薩摩の坊津(現 南さつま市坊津町)は、鑑真が艱難辛苦の末に日本に辿りついた土地であり、古来貿易港として栄え、遣唐使船がここから大陸へ向けて出発した地である、といわれてきた。
しかし鑑真が坊津へやってきたことは、『唐大和上東征伝』に「秋妻屋浦」(現 南さつま市坊津町秋目)が出てくるので史実と認められるにしても、その他については多分に伝説的な要素を含む。著者は史料や考古学の成果を活用してその伝説の多くが事実でないことを述べる。その結果をまとめれば次の通りとなる。
まず、坊津は古来貿易港として栄えたという点については、(1)日本・中国・朝鮮の史料を博捜しても、坊津の名称は古代の記録に見当たらないこと、(2)坊津の中心でありその名称の元になったという一乗院(西海金剛如意珠山龍厳寺一乗院)についても、中世以前の記録がなく、中世の創建であると考えられること、(3)一乗院跡の発掘調査においても、古代に遡る遺物が出土しなかったこと、から、あくまでも中世から発展した貿易港であったと考えられる。
次に、遣唐使船が坊津から出発したというのはどうだろうか。遣唐使船は、当初は「北路」と呼ばれる、北九州から朝鮮半島に進んで大陸へと渡るルートを取っていた。ところが新羅と敵対的な関係になると朝鮮半島を経由せずに大陸へと渡る「南路」が中心となり、特に薩南諸島沿いに進む「南島路」が開かれて、遣唐使船は全て坊津を出発していったのだという。
ところがこれも史料を検証してみると、往路で「南島路」を取った遣唐使船は皆無であり、復路についても鑑真のそれを含む2回だけしかない。つまり「南島路」は、臨時的に利用されたルートであり、坊津はその途上にあった寄港地であるにすぎないということになる。
ただし、「南島路」を取って帰国した2回の遣唐使船は、偶然にそのルートを通ったわけではないと考えられる。当時、朝廷は薩南諸島の島々に政策的な関心を寄せていた。そこから珍しい品が手に入るからであり、自らを中華に擬していた朝廷は外夷の従属を求めた。よって南島からも定期的に朝貢が行われ、朝廷はそれに応えて南島人たちに授位していたのである。ところがこの朝貢が神亀4年(727)で途絶える。そこで、再び朝貢を求めるために2回(天平5年(733)、天平勝宝4年(752))の遣唐使船は、帰路に南島路を取ったと思われるのである。
そうした政策的な要請があったにしろ、南島路は遣唐使船の通常ルートではなかった。そして坊津は古代からの要港ではなく、せいぜい中世から勃興した港だったのである。では、なぜ遣唐使船が出発したとか、古代から栄えたとかいう伝説が通説として広まっているのだろうか。
それは、最近で言えば『坊津町郷土誌』がそうした伝説を事実として記述したためであるし、さらに遡れば、『三国名勝図絵』が坊津が古代から栄えた港であったことを薄弱な根拠によって誇張して書いたからなのである。ただし、ではなぜ『三国名勝図絵』の編纂者たちは坊津の歴史をひどく誇張して書いたのかということについては詳らかでない。
本書には書いていないが、さらに遡ると、既に寛政7年(1795)に白尾国柱が編纂した『麑藩名勝考』に坊津が「日本三津」の一つだったことが挙げられており、『三国名勝図絵』のタネ本と考えられる。坊津の伝説が成立した事情を考察するには、『麑藩名勝考』も考慮に入れる必要があるだろう。
さらに、鑑真に関してもう一つの不確かな伝説がある。それは、鑑真が秋目に到着してから大宰府へ行く途中、肥前鹿瀬津(現 佐賀市嘉瀬町)に上陸したという伝説である。これは佐賀市によって事実とみなされ、嘉瀬町には「鑑真和上上陸記念碑」が建立された。しかしこれは、安藤更生が『鑑真』で「鹿瀬津に上陸したのではないだろうか」と推測したことが広まるうちに地元で既成事実化したもので史料上の裏付けは一切存在しない。
このように、本書は坊津と鑑真の伝説を批判的に検証したもので、「坊津は古来栄えたすごいところだ」と思っている人には面白くない本であろう。しかし史実を無視して顕彰を行うよりも、実態を理解することの方がずっと意義がある。実はこういう「つくられた歴史」は至るところにあるので、そういうケーススタディの一つとして見れば、必ずしも坊津や鑑真に興味のない人も読んで損のない本である。
本書の批判は学問的なものだが、前提知識はほとんど必要とせず、要点がまとまっており、大変読みやすい。なお本書の出版と同時期(2005年)に黎明館の栗林文夫氏が「坊津一乗院の成立について」(黎明館調査報告研究第18集所収)で、一乗院の成立が古代に遡りえないことをより学術的に論証している。
坊津の幻影を丁寧に除去した真面目な本。
0 件のコメント:
コメントを投稿