを申し込んでくる。このレッスン料が継続的な収入となったのである。そもそも、移動を含めて演奏会には多大な労力がかかる上、この時代のピアノ技法はどんどん進歩し、一人のピアニストが長い期間に演奏活動を続けることはなかった。だから、いわばイキがいいうちに指導者として認められるか、興行で得たお金で事業を興すなど、次のステップに移っていく必要があったのである。

とはいえ、この時代は「いまのように、名声をあげるすべがたった一つのルートしかないというのに比べれば、はるかに幸福だった(p.64)」といえる。コンクールはまだ存在せず、音楽院はあったがそこでの成績や学閥は、成功にはあまり関係なかった。この点も、バンドマンの世界と似ている部分である。

ちなみに、当時の演奏会は、これまでの説明でもわかるように今のクラシックのコンサートとは全く違うもので、観客は演奏会を社交の場と捉えておしゃべりしたり、時には一緒に歌ったりするような場であったらしい。今のような2時間程度の独演会を初めて開催したのはリストだと言われている。19世紀半ばに、今風の「リサイタル」が確立した。

また、本書の全体を通じて述べられているのが、19世紀前半はピアノの古い奏法と新しい奏法が共存し、競争した時期であったということである。「古い奏法」とは、チェンバロ由来のもので、腕(と掌)を動かさずに指だけを動かして弾くやり方である。この訓練のため、手の甲にコインを置いて、それが落ちないようにピアノを弾くようなことも行われていた。一方、新しい奏法は、腕全体を使って弾く今のやり方である(ベートーヴェンは前世代に属するが、どうやらこっちの弾き方をしていたようだ)。 クレメンティのように、古い奏法で頭角を現しながら、新しい奏法の利点を認めて鞍替えした人もいた。新しい奏法を使って華麗に演奏したリストによって、この共存には終止符が打たれることになった。

本書は、雑誌『ムジカノーヴァ』に連載された記事をまとめたものであり、気軽にスラスラと読める。エピソードによって当時を語るものであるため、ちょっと物足りないところもあるが、普通の音楽史があまり扱わないピアニストのヤクザ的な面が描かれており面白い本である。

【関連書籍の読書メモ】
『カルル・チェルニー—ピアノに囚われた音楽家』グレーテ・ヴェーマイヤー 著、岡 美知子 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/12/blog-post_31.html
チェルニーの人生を辿り、19世紀前半の音楽シーンを描く。時代に適合しすぎた音楽家チェルニーを描いた力作。