2021年1月4日月曜日

『クレメンティ—生涯と音楽』レオン・プランティンガー 著、藤江 効子 訳

クレメンティの評伝。

クレメンティといえば、ピアノ学習者には「ソナチネアルバム」に入っている数曲の愛らしいソナタでおなじみだろう。

ところがそれ以外のクレメンティの作品に触れる人は少なく、またどのような作曲家であったかを知る人は少ない。クレメンティはモーツァルトと同世代であるが、存命中はモーツァルトよりも有名で、ハイドンとベートーヴェンを除けば、誰よりもヨーロッパ中に令名を轟かしていた。

またとかく旬の短かった音楽家の世界で、(演奏会からは遠ざかっていたとはいえ)80歳近くまで現役であり続け、60年に亘って第一線で活躍し続けたのも驚異的なことだった。さらにピアニストとして得た収入で事業を興し(正確には買収)、事業家としても成功した。音楽家としても事業家としても一流の仕事をしたのがクレメンティである。ところが、彼の音楽は今の時代にはさほど評価されているとはいえない。「後世の評価がこんなにも激しく下降を辿ったのは、ほんの僅かの作曲家——テレマンとマイヤベーアが思い起こされる——だけである(p.7)」(※)。

ムツィオ・クレメンティは、1752年、ローマで生まれた。幼い頃から音楽教育を受け、12歳でオラトリオを作曲し、14歳で教会の常任オルガニストの地位を得るほどオルガンに熟達した。しかしイタリアでの音楽教育は対位法を中心としたもので、よく言えば伝統的、悪く言えば時代遅れであったようだ。そしてイタリアを旅行中のイギリスの貴族、ピーター・ベックフォードに彼は買われる。

ベックフォードは、ドーセットでの彼の邸宅で音楽会が催せるように、クレメンティ少年を7年契約で連れて行ったのだ。こうしてクレメンティは、僅か14歳で故郷を離れ、指導もされず、ほとんど手助けもなしに自分の進路を切り開かねばならなかった。しかし彼は、驚異的なまでの厳格さで自己管理を行い、ローマで学んだ音楽理論を上書きするように、最新の音楽を「独学」していった。クレメンティの音楽は、貴族の邸宅での音楽的従僕という屈辱的な立場で、ハープシコードに向かう長い孤独な時間によって形作られた。

ただ、ベックフォードは一廉の音楽愛好家で、その邸宅にはJ.S.バッハの『平均律クラヴィーア曲集』の「ロンドン自筆譜」が所有されていたらしい。当時まだ出版されておらず人口に膾炙していなかったバッハの音楽を研究できたことはクレメンティにとって僥倖だった。

また、この時期にクレメンティがイタリアを離れ、イギリスで自己を磨いたことは、結果的には彼の人生に有利に働いた。イギリスは一足先に産業革命を迎えておりヨーロッパの中での先進国であり、イギリス人は大陸から美術品を輸入しまくっていた。あらゆるものが「古典的」な美風を備えるべきとされ、「古楽コンサート」(J.C.バッハ=アーベル)が盛況となり、世紀の終わり頃には「廃墟」が恭しく新造されるほどであった。イギリス人は音楽家もたくさん「輸入」し、「18世紀後半のイタリア器楽の中心はイギリスの首都だった、といっても過言ではない(p.35)」。紛れもなく、イギリスは音楽の中心地だったのである。

ドーセットでの7年の奉公契約を終えたクレメンティはロンドンに出る。何の後ろ盾もなかったクレメンティは当初はパッとしなかったが、1770年代後半に王立劇場の指揮者の職を得て人生が好転し始める。そして1779年の春にOp.2のピアノソナタ(6曲)が出版されて、彼の名声が確立した。

ところでクレメンティが大陸旅行を行った際、ヨーゼフ2世の下でモーツァルトとの弾き比べが行われたのは割と有名なエピソードである。この頃のクレメンティは名人芸的(曲芸的)な技術はあったが、聴く人によってはいくぶん粗野に感じられるものだった。また彼のこの頃のピアノ技法は前時代に属するものだったようである。なお、モーツァルトの『魔笛』序曲はクレメンティの作品を下敷きにした形跡がある。

クレメンティは倦まず弛まず努力するタイプの人間であった。彼の最初期の作品の多くは、必ずしも素晴らしい才能を予見させるものではないが(また、名声をなしてからも駄作がある)、持ち前の学究的な態度でその精度を向上させていった。特に1780年頃に早くもバロック時代の(特にバッハの)フーガを研究し、自ら複雑な後期バロック様式のフーガを作曲していたことは特筆に値しよう。

彼は次第に、名人芸の誇示を辞め、メロディー豊かで高貴な演奏様式を好むようになり、18世紀の終わり頃にはロンドンでの作曲家・演奏家としての絶頂に達した。そして1790年、38歳で公的なピアニストとしての活動を終了する。この頃、ピアニストと言えば十代の若手が普通であって、クレメンティはかなり年上であったことも引退の理由であった。だがそれよりももっと大きかったと推測されるのは、いかに広く世間に認められていたにしても、ヴィルトゥオーゾ(名人)であるだけでは、社会的地位が低かったということである。クレメンティは若い頃の孤独で屈辱的な経験があるだけに「名声」や社会的地位には強くこだわった。

クレメンティは、ある時期は交響曲の作曲家として名をなそうと努力した事もあったが、結局ハイドンの交響曲には太刀打ち出来なかった。クレメンティの音楽は一流ではあっても超一流ではなかったのである。一方、ピアノ教師としては、多くの有望な弟子を育て成功した。特に有名な弟子は、クラマー、ベルティーニ、ジョン・フィールドである。彼は特別高額な謝礼は設定していなかったものの、かなり大勢の弟子を教えていたらしい。

クレメンティは音楽によって財をなし、それを事業に投資して自身で会社を経営した。事業内容は、楽譜の出版・販売、ピアノの製造・販売である。世紀の変わり目頃に、クレメンティは芸術から事業へと足場を移した。イギリスでは、事業家になることは「尊敬さるべき地位への一歩と見られた(p.144)」。彼は度を超した極端な倹約家で、疑り深く、金銭にガメつく、自らの楽譜出版の収入のために駄作を量産した時期もあった。「クレメンティほどの能力ある人物が、明らかに収入の増大と、Opus番号を増やすだけの目的で、このような手段に頼ったことを知るのは悲しいことである(p.148)」。

それであっても、彼の最良の作品(例えばOp.34 no.2のピアノソナタ)は、彼が第一級の音楽性の持ち主であったことを如実に示している。

1802年から、50歳となったクレメンティは8年にも及ぶ大陸旅行を行う。これは旅行というより出張と言った方がよいもので、目的は自社のピアノ販売・販路拡張と、楽譜の出版のための出版社や作曲家との交渉のためであった。この出張によって、クレメンティはベートーヴェンのいくつかの曲の楽譜出版の権利を得、イギリスにおけるベートーヴェンの主要な出版社となることができた。

またこの旅行中、彼は弟子を大陸の主要な都市に配置し、ピアノ販売の代理人として活用した。なおアレクサンダー・クレンゲルはこの旅行の中でクレメンティの一門に入り、ペテルブルクに残って(駐在させられて)いる。

この時期、クレメンティは自身の作品の出版をほとんど行っていない。それは、事業に軸足が移ったためでもあるが、それ以上に「自作を手当たり次第に出版するという悪習から脱却した(p.197)」ためでもある。彼は完全に納得ゆくまで自作を公表しなくなっていた。作曲家としては、内省の時期であった。

1810年代、クレメンティの会社はベートーヴェンの作品の出版によって輝かしい業績を挙げ、また1813年にはクレメンティらロンドンの最高の音楽家たちは共同してフィルハーモニー協会を設立し、クレメンティはその常任指揮者に就任した。また同年、クレメンティはスウェーデンの王立音楽アカデミー会員ともなった。60代のクレメンティは今や十分な社会的地位にいて、多くの弟子に囲まれ、名実共に大家として遇された。孤独で疑り深かったクレメンティはすっかり自分を変えることが出来た。

それでも、クレメンティは向上することをやめなかった。一つは、彼のピアノ芸術の集大成である『グラドゥス・アド・パルナッスム』の作曲である。これは、約55年に及ぶ作曲・改訂・編集の産物であり、全てが新作ではないが、「クレメンティ自身の鍵盤音楽技法の要約的記録、最終的総括」であり、プレリュード、フーガ、カノン、スケルツォ、ソナタなどの多様な曲の100曲もの集成である。彼は既に時代遅れのように思われていたフーガを数多くこの曲集に収録した。この曲集は、練習曲の体裁は取っていたが、「これらの曲のかなりの部分は(中略)一般的練習曲とは異なっていた。すなわち、それらは純粋に多声的なのであった(p.239)」。

『クラドゥス』1巻は1817年、3巻が完結したのが1826年。その曲集は、技術的な目的から音楽的な目的へと次第に高まっていき、遂に「堂々たる一種の遺書、遺言状」であり、彼の鍵盤音楽技法の総決算となった。70代の音楽家が、このような一大作品集を作り得たということが驚異的である。

もう一つは、晩年までも交響曲の作曲を辞めなかったことである。クレメンティにとって、最後に追い求めた名声が交響曲の作曲家として認められることであった。しかし、ベートーヴェンが現れて別格の交響曲を作曲し、それ以上の作品が誰にとっても不可能になってしまったため、クレメンティは敗退を余儀なくされた。だが、70代の作曲家が交響曲にトライし続けたのは、大変なエネルギーであったはずである。

クレメンティは、1832年、80歳で亡くなった。葬儀には、数多くの民衆が訪れたという。遺体は、ウエストミンスター大聖堂の修道院に葬られた。床にはこう刻まれている

ピアノフォルテの父と呼ばれた
ムツィオ・クレメンティ
音楽家として
また作曲家としての
ヨーロッパ中に認められた彼の名声は
この修道院に
埋葬されるという
栄誉を彼に与えた

クレメンティの音楽家としての人生は、輝かしい成功を収めた。こんなにも長い期間、演奏家・作曲家・教育者として活躍した人は同時代にいなかった。クレメンティの人生が、そのまま、ピアノという楽器の成立時期にもあたっていたので、彼は「ピアノフォルテの父」と呼ばれるに相応しい業績を残した。

しかし、その内容を詳細に見てみれば、そこには一抹の哀しみがあるように思う。まず、クレメンティが偏愛した対位法的な作品は、成功しなかったということだ。クレメンティはカノンやフーガといった後期バロックの込み入った作品を理想としていたが、そのような様式ではクレメンティは遂に第一級の作品を書くことができなかった。15歳からの7年間という大事な時期、正規の音楽教育を受けられなかったことは、クレメンティの生涯に長く悪影響を及ぼした。

次に、彼は優れた音楽性を持っていたにも関わらず、余りにも事業に熱心であったために、本当なら到達してもおかしくなかった音楽的高みに辿り着くことができなかったように見える、ということだ。少年の頃の長く辛い孤独な境遇を克服して、自由闊達な境地に辿り着くのに、彼は半世紀ほどもかけなければならなかった。

クレメンティは、学究肌で、語学に堪能であり(ヨーロッパ諸語のほとんどをしゃべれた)、「特にラテン文学に素養があり、数学と天文学の熱心な研究者(p.71)」でもあった。いわば彼は、天才なのだった。少年の頃のやや時代遅れな教育を別とすれば、彼はほとんど独学によってヨーロッパのピアノ界の頂点まで上り詰めたのである。しかしそれが、彼の限界をも定めてしまったという面が否めない。

なお、本書は音楽について論評する際には必ず楽譜を掲示し、かなり専門的な部分(楽典的なところ)まで考証する。正直言うと、私はそういう部分は読み飛ばした。音大の学部レベルの本である。しかしそこを読み飛ばしたにしても、クレメンティの人生は面白く、楽譜が読めない人にも十分楽しめる本だと思う。

独学の「ピアノフォルテの父」の実像に迫った快作。

※原著出版1977年。その後、テレマンについては再評価されており、「激しく下降」は現代では当たらない。


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