今では失われてしまった習俗に日待(ひまち)・月待(つきまち)がある。今でも寺院の隅などに「二十三夜塔」と刻まれた石塔が立っていることがあるが、これは「月待塔」と総称される石塔で、この習俗の名残だ。
日待・月待とは、特定の月(普通は1月、5月、9月)の特定の日(例えば「二十三夜待」であれば、23日)に、余興などをしながら眠らずに過ごすという行事である(日待・月待の行事内容にはほとんど差がない)。
では、これは一体何のために行われたものか。日待・月待は広く行われた一般的な習俗であったにもかかわらず、これがわからない。すでに江戸時代の文化人たちが、「日待は○○のためにするものであろう」といった調子で推測を交えて語っている。この行事をやっていた江戸時代の人々も、余興をして徹夜するという遊興の方に重点があったせいで、行事の本質を忘れてしまい、役者を呼んで騒いだり、遊郭で遊び呆ける日としか認識していなかったようである。
現代の民俗学では、日待・月待をそれぞれ五穀豊穣を祈った太陽信仰・月信仰と見る。寝ずに夜を過ごし、太陽が出てくる様子を拝むのが日待だというのだ。例えば「二十三夜待」も、二十三夜の月(当時は太陰暦だったので、日付と月齢は一致する)を拝する信仰であると。
確かに、農村に残る日待・月待を観察してみればそういう結論になる。農村では何かにつけ五穀豊穣を祈るものだし、太陽や月も豊作を司るものとして敬われたのは事実である。しかし、日待で太陽をそのまま拝むとは妙に原始的であるし、別に徹夜せずとも早起きして朝日を拝めばよいはずなのに、なぜ夜中起きている必要があるか。どうも民俗学の説明では行事の本質が見えてこないのである。
そこで著者は、随筆や文芸作品といった近世の文献に日待・月待がどのように描かれているかを渉猟し、日待・月待とは一体なんであったのか推測する。その過程を省いて結論だけ書けば次のようになる。
まず、三長斎月(正五九月)の一定期間(元来は一ヶ月間)、精進潔斎して仏事を修する行事があった。これは、この期間、帝釈天が人々の行いを宝鏡に映し出して監視すると考えられたために行われたもの。この期間だけでも行いを正しくするため悔過(けか)の法が行われることもあった。また、満月がこの宝鏡と同一視され、満月に行いを見せる行事へと変質していったと思われる。さらに、鏡餅も、この宝鏡とみなされたアイテムではなかったかと著者は言う。
それはともかく、元来は精進潔斎して一月を過ごす仏事であったらしいが、一ヶ月間も精進潔斎するのは日常生活に差し障りがあるので、それが短縮されやがて1日となった。また月に自らの正しい行いを見せるという趣旨に変わっていき、結果として徹夜して過ごすことになったと考えられる。また神は賑やかなことが好きであるという考えで、精進潔斎というより楽しく騒いで夜を明かすというように変わっていった。これが日待である。ところが「日待」は単に「徹夜する」というだけの意味の言葉となり、広く使われるようになったため用語が混乱した。
よって、日待に太陽信仰は関係なく、朝日を拝むという行為自体が行われていなかったと考えられる。江戸時代の識者が「日待」=「日祭り」と考え考証したことが裏目となり、太陽信仰であるという誤解が生まれたのだという。また、用語としては”日”待であるが、行事の趣旨からは”月”に自分の行為を見せるというところに重点があったことにも注意しなくてはならない。
では月待の方はどうか。大雑把にいうと「月待」というもの自体がなかったというのが著者の考えである。というのは、「二十三夜待」などというものはあったが、これは別に月とは関係なかったというのである。もちろん「十三夜夜待」「十九夜待」「二十六夜待」といったいわゆる月待は、月に行いを見せるということがあったり、月を拝んだりと、全く月と関係ないわけではないが、本質的にはそれぞれその仏の縁日(縁が深い日)に仏事を修することであり、月はオマケであった。例えば「二十三夜待」の場合、勢至菩薩を祀ることが行事の中心であって、月には象徴的な意味しかないというのである。
なお、庚申待については、江戸時代は「日待・月待・庚申待」とセットで認識されていたので本書でも一緒に扱われているが、著者は前著(『庚申信仰』等)によってこれを詳細に考察しているため、本書では簡単な説明である。
著者は、英文科卒で航空会社に勤務した人で、日本の文化は専門ではない。海外に出た時に日本文化への無知を感じて古典文芸を紐解いたことをきっかけにこういった研究をするようになったのだという。よって、本書は必ずしも専門的な考証を経たものではないが、民俗学や宗教学の立場で研究するよりもかえって自由に検討ができているように感じ好感を持った。
ただ、上述の結論については、私自身はスッキリと納得したとはいえない。日待・月待という行事が多様であるため、都合のいいところで切り取ればどうとでも言える部分があるし、特に月待については、著者の説明では徹夜しなくてはならない理由が薄弱に思える。著者自身も一つの考えであるという立場で、決定的なものとは見なしていない。さらなる考究が行われることを期待したい。
とはいえ、日待・月待のような地味な研究は今の世の中では人気がなく、「さらなる考察」は当面出そうにないのが現実である。そんなわけで本書は、日待・月待について、現段階では最もよくまとまった考察の書である。
自由な立場で日待・月待を論じた価値のある本。
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