2017年8月16日水曜日

『あのころはフリードリヒがいた』ハンス・ペーターリヒター著、上田 真而子 訳

ユダヤ人迫害をテーマにした児童文学。

これは大人にとって、読み進めるのが痛々しい本である。というのは、主人公の幼なじみ、ユダヤ人のフリードリヒ少年を待ち受ける過酷な運命を知っているからだ。のっけからその悲劇を予感して、ページを捲る手を止めたくなるような本だ。

主人公「ぼく」とフリードリヒは同じアパートの階上階下に住む関係で、いつも仲良く遊んでいた。フリードリヒのお父さんは公務員、「ぼく」のお父さんは失業者だったが、そんなことは幼い二人には関係なかった。

ドイツ政府がユダヤ人に不利な政策を矢継ぎ早に打ち出していく中でも、「ぼく」とフリードリヒは親友同士であり、決して、フリードリヒがユダヤ人だからといってからかったり、いじめたりすることはなかった。「ぼく」のお父さんもお母さんも政府のユダヤ人迫害には批判的で、フリードリヒ一家との友好的な付き合いを続けていた。

しかし社会はどんどん動いていった。フリードリヒのお父さんは仕事を辞めさせられる。ユダヤ人が公職に就くことが禁じられたからだ。次の仕事は見つかるが、徐々にフリードリヒの一家は貧しくなる。一方で、「ぼく」のお父さんは「党」に入党する。そのことで就職でき、また党員だからということで昇進も早くなる。

また、「少年団」が組織され、反ユダヤ的な活動が子どもの間でも組織的に行われるようにもなった。「ぼく」は少年団に入り(入らされ)、フリードリヒも少年団に憧れるがその活動内容を知って絶望する。「ぼく」は反ユダヤ政策に対して共感もしていないが、強く反発しているわけでもない。ただ、フリードリヒとの友情は変わらないというだけで。

やがてユダヤ人は、ありとあらゆる権利が制限されていく。そんな中、「ポグロム」が行われるようになる。ポグロムとは、ユダヤ人に対して行われる暴動・破壊・虐殺行為のことである。ユダヤ人の住居が突然襲われ、略奪や破壊が行われた。もちろん警察はこれを黙認していた。そしてフリードリヒの家も(つまり「ぼく」のアパートの階上だ)ポグロムによって破壊され、フリードリヒのお母さんはこの時の怪我によって死んでしまう。

一方、「ぼく」は、ユダヤ人排斥の気持ちはなかったにも関わらず、 ポグロムで浮かれたように破壊行為をする人波に混じり、(フリードリヒの家に対してではないが)なんとなく破壊に荷担してしまう。ユダヤ人学校の机や勉強道具を面白半分で壊してまわったのだ。ここは物語中の白眉だと思う。ポグロムが行われるには、ユダヤ人への強い差別意識など必要なかったのだ。ただ、暴力行為が黙認されさえすれば、何でもいいから破壊したいという衝動が利用されていた。

こうして、もはやユダヤ人は隠れるようにして生きるしか術がなかった。フリードリヒの家は夜でも明かりのつかない家になった。そして、フリードリヒだけは外出中だったので見逃されたが、一家は強制的に連行された。しかし一人残ったフリードリヒの命運も尽きていた。爆撃が迫り周辺の住民は防空待避所へと避難したのに、ユダヤ人のフリードリヒは入れてもらえなかったからだ。

爆弾がそそがれる中、フリードリヒは防空待避所へ入れてもらえるよう嘆願する。ユダヤ人であっても、こんな時には入れてあげたらいい、と多くの人が言う中、責任者のレッシュはあくまでも拒否してフリードリヒを外に追い出す。レッシュは、「ぼく」やフリードリヒの住むアパートの大家で、前々からフリードリヒ一家を追い出したかったのだ。爆撃によってフリードリヒは命を落とす。翌朝、その死体を足蹴にしてレッシュが言う。「こういう死に方ができたのは、こいつの幸せさ」

「ぼく」はいつでもフリードリヒの味方だし、その他の登場人物にもユダヤ人に親切な人は多い。しかしそれでも、ドイツはユダヤ人排斥の動きを止めることはできなかった。たとえ自分のできる範囲でユダヤ人を守りたいと思っても、普通の人には社会の巨大な力に抗うことは無理なのだ。親切でやさしく、正義感に溢れた人が斥けられ、レッシュのような小心翼々とした卑怯な人間が活躍する世界、それが戦争だった。社会はひっくり返ってしまったのだ。ひっくり返った世界では、ごく当たり前の、人と人とのいたわりなど、何の力も持たなくなるのだった。

私たちはもう二度と、世界をひっくり返らせてはならないのだ。

2017年8月15日火曜日

『天皇陵の研究』茂木 雅博 著

天皇陵についての研究を一般向けに紹介した本。

本書は、著者が1992年に出版した『天皇陵の研究』(学術書)を、一般向けに仕立て直したものである。

本書では、まず幕末の「帝陵発掘事件」が取り上げられる。天皇陵とされた古墳を盗掘したという罪で、数人が死刑に処された事件である。それまでは、古墳の発掘というのは別に禁止されておらず、宝探し的に掘られることが多かったそうだ。にもかかわらず、幕末になって急に古墳の盗掘が重い罪とされ、何人もが市中引き回しの上磔という極刑に処されたのである。これは、万世一系の天皇制を確立するにあたり、古墳を天皇陵と治定し聖域化したことの象徴だという。

さらに、神武天皇陵の創出についてもやや詳しく顛末が述べられる。おそらくは実在していなかったと思われる神武天皇の山陵を、政府がどうやって「創り出したか」ということだ。明治政府は「神武の創業に復る」を旗印にしたが、国家の創設者としての神武天皇は近代天皇制の中心であった。そのためのモニュメントとして神武天皇陵を急ごしらえで治定するのである。それまでも神武天皇陵の研究(探索)がなかったわけではないが、神武天皇陵は学術的な根拠を差し置いて政治的な都合で治定された側面が強い。

また、さほど詳しくは書かれていないが、神武天皇陵に関して興味を惹いたのは、明治初期に奈良県を治めた(県令、追って知事だった)税所篤(さいしょ・あつし)のことである。税所は薩摩藩出身。立場を利用して美術品の収集やその販売を秘密裏に行っていたことが疑われており、ボストン美術館にある天皇陵の遺物は税所が不法に(偶然を装って)行った山陵の発掘によるものだと考えられているが、ここで取り上げられるのはその話ではない。

税所は、明治13年に神武天皇陵が位置する畝傍山を公有化(買収)し、天皇陵の聖域化に一役かっているし、おそらくは神武祭の実施などにも関わっているだろう。また、神武天皇即位宮にあたる「橿原神宮」の創建が一般の行政では考えられないほど急速に進んだことを鑑みると、主導していたものと思われる。要するに、税所は奈良盆地の聖域化を考えていたようなフシがある。橿原神宮はその後国家により特別待遇を受けて拡大の一途を辿る。このあたりで税所がどういう役割を果たしていたのか非常に気になるところである。

このほか、本書では民衆と古墳の関わりの問題、古墳の考古学研究の概観、そして天皇陵の公開をめぐる議論が紹介されている。「公開をめぐる議論」のところでは、公開を求める学界に宮内庁が国会で答弁した議事録が引用されているがこれはなかなか面白い。「別に秘匿しているわけではない。求めがあれば公開する」と言いながら、のらりくらりとしていつまでたっても天皇陵の公開を渋る宮内庁の雰囲気がよく伝わってきた。

本書は、学術書を下敷きに書かれているため史料の引用が多く、細かい特定の話題について深く述べる形で書かれており、必ずしも天皇陵にまつわる問題の全体像を把握できる本ではない。天皇陵研究の紹介の部分でも、各時代での天皇陵の治定が表となってたくさん紹介されていたが、こういうのは一般の読者は熱心に比較対照するものではない。

というように、一般向けに書くならもう少しかみ砕いて説明できるのではと思う部分もあるが、学術書の雰囲気を残したまま割と気軽に読める天皇陵の研究本。


2017年8月11日金曜日

『天皇陵の近代史』外池 昇 著

「天皇陵」がどのように形成されたかを述べる本。

天皇陵とは、いうなれば天皇の墓とされた古墳のことである。すなわち、天皇陵というものを考える時、「この古墳は○○天皇の墓である」と決定したプロセスがいかなるものであったかが問題になる。

このプロセスに大きな影響を与えたのが、いわゆる「文久の修陵」と呼ばれるものだった。これは、宇都宮藩(実質的には筆頭家老だった戸田忠至(とだ・ただゆき)が企画)が歴代天皇陵の修復を幕府に対して建白したもので、建白の段階で宇都宮藩は山陵の現状を見たこともなく、いわば机上の空論として修陵を企図したのであった。

それどころか、修陵をしようにも、まず最も重要視された「神武天皇陵」がどの古墳にあたるのかも分かっていなかった。であるから、「文久の修陵」においては、まず天皇陵を治定することから始まったのである。そして、このときの修陵の方針が、拝所の設置や立ち入り禁止措置、周濠の水の利用許可など、後の宮内庁の陵墓管理の原型を形作ることとなった。

それでは、多く古墳が位置する畿内から遠く離れた宇都宮藩が、どうして修陵の建白を行ったのだろうか? 建白では、要するに「国威発揚になるから」といったことが述べられており、修陵事業は幕末の勤王思想の高まりに呼応したものであるらしい。また当時の状況を考えると、公武一体の象徴として天皇陵を利用しようとしたのだろうし、神武天皇の修陵直後には山陵に対して攘夷の祈願祭が行われていることを見ると、天皇陵が祭祀の中心として構想されたのかも知れない。しかし、実際のところなぜ宇都宮藩が建白を行ったのかは謎と言わざるを得ない。

「文久の修陵」では、歴代天皇の陵の比定を大急ぎでやったことから、学術的にあやしい比定がたくさん行われることになった。幕末から明治にかけて、天皇陵の比定は意外と二転三転しているところも多く、一度決まると凍結されたというわけではないが、基本的にはそうした間違った比定はその後も修正されなかった。というか、古墳の被葬者が誰であったかという問題は、古墳自体に墓碑銘などが残されていない以上、決定できるようなたぐいのものではない。にも関わらず、「この古墳は○○天皇の墓である」と決定されてしまうことは、その決定の当否に関わらずゆゆしき問題である。

本書ではこのほか、古墳が周辺の村落にどのように利用されていたか、また山陵にまつわる祟り(穢れ)の問題といったことが取り上げられている。天皇陵は、修陵の前は単なる古墳(というより山)であったのだから、そこに村落があったり、年貢地が設定されていたりした。それを修陵事業によって立ち入り禁止にすることは、村落の生産の場を奪うことにもなったのである(しかし、それには意外と軋轢はなかった)。

その他、 陵墓へはたびたび盗掘があったこと、地方官僚(県令)が陵墓に対して抱いていた強い関心といったものにも触れられる。税所篤(さいしょ・あつし)と楫取素彦(かとり・もとひこ)がその例として挙げられているが、これについてはもう少し多くの例と共に詳しく知りたいと思ったところである。宇都宮藩の建白もそうだが、地方政府にとって天皇陵は一体どのような意味をもつ場所であったのか、ということに強い興味を抱いた。

本書では、陵墓そのものの歴史ももちろん、「陵墓がどのように扱われてきたのか」という視点でも歴史が語られ、私にはむしろそちらの方が天皇陵にまつわる問題を考える上で重要なアプローチと思われた。天皇陵とは、日本人にとって何だったのだろうか? なぜ「文久の修陵」は行われたのだろうか? 大急ぎで「神武天皇陵」を創り出したのはなぜだったのだろう?

天皇陵をめぐる諸問題について見通しよく語る良書。

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2017年8月9日水曜日

『生活の世界歴史(9) 北米大陸に生きる』猿谷 要 著

アメリカ的価値観の成立と変容を、黒人への差別など暗部の側面を取り上げて説明する本。

アメリカ的生活文化を作ったのは、WASP(白人-アングロサクソン-プロテスタント)の人たちだ。ヨーロッパから来た移民たちは、広大なフロンティアを前にして何でも手作りしていった。生活道具だけでなくデモクラシーまでだ。この経験は、アメリカ人の特徴的な気質を形作った。すなわち、「粗野で荒々しいが、独創的であり、自由と平等を信じ、自信にあふれた楽天的な性格」である。また教会がコミュニティの中心をになっていたことから、かなり信心深い社会が出来上がった。

しかしその裏では、黒人へのおぞましい搾取があった。白人は、黒人奴隷に対しては生殺与奪の権を持ち、些細な問題が起こるや凄惨なリンチが繰り広げられた。リンチの観覧のためチケットが販売され、特別列車が運行されるほどであった。リンチによってむごたらしく死ぬ黒人を、白人は喜んで見ていた。こと切れた黒人の心臓が取り出され、切り分けられて土産物として販売されるほどだったという。

差別、という言葉では表すことができないほどの、敵愾心と軽蔑があった。奴隷という経験は、もちろん黒人たちにぬぐい去ることが出来ない深い傷を残したが、一方で白人の方にも道徳的な頽廃をもたらした。取るに足らないミスを咎め、罵声を浴びせながら奴隷を鞭で打ち続ける親を子どもたちは見ていた。切り裂かれた傷からは血が吹き出、奴隷の子どもが母親を許してくれるよう泣いて縋りついても、農園主は一層ひどく鞭を振るった。そういう悪魔のような所業を日常的に見ながら、真っ直ぐに育つ人間はいない。

このような社会で育った人間には、容易には消せない差別心と、統御できないほどの攻撃性が刻み込まれていたに違いない。

一方で、奴隷は重要な労働力だった。特にアメリカ南部の州では奴隷に農園労働をさせていたから、安価に働かせられる黒人奴隷は必需品だった。それほど奴隷労働を必要としなかったらしい北部では、相対的には奴隷は貧困であったらしいが、徐々に黒人の人権が認められていた。南部と北部の対立は、やがて南北戦争を引き起こす。奴隷制度があったのはアメリカだけではないが、「国内の奴隷所有勢力が奴隷を解放しようとする勢力と国論を二分して対立し、足かけ五年、両方あわせて六〇万人の人命を犠牲にするような大戦争に突入した国は、世界のなかでただアメリカ合衆国あるのみである」とのことだ。

また、アメリカほど拝金主義と暴力がのさばった国も珍しい。拝金主義はともかくとして、本書ではアメリカの暴力的体質が様々な例を引いて説明される。暗殺された大統領の多さ、マフィアの暗躍といったものはよく知られているし、銃犯罪の多さも改めて言うまでもないだろう。だが極めてアメリカ的だと思ったのは、不法な、あるいは卑怯な暴力を使っても勝利した方を称讃しがちな所である。アメリカの領土拡張には数々のウソと暴力があるが、それらが批判されることはなく、平然と欺瞞がまかり通っている。

そうしたウソと暴力の向かった最初の先がインディアン(と本書では表記)である。インディアンと入植者の関係は最初は友好的で、むしろインディアンの助けがなくては入植がおぼつかなかったくらいであるが、次第に移民の方が多数派になり、インディアンが邪魔になってくると、インディアンと平和的に結んだ多数の条約を平然と無視して虐殺を行い、どんどん不毛地帯へと追いやっていった。

だが、こうした建国からの数々の非道は、やがて白人自身にも認識されるようになってくる。黒人の権利を守るため、白人も危険を顧みず活動をするようになった。こういう所が、日本人にはないアメリカ的な行動なのかもしれない。1960年代には黒人革命が起き、黒人の人権は認められた。インディアンに対しても、その再評価が進んでいる。かつて絶対的であったWASPの価値観は、新しい世代から挑戦を受け、反省を迫られている。

こうしたアメリカの動向を著者は3つの仮説としてまとめている。第1に、既存のアメリカ的価値観は第二次大戦後に完成し、それは建国以来進んできた道の当然の結果だったということ。第2に、そのアメリカ的価値観は1950年代を頂点として早くも凋落しつつあること。第3に、その価値観の崩壊とあわせて、混沌の中から既に新しい価値観が生まれようとしているということ。

この仮説は、本書では特に検証されていない。だが、こうした仮説を下敷きにして、本書では差別、暴力、虐殺、貧困といった、通常のアメリカ史ではあまり取り上げられない暗部を軸にアメリカ的価値観、アメリカ的生活文化を説明しており、非常な迫力がある。

裏面から見るアメリカ論の良書。

※原題は『新大陸に生きる』だが、文庫化の際に『北米大陸に生きる』に改題された。

2017年8月8日火曜日

『夜明け前』島崎 藤村 著

幕末明治の社会を、ひとりの町人の一生を通して描いた大河的小説。

本書は文庫本で全4冊の長大な作品である。そのほとんど全てが、木曾街道の馬籠という宿場の、青山半蔵という人物の一生を辿るという内容。時々、時代背景を理解するための説明も展開されるが、基本的には半蔵の目で見る幕末明治、という趣だ。

半蔵は、馬籠の本陣、庄屋、問屋(といや)の三役を兼ねる旧家に生まれた。本陣とは宿場の中心で公的な宿泊場、庄屋は百姓のとりまとめ役、問屋は物流の責任者である。この3つを兼ねる青山家は、武士でこそないながら、苗字帯刀を許された名家だった。

馬籠は山深い宿場であるが、江戸と京都のちょうど中間に位置する。街道は人とものの移動を担うものであるから、その動きは世相をそのままに反映し、馬籠に居ながらにして幕末の激動は伝わってくる。 こうして、馬籠の青山半蔵の目を通じて、読者は幕末の動乱を窺い知るようになる。

半蔵は、宿場の責任者の家に生まれたが、生来学問を好み、家業に勤しむよりは学問の道に進みたいと願う人間だった。彼は国学を志し、これこそ新しい時代に必要となる思想だとして平田篤胤(没後)の一門へと入門する。しかし、名家の跡取りとして生まれた責任も強く感じている半蔵は、他の国学を奉ずる仲間のように、家業を打ち捨てて国事に奔走するようなことはできない。かといって、日々の暮らしを淡々とこなすことだけで満足できるタイプでもない。彼は今にも家を飛び出してしまいそうなはやる気持ちを抑えながら、宿場の仕事に忙殺される日々の中で王政復古を迎える。ここまでが第1部。

第1部では、半蔵は結局のところ何もしない。というかできない。彼の人生に何も起こらないわけではないが、大きな事件があるわけでもなく、足早に動いていく時代を横目で見ていることしかできない彼である。そういう、ある種退屈な筋書きでありながら、小説の筆は冴え渡っており、特に何も起こらないにも関わらず読ませる作品である。

第2部に入ると、半蔵の人生は一転して事件の連続となる。国学を奉ずるものとして半蔵が希求し続けていた王政復古は、復古というよりも旧いものの破壊としてまず半蔵の前に現れる。これまで世襲によっていたものの廃止、旧社会の仕組みの徹底的な否定の運動だった。つまり、既得権の破壊だ。国事へ奔走したい気持ちを抑えながら必死で勤めてきた本陣・庄屋・問屋は、こうしてあっさりと廃止されてしまう。それでも、半蔵は不満を抱かない。何しろ、幕府が大政を奉還し、藩主も藩を返上したくらいである。それも天皇親政の世の中にするため、復古の道を進むためである。半蔵はむしろ積極的に自らの権限を手放していく。

しかしそれは、自らが没落していくことも意味していた。半蔵は山林の使用権についての悪政を糺す活動をしていたところ、上役から目をつけられ、本陣だった関係から任ぜられていた戸長の役職も罷免される。家業を失った青山家は、どんどん没落の足を速めていく。そんな折、長女粂(くめ)の縁談がまとまり、いざ結婚という時、粂が自殺を図る。粂は、半蔵の血を強く受け継いで学問もあり、あっさりと自分の運命に身を任せるような人間ではなかった。そういう粂の気持ちをそれまで受け止めていなかった半蔵は、深く反省して斎(いつき)の道を志すようになる。

こうして半蔵は、神社への就職を斡旋してもらおうと国学者の人脈を頼って東京へ出てゆく。だが一時的に教部省に身を置いた彼が見たものは、国学の挫折であった。かつて「御一新」の精神的支柱であったはずの国学は頑迷固陋なものとみなされ、一時は政府に重んじられた国学者たちがたいした仕事もできないまま閑職へ追いやられていた。半蔵が新しい時代を開くものと頼んだ国学は、もはや無用なものとなりつつあった。目指したはずの復古よりも、新しい時代は開国と文明開化に浮かれ、国学よりも洋学が幅をきかせるようになっていた。

そんな折りに天皇の巡幸が行われた。半蔵は群衆の中、発作的に持っていた扇子を天皇の一行へと投げ入れる。社会はこれでいいのか、という意味を仄めかす歌が扇子に書かれていた。この扇子こそが、半蔵が半生をかけた国学思想の凝縮だった。この廉で半蔵は逮捕され取り調べを受ける。結果的にはさほどの咎めもなく、その後半蔵は予定通り神官へと転職するが、この事件を境に半蔵は次第に狂気へと進んでいく。

4年間の神社への奉職を終えると、半蔵は若くして家督を長男に譲った。というより、家の者から早く隠居するよう強いられた。半蔵は公共の仕事のみに奔走し、家業を顧みなかったために家の没落を早めたと見なされていた。実際、彼に経営の才はなかった。

半蔵は新しい時代に裏切られ続けた。国学は無力で、家は没落し、家族は傷つき、望んでいた社会は彼を無用の存在にした。そして遂に、青山半蔵は発狂し、座敷牢に幽閉される。半蔵は、社会はこれでいいのか、という問いを暗闇に対して突きつけながら、見えない怪物と戦う人間となった。そして、座敷牢の中で彼は絶命し、物語は終わる。

私が本書を手に取ったのは、当時の社会の中で国学がどのように見られていたのか、という興味からである。国学の興隆と挫折、それは知っていたつもりであったし、本書に描かれる国学の流転の様子は、私にとって未知なものではない。しかし藤村の歴史に対する骨太な思索は、そういう表面的な理解を塗り替えるほどの力がある。国学は、何かに対決して敗北したわけではなかった。洋学はおろか、漢学とも思想的対決をしなかった。むしろしてもらえなかった。政治的に都合のよい時だけつまみ食いされ、「旬」が過ぎてからはまともに受け取ってもらえすらしなかった。

青山半蔵という、純直な人間は、もし国学が洋学に敗北したのであれば、潔く兜を脱いだであろう。しかしそうではなかった。国学は、独り相撲をとらされていた。半蔵の人生と同じように。

そもそも、国学者たちは洋学を敵視していたわけでもなかったそうだ。外国のものを無闇に排斥しようとすることはむしろ日本らしさに反すると考えた。進んでそうしたわけではないが、半蔵自身、息子が洋学を勉強することを許した。洋学は半蔵の敵ではなかった。敵は、建国の理想を忘れた社会だった。

その社会は、かつては精神的支柱と頼んだはずの国学を、もはや真正面から批判することすらしなかった。それは黙殺ですらない。なんとなく、盛りが過ぎるのに任せたのである。国学は、いつのまにか時代遅れになっていた。そして、半蔵が暗闇に対して突きつけた問いも、もはや誰からもまともに受け取られることはなかった。

おそらく藤村がこの長大な作品を通して言いたかったことは、明治維新を問い直す、歴史を見つめ直す、ということを避けている限り、見えない怪物をやっつけることはできない、ということなのではないだろうか。本書が書かれたのは昭和の初期、国学から鬼子のごとく生まれた「皇学」が、人々を覆い尽くそうとし始めた時期だ。半蔵が座敷牢で戦った見えない怪物が、それだったのかもしれない。

青山半蔵は、藤村の父がモデルである。モデルというより、父そのものであるといってもよいらしい。本書は、藤村が父の謎多き人生を徹底的に調べ上げ、歴史を再構成することによってできた作品である。そこには大上段の問題提起は一切書かれないにも関わらず、結果的に明治維新を反省させる大作となっている。

そこに描かれた明治維新は、英傑たちが活躍する凡百の「維新」とは全く異なっている。もうすぐ明治維新から150年。我々はそろそろ、青山半蔵が残した問いに、向かい合ってもいい頃である。