2021年1月14日木曜日

『黄表紙・洒落本の世界』水野 稔 著

黄表紙・洒落本の勃興と衰退を描く。

洒落本とは、遊里の世界を面白おかしく書くことを基調とする本の一群で、半紙四つ折りのサイズ、せいぜい30〜40丁(枚)のものを定型とする。

洒落本を特徴付ける概念は「(つう)」である。

遊里とは特殊な閉ざされた世界であった。そしてそこは、閉ざされ隔離されているだけに、がんじがらめになった現実から開放される自由な場所でもあった。現実の世界でその能力を活かす機会を持たなかった知識人は、遊里の世界に沈潜し、そこを機知によって彩ることで憂さを晴らした。

であるから、洒落本はふざけた訓読や遊戯的気分を持ちながらも、かなりの和漢の学識に裏付けられたものとして出発した。そしてその世界観が、「権威に対するひそやかな抵抗感や凡俗に対する優越感(p.6)」を伴って、一つの具体的表現として結晶化した概念が「通」である。

「通」とは、例えば遊里でしか通用しない言葉、つまりギョーカイ用語をひけらかしたり、ことさらに遊女との関係を仄めかしたり、要人たちとの人脈を強調したりする…といった「半可通」の対立概念である。つまり、そういう「通っぽい」俗物を超脱した立場が「通」なのだ。

もっと積極的に言えば、「充実したもののつつましやかな発現(p.105)」が「通」である。知識は十分にありながらも外部にひけらかすのを抑制し、その場に適した行動ができるスマートな行き方である。「半可通」を笑い飛ばしながら、洒落本作者たちは「通」とは何かを追求した。

洒落本の定番のスタイルは、「半可通」の主人公が若くてウブな脇役を連れて遊里に出かけ、「半可通」は道すがらいかに自分がその道に長けているかを大言壮語するが、実際には遊女に冷遇されて手痛い目にあう(のを読者は面白がる)、といったものである。そしてそういう場面が、会話中心の文体によって展開されていく。この文体は、戯曲的といってもよいものである。

当初の洒落本は機知を中心とした和漢の学識に基づくふざけが中心だったが、これだと教養がある人間にしかその面白さがわからない。それが会話中心の平明な表現を獲得することにより、人物の写実描写で醸し出される自然の笑いを描けるようになったのが「小説としての大きな飛躍(p.27)」であった。

なお、こうした洒落本の定型をつくったのが、田舎老人多田爺(いなかろうじんただのじじい)作の『遊子方言』(明和7年(1770))という作品である。筆名からして人を食っているのが洒落本だ。

このように、「通」によって発展した洒落本は、次第に「うがち」へ向かって行く。

「うがち」とは、遊里の人間関係、遊客遊女の手管魂胆といった人間心理を「うがつ」ということである。洒落本は「半可通」を軽く笑い飛ばすよりも、遊里の人間模様を心理的に描くことに重点が移っていった。

一方、黄表紙の方は、草双紙(くさぞうし)というジャンルの一種。1冊5丁(=10ページ)が二三冊でセットになった形態の本で、毎丁絵が大きく入っていて、絵の周り(余白)に平仮名を主とした文章があるという絵本の形をとっているものである。なお黄表紙は当時は「青本」と呼ばれていたが(←ややこしい)、安永4年(1775)を境として、それ以前の草双紙を「青本」、それ以後を「黄表紙」と呼ぶのが文学史のならわしである。

その画期となったのが、安永4年の恋川春町(こいかわ・はるまち)の『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』である。

元々、絵本の形態を取っていたことから分かるように、黄表紙(青本)は、子供向けの本であった。ところが恋川春町はこの形態を使って、大人向けの作品を作ったのである。内容は、いわゆる「胡蝶の夢」のストーリーを使いつつ、夢の中で「半可通」になった金々先生が遊里で遊び尽くし、身を持ち崩すというもの。これは洒落本を元にして構想されたものであり、絵本的な戯画ではなく写実的なイメージによっても草双紙を革新するものだった。

春町はさらに洒落本的世界から踏み出して、『高慢斉行脚日記(こうまんさいあんぎゃにっき)』で社会諷刺を行い、『参幅対紫曽我(さんぷくついむらさきそが)』では武家社会の裏側を暴露するような作品も書いた。彼は独創的な才能を以て、荒唐無稽な筋書きを持ちながらも、かえって現実に密着するという黄表紙の基本的発想を確立したのである。まさに黄表紙は大人のマンガであった。

といっても、そこには深刻な社会批判や世の中を変えていこうとする気概はなかった。黄表紙は、「教訓や諷刺というのではない、明るい戯笑に徹した、夢にひとしいむだの遊び(p.88)」であった。それが黄表紙のよさでもあったし、また限界でもあった。また、黄表紙は形だけは童蒙のためのもの、という姿勢は崩さなかった。実質的には大人が楽しむものであっても、「子供向け」という看板を掲げ続けることで、当局からの批判をかわそうとしたのである。

黄表紙の頂点の一つに位置するのが、山東京伝である。浮世絵師であった京伝は絵・文の両方を書いた。彼の代表作『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』(天明5年(1786))は、即物的な写実主義(何屋の誰それ、といったような現実の遊里をそのまま描く)を用いつつ、滑稽な主人公(艶二郎)が大まじめに色男ぶった行動によって読者を笑わせ、遊里で遊び尽くすという庶民の夢をむしろ笑殺するものだ。物にとりつかれてひたむきに走る自意識過剰の艶二郎的な性格・発想は、その後の黄表紙の笑いの類型を作った。

山東京伝は同時に洒落本にも進出する。マンガ家が小説家に転身したようなものである。彼の本格的な小説とみなせる最初の作品が『江戸生〜』の2年後の『通言総籬(つうげんそうまがき)』。ここではまた艶二郎が登場するが、滑稽味ではなく、通人の生息した特殊な社交世界の有様を描くことが狙いとなっている。そこで展開される会話は、言葉が即座に遊戯化されてゆくもので、洒落本中でもっとも練り上げられた知的なものである。それは、「思うこと、考えることが、そのまま十分に言えないことに慣らされていたこの時代の庶民が、遊里のようないわば安全地帯で、せめて言葉の遊びに憂さを晴らそうとした(p.134)」ことを反映していた。

一方、 そういう写実の行き過ぎ、「うがち」によって遊里の内幕を暴露することによって作者自身が半可通的になってゆく愚かしさを痛烈に批判したのが万象亭(まんぞうてい)の『田舎芝居』(天保5年(1734))であった。「うがち」よりも「笑いの回復」が彼の主張であった。

そのような主張はまだ駆け出しだった山東京伝に向けられたものではなかったが、京伝自身も心に期すところがあったのか、やがて彼も表面的な写実主義に飽き足らなくなり、何屋の誰それといったような特定個人の関心から次第に離れ、遊里の人間関係の様相を類型的にとらえて深く観察し、心理の内奥に立ち入っていく。そうして出来た作品が『傾城買四十八手(けいせいがいしじゅうはって)』(寛政2年(1790))である。

これは「黄表紙とは反対に内へ内へと狭く深く沈潜しようとした洒落本が、特殊な社会的環境における単なる事象の知識という表面的なうがちから進んで、人間の性情・心理の洞察に到り得た作品として、最高のものと評価(p.161)」される。こうしたものが順調に発展していけば、京伝はさらに新しい分野を開きえたかもしれない。

ところがこの動きは幕府の寛政の改革によって掣肘を加えられる。田沼意次の失脚とそれに続く寛政の改革は、黄表紙の世界でもそれとなく諷刺され、例えば朋誠堂喜三二の『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどおし)』(天明8年(1788))はこの事件を取材して波瀾を巻き起こした。ただしそこに幕府批判の意図はなく、単に現実を戯画化して笑い飛ばしただけであった。だがこの作品をきっかけに幕政を茶化した作品が大量に生みだされるのである。当然、当局がそれを見過ごすはずもなく、幕政を茶化した(とされた)作者は弾圧を加えられた。

山東京伝は、画工としての比較的軽い処分に留まったものの、小心な京伝はそれにショックを受け、『傾城買〜』以降、筆を折って謹慎しようとしたのを、版元の蔦屋がむりやりにまた引き出し、寛政3年に三部作の洒落本を出版した。

この三部作は、これまでの遊興的雰囲気とはうってかわって、遊里の世界の悲しい暗さをもしみじみと描き、冷徹な観察による本来の写実が進められた。しかし一方で登場人物の感情を一歩引いて眺める余裕はなくなり、「むしろ黄表紙・洒落本作者が通と洒落の意識から、ことさらに拒否してきたともいえる、世話浄瑠璃風の義理人情のモラルとそれに伴う感傷(p.194)」が強調された。ちなみに、この作品も諷刺を目的としてはいなかったもののやはり絶版を命じられ、遂に京伝は筆を折った。

こうして、黄表紙はかつてのそれとは全く違うものとなっていった。韜晦さは姿を消し、平明である代わりにもう意表をつく奇警な観察はなくなる。ユーモアよりも義理人情と封建道徳の教化が高らかに謳われる。かつて京伝は『復讐後祭祀(かたきうちあとのまつり)』できまじめな敵討ちを笑い飛ばしたが、今やそうした敵討ちこそが黄表紙で称揚されるようになった。不謹慎なギャグを飛ばした黄表紙には、たちまち作者や版元に抗議が殺到した。当局が規制した以上に、読者の方も黄表紙の楽しみ方をわからなくなっていた。

それは、寛政改革前後に従前の豪商たちが没落して「通」を支える地盤が失われたためでもあった。 知識的な「うがち」よりも「人情」、「通」に代わって「いき」が支配的になっていった。

新しく擡頭してきた江戸読本(よみほん)と提携することでこうした傾向はさらに進み、草双紙敵討ものの全盛を見る。もはやそれはストーリーを売り物にするため長編化していく。1冊5丁が十冊にも及ぶものとなり、やがて合冊した製本となって草双紙の「合巻(ごうかん)」と呼ばれるものに移行した。こうして黄表紙は名実ともに消え去ったのである。

洒落本も似たような運命を辿る。末期の洒落本は、抒情的な感傷に満たされた甘美な描写が喜ばれ、会話文を主体とした形はとっていても、かつての滑稽味は姿を消し、写実描写の鋭さはなくなり、ひたすら涙を誘う「泣本(なきほん)」と呼ばれる低俗なものとなっていく。そしてそれは堕落とみなさられるのではなく、むしろ人情をうつすのが小説の本道だという考えになっていった結果であった。

次の文学運動を担うのは、十返舎一九や式亭三馬である。彼らも黄表紙から出発して洒落本にも大きな存在感を示した。しかし彼らは「通」好みの作品を書くのではなく、いずれも「大衆を相手とする新しいジャンルに自己の本領を見出した(p.208)」 。人間の愛情を直接的に描く「人情本」が次の主役になるのである。

本書は小著ながら、黄表紙・洒落本が生まれ、滅んでいった様子をつぶさに述べたものであり、引用がやや不親切(現代の読者には馴染みのない言葉をそのまま引用している)であるが、全体的にはわかりやすい。

黄表紙と洒落本の話が割とまぜこぜになっているのでややこしかったが、この二つは相即不離に影響し合いながら発達していったためにこれはやむを得ないと思う。

ところで、黄表紙・洒落本が没落して人情本に移行したのは文学的には発展とはいえなかったのかもしれない。しかし黄表紙・洒落本の多くが舞台とし、自由を謳歌した遊里は、遊び人にとっては自由だったかもしれないが、そこで働く遊女たちにとっては自由どころではなかった。「うがち」によって遊里を精密に写実しようとするほど、却ってそこには不自由な女の哀しみを書かざるを得なかったのではないか。

山東京伝の最後の三部作は、そういう観察の行き着くところであったような気がする。黄表紙・洒落本を没落させたのは確かに寛政の改革であった。だがその衰退は、内在した矛盾——遊里の遊びを茶化せるのは客だけだという非対称性——があったのではないだろうか。

黄表紙・洒落本の歴史を通じて当時の社会や文学の在り方を考えさせる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸の本屋さん—近世文化史の側面』今田 洋三 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/03/blog-post.html
江戸時代の出版・流通事情をまとめた本。蔦屋重三郎(版元)が『文武二道万石通』を出版した意義についてはこちらを参照。書商という文化の裏方から見る江戸の文化史。

 

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